3.Immortal old banger


 ――昔々、あるところに、『ジェット・リンク』と言う小さな村がありました。
 村の規模は都会に比べてだいぶ慎ましいのですが、ジェット・リンクには、他のどの町にも許されていない特別な恩恵が
イシュタル様から授けられていました。

 それは、ジェット・リンクがその名前を使うようになる少し前のこと。
 ジェット・リンクが岩と雑草と枯れ木で荒れ果てる更地だった頃のこと。

 資産家が投資目的で買い占めながらも地価の暴落で売るに売れず、
ずっと眠らせていた更地へ薄汚れたジーンズに真っ白いシャツと言う身なりの若い青年がやって来ました。
 人生を賭けたギャンブルに破れ、なけなしの財産も、恋人も、全てを失っていたその青年は、
親の遺産を丸ごと注ぎ込み、人間が住むにはおよそ適していないだろうこの土地を買い占めると、
ただ一つだけ故郷から持ち出したスコップでもって荒れ放題の大地に穴を掘り始めました。

 彼は地質学に詳しかったわけでも、この地に宝が眠っていると妄想したわけでもありません。
 掌が血豆だらけになっても、くたくたになって倒れ込んでしまっても固い地面に立ち向かい続けたのは、
何を隠そう自分の墓を掘るためです。

「どうせ死ぬなら、せめて誰にも迷惑を掛けずにひっそりと死に絶えていきたい。
みっともない亡骸を誰の目にも晒したくない。祈る言葉も、読み上げる聖書だって欲しくない。
誰も知らないこの荒地で永眠(ねむ)ってやろう」

 全てを失った青年にとって、すがりつくものはもはや死しか残されていなかったのです。
 孤高の死を迎える為に、大きな大きな墓を作る為に、後にジェット・リンクと呼ばれるようになるこの土地を買い上げたのでした。

 けれども、いたずらなイシュタルは、運を司る我が子に?あること?を命じ、この哀れな青年のさだめを大きく変えてしまいました。

 青年が穴を掘り始めて半月が経ちました。
 満足に食事も摂っていなかったせいで皮と骨になった青年は、いよいよ死神の手が近付いていることを確信し、
救われるような思いでいます。
 ところが、彼のスコップが通産することの四百十五万八千二度目に地面を抉ったとき、
黒い水が掘り進めていた穴からいきなり噴き出しました。

 ――石油です。
 現代を生きる上で欠かすことが出来ず、発見した者は死ぬまで遊んで暮らせると言われる資源を、
奇しくも死ぬつもりでいた彼が掘り当ててしまったのです。
 やがて、彼と、彼の掘り当てた石油に大いなる夢と浪漫を感じた人々が大穴の開いた荒地へ集まるようになり、
死ぬつもりでいた青年は、いつしか彼らのリーダーに押し上げられていました。
 開拓民を受け入れてこの土地を開墾し、一つの町にまで発展させたのも、青年にとっては成り行き任せでしたが、
それでも彼は、石油王、政財界のカリスマなどと尊崇されるようになりました。

 想像もしていなかった大逆転をイシュタルより授けられ、十世代先まで遊んで暮らせるだけの財産と、
この地の開拓へやって来た人々の中で最高の美女を伴侶に得た青年の心は、けれども深い孤独のままです。
 一度、死を選んでしまった人間は、妻と孫子(まごこ)に囲まれていながらも、
天寿を全うする僥倖に恵まれていながらも、ついに最期まで絶望の影を拭い去ることができませんでした。
 開拓の父たる青年が最期まで抱えて逝った深き業を知る者は、大地主として永劫の繁栄を約束された彼の子孫――
エスピノーサの血族しかエンディニオンにはおりません。


 そして、ジェット・リンクが幾万もの朝を経たとき、エスピノーサの家に不思議なちからを持った子が生まれます。
 父祖のお陰で何も不自由することのない裕福な暮らしを送っていた彼は、
思春期を迎えたとある日、自分に未来を読むちからが備わっていることを知りました。

 彼は、未来を予知する自分のちからを自覚したとき、とてつもない恐ろしさに取り憑かれました。
 そのちからを持ったことがない人は、ずっと先の未来をも読み取ることを羨ましがるかも知れません。
 けれど、知りたくもないことまで――他人(ひと)の不幸まで彼の瞳には映り込んでしまうのです。
 幼馴染みの友人が川で溺死する未来を予知してしまったとき、彼の心は恐怖によって壊されます。
 友人が不幸に見舞われるその場に居合わせた彼は、急な増水に攫われた友人を助けようとあらゆる手を尽くし、
……とうとうそれが叶いませんでした。

 彼が視た未来は、「あらゆる手を尽くしても無駄な徒労で終わる結果」だったのですから。

 彼は自分のちからを呪いました。
 呪い、嘆き、誰とも分かち合うことのできない恐怖に絶望し、最悪の結末を選ぼうとするほどに思い詰めてしまいました。
 経緯と動機こそ違えども、大切な何かを失い、絶望に瀕すると言う筋書きは、
かつて彼の祖先である開拓の父が歩んだ道と全く同じでした。


 ……けれど、彼と開拓の父とではほんの少しだけ違っていました。
 彼は、開拓の父と違い、ひとりぼっちではありません。
 父や母、祖父や祖母、使用人たちが、エスピノーサの家族が、一丸となって支えてくれたのです。
 そして、彼の背負う業をも受け入れて愛してくれる人が――。

 希望に勝る絶望はありません。
 絶望を拭う希望はそこにありました。


 家族の示した希望を手にして再び立ち上がることのできた彼は、それから程なくして再び恐るべき未来を予知してしまいます。

 それはまさしく恐慌と激動の顕現でした。
 おぞましい仮面を被った幾万もの亡者が銃を取ってエンディニオンを蹂躙し、やがては全ての希望の芽を摘み取ってしまう――。

 それが彼の視たエンディニオンの未来でした。

 父も母も、祖父も祖母も、使用人たちはおろか故郷の友人、遠いあの地に暮らす最愛の人までもが死に絶えると言う、
受け容れ難い未来の前に彼は再び打ちひしがれます。


 ですが、彼はもう以前のように絶望を甘受することはありません。
 支えられることへの心強さから、独り立つ為の強さを分け与えられた彼は
絶望に直面してもこれと向き合えるまでになっていました。

 全てが失われる前に、全てを守れるかも知れない。
 いや、この手で守るんだ。
 一度は呪ったこのちからは、今日と言う日の為に女神が授けたものなのだ。
 仮面の亡者たちを屠り、その眷属をも葬り去る聖戦の為にこそ、未来を先読みし、
戦う術に換えられるこのちからは在ったのだ。

 自らに課せられた運命を悟った彼は、 これまで自分を支えてくれた全てのモノへの感謝を胸に、
これからは自分が支え、守って行くとの誓いを胸に、遍く戦いの連鎖にその手を伸ばしたのです。
 “裏切り者”の汚名をその身に被って。

 そして、今、彼は……――





 ?昔話?の体裁を借りた一つの寓話は、そこで一先ずのピリオドを迎えた。
 過去を紐解く中で途切れ途切れになる箇所が何度かあったものの、ジューダス・ローブへ至るまでの道程を全て語り尽くしたセフィは、
話を切り出す直前(まえ)と同じようにしてもう一度、蒼穹を仰ぎ、それきり黙りこくった。
 今はセフィの話に圧倒されて言葉を失っている仲間たちも、間もなく意識を現世に振り戻し、
おそらくは穏やかならざる反応を見せるだろう。そのときには如何なる処断をも受け入れよう――
その覚悟を、彼は無言で示したのである。

「……随分とまあ手前ェにだけ都合の良い屁理屈があったもんだぜ」

 そのセフィに真っ先に感想を――いや、唾棄にも似た罵声を投げ付けたのは、
やはりジューダス・ローブと長きに亘って熾烈な戦いを繰り広げてきたヒューである。
 フィーナやマリスがうっすらと涙を浮かべて聴き入っていたセフィの昔話へヒューはありったけの軽蔑を込めて、
「傲慢にも程があるぜ」と吐き捨てた。

 長い間、ジューダス・ローブの尻尾を追い掛け続けてきたヒューの心情は察して余りあるが、
フィーナやシェインには、今日までセフィが犯してきた数多のテロ事件が、ヒューに痛罵され、全否定されるべきものなのか、
正直なところ、わからなくなっていた。
 そっとアルフレッドの様子を窺えば、思いがけぬ告白に緊張しているのか、いつにも増して感情の発露が薄く、
ヒューとセフィ、どちらに賛成するつもりなのかも判別がつき難い。

 殺人を含むテロ行為は、どんな理由があろうとも決して許されることではない。
それは、人間として絶対に踏み外してはならない一線だ。特にフィーナはこの罪の重さを誰よりも思い知っている。
 それなのにセフィの犯した罪には酌量の余地を探してしまう。背負った重さを取り払ってあげたくなる。
人として許されざる行いを認め、蔑むどころか敬いそうになる自分のほうが、
信念もろともセフィを抹殺してしまう?罪?と言う一括りよりも正常ではないかとフィーナは考えてしまうのだ。
 彼の信念を――愛する者の為に戦ってきたと言う事実を知らされてなお、彼を悪と断じることは、フィーナにはどうしても出来なかった。

 テロ行為に至った鉄の信念を無視して一方的な?罰?を押し付けることに疑念を抱いたのはシェインも同じだったようで、
セフィの言い分に耳を傾けようともしないヒューへ正面から食って掛かって行った。

「聞き捨てならないなぁ、それ。傲慢だって? どっちが傲慢なのさ! 
そりゃ誉められたことじゃないかも知れないけど、セフィがやってきたことは、何がなんでもワルってことじゃないだろ? 
そこんトコを汲み取ってもやらないクセしてさ……! ヒューに人のことを傲慢なんて言う資格はねぇよ! この頭でっかちッ!」

 アルフレッドが嘆いた通り、フツノミタマの影響で口が悪くなり始めているシェインは、
ルノアリーナやカッツェの耳に入ろうものなら説教だけででは済まなそうな醜い言葉でヒューを逆に罵り、
「少しは話を聴いてやれよ」と強引に迫った。
 しかし、事情をよく知らないシェインの意見をヒューが取り合う筈もなく、反応すら示さずに黙殺を決め込んでいる。
 シェインに助勢してやろうと彼の後ろに立ったフツノミタマが、「ケツの穴がちっせぇヤロウだなッ! 
頭ン中、おめでてぇのが、てめーの取り得じゃねぇのか、あァッ!?」と、よりきつい物言いで罵倒し始めても、
セフィの?昔話?に思いっきり感化されたルディアが「このわからずやーっ」と胸元にポカスカ叩いて来ても、
ヒューは頑なに黙殺し続ける。
 ジューダス・ローブとの対決は根が深く、余人が軽々と入り込める間隙など一分とて有り得ないのだ。

「一緒に危ない橋も渡って来た仲間だろ!? なのに、あんたは何も感じないのかよッ!?
ガキの声に耳も貸さない大人だってんなら、仲間の悪事を水に流すくらいの度量を見せてみろよッ!」
「名探偵だか何だか知らないけど、セフィちゃんの生き方のほうがヒューちゃんよりずっとずっとゴイスなの!
みんなに嫌われても構わないなんて根性、ヒューちゃんにはあるの? いや、ないのっ!
大切なものを守る為に自分を犠牲にするなんて、本当に選ばれた人にしかできっこないの!
つま〜り、ヒューちゃんはダメダメなのっ! ダメダメ人太郎にセフィちゃんを裁く資格ナシ、なのっ!」
「そうだ、このクソヤロー! 石頭! デバガメストーカー!! お前のカミさん、でべそ! 
引っ込めや、オラ、とっとと引っ込めってんだよッ!」
「引っ込〜めっ! それ、引っ込〜めっ!」
「引っ込〜むの! ほい、引っ込〜むの!」
「ウラァッ、引っ込めっつってんだろうがぁッ!」
「……なんで俺っちが悪者みてーな流れになってんだよ、こんちくしょうめ!」
「――ちょっと待った、そこの指定暴力顔。あんた、どさくさに紛れて、あたしの悪口叩きやがったわね。
後でちょっとツラ、貸しなさいよ、ええ?」

 ……最後まで無視を決め込みたかったものの、三人が誹謗中傷をアンサンブルし始めたのにはさすがに耐え兼ねたらしく、
アルフレッドに目配せでもって協力を要請した。
 応じないアルフレッドではない。すかさずローガンにも協力を請い、ふたりがかりでシェインたちをヒューから遠ざけた。
 暫くの間、「引っ込め」コールはしぶとく残響が続いたが、正座させたシェインとルディアへアルフレッド理詰めを叱り始める頃には、
お説教ゾーンを除いて丘陵はもとの静けさを取り戻していた。
 唯一の例外は、レイチェルに対する悪口を迂闊にも織り交ぜてしまったフツノミタマであろう。
 フツノミタマが喉奥から搾り出した身も世もない絶叫は、レイチェルの?制裁?が終わるまでの間、延々と木霊し続けた。

 シェインたちの闖入によって一時的に脱線したものの、ジューダス・ローブに対する共振は残ったままだ。
 我知らず拳を握り締めたフィーナは、セフィが続けていた孤独な戦いを既に正当なものとして受け入れている。

「……でも……でも、セフィさんはエンディニオンの為に戦ってきたんですよね?
たったひとりで、ご家族や友達を――大切なものを守り抜く為に……!」

 先んじてギルガメシュの脅威を予知したセフィは、やがて来たるテロリストの侵略に備えるべく、
将来的に彼らへ与する要人や占拠されることで重大な損失を生み出す施設への破壊工作を続けて来たのだ。
 予防の名のもとに、である。
 だからこそ裏切り者の名を甘んじて受け入れ、太陽に顔を見せることすら憚られるとして血塗られたローブで全身を覆い隠したのだ。

 事実を公表すればフェイやハーヴェスト以上の英雄になれる筈なのに、その資格を放棄して功名心など一切持たず、
ただひたすらにエンディニオンや愛する者たちを守る為に汚れるのも厭わず戦い続けてきた、
信念の人にして誇り高き戦士、ジューダス・ローブ。
 セフィがある種の自己犠牲の精神を持って戦って来たと見えなくもないし、その想いを胸に秘めていたのはやはり間違いなかろう。

 自分の犯した罪を擁護してくれる人物が現れると想定もしていなかったセフィは、
フィーナの言葉に聴き入りながら口をパクパクと開閉させていたが、落ち着きを取り戻すにつれて自虐的な笑みを浮かべていった。

「私はそんなご大層な人間じゃありませんよ、フィーナさん。私は私のエゴを満たす為だけに多くの人間を犠牲にしたんです。
『いつか悪事を働くから』と言う理由で何人も何人も。……罪を犯してもいない内から罰を受ける理由がどこにあると思います? 
全てが私の自己満足によって決められたんですよ? こんなにバカげた話、イシュタルがお許しになるはずもない」
「あっそ」

 突きつけられた全ての罪状を認める“引かれ者”のように我が身の愚かさを粛々と話していくセフィをヒューは鼻で嘲笑った。

「許しを乞うつもりはありませんよ。如何なる理由があれ私のしたことは重大な犯罪です。
それを何百回と犯して来たんだ。この場で銃殺すると言うのならそれも構いません。
……ただし、私は私のしたことに後悔はしていません。誇りにさえ思っている。
全ての死が、破壊が、エンディニオンを守る為に必要不可欠な措置でしたから」
「あー、もういらねーからよ、そーゆーダセぇ言い訳とか」
「なっ……、ヒューさんもそこまで言わなくたっていいじゃありませんか。セフィさんにだって戦うだけの理由が……」
「理由? このゴミタメの動機ィ? ……こんなもんがオチだっつーんなら、もっとシンプルにイカれた愉快犯のほうがまだマシだったぜ」

 まるで遺言でも残すかのような口調で信念を語ったセフィを、ヒューは気のない声で突き放した。
 鋭い眼光を天敵にぶつけたまま手探りのみで胸ポケットからシガレットを取り出し、火を点けたヒューは、
肺いっぱいに吸い込んだ紫煙を厭味にもセフィの顔面へ吹きかけ、ついでとばかりに更なる痛罵を浴びせていく。

「さぞご大層な動機があると思いきや、蓋を開けたらまた随分とチープなオチが待ってやがったもんだよ。
しかも、エゴとかなんとかカッコつけちゃって! お前、それで共感得られると思ってんのか? 
そんなもんで騙されんのは世間知らずのお子ちゃまくらいだっての」
「聞き捨てならねーぞ、今の! ボクもフィー姉ェも騙されたんじゃなくて自分の意思で――」
「――ガキは黙ってろッ!!」

 アルフレッドの説教をすり抜けたシェインがなおもセフィの擁護を試みたが、それはヒューの大喝で制止させられた。
 嘲りを込めた冷笑から豹変しての激昂だった。
 普段は三枚目よろしくヘラヘラばかりしているヒューが初めて見せる激情は心の底から凍りつくような凄味を放ち、
シェインばかりでなくその場に居合わせた皆を沈黙させた。


 それから暫くの間、ヒューとセフィが極度に張り詰めた緊張の中で睨み合う状態が続いた。
 相変わらずエクステに隠れて素の輝きを垣間見ることの出来ないセフィと異なり、ヒューの双眸からは剥き出しの怒りが迸っており、
彼の裡にて渦巻くジューダス・ローブへの――いや、セフィに対するやり場のない憤激がそこに顕れていた。
 世界最凶のテロリストとして手掛けてきた数え切れない重犯罪を、自分たちを最悪の形で裏切ったことを、
ヒューの双眸から迸る煉獄の炎が決して逃れられぬものとして照らし出しているようにも見える。

「小賢しいことを言うようだが、某は童ではない故、是非ともセフィ殿と見(まみ)える機会を与えて頂きたいのでござるが、
如何か、ヒュー殿?」

 沈黙を破ったのはヒューとセフィのやり取りを遠巻きに見守っていた守孝だった。
 どうやら会話に割って入る機会を虎視眈々と窺っていたらしく、
いつ決壊するかわからない激烈な怒りで頬の筋肉がひくひくと小刻みに痙攣している。
 ヒューの邪魔になると考えて懸命に押さえ込んできたようだが、頬から眉間へ至る細微な痙攣を見る限り、
それも最早限界に達しているようだ。

「ギルガメシュめらの襲来に備えし予防を大義名分としておったらしいが――ならば何故、我らが村長殿を殺めたかぁッ!?」

 ヒューの返事を待たずに爆発した守孝は、セフィの胸倉を掴んで問い詰めに掛かった。
 テムグ・テングリ群狼領の内部抗争へ佐志が巻き込まれた折、
どさくさに紛れて当時の村長が何者かに毒殺されると言うショッキングな事件が起きたことは
アルフレッドたちにとっても記憶に新しいところだが、少なくとも彼らの知る限りでは毒を盛った犯人は結局見つからず仕舞いだった筈だ。
 捜査が進んだと言う話も聴かなかったので、完全に迷宮入りしたとアルフレッドは思い込んでいたのだが、
守孝はセフィの話を聴くにつれて前村長の毒殺を彼の犯行であると断定したようである。

 確かに村長が服毒死した場にセフィも居合わせはしたものの、それでは犯行の証拠にならない。
 居合わせただけで犯人と見なされると言うのであれば、
当時、完全に犯人扱いされたアルフレッドなど絞首の刑台に登っていなければおかしかろう。

「何を言ってるんだ、守孝!? 落ち着け! セフィがいつ前の村長を殺めたと言ったんだ!」
「ギルガメシュらにこの町が襲撃されたことをお忘れか? 誰あろうアルフレッド殿の智謀をもって追い散らしたあの戦でござる。
ほんの半月前のことでござるぞ!」
「それが一体どうしたと言う? 村長の毒殺と何の因果があると言うんだ」
「某とて遅鈍ではござらんぞ。ギルガメシュは我らが故郷を海運の要衝に欲しておった。
それ故に兵士を送り込んだのでござる。彼奴らにとって佐志占拠は、侵略を推し進める上での肝心要ではござらぬか?」
「村長がギルガメシュに村を売る未来を予知した。だから殺害した――そう言いたいのか、お前は。
……妄想にしても飛躍し過ぎている」
「それ以外に村長がこやつに間引かれる謂れがござらんッ! ……村長は篤志の御方でござった。
佐志の全権を侵略者どもに譲渡するとすれば、我らを人質に取られてやむなく――そうではござらんかッ!?」
「守孝、いい加減にしろッ!」
「いい加減とは某の台詞にござるぞ、アルフレッド殿! おぬしもいい加減に目を醒まされよ!
こやつは悪ぞ! 不倶戴天の敵ぞッ!」

 守孝の激昂は多分に思い込みを孕んでいる。
 セフィを犯人であると目するに足る根拠や証拠もなく半ば言い掛かりで彼に挑みかかっているのだから、濡れ衣も良いところだ。
 頭に血が昇りきって沸騰すらしていると思しき守孝を羽交い絞めにしてその場から引き剥がし、
落ち着くように言い諭すアルフレッドだったが、二人の取っ組み合いを見守っていたセフィは自分に向けられた嫌疑をあっさりと認めた。

「あなたのご想像している通りですよ、守孝さん。前村長の水筒にテトロドキシンを混ぜたのはこの私です。
風化した水脈を進む途中で水筒を落とされましたのでね、親切ついでに目的を果たさせていただきました。
何時転ぶか、水筒をどこに落とすかは、予め知覚しておきましたが」
「おのれ、小癪をォッ!」
「そして、動機についても守孝さんが全て明かしてくださいましたね。お陰で説明の手間が省けましたよ。
……前村長は素晴らしい人徳家でした。あなたが惚れ込むのもわかります」
「うぬに誉められても虫唾が走るだけじゃァッ!」
「だが、人徳は時として自分の首を締めるものです。善人を演じてきたタレントが唖然とするような事件で検挙されるのと同じようにね。
……前村長は人質の解放と引換えに佐志の全権をギルガメシュに委ねた。佐志が敵の手に落ちれば、この戦い、もう勝機はありません」
「だから排斥したと申すか! 篤志であることが殺人の標的に選ばれる動機だと申すのか! 
佐志の繁栄に命を捧げた偉大なる男を……民を心から愛したあの御方を……!」
「私は個人の生存、もっと言えばほんの小さな感傷よりもエンディニオン全体の平和を優先させなければなりませんでした。
申し訳ありませんが、あなたが尊敬される方の人となりなど知ったことじゃない。
未来を妨げる要素であるなら、篤志だろうが何だろうが全て抹消する。それがジューダス・ローブです。
佐志が足掛かりになれば、全世界にギルガメシュの侵略が拡大される。その為の?予防?でした」
「………………」

 守孝に対する返答は至って冷静で、怒り狂う守孝を煽ることも、鮮やかな犯行の手際を自賛することもない。
自分の犯した罪と動機、前村長が死ななければならなかった理由を過ぎ去った事実として淡々と羅列するのみである。
 前村長の生命を行く手に転がる小石か何かのように扱い、
自らの犯した殺人をまるで他人事のように話す態度へ怒り心頭に発した守孝は、
アルフレッドを強引に振り払い、再びセフィに掴みかかった。

 激しく胸倉を揺さぶられても少しも抵抗を見せないセフィに、
自らの命を犯した罪の代償に捧げんとするある種の諦念を感じ取った守孝は、
血走った眼で眉間に狙いを定め、頑強な拳を振り上げる。
 刑死を欲すると言う最も安易な贖罪の意思が、尊敬する人を殺された守孝にはどうあっても許せず、
己が拳を裁きの鉄槌に換えて振り落さんとした――が、その腕は寸でのところでヒューに掴まれてしまった。

 自分と意思を同じくしているとばかり思っていたヒューによもや鉄槌を止められるとは予想していなかった守孝は、
彼の顔と掴まれた自分の腕を交互に見比べながら当惑の表情を浮かべ、ヒューの真意を探るような眼差しを向けていたが、
やがて何かを悟り、天衝く拳をゆっくりと下ろしていった。

 守孝は自分を止めに入ったヒューの面に峻烈な覚悟を見出していた。
 それは、まさしくセフィ=ジューダス・ローブとの長きに亘る戦いに決着をつけんとする覚悟であった。

「……それで? どーするつもりだ、オイ。このまま死ぬまで続けるつもりかよ、独り善がりのドン・キホーテごっこをよぉ」
「問われるまでもない。そのつもりです――と言い切れたら、締まりも良かったのでしょうがね。……どうやら私はここまでのようです」

 顔の上半分を覆い隠す兜のようなバイザーのトラウム、ラプラスの幻智を発動させながら、セフィは自虐的な笑い声を漏らす。
 自分はここで終わりだ――そう宣言する彼の面には、やはり諦念が浮んでいるものの、不思議と失意や落胆は感じられない。
自分自身に諦めと見切りを付けてはいるようだが、その口元には何故かうっすらと喜びが宿っているのだ。

 どうすれば、自分への諦めの最中に別な喜びを見出せるのかはわからない。
何をもって彼の喜びとするのかもわからない――が、彼は確かに未来へ期する希望を宿している。
 だからこそ、自分に見切りを付けたと宣言したときに含まれた自虐の笑い声が不似合いに思えてならなかった。

「私の視た未来に皆さんはいなかったんですよ。在るのは、世界の全てが緩やかに瓦礫と化していく恐慌と破滅の黄昏のみ――」

 薄く残した希望の正体を後に回したセフィは、まずはこれまでにラプラスの幻叡を通して視てきた予知を振り返り、
仲間たちから一斉に向けられる怪訝な眼差しへ応えることにした。

 セフィが視た未来とは、敗北の軌跡と言っても過言ではない凄惨なものであった。
 その中心で必ず重要なポジションを占めているのが、
エンディニオンで唯一ギルガメシュに対抗し得る勢力を誇るテムグ・テングリ群狼領である。

 テムグ・テングリ群狼領とギルガメシュはまさしくリアルタイムで行なわれているのと同じように
ラプラスの幻叡が見せた予知の中でもエンディニオンの覇権を賭けて鎬を削る闘争を繰り返していたと言う。
 本格的な武力衝突が幕を開けてからと言うもの敵の奇襲に翻弄されたテムグ・テングリ群狼領がギルガメシュの手玉に取られ、
完敗を喫する――この点も予知と現実とが確かに合致しているのだが、全てが予知の通りではなく、少しずつ誤差が生じてはいるようだ。

 テムグ・テングリ群狼領が大敗北を喫した決戦場からして、灼光喰みし赤竜の巣流ではなく、
エルンストの牙城たる本領ハンガイ・オルスであったとセフィは語った。
 セフィが視た未来では、ハンガイ・オルスを追われたテムグ・テングリ群狼領はいよいよ勢いを失速させ、
その後もゲリラ的にギルガメシュへの反抗を繰り返したものの、戦う度に大きな損害を出し、
やがてエルンストの率いる本隊までもが突き崩されて一族郎党に至るまで皆殺しの憂き目に遭ったそうだ。

 ラプラスの幻叡がもたらした未来を、自分たちが迎える未来に重ねて身震いしたマリスを落ち着かせるように、
セフィは「私の視た未来は不完全なものでしたよ」と静かに言い諭した。
 自分の視た未来を、?予防?の名のもとに強引に捻じ曲げてきた未来の姿を、セフィはたったの一言で全否定してしまった。

 これまでにラプラスの幻叡が見せた予知のビジョンの中には、アルフレッドたちは登場しなかったと言うのだ。
 保身の為にギルガメシュへ加担するだろう首脳陣を一網打尽にすべく潜入したルナゲイトで
アルフレッドの案じた連携技に打ちのめされ、敗北を喫するのも予期せぬハプニングであった。
 テムグ・テングリ群狼領と交流を持ち、その戦いに協力することになる未来さえラプラスの幻叡は予知してくれず、
そうした突発的な変遷が結び合わさった結果、エルンストたちは砂漠での決戦を思い至り、
ハンガイ・オルスでの全面対決は現実には起こらなかった。

 最初に予知した段階では歴史の表舞台に立つこともなかったアルフレッドたちが
結末へ向かう過程で種々様々に作用したことにより、
最後に待ち構える未来に変革があったに違いない――と続けるセフィ。
 だからセフィは自分を不完全だと詰ったのである。不完全なトラウムの視た不完全な未来に対して不完全な判断を下し、
不出来の浅知恵を働かせた結果、払わなくてよい犠牲まで増やしてしまったとセフィは締め括った。
 語る口元からは先ほど浮かべた喜びの色は掻き消えている。

 予知したビジョンから大幅に塗り替えられた現実は、例えそれがエンディニオンにとって良い方向へ向かっているとは言え、
セフィに深い絶望を与えたはずだ。
 それは、彼のこれまでの生き方だけでなく、未来の礎になると信じて犠牲にした全ての命を否定することに他ならなかった。


「――お待ちなさい、アルッ!」

 笑みはおろか生気をも抜け落ちたセフィに向かってヒューが口を開こうとした矢先、
鋭い一声が緊迫した場に割り込んできた。

 声のしたほうを見やれば、人質としていずこかに幽閉されている筈のルノアリーナとカッツェが額に汗しながら丘を登ってくるではないか。
 先ほどの声はルノアリーナのものである。
 ふたりの後には、どこかで合流したらしいニコラスと源八郎が続いている。
 ニコラスは徒歩の人間に合わせてガンドラグーンをバズーカ状態にシフトさせており、他の誰よりも面に流れる発汗量が多かった。

疲労のみならカッツェのほうが遥かに困憊しているが、彼の場合は既に汗が引き、顔は土気色になっている。
 日頃の運動不足が祟って息切れが激しく、息子たちの立ち尽くす丘の上へ辿り着いた瞬間、
大の字に倒れこんでしまった。とても妻のような声を張り上げることは出来そうにない。
 我が身を盾としてセフィの前に仁王立ちしたルノアリーナとは大違いの体たらくにシェインはジト目を向け、
フィーナも困ったように苦笑いした。ムルグに至っては汚物を蔑むような目でカッツェを見下ろしている。

 全く良いところのないカッツェと打って変わり、ルノアリーナの態度は毅然としたものである。
 ほんの少し乱れた息を整え、汗を拭ったルノアリーナはヒューたちの追及からセフィを庇うようにして両手を広げ、
「この人はあなたたちが考えているようなテロリストではありません」と彼の潔白を訴え始めた。

「エスピノーサさんはエンディニオンを守る為にたった一人で戦って来たのです!
未来を予知するトラウムを使い、私たちを含む全ての人の命の為に戦って戦って戦い続けて来たのです!
……筆舌に尽くし難い行為も、ときにはしたでしょう。けれど、邪悪な意思はそこにはありません! 
エスピノーサさんの信念を汲んで差し上げてください!」
「あの、母さん? ……待ってくれ、そのことは既にセフィから――」
「この方は私たちに全てを打ち明けてくださいました。自分のしたことを正直に話し、傷付くことを厭わぬ信念を語り、
いかなる罰をも受ける所存であると……! だから私たちはエスピノーサさんに協力することに決めたのです」
「……お前たちにも――ハァハァ――真実…伝えたいから――ゼェゼェ――協力してくれってな――ゴホッ――
……枯れた水脈に隠れたのも…その為だ――ゲボ…ッ!」
「隠れていたって……お母さんっ?」
「協力……!? 佐志の民が……でござるかっ!?」

 息も絶え絶えと言った声でルノアリーナの言葉尻を継いだカッツェにフィーナと守孝は、天地がひっくり返るかのような驚愕を受けた。
 佐志の住民たちはグリーニャの避難民やマコシカの疎開者も含めて人質として幽閉されていたのではなく、
セフィの告白に納得し、自分たちの意思で協力を承知したと言うのだ。
 同じ話を聴かされるとばかり思っていたアルフレッドも両親からの思いがけない言葉には驚きを抑えられず、
後続してきたニコラスと源八郎に確認のアイコンタクトを送った。
 ライアン夫妻と合流した際に他の住人とも話したのだろう。
二人の言葉が紛れもない事実であることをニコラスと源八郎は首を縦に振ることで証明して見せた。

「私たちはこの人の誇りを守る為にここに来たのです。私たちを守る為に決死の覚悟で戦ってくれたエスピノーサさんの誇りを、
今度は私たちが守りたい!」
「恩を返すって言うのは…そう言うことだと教えなかったか、アル――ゴッボ……ッ!」

 なおも自分を庇おうと息子とその仲間に対峙してくれるライアン夫妻を見つめるセフィの口元に再び微笑が宿っていく――
それは先ほどとはまた違った意味合いの喜びだ。
 未来を識り、未来が覆される可能性を識る者の超然としたものでなく人間らしい感情の発露だ。

「……こんなありふれた温もりを守りたかった」

 セフィの口から零れたほんの小さな呟きを聞き漏らさなかったヒューは、またも「本当に自己満足が好きだな」と毒づいて見せた。
 もしかしたら、その皮肉はセフィを当てこする為でなくライアン夫妻の気を反らす目的で放ったトラップだったのかも知れない。
 皮肉に反論しようと身構えたルノアリーナやカッツェの間を鋭敏な身のこなしですり抜けたヒューは、
守孝に代わってセフィの胸倉を掴み上げ、再び正面から仇敵と対峙した。

 慌ててヒューとセフィの間に割って入ろうとするルノアリーナを正面に回り込んだフィーナが阻止し、
「お母さんの気持ちはわかるけど、私たちが出る幕じゃないよ、ここは。
この決着だけはヒューさんとセフィさんのふたりでつけなきゃいけないんだ」と説得を試みる。
 カッツェの阻止にはアルフレッドが当たったものの、バテたまま動くに動けないでいる父が無茶をやらかすとは到底思えず、
むしろ深刻な運動不足を心配してやる有様であった。

 カッツェは言うに及ばず、娘の説得を受け入れたルノアリーナもヒューとセフィの決着に水を差す真似は控えようと決めた様子だ。
気遣わしげにセフィとヒューを見守りながら、彼女はフィーナに促されてふたりから離れていった。
 カッツェがその場に放置されたのは、前述の通り、どこにいても障害にはなるまいと判断された結果だ。

「答えを訊いてねぇよ、特攻野郎。結局、どうするってんだ? この先も同じこと繰り返そうってのか?」
「ヒューさんともあろう方が聞き逃すなんて珍しいこともあったもんですね。先ほどお伝えしたものと私は記憶していたんですがね」
「……はぁ? いつだよ?」
「不完全な私にはここまで――そうお答えしたではありませんか」
「………………」

 前言を覆すようでみっともないのですけどね――と前置きしたセフィは、改めて「自分はここまでだ」と繰り返した。

「自分のしたことを誇りに思っていますが、だからと言って犯した罪が消せるわけではない。
何の礎にもならない犠牲をいたずらに増やすような大罪人ならなおさらだ」
「………………」
「犯した罪は罰せられねばならない。どんな理由であれ悪事に手を染めれば相応の報いが待っていることを
身をもって証明しなくては、私は自分のしたことに意味を見失います」
「……てめぇ……」
「……因果応報の理を遵守し、我が身をエンディニオンの天地に捧げることが、ジューダス・ローブに出来る最期の仕事です」

 “最期の仕事”。
 その言葉の意味するところを読み取ったヒューの瞳に再び逆巻く紅蓮の如き怒りが熾った。
 セフィの面からはライアン夫妻の心遣いに触れたことで浮んだ人間らしい感情は既に消え失せており、
因果応報の理を遵守するとの言葉にはこれまでで最も強い諦念が滲んでいる。

 生きる意志を手放した者にしか持ち得ない幽鬼さながらの薄ら笑いを満面に浮かべたセフィは、
自分の胸倉を掴むヒューの手を取り、その掌を首へと誘った。
 セフィのその行為、その指先から伝ってくる?とある意思?にますます怒りを昂ぶらせたヒューは、
“最期の仕事”として望まれた通りに彼の首を片手で締め上げた。
 強烈な腕力で首を締められたセフィの身体は空中に吊り上げられ――

「そんなにお望みなら落とし前をつけてやらぁッ!!」

 ――それから宙を舞っていた。
 無抵抗のままに地面へ叩き付けられたセフィの右頬が赤く腫れ上がっている。
 絞首に処されて終焉する末路を受け入れていたセフィは、
今まさにやって来るものと想像していたその瞬間が掠りもせず通過してしまったことに呆然とし、
頬に走る鈍痛にも気付けていなかった。

「……ありがとよ、この特攻野郎。てめぇのお陰でこの上なく胸糞悪ィ思いが出来たぜ」

 呆けたようにその場にへたり込んでいるセフィの胸倉を再び掴み上げ、そう言い放ったヒューの右の拳は、
炎症でも起こしているかのように少しだけ赤くなっている。
 そこでようやく自分の右頬に鈍痛が起こっていると気付いたセフィは、
胸倉を掴んでいる彼の右拳の色とジンと響くような右頬の痛みとを照らし合わせ、ヒューの言う“落とし前”が何なのかを悟った。

 悟ったからこそ、「こんなことじゃ贖罪には足らないし、見せしめにもならない」と、狼狽気味にヒューへ噛み付いたのだが、
彼はそれを取り合おうともせず、訊く耳持たないとばかりにセフィを突き飛ばした。
 胸倉を締め上げていた力が無くなり、あまつさえドンと胸元を突き押されて重力に従ったセフィを見下ろすヒューの瞳には、
今もって怒りの色が浮んではいる…が、しかし、侮蔑や嫌悪の類は全く見られない。
 憎んで余りある仇敵に冷蔑を浴びせるのでなく、醜態をさらした友人を叱っている…と言い表すのが相応しい感情(かお)であった。

「勘違いするんじゃねーぞ、今のは礼なんかじゃねぇ。……世界中の人間に手前勝手な自己満足を押し付けやがってよ。
クソみてーな思い上がりだけがお友達ってのを忘れるんじゃねーっていう皮肉だ、バカめが」
「ヒュー…さん……」
「そこで勘違いしたみたいな声出すなっつってんだよ。俺っちはてめぇを許しちゃいねぇんだぞ。
てか、一生、許しちゃやんねーよ。……許されるわけねーって、お前もわかってんだろ?」
「………………」
「――けどよ……腹ぁ立つけど、なんだかんだ言って、俺っちらはダチなんだよ。
許せねーって気持ちもそりゃあるけどよ……でも、やっぱこればっかりは切れそうにねぇんだわ」

 掛けられた言葉の意味を噛み締めるかのように口元を震わせ、沈黙の思考に耽っていたセフィの右腕を掴み、
強引に引っ張り上げたヒューは、最後にそう言い放って彼に背を向けた。
 ポケットから新しいシガレットを取り出して灰色の煙を燻(くゆ)らせるその横顔は、
紫煙と共に穏やかな笑気を漂わせているようにも見える。
 一仕事やり遂げた表情でカラリと笑っているに違いないヒューの面を瞼の裏に思い描きながら、
セフィは彼の背中に向けて深々と頭(こうべ)を垂れた。
 彼の言ってくれた「ありがとう」に、自分の「ありがとう」を重ね合わせて、静かに頭を垂れ続けた。

 あるいはそのやり取りこそが、長きに亘って繰り広げられたヒュー・ピンカートンとジューダス・ローブの迎えた、
正当なる決着であったに違いない。
 ふたりの決着を見届けたアルフレッドたちは、皆が皆、互いに顔を見合わせながら安堵の溜息を吐いていた。

「ヒューに先を越されたが、俺たちにも?落とし前?とやらをつける権利があるんじゃないか? なあ、セフィ?」

 そんなことを言いだしたのは、意外にもアルフレッドである。
 この場にいる殆どの人間は、ジューダス・ローブと浅からぬ因縁を持っている。
ジョゼフに至っては、命を狙われもしたのだ。成る程、“落とし前”をつける権利があると言えよう。
 意外な人物の意外な発言に驚きこそしたセフィであったが、
彼自身、仲間たちをテロに巻き込んだことを何らかの形で償わなければならないと考えていた為、
むしろアルフレッドの提案は願ってもない機会だった。
 きっとヒューと同じ手段をもって“落とし前”をつけるつもりなのだろう。
セフィの返答を待つ間、アルフレッドは両拳をバキバキと鳴らしている。

「……ジューダス・ローブとしての“最後の仕事”ですからね」

 そう言って両手を広げたセフィは、これから全身くまなく刻まれるだろう鈍痛へ思いを馳せ、口元を引き締めた。
 これは?落とし前?なのだ。自分と仲間たちにとって、再び肩を並べる為の大切な通過儀礼なのだ。
 拳一つで罪の全てが許されるとは考えていないが、仲間たちがこの決着を望んだのである。
拒む理由などどこにあろう。否とできる権利がどうしてあるだろう。
 全てを受け止める覚悟を決めたセフィは、だからこそ『落とし前』を甘受せんとする意思を、両手を広げることによって表したのだ。

 アルフレッドの拳はヒューに腫らされたのと反対の左頬へ打ち込まれた。
 手加減も容赦もなく――けれども悪意もない。まさしく“落とし前”をつける為の一撃だった。
 さすがに体術の使い手だけあってヒューに殴られたときよりも遥かにダメージが大きく、
脳をシェイクされるような感覚にセフィは意識をも飛ばされかけた。

「ほなこれで恨みっこなしや、セフィ。ちゅーても、ワイはハナっからセフィを恨んでおらへんけどな。
……恨むんと違(ちご)うて尊敬しとるくらいやで、ほんま」

 ハーヴェストを抱いているから拳が使えないと言う理由で蹴りによる“落とし前”を望んだローガンも
セフィは甘んじて受け入れた……のだが、思いっきり助走をつけてのドロップキックは
二人分の体重とあいまってさすがに強烈で、危うくグロッキーしそうになった。

 体術に慣れた師弟コンビの攻撃によって意識を大きく削り取られたものの、
贖罪を決意したセフィは不屈とも言うべき強靭な精神力を振り絞って持ちこたえ、
「私の身を案じるのなら、躊躇うことなく罰を下して欲しい。今の私たちにとって最も必要なことは、
互いを縛るこの蟠りを拭い去ることです」と次なる“落とし前”を仲間たちに呼びかけた。

 ……結果から言えば、セフィのこの選択は大きな誤りであった。
 犯した罪と下される罰へ立ち向かおうとする真摯な姿勢や高潔な意思は確かに尊崇に価する。
ところが、彼は“落とし前”にこだわるあまり、とてつもなく重大なことを失念していたのだ。

「失礼いたしますね、セフィ様。……申し訳ありませんっ!」
「くれぐれもマユには言うでないぞ? お前を殴ったなどと知れたら、一生、口を利いてもらえなくなるでな」
「ハッハッハ――セフィ君は、とびきりの二枚目だからね。いや、ブッ飛ばし甲斐があるよ。
ハンサムって生物は、これ、世の男には無条件で敵だからね」

 失念を見落としたまま、セフィは“落とし前”を続けていく。
 タスクに平手打ちされ、ジョゼフに拳骨を落とされ、ついでとばかりにラトクに踵落としを喰らわされ、
目の前に星が飛び散るようなダメージを被った瞬間(とき)、初めてセフィは大き過ぎる失念に気付いた。

(……あと何人続くのか――私、保たないかも知れない……)

 そう――自分たちのチームは、途方もない大所帯だったのである。
 しかも、だ。一人ひとりが腕に覚えありと言う猛者揃い。そんな連中から順繰りに一撃されていったら、
待ち受けている運命は、最初に覚悟した“最期の仕事”とさして変わりそうにない。
 とは言え、今になってルールを変えて欲しいと言い出せるハズも無く、
比較的ダメージの低いネイサンとトリーシャの“落とし前”を受け止めながらセフィは自殺行為にも等しい選択の正否を自問していた。

(……選択を誤った……)

 見れば、アルフレッドやヒューと言った先に“落とし前”を終えた人々は、
神域に居(お)わすイシュタルへ祈りを捧げるかのように胸元で両指を組んでいる。
 見間違えるものか。あれは葬儀にて行なわれる死者への弔いだ。
そうやって祈りを捧げるアルフレッドたちが微妙に半笑いなのもセフィは見逃さなかった。
 自分の心中を言葉にせずとも察してくれる仲間たちが嬉しくもあり、同時に恨めしくもあった。

「さすがに鉄のグローブでブン殴るのは気が引けるしなぁ……。ハンデ戦ってコトで行かせてもらうぜ」
「ハンデって……、ど、どうして助走を――」

 アルフレッドを真似たと言うニコラスのローリングソバットでこめかみをぶち抜かれたセフィの意識は本格的に混濁し始めた。
 そのセフィを現実に引き戻した上、更なる絶望を与え、抗い難い深い闇へと誘ったのは、シェインのこの一声だった。

「一回一回やってると、なんかリンチしてるっぽいよな――よっしゃ! ここはスカッと全員で一斉に行こうぜ! 
一発で終わったほうがセフィだって楽だろ?」
「なッ!? ど、どう言う根拠で言ってるんですが、シェイン君――」

 シェインの呼びかけに応じたフツノミタマやルディア――“落とし前”をまだ終えていない人々が一斉にセフィへと殺到し、
彼の視界を無数の足の裏が視界を覆い尽くした。




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