1.Tumbling dice


 反ギルガメシュ連合軍、敗れる――その急報は、たちまちBのエンディニオン中を駆け巡った。
 長きに亘って繰り広げられ、熱砂にて決着を見た合戦の趨勢は、
ギルガメシュから難民と認定され、また保護を宣言されたAのエンディニオンの人間は言うに及ばず、
Bのエンディニオンにとっても驚天動地の衝撃であった。
 難民救済と言う大義を実行するに当たり、ギルガメシュはBのエンディニオンの土地や権利を武力で征圧している。
原住の人々から物資などを奪い取り、これを難民に分け与えて保障を図ろうと言うのが、ギルガメシュの政策なのだ。
 すなわち、エルンストを盟主とする連合軍とは、Bのエンディニオン最後の希望だったのである。
 だが、不当で一方的な侵略行為に抗い得る頼みの綱は、砂漠の大地にて敢えなく断ち切られてしまった。
連合軍の圧倒的優勢との下馬評は、最強の勢力が結集したと言う期待と共に裏切られてしまったのだ。
 実質的にエンディニオンの覇権がギルガメシュの手中に落ちた以上、今後はますます侵略が盛んとなるに間違いない。
自身の生まれ育った世界でありながら、Bのエンディニオンの人間が惑星上から駆逐される可能性も大いに有り得た。
 原住の人間であると主権を言い張ったところで、銃口を向けられておしまいと言うわけだ。
 ギルガメシュへの隷属が決定したものと見ても誤りではなく、Bのエンディニオンは、そこかしこが憂色に満たされていた。

 たまたま立ち寄ったサルーン(酒場)の壁新聞や、店内を包む鬱屈した空気からギルガメシュの大勝を知ったダイナソーは、
丸テーブルの向かい側に腰掛けてコーヒーを飲んでいるアイルへ静かに目配せをした。
ダイナソーの眼差しは、アイルに向けてサルーンを出ようと促している。
 ふたりの手元には、空になった皿や、役割を終えた食器――ダイナソーもアイルも、既に食事は済ませており、
いつ店を辞しても問題はなかった。
 「お代はココに置いてくぜ」と勘定を呼びかけ、テーブルの上に食事代を並べるダイナソーだったが、
カウンターの向こう側に居るマスターも、精算に応じなければならない筈のウェイトレスも、
誰ひとりとして彼の声に反応する者はいない。
 自分たちの生まれ育った世界そのものが敗北した。そう言っても過言ではないこの状況に打ちひしがれる人間が、
まともな思考ではいられるわけもなかった。
自分より更に若いウェイトレスを気の毒に思ったのか、顔を顰めつつ声をかけようとするアイルだったが、
その腕をダイナソーは力任せに引っ張り、言葉一つ発することなく彼女をサルーンの外へと連れ出した。

 何の説明もないまま引き連れまわされたアイルは、スウィングドアを抜けてサルーンの外に出た途端、
ダイナソーの腕を振り払い、「いつから小生は、貴様のペットになったんだ?」と、
愛用の眼鏡がずれ落ちる程の勢いで怒りをぶちまけた。

「今のは、なんだ? 貴様、小生をリードで繋ごうとでも言うつもりか? 口で言え、口でっ! 
腕力でなくとも、口で説明されれば、小生は従う!」
「きゃんきゃんきゃんきゃんと、うっせぇなぁ。……ペット? 冗談抜かすんじゃね〜よ、お前のどこがペットなんだよ。
動物と一緒にしちゃあ、お前、お犬サマや子猫ちゃんに失礼ってもんだぜ。ペットってのは、もっと可愛らしく甘えてくるもんだ。
お前はど〜だよ? どこの、どこらへんに可愛げってもんがあるって言うんだよ」
「論点がずれているッ!」
「……あんな場所で俺サマたちの素性が割れてみろ。袋叩きじゃ済まねーぞ」
「………………」

 これを言われてしまうと、アイルも黙るしかない。
 つまり、ダイナソーはアイルが余計な諍いに巻き込まれないよう助けたと言うことである。
 あのままウェイトレスに話しかけていれば、いずれ自分たちがAのエンディニオンの人間と言うことは露見するだろう。
ふたつのエンディニオンの人間は、それぞれがそれぞれの世界に対して過敏となっている。
過敏にならざるを得ない状況と言うべきかも知れない。
 そのような時節に、うっかり敵対する異世界の人間であると口に出そうものなら、
ダイナソーが警告したような難に遭わないとも限らない。良くて袋叩き、最悪の場合、磔刑にでもされる筈だ。
 「……尚のこと、口で言えば済むではないか……」と口先を尖らせるアイルの頬は、ほんのり赤く染まっているのだが、
それが勇み足を踏みかけたことへの羞恥なのか、はたまた別の感情(きもち)であるのかは、
彼女自身も理解していなさそうだ。頬の色が変わっているとの自覚があるのかどうかも疑わしいものである。
 先を行くダイナソーの背中を、アイルは頼もしそうに見つめているのだが、これもまた無意識であろう。
ダイナソーのことが頼もしいなどと、今の彼女は口が裂けても言わない筈だ。


 ダイナソーと、その背中をじっと見つめるアイルのふたりが足を向けたのは、
予めチェックインを済ませておいたモーテルである。
ふたつのエンディニオンについて話し合うにしても、人目につかない場所で行うのが、
身の安全には一番だろうと言うダイナソーの判断だった。
 フロントでミネラルウォーターを二本、それから新聞紙を買い求めたダイナソーは、アイルを伴って客室へ向かった。
 依然として流通網が混乱状態にある為、モーテルの陳列棚には地方紙しか置かれていなかったが、
先の合戦にまつわる情報が手に入るのであれば、銘柄は何でも良い。
そもそもBのエンディニオンの新聞社には、こだわりなど持ちようもなかった。

 財布の事情もあり、客室はツインルームを取っている。その上、少しでも費用をカットしようと安モーテルに入った為、
室内にはテーブルすら設えられていなかった。
クローゼットはもっと酷い。ツインルームにも関わらずひとり用の物が設置されている有様だった。
 仮にも女性のアイル――しかも、今でこそ没落しているが、彼女はもともと良家の令嬢なのである――には、
色々と抵抗や葛藤もあったのだが、背に腹は変えられず、また、「着替えるときゃ、トイレにでも入ってりゃいいんだろ? 
別にお前の裸なんて、見たかねぇよ!」と言うダイナソーの譲歩もあって妥協を決意した。
 このモーテルには、既に二泊しているのだが、一度、慣れてしまえば順応も早く、
三日目の今となっては何の抵抗もなくなっている。
部屋に戻るなり使い古しのジャージに着替え、ネイビーブルーの長髪を無造作に束ねると、
床へ直に座って新聞を広げ始めた。

「……別にいいんだけどよぉ、あぐらって、お前……。仮にもお嬢サマじゃね〜のかよ」
「ん? 何か言ったか?」
「べっつにィ〜」

 庶民派と言うべきか、何なのか、かえってダイナソーのほうがあれこれと気を遣ってしまうのだが、
今のアイルには、そんなことよりも情報収集のほうが大切な様子だ。
 情報収集の優先については、彼女の隣へ腰を下ろしたダイナソーも同じである。
ミネラルウォーターのボトルをアイルに手渡したダイナソーは、早速、新聞一面を飾る特集記事へと目を落とした。
 しかし、それも一瞬のこと。すぐさまにダイナソーは顔を顰め、
溜め息混じりに「もうちっとまともな情報が欲しかったって言うのは、わがままかねぇ?」と頬を掻く。
 新聞の一面を占めた特集記事は、言うまでもなく先の合戦を取り扱っているのだが、何しろ手に入る情報が少なすぎる。
 地方紙の限界でもあるのだろうが、特集記事として一面を全て使っているのにも関わらず、この新聞から判ることと言えば、
グドゥー地方の砂漠地帯で両軍が武力衝突し、ギルガメシュ側が勝利したと言う一点のみ。
後は記者だか論説員だかが自分なりの分析を長々と書き連ねているのみで、合戦の仔細は悉く省かれていた。
 割愛の是非を問う以前に、地方の新聞社では主戦場の様子など調べようがないと言うのが、正解であろう。
 自慢のリーゼントを指先で弄りつつ、ぶつくさと不満を並べ続けるダイナソーをアイルは宥めに掛かったが、
彼女も彼女で、望んだ成果が得られなかったことには困り顔。諌めの言葉も精細を欠いている。

「……あいつら、無事だといいんだけどよ……」
「……そう――そうだな……」

 ぽつりと呟いたダイナソーに、アイルは真剣な眼差しで頷き返した。
 フィガス・テクナーで訣別して以来、アルバトロス・カンパニーの仲間とは連絡を取り合っておらず、
彼らがどのような状況に置かれているのか、どこに居るのかさえも全く把握していなかった。
 ギルガメシュへ味方をすると言うからには、もしかすると彼らの軍に組み込まれ、先の合戦にも参加していたかも知れない。
 大軍勢を相手に戦ったからには、勝ちを得たとは言え、ギルガメシュも無傷では済むまい。
相応の損害を被ったと見て間違いなかろう。つまり、アイルはギルガメシュ軍の犠牲者数を案じているのだ。
 人的損害の中にアルバトロス・カンパニーの仲間が含まれていないことを、彼女はただひたすらに女神イシュタルへ祈った。

「このような戦いは、これからもずっと続くのだろうな。……戦争は泥沼化してからが本番とも言う」
「さっすが軍人のお嬢様、目の付け所が一般人(パンピー)とは違ぇのな」
「茶化している場合か。現実」
「現実? こんなもんが現実だって言うんなら、俺サマは中指立ててやるさ。クソ食らえだ――」

 ミネラルウォーターを一気に飲み干したダイナソーは、やおら立ち上がると空のペットボトルをゴミ箱へ放り投げた。
バスケットボールで言うところのシュートの要領で放られたペットボトルは、放物線を描いて見事にゴミ箱へと落下。
 にわかに垂れ込めた鬱屈までもゴミ箱へ投げ捨てたのか、
難しそうな顔をしているアイルの頭を乱暴に撫で付けたダイナソーは、次いで自分のベッドに身を放り出した。

「――絶対に終わらせてやるぜ、こんなバカなこと。負けてなんか、やるもんか」





 破竹の快進撃を誇るギルガメシュを食い止めるべく乾坤一擲の大合戦に挑み、
一敗地に塗れた反ギルガメシュの連合軍は、陣を引き払ってグドゥー地方から離脱しつつあった。
 連合軍が目指すのは、テムグ・テングリ群狼領の本拠地にして最後の砦、ハンガイ・オルスである。

 敗走の途上、功に逸ったギルガメシュの追っ手から数度ばかり襲撃を受けたものの、
グドゥーを統べるファラ王の秘策によって全軍瓦解の窮地を脱し、
多くの兵力を保持したまま退いた連合軍が数十名の兵に遅れを取る筈もなく、エルンストたちはいずれも鎧袖一触に跳ね除けた。
 「勝敗は兵家の常」とは、ブンカンが引用した故事だが、その一節が示す通り、
たかだか一度の敗戦だけでは連合軍の気勢を挫くことなど出来ず、
合戦の疲弊こそ濃いものの、将兵たちは早くも次なる戦いへと闘志を燃やしている。
 さすがと言うか、やはりと言うべきか。テムグ・テングリ群狼領の諸将は、とりわけ声高に再戦を誓っていた。
 領土拡大を目指して数え切れぬ戦いに明け暮れ、勝利の味と同じか、それ以上に敗北の苦さを知る彼らにとっては、
現在の境遇など負けの内に入らないのかも知れない。

 仮本陣にて合戦の趨勢を分析していたブンカンは、奇襲による挟撃を受けるより以前の戦いを評価し、
「あのまま攻め続けていれば必ず勝てた。多勢に無勢は歴然だし、
手の内の読めたギルガメシュなど最早怖れるに足らない」とまで豪胆にも言い切っている。
 テムグ・テングリ群狼領に勝るとも劣らない勢力を誇るヴィクドの『提督』ことアルカークもブンカンの見解には手放しで同意しており、
一時的な勝利に満足してトドメを刺さなかったのがギルガメシュの運の尽きだと断じ、
敵が勝利に油断している現在(いま)こそ総攻撃を仕掛ける好機と声を荒げた。
 異世界からやって来た彼らには補給手段も限られており、今もって大きく差の開いた兵数を埋める手段とて思いつくまい。
 自分たちの世界を脅かすような侵略者に手を貸す人間などいるものか――
提示された報酬で転び、与する者が仮に現れたとしても賄える手数はたかが知れている。
 ルナゲイトを占拠しているとは言え、ギルガメシュが現在の攻勢を維持し続けられるとは到底思えなかった。
 一度の敗北では圧倒的な優勢は覆らない。勢いに乗りさえすれば勝てる。それが連合軍全軍の共有する結論であった。
 ハンガイ・オルスへ到着する頃には、全軍の間で逆襲への機運が最高潮に達していた。


 海路、陸路をひたすら転進し、大敗北から半月余りの時間を費やしてハンガイ・オルスへ辿り着いた連合軍は、
最後の砦たるエルンスト自慢の牙城に思わず感嘆の溜め息を吐いた。
 大型クリッターの猛進を跳ね返してきた自慢の城壁は、当初、懸念されたようなギルガメシュの攻撃にも見まわれなかった為、
全くの無傷を留めている。それはつまり、後顧の憂いを絶つべく城に詰めていた兵たちが万全であることをも意味している。
 弾薬も手付かず。物資も食料も、連合軍全体を潤しても傾かぬほどハンガイ・オルスには蓄えてあり、
ここを拠点として体勢を立て直すことも夢ではないのだ。
 篭城策も有効であると、右の義手を振り上げつつアルカークは全軍に触れ回っており、エルンストもこれには賛成であった。
 立て篭もっている内にギルガメシュのほうから痺れを切らし、攻め寄せて来れば儲けものである。
難攻不落の防御力で敵の勢いを削ぎ落とし、逆に全滅させられる自信がエルンストにはあった。
 ギルガメシュへ反攻を試みるに当たって、これ以上ない条件が整ったとも言える。
ザムシードに至っては、もう一度、敗北する理由を見つけるほうが難しいと高笑いしたものだ。


 佐志軍も、当然の如くハンガイ・オルスへ入るものと思われたのだが、
彼らの進む道は連合軍の取ったルートから大きく外れていた。ルートだけ見れば、連合軍から遊離したような恰好である。
 アルフレッドたちの遊離を寝返りと見なして激昂したビアルタは、すぐさまに追撃の兵を差し向けようとしたが、
これはデュガリが制した。
 玉座を仰げばエルンストからも諌めるような眼差しが投げかけられ、いよいよビアルタは押し黙るしかない。
 グゥの音も出なくなって不貞腐れるビアルタを優しげに見つめながらも、エルンストの思惑は既に義弟から離れていた。

(グリーニャの軍師よ、次は何を企む……?)

 ゼラールの報告に寄れば、ギルガメシュへの怨恨に衝き動かされて暴走していたアルフレッドも、
今では落ち着きを取り戻していると言う。
 諸将の前で浴びせられたきつい叱責が堪えたか、ゼラールと交わしたと言う約束がブレーキになったのか、
はたまた仲間たちの心に触れ、大切なものを取り戻せたのか――
いずれにせよ、アルフレッドの復調は、彼に期待を寄せるエルンストにも大変に喜ばしいことだった。


 面白くないのは、アルフレッドに良からぬ感情を抱くフェイである。

(……またアルか……どいつもこいつもアル、か……)

 佐志の遊離を咎めもせず、討っ手を繰り出そうとする声をも抑え込んだことからエルンストの胸中を見抜いたフェイは、
肩を落とすビアルタへ同情の念すら抱いていた。
 智謀の面ではアルフレッドたちに一歩劣るものの、彼とて決して愚鈍ではない。
今日までの長い冒険者稼業の中、相対した者の意図を読み取る術を多少なりとも身に着けているのだ。
 アルフレッドを――グリーニャの出身者を高く評価するエルンストがフェイには気に食わず、
他の諸将と共にハンガイ・オルスの大広間に列した彼の表情(かお)は、またしても陰鬱に翳っている。
 先日来、醜悪な想念を露にするようになった彼の身を、ソニエもケロイド・ジュースも案じているのだが、
それすらフェイ当人には癪に障って仕方なかった。

「……バカなことを……考えるんじゃ……ないぞ……この程度で……潰れたら……絶対に……許さん……!」
「グリーニャのことをアルにぶつける必要なんてないでしょう? アイツはアイツ、あんたはあんたなのよ? 
アイツは、あんたにとって何? 可愛い弟分じゃないの。……アイツの気持ちも考えてあげなきゃダメよ」

 誰よりも心通じ合う筈の仲間から掛けられた叱咤の声を、フェイは返事もせずに無視し続けている。
 荒んだ彼の心を満たし、癒してくれるのは、今では『神の御使』に付き従う義勇軍の賞賛のみとなっていた。

『何が馬軍の覇者だ! たかだか草賊じゃないか。フェイさんの偉大さを、ちっとも知らないんだよ! 
理解するような頭脳(あたま)だって、あいつらは持ち合わせちゃいないんだ!』
『嫉妬だよ、嫉妬。自分とフェイさんの格の違いを思い知ったもんだから腹いせしようってんだよ』
『救いようがないな。あんなのは、相手にするだけバカを見ますって、フェイさん!』
『成り上がりってさ、あんなもんだよ。大軍を持って有頂天になってるみたいだけど、フェイさんは善意の協力者だぜ!? 
フェイさんがいなけりゃ、ギルガメシュと戦うことも出来ないクセにデカい顔をしやがって!』
『それにしたって腹立つよ。何だい、あの態度! 人の上に立とうってんなら、もっとマナーってもんを学んで欲しいもんだよっ! 
フェイさんを見習って……、いや、フェイさんの立ち居振る舞いを理解するような感性の持ち主じゃなかったね』
『野蛮人は、聖なるフェイさんを見ただけで心が歪むのだ! 醜さを浮き彫りにされて恨んでいるんだ!』
『フェイさんっ。フェイさん! フェイさんッ!』

 信奉者から寄せられた賞賛の数々を胸中で反芻し、微かに口元を歪めたフェイは、
両脇に控えるソニエとケロイド・ジュースをきつい一瞥でもって黙らせ、あろうことか「知ったような口を叩くな」とまで吐き捨てた。
 神の御使、英雄たる自分の値打ちを理解せず、不遜にも意見するような者の声など今のフェイには耳障りでしかなかった


 フェイの異変にはエルンストも感付いてはいるのだが、気に咎めることなど何一つない。
いや、そんな瑣末なことに気を回す必要性を感じてすらいない。
 竜殺しを為さしめるほどの剣腕は確かに貴重ではあるが、力に頼るばかりで大局的な視野を持てず、
まして無い物ねだりの末に逆恨みにも等しい怨念を宿すような男などエルンストに言わせればただの暗愚であり、
まともに相手をする気も起こらなかった。
 そうした思惑をフェイが読み、ますます表情を曇らせ――あとは悪循環の無限ループである。
 間に立たされたソニエとケロイド・ジュースの口からは、
エルンストに対する苛立ちとフェイに対する憐憫とが複雑に絡まった苦しい溜息しか出て来なかった。
 ソニエたちから向けられる剣呑な態度にもエルンストは当然ながら気付いている。
 気付いてはいるのだが、フェイ当人が取り合うにも値しない器である以上、それに付き従う者たちも同等と見なすのみ。
一瞥くれてからは視界にすら入れていないのだから、扱いはフェイ以下である。
 なにしろ自分には取り掛からねばならないことが山積しているのだ。
 雑魚の相手などいちいちしていては陽が暮れてしまう――
竜殺し、剣匠の雷名を世界中に轟かすフェイとその仲間たちを、エルンストは無言の内にそう突き放していた。
 ハンガイ・オルスの大広間へ居並ぶ諸将の中には、英雄呼ばわりされながら歯牙にも掛けられないフェイを嘲笑う向きもあったが、
それすらエルンストは興味を惹かれない。
 斥候がもたらす報告へ耳を傾けながら短刀の手入れでもしているほうが数倍も有意義であった。
克己も満足に出来ぬような雑魚の相手をしていても大敵を打ち倒す力は生まれないのだ。


 エルンストが武器の手入れ以外のことに興味を示したのは、
大広間に馳せ参じた将兵から一つの報告を受けたときである。

「……御屋形様、ゼラール・カゼンめがまかり越してございます」

 ミスリル銀と呼ばれる希少な鉱物を鍛えた短刀は、あと少し磨きを掛ければ月光にも勝る強い輝きを放つことだろう。
 しかし、エルンストは短刀の手入れよりもゼラール到着の報告を優先させた。
 この態度もフェイたちには面白くない。
 自分たちをさんざんに無視しておきながら、玉座へ遅参するような不出来の部下のほうに興味を示すとは何事か。
さすがに頭に来たソニエは大声を張り上げそうになったが、火山の噴火にも似た不満の爆発は、
喉を飛び出す寸前でその胸中へと引っ込んでいった。
 それはソニエの憤激を見て取ったケロイド・ジュースに押さえ込まれたからではない。
 ゼラール到着の報を聴いた瞬間、テムグ・テングリ群狼領の将兵の間に只ならぬ緊張が走ったのをソニエも感じたからだ。

 詳しい事情までは知れないが、デュガリやカジャムと言った馬軍の最高幹部は一様に表情を強張らせている。
 『天上天下唯我独尊』の軍旗を掲げて混迷窮まる戦場を縦横無尽に駆け回ったゼラールの雄姿はソニエも記憶しているが、
その男が何か良からぬことを仕出かしたと言うのだろうか。
 エルンストとその配下の間に張り詰めた空気は、さながら重罪人へ極刑を宣告する判事のような厳粛さを孕んでいた。
 「早い内に始末しておくべきだったんだッ!」と喚くビアルタを諌めたザムシードは、次いでエルンストへと目を転じた。

「御屋形様、この度こそは厳正な処罰をお考え下さい。言うまでもないとは存じますが、念の為。
……?火吹き芸人?風情の為に群狼領の勢いを殺ぐのはあまりに愚策ですぞ。
ビアルタ殿をご覧あれ。……腑抜けたピナフォアも。このままでは我が軍は立ち行かなくなります」
「……わかっている……」

 ……そう、羽虫が如きフェイに構っている暇などエルンストには少しもなかった。
 何事か戒めるようなザムシードの眼差しと、諸将の前にも関わらず配下を引き連れ、
無遠慮に大股でやって来たゼラールとを交互に見比べながら、エルンストは珍しく深い溜息を零した。
 それは、これから始まることに対する鬱屈の表れでもある。

「ギルガメシュより差し向けられた追跡部隊、追い散らして参りましたぞ。
尤もここに居並ぶお歴々は『火吹き芸人』風情が功名を立てることを嫉んでおられるご様子だがな」

 減らず口を叩くゼラールの背中に向けて、トルーポは諌めるかのように咳払いを投げかけた。
 エルンストを始め、テムグ・テングリ群狼領の諸将が醸し出している空気を敏感に察知したトルーポは、
事態の悪化を懸念しているのだ。
これ以上、諸将の機嫌を損ねないように気を配ってもいる。
 そのような胸算用をゼラールに知られたなら、「いつの間にか器が小さくなったものよな。
瑣末なことに気を病むようでは、我が軍の要など任せられぬぞ?」などと皮肉られるだろうが、
仮に諸将の考えがトルーポの想像した通りであった場合、
悠長には構えていられなくなるのだ。

 ピナフォアの胸中にもトルーポと同じ疑念が湧いたようで、エルンストの傍らに控えるカジャムへと視線を向けた。
 今でこそゼラール軍団に属しているものの、ピナフォアはテムグ・テングリ群狼領の古参幹部に連なる氏族の出身。
カジャムとも幼い頃から面識がある。いや、面識どころの話ではない。ピナフォアにとってカジャムは姉同然の存在であり、
馬の乗り方から武芸百般まで、馬軍として生きる術を教えてくれた大恩人でもあった。
 言葉を交わさずともカジャムの双眸を覗き込むだけで、ピナフォアには姉貴分の心を察することが出来るのだ。
それ程の絆を両者は長年に亘って育んできたのである。
 妹分には隠し事が出来ないと悟ったカジャムは、何かを窺うような眼差しに対し、重々しく頷いて見せた。
 その瞬間、ピナフォアは苦しげな呻き声と共に全身を強張らせ、次いで全く言葉を失ってしまった。

 エルンスト直々の召喚と言うこともあり、戦功に見合う褒賞が下賜されるのだろうと夢想していたラドクリフも、
トルーポとピナフォアが同時に逼迫を露にしたとあっては、自分の考えを甘いものだと改めるしかなくなる。
 未だに状況を飲み込めてはいないものの、何か良からぬことが起こりつつあるのは確かなようだ。
 か細く「……閣下」と呟いたラドクリフは、気遣わしげな眼差しをゼラールの背中に向けるものの、
当の『閣下』は、配下たちの不安など目端にすら入れていない様子だ。
 「お歴々のご苦労、感じ入りますぞ。出自以外に身を興す術を持ち得ぬのですからな。
殊更に火吹き芸人は目障りでござりましょうよ」などと挑発めいた物言いをしてビアルタやザムシードを怒らせている。

「……無用な諍いを起こすな、ゼラール」
「ご冗談。このゼラール・カザン、生の感情を真に受ける程、遅鈍ではござらんのでな。今のは言葉遊びよ。
大体にして、己が手にて功名をもぎ取らんとする気概もなく、
気鋭の勇往にただただ陰口を叩くばかりの臆病者めらと同じ地平になど、
例え御屋形様に命ぜられても立ちたくありませぬわ」
「いつもながら剛毅なことだ。『天上天下唯我独尊』の旗もその気概の表れと言うことか?」
「気概? 野望の間違いですな、御屋形様。三年後にはその玉座の主が替わっておるやも知れませんぞ?」
「………………」

 相変わらずふてぶてしい態度を取って同朋らに反感を買い、
けれどもそのことをまるで気にした風でもないゼラールの胆力に頼もしさを感じるエルンストではあったが、
その精強ぶりにこそ頭痛の種があり、それが為に彼は再び溜息を零さずにはいられなかった。




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