12.苦しみの形


 アルフレッドの両足に纏わり付く蒼白いスパークは、巨人が動かなくなった後も散乱する瓦礫や血塗れたマウスピースに伝播し、
何かを焦がすような音を立てていたが、仄かな閃きの後、余韻たるヴィトゲンシュタイン粒子の燐光まで全く消え失せた。
 最後の一瞬まで油断のならない凄絶な決着であった為か、決闘の趨勢を見守っていた諸将は、
軍議の間が静寂に包まれた後にも緊張を解きほぐすことができずにいる。声を発する者さえいなかった。
何しろアルカークまでもが身を強張らせたままなのだ。筆舌に尽くし難い戦慄によって打ちのめされたことは、
呆けたような面持ちから窺い知れると言うものである。
 それはパトリオット猟班も同様であろう。絶対不破と思われた猛者の一角が早くも倒された衝撃は大きい。
現在もエルンストと睨み合ったまま微動だにしないシュガーレイはともかくとして、
ミルドレッドの進撃に勝利を確信していただろうジャーメインらは、彼女に駆け寄ることさえ忘却してしまっている。

「さんざん殴る蹴るをしといて、フィニッシュが投げって……。詐欺師もイイござるね。正真正銘の性悪ってカンジぃ?」

 凍り付いた空気へ変化をもたらすきっかけは、溜め息と共に吐き出されたローズウェルの悪態であった。
 アルフレッドがミルドレッドを仕留めたのは、『フランケンシュタイナー』と呼ばれる高難度の投げ技である。
両足でもって相手の頭部なり頸部を挟み込んだまま後方へと跳ね飛び、遠心力を利用して地上に叩き落すのだ。
対象が重ければ重いほど落下時の速度が増すと言う特性を備えており、ミルドレッドを撃墜するにはうってつけであった。
 狙える状況が限られていることもあり、普段の戦いでは滅多に披露しないものの、
アルフレッドにとってはドラゴンレイジ・エンターに並ぶ切り札のひとつである。
 切り札と称するだけあって威力も他の技とは掛け離れている。「焼き尽くされた者たちの痛みとは比べるまでもない」などと嘯き、
痛覚を投げ棄てたかのような猛襲を繰り返してきたミルドレッドでさえフランケンシュタイナーの前には適わなかったのだ。
頭部は勿論のこと、内臓にまで激甚なダメージが及んでいるに違いない。
 文字通り、余力を全て出し切ったアルフレッドは、肩で息をしながらミルドレッドを見下ろしている。
 眼下に横たわっているのは、パトリオット猟班のジウジツ使いなどではなく、かつての己自身である。
大望として掲げた復讐を果たす為、己が傷付くことを厭わず、また他者を傷付けることに痛みすら覚えなかった在りし日の姿が、
鏡にでも映したかのように現れたのだ。
 膿んだ刀創のように生々しく残る記憶から悔恨と言う名の痛みがぶり返し、思わずアルフレッドは瞑目した。

「スカッド・フリーダムの隊士もギルガメシュの餌食となっている。……弔い戦もせずに何が義の戦士だ」

 ――そう口走ったミルドレッドの思いを誰よりも理解できるのは、他ならぬアルフレッド自身であった。
そして、その思いが行き着く成れの果てが如何に惨めで無意味であるか、彼は身を以って知っている。
 だからこそ、パトリオット猟班の参画と台頭を許せずに立ちはだかったのだが、
他の何物をも犠牲にし、復讐の一念を槍に換えた戦鬼はさすがに手強い。
三つ巴の決闘の疲労が残っていたとは言え、たった一戦を切り抜けただけで満身創痍と言う有様だ。
 銀髪の復讐鬼を相手にしたニコラスもさぞや難儀したことだろう。
愚劣な自分の為に身体を張ってくれた親友の労苦を思うと、アルフレッドは胸が痛んで仕方がなかった。
 胸の痛みは、秒を刻むにつれて烈しさを増していく。今の彼には身体の疲弊や負傷よりも心の軋みのほうが辛かった。
ミルドレッドが曝け出した復讐の狂気は、それ自体が深く昏い病理の発露である。
 己を蝕み、冒していった病理がエンディニオン全土に広がろうとしている。心技体を極めた筈の義の戦士でさえ抗えない狂気が、だ。
復讐の念に衝き動かされた者たちは、其処彼処で暴力性を解き放つだろう。
それを思うと、どうしようもない苦しみがアルフレッドを苛むのだ。

(災いの根はひとつでも取り除く……)

 心の奥底より沸き起こる衝動を、邪悪とは言い難い思いの発露を、力ずくでねじ伏せるのは正解ではなかろうが、
今はこれしか方法がない。恨みを買ってでも堰き止めねば、彼らは際限なく狂気を醸造してしまうのだ。
 無論、ミルドレッドを倒しただけでパトリオット猟班の暴虐に歯止めが掛かるわけではない。
アルフレッドにはシュガーレイを食い止めると言う大仕事が残されていた。
隊士たちの病理を摘み取ろうにも、リーダーの暴走を抑えないことには何も始まらない。

 決意と共に再び双眸を開くアルフレッドであったが、視界に捉えた世界の彩(いろ)は、突如として黒い影に覆い尽くされた。
その闇の正体は超常現象の類ではなく、ましてやミルドレッドとの戦いで負ったダメージの反復でもない。
極めて人為的かつ物理的なものである。
 ジャーメインだ。音もなく、残像すら伴わない速度で跳ね飛んだジャーメインが、両の太股でもって彼の顔面を挟み込んだのである。
両膝へと体重を落とし、首を固定した少女隊士は、その状態でアルフレッドの脳天へと肘を突き立てた。
それも両肘だ。下腕をぴったりとくっ付け、全く同じ箇所を幾度となく抉っていく。
銀髪の旋毛は徐々に赤黒く染まり始めていた。
 軽量級であることは、体格を見れば瞭然である。ウェート自体はミルドレッドの三分の一にも満たないだろう。
しかし、アルフレッドの脳天にて鳴り響く激音は、とても「軽量級」の括りには当てはまらない。
野太い杭をハンマーで打擲するような加撃は、誰がどう見てもヘビー級のプレッシャーである。
 アルフレッドにとっては二重苦と言う状況であった。肘打ちでもって脳天を揺さぶられるのと同時に、
折られた左肩にも膝がめり込んでいるのだ。耐え難い激痛が押し寄せているに違いない。
 両足の踏ん張りを見る限り、辛うじて意識こそ留めているようだが、骨折を免れた筈の右手が反撃に動く気配はない。
やはり頭部へのダメージが動きを鈍らせているようだ。
 一方のジャーメインは、肘の威力を驕るでもなく喜ぶでもなく、ただひたすらに怨敵を死に追いやるべく終始無言で加撃を続けている。
翡翠色の瞳は、明らかに狂気で歪んでいた。

 当然ながら軍議の間は騒然となった。如何に仲間を倒されたとは言え、激闘を終え、疲弊し切った人間に襲い掛かるなど
不意打ちとしては極めて悪質だ。理性も義も欠くジャーメインの所業は、彼女と近しい間柄のモーントでさえも眉を顰めている。
 深い溜め息をひとつ吐き捨てた彼は、両の拳を鳴らしながらジャーメインのもとへ歩みを進めていった。
言わずもがな彼女への加勢ではない。睡魔と格闘中のようにも見える垂れた双眸には、援護と正反対の意思が明白に宿っていた。
実際、誰かが介入しない限り、ジャーメインは暴走し続けることだろう。
それ以外の理由で鉄槌が止まるとすれば、アルフレッドが息絶えた瞬間のみである。

「……これもぼくの務めだから。ああなったメイは、ぼくしか止められないよ」

 卑劣と怒号し、アルフレッドへ加勢しようとする守孝を押し止めたモーントは、責任をもってジャーメインを鎮撫する旨を伝えるや否や、
その場で軽やかに飛び跳ね始めた。間もなく跳躍は一定のリズムを刻み始め、
先程、ビアルタを翻弄した幻惑のステップにまで昇華されていく。得意のグリマにてムエ・カッチューアを押さえ込む腹づもりのようだ。
 尋常ならざる耐久力を持つモーントを指して、ミルドレッドは「不破の盾」と呼んでいた。
ムエ・カッチューアを巧みに操り、ヘビー級の打撃を生み出すジャーメインとはまさしく好対照と言えるだろう。
即ち、彼にはジャーメインの猛襲を弾き返す自信があると言うことだ。

「あなたたちにも思うところはあるかも知れないけど、ここはぼくに任せて欲しい。
どうせこちらの負けなんだ。それなら、いたずらに負傷者を増やすことはないでしょう?」
「されど、アルフレッド殿は我らの同志。そこもとに一切を委ねるのは筋違いでござろう」
「それを言うなら、メイはぼくらの仲間だ。それに、ぼくにはメイを守る約束がある。……これ以上、メイにバカな真似はさせたくないんだ」
「……失礼を承知で言上仕るが、そこもと一人(いちにん)で足りる相手でござろうか? 不躾ながら某もお供仕るぞ」
「それでは『負傷者を増やさない』と言う約束から外れることになる。ぼくは約束は絶対に守る」
「ことを成す自信がござるか?」
「ぼくはメイのスパークリングパートナーをやってきた。癖からホクロの数まで全部分かるよ」
「ホクロの数は無関係でござろうが――……なれば、そこもとにお預け致そう。アルフレッド殿のこと、くれぐれもお頼み申す」
「約束する」

 僅かばかりの逡巡を経た後、守孝はアルフレッドの救援をモーントへ一任することに決めた。
打撃に対する圧倒的な耐久力、仲間の暴走に対する責任感――
この場を取り静めるのは、様々な意味でモーントが適役と判断したのである。

 ところが、モーントがグリマの技術を発揮するより先に事態が急変した。
通算何度目とも知れないが、ジャーメインが両肘を振り上げた瞬間、されるがままの状態だったアルフレッドの右手が
電光石火の速さで動いたのである。
 肘を上げた際に生まれた僅かな隙間へ右手を滑り込ませ、セーターとブラウスを掴むなり力任せにジャーメインを引き剥がしたのだ。
 打撃はヘビー級ながらも身体そのものは軽量級である。いとも容易くアルフレッドの腕力に振り回され、
そのまま地面に叩き付けられてしまった。勢いが付き過ぎたせいか、セーターとブラウスの一部が引き千切れ、
引き締まった素肌とストライプ柄のインナーが露になったものの、ジャーメインは気にも留めずに反撃へと転じていく。
少女らしい恥じらいよりもアルフレッドを殺傷することに意識が研ぎ澄まされているようだ。
 ムエ・カッチューアとは、相手の頸部へ組み付いた状態――首相撲と呼称される――から乱撃を繰り出すことに
重点を置く古流武術であるが、接近あるいは中距離での立ち技も他の格技に引けを取らない威力を秘めている。
爆発的としか言いようのない打撃の恐ろしさは、ボロボロになったグンガルの腕が証明済みである。
 床の上を転がりつつ体勢を立て直したジャーメインは、屈伸の力を利用して再度飛び上がり、
アルフレッドの顔面へと鋭い膝蹴りを繰り出した。その照準は顎の粉砕に絞り込まれている。

「……ムエタイ――いや、これは……」

 疲弊が圧し掛かる身を揺り動かし、右の掌でもって飛び膝蹴りを受け止めるアルフレッドだったが、
ジャーメインの動きは寒気がする程に鋭敏で、情けや容赦が少しも見られない。
 彼女は右膝を突き込んでいた。アルフレッドにこれを防がれたと見るや、
中空にて身を翻し、今度は反対の左足を薙ぎ払ったのである。姿勢こそ独特であるが、内側へと捻じ込む前回し蹴りであった。
 一切の無駄を削ぎ落としたジャーメインの体さばきは、同じく蹴り技を得意とするアルフレッドの目には脅威として映っていた。
受け止められた右膝を回転の軸に据え、殆ど密着状態から前回し蹴りを繰り出す形となったのだが、
それはつまり、足の可動開始から直撃へ要する距離が最短になったことをも意味している。
 受ける側――アルフレッドにとっては、攻守を選択する時間的余裕が極端に短くなると言うことだ。
ジャーメインの左足が動いたときには、既に彼の身体能力を以ってしても回避は難しくなっており、右腕一本でのガードを余儀なくされた。
 これは大きな賭けである。諸将はジャーメインの脚力を周知している。とても片腕のみで防ぎ切れるものではない。
腕の芯にホウライの力を通し、骨を圧し折られることがないよう備えるアルフレッドではあったが、
どこまで効果を発揮するのかは予想が立てられなかった。

(右膝を極められたときと同じか――よくよくこの連中は厄介だ)

 幸いにしてジャーメインがホウライ、ホウジョウを発動させることはなく、前回し蹴りは片腕のみのガードで凌ぎ切れたものの、
代わりに心理的なプレッシャーは一層強まってしまった。ホウライによって防御を固めていたにも関わらず、
右腕を骨身が軋む程の衝撃が貫いたのだ。まともに喰らっていたなら、グンガルの二の舞は免れなかっただろう。
 蹴りにはアルフレッドもそれなりの自負がある。パルチザンを筆頭とする蹴り技でもって幾多の危難を潜り抜けてきたのだ。
コンディションさえ万全であれば、ムエ・カッチューアとも互角以上に張り合えた筈である。
 しかし、残存する体力は乏しく、攻守の要となるホウライとて数度も使えない状態だ。
さんざん痛めつけられた両足も限界に達しており、僅かでも気を緩めると震え出す有様であった。
 頭上より滲む鮮血は頬を伝って顎の下へと零れ落ち、首から下げた灰色の銀貨を濡らしている。
脳天から顎下へ至る道程には右目があった。日頃の行いが祟ったのであろうか、どす黒い血によって右の視界が閉ざされ、
アルフレッドは更なる窮地に追い込まれた。右腕一本しか使えないときに同じ側の目が見えなくなるのは、殆ど致命的な事態である。

 それでも彼は歯を食いしばり、両足に渾身の力を込めて踏ん張りを利かせた。
 左足の一撃をもガードされたジャーメインは、さながら独楽のように中空にて身体を回転させ、右肘でもって追撃を図った。
跳躍を交えての攻防はアルフレッドも苦手ではなかったが、この場に於いてはジャーメインが遥かに優勢である。
 ガードを固める為、水平に構えていた右腕を垂直へと起こし、これと合わせて拳を僅かに引いた。
右拳を突き上げて肘を迎え撃とうと言うのだ。僅かに開いた右足を内側へと捻り、
次いでこの螺旋運動を腰にも加え、右の腕と手首にまで伝達させていく。
 元来、回転とは強い力を発生させる動作なのだ。アルフレッドは爪先を起点とする捻りを全身に連動させ、
練りに練った力を回転の到達点である拳にて解き放とうとしていた。
 万全を期すべく最後の力を振り絞ってホウライをも発動させている。
纏わり付く糸のように爪先から拳頭へまで駆け抜けた蒼白い電流は、さながら螺旋運動の軌跡と言うわけだ。
 全身の筋肉、関節をも駆動させたアッパーは、ワンインチクラックにも匹敵する打撃となるのだった。

 技名を『スピンドルバイト』と称するアッパーは、駆け抜ける昇竜の如くジャーメインの肘を迎え撃った。
あるいは回転の力でもって肘を弾き飛ばせるともアルフレッドは考えていたのだ――が、
その目論見はジャーメインに見抜かれてしまっている。
 振り返れば――彼女はワンインチクラックの原理を逸早く読み、これを喰らおうとするミルドレッドに警戒を発していた。
武術研究で栄えたタイガーバズーカの出身らしく、打撃についての知識が余人に比して豊富なのである。
螺旋運動がアルフレッドの拳に及ぼす効果など、熟考するまでもなく分かったようだ。
 肘と拳頭が直撃するその瞬間にジャーメインはホウジョウを発動させ、スピンドルバイトからホウライの輝きを奪い取っていった。
 蒼白い火花が衝突し、ホウライが相殺されたからには、純粋に互いの身体能力で勝負を決することになるのだが、
さしものアルフレッドも超人的なスカッド・フリーダムには遠く及ばない。
鉄槌によって右の拳を砕かれ、更には芯をも貫く衝撃でもって手首まで叩き折られてしまった。
 拳を貫通したダメージは、肘にまで一直線に達している。関節の粉砕と言う最悪の事態には至らなかったものの、
靭帯は相当な深手を負ったのは間違いない。今や、肘から下が上手く動かなくなっている。
左腕に続き、右腕までもがれたものと諦めるしかなかった。

「これで終わりと思わないでよっ! ミルさんの恨みッ!」
「恨みだと? ……所詮、そこで行き詰まりか。その程度の集まりか」
「あんたに……あんたに何がわかるって言うのよッ!?」
「煩い、黙れ」

 ジャーメインの猛攻はなおも止まらない。砕いた拳に肘を押し付け、これを軸にして身を翻し、
アルフレッドの背後へと素早く回り込んだ。その最中に彼の両足が小刻みに震えているのを見て取ったのであろう。
着地と同時に轟然とローキックを繰り出した。狙いは右の膝裏――関節を破断するつもりだ。
 ムエ・カッチューアを使いこなすジャーメインが己の蹴りへ絶対的な自信を持っているように、
アルフレッドも足技では誰にも負けられない。振り向いてからでは確実に間に合わないと判断し、
後ろ足を突き出してジャーメインを迎え撃った。
 彼女がローキックを繰り出したのは右足である。その側面に自身の左足裏を打ち付け、直進方向を僅かに反らして直撃を回避した。
足を使った防御法の基礎であるが、力任せの応戦を予想していたジャーメインの虚を衝いたらしく、
彼女が追撃に転じるまで僅かに時間が開いた。動揺を落ち着けるまでのほんの数秒ではあるものの、
振り返って構えを取り直すには十分である。
 正面切って向き合ってからは、怒涛の如き蹴りの応酬だ。
打点を問わず、ジャーメインが足を繰り出す度にアルフレッドも内股や脹脛へ蹴りを合わせ、攻撃の拍子を崩していく。
互いの脛を激突させた場合、確実に力負けして足が折れる――それ故に直接的な攻撃力が低い内股などを蹴り込み、
徐々にでも戦う力を削り取るしかアルフレッドには手立てがなかった。
 時折、間隙を縫うようにして肩や腰を蹴り付け、体勢を崩そうと試みるが、
今や小柄なジャーメインを押し倒せるだけの力も発揮できなかった。
 両腕が使えなくなった為、ガードにも難儀する始末だ。一撃必倒を招き兼ねない上段への蹴りに意識を取られた挙げ句、
中段あるいは下段に追撃を打ち込まれる局面もある。そうした場合には膝を折り畳み、
なるべく広い面で衝撃を受け止めているのだが、これもまた一長一短である。
ガードを行う度にアルフレッドの足の動きが悪くなっていくのだ。
 背後からのローキックを受け流したときと同様に、足の裏あるいは側面でジャーメインの蹴りを受け流し、
力の作用をも緩衝すると言う防御法も使えなくなってしまう。フットワークの面でも彼女とは大きく差がついていた。
即ち、回避の成功率まで極端に低下すると言うことだ。

「――貰ったッ!」

 ついには蒼白いスパークを纏ったミドルキックがアルフレッドの右脇腹を捉え、その身体を浮き上がらせた。
 ギリギリのところで意識を繋ぎ、踏み止まって撥ね飛ばされることは免れたものの、その代償はあまりにも大きい。
蹴りの威力はアルフレッドの全身へ容赦なく降り掛かり、肋骨の折れる音が軍議の間に響き渡った。

「みんな、死んでしまった! 死んでしまったのにッ! ……あいつらのせいで、みんながッ!」
「“みんな”? その全員が身内なのか? 違うだろう。他人もいた筈だ。いや、他人のほうが多かっただろう? 
血縁もないただの同僚まで憐れんであげる優しい自分と言うものか? 楽しいよな、そう言う妄想は」
「な――ッ!」
「任務へ当たるからには殉職も覚悟の上だろうが。同情だけならまだしも何の意味もない報復とは……。
全く救いようがないな。……お前のしていることは、逆恨みと何も変わらない」
「あんたは……、あんたはァァァ――ッ!」

 もう一度、同じ箇所に蹴りを喰らおうものなら折れた肋骨が内臓に突き刺さる――
極度に体力を消耗し、度重なる負傷によって両足の動きが鈍り、あまつさえ両腕の機能が失われると言う悪条件の中、
とうとう生命に関わる大きな爆弾まで抱えてしまったのだ。
 それでもアルフレッドはジャーメインへの批難を止めなかった。口を塞ぐどころか、口汚い挑発は加速さえしている。
 その物言いは、ジャーメインばかりか、パトリオット猟班全体を侮辱しており、癇に障ったらしいモーントは、
「やっぱり助けなくてもいいかな」と守孝に尋ねている。

「バンテージ巻いてないし、ボコられても死ぬことはないよ。半殺しくらいは覚悟してもらわなきゃだけど。
メイはバンテージ巻いてからがコワいからね」
「な、なるべくならば、穏便に済ませて頂きたくお願い申し上げ奉る」

 いつもながら表情こそぼんやりとしているものの、その口調は非常に刺々しい。
どう考えてもアルフレッドの側に非がある為、救助の打ち切りを仄めかされた守孝も返答に困って当惑するばかりであった。

「スカッド・フリーダムの――義の絆は固いのよ、アル。正義の名のもとに紡がれた血の結束は……」

 ジャーメインの心情に寄り添ったハーヴェストの呟きは、アルフレッドの耳には決して届かないだろう。
仮に聴こえていたとしても、その意味を理解したとしても、
彼は冷酷な罵りでもってパトリオット猟班の“大望”を否定し続けるに違いない。
 血の結束か、あるいは他に何か復讐の根源があるのか――ジャーメインの双眸は、狂気の色をより強く、濃くしていく。
 足裏を押し付けるような前蹴りで間合いを離すや否や、助走もなく両足の屈伸のみで一気に跳ね飛び、
アルフレッドの脳天目掛けて肘を振り落とした。血の滲む負傷箇所への追撃である。
 最早、両手はガードに使えず、また上段蹴りでも弾き返せないと判断したアルフレッドは、
背を向けるようにして半身を反らし、肘を避けるのと同時に後ろ回し蹴りを放った。
踵をぶつけるのではなく、脹脛に彼女の首を引っ掛けて横倒しにするつもりだ。
 ジャーメインはすぐさまに彼の狙いを察知し、反射的に屈み込んで横薙ぎを避けた。
膝を折り曲げると言うことは、ムエ・カッチューア最強クラスの技への布石でもある。
 当然、アルフレッドもこれを警戒している。後ろ回し蹴りを放ったまま、独楽の如く更に身を旋回させ、
反対の足の脛をジャーメインの脇腹へとねじ込んだ。
 先程の強撃で肋骨数本を折られているアルフレッドにとっては、ここまで密着するのは極めて危険である。
ムエ・カッチューアの凶器は足だけではない。肘や拳も巧みに操るのだ。
部位に関わらず打撃を一度でも喰らえば即死と言う状況であった。
万が一、首相撲へ持ち込まれたなら、その瞬間に死神が降り立つだろう。
 それでも敢えて彼は接近技を試みる。ジャーメインの体勢が僅かに崩れ、これを見て取ったアルフレッドは、
中段を抉ったのと同じ足で膝へのローキックに移行し、ダメ押しで顔面にまで足刀を突き込んだ。
言わば、足でバタフライストロークを放つようなものである。
 ホウライの維持が困難なほど消耗しているとは思えない鋭敏な連続攻撃だったが、右目が閉ざされている為、命中率は極端に低い。
ローキックは容易く避けられ、足の側面を剣先に見立てて打ち込む上段横蹴りは、なんと頭突きでもって受け止められてしまった。
 愛らしい額にも関わらず、鋼鉄の如き頑強さである。足刀を喰らったと言うのによろめきもしない。
 上段横蹴りに用いた右足を一瞬で引き戻し、これを屈伸させつつカンガルーのように反対の後ろ足を突き出す変則的な技は、
ライトニングシフトの代用とも言えるだろう。しかし、ローアングルからの奇襲もジャーメインには通用せず、
右拳の一突きでもって弾き飛ばしてしまった。

「しぶとい! しぶといっ! しぶといッ!」
「貴様に言われたくはない」

 弾かれた勢いをも利用して身を翻したアルフレッドは、軸足を入れ替えつつ再びジャーメインに後ろ回し蹴りを見舞った。
得意のパルチザンではない。袈裟切りに急降下させた踵で内股を打ち据え、股関節にダメージを与えようと言うのだ。
 狙い通りに左の内股に踵をめり込ませ、そこから更に技を変化させて同じ足の甲を踏み潰そうとするアルフレッドであったが、
さすがにこれは避けられた。
 反撃は、骨折したアバラに対する横回しの膝蹴りである。しかも、だ。膝頭には蒼白いスパークが煌いていた。
致命傷となるであろうこの一撃は、ホウジョウを併用した右足のガードで凌いだものの、
続けざまに振り抜かれたロングフックは如何ともし難く、とうとう顔面への強打を許してしまった。
 その瞬間、口から鮮血が迸る。彼女のロングフックは鋭角に頬を打ち据えたが、しかし、口の中を切ったにしては出血量が多い。
あるいは、顎を痛めたのかも知れない。
 ジャーメインの一撃一撃は極めて重く、アルフレッドを着実に死の道へと追いやっていた。

(……“これ”に呑み込まれるのは、俺ひとりで十分だ。誰にも同じ過ちは繰り返させない――)

 蹴りに、拳に宿った彼女自身の痛みと苦しみを、アルフレッドは確かに感じ取っていた。
肉を打ち、骨を軋ませ、血を凍らせるこの力は、かつては彼の身にも宿っていたのである。
 だからこそ、ここで挫けるわけには行かないのだ。復讐と言う名の悲しい連鎖を断ち切り、
万全の状態にて逆転の秘策を完遂する――その為には、如何なる暴威にも屈したりはしない。

 ロングフックから続く左右の拳の乱れ打ちにも、拳と同じ軌道で追いかけてくる肘にも、アルフレッドはじっと耐え続けた。
遠のきかける意識を懸命に引き留め、ジャーメインの身体が僅かに開いた瞬間、右肩を押し当てるようにして懐に飛び込み、
サイレントイラプションを見舞った。
 このとき、ジャーメインは右手の二指にて目突きを狙っていた。流血で閉ざされた右目は黙殺し、
一先ず左目のみ抉ろうとする突き込みをぎりぎりまで引き付けてから避けつつ、間合いを詰めたのである。
 全身を一瞬にして酷使する体当たりは骨折箇所への反動が恐ろしく大きく、
下手を打てば自分のほうが致命傷を負い兼ねない。殆ど捨て身の一撃であった。
 身の裡に溜めた力を一気に解放するサイレントイラプションは、どうやらジャーメインにとっても予想を上回る強撃であったようだ。
相当な距離を吹き飛ばされた彼女の口元には、一筋の鮮血が見て取れた。
 体当たりが決まった瞬間、両者の足元では粉塵が舞い上がった。衝撃波が周囲に輻射された証左であり、
また、その現象(こと)がサイレントイラプションの威力を物語っている。

「……なんなのかな、ホント。うちの相方も頑丈だけど、それと同じって言うか……血だるまになってるから全く同じじゃないだろうけど……」
「俺には俺の使命がある。それを全うする為だ。……ただ、それだけだ」

 さしものジャーメインも眉間に皺を寄せている。今やアルフレッドの顔面は青痣だらけで、生気など半ば失せかけていた。
とても戦いを継続できるようには見えない――が、それでも構えを作り、彼女の前に立ちはだかる。
 その様は永遠に戦い続けるイモータル(不死者)の如きおぞましさを纏っていた。


「……まだ続けるつもりか?」

 アルフレッドの荒い呼気が軍議の間に響く中、これまで無言を貫いてきたエルンストがついに口を開いた。
 と言っても、アルフレッドを諌めようと言うのではない。部下が暴走しようとも、返り討ちに合おうとも、
さながら根競べのように微動だにしないシュガーレイへの反応である。
ゴーグルの下に覗ける濁った双眸を馬軍の覇者へと向けたまま、パトリオット猟班のリーダーは一言も発していなかった。
 長時間に及ぶ乱闘がもつれる最中、両者は共に沈黙を保っていた次第だ。
仮に本当の根競べと言うことであれば、先に声を出したエルンストの敗北と言うことになるだろう。
これを自身の勝利と捉えたのか、シュガーレイの側もようやく返答を紡ぎ始めた。

「壊れていると思うか。そうだ、壊れている」

 ところが、だ。粘り勝ちのシュガーレイが発したのは、先程の問いかけに対する返答などではなかった。
エルンストは不毛な睨み合いの継続を問い質したのであり、これでは会話として全く成立していない。
互いの言葉が一方通行と言う状況であった。
 今一度、シュガーレイと視線を交えたエルンストは、ややあってから小さく溜め息を吐いた。
 何とも器用なことであるが、馬軍の覇者は左目にシュガーレイを、右目にアルフレッドをそれぞれ捉えている。
復讐と言う妄念に憑依され、暴走を繰り返すミルドレッドたちは勿論のこと、
部下の凶行を制止もせずに黙認するシュガーレイは、成る程、本人が言い放った通り、人格が破綻しているのかも知れない。
 アルフレッドから口汚く挑発されたとは言え、ミルドレッドもジャーメインも、正常な思考とは思えない暴虐でもって軍議を座礁させた。
今でこそ大人しくなっているが、ジェイソンやモーントも同罪であろう。
何しろエルンストは、自身の側近と実子に重傷を負わされたのだ。

「……壊れていて何が可笑しい。エンディニオンはとうの昔に壊れている」

 エルンストの返答を待たずにシュガーレイは自分たちの破綻と、その病理を繰り返した。
エンディニオンは壊れている。だから、自分たちも壊れた――論法としては相当に強引なのだが、
パトリオット猟班の成り立ちを省みると、彼のこの発言もあながち大外れではなかろう。
他の者はどうあれ、シュガーレイとその側近たちの目には、この世界は壊れ物のように映っているのだ。
 凡庸なる者であれば、自虐的とも言うべきシュガーレイへ全くその通りと首肯したであろうが、エルンストは違った。
暫しの間、首を傾げた後、「何を以って崩壊と定めるのかは知らんが――」と返答を切り出した。

「お前たちは亡き友の為に戦っているのだろう? 一体、それのどこが破綻なのだ? 心は正しく働いている。
……いや、心根は人並み以上に清らかだと思うのだがな」
「……何を……、言っている……」
「アルフレッド・S・ライアン――旧知の間柄のようだが、あれとお前はそっくり同じだ。
ならば、拒否する理由もない。我らと共に戦えば良い」

 どこをどう見ているのか余人には計り知れないものの、エルンストにかかればパトリオット猟班を支配する想念にも
独特且つ好意的な解釈が生まれるようだ。
 さすがにこの発言にはシュガーレイも面食らったらしく、目を細めてエルンストの様子を窺った。
彼が胸中に隠しているだろう真意を探るつもりであったが、
そこに見つけたのは、悪の枢軸などと痛罵される者とは思えない澄んだ瞳であった。
 シュガーレイの双眸は復讐心によって歪み切っており、改めて比するまでもなくエルンストとは正反対である。
それなのに彼はパトリオット猟班を「我欲の権化」などと切り捨てることはなく、許し難い筈の暴走にも理解すら示している。
 これではグンガルたち馬軍の将士があまりにも報われない。実際、間近でエルンストを見守っていたブンカンは、
悪い癖が表れたとばかりに困り顔である。
 やはりカジャムも頭を振っている。そもそも、だ。エルンストの見立ては的を外しているとしか彼女には思えなかった。
酷似と評したアルフレッドは、パトリオット猟班の在り方を真っ向から否定したばかりか、
打倒ギルガメシュの同志を標榜するミルドレッドを撃墜し、今またジャーメインと死闘を演じているではないか。
 蹴り技の巧者ふたりは、中休みのような時間を終えて乱打戦を再開している。
僅か数分の睨み合いではあったものの、その間に呼気を整えたアルフレッドは、先程に比べて身のこなしも回復傾向にある。
ホウライを乱発することは不可能だろうが、大きな進展と言えるだろう。
 今、両者は同時に飛び後ろ回し蹴りを繰り出し、互いの踵を激突させている。
 アルフレッドに期待を寄せるエルンストと、立場上、ジャーメインの不利を憂慮すべきシュガーレイ――
両者の姿勢はこのようなところでも明暗が分かれていた。

「……連合軍への参加は望むところだが、ライアンの言うことにも一理ある。俺たちは俺たちの好きに戦わせて貰おう。
どうしようもない壊れ物を抱えたままでは、お前たちも満足に戦えないだろう?」

 復讐を全面的に受容されるとは想像していなかったシュガーレイは、澄み切った眼差しから逃れるように俯き加減となり、
次いでこれを己の弱さ、逃げと悔恨し、僅かな逡巡の後、改めてエルンストと向き合った。
繰り返し主張するのは、またしても自分たちの破綻である。

「――ぶっ壊れ上等じゃないのさ! それくらい意気盛んで丁度良いんじゃないんかい!?」

 自らを破滅に追い込もうとするシュガーレイに向けて、力の限りそう言い切ったのは、エルンストではなく女性の声だ。
さりとて、カジャムのものではない。彼女と比べて豊かな人生経験が滲み出すような声である。
 やたらと威勢の良い声の主は、クインシーであった。乱闘騒ぎの間、手持ち無沙汰で待機していた反動か、
それともギルガメシュと戦う同志の登場を歓迎しているのか、横から両者の間に割って入った彼女は妙に生き生きとしている。
 エルンスト以外を眼中に入れていないシュガーレイは、最初、黙殺を決め込むつもりでいたのだが、
視界の外へと追いやるには、あまりにもクインシーは自己主張が強過ぎた。
 頼まれてもいないのにエルンストとシュガーレイの間に立った彼女は、
「人間ン十年も生きてりゃ、事情はそれぞれ変わるってもんさ。そーゆーのを呑み込むのがオトナってもんだよ」と、
勝手に調停まで始める始末である。言うまでもなく、これも誰にも頼まれていない。

「あんたらも大変だったんだろう? いやいや、言わずとも分かるさ。コレでもあんたよりちょびっとだけ長生きしてるからね」

 無遠慮にも背中を叩いてくるクインシーには、ミルドレッドと同じく人間味を欠いていたシュガーレイも敵わない。
居心地悪そうに顔を顰めつつ、「……年の功を自分で言うのか……」と頬を掻くばかりであった。
 冷酷な立ち居振る舞いを貫こうとする者にとってクインシーは相性が相当に悪いらしい。

「けどね、それを理由に“上”の責任を投げ棄てるのはいただけないね。上がキチッとシキらないと、下のモンは困っちまうのさ。
壊れるまで突っ走ることと、壊れたままフラつくのはね、似ているようで全然違うんだよ。
下のモンがやりたいコトに専念できる道を作るのも、あんたの仕事じゃないかい?」

 上に立つ人間の責任をしたり顔で説いたクインシーは、次いでシュガーレイを後ろへ強引に振り向かせた。
果たしてそこには、首相撲に持ち込んだアルフレッドを床に叩き付けるジャーメインの姿があった。
 首投げの直前まで彼女はショートフックを繰り返しており、両腕が使い物にならないアルフレッドは、
頬を、こめかみを、為す術もなく揺さぶられるばかりである。
 首相撲の状態で繰り出す足技はムエ・カッチューアの華であるが、
彼に組み付いている間、ジャーメインは無駄打ちを一切せず、必殺の膝蹴りすら温存していた。
 彼女の足が牙を剥いたのは、アルフレッドを床に倒してからである。
首投げを打った直後、その場で軽やかに跳ね飛んだジャーメインは、ぴったりと合わせた両膝を彼の脇腹に落とそうとした。
 体力こそ僅かに回復したものの、アルフレッドは依然として肋骨に爆弾を抱えている。
そこに膝の降下など喰らえば間違いなく即死だ。飛び掛ってくるジャーメインを横に転がって避け、
仕返しとばかりにしゃがんだまま足刀を繰り出した。
 狙いは側頭部であったが、生半可な蹴りでは彼女の石頭を貫くことはできない。
本来の半分も力を発揮し得ないアルフレッドの右足にこれを望むのは些か酷と言うものであろう。
 足刀では効果がないと悟って即座に立ち上がったアルフレッドは、
膝の屈伸運動のみで跳ね、着地と共に構えを作り直そうとしているジャーメインに向かって一足飛びで間合いを詰めた。
その身が中空にある内に幾度となく旋回し、その都度、強烈な蹴りを見舞っていく。
『ラピッドツェッペリン』と呼ばれる連続回し蹴りだ。
 着地の直後で反撃の態勢すら満足に整えられなかったジャーメインは、合計三回もの回し蹴りをただひたすらガードするしかない。
彼女が逆襲へ転じるには、連続回し蹴りを終えた彼が床に足をつけるまで待たなければならなかった。
 アルフレッドの着地を見届けたジャーメインは、不用意に接近したことを後悔させるべく右の飛び後ろ回し蹴りを繰り出した。
無論、先刻のラピッドツェッペリンに対する意趣返しである。
 如何に接近しているとは言え、身体を旋回させる技は、大振りであるが故に相手に見抜かれ易い。
斜め上へ振り抜くようにして繰り出されたこの蹴り技に対し、アルフレッドは上体を軽く屈めて回避を試みた。
 果たしてアルフレッドの頭上を轟然たる横薙ぎが掠めていった――が、ここで彼女は曲芸の如き変化を見せた。
中空にて身を翻すなり、飛び後ろ回し蹴りを繰り出したのとは反対の左足をアルフレッドの横っ面へと打ち込んだのである。
 運悪く右耳にその蹴りを喰らってしまったアルフレッドは、極めて脳に近い箇所で何かが破裂するような音を聞き、
その直後、片側の聴力が失われたことを悟った。今の彼は左耳でしか音を拾えない状態である。
 鼓膜が破れたことよりも三半規管を揺さぶられたほうがアルフレッドには都合が悪い。
どうにか踏み止まったものの、左目で捉えた視界は、酩酊でもしてしまったかのように大回転を続けている。
 暫くは眩暈が鎮まることはあるまい。つまり、この格闘の間はラピッドツェッペリンやサマーソルトエッジと言った跳躍を伴う技が
使えなくなると言うわけだ。それ以外の挙動も大きく制限されることだろう。
 今こそ好機と猛攻を加えてくるジャーメインに向かって、アルフレッドは鋭く舌打ちした。
 その小さな苛立ちの表現さえ、彼女は喉を抉る肘鉄砲でもって掻き消してしまった。

「キミに使命があるように! 私たちにも誓いがあるッ! 戦う理由がッ!!」
「……そうやって逆恨みを拡大させるのか。やはり、正気とは思えない」
「逆恨みじゃなくても、ミル姉さんの仇だッ! キミだけは絶対に許さないッ!!」
「ほざくな。許してもらう必要もない」
「だったら、とっととくたばっちゃえッ!」

 トドメを刺すべく肋骨目掛けて膝蹴りを繰り出すジャーメインに対し、アルフレッドも右の膝を重ねた。
 互いの膝頭をぶつけ合って弾かれた両者は、傍目には相討ちのように見えるのだが、
右膝を痛めているアルフレッドのほうが被るダメージは大きく、これに耐えるべく歯を食いしばる程だった。
 それでもアルフレッドは諦めない。回復した体力まで尽きようとする中、勢いよく右足を引きつつ、
その反動を利用して鋭敏に跳ね、左の爪先でもってジャーメインの右膝裏を内側から蹴り上げた。
 思いも寄らない下方からの突き上げに耐え兼ね、尻餅をついてしまうジャーメインであったが、
慌てて体勢を立て直す必要もなかったようだ。彼女が警戒する追撃はいつまで経っても襲って来なかった。
 三半規管のダメージを押して無理矢理跳ねた為に眩暈が悪化し、一瞬ながら完全に動きが止まってしまったのだ。
大打撃を与える千載一遇の好機を逃すとは、アルフレッドには不覚以外の何物でもあるまい。

 改めて視認するまでもなく声と気配で背後の状況はあらまし把握していたが、
これを仕切り直すのは、シュガーレイにとっても大変に骨が折れるようだ。
守孝やハーヴェストに促され、アルフレッドの救助へ再び乗り出したモーントでさえ割り込む隙を見出せずにいる。
 ミルドレッドを倒されたことでジャーメインの心は狂気に染まり、傍若無人に荒れ狂う兇徒と化したのである。
アルフレッドを“仇”と呼び付けるからには、彼女の中ではミルドレッドは既に絶息しているのだろう。
 「最早、彼女には立ち上がることすら叶わなかった」としか巨人の状態は説明できないものの、
あくまでもそれは決闘の最中に限ったことである。フランケンシュタイナーの餌食となって意識こそ失っているが、
ミルドレッドは命に別状はない。むしろ、アルフレッドのほうこそ「瀕死の重傷」と呼ぶに相応しかった。
 ことある毎にアルフレッドが殺傷を言明してきた所為か、どうもジャーメインは誤解しているらしい。
その上、アルフレッドは誤解を正すどころか、心を抉るような罵声を的確に選ぶ為、余計に彼女の憤激が加速するのだ。

「分かり易いな、貴様は……」
「何がッ!?」
「貴様らの正体のことだ。誰に向けた恨みかは知らないが、私情に呑み込まれて簡単に理性を失う」
「ふざけないで! それの何が悪いのよッ!?」
「悪い。何ひとつ評価できない程に悪い。……貴様は自分の正体すら理解していないだろう?」
「私! ジャーメイン・バロッサ! 瑞々しい十八歳! スリーサイズは、上から八十二! 六十四! 八十六ッ!」
「恥じらいもなくミニスカートで大股開きができるのは、そう言うことか。……お前、頭をやられてるだろう」
「言うにことかいて変人呼ばわり!? キミのほうがよっぽどイカれてるじゃんかッ!」
「とぼけているのか、本当に分からないのか――……貴様らはこの戦争の膿だと言ってるんだ」

 ジャーメインを、ひいてはパトリオット猟班をも「膿」と貶めたアルフレッドは、それで挑発を留めるかと思いきや、
これ見よがしに唾――口内の出血のほうが割合としては大きいのだが――まで吐き捨てた。
 唾棄と言う彼らしからぬ行動は、無論、ジャーメインの神経を逆撫でする為の手段である。

「膿を処置しなければどうなる。身を蝕み、やがて大病にまで発展する。……お前たちの存在が連合軍を破綻させると言うことだ」
「それどう言うことよ……、どう言うことよ!?」
「膿は手遅れになる前に掻き出さなければならない。俺の言いたいことは、もう分かるだろう?」
「要はブチ殺して欲しいって自己申告でしょ! 上っ等ォッ!」

 アルフレッドの嘲りに激昂したジャーメインは、ローキックを繰り出そうとする彼の太股を前蹴りにて押し止め、
そこから跳ねつつ左右の膝を立て続けに突き上げた。二連続の膝蹴りはいずれも顎を狙ったものである。
 一撃目は後方に飛び退って避け、続く二撃目の膝は左足裏を乗せて受け止めたアルフレッドは、
ジャーメインの膝を踏み台代わりにして飛び上がるなり右脛を彼女の延髄へと繰り出した。
『スプリットボーザッツ』――あるいは延髄切りとも呼ばれる大技のひとつだ。
 激昂するあまり視野が狭窄していたジャーメインは、回避も失念して延髄を強打されてしまい、戦端を開いて以来、初めて膝をついた。
如何に超人的な肉体の持ち主とは雖も、急所を突かれては一溜まりもなかろう。
 「膿を掻き出す」と宣言したアルフレッドが負傷を心配する筈もなく、
堪り兼ねて蹲ってしまったジャーメインの横っ面へとパルチザンを繰り出した。その一閃には躊躇いなど僅かも含んではいない。

「――キミってば、モテないでしょっ!?」

 パルチザンを裏拳でもって弾き返したジャーメインは、膝のバネを駆使して一気に跳ね飛び、
続けて中空にて両足を揃え、身を捻らせつつアルフレッドに反撃を見舞った。
左右の爪先は彼の顔面を鋭角に捉え、次の瞬間には大量の鼻血が噴き出した。打ち所が相当に悪かったようだ。
 血飛沫と共に頭部を撥ね飛ばされたアルフレッドは、しかし、その負荷さえ利用して右足を振り上げ、
滞空していたジャーメインへと勢いよく踵を落とした。どこを抉るかは問題ではない。
力任せに床へと叩き付け、全身を強打させるのが狙いであった。
 体力は尽きかけているものの、勢いを乗せた一撃であればジャーメインの痩身を十分に振り回せる。
狙い通りに彼女を叩き落としたアルフレッドは、またしても鮮血交じりの唾を吐き捨てた。
 受け身を取ってすぐさま立ち上がったジャーメインも彼を睨み返し、「随分と色男になったじゃん。死化粧にしちゃいなよ」と、
血まみれの風貌を皮肉っている。

「猛毒と言うのは身の裡を激しくのた打ち回る。……丸ごと当てはまるな、お前に」
「まだ言うッ!?」

 まさしく留まることを知らない乱打戦である。今やジャーメインはホウライの使用すら疎かになっており、
アルフレッドが指摘したように本当に理性を失いかけているのかも知れない。
 一向に収まる気配のない蹴りの競演を眺めていたローズウェルは、耳の穴を指で穿りつつ、
「言ってて恥ずかしくないのかな、彼。全部自分に跳ね返ってきてるじゃないの」と鼻息混じりに呟いた。
故郷とクラップを失い、復讐と言う狂気に押し潰されたアルフレッドへの当てこすりである。
 佐志の一団と共に両者の攻防を見つめていたモーントは、ローズウェルの呟きに思わず首を傾げた。
ミルドレッドやジャーメインを通じ、アルフレッドからさんざんに罵られてきた彼にとっては、意外としか言いようのない事実だ。
委細を尋ねるべく守孝へ視線を巡らせると、彼は鉄兜を揺らしつつ重々しく頷いた。

「……某の口から申し上げることではござらんが――アルフレッド殿はギルガメシュとの戦にて御朋輩を亡くされてござる。
いや、戦ではござらん。一方的に嬲り殺しに遭ったのじゃ。そればかりか、故郷(ふるさと)を焼き払われ、妹君まで誘拐されてござる」
「……ちょっと待って。彼は何の為に戦っているんだい? ぼくら――パトリオット猟班と変わらないじゃないか」
「アルフレッド殿だけには限らぬ。我が佐志には、ギルガメシュに大切なものを奪われた同志が多く参集してござる。
皆々、かの悪鬼めに恨みつらみもござろう。……されど、我らは恩讐の彼方を見据えてござるのじゃ」

 少しずつ熱を帯びていく守孝の話にジョゼフたち佐志の仲間が強く強く頷いた。

「……アルフレッド殿も復讐の痛みを乗り越え、あの場に立ってござ候」

 復讐を乗り越える――守孝の言葉を静かに受け止めたモーントは、暫時、アルフレッドを見つめた後、
その場で幻惑のステップを踏み始めた。今もまだジャーメインを押さえ込むタイミングは計り兼ねているが、
アルフレッドの負傷が深刻化する今、一刻の猶予もない。
 グリマの突進力と自身の耐久力を以ってして彼の救助を強行するつもりだ。

「死なせるには惜しいってことはわかったよ――」

 言葉少なく守孝に答え、タックルを仕掛けようと身構えるモーントであったが、その瞬間、彼の決心を台無しにする事態が突発した。

「あ〜、もう我慢できねぇや! おう、てめ〜ら! 耳の穴かっぽじってよ〜く聞きやがれよ。
オイラたちが直々に相手になってやらぁ。パトリオット猟班を膿だの癌だのと思ってる太ェ野郎は遠慮せずに掛かってきやがれ。
戦争だぜ、戦争ぉ!」

 ――ジェイソンだ。シュガーレイの許可も取らず、身勝手にも諸将に向かって宣戦布告を発してしまった。
 アルフレッドが繰り返してきた暴言を宣戦の根拠としているが、満面の笑みで拳を鳴らしている辺り、
憤怒に駆られての決起ではなさそうだ。
 ミルドレッド、ジャーメインと連戦するアルフレッドを見ている内に闘争心を抑えきれなくなった――
おそらくはそれだけのことだろう。先程まで繰り広げていたデュガリとの戦いを振り返れば、
そのような無道を働いても不思議ではない素行が分かると言うものだ。
 彼は自分たちに不満を持つ者をまとめて相手にすると言い放った。それはつまり、パトリオット猟班の名で喧嘩を売ったことに他ならない。
すかさずモーントからは注意が飛ばされたが、聞く耳を持たないジェイソンは中指を立てて諸将を挑発し続けている。
 無軌道な行動はそれだけに留まらない。軽やかに跳ねるや否や、エルンストの肩に乗り付け、
あろうことか彼の頬を指先でもって弄び始めたのだ。テムグ・テングリ群狼領の将士をも煽り立てるつもりである。

「……大概にせんか」

 さすがにここまでの無礼は許し難いのだろう。ついにエルンストが苦言を口にした。
 軍議を破綻させられ、また実子に重傷を負わされた末の暴挙である。
苦言どころか、報復の鉄拳が飛んできてもおかしくない状況と言えよう。
 ジェイソンにとって不意打ちのようなエルンストの苦言は、むしろ歓迎すべきものであった。
最初から馬軍の覇者の神経を逆撫でするつもりでその頬を弄んでいたのだから、苦言どころか怒号を浴びせられても良い程だ。
エルンストさえ本気になってくれたなら、雑魚ではなくいきなり大将と、一番面白い相手と戦えるのである

「へッ――悪いね、シュガーの兄キ。美味しいトコはオイラが頂いちゃうぜ!」

 エルンストの肩から飛び降り、拳を鳴らして出方を窺うジェイソンであったが、
背後を振り返った彼の形相には、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
そこに見つけたのは、馬軍の覇者ではなく彼の容貌をしたゾンビであったのだ。

「なっ、なんだ? なんだなんだなんだぁー!?」

 死臭漂うゾンビは皮膚と肉とがおぞましい形で腐っており、先程までジェイソンが弄んでいた両の頬などは、
骨すら剥き出しと言う有様だった。他の部位と同様に歯茎も朽ちている。一本、二本と歯が徐々に抜け落ちる様は、
例えようのない恐怖でもってジェイソンを圧迫していった。
 どう考えてもおかしい。一分前まで生身の温もりで満たされていた肉体が、様々な段階を飛び越して唐突に腐乱するわけがない。
冷静に振り返ったなら、この状況には恐怖よりも疑問が先行する筈なのだが、
動転したジェイソンに分析を求めるのは、些か酷と言うものであろう。
 エルンストの周囲――シュガーレイに目を転じると、彼もまた白虎の如き隊服から腐臭を撒き散らしているではないか。
精悍な面などは肉が完全に崩れ落ち、惨たらしい白骨と成り果てている。どこを見ているとも知れない眼球だけが爛々と輝いていた。
 馬軍の覇者に対する不敬に始まり、これまでふてぶてしい態度を崩さなかったジェイソンではあるが、
理解不能な怪奇現象には肝を潰し、冷や汗を滴らせつつ飛び退った。
 跳ねた拍子に壁か何かに背を強打してしまったが、今のジェイソンには打撲の鈍痛さえ瑣末なことである。
壁によって退路を遮断されると言うこの事態こそ憂慮すべき問題なのだ。

「よーし、わかった! これはオイラに対する挑戦と見なした! もったいないお化けにベソかいてたあの日のトラウマに、
今日こそ終止符を打ってやるァッ!」

 新たな怪異がジェイソンに押し寄せたのは、自棄になって構えを作った瞬間のことである。
 徐に振り返り、糜爛の面を晒した筈のエルンストは、クインシーやシュガーレイと肩を並べてアルフレッドの戦いを見守っている。
ジェイソンに見せ付けるのは大きな背中ひとつであり、後ろを振り返った形跡すらなかった。
 シュガーレイとて同じだ。その面ははっきりと血肉を留めており、死の臭いは生身のどこからも感じられない。

「な、なんだってんだよ、オイ……」

 ますますジェイソンの混乱は加速した。今しがたの地獄絵図とは、果たして何だったのか。
エルンストもシュガーレイも、怖気が走るような面を晒していたではないか――
不意に訪れた白昼夢だと切り捨てるには、ジェイソンが見舞われた圧迫感はあまりにも生々しい。
今もまだ粟肌が収まらないでいるのだ。

「ど、どう言うことだよ、こりゃあ!?」
「こう言うことだ、クソガキ。あんましオトナをナメんなっつーこった」

 すっかり混乱に支配されていたジェイソンは、喉笛に大鎌の刃が宛がわれ、次いで頭上に悪言を浴びせられたとき、
ようやく事態(こと)の真相を悟った。殺傷の意志を宿したこの刃は、先程激突した壁より飛び出してきたものであろう。
見れば、アルフレッドとジャーメインの間にも両者を隔てる壁が設けられていた。
 無論、“壁”とは比喩である。 ジャーメインの前に立ちはだかったのは、
注射器の如き機構を備えた突撃槍(ランス)、『グレムリンパラドックスZYX』を携えるレオナだ。
我が身を盾としてアルフレッドを庇い、突撃槍の穂先をジャーメインに向ける女冒険者は、
その勇姿を以ってジェイソンの背後に立つ者の正体を解き明かしていた。
 大鎌を振り翳した――いや、右腕を大鎌に変身させてジェイソンを脅かしたのは、言わずもがなイーライである。
あれほど「勝ち目が薄い」と忠告されたにも関わらず、パトリオット猟班との戦いへ飛び込んでしまったのだ。
 ジェイソンの挑発に端を発する癇癪ではない。彼の目線の先には、エルンストの後姿がある。
無謀を押して参戦した理由は、憂いを含んだその眼差しが全て証明しているだろう。
そして、鋭利な大鎌と化した右腕は、馬軍の覇者を愚弄してきたジェイソンの首を今にも狩ろうとしているのだ。
 一瞬の虚像を植えつけてジェイソンを幻惑したのは、レオナに備わったトラウム、『ダブル・エクスポージャー』だ。
最後まで彼女は参戦を引き止めていたが、頑として聞かないイーライから一方的にサポートを言い付けられ、
渋々とこれに従った次第である。
 レオナとてイーライの気持ちを無碍にしたくはない。彼の交友関係が広がり、深まることは、むしろ望ましく思っている。
 イーライにとってのエルンストとは、まさにそのような相手であった。
仕事上の契約を結んだに過ぎず、本来であれば依頼の満了と共にリセットされる類の関係なのだが、
今のイーライは全く私情に突き動かされている。それは、雇われた恩よりもずっと深い感情(こころ)であった。
だからこそ、レオナの忠告にも耳を貸さず、エルンストを愚弄する相手を許しておけないのだ。
 仲間の窮地と、イーライの様子を同時に捉えたジャーメインは、彼の怒りが何処より湧き起こったのかを察し、
レオナに向かって「意味がわからないよ」と肩を竦めて見せた。

「メアズ・レイグって言ったら不良冒険者の代名詞じゃない。本隊に居た頃は、誰もがボロクソに扱き下ろしていたわよ。
あれは人非人だってね。それなのに、フタを開けてみたら、コレだもん」
「コレって言われても……。抽象的でよくわからないわね。具体的にお願い出来ません?」
「案外、可愛いところがある」
「……なんだかリアクションに困ってしまうわね――依頼人とのパートナーシップは、
真面目に仕事をしていれば自然と芽生えるものでしょう。
どう言われようと気にしないけれど、私たちも仕事にはプライドをもって取り組んでいるのよ」
「へぇ――見た目、不良のクセして可愛いトコあるのね、彼」
「……奥さん相手に浮気の相談をしようと言うのかしら? 残念ながら、イーライは配偶者アリです。扶養家族持ちですッ!」

 レオナとジャーメインの会話――何やら妙な方向へ転がりつつあるようだが――へ耳を傾けていたジェイソンは、
そこからイーライの真意を拾い上げると、大鎌でもって頚動脈が脅かされていると言うのに胸を反らせて高笑いし始めた。
 自然、イーライの胸板に頭をぶつけ、彼を見上げる恰好になったジェイソンは、
何がそんなに嬉しいのやら、「男だねぇ、アンタ、男じゃねーか!」と黒いマウスピースで覆われた歯まで見せている。
 どうもイーライをお人好しとからかっているらしいのだが、さりとて嘲りや冷笑などでもない。
強いて類例を挙げるならば、好敵手の健闘を称えるような溌剌とした笑顔である。
 当のイーライは、ジェイソンに気を許すどころか、コロコロと変わる表情こそこちらの油断を誘う為の罠であると断定し、
遠巻きに状況を見守っていた諸将へ「ボサッとしてねぇで、フクロにしちまえッ!」と声を張り上げた。
 レオナの言う通り、単騎にてパトリオット猟班へ挑むのは無謀であろう。
しかし、ジェイソンが宣戦したように彼らに不満を持つ者を扇動し、押し潰すような包囲網を作れば、
形勢を傾けるのも不可能ではない。数に物を言わせて決着をつけようと言うのだ。
 大半は怖気付くだろうが、血の気が多く、周囲に敵ばかり作るアルカークや、派手好きのファラ王ならば、
この呼びかけに乗ってくるかも知れない。いけ好かない相手ではあるが、今はひとりでも味方が欲しかった。

「余計なことをするな! これは俺の戦いだ! 俺が引き受けなければならない恨みだ! ……誰の手も煩わせない!」

 ところが、援軍を得た筈のアルフレッドはイーライの講じた作戦に対して怒りを露にした。

「膝ガクガクさせながらナマ言ってんじゃねぇよ。粋がるにしたって、もうちっとやり方ってのがあるだろうが。
つーか、鼻血くらい拭けや、どんくせーなぁ」
「煩い、黙れ」
「もう聞き飽きたっつーの。てめぇよォ、ソレ言ってりゃ何でもまかり通ると勘違いしてねぇか? 
てめぇの都合なんざ知ったこっちゃねぇんだよ、こちとら」
「お前こそ粋がるな!」

 ジェイソンの頭越しに口論する羽目になったイーライだが、アルフレッドの反発は最初から予想している。
これはレオナも同様だ。満身創痍にも関わらず、ジャーメインとの決着を逸る彼から退くように何度となく求められたが、
突撃槍(ランス)を引くつもりは毛ほどもなかった。

「……お前も同じか? 俺の邪魔をするつもりか?」
「常識に基づいて行動しているだけだよ。友人じゃないけど、顔見知りではあるからね。
そんな相手がボコボコにされるのを見てるのは、気分も良くないし」
「バカ言え。お前の旦那の目的は、エルンストだろうが。俺のことは放っておけ」
「良く見てるね――ああ、共感って言うものかな。イーライもアルフレッド君も、エルンストさんが大好きだものね」
「共感? 反吐が出る! あんなヤツと一緒にするな!」
「――てめぇ、コラ、全部聴こえてんぞ。俺だっててめぇなんかと一緒にされてたまるか!」

 些か妙な成り行きにはなったものの、ジャーメインの照準を自分に誘導できたのだ。
再びアルフレッドと相対させては、この努力とて元の木阿弥である。
 今しがたのやり取りでは、まるでエルンストを助けるついでにアルフレッドも援護するような言い回しとなってしまったが、
負傷も疲弊も限界に達している彼をパトリオット猟班との乱闘から遠ざけるのは、メアズ・レイグの最優先事項なのだ。
そして、それはメアズ・レイグばかりでなく佐志の仲間たちも共有することであった。
 本人は決して望まないだろうが、肩で息をするアルフレッドを守るべく彼の傍らへ守孝たちが馳せ参じた。
 レイチェルはその手にジャマダハルを、セフィはラウンドシールドを、それぞれ携えており、臨戦態勢は万全である。
故郷の旧友に武器を向けることには躊躇いがちであったハーヴェストも、やがて意を決したようにムーラン・ルージュを発動させた。
 ハーヴェストの手にて舞い散ったヴィトゲンシュタイン粒子を、ジャーメインは悲しげな面持ちで見つめている。
 得物を控え室に置いてきた守孝は、戦う力の代わりに我が身を盾にしてアルフレッドを庇い、ジョセフは彼の背に手を回していた。

「ご、御老公まで…・…」
「おヌシの悪い癖じゃぞ。少しはワシらを頼らんか。第一、おヌシにはこれからまだ大仕事が残っておろう」
「ですが……」
「退くべき機(とき)に退く勇気も必要と言うことじゃ。……ワシの言いたいことは分かるじゃろう?」
「……わかりました……」

 大恩ある新聞王の配慮は断り切れず、渋々指示に従うアルフレッドだったが、
実際問題、彼の皺だらけの手で支えられなければ、今にも崩れ落ちていただろう。
 やがてモーントもジャーメインの前に立ちはだかり、自身の腰巻を手渡した。破れてしまった着衣をそれで隠せと言うことだ。

「ミルさんを勝手に死なせるなよ、メイ。後で絶対にカミナリ落とされるだろうから、今から覚悟をしておくんだね」
「だって、ミルさ――……ん? あれ? あれあれ? ちょ〜っと待って。もしかして、もしかすると……」
「耳をすませてご覧。イビキが聴こえるだろう?」
「いやいやいやいや! 気絶したままイビキってヤバイでしょうが!」
「そんなに繊細な人じゃないだろう。」
「モーントも大目玉だよ、間違いなく。むしろ、私よりヒドいって」

 そこでようやくジャーメインは自身の早とちりに思い至った。
モーントが睨んだ通り、やはりフランケンシュタイナーによって絶息させられたと思い込んでいたようだ。
さすがにバツが悪いのだろう。手渡された腰巻で胸元を隠しつつ、しおらしく俯いてしまった。
 ミルドレッドの生存を確認したことが落ち着きを取り戻すきっかけにもなり、彼女を満たしていた狂気と闘気は急速に萎んでいった。

「……キミ、ろくな死に方しないからね。ムーンプリンセスばりの大予言しちゃうよ」
「また懐かしい名前を……。悪いが、お前には件の占い師のような神通力はないぞ。仲間の生死も分からないとは……」
「えっ!? ムーンプリンセス先生、知ってんの? 何キミ? 実は少女趣味?」
「テレビの占いコーナーくらい俺だって知っている。それがどうして少女趣味になるんだ、バカめ」
「占いチェックなんて女子高生っぽいじゃん。キモいよ」
「逆にお前は最後まで男みたいだったな。スカート穿いたまま足を振り上げるとは、恥を知らないと言うか、正気と思えない」
「前言撤回、やっぱしエロだね。サイテーの覗き魔じゃん。チカンで訴えてやるから」
「法廷で恥をかくのはお前だ。俺の潔白は、この場の皆が証明してくれる」
「うるさい、だまれっ」
「お前がな。と言うか、口真似をするな」

 レイチェルから借りたハンカチで顔面の血を拭っているアルフレッドに向かって舌を出し、
控えめに悪態をぶつけるジャーメインだったが、最早、彼女にも戦う意思はなさそうだ。
そのことを確かめたレオナは、イーライに目配せしつつようやく突撃槍の穂先を下げた。

「随分と仲良しになったみたいだね。アルフレッド君、あーゆー娘がタイプなのかな?」
「風説の流布も良いところだが……。少なくとも、相手の脳天をカチ割るような手合いはまっぴら御免だ」
「それ以外のトコは良かったってこと? ……あながち、覗き魔ってのもウソじゃないのかな」
「名誉毀損で相手取るぞ」

 助けて貰ったレオナに礼を述べるどころか、不貞腐れたように憎まれ口を叩くアルフレッドではあるものの、
だらりと力なく垂れ下がった両腕は、それが虚勢であることを如実に物語っている。
 左肩と右手首は骨折。右手に関しては拳も砕けている。右の鼓膜は破れ、両足もボロボロ。
中でも右膝は靭帯にもダメージが及んでいることだろう。顎や鼻を含めて顔面の打撲箇所は数え切れず、
脳天にも大きな損傷が見受けられる――面会謝絶、絶対安静の重傷を引き摺りつつ、
「お前たちが割り込まなければ、決着はついていた」などと壮語を吐いたところで、冗談にしか聴こえなかった。
戦いを続行していたなら、最後には彼が競り負けたであろう。
 マリスを召喚しようと言う守孝の提案を固辞したアルフレッドは、折れた箇所に宛がう接ぎ木もないと言うのに
応急手当だけで軍議を凌ぐつもりであった。左肩と右手首は青く腫れ上がり、発熱まで始まっているのだが、
一旦、控え室に下がるようレイチェルから叱られても頑として聞き入れなかった。
 一方のジャーメインもミルドレッドの介抱を始めている。思わず神経を疑ってしまいそうになるが、巨人は本当に安眠していたのだ。
超絶攻防を潜り抜けて疲れ果てたとは言っても、生死が交錯していた場所で眠りこけるとは有り得ない情況であろう。
 モーントはアルフレッドを暫し見つめた後、「横入りする気なら正々堂々とお願いしたい。恨みっこはなしだよ」と、
返答に困ることを一方的に言い放ってからジャーメインの後に続いた。

「……まさか、古馴染みまで毒牙にかけられるとは思っていなかったわ……」
「いい加減にしないと、お前でも殴るぞ、ハーヴ」
「殴る腕がないでしょ。……あ! 腕が両方とも無事だったら、さっきの娘、実はアブなかったのかしら。 
アルってば、どさくさに紛れて服を剥ぎ取ろうとしたわよね。ダメよぉ? うちの宿六だってそこまで野蛮じゃあないわ」
「レイチェルさんの仰る通りだよ。アル君、さっきのは淑女(レディ)に対する態度じゃないよ」
「うむ、某もやり過ぎではないかと考えており申した。アルフレッド殿、誠意を以って謝罪するのが肝要にござる。
某も共に参りまする故、ご安心あれ」
「……そんなに俺を虐めて楽しいか、お前たち」

 ジャーメインが去ったことで、一先ずパトリオット猟班との対決は終息した。そう言っても差し支えはあるまい。
部下たちの暴走を野放しにしていたシュガーレイが、今頃になって仇討ちを言い出すとは思えなかった。
 巨人との戦いの最初に言明したような完全排除とは行かないまでも猟犬、いや、狂犬の暴威を跳ね返すことには成功した――

「かっかっか――こりゃますます楽しくなってきやがった。オイラ、何人と戦ったら良いんかな!? 
スタミナ配分とか度外視すっか、こりゃあ〜! ワクワクしてくるなぁ!」

 ――否。正確には、「成功したかに見えた」と言うべきであった。
 ようやく災いの根とも言うべきシュガーレイに手が届くと考えていた矢先、ジェイソンが如何にも好戦的な高笑いを上げたのである。
 イーライの奇策と、彼の呼びかけに応じて包囲網を形成し始めたテムグ・テングリ将士の威圧では、
剥き出しの闘志を挫くことはできなかったらしい。
 ジャーメインとモーントが戦列を離脱しても、件のふたりから制止の声を飛ばされても、ジェイソンは些かも左右されていない。
それどころか、自身の不利を大喜びしているのである。彼もまた闘志と言う一点に於いては狂的であった。

「マジで頭のネジがブッ飛んでやがるな、クソガキ。いざってときにチビるじゃねーぞ」

 ジェイソンが満面に浮かべた笑気は、イーライの挑発を受けて一等膨らんだ。

「へっ――そうでなくっちゃよ。ウワサに名高いディプロミスタスの切れ味がどんなもんか、楽しみにしてるぜ!」
「ケッ――俺も有名になったもんだな。……お望みとあらば、全身に刻み込んでやらぁ。あの世の自慢話にでもしやがれ」

 イーライと本気で戦えることに無常の喜びを感じているのだろう。先程まで発していた殺伐の気魂が限りなく陰鬱であるとすれば、
今のジェイソンは果てしない陽気で満たされていると言える。
 なおもイーライの胸板を枕代わりにし続けるジェイソンは、憤激の念を貼り付けたような彼の顔を見上げたまま、
何やら肺一杯に空気を吸い込み始めた。
 あからさまに不可解な行動は、おそらく大技へ移行する為の前段階であろう。
この下準備の果てに繰り出されるのがルチャ・リブレの技であるのかは判然としないものの、
イーライはジェイソンを離すつもりなどなかった。隙を見つけ次第、頚動脈を断つつもりなのだ。
 ジェイソン相手に不覚を取ったデュガリもシャムシールを構え直し、この少年隊士を睨み据えている。
ビアルタ、ザムシード、ドモヴォーイの三名も群狼領きっての老将に倣い、それぞれ包囲網の要所を務めていた。
 またしても実父を愚弄されたグンガルも激情に駆られてジェイソン打倒へ参画しようとしたが、
これはカジャムによって押し止められてしまった。手酷い怪我を負ったグンガルが加わったところで足手まといにしかならないのである。

 クインシーから事態の収拾を促された後、厭世的とも言うような態度で沈黙を貫いていたシュガーレイが動き始めたのは、
ジェイソンが大量の空気を肺の裡へと吸い込んだ矢先である。

「……成る程、仕切り直しは急務のようだ」

 エルンストとクインシーへ自身の責任を履行する旨を告げたシュガーレイは、
やけにゆったりとした足取りでジェイソンのもとへ向かっていく。
その道程にてジャーメインとモーントから声を掛けられたが、彼は一瞥さえしなかった。
 包囲網の間隙を抜け、やがてジェイソンの対角線上に立ったシュガーレイは、援軍と見なして牽制するイーライを黙殺し、
何を血迷ったのか、自身の配下である筈の少年隊士へいきなり拳を突き入れた。
人体急所のひとつである眉間へ渾身の力を叩き付けたのである。
 イーライの大鎌をも器用にすり抜けた鉄拳で強打されたジェイソンは、脳を揺さぶられて崩れ落ちそうになる。
すぐさま意識を取り戻したのだが、あるいはそれが悲劇の始まりであったのかも知れない。
 殴った手を開き、ジェイソンの右手首を掴んだシュガーレイは、その肘を関節本来の可動とは逆方向へと一気に捻った。
これと同時に空いた左手を少年隊士の右足に引っ掛け、その場へうつ伏せに押し倒す。
逆関節を強引に極めらたなら、骨が折れるのは必定――関節技の基本原理に転倒時の落下速度を加えた結果、
ジェイソンの右肘から聞くに堪えない破断音(おと)が鳴り響いた。
 さしものジェイソンも肘関節の骨折には小さな悲鳴を漏らしたが、シュガーレイは気にも留めない。
パトリオット猟班のリーダーは、続けざま彼の左肩へ自身の右膝を落とし、そのまま馬乗り状態となった。
周到にも自身の左足を彼の右足に絡め、その可動を封じ込めている。
 右肘が折られ、今また左肩を押さえ込まれた為、両手は全く使えない。
左足の固定によって四肢は殆ど機能しなくなり、今やジェイソンは身体に力を入れることさえ困難となっていた。
 下に組み敷いたジェイソンへとシュガーレイがパウンドを加え始めたのは、その直後のことである。
それも、両拳の乱れ撃ちだ。四肢の機能を奪われた少年隊士は、防ぐことも避けることも叶わないまま顔面を滅多打ちにされていく。
ジャーメインとの戦いで左右の拳を喰らい続けたアルフレッドにも似通う状況だった。
 シュガーレイよりも遥かに年少であり、どちらかと言えば小柄なジェイソンにとって、
このパウンドは骨まで爆ぜる程のダメージがあるだろう。致命傷にもなり兼ねない。

 そもそも、だ。軍議を混乱させたことへの折檻にしては、幾らなんでもやり過ぎである。
イーライやデュガリたちも、この凄惨な状況に呆然となり、口を開け広げて立ち尽くすばかりであった。
 頭を振って驚愕から立ち直ったハーヴェストは、すぐさまムーラン・ルージュを構え直し、シュガーレイの制止に飛び込んでいく。
『セイヴァーギア』のトレードマークとも言うべきスタッフは、既に三連装の機関銃に変形させてある。

「何の真似や、シュガーレイ……! あんた、そこまで堕ちた言うんかいッ! 外道に成り下がったんかッ!?」

 親しかった旧友へ銃口を向けることに躊躇はあるが、逡巡している間にもジェイソンのダメージは重なっていく。
撲殺と言う最悪の結末だけは、何としても食い止めなければならなかった。
 ジャマダハルを携えたレイチェルもハーヴェストの加勢に入り、クインシーも転がっていた椅子を引っ掴んで後続した。

「……珍しく気が合ったわね」
「そりゃそうさ。こいつは信仰とは別問題。切り離して考えれば、優先するモンはひとつだよ」
「大人の責任ってヤツね」

 年少者が嬲られることを断じて許せないクインシーは、「こう言うコトじゃないんだよッ!」とシュガーレイに怒号を叩き付け、
次いでモーントとジャーメインにも援軍を求めた。両名にとってはシュガーレイもジェイソンも同胞である。
 ところが、両名は肩を竦ませるばかりで一向に動こうとしなかった。リーダーの決定には逆らえないとでも言うような消極的な態度である。

「あんたたちの仲間でしょう、この子は!? 見殺しにするつもりッ!? ……それとも、あんたたちも暴力で従わされてるの!?」

 怒声を張り上げたのはレイチェルである。ハーヴェストもシュガーレイを睨んだまま、
「ブルッてんやないで、メイッ!」とジャーメインに呼びかけたが、待てども暮らせどもムエ・カッチューアが牙を剥くことはない。
 加勢に入るどころか、モーントなどは「止めるも何もないよ。いつものことさ」と、
これが日常茶飯事であるかのような態度である。

「……そーそー……オイラぁ……こーゆーのを……待って……ンだ……スレスレの……キレキレの……死合……」

 口を噤み続けるジャーメインに代わってハーヴェストへ返答したのは、殴打され続けている筈のジェイソンであった。
絶え間なく脳を揺さぶられた末に気が触れてしまったのか、助けを求めるでもなく、パウンドを歓迎する旨を口走っている。
錯乱としか言いようがなかった。シュガーレイの拳が突き込まれる度、彼は着実に死へと近付いているのだ。
これを喜ぶなど、どう考えても異常だった。
 今にも絶えそうな呼気をジェイソンは笑気に換えた。血反吐を噴き出しながらもケラケラと大笑いし始めたのだ。

「……ギル……ガメ……あいつらぁ……イイ……ぜ……最高だ……最高に……おもしれ……」

 その瞬間、ハーヴェストは身の毛もよだつ戦慄に打ちのめされた。
 パトリオット猟班はいずれも身の裡に狂気を飼っている。それは、常人には理解し難い程の激烈な魔物とも言い換えられるだろう。
年少者へ容赦なくパウンドを加え続けるシュガーレイは言うに及ばず、ジェイソンもまた狂気に冒されているのだ。
彼は幼少の頃から強くなることを志してきた。世界最強の男が生涯の目標とも語っていた。
しかし、それは生命の投げ捨てに歓喜を見出すことではなかった筈だ。

「……ウソや言うてや……」

 シュガーレイもジェイソンも、ミルドレッドもジャーメインも――在りし日とはかけ離れたのだと認めざるを得なかった。
容貌や性格に極端な変化は見られないが、根幹の部分は決定的に歪んでしまっている。
 エルンストに対し、シュガーレイは幾度となく自分たちの破綻を尋ねていた。
遠目ながらハーヴェストもその様を見守っていたのだが、確かにパトリオット猟班は「壊れている」。
 ……いや、ギルガメシュとの戦いの中で「壊れてしまった」と言うべきであろう。

「これで落ち着いて話が出来る」

 言うや、シュガーレイは右腕を高々と振り上げた。次の一撃をトドメにするつもりだろう。
相変わらずジェイソンは笑い続けているが、この状態で大振りのパウンドなど喰らおうものなら絶息はまず免れない。
 しかし、シュガーレイの豪腕が叩き付けられることはなかった。何者かが投げ入れてきたロープによって手首を絞められ、
右腕を振り回すことさえ出来なくなってしまったのだ。ロープの先端部分は輪となっている。
投げ輪の要領で彼を捕縛したと言うわけだ。

「――どう言う流れか、イマイチわからねぇけどよ、一方的な暴力は感心しねぇな。悪ィが、割り込ませてもらったぜ」

 声の主は、軍議の間の出入り口にてロープを繰っていた。先程までダイジロウたちが見物していたのと全く同じ場所である。
 パウンドを阻害されたシュガーレイは、冷たい眼光を引き摺りながら声のした方角を振り返ったのだが、
そこに見つけた姿に思わず息を呑み、投げかけるべき罵声(ことば)を失った。
 ジョゼフもまた目を細めて声の主を見つめている。軍議の間に参集した誰もが驚きをもってその男を迎えていた。

「話が違うじゃねぇか、御老公。招待状には格闘イベントなんて一文字も書いてなかったぜ」

 プレートに「NEW HORIZON」と刻まれたベースボールキャップも、
ペッパーボックス拳銃と併せて旅の必需品や古代の宝物を吊るしたガンベルトも――
この場に居合わせた誰もが知っている。硬貨を金糸で束ねたネックレスが似合うその面も、だ。
 左肩に担った鈍色の石柱には違和感を覚えるものの、ただその一点のみで彼の正体を見失うことは有り得ない。
 やたらカジュアルな衣服に身を包んだ妖精と、禍々しい外套を纏った仲間を従えて軍議の間に踏み入り、
シュガーレイの暴挙を食い止めたのは、ワイルド・ワイアット――冒険王マイクであった。




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