8.Dynamite advertising baloon


 佐志の一党がハンガイ・オルスへ入ったとの報告をもたらされたとき、
エルンストの姿は、将兵が武技の稽古を行う練兵場にあった。
 手ずからこさえた弓矢の試射を愛息のグンガルとふたりで行なっているところだったのである。
 そうとは知らず、佐志軍到着の報を携えて練兵場に駆けつけたカジャムは、
彼女の姿を見つけるなり感情を消したグンガルとの間に微妙な空気を垂れ込めさせたのだが、
試射に居合わせたデュガリから渡された矢を弓に矢をつがえ、正面の的へと意識を集中させるエルンストは、
愛息と恋人の緊張状態にもまるで気付かなかった。

 露になった上半身には大量の汗が付着しており、感覚を掴むまで何度も試作の弦を引き絞っていたことが窺える。
 全身を固めるしなやかな筋肉には一切の無駄が見られず、筋骨隆々と言うよりもむしろ痩身に近い。
城壁もろとも寸断せしめるような極大の刀剣をどうやって操っているのだろうと我が目を疑ってしまうほどの痩身だが、
脈動する筋肉は鋼鉄よりも硬く、内在する筋力はクリッターの頚椎を一ひねりにしてしまうほど凄まじいものだ。
 この強靱な肉体でもってエルンストは豪刀を手足のように操っているのである。
 極限的な全身運動を強いられる実戦を、三十余年の生涯に於いて既に千回以上経験しているエルンストならではの肉体だと言えよう。

 この稀代の英傑は、文字通り我が身一つでテムグ・テングリ群狼領を常勝無敗に導いてきた。
 常勝無敗の名声を完全なものとする道程には、父の死に端を発する親族の内紛を挿むのだが、
豪刀を片手に最前線に斬り込み、誰よりも激烈に戦うことで将兵を鼓舞する威容は、首座に就く前から少し変わっていない。
 だからかもしれない。テムグ・テングリ群狼領の将兵たちは、誰もエルンストが闘争のことで気落ちする姿を見たことがない。
正確には想像だって出来ない。
 局地的な戦闘で敗れても「勝敗は兵家の常。次の勝機を見逃さなければ一勝譲るのも構わぬ」と豪胆に言ってのけ、
実際にその言葉を実現させるのがエルンストと言う大将であった。

 その点で言うなら、試射で放った矢を的から大きく外してしまい、
苛立ちを舌打ちに変えて発露させる姿は、希少どころか天変地異の前触れと思われてもおかしくなかった。
 苛立ちが頂点に達したのか、八つ当たりよろしくやおら掴んだ矢の束をへし折ってしまう姿など、
世の全てを諦観しているかのような泰然とした態度を何時も崩さない彼にはおよそ似つかわしくない。
 端的に言うなら、エルンストが駆られているのは敗戦への悔しさである。
 諸将の前でこそ平然を装っていたものの、常勝無敗を貫いてきたテムグ・テングリ群狼領が、
どこの馬の骨とも知れぬような相手にさんざんに打ち負かされ、
一敗地に塗れた事実にエルンストは誰よりも怒りと恥辱、悔恨と焦りを覚えているのだ。
 幸いにして試射の場に居合わせたのは、父と共に修練するグンガルと、彼らが射る矢の支度を整えるデュガリ、
それからアルフレッド到着を耳打ちしたカジャムのみ。
 大将の器量を疑われかねない姿が外部に漏れる心配は、今のところ必要なさそうだ。

 恋人として常に傍らに控えるカジャムも、彼が幼い頃から従っているデュガリもこうした荒れ方には慣れているらしく、
苛立ち紛れに振り絞り過ぎて弓の弦を切ってしまうエルンストを目の当たりにしても、さして驚きはしない。
 リアクションと言えば、顔を見合わせて「また始まった」と苦笑いするくらいだった。
 当然、グンガルも父の気性を理解しているのだが、さりとて他のふたりのように割り切って考えるのは難しい様子である。
父の癇癪を見せ付けられて、心穏やかでいられる子のほうが珍しかろう。
 エルンストもエルンストで、この場にグンガルが居なければ、
喉が嗄れるまで、血を吐くまで、天をも貫かんとする怒号を吼え続けていたことだろう。
 デュガリやカジャムと言った?素の自分を知る人間が見守っているからこそ、
衆目に晒すことを憚るような激情を思う存分に発露させられるのだが、最後の一線は、父としての矜持で堪えたようだ。


 弦の切れた弓を握り締めたまま佇むエルンストの双眸は、太陽よりも熱く燃え盛っている。
 燃え盛る激情は紛れもない怒りであり、明鏡止水を常とする平素の状態へ戻るにはまだまだ時間が掛かりそうに見える。
 当然だ。熱砂の合戦における敗北は、これまでの敗北とは訳が違うのである。

 この戦いによってあと一歩に迫っていたエンディニオンの覇権がギルガメシュ側へと大きく傾いた。
 そう――エルンストは、エンディニオンの覇権争いに敗れた恰好なのだ。それも無残な完全敗北と言う形で。
 テムグ・テングリ群狼領に属する全ての者の夢とも言える覇権を横取りされたことには、
もちろん腸が煮え繰り返っているが、それ以上の懸念は完敗を喫した事実である。
 このまま面子を潰されたままでいるつもりはない。被った泥は自分の手で拭ってみせる。
その覚悟をエルンストは既に決しているのだが、逆襲が成る前に?完敗を喫した事実?が一人歩きし、
領内における反乱へ繋がることは、テムグ・テングリ群狼領にとって重大なダメージだ。
 いかに善政を布こうとも、武力侵略を行なっている以上は少なからず恨みを買うものであり、
それこそがテムグ・テングリ群狼領唯一の弱点である。

 ブンカンに勝るとも劣らない軍師をギルガメシュが擁している以上、
情報工作や煽動によってこの脆弱性を突いてくるのはまず間違いない。
 テムグ・テングリ群狼領内に於いても、ある程度は勢力図が塗り変わることを覚悟しなくてはならないが、
さりとて大軍団を率いてギルガメシュと争乱(こと)を構えている以上、反乱鎮圧に兵を回せる余裕もない。
 ここが難しいところである。反乱を防げなければ連合軍の士気が下降するのは明白であるし、
そうなった場合、テムグ・テングリ群狼領の権威は、成す統べもなく凋落するだろう。
 例え、裸一つになろうとも、どん底から這い上がる気概がエルンストにはあるものの、
さりとてテムグ・テングリ群狼領の氏族、同朋を路頭に迷わせるわけにもいかない。
 守るものが多くなればなるほど、個人の気概だけではどうにもならなくなるものなのだ。
 だからこそエルンストは昂ぶり、荒れ狂い、自嘲を止められないのである。

 もう一つ厄介なのは、ブンカンをもってしても形勢を逆転させ得る秘策を練り上げられないと言うこと。
 ギルガメシュへの反攻を押し進めつつ、反乱の芽を摘むと言う一挙両得の計略を献策するよう命令されたブンカンではあったが、
熱砂での敗戦から大勢を立て直せてもいない状態のテムグ・テングリ群狼領にとって、それはあまりにも無茶な要求だった。
 さしものブンカンも考えあぐねて沈黙するしかない。


 面白からぬ状況を振り返ってしまったことで、エルンストの苛立ちは尚更に火勢を強めたのだが、
カジャムは絶妙とも言えるタイミングを見計らって彼にアルフレッド到着を耳打ちし、
その瞬間、弓のグリップから起こっていた軋み音がピタリと止んだ。

(存外に早かったな――いや、遅い。里心がついたなら電話で済ませば良いものを……)

 心中にていくら悪態を吐いてみたところで、アルフレッド参着の報へ口元を綻ばせては説得力も何もあったものではない。
 攻勢も守勢も八方塞になっているところにアルフレッドが駆けつけてくれたことは、
エルンストにとって十万の援軍を得たのに等しい心持ちなのである。
 ハンガイ・オルスへの退路にてアルフレッドたちが隊伍より離脱したと聞いたとき、最も残念がったのがエルンストであった。

 自分の目で確かめたもの、風聞により伝え聴いたものも含めて、
エルンストは彼が謀った軍略の殆どを周知していたが、その見事な采配にはいつもながら感心させられている。
 実戦経験の皆無な山村の民を指揮して手馴れたゴロツキを追い散らしたこと、
地形を利用して佐志の人々を戦火から逃した機転、
人海戦術を発揮してリーヴル・ノワールの探索を快速に済ませたこともエルンストの耳に入っている。
 伝説的な戦法を復古させた先の海戦などは、本領発揮であると膝を打って喜んだものだ。
 誰にも思いつかなかった奇策を何度となく案じてきたアルフレッドのこと、今回もそれを期待できるだろう。
 聴くところによると、ゼラールとのやり取りを通して完全に本来の調子を取り戻しているらしく、
謀略の冴えにも本復を望めるに違いない。
 ブンカンと意見を競わせるのも良い。文殊の知恵とは行かないものの、
知恵者ふたりが競って磨き上げる戦略には形勢を逆転し得る力が宿るとエルンストは確信していた。

 そう思うとにわかに気分が昂揚してくるのだから、人間とはゲンキンなものだ。
 戦場を生き甲斐とする彼には、戦意の昂揚こそが塞いだ気持ちを晴らす何よりの特効薬なのである。

「少しはご気分が晴れたようですな。なによりなにより」
「む……」

 カジャムの報告には、出来る限り、素っ気無く答えたつもりだったが、デュガリにはそのことをすっかり見透かされていたようだ。

「そこまで買っておられるなら正式に軍師として召し抱えればよろしかろうに。……尤も、自分はお役御免かとブンカンは拗ねるでしょうが」

 そのように冷やかしてくるデュガリに言われるまでもなく、アルフレッドさえ応じればすぐにでも召し抱えたいとエルンストは考えている。
 佐志の一件で興味を持って以来、ことあるごとに仕官を誘いかけていることからもアルフレッドに寄せる期待の大きさが窺い知れよう。

 カジャムの差し出した手ぬぐいで軽く汗を拭いたエルンストは、着替えもそこそこにアルフレッドの待つ謁見の間へ急いだ。
 このとき、カジャムはグンガルにも手ぬぐいを差し出していたのだが、彼は受け取ることを他人行儀に断り、
またしても両者の間に微妙な空気が流れたのだが、エルンストはそのことにも気付いていない。
 デュガリの溜め息を背中に感じたものの、昂揚に取り憑かれている今は、それすらも反論に値しない瑣末なことのように思える。
 ここまで気を持たせたのだから、未だに不貞腐れた表情(かお)を提げていたときには、
鉄拳制裁でも加えて力ずくで目を醒まさせてやろう――そう考えながら謁見の間に足を踏み入れたエルンストだったが、
どうやらその気遣いは杞憂の内に終わったようだ。


 簡素な木製のテーブルが設えられた謁見の間でエルンストの到着を待っていたアルフレッドは、
初めて対面した折と同じように落ち着き払っており、先の合戦で晒した醜態など見る影もなかった。
 謁見の間にやって来た四人を一礼で迎えるその瞳にも少しの濁りとて見られない。
 端然とした態度も、涼しさの中に熱い情熱を輝かせる赤い瞳も、まさしくアルフレッドの心が澄み切った証しであった。
 アルフレッドのコンディションへ大いに満足したエルンストは、「これで役者は揃った」とますます戦意を昂揚させ、
目を細めながら満足げに頷いて見せた。

 エルンストの癇癪を免れたアルフレッドではあったが、だからと言って面持ち自体はそれほど穏やかなものではなかった。
 いや、穏やかならざると言うオブラートに包んだ言い方ではフォローしきれないほどに苦みばしっている。
早い話が機嫌は最悪に近かった。

「道中、何事か不都合があったのか? それとも我が軍に与するが不服か?」
「不服などあるはずもない。……不服はないのだが……」
「俺が同席してんのが気に入らねぇんだろ。こんな場所で出くわすなんざ夢にも思ってなかたろーしな。
プラス、エルンストのおっさんがオレと関わり持ってるってのも気に入らねぇんじゃねーの」
「………………」

 訝ったデュガリが尋ねても歯切れ悪く答えを濁すばかり。
 そんなアルフレッドが仏頂面を作る理由を本人に代わって答えたのは、
謁見の間にて彼と共にエルンストの到着を待っていた一人の青年である。
 この世の全てに因縁を付けているかのような三白眼と、頭部の半分を覆い隠す大きなヘッドギアが特徴的な青年だが、
エルンストを?おっさん?呼ばわりするあたり、テムグ・テングリ群狼領で禄を食む将士ではないようだ。
 機嫌を損ねる原因とやらに自分が含まれているにも関わらず、青年はあっけらかんとした口調でエルンストに説明してやった。
 無作法にもテーブルへ尻を乗せて胡坐を掻くこの青年が何かを口にする度、
アルフレッドの眉間に刻まれる皺の数が増え、これ以上悪くなりようのない筈の機嫌が更に剣呑さを増していく。
 誰かを忌む感情は底を知らないと言うことであろう。

「……夢にも思わない? 当たり前だろう。そもそも貴様がなぜここにいるのか、俺には理解に苦しむな。理解したいとも思わないが」
「カッ――相変わらず口の減らねぇガキだな、てめぇはよ。エルンストのおっさんがオレらの得意先ってだけだ。
そんなことにまで口出せるほど偉ぇのか、てめぇはよ。えぇ、負け犬野郎が」
「女神は人の上に人をお創りにはならなんだが、模範的に生きている人間の弁には相手を非難できるだけの説得力と言うものが宿る。
その説得力をもって俺は貴様に退席を要求しよう」
「七面倒臭ぇんだよ、てめぇはッ! ……説得力がなんだって? てめぇの妄想なんだ知るかよッ! 
第一、非難される覚えはねーぞッ!? なんだコラ、冤罪かァ!?」
「冤罪? 無理矢理、自分の知っている法律用語を使わなくて良いんだぞ。無学が博識を気取ってもボロが出て惨めになるだけだ」
「お次は判事気取りかよ? ラクだよな、難しそうなことを言ってりゃ頭が良く見えるんだもんよ」
「貴様のようなアウトローに法的な裁きをくれてやるのは俺たちの仕事ではない。判事を気取ったのでもない。
単純に目障りなだけだ。ただそれだけの話を、よくもまぁそこまで曲解できるものだな。
被害妄想の塊のような人間を大事な話し合いの場に同席させるのは危険が過ぎる。尚更、強く退席を要求するとしよう」
「言わせておけば……ンのガキィ……ぶっ殺すッ!」

 剣呑な雰囲気のまま、言い争いになるのも無理あるまい。
アルフレッドが謁見の間へやって来たときにテーブルに腰掛けていた無作法な先客とは、
イーライ・ストロス・ボルタその人だったのである。
 因縁が深いなどと言うレベルではない二人が顔を合わせて口論で済んだのは、寧ろ奇跡と言っても良い。
 アルフレッドにとって、イーライは色々な意味で二度と遭いたくない人間だった。

 アルフレッドの率いるチームも、イーライのパートナーであるレオナも、ハンガイ・オルス内に設けられた控室で待機しており、
それが為に謁見の間には、ストッパーの役割を果たせる人物がいない。
 居合わせるデュガリもカジャムも二人のいがみ合いへ対処するのに適した言葉を持たず、
二言三言、気休め程度に制止の声を掛けるものの、殆んど傍観を決め込んでいる。
 グンガルに至っては、以前から興味を抱いていたアルフレッドの力量を見極める好奇と見なしており、
イーライとの直接対決を望んですらいる。
 これが事態を拗れさせた。

「両人とも静まれ。イーライは確かに俺の依頼を受けてこの場に参じたのだよ、アルフレッド。
メアズ・レイグには領内の情勢を調査するよう依頼した。今日はその報告だ。
……それにな、イーライは先の合戦にてカジャムの窮地を救ってくれたのだ。レオナにはザムシードが救われた。
ふたりは、テムグ・テングリの大恩人なのだ」
「……むぅ……」
「……イーライよ、アルフレッドはお前と同様に我が朋友だ。そして、今後の戦局を左右する要でもある。
更に言うなら、船旅の拠点でもある佐志を敵に回すのはお前の稼業にも益とは言えまい」
「……そりゃ、まぁ、な……」
「互いに浅からぬ因縁があるようだが、ここは俺の顔に免じて鉾を収めてくれ」

 見かねたエルンストが自ら取り成さねば、取っ組み合いの喧嘩を始めていたことだろう。
 エルンストに?俺の顔に免じて?とまで言わせては、さすがに両者とも引っ込まざるを得ず、
どちらともなく胸倉を掴んでいた手を離した。
 一先ず角を引っ込めた両名であったが、その後も互いを尻目にする眼光は鋭く、剣呑なままだった。
 完全な和解が不可能だと見て取ったエルンストは、それ以上の妥協を要求することはなく、
アルフレッドとイーライ、双方の発言を待つことに決めた。
 決めるや否や、口出しする気がないとでも言うかのように先ほど弦を切ってしまった弓の修繕へと取り掛かっている。


 デュガリから敗戦の影響など調査の報告を促されたイーライは、ポケットから取り出した黒革の手帳のページを開き、
そこに書かれているメモを確認しながら老将の問いに答え始めた。

「ハンガイ・オルスの周辺は問題ねぇ。ってか、自発的に武装してるくらいだから、むしろボルテージがアップしてるって言えるぜ。
ただ、おっさんのお膝元じゃねぇ飛び領の状況は芳しくねぇよ。みんなボロ負けに動揺していらぁ。
忠誠心の強い地域は負けたことにただ絶望してるだけだが、無理矢理屈服させたようなところは要注意だ。
それ見たことかっつって今にも独立運動が勃発しそうな雰囲気だよ。ギルガメシュに取り入ろうとする動きもチラホラ出ていやがる。
そこらへんは代官の連中から連絡入ってるだろーがな」

 直情径行の強いカジャムは、領内の様子を聞くなり「恩知らずもいいところよ! 誰がアウトロー共から庇護してやってるのかしら!?」と
怒号を張り上げている。決して表には出さないものの、これにはグンガルも密かに賛同していた。
 予想していた以上に敗戦の落とした影は大きく、深刻だったらしく、デュガリも皺くちゃだらけの顔を更に顰めて呻いている。
テムグ・テングリ群狼領へ一方ならぬ思いを寄せるアルフレッドとて、この事態には表情を沈ませた。

「特に『ワヤワヤ』はのっぴきならねぇ状況だな。俺らもこの目で確かめたわけじゃねーが、
銃器はもちろん爆薬もかき集めてるみてぇだ。……領事館でも襲うつもりじゃねぇか?」
「マズいな――ワヤワヤは我らの生命線とも言うべき要衝。万が一、敵のもとに下ろうものなら我らの足元は一挙に危うくなる」

 そう漏らすデュガリの顔は、幾分、蒼褪めている。
 『ワヤワヤ』とは、エンディニオン北西に位置するキアウィトル地方の、そのほぼ中央にある農村だ。
 郊外に肥沃な農地を擁し、そこで育まれる穀物は、テムグ・テングリ群狼領にとって大きな財産である。
 テムグ・テングリ群狼領が最大規模の遠征を行なった際に斬り従えた場所だが、
支配下に入ってからは代官にも従順であったし、エルンストにしても圧政を布いた覚えはなかった。
 それどころか、特別に目を掛け、穀物供給の特権として他より税率を下げる措置すら与えていたくらいだ。
 ギルガメシュ襲撃時も敵軍に占拠されることを危惧して相当数の武器を運び込んだのだが、
イーライの報告が確かなら、その配慮が裏目に出たと言って良い。

 飼い犬に手を噛まれたと言う諺そのままの裏切り行為には、カジャムもデュガリも肩を落とした。
 報告をしたイーライ本人はこのことを全くの他人事とでも割り切っているのか、さして感心も無さそうだ。
エルンストの前に広げた弓の修繕道具をしげしげと観察するばかりで、落胆する気配すら見られない。

 イーライから好奇の視線を向けられるエルンストの表情にも変調はなかった。あくまで表向きには、だが。
 涼しげな表情(かお)で弦と弓とを接合しているものの、
この報告が領内の不協和音を懸念する彼に大きなショックを与えたのは間違いなく、
おそらく謁見の間を辞した後には再び荒れに荒れることだろう。

「離れた人心を再び引き戻すには、テムグ・テングリ群狼領の武威を知らしめる必要があるな」

 イーライの報告へ瞑目しながら耳を傾けていたアルフレッドは、デュガリの溜息が収まり、
室内が静けさを取り戻すのを待ってから、そう口火を切った。
 「あんたに言われるまでもないわよ!」と激昂するカジャムを、片手を挙げて制したエルンストは、
小さく頷いて話を続けるよう促し、アルフレッドもこれに応じる。

「まず、口幅ったい言い方になることを先に謝っておきたい。
その上で具申したいのは、テムグ・テングリ群狼領の支配体制に限界があることだ」
「ちょっとッ! 言うにこと欠いて私たちを侮辱するつもりッ!?」
「俺は事実を述べているのみだ。暴力による屈服は、一時的にこそ成功を見たとしてもそれを永年維持し続けるのは極めて難しい。
以前の状況から治安を回復させるなどして完全に懐柔したのならまだしも、
統治者の首を挿げ替えただけで変化に乏しければ恨みを残すだろう。
……残った恨みは、暴力によって支配されていると言う強迫観念を生み、
その恐怖はやがて反抗心を生む。そこに暴力による支配の限界がある」
「そうした負の感情を取り除く為に、我らは出来得る限りの善政に努めてきたつもりだったがな。
食うに困る搾取は厳しく戒めてきたし、最低限のものを除いては我らの法とて押し付けてはいない。
本領の者や氏族に禁じているトラウムですら、使用を許可している。
カジャムの言う通り、無法者の掠奪から庇護しているのも我らだ」

 激怒するカジャムに比べれば控えめな口の挿み方をするデュガリではあるものの、
アルフレッドの意見に思うところがある様子で、語気にも本気で反対するような強さを宿してはいない。

「十年百年と統治が成されていたなら、あるいは結果が変わったかも知れない。
本領とかお膝元とか関係なしに鉄の結束力を発揮してギルガメシュを包囲できただろう。
……だが、テムグ・テングリ群狼領の配慮と精神が浸透するのを、時代は待ってはくれなかったようだ」
「……浸透、か。民族浄化でも行なえと言うのか、アルフレッド?」
「戦略的、政治的に見れば民族浄化も立派な策だ。それがエルンストの意に適うものであれば、だが」

 だからこそ、アルフレッドに痛いところを指摘されても瞑目するのみで反論を唱えはしなかった。
 彼の指摘は、エルンストの側近であるデュガリ自身が最も自覚するところであった。

「先ほど武威を示せと俺に言いつけたが、まさか、焚き付けるだけ焚きつけておいて、後は知らん顔をするわけではなかろうな?」
「それこそ?まさか?と言うヤツだ。……俺には果たすべき復讐がある。それはまだ果たされていない」
「その復讐を果たす為に俺たちを利用するのか、アルフレッド」
「いや――共に手を取り合って戦って欲しい。俺が貴方たちに望むのはそれだけだ」

 故郷を焼き討ちされ、親友を惨殺され、妹を誘拐された恨みが消えたわけではなかろう。
暴走を止めただけで復讐の念は今も心の最も深い場所に根付いているに違いない。
 しかし、恨みに駆られて忘我すると言う醜態は二度と起こすまい。
 自分を真っ直ぐに見詰めてくる澄み切った瞳にエルンストはそのことを改めて確信した。


「……良いだろう。お前の策をここに披露せよ」

 デュガリを通さずエルンスト本人に献策を求められたアルフレッドは、意気込みを表すかのようにわざわざ起立した上、
脇に抱えてきた世界地図――船上にて源八郎と見ていたものだ――を勢いよくテーブルに広げた。
 地図には軍の配置等を示した走り書きがびっしりと書き込まれており、この献策に賭ける彼の熱意が伝わってくるようだ。

 初めてアルフレッドから直に献策を受けるエルンストは、この瞬間を待っていたとばかりに期待で瞳を輝かせている。
 修繕を行なっていた弓を放り出し、アルフレッドと向き合う恰好で地図を覗き込むエルンストの唇は、
沈着な彼にしては大変に珍しいことなのだが、興奮する余り、小刻みに震えていた。

「この計略の肝心要は『三陣』の奥義を束ねられるかどうかにかかっている。つまり――」
「――裏でこそこそ動き回っていて、どうして武威を示せるって言うんだ。必要なのは自ら剣を取ることじゃないのか?」

 ……だが、アルフレッドの献策は、背後より割り込んできた第三の声によって打ち消されてしまった。
 何事かと振り向いた先でアルフレッドを見据えていたのは、フェイである。
 いつの間にやって来たのかは知れないが、彼もまたアルフレッドやイーライ同様に仲間を連れておらず、
一人きりで謁見の間の入り口に仁王立ちしていた。

「……フェイ兄さん」

 思いがけず献策を遮られたアルフレッドだが、そのことに気を悪くすることはなかった。
 と言うよりも、強烈な違和感に揺さぶられ、気を悪くしている余裕もなかったと表すほうが正しい。

 部屋の入り口から差し込む逆光の影響で完全には確認できないものの、
フェイから向けられる眼差しはこれまで見たことがないほど冷たく、明らかな軽蔑を孕んでいる。
 公明正大を体現する英雄がこのような醜い眼差しを持っていたことに驚きを禁じ得ないし、
何よりも敬愛する兄貴分から蔑視を受けるなど夢にも思っていなかった。
 アルフレッドの知るフェイは、いつだって朗らかな笑みを称え、白刃を乱舞させる戦場でも正義の体現に努める傑物であった。
 全てのものへ真っ直ぐな姿勢を貫くフェイは、その信念を浄化の剣として遍く獰悪を断ってきたのだ。
 エンディニオンから全ての穢れを祓ってきた筈のフェイが、英雄たるその人が、
まるで返り血で錆び付いた刃のように我が身に醜悪な感情を纏い、自分を見下しにかかっている。
 驚きを発端とする違和感は冷たい衝撃となって全身を駆け巡り、アルフレッドは返す言葉すら凍て付かせた。

 フェイとの間に結ばれ、肉親のそれと何ら変わらないと信じていた親愛の情が引き千切られた――
そんな堪え難い痛みがやって来たのはフェイに突き飛ばされてからである。
 アルフレッドを押し退けてエルンストと向かい合ったフェイは、呆然とする弟分に「目障りだ」とまで吐き捨てていた。

「武威を示したいのなら策だの何だのと小手先ばかりの工作をするのは止めるべきだ。そんなものに何の効力もない」

 突き押された肩口を抑えながら呆然と立ち尽くすアルフレッドを尻目に、フェイは彼の功労を切り捨て、全否定した。

「テムグ・テングリ群狼領の王者ならば、一度はエンディニオンの覇権に王手をかけた人間ならば、それらしく振る舞うべきだろう。
王者たる力を示してこそ求心力は取り戻せる。自ら剣を取って敵陣を虱潰しに壊滅させればいい。
全面衝突で敵わなくても、局地的な戦闘でなら勝ち目はあるだろう? 力ずくで斬り従えてきた貴方に最も適したやり方じゃないか」
「……ただ力を示せばいいってものじゃないんですよ、フェイ兄さん。これまでと同じやり方で従えることは、
別な反乱の種を植えるのと同じだ。それに無策で突っ込んで敗戦を重ねたら、それこそ命取りになる。
もう俺たちに敗北は許されないんですよ」

 そうやってエルンストに自分のプランを売り込むフェイを見るにつけ、ついにアルフレッドも黙っていられなくなった。
 強引の過ぎるフェイの割り込みに立腹したのでなく、彼の献策があまりにも無謀に思えたからだ。
 いや、プランや策と言えるほど練りこまれたものではない。彼はただ単調に威力攻撃を主張しているだけだった。

「策、策と君は同じことばかり壊れたように繰り返すが、実戦で示さないでどうやって武威を知らしめるって言うんだ。
ここで密談していたって誰も随いては来ない。……それに、だ。やり方を変えれば、信念を曲げたと思われるし、
小細工に走るのは軟弱者の証しだよ。強いリーダーにこそ民は随いてくる。王者にしか吹かせられない風を今こそ呼び込むんだ」
「強いリーダーと雖も負傷していては凡庸な人間とさして変わらない。持って生まれた力を満足に発揮できないからです。
それに怪我をした状態で無理をすれば、余計に傷口を悪化させるばかりだ。そのリスクを避けるべきだと俺は言いたかったんですよ」
「回りくどいんだよ、お前の言い方は! 一体、何が言いたいんだ? ハッキリと言えよッ!?」
「――申し訳ないが、フェイ兄さんの意見は間違っているッ!」
「間違っているだとッ!?」

 アルフレッドがフェイに向けるのは、敬愛する兄貴分の暴走を止めたいと言う誠意。
 フェイがアルフレッドに向けるのは、疎ましい弟分の全てを否定しようと敵意。

 交わりようのない感情を鋭い眼光に込めてぶつけ合う二人の睨み合いは傍観者たちを圧倒し、
言い争いが水掛け論の様相を呈してきても、そのことを咎める余地を誰にも許さなかった。
 仮にフィーナやソニエがこの場に同席していたとしても、おそらく仲裁には入れなかっただろう。
 思えばこの兄弟分が憤激を剥き出しにして言い争うなど初めてのことであり、
それだけにバランスや引き際が分からず、自然、激情の衝突へと悪化していく。
 アルフレッドにしても一度振り上げてしまった拳をどう引っ込めれば良いのか、計り兼ねているくらいだ。

「逆転の秘策についちゃあ俺にも一言あるんだがねぇ」
「貴様っ!?」
「……誰も彼も秘策だの何だのと――どうやらここは卑怯者の巣窟らしいなッ!」

 その上、ふたりの口論を眺めていたイーライまでもが混乱を煽ろうと挙手をしたものだから、いよいよ事態は拗れていく。
 今や反射的に策や計略と言う単語に噛み付くようになっているフェイは、イーライにまで敵愾心をぶつけた。

「……アルフレッド、お前はマコシカの民と、ことを構えた際、
かの民族に伝わるいにしえの儀礼を履行することで相手に鉾を納めさせたらしいが、それは事実か?」

 さして興味も無く三者の口論を傍観――と言うよりも諦観――していたエルンストがアルフレッドにそう声を掛けたのは、
これ以上の悪化を見過ごせば本当に刃傷沙汰になると判断したからかも知れない。
 現にイーライは、肉体を金属化させられるトラウム、『ディプロミスタス』を発動させ、
これによって鋭利な刃へと変身した右腕をフェイの喉元に突きつけており、
応じるフェイもリモートコントロール可能な盾のトラウム、『ウォール・オブ・ジェリコ』を発動させている。

 三つに分離してフェイの周囲を浮揚する小さなピースは、白色で明滅する光線を発して互いを連結し、
線と線の間に浮かび上がる面へ銀に輝くバリアを張った。
 見ようによっては多面体の大きな鏡にも見えるウォール・オブ・ジェリコの盾はフェイの奥の手であり、
例え、イーライの繰り出す斬撃がどれほど鋭かろうとも、無敵の誉れ高い防御力を発揮して完全に防ぎ切るに違いない。

 だが、そのような事態に発展した場合、この謁見の間が修羅の巷へ転ずるのは明々白々である。
 ギルガメシュへの反攻を話し合う場において内部抗争と言う失態を犯せば、またしても全軍の士気に悪影響が出る。
誰だって会敵前から大ダメージを被りたくはなく、そうした事態を回避する為の戦略的判断でもあった。

「――あ、あぁ。郷土資料からヒントを得たのだが、それがどうかしたのか?」
「ならば今度もその前例に倣うのはどうだ? 我らがテムグ・テングリ群狼領に伝わる作法をもってして事態の収拾を図っては」
「テムグ・テングリ群狼領伝統の作法……?」

 自分で煽っておきながらフェイの侮辱に激怒すると言う矛盾も甚だしいイーライに呆れ果てていたアルフレッドは、
一瞬、声を掛けられたことに気付けなかったが、デュガリの咳払いがその見落としを教えてくれた。
 エルンストはテムグ・テングリ群狼領の伝統をもって諍いを納めるようアルフレッドに促している。
 彼の言う通り、アルフレッドは民族内に伝わる風習を利用することで、
当時、誤解が誤解を生んで敵対関係に陥っていたマコシカの民との諍いへ埒を開けたことはある。
 今回もそれと同じ策(て)を用いてみては…とエルンストは提案してくれたのだ。

(……と言うか、どうしてそんなことまでエルンストは知っているんだろうか……)

 自分の足跡にエルンストが余りにも詳しいことへ微妙な不気味さを感じるアルフレッドではあったが、
彼の一言が、平行線を辿る口論を終息させる糸口を発見させてくれたのは事実だ。
 刀槍を振るかのようなゼスチャーを披露してくれたカジャムの後押しもあり、
アルフレッドは彼らが言う?伝統の作法?を利用して諍いの解決へ乗り出すことを決心した。

 まさに一触即発と言った険悪な空気を撒き散らしながら睨み合うイーライとフェイの間に割って入ると、
アルフレッドは両者の顔を見比べながら思いがけない提案を掲げ、彼らの目を丸くさせた。
 そう――制止されるものとばかり考えていた二人にとって、それは驚嘆に値する提案であった。

「郷に入れば郷に従えと言う諺もある。……どうだろう、ここは一つ――決闘で発言権を決めよう」





 エルンストへの談判をアルフレッドに任せ、他の仲間たちと共に控室で待機していたフィーナは、
にわかにハンガイ・オルス内が騒がしくなってきたことへ言葉を失うほどの驚きを覚えた。
 何を騒いでいるのか知れないが、窓の外に目をやれば、
テムグ・テングリ群狼領の将兵たちが廊下を右往左往しているではないか。
 今のところ何ら連絡が入らず状況を正確には判断できないものの、
緊迫したトーンが張り詰めた慌しさを見るに何事か不測の事態が起きたのは確かなようだった。

 よもやギルガメシュの軍勢が本土決戦を目指し、ハンガイ・オルスへ鉾を向けて進軍を開始したのかと考えたフィーナは、
殆んど反射的に『SA2アンヘルチャント』を発動させていた。
 鋭敏に臨戦体勢を整えたフィーナを「なかなか場ぁに馴染んで来よった」とローガンはからかったが、
そう言う彼自身、身体も表情も明らかに強張っており、レイチェルやハーヴェストもフィーナ同様に自分の得物を具現化させている。
 特殊なタイプのトラウムを備えるヒューやセフィは、それぞれ得物を構えていた。

 守孝に至っては壁に立てかけてあった愛用の槍、『蜻蛉斬り』を手に取るなり、控室を飛び出し、
扉の前に仁王立ちして立ちはだかった。
 屋内に攻め入られたケースに備えて守りを固めたつもりだろうが、これは明らかに先走りであり、
タスクから「敵襲でしたら、もっと大変な騒ぎになっているのでは…」とツッコミを入れられてスゴスゴと戻って来る姿には、
なんとも言えない気まずさと哀愁が漂っていた。

 それもその筈なのだ。ハンガイ・オルスを中心とする肥沃の地には各陣営のベースキャンプが仮設されており、
万が一、敵襲があった場合はまず彼らが迎撃の激音を上げるに違いない。
 エルンストに勝るとも劣らぬ猛将であり、ベースキャンプの設置場所もどの陣営より突出しているアルカークあたりが
ギルガメシュ兵を見つけようものなら、ハンガイ・オルス全体に轟くような大音声を張り上げて攻めかかっていく筈である。
 酒と煙草で焼けたダミ声が聴こえてこないと言うことは、さしあたって敵からの攻撃ではあるまい。

 しかし、敵襲ではないにせよ、緊急事態がハンガイ・オルスに起こっていることに変わりはなく、
フィーナたちは不安げに顔を見合わせた。
 「女の子に生まれたからにゃメーキャップもしてみたいの」などとまたも気まぐれを言い出したルディアへ、
グリーニャから持ち出してきた僅かばかりの道具を使って簡単なお化粧を施してやりながら余暇を潰していただけに、
この混乱には束の間の平穏を撃ち破られたような衝撃を覚えるのだ。
 言うなれば、緊張を解いていたところへ冷や水を浴びせられるようなものである。


 そこへ広場に出て剣の稽古をしていたシェインとフツノミタマが慌てた様子で駆け込んできた。

「大変だよ、大変ッ! どのくらい大変かって言うと、フィー姉がご飯残すくらいシャレになってないッ!!」
「おォよ! なんか知らねーが、アル公め、今からフェイ・ブランドール・カスケイドと決闘するらしいぜ! 
しかも、イーライ・ストロス・ボルタまでこいつに一枚噛んでるみてぇだッ!」
「け、決闘っ!? ……あと、シェイン君は明日の朝飯抜きだからそのつもりで」
「メシが関わることばっか耳敏いでやんのッ!」

 寝耳に水とはこのことである。
 今後の軍略を具申しに赴いた筈なのに、どこをどう間違ったら決闘などと言う物騒な話になるのか。
そもそもフェイとイーライが絡んでくること自体、事情を知らないフィーナたちにとっては理解に苦しむ成り行きだ。
 シェインとフツノミタマへ三人の決闘を知らせたテムグ・テングリ群狼領の兵士も、
決闘に至るまでの経緯は知らなかったらしく、情報が不足するフィーナたちは揃って首を傾げるばかり。

「な、なんだよ、アルの奴〜。そう言うことは先に言っておいて貰わないと困るんだよね。
横断幕に使える布なんて持ってたっけ。旗の骨組みは、扇風機の細いフレームと鉄パイプを組み合わればイケるとして――
うわ〜、黄ばんだ布しか持ってないや。……うん! そうだ! これ、フィーの髪の色に似てるよね! 
よし、そのセンに当てはめるとしよう! 勝利の女神のラッキーカラーさ!」
「アルも正義の意味が解って来たようね! 存在自体が悪であるボルタをカスケイドと共に征討せんとする熱き魂! 
あたしの胸にも伝わってきたわッ! 正義の息吹が、今、嵐となって邪悪の想念を討ち祓うのよッ!!」

 不足した情報を想像で補おうとしているのか、ネイサンやハーヴェストは好き勝手なことを言っている。
 ムルグなどはイーライとフェイの二人がかりならアルフレッドを再起不能にまでやっつけてくれるだろうとの不謹慎極まりない期待を、
威勢の良い囀りに乗せて謳い上げている。

 嬉しそうに旋回するパートナーの意図を見抜いてこれを咎めたフィーナではあるものの、
彼女自身、フェイとイーライの実力は存分に思い知っており、ムルグの予想が現実になることを怖れずにはいられなかった。
 ローガンとの荒稽古や『ホウライ』の体得によって飛躍的なパワーアップを遂げているとは言え、
相手はグラウエンヘルツをも手玉に取ったイーライ、そして、竜殺しまでやってのけた剣匠、フェイなのである。
 格上の敵をふたり同時に相手にしなければならなくなったアルフレッドは、まず間違いなく窮地に陥ることだろう。

 ……と同時に、フィーナには一つの気がかりがあった。
 佐志を出発する間際にトリーシャから告げられたひとつの懸念が、心の片隅にこびり付いたまま、どうしても拭いきれないのだ。

『アルとフェイ・ブランドール・カスケイドを鉢合わせるのは、塩素系漂白剤と酸性洗剤を混ぜるのと同じくらい危険かも知れない』

 予想外どころか、今までに一度だって想像もしなかったことをトリーシャは案じていた。
 彼女が言うには、今のフェイはアルフレッドに対して善からぬ感情を抱いているらしいのだ。
 発端はギルガメシュの奇襲に遭ってルナゲイトを退去した後に潜伏した『セントカノン』でのこと。
今後の対策を練る会議の席で爪弾きにされて以来、フェイは弟分を目の敵にしているのではないかと
トリーシャはフィーナへ耳打ちした。
 フェイの暴走自体は、トリーシャ自身もラトクからの伝聞でしか知らないらしいが、
この懸念(こと)を打ち明けたときの面持ちは真剣そのもので、本気でふたりの確執を心配している様子だった。
 そのトリーシャは情報工作の準備の為に佐志に残り、ハンガイ・オルスには同行しておらず、
「そんなのは思い過ごしだよ」と反論することもできない。

 アルフレッドにとってフェイは絶対的に信頼の置ける大先輩であり、
フェイもアルフレッドのことを実の弟のように可愛がっている。ふたりの微笑ましい関係を誰よりも近くで見てきたではないか。
 何も気を揉む必要はない……無条件で必要はないと信じられれば、こんなにも気が重くなることはないのだが、
灼光喰みし赤竜の巣流の敗戦後、エルンストの陣営へ駆け込んだアルフレッドをフェイは冷たく突き放したとも聴いている。
 それにもう一つ。にわかには信じ難い話なので、アルフレッドは根も葉もない言い掛かりだと取り合いもしなかったが、
軍議を終え、諸将が去った仮設の議場にてフェイは弟分のことを悪し様に罵っていたと言う。

 もしも、決闘の原因がトリーシャの案じたものだったとしたなら、
「大事な席で鉢合わせにでもなって、揉めなきゃ良いけど……」と話していた彼女の懸念が、現実になってしまったと言うことだ。

「見損ないましたわ、フィーナさん。アルちゃんが大いなる強敵へ臨まれようとしているのですよ? 
アルちゃんの勇気ある決断を、貴女は仲間でありながら、……妹でありながら裏切るおつもりなのですかっ?」
「マリスさん……」
「修羅たちが研ぎ澄ました牙の鋭さを危ぶむことが、果たしてアルちゃんの力になるでしょうかっ? 
例えどんな危地であっても、アルちゃんは必ず栄光を掴み、わたくしのもとへ帰ってきてくださいます。
切り拓かれた命運を信じることが、アルちゃんを想い、想われる者の務めに他ならないのですから!」
「……そうだね。うん、そうだよ。事情を調べるのは後にして、まずアルの応援に行かなくちゃだね。
一人きりでリングに上がったんじゃ、アルだってモチベーション下がっちゃうもんね!」

 眉間に皺寄せ黙りこくってしまったフィーナの心中を察したマリスは、
自分だけはアルフレッドの勝利を信じていると胸を張ってみせた。
些か当て付けのような気がしないでもないが、マリスが言うことは、至極尤だった。
 自分たちがアルフレッドの勝利を――何よりも無事を――祈り、信じずにして誰が彼を鼓舞すると言うのか。

「……? マリスさん?」
「――いえ、そうですわ。……想い、想われる者の務めですもの、ね……」

 ほんの一瞬だけ、例えようのない物悲しげな表情(かお)を浮かべたマリスは、
それを訝るフィーナに微笑みで応じると先ほど掲げた心得を自分へ言い聞かせるように、もう一度、復唱した。
 無理に作ったのだろうか、フィーナに返した微笑みにはどこか陰が差しているように見えた。

「ディスなプレイスでラヴだのナンだのとトーキングしてたってアルには届いてノンノンよ♪
あるある、あるよね〜、このハンドのセルフ満足♪ スター占いとかぁ、ラヴのおまじないとかぁ、
ガールズってのは、ムダ過ぎてミーニング不明なセルフ満足がマジでフェイバリットだねン♪」

 これまた下品で救いようのない笑い声を上げたホゥリーの尻を、
眉間に青筋立てたマリスが金属バットで引っ叩くのを見届けたフィーナは、仲間たちに号令をかけて決闘の場所へと向かった。




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