19.バーナムの森(前編) テムグ・テングリ群狼領の本拠地(ほんまる)であるハンガイ・オルスには、 年若い将士のストレス発散を目的とした娯楽施設もささやかながら設けられている。 老将のデュガリや修練に対して人一倍厳しいビアルタは怠慢の原因として忌避しているが、 福利厚生は日々の暮らしに潤いを与えるものであり、過酷な任務、戦役の骨休めでもある。 口数が少なく感情の発露も希薄な為、厳しく堅物に思われがちのエルンストだが、将兵への慰労には柔軟だった。 中でも人気なのはゲームコーナーだ。画面の向こうから迫ってくる標的を飛び道具でもって撃ち抜くシューティングゲーム、 架空の格闘家同士を戦わせる対戦格闘ゲーム、一回勝つ毎に次のステージへ進める麻雀ゲームと言った筐体が犇めき合っており、 さながら場末のゲームセンターと言った趣である。 エルンストも密かにここを訪れていると言う。デュガリやビアルタに見つかろうものなら責められるのは確実である為、 必然的にお忍びとなるのだが、月に数度は対戦格闘ゲームやシューティングゲームを楽しんでいた。 その話をブンカンから聴かされたアルフレッドは、多数派工作の息抜きにふらりとゲームコーナーを訪れたのだ。 時計の針は午前五時を差している。管理人に頼み込んで開放して貰った為、当たり前と言えば当たり前なのだが、 このような早朝には流石に彼以外の客はいなかった。 ビスケットでサンドされたバニラアイスを自販機に見つけたアルフレッドは、口寂しさも手伝ってこれを頬張ろうとしたが、 すぐに自身の置かれた“状況”を思い出し、頭を振りつつゲーム筐体のひとつに腰掛けた。 ヴィクドの控え室にて灰色の銀貨が嘶いて以来、未だにアルフレッドはグラウエンヘルツのままである。 彼のトラウムは、変身と解除のタイミングが自分の意思でコントロール出来ないと言う重大な欠陥を抱えている。 ジャーメインにバカにされながら、マリスに心配されながら変身の解除を待つこと三日、一向に元の姿に戻れる気配が見られなかった。 こうなると日々の生活に様々な不便が生じる。極刑の執行官を彷彿とさせる衣と同じように 本人の意思では決して外すことの出来ない仮面で顔全体が覆われる為、飲食さえ摂れなくなるのだ。 アイスクリームなど口に出来る筈もない。 肉体そのものが変質しているのか、餓えと渇きに蝕まれることはないのだが、 アンカーテールや肩口より張り出した角に邪魔されて身体を横たえることも難しい。つまり、睡眠もまともに取れないと言うことである。 問答無用で物質を消滅させてしまう『シュレディンガー』をコントロールするだけでも大変に難儀なのだ。 すれ違う人の反応は、怯えてたじろぐか、モバイル付属のカメラを好奇心で向けてくるかの両極端。 ゲームコーナーの開放を依頼した管理人には三歳の子どもがいるのだが、グラウエンヘルツを一目見た瞬間、 恐怖に駆られて泣き出してしまったのである。さしものアルフレッドもこれには頭を抱えた。 ヴィクドの傭兵相手には鋭い威嚇になったグラウエンヘルツにも今ではすっかり辟易。一刻も早く変身が解けることを祈るばかりであった。 だからこそ、誰にも邪魔されずに気晴らしがしたかったわけだ。 硬貨を一枚投入してスタートしたのは、対戦格闘ゲームであった。格闘家ではなく擬人化された三頭身の動物たちが対戦するゲームであり、 そのタイトルを『ネコ政宗〜戦国おにゃんこ下克上トーナメント』と言った。 ブンカンから聴いた話だが、このゲームをエルンストは好んで遊んでいると言う。 対戦結果によって点数が算出され、上位入賞者は記録されるシステムとなっている。 ランキングにエントリーされている『ELN』なる名前は、まず間違いなく馬軍の覇者の物であろう。 「鬼左月」なるキャラクターを操作して獲得したようだ。 鹿を模したキャラクターを選択したアルフレッドは、コントロールパネルの上部に用意されたインストカードで操作方法を確認していく。 丸い棒が取り付けられたスティックを左手で、四つのボタンを右手で操作するオーソドックスな対戦格闘ゲームである。 程なくしてコンピューター側が操作する対戦相手も決定し、本格的にゲーム画面へと移行。 「幸村じゃなくて信繁」なる鹿を操るアルフレッドは、狸の姿をした「ハラキリ家康」を撃破しなければならなかった。 しかし、アルフレッドの意識は必ずしもゲーム画面に在ったわけではない。 スティックでキャラクターの動きを、四つのボタンで攻撃を操作し、徹底的に狸を追い詰めながらも、 彼はゲームの内容とは全く関係のないことを思料していた。 (……さて、どうしたものか……) 息抜きと言いつつ、今日で三日目を迎える多数派工作のことでアルフレッドの頭は一杯なのだ。 今までのところ、工作そのものは順調に進んでいる。新聞王と冒険王が味方に随いたことは、ただそれだけで強い影響力を生み出し、 ビルギットと同じ状況で怯える寒村を次々と篭絡していった。 戦いへの不安に打ちひしがれる人々をローガンは明るく励まして回ったのだが、これも奏功したようだ。 ギルガメシュへ抗うだけの戦力がない寒村へパトリオット猟班を差し向けると言うシュガーレイは、 先ずは要請を取りまとめ、これを基にして優先順位や派遣期間を決定するなど合理的に交渉を進めている。 一方で守孝は大変な苦労を強いられていた。悪質な輩は多数派工作に乗る見返りとして佐志の港を開くように要求するのだ。 ギルガメシュ打倒に向けた交渉の成功は急務ではあるものの、さりとて佐志も守らなければならない。 板挟みとなって苦慮するケースが後を絶たなかったのである。 こう言った手合いは、見るからに厳ついミルドレッドや正義の人であるハーヴェストを同行させると、 たったそれだけで威圧され、あっさりと折れてしまう。ときには強硬手段も必要だと言い諭すジョゼフだが、 仁義を重んじる守孝にはこれが心苦しいそうだ。 そうした苦悩を孕みつつも、ヒューやラトクが収集した情報をもとにして交渉は着実に成果を挙げている。 融通の利かない交渉相手に癇癪を起こしたジャーメインが戦力外通告を受け、控え室に送還される一幕もあったが、 こればかりは向き不向きがある為、仕方あるまい。 ジャーメインと同席する形となったマリスは終始張り詰めていたと言うが、 そのようにタスクから耳打ちされてもアルフレッドは返答しようもなかった。 「何をピリピリしているのかは知らないが、俺の知ったことではない。勝手にやってくれ」と言うのが偽らざる本音である。 当然、この返事にタスクは激怒。さんざんにアルフレッドを罵った挙句、まともに口も聞かなくなってしまった。 タスクに臍を曲げられたことも大いに悩ましいが――現在(いま)のアルフレッドは、もっと憂慮すべき事案を幾つも抱えているのだ。 そのひとつは、多数派工作と同時に進められている暗殺者の探索である。 フツノミタマやセフィ、ローズウェルが懸命になって探し続けているものの、裏社会の仕事人はなかなか尻尾を掴ませない。 ハンガイ・オルスへ賊を放った依頼主に至っては、手掛かりすら見つからない有様だ。彼らも夜を徹して目に見えない敵と戦い続けていた。 意外だったのはローズウェルがきっちりと仕事をこなしている点である。遊び半分で参加したのだろうとばかり思ったのだが、 裏社会のコネを使ってギルドに直接探りを入れるなど、危険な橋を渡ってまで賊の割り出しに努め、周囲を驚かせたものである。 ギルドの腹をまさぐるなど仕事人には自殺行為にも等しく、フツノミタマですら絶対に踏み越えない一線である。 「こっちのほうが面白そうって言ったじゃなァい? 正義の仕事ってカンジ? お姉さん、ウキウキしちゃうわぁ」 無論、K・kの警護と言う本来の任務は疎かになり、そのことで文句も言われたようだが、 ローズウェルは一切耳を貸さずに佐志へ協力し続けている。K・kから契約を解除されたときには、守孝に養って貰うとまで笑っていた。 そこまでしても暗殺者を発見することが出来ない。本当の標的はアルフレッドか、それとも別の誰かなのか。それも判らずじまいだ。 暗殺に取り掛かる好機を計るにしても、あまりに時間が掛かり過ぎではなかろうか。 フツノミタマ曰く、こうした場合は速攻で仕留めるのが常である。 ルナゲイトが掴んだ情報だけに誤報と言うことはあるまい。ローズウェルも仕事人の潜入情報に関しては裏を取っていた。 暗殺者の件はブンカンにも報告しており、彼を通して諜報部隊も動員されている筈なのだが、三日経っても何の音沙汰もない。 つまり、姿形はおろか殺気すら気付かせないような手練が送り込まれたと言うことだ。 言い知れぬ恐怖が皆の焦燥を大いに煽り立てていた。 (まさか、向こうが狙いってコトはないだろうが……) ワヤワヤへ向かったメンバーの中に仕事人の標的が紛れているのではないかと一瞬だけ不安に陥ったが、 仮にこの予測が的中しているとすれば、それこそ三日も経たずに決着がついた筈だ。 身を隠す場所さえ少ない荒野を行くフィーナたちは、それこそ狙いを付けてくれと言っているようなものである。 それに、だ。今日の昼にもワヤワヤ現地に入るとフィーナからメールがあったばかり。 ほんの一時間前のことだが、その際には暗殺者との遭遇と言った危険な連絡は含まれていなかった。 先程の不安は単なる杞憂と捉えても差し支えなかろう。 「――挑戦者見参ッ!」 物思いに耽りつつ機械的にステージを進めていたアルフレッドへそのようなアナウンスが飛び込んできた。 スピーカーによる音声案内とゲーム画面に表示されたウインドゥは、何者かがアルフレッドに対戦を申し込んできた合図である。 対戦格闘ゲームの筐体は背中合わせに二台一組で設置されている。向こう側の筐体に別のプレイヤーが硬貨を投入し、 ゲームをスタートした場合に対人戦が発生するのだ。これはコンピューターではなく生身のプレイヤー同士が腕を競い合うモードであった。 (おい、ちょっと待て。こっちは初心者だぞ。乱入なんてどうやったらいいのか……) 考え事に集中するあまり、自分以外の誰かがゲームコーナーにやって来たことにもアルフレッドは気付かなかった。 筐体自体がとてつもなく大きく、向こう側は完全に隠れている。つまり、誰が対戦を申し込んできたのかも判らない状況なのだ。 暗殺者への対策を考えている最中であると言うのに、何とも無用心なことだと自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。 ゲーム画面では対戦を申し込んできたプレイヤーのキャラクター選択が始まっている。 一瞬だけ同じキャラクターでの対戦を迷ったようだが、最終的には「独にゃん竜政宗」なるネコが選ばれた。 タイトルからも察せられるようにこのゲームの主人公格に当たるキャラクターだ。眼帯を宛がわれた右目の様子は不明だが、 対となる左目はチンピラのように凄味を利かせている。歩き方や喋り方もやたらとガラが悪く、どこかフツノミタマを思い出させる。 「どちらが乱世のナンバーワンか、白黒付けよう」 大見得を切った鹿の角が電光のように輝く。このヒーロー然とした言行が気に食わないのか、ネコは不調法にも唾を吐き捨てた。 「世間の流れに乗ろうとすんじゃねーよ、カス」 よく意味のわからないキャラクター同士の掛け合いを経て、鹿とネコの対戦が始まった。 プログラムの設定通りに動作するコンピューターとは異なり、生身の人間の思考と工夫が加わった敵キャラクターはさすがに手強い。 このゲームにはキャラクターの体力を表すゲージのほか、『マジゲージ』なるものが設定されている。 言わば、キャラクターの気力のようなものであり、相手に攻撃を当てるか、あるいはダメージを負うかによって徐々に充電されていき、 最大値まで高まったときに限り、通常の攻撃よりも格段に威力の高い「マジ奥義」なる特別な必殺技を使用することが出来るのだ。 こうしたシステムにも慣れていないアルフレッドを嘲笑うかのように対戦相手は手際良くゲージを溜めていく。 最大値になった瞬間、ネコの眼帯から極太の光線が発射され、哀れにも鹿は黒焦げになってしまった。 いつの間にかアルフレッド側の体力ゲージは空になっている。 ごく一般的な対戦格闘ゲームは、原則的に二本先取で勝敗を決するルールが採用されている。 つまり、一本目に敗れたプレイヤーも気持ちを入れ替えて逆転勝利に臨めるわけだ。 しかし、次の勝負でもアルフレッドは翻弄され続けた。ガラの悪い眼帯のネコは「マジ奥義」をふたつも搭載しているらしく、 マジゲージを溜まり切るや否や、その全てを消費し、竜の意匠を凝らした甲冑で守りを固めた。 どうやら一気に防御力を倍加する効果があるらしく、鹿には手の出しようがなくなってしまった。 中央に穴を穿った硬貨を六枚一気に投擲する必殺技など対抗策を試みたものの、ダメージは殆ど与えられず、 逆にジリジリと追い詰められていく。瞬きすら惜しんで画面に集中し、頬の肉を震わせる勢いでもってスティックとボタンを操るものの、 再び体力ゲージが底を付き、眼帯のネコの勝利宣言をもって対戦は終わった。 「どこでもいいから山ん中引きこもってろや」などと唾を吐きつつのたまうあたり、 ゲームのキャラクターながら底なしにふてぶてしいネコである。 品の悪いプレイヤーは対戦で負けた腹癒せに筐体を蹴り付けるのだが、別段、アルフレッドはこのゲームに思い入れはなく、 さして悔しいとも感じていない。エルンストを超える成績を目指していたわけでもないのだ。 「――随分と無用心じゃねぇか。それとも、余裕ってモンなのかい、ライアン?」 対戦の勝利者にゲーム進行を譲り、速やかにこの場から離れようと腰を浮かせたしたところで筐体の向こうから声が掛けられた。 見れば、乱入してきた対戦者もアルフレッドに倣って立ち上がっているではないか。 『ジプシアン・フード』と印字された真っ白なTシャツとジーンズを着こなした剽悍なる青年である。 茶髪と黒髪が一定の間隔で混在する三毛猫のような癖毛を指先にて弄りつつ、アルフレッドを真っ直ぐに見つめていた。 「あんたは――」 筐体から離れて近付いてくる青年へ中途半端に返事をして、アルフレッドは言葉を呑んだ。 確かに見覚えのある顔だ。プロフェッサーと共にファラ王、クレオパトラのもとに随いていた従者のひとりである。 アルバトロス・カンパニーやクインシーらと同じくAのエンディニオンからやって来た難民と言うことは、ファラ王の口から語られていた。 青年の胸元では黄金の護符が光を放っているが、これこそグドゥーにて庇護を受けている証しなのだ。 ファラ王曰く、この護符の持ち主とはフレンドシップで結ばれており、グドゥー統一にも大きな貢献があったと言う。 事実、ジョゼフが両帝会戦にて目撃した四人の戦いは人智と言うものを凌駕していた――このことも伝聞にて知っている。 だが、いくら記憶の糸を手繰ってみても、アルフレッドには彼の名前が思い出せなかった。 「ライアン」と呼び掛けられたからには同じように答えるのが礼儀と思いはすれども、 肝心のファミリーネームに行き当たらなければ、どうしようもない。 気持ちばかりが焦った挙げ句、ようやく搾り出したのは、「よく俺だと分かったな」。 虚勢を張っているようにしか聞こえないこの一言である。 「分かるも何も、そんなナリしてあちこち出入りしてりゃ、目に付かない筈ねぇだろ。歩く広告塔みたいなものだぜ」 「広告塔とはご挨拶だな……」 いよいよ言い繕うことが難しくなり、答えに窮するアルフレッドを暫し眺めていた三毛猫髪の青年は、 ややあってから「生真面目なんだな」と薄く笑んだ。どうやら仮面の向こうの当惑など最初から見透かしていたようだ。 「自己紹介はまだしてなかったハズだぜ。だから、あんたが俺の名前を知らないのも当たり前」 「……からかってくれたと言うわけか。人が悪いな」 「別にそんなつもりはねぇよ――俺はダイジロウ・シラネ。一応、大学教授の助手みたいな仕事をしてるんだ」 ダイジロウ・シラネ――三毛猫髪の青年は、対峙したアルフレッドにそう名乗った。 対戦格闘ゲームの画面では、彼の操作から離れた眼帯のネコが「片倉マジ小十郎」なる別のネコにサンドバックにされている。 まん丸眼(まなこ)のこのネコは、おそらく主君であろう眼帯のネコを相手に「クーデター! マジクーデター!」と勝ち誇っていた。 ダイジロウに誘われるままゲームコーナーを出たアルフレッドは、早朝のハンガイ・オルスをアテもなく散歩し始めた。 挨拶こそ交わしたものの、盛り上がれるような共通の話題もなく、ただ黙々と回廊を歩くばかり。 やがてふたりはエルンストの玉座に面した内庭へと行き着いた。海原と見紛うばかりの広大な区画である。 この内庭は佐志の一団が到着したときには青草が群生するのみだったのだが、いつの間にやら相撲場が設置されていた。 急ごしらえに違いはないものの、盛られた土は力士の重量で崩れる心配がない程に頑強であり、 土俵に張られた円形の藁縄も本格的である。四本の柱に支えられた屋根は豪華絢爛の一言。 東西南北それぞれの柱にも四季の彩(いろ)で染め上げた布を巻いており、見た目にも鮮やかだ。 力士の控え室に当たる方屋には、『テムグ・テングリ大相撲』と金糸で刺繍された陣幕が張られている。 相撲場を取り囲むようにして客席が設けられ、ここには弁当や軽食を提供する出店も隣接していた。 『テムグ・テングリ大相撲』とは、ゼラールが取り仕切った興行のことである。 昨日から開幕したこの相撲興行は、連合軍将士の慰労が一番の名目であった。 Bのエンディニオンでは力士たちが心技体を競い合う相撲が大流行であり、 公式試合の他にも地方巡業と呼ばれる興行――ファンサービスの要素を多いに含むイベントだ――が各地で催されていた。 ハンガイ・オルスにて特別開催される今回の興行も広い意味では地方巡業に含まれるのだ。 爆発的な突進力に定評のある太刀颪の他、質実剛健の武力皇(ぶりきおう)、技のデパートと謳われる花旋(はなつむじ)、 若手のホープとして期待される不動山(ふどうやま)など綺羅星の如き力士たちが目の前で名勝負を繰り広げるのだ。 『テムグ・テングリ大相撲』は初日から大変な盛り上がりを見せていた。 ゲームコーナーの設置からも分かる通り、エルンストは将士が骨休めを出来る環境の整備にも熱心であった。 だからこそ、ゼラールから申請のあった相撲興行も即決にて許諾したのだ。それどころか、自ら観戦に赴いた程である。 テムグ・テングリ群狼領随一の相撲マニアでもあるゼラールは、力士たちの取り組みを事細かに解説し、 馬軍の覇者も感心したように頷いていた。 最後にはゼラール自ら諸肌を脱いで土俵に上がり、最強力士と名高い太刀颪と一戦を交えたのだ。 水牛の如き突っ張りを俊敏な投げ技でもって捌き、完勝を以って観客を賑わせていた。 尤も、初日一番の歓声を勝ち取ったのは、ゼラールの技そのものではなく太刀颪の豪快な負け方である。 投げを避けようとして勢い余り、土俵外までロケットの如く飛び上がった瞬間、待っていましたとばかりに大喝采。 インターネット上のファンサイトも興奮の坩堝と化したそうだ。 早くも好評を博している『テムグ・テングリ大相撲』は、二日目の今日はサイン会など完全なファンサービスに徹するプログラムであった。 「――出なくていいのかい、アレ? ステゴロはあんたの得意分野だろ。客どもだって一昨日みたいな名勝負を待ってるぜ?」 「おい、どうしてそう言う話になるんだっ?」 ボンヤリと相撲場を眺めていたアルフレッドは、ダイジロウから相撲興行への参加を尋ねられた。 ミルドレッドやジャーメインとの格闘戦を引き合いに出すと言うことは、こうした催しには喜んで加わるものと思われているらしい。 アルフレッド当人からすれば、これほど迷惑な勘違いもなかった。計略の一要素として利用させては貰ったが、 好き好んでパトリオット猟班と戦ったわけではないのだ。 「骨折はもうバッチリ治ってるんだろ? でなきゃ、コンパネなんか操作(いじ)れねぇよな」 「身体は問題ない。だが、相撲に出るなどと……」 「太刀颪ってスモウレスラーのゲームを見物したけど、張り手で思いっ切りぶつかっていくのがメインだったぜ。 お前さんだってアレンジ次第じゃねーかなぁ。それによ、重傷負ったって半日で全快だろ?」 「人を機械か何かのように言うなよ。部品の交換で済むわけじゃあるまいし、どうしたら半日で回復するんだ」 「おいおい、面白ぇことを言うじゃねーか。新手の照れ隠しか? ポキッとイッてたお前さんの腕、今、どーなってんだよ? お前さんなら細胞のカケラからでも再生出来るって聞いたぜ」 「……本人を置き去りにしてとんでもない噂が立っているな。俺は一度もそんなことを言った憶えはないぞ」 ダイジロウの誤解がもうひとつ。リインカネーションの存在を知らない部外の者であるが故か、 彼はアルフレッドが驚異的な回復力の持ち主と認識していた。リインカネーション自体、前例のないトラウムである。 それが為、誰もトラウムの恩恵による快癒とは想像出来ないようだ。 三日も経たない内に骨折ですら完治してしまうのだから、風聞が真実であったなら、まさしく人智を超えたタフネスと言うことになるだろう。 「あのバチバチ光っていたワザの効果か? 何でも出来そうだもんな」などとダイジロウに誉めそやされることが アルフレッドには苦痛以外の何物でもなかった。 勘違いしているのが彼ひとりであれば、実際の経緯を説明するのみで事態は収拾出来るのだが、 おそらく誤った認識は数多の将兵にまで広まっているだろう。つまり、この場では何をしても焼け石に水と言うことである。 無駄な徒労を好まないアルフレッドは、「まあ、そんなところだ」と曖昧に頷き、次いで相撲興行への参加を明確に否定した。 第一、相撲自体に良い想い出がない。ゼラールの相撲好きはアカデミー時代にまで遡るのだが、 何かにつけて歴代の名力士や沿革について延々と講釈されたものだ。無論、彼の一方的な独演会である。 それだけならまだ良い。半ば強引に土俵へ上げられたこともあった。その度にアルフレッドは大恥を掻かされたのだ。 着衣を脱いだ上で廻しを締めると言う本物志向の取り組みなのだが、対戦相手となったトルーポからこれを外され、 あってはならない醜態を晒したのは一度や二度ではない。 ダイジロウはここまで観戦に赴いたようだが、アルフレッドは興味すら持たなかった。 過去のトラウマが足を遠のかせたのではなく、ゼラールを忌避したわけでもない。一息つく間もない程に多数派工作が忙しいと言うことだ。 第一、彼が交渉の相手としている人々に相撲興行を楽しむような余裕はない。 そうなると、『テムグ・テングリ大相撲』とは全く接点がなくなってしまうのだ。 「――噂って言えば、よ……」 出店での下準備や客席の掃除など払暁から働く裏方たちを眺めつつ、 ふと思い付いたかのような調子で口を開いたダイジロウは、今までとは声のトーンが明らかに変わっている。 あからさまに話題が転換されたのだが、むしろ、ここから先が彼にとって本題なのだろう―― そう直感したアルフレッドは仮面の下にて表情を引き締めた。ダイジロウの側は素っ気ない言い回しに努めているようだが、 却ってこうした素振りこそ緊張が伝わり易いものだ。 自分のほうから声を掛けたと言うのに、内庭に至るまでの間、彼は殆どアルフレッドと口を聞かなかった。 他愛のない世間話などで様子を窺うことさえして来なかったのである。さりとてふたりの遭遇は偶然ではあるまい。 少なくともダイジロウは最初から接触するつもりでアルフレッドの動向を探っていた筈である。 人目から逃れつつ早朝のゲームコーナーに訪れた人間を偶発的に見つける確率など絶無に近い。 控え室を出たところから追尾していたのだろう。 しかも、だ。数あるゲームの中からわざわざ同じ筐体を選んで対戦を挑み、その後は共に散歩までしている。 今の今まで重大な話を切り出すタイミングを計っていたと言うわけだ。 「……お前さん、命を狙われてるそうじゃねーか」 「……何?」 抜け目のないクレオパトラが多数派工作に探りを入れるべくダイジロウを差し向けたのだろう―― そのように予想を立てていたアルフレッドは、思い掛けない彼の言葉に一瞬ながら息を呑んだ。 驚愕に続いて訪れたのは混乱である。今し方のダイジロウの発言によって索敵が一層困難となった。 仕事人を放った依頼主はクレオパトラではないのか。その可能性が五分五分になったのである。 これで容疑者リストの順位が下がったわけではない。それどころか、最有力候補に浮上してしまったのだ。 仕事人を操作しているのがグドゥーだと恫喝半分で通告してきたのか、はたまた、期限付きの命になったとせせら笑うつもりなのか。 暗殺の件を仄めかしたダイジロウの発言は、彼がグドゥーにて庇護を受ける身分だけにどちらとも取れる。 「殺し屋に目ぇ付けられてんだろ。だから、ゲーセンで言ったじゃねーか、無用心だってさ」 「……どうしてそんなことを――いや、どこでそれを聞いたんだ?」 「アポピスだよ。ファラ王さんのトラウムのさ。見覚えねぇか? あのヘビ型の……」 「俺が言いたいのはそうではなくてだな……」 「クレオパトラさんの命令であちこちに聞き耳立ててんだよ。あいつ、いつもはニシキヘビにしか見えねーだろ。 狭いトコ、暗いトコ、秘密の話をするのに打ってつけの場所にもスルッと入り込めるってワケだ。 絶対にバレねぇ偵察ってヤツ――って、コレ、国家機密漏洩か? ……俺が漏らしたって、言わねーでくれよ」 「……探り合いはどこもやっている。盗み聞きされるのは気分が悪いが、ここは聞かなかったことにしよう」 腹の探り合いはお互い様なのだが、クレオパトラの側も密偵としてアポピスを放っていたとは、 さすが影の最高実力者に相応しい手腕と言うべきであろう。 これでまたひとつクレオパトラへの疑義が強まった。 「助かるぜ。俺もさ、お前さんがあのムエタイの姉ちゃんとデキてるってコトは黙っとくからよ」 「おい、ちょっと待て。今までとは別件で待ってくれ。アポピスはそんなことを言っているのか!?」 「しかも、二股。そう言うのに興味なさそうな顔して、とんでもねースケベ小僧だな。 ウチのテッドなんか、その話を聞いただけで卒倒しちまったぜ。究極のウブなんだよ、あいつ」 「……二股……いや、二股……」 「自分がブッ倒した相手をモノにするってハナシ、マジであるんだなぁ。ジウジツ使ってた……名前なんだっけ? あの巨人みてーな姉ちゃんとも付き合ってんだろ?」 「わかった、確信した。完全に伝言ゲームの法則だ。ジャーメインもミルドレッドも俺とは関係ない。ただの同志だ」 「ホントかぁ? 二股っつったとき、目ぇ泳いでたぜ?」 「そんなことはない。断じて違う」 アポピスが持ち帰った情報には大迷惑な物が混ざっており、アルフレッドもそれには厳重に抗議した。 特にジャーメインが絡んだ件では「マリス様に配慮が足りません」とタスクを怒らせたばかりである。 この上、更に身に憶えのない噂が広まることだけは回避したかった。 浮気疑惑の打ち消しへ躍起になるアルフレッドをひとしきり笑った後、ダイジロウは再び面を引き締めた。 脱線の所為で“本題”が停滞していたのである。 「……もしも、だぜ。お前さんがファラ王さんやクレオパトラさんを犯人だって疑っているなら、 それをグドゥーをブッ叩く口実にするつもりなら、……俺も黙っているわけにはいかねぇんだ」 再び語られ始めたダイジロウの本題が核心にまで到達したとき、その声が鋭さを増した。 殺伐の気配と呼ぶ程ではないにせよ、闘争の意志は確実に帯びている。 グドゥーの恩人を撃破するつもりなら徹底交戦も已む無し――そのようにダイジロウは宣言した。 「お前さんたち佐志が、俺の――いや、俺たちの仲間を助けようと色々働いてくれたのは聞いてる。 ヴィクドのクソオヤジ相手にも佐志のみんなで怒ってくれたしさ……」 「勘違いしていないか、シラネ。俺はグドゥーの為に何かをした憶えはない」 「違う、違う。勘違いしてんのは、お前さんのほうだ。……難民なんて呼ばれるようになっちまった連中さ」 Aのエンディニオンからこの世界へ転送されてきた人々をギルガメシュは難民と認定し、その保護をも同時に宣言した。 しかし、ダイジロウたちAのエンディニオンの人間からすれば、一方的に難民呼ばわりされることは承服し難いようだ。 「難民」と口にしたとき、ダイジロウには殺意とは別に悲哀が混じった。 健全な暮らしをしているにも関わらず、社会的弱者の如く扱われることへ憤怒を滾らせたのではない。 深い深い、果てしなく深い悲しみが彼を包み込んでいた。 「今の俺たちには、この状況をひっくり返すことは出来ねぇ。難民って呼ばれるのは、結構悔しいけどよ、 どう足掻いたってこの世界じゃ独りの力でやってけねぇんだ。俺もファラ王さんのお陰で何とか生き延びてる。 ……ああ、こりゃ紛れもない難民だって自分に言い聞かせてな」 ダイジロウの吐露は、難民と呼ばれる数多の人の代弁のようにも聞こえた。 異なる世界に飛ばされたとは言え、ニコラスたちにはフィガス・テクナーと言う根拠地がある。 単身、テムグ・テングリ群狼領に乗り込み、ギルガメシュ撃破と言う使命に燃え滾るクインシーは、 教皇庁と言う存在意義を以って己を奮い立たせている。 対して、ダイジロウたちはどうか。グドゥーの保護を受け、共存の体制を整えることは出来たかも知れないが、 Aのエンディニオンとの接点――即ち、己の根拠を失っているのだ。 この場にジョウ・チン・ゲンが居合わせたなら、ダイジロウに頷いたかも知れない。 マイクに救われた身ではあるが、彼もまた流浪の難民なのである。 そして、ダイジロウもジョウも数多の難民の中では大いに幸運であった。 身の保障を全く得られなかった難民――つまり、ギルガメシュやスカッド・フリーダム本隊が保護を急ぐ者たちだ――は、 死ぬような思いで荒野を流離っているのだ。 「あの日、俺たちは――プロフェッサーが作った機械で亜空間に潜って、そこでいろんな実験をしていたんだよ。 あらかたスケジュールをこなしたんで元の空間に復帰してみたら、……大学のラボじゃなくてグドゥーに放り出されたってワケさ」 「復帰する座標の設定を間違えたか、悪意ある何者かが設定を書き換えたか―― 最初に大慌てして、次に状況を把握して更に大混乱と言うわけだな。想像に難くない」 「その通りだよ。……て言うか、全然驚かねぇんだな。自分で言うのもなんだけど、ブッ飛んだ話だと思うぜ、コレ」 「亜空間か?」 「最初、クレオパトラさんは全然信じてくれなかったぜ。そこらへん、ファラ王さんは頭がユル――柔軟だったけどよ」 「……まだまだ若造だが、それなりには経験積んでるんだよ」 自身と仲間たちがどのようにして異なるエンディニオンの土を踏むに至ったのか、その経緯をもダイジロウは打ち明けた。 亜空間からの離脱時に遭遇したと言う状況の差異はあれども、やはりアルバトロス・カンパニーの面々と同じプロセスを辿っていた。 ありとあらゆる状況への適応としてアカデミーでも亜空間を用いた訓練は実施している。 アルフレッドも無重力化での訓練と併せて経験済みであった。 亜空間での活動と言うダイジロウの話は、彼にとっては別段驚くものではないのだ。 一般の大学がアカデミー並みの施設を有していることに唸った程度である。 ともすれば、荒唐無稽としか言いようのない体験談をすんなりと受け入れられたダイジロウのほうが面食らっている。 「まあ、こっちにはトラウムとか不思議なもんが腐るほどあるもんなぁ。亜空間なんてフツーなのか。 ……そうそう、プロフェッサーには気を付けろよ。いずれ腰を落ち着けてトラウムを研究してぇっつってんだが、 変身したお前さんを見てテンションうなぎ登りなんだ。解剖して“中身”を拝みたいとかほざいてた。アポピスもヤラれかけたんだぜ?」 「実はエンジョイしてないか」 「エンジョイしてるのは、あの人だけだよ。同じように見ないでくれ。……俺は妹とも連絡つかないんだぜ?」 「……モバイルは?」 「てんで通じねぇ。テッドのところは身内がひとりで、しかも婆さんなんだ。そいつがもうにも可哀相でな……。 ファラ王さんが手ぇ尽くしてくれてるけど、こればっかりはどうにもならねぇ」 それぞれの場所で同じように亜空間を経験しながらも、アルフレッドとダイジロウには決定的な違いがあった。 特殊な訓練からアカデミーへと復帰したとき、アルフレッドは教官やクラスメートに出迎えられた。 設定した座標から別の場所に放り出されるような事故には一度たりとも遭っていない。 ダイジロウは正反対である。不備なく設定を完遂した筈なのに異世界へ転送されてしまったのだ。 自身が巻き込まれた事故よりも家族の安否を確かめられないことが彼には堪えているのだろう。 「……ファラ王さんもクレオパトラさんも、そんな俺たちを見捨てずにいてくれる。ずっと協力してくれてるんだ。 持ちつ持たれつって言ってくれてるけど、……本当はそうじゃねぇ。俺は百万回生まれ変わってでも恩返しするつもりだぜ」 「……恩人に危害を加えるような輩は許さない、か」 「――そうだ。相手が誰であろうと、俺は戦う。時代錯誤かも知れねぇ。でも、受けた恩は死んでも忘れねぇ」 ダイジロウの言葉は重くアルフレッドに響いた。今や、自身の軽率な判断を痛恨事として悔やむ程である。 仕事人がハンガイ・オルスへ放たれたとの報せを受けたとき、反射的にグドゥーの関与を疑い、 依頼主の最有力候補と見なしてしまったのだが、これが深読みであったと思い知らされたのだ。 「仲間同士で睨み合いなんて、バカの極みだ。でもよ、グドゥーは怪しい、殺し屋を使うようなトコだなんて嗅ぎ回られちゃ、 さすがに穏やかには行かねぇよ。……俺の言いたいことは分かるよな?」 ダイジロウから佐志を牽制する論拠を聞かされた瞬間、アルフレッドは堪り兼ねて顔を顰めた。 多数派工作を謳っておきながら、それと真逆の振る舞いをすれば敵愾心を持たれて当然である。 グドゥーの周辺を嗅ぎ回っている人間は、ジョゼフ以外には考えられなかった。 交渉を開始する寸前までファラ王の息が掛かった勢力を調べ上げるよう提案し続けていたのだ。 今日で多数派工作は三日目を迎えたのだが、その間、ジョゼフは依頼主の調査について一言も触れていなかった。 それ故にアルフレッドは彼が取り決めを破ったとは思わず、結果として再確認を怠った。 狸親父と悪名高い新聞王のこと、誰かに質されるまでは味方にも隠し、秘密裏にことを進めるつもりなのだろう。 あるいは、詰問されても白を切り通すかも知れない。 「……それもアポピスが?」 「ああ。別のことを調べているときにブチ当たってよ。これはまだファラ王さんの耳には入れてねぇ。 クレオパトラさんに知られたら、グドゥーと佐志の全面戦争になり兼ねないからな」 「……全く余計なことを……」 「――おい、まさか……」 「あ――いや、違う。不安にさせて、すまん。余計なことをしてくれた人間に心当たりがあるんだ。後で俺から厳しく注意しておく」 ジョゼフの行動は、確かに短慮であった。新聞王とまで呼ばれた男には似つかわしくない程の浅慮でもある。 しかし、その気遣いを迷惑とは思えなかった。一度は見捨てられたとまで考えた相手が、自分の為に危険な橋を渡ってくれたのだ。 決して口には出せないが、胸中では感謝の言葉を何度も繰り返している。 そうしてジョゼフの気持ちを理解したとき、ダイジロウが如何なる情況に在るのかもアルフレッドは悟った。 彼もまた新聞王と同じと言うわけだ。ファラ王たちにも気取らせないよう単独で行動を起こし、グドゥーの潔白を証明し、 万が一のときには我が身を盾と槍に変える覚悟でアルフレッドに挑んだのである。 恩人とグドゥーを憂慮するその心に偽りなどあろう筈がない。 仕事人の一件についてグドゥーは全くの無関係。依頼主は別に在る――これがアルフレッドの結論であった。 もしも、クレオパトラが暗殺の手筈を整えた張本人とすれば、これを知るダイジロウはもっと別の形で佐志に相対したことだろう。 クレオパトラが暗殺計画を食客には秘匿している可能性は全くの零ではない。 この純朴な青年を掌の上で転がし、佐志を突き崩す駒にしている可能性とて捨て切れない―― ダイジロウの言葉を真っ直ぐに信じることはさすがに難しいのだが、さりとて全てを否定することはアルフレッドには出来なかった。 為政者の思惑はともかく、ダイジロウ・シラネと言うひとりの人間の真心は本物なのだ。 これを切り捨てることは、己の浅ましさを露呈するようなものであった。 「だが、これは佐志の総意ではない。断言する」 「……本当か? 俺、人を疑うことが苦手なんだぜ。だから、……本当の本当か?」 「俺たちが戦うのはギルガメシュだけだ」 アルフレッドの返答を確かめたダイジロウは、深い溜息をひとつ吐いた。 膝に両手を重ね、身体を折り曲げてまで安堵する彼の肩を優しく叩いたアルフレッドは、今一度、「グドゥーを疑う理由はもうない」と明言した。 「……本音を言おう。最初、俺はクレオパトラを疑っていた。俺が立てた作戦はグドゥーには大して旨味がない。 それに引き換え、リスクが大き過ぎるだろう? 邪魔に思われているのは確実だ」 「おいおい、クレオパトラさんはそこまで腹黒くねぇって。計算高いって言われたら、そりゃそうかもだけどよ。 あの人がボコボコにすんのは、せいぜいファラ王さんくらいだぜ」 「ああ、今ならそれもちゃんと信じられる。お前のお陰で疑いは晴れたからな」 「俺は別に何もしてねぇよ。……どっちかって言うと、お前さんを脅して心証悪くしたんじゃねぇかな……」 「バカを言え。あんたを見ている内に俺は自分の早合点に気付かされたんだ。あんたは正しかったよ」 相撲場では興行の支度が本格的に始まろうとしていた。作業員たちは威勢の良い声を張り上げ、本日の段取りを積めている。 その大音声へ呼応するようして、アルフレッドとダイジロウは頷き合った。 「これで俺も一安心だよ。マジで戦争になっちまったら、クレオパトラさんのトラウムが佐志に押しかけるぜ」 「……そんなに恐ろしいのか?」 「世間じゃ俺たちがグドゥーの統一を成し遂げたみたいに思われてるみたいだけど、たかが四人で何が出来るかっての。 手助けはしたさ。でも、決め手になったのはクレオパトラさんのトラウムだよ」 『スゥントンフ・メニィメシャ』――グドゥーの古語で『人の手にて造られし死の兵隊』と呼ばれるトラウムこそが クレオパトラ最大の切り札であるとダイジロウは語った。 土や岩、鉄と言った固形の無機物からオートマトン(自動人形)を一挙大量に作り出し、標的を徹底的に蹂躙してしまうと言うのだ。 ヒューが持つダンス・ウィズ・コヨーテと同系統のようだが、スゥントンフ・メニィメシャのほうが攻撃性は遥かに高そうだった。 戦乱に乗じて再び内紛を起こさないようグドゥーの四大勢力に睨みを利かせていた為、クレオパトラは両帝会戦には加わっていない。 もしも、熱砂にてスゥントンフ・メニィメシャが発動していれば、地の利もあってギルガメシュに大打撃を与えただろう。 不死者軍団の脅威を目の当たりにしたことがあるダイジロウは、「クレオパトラさんってば究極のドSだからよ」と身震いまで披露した。 「――随分と謙遜しているが、あんたらも相当な手練なのだろう? 生憎と俺は別の場所で戦っていたから噂でしか聞いたことがないんだ。 目撃した人間の話によれば、見たこともないロケットランチャーや甲冑を使うとか……」 「甲冑ぅ!? ……ああ、テッドのアレか。そうか、騎士の甲冑に見えなくもねぇのか」 「……ん? 身に付ける物とは違うのか?」 「あんまりバラすとプロフェッサーがうるせぇんだけどよ、あれはメタル化っつって、どちらかと言えば、お前さんの変身に近――」 話のついでにダイジロウたちが備えている戦闘能力について尋ねようとするアルフレッドだったが、 ダイジロウが返答しようとした矢先、モバイルからけたたましい着信音が鳴り響いた。 舌打ち混じりでコートからモバイルを取り出すと、液晶画面にはローガンの名前と電話番号が表示されている。 「――今、どこにおるんや!? ごっつヤバいことになってきたでッ!」 暢気なローガンのこと、朝食の準備が出来たと言うアルフレッドにとっては生殺し以外の何物でもない連絡でも寄越したかと思いきや、 鼓膜を叩く声は相当に逼迫していた。 * アルフレッドとダイジロウが相撲場にて話し込んでいる頃、佐志の控え室では少し早い朝食の支度が進められていた。 ハンガイ・オルスに参集した連合軍将士の為にテムグ・テングリ群狼領は食堂を開放し、朝昼晩の三食を提供している。 アルカークが率いるヴィクドやファラ王のグドゥーは配給を断り、自前の食料のみで賄っているのだが、 こうした傾向は他の勢力にも見られた。と言っても、ヴィクドのように対抗意識や警戒心が働いたわけではない。 羊肉を中心とした馬軍の食事が口に合わない者も少なからず存在するのだ。 その土地ごとの嗜好や食文化ばかりは如何ともし難い。若かりし頃、エンディニオン中を遍歴した経験を持つエルンストは、 食事の不適合がどれほど苦しいものか実感として理解しており、そうした者たちを救済すべく炊事場の仮設と言った措置を即座に命じた。 勿論、食堂では羊肉以外の献立にも可能な限り応じている。 佐志とその同盟者たちも食堂は利用していない。多数派工作の段取りが優先される為、定められた時間内に食事を摂ることが出来ないのだ。 加えて、悠長に食事を楽しんでいる時間もない。佐志に於いては、規則正しい食事時間との不適合が発生したわけである。 しかし、人間は食事をしなければ生きてはいけない。難解な交渉に当たる力も出てこない。 事態を憂慮したタスクの提案のもと、控え室の隅にテーブルを並べて簡易的なフードコートを設け、 ここに用意された食事を各人が好きな時間に必要なだけ摂ると言うバイキング形式が採用された。 フードコートには電子ジャーが設置され、いつでも炊きたての白米を食べられるようになった。 どうしても羊肉が合わず、腹を壊してしまった守孝はタスクの配慮に涙を流して喜んだものである。 このバイキングの内容が凄い。佐志が多数派工作に奔走していると知った友好的な勢力から陣中見舞いが山ほど差し入れられ、 三日目には食材が余る事態になっていた。 ビルギットからもささやかながらジャガイモが届けられている。これを知ったマリスとタスクは感無量と言った面持ちで頷き合ったものだ。 「良い兆候だ。佐志に協力しないと連合軍で仲間外れになる。これはかなりのプレッシャーになるぞ。 手土産を持って頭を下げに来る者も増えるんじゃないか? それがベストだな」 無粋なのはアルフレッドだ。差し入れが届き始めたのは昨日の昼前だが、彼はこれが同調圧力になると薄ら笑いを浮かべたのだ。 下衆の極みとしか言いようのない打算にはジャーメインとハーヴェストから同時に制裁が加えられた。 アルフレッドに肘鉄を喰らわせたハーヴェストは、自分たちの正義が多くの人に受け止められたことを歓喜し、 猛烈に咽び泣いている。陣中見舞いを胃の腑に収める前に彼女は満ち足りていた。 そんなハーヴェストを尻目にフツノミタマとヒューは差し入れられた食物に毒が混ざっていないか、時間を掛けて吟味し、安全を確認していった。 同志からの心尽くしだけにローガンは「そない過敏にならんでええやん」と呆れていたが、状況が状況だけに慎重にならざるを得ない。 幸いにも毒性の物はひとつとして見つからず、差し入れは全てフードコートに並べられた。 今や佐志の控え室は一流ホテルのビュッフェにも劣らない味覚のテーマパークと化している。 オードブルなどと言うレベルを遥かに超越し、パスタにヌードル、肉料理に魚料理、サラダに揚げ物、 各種スープからデザートまでフルコース状態なのだ。美食に慣れたジョゼフですら驚く程の充実振りである。 モバイルのカメラでこの光景を撮影し、画像データとしてフィーナにメールしたアルフレッドは、彼女から怒りの返信を叩き付けられた。 食べることを趣味とするフィーナにとっては、まさに夢のような空間であろう。 しかし、ワヤワヤに向かう道中の彼女は匂いを楽しむことさえ叶わなかった。 明太子スパゲッティー、パニーニ、ジャンバラヤ、豚の角煮、チキンのレモンステーキ、ミルフィーユビフカツ、カリブーのシチュー、 鰹のカルパッチョ、舌平目のムニエル、タラモサラタ、オリヴィエサラダ、ヴィシソワーズ、ブイヤベース、オニオングラタンスープ、 抹茶ゼリー、フルーツタルト、ナナイモバー、シャンパンシャーベット――数え切れない皿がテーブル上で犇き合っていた。 ここぞとばかりにホゥリーは世界の味に舌鼓を打ち、ローガンとミルドレッドも頬をリスのように膨らませつつ箸を動かしていく。 ジャーメインはオーロラソースを和えて食べるカキフライが最も気に入ったらしく、全身で感激を表していた。 「……フライばかりバカみたいに食ったら太るぞ」 大好物のスモークサーモンに手も付けられないアルフレッドは、カキフライを堪能するジャーメインへ恨みがましい皮肉を飛ばしたが、 当の彼女は「全部筋肉にするから全く平気ッ!」と明るく笑っている。パワープレイにも程があるこの返答に対し、 オックステールスープを口に含んでいたニコラスは噎せ返り、厚切りのベーコンステーキを頬張っていたシュガーレイは、 彼女の気構えを「戦士の鑑」と褒め称えた。 質素を旨とするマコシカの信条はどこへやら、炭焼きされたスペアリブに噛り付くレイチェルを眺めていたヒューは、 「ミストに見せてやりてーな、そのツラ」と苦笑するばかり。かく言う彼の取り皿には、ロブスターのテルミドールが盛り付けられている。 そして、多数派工作が開始されて三日目――今朝のバイキングを取り仕切ったのは、この場に居合わせるのが不自然な人物であった。 ディオファントスだ。自前の物と思しきエプロンを着用し、板についたナイフ捌きでもって食品を切り揃え、 器用にも数枚同時に料理皿を運んでいる。食事の支度が楽しくて仕方ないのか、陽気な鼻歌まで交えていた。 昨晩遅くのことである。チーズやバターと言ったヴィクドの名産品を目一杯抱えたディオファントスが佐志の控え室を訪ねてきたのだ。 余談ながら、ヴィクドの本拠地は標高が極めて高い場所に所在しており、傭兵稼業の他にも酪農が盛んであった。 高山地帯に生き、過酷な環境で鍛錬するが為にヴィクドの傭兵たちはハイランダーとも呼ばれている。 露骨なご機嫌伺いに出たディオファントスの最大の狙いとは、ざっくばらんに言えば交渉の継続である。 アルカークが暴走したことで暗礁に乗り上げてしまったが、協力体制への見返りとしてテムグ・テングリ群狼領より提示された交換条件は、 経済に精通するディオファントスには垂涎の一言。今以上にヴィクドを栄えさせる為、実兄を押し退けてでも獲得すべき報酬(もの)なのだ。 交渉を継続したいとの意向を明言したディオファントスに対し、意外にもアルフレッドは柔軟な態度でもって接した。 心の底からアルカークを憎む彼は、ヴィクドを叩き潰す大義名分が立ったことを胸中にて大喜びしていた。 正味の話、その高揚は現在も変わらない。さりながら、無頼漢の一味としてディオファントスを討伐することに気が引けるのも確かだ。 彼の著書を愛読しているとの個人的な事情はさて置き、ヴィクドの人間でありながら理知に富むディオファントスの人柄や器量を アルフレッドは密かに買っていた。聞けば、誰の命令でもなく己の一存で交渉再開を試みていると言う。 一歩間違えば身の破滅を招き兼ねない危険な博打にも臨めるだけあって、胆力も申し分ない。 (アルカークを取り除き、ディオファントスを新しい提督に据えるのも有りだな。……そのほうがやり易いかも知れん。 逆らおうとする傭兵どもを燻り出せば、根絶やしにすることも不可能じゃない) 性悪と人から詰られても言い返せないような昏い胸算用を経て、アルフレッドは交渉の再開を容認した。 同時にヴィクド潰しの布石も着実に打ってはいる。無理無体に難民排除を強弁し、 領土争いへの譲歩まで拒絶したアルカークの暴挙(こと)はブンカンにも報告済みであり、 殆どダブルスタンダードに近い状況をアルフレッドは捌いているわけだ。 予備交渉とも言うべき前夜の話し合いを負え、明くる朝に再び佐志の控え室を訪れたディオファントスは、 アルフレッドの不在にもうろたえず、守孝を始めとする佐志の面々の心証回復に努めている。 彼もまたこの不安定な世界で生き残っていく為に懸命なのである。 ヴィクド産のチェダーチーズと焼きたてのハム、半熟の目玉焼きを一緒に挟んだマフィンは、ディオファントスが胸を張る一品だ。 とろけるチーズと黄身が絶妙のハーモニーを奏で、刺激的な味わいのハムはこれを更なる高みへと引き上げている。 マフィンの焼き加減も最高だ。シェインは一口齧っただけで虜になってしまった。 「ラドにも食わせてやりたいな、コレ。……写真だけでもメールしとくかな」 「まだ連絡つかねーんだっけ、愛しのラドクリフと。勿体ぶってねーで、とっととオイラに紹介しろっつーの」 「自分の言ってることが矛盾しまくりだって、全然気付いてないだろ、ジェイソン」 シェインにちょっかいを出しつつ、「腹が減っては戦は出来ねぇ」などと言って早朝から豚足を食い千切るジェイソンは、 勇ましくも藍色のマワシを締めている。交渉にも仕事人への対策にも参加しておらず、稽古以外には何もすることがない彼は、 今日の相撲興行に参加するつもりでいるのだ。長年角界に君臨し続ける太刀颪を以前から応援しており、 その胸を借りたいと熱っぽく語っていた。 これを適当に受け流したシェインは、今朝のバイキングを写真に収め、ラドクリフ宛にメールを送信。 しかし、手に持ったラビオリスープが器まで冷たくなるくらい時間が経っても返信はなかった。 「――どーした、シェイン? 朝からシケた顔してっと、大抵、つまんねぇ一日になっちまうぜ?」 「……マイク……」 己のモバイルを見つめるシェインへ気遣わしげに声を掛けたのはマイクであった。 波長が合致したことからローガンとすっかり打ち解け、ふたりしてハーヴェストを辟易させるような笑い声を上げていたのだが、 新たに親友となった少年の浮かない顔が目に留まり、大急ぎで駆けつけた次第である。 「――おや? マイクさんもたまには良いことを言うじゃないですか。私も見習いたいですね」 「なにせ口先だけは優男だからね。……騙されんじゃないわよ、シェイン。詐欺紛いのコトをされたらすぐに相談するのよ? 証人として法廷に立って、このゲスをブッ潰してあげるから」 「ホンット、おめーらは朝から爽やかじゃねーな! ジョウも便所蝿に染まり過ぎだぜ!」 ジョウとティンクもマイクに後続している。ふたりともシェインが悲しい想いを吐露した瞬間に立ち会っており、 以来、何かに付けて気を掛けていた。 ジョウは白い湯気を立てる薬膳粥の器を、ティンクは身の丈を遥かに越えるサイズのステーキサンドをそれぞれ手にしている。 「何か悩みがあるのなら、遠慮せずに言うんだよ? 私たちが力になれることなら喜んで協力するし、 誰かに話すだけでも気が楽になるからね」 「……ん。サンキューな、ジョウ」 早朝且つ食事時と言うこともあってジョウは外道装備を外しており、普段より数段身軽に見えた。 マイクも石柱を納めた機械やガンベルトを控え室の隅に置いているのだが、仰々しい外套まで脱いだ分、 ジョウのほうはシルエットが一回り小柄になったような印象すらある。 絹糸で織り上げた衣の胸元には、やはり七芒星に絡みつく竜の紋様が染め抜かれている。 レイチェルがクインシーから聞いた話によると、ジョウ・チン・ゲンはAのエンディニオンでも指折りの盗掘人と言うことだが、 とてもそのようには見えない。シェインやジェイソンの目には服を着て歩く道徳のように映っていた。 年少者と話す際には膝を折って視線を合わせるなど気配りも細やかであった。 「ダチが音信不通になってて心配なんだよ! てめーら、そんなコトも知らねーのかァ!? ケッ、時代遅れどもめッ!」 「なんでフッちんがキレてんのか、よくわかんねぇけど。カルシウム、足らねーの? 確かヨーグルトもあったぜ」 「フ、フッちんて何だ、泥棒野郎ッ! フレンドリーか!? そーやってガキをたらし込みやがったかァッ!?」 「……ごめんな、マイク。オヤジのことは無視してくれ」 「無視してんのはテメェじゃねーかッ! ……あ〜あ、最近よォ、蔑ろにされてる気がすんだよなぁ〜ッ! もう修行もやめちまおっかなーッ! やる気萎えちまったなぁ〜ッ!」 「どうせサボッたらキレるくせに、何言ってんだよ、バカオヤジ」 対抗意識を剥き出しにして割り込んできたフツノミタマと終始穏やかなジョウとを見比べたシェインは、肩を落として溜息を吐いている。 「ホワッツ? ユーのコールとメールもアウトオブ眼中なのかい? マブフレンドになったんじゃナッシングぅ?」 三十センチはあろうかと言うボイルドソーセージにむしゃぶりついていたホゥリーが耳聡くシェインたちの会話を聞きつけ、 巨体を揺すりながら輪に加わってきた。普段、「エブリバディに生活スメルをサーチされるのがノーグッド」などと煙たがっているものの、 結局は愛弟子の安否が心配なのだろう。口振りからすると、彼もまたラドクリフと連絡が途絶えているらしい。 「ホゥリーは? 何日、連絡取れてないんだよ?」 「スリーデイズだヨ。それまでウザいくらいメールをシュートしてきたってセイのに、今じゃワン通もナッシング」 「……ボクもだ。いくらメールしても返ってこない」 「チミねぇ、ラドのことはチミに任せるってセイったじゃナッシング? メン同士のプロミスはディフェンディングしてウィッシュだヨ。 あとワンデイズ、ウェイトしてラドから何もナッシングなら、チミ、ギルティだからネ」 「そんなこと言われたって、どうすりゃいいんだよ……」 多数派工作が始動して三日――シェインとホゥリーが揃ってラドクリフと連絡がつかなくなってから同じだけの時間が経過していた。 トレーニングに取り入れているジョギングの最中、テムグ・テングリ群狼領将士に宛がわれている居住区域をそれとなく窺ったのだが、 ゼラール軍団がどこに在るのかも判然としない為、必要な情報はひとつとして手に入らなかった。 そもそも、外から覗く程度では居住区域の様子は全く分からない。 顔を見合わせたまま絶句するふたりに只ならぬ気配を感じ取ったのか、 ラドクリフと縁が深いレイチェルとヒューも彼らの輪に歩み寄っていく。 音信不通の原因を推理中らしくヒューは眉間に皺を寄せて物思いに耽っていた。 「おい、ヒュー公……」 「……ああ。ひょっとすると、こいつは……」 同じ胸騒ぎを共有した様子のフツノミタマとヒューが視線を交え、表情を加速度的に強張らせていく。 ふたりの様子に戸惑ったレイチェルは、夫の腕を掴み、「一体、なんなのよ。ラドに何かあったんじゃないでしょうね」と質したが、 当のヒューは何も答えない。俄かに垂れ込めた緊迫の理由をマイクとジョウも察知し、険しい表情(かお)を作っている。 自分の――と言うか、K・kの為に割り当てられた控え室へと戻っていたローズウェルが血相を変えて飛び込んできたのは、 奇しくもシェインの不安が頂点に達した瞬間であった。 「ちょっとちょっとちょっと〜! 送り込まれた仕事人の正体が判ったわよぉー! マスード! イブン・マスードッ! 世界一腕の立つ仕事人が雇われたって話だわよぉ!」 「ンだとッ!? “ウース”の野郎だァッ!?」 ローズウェルがもたらした速報にフツノミタマは双眸を見開いて驚愕した。 三日目にしてついに掴んだ仕事人の手掛かりは、彼にとって余りにも衝撃的であったようだ。 無論、「世界一腕の立つ仕事人」と言う触れ込みにはシェインも瞠目している。 彼だけではない。レイチェルも、ホゥリーさえも――誰もが満面に狼狽の色を滲ませていた。 ジェイソンだけは「世界一腕が立つ」と言う部分に反応し、瞬間的に闘争心を滾らせたが、 すぐさまにこれは愚の骨頂であると反省し、口を真一文字に引き締めた。隣では親友が青ざめた顔で震えている。 一瞬でも興奮してしまった軽率(こと)が彼には悔やまれた。 「イブン・マスードならオレも聴いたことがあるぜ。さっきのハナシじゃねぇが、ギルドでも一、二を争う凄腕の仕事人だそうだ。 渾名は、そう――『冥星朱砂(みょうじょうすさ)』……だったな」 絶句したまま硬直するフツノミタマに成り代わり、マイクが説明を継いだ。 これに相槌を打つあたり、ヒューも『イブン・マスード』の名に聞き覚えがあるようだ。 「“ウース”っつーのは、イブン・マスードのことで良いんだよな、フッちん?」 「あ、ああ……、ヤツとは古馴染みでな。ウースってのは仲間内で使ってたニックネームなんだが――」 マイクの問いに頷いたフツノミタマは、震える指でもってブロードソードの鞘を握り締めるシェインを案じつつも、 世界一腕の立つ仕事人について知り得る限りの情報を提示していった。 『冥星朱砂』なる渾名を頂くイブン・マスードは、騒動の経緯からも明らかなように『ギルド』所属の仕事人である。 元々は然る暗殺組織の一員だったのだが、ギルドを統べる伝説的な仕事人、“ティーゲル”の説得を受け容れ、その傘下に入ったそうだ。 そうした経緯もあり、参入当初からギルド内で独特の存在感を放っていたと言う。 しかし、他の仕事人から一目置かれはすれども妬み嫉みを買うことはなかった。 裏の仕事の斡旋を主とするギルドでは仕事人の間に権威の優劣は存在しない。そもそも、優劣を競うような体質でもない。 情を差し挟む余地のないビジネルライクの結合なのだ。 その為、他の仕事人から疎まれることもなかった。個々人の実力や運にも左右されるが、 ギルドに於いては仕事も報酬も等しい条件で行き渡るのである。 仮に派閥争いの介在する世界であったなら、粛清の名目で旧来の重鎮に淘汰されたか、 あるいは腕一本で伸し上がり、ギルドでも重要な地位を勝ち取ったであろう。 『冥星朱砂』ことイブン・マスードは、それだけの潜在能力を秘めているのだとフツノミタマは語った。 過去の暗闘にて失ったと言う左腕は改造手術を施されて義手となり、ここに“仕事用”の様々なギミックを仕込んでいる―― これこそがイブン・マスード最大の武器であった。 「本来、ウースは奇襲が専門なんだ。ヤツが世界一腕の立つ仕事人って呼ばれる所以は、確実且つ目立たずに標的を消すやり口だからよ」 「正義も何もあったもじゃないわね! どうしても、命のやり取りをしなければならないとき! そんなときには自分の身も晒すべきじゃない! それが戦いよッ!」 「正義バカは黙ってろや。つーか、裏の仕事に正義もクソもあるか。手前ェの物差しは投げ捨てろやッ!」 「しかし、よりにもよってイブン・マスードとはな……。スカッド・フリーダムもその名は常々危険視していた。 よほどの大物が絡んでいるようだな。やはり、真犯人はグドゥーあたりか?」 血管が浮かび上がる程の握り拳でもって怒りを露にするハーヴェストに続き、シュガーレイも紫煙を燻らせつつ話に加わった。 「――ま、危険視と言えば、剣殺千人殺しの悪名高いフツノミタマもそのひとりだったがな」 「あァ? ケンカ売ってんのか、根暗野郎ォ? てめー、正義バカの気質(カタギ)が抜けてねぇようだなぁ!?」 「その辺でやめときや、フツ。シュガーもヘンに絡むんやない」 一触即発の状況を呆れ顔で仲裁したローガンと入れ替わり、フツノミタマの前に一歩進み出たニコラスは、 「正面きっての勝負に持ち込めば、まだ勝ち目はありますか」とイブン・マスードの攻略法を尋ねた。 万が一、抹殺対象がアルフレッドであった場合、護衛の役を請け負った彼は世界一腕の立つ仕事人と戦わなければならないのだ。 親友を守り切る為にも必要な情報は全て吸収しておきたいのである。 「だから、正面から斬り込むっつーのは仕事人じゃねぇっつってんだろうがッ! こいつは殺しなんだよ、殺しッ! 何回も言わすなッ! チャンバラやりてーなら余所当たれやッ! 奇襲上手だからウースはおっかねぇんだよッ!」 「あまり悲観的にはなりたくありませんが、考えられる最悪の事態ですね。奇襲上手と言うことは、いよいよ我々に逃げ場はありません」 もとテロリストとして奇襲に精通しているセフィもフツノミタマの援護に回った。 アルフレッドの生命へ直接関わることだけに一字一句聞き逃すまいと耳を傾けていたマリスは、 イブン・マスードの恐ろしさを聴くに付けて、力なくよろめいてしまった。パトリオット猟班の治療によって疲弊していた彼女には、 世界一腕の立つ仕事人の話は相当に堪えたようだ。 「お気を確かに。まだアルフレッド様が狙われていると決まったわけではございませんから」とタスクに支えられ、 励まされても殆ど効果はなさそうだ。 「……手も足も出ぬと申すのでござるな……」 改めて自分たちの置かれている状況を思い知った守孝も低く呻き声を上げた。 最早、控え室は朝食どころではなくなっている。どのような武器でも跳ね返すモーントを盾にすれば、最悪の事態だけは回避できる筈―― 事態を憂慮するミルドレッドは、モーント当人が「ホント、ミルさんはぶっこわれていますね」とやり返すくらい過激な対策を掲げていた。 仏頂面を向かい合わせ、まるで感情の入っていない笑い声を上げるミルドレッドとモーントを取り成したジャーメインは、 次いでローズウェルとラトクを交互に眺めた。翡翠色の瞳には強い怪訝の念を滲ませている。 「ずーっと思ってたんだけど、あんたら、どこから裏の世界の情報(ネタ)を引っ張ってくるの? 裏社会と繋がってるとか、あたしみたいな一般人にはコワ過ぎなんですけど」 「愚問と言うものではないかな、お嬢さん。ルナゲイトだから――これで説明がつく」 「何の答えにもなってないようで、これ以上の答えがないわね……」 「お姉さんは地道に頑張ってんのよ? 馴染みの情報屋を当たりまくってさぁ。口入れ料だってバカにならないんだから」 「そーやってふんぞり返りたいなら、依頼主まで全部調べときなさいよ」 「ムチャ言うわね、一般人は」 情報の出所についてジャーメインとローズウェルが話す中、ラトクは目端でもってジョゼフを眺める。 かの新聞王は何食わぬ顔で話し合いの輪に加わり、長い白髭を撫で付けながら、 「初日は何も分からなかった。しかし、三日目にして仕事人の正体を掴んだではないか。 着実に事態は前進しておる。運はこちらに向いておるのじゃよ」などと皆を鼓舞している。 我知らず厭味な笑みを浮かべそうになったラトクは、慌ててこれを押さえ込んだ。 気質そのものはジョゼフに見透かされているものの、“この状況”で本性を晒すことは如何にも危ういと思い直した次第である。 「名探偵さんはコレをどう見るかしら? ……あからさまっつーか何て言うか、めっちゃキナ臭いわよねェ」 話の流れからローズウェルはイブン・マスードに関する情報の精度をヒューに尋ねた。 ギルドの誰かが口を滑らせた――その形で情報屋から仕入れたものではあるが、 ローズウェル自身、どうにも腑に落ちないらしく、第三者による客観的な分析が必要と判断したのだ。 裏を取ろうにもギルド相手には突っ込んだことも聞けない。その点、ヒューは打ってつけの人材、いや、逸材であった。 裏の仕事はフツノミタマに尋ねるべきかも知れないが、如何せん彼はどこまでも直情的。「客観視」の三文字からは遠く離れていた。 「意図的なリークの可能性も否定は出来ねぇよ。誰かが俺っちらにイブン・マスードを阻止させようとしてるのかも知んねー」 「あのボウヤを死なせないようにって? だとしたら、カレ、スーパーアイドルじゃないの。裏の人間にまで大人気なんて! ンフ――今の内にツバつけとこーかしら」 「いえ、結論を急ぐのは如何なものかと思いますね」 「あらん? セフィちゃん、ヤキモチ? お姉さん、ときめいちゃったわよ」 「そうではなくて――情報の流出に作為があったと決め付けていますが、それを前提に話を進めるのは危ういと言っているのですよ。 こちらを油断させる為の情報工作かも知れません」 「寡聞にしてイブン・マスードとやらは知らぬが、仕事人にとって絶好の狙い機(どき)は標的の油断じゃからな。 あるいは、仕事人の側から流してきたのかも知れぬ」 「ジョゼフ様もこう仰せです。今一度、慎重に考えるべきです」 セフィの分析にジョゼフは首肯を以って同意した。今や、あらゆる可能性が皆の頭で堂々巡りしている。 そうして混乱を煽り立てることが、実はイブン・マスードの計略なのかも知れない。 「なんだか自然にこう言う話し合いになったから、こちらも普通に加わるが―― その仕事人とやらは本当にライアン君狙いなのか? ゼラール・カザンを始末しようとしているのではないか?」 エプロンを脱ぎ、着衣の襟元を正しながらディオファントスがそう口を挟んだ。 裏社会の仕事人がハンガイ・オルスに潜り込み、あまつさえ佐志を脅かそうとしているとの情報はヴィクドも掴んでいたようだ。 ディオファントスの分析によれば、イブン・マスードの標的はアルフレッドではなくゼラールではないかと言う。 仕事人を手配したのはヴィクドではないと、さりげなく主張されたようにも思えるが、そのことに注目した者は誰もいなかった。 何故、馬軍の一部将に過ぎないゼラールが狙われるのか――その疑念へと皆の意識は集中していた。 ヒューはディオファントスの推理へ首を傾げた。全く論拠が分からないのだ。 この数日、ゼラールは相撲興行に付きっきりとなっている。廻しを締め、無防備のまま土俵へ上がる瞬間は幾度もあったのだ。 ならば、どうして絶好の機会を狙わないのか。イブン・マスードは奇襲が最も得意の筈である。 皆が「ゼラールだけは有り得ない」と口々に話す中、ローズウェルだけは「可能性はゼロじゃないわね」と、 得心が行ったように右の拳を左の掌へ打ち付けている。 「アシが付かないように仕事人を雇ったってコトにすれば辻褄も合うのよね。 身内を殺したのがバレて全軍の統率を下げたくないでしょうし。結局、殺っちゃうんだから浅知恵だけどねぇ〜」 「だから、何を根拠にンなことを言うんだっつーの。あのおもしれぇ兄ちゃんを狙う理由が俺っちらには分かんねーよ」 首を傾げるヒューに対して、ローズウェルはわざと勿体付けた喋り方を採って焦らしている。 その悪趣味な遊びはフツノミタマが白刃を抜いて脅かすまで続けられた。 「トルーポちゃんだってウチのダンナさんと商談中なのよ。そりゃテムグ・テングリのお偉いさんだって面白くないわ」 「商談だぁ?」 「そ。ダンナさんから武器を買い付けるってコト。なにせ追放処分になっちゃったからねぇ。 お馬の兵隊にも頼れないし、この先、何かと入用なんでしょ〜ね」 ローズウェルの発したその一言にヒューたちは静まり返り、追放処分と言う四文字の意味を量り兼ねて沈黙が続き、 やがてシェインが「追放って何だよ!? 何の話だよッ!?」と大音声を張り上げた。 これをきっかけとして控え室は再び騒然となり、ローズウェルはつるし上げを食らう羽目になった。 「……聴いていないのかね? それで私はゼラール・カザンが標的だと思ったんだがな。 依頼主はテムグ・テングリの軍師殿あたりではないかと……」 ゼラール軍団がテムグ・テングリ群狼領を追放される――ディオファントスはアルカークを経由してそのことを知っていた。 そして、これこそが先程の仮説に対する根拠である。ゼラールには始末されるだけの理由があると彼は考えているのだ。 シェインはローズウェルへと詰め寄っていく。その双眸には激しい憤激が瞬いていた。 「なんでそんな大事なことを先に言わねぇんだよ!? ありえないだろッ!」 「だ、だってぇ〜、今度のコトと関係あると思えなかったしぃ! 第一、お姉さんにも機密保持ってのがあるのよ? 迂闊にダンナさんのお仕事情報を余所には出せないのよ」 「今、ゲロっちまったら一緒だろ!? ラド――じゃない、ゼラール軍団はどうするつもりなんだ!? トルーポは何か言ってないのか!? あのろくでなし商人から何か聞いてないのかよッ!?」 「さ、さぁ――今日は朝からツァガンノール御苑(ぎょえん)とやらで商談の詰めをするとか言ってたわね……」 年少者とは雖も、シェインの剣幕は凄まじい。すっかり気圧されてしまったローズウェルは、しどもろもどろになって答えている。 かつてジューダス・ローブの予知能力――即ち、ラプラスの幻叡だ――のことをうっかり言い忘れていたヒューは、 肩身が狭そうに俯いていたのだが、「ツァガンノール御苑」と言うキーワードを拾い上げた瞬間、弾かれたように顔を上げた。 「ツァガンノール御苑ってあそこだよな……」 「ええ、滅多なことでは誰も近寄らない――と言うか、近寄れない場所です」 セフィもまたツァガンノール御苑に反応を示したひとりである。 暗殺への対策の一環としてハンガイ・オルスを構築する諸々の施設や区画を調べていたのだが、 その最中に「ツァガンノール御苑」と呼ばれる場所を発見したのだ。 一言で表すならば、そこは庭園である。極めて美麗な自然の真っ只中に四阿(あずまや)が建てられており、 エルンストらテムグ・テングリ群狼領の最高幹部たちは、重要な貴賓を招く際に決まってその場所を使用していた。 呼んで字の如く、外の喧騒に邪魔されずに穏やかな空気の中で会談に臨めるのだ。 それはつまり、何が起きても、どのような音が生じても、決して庭園の外には届かないと言う証左でもある。 ハンガイ・オルスにあって全く外部と隔絶された空間であった。 「ツァガンノール御苑か……。エルンストの先代が他の氏族から惣領になることを認められた由緒ある場所って聞いてるぜ。 テムグ・テングリにとっちゃ聖地みたいなモンだろうな」 さすがに国際情勢に詳しいマイクは、ツァガンノール御苑に関する具体的な解説をヒューたちの会話に付帯させた。 そうして語る最中にも彼はガンベルトを締め、石柱を収納してある籠状の機械を背負った。 ものの五分前まで軽やかだったジョウも今や外道装備に身を包んでいる。 手には赤い槍――本来は三叉であったようだが、左右の穂先が欠けて折れ、中央一本のみとなっている――を握り締めていた。 これが彼の得物であり、その銘を『パクシン・アルシャー・アクトゥ』と言った。色とりどりの水晶が金属製の柄に等間隔で嵌めこまれている。 それは、明らかな戦闘準備であった。見れば、フツノミタマもドスの目釘を確かめている。 「ローズウェル、そんなところをどうして借りられた? 誰かの手引きがあったんじゃねーのか?」 「ダンナさんの話の又聞きだけどぉ――ピナフォアちゃんって居たじゃない? ザ・馬軍ってカンジのコがさ。 そのコが上層部(うえ)を誤魔化して開放させたとかなんとかって……」 ローズウェルの口からピナフォアの名が語られたとき、名探偵の推理は完成した。 特別の機会でもなければ決して開かれることのない聖地にゼラールの股肱の臣が赴いている。 それも、テムグ・テングリ群狼領の中核を担う氏族の手引きによって、だ。 そのとき、佐志の仲間たちの脳裏に「暗殺事件が起きたと言う事実が何よりも大きな意味を持つ」と言うアルフレッドの解説が蘇った。 暗殺と言う暴力的な行為に於いて、標的の生死は問題ではない。標的の周辺人物に与える威圧こそが首謀者の真の狙いなのだ。 ゼラール軍団は追放処分を受けた。これは決して覆るまい。ハンガイ・オルスを去ろうとする混乱の最中に ナンバー2が抹殺されたとすれば、ゼラールとその軍団はどうなるだろうか。 仮にゼラール本人が悲劇を乗り越えられたとしても、配下の者たちは「次は自分が狙われるのではないか」と言う恐怖で永遠に苦しめられるだろう。 トルーポの抹殺は、それ自体が軍団崩壊を意味しているのである。 この三日間、アルフレッドには一度たりとも生命の危険に晒されなかった。 あれほど無防備だったゼラールの前にも刺客は現われなかった――そうなると、イブン・マスードの標的は絞られてくる。 トルーポの戦闘能力は人智を超えている。これはテムグ・テングリ群狼領の将士こそ痛感していることだろう。 ゼラールの懐刀を断つには、相応の刺客をぶつけなくてはならないわけだ。 「……ヒュー……」 「ここまでたくさん固まっちまったら、偶然なんて呼べねぇだろ、レイチェル。……そう言うことだぜ」 そう、余りにもタイミングが合致し過ぎていた。刺客の潜入を通報し、諜報部員との協力体制を整えた筈のブンカンからも 有益な情報は何ひとつ入ってこない。「鋭意調査中」。返答はただその一言である。 「武器の買い付けをしてるなんてバレたら、そりゃ始末に動きます、よね……」 トルーポを抹殺する動機あるいは口実は、セフィのこの言葉に集約されている―― 全ての疑惑(ピース)がひとつの塊として汲み上がったとき、ホゥリーは足元に転がしておいた杖を取り上げ、そのまま控え室を後にした。 「こうしちゃいられない――」 言うや、シェインも靴紐を結び直した。言わずもがな、ホゥリーの後に続く為である。 「待たんか、シェイン! おヌシが行ったところでどうなる! そもそも、おヌシには何の関係も……」 「関係大アリだよ! トルーポが……、仲間が危ないってときにラドが黙ってるわけないッ!」 制止の声を掛けてきたジョゼフにそう反論したシェインは、ブロードソードを携えて全速力で駆け出した。 疾駆する理由はホゥリーと全く同じだ。ラドクリフに危急が迫っている。もしかしたら、既に窮地に立たされているかも知れない―― 「……ラドッ! ラド……ッ!」 ――回廊を駆け抜けながらシェインはモバイルを取り出し、短縮登録してある電話番号を呼び出した。 目の前にはホゥリーの巨体が在る。背後には何人かの足音も聞こえている。 (バカ野郎! こう言うときこそ相談してこいよッ!) モバイルからはコール音が響くばかりで、いつまで経っても目当ての声は聞こえてこない。 規則正しいリズムを刻む電子音に呼応し、シェインの心臓は鼓動を更に早めている。 * シェインとホゥリーが回廊へと走り出した頃――凄烈なる殺気を帯びた人影が鬱蒼とした林の中に息を殺して潜んでいた。 木立の先へ視線を巡らせると、そこには美麗な庭園が広がっている。庭園のあちこちに流れる小川のせせらぎは、 林の只中に在っても聞き取ることが出来る。この水源を辿っていくと、いずれは庭園に建つ四阿(あずまや)へと到達するのだ。 四阿の中心、即ち庭園の中心には狼牙の如き尖鋭な岩が大地を割って迫り出し、ここより冽水が湧き出している。 まさしくこの源にてテムグ・テングリ群狼領の先代、バルトロメーウスは馬軍の覇者となることを宣誓したのである。 四阿の中心より湧き出す冽水は、テムグ・テングリ群狼領の将士にとって特別な意味を持っているわけだ。 聖なる冽水の庇護は、この地のどこにいても感じられる。湿潤な風も、萌ゆる緑を煌かせる朝露さえも―― テムグ・テングリ群狼領を育むものと信じられていた。 清浄なる空気に似つかわしくない殺気は、林の中に潜む人影が庭園の管理者などではなく、 この地に在る別の人間――標的を付け狙う“刺客”と言う事実を明白に表していた。 人影は、じっと四阿を睨み据えている。そこにはトルーポとK・kの姿があり、何事か熱心に話し込んでいた。 「……ザムシード殿、まだ好機ではないのか? もうよろしいのでは?」 「慌ててはならん、ビアルタ殿。まずは呼気を整えられよ。急いてはことを仕損じる。今回ばかりは醜態は晒せんぞ。 心身ともに引き締め、万全の状態にて臨まれよ」 トルーポに狙いを定める人影はふたつ――ビアルタとザムシードだ。 世界一腕の立つ仕事人ではなく、テムグ・テングリ群狼領の武将がそれぞれの得物を手に林の中に潜んでいるのだ。 ふたりとも完全武装である。ナックルダスターで拳を固めるザムシードは言うに及ばず、ビアルタも巨大なボウガンを脇に抱えていた。 これは本来なら軍馬に括り付けて使用すべき物なのだ。トラウムに頼らず、己の肉体を極限まで鍛錬する馬軍の将士であればこそ、 膂力のみで操れるのだった。 ビアルタ自慢の大型武器は虎の毛皮で包んである。こうすることで金属の摩擦音などを抑えているわけだ。 この若き将士は、とにかく気が逸っている。意気込みと言えば聞こえは良いが、浮き足立った“刺客”など、果たして使い物になるだろうか。 それを思えば憂色が差し込みそうになるザムシードであるものの、彼の心根を理解出来るだけに強く批難も出来ない。 このところ、ビアルタは他者に出し抜かれてばかりだった。 無粋にも軍議の場へ乱入したパトリオット猟班との戦いではモーントを相手に遅れを取り、 作戦立案の上ではアルフレッドにも引け目を感じている。人一倍誇り高く、また年若いビアルタには失態の連続は堪えた筈だ。 義兄、エルンストの為にこれからも十分に働けるのか――これはビアルタにとって己の弱さを克服する試練でもあった。 準備は万全に整っている。ゼラール軍団は自分たちの動向が筒抜けになっているとは思うまい。 K・kと間で取り交わした武器密売の契約もハンガイ・オルスからの離脱方法も、全てピナフォア経由で把握しているのだ。 配下の者を心から信頼するゼラールがピナフォアに疑念を抱く筈もない。 それどころか、彼女の側から使用を提案したツァガンノール御苑にもトルーポを送り出した。 全てザムシード、ビアルタの目論見通りに運んでいるわけだ。 派手派手しい相撲興行はふたりの神経を逆撫でしたが、あれはゼラールにとって馬軍での最後の仕事である。 火吹き芸人の戯れも見納めと割り切り、目を瞑るとしよう――ゼラールが裸踊りをしている間に軍団が崩壊すると思えば、 これ程までに痛快なこともない。 尤も、笑みが浮かぶと言うようなことはない。テムグ・テングリ群狼領の聖地にて狼藉を働く以上、自分たちも死罰は免れまい。 デュガリやブンカンが情状酌量を図り、聖地を流血で穢した罪が減じられたとしても、 “身内”たるゼラール軍団の討滅をエルンストが許すとは思えなかった。ましてや、今は全軍の足並みを揃えるべき機である。 ザムシードもビアルタも、元より御屋形の慈悲に縋るつもりはない。我が身を犠牲にして馬軍を救う覚悟であった。 「それでは、参ろうぞ、ビアルタ殿」 「承知――」 いざ――と身を乗り出したそのとき、庭園のどこかで電子音が鳴った。チープな音色から察するにモバイルの着信音であろう。 反射的にポケットをまさぐるビアルタだったが、ツァガンノール御苑へ立ち入る前に不要な持ち物は全て置いてきた。 無論、ザムシードが所有するモバイルでもない。 四阿へと目を転じてみると、K・kがせわしなく首を振り回している。どこで誰のモバイルが鳴っているのか、見定めようとしているのだ。 腕組みしたままポケットを探ろうともしないと言うことは、トルーポの物でもなさそうである。 四阿のどこかで鳴っているのは確かであった。しかも、いつまで経っても電子音は途絶えることがない。 電話を掛けていた相手は、モバイルの持ち主の声を聞かなければ気が済まないようだ。 それから程なくして庭園は静けさを取り戻したが、これは強制的に着信を打ち切った結果であろう。 通話の声は一向に聞こえてこない。 「こう言うときはマナーモードにするか、電源を切っとけよ。映画館でもよく注意されるだろ!」 どこかの誰かに笑いながら注意を飛ばしたトルーポは、次いで正面の林――つまり、ザムシードとビアルタの潜伏場所へと顔を向けた。 その双眸は、明らかに自分を狙うふたりの刺客を見据えている。よもや見破られたかとふたりが腰を浮かせた瞬間―― 「――『針土竜(はりねずみ)』ッ!」 ――トルーポが或る号令を下した。 その直後である。庭園の各所より旗が揚がった。数え切れない量の軍旗である。 戦塵で薄汚れた白い布には『天上天下唯我独尊』と大書されている。紛うことなきゼラール軍団の旗印であった。 「ザムシード殿、これは……」 「うぬ、よもや……ッ!」 思わず立ち上がった両将に呼応して木立の下の茂みが蠢動し、中からレモンイエローの軍服に身を包んだ兵士、 あるいはブラックレザーの甲冑で全身を固める戦士、もしくは潮風に晒されてボロボロになった衣服を着崩す海賊が飛び出してきた。 各々、得意な武器を携えている。立ち上がる瞬間にトラウムを発動した者も多く、 ヴィトゲンシュタイン粒子に照らされた木立より一瞬ながら陰と言うものが吹き飛んだ。 総員がゼラール配下の軍団員だった。気配を消してトルーポに接近したつもりだが、その実、逆に袋の鼠となっていたわけだ。 最もザムシードを打ちのめしたのは、自分たちを取り囲む敵兵にテムグ・テングリ群狼領の将士が多く混ざっていることだ。 「……おのれら……」 ビアルタに冷静沈着を訴えた手前、醜態を晒すわけにも行かないのだが、ザムシードの心中は恐ろしく荒れている。 ピナフォアの報告によれば、テムグ・テングリ群狼領より借り出されてゼラールに寝返った者たちの説得は既に完了していた筈だ。 この場にて対峙することなど絶対に有り得ない。 しかも、だ。この者たちの目に迷いは一片も見られない。ゼラールに殉じる覚悟を全身から迸らせているではないか。 歯噛みしつつ正面を伺うと、いつの間にかゼラール軍団の幹部たちが勢ぞろいしていた。 歩兵たちは四阿の前にて横一文字に整列し、我が身を壁としている。 間隙を縫うようにして旗持ちたちが『天上天下唯我独尊』の軍旗を掲げ、 その傍らではブラックレザーの甲冑に身を包んだ兵士が勇ましく銅鑼を鳴らしていた。 壁の両端には大砲――しかも、海賊船に搭載されている大口径の物だ――を準備する兵士も在る。さながら合戦の如き光景だ。 先程、トルーポが発した『針土竜』なる号令は、この陣形を命じるものだったのである。 「ひっ、ひっ……ひいぃぃぃ〜ッ! お、お命ばかりはお助けくださいませぇーッ!」 事前に何も知らされていなかった様子のK・kが今にも泣きそうな悲鳴を上げるが、トルーポはこれを意に介さない。 彼を中心に据え、カンピランが『タイガーフィッシュ』の銘を持つカットラスを、ラドクリフが光の弓矢をそれぞれ構え、 クレオーは肩にバズーカランチャーを構えていた。 この隊列にはピナフォアも加わっていた。ゼラール軍団の動向をザムシードたちに密告し、トルーポ抹殺の舞台を整えた筈の同胞が、だ。 彼女の口元には嘲笑が浮かんでいる――これを見て取った瞬間、ふたりは全てを悟った。 罠に陥れられたのは自分たちの側であったのだ。ゼラール軍団の動向がテムグ・テングリ群狼領に筒抜けだったわけではない。 実際にはその真逆であり、ツァガンノール御苑へ誘き寄せられたのはザムシードとビアルタのふたりと言うことだ。 ピナフォアの口車に乗せられ、まんまと死地に飛び込んでしまったのである。 「気でも触れたか、ピナフォア・ドレッドノート……。テムグ・テングリを、己の血族を裏切るつもりかぁッ!?」 悔し紛れに怨嗟を吐き出すビアルタであったが、ピナフォアは狂乱も錯乱もしていない。 己の意志で血族を裏切り、ゼラール軍団を生きるべき場所として選んだのだ。 「――ゼラール閣下、万歳ッ!」 言うや、ピナフォアの右手にヴィトゲンシュタイン粒子が宿り、掌より数多の光の玉が飛び散っていった。 天を仰いで視認するまでもない。木立より更に上方――ツァガンノール御苑の上空には吸着爆弾のトラウムが浮揚していることだろう。 ピナフォアは『イッツァ・マッド・マッド・マッド・ワールド』でもってふたりに逃げ場がないことを通告していた。 「これがお前の選択と言うわけだな。……実に残念だ、ピナフォア殿」 「優れた者を受け入れない馬軍になんか明日はない! あたしは閣下と――みんなと未来を目指すッ!」 ザムシードの問い掛けにピナフォアは罵倒を以って応じた。自らの出自たるテムグ・テングリ群狼領を切り捨てる一言である。 いずれにせよ、彼女の裏切りが発覚した時点でトルーポ抹殺は不可能となっている。 死を賭してツァガンノール御苑に乗り込んだ身ではあるが、エルンストへの忠義に殉じるどころか、 何の意味も為さぬ犬死を覚悟すべき状況にふたりは立たされていた。 しかし、ザムシードの面には怯えは少しも見られない。ビアルタのほうはピナフォアの裏切りに怒りを滾らせてはいるが、 一歩たりとも後退はしていなかった。彼らの正面にはゼラール軍団屈指の戦士たちが、周囲には数限りない兵士たちが、 上空には吸着爆弾が待機している。殆ど絶望的構図にも関わらず、ふたりは四阿に向かって歩き始めた。 途中、立ち止まるよう勧告する怒号があちこちから聞こえてきたが、そんなものは相手にもしていない。 林を出て庭園にまで歩みを進めたふたりは、改めてゼラール軍団の幹部たちと対峙した。 次にするべき行動はただひとつ――ザムシードは己の拳を、ビアルタは馬上ボウガンを構え、宣戦を布告するのみである。 彼らの標的とされていたトルーポは、腕を組みつつこれを見据え、どこか愉しげに口の端を吊り上げている。 身の裡より戦意が昂ぶっている様子だ。 「訊いての通りだ、御両所。俺たちが掲げるのは天上天下唯我独尊の旗。……誓いの御旗のもと、閣下に仇なす者は全て成敗するッ!」 『天上天下唯我独尊』こそが唯一無二の旗ジルシ――それは、ゼラール軍団がテムグ・テングリ群狼領に対して反旗を翻した瞬間であった。 今までのような小競り合いや諍いではない。同じ軍に所属しながらの争いとは決定的に違う。正式な宣戦布告を行ったのだ。 すべてはこの瞬間の為に積み重ねられた計略だ。トルーポは我が身を囮にしてザムシードたちをおびき寄せ、 これを返り討ちにすることでテムグ・テングリ群狼領との縁を完全に断ち切ろうと謀った次第である。 トルーポが宣戦布告を終えた瞬間、ツァガンノール御苑を揺るがす程の喊声が上がった。 一日千秋の思いでこの瞬間を待ちわびた軍団員たちによる魂の昂揚と言っても差し支えはあるまい。 天高く掲げられた『天上天下唯我独尊』の旗は、全身に風を受けて悠然と靡いている。 さながらゼラール・カザンと言う嵐を象徴するような勇ましさであった。 鼓膜が破れるのではないかと錯覚するような大音声の只中に取り残されるザムシードとビアルタだったが、 それでも両者の戦意が挫けることはなかった。 「あなたたちは負けたのです。安い計略で壊される程、閣下の軍団は脆くありません。……このまま帰ってください」 光の弓――棒杖に宿したイングラムのプロキシである――を引き絞るラドクリフから降伏を呼びかけられても、 ふたりには臨戦態勢を解く気配は見られない。不敵な笑みを浮かべたザムシードは、 「この程度で勝ち誇るのか、小童。舐められたものだ」と、剛毅にも程がある答えを返した。 「テムグ・テングリ群狼領と貴様らの違いが最後まで理解出来なかったようだな。 トラウムなどと言う邪道を頼みとせず、鍛えた肉体、磨いた技のみで覇道を突き進む――これがテムグ・テングリだ。 雑魚が数だけ集まったところで恐れることなど何もない。私に言わせれば、これでは足りないくらいだな」 「ハン――よくまぁ恥とも思わずに大口叩くもんだ。パトなんとかだっけ? 義の戦士崩れを相手にこっぴどくやられたそうじゃないか! 結局、お馬乗りだけが上手だったみたいだねェ!」 大振りのカットラスを右手で担いだカンピランは、真っ白な歯を剥き出しにてザムシードに言い返していく。 仮にも夫であるトルーポの生命が狙われたことを恨みに思っているのだ。 柄頭より垂らされた細長い青布と、この端に括り付けた碇の形の分銅を空いた左手で振り回しているあたり、 問答無用で斬り掛かっていきそうだ。 「ハービンジャー・コーマックの娘か。……恥知らずとは貴様のことだろうが。我らの軍門に下ったかと思えば、結局は裏切るのだからな。 ペガンティン・ラウトとテムグ・テングリは分かり合えんな。所詮は陸(おか)の理も理解出来ない愚か者の群れか」 「陸の理ってのは、お馬さんでパカパカやることかい? ラクなもんだ。竹馬のオモチャなら子どもだって乗れるからね!」 海の民の誇りを踏みにじるような罵声をザムシードから浴びせられたときなど、トルーポに羽交い絞めで止められたくらいである。 「試してみるか、カザンの憐れな下僕ども。確かにパトリオット猟班には不覚を取った。それは認めよう。 しかし、二度と同じ失敗はせん。ましてや、数に頼ることしか頭にない屑どもだ、負ける理由が見つからん」 罵り合戦を受け継ぐようにして、ビアルタは馬上ボウガンを構えた。連装式の鏃はラドクリフへと向けられている。 実弾とプロキシと言う差はあるものの、どうやら早撃ち勝負を挑むつもりのようだ。 「先に言っておきますけど、容赦はしませんから――」 ビアルタからの挑戦に応じようとするラドクリフだったが、彼の後方――庭園と外部とを隔絶する林の方角に驚くべき存在を発見し、 対峙の最中と言うことも忘れて大きく口を開け広げ、そのまま呆然と固まってしまった。 精霊超熱ビルバンガーTが、背の高い木立をも突き抜けてツァガンノール御苑に出現したのである。 この巨大ロボットあるところには、当然、使い手たる少年の姿もある。果たしてビルバンガーTの肩には、 ブロードソードを抜き放ったシェインと、廻しからパトリオット猟班の隊服に着替えたジェイソンが仁王立ちしていた。 「――シェインくんっ!」 ラドクリフの発した驚愕の声と、何よりも巨大な影や重圧感に引き摺られ、反射的に背後を振り返るビアルタだったが、 彼の視界を閉ざしたのは、全長十メートルはあろうかと言う巨大ロボットではなく、自分に向かって高空より降り注ぐ巨大な火球だった。 「な、なんだ!? これもトラウムなのか!?」 咄嗟に安全圏へと逃れ、直撃を免れはしたものの、火球の暴威は一度や二度では収まらず、数回に亘ってビアルタを追い立てた。 早朝と言うこともあって草花も水気を含んでいた為、火球が炸裂しても黒煙が上がる程度で済んだが、 冽水の恩恵がなければ直ちに延焼し、四阿にまで火災が拡大していただろう。 言わずもがな、これはファランクスのプロキシである。 「お師匠様……」 見れば、ビルバンガーTの足元にはホゥリーの姿があった。ファランクスを放ったのは誰あろう彼と言うことだ――が、 その表情は普段とは全く異なっている。いつものホゥリーは腹の贅肉と同じく極限まで弛み切っており、 どこか世を倦んでいるような調子だった。ところが、今はどうだ。弛緩などどこにある。そこには鬼の形相があった。 ファランクスを撃ち終えるなり、太鼓腹を叩いて次なるプロキシの準備へと移行するホゥリーだったが、その挙動は恐ろしく迅速だ。 スカァルの雷鼓と言う杖と左手へ同時に神人(カミンチュ)の力を宿し、ガイザーとフロストのプロキシを一気に繰り出したのである。 しかも、だ。一時的にプロキシの力を格納し、使用者の任意で解き放つことの出来るトラウム、クムランテキストまで発動させ、 ビアルタを執拗に攻め立てている。 左手からガイザー、スカァルの雷鼓からフロスト、クムランテキストからペネトレイトを一斉に放たれては、 いくらビアルタが馬軍の若きホープとは言え、堪ったものではない。反撃の機会を期して逃げ回ることしか出来なかった。 いずれもホゥリーらしくない戦い方だった。脱力することにかけてはチーム随一と自負する彼は、 額に汗まで掻いて全力攻撃を仕掛けるなど持っての他と言い切るタイプであった筈だ。 これまでも体力を使いそうなことは極力忌避してきたのである。 そのような余裕と言うものを今のホゥリーはかなぐり捨てており、形振り構わずビアルタを消滅させようとしていた。 「チミもフールをしたモンだよ。マイ・ボーイをザットなもんでエイムなんてさ――覚悟は出来てんだろーネ」 正確にはホゥリーの標的は“ビアルタ”ではない。愛弟子――あるいは養子とも呼べる存在――のラドクリフへ 危害を加えようとした不埒物に彼は憤怒していた。 子は親を見て育つと言うべきか、相手に反撃の余地も与えず、初手から全力攻撃と言う怒り方は、 ホゥリーとラドクリフは互いにそっくりだった。 「ビアルタ殿――」 慌ててビアルタの加勢に入ろうとするザムシードだったが、 その行く手は風切る音と共に水平に薙ぎ払われた一閃によって妨げられてしまった。 神速と言っても過言ではない横一文字だった。後方に跳ね飛ぶことで辛うじて直撃を避け、鼻筋に掠り傷を作る程度で済んだのだが、 一瞬でも判断が遅ければ、間違いなく頚動脈を断たれていただろう。 「――貴様は!」 「月並みなリアクションだな、ボケかましがッ!」 白刃一振りでもってザムシードの足を止め、彼と対峙したのはフツノミタマであった。 口に咥えた鉄拵えの鞘より愛用のドス、『月明星稀』を瞬時にして抜き放つ居合いの秘剣を披露した彼は、 すぐさま白刃を鞘へと納め直し、次なる攻防に備えている。彼はその身に数え切れない剣技を隠し持っているのだが、 その基点となるのが『棺菊(かんぎく)』と呼ばれる居合い抜きなのである。 一度、見せ付けられた居合い抜きの速度は、ザムシードの心身を確実に鈍化させている。 低く沈み込むと言う前傾姿勢のまま、柄に右手を掛けるその姿は、正面切って対峙した者を無慈悲に威圧するのだ。 ザムシードが救援に出遅れた為、ビアルタは更に深刻な状況に追い詰められていた。 何時までもやられてはいられないと馬上ボウガンでもって応射は試みるのだが、 底意地悪くホゥリーはシャフトのプロキシでもって矢束を飲み込み、逆にビアルタ目掛けて撃ち返していく。 ありとあらゆる攻撃を無効化し、ビアルタの全存在をも否定し、せせら笑うつもりなのだ。 「……お前たちは佐志の一員だったな。良いのか? ゼラール・カザンの一党に味方をすると言うことは、 アルフレッド・S・ライアンの尽力を台無しにすることだぞ。テムグ・テングリに戦いを挑むことは――」 「――るせぇなッ! 成り行き上、仕方なくなっちまったんだよッ! 黙ってろやッ!」 痛いところを突かれて癪に障ったフツノミタマは、ザムシードの忠告を乱暴に遮った。 テムグ・テングリ群狼領と相対すると言うことが何を意味するのか、幾ら短気なフツノミタマと雖も重々承知していた。 「それとも、お前たちはゼラール・カザンの縁者でもあるのか? 砂漠の合戦では共同戦線を張ったようだが、 たかだか一度の戦いで情が移ったのではあるまいな……」 「別に情が湧いたわけじゃねぇ。ヤツらに縁があるのはアル公とそこの脂肪分、それから、……うちのガキだ。 まあ、オレもその関係で知り合いみてーになっちまったけどよ」 そのように語るフツノミタマの脳裏には、グドゥーへ赴く船上にて友情を結んだシェインとラドクリフの姿が浮かんでいる。 ギルガメシュによって故郷を失い、親友を殺され、大事な人を誘拐され―― 心をズタズタに引き裂かれたシェインを救ったのは、あるいはラドクリフだったのかも知れない。 いや、今なら確信を以って首肯出来る。ラドクリフと出会い、触れ合い、掛け替えのない親友を得られたからこそ、 シェインは本当の意味で元気を取り戻せたのだ、と。 ラドクリフが窮地に陥っているかも知れないと考えたとき、シェインは自分の身も省みずにこの場に駆けつけた。 ジョゼフに止められても、「おめーじゃ足手まといだって。バトルはオイラが代役やってやっからよ」とジェイソンに諭されても、 そんなことはお構いなしだ。親友を救う。この一念のみに突き動かされ、未熟な剣を抜いたのである。 しかも、後先考えずに切り札のトラウムを発動する始末。戦略の面に於いては評価に値しない拙劣な行動だったが、 前後左右が分からなくなってしまうくらいラドクリフの存在がシェインの中で大きいと言う証左でもある。 「……だから、オレがやんなきゃならねーんだよ。オレがやんなきゃ、バカが手前ェの力も分からずムチャしやがるんでな」 「そんな曖昧な理由で佐志を危険に巻き込むつもりかね。ゼラール・カザンと共倒れになっても構わないと言うのか」 「ガタガタうるせーな、てめぇ。今から斬り殺される野郎がくたばった後のことなんざ気に掛けんじゃねーよ。 関係ねーだろうがッ! あの世で幸せになれますようにとか何とか、とっととイシュタルにでも祈りやがれッ!」 ザムシードの指摘は理知的であり正確だった。シェインの気持ちを汲んで戦う―― たかが一時の感情を満たす為に佐志の立場を危うくするなど、 アルフレッドに知られようものならどんな厭味で責め立てられるか、分かったものではない。 先にテムグ・テングリ群狼領へ攻撃を始めたのはホゥリーだが、形だけでも彼を食い止めようとしていたなら、 この問題児にペナルティーを科すのみで事態は収拾出来た筈である。少なくとも、心証は大きく変わっていただろう。 フツノミタマまで刀を抜いてしまった以上、最早、その階梯には戻れなかった。 それでもフツノミタマは悔やんではいない。シェインがラドクリフの為に戦おうとしたように、 フツノミタマもまたシェインの為に剣を取ったのである。ただその感情(こころ)だけで十分だった。 一方、「うちのガキ」とフツノミタマに言わしめたシェインは、ブロードソードを抜き放ったのは良いものの、 フツノミタマとホゥリーのどちらへ加勢すべきか迷いに迷っていた。 両者ともに等しく善戦している。得意の『棺菊』をザムシードに拳で弾かれたフツノミタマがやや劣勢と見えなくもないが、 それは一瞬のことであろう。彼の剣は居合い抜きの後にこそ冴え渡るのである。 「とりあえずおめーの親友んトコに行くか。高みの見物ってのは趣味じゃね――」 着地点の模索と共にシェインへ顔を向けたジェイソンは、そこに信じ難いものを見つけ、驚愕に目を見開いた。 シェインの頭上には握り拳が在った――こう表すと、彼が拳を振り上げているような印象となるが、実態は極めて不可解であった。 人間の拳を象った金属の塊が背後から忍び寄り、彼の脳天を叩き割ろうとしているのだ。 手首に当たる部分からは数本のワイヤーが張り出し、下方に向かって円弧を描いている。 「――ヤロッ!」 電光石火の動きでシェインのもとへと駆け寄ったジェイソンは、その肩に両手を突いて垂直に飛び跳ねるや否や、 今まさに彼の脳天を砕こうとしていた鉄塊へ両足を揃えての蹴りを繰り出した。 変形のドロップキックでもって鉄塊を弾き飛ばそうと言うのだ。 ジェイソンの両足が触れるか触れないかの瞬間、鉄塊はワイヤーが示す経路を超速で逆戻りし始めた。 これを放った者が奇襲の失敗を悟り、ワイヤーを繰って得物を引き寄せているのである。 シェインでもジェイソンでもない第三者がビルバンガーTにへばり付いている―― 危急の事態を察知したジェイソンは、すかさずシェインにトラウムの解除を指示した。 シェインの側とてジェイソンが言わんとする意味は察している。遅れを取って防御も回避もままならなかったのだが、 頭上を脅かされた事実だけは確(しか)と認識しているのだ。 移動可能な領域が極端に狭く、且つバランスを崩すと簡単に振り落とされてしまうロボットの機体上では、 先程の攻撃者と相対するのは如何にも困難。最悪の場合、良い的にされるだろう。 状況を打破すべくシェインが解除を念じると、ビルバンガーTは大量のヴィトゲンシュタイン粒子に還元され、光と共に爆ぜて散った。 「シェインくんっ!」 次に飛び込んできたのは、ラドクリフの声だ。一向に電話を取らず、途中で電源を切ってくれた親友の声だ。 一番聴きたかった声に鼓膜と心が震わされるや否や、シェインの全身を優しい風が包み込んだ。 ふと地上の四阿を見やれば、イングラムを解除したラドクリフが棒杖でもって別のプロキシを操作している。 風を操るシャフトと言うことは即座に分かった。本来は攻撃に用いるべきプロキシを応用し、 シェインを風に乗せて地上へ降ろそうとしているわけだ。 冒険者を志していたシェインは剣の稽古を始める以前から身体だけは鍛えており、人一倍頑丈なつもりである。 高所からの着地くらいは難なくこなせるのだが、今はラドクリフの優しさが心地良く、風のプロキシに身を委ねようと思い直した。 (ジェイソン――) 気掛かりなのは、もうひとりの親友――ジェイソンである。ビルバンガーTの具現化が解除される間際に高空へと跳ね飛び、 林立する巨木の一本へと降り立った。猛禽類が枝に止まるかの如く足の五指を木肌にめり込ませ、攻撃者の動向を警戒している。 シェインもジェイソンも、ビルバンガーTから跳躍した第三の影をはっきりと捉えていた。 いつの間にか機体に飛びつき、忍び寄り、鉄塊を振り落としてきた攻撃者の影であった。 別の樹木の枝がざわめくのをジェイソンは見極めている。これは他の木々へも伝播していったが、 一陣の風が吹き抜け、枝葉を揺らしたと言うわけではない。先程の攻撃者が木立から木立へと俊敏に飛び移っているのだ。 立て続けに起こるざわめきは、一本、二本、三本と焦らすようにジェイソンが止まる樹木へゆっくり近付いていく。 やがて一瞬だけ完全なる静止が訪れ、これを合図に庭園の空は死闘の舞台と化した。 肌の露出を極力抑える為か、砂漠色(サンドベージュ)の衣の下に襤褸切れと包帯を宛がっている。 頭部へターバン状に巻き上げた布は裾へ向かうにつれて横幅が広がっていくと言う不可思議な物で、 左半身を覆い隠すようにしてこれを前面に垂らし、腰の帯で受け止めている。 風を受けて放射状に広がるこの布は変形の外套のようでもあり、如何にも不審な風貌――これこそが攻撃者の正体であった。 変形の外套でもって隠匿された左腕は判然としないものの、右腕は完全ある生身であり、一振りの短剣を握り締めている。 刀身が鎌のように湾曲するコラムビと言う名の両刃剣だ。如何なる用途なのか、柄頭には小さな穴が穿ってある。 腰の帯には何やらたくさんの皮袋を吊るしているのだが、これもまた“仕事”の為の道具であろう。 「おめーが世界一腕の立つ仕事人ってヤツかよッ!?」 迫り来る敵影を見定めたジェイソンは、自身の止まっていた木肌を思い切り踏み付け、果敢にも兇賊へ突進していく。 途中、ピナフォアの吸着爆弾が群れを為して浮揚していたが、彼は巧みにこれをすり抜けていった。 コラムビに対抗するつもりか、片腕を鎌のように折り曲げている。すれ違いざまにラリアットを叩き込もうと言うのだ。 対する兇賊は左腕の動きが殆ど見えない。変形の外套は向かい風を受けて烈しく棚引いており、 ともすれば兇賊自身の視界が遮蔽しているようにも見える。 しかし、これこそが「世界一腕が立つ」とまで謳われた仕事人ならではの創意であったのだ。 ハンガイ・オルスへ潜入した『冥星朱砂』について、フツノミタマは改造手術を施された左の義手が最大の武器であると話していた。 この左腕の動作は、風に揺られて外套が舞い上がる度、相対する者の視界へ断片的に飛び込んでくる。 コマ送りの映像のように網膜へ焼き付けられるわけだ。 最大級の警戒を要する物である為、どうしてもそこに意識が集中してしまい、結果として他方への注意が疎かになってしまう。 ターバンから腰の帯にかけて広がる外套は、それ自体が幻惑の奇策と言うわけだ。 翻弄された者は、改造手術によって得た左腕のギミックか、あるいは右手のコラムビで生命を狩られてしまうことだろう。 世界一腕の立つ仕事人が視界にのみ頼る筈がない。五感あるいは六感まで総動員して標的の立つ位置を割り出すのである。 だが、それはジェイソンとて同じことだ。自他共に認める天才児には気配察知などお手の物。 今まさに短剣を繰り出そうとする右腕の細微な挙動と、視界の外から迫ってくる風切る音を同時に確かめるや否や、 足裏にてホウライを炸裂させ、これを推進力に換えて急降下を試みた。 ラドクリフのプロキシによって安全に地上へ降りたシェインは、すぐさまブロードソードを構え直し、ジェイソンにもとへと駆け寄っていく。 「おい、大丈夫かよ!?」 「大丈夫も何もねーだろ、まだ殴り合ってもいねーんだ。……あのヤロォ、やることがド陰険だぜ!」 ジェイソンの説明によれば、コラムビを持った右手をわざと動かして注意を引き付け、 その間に機械仕掛けの左腕から鉄の塊――つまり、シェインを狙った拳の部位を射出し、死角からの奇襲を図ったと言うのだ。 再び木立を渡り始めた攻撃者は、フツノミタマから事前に聞かされていた特徴が全て合致している。 ザムシード、ビアルタと共にツァガンノール御苑へ突入したのは、イブン・マスードと見なして間違いあるまい。 世界一腕が立つと言う触れ込みは、どうやら本物のようだ。空中殺法を得意とするルチャ・リブレの使い手が 打撃はおろか投げ技へ持っていくことも叶わずに着地せざるを得なかったのだ。 最初の狙いではラリアットで敵の首筋を捉え、そのまま抱え込んで急降下の勢いを乗せた投げ技にまで派生するつもりだった。 「シェインくん! どうしてここに!?」 四阿から飛び出し、全速力で駆け寄ってくるラドクリフへシェインは片手を上げて応じた。 ラドクリフの面は戸惑いの色が濃い。この数日、メールも通話も絶っていた為、自身の近況をシェインに対して全く伝えていなかったのだ。 仮に普段通りに連絡を取り合っていたとしても、作戦行動を漏らすわけには行かない。 ツァガンノール御苑にゼラール軍団が集結したことを、どうしてシェインが知っているのか。 突入に際してビルバンガーTを具現化させたと言うことは、この地で戦闘が行われると予め把握していた証左でもある。 シェインはイブン・マスードの襲来を危惧して、ラドクリフはゼラール軍団の集結を彼が知っていると考えて―― 両者の認識には些かすれ違いもあるのだが、それは大きな問題ではあるまい。 ラドクリフの無事を確認出来ただけでシェインには十分なのだ。 「どうしてじゃないだろ。心配かけんなよ、バカ。何日も連絡返してこないしさぁ」 「申し訳ないと思ったんだけど、ぼくもちょっと事情があって……」 「……寂しかったんだぜ」 「シェインくん……」 嫌われて黙殺されていたわけではないと確かめ、安堵の溜息を漏らしたシェインは、申し訳なさそうに俯くラドクリフの頭を撫で付けた。 イブン・マスードの追撃へ神経を尖らせている所為か、手付きは些か乱暴だったが、過度に加わる力が今のラドクリフには心地良かった。 「ホゥリーの百面相を見せてやりたかったよ。ラドが危ない目に遭ってんじゃないかって知ってアタフタしまくった」 「……お師匠さんが……」 「あいつの口からマイ・ボーイなんて言葉が飛び出すなんて思わなかったよ」 その言葉にもラドクリフは泣きそうになった。 ホゥリーは今もビアルタのみに狙いを定めて絶え間なく火球や雷撃を降り注がせている。 激情を露にして戦う姿など両帝会戦ですら見せなかったのだ。剥き出の闘争心は「マイ・ボーイ」に対する想いの表れと言えよう。 師匠手ずから渡された棒杖、『イムバウンの置文』をラドクリフは我知らず握り締めていた。 「愛されてるよな、お前」 「――うん……」 自分は何と恵まれているのだろうか――数多の人への感謝に嗚咽するラドクリフの頭を撫で付けていたシェインは、 ふと突き刺すような眼差しを背中に感じた。言わずもがな、これはジェイソンの物である。 ふたりきりの世界に没入しているシェインとラドクリフを恨めしそうに睨んでいるのだ。 紹介するとの約束だったにも関わらず、置き去りにされて不貞腐れたジェイソンにはラドクリフも小首を傾げており、 シェインに向かって「誰かな」と無言で尋ねかけた。 自分の友人同士を引き合わせるのは気恥ずかしいものであり、シェインはブロードソードを肩に担ぎつつ鼻頭を掻いている。 つい最近まで友達のいなかったジェイソンは、口先を尖らせて表情(かお)だけは厳しくしているものの、 内心は相当に浮ついており、頭上から足先に至るまでラドクリフのことを凝視していた。 「こっち来いよ、ジェイソン。ブー垂れてんなって」 「別にそんなんじゃねーよ。妙な誤解をさせるんじゃねーやい!」 「なんでそんな顔ニヤケさせてんだよ。……ええと、メールでも送ってたと思うんだけど、コイツはジェイソン・ビスケットランチっつって、 元々はスカッド・フリーダムの――」 わざと素っ気ない態度を取って恰好付けるジェイソンの腕を引っ張り、彼のことをラドクリフに紹介しようとした矢先、 ふたつの影が地上を駆け抜け、峻烈に交錯し、これを目の当たりにした三人は今が戦いの最中と言うことを想い出した。 地上ではフツノミタマとザムシードが接戦を演じ、ビアルタがホゥリーのプロキシによって追い立てられている。 必然的に中空にて馳せ違うのは、彼ら四人以外と言うことになる。片方はイブン・マスードと見て間違いあるまい。 「カンピランさんは――四阿(そこ)にいますね」 「こっちは海の民よ。地上の戦には流石に慣れたけど、空の上で斬り合うのは得意じゃないの」 「得意なヤツなんかいねーだろ。どうやって空飛ぶんだよ。クレオーにそう言う道具でも作って貰うか〜?」 「トルーポさんは足からジェット噴射しても驚きませんよ、ぼく」 「良い例えね、ラド。軽くジャンプしただけで成層圏までブッ飛びそうよね。我が夫ながらどーゆー身体の構造(つくり)してんのか、 興味に駆られて腹でもかっさばいてみたくなるわ」 「そんなカエルの解剖じゃないんですから……」 「つーか、お前らン中で俺はどーゆー生き物なんだよ。ロボット扱いしてみたり、実験用のカエル呼ばわりされたりとぉ……」 ゼラール軍団の誰かがイブン・マスードへ攻めかかったものと考え、反射的に四阿を窺うラドクリフだったが、 そこから飛び出したのは彼を除いて誰もいない。中空に吸着爆弾を展開させていたピナフォアですらイブン・マスードの狙いを量り兼ね、 一旦具現化を解除した程である。もしかすると、彼女は木立から木立へと渡る人影が『冥星朱砂』と言うことすら分かっていないのかも知れない。 その反応から察するに、イブン・マスードへ“仕事”を手配したのはテムグ・テングリ群狼領でもなさそうだ。 幾つかの条件を基にして分析するならば、世界一腕の立つ仕事人と中空にて激突しているのは新たな乱入者と言うことになる。 「アル兄ィッ!」 幾度目かの交錯の後、ふたつの影はそれぞれ西と東の巨木の頂点に止まった。 片方は予想の通りにイブン・マスード。もう片方はグラウエンヘルツ――アルフレッドだ。 先行していたニコラスたちから少しだけ遅れてツァガンノール御苑へ到着したアルフレッドは、 中空にイブン・マスードの姿を見つけ、攻防の流れを奪取するべく速攻を繰り出した次第である。 極刑の執行官を彷彿とさせる衣を纏ったままラピッドツェッペリン――相手に飛び掛りつつ連続で蹴りを見舞う技だ――を放ち、 イブン・マスードが右腕でもってこれをガードすると見るや、絶妙な時間差を付けてアンカーテールを伸長させた。 背中から張り出したアンカーテールは、サソリの毒針のように円弧を描き、イブン・マスードへと迫っていく。 目にも止まらぬ連続蹴りで正面に意識を集中させておき、視界の外より変則的な奇襲を図ると言うのは、 先程、イブン・マスード自身がジェイソンに試みた攻め手と似通っている。 ひとつだけ違う点は、必殺ならぬ必滅のシュレディンガーをも噴射したことだ。 アンカーテールとは反対の円弧を描き、更に二又に分かれた灰色のガスは、左右から同時にイブン・マスードを包み込もうとしていた。 先んじて繰り出した二重の攻撃はイブン・マスードの動きを封じる為の囮であり、本命はあくまでもシュレディンガーだった。 平素、左右の肩から三本ずつ張り出している突起物、デュミナスクローを両の拳に装着し、更なる追撃にも備えると言う念の入れようだ。 フツノミタマをして「世界一腕の立つ仕事人」とまで言わしめたイブン・マスードを強敵と認めての判断である。 機械化された左腕より鉄拳を飛ばしたイブン・マスードは、手首との連結を担う七本の極細ワイヤーを超速で振り回し、 これをアンカーテールに巻き付けた。落下の最中にも関わらず、一連の動作は瞬きの間に完成された。 中空にて対峙した両者には強烈な引力と空気抵抗が現在進行で降りかかっているのだ。 彼は負荷とも呼ばれる悪条件を物ともしなかった。 シュレディンガーと比して、やや先行しているアンカーテールを捕縛したイブン・マスードは、 左腕のみでアルフレッドを振り回し、生じた遠心力に乗せて彼を地面に叩き付けた。 (分かってはいたが、一筋縄では行かないかッ!) ワイヤー自体も強力な攻撃手段であったのだろう。アルフレッドが地面にめり込んだ瞬間、各ワイヤーにも衝撃が伝達し、 アンカークローを輪切りにしてしまった。これは本来ならば標的に括り付けて切断する為の“仕事道具”である。 遠心力の影響を受ける状態で軸との連結が断たれた場合、当然ながらマスード・ベイは再び高空へと吹き飛んでしまう。 これは左右より襲い掛かるシュレディンガーを回避する為の手段であった。 アクロバット競技の如き大回転を中空にて披露した後、イブン・マスードは地上へ降り立った。 見上げた空にはシュレディンガーの“共食い”が在る。 片手でもって身を跳ね起こしたアルフレッドは、シュレディンガーでは仕留め切れなかったと見て取るなり、 再びイブン・マスードと向かい合った。地面に叩きつけられはしたものの、生身の状態よりも遥かに肉体が強靭であり、 ロングコートを思わせる魔人の衣自体も堅牢となっている為、ダメージは皆無に等しい。 無残にも切断され、紫色の体液を撒き散らしていたアンカーテールも既に再生が完了している。 切断された残骸のひとつを右の爪先で跳ね上げ、同じ足の甲でもって撃ち出したアルフレッドは、 これを追いかけるようにして突進していく。前傾姿勢から察するに、デュミナスクローにてイブン・マスードを切り裂くつもりのようだ。 高速で向かってくる飛翔体と魔人の爪を正面に見据えたイブン・マスードは、徐に義手の掌を掲げた。 中心には数センチ程の穿孔が見受けられる。鉄拳と左腕本体は合体すると内部が一本の空洞で繋がり、 掌の穴から圧搾空気が発射される仕組みだ。穿孔とは、つまり機械的な発射口と言うわけだ。 左腕の表面には魚類のエラを思わせる機構があり、ここから空気を取り込み、内部にて圧縮させていく。 鉄拳を発射する場合に於いては、この機構から高圧の空気が排出される仕組みだ。 義手に仕込まれたギミックは、多種多様にして高性能である。 アンカークローの残骸を圧搾空気でもって吹き飛ばしたイブン・マスードは、 続けて振り下ろされたデュミナスクローを右手のコラムビでもって華麗に切り抜け、不意打ち気味のローキックをも軽やかに避けて見せた。 「今のを避けるのかよ!? しかも、ギミック抜きでぇッ!?」 この叫び声はジェイソンの物である。タイガーバズーカが誇る天才児の彼が唸る程のローキックであり、 確実にイブン・マスードの右脛を砕くものと思われた。が、結果はあえなく空振りである。 ローキックとは反対の方向より打ち込んだアンカーテールをもイブン・マスードは身を反り返らせて避けてしまった。 接近戦で効果を発揮する筈の技が彼には悉く通用しなかった。 フツノミタマによると、イブン・マスードの得意は奇襲であり、これに注目したニコラスは、 接近戦に持ち込めばそれなりに戦えるとの予想を立てていたが、そちらもあえなく空振りだったらしい。 イブン・マスードと接近戦を演じるのがアルフレッド――グラウエンヘルツでなくニコラスであったなら、 間違いなく凄惨な結末を見ることになっただろう。鉄拳を開くと、牙の如き鋭利な指先が現れる。 短剣と組み合わせることで斬撃の嵐を作り出し、接近戦に長けるアルフレッドとも互角に渡り合っていた。 刀身の湾曲を生かし、右のデュミナスクローの隙間へとコラムビを挟み込んだイブン・マスードは、 これを回転させてアルフレッドの右手首を捻り、体勢を崩しに掛かる。自身の身体は追撃の為に左方へと開いており、 変形の外套と相俟って義手の動きを完全に隠している。 姿勢のみで推察するならば、手刀を水平に突き出すように思える。しかし、奇襲に長じた仕事人が直線的な攻撃に終始する筈もない。 イブン・マスードが半身を開いたときには、ワイヤーによって操作されたニードルがアルフレッドの背後を脅かしていた。 このニードルは、ざっくばらんに説明すると、イブン・マスードの左の五指である。 ワイヤーと圧搾空気を用いた射出のギミックは、鉄拳だけでなく指の一関節単位で実行出来るようになっているのだ。 一瞬ながら義手をアルフレッドの視界より全く消したイブン・マスードは、発射された左の五指を精密に操作し、 地面を這う円弧を作るようにして標的の背後にまで回り込ませていた。 やがてアルフレッドの首にワイヤーが絡みつき、然る後に頚動脈を締め上げた。 変身に伴って肉体も大幅に強化されているものの、メアズ・レイグとの抗争にてイーライの打撃が衣を貫通したように、 如何にグラウエンヘルツと言ってもシュレディンガーで防壁でも張らない限り、絶対的な防御とは行かない。 ましてや、頚動脈は死守すべき急所のひとつである。義手より射出されたワイヤーは、 容赦なくアルフレッドの首に食い込んでいった。生身のままでこの技を受けようものなら、 それだけで即死は免れない――と言うよりも、彼は切断されないと踏んだ上で敢えてイブン・マスードに首を差し出したのだ。 猛烈に頚動脈を締め上げられているのだから、確かに苦しい。だが、それはワイヤーを繰るイブン・マスードの身のこなしが 著しく制限されることを意味している。端的に表すならば、この締め技を試みている限り、彼はアルフレッドからは離れられないわけだ。 「……温いな。ミルドレッドのジウジツに比べれば、痛くも痒くもない」 言うや、足元よりシュレディンガーを噴出させ、ワイヤーごとイブン・マスードの消滅を図った。 彼は未だにシュレディンガーの真の恐ろしさを知らない筈なのだが、このタイミングで繰り出すからには、 アルフレッドにとって相当に自信のある技と言うことは容易く推察出来る。 それさえ把握すれば防御に徹すると言うものである。 即座に首の拘束を解いて後退し、アルフレッドが気付いたときには五メートルも間合いを離していた。 シェインもラドクリフもこの疾(はや)さには度肝を抜かれた。 今はまだ視認し切れているが、集中力が途切れた瞬間、簡単に見失ってしまうだろう。 外野のほうがイブン・マスードの動きに翻弄されていた。 「マジでてめぇかよ。ウースッ!」 同じ戦場に立ったイブン・マスードへ声を掛けたのはフツノミタマである。 「ウース」とは世界一腕の立つ仕事人に付けられたニックネームだ。 大音声を張り上げたフツノミタマはザムシードと激闘を演じている。 背後に回り込んで刺突を繰り出すフツノミタマであったが、ザムシードは振り向きもせずに腰を捻って剣尖を避け、 あまつさえ彼の右肩を押さえ込むように自身の右腕を回していく。 その五指が目指す先はベルトであった。ズボンとベルトの隙間へ指を滑り込ませるや否や、 ザムシードはフツノミタマの身体を振り回し、何とか踏ん張ろうとする左足に自身の右足を絡めて引っこ抜き、 もつれ込むようにして彼を地面へと叩きつけた。 片腕のみで投げ付けられたフツノミタマは、一緒になって地面に転がるザムシードの脇腹を踏み台にして立ち上がり、 次いで間合いを離した。仕切り直しが要るものと判断したのであろう。 イブン・マスードの姿を見て取ったのは、荒くなった呼気を整える最中のことであった。 当然ながら、「旧交を温める」と言うような雰囲気ではない。そもそも、彼は全身に浅からぬ手傷を負っている。 流血が入り込んでしまったのか、右眼はきつく閉ざされている。頭部からの出血が右眼を通り、頬へと抜けていく為、 傍目には血の涙を流しているようにも見えた。 対するザムシードも全身をズタズタに斬り裂かれており、両者は筆舌に尽くし難い時間を共有したのだと物語っていた。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |