20.バーナムの森(後編) フツノミタマとザムシードの戦いは、まさしく修羅の様相――殺し合いの境地であった。 居合い抜きを基点とする剣技に長けたフツノミタマに対し、ナックルダスターで両手を包むザムシードは、 その装いの通りに拳闘を得意としている。接近戦の巧者同士が真っ向激突する恰好だ。 パトリオット猟班が襲来した折、ザムシードはミルドレッドへ攻め入ることを厭った。 傍目には臆病風に吹かれたと見えなくもないのだが、戦いと言うものに相性は付き物であり、 対峙に当たっては自身と相手の技術を見極め、向き不向きを判断することも欠かせないのだ。 特に合戦場では怜悧冷徹な眼力を失ったほうが敗れるもの。皮肉にも将としての器量がジウジツに対する敬遠へ繋がったのだ。 ホゥリーがビアルタを標的に選んだ為、消去法の如く決定された対戦ではあるものの、 今やザムシードは全力を出し尽くせる相手としてフツノミタマを認めている。 獣牙の如き拳を以ってして猛襲するザムシードは、傍観者と化したゼラール軍団を瞠目させる程に凄まじい。 攻守の技術が極めて高いレベルで完成されており、一切無駄のない身のこなしやスピードはフツノミタマにも拮抗している。 ザムシードの恐ろしさは、独特としか言いようのない戦法(スタイル)に在る。 腕を垂らしつつ舞踊でもするかのように軽やかにステップを踏み、相手を幻惑しようとするのだ。 拳闘と一口に言っても、構えの様式からして様々なスタイルがある。接近戦での爆発的なラッシュに向いた攻撃的なもの、 防御を固めて長期戦に備えるもの、フットワークを駆使してカウンターを狙うもの―― 種々様々なスタイルの中から最も戦略に適した構えを選ぶものだが、彼の拳闘は極めて独創性が強い。 既存するスタイルの中に当てはまるものが見当たらないのだ。 第一に空間の掌握が巧みである。相手に接近したかと思えば超速で跳び退るなど自身が得意とする間合いを相手には悟らせない。 これが舞踊の如きステップの真髄であった。遠く離れた位置から一瞬にして敵の懐まで腕を伸ばすような技術にも長けている。 ザムシードに苦手な間合いなどはない。あらゆる距離、如何なる状況でも最強の拳を放てるよう訓練を積んでいるのだ。 更に付け加えるならば、剛腕に物を言わせる“インファイト”や打撃と離脱を繰り返す“アウトボクシング”など、 地上に存在する全ての拳闘を巧み使い分けている。 変則スタイルに翻弄され続けるフツノミタマだったが、ザムシードの拳を鼻先で見て取り、肌で感じ、痛みとして肉を打たれ、 その度に限界を振り切るような高揚感に震えていた。アルフレッドの死闘にも匹敵する歓喜が血肉を沸騰させていた。 フツノミタマにとっては久方ぶりの実戦である。子どもたちの面倒を最優先させたこともあって両帝会戦では刃を振るえなかったのだ。 居合い抜きを放ち、縦一文字に刃を振り落とす『撃斬』へと派生させ、これをザムシードに破られ―― 攻防が激しさを増すにつれて己が獣と化していくかのような錯覚を覚えている。 (実戦離れでちと感覚が鈍っていやがる。……ガキの教育にゃ悪ィが、こりゃ抑えが効かねぇな――) 頭を下げつつ深く懐へ入り込むことによってドスを振るう右腕を押し止めたザムシードは、 そのまま彼の脇腹に向かって横殴りの右拳打を突き入れた。一般的にボディーブローと呼称される打撃法だ。 生半可な者であれば、これだけで沈んだことだろうが、アルフレッドのワンインチクラックにも耐え切ったフツノミタマにとって、 ザムシードのボディーブローは一撃必殺には程遠い。 右腕を下方へ振り落とした際、肘を肩で受け止められていたフツノミタマは、すかさずドスを逆手に持ち替え、 背中からザムシードの心臓を抉ろうと試みた。貫通しようものなら自身にまで剣先が達する可能性もある筈だが、 今の彼にはそれすら瑣末な問題である。 一瞬にして危機を察知したザムシードは、胴に巻き付けていた左腕を外すなり右腕をだらりと垂らし、そのまま下方に沈み込んだ。 これはバネを得る為の屈伸である。下半身の力を総動員し、相当に無理な姿勢から後方へと跳ねて逆手の刺突を避けた。 変則的な緊急離脱によって本来の標的を失い、危うく自分の胸板のみを刺してしまうところだったフツノミタマは、 体勢の立て直しもままならずに反撃の拳を喰らい、堪え切れずにたじろいだ。 上体を引き起こすのと同時に垂らしていた右腕を鞭のようにしならせ、顎を一撃する変則技である。 この一撃でフツノミタマが体勢を崩したものと判断したザムシードは、右に半身を開きつつ、再び彼の懐へと踏み込んでいった。 ザムシードの動きは早い――が、フツノミタマは更に迅(はや)い。戦いが進むにつれて加速していく。 最初の内は振り回されてばかりだった変則スタイルにも慣れ始めたようだ。果敢に間合いを詰め、拳闘の拍子を崩しに掛かっている。 (血の味が美味ェな、オイ――) 顎を強打されながらもドスを順手に持ち替えていたフツノミタマは、次いで刀身を水平に構え、 踏み込んでくるザムシードへ迎撃の刺突を繰り出した。所謂、カウンター攻撃である。 刃は内側に向けられていた。刺突が外れても横薙ぎに転じて標的を追尾すると言う二段構えの工夫だ。 平刺突(ひらづき)にもザムシードは決して怯まず、更に一歩、大きく深く踏み込んでいく。 先に仕掛けられたカウンターに対して、自分からもカウンターを上乗せするつもりなのだ。 やがて互いの腕が交差する。ドスの剣尖は右から左へ突き向けるようにザムシードの首を掠めていた。 ザムシードの拳もドスと同じ軌跡を辿っている。相手に比して腕はやや上がり気味か。 必然的に彼の拳はフツノミタマの右眼を狙うように振り抜かれた。 「面白ェ真似してくれるじゃねーかよ。やっぱり戦いってのはこうでなくちゃいけねぇよな。背筋が寒くなるくれェのよォ!」 「面白い? どうかしているな、貴様。オツムが足りていないのは分かったが……」 「ほっとけやッ! 剣ってのはアタマで振るモンじゃねぇッ! あーでもねーこーでもねーって考えてられっかよッ! 何も考えなくてもカラダが反応してブッ込むッ! こうでなくちゃ実戦で使える技たぁ言えねぇんだよッ!!」 「否定はせんがな」 カウンター同士の交差が完了したとき、ザムシードの右親指はどす黒い血で塗れていた。 直撃の瞬間に握り拳から親指のみ開き、一種の突起と見立てて右眼を抉っていたのだ。 フツノミタマが類稀なる反射神経と動体視力、加えて身体能力の持ち主でなければ、右眼は永久に光を失っていたであろう。 繰り出される右腕の動きに違和感を覚えた彼は、全神経を集中させてザムシードの奇策を見極め、 頭を左方へ振り動かすことで最悪の事態を免れた。 親指は拳頭より前方に張り出しており、回避に際して僅かながら白目に傷を負ってしまったが、 フツノミタマ当人は気にも留めずに反撃へ移っている。後方へ退りながら身を捻り、白刃を内側へと薙ぎ払った。 再び首筋を脅かされたザムシードは、二度目の痛手が致命傷になり兼ねないと判断し、 刃の動きに合わせて半円を描くように身を捻った。これによって横薙ぎの剣光から逃れたのだ。 平刺突から横薙ぎへの変化を以ってしてもザムシードを仕留められなかったフツノミタマは、 彼が踏み止まっていると見て取るなり踵を軸にして急速旋回し、次なる剣技へと移行した。 急速旋回によって生じた遠心力に乗って幾度となく白刃を繰り出し続ける回転斬り――『殲風(せんぷう)』である。 竜巻の如く高速で前方へと押し出し、標的を追い立てるのが殲風の術理であったが、 ザムシードは轟然と吹き荒ぶ太刀風をフットワークのみで避け、余裕を以って反撃の好機を窺い続けている。 このままでは回転斬りの呼吸を読み取られると判断したフツノミタマは、攻撃の途中から『?江(ぼっこう)』と言う別の技に転じた。 最後の横薙ぎから変化した?江も連続して白刃を繰り出すものではあるが、こちらは乱れ撃ちとでも言うような性質である。 身体を縦横無尽に揺り動かしつつ斬りかかっていく為、剣の軌道が一瞬たりとも定まらず、相手に呼吸を悟られにくかった。 つまり、防御も回避も難しいと言うことだ。傍目には無茶苦茶に刃物を振り回しているようにも見えるが、相対する者にとっては魔性の術―― 袈裟斬りかと思えば胴薙ぎ、脳天唐竹割りと思いきや急激に沈み込んで足首を払おうとするなど、斬撃が常に死角からやって来るのだ。 生半可な者は為す術もなく膾斬りにされてしまうだろう。 「見切ってくれと言っているようなものだな」 だが、ザムシードに対して乱れ撃ちを試みるのは失敗だった。 風切る音を奏でる程に身体を振り回せば、それだけ余計な動きが増えてしまう。これが?江の弱点であった。 武技に熟達した者であれば、斬撃と斬撃の間に生じる隙を十分に見極め、割り込んでいけるわけだ。 己の肌と肉とが裂かれるのも構わず、両腕を広げながら間合いを詰めに掛かったザムシードは、 腰のバネを最大限に発揮して左右の往復運動を繰り返し、これと連動させて両の拳を怒涛の如く突き込み始めた。 乱れ撃ちに対し、同質の技を以って正面から挑もうと言うのだ。 左右の拳は、フツノミタマ自慢のドスと、これを握る手に集中している。他の部位には目もくれず、斬撃の要のみを精密に殴打していった。 一方のフツノミタマは、斬撃の命中精度が下落し続けていた。白目の負傷によって一時的に右の視界が閉ざされ、 これによって間合いを掴み辛くなってしまったのだ。五感の残りを総動員して視力の減退を補ってはいるものの、 ザムシードが相手では大した効果は上げられない。 この筋運びを見越した上で、ザムシードは右眼を潰しに掛かったのである。技が完全に入ったとは言い難いが、 当初の目論見は達せられたと言うわけだ。 ついにザムシードの拳がフツノミタマの右手の甲に亀裂を走らせ、月明星稀も弾き飛ばされてしまった。 すかさず右手を伸ばし、得物を取り落とすような醜態は晒さなかったものの、殲風、?江と立て続けに破られたのは相当な痛手である。 下方より突き上げられた左拳でもって顎を強打されてしまったが、こめかみに異常を感じる程の激痛よりも何よりも、 得意技を見決められたほうがダメージは遥かに大きい。 痛みは気力で切り抜けられる。しかし、己の手の内が相手に読まれると言う事態は、戦いに於いては決定的な不利に他ならない。 「――ンの……クソがァッ!!」 腹癒せ混じりにザムシードの脇腹へ前蹴りを喰らわせ、強引に間合いを離すフツノミタマだったが、 その瞬間に自身の腹も鈍痛に苛まれ、思わず呻き声を漏らしてしまった。先程のボディーブローが今になって身体を蝕み始めたのだ。 一方のザムシードも反撃へ転じることが出来ないでいた。荒い呼気を整えつつ、フツノミタマを睨み据えるばかりである。 彼もビアルタも、馬軍の象徴たるブラックレザーの甲冑を身に纏っている。 機動力を重視した防具であり、馬を駆っての合戦であればこれに勝る装備もない。 さりながら、フツノミタマの蹴りを跳ね返すには十分な強度とは言い難く、耳障りな破断音が鳴り響いたかと思えば、 ザムシードのフットワークは完全に停止していた。 改めて詳らかにするまでもなく、彼の肋骨はこの一蹴りでもって数本ばかりへし折られており、 それが為に次なる挙動が阻害されてしまったのだ。 あるいは、この一撃が決まっていなければ、フツノミタマは一方的に撲殺されていたかも知れない。 骨を折る攻撃(こと)は、物理的且つ強制的に相手の動きを封殺し得る為、実戦に於いては極めて有効であった。 右手の甲に亀裂が入る程度で済んだフツノミタマと比して、肋骨をやられたザムシードは不利と言うわけである。 身を捻ると言った負担の掛かる動作をしようものなら折れた骨が内臓に突き刺さり、そのまま即死する危険性も高い。 それにも関わらず、ザムシードは再びフツノミタマへと向かっていった。身を苛む激痛は呼吸のみで抑え込むつもりだ。 流石にスピードは下落傾向にあるものの、フットワークを以ってして密着状態での強打と一撃離脱を使い分け、 激しい格闘戦を演じ続けている。折れた骨が肺や心臓に刺さることも厭わない猛襲と言えよう。 これに正面から応じるフツノミタマは、肉食獣の如き粗暴な笑みを絶やそうとしない。 稲妻の如きストレートで眉間を貫かれようと、速射砲の如きジャブの連打で喉笛を打ち抜かれようと、 横殴りのフックで鼻骨を壊され、血みどろになろうとも、口の両端は大きく吊り上り、左の眼は歓喜によって爛々と輝いている。 「何がそんなに愉快なのやら。……これが終わった後、貴様らには相応の処罰が待っているのだぞ。それを――」 「細けェんだよ、いちいちッ! てめぇはゾクゾクしてこねーかぁ? してんだろォッ!? これが生きてるって感じだぜェッ!」 「……戦闘狂か。ライアンめ、ろくでもない者を飼っているものだ」 「バカはすぐそうやって権力だの何だのにくっ付けたがるな。くたばれ、このカス! アル公も大概だが、てめぇらはもっと薄汚ェッ! オレは誰にも繋がれねぇよッ! オレたちゃ、そう言うチームじゃねぇんだッ!」 「戦闘狂は否定しないのだな」 「するか。ブチギレ上等だぜ――っつーか、狂ってるってのは、てめーも一緒だろが」 「心外だな。私は至って正常だよ」 「誤魔化してんじゃねーぞ、オラッ! フツーじゃねぇだろうが、その捨て身はよォッ! だから、オレもこんなに熱くなってんだッ! 分かったら、つべこべ言わずに殺り合おうじゃねぇかッ! えぇッ!?」 「……フン……」 このときを境にフツノミタマとザムシードの戦いは、完全なる殺し合いの世界に突入していった。 縦一文字に振り落とす撃斬を後ろに飛び退って避けたザムシードに対し、フツノミタマは急激に白刃の軌道を変化させ、 標的を追いかけていく。ドスを振り下ろす体勢から上体を引き起こし、 山肌を駆け上る霧や雲の如くザムシードの喉笛に急角度の刺突を見舞おうと言うのだ。 刀身は水平である。例によって平刺突であった。避けるにしても移る場所を誤れば、忽ち横薙ぎにて首を刎ねられるだろう。 これに対してザムシードは更に後方へと跳ねて間合いを取った。ドスの剣先が届かない位置まで逃れよう――と言うことではない。 着地と同時に全身のバネを発揮して前方に飛び、自身が持ち得る最速の拳を繰り出すつもりだ。 一瞬の後退は次なる攻撃への布石だった。速度と威力が頂点に達する最善の距離を測ったと言うわけである。 気性の荒さを見る限り、フツノミタマが突進を繰り返すのは明らか。それをカウンターのストレートにて撥ね飛ばす。 ザムシードの講じる反撃策に抜かりはない――その筈であった。 ところが、フツノミタマは急角度からの平刺突が届かないと見て取るや、その場に踏み止まり、ドスを更に納め直した。 彼も素人ではない。ザムシードがカウンターを狙ったことは既に読み切っている。 それが飛び込みを伴った打撃と言うことも互いの間合いから察知していた。 ザムシードが持つ最速のストレートを自身最速の居合い抜きで斬り払うつもりなのだろう。 これはザムシードとしても望むところであった。己の突進がフツノミタマを上回るか、それとも居合い抜きの前に敗れ去るか、 明白に黒白を付けられるのだ。 果たして、ザムシードは前方へ飛び上がりつつ鋭い右ストレートを繰り出し、フツノミタマも居合い抜きでもってこれを迎撃した。 しかし、白刃が閃くことはなかった。鞘の内側にて刃を走らせ、生じた加速に乗って矢の如く放たれたのは柄頭であった。 鉄の礫と化した柄頭によってザムシードの右拳を打ち据えたのである。 変形の居合い抜きをフツノミタマは『奉靭(ほうじん)』と呼んでいた。 「小賢しい……ッ!」 「タラタラ喋ってんなッ! お次は『蛮廓(ばんがく)』だ、オラァッ!」 意表を突かれたザムシードは右拳を弾き飛ばされ、刃を翻したフツノミタマは彼に向かって突撃を仕掛けていく。 一陣の風と化し、駆け抜けながら標的を斬り裂く音速の秘剣、『蛮廓(ばんがく)』であった。 さしものザムシードも体勢を崩したままでは音速の刃を避けることは難しい。月明星稀の刃はブラックレザーを切断し、 彼のどてっ腹を横に裂いた。内臓には達しなかったようだが、噴出した多量の鮮血が深手であることを物語っている。 それでもザムシードは止まらない。馳せ違おうとするフツノミタマの背を弾かれていた右手でもって追い掛け、 彼が左腕を吊るしている包帯の端を掴み上げた。 本来、蛮廓とは斬り付けるのと同時に高速で間合いを離す為に使われる。離脱の最中に力ずくで引っ張られたフツノミタマは、 無様にもその場で転倒してしまい、「小賢しいのはどっちだ、テメーッ!?」とがなり声を上げた。 当然、これを看過するザムシードではない。包帯を手繰り寄せてフツノミタマを引き摺り起こすと、 その後頭部目掛けて拳打を突き込んでいく。しかしながら、これは延髄を揺さぶって倒すと言うような生易しいものではない。 頭蓋骨を粉砕して確実に生命を絶つつもりだった。 強烈な殺気を感じ取って反射的に身を翻し、この一撃を避けたフツノミタマは、錐揉みしつつ包帯を斬り裂いて自由を取り戻し、 ザムシードを翻弄するように真横へと跳ね飛んだ。その間際に愛用の月明星稀は彼の手元を離れ、 正面に立つ標的の眉間へと投擲されていた。 戦闘の最中に得物を手放すなど有り得ない話であった。ましてや、フツノミタマは剣士である。 それは己の魂を投げ捨てるのに等しい所業なのだ。さしものザムシードもこの行為には驚かされた。 馬軍随一の剣士であるデュガリが目の当たりにすれば、顔を真っ赤にして怒り出しそうな光景だ。 「……どうやらお前も陽の下を歩ける人間ではないようだな……」 己の魂を擲ってでも標的を抹殺する稼業に就いていたのだろう――フツノミタマが常道を行く剣士でないことを認めたザムシードは、 剣先のみを見据え、僅かに頭を振り動かして飛来するドスを避けた。ナックルダスターで弾くことも考えたが、 伸ばした腕を掴まれ、そこから追撃を仕掛けられるかも知れない。殺しの方法は何百通りと熟知している筈なのだ。 守備は最小限の動きに留め、万全の体勢を維持しつつ次なる猛襲に備えることこそ上策。 そう判断したザムシードの視界からフツノミタマの姿がいきなり掻き消えた。残像すら見せずに霧散してしまった。 「冷めてんじゃねぇよ、一瞬でブッ殺しちまうぞ?」 次にフツノミタマの気配が出現したのは、思わず呻くザムシードの背後――即ち、ドスが放たれた対角線上である。 真横に跳ねたかと思いきや、続けてザムシードの背後にまで回り込んだフツノミタマは、 的を外した月明星稀を逆手にキャッチし、そのまま獣の牙の如く振り下ろした。 地面に三角形を描くような無駄のない挙動とドスの投擲は、全てこの不意打ちの為の布石だったわけだ。 「舐めて貰っては困る……な」 最早、フツノミタマのことを剣士と見ていないザムシードに抜かりはなかった。背後を脅かす奇襲も想定に入っている。 風切る音にて垂直落下の位置を読み取り、円を描くようにして上体を振り回して剣先から逃れ、 反撃とばかりに自身の左腕を彼の右腕に絡めた。これに連動して右手もフツノミタマへと向かっていく。 五指が狙うのは、左腕を吊るした包帯である。 程なく包帯を掴むことに成功したザムシードは、左の爪先でもってフツノミタマの右足首を裏側から蹴りつけ、体勢を崩しに掛かる。 固定した右腕を軸に据え、包帯でもって彼の身体を浮かせ、そのまま自身の肩を転がすようにして前方に投げ飛ばした―― 否、地面に叩き付けた。 拳闘から投げ技への急激な変化にはフツノミタマも虚を衝かれ、為す術もなく落下させられてしまった。 投げを打っている最中はザムシードも無防備となる為、ドスを突き刺す反撃(こと)も不可能ではない。 格好のチャンスをフツノミタマが看過する筈もないのだが、彼は反撃を試みることはおろか、 受身すら取れなかった。それ程までにザムシードの投げは鋭く、何よりも迅(はや)い。 骨身が軋むような衝撃を喰らうフツノミタマであるが、それでも彼の面から笑みが失せることはない。 ダメージこそ受けたものの、この程度で動けなくなるほど軟(ヤワ)ではないのだ。 裏の世界の戦いはスポーツとは違う。技巧的な投げはルール下の試合であれば高得点となり、様々に評価も得られたであろう。 しかし、殺し合いに於いては正反対だ。単にダメージを与えるだけの技など何の意味も為さない。 裏の世界の殺し合いと言うものを教えてやる――フツノミタマは落下と同時にザムシードの右足甲へとドスを突き立てた。 受身を取れない代わりに強烈な反撃を見舞ったのである。 「首の骨を折るか、頭の骨をブッ壊すか! それくれェの根性で来いや、オラァッ!」 身を跳ね起こすや否や、フツノミタマはドスの柄頭を右足で踏みつけた。 自然、ドスは鉄杭の如く地面にめり込み、ザムシードの動きを完全に封じた。剣先は甲を貫き、足裏にまで達しているのだ。 ザムシード相手に勝ち誇るフツノミタマではあるものの、彼も彼で攻め手を欠いていた。 激甚なダメージを与えたとは雖も、得物が手元を離れた以上は完全な優勢ではあるまい。 口に咥えていた鉄拵えの鞘を右手に握り、ドスの代用にするつもりのようだが、ザムシードを仕留めるには如何にも心許ない。 そのとき、ホゥリーの外したファランクスが間近で炸裂し、灼熱色の輝きがフツノミタマの横顔を照らした。 「戦いに身を置く者の礼節も欠いているようだな。無頼もここに極まったな」 「陽の下を歩ける人間じゃねぇっつってたな、さっき。その通りだぜ。オレは薄暗い世界で生きてきたんだ。 礼節もクソもねぇ、生き残ったモン勝ちの世界でよ」 「成る程、甘ったれた手加減など抜きで確実に殺してくれと言っているのだな」 「逆だろ。この期に及んで礼節とかグダグダほざくてめぇに思い知らせてやろうってんだよッ!」 フツノミタマは白い歯を見せて破顔している。整然と並んだ歯列に灼熱色の輝きが反射している。 そこから導き出される答えはひとつであり、ザムシードは首筋に冷たい戦慄が走るのを感じた。 それでもザムシードは臆病風に吹かれることがなかった。無遠慮に浴びせられる殺意にも機械の如く冷静に応じていく。 フツノミタマは鉄の棒に見立てた鞘でもって彼を殴打し、強引に隙を作り出して喉笛へ喰らい付こうとしているのだが、 精確なカウンターに阻まれては如何ともし難い。 ここに至ってザムシードの拳は再び加速していた。ドスが突き刺さったままで激しい動きなどすれば、傷口は抉れ、拡がっていく。 激痛に苛まれ、のた打ち回ってもおかしくない状態にも関わらず、拳打の鋭さは些かも鈍らなかった。 暫時、密着状態での乱打戦が続く。 こうなると本来の得物を持たざるフツノミタマのほうが不利である。咬み付こうと踏み込む度に眉間へカウンターを喰らい、 今や顔面は流血に濡れそぼっていた。そのような有様でも笑い続けるのだから、不気味と言うよりほかない。 「ツァガンノールで流血沙汰なんてテムグ・テングリの風上にも置けないわね。これが知れたら只では済まないわよ。 ……おしまいね、あんたたちも」 身の毛がよだつような乱打戦を四阿(あずまや)から眺めていたピナフォアは、ザムシードに向かってそのように野次を飛ばした。 あるいは自嘲を含めているのかも知れない。 テムグ・テングリ群狼領にとって侵し難い聖地へ軍靴で踏み入り、よりにもよって血で穢してしまったのである。 ザムシードとビアルタは先代を冒涜したに等しく、これは氏族全てに対する背信に他ならなかった。 尤も、不測の乱入者がいなければ、今頃はピナフォア自身の手で“かつての同族”を葬っていただろう。 ザムシードにはフツノミタマが、ビアルタにはホゥリーがそれぞれ立ち向かった為、一先ずテムグ・テングリ同士による相撃は避けられたが、 いずれにせよ何らかの形でツァガンノール御苑が血を吸う事態には発展した筈である。 ザムシードはかつての同族から浴びせられた野次へ何も言い返さなかった。 裏切り者の批難になど耳を貸すような価値もないと思っているのだろう。 ましてや、悠長に会話をしていられるような余裕など彼は持ち合わせていなかった。 「――ぬぅんッ!」 短く、鋭く吼え声を上げたとき、ザムシードの右足はついに自由を取り戻した――と言っても、その経緯は極めて凄惨であった。 甲を貫通する白刃など気にも留めず激しく動き回る間に肉が抉れ、骨をも断たれ、親指の先に向かって縦一文字に裂けてしまったのだ。 軍靴には一直線の裂け目が生まれ、そこから大量の血が噴出している。 ピナフォアの弁に拠れば、こうした出血もまた先代への冒涜に当たるのであろう。 フツノミタマはザムシードの右足が裂けたと見るなり鉄拵えの鞘を再び口に咥えた。 喉笛を咬み千切ることを諦め、正攻法で相対しようと言うのだ。 すかさず血塗れの月明星稀を抜き取ろうとするものの、ザムシードを拘束する為、地面に深く突き刺したのが仇となった。 今や彼の愛刀は大地に根を張る切り株と化しており、力任せに引っこ抜くしかない。 当然ながらザムシードはこれを許さない。今が勝負の分かれ目とばかりにフツノミタマを猛襲していく。 自然と月明星稀が中心点に据えられ、この周辺にて乱打戦が繰り広げられる恰好となった。 この期に及んで鞘を右の掌中へ戻すわけにも行かず、そうなると完全にフツノミタマの不利である。 付け焼刃の拳打がザムシードに通用する筈もなく、数十秒前とは攻守が逆転。 棒立ちとまでは行かないものの、反撃の糸口を見出せないまま防戦一方だ。 怒涛の拳を防ぎつつもフツノミタマの意識は、眼下の月明星稀に向かっている。やはり、起死回生には相棒が欠かせなかった。 ザムシードの側が最も警戒するのもドスの行方である。彼の注意はフツノミタマ本人と月明星稀に分散していた。 月明星稀がフツノミタマの掌中へ戻る前に勝負を決するしかない―― 遮二無二突進したザムシードは、左肩でフツノミタマの鼻頭を強打すると、続けて右拳を突き出した。 狙いはどてっ腹だが、即座には直撃させず、拳頭を一インチばかり離している。 その状態から放たれた凄まじき一撃にフツノミタマは堪え切れずに悶絶した。 「てめぇ、そいつはアル公の……ッ!」 『ワンインチクラック』――ザムシードがフツノミタマの腹を抉ったのは、アルフレッドが得意とする密着状態での打撃である。 「一度、見れば自分でも再現出来る。要は力を生み出す原理だ」 「そーゆーコトを言ってんじゃねぇッ!」 嘗てアルフレッドと立ち合った際に受けた物と全く同じ衝撃がフツノミタマを貫いた。 威力そのものは本家(オリジナル)のほうが高いのだが、彼にとっては直接的なダメージよりも心理的な驚愕と圧迫のほうが深刻である。 ミルドレッドとの対戦でもアルフレッドはワンインチクラックを用いていた。これを観察して術理を読み取り、自分なりに再現したと言うのだ。 底知れぬ技量と武の才覚を見せ付けるようなザムシードの放言に、フツノミタマは低く呻いた。 その呻き声を引き摺りながらフツノミタマは膝から崩れ落ちていく。これに呼応するかのようにザムシードもまた腰を深く落とした。 半身を開いて相手に向き合い、次いで左腕を後方に引いた。腹の前に添えられた右腕は振り子の原理に則って動き、 トドメの一撃を放たんとする左腕の加速を促進することだろう。 ワンインチクラックの模倣を叩き込まれたフツノミタマは、今まさに膝から崩れ落ちようとしている。 右腕は力なく垂れ下がり、その指先は月明星稀の柄に触れていた――否、逆手にて柄を握り締めていた。 「やはり、そう来たか――」 フツノミタマの挙動を見て取ったザムシードは、竜巻の如く己の上体を回転させる。 腰のバネを最大限まで引き出し、左拳でもって彼の顎を突き上げるつもりだ――が、その寸前に右手が奇怪な動きを見せた。 上体の加速を助ける仕掛けである筈の右手にまで冷たい殺意が漲っているのだ。 見れば、腰から下げた曲刀の柄頭を右の二指――人差し指とである――でもって挟み込んでいるではないか。 上体の動きと連動して素早く抜刀し、左拳に先駆けてフツノミタマに白刃を見舞うつもりであった。 あくまでも右腕の役割は左拳の加速であり、これを妨げるような大振りの一閃ではない。 手首のスナップを利かせつつも動きは極端にコンパクト。斬る、断つと言うよりは引き裂くと表すべきであろう。 それでも頚動脈に致命傷を与えることは出来る。無事なままの左目を潰すことも不可能ではなかった。 ワンインチクラックの模倣に続いて意表を突く攻撃ではあるものの、フツノミタマにとっては又とない好機であった。 薙ぎ払いのように猛烈な膂力は作用していない。つまり、防御する側も最小限の力のみで対処出来ると言うことである。 頭を僅かに振り動かし、口に咥えた鉄拵えの鞘でもって不意打ちの一閃を弾いたフツノミタマは、 これを追い掛けるようにして襲ってきた縦回転の左拳を自らの額で迎え撃つ。 試み自体は果敢であったが、崩れかけの体勢から頭突きを繰り出したところでザムシードの拳打を受け止められる筈もなく、 轟然と振り抜かれた一撃の前に敢えなく吹き飛ばされてしまった。 己の頚椎が立てる軋み音(ね)を耳にしながらもフツノミタマの闘争心は萎まない。それどころか、ここに至って再び膨れ上がっていた。 彼は右の五指にて月明星稀の柄を掴み、己の身を高く跳ね上げる程の反動すら利用して地面から白刃を引き抜くと、 そのままザムシードの左腕を切断しに掛かった。 逆手に構えたドスが弧月の如く閃き、ザムシードの腋下へと滑り込んでいく。咄嗟に後方へ跳ねたことで左腕の喪失は免れたものの、 代わりに肩口へ大きな裂傷と負ってしまった。それも、骨まで達する程の深手である。この戦いの間、左腕が満足に動くことはなかろう。 対するフツノミタマは中空にて身を翻し、着地に備えている。この格好の的に狙いを定めたザムシードは、 右の二指にて掴んでいた曲刀を躊躇なく投擲した。手首のスナップを利かせ、矢の如く発したのである。 果たして、曲刀はフツノミタマのどてっ腹を貫く――かに思われた。 しかし、腹筋を四、五センチばかり抉ったところで推進力が全く損なわれ、曲刀は乾いた音を立てて地面に落ちた。 さしものザムシードもこれには眉を顰めた。折れた肋骨によって動きが阻害されたことは否めないが、 それでも生身の腹部を貫通するだけの速度は乗っていた筈なのだ。 戦闘開始以来、初めて当惑の色を滲ませるザムシードに対し、フツノミタマは肉食獣の如き笑みを浮かべて見せた。 腹部に赤黒い染みは認められるが、さりとて致命傷には程遠い。数分と経たない内に出血は収まることだろう。 「殺し合いに慣れるってのはな、相手を殺る為の技を磨くってコトじゃねぇんだよ。 どうしたら殺されねぇか、そいつを四六時中考えるってこった。……尤も、こいつは闇の世界の殺し合いだけどな」 「……何?」 「殺されねぇ工夫を考え抜いて、出し尽くしてよォ――その裏を掻いて標的(マト)を消すんだぜ、オレたち、仕事人ってのはよォ」 そう語りながらドスを鞘に納めたフツノミタマは、何を思ったのか、ザムシードより投げ付けられた曲刀を拾い上げ、 次いで右手に馴染むかどうかを確かめていく。 「毒ガス撒かれても影響がなくなるまで息を止めていられるし、毒を飲まされたって平気へっちゃらなんだよ。 薬ナシで解毒だってしてみせらぁ。そう言う稽古を血の小便出しながら潜り抜けるってワケだ。 言わなくても分かると思うが、軽く刃物で刺されたくらいじゃ死なねぇんだわ、これが」 「……筋肉でも収縮させたか」 「さすがは肉体派、一発で見破ったと褒めてやらぁ。てめぇの場合、あの体勢から『瀑蝕(ばくしょく)』を避けたのが一番スゲェんだけどな。 それも込みで良くやったっつっといてやるよ」 『瀑蝕(ばくしょく)』とは、顎を撥ね上げられながらも逆手で繰り出した一閃のことであろう。 ドスを引き抜いて斬り上げに移行するまでの一連の流れとは、つまり、偶発的あるいは突発的な事態ではなく、 全てフツノミタマの機転だったと言うわけだ。左拳に頭突きを叩き込んで返り討ちに遭ったのは、 愛刀を手元に戻し、『瀑蝕』と言う変則的な反撃を放つ為の布石である。 「――折角、ノッてきたんだぜ。もっともっと面白ェコトをしようじゃねぇか、なぁッ!?」 言うや、右手に握っていた曲刀を本来の持ち主に向かって投擲したフツノミタマは、これを追い掛けるようにして鋭く踏み込んでいく。 刃先がザムシードを捉えるか否かの瞬間で自らのドスを抜き放ち、柄頭でもって曲刀の峰を打ち据えた。 『奉靭』によって曲刀を突き押し、無理矢理に推進力を引き上げようと言うのだ。 急激に変速し、弾丸の如く飛来する曲刀を紙一重で避けたザムシードは、追撃の殲風に正面から応じ、 両者は再び激烈な乱打戦に縺れ込んだ。今や、左腕は殆ど動かなくなっている。それでも彼は臆することなく右拳を揮い続けた。 「面白くなどないが、……どうやら貴様はここで始末しておかねばならん人種のようだ」 「ここで殺さなきゃ、いずれテムグ・テングリに仇なす――ってかぁ!? もちっと気の利いたコトを言えや、オラァッ! 萎えちまうんだよッ!!」 獣の如き咆哮を上げて激闘を演じるふたりを眺めつつカットラスの分銅を弄んでいたカンピランは、 ピナフォア相手に「すっかり置いてけぼりだよ、アタシら」と溜め息を披露して見せた。 「あいつら、格闘大会か何かと勘違いしてない? ココは特設ステージってわけ? 勇んで待ち伏せしたっつーのに間抜けの極みだよ」 「格闘大会、ね。……ザムシードが聴いたら何て言うかしら」 朋輩の愚痴にピナフォアは苦笑いを返した。格闘大会とは皮肉な例えがあったものである。 刃物を用いて参戦したフツノミタマは勿論だが、ザムシードがしていることも純粋な意味での“格闘”ではない。 そもそも、彼はルールに基づいて拳闘の試合を行ったことなど過去に一度もない。 鍛え上げた肉体から潜在能力の全てを引き出し、徒手空拳のみで相対した敵を殺傷する手段として拳闘を選んだのである。 彼の拳を以ってすれば、如何なる猛者であろうと粉砕することが出来る。しかし、拳闘の王者には成り得ないのだ。 相手に組み付けば投げを狙い、拳打と見せかけて目を抉ることも平然とやってのける―― ルール下の拳闘に於いて反則と見做される行為は、ザムシードにとっては有用な攻め手と言う認識であった。 志の違いからエルンストに弓を引いた過去も彼の拳を苛烈なものとする要因のひとつである。 骨を圧し折られようとも、足の甲が避けようとも、ザムシードは叛将と言う負い目に突き動かされ、 我が身を庇うことも忘れて機械の如く猛襲を繰り返してしまうのだ。 自らを死地へ追い込むことも厭わない捨て身の人間ほど恐ろしいものはない。 だからこそ、新たな罪を重ねることに躊躇がなかった。謀反の大罪を許し、生きる場所を与えてくれたテムグ・テングリ群狼領の為ならば、 彼は喜んで己の生命を差し出すことだろう。馬軍の聖地を血で穢し、その罪を問われて死罰に処されても、だ。 絶対的な忠誠心が人間らしい理性を上回っていた。 ザムシードはフツノミタマをテムグ・テングリ群狼領の害と見做した。この上は彼が絶息するまで拳を揮うに違いない。 「……無様ね」 ザムシードの忠誠心を悪し様に貶めるピナフォアであったが、その口元には自嘲の笑みを浮かべている。 馬軍の将として起つ姿は、過ぎて去った嘗ての己である。ゼラール・カザンと言う稀代のカリスマに出逢うまでは、 彼女もテムグ・テングリ群狼領の繁栄へ生涯を捧げるつもりだった。それが馬軍に生まれた者のさだめと受け入れていた。 疑うことなく享有していたのだ。 いつか己が辿り着いたかも知れない末路――ピナフォアは是をザムシードに見ている。 テムグ・テングリ群狼領に叛いたと言う境遇も両者は似通っている。それ故に先程の悪態には万感の思いが込められていた。 但し、それも今日までのこと。ピナフォアとザムシードとは違う。決定的に相容れない。 我が命を捧げても悔いはないと選んだ主君が違うのだ。例え叛逆の罪をエルンストに許されるとしても、 姉のように慕ってきたカジャムが仲裁を買って出ても、最早、ピナフォアは馬軍へ帰順するつもりはなかった。 ザムシードは過ぎて去った嘗ての己。即ち、二度と彼やカジャムと同じ場所には立てないと言うことだ。 今日を以って最愛の血族と、生来の縁と訣別したのである。 「――で、結局、どーすんの!? アイツらに美味しいところ、全部持って行かれるよ! 指咥えて眺めてるだけなんて有り得ない!」 感傷に浸っていたピナフォアは、カンピランの大音声によって意識を現実の世界に引き戻された。 何事かを尋ねるような調子であったが、これはピナフォアに向けられたものではない。彼女はトルーポに判断を仰いでいた。 客観的に状況を分析するならば、確かに困惑の一言しかない。叛逆を表明するべくザムシードとビアルタを誘き寄せたと言うのに、 気付いたときはアルフレッド、フツノミタマ、ホゥリーに戦場を買い占められている。 間抜けと言うカンピランの溜め息ではないが、これでは余りに締りが悪い。悪いにも程がある。 「どうしたもんかねぇ〜」 トルーポもトルーポで答えに窮している。肩に担いだミサイルランチャーでも撃ち込めば乱入者たちを止められる。 当事者でありながら手も足も出せないと言う不可思議な流れを断ち切ることが出来るだろう。 カンピランが訴える通り、在るべき形に流れを戻し、その上で本来の目的を果たすのが最善である。 しかしながら、両者の戦いへ割り込むことが必ずしも正しい判断であるとトルーポには思えなくなってきたのだ。 アルフレッドたちを食い止めた後、改めてザムシード、ビアルタと戦ったとしても、果たしてゼラールは喜ぶだろうか。 閣下が望むのは常に輝かしい勝利である。未来を切り開く栄誉ある戦いである。 手傷を負った者をいたぶるような卑怯は、ゼラールの望むところではなかろう。 よもや三つ巴の戦いにはなるまいが、アルフレッドたちと完全な敵対関係に陥ることもゼラールは望まない筈である。 ましてやラドクリフなどシェインと合流してイブン・マスードの猛攻を見守っている。 「……どうしたもんかねぇ、マジで」 溜め息混じりに反復するトルーポの目の前では、乱入者たちの激闘に刹那の静寂が訪れている。 魔人と化したアルフレッドはイブン・マスードと互いの出方を伺い、 ホゥリーは磁力を操作する『マグニートー』のプロキシでもってビアルタを地面にめり込ませ、 フツノミタマはザムシードからまたしても投げを喰らっていた。 イブン・マスードの正体をフツノミタマが確かめたのは、ザムシードから間合いを離した直後のことである。 視界に飛び込んできた世界一腕の立つ仕事人に対して、「ウース」と愛称で呼びかけたのだ。 釣られてイブン・マスードの姿を確かめたザムシードは、誰もが予想だにしない反応を示した。 「……お前は、誰だ?」 彼はイブン・マスードの正体を訝り、誰何したのである。テムグ・テングリ群狼領が雇ったであろう仕事人に対して、だ。 気合いでもってマグニートーから逃れたものの、『ペネトレイト』で追撃され、逼迫していたビアルタなどは、 「この上、更に伏兵とは卑劣なッ!」と憎々しげに言い放った程である。 世界一腕の立つ仕事人はトルーポを始末するべく雇われたのではなかったのか。 しかし、ザムシードもビアルタも白を切ろうとしているようには見えない。 そもそも、だ。馬軍の暗部を隠蔽するような人間であれば、このような汚れ仕事を買って出る筈もなかろう。 極めて珍奇な事態であるが、彼らは本当にイブン・マスードを認知していないらしい。 ならば、イブン・マスードの本当の目的と依頼主とは一体――同じ仕事人としての思考でこれを推察したフツノミタマは、 ようやくひとつの仮説に辿り着き、「オレたちゃ、全員で藪睨みしてたってワケだ! バカ丸出しでよォ!」と頭を振った。 「馬賊のお偉いさんを狙おうって野郎を潰す。間接的なボディーガードがてめぇの仕事ってワケだ。そうだろ? だから、真っ先にうちのガキを狙いやがった。今はご丁寧にアル公ともやり合ってる。 正面切ってガチンコすんのは苦手だってのによォ」 馬賊のお偉いさん――ザムシードとビアルタをドスの剣尖で指し示しつつ、答え合わせを求めるフツノミタマであったが、 当然ながらイブン・マスードは否定も肯定もしない。ただただ沈黙を貫いている。 むしろ、その無言にこそ詰問に対する明答が潜んでいそうだ。 「依頼主はテムグ・テングリに違いはねぇが、的(マト)はアル公じゃねぇ。トルーポ・バスターアローでもねぇ。 お陰でこっちはバカみてーに振り回されちまったぜ――ったく、回りくどいコトしやがってよォ!」 潜入が報じられてから三日間、イブン・マスードが何ら行動を起こさなかった理由さえもフツノミタマは推理していく。 ザムシードとビアルタの護衛が仕事であるとすれば、成る程、彼には自ら動く理由がない。 標的となり得る者が現れるのか、それとも依頼主の杞憂で終わるのか、息を潜めて見極めていたわけである。 アルフレッドたちの乱入がなく、馬軍のふたりがゼラール軍団に挑んでいたならば、 あるいはトルーポに魔手を伸ばしたかも知れない。この場合、ゼラール軍団は迎え撃つ側であるが、 「ザムシードとビアルタを狙う者」と言う点に於いては始末の対象となるのだ。 その寸前にアルフレッドたちが割り込んだ格好である。依頼内容を遵守するのが仕事人の鉄則であり、 必然的にイブン・マスードはツァガンノール御苑への乱入者と戦うことになった。 「結局、狙われるのは俺か。よくよく敵を呼び込む性質(タチ)のようだ」 当初、世界一腕の立つ仕事人の抹殺対象ではないかと疑われていたアルフレッドは、仮面の裏側から思わず忍び笑いを漏らした。 推論が二転三転した結果、標的から外れていると判明した。それにも関わらず、イブン・マスードと対峙することになったのだ。 奇縁と言うものを笑わずにはいられなかった。 一方、ザムシードとビアルタは顔を見合わせて困惑している。 全てはフツノミタマの仮説であり、イブン・マスードから首肯を得られてはいないのだが、 万が一にも事実であるとすれば、最高幹部すら知り得ぬところで大きな意思が働いたことになる。 そのような決定を下せるのは、テムグ・テングリ群狼領の中でも一握りの人間のみであった。 「ま、まさか、御屋形様が……」 顔面蒼白のビアルタが震える唇で呟いたとき、ツァガンノール御苑に幾つもの足音が飛び込んできた。 「なによ、もうドンパチやってんじゃない!」 「てめーがウダウダやってっから出遅れたんだろ、銀蝿! 着替えに何分掛けてやがんだっ!?」 「シェイン君! 皆さん! ご無事ですか!?」 その先頭はマイクとジョウ、ティンクの三人である。 機械に収納する形でマイクが背負った石柱はエメラルドの怪光を発している。 この輝きはケーブルにて繋がる左手のグローブまで伝達されており、甲の部分に設置された円形の機械から炎が噴き出していた。 グローブの中心には石柱と同じ材質のプレートが嵌め込まれ、そこには複雑な形状の魔方陣が刻まれている。 石柱本来の燐光へ呼応するように魔方陣自体が明滅し、その都度、炎が勢いを増しているように見えた。 マイクが左腕に纏わせるのはエメラルドの炎である。いつしか炎は一本の光線と化し、冒険王の頭上に大きなコンドルの貌(かたち)を取った。 光線のみで形成されたコンドルは、やがて生命を得たように宙を舞い、ザムシードとビアルタを威嚇し始めた。 「……聞いたことがあるよ、これ、『ナスカのコンドル』だ……」 ツァガンノール御苑の空を流麗に飛び交うコンドルにシェインは双眸を見開いて驚いた。 神秘を目の当たりにしたかのような調子であるが、その面は今にも蕩けてしまいそうな程に恍惚としていた。 シェインが漏らした呟きにラドクリフも力強く頷いた。彼もマイクが使役する荘厳な神鳥のことを詳しく知っている様子だ。 ひとり取り残されたジェイソンは、「またふたりの世界かよ!」と頬を膨らませて拗ねて見せた。 これを見兼ねたシェインとラドクリフは顔を見合わせて苦笑いを漏らし、次いでジェイソンの左右の耳へ同時進行的に解説を囁き始めた。 ラドクリフ曰く――マイクが背負った石柱は、ルーインドサピエンスの遺産であるそうだ。 マコシカの民にも伝承しか遺されておらず、実在を疑問視する向きさえあった。 その伝承を耳にして俄然意欲を燃やしたのが冒険王と言うわけである。数少ない手がかりを基にして古代遺跡を調査し、 ついには伝説的な宝物を発掘したのだった。 石柱にはルーインドサピエンスの秘術が記録されている。マイクは無二の親友でもある大発明家――名をビン・サトゥーと言う――が 開発した機械を用いて秘術の解析にも成功。マコシカの民の承認を得て古代の力を手にしたのである。 一般にも広く流通しているCUBEにはプロキシが書き込まれており、使用者の意思に応じてその力を発揮させられるのだが、 秘術の解析にはこのメカニズムがヒントになったそうだ。 今しがた披露した『ナスカのコンドル』も秘術の内のひとつだとシェインは熱っぽく語った。 「ボク、てっきりあのグローブに魔力が込められているとばかり思ってたんだけど、石の柱が本体なのか……」 「本来は門外不出の物だからね。……ハンガイ・オルスに滞在中って訊いてはいたけど、何をやってるのかな、マイクさんは」 「聴いて驚けよ、ボクらと一緒に行動してるんだぜ! へへん――ボク、マイクと親友になっちゃったんだぁ!」 「いや、ぼくが言いたいのはそう言うことじゃなくてね。……それにしても、親友かぁ。シェインくんとマイクさんって似た者同士だし、 きっと上手くやっていけるんじゃないかな。似た者どころか、そっくりだよ」 「ボクが!? いくらなんでもそりゃないよ。相手は冒険王! しかも、『ワカンタンカのラコタ』に選ばれるような人じゃないか!」 「正しくは、選ばれそうになったってだけさ。最終試練を受ける前に辞退しちゃったからね」 「ちょ、ちょ、ちょっと待てよ、おめーら! 今、なんつった? ワカンタンカのラコタぁッ!?」 自分の頭越しと言うか、左右の耳越しに繰り広げられる“ふたりの世界”に凹まされていたジェイソンだったが、 会話の中に『ワカンタンカのラコタ』と言う単語が上がったときには、文字通り飛び上がって驚いた。 それは、マコシカの民の間で語り継がれてきた伝説的な英雄である。 世事に疎く、マイクがその候補になったことも初耳と言うジェイソンでさえワカンタンカのラコタの称号だけは知っているのだ。 「くぁー、やっぱしとんでもねぇ化け物なんだな、ワイルド・ワイアットって。シュガーの兄キとやり合ったっつー大一番、 見逃すなんてオイラぁ一生の不覚だぜ」 「――そうさ、マジですごい人なんだよ、マイクは……!」 高揚した面持ちでナスカのコンドルを仰ぎ見るシェインが微笑ましく、俄かに口元を緩ませていたラドクリフは、 自分たちのもとへ駆け寄ってくるジョウに気付いた途端、反射的に身構えてしまった。 ラドクリフにとっては初めて見る顔である。共にツァガンノール御苑へ踏み入ってきたと言うことは、 マイクの新たな仲間ではあるのだろう。しかし、その出で立ちは禍々しいとしか言い様がなく、 手にした赤い槍も尋常ならざる妖気を帯びているように思えてならない。 赤い槍――パクシン・アルシャー・アクトゥは、柄に嵌め込まれた色とりどりの水晶が複雑怪奇に煌いており、 禍々しい気配を醸しているように見えなくもなかった。「この世に在らざる存在(もの)」とでも言うべき妖気である。 それが為にラドクリフは身を強張らせたのだが、隣に立つ親友は「こっちは大丈夫。ジェイソンとアル兄ィのお陰で無事さ」と ジョウに手を振り、相手の側も安堵の笑顔を浮かべている。ここに至って杞憂を痛感したラドクリフは、 自身の短慮を恥らいつつ警戒を解いた。 ラドクリフが怯える様を見ていたらしいティンクは、「初対面にはキツいわよね、あんたのそのナリ。他所のコを泣かすんじゃないわよ」と、 ジョウに向かって耳の痛い皮肉をひとつ飛ばした。 「そんな殺生な……。これでも由緒のある品なのですよ」 「由緒もへったくれもないわよ。見ず知らずのコがビビッた。その結果が全てじゃない。シェインだってそう思うでしょ?」 「ま、まあ、インパクトはある、かな」 「シェイン君を味方に付けるの、やめてください。そう言う攻撃、地味に効きますから」 痛いところを突かれたジョウはがっくりと肩を落としてしまったが、かく言うティンクも穏やかならざる装いへと様変わりしている。 キャミソールにデニムハーフパンツと言う普段着から一変し、全身に板金の全身甲冑(フルプレートアーマー)を纏っている。 右手には円錐状の大振りなランスを、左手には長方形の盾まで携えているではないか。 小さな羽根のみでよくぞここまでの重装備に耐えているものだ。 先程のマイクの発言から察するに、これらの装備を身に着けるのに手間取った為、シェインたちに比べて大きく出遅れてしまったらしい。 冒険王にはヒューやレイチェル、ニコラスも後続している。やや遅れてジャーメインとローズウェルも馬軍の聖地に踏み込んできた。 茂みを突っ切り、ゼラール自慢の軍団員たちの間を抜け、彼らは四阿へと向かっていく。 誰に加勢すべきか、ヒューへ判断を仰ぐニコラスを尻目に、ジャーメインは一直線にアルフレッドのもとへと馳せていった。 「抜け駆けするなよ! アルの護衛はオレだって決めたじゃねぇか!」と言う批難の声など置き去りにして、だ。 「律儀に待ってるんじゃなかったわね。見なさいよ、フツのあの格好。斬り合いしまくってましたーって言ってるようなもんじゃない」 「レディーの着替えを待つのも楽しいもんじゃねーか。自分がババァだからってティンクちゃんに当たんなよ」 「後で一発ぶっ飛ばすとして――妖精相手に何言ってんの、あんた。あたしの何倍も生きてるだろうし、性別だってアヤフヤなのよ」 「……マジ? 詐欺? ティンクちゃんってば、ローズウェルと同じでそっち系なん? あんな可愛い顔して勿体ねぇ……」 「こーらこらこら、ヒューちゃんってば聞き捨てならないわ。そっち系なんてヒドい言い方よ。お姉さん、プリプリよぉ?」 ヒューの失言に対し、ローズウェルは拳を鳴らして抗議した。今のところは本気で怒ってはいないようだが、 次は許さないとの無言の圧力も確かに込められている。 新たに駆けつけた一団の中にローズウェルの姿を発見したK・kは、へっぴり腰で四阿より飛び出し、悲鳴と共に辺りを這い回り、 最も頼りとするボディーガードのもとに辿り着いた。どうやら自分のことを救出に来たものと誤解したらしい。 ローズウェル本人にはそのつもりは全くない――と言うよりも、姿を確認するまでK・kが此処に居ることさえ失念していたくらいだ。 それでいて「安心して頂戴な。心強い味方もこんなにたくさん! もう何も怖がることはございませ〜ん」などと調子よく慰撫するあたり、 悪徳冒険者らしく抜け目がない。 「も、もっと早く来れなかったのかい!? モバイルは!? いつでも持っててって頼んだぢゃないかぁ! 電話通じないわ、SOSのメールに返信もないわ! ワタクシ、寿命が百年縮んじゃったよぅ!」 「ごめんなさいねぇ、一刻も早く助けに行かなきゃって焦っちゃいたんだけど、 冒険王サンのお供がどーしてもコーディネートがキマらないって言い張ってねぇ〜」 「キ、キミだけ先に来てくれたっていいんじゃないかね!? ライアンさんがワタクシをガードしてくれると思うかい!? あの鬼畜外道がっ!?」 「まァまァ――最悪のシナリオの前に間に合ったんだから、それで帳消しにしてくださいな」 「そうなる前に何とかするのがボディーガードじゃないかね!? ……でも、来てくれて嬉しいから許しちゃうぅ!」 半べそ状態のK・kを宥めていくローズウェルの説明からも察せられる通り、彼らもティンクが着替え終わるまで待たされていたのである。 ようやく支度が整い、シェインたちを追いかけるべく回廊に飛び出したところでアルフレッドと鉢合わせとなり、 ここに至るまでの事情を説明。全てを理解した彼と共にツァガンノール御苑に突入した次第であった。 そのアルフレッドはイブン・マスードと睨み合いを演じつつ、マイクに向かって「ここは俺たちに任せてくれ」と仮面の下から請った。 「こいつらは俺たちが始末する。マイク、あんたたちはバスターアローを守ってくれ」 万が一、フツノミタマとホゥリーが突破された場合、ザムシードとビアルタを食い止めて欲しいとの要請だ。 しかし、それはあくまでも最悪の事態の想定。我が身を盾にしてゼラール軍団を攻撃者から守り、 彼らに成り代わって戦うのが前提であった。 経緯はどうあれ、アルフレッドはテムグ・テングリ群狼領との全面対決を宣言してしまったのである。 先行して攻撃を仕掛けたホゥリーやフツノミタマを食い止めるならいざ知らず、 共闘の要ともなる馬軍の将を「始末」するとまで言い放つなど正気の沙汰ではない。 アルフレッドは史上最大の作戦を立案した張本人である。だからこそ彼方此方へ気を配り、 休むことも忘れて多数派工作に奔走してきたのだ。今日までの努力を水泡に帰すような失態を彼ほどの頭脳が演じる筈もない。 認める、認めざるに関わらず、馬軍の覇者が欲した頭脳と理解しているザムシードとトルーポは、 異口同音にてアルフレッドの正気を疑った。 ここに至るまでの計略を間近で見守ってきたジャーメインも「追っ払うくらいにしといたほうが良いんじゃないの?」と訝ったが、 当のアルフレッドは鼻を鳴らすばかりで一歩たりとも退こうとしない。 「その場しのぎでは何の解決にもならない。ここで決着をつける――旧友の危機を黙って見過ごす程、俺は薄情ではない」 アルフレッドが「旧友」と口にした瞬間、トルーポは双眸を見開いた。 アカデミー時代から続く腐れ縁を指して、彼は「友」と言明したのである。 トルーポの側には少なからず旧友としての情はあった。絆と呼べる程に確固たるモノではないにせよ、 同じ時間を共有した者としての親しみを抱いている。 だが、アルフレッドはどうか。何事につけても朴念仁と揶揄される彼はどうなのか。 合理的な性格だけにモラトリアムを想起させる感情は切り捨てたに違いない――それがトルーポの見立てである。 自身が窮地に追い込まれるのも省みず、旧友の危機に駆けつける姿など想像もつかなかった。 「……ライアン……」 旧友の名を呼ぶトルーポの声は微かに震えていた。 アルフレッドはギルガメシュの手で故郷を失っている。無二の親友を殺害され、実の妹まで誘拐されたと聞いている。 それ故に些かも躊躇することなくツァガンノール御苑へ突入したのだろう。 背後に如何なる事情が絡んでいようとも、二度と友を失いたくない――無謀を承知で戦う理由は、その想いひとつであった。 アルフレッドの心情に考えが至ったとき、トルーポは目頭が熱くなった。まるで似つかわしくないと自分に言い聞かせてはいるが、 視界が滲んでいくのを止められない。「ガラにもねぇことを言うなよ、キザ野郎め」と悪態を吐くのが精一杯の虚勢であった。 「――ったく、いよいよ出る幕がないねぇ。あんた、コレが終わったらおトモダチを抱きしめてやんなさいよ。 ここまでしてくれるなんて、マブダチの証拠だよ」 「う、うるせぇな。そんなんじゃねぇやい!」 恥ずかしそうに鼻を啜るトルーポの背中をカンピランは勢いよく引っ叩いた。強く強く、大きな背を押してやった。 それが呼び水となったのであろう。レモンイエローの軍服に身を包む者――アカデミー以来のアルフレッドの旧友たちも 感極まってすすり泣きしている。気の良い海賊の中には貰い泣きしてしまう向きも見られた。 「ドリーマーなメンズがメニーメニーだねェ。セイっとくけど、ザットはアルオンリーだから勘違いしナッシングね。 ボキはただランページしたかっただけだからサ。誰がデスろうと知ったこっちゃナッシングだしィ〜」 「この期に及んで言い訳ぶっこいてんじゃねーよ。可愛い坊ちゃんが無事でよかったなぁ? あ? パパさんよォ?」 「ホ、ホワッツ!? フッたんってばイリュージョンでもルックしたんじゃナッシング!? ボキがいつそんなスウィーツなコトを!?」 「二、三分前までマイ・ボーイ、マイ・ボーイって連呼しまくってたろうが。こっちは、てめぇ、命のやり取りしてる最中だっっつーのに、 くすぐったくて仕方なかったぜ」 「……フォーゲットだよ、フッたん。ボキ、リトルばかしインサニティだったんだヨ。ザットはボキなんかじゃナッシングね。 生活スメルとか、スーパースペシャルにアウチなんだヨ……」 「オレは別にてめぇのコトなんざどうでもいいがよ。てめぇのマイ・ボーイとやらはえれぇ感動してやがったぜ。 さっきチラッと見たときゃ、目ェ潤ませていやがったな」 「リアリィ? ノンノン! ボ、ボキのイメージがぁ……」 「いちいち反応がうるせーっつの。……てめぇらは良い親子だよ」 戦端を開いたホゥリーもアルフレッドと似たようなものだ。彼の場合は「マイ・ボーイ」を死地より救うべく駆け出したのであり、 そう言った意味ではこの場の誰よりも逼迫していた。 一番の深手を負っているにも関わらず、フツノミタマだけがこの中では異質である。彼はゼラール軍団に縁者を持ってはいない。 ホゥリーと同じくラドクリフ救出の為にツァガンノール御苑へ踏み入ったシェインの代理として剣を振るっているのだ。 マイクやジョウとてフツノミタマと同じ想いである。 ゼラール軍団の救援に駆けつけた者たちが胸に抱くのは、つまり縁者に対する私情であった。 旧友あるいは弟子の身を案じると言う極めて人間らしい感情に突き動かされ、ザムシードたちの前に立ちはだかった次第だ。 自分たちの目的を阻んだモノの正体を見極めたビアルタは、小刻みに肩を震わせ始めた。 アルフレッドたちの想いと勇気ある行動に琴線を刺激されたわけではない。それが証拠に満面は憤怒で歪み切っていた。 「……たかが私情に走って……己の本分をも忘れた愚か者め……! 貴様ら、絶対に許さんぞッ! よくも、よくも御屋形様の御名を穢しおって! 裁きを待つまでもない! この場にて処断してくれるッ! どいつもこいつもッ!」 激情を露にしつつ馬上ボウガンを振り回すビアルタの双眸には狂気の色さえ滲んでいる。 テムグ・テングリ群狼領の同胞とエルンストへ己の命を捧げる覚悟で聖地に乗り込んだと言うのに、 ピナフォアの裏切りによって計画は座礁し、あまつさえ私情を優先させるような生温い鼠輩にまで弄ばれたのである。 これまで蓄積されてきた鬱屈がついに大爆発を起こしたのである。 己を戒めることさえ出来ない惰弱な者たちに打ち倒されるのは何にも勝る恥辱であった。 元々、彼は知略に長けたアルフレッドを快く思っていない。ゼラールに対しては更なる悪感情を抱いている。 つい先日はパトリオット猟班にまで遅れを取った――ありとあらゆる劣等感がビアルタの心を真っ黒に染め上げてしまったのだ。 「落ち着かれませ! 馬軍の誇り、忘れてはなりませぬ!」とザムシードが訴えても、平常心を全く喪失したビアルタの耳には入らない。 そんな彼を挑発するかのようにアルフレッドは嘲笑を漏らし、「救いようのない愚図め」とまで言い捨てた。 「何かにつけて御屋形様、御屋形様とほざくが、エルンストの顔に泥を塗ったのはお前だろうが」 「御屋形様の覚え目出度きことを笠に着て、知ったような口を叩くなッ!」 「煩い、黙れ。知ったかぶりはお互い様だ」 「小癪なッ!」 「小癪で結構。エルンストの心中を見誤った貴様よりはずっと上等だ」 「何を言うッ! 自分は御屋形様の……ッ!」 「……御屋形様の思し召しによって、この一件は内々に処理され、誰もお咎めなし。最初から何もなかったことにされる―― 私情によって一件落着となる。そう言いたいのだな、ライアン……」 「なっ!? ザ、ザムシード殿……!?」 己の発言を遮り、あまつさえアルフレッドへ同調するかのような態度を見せたザムシードにビアルタは酷く狼狽した。 誇り高き馬軍の将が愚かなる鼠輩に屈するなど絶対にあってはならないことなのだ。 精神の面に於いても、僅かとて優位を譲ることは出来ない。何者にも敗れぬ為に幼少の頃から過酷な修練を積んできたのである。 滅私の上で任務に当たり、苦しい戦いにも勝ち得たのである。それこそが馬軍の将の誇りであった。 それなのに無二の同胞たるザムシードはアルフレッドに首肯している。どうして誇りを捨て去るような振る舞いを見せるのか―― このときのビアルタは、視界に入る全ての物が歪んで見えていた。耳に入る声さえも壊れ果てていた。 動揺するあまり、呼気まで著しく乱れたビアルタを尻目に、アルフレッドは「あんたはまだまともだったな」とザムシードへ頷き返した。 次いで「御屋形様の義弟」へと目を転じたものの、その双眸には強い軽蔑の念が浮かんでいる。 「何だ、その目はッ!? 貴様の野心もお終いなのだぞッ!? 罪の重さに押し潰されてしまえッ!」 「……哀れだな。悔やむのは貴様のほうだ。エルンストを侮ったことに苦しみ抜け」 「いつ、オレが義兄上を侮ったッ!? 不敬を働いたと言うッ!?」 「貴様はエルンストの器量を見誤った。それが何よりの不敬だ。……まだ分からないのか、この大莫迦者がッ!」 そのとき、アルフレッドが大音声を張り上げた。私憤には違いないが、その根幹にはエルンストを貶められたことへの怒りがある。 無論、ビアルタには義兄を愚弄した覚えなどない。それにも関わらず、一方的に気圧され、仰け反ってしまうような凄みが 今しがたの怒号には宿っていたのだ。 エルンストへの不敬であると一喝されたビアルタは、まるで子どものように身を震わせた。 「こんなちっぽけな企み如きにエルンストが足を止めると本気で思っているのか!? 大事の前の小事にこだわるような器だとッ! その程度なのか、馬軍の覇者とはッ!?」 「き、貴様に義兄上の何が分かるッ! テムグ・テングリを率いることはエンディニオンで最も険しい重責なのだッ! 全人類の目が義兄上に注がれているッ! ……覇者だからこそッ! 後顧の憂いを断つのだッ! 次なる叛逆の芽をッ! いかに我々が身内と言っても、叛逆を許しては義兄上の立場が――」 そこまで言いかけて、ザムシードは口を噤んだ。……否、噤まざるを得なかった。 叛逆にも等しい行為であろうが、そこに確固たる信念がある限り、エルンストは何ら裁きも下さずに許してしまうだろう。 無意味な犠牲を出さないよう一切を不問に付すことだろう。それが馬軍の覇者たる大器であった。 大いなる温情と懐の深さを誰よりも理解しているのは、義弟として近侍してきたビアルタ自身だった。 反射的に面を窺ったザムシードも静かに頷いている。叛将として処罰されるべき彼を救い、側近として重用するのもエルンストである。 今度の一件を許せば、氏族の内部だけでなく連合軍の参加者からも批難の声が上がることだろう。 アルカークなどは罵声の急先鋒となってエルンストをこき下ろすに違いない。 それでもエルンストが揺らぐことはあるまい。全ての嫌悪を背負い、覇道を真っ直ぐに進んでいくのだ。 その計り知れない器の大きさをビアルタは心から慕い、忠誠を誓ってきた。命を捧げても惜しくないと惚れ込んでもいる。 「……我らが無断でバスターアローを討とうとしたこと、カザンの一党と一戦構えようとしたことも特赦されるだろうな……」 ザムシードの言葉にビアルタの心はなお一層震わされた。まず間違いなく、彼の仮説通りに事態は収拾されるだろう。 すっかり置き去りにされ、困ったように頭を掻くイブン・マスードの存在がこれを証明している。 フツノミタマの推理に頼るまでもなく、誰が世界一腕の立つ仕事人を差し向けたのかは瞭然と言うもの。 「ちっぽけな企み」は覇者の慧眼の前に全て見透かされていたのだ。 「あいつは、エルンストは本物の王者だよ。そんでもって世界一のお人好しだ。短気なオレとは大違いだぜ」 ザムシードに明答を示すかのようにしてマイクが頷いた。冒険王とまで謳われる彼はエルンストと同じ高みに在ると言っても良い。 更に言えば、彼は馬軍の覇者と“同じ眺め”を見つめているのだ。それだけに先程の首肯は大きな威力を持つのだった。 「……どうあっても我らの負けのようですな、ビアルタ殿。観念するしかなさそうだ……」 ザムシードが諦念滲む擦れ声でもって呟く。エルンストの意思を確かめたからには、何もかも終局(おわり)である。 強行にトルーポを討とうものなら、身内の暴走に巻き込んだ償いとしてゼラール軍団の復帰を認めてしまうかも知れない。 元よりゼラールの才覚を買っていたエルンストのこと、周囲の反対を押し切ることは想像に難くなかった。 完敗を喫したとは雖も、それだけ避けねばなるまい。追放処分の撤回は、考えられる最悪の事態なのだ。 「……何を仰せですか、ザムシード殿。我らの使命はまだ終わってはおりませんぞ――」 落魄したかのようなザムシード対して、ビアルタの声は――いや、その身から立ち上る気魄はなおも荒ぶり、猛っている。 その手に握り締めた馬上ボウガンは、指先の震動に呼応してカタカタと金属音を刻み続けている。 「――罪の在り処など問題ではないッ! 義兄上に報いねばッ! ……報いねば、この命、何の為にあるのか分からんッ! 栄えある群狼領に仇なすものはオイラトの名に賭けて討ち果たすッ!」 そして、ビアルタは最後の暴発を迎えた。 自分たちが敗れたと言う事実も、ゼラール軍団の復帰と言う最悪の事態を避けねばならないとの理屈も、 最早、彼を止めるだけの材料にはならなかった。理性を超越した憤怒に身を委ねた者には如何なる声も届かない。 テムグ・テングリ群狼領の災いを根絶やしにする。その上で自害して果てよう――ビアルタを支配するのは、その覚悟ひとつである。 しかし、馬上ボウガンはトルーポを照準には入れていなかった。残存する矢を全て用いて射殺すべき標的は、 魔人と化しているアルフレッドであった。 ビアルタの特攻を見て取ったホゥリーは、クムランテキストに溜めておいたシャフトのプロキシを解放し、 これを追い掛けるようにして、大地を隆起させる『ハヴォック』と熱線を見舞う『クルス』を同時に放った。 「チッ――デス損ないがクレイジーを起こしやがったネ!」 局地的な竜巻によって全身を斬り裂かれ、続けて出現した巨岩の槍でもって腹を貫かれ、 十字を切るように交差する二筋の閃光でもって両腕を焼かれても、決してビアルタは止まらない。 瀕死の重傷を負いながらもアルフレッドに向かって猛進し続けていく。 三重のプロキシを以ってしても倒れないと見て取ったニコラスは、バズーカ状態となっているガンドラグーンの砲門をビアルタに向けたが、 この挙動をアルフレッドは目配せでもって制した。 「だけど、アルッ!」 「こいつの狙いは俺だ。ならばそれに応じるのが――」 そう答えるアルフレッドの前でイブン・マスードが姿を消した。音もなく残像さえもなく一瞬にして掻き消えてしまった。 咄嗟にニコラスの在る方角へと視線を巡らせると、案の定、世界一腕の立つ仕事人は彼に向かって直進している。 依頼内容に従い、ビアルタに危害を加えようとする者の抹殺に動いたようだ。 一瞬、背筋が凍り付くアルフレッドであったが、ヒューとレイチェルがニコラスの救援に向かったことを確認すると、 呼気を整え、迫り来るビアルタへと意識を集中した。自分が対峙せねばならないのは、狂気に侵されたこの青年将校なのである。 ビアルタと馳せ違ったイブン・マスードに対しては、ヒューとレイチェルが左右から挟撃を試みている。 レイチェルは既にジャマダハルのトラウムを発動させており、ヒューもまた得物のサブマシンガンを携えていた。 イブン・マスードは紫電の如く鋭敏だ――が、ふたりの力量と身体能力を以ってすれば、全く反応出来ない相手でもない。 左側面から回り込んだヒューは、グリップの底に設置されているブレードを振り抜き、義手でもってこれを弾かれると見るや、 サブマシンガンを握る右手の対――左手より手錠を投擲した。 名探偵が愛用する手錠は鎖の部分が極めて長く、捕らえた相手に対してリードのような機能を果たすことになる。 一先ず片方の輪を投げ付け、義手を絡め取るつもりであった。 輪が迫る中、殆ど同時に右側面から攻めかかってきたレイチェルともイブン・マスードは斬り結んでいる。 ここで直接戦闘が不得手と言う最大の弱点が露見した。鎌の如き反りを持つ短剣を巧みに操り、 斜めに軌道を描く斬り上げを受け止めはしたものの、刀身に宿っていたプロキシの力までは封殺し得なかったのである。 レイチェルが繰り出したのは、『トラクターレイズ』と呼称される神霊剣の一種だった。 刀身を媒介として重力に働きかけ、標的を高空へと撥ね飛ばしてしまう変則技である。 如何なイブン・マスードであってもその効果を打ち消すことは出来なかった。 ヒューの放った手錠がイブン・マスードの左手首を捉えたのは、トラクターレイズの効果が発生する寸前のことだった。 「――ここでキメなきゃ電気アンマだかんなッ!」 「了解ですッ!」 手錠を繰ってイブン・マスードの身体を振り回す最中、ヒューはニコラスに追撃を号令した。 自由を奪った上で最大出力のヴァニシングフラッシャーを放ち、義手もろとも標的を焼き尽くそうと言うのだ。 連携に抜かりはなかった。ニコラスの照準は精密である。万が一、エネルギーの放射を避けられた場合も想定し、 レイチェルもジャマダハルを構えて待機していた。勿論、ヒューもサブマシンガンを撃発するつもりだ。 しかし、相手は世界一腕の立つ仕事人である。彼らが望むようには仕留めさせてくれなかった。 イブン・マスードは左手首と義手を分離させることで手錠の拘束から抜け出し、これと同時に身を捻ってガンドラグーンの咆哮をも避けた。 レイチェルも「あんなの反則じゃない!」と瞠目したが、鉄拳の部分と義手本体は着脱自在のようである。 舌打ち混じりでヒューはサブマシンガンを連射し、ニコラスもヴァニシングフラッシャーの軌道を曲げて追尾しようとするが、 どうしても電光の如き影を捕まえることが出来ない。対するイブン・マスード当人は義手本体からワイヤーを射出させ、 これと地面へ突き刺さった鉄拳とを再連結させている。この攻防に於いては眼下の三人よりも彼のほうが一枚上手と言うわけだ。 鉄拳を着地点と定めてワイヤーを巻き上げ、超速で降り立つと言う芸当まで披露したイブン・マスードは、 すぐさま迎撃体勢を整えようとした――が、その首筋には既に別の討手が迫っていた。 錨型の分銅を括り付けた細長い青布が背後より投げ込まれたのである。 着地直後の襲来は、この好機を虎視眈々と窺っていたと言う証狙っていた左に他ならない。 咄嗟に身を沈めて青布から逃れ、膝を支点として身を旋回させるイブン・マスードであったが、 振り向いたときには追い撃ちの横薙ぎが迫っていた。 この一閃は避けきれない。右手のコラムビにて防ぐ以外に選択肢はなかった。 グラウエンヘルツのデュミナスクロー、レイチェルのジャマダハルを切り抜けたように、 鎌の如き湾曲でもって轟然たる一撃を受け流すつもりであったのだ。 これは痛恨の誤算であった。横薙ぎを受け止めた瞬間、コラムビの刀身が真っ二つに断ち切られてしまったのだ。 辛くも横一文字の直撃だけは避けたものの、撥ね飛んだ剣尖が包帯で覆われる頬を掠め、赤黒い染みを作り出していく。 世界一腕の立つ仕事人と雖も、生身に変わりはないと言うことだ。 「――カンピランさんっ!」 ラドクリフの呼び声が表す通り、コラムビの刀身を切断せしめたのはカンピランであった。 我慢の限界に達したのか、はたまたトルーポが新たな号令を飛ばしたのか、四阿より駆けつけてイブン・マスードに斬りかかったのだ。 肉厚にして切れ味鋭いカットラスに彼女の膂力が加われば、短剣を破壊することなど造作もない。 イブン・マスードもそのことを即座に悟ったようだ。代わりの短剣をベルトに求めたものの、右手の動きはすぐに止まってしまった。 同じことが繰り返されるばかりと諦めた次第である。 「部外者ばっかりに良い顔させらんないのさぁッ!」 巧みな身のこなしでイブン・マスードと再び差し向かいになったカンピランは、踏み込みと共に縦一文字を振り落とす。 これを鋼鉄の義手で受け止めようとするイブン・マスードであったが、白刃の勢いを見るや否や、反射的に半身を開き、 防御から回避へと転じた。この判断は最良である。急降下したカットラスは轟音と共に地面を抉り、 両者の足元に小さからぬクレーターを作り出した。刀身が少しでも触れていれば、コラムビに続いて義手まで完全に破壊されただろう。 反撃のつもりであろうか、イブン・マスードは左手を翳した。左掌の中央には発射口が穿たれており、 ここから爆風の如き圧搾空気を噴出させられるのだ。 見れば、発射口には鉄の矢が設置されている。おそらくは回避の間に準備を済ませたのであろう。 圧搾空気でもってこれを射出し、カンピランの目を射抜くつもりである。 しかし、幼少の頃より実戦で鍛えてきた彼女にとっては不意打ちなど取るに足らない愚策(もの)。 密着状態で飛び道具を射られたにも関わらず、上体を振って軽く避け、 逆に柄頭から垂れ下がった青布でもってイブン・マスードの足を絡め取ろうとした。 相手の不意打ちに対して己の不意打ちを重ねると言う荒業だった。 しかし、錨を象った分銅が標的を捕縛することはなかった。直撃こそ叶わなかったものの、鉄の矢は一瞬の足止めとなり、 イブン・マスードに飛び退る好機を与えたのである。 戦慄すべき剛剣より間合いを離すことに成功したイブン・マスードではあったが、着地した先も決して安全圏ではない。 突如、竜の咆哮が如きエネルギーの奔流を浴びせられ、中空へ逃れるしかなかった。 「てめぇ、連続して外してんじゃねーよ! 電気アンマの刑を執行だぁ!」 「あ、ヒューさんに伝え損ねてましたけど、こないだ専用プロテクターを買ったんで、もうそのテは通じませんよ。 ポジション取りもブレません」 「てめー、きッたねーぞ! そんなんアリかよ! 素直に喰らっとけよ! 今から反抗的だと将来怖ェぞ!」 「新しい世界に目覚めるほうが怖いですからね。将来って言っても長いんだから、今から付き合い方も考えておかないと」 「ラスがウチに馴染むのは嬉しいけど、そこまで宿六に付き合わなくたっていいのよ。あんまりこのバカに染まっちゃったら、 あんたにまで教育的指導をしなきゃならないしね」 「……すみません、自重します」 「とりあえず、後でピンカートン流の教育的指導ってもんを見せてあげるわね」 「実験台は俺っちだろ? はいはい、も〜分かってますよ、エエ!」 眼下にはヒューたちの姿が在る。カンピランの太刀風を逃れたところにヴァニシングフラッシャーを撃たれたわけだ。 このままでは四方から取り囲まれ、逃げ場のない状況で攻め立てられるに違いない。 だが、イブン・マスード――世界一腕の立つ仕事人の場合は必ずしも窮地とは言い難い。 有利と不利の判断基準が戦局に拠らないのだ。彼は大立ち回りを演じる為、 ハンガイ・オルスひいては馬軍の聖地にやって来たわけではない。 ザムシード、ビアルタに対する攻撃者の始末こそが果たすべき仕事なのである。 つまり、カンピランたちへ律儀に付き合う理由を最初から持ち合わせいないと言うことだ。 自分に戦力が集中している為か、今まさにビアルタを脅かさんとするアルフレッドの周辺は手薄となっている。 イブン・マスードの“仕事”にとって最良に近い状況であった。 先ずはジャーメインに鉄拳を突き刺して仕留め、然る後にワイヤーを巻き上げてアルフレッドの背後に回り込もう―― そう胸算用する最中、イブン・マスードの鼓膜を風切る轟音が打ち据えた。何かの飛来を告げるものだ。 何事かと振り返った世界一腕の立つ仕事人は、そこに有らん限りの絶望を垣間見た。 一発で巨大クリッターを粉砕するようなミサイルが鼻先まで迫っていたのである。 短く鋭い呻き声を引き摺りながら左掌を翳し、圧搾空気によって反動を付けたイブン・マスードは この勢いを利用してミサイルの有効範囲――正確にはミサイルに設置されたレーダーの索敵範囲だ――から逃げ果せた。 イブン・マスードにとっての不幸は、直進方向から外れるだけでミサイルの脅威を回避したと思い込んだことにある。 それも無理からぬ話であろう。彼は仕事人であって軍人ではない。ましてや、巨大兵器が主役となる戦場には何の用もないのだ。 つまり、ミサイルに自爆機能が搭載されていることなど彼には知る由もなかった。 「――ポチッと安心、がんがんオープン!」 どこかで誰かが意味不明なことを呟いた――その直後、高空にてミサイルが花火の如く炸裂し、 全方位に輻射された爆風によってイブン・マスードは吹き飛ばされてしまった。 至近距離でミサイルが爆裂しようものなら、普通であれば即死である。爆風は大気を焼き焦がす程の高熱を帯びており、 触れた瞬間、消し炭に成り果ててもおかしくない。イブン・マスードも回避行動を取っていなければ一巻の終わりであった。 先程の呟きが耳に届いた瞬間、彼は咄嗟の判断で地面に鉄拳を放ち、ワイヤーを利用して爆風の影響域から離脱を試みた。 この機転があったればこそ、ダメージを最小限に留めることが出来たのだ。 無論、相当に無茶な回避行動である。左の義手は金属の破断音を何度となく奏でていた。 爆風の威力は地上にまで達している。数多の木立が拉げ、聖地を流れる小川すら変形させてしまった。 四阿の屋根も一部が吹き飛び、今まさにアルフレッドへ馬上ボウガンを射掛けようとしていたビアルタなどは 無防備のまま地面に叩き付けられ、己の肋骨が砕ける音を聞く羽目になった。 「ケケケのケ――ゼラ坊ちゃんの手を煩わせるまでもなかったな。ワシらをナメるとこうなるんじゃい!」 イブン・マスードとビアルタを嘲ったのは、ゼラールお抱えのガンスミスとも言うべきクレオーである。 この老職人は拳銃のみならずゼラール軍団が使用する武器全般の整備や新兵器の開発をも一手に担っている。 今しがた、イブン・マスードを狙ったミサイルランチャーも彼が開発した物であるようだ。 自爆装置の正常な作動に大はしゃぎするクレオーの手には、ミサイルへ命令を送信したであろうリモコンが握られていた。 こんなこともあろうかと用意しておいた物に違いない。 爆風から逃れるようシェインたちに呼びかけ、飛び散る破片をパクシン・アルシャー・アクトゥにて弾いていたジョウは、 手拍子までして喜ぶクレオーに「周りの状況を確認してもらいたいものです」と呆れ顔である。 一方、発射の直後にミサイルランチャーをその場に放り出したトルーポは、 爆風の影響下にも関わらず地上を勇往し、命からがら降り立ったイブン・マスードへと向かっていく。 「旧友とまで言われちゃ、オレたちもやらないわけにはいかねぇのさ。……尤も、こいつは最初からオレたちの戦争なんだがね」 彼は右手に対物ライフルを携えている。これは分厚いコンクリート壁をも貫通する威力を秘めた銃器だが、 それだけに重量も反動も極大であり、本来は接地させた上で狙撃を行う物であった。 このような大口径の銃器をハンドガンのように片手一本で振り回すこと自体、驚異の一言なのだ。 しかも、だ。トルーポは疾駆しつつ照準を合わせ、トリガーを引いた。 どれだけ訓練を受けた狙撃手と雖も、反動の大きな対物ライフルを踏ん張りも利かせず銃口が揺れ動くような状況で撃発すれば、 命中率は限りなく低下する。特大の銃弾は空を切って何処かへと消えていくだろう。 これを見て取ったイブン・マスードは、左の義手でもって銃弾を掴み取ろうと身構えている。 ミサイルランチャーによって生命を脅かされた直後だけに対物ライフルは通用しないと威嚇し、 劣勢に傾きつつある流れを断ち切るつもりなのだ。 対物ライフルが誇る貫通力、破壊力にも耐え得る材質にてイブン・マスードの義手は完成されているのだろう。 直進してくる銃弾へ挑むからには義手自体の強度に絶対の自信があると言うことである。 しかし、彼の企図は脆くも崩れ去った。銃弾を掴んだ瞬間、内側から爆ぜるようにして鉄拳が木っ端微塵となり、 生じた衝撃によって義手本体も無数の亀裂が走った。内部を通るワイヤーが鞭のようにしなり、 ターバンから腰の帯にかけて広がる外套をズタズタに切り裂いていく。 さしものイブン・マスードもこの事態には瞠目するばかりであった。その間にも二発目が義手に撃ち込まれ、 イブン・マスードの左腕は肩から先が完全に爆ぜ飛んでしまった。 暫しの間、義手の残骸を呆けた調子で見つめていたイブン・マスードは、次いでトルーポへと目を転じ、新たな戦慄に打ちのめされた。 対物ライフルをも片手で操る魁偉の双眸は中央の角膜から深紅の輝きを発しており、これは天を焦がさんと紫煙の如く立ち昇っている。 裏社会を渡り歩いてきた世界一腕の立つ仕事人も斯様な人間を目にするのは初めてである。 「ビビッたかい? コレがコイツのトラウム、『バンテージ・ポイント』さ」 「……おいおい、敵に亭主のトラウムをバラすんじゃねーよ。そう言うもんは隠しておくから意味があるんだろう? 手の内は最後まで明かさねぇモンだぜ」 「はぁ? まさかと思うけど、あんた、ビビッてんじゃないだろうね。どんな状況でも相手をブッ潰せる! それがトルーポ・バスターアローだって言ってたじゃあないか」 「言ってねぇよ! 話を盛るな! 戦士の理想として挙げただけじゃねぇか!」 「だから、その理想ってのを実践してるっつってんの。あんたは自分の理想を軽く超えてんだよ。 それを隠すなんてバカバカしいじゃないか。これでもあんたのカミさんだよ? 胸張って何が悪いのさ!」 「……お前ね、こっ恥ずかしいことを真顔で言うんじゃねぇよ」 タイガーフィッシュを担ぎながら駆け寄ってきたカンピランは、呆然と立ち尽くすイブン・マスードをせせら笑った。 イブン・マスードの左腕を粉砕せしめたのは、対物ライフル自体の威力ではなく、 トルーポが備えたトラウムの効果に依拠するところが大きい。 カンピランが自慢げに語った『バンテージ・ポイント』こそが件のトラウムである。 視覚の精度から始まり脳の回転力をも極限まで高め、攻撃対象の弱点を一瞬にして割り出す―― トルーポの切り札と言うべきバンテージ・ポイントとは、即ち、アルタネイティブに分類されるものであった。 生物の場合は即死に直結する“急所”、物体など無機物の場合は亀裂、磨耗箇所と言った具合に 「最もダメージを発生させられる一点」を導き出せると言うことだ。 掌中央の空洞を撃ち抜いたから爆ぜる程の破壊力が発生したのではない。 ジェイソン、アルフレッド、カンピランとの連戦を経て蓄積された関節部分のダメージをバンテージ・ポイントによって見極め、 その“弱点”へと照準を合わせたが為に義手の完全粉砕まで到達したわけである。 カンピランの前言通り、このトラウムを使いこなすには今しがたの精密狙撃のような高い技術が求められる。 弱点の割り出しと命中精度は必ずしも一致しないのだ。 対物ライフルによる狙撃に対し、イブン・マスードは銃弾を掴み取ると言う荒業に出た。 バンテージ・ポイントで見極めた“弱点”がどの位置に動き、これを如何にして撃ち抜くのか。 コンピューター以上に精確な計算と射撃の技術がトルーポには欠かせなかったわけである。 ところが、この高難度の狙撃すら彼は平然とやってのけた。疾駆しながらトリガーを引いたにも関わらず、 寸分の誤差もなく“弱点”を撃ち抜いていた。神業としか言いようのない技量があったればこそ、 バンテージ・ポイントも最大の効果が発揮出来るのだった。 「カミさんの身内自慢はともかく――オレはどんなヤツが相手だって負けるつもりはねぇぜ。 お望みとあらば、バンテージ・ポイントの効果を説明した上で再戦と洒落込もうじゃねーの。 ……あんたの標的(まと)は、どうやらあちらの御二方とは違うようだが、それでもこの状況じゃオレとやるしかねぇよな」 右腕に括り付けられたチェーンソーを起動させたトルーポは、左腕のプロテクターと一体化するヒーターシールドをも イブン・マスードに見せ付けた。逆三角形を描く盾の裏側にはナパーム弾の発射装置が搭載されている。 重武装が施された巨躯でもって威圧し、降伏するよう求めたわけだ。あるいは最後通告のつもりであろう。 一方、イブン・マスードの側は抗戦など不可能に近い。間もなくニコラスたちもこの場に駆け付けるだろう。 ヒューなどは周到にもダンス・ウィズ・コヨーテまで発動させており、数十人の分身でもって包囲網を形成していた。 詰め手を封殺された格好のイブン・マスードは、アルフレッドへ立ち向かおうとするビアルタの姿を目で追うことしか出来なかった。 警護すべき対象はブラックレザーの甲冑を血反吐で汚している。 「君側の奸めぇ――」 満身を朱色に染めながら立ち向かってくるビアルタをシュレディンガーで迎え撃とうとするアルフレッドであったが、 灰色のガスは標的を捉える寸前に跡形もなく霧散してしまった。本人の意思に反し、暗雲が晴れるように掻き消えてしまったのである。 この現象が意味することはただひとつ。ガスの発生源たるグラウエンヘルツから元の姿に戻ろうとしているのだ。 今や、アルフレッドは光芒の中に在る。極刑の執行官を彷彿とさせる衣がヴィトゲンシュタイン粒子へと還元される行程に於いて、 彼の全身は決まって激しい光に包まれる。この輝きが爆ぜるとき、魔人への変身が解けてしまうのだった。 グラウエンヘルツの変身解除を初めて目の当たりにするジャーメインは、何か良からぬ事態が起きたものと心配になり、 大丈夫なのかとしきりに呼びかけていたが、一際輝きが強まったときにはさすがに瞑目してしまった。 視界を閉ざす眩い白い闇にも屈さず起ち続けたビアルタとは対照的だ。 間遠より光の発生を見て取ったシェインは満面から生気が失せている。最悪としか言いようのないタイミングで変身が解けたのだ。 もしも、自分が射手であったなら、やはり生身に戻った瞬間に狙撃するだろう。それが自明の理と言うもの―― 彼は兄貴分が蜂の巣にされることを恐れていた。 「当たりっこないよ! 目は絶対にボヤけてる! でたらめに射る矢なんて滅多には当たらないんだ!」 動揺するシェインを落ち着けようとラドクリフが狙撃について説明していく。彼はプロキシの使い手たるレイライナー(術師)だ。 純然たる術師なのだが、イングラムを使いこなす為に弓の訓練も受けており、狙撃には一日の長があった。 基礎の基礎ながら――狙撃とは精密な命中率があってこそ成立するもの。そして、これを達成するのは優れた眼力である。 怯むことがなかったとは雖も、眩い閃光によって瞳孔を刺激され、視覚に異常を来たしたのは間違いない。 平衡感覚さえ乱れているともラドクリフは付け加えた。 それが証拠にビアルタの足取りは酩酊でもしているかのように覚束ない。先程までの突進力は損なわれていた。 「でも! アル兄ィは日ごろの行いが悪いんだぜ!? こーゆーとき、運悪くブッ刺さるタイプなんだ!」 「それを言っちゃったら元も子もないよね!?」 兄貴分に対するシェインの評はともかく――命中が困難な状況へ陥ったにも関わらず、ビアルタは突進を止めようとしない。 蛇行を繰り返しながらも光の渦中へと向かっていった。 今にも倒れそうなビアルタをジェイソンは訝るような目で睨み続けている。 幼少の頃から武芸の鍛錬に励んできたジェイソンにとってもラドクリフの説明は素直に頷けるものだった。 いくら馬上ボウガンの性能が優秀であるとしても、著しく低下した視力と乱れきった平衡感覚では直撃は難しかろう。 そんなことはビアルタ当人が一番理解している筈だ。それでも彼は得物を手放さない。あくまでも射殺を狙おうとしている。 馬軍の将兵は揃って腰に曲刀を吊り下げている。得手とは言えないまでも鞘を払って斬りかかったほうが遥かに命中させ易いだろう。 「えと、……ジェイソンくん? どうしたのかな? ぼ、ぼく、なんか間違っちゃった……かな?」 「合ってるぜ、ばっちり正解だぜ、ラドクリフ――くんの言うこと。……けど、なんか引っかかんだよ、ヤロウの突撃がよ」 「……は? なんだ、今の。お前、ラド相手に照れてんの?」 「ラドでいいよ〜。シェインくんもそう呼んでくれてるしさ」 「ンなこと言ってる場合か! オイラ、とんでもねぇコトに気付いちまったぞ! ……でもラドって呼ぶッ!」 ビアルタの様子を観察する中で行き着いた結論にジェイソンは双眸を見開き、逼迫した声で「アルフレッドの兄キッ!」と叫んだ。 「そのブッチギレ野郎の狙いは零距離射撃だッ! 飛びついてくるぞッ!」 今まさに光爆を起こす寸前のアルフレッドにジェイソンの呼び掛けが届いたかは全く分からない。 白い闇に輪郭までもが潰されてしまい、首肯しているかどうかも確認出来ないのだ。 彼の傍らに在るジャーメインにはビアルタの真の狙いが零距離射撃であることは伝わった。 「了解! ここは任せてッ!」 アルフレッドに成り代わってジェイソンへ返答し、拳を鳴らしつつ迎撃に向かおうとするジャーメインだったが、 彼女とて至近距離で光を浴びており、ビアルタ同様に足取りがおかしい。眩暈を起こした上に反対方向へよろめく始末であった。 「何が任せてだよ! すっかりヨタってんじゃん! どうなってんだよ、ジェイソン!?」 「オイラに訊くなよ。そーいや、あいつ、低血圧で朝はキツいって言ってたなぁ」 「それは関係ないんじゃないかな……」 ジャーメインの横転を確認したシェインは、ブロードソードを構え直し、自らアルフレッドの加勢に向かおうとする。 ビルバンガーTを発動すればビアルタを蹴散らすことなど造作もないのだが、 人型ロボットと言う極大質量のトラウム故か、連続しての具現化が出来ないと言う弱点がある。 一度、具現化させると半日程度の時間を置かない限りはヴィトゲンシュタイン粒子が反応しないのだ。 「とりあえず、オイラとシェインで突っ込むわ。ラド、お前はサポート頼まぁ!」 「ぼくだけ置いてきぼりはイヤだよ、ジェイソンくん。これでも武闘派なんだからっ!」 ラドクリフとジェイソンも頷き合ってシェインの後を追いかける。 如何に満身創痍のビアルタが相手でも彼ひとりでは返り討ちに遭うのが関の山だ。 フツノミタマと共にザムシードを牽制していたマイクは、少年たちの突撃を目端に捉えるや否や、 ジョウに向かって追従を指示した。異常としか言いようのないビアルタの執念がシェインたちに向けられることだけは避けたい。 「ティンク、おめーも行けッ! キレちまった野郎ってのは何をするかわかんねぇ!」 「あんた見てりゃわかるわよッ!」 「マイクさんも、ティンクさんも! 遊んでいる場合じゃないでしょう!?」 半ば無理強いされる恰好でジョウの後を追うティンクであったが、マイクに言われるまでもなく最初からシェインたちを助けるつもりだ。 無慈悲な暴力の餌食にさせてなるものか――この焦燥はパクシン・アルシャー・アクトゥを携えるジョウとも共有している。 パクシン・アルシャー・アクトゥの穂先は陽炎の如く揺らめいていた。不可視の力が発現していることだけは明らかだが、 その正体までは判然としない。プロキシに似ているようで何かが違う。あるいは、ラドクリフが感じ取った妖気の類を 本当に帯びているのかも知れなかった。 しかし、パクシン・アルシャー・アクトゥの妖気が解き放たれることはなく、ティンクも中空にて直進を止めてしまった。 シェインたち三人でさえ今や立ち尽くしている。彼らの目の前ではヴィトゲンシュタイン粒子が異常な反応を見せているのだ。 変身解除の象徴とも言うべき光爆を起こしたヴィトゲンシュタイン粒子が再びアルフレッドに収束していく。 周囲に輻射し、掻き消えることもなく、だ。眩いばかりの輝きの向こうに生身を現した彼の右足に宿り、そこに青白いスパークを発生させた。 この激しい稲光にはビアルタも見覚えがあった。右足と言う一点へ光が集まっていく様も鮮明に記憶している。 あれはそう――エルンストへの献策を賭けて行われた三つ巴の決闘、その終盤で起きたことである。 青白いスパークを、激烈な稲光の収束を間遠にて認めたニコラスは、双眸を驚愕に見開いた。 「――ドラゴンレイジ・エンターッ!」 昂ぶった声にてニコラスが技名(わざな)を叫んだのは、龍の顎と化したアルフレッドの右足がビアルタへ喰らいついたのと同時であった。 四肢を大きく広げ、左足を水平に折り曲げながら繰り出すこの飛び蹴りは、アルフレッド最大の奥の手、『ドラゴンレイジ・エンター』である。 ホウライの力によって全身の潜在能力を覚醒させ、その状態を維持したまま青白い稲光を右足に纏い、輝ける竜牙と化すのだ。 こうした生まれた破壊力を命中箇所の一点に集中させ、標的の肉体を貫くのがドラゴンレイジ・エンターの真髄だった。 「……うぐぅあああぁぁぁァァァ――」 竜牙に咬み砕かれたビアルタは空高く吹き飛ばされ、僅かな時間差を経て地響きと共に落下した。 一瞬の内に起きた凄絶な出来事に誰もが言葉を失っている。修羅場と言う修羅場を経験してきた筈のトルーポ、カンピランでさえ、 肩で息をしながら起つアルフレッドと血反吐塗れで横たわるビアルタに釘付けであった。両者は余韻の如く青白い稲光を纏わせていた。 ガードすべき対象が絶体絶命の窮地に陥ったのだが、イブン・マスードは救助へ向かう素振りすら見せない。 本人の意思はどうあれ身体が言うことを聞かないのだろう。世界一腕の立つ仕事人は、絶句したまま硬直し続けている。 初めて目の当たりにするドラゴンレイジ・エンターに度肝を抜かれたシェインは、 随伴する親友たちと同じように口を開け広げながら立ち尽くしていた。変身解除の瞬間を狙われると考え、 加勢に駆けつけようと勇んだのだが、終わってみれば結果は想定の真逆。 零距離射撃と言うビアルタの切り札を見極めたアルフレッドは、自らの奥の手でこれを粉砕したのである。 「あ、アル兄ィってば、いつの間にこんな技……」 「俺だってローガンと遊んでいるわけじゃない。ホウライの使い方は研究し続けているんだ」 「じゃなくて! 変身解けたら無防備じゃん! なのに、今のはカンペキなカウンターで、それで……ッ!」 「……お前、俺のことを馬鹿だと思っているだろ」 その一言からシェインが自分の加勢に飛び込んできたと悟ったアルフレッドは、心配性な弟分に向かって薄い笑みを浮かべ、 「お前に心配されるまでもない」と答えた。 灰色の銀貨が鳴り響く瞬間も、変身が解除されるタイミングさえも運に任せるしかないと言うグラウエンヘルツは、 戦略上、極めて不安定な要素である。シュレディンガーやデュミナスクローと言った強力無比の攻撃手段へ頼るのは良いが、 先程のように攻防の真っ最中に変身が解けてしまうケースもあるわけだ。 当然ながらアルフレッドはあらゆる状況をも想定し、対処の方策を練り上げている。 ビアルタの零距離射撃を咬み砕いたカウンターもこのひとつ。爆ぜたヴィトゲンシュタイン粒子をすぐさま取り込み、 ドラゴンレイジ・エンターに繋げてしまったのである。窮地を好機に換える一手であった。 そうとは知らずにシェインは焦って駆け出したのだが、アルフレッドには最初から抜かりなどなかった。 「……あまり効率的な策(て)とは言えないな。二度とは使うまい」 アルフレッドが備えた数多の技の中でも最強レベルの破壊力を誇るドラゴンレイジ・エンターだが、 一瞬にして潜在能力を解放せしめる為、肉体に返ってくる反動も激甚であった。 極度の疲弊に苛まれ、不意によろめいてしまった彼にはシェインとジャーメインが共に駆け寄り、 「このザマじゃ心配するなと言うのが無理」と苦笑混じりでその身を支えている。 一方、ビアルタが受けたダメージは計り知れなかった。必死になって四肢を踏ん張り、身を起こそうと試みているが、 それは不可能に近いだろう。よしんば立ち上がれたとしても、高空からの急降下に巻き込まれた馬上ボウガンは、 見るも無残に大破してしまっている。 「……おのれ……アルフレッド……ライアン……おの……れェ……」 怨嗟を呻き、アルフレッドを睨み据えるビアルタであったが、全身がバラバラになりそうな激痛の中、 曲刀を抜き放つ余力が残されているとも思えない。 「デス損ないってのはレスキュー難いネ。残りリトルなライフをここぞとばかりにバーンしくさる。……マジでウザいんだヨ」と、 忌々しげに唾棄したホゥリーは、腹太鼓を奏でながらビアルタへ近付いていく。 次なるプロキシによって今度こそトドメを誘うと言うのだ。スカァルの雷鼓には早くも火炎の力が宿っている。 「ヴァランタインさん、もうよろしいのでは? ライアンさんもご無事でしたし、息子さんだって――」 「無事? 何が? ……チミだって良いオトナなんだ。トゥデイだけ追っ払っても意味ナッシングって分かるでしょ? ディスでスパッとぶちキル。イタチごっこは余計にパワーとタイムを使うだけサ」 瀕死の人間をいたぶるような真似をジョウは看過出来ず、無理を承知で手心を呼び掛けたが、 案の定、ホゥリーにはこれを聞き届けるつもりなどなかった。浮揚するクムランテキストへシャフトを宿したことが何よりの証拠である。 最早、ビアルタの命運は尽き掛けていた。これを認めたザムシードは身を引き摺るようにして同志の救助へと向かった。 遅すぎたくらいだと自身を責めている。竜の顎にて咬み砕かれる前に引き止めるべきだったのだ。 ザムシードが再び臨戦態勢に入ったことを認めたマイクは、機先を制するべくナスカのコンドルを差し向けようとしたが、 光線の変化は「邪魔をするな!」と言う一喝によって押し止められてしまった。 けたたましい怒号を発したのはふたり――ザムシード当人とフツノミタマである。 両名とも口にする言葉は同じながら、そこに込めた意味は正反対と言っても差し支えないくらい違っている。 シェインを巡り、マイクへ対抗心を剥き出しにしているフツノミタマは、がなり声も必要以上に大きかった。 「揃いも揃って甘ちゃんか、てめぇんとこはよォッ! 殺るか、殺られるかッ! これが戦いの必然なんだよッ!」 「ジョウと一緒にされても困るぜ。命の取り合いは否定してねーし、オレだって戦うつもりだったんだぜ。 見せ場取られてビックリしてるくらいだし」 「うるせぇ! うるせぇッ! コイツとはオレがケリをつけんだッ! 邪魔するヤツぁ、誰であろうとブッた斬るぜェッ!?」 「へいへい。ホント、フッちんは欲張りだなぁ」 「フッちんって言うなッ!」 ひとしきりマイクに噛み付いた後、フツノミタマは居合い抜きの構えを取ってザムシードの前に立ちはだかった。 ザムシードは「邪魔をするなと言った筈だ」と再び吼えた。執拗に立ち向かってくるフツノミタマは、 彼にとってマイク以上に目障りな存在なのである。 「己の愉悦しか考えていない愚劣な者が……私の邪魔をするな!」 「だったら、手前ェの力でねじ伏せてみな! 寝言の前に拳で語れやッ!」 今こそ決着の機(とき)とばかりにフツノミタマは十八番の居合い抜き――『棺菊』を放った。 上体を反り返らせて初撃を回避したザムシードは、身を引き起こすのと同時に左拳を繰り出し、彼の横っ腹に穿っていた。 次なる技へ派生するより早く命中した拳は正確に肝臓を突いている。 拳の軌道を血飛沫が追い掛けた。先程、被った斬り上げによってザムシードの左腕は血肉を深く抉られており、 本来ならば動かすことも難しい状態にあった。それにも関わらず、気力のみで強引に動かし、猛然と打撃を加えたわけである。 渾身の反撃はただの一度では終わらない。左拳に続けて眉間へ頭突きを見舞うや否や、両手でもって彼の右腿を掴み、 後方目掛けて振り回したのである。 轟然と投げを打つ最中に自身の腰を捻り、フツノミタマを後頭部から叩き付けた。 彼の前言に従い、一撃で殺傷せしめる危険な投げに切り替えた次第である――が、 それでもザムシードは手応えを感じることが出来なかった。 「――今のは悪くなかったぜッ!」 転ばされた状態のまま、フツノミタマはザムシードに向かって反撃の刺突を見舞う。狙いは左頬である。 顔面を深く抉り、脳天にまで剣尖を到達させようと言うのだ。 しかし、ザムシードはドスを避けようとはしなかった。次の瞬間には左頬の肉を突き破られ、鮮血まで噴き出したが、 それでも彼は微動だにしない。口内まで侵入してきた剣尖を上下の歯で噛み締め、フツノミタマの攻め手を封じ込めたのである。 喉の奥から獣の如き吼え声を発しながらザムシードは右拳を振り上げた。 これをフツノミタマの喉へ突き込むと、腕を引くことなくそのまま全体重を掛け続ける。空いた左手でもって自身の右手首を掴む辺り、 体重と共に全ての力を一点へと集中させるつもりのようだ。狙いはただひとつ。首を圧し折ることにある。 依然としてザムシードは月明星稀を強く噛み締めている。このままでは得物を取り戻すことなど不可能と諦めたフツノミタマは、 柄より離した右手でもって彼の喉を絞め始めた。 右手一本のみとは雖も、器官に対する圧迫は相当に堪えているのだろう。ザムシードの眼には幾筋もの血管が浮かび上がっていた。 しかも、だ。食い込んだ五指は頚動脈をも精確に捉えており、二重の圧によって攻め立てられる状態であった。 フツノミタマの首が折れるのが先か、ザムシードの卒倒が先か――生死を賭した鬩ぎ合いである。 その様を傍観していたラドクリフは、フツノミタマにこそ戦慄を覚えていた。 自身に死の影が迫っているにも関わらず、彼は嬉しそうに破顔しているのだ。追い詰められる程に笑気が高まっていくようにも見える。 ザムシードの執念も確かに恐ろしいが、それとは異質な怖気と言えよう。 「ビビんなくても大丈夫だって。あーなったらもう誰にも止められないんだ。オヤジが一番ノッてるときだよ」 「……シェインくん……」 フツノミタマの気性――否、本性を理解しているシェインは、恐れ慄くどころか、その暴威にこそ勝利を確信している。 根性に於いても競り負けることはないとラドクリフに熱弁するものの、シェインの言葉は何の慰めにもならなかった。 ただただ冷たい戦慄(もの)が背筋を走り抜けていく。 表情を強張らせたラドクリフの目の前で修羅の死闘は更なる展開を見せた。 シェインの予想した通り、根性の競り合いはフツノミタマに軍配が上がったようだ。一瞬、ぐらりと揺らぎかけたザムシードは、 獣の如き吼え声を搾り出して意識を繋ぎ止めると、満面を引き攣らせつつフツノミタマから拳を引いた。 限界であったのだろう。己の首に掛けられた五指を力任せに引き剥がしたとき、ザムシードの顔は完全に血の気が失せていた。 自然、噛み締めていたドスも頬の傷口から抜け落ちる。油断なく得物を拾い上げたフツノミタマは、 体勢を立て直すべく後方へ飛び退ったザムシードに追い討ちの一閃を見舞った。 「このままでは……終わらんッ!」 だが、ザムシードも逃げているばかりではない。間遠より一気に腕を伸ばし、速度と威力が増した右拳を 斬撃の基点となる右肩付け根へと突き入れる。 これまでの攻防でも右腕には幾度となくダメージが重ねられており、その蓄積が祟ったのか、 ついにフツノミタマはドスを取り落としてしまった。骨や腱を断つには至らなかったが、腕は暫く痺れて使い物になるまい。 ドスを握れなくなっては戦いようもない。今まで以上の窮地へ陥ったと言うのにフツノミタマの面から不遜な笑気が失せることはなかった。 咥えていた鞘を離すや否や、いきなり身を沈み込ませ、今にも地面に落ちようとしていたドスの柄を噛み締めた。 続けざま首を横に振り、ザムシードの左脹脛にドスの剣尖を突き立てる。変則的にも程がある刺突だ。 ザムシードの反応を待たず、一瞬にして剣尖を引き抜いたフツノミタマは、両脚の力のみで轟然と跳ね上がって更なる追撃を見舞う。 その一閃はブラックレザーの甲冑をも裂いて生身にまで達し、腹から胸に掛けて深手を負わせた。 「禁じ手、『屠跋(とばつ)』――ナメてんじゃねぇよッ!」 フツノミタマが語った“禁じ手”と言うに説明に対し、ザムシードは心中にて「貴様の技は全て正道ではない」と反論した。 鞘を噛み締めつつ、居合い抜きも繰り出すと言うスタイルをザムシードは過去に見たことも聞いたこともない。 しかし、フツノミタマが言う禁じ手は輪を掛けて理解に苦しむ物だった。刀自体を咥えて斬りかかると言う発想自体が奇抜にして邪道なのだ。 外法ならではの殺人術と言えよう。 『屠跋』の凶刃はザムシードの右拳をも狙っている。首と胴に捻りを加え、ドスの剣尖を握り拳の指と指の間へと滑り込ませた。 掌から手の甲へと貫通した白刃をすぐさま引き抜こうとするフツノミタマであったが、この動きは突如として止まってしまった。 右拳を貫かれたザムシードがせめてもの抵抗とばかりに筋肉を収縮させ、月明星稀を奪い取ろうとしているのだ。 骨をも断たれたと言うのに凄絶な気迫である。 攻める側も守る側も修羅の所業であったが、この瞬間に於いてはフツノミタマのほうが一枚上手であった。 左右から加えられる圧迫に逆らわないよう白刃を垂直に振り抜いたのだ。ザムシードの右手は中指と薬指の間に裂け目が生じ、 握り拳を作ることも難しい状態に陥ってしまった。 惨たらしい攻防の後、互いに飛び退って睨み合う形となったのだが、右肩の痺れが癒え始めているフツノミタマはともかく、 ザムシードの劣勢は覆し難いように思える。彼は左右の拳が満足に使えなくなっているのだ。 拳闘を最大の武器とする者にとって、これは致命的な状況と言えた。 「マジで猿真似が得意みてーだな」 「原理が分かれば、模倣するのは造作もない」 「物真似芸人にでも宗旨替えしたらどうだ、てめぇ?」 「……余計なお世話だ」 曲刀の投擲でもって不意打ちされた際、フツノミタマは筋肉を収縮させて剣尖の進行を食い止めて見せた。 胴が貫かれる危機を腹筋のみで押さえ込んでいたのだ。 ザムシードはワンインチクラックに続いてこの防御法まで模倣し、これを「猿真似」として皮肉られたのである。 「猿真似も大口もここで打ち止めだぜ。痛ェのは気力で耐えられる。だがよ、肝心の身体がイカレちまったら、そうは行かねぇ。 その拳でオレを殴れるか? その足でどんだけ踏ん張れるよ? 手前ェの体重だって支えきれねぇんじゃねーのか? ……気合いだけじゃどうにもならねぇよなぁ? ええ、どうだ、オラァッ!」 そのように挑発した後、フツオミタマは嬉しそうに笑った。ザムシードへ嗜虐の念を持っているわけではない。 五体が壊されていながら戦意を滾らせる鉄の精神力へ尊崇を抱き、とことんまでこの強敵と戦いたいと言う希求に打ち震えているのだ。 戦いの渇望は歓喜にも等しい。自然と笑いが込み上げて来たのである。 まともに握り締めることなど出来ない筈の右拳と、力すら入らない筈の左腕を気力ひとつで動かし、 拳闘の構えを取ったザムシードは、フツノミタマの飽くなき闘争心に応じようとしている。 元よりこの壁を破らない限りは先には進めない。朋輩を助けることも叶わない。 残る全ての力をぶつけるつもりであった。 「凡百の弱卒と群狼領の戦士を一緒にしてくれるな。この身を、骨肉を形作るはテムグ・テングリの血だ。 誇り高き戦士の……。例え、肉体が粉微塵にされようとも魂で貴様に喰らい付く」 「さっきは現実見ろっつったんだよ。尤も、てめぇみてーなド根性、悪くねぇぜ? マジな殺し合いってのは、こーゆーもんだからよ。そうでなけりゃ、一個も愉しくねぇ」 「友を見捨てることなど断じて出来ん! そう言っているのだッ! 貴様のような戦闘狂とは違うッ! 」 己が戦意の根源とは何か。これをザムシードが吼えたとき、間遠にて悶え苦しんでいたビアルタも 唸り声と共に身を引き起こした。朋輩の声が耳に届き、大いに叱咤されたのであろう。 朋輩の思いに呼応したビアルタは、痛ましいくらいに震える右の五指を曲刀の柄に掛けた。 最早、本来の武器は使い物にならない。それでも、白刃を抜き放ち、最後の一太刀に全てを賭けるつもりであった。 アルフレッドの支えをシェインに任せたジャーメインは、拳を鳴らしながらビアルタと向かい合う。 今度は彼女が迎撃の役目を受け持つと言うわけだ。 「貴様、御曹司に怪我を負わせた下郎かッ! 一石二鳥とはこのこと! 貴様もこの場で始末してくれるッ!」 「逆恨み? 意趣返し? 戦士を名乗るクセして性格が陰湿ね!」 「黙れッ! 御曹司の恨みを思い知るが良い――」 この期に及んで火を吹くビアルタに対し、陥没する程に強く地面を踏み締めて威嚇するジャーメインであったが、 実際に自慢の蹴りが飛ぶことはなかった。 曲刀を抜こうと身構えるビアルタであったが、悲しいかな今の彼は握力と言うものを全く失っており、 柄に掛けられていた五指は鞘を払うことも出来ずにすっぽ抜けてしまったのだ。 フツノミタマが言う通り、気力ではカバーし得ない過酷な現実がそこに在った。 いくら気魄が漲っていようとも肉体そのものが壊れていてはどうしようもない。 憐憫すら誘うビアルタの後姿を睥睨したホゥリーは、しかし、同情など欠片とて見せず、 満面に酷薄の色を滲ませながら「一巻のエンドってオチだネ。チミにはお似合いなくらいチープだヨ」と 悪言を吐き捨てた。 このとき、クムランテキストにはファランクス、シャフト、ペネトレイトと三種ものプロキシが格納されている。 加えて、右手に構えるスカァルの雷鼓にはマグニートーが、空いた左手にはクルスが、それぞれ宿っていた。 これを見て取ったラドクリフは、「あれを全部一気に放ったら、御苑が丸ごと吹き飛びかねないよ」と 身震いしながらジェイソンに語って聞かせた。息の根を止めるなどと言う生温い話ではない。 ホゥリーは肉片さえ残さずにビアルタを消滅させるつもりのようだ。 「カタストロフィとゴーオンしようか――」 ホゥリーがスカァルの雷鼓を振り翳したその瞬間(とき)、突如としてビアルタの周囲にヴィトゲンシュタイン粒子の光爆が起こり、 然る後にリンゴやオレンジ、バナナと言った果実類が彼らの前に出現した。 粒子の燐光が生み出した果実類は、言わずもがな本当の青果物ではない。 そう言った形状の吸着爆弾がヴィトゲンシュタイン粒子によって具現化されたのである。 ピナフォアが操るトラウム、『イッツァ・マッドマッドマッド・ワールド』に間違いなかった。 浮揚する数多の吸着爆弾は、一種の檻と化してビアルタを閉じ込めている。 トラウムを用いての乱入によって虚を衝かれ、振り上げた拳のやり場を失ってしまったホゥリーは、 顰めっ面で立ち尽くしている。 慌てて駆け寄ったラドクリフが白装束の袖を引き、矛を収めるよう訴えたことでようやく憤怒が鎮まったらしく、 スカァルの雷鼓を一振りして全てのプロキシを打ち消し、更にはクムランテキストの具現化をも解除した。 「――だから、邪魔すんなっつってんだろがッ! てめぇから斬ったろうか、あァんッ!?」 これはフツノミタマの張り上げた怒号である。見れば、ザムシードの身も吸着爆弾の檻で拘束されていた。 今まさに決着へ臨もうとする直前で出鼻を挫かれ、癇癪を起こした次第である。 その怒号を右から左へ聞き流し、四阿よりビアルタへと歩み寄ったピナフォアは、 憎悪の眼光をぶつけてくる彼に向かって「無駄よ、何もかも無駄。あんたたちの完敗よ」と言い捨てた。 その声に感情は一切ない。同族を裏切ることへの呵責も感じられない。 傍観する周囲の人間のほうが慄いてしまう程に冷淡であった。 「ドレッドノート……! 貴様さえ、貴様さえ裏切らなければこんなことには……」 「どうかしらねぇ。あんたら、まんまと罠にハマッてくれたけどさぁ、それも最初から要らなかったかもだわ。 張り切ってお膳立てしたって言うのに、無駄骨折った気がするのよねぇ、あたし」 「何ィッ!」 「あんたらを打ち負かした連中の顔、篤とご覧なさいよ。あんたら、閣下の軍団とどのくらい戦ったわけ? トルーポだって最後にちょろっとやり合っただけじゃないの。あとはライアン御一行の嬲り者。 お陰様でこっちは殆ど無傷でピンピンしてるわ」 「気の触れた連中など関係あるかッ! オレは貴様の裏切りをだなッ!」 「そのイカれた連中にボロクズにされたのは誰かって言ってんの。他の誰でもないあんたらでしょ、バカ」 「バカと言うほうがバカだと教わらなかったか、恥知らずッ!」 「ぎゃーぎゃーうるっさいわねぇ、ホント……。あんたもフランカーも、ココに踏み込んだ時点で命運が尽きてたってことよ。 ライアン御一行にやられなくても、あたしらが返り討ちにしてやったわ。 ……どう足掻いたって、あんたらは負けてたの。完敗してたのよ。そこんとこ、認めなさい」 「舐めるなッ! 勝負は機の運ッ! 何もかも思うがままになるものかよッ!」 「そのザマで言うことじゃないわね。手前ぇで間抜けを強調してるわ」 「クッ……」 血塗れの歯を食い縛り、ピナフォアを睨めつけるビアルタであったが、 戦闘を継続出来るだけの余力が残されていないことは厳然とした事実。 ダメージが気魄を上回ってしまった今、敵愾心を眼光に込めると言う虚しい抵抗しか彼には選択の余地がなかった。 「負けを認めて、とっとと失せな。それが身の為ってもんだぜ」 「甘いコト言ってんじゃないよ、トルーポ! ピナフォアもピナフォアさ! テムグ・テングリなんざ生かしておく価値もない! とっとと爆殺しちまいな! 敵は一匹でも少ないほうがいいだろう!?」 「話がややこしくなるから、おめーはちょっと黙ってろ。気持ちは分かるけどよぉ」 私憤を丸出しにして事態を悪化させそうなカンピランを封じ込め、トルーポはビアルタに負けを認めるよう促した。 経緯はともかくとしてゼラール軍団の目的は達せられたようなもの。この上更に命を奪(と)る必要はないとの判断であった。 トルーポの正面ではイブン・マスードも吸着爆弾の檻によって身動きを封じられている。 徹底的に抵抗するかに思われた世界一腕の立つ仕事人は、意外にも檻の中で大人しく身を縮めている。 ビアルタとは正反対の有様だ。 左の義手が大破し、反攻し得るだけの力は損なわれている。一足先に完敗を認めたと言うことかも知れない。 「――完敗よ。こちらの完全敗北」 トルーポの勧告へイブン・マスードの頭越しに答えたのは、女の声であった。 当然ながら、ピナフォアでもカンピランでもない。ましてや、レイチェルやジャーメインの声でもなかった。 紛れもない第三者の物――声の主を求めて頭を振り回したビアルタは、 鬱蒼とした茂みより現れた人影を捉え、次の瞬間、驚愕に双眸を見開いて絶句した。 カジャムである。満面に憂いを帯びた女将軍がツァガンノール御苑へ踏み入ってきたのだ。 曲刀の鞘に吊るした戦輪(チャクラム)以外に共は連れていない。 このときばかりはピナフォアも表情を曇らせた。ビアルタやザムシードならばいざ知らず、 カジャムは姉のように慕う相手なのだ。騎馬の御し方から合戦場での振る舞い方まで万事を教わった大恩人でもある。 自分の選択は、人生の師とも言うべきカジャムをも裏切ること―― 重々承知の上で決断を下した筈なのだが、実際に姉貴分と顔を合わせた瞬間、ピナフォアの心は揺れに揺れた。 それが人間に内在する感情と言うものであり、最早、ピナフォア自身にも取り静めることは叶わなかった。 途方もない罪悪感に駆られていたこともあり、トラウムを解除するようにカジャムから求められたピナフォアは、 些かも躊躇することなくこれに頷いた。 イッツァ・マッドマッドマッド・ワールドの束縛から解放されたビアルタは、すぐさまピナフォアへ詰め寄ろうとしたが、 身構えた瞬間に精根尽き果て、ついに卒倒した。 目を回して倒れ込んだビアルタと沈鬱な面持ちで妹分を気遣うカジャムを順繰りに見つめたザムシードは、 今し方の宣言を復唱でもするかのように「……左様、完敗ですな」と擦れ声で呟き、落?の風情で瞑目した。 「あァッ!? てめぇ、勝手にケリつけてんじゃねぇぞッ! まだ終わってねぇッ! オレぁ、まだまだ戦えるッ! てめぇだってそうだろうがッ!? 来いや、オラァッ!」 「いや、終わったよ、私は燃え尽きた。バスターアローを討つ名目は失われ、ビアルタ殿をお助けする必要もなくなってしまった。 ……完敗だ。首を刎ねるなり膾斬りにするなり好きにしたら良い」 「オレが言ってんのはそう言うことじゃねーんだよ! 殺人鬼みてーに言うなやッ!」 このまま勝負が決することにフツノミタマは不満の様子だが、カジャムがツァガンノール御苑へ現れた瞬間に ザムシードは戦う理由を本当に失ってしまったのである。 ピナフォアの具申を受け、エルンスト側近の間でトルーポ抹殺の機運が高まっていたのは事実だ――が、 粛清断行の指示はデュガリもブンカンも出してはいない。計画を具体化するような段階にも入っていなかった。 今度の一件は、あくまでもザムシードとビアルタの独断であったのだ。 当然、ツァガンノール御苑にてトルーポ暗殺計画が遂行されることなど馬軍の将は誰も知らない筈だった。 それなのにカジャムの姿が個々に在る。エルンストに最も近しい女将軍の姿が、だ。 彼女の登場は、それ自体がザムシードとビアルタの置かれた状況を表していると言えよう。 ミサイルの空中爆発などと言うハンガイ・オルス始まって以来の荒事を聞きつけて急行したのであれば、 暴徒の鎮圧をも想定して相応の手勢を引き連れていて然り。大部隊を率いて突撃してくるほうがよほど自然である。 白目を剥いているビアルタに歩み寄り、その容態を確かめたザムシードは、 次いでカジャムへと目を転じ、無念無想の面持ちで首肯して見せた。言葉なく「完敗」を示したのである。 ザムシードに頷き返したカジャムは、暫時の逡巡の後、トルーポらに囲まれているイブン・マスードへ 「イブン・マスード、あなたへ頼んだ仕事もこれで終わり。物足りないかも知れないけれど、依頼完了と言うことにして頂戴」と呼び掛けた。 「ザムシードとビアルタを殺そうとする人間はもう居ないわ。今度、内輪揉めが起こるとしても、 それはテムグ・テングリの問題。あなたにはもう彼らをガードする理由はない。 報酬は全額指定の口座に振り込ませていただくから、お引取り願えるかしら――」 この瞬間、世界一腕の立つ仕事人を差し向けた依頼主がフツノミタマの推理通りであったと証明された。 「――マジ? いやぁ、それ聞いて、安心したぜ! フツまで出張ってくるし、マコシカの魔法使いまでいるし! このデカブツなんか意味不明に強ェしよぉ〜。生きた心地しなかったぜ、俺」 依頼の解除を示された途端にイブン・マスードは素っ頓狂な声を上げた。 どうにも裏社会の住人らしくない。今の今まで無声に徹して戦ってきた為、 陰惨な性格と言うイメージを勝手に抱いていたのだが、快活な声質は底抜けの陽気さえ帯びている。 正面切って相対したトルーポとカンピランは勿論のこと、裏社会での下馬評を嫌と言うほど訊かされていたヒューも あまりのギャップに唖然呆然と口を開け広げている。 「ちょっと、どうなってんのよ? あれが世界で一番腕が立つ殺し屋ってワケ? 話と全然印象が違うじゃない。どこにでも居そうなお兄チャンじゃないの」 「なんだか、そこはかとなくサムと同じような匂いがするんですけど……」 「お、俺っちに訊かれても困るっつーの。中身があんなオッペケペーとは思ってなかったんだぜ……」 レイチェルとニコラスから肘で脇を小突かれるヒューであったが、彼自身が一番戸惑っているのだ。 ヒューをしてオッペケペーとまで評されてしまったイブン・マスード当人は、 親交があると言うフツノミタマに「おめーは相変わらず」と右手を振って快活に笑い掛けている。 無茶にも程がある戦いをシェインに叱られ、止血の応急手当を受ける最中のフツノミタマは、 豹変としか言いようのない“ウース”を目端に捉えつつ、「クソうるせぇスイッチが入りやがった」と顔を顰めている。 心底面倒臭そうな反応から察するに、どうやらこの陽気こそがイブン・マスードの地の部分であるようだ。 「返事しなくていいのかよ、オヤジにとっちゃ数少ない友達じゃないの?」 「お前もシカトしろ。絡まれると長ェんだよ、あいつ」 「二重人格ってヤツ? アル兄ィやジェイソンとやり合ってたときはひたすら不気味だったぜ。一言も喋らないんだもん。 ……で、口を開いたらアレだろ? 人格自体が丸ごと切り替わってんのかなって」 「本人は仕事とプライベートでスイッチを分けてるらしいがよ。……ずっと仕事モードでいろってんだ」 「それにしても裏表が激しいと思うんですけど、プロともなるとそこまではっきり切り替えられるものなんでしょうか……」 「何言ってやがる、おめーも、おめーんとこの師匠も似たようなもんじゃねーか。 何時だったか、アル公を射殺そうとしたときのおめーは別人みてーだったぜ」 「そ、それを言われるとぼくも答えようがないのですが……」 「おい、バカオヤジ。ラドをいじめんなよ。いくらオヤジだってボクが許さないからな」 「なんでそーなんだよ! いじめてねぇだろッ!?」 「――ホワッツ? フッたん、なかなかユニークな遊びをスタートしたみたいだネ? ランペイジ足りないってセイってたし、なんならボキと続きをしようか? ボキもクールダウン出来てナッシングだしぃ?」 「はぁッ!? うぜーから混ざってくんなッ!」 妙な雰囲気で睨み合いを演じるフツノミタマとホゥリーは捨て置くとして―― イブン・マスードの変貌振りについて詳しく解説されたシェインとラドクリフは揃って首を傾げている。 一瞬ながら拳を交えたジェイソンは、イブン・マスードが心掛けていると言う公私の変化に生々しい恐怖を覚えたようで、 親友ふたりに向かって、「プロっちゃプロだぜ。ありゃ笑って人殺せるタイプだ。ネジが飛んでなきゃ、あんな風にはならねぇ」と、 身震いするようなゼスチャーを披露していた。 「ギルドでも一、二を争う凄腕の仕事人っつって、あたしらをさんざん煽ってくれたのはどこのどいつだったかしら。 ねぇ、ジョウ、あんたは憶えてる? あたしゃちょっと忘れちゃったわよ」 「そんな風に言ったらマイクさんが可哀想ですよ。腕が立つのに間違いはなかったのですから。 ……ただ、聞きかじりの情報でいたずらに混乱を煽ったと言う点は私にもフォローし切れませんが……」 「あ〜あ〜、オレですよ、オレオレ! 裏社会の人間でもねぇのに出しゃばってすんませんでした! でもよ、ヒューにだって奴さんの裏表は分からなかったんだぜ? 畑違いのオレに全部見抜けっつーのは、 ちょいと無茶なハナシじゃねーかい?」 「マイクさん、言い訳は晩節を汚しますよ」 「うッわー! 終わってるわね、このバカ。ジョウにまでこんなこと言われちゃってるわよ! 天使降臨ってウワサのジョウに! 救いようのないクズね、自称冒険王サマは」 「なんなの、おめーらの歪みねぇコンビネーション。いい加減にしねぇと、オレ、グレちまうぞ。知らねーぞ」 イブン・マスードの潜入が発覚した当時にチームの混乱を煽り立てたと言う責任をひとり負わされたマイクは、 ジョウとティンクから繰り出される当てこすりの連発に対抗するべく両耳に人差し指で栓をしている。 難癖だと耳を貸さなければ良いのかも知れないが、イブン・マスードの名をローズウェルから報(しら)された瞬間に過剰反応し、 結果として皆に恐怖を植え付けてしまったと言う自責を持ってはいる。 それが為にマイクは言い逃れもせず、甘んじて集中砲火を浴び続けているわけだ。 自分の話題で持ちきりと察知し、テンションが跳ね上がったのだろうか、目にも留まらぬ早業でフツミタマの背後に回り、 その肩へと右腕を回したイブン・マスードは、「世界一腕が立つ仕事人っつったらコイツっしょ」などとおどけて見せた。 「そらギルドは仕事し易いけど、結局、井の中の蛙だしぃ? フリーのデラシネに比べたらペーペーも良いトコだもん。 上層部(うえ)に恩義もあるし、“死神”だってどこで目ェ光らせてっかわかんねーから、あんまギルドの悪口も言えねーんだけどね」 「引っ付くな、ウース! 気色悪ィんだよッ!」 「つれねぇなぁ。俺とフツの仲じゃね〜の。たまには呑み行こうぜ〜、なぁ〜。てか、呑みに来いよ、ウチによぉ〜」 「ヤサが割れるようなことを言うなっつの。……ったく、危なっかしいんだよなァ、昔っから……」 フツノミタマは“ウース”を指して古馴染みと紹介していたが、どうやら顔見知り程度の付き合いどころか、 相当に親しく交わっていた様子である。「数少ない友達」と言うシェインの見立ては、おそらく正解なのであろう。 いくら叱声を飛ばされても臆することなくじゃれ付くあたり、イブン・マスードはスカーフェイスの凄味と気性にも慣れ切っているらしい。 複数の仕事人が同じ空間に居合わせた場合、互いに武器を取って“始末”をつけると言う仕来りがあるとシェインは聞いた憶えがあった。 “商売敵”との対面とは、裏社会で生きる者にとってはそれ程までに重大な意味を持つのである。 デラシネ同士の場合であれば、そのようなケースに発展する場合もあるようだが、 ギルドに所属するイブン・マスードと、直接的に在籍はしていないものの、ギルドと良好な関係を保ち続けるフツノミタマについては、 この限りではなさそうだ。“商売敵”と言う殺伐とした間柄ではなく、久方ぶりに顔を合わせた友人同士そのもの。 少なくとも、シェインにはそのようにしか見えなかった。 最早、イブン・マスードは危険人物ではない――そのことを認めたマイクは、依然として続くジョウとティンクの小言に背を向け、 険しい表情のまま佇んでいるカジャムへと目を転じた。ツァガンノール御苑にて発生したこの戦闘について後始末を付けるつもりなのだ。 彼の視線が向かう先を辿れば、そこでは当のカジャムがゼラール軍団を相手に睨み合いを演じているではないか。 アルフレッドもトルーポの傍らに立っており、今や両者の間には一触即発の気配すら垂れ込めている。 ビアルタを介抱するザムシードはカジャムの側に随いてはいるものの、敗者の領分とでも言うように直鉄対峙には加わらず、 一歩引いたところで両者の様子を傍観していた。 カジャムからビアルタの容態を尋ねられても静かに頷くのみ。発言の権利さえ放棄したようにも見える。 神妙と言うよりは卑屈と表すべきであろう。双眸は昏く、面にも自棄の相が浮かんでいる。 ザムシードの諦念とピナフォアの叛意を思うカジャムの口から大きな大きな、とても大きな溜め息が滑り落ちた。 このような事態を迎えることに最初に気が付いたのはカジャムであった。ゼラール軍団壊滅にはトルーポの抹殺が欠かせないと 妹分が仄めかした瞬間、彼女はその真意を、造反と言う結末を悟ってしまったのだ。 幼少の頃より姉妹のように接してきた両者は以心伝心の関係にある。 ピナフォアのほうもカジャムに叛意を見抜かれていることは計算済みだった。 それ故にツァガンノール御苑の使用を姉貴分に直接申請したのである。彼女は――テムグ・テングリ群狼領の女将軍は、 絶対にこの申し入れを断らないと踏んだのだ。以心伝心の姉妹分にとって、これは造反の宣言に等しいものであった。 エルンストの補佐たる女将軍としては反乱分子を外へ出すわけには行かない。 ハンガイ・オルスの内部にて鎮圧せしめるのが、将たる立場の人間が下す最善の判断なのだ。 ツァガンノール御苑が永訣の舞台になることを、両者は視線の交錯のみで理解し合っていた。 互いの心を読み取れる関係(こと)は、ある意味に於いては“悲劇”としか例えようがなかった。 当人たちはひた隠しにして来たつもりかも知れないが、ザムシードとビアルタがトルーポ抹殺を図っていたことは、 エルンスト以下馬軍の最高幹部にとって公然の秘密でしかなかった。彼らの企みは常日頃の言行からして瞭然であり、 ここ三日ほどは特に殺伐の気を醸し出していたのだ。疑ってくれと言っているようなものである。 一応、ドモヴォーイに申し付けて周辺に探りを入れてはいたが、馬軍自慢の諜報能力に頼らずとも抹殺決行日は簡単に割り出せた。 「確かに隠密はこちらの持ち前だが、それにしてもアイツらは最低だったぞ。隠し事には全く向かん。 正直が美点と言えば聞こえは良いが、厳しい言い方をするとだな、あれはアホ丸出し。アホそのものだ」 ザムシードとビアルタの計画進行をドモヴォーイはこのように評している。秘密作戦としては下の下と言うわけだ。 ふたりが捨て身でトルーポの抹殺に動いていることもドモヴォーイは見抜いていた。 エルンストの決裁を受けたカジャムは、ドモヴォーイを通じてギルドにザムシードたちの警護を依頼。 こうして、イブン・マスードが派遣された次第である。裏社会との繋がりなど本来であれば忌避すべき手段であるが、 両将はテムグ・テングリ群狼領にとって欠くべからざる逸材。喪失を避けるには形振り構っていられなかった。 ハンガイ・オルスに寄宿する連合軍の手前、群狼領の内輪揉めを露呈するわけにもいかない。 ザムシード、ビアルタの救助でさえ秘密裏に完遂しなくてはならなかった。 尤も、蓋を開けて見ればこの大乱戦である。多数派工作に奔走していた筈のアルフレッドが旧友の加勢に駆けつけ、 そうかと思えば冒険王までゼラール軍団の側に回っているではないか。内々での処理と言う当初の計画は完全に吹き飛んでいた。 ホゥリーはプロキシを乱発し、トルーポに至ってはミサイルランチャーまで発射している。 いくらツァガンノール御苑が外部から隔絶された区画であるとしても限界と言うものがある。 大爆発を伴うような戦闘が聖地の外に漏れない筈もなかった。 ここにたどり着くまでの間、敵襲と早とちりして混乱する者をカジャムは何人も見てきたのだ。 「もしかして、情報工作をお求めでは? でしたら、ワタクシの出番! 良い人材をたくさん飼って――もとい、世話しておりますので! こちらに控えるローズウェル・エリックスンもそのひとり! グッドな仕事にかけては、他所に引けを取りません! ご用命の際には是非ともワタクシ、K・kのモバイルへ御一報を!」 「あらあら〜? いつの間にやら飼い犬にされちゃったわ。キャンキャン吼えたほうがウケが良いのかしらぁ?」 「リップサービスだよ、リップサービス! ビッグな存在感を見せ付けておけば、顧客の信用度はスーパージャンプで大爆発! ……だからね、気を悪くしないで欲しいんだよね。ワタクシにはキミだけが頼みなんだからね」 「爆発って言うか不発じゃない? シカトされちゃってるのは気のせいかしらぁ?」 「なァに、これからこれから! 世の中、需要と供給で回っているのさ。市場の原理ってモンだよ。 トルーポ氏もカジャム氏も、いずれはワタクシを頼らなくてはならなくなるのさ!」 逞しいのはK・kだ。荒事に巻き込まれて散々な目に遭い、先程まで半べそ状態であったにも関わらず、 商売の兆しを嗅ぎつけるなり、ローズウェルの陰に隠れつつ売り込みの好機を窺い始めた。 今のところは誰からも黙殺されているが、どのような状況でも変わることのない胴欲には潔さすら感じられる。 「マイク……」 またしても訪れた緊張状態へ臨まんとする冒険王の背をシェインの声が追いかけた。 フツノミタマの応急処置を済ませた彼はマイクを心配そうに見つめている。その傍らにはラドクリフの姿が在った。 同胞のもとへ即座には復帰せず、応急処置を手伝っていたこの少年も不安げな面持ちである。 イブン・マスードから逃れつつシェインとラドクリフを順繰りに一瞥し、次いでマイクと視線を交えたフツノミタマは、 何事かを訴えるように顎を刳(しゃく)って見せた。 シェインとラドクリフ、そして、フツノミタマの想いを受け止め、握り拳に親指を立てて応じるマイクではあったが、 彼らが望む通りに後始末を付けるのは極めて難しそうである。 マイクが出方を計る中、言葉なき対峙を動かさんと口火を切ったのはカジャムであった―― 「――此度はフランカーとオイラトの乱心に巻き込み、誠に申し訳なかった。両名には厳しい罰を与えるつもりよ」 「カジャム様に頭なんて下げられちゃ、却ってこっちが困っちまいますよ。……しかし、参ったね、ど〜も。 オレらとしても、どう収まりをつけたら良いのか分からんのですよ。どうやら殺し屋までぶつけられたみたいなんでね」 「必ず償いをさせてもらうわ、バスターアロー。それまでの間――そう、当面はハンガイ・オルスに留まっては貰えないかしら」 「待ってくださいや、そりゃいくらなんでも難しいでしょうよ。オレたちはテムグ・テングリを追放された身分ですぜ? カジャム様のお墨付きは心強いが、周りのお歴々が絶対に許さんでしょう」 「そうはさせないわ。反対者は責任をもって封じ込める。……これは御屋形様の思し召しでもあるのよ」 「そりゃまた……まさかと思うが、追放処分が消えてなくなったってコトですかい? いえね、勘違いはしっちゃならんと思うんで、 念の為に確認をさせて貰おうと思いましてね」 「……そう考えて貰って構わないわ」 「おいおい、参ったな。オレたちみたいな流れのヤクザ者に大盤振る舞いもあったもんだぜ」 ――が、これは彼女自身の意思によるものではない。予めエルンストより言い渡されていた“厳命”である。 トルーポの生死に関わらず、ゼラール軍団の復帰を認めると言うのだ。 受ける謂れのない暴力あるいは卑劣な追撃に晒してしまったことへの代償である。 尤も、「代償」の二文字は方便や建前の類に違いあるまい。諸将の手前、軍団の追放を決定せざるを得なかったものの、 エルンスト当人はゼラールのことを高く買っている。叶うようであれば慰留したいとさえ願っていたのだ。 追放撤回の口実を得て最も喜んだのは他ならぬ御屋形であろう。馬軍の将が働いた凶行の償いと言う名目には誰もが頷くしかない。 考えられる最悪の展開になったことを悟ったザムシードは、敗者の領分として押し黙ってはいるものの、内心、臍を噛む思いである。 意識を失ってさえいなければ、ビアルタなどは猛然と抗議したことだろう。 ツァガンノール御苑にて行われていた密議を暴けば、いくらでもトルーポを追及出来るのだ。 一方でマイクはこの成り行きこそ最良だと思っている。今ここで無益な内紛を終わらせられるのだ。 これこそシェインたちにとって最も望ましい展開であった。ここぞとばかりに仲裁に入り、ゼラール軍団に向かって、 「ここいらで折り合いを付けちゃどうだ」と呼び掛けた。 互いの顔を付き合わせて会話するのは久方ぶりであるが、冒険王の諫言とあれば、さしものトルーポも耳を傾けざるを得なかった。 ペガンティン・ラウトの海洋貿易でも彼には世話になっている。 「お前らにとって一番守らなきゃならねぇもんは何だ? ゼラールだろう? あいつのことを思うなら突っ張っちゃならねぇ!」 「また何時もの口八丁? ……まっぴらごめんさ! テムグ・テングリのやるコトだ、騙まし討ちを仕掛けてくるに決まってる! 甘いコトを言って、あたしらを油断させる罠なんだよッ!」 「もうちょっとアタマ働かせろ、バカンピラン! アイツに追放なんて言うダセぇ肩書きを背負わすなっつってんだ! ……悲しいけどよ、一度押された烙印ってのは消えてくれねぇんだ!」 「ちょ、ちょっと! 今とんでもないコト、言ってくれやがったわね!? こんな悪口、生まれて初めてだよッ!」 鼻息荒く抗弁するカンピランにマイクは頭を振った。 「誰かに追われて逃げ出す姿なんてアイツに似合うかよ? いつだって堂々としてるじゃねぇか! ペガンティン・ラウトを説き伏せたときの勇ましい姿、オレは今でも鮮明に憶えてるぜ!? アイツの名誉に傷を付けるのはお前らだってイヤだろ? オレはそんなゼラール・カザンを見たかねぇよッ!」 追放処分の撤回によって何が守られるのかをマイクは訴え掛けていく。 それは、トルーポたち軍団員の忠誠の在り方を問うことにも等しい。 カジャムの提示を飲み込めば、“閣下”にとって掛け替えのないモノを守り抜くことが出来る。 即ち、ゼラール軍団にも造反を起こすだけの理由がなくなる。全てが丸く収まるわけだ。 「それからよ、後先考えずにここに駆けつけたバカが山ほどいるってことを忘れてやるなよ。 ……ダチのピンチを絶対に見過ごせねぇ最高のバカどもの気持ち、少しで良いから汲んでやってくれ」 最後にマイクはそう言い添えた。 冒険王の発した「ダチ」の一言には様々な想いが込められている。その一言を受け取る側とて様々な想いを駆り立てられる。 トルーポにとっての「旧友」、ラドクリフにとっての「親友」など想いの形はそれぞれだ。 辛そうに表情を歪めたピナフォアは、その胸中にてフィーナとカジャムのことを強く想っていることだろう。 合戦場へ向かう船上にて友情を育んだフィーナには、未返信のメールが溜まる一方だ。 今朝も今朝とて旅先の風景画像が届けられたばかりである。そこには親友の身を案じる温かなメッセージも添えられていた。 マイクにとってもゼラール軍団は親しき友人である。海洋貿易の相手だから便宜を図っているわけではない。 失いたくない相手であるが故に必死で説得を試みているのだ。 マイクの言葉はトルーポたちに必ず届いている――彼の説得を間遠にて見守るジョウには強い確信があった。 Bのエンディニオンに放り出され、難民となったとき、偉大なる冒険王の激励によって彼は救われたのだ。 マイクの言葉であれば、どんな相手の心にも届く。ジョウはそう信じて疑わなかった。 しかし、ゼラールの軍団員たちに表情を緩める者は誰ひとりとしていない。天上天下唯我独尊の軍旗を降ろそうとする者もいない。 カンピランとクレオーは好戦的な薄笑いを浮かべ、ピナフォアは悲しげに俯き続けている。 「……すまねぇな、アル」 「……何? お前、今、“アル”と――」 ジャーメインに支えられるアルフレッドを横目で見つめたトルーポは、彼にだけ聞こえるような声で詫びの言葉を呟くと、 やおら右腕を天高く翳し、次いで指を弾き、ツァガンノール御苑に乾いた音を鳴り響かせた。 その直後、ツァガンノール御苑に震天動地の怪異が訪れる。指を鳴らしたトルーポに呼応でもするかのように、 突如として地響きが起こったのである。轟音は秒を刻む毎に大きくなり、耳を劈く程の頂点に達したとき、 馬軍の聖地に大規模な崩落が発生した。 激しい隆起の後に地面が砕けて割れ、木立を巻き込むようにして大穴が穿たれ、そこから巨大な物体が迫り出して来たのである。 大量の土砂を伴って地の底より現れた物体にアルフレッドは見覚えがあった。 これはそう――熱砂へ向かう船上にて垣間見た存在(もの)だ。ゼラール軍団の旗船であるシアター・オブ・カトゥロワよりも先行し、 水先案内人の如く海原を遊泳していた亀型のクリッター。後から聞いたのだが、名は『アクアヴィテ』だと言う。 直径六○メートルはあろうかと言う長大な甲羅には連山の如く突起が張り出している。 合計二一本にも及ぶこの突起は全てが生体ミサイルであった。 甲羅の頂点は平らとなっており、その中央部分にはゼラール専用の玉座が設えられている。 首長竜の如き鎌首を左右に振り回し、頭部に積もっていた土砂を撥ね飛ばしたアクアヴィテは、 ハンガイ・オルス全土へ響けと言わんばかりに雄々しい咆哮を上げた。 目を見開いて驚くジャーメインに対し、アクアヴィテがゼラール軍団の“仲間”である旨を説明するアルフレッドであったが、 その声は今までになく硬い。表情とて穏やかとは言い難い。 地中に身を潜めていたアクアヴィテは、トルーポの合図に応じて姿を現した。大地を砕きながらその巨体を白日の下に晒したのだ。 これが意味することは、即ち、ツァガンノール御苑の崩壊である。 馬軍にとって掛け替えのない冽水は、その源とも言うべき狼牙の岩や四阿もろとも吹き飛ばされてしまった。 美麗なる庭園は瓦礫と土砂によって徹底的に破壊され、最早、原型を留めてはいなかった。 此処はテムグ・テングリ群狼領の先代、バルトロメーウスが覇者となることを宣誓した聖地である――が、 昔日の姿などはどこを探しても見つけることが出来ない。それ程までに惨たらしい崩壊であった。 「――もう後戻りは出来ねぇのさ」 カジャムに対するトルーポの、……いや、ゼラール軍団の“返答”にアルフレッドとマイクは揃って瞑目した。 聖地を血で穢したと言うだけであれば、完全復元によって事実を隠蔽することも不可能ではない。 エルンストさえ目を瞑れば、先代より付き従う馬軍の古老たちも誤魔化せるだろう。 だが、ツァガンノール御苑を破壊し尽くしたとあれば、どうあっても隠しようがない。 エルンストとて庇いようがあるまい。昔日の聖地を知る古老たちは発狂する勢いでゼラール軍団の討滅を訴えることだろう。 事実、ザムシードは崩れ落ちた聖地を呆けたように見つめるばかりであった。 これはゼラール軍団による宣戦布告である。 軍団の趨勢に関わるような判断をトルーポが独自に行うことは絶対に有り得ない。 カジャムがエルンストの厳命を携えていたように、彼もまたゼラールからの指示を完遂したのだ。 モグラのように穴を掘り進め、ツァガンノール御苑直下の地中にて身を潜めていたアクアヴィテは、 鎌首を擡げてカジャムを威嚇している。生物で言うところの両眼部分は赤色の生体ガラスで覆われており、 内側にありとあらゆる情報を捉えるセンサーを備えていた。眉間に入った三箇所のスリットにも単眼式のカメラを搭載。 生体ガラスの表面とカメラのレンズは、それぞれカジャムの姿を映し込んでいる。 これはつまり、彼女に照準を合わせたと言う証左に他ならない。 先の海戦に於いてアクアヴィテは甲羅の生体ミサイルや強靭な顎でもってギルガメシュの軍艦を粉砕したが、 この他にも様々な武装を内蔵している。口からは絶対零度に迫る冷気を放射し、地上のあらゆる生物を凍結してしまうのだ。 現在、カジャムはアクアヴィテが持ち得る全ての武装の射程圏内に入っていた。 「……そうだね、ぼくらは前に進むだけだよ」 アクアヴィテの威容を見つめるラドクリフの面は、揺るぎない決意を称えていた。 双眸に宿った一握の悲しみは、間もなく消え失せるだろう。これはゼラール閣下が選び、自らが受け入れたひとつの運命なのである。 いつか栄光へ辿り着く道に悲哀を持ち込んで良いわけがない。 そんな親友へ声を掛けることが憚られ、シェインは唇を噛み締めた。フツノミタマには脇腹を右肘で小突かれたが、 それでも首を振るばかり。親友であればこそ旅立ちを引き止めてはならないと考えているのだ。 トルーポが呟き、ラドクリフが復唱したようにゼラール軍団はもう後に退くことは許されない。 この一件に関する事情を知るか知らぬかは問わず、轟音を聞きつけた馬軍の将兵が間もなくこの地へと殺到するだろう。 早くも茂みの向こうから軍靴の音が聞こえてくるではないか。 果たして、右腕を包帯で吊ったグンガルがツァガンノール御苑に駆け込んできた。彼もまた共は連れずに単身である。 聖地の惨状を目の当たりにして愕然と目を見開き、一瞬だけ息を呑んだが、すぐさま頭を振って心身に活を入れ、 この場に居合わせた全員に聞こえるよう大音声を張り上げた。 「ギルガメシュが……ギルガメシュからの使者が父上に謁見を求めてきましたッ!!」 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |