10.BJJ


 咄嗟の機転であった。青白い稲光を残して視界より姿を消したアルフレッドと、
さながら瞬間移動の如く背後にいきなり現れた殺気が符合すると判断し、ミルドレッドは四肢を開いてその場へうつ伏せになった。
 床に伏した彼女の頭上を何かが轟然と通り過ぎていく。横薙ぎ風を切る音からして前回し蹴りであろう。
轟音が引き連れる風に背筋を一撫でされたミルドレッドは、これを合図に上体を起こし、得意の蛙の構えを取った。
両の掌、両の前足部で踏ん張りを利かせ、更に膝の屈伸をバネにして前方へと跳ねたのである。
 その速度は、蛙と言うよりも、むしろバッタに近い。
 両の掌が触れると、今度は肘の屈伸を応用して飛び跳ねた。この際にミルドレッドは腰を横方向に捻っており、
中空にて急速旋回する恰好となった。そうして二度目の接地が終わる頃には、延髄目掛けて殺気をぶつけた張本人と――
アルフレッドと正面からの睨み合いに至ったのである。
 一秒でも判断が遅ければ、今頃は延髄を断ち切られていたに違いない。
そのような危機に遭わされながらも、ミルドレッドの面に驚きは見られなかった。
元より感情表現が乏しい女巨人ではあるが、それにしても無反応とは珍奇であろう。
同志としてギルガメシュに立ち向かうと表明した人間に対して、アルフレッドは殺傷を試みたのだ。

「失せろ。ここにお前たちの戦う場所などない」

 やがて、アルフレッドからパトリオット猟班の参加を拒む考えが明示された。
 蛙の構えを取ったまま双眸を大きく見開き、ジッとアルフレッドを観察していたミルドレッドは、
反論を唱えるどころか、その言葉の意味が理解出来ず、ただただ首を傾げるばかりだった。
 同盟者の取捨選択を含む軍の編制は、兵権を担う者のみに許された権限である。
しかし、アルフレッドは作戦立案者のひとりに過ぎない筈だ。前後の状況からミルドレッドもそのことは確かめている。
パトリオット猟班の参戦を認めるか否かは、シュガーレイと睨み合いを続けるエルンストが判断すべきであろう。
群狼領のトレードマークとも言えるブラックレザーの甲冑も纏わない男がエルンストの代弁者とは思えない。

「少し見直したと思えば、すぐに台無し。全く育ちの悪さが知れると言うものよ。
人のフレンドリーシップに唾を吐いて砂までかけるようになっては、将来、ロクな大人にならんぞ? 朕を見習い給え」
「主を見習うことだけは絶対に止めて欲しいが――しかし、一理はある。ライアン氏、今は大事なときではありませんか? 
遺恨をお持ちと存じますが、何卒良しなに……」

 越権と感じたらしいファラ王や、彼に付き従うアポピスもやんわりと注意を促したが、
当のアルフレッドはグドゥーの主従など最初から眼中に入れてはいない。
 突如としてミルドレッドを攻撃し始めたアルフレッドには、佐志の代表として列席する守孝たちも困惑している。
エルンストへの思いが強いアルフレッドのこと、彼を侮辱された怒りが我慢の限界に達したのではないかと、守孝は考えていた。
当然、一世一代の献策を妨害された憤りもあるだろう。仮に予想の通りとすれば、これは尋常ならざる事態である。
 人体急所である延髄を狙ったことからも判るように、アルフレッドはミルドレッドを本気で、尚且つ冷静に潰そうとしている。
「癇癪はなりませぬぞ!」と制止の声を飛ばす守孝ではあるものの、彼が短慮を起こしたとは思っていなかった。
だからこそ、胸中の焦燥を止められないのだ。
 ジョゼフやレイチェルも守孝とは別の意味でアルフレッドを案じ、その動静に目を凝らしている。

「戦争を舐めるなよ、格闘家崩れが。皆の足並みを乱し、あまつさえ暴行まで加えておいて、どの口で同志を名乗るつもりだ。
無頼の輩など、この先の戦いに必要ないんだよ。口では大層なことを言っておいて、……直にギルガメシュに寝返るのだろうが」

 深紅の瞳が帯びる冷たい殺気や、驕慢で一方的な罵倒にも平然と対峙するミルドレッドであったが、
不倶戴天の敵であるギルガメシュのもとへ走ると決め付けられたときには、さすがに片眉を微動させた。

「スカッド・フリーダムを脱退して馳せ参じたのが熱意とでも思っているなら、愚の骨頂だな。勘違いも甚だしい。
鎮魂などと言っているのは、今の内だけだ。仲間を裏切った人間は、必ず同じことを繰り返す。
俺の記憶が正しければ、スカッド・フリーダムは義の戦士ではなかったか? ……それを裏切ったお前たちを何と呼べば良いのだろうな」

 アルフレッドが並べ立てたのは、パトリオット猟班にとって何にも勝る侮辱であった。
 少し離れた位置でミルドレッドたちを見守っていたジャーメインは、今や声にもならない程の怒りで満たされており、
愛らしい面も歪みに歪んでいた。彼女に背を向けるアルフレッドには鬼の形相を見ることは叶わないのだが、
仮に視界へ入っていたとしても、口を噤むことなく淡々と続けただろう。あるいは、更に加速させたかも知れない。
 ただし、目に見える形で怒りを露にしているのは、今にも血管が破裂しそうなジャーメインのみであった。
怒りに戦慄(わなな)くジャーメインをじっと見つめるモーントは、相も変わらず表情らしい表情がない。
ジェイソンに至っては、侮辱されたことも理解していないのか、アルフレッドが披露した前回し蹴りを口笛吹いて絶賛する始末であった。
 禁句以外の何物でもないことを次々と口にするアルフレッドに対し、
「不義を承知で戦っているのだ。お前がどう解釈しようと勝手だが、この志は変わらない」とミルドレッドが反論をぶつけた。
その声は今までになく重低である。

「足並みを乱すとはどう言うことだ。アタシたちはギルガメシュの拠点を落として回っていたんだ。
……砂漠に行くことは出来なかった。ここにもついさっき入ったばかりだ。おまけに城内で道にも迷った。
それは認めよう。だが、遅刻を補って余りある戦果は挙げていると思うがね」
「戦果? 小競り合い――いや、アウトロー紛いの騒ぎのことを言っているのか? あれが大局に何の影響を与えたんだ」
「……どうも、お前は本質と言うものを見ていないようだな。その真っ赤な目は、性格と同じように壊れ物か? 
遅刻程度のことでここまで人を貶せるとは、お前のほうこそ器が知れる」
「なんだ、それは? 冗談のつもりか。面白くも何ともないな」
「生憎、ユーモアセンスよりも戦う力を磨いていたんでな」
「煩い、黙れ。……自分が何を非難されているのかも理解出来ない分際で偉そうにほざくなと言っているんだ」

 エルンストの傍らにてシュガーレイやジェイソンの出方を警戒しているブンカンは、
アルフレッドが論うパトリオット猟班の問題点には概ね賛同であった。
 自分たちの根拠とも言うべきスカッド・フリーダムを強硬に離反したこと、
何の了承もなく軍議に乱入して悪質な行為を繰り返したこと――
これまでのパトリオット猟班の行動は、一つとして評価に値しなかった。
デュガリやカジャムすら翻弄した戦闘力は白眉ではあるが、しかし、合戦は突出した個人のみで勝てるものではない。
 パトリオット猟班が復讐鬼の集まりと言う点は、ブンカンも見抜いていた。
彼の場合、アルフレッド程には復讐鬼を編制することに抵抗はない。
巧く手綱を捌きさえすれば、苛烈な恨みもまた強力な武器になると、歴戦の経験から知っているのだ。
死をも恐れずに突き進むその力は、斬り込み隊長や遊撃隊にはうってつけである。
 しかし、パトリオット猟班の制御はブンカンの手腕を以ってしても難しそうだ。
アルフレッドが嘲ったようにギルガメシュと誼を通じることはあるまいが、自分たちの意向に沿わないと見れば、
すぐさまに連合軍から離反していくことだろう。全軍の統率、結束を守るには忌避すべき事態である。
 獅子身中の虫を飼ったままで外患たるギルガメシュへ挑むのは、並外れた戦闘力の確保と言う利を考慮しても危険な賭けである。
過剰にシビアな裁量かも知れないが、軍師たる立場からすれば、取り込むべき人材ではなかった。
 とは言え、同盟採否の最終決定権は、一大連合の発起人たるエルンストに在る。
軍師と雖もブンカンの立場で口出し出来ることは極々限られてしまうのだ。
 そして、強者と認めた者はリスクすら度外視で引き入れてしまうエルンストの判断がブンカンには恐ろしい。
シュガーレイとは長々と睨み合いを続けているが、“我欲”に塗れたフェイ・ブランドール・カスケイドのように黙殺しないと言うことは、
少なくともパトリオット猟班に対して悪感情を持ってはいないようだ。それどころか、シュガーレイを傑物と認めている可能性も高い。
 ブンカンが屹立する場所からはシュガーレイの面持ちを確認出来るのだが、
今もって双眸は昏く、闇の深淵を覗き込んでいるような気持ちになってくる。
 先程からアルフレッドにパトリオット猟班の存在意義を否定され続けているのだが、そのことについても何も考えていないのだろうか。
背後では再び苛烈な罵り言葉が飛び交い始めた。それでも、復讐鬼の頭目(かしら)は侮辱の張本人を振り返ろうともしなかった。

「砂漠の合戦に出陣しなかったことは大した問題ではない。遅参はもっと関係ない。
お前たちは独自にギルガメシュと戦ってきた。それは認めよう」
「お前に認めてもらう必要もないが、……まあ、いい。認めると言ったからには、前言を撤回するんだろうな」
「だから、お前は阿呆だと言うんだ。ギルガメシュと戦ってきた――ただそれだけだ。
俺がアウトロー紛いと言ったことを忘れたのか? たかが小競り合いで大手柄を上げたと思い上がり、
味方になってやると偉ぶってしまえる程度の低さはな、救いようがないくらい痛々しいんだよ。
……はっきりと言おう。お前たちは足手まといでしかない」

 圧倒的な戦闘力を備えたパトリオット猟班に向かってアルフレッドは足手まといと断言した。
乱闘に端を発する一連の緊張状態を遠巻きに見守ってきた諸将も、さすがにこの評価にはざわめいた。
 味方でいる分には、これほど頼もしい猛者もいないだろうに言い過ぎではないか――
抗弁をも含む視線がアルフレッドの全身に降り注ぐが、当人は意にも介さない。
全軍の行く末を熟慮熟考する軍師、作戦家としての立場をあくまでも貫くつもりでいる。

「……失せろ。どうしても居座るつもりなら、力ずくでも排除する」

 四肢を地につけたまま固まっているミルドレッドに、そして、パトリオット猟班の総員に対し、
アルフレッドは再びハンガイ・オルスから立ち去るよう言い放った。
 冷徹と言うよりは、殆ど残忍に近いアルフレッドの物言いは、佐志や仲間を復讐の道具として使役し、
あまつさえ女神イシュタルへの冒涜を吐き捨てた際に見せたものと酷似している。
相手の全存在を否定するかのような侮辱の乱舞などは、当時の反復と言っても良い程だ。
 ジョゼフたちはそのことを先程から案じていた。両帝会戦を経てようやく鎮まった暴走が再発するのではないかと、
狂乱に晒された者たちは気が気ではないのだ。
 守孝はアルフレッド自身の暴走と同時に、ジョゼフの反応にも神経を尖らせている。
親友の惨死によってアルフレッドが正気を失った際、支援者にして理解者である筈の新聞王は、一度は彼のもとを去っていったのだ。
期待をかけるが故の厳しい措置――ある種の荒療治であったようだが、
両者の信頼関係を思う守孝は、二度と同じ痛みを繰り返させたくなかった。
 仲間たちの心配を他所に、内憂に転じる恐れの高いミルドレッドと相対したアルフレッドは、あくまでも厳格な態度を貫いている。
冷然たる横顔を窺っていたセフィは、喉の奥より重苦しい溜息を搾り出した。

「アル君、もしや、自分の身を切るつもりかい。……敢えて泥を呑むことはないだろうに」

 セフィの口から漏れ出たその言葉を受けて、守孝たちは目を見開いた。
 ルナゲイト征圧から両帝会戦が終結するまでの間、心因性のダメージに苛まれて意識を失っていた彼は、
アルフレッドの暴走を伝聞でしか知らない。それ故であろうか。無尽蔵とも言える狂気を目の当たりにし、
その再発を危惧する他の仲間たちとは、アルフレッドの言行に対する反応が全く違っていた。
 正確には、言動の受け止め方が独特と言うべきであろう。そして、異なる視点からのアプローチと言うものは、
決まって他者が見落としてきた真実を汲み取るのだ。
 エクステにて覆われたセフィの双眸は、アルフレッドの自己犠牲が映り込んでいる。
共に戦う朋友たちの為、いずれ必ず逆転勝利を得る為――憎きギルガメシュを撃破する未来を信じ、
心を鬼にして内憂の排斥に努めているのだ。目標の達成には血反吐に塗れることも厭わない覚悟のアルフレッドを見つめていると、
セフィの心は大きな音を立てて軋むのだ。
 つまるところ、暴走の再発などはジョゼフたちの取り越し苦労だったと言うわけである。
 その話を聴いた佐志の仲間たちは、己のほうこそ冷静さを欠いていたと気付き、事実無根の嫌疑を抱いたことを心から恥じた。
 アルフレッドは確かに帰ってきたのだ。暴走も狂乱も、砂漠の合戦での出来事を経て完全に止まったのである。
傍観者の身勝手な恐怖心だけで悪夢の再発などと思うことは、それ自体がアルフレッドを愚弄するのに等しかった。
 強硬なアルフレッドへ抗議しそうになっていたハーヴェストは、肩を支えてくれるレイチェルと顔を見合わせ、
「仲間を貶めようなんて、ヒーロー失格だわ……」と深く項垂れたものである。
 アルフレッドはミルドレッドに対して正義の在り方と言うものをハーヴェストから学べと吐き捨てていたが、
当の『セイヴァーギア』は、正義を唱える意味を見失う程の落胆ぶりであった。

 アルフレッドの身を案じる余り、精神的に過敏となっていたジョゼフは、
やや離れた位置に立つ守孝へ互いに反省しようと静かに頷くと、己の醜態を悔いて頬を掻いた。
 復讐の鬼と化していた自分自身を客観的に受け止めた末の決断だと気付いたジョゼフは、
この先もアルフレッドの行動を制限しないことを心に決めた。改めて己の意思を再確認したのだった。
 道徳心溢れる者なら、各地で繰り広げられた殺戮を窘め、説得して改心を図ったであろうが、
戦時に於いてはそのような時間的余裕などない。連合軍内部を破綻させる可能性があるものは断固として拒絶することが、
現時点で取り得るべき最善の策である。
 ルナゲイトで負傷したセフィを別荘外のセント・カノンへ運び入れた夜、新聞王は剣巧と名高いフェイに戦力外通告を行い、
孫娘のソニエ諸共屋敷から追い出してしまっていた。実際にはアルフレッドの機転に遺恨を覚えたフェイが
仲間を引き連れて立ち去っていったと言う話であるが、結果的にフェイチームと一同はそこで絶縁となった。
 その当時、尊敬するふたりを決裂に導いてしまったことに打ちのめされていたアルフレッドであるが、
今では新聞王と同じ取捨選択を行えるまでに“成長”していた。
自身の好嫌のみで人員を差配することなど論外だが、深慮遠謀を以ってパトリオット猟班を切り捨てるのであれば、
ジョゼフはこれを断固支持するつもりだった。そればかりか、望ましい好ましい兆候とさえ思っている。
 重ねて言うが、今は平時ではなく戦時である。他者から忌まれるような決断も決して少なくない。
その機(とき)に些かも躊躇せず、修羅の道へと踏み込んでいける覚悟と胆力は、軍師にとって欠くべからざるモノでもあった。
 そして、心身を蝕む程に過酷な決断を下す者を仲間たちは決して見捨てない。これもまた軍師の必須要素の一つであろう。
佐志の代表として列席した仲間たちは、今やアルフレッドの決断を最後まで見届ける覚悟である。

 覚悟であれば、パトリオット猟班も志と言う形で決めている。ギルガメシュ撃破と言う志を、だ。
「失せろ」と言われて素直に従うつもりはない。
ましてや、リーダーたるシュガーレイは、今もまだエルンストと睨み合いを続けているのだ。
仮にアルフレッドが兵権を握る立場であったとしても、ここを退くわけにはいかなかった。
 四肢を地につけ、蛙の構えを維持し続けていたミルドレッドは、徐に頭を下げ、姿勢を前方へと傾けた。
その様は蛙と言うよりも狼に近い。身も心も猛き獣に成り切ろうと言うのか、分厚い唇の隙間からは低い唸り声が漏れ出している。
 これに応じて、アルフレッドも構えを取った。
 前方へ突き出した左の拳と、胸の手前に引き付けた右の拳を交差させるオーソドックなスタイルである。
やや重心を落としたこの構えは、アルフレッドが得意とする打撃の応酬に最適なのだ。
 両者の間に垂れ込める空気は、秒を刻む毎に熱を帯びていく。
 猛獣の如き唸り声を途絶させたミルドレッドは、正面に捉えたアルフレッドへ「お前を突破したら?」と不敵に尋ねた。

「排除だの何だのと大口を叩いておいて間抜けを晒したら、……お前はこの場に居られるかな」
「なら、作戦立案でも何でも好きにするがいい。その覚悟で俺はここに居る」

 呆けたように両者の動静を眺めていたビアルタは、エルンストの意向を踏みにじるような取り決めが結ばれたことに気付くと、
「勝手な取り決めをするな! 認められるか!」と真っ赤になって怒声を張り上げた。
成り行き次第では、今後の作戦行動が大きくが左右されてしまうのだ。黙って見過ごすことは出来なかった。
 しかし、ビアルタの怒声は鉤爪を振り回すアルカークによって食い止められてしまった。

「テムグ・テングリでは力ある者、戦いに勝った者だけが発言の権利を得るのだろう? ……ならば、貴様は何なのだ!? 
恥知らずの負け犬風情がッ! 今の貴様にはカス程の力とて残っておらぬわッ! この愚物ッ!!」

 一気呵成の罵声でもってビアルタを沈黙させたアルカークは、更に諸将を代表して決闘を容認するとまで言い切った。
 無論、多数決と言った意思確認は実施しておらず、身勝手極まりない独断である。
当然ながら反対者も現れたが、これは恫喝めいた一睨みによって封殺してしまった。
世に名高い傭兵部隊の提督に凄まれては一溜まりもあるまい。
 つい先程まで両者を仲裁しようとしていたファラ王は、決闘と言う展開に享楽家の血が疼いてしまったらしく、
恥も外聞もなく意見を翻し、アルカークの加勢に回ろうとした――その寸前でプロフェッサーに後頭部を殴られ、
再びテーブルの残骸へと沈んでいった。完全に意識を失っているだろう。
 この白衣の男は、単に拳骨を落とすのではなく、
愛用している刃物――巨大なメスのようにも見える――の柄頭でもってファラ王を殴打したのである。
 目配せで協力を要請したのはアポピスであったが、さすがにこれはやり過ぎと反省したようだ。
白目を向いて泡を吹く盟主を不憫に思い、素っ首を締め上げるトドメだけは控えることにした。

「――フン……ッ!」

 ファラ王の沈黙を横目で確かめたアルカークは、次いで一部のテーブルを蹴りでもって壁際に押しのけ、
アルフレッドたちが激突し易いように広めのスペースを作り出した。
最早、軍議を行う部屋とはかけ離れつつあるが、こうなった以上は仕方あるまい。
 ここまでアルカークが周旋するのは、アルフレッドとの因縁を考えると意外の一言である。
いつも通りに不機嫌な面持ちである為、真意の程は判然としない。長々と続く軍議に嫌気が差したと言うわけでもなかろう。
パトリオット猟班が乱入してくる直前まで論争の渦中に在ったのだ。
 あるいは、この騒動を早く打ち切ろうと試みているのかも知れない――
いずれにせよ、アルカークが整えたお膳立ては、アルフレッドにとって不利益なことはひとつとしてなかった。
 ミルドレッドもまた仲間たちに手出し無用と釘を刺した。怒り心頭に発しているジャーメインは収まりのつかない様子であったが、
この場を彼女へ委ねること自体には異存なさそうだ。

「どうせなら、私がこの手でブチのめしてやりたかったわよ! この……オタンコナスどもめぇッ!」

 結局、ジャーメインの発した不満混じりのこの一言が開戦の合図となった。
 再び獣の唸り声を上げ始めたミルドレッドに対し、今一度、「ここはお前たちの戦場ではない」と繰り返したアルフレッドは、
一気に間合いを詰めに掛かった。
 延髄を狙って回り込んだときのようにホウライを発動させてはいなかったが、
踏み込みから右足を引くまでの動きは電撃の如く鋭い。残像を伴う爪先は、ミルドレッドの顎を撥ね上げようとしていた。
 アルフレッドを含む誰もが直撃を確信していただろう。だが、差し迫った危機に反応して動いたミルドレッドの両の掌は、
不名誉とも言うべき周囲の予想を易々と覆してしまった。
 今まさに自身の顎を捉えようとしているアルフレッドの右足――その脛を、ミルドレッドは左の掌でもって受け止めた。
すかさず彼の右ふくらはぎへ自身の右腕を滑り込ませると、今度は野太い五指でもって左の前腕を掴んだ。
この場合の左前腕とは、言わずもがなミルドレッド自身の物を指している。
 彼女が両の足裏に力を込めたのは、アルフレッドの右膝を抱え込んだ瞬間のことであった。
右膝の関節は恐ろしく強い力で締め付けられており、アルフレッドの脚力を以ってしても振り解けない。
それどころか、満足に動かすことも出来ない有様だ。この状態で本来の可動域とは反対の方向にでも力を加えられたなら、
膝関節は確実に破壊されるだろう。靭帯断裂と骨折を同時に味わうことは覚悟しなければならなかった。
 ミルドレッドにとっては、それこそが最大の狙いである。右膝へ絡めるようにして両手を固定すると言う体勢のまま、
彼女は両足を床から離した。さりとて、上方へ跳ね飛ぶわけではない。何を思ったのか、その場で尻餅を付こうとしていた。
 それが寝技へ持ち込む為の布石と言うことは、全身に圧し掛かる下方への力が教えてくれた。
重力が反転でもしたかと疑うような猛然たる引き込みである。必死に堪えようとするアルフレッドだったが、どうしても左足一本では難しい。
 そんなアルフレッドを嘲笑うかのようにして、ミルドレッドの左右の足は容赦なく追い討ちを仕掛ける。
跳ねると同時に振り上げていた右足を袈裟懸けに落とし、続けて左足を外側に向かって薙ぎ払ったのである。
 アクロバットな動きではあるが、彼女が得意とするジウジツに打撃はない。
左右の足より繰り出された技は、いずれも寝技に移行する為のプロセスに過ぎなかった。

「見え見えだ、バカめ――」

 一瞬の内に複数の動作を並行して実行するミルドレッドではあったが、左右の足を振り回した意味はアルフレッドにはお見通しである。
高い位置から振り落とされた右足はカカトを当てるのが目的ではなく、相手の腹部等にこれを引っ掛け、
足全体で押さえ込みを仕掛ける動作なのだ。
 もう一対の左足は、アルフレッドの足元を脅かそうとする試みだ。踏ん張りごと左足を刈られるのは勿論のこと、
幻惑されてバランスを崩しても、垂直落下する強烈な引力に飲み込まれてしまうだろう。
引き倒されたら最期、ジウジツの代名詞とも言うべき寝技の餌食である。
 いずれにせよ、アルフレッドにとってはミルドレッドの動きは想定の範囲内であった。
あるいは、イーライより彼女の得意がジウジツであることを聞かされていなければ、危うかったかも知れない。

「――おおおぉぉぉぁぁぁッ!」

 ミルドレッドの足払いがくるぶしを捉える寸前、裂帛の気合を発するアルフレッドの左足を青白い火花が覆った。
より正確に説明するならば、左の足裏にてホウライの炸裂が発生し、土踏まずと床との隙間より燐光が飛び散った次第である。
しかしながら、それも一瞬のこと。火花に続いて放電の如き稲光が閃く頃には、彼の左足は床より遠く離れていた。
 いくら踏ん張りを利かせてもミルドレッドの引き込みを凌げないと判断したアルフレッドは、
足裏にてホウライを爆発させると、これによって得た上昇力を利用し、中空に退路を求めたわけである。
 何しろ両者は体格の差が開き過ぎている。アルフレッドも決して小柄ではないのだが、
巨人などと比喩されるミルドレッドには遠く及ばない。左足一本のみで彼女の全体重を支えることは不可能なのだ。
そこで閃いた逆転の発想が、自ら跳ね飛ぶと言うものだった。
 下方へ向かっていた力の作用に逆らえば、ミルドレッドに絞められている膝にも大きな負荷がかかり、相応のダメージは免れない。
それでも、ジウジツが最も得意とする領域へ引きずり込まれるよりは遥かに戦い易いだろう。
 ミルドレッドは両足を浮かせている為、踏ん張りを利かせることは出来ない。存外に容易く彼女の身を引っこ抜くことに成功した。
右足は百キロ超の体重で軋み音を立てたが、骨や靭帯に影響が出る程に深刻ではない。
 上体を反り返らせ、中空に放物線を描いたアルフレッドは、そのままミルドレッドを頭から落下させた。
 突然に撥ね上げられて狼狽し、反応すら出来なかったのか、彼女の両腕は最後まで彼の右膝に絡み付いたままだった。
手を離して逃れることは勿論、受け身すら取れない状態で硬い床に叩き付けられたのである。
 脳天を打ち据えるどころか、首の骨を圧し折るつもりで反り投げを見舞い、致命傷を与えたと言う確信をアルフレッドは得ていた。
ところが、右足に感じる圧迫感は少しとして衰えてはいない。むしろ、膝に感じる痛みは強まったと言っても良い。
 床へ突き刺さるかの如く垂直気味に落下し、天井を仰いでいたミルドレッドの両足は、
萎んでいく手応えにアルフレッドが戸惑ったその瞬間、風車の如き横回転を見せた。
 羽根を回す風の音の代わりは、猛獣の如き唸り声が務めている。

「貴様、痛覚がないのか……?」
「痛み? 面白いことを言う。……これしきの痛みが何だと言う――」

 頭から落とされたにも関わらず、ミルドレッドは全く平然としていた。タトゥーに覆われたその面にも痛みの感情は微塵として見られない。

「――焼き尽くされた“あいつら”の痛みは、こんなものではないのだ」

 不意打ちとも言うべき反り投げを耐え切ったミルドレッドは、両足を振り回すことで全身を急激に捻り、
この横回転にアルフレッドを巻き込んだのである。なおも右膝を固定し続けていた為、自然、彼の身は横倒しとなった。
 転がされた側にとって、これはとてつもなく大きなプレッシャーを伴っている。
“床に背を付けられた”この状況は、即ち彼女の術中に嵌ったと言う何よりの証左であった。
 右膝への締め付けが俄かに緩んだのはそのときだ。反り投げによる頭部へのダメージが遅れて現れたものと
一瞬だけアルフレッドも期待をしたものの、ミルドレッドの動きが視界へ入った途端に儚い夢想であることを悟った。
 豪腕によって右足の自由を奪われていたアルフレッドは、当然ながらこの寝技巧者と向き合う格好だ。
それ故に上体を起こした彼の双眸には、木片散らばる床を両膝のバネにて跳ねるミルドレッドの威容が映ったわけである。
 締め付けこそ緩まったミルドレッドの豪腕だが、その狙いは依然としてアルフレッドの右足にあった。
相変わらずの低い体勢から思い切り左腕を伸長させ、掌を彼の右膝裏へと巻き付けたのである。
先程までの攻防とは絡み付く手が左右あべこべになったわけだ。
 左手が膝裏を脅かしている間、空いたもう片方の手は右足首を捉えて離さなかった。
再び膝が狙われたと察知したアルフレッドは、すぐさま右足を引いて回避を試みたのだが、その間際に足首を掴まれてしまい、
結果、為す術もなくミルドレッドの優勢を許す状況に陥った次第である。
 しかも、だ。彼女は五指を関節の付け根へめり込ませるようにして足首を捉えている。
さしものアルフレッドもこれには一溜まりもない。痛みそのものは歯を食いしばって凌いだものの、
芯まで響くダメージに苛まれた彼の右足は、反射的に跳ね上がってしまったのである。関節の可動に従い、膝をも折り曲げて、だ。
 右足が跳ねる寸前、ミルドレッドは足首から五指を離していた。
だからこそ、何ら束縛を受けずに足を浮かせたのだが、これは偶然の産物ではなかろう。
肉体のどこに刺激を与えれば、どの部分が反応を示し、また、どのようにして動くのか――
力と技、柔と剛の完璧な計算の上にジウジツは立脚しているのだった。

 アルフレッドの右足を補足した女巨人は、横滑りをするかのように彼の側面へと回った。
 跳ね橋の如く引き上げられた右足の裏を潜(くぐ)るかのようにして、彼女は己の両足を差し込んでいく。
先んじて侵入させた左足は腹部から両足の付け根を縦断し、これによってアルフレッドの股関節を強引に開かせた。
対となる足をも右足首へと引っ掛けると、最早、ミルドレッドの四肢は完全にこの青年を支配した形となる。
 両足の動きに連動し、両手にも細微な変化が起こった。膝裏に巻き付けていた左手でもって握り拳を作ったのである。
と言っても、殴り合いに興じるわけではない。これを添えるのは、やはり膝裏であった。
 脛にまで移された右の掌と、彼の足首を押さえ込む右足へ同時に力を加えたなら、
アルフレッドの右膝は断末魔の叫びにも等しい悲鳴を上げることになる。
 要は梃子の原理である。垂直に落下していく圧でもって膝に痛手を与えようと言うわけだが、
その際、関節可動域の裏へと添えられた握り拳は支点の役割を引き受けるのだ。
 いや、それほど生易しい技ではない。極めて硬い突起に木の枝を押し当て、両手で力を加えて圧し折るようなものである。
 右足の甲へ左足のそれを重ね合わせ、全体重を集束させれば、関節破壊の妙技は完成する。
全ての動作が完了しようとする今、女巨人がアルフレッドに背を向ける構図となった。
彼女の背が反り返る瞬間、アルフレッドの右膝は二度と使い物にならないくらい無慈悲に破壊されるだろう。
 避けることも叶わないまま寝技に持ち込まれたアルフレッドではあるが、自身の関節が壊されるのを呆然と待つような間抜けではない。
ミルドレッドに極められた右足には、脛と言わず腿と言わず、蒼白い電流が幾筋も通い始めている。
ホウライだ。ホウライの力を右足の内部に宿し、関節破壊への対抗を試みようと言うのだ。
 これは、アルフレッド自身にとっても大きな賭けであった。ホウライによる身体能力の強化は彼の大得意であるが、
さりとて関節そのものは筋肉と異なって鍛えようのない急所である。
例え、ホウライの力を宿そうともミルドレッドの怪力に捻じ伏せられる可能性も高かった。
 ところが、ミルドレッドは彼の対抗策を「愚鈍」の一言で嘲った。

「……小賢しいな。戦場で役に立たないのはどちらのほうだ」

 そう吐き捨てながら、ついにミルドレッドは後方へと転がった。梃子の原理にてアルフレッドの右膝を潰しに掛かったのである。
 それは、筆舌に尽くし難い痛みであった。これまでにも数多の強敵と戦い、生死の境を彷徨う目にも遭った。
並みの冒険者よりも遥かに凄絶で、濃密な戦歴と言えよう。しかし、右足へ襲い掛かる激痛は過去に類例のないものであり、
膝から爪先に至るまでの感覚が恐ろしい速さで痺れていった。このような経験も初めてである。
 未だかつてない痛みに歯を食いしばって堪えるアルフレッドの口元には、一筋の赤い線が走っている。
過剰な無理が祟り、歯茎から血が滲み出したのであろう。本来ならば悶絶し、意識を失っていてもおかしくない状況である。
それにも関わらず、降参することがなければ悲鳴ひとつ上げることもない。精神力と意志力は、軍議の間へ参集した誰よりも強靭であった。
更に付け加えるならば、冷静な思考能力も彼は維持し続けている。

(――そうだ。まだ死んじゃいない。右足だって生きている。……なら、終わるわけにはいかない)

 右足全体を包む痺れもあって痛覚以外が判然とせず、それが為に完全には確認出来ないものの、
今のところ、骨折、靭帯の断裂と言った最悪の事態には至っていないようだ。
 重傷こそ免れたものの、問題は他にも多い。すこぶる鈍化した感覚では、
ホウライによる防御が本当に効果を発揮しているのか否かも見極められないのだ。
 これもまたアルフレッドを大いに悩ませる問題だった。
 防御方法として有効であれば、身体強化の継続を迷う理由はない。
逆転の機会が訪れるまでの間は、それこそ亀の甲羅と化してミルドレッドの攻撃を弾くのが得策であった。
尤も、それはホウライを打ち切った瞬間に骨と靭帯とをズタズタにされることをも意味しているのだが。
 反対に何の効力も得られていなければ、ホウライ使用による体力の消耗も全て無駄と言うことになる。
長期戦の可能性も考えられる以上、不必要な浪費は早々に打ち切るのが吉である。
 継続か、打ち切りか――これが判別出来ず、切り札足り得る戦術を持て余す状況は如何にも苦しい。
必ず突破口を見出すべく懸命に頭を捻るアルフレッドであったが、その最中、ミルドレッドの左腕に発生した異変に気付き、
次いで愕然と目を見開いた。
 見れば、アルフレッドの右膝を壊しに掛かる彼女の左腕は、蒼白い電流を帯びているではないか。
しかも、それは他者より伝播されたものではない。彼女の身より迸り、左腕に纏わせているのだ。
 この電流を一目見たアルフレッドは、自分の右足へ執拗に絡み付くミルドレッドの狙いを即座に悟った。
逸早く感付いたのは、まさしく幸運と言うものであろう。彼女の左腕には“ホウライと同じ稲光”が縦横無尽に這いずり回っているのだ。
 失念と言うことはない。ミルドレッドはれっきとしたタイガーバズーカの出身者であり、
元はスカッド・フリーダムの一員なのだ。このような芸当を備えていることは想定の範囲内。多少の焦りはあれども驚く程ではない。

「あれは、ホウライ外し――ッ!」

 ミルドレッドの左腕に宿った稲光へ驚嘆するハーヴェストの悲鳴は、
アルフレッドの右膝に起こりつつある事態を周囲の人々へ如実に知らしめることだろう。
無論、アルフレッド当人は説明されるまでもなく理解している。
 アルフレッドが右足に纏っていた稲光とミルドレッドの左腕より迸る烈光は、まるで糸くずが解れ合うようにして交わり、
やがて跡形もなく霧散してしまった。掻き消える寸前、ほんの一瞬だけ眩いばかりの火花と化したが、
これはトラウムやホウライとも関わりの深いヴィトゲンシュタイン粒子であった。
 互いの身体より蒼白い輝きが消え失せると見るや、アルフレッドは右の拳を高々と翳し、
上体を逸らして十分に溜めを作った後、ミルドレッドの左肩へと一気に振り落とした。
 その刹那、彼の頭上にて蒼白い火花が散った。今しがた消失したばかりのホウライの輝きを復活させたのだ。
 アルフレッドは右手の甲をミルドレッドに叩き込もうとしている。振り下ろす間際に掌にてホウライを爆発させ、
これによって推力を生み出したと言う次第だ。拳の速度は急降下と言っても差し支えがない程に鋭敏であった。
 すると、どうであろう。またしてもミルドレッドにホウライと同じ蒼白い輝きが宿った。
今度は左肩から肩甲骨にかけて甲冑の肩当の如くに覆っていく。
 見ようによっては彼女を防護せんとするバリアーのようでもあったが、対するアルフレッドは決して拳を引こうとはしなかった。
正確には躊躇などしていられないのだ。ホウライを掻き消された直後から右膝を苛む痛みは加速度的に増しており、
もぎ取られていないのが信じられない程の責め苦にまで悪化している。
 危機より脱するには攻めあるのみ――鉄槌の如きアルフレッドの拳は、狙い通りにミルドレッドの左肩へとめり込んだ。
比喩でなく、本当に肩部を覆う筋肉へ埋まってしまったのだ。丁度、付け根の辺りである。
この奇怪な事態の発生に前後してミルドレッドの左肩より鈍い音が鳴り、次いでアルフレッドの右膝を苛む圧がいきなり半減した。
膝裏に宛がわれていた大きな拳は解かれ、左腕もまた不自然な恰好でだらりと垂れ下がっている。
 それもその筈だ。ミルドレッドの左肩は完全に脱臼させられていた。急降下を伴う鉄槌によって関節を強打され、
その拍子に骨が外れてしまったようだ。「関節は鍛えようのない急所」とはアルフレッドの見立てであるが、
どうやらこの宿命からはジウジツの使い手さえも逃れられないらしい。
 当然ながら、これは望外の僥倖などではなかった。右膝を破壊される前に関節技を解除するには、
例え一角だけでも強制的に排除するしかない。そこで閃いたのが、肩を強撃して骨を砕くと言う荒っぽい作戦だったのだ。
粉砕ではなく脱臼に留まったものの、当初の目的は達せられたと言えるだろう。
 周囲が目を背けるような事態に陥ってもミルドレッドは振り返ろうとはしない。
それを良いことに、アルフレッドは左右の拳を連続してミルドレッドの後頭部へと叩き込み、
とりあえずの自由を確保していた左足でもって彼女の内股を蹴り付けた。内股と言うよりは足の付け根を叩いたのだ。
狙うのは、今なお彼を拘束し続ける左足である。
 左足のみ胡坐をかくような体勢であり、尚且つ無理な角度からの蹴りこみである為、
一撃必殺の攻撃力こそ持ち得ないものの、二度三度と加撃する間に尾てい骨を貫いて腰にまで衝撃が達したようだ。
アルフレッドに引っ掛けられていた両足からも力が抜け、いよいよ彼を束縛するものは右腕一本となった。

「ホウライに溺れる貴様こそ小賢しいッ!」

 左側面へと転がるのと同時に右手の拘束を引き剥がし、辛くもジウジツの寝技から脱したアルフレッドは、
右腕一本だけで蛙の構えを取ろうとするミルドレッドの顔面へ逆襲とばかりに横蹴りを見舞った。
床につけた片膝を軸にして右足――正面から向き合うと、左肩を脱臼した彼女にとって死角となる――を
振り回したに過ぎないが、バランスの不安定な蹴りにも関わらず、ミルドレッドの動きは全く止まってしまった。
 肩を脱臼したと言うのに依然として表情を動かさず、獣の唸り声を上げ続けるミルドレッドではあったが、
さりとてモーントのように常軌を逸した肉体を持っているわけではない。
左肩が動かなくなったのと同様に、頭部への度重なるダメージも回復しないまま蓄積されており、
その結果、威力の低い蹴りを食らっただけで意識が混濁しかけたのだ。
 ミルドレッドのダメージを確かに視認したアルフレッドは、徐に立ち上がり、構えを取り直した。
即時の追撃は行わず、彼女の出方を窺うつもりだ。
 連続して蹴りを繰り出していけば、たちどころに仕留められただろうが、今しがたの攻防ではアルフレッド自身も相当な痛手を被っている。
想定していた以上に右足の動きが鈍く、深追いすると返り討ちに遭い兼ねないと判断したのだ。
 死角からの攻撃に逸り、つい右足で蹴りを打ってしまったのだが、
接地した途端、膝から爪先に至るまで痺れるような痛みが広がっていった。
 さすがはジウジツと言うべきであろうか。無傷で済むとはアルフレッドも思っていなかったが、
僅かな時間で右膝に深刻なダメージを受けた様子である。
 追撃が来ないと見て取ったミルドレッドは、アルフレッドから間合いを離しつつ徐に立ち上がると、
次いで脱臼していた左肩を強引に嵌め直した。これは相当な荒療治だ。
言うまでもなく機械の部品と人体は全く違う。関節の抜き差しなど容易く行えるものではなく、
脱臼した箇所はアルフレッドの右膝同様に深刻なダメージが残る筈だ。
 それでも彼女の表情は動かない。数度ばかり肩を回して調子を確かめただけで再び蛙の構えに戻った。
幾多の強撃を以ってしても、ミルドレッドの意志を挫くことは出来ないようだ。

「……どこでホウライを学んだ? それとも、お前はタイガーバズーカの出身者だったのか? アタシには全く見覚えがないんだがね」
「俺の故郷はロイリャ地方なんでな。見覚えがなくて当然だ。タイガーバズーカの出身者が師匠――ただそれだけのことだ」
「どこの誰かは知らないが、優秀な師匠のようだ。ホウライも十分に使いこなしている」
「いきなりどうした、気色悪い。おだてたって蹴りを出してやるくらいだぞ。お為ごかしで油断する程、世間を知らないわけじゃないんでな」
「事実を述べたまでのこと。……尤も、基礎と応用の中間くらいだがな、お前のホウライは。
まだまだスカッド・フリーダムのホウライには程遠い。まあ、“外し方”を知っていたことは褒めておこうか」
「外し方――ああ、『ホウジョウ』のことか? それこそ基礎だろうが」

 共に構えを取り、僅かに言葉を交わした後、両者は暫しの膠着状態となった。
 互いの手並みは確かめ合った。ホウライの使い手同士の戦いと言うことも認識している。
これからが本当の勝負であり、アルフレッドもミルドレッドも、いよいよ迂闊には動けないと言うわけだ。


「こんなにミルさんが苦戦するなんて信じられないな……。おまけにホウライ付き。あのヒト、ちょっと面白いね」

 これは、両者の激闘を傍観してきたモーントの感想だ。アルフレッドに対する偽らざる評価と言えよう。
 アルフレッド本人もミルドレッドと同等のダメージを受けた筈なのだが、その殆どが負傷の実態を掴み難い膝へ集中している為、
傍目には圧倒的な優勢に見えるらしい。成る程、先程の攻防も一見すると競り勝ったような印象だ。
 モーントの近くに在ったビアルタたちも、アルフレッドが見せ付けた凄絶なる技の数々に言葉を失っている。
 フェイ、イーライとアルフレッドが演じた三つ巴の決闘には彼らも立ち会っていた。
ザムシードとドモヴォーイは途中から闘技場へ赴いたものの、アルフレッドの潜在能力については微塵も疑ってはおらず、
連合軍の一角を担う者として確かに認めていた。知略と言うものを生来好かないビアルタなどは対抗意識を剥き出しにしているが、
しかし、彼の鍛錬を侮辱したことは一度もない。
 アルフレッドは強い。その認識は予め持っていた筈なのだが、闘気迸る激闘を鼻先にて見せ付けられてしまうと、
どうしても心穏やかではいられず、抗い切れないまま驚愕の波に飲み込まれてしまうのだ。
 ザムシードが受けた衝撃は、誰よりも大きかった。ミルドレッドと相対した際、彼はジウジツを突き崩せるだけの有効打を欠き、
攻め手を迷った挙句に手も足も出せなかったのだ。
 これに対してアルフレッドはどうか。彼も打撃を専門としており、ミルドレッドと対峙する上での条件は全く同じであったのだ。
自分は馬軍の将を名乗るのもおこがましい卑怯者だ――勇猛果敢に攻め入って好勝負を演じるアルフレッドと
不甲斐ない己を比べたザムシードは、自嘲と無念で眉間に皺を寄せた。
 少なくとも、自分には諸将を瞠目させるような戦いは不可能だと、ザムシードは考えている。
 見れば、敵対関係にある筈のジェイソンまでもがアルフレッドの繰り出す武技に酔い痴れ、大興奮しているではないか。
不貞腐れてそっぽを向くジャーメインも横目では彼を追跡している。
彼らの近くに在るデュガリら馬軍の同胞ですら、この戦いに釘付けの様子だ。
 以前よりアルフレッドに強い関心を抱いていたグンガルに至っては、自身の負傷も忘れて身を乗り出し、
一瞬たりとも攻防を見逃さないよう目を凝らしていた。
 そんな御曹司を案じるカジャムはともかく、ブンカンもまた眉間に深い皺を寄せていたが、果たして、どう言うことであろうか。
忠実なる群狼領の軍師のこと、全軍の士気や結束が荒事によって左右される状況を憂えているのだろうか。

(……違うな、あれは――)

 最初に浮かんだ仮説は誤りだとザムシードはすぐに気が付いた。彼はテムグ・テングリ群狼領の行く末を案じているのだ。
行く末と一口に言っても、戦局や今後の展望のことではない。群狼領を構成する将士のことである。
 怠惰の発端としてトラウムの使用を禁忌と定め、敢えて厳しい環境に身を於いて己の肉体を極限まで鍛錬する――
それがテムグ・テングリ群狼領の掟であり、実際に馬軍の将兵は、勇猛で名を馳せるヴィクドの傭兵にも勝る猛者揃いとなった。
故に如何なる相手にも不敗、不破でなければならないのだ。例え、合戦と言う大きな流れの中で敗れたとしても、
個々のぶつかり合いで遅れを取るわけにはいかなかった。
 つまり、パトリオット猟班との乱闘は、これまで馬軍が歩んできた道を否定するようなものと言うことだ。
確かにシュガーレイたち――いや、スカッド・フリーダムが誇る義の戦士たちは、いずれも超人的な戦闘能力の持ち主である。
それでも最強騎馬軍団を自負する以上、彼らと互角以上に戦い、最後には勝つことをザムシード以下群狼領の者は課せられている。
必勝にして不破、その覚悟がテムグ・テングリ群狼領であった。
 だが、パトリオット猟班との乱闘はどうだったか。カジャムやデュガリは善戦したが、
ザムシード自身も含めて多くの者が良いように甚振られ、総合的には完敗を喫したとしか言いようがなかった。
 そこに躍り出たのがアルフレッドである。三つ巴の決闘の折と同じくホウライなる闘術を駆使する彼は、
一進一退の末にミルドレッドを圧倒し、戦いを優勢に進めつつある。それは、本来ならばザムシードがしなければならないことであった。
ジャーメインに一蹴されたグンガル然り、モーントに翻弄されたビアルタ然り――
馬軍の将士たちは、善戦はおろか惨敗にも近い状況にまで追いやられていた。
 無論、アルフレッドもスカッド・フリーダムも、テムグ・テングリ群狼領のように何らかの禁忌を設けてはいない。
ある種、理不尽とも言える厳格な戒めを持たずして、馬軍より遥かな高みへ登り詰めたわけである。
その様を見せ付けられたブンカンが心穏やかでいられる筈もなかった。
 修練の為にトラウムを禁忌と定めてきたが、この戒めは却って将士の戦闘能力を弱らしめる足枷になってはいないか――
ブンカンがそのような懊悩に包まれていることは、言葉を交わさずともザムシードには察せられた。
身がはち切れそうになるこの屈辱は、他ならぬザムシード当人が一番強く噛み締めているのだ。


 ザムシードやブンカンの心を複雑に曇らせる戦いの再開は、初手と同様にアルフレッドの蹴りが発端となった。
腰から下に照準を合わせての蹴り込み――ローキックの応酬がミルドレッドを猛襲したのだ。
 四肢を床に付くと言う蛙の構えを取っている為、必然的にローキックはミルドレッドの頭部や肩口を狙う形となる。
いずれも今の彼女にとっては死守すべき弱点である。頭部は言うに及ばず、今一度、左肩に強撃を喰らおうものなら、
今度こそ完全に粉砕されてしまうだろう。
 ジウジツの要たる両腕の死守を意識してか、ミルドレッドの動きが変わった。
依然として身を低く構えているものの、ローキックに合わせて左右いずれかへ跳ねるようになり、
先程までとは身のこなしが大きく変わっていった。
 どうやら攻撃を回避しつつ、逆襲の好機を待つ戦法へ移行したようだ。
実際、防御と回避に重点を置いた為にアルフレッドの蹴りも命中する回数が激減していた。
避け損なって直撃される際にも腕、あるいは狙われた側と反対の掌で受け止め、ダメージを最小限に抑えている。
 アルフレッドの側も相手のガードを警戒し、横薙ぎに打ち込む以外にもローキックに変化を付けていく。
ガードの内側へ足を滑り込ませ、甲の部分でもって肘裏を打ち据えるもの、斜めから叩き落すものなど蹴り方も一定にはしなかった。
後者は主に左肩を狙う際の蹴り方だ。直撃の瞬間に力が分散することなく貫通する為、今のミルドレッドには何よりの痛打となるだろう。
 側面に回り込み、脇腹や腰、足を蹴り付ける場面も多い。対するミルドレッドも横滑りしながらアルフレッドの側面を脅かしており、
傍目には両者が円を描いて舞っているようにも見えた。

「……アルフレッド殿の動きが些か鈍ってござるな……」

 ミルドレッドに食らいついてローキックの雨霰を降り注がせていたかと思えば、
決闘の趨勢を遠巻きに見守っている諸将へ背中からぶつかってしまう程に間合いを取る――
そのような攻防を繰り返すアルフレッドに対して、守孝は険しい面持ちで呻いた。
 軽妙かつ機敏なフットワークで輪舞を舞っていることもあり、アルフレッドのローキックは、
打ち込みから引き戻すまでの動作が異様に速い。威力が発生した瞬間には足を引いているような状況であった。
 これはジウジツの妙技によって足を取られない為の工夫に他ならない。
 最大の武器を自負するだけあってアルフレッドの蹴りは平時であっても桁外れに素早い。
現在はそれに輪をかけて鋭さを増しているのだ。おそらくは本人の発揮し得る最高速度に達していることだろう。
 神の領域とも言うべきその加速の中に守孝は微かな異変を見出したと言うわけだ。
セフィとレイチェルも守孝に同調し、「右足がどうしても遅れている」と頷いている。

「何度となく膝を極められていましたからね。特に二度目の寝技が堪えたのでしょう。
……バカだな、アル君。泥を呑むにしたって、もっとやり方があるじゃないか」
「バカだから、コレしか出来ないんでしょ。うちの宿六みたいになって貰っちゃ困るけど、
もう少しだけ器用に立ち回れないものかしら。見ているこっちは心配でかなわないわ」

 セフィが委細を分析し、レイチェルが嘆息したように、恐るべき速度で攻め続けている筈のアルフレッドの体さばきは、
時間を経るにつれて右足の動きが鈍くなっている。右膝に抱えたダメージが確実に彼を蝕んでいるのだ。
 それでも超速を維持していることに変わりはなく、一見しただけでは判別のつかない小さな違和感ではあるものの、
ミルドレッドと言う破格の猛者との戦いに於いては、僅かに勢いが落ちただけでも死を招き兼ねなかった。
これまでの攻防を見る限り、彼女は好機を看過するような手合いではなかろう。
 最悪の事態を想定して重苦しい溜め息を漏らすふたりに向かって、
ハーヴェストは「あれでも器用にやってるほうよ」と柄にもなくアルフレッドをフォローした。

「あいつ、オノコロ原でローガンと稽古していたでしょう? あたしも何度か見学したんだけど、基本的には模擬戦なのよね。
……と言うか、それしか出来ないのよ、ローガンは。理詰めで説明出来るくらい頭良くないし」

 「全部を見ていたわけじゃないから正確なトコはわからないわよ?」と一呼吸を挟んだハーヴェストは、
自分の話と決闘とを交互に凝視するセフィたちに頭を掻きつつ、善戦の評をアルフレッドに与えた論拠を詳らかにしていった。

「ローガンはタイガーバズーカでも名の知れた格闘士だったのよ。自由自在に使いこなしてるからホウライばかり注目されているけど、
殴っても蹴ってもヨシ、絞め技やラフプレーまで何でもござれって言うのが、あいつの一番の強さなのよね。
当然、ジウジツだって習っていたわ。……尤も、自分で使うのは好かないとも言ってたっけ」
「つまり、アルは仮想敵としてジウジツの対処法もローガンから叩き込まれていた――そう言いたいわけじゃな?」

 相槌を打ったのは、ジョゼフである。ハーヴェストは新聞王の問いかけに首肯でもって応じた。

「模擬戦でホウライ以外のこともたくさん吸収したみたいだから、それも十分に有り得るわ。
少なくとも寝技の外し方や攻め方は習ったみたいね。……ホウライが使えて、その上、ジウジツとの戦い方まで知っていたからこそ、
さっきのやり取りでも膝を壊されずに済んだのよ。予備知識もなく挑んでみなさい。今頃、あいつは自慢の蹴りも打てなくなっていたわ」

 ザムシードですら二の足を踏んだジウジツを相手にアルフレッドが互角に渡り合える根拠を列挙していくハーヴェストは、
説明が一段落した後、伏し目がちに「本来、ジウジツは護身術なんだけど、ね……」と悲しげに漏らした。
 彼女の双眸はローキックの餌食と化したミルドレッドに注がれており、その横顔は憐れにも見える程、物憂げであった。
自分のチームメイトと同郷の友人とが命のやり取りをする様など誰も好き好んで見たくはない。
それ以上に護身の為の術が殺傷目的で使われることがハーヴェストには一等苦しいようだ。
 彼女の眼前で繰り広げられる輪舞の如き戦いは、なおもその激しさを増している。

 時折、ふたりの周囲に蒼白い火花が飛び散っており、この明滅が輪舞の趣を醸し出している。
つまり、アルフレッドがホウライを、ミルドレッドがホウライ外し――ホウジョウを同時に使用した証左でもあった。
 防御を強化する為にミルドレッドのほうがホウライの烈光を纏うこともあったが、
そのような状況にもローキックは止まらず、蹴り込みと同時にホウジョウを実行し、蒼白い装甲を打ち消していった。

「ホウジョウを使ったか。紙の上の知識だけでなく使ってみせるか」
「俺の師匠は模擬戦が大好物でな。ホウライ外しも出来ないようでは、身が保たないんだ」

 ホウライに続いてその外し方――ホウジョウをも使いこなすアルフレッドに目を細めたミルドレッドは、
彼の敢闘に応えようと言うのか、ここに来てまた新たな戦法を繰り出した。
幾度目かの回転の後、アルフレッドと正面切って対峙した瞬間、いきなり上体を起こしに掛かったのだ。
 両手を大きく広げながら身を引き起こした彼女の姿は、蛙の跳躍そのままであった。
常人離れした巨躯と言うこともあり、熊が獲物へ圧し掛かっていく体勢に見えなくもない。
 ミルドレッドが飛び上がったとき、アルフレッドはローキックを終えた左足を引き戻す最中にあった。
これはアルフレッドにとって絶対的に不利である。次なる蹴りを試みるにしても、先ずは伸ばした足を戻さなければ始まらない。
大振りの強撃、動作の小さい牽制を問わず、筋肉のバネを利かせるには不可欠な動作なのだ。
 言わば、弓を引き絞るようなものである。その間、身体の動きは著しく制限されてしまうのだが、
アルフレッドの場合は問題が更に深刻であった。現在の軸足は右足――痛めた側の足では、動きも鈍化せざるを得ない。
覆い被さろうとする巨人を切り抜けるのは、相当に骨が折れるだろう。
 当然、全てはミルドレッドが狙った通りの筋運びである。彼女はローキックに耐えながらアルフレッドの呼吸を読み、
打撃のタイミングを見抜いた瞬間、逆襲に転じたと言うわけだ。
 アルフレッドの左足は今もまだ中空にある――が、中程までは振り戻っており、ここから蹴りを速射することは不可能ではない。
問題はそこにあった。よしんば腹か腰に蹴りを直撃させられたとしても、当然ながらバネも威力も中途半端なものとなる。
拳で例えるならば、所謂、「小手先だけのパンチ」と言うわけだ。そのような浅い打撃でミルドレッドの巨躯を止められるだろうか。

「――貴様を仕留めるには、本気で殺す覚悟が要るようだな」
「誰が誰を殺すと言った? お前が? アタシを? ……いくらも保つまいに」

 浅い打撃を試みた際の展望について、瞬時にシミュレーションするアルフレッドだったが、いずれも結果は自分の競り負けだった。
筋骨隆々たる巨躯によって蹴りを弾かれ、続けざまに左足を捕捉されて寝技に持ち込まれて一巻の終わりである。
 中途半端な蹴りは絶対に通用しないと判断を下したアルフレッドは、床を踏む右足の裏にてホウライを爆発させ、
これを一種の逆噴射として真後ろに跳ね飛んだ。背中に括り付けたワイヤーでもって引っ張られたような絵面であり、
どこか珍妙ではあるものの、考えられる最善の緊急回避と言えよう。着地するまでの僅かな間に体勢を整え直した。
 ミルドレッドもまた両の足裏でホウライを爆発させ、猛獣の唸り声を引き摺るように急加速のタックルを仕掛ける。
改めて四肢を踏み締めるのではなく、立ったままでの突進であった。
 蛙の如き跳躍から続く二重の急加速は傍観者たちを大いに幻惑させたが、
ミルドレッドと同じ領域のアルフレッドの眼にはフェイントの効果すら発揮しない。
真正面で彼女の動きを見極め、彼女の右膝へ両側から横薙ぎのローキックを見舞った。
 身体能力の強化を始め、応用次第では無限の可能性を持ち得るホウライの使い手にとっては、
変則的な急加速など基本的戦術に過ぎない。これは、ホウライ使い同士の戦いなのだ。
 正面からタックルを迎撃されたミルドレッドは、ほんの一瞬だけ後方に逃れ、それから間髪を容れず再び間合いを詰めに掛かった。
寝技主体のジウジツにしては稀有なことながら、次に彼女が繰り出したのは足技である。
床を摺るような足捌きでもって素早く接近しつつ、アルフレッドの右足の甲を踏み砕こうとしたのだ。
 ほんの少しだけ持ち上げた足を一気に振り下ろすと言うシンプルな足技だが、
ここにミルドレッドの筋力、体重が加わろうものなら、痩身に近いアルフレッドの足など容易く潰されてしまうだろう――
その危険を承知の上で、彼は敢えて迎え撃つ構えを取った。

 ギリギリまで引き付けてからミルドレッドの足技を避けたアルフレッドは、これを軸にして彼女の懐にまで潜り込むと、
豪腕が動き出すよりも先に三連続の打撃を浴びせかけた。『バタフライストローク』と銘打たれたコンビネーションである。
 ジャブ、裏拳、手刀を精確に打ち分けるこの技は、全ての攻撃を片手のみで実行するのが特徴であり、
三段目の手刀から派生技の肘鉄砲へと繋げた場合、『ライトニングシフト』なる新たな名が与えられるのだ。
 “電光石火の如き神速の変位”とも呼ばれるこの肘鉄砲は、アルフレッドにとって切り札のひとつだった。
バタフライエフェクトの手刀は内から外へと振り抜く打撃である。その体勢から派生する切り札の肘鉄砲は、
伸び切った腕を急激に折り曲げ、腰のバネを手刀とは逆方向に振って繰り出すもの。そこには振り子の原理が働くと言うわけだ。
 最短の動作による派生、振り子の原理、肘自体の硬さ――三つの要素が絶妙に合わさったライトニングシフトは、
標的に防御も回避も許さず、鋭角に急所を抉る荒業であった。
 久方ぶりにこの技を披露するのは、ミルドレッドである。彼女とは身長差が開き過ぎている為、
バタフライストロークからライトニングシフトまで総計四撃は、顔面ではなく胸部への集中砲火となったのだが、
命中させる部位によって威力が落ちるものではない。トドメの肘鉄砲は鳩尾に突き入れた。
如何に強靭な筋肉の持ち主であろうともダメージは芯まで響く筈だ。
 肘でもって鳩尾を貫かれたミルドレッドの巨体は、超重量にも関わらず浮き上がっていた。

「今度はちゃんと褒めてやる。今のは良い一撃だ。……ちゃんと殺すつもりで仕掛けてきたしねェ」
「チィッ……――」

 しかし、ジウジツを相手に用いるには、ライトニングシフトは些か相性が悪かった。
四撃全てを突き入れた後、ジウジツの間合いから離脱しようと考えていたアルフレッドは、その寸前で右手を取られてしまった。
ライトニングシフトから構えを元に引き戻す一瞬の隙を狙われたのである。
 自身とアルフレッドの右肘を絡めたミルドレッドは、すかさず対の手でもって右手首をも捕まえた。
身を捩って脱出を試みようとするアルフレッドだったが、さすがに巨人の膂力の前には敵わない。
そうしている間にもミルドレッドは自身の左手首を右の五指で掴み、関節技を完成させてしまった。
 両手に梃子の原理を利かせると、たちまちアルフレッドの肩と肘が強引に引き伸ばされるのだ。
これは上腕全体を一気に痛めつけるジウジツのスタンダードである。
 自身の不覚を噛み締めつつ、アルフレッドは右腕を苛む激痛に耐え続けた。ミルドレッドの最大の武器は寝技である。
ジウジツの間合いにて標的を捉えた以上、この状態から引き倒しに掛かることであろう。
 案の定、彼女は右の内股に自身のそれを絡み付けてきた。足を払ってその場に引き倒し、寝技の地獄へ陥れようと言う魂胆であろう。
一度、転ばされたら最期、右上腕を極める関節技とて抗うことも出来なくなるだろう。
足腰の踏ん張りが利かない状況は、打撃を得意とする者にとっては致命的なのだ。
 だから、アルフレッドは耐え続けた。足を絡めても無意味と悟ったミルドレッドからローキックを打ち込まれても、
足の甲を踏まれても、上腕を絞める力を強められても、歯を食いしばって耐え抜いた。
 先程まで極められていた右膝と同様、次第に右上腕の感覚も痺れ始めている。
踏ん張りを利かせれば利かせた分だけ絞め付けが強くなるように完成されているのだ。
このまま寝技への引き込みに耐え続けたなら、腱を痛めるのは言うに及ばず、肩や肘の骨を圧し折られるに違いない。
 実際、彼女はそのつもりで関節を絞めており、一瞬でも気を抜くと先程の意趣返しが達せられるわけだ。

(折れるなら折れろ。それくらいの犠牲は痛くも痒くもないッ!)

 外野のイーライからは「口だけか、テメェッ!? 情けねぇッ! 啖呵切ったからには根性見せやがれ」と叱声をぶつけられたものの、
アルフレッドとて腕が破壊されるのを待っているわけではない。彼の言葉を借りるならば、根性を総動員して好機を探っているのだ。
 脛や甲をさんざんに痛めつけたミルドレッドが、頃合とばかりに再び内股を狙ってきたとき、アルフレッドはとうとう無二の好機を見出した。
 アルフレッドの双眸は、ミルドレッドのアバラ――肺の在り処を捉えて離さない。
視線の向かう先へと徐に左の拳を添え、今一度、足腰に渾身の力を込めた。だが、これはミルドレッドの足掛けに耐える為ではない。
地に根を張るかの如く床を踏み締め、反攻に転じようとする決意の表れなのだ。
 両足の甲も脛も思った以上にダメージを受けている。力を入れた瞬間に襲ってきた痛みからして骨にも異常がありそうだ。
今のところ、折れてはいないものの、亀裂であれば何箇所も走っているだろう。
足技を喰らう寸前、ホウライでもって防護を試みてはいたのだが、これに気付いたミルドレッドにホウジョウを合わせられたこともあり、
ダメージの殆どが緩衝し切れないまま貫通していた。
 それでもなお渾身の力を入れるのだから無謀としか言いようがあるまい。
右腕を極められた状態で内側に腰を捻り、ミルドレッドへ拳を添えようとするのもまた無茶な話である。

「悪くない根性だ。何時まで持続するか見届けてやろうか」

 ミルドレッドもアルフレッドに何らかの企みがあることは見抜いていた。
いや、見抜くも何も、アバラの上へ不自然にも拳が添えられたなら怪しむのが正常であろう。
 だが、警戒まではしなかった。“添えられた”と言っても、アルフレッドの拳とミルドレッドの腰の間には、
一インチ程の隙間が開いている。腰を捻りながら加撃を試みるならまだしも、先に添えてしまっては有効な打突など不可能である。
 アルフレッドの拳を振り払おうともせず、関節技と足掛けへ注力するミルドレッドの胸部に蒼白い電流が這いずり始めた。
ホウライ――いや、ホウジョウの輝きだ。念の為、ホウライによる攻撃の対策だけは整えておこうと言うのだ。
 しかし、アルフレッドは拳を引こうとはしなかった。一インチの距離を保ったまま、足腰に続いて今度は全身の力を一気に振り絞った。

 傍目には何をしようとしているのか理解出来ないアルフレッドへ佐志の仲間より先に反応を示したのは、
パトリオット猟班側のジャーメインであった。
 そっぽを向きつつ目端で戦いの様子を追っていた彼女は、アルフレッドの挙動に閃くものがあり、
切羽詰った調子でミルドレッドに「今すぐ離れて! それ、ワンインチパンチだよっ!」と呼びかけた。
 格技、武術の研究が盛んなタイガーバズーカの出身者だけあってアルフレッドの拳の正体にも思い当たる節があったようだ。
果たして、ジャーメインの予想は的中した。アルフレッドはワンインチパンチ――アルフレッド流に言うと、ワンインチクラックだ――でもって
ミルドレッドを迎え撃とうとしていたのである。
 この状況でアルフレッドの手の内が明らかになることは、ミルドレッドにとって何よりの幸運であろう。

「――ぬッ、……が、あぁ――ッ!?」

 しかしながら、その呼びかけは些か遅かったらしい。ジャーメインの声が届く前にミルドレッドの巨体は右方向へと吹き飛ばされ、
硬い床へと放り出されてしまった。当然、アルフレッドに絡めていた両手も、足さえも引き剥がされている。
 落下する寸前に受け身を取り、横転と言う醜態を晒すことは防いだものの、肋骨を抜けて肺にまで波及したダメージは激甚であり、
暫時、身動きさえ満足に取れない状態が続いた。
 身体をくの字に曲げて悶え苦しむミルドレッドの前に立ったアルフレッドは、
痛手を確認する為に右腕を回しつつ――ある一定以上には肩が上がっていなかったが――、
「何がタイガーバズーカだ。スカッド・フリーダムだ。聞いて呆れる」と吐き捨てた。

「ホウライに溺れるのは小賢しいと言ったばかりだろうが。死ななければ治らないようだな、その阿呆は」

 今や蹲るしかないミルドレッドの眉間を遠心力たっぷりの後ろ回し蹴りが弾き飛ばしたのは、
アルフレッドの口からこれ以上ない程の屈辱的な罵声が発せられた直後のことである。
ライトニングシフト、ワンインチクラックに勝るとも劣らない彼の必殺技、『パルチザン』である。




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