18.多数派工作


 ロンギヌス社のエージェントたちがエンディニオン各地で不気味な動きを見せ始めたのと同じ頃、
連合軍最後の砦たるハンガイ・オルスでも特命を帯びた一団が出発の支度に大わらわとなっていた。
 その中心に在って群狼領の軍師と任務遂行の条件などを話し合うのは、メアズ・レイグである。
アルフレッドが多数派工作に取り掛かった当日、ブンカンからレオナ宛のモバイル宛に電話が入り、次なる依頼の話となったのだ。

「――イーライ君とレオナさんに頼みたいのはワヤワヤの再調査です。キミたちは以前の調査で土地勘も出来ている。
反乱の芽も見極められるでしょう」

 通話にてメアズ・レイグの現在地を確かめたブンカンは、その足で佐志の控え室に向かった。
 彼らに通達された新しい依頼は、傍で耳を傾けていたルディアにとっても非常に興味を引かれるものだった。
内容自体は至ってシンプルである。内乱を起こす疑いのあるワヤワヤへ潜入調査を行うと言うものだ。
状況次第ではあるものの、仮に反乱分子を発見した場合には、その追跡と“対処”も含まれている。
 多数派工作と暗殺者の対処には佐志と同盟者の総がかりで行うことに決まったものの、
だからと言って一人残らず参加するわけではない。
対外交渉あるいは索敵に不慣れと見なされた者は、控え室での待機――否、居残りを余儀なくされるのだ。
 主戦力のメンバーたちが奔走している間は、どうしても手持ち無沙汰。端的に言うならば、極度に退屈であった。
当然の如くルディアはメンバーから外されている。シェインとジェイソンも彼女と同じく選外であったが、
ふたりの場合は待機時間をトレーニングに充てており、暇を持て余すと言うことはない。
武芸に関する意見を積極的に交換しつつ、室内でも可能なメニューに汗を流している。
 息を弾ませながら笑い合う少年ふたりに「男の子はやるコト多くて、人生愉しいそうなの」とシニカルな眼差しを向けるルディアだが、
それは時間を有意義に使えるシェインたちへのやっかみでしかなかった。
 マリスに借りた電子ゲームにも、フィーナから貰った少女コミック――登場人物は美男だけだが――にも飽きてしまい、
半ば強引にアドレスを交換した撫子のメール返信まで途絶えた為、いよいよルディアの退屈は頂点に察しようとしていた。
 彼女のお守りとしてフィーナとマリス、更にタスクも控え室に残っており、
手を変え品を変えて宥めているものの、それにも限界がある。
 マリスは両帝会戦の折にも用いた“もんぺ”とフードケープに身を包んでいる。
当然、ハンガイ・オルスに潜り込んだと言う仕事人への警戒だった。
革鎧で全身を固め、万が一のときには己を盾にしてアルフレッドを守ると言う覚悟のローガンに触発されたようだ。
 血沸き肉踊る状況を想起させるような出で立ちでは、落ち着くように諭したところで説得力は皆無である。
ましてや呉服は胸元を強調する構造となっている。ルディアにとっては逆効果と言うか、興奮材料でしかなかった。
 憂さ晴らしにマリスの胸を揉みしだくルディアではあったが、掌に浸透する快楽も一時のこと。
慢性的なフラストレーションの発散には程遠い。

「お前、ヒーローになりたいって言ってなかった? なのに努力もなんもしねぇなんてさ、ハカセとか言うヒトだって悲しむぜ」
「マジかよ、チンクシャ。良い趣味してんじゃねーか。良い機会だし、オイラが稽古付けてやろ〜か? 
パトリオット猟班見りゃ分かるだろ〜けど、これからの時代、女だって格闘技のひとつやふたつ、覚えておいたほうがいいってばよ!」

 互いの腕を絡ませながら溌剌と笑うふたりの少年をルディアは一笑に付した。
今でこそ心地よさそうに汗をかくシェインだが、最初の内は全く乗り気ではなかったのだ。
トレーニングのパートナーになるよう腕を引っ張ってきたジェイソンに対し、その誘いを一度は断ったくらいである。
 折角の余暇はラドクリフとメールでもして過ごそうと考えたらしいのだが、
多忙の最中なのか、送信したきり一向に返事がない。幾度か送ってみたものの、一通も反応が返ってこなかった。
それですっかり不貞腐れてしまい、鬱憤の捌け口をトレーニングに求めた次第であった。

「……男の子って、世界で一番単純な生き物なの。ルディアの繊細さなんて分かりっこないのね」

 退屈と言う悪魔に活力を吸い尽くされ、やがて干乾びて死んでしまうのではないかと思っていたルディアにとっては、
どんな形であれ外界に出られるチャンスは見逃せない。この際、理由云々にこだわってはいられなかった。
 アルフレッドからの待機指示を遵守しようとするマリスは、メアズ・レイグに随伴したいと言うルディアの挙手に真っ向から反対した。

「お、落ち着いてくださいっ! アルちゃんはここを守っていて欲しいと仰ったのですよ? 
でしたら、わたくしたちにはウォールームを離れるわけには行きませんっ!」
「んも〜、マリちゃんは頭が固いの、ホント。アルちゃんが大好きだって言っても、頭の中身まで真似しなくてもいいの。
それじゃ頭だけじゃなくて顔からおっぱいまで老け込んじゃうの。シオシオになっちゃっても良いの? 良いの?」
「アルちゃんとお揃いなら梅干みたいにはなっても構いませんわ」
「マリちゃんねぇ――マリちゃん、男心がわかってないの。ヤンチャしてハラハラさせて、
そんでもってグイグイ引き寄せるのが通のやり方なのっ」
「は、はぁ――べ、勉強になりますわ、ルディアちゃん先生っ」
「……マリス様」
「――うっ、……わ、わかっているわ、タスク……」

 溜りに溜まった水が堰を切って溢れたかのようなルディアの勢いに対して、マリスは完全に気圧されてしまっている。
このままでは、済し崩し的に押し切られてしまうのは明白だった。
 そんな盟主へタスクは諌めるような眼差しを送り続けている。
口を挟んで援護するのは容易いが、マリスの成長の為にも敢えて見守ることを選んだようである。

「――そ、そう言う問題ではなくっ! いいですか、ルディアちゃん? 
あなたひとりの身勝手は、アルちゃんだけじゃなくて皆様にも迷惑が掛かってしまうのですよ? 
それがどんなに悪いことか、ルディアちゃんにもわかるでしょう」
「マリちゃんだってアルちゃんの気を引きたいでしょ〜? ここは恋の神様に任せときなさいなの」
「え、えと……、は、はい、ルディアちゃん先生っ」
「マリス様……」
「あぅ――そ、そうやって大人をからかうのもいけませんっ!」

 ジェイソンから剣を用いての打撃を教わっていたシェインは、聞くともなしに聞いてしまったマリスたちの会話に溜息を吐き、
駄々を捏ねるルディアに向かって「マジでハカセが泣くぜ。いつまでもガキのまんまじゃないか」と叱声を飛ばした。
 ブロードソードを鞘に納めたと言うことはトレーニングも中断と言うわけだが、
状況が状況だけにジェイソンも不満の声を上げることはない。シェインの隣に立ち、ことの成り行きを傍観している。

「ぬぬぬっ!? シェインちゃんならノッてくると思ったのに! そんなにラドちゃんと離れるのがイヤなの?」
「ラドは関係ないよ。ボクもマリスに賛成ってことさ。……話を聞く限り、ワヤワヤは反乱を起こしそうな村なんだろ? 
それを嗅ぎつけたギルガメシュがもう手を伸ばしてるかも知れない。どこに敵が隠れてるかわかったもんじゃないよ。
そんなとこに少数で乗り込むなんてあぶなっかしくって仕方ねぇ」
「叱られるのが怖くてビビッてるの? 身の程知らずはシェインちゃんの専売特許なのに!」
「ボクが危険も忘れてブッ千切るのは、目の前に最高のお楽しみが待ってるときだけだよ。
今は違うさ。今はひとりが皆の為に頑張るとき」

 ひとりはみんなの為に。みんなはひとりの為に――シェインはかつて交わした言葉を暗誦し、ルディアを思い止まらせようとしている。
熱砂の合戦に赴く船上にて、ラドクリフを含めた三人でこの熱い誓いを立てたのである。

「一致団結して戦おうって踏ん張ってるのは誰だ? アル兄ィだろ? 
そう言う人間のチームメイトが率先して団体行動を乱しちゃ示しがつかないじゃん。勝てる戦いも勝てなくなっちまうぜ」
「覇気がなさ過ぎるの、うちの男子部はっ! 勝てるケンカどうこうって言うなら、敵を知ることも勝つには必要なの! 
あえて敵の中に飛び込んで、そんでもって敵を知らなきゃいけないの」
「それもハカセの受け売りかよ? お前んとこのハカセは、ホント、あぶねーことしか教えないんだな。
まともな常識ってもんをボクが教えてやるよ」
「ちなみに勉強ならオイラが見てやってもいいぜ。個人授業でビシバシ行くぜぇ? これでもテストで赤点取ったことは一度もねぇよ」
「マジでか!? だ、だってお前、ガッコにゃ行かなかったって言ってたじゃん!? なのになんで……」
「アホ言え。テストなんてめちゃチョロイもんだろ。頭の使い方とコツさえわかってりゃ、どんなもんにも応用利くもんよ」
「……もしかして、ジェイソンって天才っつー人種(タイプ)だったりすんの?」
「俗に言うお買い得商品って、メイやミルさんからよく言われるわ。ヒトをモノみてーに言うなっつの」
「――ちっちっちぃ〜、そーゆー安っぽい口説き文句に乗るようなお姉さんじゃないの。
シェインちゃんもジェイソンちゃんも、ルディアにアプローチしたいんなら、もうちょっと乙女心を勉強してからにするのネ。
あ、デートしたいって言うんならワヤワヤになら付き合ってあげてもいいの!」
「どこをどう解釈すりゃアプローチって話になるんだよッ! て言うか、お前こそ話の摩り替えが露骨過ぎるわ! 
誰が行くか! ワヤワヤなんかにッ!」
「とか言いつつ、実はおきゃんなルディアとワヤワヤに興味津々なシェインちゃんでしたなの」
「おいおい、恐ろしい色狂いじゃねーか、シェイン。ラドって彼女がいるんだろ? なのに、ルディアにまで手ェ出す気かぁ? 
現地妻だろ、コレ。この色男めが!」
「どいつもこいつも妄想力が逞しくって敵わないよっ! あとラドは男! さっき話したボクの親友だよ!」

 押され気味だったマリスに比して、より顕著に反対意見を述べるシェインであったが、
それでもルディアの勢いを食い止めることまでは出来なかった。
 しかも、だ。自ら望んで死地に臨もうとする彼女には背中を押してくれる賛同者まで現われた。
 こう言ったケースでは調停役に回ることが多いフィーナがルディアに賛成票を投じ、
あまつさえ自らもメアズ・レイグに随伴するとまで言い出したのである。

「イーライさんとレオナさんの強さは私たちが一番知ってるじゃない。ルディアちゃんには危ないことさせないから大丈夫だよ。
私も絶対離れないし」
「おおーっ! さっすがフィーちゃん、話がわかるのっ!」
「コカ! ケコケッコ!」
「ここに最強の騎士(ナイト)が随いてるぜ――って、ムルグも言ってるし。私たちで責任持って守っていくよ」
「ムルグちゃんにフィーちゃんに――ルディアったらモテモテなの! と言うわけで、シェインちゃん、袖にしちってメンゴね〜」
「えッ!? シェイン、お前……。こんなチンクシャが好みなのかよ!? 趣味悪いなー、おめー」
「ほら見ろ、莫迦ルディア! ジェイソンのヤツ、とんでもない勘違いしちまったじゃないか! いい加減、そのネタ、やめろよッ!」
「そんなムキになって否定するなんて……。そーかそっか、シェインちゃん、ルディアにマジぞっこんだったのね。
フフフのフ――もうちょっと素直になるのが早かったら、一度くらいはアソんであげたのに。残念の二乗なの」
「シェイン君、本命は絞んなきゃダメだよ? ラドクリフ君を不安にさせるのは良くないと思うな」
「な、なんで今の話の流れでラドが……。つーか、フィー姉ェは鼻血拭け!」
「それからお姉さんなりのアドバイスね。メールが返ってこないからって別の男の子に走るのはよくないな。
ジェイソン君が気になるのは分かるけど。……あ、でも、ちょっとした火遊びのつもりで本気になっちゃうとか、
修羅場かと思わせといて、ラドクリフ君も一緒に雪崩れ込むとか、それはそれで――」
「そーゆーのが誤解を招くっつってんだろ! だから、鼻血を拭けって!」
「……もしかして、オイラ、貞操の危機?」
「そうッ!!」
「違うッ! フィー姉ェ、マジで憶えとけよ! 後でアル兄ィに言いつけてやっからな!」

 鼻から下を真紅に染め、居合わせたブンカンをドン引きさせると言う醜態はともかく――
ルディアの安全を確保するに当たってメアズ・レイグの戦闘力を指標に持ち出したのは見事な機転であった。
何しろこの一言のみで皆が納得してしまったのである。
 佐志の控え室に在る殆どの人間が『ディプロミスタス』や『ダブルエクスポージャー』の暴威を味わっている。
生半可な実力では歯が立たないようなトラウムを備えている上に、本人たちのフィジカルも群を抜いて強靭。
そこから生み出される桁外れの戦闘力を三つ巴の決闘でも再確認した一同は、フィーナの弁に理があると思わざるを得なかった。
 辛うじて踏み止まったタスクは、「アルフレッド様や皆様が何の為に東奔西走しているかお忘れですか? 
シェイン様が仰った通りです。ここで足並みを乱すのは、アルフレッド様ひいては連合軍に対する裏切りでございます」と、
最大の問題点を提示し、良からぬ流れを断ち切ろうとした。

「イーライ様、レオナ様は名のある冒険者。そして、冒険者には冒険者の本分があるでしょう。
では、わたくしたちの本分とは? フィーナさんもルディアちゃんも、もう一度、そのことを御自分の胸に問いかけてくださいませ」

 マリスもタスクに続いたが、これはブンカンによって容易く突破されてしまった。

「フィーナ氏も冒険者と聞いています――そこで、ですね。ワヤワヤの調査を正式に依頼したい。
引き受けて貰えると我々としても大助かりなのですけどね。今は多くの情報が欲しいときですが、何分にも人手が足りなくて。
正直、困っていたところなのです。有益な成果を確保して頂ければ、報酬は弾みますよ」

 ここまでブンカンに言われてしまっては、マリスもタスクも立つ瀬がない。ルディアたちを慰留し得るだけの理由を失った恰好である。
 得意満面と言った風情でマリスたち反対者を見回し、次いでフィーナに抱きついたルディアは、
閉塞した空気から解放されたのが嬉しくて仕方ない様子であった。

「……僕も付き合うよ。一緒にワヤワヤへ行こう」

 勝ち誇るかのようなルディアの笑い声が引き金になったのか、ワヤワヤ調査への随伴に立候補する者が新たに増えた。
これまで会話に加わらず、部屋の片隅にて本業の帳簿をチェックしていたネイサンだ。
 収支などの数字が羅列された分厚いファイルを閉じると、挙手を以って同道を表明した。

「ネイトさんも?」

 ネイサンの立候補を全く予想していなかったフィーナは、鼻にティッシュを詰めつつ目を丸くして驚いた。
 彼は体調不良を理由として交渉への参加を断っていたのだ。ここ最近、何事か思い悩み、塞ぎこんでいるようにも見える。
実際、今も顔色は芳しくない。
 親友であるアルフレッドを仕事人の魔手から守る対処にも注力したのだが、
そのときの無理が祟ったのかも知れないと、ネイサンは自己分析していた。
 当たらずとも遠からずだろうとフィーナも得心が行っていたのだ。だからこそ、同道の申し出には目を丸くして驚いたのである。

「うん――アルには悪いけど、ちょっと……気になることがあるんだ。僕も同行させて欲しいな」
「ん? ん? ワヤワヤってガラクタばっかりなの? お鼻がひん曲がっちゃいそうなトコはちょっとイヤかもなの」
「さぁ、それは知らないけど……なんで?」
「だってネイトっちの人生ってガラクタ九割九分トリーシャちゃん一分でしょ?」
「ここまで自分の人生をバッサリやられたのも初めてだよ。それに僕が集めてるのは有価物だよ、ルディア。
趣味じゃなくてお仕事。そこを履き違えないでおくれよ」

 気になることがある――そう言うネイサンの視線はイーライへと一直線に向かっていた。
同じメアズ・レイグでもレオナには見向きもせず、イーライのみを凝視している。
 フィーナの勘違いでなければ、メアズ・レイグが入室してからと言うもの、ずっと同じ状態が続いていた。
リーヴル・ノワールでの抗争に於いて、イーライはトリーシャに対して思いがけない行動を取った。
レオナの面前にて不貞を働いたようなものである。もしかすると、ネイサンはそのことで気を揉んでいるのかも知れない。

(愛されてるなぁ、トリーシャは。ちょっと羨ましいかも)

 戦いの連続だった為に仕方がないとは言え、もう何ヶ月もアルフレッドと恋人らしい時間を過ごしていないと思い出し、
フィーナは胸中にて親友を羨んだ。マリスの手前、表立って甘えることは出来ない。
さりとて、手を繋ぐことさえご無沙汰と言うのは、年頃の少女にとって余りにもやるせなかった。
 尤も、生来の朴念仁であるアルフレッドは、そう言ったスキンシップには殆ど無頓着。
グリーニャにて平和に暮らしていたときでさえ、恋人同士とは思えない程に淡白だったのである。
 その癖、彼はこちらを振り回すのだ。マリスとの件が解決していないと言うのに別の少女まで惹きつけている。
アルフレッド本人の心情はともかくとして、ジャーメインのほうは強い関心を抱いていそうだ。

(……アルのばか。スケコマシ……)

 トリーシャへの羨望を押し退けるようにしてフィーナの心に湧き起こったのは、アルフレッドに対する苛立ちである。
恋人の気持ちも考えず、何時だってヤキモキさせてくれる――何ともいじらしい憤りだった。

「――メンバーは決まったようだね。必要な物があったら、何でも言ってくれ。テムグ・テングリが責任をもって準備させて貰う」
「ラジャなの! エルシャイン探検隊、ここに結成なのっ!」

 こうして、メアズ・レイグと共にワヤワヤへ赴く面子が選出された。
 最初に口火を切ったルディアと、彼女を守護すると胸を張るフィーナとムルグ。トリーシャを巡ってイーライを意識しているネイサンである。
 フィーナの見立て通り、イーライへ因縁を感じているらしいネイサンは張り詰めた雰囲気を醸している。
出発前から極度の緊張を見せていると言うことは、あるいは、ワヤワヤへの道中にて何らかの行動を起こすつもりかも知れない。
 ゴシップ方面で盛り上がり始めたエルシャイン探検隊――この自称は後にイーライから却下される――を見るにつけ、
密かにシェインも随行したくなっていたが、強行に反対した手前、今更意見を翻すことも出来ない。
断腸の思いで挙手を踏み止まった。
 ワヤワヤ調査のキーパーソンであるイーライは、頼もしい同行者が加わったにも関わらず、面白くなさそうにそっぽを向いている。
自分たちを隅に置いて好き勝手にメンバー編成を論じるフィーナたちが気に食わないのだろう。

「誰が連れてくっつったよ。ブンカンの依頼だろーがなんだろーが、手前ェらは手前ェらの好きにしやがれ。付き合ってられっか」

 腹立ち紛れに悪態を吐くイーライだったが、これはレオナが上手く取り成し、最終的には五人と一羽で行動することで合意。
意気揚々と鼻歌まで唄っているルディアを先頭に、フィーナたちは一路、ワヤワヤを目指して出発した。
 予想外だったのは、フィーナたちのワヤワヤ行きを聞かされたアルフレッドが立腹しなかったことだ。
 マリスから緊急連絡と銘打たれたメールを受け取ったアルフレッドは、すぐさまフィーナに電話を入れ、くれぐれも注意するようにと念を押した。
その最中にはイーライとレオナにも通話を代わって貰い、仲間たちが面倒を掛けると幾度も詫びたのである。
 それきりアルフレッドは多数派工作に戻っていった。必要な人間に必要最低限を伝えただけで、
彼は今回の件について何も言及しなくなった。ルディアとフィーナの我が儘をアルフレッドが容認し、了承したと言うわけだ。

(……本当、フィーナさんには甘いのね、アルちゃん……)

 フィーナたちがハンガイ・オルスを出発し、ブンカンもエルンストのもとへ帰還して以降、控え室は静寂に包まれている。
室内に木霊するのは、筋力トレーニングに励むシェインとジェイソンの呼気くらいだ。
 人間と言う生き物は不思議なもので、静かになればなるほど様々な考えが脳裏を横切(よぎ)る傾向があり、
マリスもまた静寂に身を委ねて物思いに耽っていた。
 アルフレッドの今回の対応について彼女なりに思うところがあった。
先ほどから所在無さげに部屋中を歩き回り、時折、思い出したように溜息を漏らしている。
編物をしつつ主の様子を見守っていたタスクが気遣わしげに声を掛けても、彼女は空返事を返すばかり。
 それを見兼ねたタスクは、編み棒を片付けると、ウロウロと彷徨するマリスの前に立ちはだかり、
驚きに見開かれた赤い瞳を真っ直ぐに覗き込みながら両手を彼女の双肩に添えた。

「タスク? ……どうしたと言うの?」
「マリス様、わたくしは――」

 真剣そのもののタスクにマリスはひどく戸惑い、狼狽した。
普段、穏やかな彼女が張り詰めた空気を発するときは、決まって大切なことを話す機(とき)なのである。
 長い付き合いだ。彼女のことは呼吸のリズムまで理解している――が、それにしても今回は尋常ではない様子だった。
 肩へと添えられた両手は微かに震えているし、両目の端には涙の雫が溜まり込んでいた。
玉を結んだその雫は、風に吹かれただけでも頬を伝って滑り落ちるに違いない。
それに苦しげな皺が幾重にも眉間へ刻まれている。こんなにも苦みばしった表情のタスクをマリスは今まで見たことがなかった。

「マリス様……っ」

 タスクの唇が揺れ、何か言葉が紡がれようとしている。
 これからやって来るだろう衝撃に備えて息を呑んだその瞬間――――

「お取り込み中、申し訳ありません。ちょっとお話をさせて貰ってよろし――……あッ!? ほ、本当にお取り込み中でしたか! 
あの……、も、申し訳ありませんでした! 後ほど出直しますので!」

 ――見知らぬ男が頭を下げつつ控え室に入室し、足を踏み入れた直後、慌てた様子で出て行ってしまった。

「あー……なるほどな。ま、誤解されんのもムリないよ。パッと見、愛の告白にしか見えないもんな」

 その男の意味不明な行動に呆けたような顔を見せるマリスだったが、
腕立て伏せをしながら一部始終を傍観していたシェインの指摘によって全てを悟り、次の瞬間には全身を真っ赤に沸騰させた。
 見詰め合う女性がふたり。片方は相手の肩に両手を添えて思い詰めたような表情をしていて、
もう片方は彼女の口から紡ぎ出される言葉を緊張しながら待ち受けている。
 そこから導き出される答えは、ただのひとつである。

「ご、誤解ですわ、誤解っ! わたくしが愛を捧げるのはただ一人ですっ! アルちゃんだけ! 
アルフレッド・S・ライアンただ一人だけです! アルちゃん、心から愛していますわっ! 
だ、だから止まって! 聞いてくださいまし! わたくしの話を聞いてくださいましっ!」

 殆ど涙声の悲鳴は、あってはならない誤解を引き摺りながら去っていった男が足を止めるまでハンガイ・オルスを揺さぶり続けた。


「我々、『ビルギット』としては無理を押してギルガメシュに抗戦するよりも、対等な立場で付き合って行けるよう交渉を持ち掛けたいのです。
奥様のほうからもなんとかライアン氏に掛け合ってはいただけないでしょうか?」

 バイケル・シルバーマンと名乗った初老の男性は、ビルギットなる寒村の村長補佐と言う自らの素性を説明し終えると、
いきなりマリスに頭を下げ、アルフレッドへの便宜を頼み込んだ。頼み込んだと言うよりも、泣きついたと表すほうが正しいかも知れない。
 とにかくバイケルは、徹底抗戦が議決されたら寒村は滅びるの一点張り。
突然のことに戸惑うマリスたちが声を掛ける余地もないほど切羽詰った調子で、
ビルギットの置かれた窮状をただひたすらに哀訴し続けているのだ。
 反論どころか質問も出来ないような状態には、さしものマリスたちもお手上げなのである。

 要領を得ずに半ば散文と化している哀訴の断片を拾い集め、彼が伝えんとしている要旨を整理するうちに、
ビルギットのみならず小規模な寒村の抱える問題が次第に浮かび上がってきた。
 アルフレッドの献策を聞き入れた連合軍が、雌伏の後に決戦へ挑むことになった場合、
ビルギットのような寒村は存続自体を維持できないと言うことだ。
 今でこそ逃げの一手を模索しているような印象のビルギットだが、全くの腑抜けではない。
両帝会戦の折には雀の涙ほどしかない兵力を押し出し、乾坤一擲の覚悟で戦ったのだ。
己が村の存亡をエルンストと連合軍に賭けていたとバイケルは語った。
 本来は自衛の為に整えていた兵力が半分以下に瓦解し、食糧や武器をも惜しみなく投入した戦いで惨敗したビルギットは、
今や裸も同然の状態であった。大博打に敗れるとはそう言うことだった。
 アルフレッドは必勝を期して“次の機会”を狙うと言い、エルンストもその軍略に自らの命を賭けると宣言した。
だが、彼らの語る“次の機会”が一体何時になるのか、具体的には誰にも算出が出来ない。
現時点ではアルフレッド本人にも予測は立てられないだろう。
 具体的な期日が定められない中で忍従し続けることは、まさしく生き地獄である。
途方もなく苦しい時間にビルギットは耐えられないとバイケルは断言していた。
 兵力が激減した状態でギルガメシュの襲撃に遭おうものなら、数分の内にビルギットの名前は地図上から消し飛ぶであろう。
仮に攻撃対象から外れたとしても先の合戦で多くの働き手を失った状況では、いずれは生活圏の維持さえ立ち行かなくなる。
 テムグ・テングリ群狼領やヴィクドのように軍隊を持たない小さな町村では、住民が持ち回りで自衛を行なっているのが殆どである。
町村の運営に欠かせない人材が壊滅状態に陥ったのである。
 社員のいない会社が機能不全になるのと同じように、ビルギットは人間が暮らす生活圏としての機能が損なわれてしまっていた。
 八方塞にまで追い詰められたビルギットは、最早、ギルガメシュにすがりついて支援を請う以外に選択肢がなかった。

 最大の問題は、ビルギットと同じ状態の小さな村落がエンディニオン中に散見される点である。
合戦に出た全ての兵士――つまり働き手が全滅してしまったようなケースもあると言う。
 アルフレッドの献策とは、つまり大勝を得る代償として小さな犠牲を幾つも積み重ねるものに他ならない。
当たり前のように弱者へ痛みを強いる軍略だけは思い直して貰えないかと、バイケルは必死であった。

「……こりゃフィー姉ェたち、大変な目に遭うかもだな」
「シュガーの兄キにも言われてるし、ガードならオイラも喜んで飛んでくけどさ、それにも限界があるしな。
スカッド・フリーダム本隊だって世界中の全部の村をフォローするのは不可能だぜ」

 バイケルの哀訴へ耳を傾けていたシェインとジェイソンは、
ワヤワヤでもビルギットと同種の混乱が起きているではないかと懸念し始めていた。
 両帝会戦の敗北を受けて、世界各地でギルガメシュへ恭順しようとする機運が高まっているとブンカンは説明していた。
その発端は、やっとのことで自主独立を維持している小さな規模の町村の困窮ではなかろうか――と。
 仮にワヤワヤとビルギットが同じ問題を抱えているとしたら、フィーナはとんだ貧乏くじを引いたことになる。
敵の情報工作による混乱と違い、地形や経済等の困窮を原因とする内乱は解決の糸口が見つけにくいのだ。
テムグ・テングリ群狼領の国力が高い水準で維持されていれば、何らかの処置を講じて村民の不満を解消できたかも知れないが、
なにしろ現在は戦時。満足な支援が出来るとは思えない。
 おそらくワヤワヤは混乱と困窮の極致であろう。そのようなそんな状況にフィーナたちは身を投じたのである。
背筋に冷たい戦慄が走ったシェインは、無事の帰還を祈らずにはいられなかった。
 一方のマリスは、勘違いしたのかおべっかなのか、自分のことを「アルフレッドの奥様」と呼んでくれたバイケルへ
すっかり気を許してしまっている。見ず知らずの人間にまで「アルフレッドの奥様」と認識されていることは、
彼女にとって勲章にも等しいステータスである。
 最初に「奥様」と呼ばれて以降、マリスは新婚生活などの妄想に身悶えるばかり。
当然ながらバイケルの説明を聞いている筈もなく、大事な要点はタスクがフォローしていた。
 バイケルによる直談判の内容をタスクから耳打ちされたマリスの面は、すぐさま緊張の色へと引き締められる。
ことの重大さを悟った以上、いつまでも阿呆面を晒してはいられない。これは真摯に取り組むべき問題であった。

「お話はわかりました…が、わたくしどもはアルちゃ――アルフレッドとは一蓮托生の仲間です。
母なる星に寄り添う伴星と同様に、彼の描く軌跡にこそわたくしたちは歩みを重ねられるのです。
アルフレッドの発する大いなる引力を、どうして伴星が変えられましょうか。
アルフレッド・S・ライアンと言う稀有の明星に命運を託す覚悟があるからこそ、わたくしたちはこの場にいるのです」

 慎重に言葉を選びながらバイケルに自分たちの境遇を説明するマリスだが、
窮鼠が逃げ場を求めて血眼になるのと同様に、極限まで追い詰められている彼に曖昧な言い回しは通用しなかった。

「あなたがたに力がある。力があるからそうやって余裕で構えていられるんです。でも、我々は違う! 違います! 
我々は明日をも知れない身に成り果てているんですよっ! もしかしたら、明日にはビルギットは敵に滅ぼされているかも知れない。
我々は自衛の兵すら置かずにあの一戦に全てを注ぎ込んだのですから! ……その賭けに負けた今、ビルギットは風前の灯です」

 そこでマリスは返す言葉に詰まってしまった。
 逼迫し切ったバイケルの声色に哀憐を感じた所為もあるが、それ以上にマリスの心を貫き、激しく揺さぶったのは、
佐志とビルギットの間に埋め難い格差があると言う鋭い指摘であった。
 その格差は、バイケルが指摘する通りに確かに両者の命運を分けていた。

「厳しい言い方になりますが、それは自己責任の範疇ではありませんか、シルバーマン様? 
我々だって安全圏にいられるわけではありません。これまでも命懸けで戦ってきましたし、
ここを引き払えばより危険な死地へ赴かねばなりません。窮地はお互い様とは言えませんか?」
「佐志は海運の要衝だ。蓄えだってたっぷりあるでしょう? 蓄えすら乏しい我々とは違います! 
……負けることがいけないことですか? 負けた人間が慈悲を乞うのは当たり前のことでしょう!? 
私ひとりが無様な姿をさらすならまだいい! 私の肩には村に残ったたくさんの住民の命がかかっているんです!
みなを路頭に迷わすわけにはいかない!!」
「失礼を承知で言わせていただきます。住民一致の賭けだった以上、負けた分は自分たちで責任を持たくてはならないのでは? 
……ビルギットの抱える問題は察して余りあります。しかし、立場が危うくなったからと言ってその救済を勝った側に求めるのは、
いくらなんでも筋が違うのではありませんか? ましてやわたくしたちに取り成してくれと依頼するのはあまりに不謹慎」
「自称するのはあまりに情けないが、我々は弱者です。弱者が力のある人間に助けを求めることに何か恥ずべきところがあるのですか? 
……できれば人間としてのプライドや尊厳には触れないでいただきたい。プライドをかなぐり捨てた自覚はありますから……」
「あなたの態度は十二分に立派だと思います。あなたは私利私欲でなく村の為に汚れ役も買って出ている。
その姿勢は敬服いたします。ですが――」
「では、一体、何が――」
「――佐志に逃れてきた疎開者の中には、ギルガメシュに故郷を焼かれた人たちも大勢いるのです。アルフレッド様はそのお一人。
今は別行動をしているフィーナ様も、……そこであなたの一挙手一投足を見つめているシェイン様も大切な故郷を失っているのです」
「な……ッ……」
「これ以上、不謹慎なことはそうは見つからないのではありませんか、シルバーマン様」

 落ち窪んだ両目に涙を溜めてひたすら懇願するバイケルの姿には憐れみを禁じ得ないが、
さりとてアルフレッドのいない間に作戦全体に影響を及ぼすような決定を下せるはずもない。
 悲壮感すら漂うバイケルの哀訴に固まり続ける主に成り代わり、
応対に当たったタスクは、ビルギットの窮状を汲んで救いの手を差し伸べて欲しいと言う要求を厳しい態度で突き放した。
 理路整然とした反証でもって救い求める手を撥ね退けられたバイケルは、
全身を小刻みに震わせながら俯き、ややあってから「…それでも私は故郷を守らなければなりません」と搾り出した。
 自らの発した決意表明に引き摺られるようにして顔を上げ、タスクの様子を窺うバイケルだったが、
形振り構わぬ哀願をもってしても彼女を変節させることは出来なかった。
 タスクの満面には、先ほどと何ら変わることのない冷たさが――明確な拒絶の意志が宿っており、
如何ともし難い現実を目の当たりにしたバイケルは、血色を失して紫色になっている唇を血が滲むほどに噛み締め、
再び床へと視線を落とした。

「……タスク……」

 タスクとは二十年来の付き合いになるマリスだったが、こんなにも冷たい表情を作れるとは知らなかった。
と言うよりも、いつだって朗らかな笑みを浮かべて自分を見守っていてくれるタスクが、
聞く耳持たないとばかりに他者を完全否定し、追い縋らんとする手を無碍に撥ね付ける様など想像もできなかったのだ。

(……皆、必死なのですね、生きて残る為に……)

 ――そう、マリスとは二十年来の付き合いだ。
 マリスのことを誰よりも理解しているのはタスクであり、マリスもまた他の誰よりタスクを理解している自信がある。
彼女が他者に冷たい表情を見せる様を想像できなかったのも当たり前なのだ。
 タスクは相当な無理を重ねてバイケルの要求を突っぱねているのである。
本当はバイケルの苦労をねぎらい、彼の求める支援を確約したいに違いない。
慈愛に満ちた人柄に世界中の誰よりも支えられ、また、固く握られた彼女の両拳に確固たる決意を見るマリスは、
個人の感情を押し殺してまでチームの為に尽くしてくれるタスクを今すぐにでも抱き締めたかった。
 この場で慈愛を見せることは、アルフレッドたちの粉骨砕身を踏み躙る裏切り行為に他ならない。
仲間たちの努力に報いる為に、タスクは心を鬼にして――心で涙してバイケルを黙殺にかかっているのだ。
 思えば、過酷な戦いである。
 家族も住んでいるであろう故郷ビルギットを守る為、恥も外聞もかなぐり捨てて慈悲に縋ろうとするバイケルの想いも十分に理解できる。
それをどうしても受け入れられないタスクの苦しみには、我が身を切られる思いをマリスも抱いていた。
 どちらが悪いと言う結論はない。どちらが正しいと言う判断もあるまい。
 立場や状況の違いが悲愴なる衝突と無間地獄にも似た平行線を作り出し、その上に立った両者へ耐え難い痛みを強いているのである。
 だが、どんなに痛みを強いられても両者は決して譲らない。舞台を降りて苦痛から解放される道は選択肢には入っていない。
生き残る為の戦い――それも自分以外の多くの人間の命運を背負った戦いを放棄することなど、どうして考えられると言うのか。
 「多数派工作」と言う有り体の言葉では表現し切れない鬩ぎ合いが、この場に在った。

「私たちは、ビルギットは、ただ以前と同じ平和な暮らしを取り戻したいだけなんだ……。
華々しくなくたって構わない。素朴でも穏やかな日常を守らなきゃいけないのに……」
「……昔と同じ平和だって……?」

 バイケルがそう搾り出したとき、悲劇の引き合いに出された際にも無言を貫いていたシェインが初めて会話に口を挿んだ。
 シェインが割り込むことでふたりの会話が混乱すると判断したジェイソンは、タスクから目配せされるまでもなく彼の腕を引こうとした。
しかし、手を伸ばしたときには既に遅く、掴まえ損なったシェインの掌がバイケルの胸倉を捉えた。

「あんたには悪いけどさ、“前とおんなじ”なんてもんは、もうどこにもないんだよ。エンディニオン中、探し回ったって見つかりゃしないぜ」
「き、キミは一体……」
「先ほどご紹介に預かりました、シェイン・テッド・ダウィットジアクとはボクのことだ」
「あ――」

 以前と同じものはない――他ならぬシェインの口から語られたその言葉は余りにも重く、
バイケルを絶句させるにも、シェインの暴挙を止めようとしたジェイソンの動きを止めるにも、十分過ぎるほどの力を持っていた。

「不幸自慢するつもりじゃないけどさ、ボクにはもう帰る場所なんかないんだよ。
帰りたくても、もう焼け野原になっちゃってるからね。……親友だって一人殺されてる。大切なヤツもギルガメシュに攫われちまった。
ボクはベルが……、あいつが攫われるのを目の前で見てることしかできなかったんだ。
人質にされてるのか、捕虜にされてるのかもわからない状況だよ」

 エルンストをも飄然とからかっていたジェイソンですら今のシェインには気圧されている。
それ程までに彼が発する気魄は凄まじいのだ。

「あんた、村長の代理なんだろ? 頭いいんだろ? ――なら、ボクに教えてくれよ。
あんたが言ってる“前とおんなじ”ってやつはさ、どうすりゃ手に入るんだい? 
独り占めしないでボクにも分けてくれよ。……どうすりゃグリーニャが元に戻れるのか、教えてくれ」
「……それは――」

 ――それは、怨念に突き動かされて暴走していたアルフレッドが、激昂と共にマリスへ突きつけたのとそっくり同じ要求だった。
 平和と笑顔が輝く掛け替えの無い故郷へもう一度帰り着く術をシェインはバイケルに問い掛けた。
 帰る場所を焼亡(なく)し、目の前で大切なものを幾つも奪われた少年が、
帰り着く場所のある大人に向かって全ての悲しみを拭い去る術を問い続けた。

「前に突っ走るっきゃないボクに帰り道を教えてくれよ。あんたになら出来るんだろ? 
なぁ、ボクらはどうやって帰ればいい? ……わけわかんないくらい遠くまで来ちゃったせいか、
もうグリーニャの場所を見失っちゃったんだよ」
「…………あ……う…………」
「ボクらの帰り道はどこにあるんだッ!?」

 いくら戦争の最前線に立っているとは言え、まだ年端も行かない少年だ。
辛いとき、悲しいときは素直に泣いてしまえばいい。幼いシェインはそれが許されるはずだった。
それなのにシェインは涙の一雫すら流さず、慟哭することさえなく、感情も抑揚も感じられない乾いた声でバイケルに問い掛ける。
 詰問する内に胸の奥底から抑えきれない昂ぶりがこみ上げてきたのだろう。一瞬だけ子供らしからぬ怒号と共に激情を覗かせたが、
大音声こそ張り上げてもあどけない瞳から歳相応の雫が零れ落ちることはなかった。
 シェインが落としたのは、涙でなく深く昏く重い沈黙だった。

「――見失っちまったんなら、また新しい道を作ればいい。人間の可能性ってのはスゲーんだぜ!」

 その沈黙を破ったのは、昏い闇へ光を差し向けるかのような希望の示唆である。
 声のした方角――控え室の出入り口を窺うと、そこにはティンクとジョウ・チン・ゲンを伴って交渉に当たっていたマイクの姿。
無理難題との格闘が続いている為、一度、頭休めでもしようと控え室に戻ってきたようだ。

「マイク様、一体、何時の間に……?」
「お前さんとそこのお客人が話している最中さ。まあ、部屋(ココ)には入れなかったんだけどな。
悪趣味とは思ったが、あらましは聞かせてもらったぜ」
「なァに殊勝なコトをほざいてんのよ。聖人君子気取り? 超キモいわ。悪趣味大好き人間の分際でっ!」
「本当にティンクさんはマイクさん相手には厳しいですね。この方なりの気遣いだと思いますよ?」
「ジョウ、あなた、騙されてるのよ。いや、マジで。あんたみたいに純真な人間を食い物にするプロなんだから、コイツ」
「おめーはもうちょっと空気読め。明るく楽しく漫才やってる場合じゃねーんだよ」

 バイケルが哀訴する最中に帰ってはきたのだが、そのときには既に入室を憚るような状況となっており、
仕方なくドア一枚隔てた外にて立ち往生していたと言う。
 マイクからそう説明されたシェインは、堪り兼ねて目を反らした。
それはつまり、今しがたの醜い感情の発露まで冒険王に見られてしまったと言うことだ。
意趣返しどころか、殆ど八つ当たりにも近い癇癪など憧れの人物には何があっても晒したくない姿である。
 小刻みに震えるシェインと、その様子を心配そうに見つめるジェイソンの間をすり抜けてバイケルの前に立ったマイクは、
跪いて彼に視線を合わせ、「ボロボロになるまでよく耐えたじゃねーか。あんた、スゲーよ」とねぎらいの言葉を掛けた。
 これまで想像を絶する労苦があったのだろう。頬に刻まれた皺の一本一本が誇りの証しだ――
それはタスクが押し殺した言葉でもある。どうしても口に出せなかったことをマイクが代わりに言ってくれたのだ。
 哀訴を断念せざるを得なくなり、全ての可能性が閉ざされたと憔悴していたバイケルにとって、
冒険王の言葉は何にも勝る救いであった。
 ジョウもまた片膝を突き、痛ましげな表情にてバイケルの手を握り締めている。次いでマイクの面を窺うと、彼は大きく頷いて見せた。
何事かを訴えかけるようなジョウの眼差しへ首肯を以って応えたのである。

「マイクさん、それでは……」
「ああ、こうして出くわしたのも何かの縁だ。はっきり言って、見捨てちゃおけねぇ」

 ふたりの会話に随いていけず、当惑したように固まってしまったバイケルの両肩をマイクは二度、三度と叩いた。
今まさに萎えかけていたバイケルの希望を奮い立たせようと言うのだ。

「ビルギットのバックアップは、オレたち、ビッグハウスが引き受けよう。……と言っても、やたらめったら期待されても困るけどな。
ルナゲイトの御老公みてーにカネなんか持ってねぇし、回せる人材だって限られてるが、出来る限りのサポートは約束しよう」
「ワ、ワイルド・ワイアットから御慈悲を頂ける……と言うことでしょうか!?」
「バカ言え、何が慈悲だ。オレはそんなに立派な人間じゃねーよ。資金も人材もあくまで貸しだ、貸し。
困ったときは無条件で助けて貰えるなんて、そう言うのはお前さんのタメにもならねぇ。大人なら分かるだろう?」
「し、しかし! 例え、費用をお借りしたとしても、いつ返済出来るか分からないのですよ? 五年後、十年後かも知れませんし……」
「おう、そのときを楽しみにしてるぜ。オレは気の長さが取り得なんでな」
「金利なんて、とてもビルギットは……」
「――だぁ〜! いちいちグチグチとうるせーなぁ。シャンとしな、バイケル。利子なんてケチくせーことは言わねぇよ。
疎開先の斡旋だっていくらでも相談したらいい! だがな! 立ち上がるのはあんたとビルギットの村だ! オレには手助けしか出来ねぇ! 
……ここまで踏ん張ってきたあんたになら絶対に大丈夫だ! あんたならやれる! それとも、グーパンチで気合い注入しなきゃダメか!?」
「矛盾してますよ、マイクさん。短気そのものじゃありませんか」
「だーかーら、ペテン師だって何度も言ってるっしょ。冒険王なんておだてられてるけど、上っ面を剥ぎ取りゃ低俗なチンピラよ」
「外野、うるせーよ!」

 それは、多数派工作に先立つミーティングにてマイクが話していた支援プログラムである。
無償での救済はしないのかとシェインから尋ねられた際、マイクは「水や養分だってやり過ぎたら根が腐っちまう」と答えていた。
それが冒険王の厳しさであり、優しさである。敢えて有限を設けることで相手の力を奮い立たせ、
己の足で立ち上がれるよう鼓舞しているのだ。
 バイケルにとってマイクの提案は最良の救済となった。地獄から引っ張り挙げられたような面持ちで平伏した彼は、
冒険王に向かって「このご恩は一生忘れない。何年掛かっても必ず」と誓った。
何年掛かっても必ず完済し、恩返しをする――そう宣言する声には、消え失せていた筈の活力が蘇っている。

 シェインは急に自分が恥ずかしくなった。降りかかった不幸を卑劣な武器に換えていたのは、誰でもない自分自身だと気付いてしまったのだ。
同じような苦悶を抱えるバイケルへ手を差し伸べるどころか、彼のプライドを惨たらしく引き裂いた。
そうすることでバイケルを叱咤したのではない。ただ単に自分の悲しみを慰めただけなのだ。
 故郷を失うと言う人生最悪の不幸を味わった自分は、何を言っても、何をしても周りがそれを許してくれると、
我知らず思い上がっていた。これ以上に情けない話はあるまい。
 なんと狭量で、矮小なのだろうか。ただひたすらにシェインは自身の愚かしさを責め続けた。
意識が内向きになり、且つ心まで凍りつかせていては、周囲の状況など分かる筈もない。
バイケルが控え室を辞したのも、ジェイソンが気遣わしげに声を掛けてきたことにも全く気が付かなかった。
 先ほどまでバイケルの胸倉を掴んでいた手には、今や拳を握るだけの力も残されていない。
 どん底にまで落ち込んでしまった心を揺さぶり、漆黒に閉ざされていた意識を現実世界へと引き戻したのは、
脳天に感じた軽い衝撃である。
 誰かにゲンコツを落とされたのだ。いや、“誰か”と言う抽象的な表現など不要であろう。
改めて確認するまでもない。戒めの槌を振り落としたのは、バイケツの一件を解決に導いたワイルド・ワイアットその人なのだ。
 彼のような大冒険者になりたいと夢見てきたシェインにとっては、死の宣告にも等しかった。
軽蔑されて当然の姿を見られたのだ。偶然から始まった奇跡のような縁は、その瞬間に断ち切られてしまったに違いない。

「大事なことを伝えたいなら、言葉を選ばなきゃダメだぜ。相手を傷つけちまったら、もう何も生まれねぇよ」

 絶望に沈むシェインへマイクから諌めの言葉が掛けられたが、その声色は想像していたものとは正反対のものだった。
厳しい叱責でも、軽蔑の念でもない。これまでと少しも変わらない優しさが宿っていた。
 そんなに都合の良い話などあるものか――思わず顔を上げ、マイクの様子を窺ったシェインは、そこに眩いばかりの笑顔を見つけた。
絶望に瀕するバイケルをも救った笑顔である。冒険王と呼ばれるに相応しい覇気が漲っていた。
 やがて握り拳を解いたマイクは、声を失ったまま固まっているシェインの頭を優しく撫で付け、
「だが、お前の叫びをオレは忘れねぇ」と強い眼差しでもって語りかけた。人間の醜悪な部分まで包み込む大らかな強さである。

「お前がどんな想いでこの戦争に臨んでいるのか、やっと分かったよ。オレ、そーゆーのにはちと鈍感でよ……。
今まで気付いてやれなくて、ゴメンな」
「そ、そんなっ! マイクさんが謝ることなんて何も……!」

 ただひたすらにシェインは恐縮するしかなかった。ずっと憧れていたマイクからの望外の申し出ではあるものの、
これを受けるわけにはいかなかった。自分のようなちっぽけな悪童の為に手を煩わせて良い筈もない。
ワイルド・ワイアットとは、即ち全ての冒険者の憧れである。新たな伝説を築くことだけを目指して欲しい。
その為にこそ貴重な時間を充てるべきなのだ。
 そう思ってマイクの申し出を固辞しようとするシェインだったが、当の冒険王は「水くせーコトを言うなよ」と闊達に笑い、
遠慮と言う名の垣根を簡単に跨いでしまう。シェインの心に寄り添い、少しの迷いもなく手を差し伸べていく。

「――けど、これからは違うぜ。お前の苦しみは、オレの苦しみだ。お前が奪われちまったモンを取り戻せるように力を尽くす。
お前がさ、心から笑えるような未来を一緒に考えるぜ。オレもお前も、きっと目指すところは一緒さ。
……だからよ、帰る場所がねぇとか、そんな悲しいコトは言うなよ」
「マイクさん……」
「マイクでいいぜ、シェイン。オレはお前の親友(ダチ)になる。そう決めたんだ!」

 マイクのその一言にシェインは再び俯いてしまった。偉大な冒険王と矮小な自分を比べて恥じ入ったわけではない。
彼の言葉がどうしようもなく嬉しくて、熱い雫が頬を伝って落ちるのを堪え切れなくて――
この幼い少年には、俯くことしか思い浮かばなかったのである。

「あのおっさん、ホントにすげぇんだな。冒険王なんて口だけだと思ってたけど、こりゃ敵わねぇや」

 ふたりのやり取りを少し離れた場所で見守っていたジェイソンは、冒険王と称される男の大器に感服するばかりであった。
エルンスト相手にも闘争心を燃やし、勝負に持ち込もうと試みるような粗暴で好戦的な少年が、だ。

「苦労性なんですよ。しなくても良いような苦労を張り切って背負い込む。……私の知る限り、世界で一番大きな人です」

 ジェイソンの呟きにジョウが力強く頷いた。『外道装備』などと忌まれるような出で立ちの青年は、
おそらくこの場に居合わせた誰よりもシェインの気持ちを理解していることだろう。
 彼はれっきとした難民である。たった独りで異世界へ放り出され、明日をも知れぬ身の上となったとき、
運よくマイクと遭遇して命を救われたのだ。立場と状況に違いはあれども冒険王の大器によって希望を取り戻したと言う点では、
シェインとジョウは全く同じである。無論、バイケルとてその輪の中に入るだろう。
 それ故にジョウの首肯には強い説得力があり、ことの成り行きを傍観していたマリスとタスクも釣られるようにして頷いたのである。
今や誰もが冒険王と呼ばれるマイクの大器に敬服していた。
 この状況がどうにも気に入らないティンクは、負け惜しみのように悪態を吐こうとした――が、
想像を絶する物体が窓ガラスにへばり付いているのを発見し、これに驚いて喉まで出掛けた言葉を全て呑み込んでしまった。

「あンの――泥棒野郎……ッ!」

 荒い鼻息でもって窓ガラスを曇らせつつマイクへ鬼の形相を向けるのは、
謎の物体でも化け物でもなんでもなくフツノミタマその人だった。





「くだらんことを抜かすな。俺たちはパラッシュに協力こそすれ、命令を聞く家来に成り下がった憶えはない。
ヴィクドはヴィクドの好きにやらせて貰うぞ」

 アルフレッドから全軍の更なる結束を請われた途端、ヴィクドの提督ことアルカークは、
ただでさえ厳つい面構えを一層険しくさせ、件の要請を荒い鼻息でもって吹き飛ばしてしまった。
 バイケル・シルバーマンがシェインたちの許を辞したのと同じ頃――アルフレッドはニコラスを伴ってヴィクドの控え室を訪れていた。
 その目的とは、当然ながら多数派工作である。軍議の折にアルカークとは幾度も衝突し、依然として蟠りは消えていないものの、
史上最大の作戦を完遂するには全軍の足並みを揃えることが必須条件。
その重要性を改めて示すべく自ら荒くれ者の真っ只中へと乗り込んだ次第である。
 アルカークはAのエンディニオンの難民たちに覆し難い程の差別意識を抱いている。
護衛とは言え、そのような男との対面にニコラスを連れ立つのは余りにも危険であり、アルフレッドも最初は躊躇した。
交渉の成否が問題なのではない。ニコラスの心が深く傷付けられるかも知れないと懸念したのだ。
 最後にはニコラスの熱望やピンカートン夫妻の取り成しに折れて随行を認めたのだが、
アルカークと対峙した後も自身の判断が正しかったかどうか、アルフレッドは迷い続けている。
 幸いと言うべきか、現在のところは批難の声はニコラス以外に集中している。
同席の傭兵たちは軍議の席にて提督が辱められたものと信じ込んでおり、アルフレッドにのみ敵意を剥き出しにしているのだ。
Aのエンディニオンの難民は最初から眼中に入っていない様子だった。
 遠慮と言うものを知らない喚き声こそ煩わしいものの、罵倒が自分に向かっているほうがアルフレッドには好都合。
四面楚歌の状況下での折衝は望むところであった。実際、彼は針のムシロにも関わらず、少しも動じていない。
 ヴィクドの傭兵たちの反応は折込済みだったらしく、二度三度と説得を試みはするものの、
声に懸命さなど感じられず、半ば棒読みに近い。
全軍の足並みを揃える重要性を示したい――だが、それは他の同盟者たちに対して、だ。
ヴィクドとの結束など最初から諦め、切り捨てている。
 同盟者の義理でとりあえず立ち寄ったと言うのが丸分かりの適当な態度であるが、これもアルカークを焚き付ける為の計略である。
血気盛んなこの男は、挑発でもって敵地へ誘っても良さそうだ。連合軍から切り離すことを考えると、それが最良だった。

「俺としてもエルンストの軍門に下れと頼むつもりはない。テムグ・テングリの力がこれ以上増すのは、
正直なところ、考えものとも思っているからな」

 これは口八丁であろうとニコラスは即座に見抜いた。
エルンストに薫陶を受けたアルフレッドが、彼の権勢を警戒することなどあろう筈もない。

「ギルガメシュを倒した後、エンディニオンの秩序を維持するには、
ヴィクドとテムグ・テングリのパワーバランスを一定に保つことが重要になる。……ここだけの話、俺はそのように考えている」
「拮抗し合っておれば侵略の勢いも弱まると言うのか? ……エルンストの軍師が何をほざくと思えば、これまた笑わせてくれるわい。
一応、訊いてやろうか。貴様の魂胆は何だ? エルンストが首を刎ねられた後の再就職先でも探しておるのか」
「ヴィクドの水が合いそうな気もするが、生憎と俺はそんなつもりはない。そもそも俺だってエルンストの部下になった覚えはないんだ。
共通の大敵を倒す為に同盟しているに過ぎない」
「その場のしのぎの口から出任せも大概にしておけよ、小僧。貴様がエルンストの手先となって動いておることぐらい俺の耳にも届いておるわい。
貴様、論客を組織して小賢しい工作までしておるらしいな。そこまでやっておいて、よくまぁエルンストが無関係と言えたものだ」
「目的達成の為なら手段は選ばない。利用できるものは何でも利用する。こう答えれば満足か?」
「俺を満足させたいのなら、今すぐに貴様のその小賢しい舌をそこに吐き出せ。噛み切って吐き捨てていけ。
その煩わしい舌を肥溜めに沈めるのが俺の満足だ」
「要求は却下する。俺はアルカーク・マスターソン個人を満足させたくて交渉に来たんじゃない。
ヴィクドの益になる交渉には応じるが、あんたの楽しみなど知ったことか」
「俺がヴィクドだ――そう答えたなら?」
「ヴィクド市民にその声を伝え、ヴィクドの土地が誰の物なのかを問うまでだ。
俺の仲間はその手の小細工に長けたのが多いからな。二枚舌の代わりにヴィクドの声を届けてくるだろう」
「フン――ますますもって小五月蝿いわ。便所蝿でもタカっているようだわい」

 打倒ギルガメシュと言う共通の目的を掲げながら足並みを乱そうとするアルカークにその理由を尋ねるアルフレッドだが、
その声色は露骨な諦念を孕んでいる。交渉によってヴィクドを慰留しようとするような意志は全くと言って良いほど感じられなかった。

「……なぜ、俺が貴様のご高説に耳を傾けんか、その理由を考えたことはあるか、アルフレッド。
貴様がお膳立てした計略を無視する理由をな」

 アルカークのこの発言にニコラスは思わず身を硬くした。
 Bのエンディニオンの誰もが佐志やマコシカ、グドゥーのように難民との親和へ前向きと言うわけではない。
害虫、寄生虫などと差別しないまでも受け入れに抵抗を覚える者は少なくなかろう。
サミットに於ける議論を見れば、その傾向は瞭然である。
 難民と言う己の身の上がいつかアルフレッドの足を引っ張るのではないかとニコラスは案じてはいたのだ。
そのような事態が真っ先に起こり得るとすれば、やはり差別意識の塊とも言えるアルカークとの交渉の席であろう。
 だからこそ、ニコラスは無理を言ってアルフレッドに同行したのである。
もしも、アルカークが自分を――難民の存在を理由にして交渉を突っ撥ねたときには、
佐志とも縁を切り、ハンガイ・オルスを去ると表明するつもりであった。その代価としてアルフレッドとアルカークを結束させようと言うのだ。
 これがニコラスの考え付いた最大の切り札である。アルフレッドにさえ未だに伝えていない為、奥の手と言い換えることも出来る。
と言うよりも、使用せざるを得ない状況に陥るまでは黙っているつもりだ。
 彼は親友を交渉の道具として利用することを厭うだろう。ニコラスの同行について、
「こいつなりに腹ぁ括ったんだぜ。その覚悟を汲んでやろうや。いつかは乗り越えなきゃならねぇコトだし」とヒューから説得されても、
なかなか首を縦に振らなかった男である。
 そのようなアルフレッドだからこそ、心優しい親友であればこそ、ニコラスは己の身を切ってでも力になりたいと思っているのだ。
 ヴィクドの提督を相手に腹芸で対抗していたアルフレッドも今の発言には緊張を高めている。
もしかすると、切り札を使う瞬間は間近に迫っているのかも知れない。

「エルンストの部下と見なされるのが気に入らない。大方、そんなところじゃないのか? “偉大な提督”としては」
「舐められたもんだ。エルンスト? フン――あのような取るに足らない若造如きに、どうして俺が劣等感を持たねばならんのか」
「あんたの普段の姿を見ていれば、誰だってそう連想するだろう」

 緊張を高めるニコラスとは裏腹にヴィクドの提督は一向に腹の底を見せようとしない。
アルフレッドも挑発を以ってして発言の真意を量ろうとしているのだが、
何事にも直情傾向のアルカークにしては珍しく、相手を煙に撒くような論法でやり返している。
 結論を急ぐわけには行かないものの、この接見にて拾い上げた材料から判断する限りでは、
Bのエンディニオンに対する差別意識からアルフレッドに反目しているわけではなさそうだ。
 “害虫駆除”しか頭に入っていないのであれば、同席したニコラスに無反応であることもおかしい。
接見に当たり、彼は自らの立場を明らかにしたのである。差別主義者とは思えない沈着な言行が却って不気味であった。
 ニコラスにはアルカークと言う男がますます分からなくなっていた。

「貴様とはな、一度、膝をつき合わせて話をしてみたかったのだが、……どうも過大評価し過ぎておったようだ。存外に頭が鈍いわ」
「あんたは思った以上に頭の回転が早かったな。連合軍の全力を注いでも惨敗させられたギルガメシュ相手に、
ヴィクド一隊のみで戦いを挑むなんて、よほどの鬼謀の持ち主なのだろう? 
これが無知の単細胞だったなら、力任せのごり押ししか思いつかないところだ」
「貴様は、ご自慢のお仲間に口の聞き方とマナーを学ぶべきだな。経験と実績を持たぬ小僧っ子が粋がっておるようで見苦しい。
……貴様は客商売なのであろう? 何故、今までこの無作法を放置しておった。責任をもって指導せい」
「オ、オレがっ!?」

 よもやアルカークから話を振られるとは夢にも思っていなかったニコラスは、突然のことに狼狽してしまった。
確かに運送業に従事していることは最初に自己紹介したが、そのときには何ら反応を示さなかったではないか。
むしろ、存在自体を黙殺されていたのである。
 自分とは言葉を交わすことさえ忌避しているのだろう――正真正銘のレイシストと捉えていた相手から、
まさか礼儀作法の指導を命じられるなどと、どうして予想出来るだろうか。
 どう答えて良いのか困惑しているニコラスを庇うように身を乗り出したアルフレッドは、
アルカークの注目を親友から逸らそうと更なる挑発を投げることにした。

「――ラスに指導されるまでもない。完成された人格者だって獣畜にまで礼儀を払う必要はないだろうが」
「信心の足らぬ罰当たりめが。女神イシュタルはこの天地に全ての生命を平等に創られたのだ。
我らが奉じるヴォル・カ・スヴェーヌは獣畜だけでなく草花にも礼節を重んじる神人ぞ」
「破壊を指向する神人がか?」
「破壊を暴力と同じく捉えておる時点で貴様はどうしようもない忘八者だわい」

 挑発などと言う生易しいものでなく、殆ど貶しに掛かっているような物言いに対して傭兵たちは俄かに殺気立ったが、
アルカーク当人は不調法とも言うべきアルフレッドを見やりながら薄ら笑いを浮かべるばかり。
熱し易く激し易いヴィクドの提督にしては珍しく落ち着き払っている。
 さながら爆発寸前の火山のようでもある。これがニコラスの偽らざる印象だった。
この男が大人しくしていることは、ただそれだけで不気味なのだ。アルフレッドと比べてアルカークと接した時間は少ないものの、
サミットにて暴言を撒き散らした姿がニコラスの網膜には焼き付いている。
 これまでの粗暴な振る舞いは、実は演技だったのではないかと錯覚する程にアルカークは落ち着き払っていた。
口調そのものは不遜なものだが、誰彼構わず噛み付くと言う傍若無人は鳴りを潜めており、
今のところはアルフレッドとも沈着に相対している。

「……アル、やっぱりこの男は……」
「ああ、わかっている。……ヴィクドのアルカーク、とんでもない食わせ物かも知れない」
「何をコソコソと話しておる。また悪巧みか? 貴様らも本当に飽きぬものよ」
「そうじゃない。あんたの顔が怖くて仕方がないとラスが言うものでな。ちょっと宥めていただけだ」
「そ、そんなこと、一度も言ってねぇだろ! 話題を変えるにしたって、もっと他に……」
「フン――威勢が良いのは髪と瞳の色だけか。相手の顔を見て臆するなど男児の風上にも置けんわ」
「……この先、ヴィクドじゃオレは一生ビビり扱いだな、こりゃ」

 ニコラスが予想した通り、これから暫く、ヴィクドの傭兵の間では臆病者のことを「ファイヤーヘッド」とする蔑称が流行るのだが、
余談はともかく――アルカークについては、これまでとは別の意味で警戒しなければならないと、アルフレッドは考え始めていた。
粗野な猛将と言う印象は今日限りで刷新する必要がありそうだ。
 ヴィクドの為に設えられた控室へ足を踏み入れたアルフレッドとニコラスは、整理の行き届いた室内の様子に先ず驚かされた。
 アルカークの巨躯が全て収まるくらい大きな姿見を持ち込んではいるものの、基本的に部屋の内装には手を加えておらず、
几帳面とも思える程に元の状態を留めていた。
 強いて変化を挙げるなら麝香の香りだろうか。屈強な傭兵たちが犇めき合う室内には酸味の強い体臭が垂れ込めているのだが、
これを打ち消し、清浄な空気を保つ為に麝香を焚き染めていた。それ故にヴィクドの控室は、一種独特の情緒を醸し出している。
 蛮族らしい部屋と言えば、虎か何かの毛皮でも敷いているようなイメージがある。
前時代的な固定観念に縛られていたアルフレッドとニコラスは、整然とした部屋の様子に拍子抜けした程であった。
 ヴィクドの提督は、その姿見を背に胡坐を掻いて来訪者と向かい合っている。
 体をやや斜めに傾けている為か、アルフレッドとニコラスの一挙手一投足、微妙な感情の変化までもが鏡に映りこんでおり、
アルカークと向かい合う者の心を妙に圧迫する。悪事を企てようものなら、その全てが鏡に映し出されると言う心理的なプレッシャーを狙っているのかも知れない。
 何より注意すべきは姿見の背後である。アルカークの護衛か、はたまた謁見にやって来た人間を返り討ちにする伏兵か――
どう言う手合いの者を侍らせているのかは定かではないものの、そこから強烈な殺気が染み出していた。
 激情任せに動くだけの単細胞のように見えて、その実、底が知れない。
室内の“仕込み”も含めて、万事抜かりなく計算を凝らしているように思えてならなかった。
 姿見の向こうに潜む伏兵こそがハンガイ・オルスに放たれた仕事人ではないかとニコラスは身を強張らせていたが、
アルフレッドはその可能性を耳打ちにて否定した。

「例の仕事人とは関係なさそうだ。アルカークの私兵か、別口で雇った殺し屋と言ったところだろう。気にするな」
「気にしないわけに行くか。どっちみち危ねぇだろ」
「……む、それはそうか」

 標的を闇に葬る仕事人を雇っておきながら自身に疑いが掛かるような真似はするまい。
仕事人とて足が付くような状況は好まない筈だ。

(いちいち手が込んでいる。ここまで悪知恵が働くのなら、……これ以上に厄介な相手はいないな)

 しかし、アルフレッドは怯まずに立ち向かっていく。
迂闊に近付こうものなら、抗う暇もなく呑み込まれてしまうようなドス黒い気魄がアルカークからは漂っていた。
それにも関わらず、彼は吐き散らす毒の濃度を薄めようとはしない。
「品格と言うのは顔に出る。ラスが怖がるのも無理はない」とまで言い放った。

「好き放題言ってくれるが、ではアルフレッド・S・ライアン――貴様の目に俺はどのような人間に映る? 
遠慮は要らぬ。思ったままを言ってみろ」

 アルカークも負けてはいない。アルフレッドとニコラスの心中を見透かしたかのような質問を投げ掛けた。
これは挑発の応射である。提督の双眸には冷ややかな笑気が滲んでいた。

「……勇猛果敢な将と見受けるが」
「勇将か。フン――おべっかなど要らんぞ。それとも、先ほどまでの流れで皮肉っているのか」
「俺は無意味なおべっかは好かない。必要なことを話しているだけだ」
「ほう、無意味と言うか。では俺を持ち上げるのは貴様にとって何らかの意味があると言うことだな」
「自意識過剰だな。そこに傭兵たちは惚れ込むと言うわけか」
「そう言えば、ワシが気を緩めるとでも? 片腹痛いわ。残念だが、この手の引っ掛けやミスリードなど慣れたものなのだよ。
何千何万と同じような罠を仕掛けられたからな、いい加減、飽きているくらいだ」
「上に立つのも随分とご苦労なようだ」
「後学の為にも憶えておけ、アルフレッド。自分に向けられる全ての言動を疑って掛かっている人間にはな、
子供騙しの言葉遊びなど通用しないのだよ。……相手の底を一目で見破れんようなら、このテの罠は二度と使わんことだ。
貴様の仕掛けた罠は、俺がこれまで見てきた中でも最低だよ。壺や水晶球に霊妙な価値を与えることも出来ん」
「霊感商法などする気もないが、貴重なご意見、胸に留めておこう――」

 両者のやり取りへ耳を傾けていたニコラスは、背筋に冷たい物が走るのを感じた。
 言ってしまえば、これは狐と狸の化かし合いだ。互いに相手の腹を弄りつつ、自身の本音は決して明かそうとはしない――
月並みな心理戦であれば、ここまでの戦慄は覚えなかっただろう。しかし、アルフレッドとアルカークは、既に互いの本音を見抜いている。
その上で互いに気付かない振りをしているのだ。最早、アルフレッドはヴィクドの提督を猪突猛進の者とは思っていない。
アルカークもまた自身の正体が露見したことを悟っている。
 それでも両者は怯まない。相手の隙を探り、あるいは足を引っ張り、自身の有利を引き出そうと丁々発止の舌戦を継続しているわけだ。
 何かひとつでも誤れば、そこで勝敗が決するような戦いをアルフレッドは難なくこなしている。
百戦錬磨のアルカークならいざ知らず、大して自分と年齢も変わらない筈の青年が、だ。
そのことにもニコラスは戦いていた。

(よくマトモでいられるよ。見てるこっちの寿命が縮んじまうぜ……!)

 気圧されて吃(ども)るどころか、顔色ひとつ変えない親友がニコラスには頼もしくもあり、同時に末恐ろしい。

「――しかし、俺はあんたを引っ掛けようとしたつもりはない。先程も言ったが、俺はアルカーク・マスターソンと言う人間に客観的な評価を下しただけだ。そして、俺の見立ては世間のそれにも通じると思うのだがな」
「ではこちらも客観的な評価を下してやろう。……在野のペテン師、アルフレッドよ」
「手厳しい限りだな。もうそう呼ばれることにも慣れてはきたが」

 あからさまに罵倒されたアルフレッドだが、既に開き直っているのか、悪びれた素振りは少しも見せない。
「ペテン師」と呼ばれても構わないと言ったふてぶてしい態度でアルカークと対峙し続ける。

「俺はな、アルフレッド。貴様のその腹黒さが気に入らんのだ」

 そんなアルフレッドの豪胆さを勇猛たる傭兵の長は好ましく思っているのか、
剣呑とした罵詈こそ吐いているものの、口元には愉悦が宿っていた。
 それでいて、鋭い義手の先をアルフレッドの首筋に宛がってもいる。
どこまでも強かな男だ。生殺与奪の優位を示すことも忘れてはいなかった。

「真摯な態度で取り繕っておるようで、その実、腹の底で何を謀っているかわかったものではない。
嘘偽りのない真っ直ぐな眼差しなど好例よ。相手を油断させる為の名演技よな」
「それは違う! アルはそんなヤツじゃねぇよ!」

 反射的に口を挟んでしまったニコラスのことを、アルカークは「貴様とて駒のひとつに過ぎぬわ」とせせら笑った。

「そのおめでたい頭で考えてみろ。この男の所業を――利用できそうな道具を口車に乗せ、平気で他人を陥れる男ではないか? 
勝つ為には手段を選ばぬ、正真正銘の外道。そんなことは絶対に有り得ないと断言出来るのか?」
「当たり前だろ! 振り返るまでもねぇ!」
「フン――これよ。これがアルフレッド・S・ライアンの正体よ。甘い言葉を囁き、たらし込んで己の操り人形にしてしまう。
異なる世界の者まで洗脳するとは、手抜かりなく仕込んだものよ。軍師だの謀将だのと持ち上げられておるようだが、
俺に言わせればただのペテン師。将の器ではないわ」
「あんたなぁ……ッ!」

 どうにも収まりが付かず、鋼鉄のグローブで包まれた右手を握り締めるニコラスだったが、
身を乗り出そうとする彼を制したアルフレッドは、次いでアルカークの恐持てを一瞥し、
「随分と悪いイメージがついたものだが、いっそ清々しいな」と鼻先で笑った。

「……貴様は何を企んでここにいる? 腹の底に何を隠している?」
「さっきも言った通りだ。ギルガメシュに勝つ為、あんたたちにも結束の証しを見せて欲しい。俺が望むのはそれだけだ」
「――俺との交渉を決裂させ、テムグ・テングリ群狼領にヴィクドを攻めさせる口実を与えたい。
大方、そんなところだろう? 違うか、アルフレッド・S・ライアン?」
「話を聞いていたか? 敵はあくまでギルガメシュ。味方のあんたを討つ理由がどこにある? 曲解されるのは迷惑至極」
「成る程な。俺の指摘を肯定したと見なそう」
「言い掛かりもここまで来ると立派な妄想だな。そんな妄想、造反の根拠にはならないぞ。
悪いことは言わないからやめておけ。赤っ恥を晒したいなら引き止めないが」
「これで目障りなヴィクドを潰す大義名分が立ったが、しかし、貴様にもエルンストにもそれは出来んだろうよ。
俺がこの連合から降りて最も困るのは、他ならぬ貴様らだ。
……俺に言わせれば、貴様らなんぞ他者に食いついて甘い汁を吸うしか能がない寄生虫でしかないわ」
「寄生虫ね。……オレたちのようにか?」

 最後の反論は、アルフレッドではなくニコラスのものである。
 過度にレイシストと接触すれば、まず間違いなく心に痛手を被ると考えているアルフレッドは、
これを回避すべく親友へ堪えるように目配せしたが、当のニコラスは引き下がるつもりなどない。
 つい先程までアルフレッドの豪胆に慄然としていたと言うのに、それと同じことをしているわけだ。
 ヴィクドの提督が全身から漂わせる気魄は確かに恐ろしい。命がけの戦いには慣れているニコラスだが、
圧倒的な凄味を帯びた為政者との対峙は、これが初めての経験である。
油断でもしようものなら、あっと言う間もなくアルカークの存在感に気勢を挫かれてしまうだろう。
 それでもニコラスは退こうとはしなかった。右手を覆った装甲を軋ませながらもアルカークに立ち向かっている。
どれだけ相手が恐ろしくとも、挫けてはいられない理由があるのだ。

「……聴いているぜ。あんた。オレや他のみんな――オレたちのことを寄生虫呼ばわりしてくれたんだってな。
サミットでも同じようなことを何度も言ってたよなぁ」
「ラス、……その辺にしておけ。まとまるものもまとまらなくなる」
「オレは事実を言ってるだけだぜ。だって、このおっさん、寄生虫って言葉ナシじゃ生きていけないみてーだからよ。
少しでも自分を困らせる物は、何でもかんでも寄生虫呼ばわりだ。オレもアルも、みんな寄生虫だってな。
……良いトシしてどうかと思うぜ、そう言う」

 常日頃よりアルカークはAのエンディニオンの難民たちに「寄生虫」なる蔑称をぶつけている。
ニコラスにとっては看過し難い侮辱だ――が、この蔑称の対象は、どうやら難民だけとは限らないらしい。
同じBのエンディニオンの人間である筈のアルフレッドにまで「寄生虫」と吐き掛けたのである。
 如何にこの蔑称がおぞましい威力を帯びているとは言え、誰彼構わず当て嵌めては何の意味もなかろう。
レイシストなりの矜持すら持ち合わせてはいないように見えてくるのだ。
思想も何もなく、気に食わない者をただ罵るだけの下衆と、ニコラスは皮肉ったわけである。
 提督を貶められては傭兵たちも黙っていない。耳を塞ぎたくなるような侮辱をニコラスに浴びせかけ、
彼を庇おうとするアルフレッドには「売国奴」とまで言い放った。
 程なくして惨たらしい騒ぎに発展し掛けたものの、これはアルカークが義手を一振りすることで取り鎮めた。
提督に絶対恭順の傭兵たちは瞬時に口を塞ぐと、大慌てでその場に平伏し、己の短慮を懺悔して許しを乞った。
無論、許しを求めるのは、女神イシュタルでもヴォル・カ・スヴェーヌでもなく、アルカーク提督である。

「そいつがあんたの言う将の器ってヤツかよ。オレには洗脳としか思えねぇぜ」
「既にアルフレッドから洗脳を受けた貴様が何を抜かす。度し難い莫迦が他者を同類呼ばわりするのと同じだな。
脳味噌はドロドロに溶けてはいないか? そのように腐った頭だからペテン師に付け入られるのだ」
「同じ洗脳ならアルのほうがずっとマシだぜ。あんたと比較するだけでアルに失礼だけどよ」
「ちょっと待て。洗脳を前提に話を進めるな。俺はカルトの教祖か」
「そうさ、オレたちはアルフレッド教の信者だよ。こいつの説法はすげぇんだからな。あんたにも聞かせてやりてぇよ。
アルは常に未来を目指してんだ。辺り構わず噛み付くような狂犬とは違う」
「……わかった、よッくわかった。これよりはペテンではなくカルトと呼ぼう」
「……ラス、言いたいことは分かるし、嬉しいことは嬉しいんだが、話がこじれるから、そのへんで止まってくれ。いや、本当に」

 傍目にはニコラスひいてはAのエンディニオンの難民に対する差別へ歯止めをかけたように見えなくもないが、
その一瞬にアルカークの双眸が帯びた妖光をニコラスは確かに捉えていた。
決して見逃してなるものか。ヴィクドの提督も傭兵たちと同じ――いや、それ以上に激しく、醜い眼を宿しているのだ。
 ニコラスと、その肩越しいに浮かび上がっているのだろう難民に対し、アルカークは汚らわしい物を蔑むような眼光を浴びせ掛けている。
 傭兵たちの罵声を押し止めたのは、単に自分が耳障りだったと言う理由に他ならず、
それ以外には何の感情も持ち合わせていないようだ。やはり、心の奥底に根ざしたモノはサミット当日からひとつも変わっていない。
難民を寄生虫などと忌み嫌うレイシスト――ニコラスにとっては、何があっても背中を見せるわけには行かない相手なのだ。
 それはアルフレッドも同様である。上辺の間柄はともかくとしてアルカークは不倶戴天の仇敵に他ならない。
己が傷付くことも厭わず真剣に立ち向かおうとするニコラスを敢えて諫止する必要もないわけだ。
親友と肩を並べて提督に挑むのみである。

 程なくして両者は睨み合ったままで膠着状態に突入した。
こうなると厄介だ。当初の大目的であった結託の取りまとめは勿論のこと、これに向けた話し合いすら暗礁に乗り上げる。
このような状況のままで話しがこじれ続けると、最悪の場合、アルカークを取り巻く傭兵全員をたったふたりで相手にすることになる。
 壁のようにアルフレッドとニコラスを取り囲む傭兵たちを掻き分け、三者の間に立った初老の男性は、
両の掌を双方に翳しつつ、「これでは一向に話し合いが進まないだろう。お互いにもっと大人になりなさい」と、矛を収めるよう言い諭した。
 仲裁に立ち上がったのはアルカークの右腕とまで謳われる側近中の側近であり、実質的にヴィクドの次席と言う立場に在る男だった。

「誰も彼も……。少しは立場や状況と言うものを弁えてはどうかね。建設的な意見のない水掛け論をしていて良いのかい? 
それどころじゃないと思っているのは、ひょっとして私だけかな?」

 不毛な言い争いを見兼ね、已む無く表に出てきたとでも言いたげなこの男は、名をディオファントス・ララミーと言う。
ヴィクドの提督や周りの傭兵とは明らかに毛色が違う――と言うよりも、住む世界が異なっているような佇まいであった。
 それもその筈で、ディオファントスは経歴からして異色であった。正確には異色ではなく異端と称するのが正しいのかも知れない。
 傭兵を生業とするヴィクドの出身者とはとても思えないのだが、ディオファントスはれっきとした経済学者であり思想家なのだ
彼の著書はアルフレッドも何冊か読んだことがある。含蓄に富んだ書物を以ってして世の中に新たな風を起こそうとしたこの男のこと、
溢れ出るような理知にて傭兵たちを巧みに操っているのだろう。

 異質な存在感は、彼の装いにも表われていた。ミリタリーコートに拍車付きの革靴までは良い。いずれもアクティブなアイテムである。
ところが、その下はワイシャツにループタイ、糊の効いたスラックスと言うフォーマルな風貌なのだ。
ごま塩の髪をポマードで固めた様子などを見ると、荒くれ者の真っ只中に在って周囲に溶け込まず、馴染む気もなさそうに思えてしまう。
 完全武装の中でひとりだけ浮いているが、 ディオファントスは鋼鉄ではなく気魄と言う名の鎧を既に身に着けている。
さすがはヴィクドの出身者とでも言うべきか、傭兵とは遠く離れた仕事に就いているものの、
他者を寄せ付けない攻撃的な空気を纏ってしまうのだ。これは最早、血の宿命とも言えるのかも知れない。

 ディオファントスが何事か発言する度に傭兵一同は直立不動で耳を傾け、無条件で全幅の信頼を置いてしまう。
高い理性に裏打ちされた彼の発言は、「勉学」と言うものから遠くかけ離れた傭兵たちの耳には、さながら天の声のようなもの。
どのような内容でも首を縦に振ってしまうのだ。
 つまり、傭兵を屈服し得るだけの権限をアルカークから許されていると言うことである――
そのようにアルフレッドが見立てた通り、大騒ぎしていた傭兵たちはディオファントスが仲裁役に入った途端にシンと静まり返った。

「キミたちはあちらこちら訪ね歩いて反対派を糾合して回っているようだね。今度はヴィクドの番と言うわけだ。
交渉は吝かではないが、それにしてもこの傭兵たちが納得出来るようなモノにしなくてはならない。
ライアン君だったね――思った以上の難題だが、キミには打開策があるのかな?」

 手の内を見透かしたかのように結託の交換条件を仄めかすなどアルカークとは別の意味で強かだが、
理が通じる分、ディオファントスのほうがアルフレッドには遥かに話し易い。キーパーソンの途中交代は望むところであった。
 こうした交渉は側近たちへ一任しているのか、それとも、気まぐれにも舌戦に飽きてしまったのか、
アルカーク当人はディオファントスに目配せだけして後ろに退こうとしている。
 恙なく話し合いをまとめるよう指示だけしてアルフレッドたちのことを放り出そうとした提督に対し、側近は呆れの溜息を吐いて捨てた。

「――フンッ! 煩わしい! 回りくどい! 小賢しいッ! 奥歯に物が挟まったようなその喋り方、いい加減にせんかッ!
今日はただでさえ虫の居所が悪いのだ! 口の中に鈎爪を突っ込まれたいかァ!? 言いたいことはストレートに搾り出せィ!」
「兄者も似たようなものじゃないか。人を引っ掛けるコトばかり練っていて、自分が厭にならないのか? 
私に言わせれば、まともな神経じゃないね」
「俺にケンカを売っているのか!? 状況を弁えておらんのはどちらのほうかッ!」
「ほらまた、自分に都合の悪いコトは喚き声で有耶無耶にしようとする。何年、兄者の弟をやっていると思うんだい? 
そう言う誤魔化しは私には通じないぞ」
「ディオッ! 貴様ッ! バカにしているなッ!?」

 ふたりの会話の内容にはアルフレッドも大いに驚かされた。
ディオファントスの発した「兄者」なる尊称から察するに、どうやら両者は兄弟のようである。
更に考察を進めると、兄がアルカーク、弟がディオファントスと言うことになるのだろう。
 何から何まで似ていない兄弟も在ったものである。ディオファントスは頬骨が前方に出っ張っているのだが、
アルカークの場合は切り立った崖の如く直線的であり、ものの見事に好対照である。
 よくよく凝視すると目元が似ていることに気付かされるのだが、そこに宿る輝きは兄弟別々だ。
 視界に入る全てを攻撃対象と捉え、常に闘争本能を燃え滾らせる兄と比して、
弟のディオファントスは何時でも瞳に憂いを帯び、どこか遠くを眺めている。
 遺伝子上の繋がりを感じさせながらもファミリーネームは違う物を名乗る――
この奇妙な兄弟は、アルフレッドとニコラスを置き去りにして揉め始めた。

「――寄生虫とは随分な言い方だが、俺としては真逆の益虫を自負させて欲しいものだな。
せっかくヴィクドに有益な材料(ネタ)を持ってきたのだから、せめて提示くらいはさせて貰いたい」

 兄弟間の私的な口論を延々と見せられても何ら益になることはない。
アルフレッドはディオファントスが求めてきた交換条件を掲げ、議論を本筋へと引き戻した。

「ホウ――伺いましょう」
「伺わんッ!」
「兄者のことは無視してくれて結構。時間の無駄だからね」

 ひとつ咳払いをしたアルフレッドは助言に従ってアルカークを黙殺し、改めてディオファントスと向き合った。

「テムグ・テングリ群狼領とヴィクドは国境(くにざかい)で領土争いを繰り返している。……間違いないな?」

 目配せで以って再確認を求めるアルフレッドにディオファントスはゆっくりと頷いた。
 ヴィクドとテムグ・テングリ群狼領双方が領有する土地の境界では、常日頃から緊張状態が続いている。
武装した兵隊が境界線を挟んで睨み合う状況も珍しくはなかった。無論、本格的な合戦に発展することだけは互いに避けている。
Bのエンディニオンの双璧とも言われる馬軍と傭兵部隊だ。万が一、戦争状態に突入しようものなら泥沼化は必定。
挙句の果てに無意味な消耗戦に陥ることだろう。得るものがない合戦はエルンストもアルカークも本意ではない。

「エルンストもこの領土争いを憂慮している。この先、ギルガメシュと戦っていく同盟者との間に争いの火種が燻っているのだからな。
もしものときには主将としての責務を果たせなくなるとまで話しているそうだ」
「何を言い含められたかは知らんが、アレがそんなタマかッ! 同盟などと白々しい! 利用出来る者は利用する、それだけだッ! 
害虫まで手駒に使うような筋金入りだからなぁ! あの恥知らずめッ!」
「静かに聴くのか、黙殺するのか、どちらかを選べ、アルカーク提督。俺はララミー氏と話している。その邪魔はするな」
「兄者のがなり声に答えを返してあげるとは、キミも律儀だね」
「そうだぜ、アル。こいつの存在を意識の外に追い出すんだ。そこまで行けば、耳が声を拾わなくなる」
「自分がその領域まで辿り着いてないだろ。ラス、お前、鏡を見てこい。完全に顔が引き攣っているぞ」
「――ええい、やッかましい! 聴かぬと言ったら聴かぬわッ! 貴様らの話など……」

 落ち着き払った物腰で話し合いに臨んでいたディオファントスも駄々っ子のような実兄には我慢の限界に達したらしく、
自身のトラウムを発動させることで彼と外界とを物理的に遮蔽してしまった。
 トラウム発動の合図は手拍子である。両の掌を二度、三度と叩き合わせて乾いた音を立てると、
その内にアルカークの足元でヴィトゲンシュタイン粒子の燐光が発生し、次の瞬間には白い冷気に変化した。

「また貴様はそう性悪なコトを――」

 これから何が起ころうとしているのかを理解したアルカークは、たまらず悲鳴を上げて後ずさったが、
ヴィトゲンシュタイン粒子によって生み出された冷気は彼を追跡し、たちまちその身に纏わり付いた。
 冷気はアルカークの身の丈を追い越して天井にまで達し、その刹那、室内に巨大な氷の牢獄を作り出した。
永久凍土の如き氷壁が姿見に映り込んで合わせ鏡のような現象を起こし、間もなく結露に覆われた――
冷気を自在に操るこの力こそがディオファントスの身に宿ったトラウムである。
 ゼラールの『エンパイア・オブ・ヒートヘイズ』と同じくエネルゲイア型に分類されるこのトラウムは、
『スノーボールアース』と呼ばれていた。
 氷の牢獄に閉じ込められたアルカークの声は外部には全く聞こえない。
ともすれば、窒息の危険もあるだろうが、ディオファントスは「話し合いを続けよう」と促すばかりで兄を振り返ろうともしなかった。
いくら煩わしいとは言っても力技で邪魔者を排除してしまうとは、やはり彼もヴィクドの人間と言うことであろう。

「いつ内輪揉めが起きるとも知れないような状況では、他の将士も余計な神経を使うだろう。
その所為でギルガメシュとの戦いに集中出来なかったら、どうなる? 最悪の事態としか言いようがない」

 何事もなかったように話し合いを再開するアルフレッドも、ディオファントスに負けず劣らず性悪だ。
存在を視界の外に追い出せば気が楽になると言ったのはニコラスだが、その彼ですら面食らう程の徹底した黙殺である。
 当のアルカークは、鬼のように顔面を歪めつつディオファントスとアルフレッドを交互に睨み付けていた。

「そこで、だ。エルンストはヴィクドに譲歩すると言っている」
「……譲歩?」
「土地争いが起こっている地域から群狼領の兵を引くと言っている。一部ではなく全ての地域からの撤兵だ」

 さしものディオファントスもこれには驚いたようだ。版図拡大を目指して進撃を続けてきたエルンストが、
ヴィクドに対して自分から土地を差し出したのである。厳密には領土の割譲ではないのだが、
互いの土地を隔てる境界線を譲り渡すと言うことは、殆どそれに等しい効力を持つのだ。
 これはブンカンと事前に打ち合わせておいた“餌”だ。ヴィクドのような難敵を篭絡する場合、
多少の犠牲を厭わないと言うのが群狼領の判断なのだ。身を切ってでも実を取ろうとブンカンが説得した結果であると言う。
 無論、ギルガメシュとの戦争が終結した後、再び奪い返すと言う自信があったればこその譲歩であろう。
ブンカンの中では、一時的にヴィクドへ預けるのみと言う認識なのかも知れない。
 ブンカン手ずから用意した目録をアルフレッドは預かっていた。譲歩する地域が一覧で記載された重要な書類である。

「詳しくはこの書類に目を通してくれ。俺もエルンストの配下じゃないんでな。テムグ・テングリの領地を全て把握しているわけじゃない。
言ってしまえば、メッセンジャーに毛の生えた程度の男だよ」
「謙遜が上手いね。キミのことは兄者から耳にタコが出来るくらい聞かされているよ。先ほどの軍議でも大活躍だったそうだね。
兄者が眼を血走らせていたから、そんなところだとは思ったけれど」
「アルカークの目が怖いのは俺のせいではない――それはともかく、これがヴィクドの力添えに報いる見返りだ。
そのようにエルンストから言付かっている」

 一通りの説明を終えた後、件の目録をディオファントスに渡そうとするアルフレッドだったが、
その寸前、スノーボールアースによって作られた氷の牢獄をアルカークが義手でもって破った。氷壁に大穴を穿ったのである。
この程度の牢獄程度では彼を閉じ込めてはおけないようだ。
人格はともかく傭兵部隊を束ねる提督としての力量は本物と言うことであろう。
図らずも武威を示す恰好となったアルカークに対して、周囲の部下たちから盛んに歓声が上がっている。
 歓声を背に飛び出したアルカークは、呆然と立ち尽くす実弟らを鼻先で嘲りつつ右の義手を閃かせ、
鈎爪でもって目録の上部を串刺しにしてしまった。
 咄嗟に手を引いて巻き込まれずに済んだアルフレッドは、続けざまアルカークへ「ふざけるのもいい加減にしろ」と怒声を浴びせた。
ディオファントスによる力ずくの排除は確かに乱暴だが、さりとて正当な交渉を妨げるなど無粋の極みである。
ましてや、件の目録はエルンストの名のもとに発行された物。粗末に扱うことは決して許されないのだ。
しかし、当の提督は勝ち誇ったように鈎爪を振り回すばかり。考えを改めようとする気配は些かも感じられなかった。

「要らん、断るッ!」

 言うや、政敵の施しなど言語道断とばかりにアルカークは串刺しにしている書類を放り捨てた。
 取り付く島も無い状態とはこのことである。あくまでも強情を張ろうとする実兄にはディオファントスも手を焼いている様子だった。
 だが、ここで交渉を断ち切らせるわけにはいかない。アルカークへの抵抗を諦め、泣き寝入りするわけにもいかない。
思い切り両手を伸ばし、舞い散る書類を空中にて見事に全て回収したニコラスは、すかさずディオファントスへと差し向けた。
 懲りないアルカークは我が身をバリケードにして立ちはだかり、伸ばしかけたニコラスの腕を執拗に妨害する。
結果、両者は押し合い圧し合いを演じることになった。傍目には子ども同士がじゃれ合っているようにも見えるのだが、
当人たちは大真面目。片方など子どもどころか、相当の年齢をも重ねているのである。

「――誰もあんたの意見なんか聞いちゃいねーぜ。オレたちの相手はララミーさんだ。
何も建設的なコトが言えねぇウスラバカはすっこんでろ」
「おのれ、貴様、どこまでも……ッ! 目障りだと何度言わせれば気が済むのだッ!?」
「生憎、あんたの都合でなんか生きてねぇんだよ!」
「黙れッ! 駆除してくれるぞ、貴様ッ!」
「好きに言ってろっつーの。実の弟から排除されたお兄さん? 血の繋がったララミーさんにまで邪険にされるなんざ、
あんたのほうがヴィクドのお邪魔虫なんじゃねーの。血の気の多い連中に持ち上げられてるけど、実態はどうなんだろうなぁ?」
「抜かせッ! ダンナにしたい提督ランキングでは十年連続不動の一位であるわィッ!」
「投票してるのって、みんなホモじゃねーの? つーか、そんなもんを自慢げに語るか、フツー」
「ヴィクドの傭兵をホモ集団呼ばわりかァッ!?」
「……お前たちはさっきから何を話しているんだ。間を取ってアルカークがホモ。それで決着をつけろ」
「さすがはアルだな。名裁きだぜ」
「この結婚指輪が目に入らぬかァッ!」

 今のところ、ディオファントスの手に目録が渡すことだけは避けている為、僅かばかりアルカーク優勢にも見える。
 「所詮はダニ風情。人間様に勝てるとでも思ったのか! 思い上がるな! 恥を知れッ!」などと
侮辱混じりで勝ち誇る態度が癇に障ったのか、徐に立ち上がったディオファントスは、
銀白の冷気を両手に帯びながら実兄をきつく睨めつけた。

「……少しばかり頭を冷やして頂かなければならないようだな。クールダウンすれば、多少はまともになるかも知れない」

 今度こそ仕損じることがないようアルカークの肉体を直接的に凍結させるつもりである。
しかし、これは余りに危険度が高い。僅かでも加減を誤れば、心臓の鼓動をも停止させ兼ねないのだ。
そのような事態に陥った場合、二度と提督の身に体温が戻ることはなかろう。

「虎の尾を踏んだな、ディオ! 身内と雖も、やって良いことと悪いことがあるぞッ!」

 実弟を睨み返すアルカークも鈎爪に光の帯を纏わせている。帯状のヴィトゲンシュタイン粒子は間もなく毒液に変化し、
スノーボールアースに対抗し得るだけの攻撃力をもたらすことだろう。これこそヴィクドの提督自慢のトラウム、『キルシュヴァッサー』だ。
果たして、粘性の強い毒液が鈎爪から滴り始めた。
 最早、アルカークは応戦の構えである。口論ならばいざ知らず、トラウムを用いて対峙する状況は不穏当の一言であった。
配下の者たちもどちらに味方をすれば良いのか大いに戸惑い、逞しい身を縮めつつ兄弟対決の行く末を見守るしかなかった。
 完全に傍観者となったアルフレッドとニコラスは、共倒れが最良の決着だと頷き合った。
何かにつけて揉め事ばかりを起こすヴィクドには潰れて貰ったほうが好都合。
確かにディオファントスとは信頼関係を結びつつあったが、それとこれとは別の話と言うものだ。

 願ってもない筋運びにアルフレッドがほくそ笑んだ――その瞬間(とき)だった。
金属を擦り合わせるような音が彼の胸元で鳴り始めたのである。
 それは、鳴動だった。ペンダントとして首から垂らしている灰色の銀貨が清冽なる鳴動を起こしているのだ。
そして、気まぐれな猫の鳴き声にも似た旋律を灰色の銀貨が奏でるとき、アルフレッドの肉体はヒトの限界を超越することになる。

「も、もしかして、アル、これって――」
「ああ、お前の予想する通りだよ。……必要な場面に限って起きないくせに、本当に“コイツ”は……!」

 ニコラス相手に苦々しく溜息を漏らしたアルフレッドは、早くもヴィトゲンシュタイン粒子の燐光に包まれている。
幾筋もの光の帯が一点に収束し、その後に太陽の如く白熱し、次いで激烈に爆ぜ――やがてグラウエンヘルツが姿を現した。
 先程のスカッド・フリーダムとの乱闘時に於いても発動しなかった為、
変身に至るまでの過程を含めてグラウエンヘルツを目の当たりにするのはアルカークも初めてだ。
極刑の執行官の如き威容を前にした彼は、口を大きく開け広げたままで硬直してしまっている。
瞠目したのは彼ばかりではない。ディオファントスも、ヴィクドの傭兵たちも、突如として出現した魔人に慄いていた。
 スノーボールアースは、トラウムの中でも希少なエネルゲイア型に分類されている。
これを備えたディオファントスでさえグラウエンヘルツには驚愕を禁じ得ないのだ。
肉体そのものを変身させるトラウムなどヴィクドの人間は誰ひとりとして聴いたことがない。
 グラウエンヘルツは勿論のこと、シェインのビルバンガーTやイーライのディプロミスタス、
レオナのダブルエクスポージャーにヒューのダンス・ウィズ・コヨーテ等々、特殊なトラウムと身近に接してきたニコラスは、
Aのエンディニオンの人間にも関わらず、Bのエンディニオン特有の異能へすっかり慣れきっている。
 ある種の耐性も万全に備わってしまった為、キルシュヴァッサーにも、スノーボールアースにも、全く驚きはなかった。
それだけに魔人を前にして騒然とするヴィクドの民のリアクションが新鮮に思えるのだ。

「アル……」
「……思いも寄らない綻びを見つけたな。今こそグラウエンヘルツが必要な場面かも知れない」

 提督も含めて、ヴィクドの民は総員が動揺を来たしている――この状況はアルフレッドも視認している。
またとない好機を利用しない手はなかった。
 自身の周囲に漂う灰色のガス、『シュレディンガー』を氷の牢獄の残骸へと差し向けたアルフレッドは、
他者のトラウムすら容赦なく平らげていく魔人の力でもってアルカークたちを更に脅かし、
次いで「迂闊に触れるなよ。噴射くらいならコントロール出来るが、威力のほうが俺にもどうにもならない」と重々しく語って聞かせた。
これによって一種の強迫観念を植え付けようと言うのだ。
 シュレディンガーとは、ありとあらゆる物質を消滅させる常闇の雲でもある。氷を貪り喰らうなど造作もないことであった。
如何なる物質をも消滅させてしまう灰色のガスとて従来のトラウムには存在しないものだ。
これを目の当たりにした者が恐怖的な想像を引き起こしてしまうのも自明の理であろう。
 もしも、自分に向けられたら――その恐怖をアルフレッドは巧みに操ろうとしていた。
あのアルカークでさえ魔人とシュレディンガーの前に戦慄している。それはつまり、付け入る隙が心に生じたとも言い換えられるのだ。
今こそ自分の望むように交渉を動かすときである。

「――暗い闇ほど恐ろしいものはない。心に染み出した恐怖の念は、目の前が明らかでないと言う状況のみで際限なく膨らんでいく。
心理的な圧迫はそれだけ繊細と言うことだ。しかし、複雑と言えるほどに難解とも思えない。むしろ、システムそのものは単純だ。
旭日が差した途端に世界の在り方が引っ繰り返る。風に揺れる草花の音は、暗い闇夜には亡霊の呻き声としか聞こえないが、
花弁を目視できる真昼には万人の心を和ませる。このように物事の本質はどこに隠れているか分からない」

 それは、過去に読んだディオファントスの著書からの引用だった。
独特の言い回しではあるものの、アルフレッドからディオファントスへのメッセージである。
 逡巡する間もなく彼の真意を悟ったディオファントスは、今なお怖気づいたままの傭兵たちへ苦笑を漏らしつつ魔人に向き直った。

「相手の姿をよくよく確かめろ。そうしなければ敵か味方かも分からない。……俺はそう解釈させて貰ったよ」
「本来はカネの向こう側を指摘しているのだがね。額面に振り回されるな。賽を振る者だけを見据えると言う――」

 交渉再開を切り出そうとするディオファントスだったが、それは横から割って入った大喝によって握り潰されてしまった。

「――テムグ・テングリが相手だろうがなんだろうが、欲しい領土(もの)は正々堂々と力ずくで奪うまでよッ!」
「兄者!」
「ヴィクドを支配するのはこの俺だ! 貴様ではないッ! 貴様などの選択には何の意味もないッ! 弁えろ、ディオッ!」

 ようやく交渉がまとまる――アルフレッドもニコラスも信じて疑わなかった。
ところが、ここに至ってまたしてもアルカークのがなり声が両者を遮ったのである。
どうやら彼も逸早く動揺から復帰したらしい。皮肉なことに再起のタイミングが兄弟同士で似通ってしまったのだ。
 無念の面持ちで首を横に振るディオファントスの様子がアルフレッドにも見て取れた。
ニコラスの例ではないが、こうした驚愕は一度でも耐性が付いてしまうと、最早、何の効果も期待出来なくなる。
虚を衝いて動揺させている間に短期決戦へ持ち込もうと言うのがアルフレッドの考えであり、ディオファントスも同調したのだが、
アルカークに太守としての権限を主張されてはどうすることも出来ない。所謂、八方塞であった。
 その先に待ち受けるのは、交渉の破綻と言う最悪の結末である。

「最大限の譲歩を蹴ったとなると後々に禍根を残すことになるが、それでも構わないと言うことだな? 
俺にも報告の義務がある。包み隠さず報告させてもらうぞ」
「讒言でも何でも好きにするがいい。敵の施しなど受けん。それがヴィクドの結論だ。ヴィクドの覇道は我らの手で切り開く」
「そのヴィクドの益を切り捨てたのは、一体、誰だ。……全く何が気に入らないのやら」

 聞こえよがしの溜息を吐いた魔人に向けて、アルカークは「遅鈍」と罵り言葉を飛ばした。

「まだ分からんのか、この愚図め――知れたことよ。貴様のことが生理的に嫌いなだけだ」
「私怨でヴィクドの益を損なうつもりか。……器が知れたな、アルカーク・マスターソン」
「私怨ではない。ヴィクドの総意だ。そのようなことも分からんのか。それとも、己の底の浅さを認めたくないのか。
どのみち、救いようがない愚か者に変わりはないのだがな」
「これでヴィクドの命運も尽きたな」
「ほざけ。ヴィクドの命運は我と共にあるのだ」

 勇ましいアルカークの一言に呼応して豪気を取り戻した傭兵たちは、腕を振り上げつつアルフレッドに罵声を投げ始めた。
 “ヴィクドの総意”とやらを確かめた以上、アルフレッドにもこの場に留まるだけの理由はない。
最早、両者を隔てる溝が埋まることはなかろう。
 「交渉決裂。分かっていたことだがね」とニコラスを促したアルフレッドは、何事か言いたげなディオファントスにも背を向けた。
 ディオファントスの登場はアルフレッドにとっても予想外のことである。彼にアルカークを抑えることさえ出来たなら、
穏便のうちに交渉を済ませ、ヴィクドとの結束も達せられたに違いない。しかし、全ては提督の癇癪によって水泡に帰した。
 結局は当初の計画を進めることになりそうだ。

(……これで口実が出来た……)

 アルフレッドは胸中にて嬉しげに呟いた。史上最大の作戦を立案した身としては、
ヴィクドに歩み寄って結束を取り付けるのが最善であった。ディオファントスにも一定の期待を抱いてはいた。
 だが、偽りのない本音ではヴィクドのことを一刻も早く抹殺すべき対象と見なしている。
アルカークのことなどは生かしておいても害になるとしか思っていない。ただただ忌々しい存在なのである。
 今日、彼らを根絶やしにする大義名分が立った。ある意味に於いては最高の展開と言えよう。
 折角、グラウエンヘルツに変身出来たのであるから、シュレディンガーでもって一掃してしまうことも考えはしたのだが、
エルンストの後ろ盾も得ないまま粛清を断行しては、それこそ本当に全軍の足並みを乱し兼ねない。
いずれ巡ってくるだろう抹殺決行の瞬間に思いを馳せ、アルフレッドは逸る気持ちを抑え込んだ。

 一方のアルカークは、ディオファントスの抗議にも耳を傾けずにアルフレッドの背中をじっと凝視している。
睨むでもなく蔑むでもなく、ただただ見つめるばかりだが、その表情はひどくつまらなそうだ。
面白かった玩具に冷めてしまった子供のような豹変である。
 仮にその様をアルフレッドが目の当たりにしていたなら、何某か感じ取るものがあっただろうが、
如何せん背を向けたままではそれも叶わない。

「わけのわからん装束の上からでもハッキリと見て取れたわ。実に嬉しそうではないか。
せめて、部屋を出るまでは本音を出さんように気を使ったらどうだ」
「あんたの厳つい面構えが滑稽で仕方なかっただけだ。そこの姿見で自分の顔を見てみろ。
自分がどれだけ醜悪な顔をしているか。……心の醜さが顕れている」
「ライアン君……」
「悪いが、謝りはしないぞ、ララミー。和解する理由がもうなくなったのだからな。人間関係を取り繕うこともない」
「ヴィントミューレ君も同じかね?」
「佐志の決定に口を挟むつもりはありませんよ。でも、……オレ個人としては提督サンと一戦交えても構わねぇ。
それが間違いとは、あんたにだって言わせないぜ?」
「……む……う――」

 侮蔑の声を背中に受けた魔人は、歩みこそ止めたものの、決して振り返ろうとはしなかった。
どうにかして両者の間を取り持とうとするディオファントスの声にも耳を貸すつもりがない。
 ヴィクドの人々に背を向けたまま、アルフレッドは姿見の陰に隠れているだろう伏兵に向かって痛罵を吐き捨てた。
「薄汚い殺し屋なのか知ったことじゃないが、靴を舐めるにしても相手を選んだらどうだ」と嘲るその声には、
心底からの軽蔑が込められていた。

「俺を殺りたいなら、いつでも相手になってやる。……が、その前に、一度、自分の身を振り返ってみることだ。
ろくな生き方をしていない我が身をな。こんな男の為に手を穢すなど愚の骨頂だ」
 
 伏兵まで執拗に罵るアルフレッドの背中と、至るところに水滴を付着させた姿見を交互に見つめるディオファントスの面には、
明らかに憂色が滲んでいる。激しく首を振り回すあたり、姿見に隠れているのは極めて危険な手合いのようだ。
むやみやたらに刺激しないことを望んでいるのかも知れない。
 憔悴した面持ちの弟とは対照的にアルカークは笑気でもって喉の奥を震わせている。
 忍び笑いの意味と対象を測り兼ね、肩越しにアルカークを振り返ろうとするニコラスだったが、これはアルフレッドに止められてしまった。

「自分の間抜け面を鏡で見る気か? 無意味に気分を悪くするだけだ。やめとけ」
「間抜け面とは言ってくれるじゃねーかよ、アル。そりゃお前みたいな男前ではないけどよォ〜」
「下衆を探るのは無意味と言っているだけだ。第一、見てくれも俺よりずっと整っている。ミストは性格に惹かれたんだろうがな」
「お、おい! なんでここであいつの名前が出るんだよ!? 脈絡なさ過ぎだろ!」

 アルカークが噛み殺した陰鬱な嘲りは、果たして誰に向けられていたのか――これを探ることがニコラスには叶わなかった。
意味するところも含めて定かにはならなかった。
 しかし、前後の流れからアルフレッドは自身に向けられたものと考察しており、
それ故に足を止めたまま、「生理的に受け付けないのはこちらも一緒だ」と冷たい罵声を返したのである。

「あんたが俺のことを毛嫌いするのは勝手だがな、俺も俺であんたの思い上がった態度が気に入らないんだよ」
「珍妙なところで気が合ったものだ。共感ではなく吐き気を覚えるのが難点だがな」
「そのまま血でも吐いてしまえ。……方々から恨みを買い続けるあんたには血の池が似合いの墓場だ」
「上等。血の味で酔える者には願ってもない死に場所だ」
「せいぜい吹いていろ」

 罵声の応酬と姿見の後ろから溢れ出す殺意に耐えられなくなったのか、ディオファントスは大仰とも言える動きで頭を振った。

「本当にこれで良いのかね、ライアン君。ギルガメシュとの戦いよりも私怨を優先させる気なのか?」

 ディオファントスの問い掛けに対し、アルフレッドは何も答えない。背を向けたまま無言を貫いている。
 同じヴィクドの人間でもアルカークと違って話の通じる相手だとディオファントスを認めたニコラスは、バツが悪そうに頬を掻くしかなかった。
彼の腕は今もアルフレッドに掴まえられている。振り返ろうとする度に強く引っ張られ、制止されてしまうだろう。
 未だにアルカークはニコラスたちAのエンディニオンの人間を差別し続けている。
そうした振る舞いこそがヴィクドの歩みを止めているとも気付かずに、だ。
 ふたつの世界は互いに交わり、大きく変貌しようとしている。地平も、文化も、社会の在り方まで動き始めている。
最早、これを食い止めることは誰にも出来ないだろう。それは新時代の幕開けにも等しかった。
 アルカークのように硬化した思考は、これからのエンディニオンには全く不要なのだ。
それどころか、いずれ新時代の発展を妨げることになるかも知れない。
セフィが――いや、ジューダス・ローブが彼を始末しなかったのが不思議なくらいである。

(……それに……)

 私怨の何が悪いと言うのか――アルフレッドは胸中にてそのように唾棄した。
 尊敬するフェイを公衆の面前で愚弄し、あまつさえ瀕死の重傷をも負わせた張本人を許す理由がどこにある。
「寛大な措置」などと言う選択肢をアルフレッドは持ち合わせていなかった。
 ヴィクドを反逆者に仕立て上げ、攻め滅ぼすことをアルフレッドは心に誓っている。
エルンストが迷わずこの進言を受け入れるとの確信も持っている。
討伐の際にはフェイを先鋒に配し、積年の恨みを晴らして貰うとしよう。そこまでの胸算用を密かに進めていた。
 捕縛の後は裁判を実行し、厳粛なる判決のもとで処刑すべきだ――そう願って止まない程、
アルフレッドはアルカークと言う存在を忌み嫌っているのだ。

「……フェイ兄さんの屈辱は必ず晴らす。あんたがしたことを捨て置くつもりはない」
「ほぅ? これはまた意外なことを抜かすものだ。あの取るの足らぬ羽虫の為にヴィクドとの同盟を蹴ろうと言うのか?
この俺に喧嘩を売ろうと言うのか? ……いやはや、酔狂な話もあったものだわい」
「……同じ苦しみを貴様にも味わわせてやる」

 去り際に残したこの言葉さえアルフレッドにはアルカークをやり込める会心の一撃のように思えた。

 ――だから彼は知らない。姿見の影に潜んで一部始終を見聞きしていたのが誰であったかなど知る由もない。
ヴィクド討伐の大義名分を得て満足し切った彼には詮索する気も起きないことだった。

「どうやら弟分殿は貴様に心底惚れ込んでおるようだな。あそこまで人を心酔させるとは、さすがは稀代の英雄よ」
「……やめろ、虫唾が走る……」

 あるいは、姿見に隠れた伏兵へ誰何でもしていれば、何かが変わったのかも知れない。
 アルフレッドとニコラスの退室を見計らって姿見の裏から現したのは、
つい先程まで話題の渦中に在ったフェイ・ブランドール・カスケイド当人である。
 アルカークは皮肉交じりに『英雄』などと呼び付けたが、しかし、フェイの双眸は底なしの闇のように昏く、
かつての覇気は完全に消え失せている。
 三つ巴の決闘の日――ツヴァイハンダーと共に英雄としての矜持までもが壊れてしまったとしか思えない姿であった。

「わざわざ呼び出したから何事かと思えば――今みたいな茶番を見せる為に僕をここに招いたのか? 
……悪趣味にも程があるぞ」

 エルンストへ献策する権利を争って闘われた件の決闘の終盤、英雄らしからぬ振る舞いで敗残の姿を一層醜くしてしまったフェイは、
突如として乱入したアルカークに義手でもって背中を一突きされ、
瀕死の重傷を負ったところへ追い討ちとばかりに口汚い罵声を浴びた――それは、わずか数時間前の出来事である。
 マリスのリインカネーションによって辛うじて蘇生されたものの、アルカークに負わされた怪我は深刻であり、
傷口も完全には塞がり切らなかった。彼の腹は今も何重もの包帯で包まれている。
 本来であれば、安静にしていなければならないのだが、フェイはソニエやケロイド・ジュースが止めるのも聴き入れず、
無理を押してまでここにやって来たのだ。
 アルカークの親族を名乗るふたりの使者が彼のもとに訪れ、是非ともヴィクドの控え室に招きたいと誘ったのである。

「この度の不始末、何とお詫びをして良いのやら――わたくしどもとしてもこのようなことを申し上げるのは心苦しいのですが……。
我が祖父、アルカーク提督はカスケイドさんをヴィクドの居室へ招きたいと申しております。
その場にて正式に謝罪をさせて頂きたく……」

 アルカークの孫を名乗るアルカエスト・マスターソンは、負傷に対する謝罪を交えつつ、
フェイのみを見つめて提督から預かってきた言葉を口にした。
 無政府主義を気取っている所為か、ヴィクドの荒くれ者たちは衣服を着崩す傾向があるのだが、
アルカエストは身なりを整えており、立ち居振る舞いは方正そのもの。祖父とは正反対の様子で、
気質はディオファントスに近いのかも知れない。
 自前のトラウムなのか、それとも既存の兵器なのか、肩から掛けた革ベルトにはラウンドシールドを括り付けている。
盾の中央には筒状の部品が設置されているのだが、これはれっきとした銃身であり、戦闘時にはここから鉛弾が撃発される。
アイアンシールドピストルと呼ばれる攻守に優れた銃器だ。

「謝罪と言うのは、お前の勝手な解釈だろう、アルカエスト――フェイ・ブランドール・カスケイド、妙な勘違いをするなよ。
我が父、アルカークは確かにお前を招いている。だが、頭を下げるつもりではないぞ。
弱者にへつらうような恥知らずはヴィクドにはいない。ケリをつけようと仰せなのだ。白黒ハッキリ付けようとな」

 アルカークの三男を名乗るアルフォンス・マスターソンは、アルカエストが伝えた言葉を真っ向から否定し、
フェイを弱者と詰った上に黒白明らかにする決着などと挑発を投げ続けている。
 剣匠の武名にも怯まないヴィクドの傭兵らしく衣服を乱雑に着崩しており、露出した肌には数え切れない傷跡が走っている。
順繰りにソニエとケロイド・ジュースを睨み据え、あまつさえ挑発の最中に自身のトラウムを発動させたのは、
ふたりの激昂を警戒したからであろう。そこにはフェイ本人に対する威嚇も含まれている。
 アルフォンスのトラウムは、陶製の壷にしか見えないフォルムと光沢を持つ大型手榴弾であり、銘を『ブラッディマリー』と言った。
撫子の『藪號The‐X』と同じく本人が望むだけの量を作り出せるのだ。
 着衣の様式からして正反対のアルカエストとアルフォンスは、それぞれアルカークとは実子、孫と言う関係でありながら同い年であった。
共に二十歳になったばかりである。実の兄弟でありながら別姓を名乗るディオファントスと同様に複雑な事情を匂わせるものの、
そのようなことにフェイは微塵も興味がない。
 アルカークが自分に接触を図ろうとしている――そのことが彼に首肯をさせたのである。
動機はどうあれ憎むべき仇敵の招きに応じたのであるから、今もアルフレッドがこの場に留まっていたなら唖然呆然となった筈だ。
実際、ソニエとケロイド・ジュースも去っていくフェイの背を絶句して見送るしかなかった。

 決着を餌に呼び出された恰好のフェイであるが、英雄の名に泥を塗ったアルカークを前にしても怒気を漲らせることはない。
ましてや、得物を構えることもない。そもそも、彼の相棒にして亡き父の形見であるツヴァイハンダーは、
先の決闘にて見るも無残に大破してしまっていた。
 最早、彼は抜くべき剣すら持たない身である。面からは生気と言うものが全く抜け落ちてしまっており、
虚ろな瞳はアルカークを認識しているのかも疑わしい。生気と共に輝きをも失っているのだ。
 肌こそ爛れていないものの、全身から発する負の瘴気は、生ける屍と何ら変わらず、見る者に言い知れぬ恐怖を与えた。

「貴様もアルフレッドも、グリーニャの人間は気早が癖なのか?俺とてそう暇ではないわ。
……貴様と言う人間に興味があってな、フェイ。一度、膝を合わせて語りたかったのよ」
「どてっ腹をぶち抜いておいて、よくそんなことが言えたものだな」
「しかし、貴様はこうして誘いに応じた。……互いに興味があるなら、こうして顔を突き合わせても何の問題もあるまい」

 己自身の姿を確かめろとでも言うかのようにアルカークは姿見の前にフェイを引っ張り出した。
 最も醜い面持ちのまま鏡へ映し出されたフェイは、反射した光を浴びると更に顔色が悪くなり、
疲労で落ち窪んだ眼窩は病的とも言えるほど濃い影を差し込ませている。
 仮にツヴァイハンダーが健在であったとしても、アルカークへ斬りかかることは難しそうだ。
剣の重量を自分自身で支えきれずに転倒するのは明白。見るに耐えない醜態を晒すばかりであろう。

「興味などない。……あなたの腹を探りに来ただけだ」
「腹を探る? 最早、エルンストには不服従を示した。もう隠す腹もない。探られても痛くも無いぞ?」
「……猿芝居はそろそろやめにしないか、アルカーク提督。そう言う人を食ったような真似はもう見るのも聞くのも厭なんだよ」
「ほう……?」

 水気の失せた口から迸らせたフェイの鋭い一言を受けてアルカークの眼差しは一変した。
と言っても、フェイの物言いに腹を立てた様子ではなく、アルカークはむしろ好意的な興味を眦に滲ませている。

「アルはあなたを勇将だと評価したが、それは正しくない。いや、僕もここに足を踏み入れるまではアルと同じ感想を持っていた。
甚だ不本意だがな。……しかし、あなたはむしろ謀将。今、こうしている間にも腹の底で僕やアルを陥れる作戦を練っているのだろう?」
「またしても言い掛かりが出たな。本当に兄弟分で似ておるわ。……俺のどこを見て、そんなことを抜かすのか」
「さっきの三文芝居だって謀略だ。アルに主導権を握られているように見えて、実際にはあなたが会話を支配していた。
アルからヴィクドへの敵意を引き出したのもあなただ。ヴィクドの反乱を詰問させたのもあなただ。
アルにそれを言わせたのは保険だな。万一、連合軍からの離反を疑われた場合、自白強要と言う逃げ場が確保できる」
「だが、貴様を同じ時間帯に部屋に呼んだ意味があるまい?」
「僕は証人だろう? 英雄が虚偽を言うわけがないからな。証人にはもってこいの人選だ。……喰えない男だな、アルカーク提督」
「なかなか面白い見立てをしたな、フェイ――」

 面と向かってフェイと対峙していたアルカークは、彼の話が一区切りしたのを見計らって義手を振り上げ、
アルフレッドにしたのと同じように鉤爪の先を突きつけた。
彼のときと違ったのは生殺与奪を掌握する為に首筋へ宛がうのでなく、肩へと爪先を軽く置いたことだ。
鉤爪を用いている点を除けば、それはまるで相手の肩に手を置いて親密を表しているようにも見える。

「――俺はな、フェイ。アルフレッドの器量は買っておる。が、その半面で人格は少しも信用していない。
お前は真逆だ。武術も知略もアルフレッドの半分も買ってはおらんが、しかし、人格には信が置ける。
……だが、訂正しよう。俺の腹の底はアルフレッドでも見抜けなんだ。
どうやら同じグリーニャ出身でも出来が悪かったのはアルフレッドの方らしいな」
「――グリーニャ、グリーニャと連呼するのはやめてくれッ!」

 ――そのとき、フェイが初めて激情を露にした。
腹の奥底から搾り出すかのような激昂を、グリーニの名を口にしたアルカークへ叩き付けた。
 またしても英雄らしからぬ振る舞いを晒してしまったフェイであるが、
その様を目の当たりにしたディオファントスが眉間に皺を寄せ、アルフォンスとアルカエストが醜く口元を歪めていても、
気色ばんで正気を失った彼は少しとして気付かない。

「……あいつと同じ村の出身だと思われるのは、僕には耐えられないんだッ!」
「さりとてその出自は変えられんだろうが。……そんなにグリーニャが憎いか。最早、地図上に存在もしないあの村が。
本当は貴様、英雄などと言う世間体など考えずに焼け野原を見てさんざんに嘲り笑いたいのではないのか?
「な――」
「よほどグリーニャに苦い記憶があるようだな。それを想い出したか? それとも込み上げる笑いを堪えるのに必死か。
自分を否定した者たちの無残な末路は見ていて愉快だろうな」
「………………」

 アルフレッドと自分とを繋ぐ故郷を強く否定しようとするフェイを睥睨していたアルカークは、
彼にとって触れられたくない部分を情け容赦なく抉っていく。

「……貴様が僕の何を知っているんだ。グリーニャの何を……」
「ゴミ処理業者に食い潰されるような弱小の寒村など知ったことではない。だがな、フェイ。お前のことは誰よりも理解できるつもりだぞ」
「何をバカなッ!」
「俺とて同じだからだ。己を否定した全ての者を踏み潰し、叩き壊し、今、こうして連中を超えた高みに立っている。
俺を否定した全ての存在に唾を吐き、奴らの墓前に嘲笑をくれてやっている」
「……僕とお前が……同じ穴の狢だと言うのか――……僕を舐めるなッ!!」
「何をそうムキになって否定している? 愛する故郷を悪し様に扱われて腹を立てたか? 
……それとも胸の裡に疼くものを感じたか? 英雄を標榜する人間として到底認められんものを」
「なッ……!?」

 言うや、アルカークはフェイの肩に置いていた義手を彼の顎に持っていき、鉤爪の腹でもって顔を押し上げた。
 動揺と狼狽をない交ぜにしてぐちゃぐちゃに歪み切ったフェイを見下ろすアルカークの口元は、
何を思ったのか、玩具を前にした幼児のように嬉しげに吊り上がっている。

「グリーニャと言う楔、アルフレッド・S・ライアンと言う呪縛を記憶から消し去りたいのであれば、その存在を超えるしかあるまい」
「超え……る……?」
「今度はお前がグリーニャを否定してやるのだ」

 リードを引っ張る主人へ蒙昧に追従する駄犬の如くフェイはアルカークの面に魅入り、発せられる言葉に聴き入っている。
今や、グリーニャと言う単語には反応を示さなくなっていた。

「アルフレッドとそれに連なるグリーニャの者どもは、今、何をしようとしている?」
「僕やあなたと同じようにギルガメシュと戦っているのでは……」
「エンディニオンを侵食する害虫を囲ってまでな。ギルガメシュの同族を味方にするその神経が俺には信じられぬわ」
「アルバトロス・カンパニーの――確か、ヴィントミューレと言う青年だが……彼も難民のひとりでは……」
「難民? ……笑わせるな、そんな身分がエンディニオンにあってたまるかッ!」

 フェイがグリーニャと言う単語に過剰反応を示したように、アルカークも難民と言う単語へ殆んど条件反射のように声を荒げ、
満面の不快感を表した。他の誰もが周知する難民と言う呼び方を、わざわざ「害虫」と言い換えているのも不快感の表れだろうか。
ヴィクドの提督から難民――いや、害虫に向けられる憤激は、百戦錬磨のフェイをも圧倒する程に凄まじいものだった。

「我らのエンディニオンにやって来て、我らの土地を我が物顔で闊歩し、我らの文化も日常も侵し、
そのくせ難民だのと庇護を求めようとする――貴様はあの鼠輩めらに怒りを感じぬか?」
「あなたの個人的な感情は抜きにしても、彼らが難民であることに変わりはないだろう。
何がそんなに気に入らないのか、僕には理解できない」
「……貴様らが難民だのとほざいて庇護する害虫がアルフレッドの成長を促し、
貴様を踏み台にするまでの成長を促したとしても同じことが言えるか?」
「何を――何の因果があってそんなことを……」
「訊いておらんのか? アルフレッドと害虫の一騎討ちの話を。世紀の一戦だったと名高いのだがな。
貴様と同格にある『セイヴァーギア』ですら手出し出来なかったとか」
「コールレインが……」
「おめでたい男だな、フェイ。貴様は貴様の最も憎む相手が、自分より力を付けるチャンスをむざむざ看過したのだよ。
……あぁ、そのとき、貴様は目先の功名に囚われ、武勲にも数えられん雑兵狩りに勤しんでおったのだったな」

 アルフレッドとニコラスが両帝会戦の間隙で演じた一騎討ちは、連合軍の中でも知る者は限られている。
それをどうしてヴィクドの提督が知っているのか。フェイと一緒になって武勲にカウントされない雑兵狩りに勤しんでいたこの男が、だ。
恐るべき情報網とも言えるのだが、この場に於いては調査の手段など問題ではない。
一騎打ちの件を持ち出し、アルフレッドがフェイを超えた証しとするのはこじつけにしても強引過ぎる。
これこそが最大の問題なのである。
 そもそもフェイとアルフレッドの力量の差を比するのにあの一騎打ちを持ち出すこと自体が不自然である。
詳しく確認すれば誇張されたものだとすぐに分かるのだが、
「アルフレッドの成長を促した要因」としての吹聴に意識を支配されたフェイは冷静な判断力を著しく欠いており、
アルカークの言うことを疑いなく素直に受け入れている。
 彼の満面に憤怒が滲むまでにそう時間はかからなかった。

「ようやく事態(こと)の重大さを理解したか、フェイ? あのような者たちはエンディニオンにとって百害あって一利もない。
まさしく寄生虫なのだよ」
「……その寄生虫の駆除に僕を利用するつもりか、アルカーク提督」

 昏い怒りに震えながらもフェイはアルカークが言葉の裏に隠していた真意を見抜き、その目的を質しにかかった。

「害虫めらは俺にとってもお前にとっても目障りな存在だ。貴様はアルフレッドと互恵関係にある異族が気に入らん。
ヴィクドとしてもファラ王某のような男に、これ以上、力を付けられても気に喰わん。
……俺たちが手を組むことはお互いにとってこの上なく有益だと思うが、どうだ?」

 答えにくいであろうことをストレートに質してくるフェイにもアルカークは少しも揺るがず、むしろ愉快そうに口元を歪めている。
どうもこの男は、自身の予想を越える気骨を見せた人間に対して印象を良くする傾向があるようだ。
アルフレッドが一歩も引かずにアルカークと渡り合った際にも彼は愉しげにしていた。
 ただし、フェイに向ける眼差しには、幾分歪んだものが見受けられる。
この青年を、どうやって使い捨ててやろうか――勇将と評される猛々しい双眸の奥底には、
武辺者らしい顔立ちとは似つかわしくないドス黒い光が揺らめいていた。
 自分が駒として利用されそうになっている――明らかに危うい情況であるにも関わらず、
フェイは逃げも退きもせず、アルカークの出方を窺っている。
 あるいはアルフレッドを――グリーニャを超えられるのであれば、
ヴィクドの手駒になることさえ厭わないとの決意が既に固まっているのかも知れない。
アルカークに使い捨てられることも甘んじて受け入れよう、と。
 いずれにせよフェイの揺るぎない態度はアルカークを満足させるには十分であった。

「……貴様に異族を掃討する意志があるのなら、ヴィクドは喜んで後ろ盾になるぞ、フェイ」

 最後に「お互いグリーニャが勢力を盛り返すのも面白くはなかろう?」と付け加えたアルカークは、
鉤爪をフェイから離すと再び彼と正面から向き合った。

「……父上、やはり俺は賛成できねぇ。こんな有象無象を味方に引き入れたところで何の役にも立たねぇよ。
後ろ盾になるだけヴィクドのマイナスだぜ」

 後ろ盾になると言うアルカークの申し出に対して答えを提示したのは、フェイの代わりに横から口を挿んだ第三者――
アルフォンスであった。
 アルカークの言うことに我慢がならなかっただろう。「ヴィクドの利益を考えれば、こんな男は切り捨てるしかない」とまで
断言するしかめっ面は活火山のように熱く燃え滾っていた。

「早計じゃないかな、アルフォンス。キミはお爺様のお考えを否定しようと言うの? いつからそんなに偉くなったんだね」
「偉いとかどうとか言う問題じゃねぇんだよ。大体な、冷静になって考えてみろ、アルカエスト。
この期に及んで年下の男に、それも自分で敵だと見なしている相手にフォローされるような愚図だぞ? 
こんな無能な男、俺は生涯で初めて目の当たりにしたぜ!」
「それだけアルフレッド・S・ライアンと昵懇だったってことじゃないか。けれど、これからは違う。
いずれカスケイドさんはライアンを超える。全く死角のない戦士へと進化するんだ。
英雄に与したヴィクドの名声も地の果てまで轟くぞ――お爺様はそう仰せなんだ」
「バカ言え! こいつに伸び代なんかねぇ! グリーニャにしがみ付いてるようなガキが何だってんだッ!」

 アルフォンスはなおもフェイを激しく罵り、アルカエストの擁護を徹底的に否定した。
 そこからはまさに泥仕合である。正反対の外見通りに反りが悪い両者は、
フェイを味方へ引き入れることの是非を巡り、口に唾して討論を繰り返していく。

「仮に、だ! ライアンと比べて知略が足りなくても、足りないなりに使い道を誤らなければいいだろう!?」
「先見性以前の問題だ。自分で考えるだけの知恵があったなら、こいつは今でも英雄の一員だったさ」
「今でも英雄だろう!? どこが違うと言うんだ!? 健全な精神は彼にこそ宿っているッ!」
「上っ面を剥げばこんなものだ。剣を振り回す以外に能もないような有象無象だぜ!? 
ヴィクドの末席を汚すと考えただけで身の毛がよだつ!」

 アルフォンスの言行は過激の一言に尽きる。フェイの人格さえも滅多切りにしてしまっていた。
 見るに見かねたアルカークは両者を一喝し、これによってようやく醜悪な討論は終結した。

「……倅どもが失礼したな。言い訳にしかならんが、こいつらは何分にもまだ若い。故にこうして時折バカな真似をするのだ。
バカの囀りと思って聞き流せ」

 バツが悪そうに頬を掻きつつ詫びを入れるアルカークだったが、曇りに切ったフェイの表情に再び平穏の色が戻ることはない。
成る程、アルカークの言う通り、彼らは若い。アルフレッドとそう年齢も変わらないのだ。
 アルフォンスのほうがほんの少し大人びた顔立ちをしているが、すぐに熱を帯びる沸点の低さからして
精神年齢までもがお互いに近しいのかも知れない。顔立ち、沸点の低さも含めて両者とも若々し過ぎて、
いささか幼稚性すら感じられる。
 だからこそフェイの心は揺さぶられた。その若さに――アルフレッドに近しい年齢にまず反感を覚えた。
 当然ながら最もフェイの憤激を煽ったのは、アルカエストとアルフォンス両名の発した言葉である。
言い争いの中で挙げられたことはそのままフェイの心を穿つ氷の刃となり、
「アルフレッドの知恵や施しがなければこの場にいる資格さえない分際で!」と言うアルフォンスの心ない一言は、
彼の全存在を根底から揺さぶった。

(……否定なんかさせてたまるか…僕は英雄なんだ……その資格を示して来たんだ……! 
否定されるべきは僕なんかじゃない。否定されるべきは僕に楯突く――――)

 目に入る全てが恨めしく、アルフレッドと言う忌み名を口にする者全てが憎々しい。
最早、アルフレッドのシルエットを連想させる全ての存在がフェイにとって不倶戴天の敵であった。

「……もう一度、尋ねよう。フェイ・ブランドール・カスケイド、……アルフレッドを超えたくはないか? 
グリーニャを抹殺したくはないのか?」

 ドス黒い情念で塗り潰されていくフェイの面を値踏みでもするかのように睨めつけていたアルカークは、
その表情がこの上なく深い怒りと憤りで染まり切るのを見計らってから再び彼の肩に鍵爪を置き、
上目遣いに睨み返して来る彼に――世の規範たる英雄の資格と面影を完全に失した哀れな男に、
今一度、アルフレッドを超える意志があるのかを問い質した。

「答えよ、フェイ・ブランドール・カスケイドッ!!」

 恫喝さながらの大声を浴びせられたフェイは、光を宿さなくなった昏い眼差しをヴィクドの提督へと向けた。
正確には視線をアルカークの立つ正面へ向けた……と言ったほうが良い。
 およそ生気と言うものが感じられないフェイの双眸は、恨み持つアルカークを睨んでいるのか、
はたまた目に見えない何かを虚空に求めて彷徨っているのか、もう誰にもわからなかった。

「――提督、何やら面白い催しものが始まるようですよ」

 アルカークから発せられた恫喝めいた詰問に対し、土気色に染まるフェイの唇が微動して答えを紡ぎ出そうとしたそのとき――
第三者の声がふたりの間に割り込んできた。
 声のしたほうを一瞥すれば、目も覚めるような麗女が部屋の入り口にてアルカークを手招きしているではないか。

「下がっていろ、マルガレータ! ここはお前の出る幕ではないッ!」

 場の空気を読まないこの女性――マルガレータと呼ばれていた――を注意しようとするディオファントスだったが、
その叱声は間もなく飛び込んできた轟音によって粉々に打ち砕かれてしまった。
 地鳴りの如き銅鑼の音である。よくよく耳を澄ませば、そこには木片を打ち合わせるような音色が混ざっている。
一定のリズムで刻まれる乾いた音には、賑々しい鼓笛が続く。天まで駆け上るような音色は、笙と呼ばれる吹奏楽器であろう。

「一時休戦だ、アルフォンス。敵襲かもしれない!」
「てめぇに言われるまでもねぇ!」

 マルガレータを押し退けて回廊に飛び出したアルフォンスとアルカエストは、そこに信じられない光景を見つけ、
大きく口を開け広げたまま立ち尽くしてしまった。
 数十名もの力士――相撲取りがハンガイ・オルスの回廊を練り歩いているではないか。
開戦の銅鑼と勘違いしたのは、力士の一群より先を行く楽器隊の演奏であった。
雅やかな装束に身を包む彼らは、一心不乱にエドワード・エルガー作曲の行進曲『威風堂々』第一番を奏でている。
 アルファンス、アルカエストと同じように飛び出してきた将士で回廊はごった返しているが、力士たちはこれを意にも介さない。
『太刀颪(たちおろし)』の四股名を持つ当代一の人気力士は、肺一杯に息を吸い込みや否や、
仲間たちを代表するかのように「ごっつぁんです!」と頭を下げた。どうやら自分たちが大歓迎を受けていると誤解したようだ。
 しかし、そのように勘違いしてしまうのも無理からぬ状況ではある――

「フェハハハ――寄って来るが良い、見るが良い! これより男たちの宴を披露しようぞ! 
テムグ・テングリ大相撲の開幕である! ご近所お誘い合わせの上、余の後ろに続けいッ!」

 ――力士たちの先頭にて大音声を張り上げ、相撲興行の開催をハンガイ・オルス中に触れ回っているのは、
行司の装束に身を包んだゼラール・カザンその人であった。




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