3.Vicious


 ゼラール軍団が半月の湾岸の征圧を完了するまでの暫時、佐志の部隊は次なる合戦に備え、
沖合にて休息を取ることになった。
 磁力に作用して敵弾を跳ね返すと言う神業で勝利に貢献したマコシカの術師隊であったが、
それだけに体力の消耗が激しく、身体を休ませなければ熱砂の合戦にも参加できなくなるだろうと判断されたのだ。
 レイチェルは最後まで「これくらいでへこたれてらんないわよ。あたしだけでも戦ってやるわ」と我を張ったものの、
結局はヒューとホゥリーに説得され、また全身が悲鳴を上げている自覚もあって折れざるを得なくなった。
 疲弊が著しいのはマコシカの民ばかりではない。第五海音丸を率いて巡洋艦へ挑んだ守孝も、
味方の射撃をより精密な物へと昇華させた源八郎も、星勢号を駆って中衛を率いた源少七も、
皆が皆、肉体的・精神的にも疲れ切っていた。
 ひとりで大騒ぎして、勝手に喉を痛めたとへこたれているローガンはともかくとして、
巡洋艦との戦いに居合わせた全ての人間に休息は必要であったのだ。
 直接的に何らかの役割を担当したわけではないマリスですら体力を大きく消耗してしまい、
現在は甲板に腰を下ろしながらタスクの介抱を受けている。

 フィーナの用意したレモンのシロップ漬けを美味そうに頬張る大人たちを順繰りに見回したシェインは、
共に車座になってスポーツドリンクを飲んでいたルディアとラドクリフに向けて、
しみじみとした表情で「オトナも大変だな」などと語った。
 「そんなこと言ったらダメだよ、シェインくん。死に物狂いでがんばった証拠でしょう? 
疲れも勲章の一つだよ」と窘めるラドクリフも大規模な秘術へ参加していた筈なのだが、
完全にバテてしまったマコシカの仲間たち――いずれもラドクリフより一回り以上年齢が離れている――と違い、
彼だけは体力が回復している様子である。これこそ若さの特権と言うものだろう。
 自分たちと何ら変わらぬ条件で秘術、『アルカンシエル』へ加わったと言うのに、
ひとりピンピンしている愛弟子を恨めしそうに凝視するホゥリーは
「疲れがエンブレムぅ? ポエムなことをセイってるねェ。……ザットなユーにボキらのハートはわからナッシングよ。
ツーデイズ後のアウチがテリブルだヨ」とぶつくさ嘆き節を漏らしていた。


 東郷ターンに始まる一連の砲撃によってギルガメシュの巡洋艦は海の藻屑と化し、僅かばかりの残骸が波間に漂うばかり。
半月の湾岸に停泊していた揚陸艦、補給艦もゼラール軍団の奮戦によって既に撃沈しており、
両帝会戦に於ける海戦は完全に終息したと見なしても良さそうだ。
 それを思うと、シェインの表情は自然と緩む――と言うことはなく、むしろ正反対に引き締まっていく。
勝利の余韻に浸る間もなく緊張感を高めるシェインは、我知らずブロードソードの鞘を強く握り締めていた。

(……ボクの初陣だな、これは)

 従軍を反対された際にもフィーナへ訴えたことだが、これまでにもシェインは何度となく危険な戦いを経験してきた。
 グリーニャで純粋無垢に暮らしていたときも悪徳な廃棄物処理業者を相手に無茶苦茶な特攻を仕掛けた。
幾度か発生したフツノミタマの襲撃にも必ず居合わせ、一度は彼にビルバンガーTの一撃を食らわせている。
ジューダス・ローブとの決着戦、続くギルガメシュの奇襲など死線を超えるような激闘にも遭遇し、
先ほどは歴史的な海戦をも目の当たりにした。
 ギルガメシュとの争乱が始まって以降は、自身の気構えも全く異なっている。
 故郷を焼き討ちされ、良き兄貴分だったクラップをカレドヴールフに殺され、大切に想っていたベルを誘拐され――
それらに決着をつけるべく、フツノミタマから剣技を習い始めたのだ。
 冒険者と言う夢を隅に置いてでも、戦う力を欲したのである。戦って、敵に打ち克つ力を、だ。

 ……たった一つだけ以前と変わらないことがあるとすれば、それは人を殺めた経験の有無である。
 剣の技を磨き、肉体を鍛え、トラウムに頼りきっていた頃に比べれば独りで戦えるだけの力は備わったように思える。
当然、フツノミタマの目には未熟と映るだろうが、力量の不足は実戦を経る度に埋められていく筈だ。

 だが、戦うことと人を斬ること、……殺めることは全く違う。根本的に違う。
 剣の道を志すと決心し、フツノミタマに弟子入りして鍛錬を積む内に戦いにまつわる様々なことを学んだシェインは、
自分の命と相手の命、双方の未来を天秤に掛ける覚悟も固めていた――そのつもりだった。
 しかし、生と死と言う極限の狭間が眼前にまで迫っていると意識したとき、
心の揺らぎを止めることが出来なくなってしまった。
 自分と敵と、ふたつ分の命を奪い合う恐怖に震えているわけではない。
さりとて、身の裡より沸き立つ剣士の魂に武者震いしているわけでもない。
 恐れでも昂ぶりでもない、例えようのない震えがシェインの心に宿り、次いで身体へと伝わり、
その表情を強張らせていた。

(ボクにしか出来ないことなんだ、これは。……ギルガメシュを倒す。そして、ベルを救い出してみせる……ッ!)

 にわかに揺らいだ心を落ち着けようと、自分に課せられた使命を胸中にて唱え続けるシェインの肩と頭に、
それぞれ温もりが加えられた。果たすべき使命を唱えるよりもずっと静かに心を落ち着けてくれる温もりが。

「いざとなったら、ぼくが守ってあげるから大丈夫だよ」
「も〜、シェインちゃんったらいつまで経ってもシャンとしないのね。男らしさなんてゼロなの。
こんなんじゃ、ルディアのアッシーくんにもメッシーくんにもなれやしないの」

 ふとブロードソードから顔を上げれば、そこには大袈裟に胸を張るラドクリフとルディアの顔。
それも、やたらと自信に満ちた表情(かお)。
 己に使命を問い続けてきた為、周囲のことが目にも耳にも入って来なかったのだが、
気付いたときには、ラドクリフが右の肩へ、ルディアが頭の上へとそれぞれ自身の手を置いているではないか。
 ふたりの行動が何を意味しているのか、何故、ふたつ分の温もりに包まれているのか、
刹那の内に悟ったシェインは先ほどとは別の意味で顔を顰めた。
 形相だけで判断するなら憤怒のそれであるが、しかし、急に表れた厳めしい面構えが照れ隠しの領域を抜けられないことは、
頬に差す赤みが何より如実に証明している。
 具体的に何を懊悩しているのか、明言した覚えはシェインにはなかったのだが、
どうもこのふたりは胸中に抱いたことを全てお見通しの様子だ。

「よくもそんな偉そうに言えるよな。ここに居る誰よりも頼りないんだぜ、お前ら」
「どうしてそうシェインちゃんは減らず口ばっかり叩くの? そんなんだからガールフレンドにも尻に敷かれるの。
ルディアがど〜してシェインちゃんの尻を叩いてあげるのか、そろそろわかって欲しいところなの」
「ぼくだって未熟者だし、頼りないかも知れないけどさ、おチビちゃんよりは強い自信があるよ。
閣下のもとでたくさん戦ってきたからねっ!」
「ほ〜ほ〜ほ〜、ま〜たルディアをチビ呼ばわりするなんて。よっぽど死にたいみたいなの。
砂漠へ行く前に水葬を経験するってのは、どうなの?」
「きみだってぼくのことを女の子呼ばわりしただろう? ちっちゃなコとケンカするのはみっともないけど、
こればっかりはぼくも譲れないからねっ!」
「はーい、水葬コースけってぇ〜い☆ 首を洗って待ってるの。ルディアよりもちっちゃくペシャンコにしてやらァなのっ!」
「望むところだよっ! きみが謝るまでお尻ぺんぺんしてあげるからっ!」
「……とりあえず、ボクが巻き込まれてる意味がわかんない」

 女の子呼ばわり、チビ呼ばわりと先ほどまで口論が絶えず、今またやかましいやり取りを再開した天敵同士のふたりだが、
自分たちを頼りないとにべもなく切り捨てたことに対する報復措置だけは一致しているようで、
言い争いを続けながらもラドクリフはシェインの右の頬を、ルディアは左の頬をそれぞれ抓り上げている。
 非力なふたりに抓られたところでさして痛くもなく、とりあえずは好きにさせていたのだが、
いつまで経っても頬が解放される気配が見られず、それどころかルディアに至っては
「ほっぺでタコ焼き作るの、タコ焼き」とまで言い始めた為、
やむなくシェインは左右に首を激しく振り回し、タコの吸盤のように張り付いていた二本の手を払い除けた。

「――ボクにはこれがある!」

 それから徐(おもむろ)にブロードソードを鞘から抜き放ち、陽の光に翳して見せた。
 友の気遣いは有り難いことであるし、万が一の場合には遠慮なく背中を預けるつもりだが、
やはり戦場では自分の力と、この剣こそが最大の武器である。この剣を操る術(すべ)が最強の頼みなのだ。
 天高くブロードソードを翳したのは、それを自分自身へ言い聞かせるようなものであった。

「シェインくんが剣なら、ぼくにはこれがあるよ」

 愉快そうに笑ったラドクリフは、ブロードソードへ添えるようにして自身のワンド(棒杖)、
『イムバウンの置文(おきぶみ)』を高く翳して見せた。
 彼はこのワンドに神人から授かったエネルギーを漲らせ、弓矢のように扱うことが出来る。
『イングラム』と呼ばれる光の弓矢のプロキシは、彼にとって得意中の得意であるそうだ。
 ふと横目でラドクリフの様子を窺えば、彼は微笑みながらも確かな自信を面に滲ませている。
女の子のような風貌ではあるが、その表情はまさしく男の子の物であり、
何故だか無性に嬉しくなったシェインは、挑戦するように「負けないぜ」と笑い返した。
 その意を汲んだラドクリフも満面の笑みで「こっちこそ!」。彼の純粋な言葉がシェインにはたまらなく爽快だった。

「ルディアにはこれがあるの。ふたりに退けを取るつもりなんかないのっ」

 ふたりを真似ようと言うのか、中空にて交差するブロードソードとワンドの間へと
星を模したマスコット人形を滑り込ませたルディアは、「野郎ども、ついて来いなのっ!」と言って朗らかに笑い出した。
 明らかな武器であるブロードソードとワンドへ玩具の一種を重ねるとは珍妙にして滑稽だったが、
背伸びまでしてマスコット人形を掲げようとするルディアの意思を汲んだシェインとラドクリフは、
敢えて彼女を仲間外れにはせず、そのまま三人で蒼天を仰ぎ続けた。

「――ひとりはみんなの為に! みんなはひとりの為に!」

 シェインが口ずさんだのは、彼の愛読書である冒険活劇に登場する最高の決め台詞だ。
 たまらず声に出してしまったことがどうにも気恥ずかしく、俯き加減になるシェインだったが、
原作を知らないラドクリフとルディアも、その言葉には深い感銘を受けたようで――

「ひとりはみんなの為にっ!」
「みんなはひとりの為になのっ!」

 ――すぐさまにシェインの後に続いて同じ名調子を繰り返した。


 シェインたちの様子を遠巻きながら頼もしげに眺めるハーヴェストだったが、
その表情は熱血への共感に燃えるでもなく、彼女にしては不可思議なほど暗く塞いでいる。
 ローガンにしつこく絡まれたときや、ひた隠しにする故郷(おくに)言葉が漏れ出てしまったときでさえ、
ここまで落魄した様子は見せたことがない。
 今は甲板中を渡り歩いて皆にレモンのシロップ漬けや飲み物、濡れタオルなどを配っている為、
ハーヴェストの様子を窺う余裕をフィーナは持ち得ないようだが、落胆する師匠の姿が視界に入ろうものなら
何を置いてもすっ飛んでくるだろう。
 師としてフィーナの性情を熟知しているハーヴェストは、彼女に心配を掛けないようにと気を張ろうと試みたのだが、
何事にもストレートな彼女だけに弱った心を取り繕うのは苦手中の苦手。
懸命に気を張るほどに口数が減り、かえって眉間に寄る皺が増える有様だった。

(……ひとりはみんなの為に、か……)

 シェインたちが口ずさんだ名調子を胸中にて反芻したハーヴェストは、
ある人の影を探して第五海音丸の甲板へ視線を巡らせた。
 いくら探しても発見できないことに焦れているのか、目当ての人へ近付くことで心がざわめくのか。
舳先、船端、煙突、船室の屋根の上――と、各所へ目を転じる度に彼女の眼光は鋭く、険しさを増していく。
 研ぎ澄まされていく内に一種の憎悪をも帯びるようになったハーヴェストの眼光は、
アルフレッドの姿を追い求めていた。
 「追い求める」などと言う表現は必ずしもそぐわないかも知れない。
発見次第、抹殺するとでも言うような攻撃の意思がハーヴェストの双眸には宿っていた。

 ハーヴェストが猛禽類の如き瞳でもってどこを探しても、目当て、……否、標的たるアルフレッドは影も形も見つからない。
 途中、ローガンと視線がぶつかってしまったが、彼の様子もまた普段とは異なっており、
ハーヴェストを見つけるや否や、憮然とした態度で睨み返してきた。
 平素のローガンであれば、「なにおっかない顔しとんねん。ただでさえ可愛げに欠けとるんやから、
せめて笑っとらんと小皺が増えてしゃ〜ないで」とでも言いながら朗らかに笑いかけたことだろう。
 その彼が、誰よりも妹分を気に掛けている幼馴染みが、当のハーヴェストを向こうに回して睨み合いを演じる姿など
誰が想像出来ただろうか。

(……弟子のすることをなんでもかんでも許すのが師匠ではないでしょうに……ッ!)

 ローガンから向けられる剣呑な眼差しでもってアルフレッドが第五海音丸を離れていると悟ったハーヴェストの意識は、
ここへ至るまでのプロセスへと次第に逆行していった。


 発端は巡洋艦撃沈後にまで遡る。

 海戦の後始末が進む中、残骸にしがみついて波間を漂流する巡洋艦の生き残りが発見され、
第五海音丸はにわかに騒がしくなった。
 捕虜にするか否かはともかくとして、まずは収容を先決すべしとの意見が大多数だったが、
第一発見者のアルフレッドはこの話し合いに参加しないどころか、何を思ったのか、K・kへと連絡を入れ、
彼が乗ってきた蒸気船の一室を貸与するように求めた。

「……本当の戦争を見せてやる……」

 不意に呟かれたその一言から尋問をするものと察したフィーナは、
ひとまず巡洋艦の生き残りが回復するのを待ってはどうかと訴えたが、
アルフレッドは返事すらせずにこれを黙殺し、不満を呟きながらやって来たK・k、
彼の用心棒であるローズウェルの手を借りて件の水兵を海より引き摺り上げ、そのまま蒸気船へと強制連行した。

 源八郎が妙な注文を受けたのは、アルフレッドが蒸気船へ赴く間際のことである。
頑丈な縄を一本、五寸釘と百目蝋燭を各二本ずつ用意するよう源八郎は言い渡された。
 大工を生業にしている源八郎は、星勢号の船内にも商売道具の一部を置いてあり、
幸いにもアルフレッドの注文に応えることができたものの、その用途までは測りかねていた。

 五寸釘に百目蝋燭と言う珍妙な注文を聞いて表情を苦々しく曇らせたのはフツノミタマだ。
 皆が何に使うつもりなのかと首を傾げる中、物を受け取るや否や、
礼も告げずに立ち去ろうとするアルフレッドの腕を掴んだフツノミタマは、
「……ガキどもには絶対に聞かせんな。防音をしくじりやがったら、ただじゃ済まねぇぞ」と忠告とも警告とも取れることを耳打ちした。
 頑丈な縄、五寸釘、百目蝋燭――何ら関連性もなさそうな三つの道具を使ってアルフレッドが何をしようとしているのか、
どうやらフツノミタマには思い当たるフシがある様子だ。
 アルフレッドから顔を背けて忌々しげに舌打ちするあたり、どう考えても愉快なものとは思えない。


 ふたりの様子に只ならぬものを感じたハーヴェストは、アルフレッドの背中をすぐさまに追いかけようとしたのだが、
これは彼の師匠たるローガンによって堰き止められてしまった。

「待て待て待てやッ! ハーヴ、お前、何をするつもりやッ!?」
「答えるまでもなく決まってるじゃない! アルが何をするつもりなのか、絶対に突き止めなくちゃッ! 
日曜大工でもするのなら引き止めはしないけど、……今のをアンタも見ていたでしょう!? 普通じゃないわよねッ!?」
「普通か、普通やないか、今の段階ではわからへんやろ!? そやのにあいつの可能性を潰すなんてワイが許さへんッ! 
相手がハーヴかて、こればっかりは譲れへんのやッ!!」
「可能性って何よッ!?」
「可能性を信じてやるんが師匠の務めやろうがッ!!」
「だから、何の可能性かって、あたしは――ッ!!」

 ローガンから師弟関係の理念を突きつけられたハーヴェストは、思うところがあったが為に引き下がったのだが、
果たしてその判断が正しかったどうか、未だに悩んでいる。

(フツノミタマの顔色は只事じゃなかった……。縄で逆さ吊りにでもするって言うの? でも、蝋燭と釘の意味は――)

 そこまで思考を進めたところでハーヴェストの意識は追憶から元の時間軸へと引き戻されたのだが、
脳の働きが現実を捉えるよりも先に彼女の心は烈震し、先程来、ローガンと睨み合いを続けていたことすら忘れてしまった。

「ひッ、ひぎゃあああぁぁぁ――ッ!!」

 ―――第五海音丸へ隣接していたK・kの蒸気船からこの世の物とは思えない悲鳴が飛び込んできたのだ。
 今にも息絶えそうな擦れ声であるが、それは紛れもなく先ほど引き上げられたギルガメシュ水兵の悲鳴である。

「あのバカ、人の話をガン無視かよッ!」

 呆然と立ち尽くすシェインやルディア、ラドクリフを窺いながら鋭く舌打ちするフツノミタマを目の当たりにしたハーヴェストは、
先程、アルフレッドを追いかけずに引き下がってしまったことを強く悔やんだ。
 尋常ならざる事態が蒸気船の中で発生したのは、誰の目、いや、誰の耳にも確かである。

「何よ、今の……一体何が起こってるって言うのッ!?」
「待ちや! 行ったらあかんて言うてるやろッ!!」

 声と言う形を留めていないような悲鳴の飛び出した蒸気船へ駆けつけようとするハーヴェストだったが、
しかし、またしてもローガンによって右腕を絡め取られ、突入を妨げられてしまった。

「今の悲鳴をあんたも聴いたわよね!? これはただ事じゃないわッ!」
「それでも行ったらあかんねや! 仲間やったら信じて待てッ! 可能性を信じるんやッ!」
「師匠のすることは、弟子をすることを全部肯定することじゃないわッ! ……弟子の暴走を止めるのも師匠の務めやないかっ! 
ちゃうか、ローガンっ!?」
「止めるのは簡単や。でもな、それは最後の最後や。最後の最後まで、ワイは弟子を信じる。信じなあかんねん。
アホを止めるんも師匠の務めやけんど、座して待ってやるのも師匠の務めなんやッ!」
「せやかて、あの悲鳴やぞ!? 仮に拷問でもやっとったら、どう落とし前つけるつもりや!? 
拷問やりよったら最後、もう正義もクソもあらへんのやぞっ!」
「それでもや。それでもワイは待ったる! ……アルの邪魔しよってヤツぁ、ワイが相手やッ! ワイが壁になったるッ!
覚悟せぇ、相手がお前でも容赦はでけへんでッ!?」
「トチ狂っとるぞ、ワレぁっ!」

 強引に振り切ろうにも筋骨隆々たる豪腕に抑えられては、いかにハーヴェストと雖も身動きが取れず、
理解できないといった風に頭を振りながらローガンを睨むのみだ。
 仲間を、弟子を信じることは確かに大切ではある。それは分かる。
 だが、いくらアルフレッドが仲間であろうと、ローガンにとって庇護してやるべき弟子であろうと、
正義と人道に反する行為へ免罪符を切る道理にはならない。
 それなのにローガンは「信じて待て」の一点張りを押し通し、あまつさえ弟子のすることに異論を唱える者は、
代わりに自分が相手をするとまで言い切った。
 友情と正義とをきちんと割り切り、例え仲間であっても不正には厳しく対処するハーヴェストが、
非人道的な行為を幇助せんとするローガンの思惑を全く理解できないのは自明の理である。

 佐志でのトレーニングの折、アルフレッドの深層に今もなお息吹く人間としての心をローガンに説かれ、
そこに一縷の希望を感じたハーヴェストではあるものの、
自分の信念と正義を曲げてまで再起の可能性を妥結する気にはどうしてもなれなかった。
一度でも妥結を許してしまったなら、虚無から希望が這い出るまでに払われる全ての代償と犠牲へ免罪符を切らねばなくなるのだ。

 それに如何なる理由があれ、命を弄ぶ行為を許してしまうことは、アルフレッドの為にもならない。
そのようにもハーヴェストは考えている。
 ローガンの信じた通りにアルフレッドが正気を取り戻したとき、誰一人として自分の暴走を止める者がなく、
あらゆる残虐性が許されていたと知れば、彼は愕然と膝を折るに違いない――アルフレッドとは、そうした青年なのだ。
そうした青年だとハーヴェストは信じていた。
 アルフレッドへ正しき罪と贖いの意識を与え、それによって得られる一握の静けさを約束するためにも、
ハーヴェストは正義を唱えなければならなかった。

 ――自分を信じてくれる仲間がいる。自分を叱ってくれる人もいる。

 この自覚なくして真の再生など絶対に有り得ないとハーヴェストは確信しており、それを曲げることは誰にも出来ない。
 全てを拒絶するほどの絶望を味わい、悪夢の深淵から這い上がったハーヴェストが、
今まさに同様の袋小路に迷い込んだアルフレッドへ許せる唯一の慈悲こそが、すなわち正義の叱声なのである。


 ハーヴェストの叱声と、惨たらしい悲鳴は周囲へ別なる波紋を呼んでいた。
 第五海音丸の仲間たちへレモンのシロップ漬けを振る舞っていたフィーナは、ふたつの狂声に胸を貫かれた瞬間、
果実を納めたタッパーを取り落としてしまった。

(これが、……これが、『本当の戦争』なの――ッ!?)

 蒸気船へと立ち去る間際にアルフレッドが残していったこの一言がフィーナの鼓膜に蘇り、
自分たちがこれから赴く場所と、そこに渦巻く擾乱の意味、そして重みが身心へ食い込むようにして圧し掛かってきた。

 唯一世界宣誓と言う理念のもと、小さな頃から良く知る人によってグリーニャを焼き払われ、幼馴染みが殺され、妹が誘拐され――
それ以来、数多の人間の意識が戦争と言う一点へ向けて収束している。
 自分とて例外ではない。アルフレッドが蒸気船から戻り次第、銃火轟く魔の砂漠へと上陸することだろう。
 決戦の熱砂へ赴くことは、実はそれ程恐ろしくない。
 グリーニャの旅立ちからこれまでに幾度となく銃を取り、ハーヴェストに師事して実戦的な訓練も受けた。
 出発の頃から愛用していたサンダルはリュックの底へ仕舞った。
新たにフィーナの両足を護っているのは、靴底を強化樹脂でコーティングした黒革のブーツだ。
 実戦に即した装いと戦績に裏打ちされた技術は、フィーナを一人前の戦士たらしめ、
修羅場にも慣れた現在、生死が薄皮一枚のところで烈しく行き交う戦場を恐れる気持ちは彼女の中で薄まりつつある。
 もちろん、人を傷付けることへの畏れはあるが、傷付けられることへの慄きは殆どなくなったと言って良い。

 だからこそ、フィーナは自分自身の変化と、そうならざるを得なかった時代の奔流がやるせないのだ。
 戦う以外に道がないとわかってはいるものの、誰もが笑顔でいられる恒久の平和を心から願うフィーナには、
身心が戦場に馴染んでいくことは受け容れ難い。
 ……人ひとり誤殺してしまったときは震えの止まらなかった指先も、
今では狙い定めてトリガーを引き絞れるまでに強くなっている――トリガーを引くことに慣れている。
 戦う以外に道がないという抗い難い潮流に身も心も飲み込まれてしまいそうな自分がフィーナはたまらなく恐ろしく思えた。

 何より恐ろしいのは、恒久の平和の象徴とも言うべき人々が争乱の潮流に巻き込まれる内に
戦いの化身へと塗り変えられていくことにある。
 フィーナにとって平和の原点であるライアンの家族は、ベルを誘拐されたことでその温もりを打ち砕かれ、
最愛の人は復讐の牙を研ぎ、可愛い弟分は冒険者の夢を隅に置いてまで戦う力を求めた。
 きっとエンディニオン中で同様の現象が起こっていることだろう。
 平和の象徴が戦いの化身へと豹変し、暴力の連鎖へと巻き込まれていくのだ。
 心から争いのない世界を願うフィーナにとって、これ以上に過酷な状況は他になかった。

「人を傷付けることがどんなに恐ろしいことなのか、わたくしたちやフィーナ様が覚えている限り、
あなたの危惧するような世界は決してやって来ないと思いますよ」

 残酷な現実を前に、つい落としそうになるフィーナの肩へ陽だまりのような温もりが添えられた。

「トリーシャ様も仰せになったではありませんか。前向きな明るさあってこそのフィーナ様です。
例えどんな苦境に立たされたとしても、それでも前を見て歩いていけるのがフィーナ様だと、わたくしは存じております」

 最初、支えるようにして肩へ添えられていた温もりは腕を伝って滑り、やがてフィーナの手をぎゅっと握った。

「タスクさん……」

 フィーナは自分の手を握ってくれたのがタスクであることを認め、大きく目を見開かせた。
 いつの間にかフィーナの傍らへ控えていたタスクが、その肩を支え、手を握り、
温もりでもって体温を失いつつあった彼女の心を柔らかく包み込んだのである。

 フィーナが目を見開くのは当たり前で、動静を見守っていたトリーシャやレイチェルでさえ、
タスクの意外な行動に顔を見合わせたくらいだ。
 マリスの従者にしてボディーガードのタスクが、盟主から遊離してフィーナを支えるなど職務怠慢と詰られてもおかしくない行為だった。
 常にマリスの傍らに控え、職務を忠実に全うするタスクのイメージとは大きくかけ離れた行動であることが、
周囲の目を驚きに見開かせるのだ。
 ましてやフィーナとマリスは恋敵同士である。
 示し合わせたように口を噤み、未だ公にこそなっていないものの、
アルフレッドを巡るフィーナとマリスの緊張状態は誰の目にも明らかで、
先日のブリーフィングでも恋人たる矜持を論題として烈しいやり取りがあったばかりではないか。
 マリスにとって最大の敵となりかねないフィーナを優しく慰める姿は、タスク当人にしてみれば心外かも知れないが、
傍目には奇妙の一言である。

 けれど、タスクは卑しい言葉ではなく苦境からの再生を説く激励のみを口にし、
そのひとつひとつがフィーナの胸へ確実に染み込んで冷えかけていた心を温めていく。
 「気丈に振る舞うだけが戦いでなく、仲間に弱音や苦しみを分けてもいいんだよ」と、控えめに囁きかけるようでいて、
実はとてつもなく力強い慰めと励ましにフィーナは目頭が熱くなるのを感じた。

 嬉しかった。本当に嬉しかった。
 マリスとの関係を鑑みれば、真っ先に敵対関係になってしまうだろうと予測していたタスクから不意の激励を貰ったのは勿論のこと、
時代の潮流に逆らうことが躊躇われた為、いつまでも口に出せずにいた自分の悩みを深層まで見抜き、受け止め、
進むべき道標を与えてくれる細やかな深慮が、ズタズタに引き裂かれたフィーナの心には涙が出る程に優しかった。

「……私……私は……」
「はいはい、泣かないの。男は涙を見せないって言うけど、それは女も一緒なのよ。ここぞってときのためにも温存しときなさいって」
「それって、つまり、計算して涙を見せろってことでしょ。あたしの親友に妙なことを吹き込まないでよね〜。
涙は女の武器って言うけどさ、計算ありきってめちゃ腹黒じゃないの。使いどころを間違えちゃ意味がないって言いたいのは、
同じ女としてわからなくもないけれどね」」
「トリーシャには悪いんだけど、ごめんね、逆よ。あたしはこう続けようとしたの――泣きたいときに泣けることは素晴らしいって。
今が“ここぞ”ってときなんだから、遠慮はいらないわ」
「……ウス、あたしの乙女度、全然足りてませんでした。一から出直します、オス……」

 誰よりも理解を示し、誰よりも応援してくれる陽だまりの温もりを握り返しながら、フィーナは零れ落ちる涙を拭うこともできずにいた。
 涙に濡れたフィーナの頬をレイチェルは苦笑いしながらハンカチで拭ってやったが、
鼻をすする程に感極まった面から湿り気が失せる瞬間はなく、彼女はトリーシャから差し出されたティッシュへ顔ごと突っ込んでいった。
 グシグシと意味不明な声を上げるフィーナの姿にトリーシャとレイチェルは「やれやれ」ほのかな苦笑いを浮かべている。
そこには皮肉や嫌味は一辺も含まれておらず、無垢な涙を流し続けるフィーナへの親しみと愛おしさで満たされていた。
 タスクの面にも彼女らと同じ微笑が滲んでいるのは、改めて詳らかにするまでもなかろう。

(なんて……なんて浅ましいこと……っ!)

 ――自らの従者を奪われたような構図をマリスが愉快に眺めていられるべくもなく、
彼女の異変に気付いて駆け寄ってきたルディアの気遣いさえも隅に置いてみるみるうちに形相を険しくしていく。
 「どうしたの? ぽんぽん、いたいの?」と言うルディアの呼びかけをマリスの鼓膜は拾ってさえいないだろう。

(タスクはわたくしの、わたくしだけのメイドではありませんか。わたくしに尽き従う影までも横取りしようとするなんて、
……なんて浅ましい……)

 職務を疎かにしたばかりか、“敵”の肩を支え、手を握って慰めるタスクにこそ真っ先に恨みと怒りの矛先は向けられるべきなのだが、
マリスの目には裏切りと背徳以上に、周りの人間を全て我が掌中に引き込もうとするフィーナの浅ましき貪欲さが癪に触った。
 ……そのようにマリスの目には映っていた。

(あんなにも取り巻きがいるくせに、……独りぼっちのわたくしとは違うのに。
それなのにタスクまで奪おうとするのですか、あの人は――)

 自分が渇望しても決して手に入らなかったものを、いとも容易く手に入れていくフィーナがマリスにはどうしても許せず―――

「………………」
「――っ! ………………」

 ―――アルフレッドを巡る蟠りとは異なる“闇”を養分として肥大するドス黒い感情へ思わず飲み込まれそうになるマリスだが、
嫉みの視線をフィーナへ巡らせたそのとき、真っ直ぐと自分を見つめ返してくるタスクに気付き、
彼女の瞳の向こう側にある真意を受け取ると、あれほど心の内側に渦巻いていたはずの妬みは一瞬にしてどこかへ霧散してしまった。

「マリちゃん? だいじょうぶなの? もう平気なの? 顔色、すっごく悪かったの」
「え、ええ……、ごめんなさい。もう」

 まるで静かなる慈悲に満ちた双眸へ醜い痛みの全てが吸い込まれてしまったかのような錯覚を覚えるほどで、
落ち着きを取り戻したマリスがまずしたのは、自らの心に首を傾げることだった。
 拍子抜けして後ろに倒れてしまいそうなくらい、マリスの嫉妬と怒りは根源から刈り取られていた。

 フィーナへ向けた嫉妬からの豹変を心配してくれるルディアの声が耳を打つ度、
麻痺しかけていたマリスの心の働きは正常の揺れ幅を取り戻していき、やがてタスクの眼差しが意味するところ悟った。
 悟って、マリスは羞恥に俯いた。

『フィーナ様は、わたくしにも、マリス様にも、大切な仲間なのです。躊躇しなくても平気です。手を差し伸べてもいいのですよ。 
……フィーナ様は、いえ、みんなもマリス様を拒否したりしません、決して……』

 タスクは盟主を裏切ったのではない。
 レイチェルがハンカチでずぶ濡れの頬を拭ったように、トリーシャがティッシュを差し出したのと同じように、
フィーナを大事な仲間と認めているからこそ、苦しみが少しでも和らぐことを願って駆けつけただけなのだ。
 親愛なる仲間に理由など要るだろうか。……要らないに決まっている。
 相手を想って行動し、支え、励ましてあげるのが仲間というものなのだから。

(……わたくしこそが真に浅ましき女なのでしょうか――光あふれる世界を妬んでしまう、わたくしこそが……)

 本当に浅ましい人間はフィーナでなく自分であったと痛感し、顔を覆いたくなるような自己嫌悪に震えるマリスの指先へ、
ふと小さな温もりが絡み付いた。

「えっと――えへへ、タスクちゃんの真似なの」
「ルディアちゃん……」
「タスクちゃん、こーやってフィーちゃんを励ましてたから、ルディアもね、マリちゃんに元気出して欲しくってっ」
「………………」
「元気、出た?」
「………………」

 光輝く温もりを浴びれば浴びるほど、心の底に根を張る影は強さを増す筈なのに、
優しさを感じるほどにそれを振り撒く人間への妬みと嫉みが色を濃くして渦を巻く筈なのに。
 無意識にそれらの闇へ憑依されてしまう自分が、たまらなく厭になる筈なのに――。

「コケッコ。コーコココカコココ」
「……わたくしの頭は巣づくりには向かないと思うのですが……」
「違う違う違うの! ムルグちゃんも応援してくれてるの。マリちゃんをいっぱい心配してるの。ね、ムルグちゃん♪」
「コケッ!」
「………………」

 ルディアの指先から伝わる「がんばれ」が、頭に感じるムルグの温もりが、光輝の波となってマリスの心を洗い流し、
染み出しては彼女を苦しめる負の想念の影をも浄化していった。

「何か心配事? なんなら知り合いの占い師に今日の運勢、見てもらおうか? 
あたしんとこの記事にいつも載せてもらってるオバちゃんだけど、けっこうイイ筋してんのよ、これが」
「“ルナゲイトの母”とかって人? 筮竹使って占う、あの? ……外しに外してるわよ、その人。
マコシカ式占星術のほうがもっとずっと信用できるわ。というわけで、マリス、最初の一回はお試しってことでサービスするわよ」
「二度目の占いからは金取るつもりなのっ!? 仲間くらいいつだってタダで占ってやりなさいよっ!
見なさい、マリスもポカンとしてるわよ」

 タスクだけではない――トリーシャが、レイチェルが、ルディアと同じように自分の豹変を見て取り、何事かと案じていてくれた。

(わたくしは、独りぼっちじゃない……きっと………………)

 今なら……孤独の闇を拭えた今なら、変われるかも知れない。
 拒絶されるのを恐れたまま、踏み出すことを躊躇っていた新たなる一歩を―――

「フィーナさ――」

 ―――しかし、たどたどしく差し出されたマリスの手がフィーナへ届くチャンスは、
二度と孤独の影へ怯えずに済む強さを得られたかも知れないチャンスは、
皮肉にも二人の間に軋轢を生む原因となった青年によって脆くも打ち砕かれた。

「ちょっと待った、静かにっ。……おい、なんか変じゃねぇか? さっきまでの悲鳴はどこ行っちまった?」
「せやな、いつの間にやら悲鳴がせぇへんようになっとるで」

 ……断っておくが、悲鳴が途絶えたことに気付いたヒューがフィーナとマリスを対立させる原因と言うわけではない。
 誤解というよりもヒューを調子付かせないように明言しておくが、二人の少女に諍いの火種を落とした青年とは、
声ならぬ悲鳴を断絶させた張本人を指しているのだ。

「まじだ……。ど、どうなっちゃったのさ!?」
「何が起こったかは推論の域を出ませぬが……。人質が人質の意味を失ったと言うことはござらぬか?
「ちょっ、ちょっと、怖いことを言うなって、お孝さん……」

 もともと言葉として成立すらしていない音域であったから、意識して耳を澄ましていなければとても拾い上げられず、
実際、ヒューが指摘するまで殆どの人間が気付かなかったのだが、確かに水兵の悲鳴はぴたりと止んでいた。

「――駄目ね、何も聴こえてこないわ。そっちはどう?」
「このシチュエーション、どっちをラッキーにシンキングしたほーがグッドなのかね。
キモいシャウトがもうリスニングできなくなってイエスなのオア、何もリスニングできないのが、
かえってテリブルってシンキングがアンサー?」
「何かが行なわれていると、最低限、それだけは確認できるんだから、声はあったほうがいいんじゃないかしら」
「だったら、もう打ち切っていいっしょ。なんにもリスニングれなかったしぃ。きっと、もうおっデスったんだよ」

 風の働きを操作して集音の力に換えるホゥリーとレイチェルのプロキシを以ってしても、
先ほどまで響いていた声なき悲鳴を拾い上げることはできなかった。
 それはつまり、水兵の声帯が活動を途絶えさせた証明に他ならない。

「……簡単にそういうことを言うのは不謹慎だよ、ホゥリーさん」
「レディには刺激がストロングだった? ボキは至極リアリズムに徹したつもりなんだけどネ。
だってヴォイスがサイレントだよ? ナウはもう鳴らないんよ? こりゃもうおっデスったってシンキンするのがノーマルだよ」
「刺激が強いって言うか、デリカシーがないのよ、あんたは。うちの宿六とおんなじね」
「妻子いるバディで風俗通いをしない分、ボキのがヒューマン的にマシだと思うんですけどぉ〜。
しかも、おフレンズをフェイバリットのおっパブに引き込もうとするしぃ〜」
「ちょ、ちょっと待てよ、なんでそこで俺っちが槍玉に挙げられるわけ!? てめ、ホゥリー、この肉団子! 
余計なコト言って家内を刺激すんのやめろって! ただでさえ家庭内の立場がアレなのに、ますます怖いことになんだろーがッ!」
「小さいことをグチグチクドクド……ホント、うっさいわね! あんたのヒエラルキーが最下層なのは昔も今も変わらないでしょっ!
くだらないこと蒸し返す暇があるなら、ちょっとその辺で地面に埋まってなさい! 顔からッ!」
「……ダンナさぁ、シャラップってワードを知ってマスぅ? ボキたち、これでもワーキング中なのよね。
ワーキングのお邪魔インセクトはホウサン団子でも喉に詰まらせててよ。ハッキリ言ってゲラウトね、ゲラウト」
「……勝手にコケにしといてクレームを邪魔者扱いって……」

 時折、甲板を吹き抜ける潮風が幻想的な音色を奏でるものの、掻き消えた声に耳を澄ませることへ皆の意識が集中している為か、
これに注目する向きは一切ない。誰ひとりとして声を発せずに息まで殺している。
 そこに生じる不気味な静寂が蒸気船から流れ込んでいるような錯覚に襲われ、フィーナは何とも表し難い焦燥に苛まれた。

「ま、次があるさ。ドンマイドンマイっ」
「………………」

 唐突な横槍に妨げられてタイミングを逸し、手を差し出そうとしたまま固まっているマリスの肩を
ネイサンが叩いた直後くらいだろうか――

「……何をボサッとしている。俺たちはいつから余裕を持てるようになったんだ」
「アル……」

 ――三十分ぶりに蒸気船からアルフレッドが姿を見せた。
 船内にて大変な重労働をこなしてきたらしく、顔と言わず腕と言わず、全身が汗でぐっしょりと濡れそぼっている。
 行きと帰りで異なっているのは発汗の有無だけではない。海から引き上げて連行した筈の水兵はどこにも見当たらなかった。

(もしかして、本当に、アルは……)

 巡洋艦の生き残りを伴わずに第五海音丸へ戻ってきたアルフレッドを見るにつけ、
冗談混じりにホゥリーの漏らした言葉がフィーナの耳元でリフレインし、焦燥と嫌悪感を胸へ突き立てた。

『だったら、もう打ち切っていいっしょ。なんにもリスニングれなかったしぃ。きっと、もうおっデスったんだよ』

 照る太陽の下にあるにも関わらず、僅かな輝きも差さない昏い瞳を揺らめかせるアルフレッドの様子に
フィーナはその疑念をますます強くした。
 強くせねばならないだけの状況証拠が揃い踏みし、「現実から目を背けるな」とアルフレッドの声を借りて彼女に強く迫る。
悲しくも腹立たしいことに、その声は話し方の癖までアルフレッドにそっくりだった。

「無線機を奪って情報の霍乱でもしてみようと思ったが、暗号を吐かせる前にくたばった。死んでも生きてもクズはクズだな。
……せめて、作戦内容だけでも吐かせておきたかったが……」

 そっくりではあっても、所詮は不安の生み出す幻聴の類に過ぎないと懸命に堪えようとするフィーナに対し、
今度は紛れもない現実が押し寄せた。

(……ウソ、だよね……人が……ひとり、もう……死んでいるなんて……)

 彼は、アルフレッドは、今、確かに、人の死を吐いた。
 それも人の命と尊厳を踏みにじる残忍な物言いで、だ。

「くたばったって――あんた、一体、何を……ッ!?」
「見たければ、見てもいいぞ。ただし、気分を悪くするだろうがな」

 死の胎動を刻む悲鳴の断続から、ある程度の予想はしていたものの、現実のものとなるとやはり衝撃が大きかったのだろう、
 ことここに至ったという諦めと許容に足りないショックを混濁させながら頭を振り、
蒸気船へ駆け出したハーヴェストの背に向けて、アルフレッドは更に死者を冒涜するかのような暴言を吐いて捨てる。
 ジャーナリスト魂が燃えたのであろうか、トリーシャもデジカメを抱えてハーヴェストへ追従したのだが、
それから暫くの間、ふたりは第五海音丸へ戻って来なかった。
 代わりに蒸気船の甲板へと姿を見せたのは、K・kとローズウェルのコンビである。
両名ともに顔を真っ青に染めており、アルフレッドを見つめる目は恐怖すら帯びていた。
 おそらくこのふたりは、蒸気船内にて行われた一部始終を見届けてしまったのだろう。
面からは生気が失せ、発するべき声さえも奪われた様子だ。

 それから少ししてハーヴェストとトリーシャも蒼天の下に戻ってきたのだが、彼女たちもやはり顔面を病的な色に染め上げている。
 見れば、蒸気船内へ持ち込んだ筈のデジカメをトリーシャはどこにも身に着けていない。
大事な商売道具にも関わらず、アルフレッドが借り受けたと言う多目的ホールへ置き忘れてしまったのだろうか――
そこにトリーシャの受けた衝撃の深さが見て取れると言うものだった。
 逆行の乱反射で輪郭が白く潰されてしまっている為、全ての表情を確認することは困難だが、
おそらくハーヴェストは水兵の成れの果てに対する義憤に駆られ、アルフレッドへの憤怒を滾らせているに違いない。
 異常としか言いようのないふたりの様子に、ネイサンとローガンは見合わせた顔を互いに顰めたものの、
ハーヴェストたちへ突っ込んだ質問を向けることはどうにも憚られた。
尋ねた矢先に卒倒してしまいそうな脆さが彼女たちを包んでいるようにも見えるのだ。

「………………ッ!」
「……アル公も言ってたろうが。ガキの見るもんじゃねーんだよ、こーゆーのはよ」

 好奇心や興味本位と言うほど軽率ではなく、何が起きているのか把握したくて蒸気船へ向かおうとしたシェインだったが、
途中でフツノミタマに止められてしまい、ハーヴェストたちのように間近まで接近することは叶わなかった。
 邪魔された瞬間は舌打ちもしたが、今はそれがフツノミタマなりの気遣いだったことが理解できる。
 アルフレッドのプロテクターや半首(はっぷり)には、ドス黒い返り血や冷えて固まった蝋があちこちに付着していた。

「ご、五寸釘……、足の甲から……、ロ、ロウソクを――」

 トリーシャが唇を震わせながら漏らしたその呟きだけで、たったそれだけで、シェインは胃の内容物が逆流しそうになった。
彼が吐き気を催したと見て取ったラドクリフが背中を摩っていなければ、おそらく本当に吐瀉していたことだろう。
 膝から崩れ落ちたのはフィーナも一緒である。彼女も胃液が遡ってくるのを必死になって押さえ込んでいた。

(何を……アルは何をしていたって言うの……)

 蒸気船内で行われていた外道の所業を想像したフィーナは、目の前が真っ暗になる思いである。
 人の命とその重みを法で守りたいと夢見ていたアルフレッドが、その理想と理想に反する所業へ平然と手を染め、
亡骸に後ろ足で泥を被せている現実など、どうして受け止められるだろうか。
 最早、彼の暴挙を止める言葉をフィーナは持ち合わせていなかった。彼女とそっくりの表情で打ちひしがれるマリスとて同じであろう。


 今のアルフレッドを止められるとしたら、それは―――

「……ときはまさに真打登場っちゅーわけやな。この場合、ワイにはちっともオイシクはあらへんけど……」

 ―――フィーナとマリスから向けられた哀願されるような瞳へ頷き返したローガンは、
重苦しい溜め息を吐いてから愛弟子に向き合った。
 ハーヴェストには「信じて待つのも弟子を持つ者の心得」などと偉そうに垂れたローガンだったが、
さしもの彼もアルフレッドの暴挙が度を越したと判断せざるを得なくなり、待ちに徹するが故に重くなっていた腰を上げると、
「逆さ吊りくらいでいちいち騒ぐな。口を割らせる為の常套手段だ」などと毒づく愛弟子へ野太く逞しい腕を伸ばした。

「ぼ――」
「――なァに一丁前にモラリスト気取ってんの、こいつら! てめぇら、ゴミ掃除するのに、いちいち紙ごみの数を数えてんのかよ!?」

 だが、切り出されてコンマ一秒も経過していない内に諌めの言葉は横から割って入った無粋な奇声に打ち消されてしまい、
アルフレッドの耳にまで届くことはなかった。

「別になんだっていいだろ、細けぇコトはよぉ! どうせ皆殺しにすんだ、殺るのが早まったかどうかの差じゃねーか! 
ブッスリ串刺しにすんなら、足以外にもサービスしやがれやぁぁぁァァァッ!」
「……撫子ちゃん、そう言う言い方はよくねぇな。敵と雖も人間なんだからさ、皆殺しっていうのはなぁ」
「源さんまでなにマジになっちゃってんのォうっ! 入れ食いじゃね? ここ、釣堀ィ!? 
――あ! やっべ、釣堀じゃん! アンコウみて〜に吊してよぉ! 人間蝋燭台の出来上がりだァいッ!」

 奇声を発した主は、源八郎が答えを提示するまでもなく誰もがわかっていた。
 ……撫子だ。今なお船室の屋根の上に居座る撫子だった。
 体育座りしたまま、左手で膝を抱え、右手でモバイルのキーボードをカタカタ忙しなく操作し続ける様子は
とても大音声を張り上げた本人とは思えないのだが、この状況で不穏当と言うか苛烈なことを口走れる人間は、
彼女を置いて他には居なかろう。
 空気を読む、読まない以前の狂声には誰もが辟易(げっそり)とした表情を浮かべた。

「……別になんでも構わない。今の俺たちに必要なのはギルガメシュを根絶せしめる力だ。
戦力へ加わる気がある者は、モラリストだろうとインモラルだろうと投入する」
「またそう言う厭味を言う。……アル兄ィさ、自分が何を言ってるのか、実はもうよくわかってないんだろ?」
「………………」

 巡洋艦の生き残りに対する処遇――拷問を見てもわかる通り、
アルフレッドは戦いに勝つというよりは敵を残虐な方法で抹殺することにばかり知恵を働かせている。
 巡洋艦が撃沈する直前に続いて二度目の挑戦ではあるものの、
やはりアルフレッドをこのまま見過ごせず、無駄だと知りつつもシェインは身を乗り出した。
 フィーナやマリスの言葉にすら耳を貸さないアルフレッドを止められる自信はなかったが、
今、この場で兄貴分を止められるのは自分以外に残っていない。勝率の悪い賭けだが、自分がやらねば誰がやると言うのだ。
 その決意を秘め、シェインは再びアルフレッドと対峙した。

「何度も同じことを言わせるな、これが本当の戦争だ。必要なのは力。敵を討つ力を持つなら誰であろうと構わない。
……そう、誰でも構わないんだ。感情移入の余地がない分、どうなろうが何も感じずに済むだろう?」
「アル兄ィッ!」
「敵兵を迷いなく殺せる人材が必要だ。水无月くらい割り切っているのが丁度良い。
……お題目ばかり唱えて真面目に戦うつもりがない人間などこの場には不要だ」
「戦いに一番必要なものが何か、ボクはお孝さんに教わったよ。アル兄ィだって一緒に居ただろ?」
「煩い、黙れ。これ以上は話しても無意味だ」

 反射的にワンドを取り出したラドクリフを片手で制し、シェインは努めて冷静にアルフレッドへ立ち向かっていく。
 今度はブロードソードのグリップへ手を掛けることもなかった。

「いーや、黙らないね。ていうか、図星なんだろ? 露骨だよね。話を打ち切りたくて仕方がないカンジ」
「……何を根拠に不当な判断を下している」
「バッカじゃねーの、てめぇ。精神的にアップアップになっちまった人間ってのはな、
バカの一つ覚えみてぇに同じことを繰り返すもんなんだよ。で、これまたバカみてぇに殺すだの倒すだの、
キレたことばっかりほざきやがる。てめぇはその典型的なパターンだぜ。思春期過ぎたてのヤンキーかってんだ」

 幸いにも後ろから差し向けられたフツノミタマの援護攻撃が功を奏し、思いがけず形勢はシェインの有利に傾いた。

「お前はいつから心理学者に宗旨変えしたんだ」
「フツが変わったんとちゃう。お前が変わったんや、みんなが違和感覚えるくらいな。
……ホンマは自分でもわかっとるんやろ? アホばっか抜かしとるて」
「わかっちゃいるけど止められねぇってヤツじゃね? 恥ずかしい野郎だな、てめぇは」
「恥ずかしがることなんてあらへん。アホ抜かすのもええ、敵を憎むのもええ」
「……」
「せやけど、約束だけはしといてくれ。最後には必ずワイらんとこに戻って来るてな。でなけりゃワイらも安心して待っとれんねや」
「…………」
「そーゆー弱さをダチに見せるんは、みっともないと思うか? だとしたら、それはちゃう。あるがままに受け入れるんは強さや」
「………………」
「弱さを認めること、ダチを信じること、全部が強さに換わんねん。強くなる――それを約束してくれるんなら、
もうワイらに気ぃ遣わんでもええ。好きなだけやったれ。飽きるまで待ったるわ」

 一瞬、大きな波紋に揺れたアルフレッドの表情をシェインのみならず動向を見守っていたローガンも看過せず、
すかさずフツノミタマの言葉尻へと続く。
 座して待つのが師匠の務めと大見得切った手前、今更、口を挟むのも逡巡のうちに憚られたが、
手綱を引いてやるのも師匠の務めというハーヴェストの言を聞き入れ、
アルフレッドの“息吹”を潰してしまわないよう言葉を選びながら暴走の抑止を試みたのだ。

「アルが何をやったって仲間は仲間さ。変わったりとか、見限ったりとか、そんなことにゃならないよ。
せめて、それくらいは分かってて欲しいもんだね」
「……――……」

 締めとばかりに加えられたネイサンの一言にもアルフレッドは微かに眉を動かし、そして、面に葛藤を滲ませる。
 揺らぎなく暴威を振るうことへ矜持でも持っているのか、滲み出す葛藤を懸命に押し隠そうと気を張り、
張れば張るほど眉間の皺や頬の震えとなって生の感情が発露していく。
 箴言は間違いなく効力を発揮していた。

「ガタガタガタガタウジウジウジウジィィィィィィッ! いいトシぶっこいたおっさんどもが女々しいこと抜かしてんじゃねぇぞぉっ!? 
ハンバーグだよォうッ! 挽き肉なんだよォうッ! クソどもをミチミチミンチにしちゃのにさァァァ、理由なんかいちいち求めんやッ! 
なんべんおなじことを言わすんだァッ!? バカ? ねぇ、あんたら、バカなの? 
クスリでもなんでもブチ込んで、アタマをちっと飛ばしてきたらぁンんんんッ!?」

 この機を逃すまい――数多の援護を背に受けてシェインとローガンが意気込んだその瞬間、
手にしていたモバイルを金繰り捨てた撫子が壊れたように哄笑を挙げ、腹を抱えて転げ回っていた。
 空気を読まないと言うか、何と言うか……シェインの勇気が開いた再生への兆しを撫子は物の見事に台無しにしてくれたのである。

「……言っていることの十分の一も理解してやれなくて申し訳無いが、
お前がギルガメシュとの戦いに強い意欲を見せていることは評価している。
味方を巻き込みさえしなければ、どのように暴れて貰っても自由だ」
「合い挽きになっちまっても俺ぁ責任持たねーぜぇぇぇええッ!? なんたってこの世で一等ド派手なお祭りだかんなぁッ! 
戦場の中心で断末魔を叫ぶバカくらいコワれちゃってかねーとよぉォォォッ!!!!」
「その意気や良し。巻き込んでも構わん、殺りたいだけ殺れ」
「ちょっ? ちょっ!? ちょっとっ!! どうしてそこに戻っちゃうのっ!? 今のは違うでしょ、戻るにしたって別の振り出しじゃないの!? 
シェインくんやみんなの説得はどこに消えちゃったのっ!?」
「説得? 何を言っている? またお得意の妄想か? ……フィー、お前のその楽観的なアタマには時々随いていけなくなる。
あいつらの寸劇で戦いの定義が変わるものではない。それだけの話だ」
「イキがったガキの決め台詞だな、それ。お小言喰らったら、不貞腐れて無視しましょうってか? 
……てめーよォ、いい加減見苦しいんだよッ! イキがんのやめろやッ! クソったれがァッ!!」

 愛弟子の奮闘を台無しにされて怒り心頭に発したのか、ただでさえ険のある顔を更に引き攣らせたフツノミタマは、
堪りかねてアルフレッドの胸倉へと右手を伸ばした。
 諫めの念が込められた彼の手をアルフレッドは甘受せず、強引に振り払った上に「お前に見苦しさを説かれる筋合いはない。
他人のすることへいちいち噛み付くお前のほうこそ見苦しいだろうが。煩わしいんだよ、いい加減」と罵倒を返した。

「うぜぇっつったか、今!? オラァッ!? 手前ェのことしか考えてねぇクソガキが、よくも上等なコトを抜かしやがったもんだッ!」
「なんとでも言え。お前の知ったことではない」
「おォおォ、好き放題、言わせてもらうぜ! つか、なんとでも言えってのはてめぇのことだろがッ!
ワンパターンバカのカッコつけなんざ、俺らから見りゃ可愛いもんだぜ、あァ!?」
「可愛い? ぷりち〜? ……死ねっつってやりゃい〜んだよ、こういう場合はよォッ!! 
たかがお遊びにマジになってんじゃね〜っつのッ! ウジが湧いてんだろ、こいつのお脳ぉぉぉォォォッ!」

 撫子はただ単に空気を捻転させただけではない。
 人として在るべき静けさを覗かせていたアルフレッドの心を再び戦鬼の苛烈へと振り戻し、
シェインたちが引き寄せていた筈の希望を無残に打ち砕いた。
 戦火の朱へと染まってしまったアルフレッドには、最早、誰の説得も心の深層へ響くことはあるまい。

 単に戻っただけならまだ良かったのだが、戦いへ指向する精神が第三者の説得によって揺らがされることを
自覚してしまったアルフレッドは、今度こそその克服に持ち得る限りを注ぎ、
己の為すべきことを二度と見失わないよう狂乱の戦意を一層頑ななものとしていく。
 同じ轍を踏むまいと心を鎧で固め、大敵の血肉を食い千切ることにのみ囚われる悪鬼が、
煉獄さながらに燃え盛る真紅の瞳へ暴虐の妖光を宿した。

「この中で使い物になりそうなのは、お前だけだ。戦闘に立って合戦しろ」
「ギッギギギ……ギィィィッヤハッアアアァァァぁぁぁッ!! 皆殺しのライセンスゥゥゥぅぅぅッ!!」

 アルフレッドにしてみれば、攻撃一辺倒に傾いている人間など使い棄てるに都合の良い駒程度の価値しかなく、
その意気を肯定する声もどこか空々しい。
 棒読み気味の羅列に込められた真意へ気付いているのかいないのか、
好きなように戦うことを許可するアルフレッドに対し、撫子は顔面を醜く崩壊させながら歓喜の奇声を上げた。
 どれだけテンションが爆発したと言うのか。転げ回りながら両手両足で地面を叩く様子は、
全身を使って感情を表現する赤ん坊並の無防備さを表し、見る者全てにイヤな汗をかかせた。
 およそ二十代後半の人間が露わにするテンションではない。
 辺り構わず転げ回るあたりも常人の浮かれ方とは一線を画していた。

「んも〜、ナデちゃんったら、寂しいなら寂しいって言ってくれた良いのに。
お待たせお待たせ、こっからはルディアが遊び相手になってあげるの♪」
「――ヌなッ!?」

 ……ひとまずのところは、屋根の上によじ登ったルディアによって
撫子の暴走は食い止められたものの――代わりに別の意味で聞き苦しい叫び声は轟いたが――、
第三者の横槍によって崩れ去った乾坤一擲の諌言を反芻しながら、
二度と再生へのチャンスは巡ってこないだろうとシェインは頭を掻いた。

「……シェインくんには悪いけど、あの人ってやっぱり……」
「いいって、そんなに気ィ使わなくても。今のアル兄ィは、ボクの目にも……」

 馬軍の覇者にまで認められるこの謀将が戦いの舞台から降りる日は、果たして来るのだろうか。
ギルガメシュとの争乱がこの先も続くのならば、彼が刻むだろう戦史もそれに比例するに違いない。
 だからこそ、今日の説得を成功させることには大きな意味があったのだ。
 戦いの渦中に身を投じ、死地へ立たざるを得なくなるアルフレッドは、ますます修羅の道をひた走るに違いない。
 髑髏と死肉で敷き詰められたその道へ足を踏み入れてからでは、
命を踏み躙り、踏み崩すことに何の痛みも感じなくなってからでは、本当に手遅れになる。
 それなのに――。

「そう悲観することもあらへんよ。逆にハッキリしたやんけ。
あいつの裡にゃちゃんと人間の根っこが生えて残っとる。
今までみたくハッキリせん可能性に期待するよりゃ、ちっとは踏ん張りも利くやないか」

 肩を叩いてねぎらいの言葉をかけてくれるローガンにシェインは溜め息で返した。

「どうだろうね……いくら根っこが残ってたって、それを包み込む地面が固かったんじゃ、
どの道、掘り起こすことなんか出来ないよ」
「根っこかていつまでも冷たくて固い地中にはおれへんやろ。
どっかで必ず頭ぁ出すよ、ポッコリな。ワイらはそれを見逃さず、引っ張り出したらええ。
――お! 座して待つっちゅーハーヴへの見得が収穫を待つってことで繋がったわ。
こら幸先ええで! 座して待つんは収穫を待つんと同じ! これぞ師匠のカッコ良さやんなぁっ!」
「何がカッコ良いのか、よくわかんないけど――でもさ、いつまで経ってもそのときが来なかったらどうするんだい?
地中に埋もれたまま腐ってしまう野菜もあるだろう? ……ボクだけなのかな、そうなっちゃうのが、
どうしようもなく恐いのって……」
「食いモンはな、ちょっとばかり腐っとるほうが、かえって味が出るもんなんや。
土ん中で腐ったら腐ったで、そっから何や珍味が生まれるかも知れへんやろ?」
「アル兄ィは納豆扱いなのかよ。いや、納豆は土に植えたままじゃ出来ないけどさ」
「あんまりアカンと思うたら、こっちから掘り返しに行ったらええ。迎えに行けばええだけや。
腐る寸前まで埋もれとるっちゅーことは、ごっつくたびれとつっちゅーのと同じやん。
ほしたらな、手を差し伸べりゃきっと握り返してくれるで。間違いあらへん」
「……ボクはローガンくらいポジティブにはなれそうにないよ……」
「理想主義者と呼んだってや。あるいは夢を追う男ってな!」

 戦う力を失った巡洋艦を徹底的に破壊し、あまつさえその生き残りを拷問に掛け――
そこまでの所業に手を染めながらも、アルフレッドの面には迷いも曇りも一点とて見つけることが出来ない。
 迷いと曇りを持たない人間は、つまり、大量殺戮すら何の躊躇もなく実行へ移せるとも見なしてしまえるのだ。
 こうした判断を口にすれば、おそらくフィーナやマリスは乱暴、極端だと眉を顰めるだろうが、
奪われた命、失われた故郷への贖罪を末端の敵兵に強いる今のアルフレッドを見る限り、
迷いのなさは殺戮の――復讐の肯定に等しいとしか考えられない。
 弟分を自負するシェインにとって、アルフレッドの暴走は我が身を切られるのと同じくらい痛ましく、
ローガンが言うような楽観視は、選択肢の一つにさえ入れられなかった。




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