21.I Dreamed a Dream


 ギルガメシュの使者、ハンガイ・オルスに入城――この急報は瞬く間に連合軍全ての陣営を駆け巡った。
 これから起こるだろう荒事をツァガンノール御苑の外に漏らさない為、
普段通りに振る舞うようアルフレッドから言い渡されていた佐志の面々は、
ギルガメシュの使者が現れた当時も多数派工作に奔走しており、各々の持ち場にて件の報を耳にしたのである。
 工作の進捗状況を守孝と確認し合っている最中、セフィからこの緊急連絡を受けたジョゼフは、
我が耳を疑ってすぐさま回廊に飛び出し、ギルガメシュの使者が通されたと言う貴賓室へ足を向けた。

「ギルガメシュのこの動きは、ジョゼフ様の御耳には?」
「寝耳に水じゃ。ルナゲイトには配下の者を潜伏させておったが、全く確認出来なんだわ。
一体、いつの間にここまでやって来たのやら……」
「後老公の裏を掻いたと申すわけでござるか。ううむ、敵のさるものにござるな……」

 急報がもたらされるや否や、ハンガイ・オルスは大混乱に陥った。
矢も盾もたまらず控え室から飛び出した将士が回廊にて犇めき合い、その混雑を掻い潜って進まねばならない有様である。
ハンガイ・オルスの外にてテントを張っていた者たちも城内へ大挙していると言う。
 これは混乱ではない。恐慌である。
 怨敵をハンガイ・オルスへ招き入れたことに対する怒号、極度の緊迫に押し潰されて前後不覚に陥ったらしい狂乱の笑い声、
この世の終わりを嘆く悲鳴、何が起きているのかと誰彼構わず訊ね回る混迷、使者の首を討てとの蜂起の呼び掛け――
ありとあらゆる絶叫が渦を巻き、雑音とも合唱とも分からない極大なうねりを生み出していた。
 床を踏み荒らすような無数の靴の音、蝶番が吹き飛ぶくらい激しい開扉の音、モバイルの着信音、
ガラスか何かが壊される音などは伴奏と言ったところか。中にはシャンパンのコルクを開けた音や爆竹まで入り混じっており、
個々の音を聞き分けることは不可能であった。
 正気と言うものが何の意味も為さない恐慌の中を三人は懸命に進んでいく。
ジョゼフたち以外にも貴賓室を目指す者は多く、誰しもが満面を引き攣らせていた。
 意外にもアルカークの姿はどこにも見られなかった。ヴィクドの提督のこと、真っ先に飛び出してくると思っていたのだ。
もしかすると凶行に及ぼうとする兄をディオファントスが抑え付けているのかも知れない。
彼は冷気を操るトラウムの持ち主だとアルフレッドから説明があった。今もその力を発揮しているのだろうか。
 真偽の程はともかくとして――誰もがディオファントスの如き優秀な押さえ役になれるとは限らない。
回廊に飛び出したテムグ・テングリ群狼領の将士たちも恐慌の収拾に当たってはいるものの、一向に努力が実を結ばない。
それどころか、暴徒と化した者たちを却って刺激し、狂乱を加速させると言う最悪の結果を招いている。

「――裏切り者でもいるのではないか。ルナゲイト家にもテムグ・テングリ群狼領にも。
忠誠心は美徳だが、それだけでは生きてはいけない。心に闇を抱える者とて少なくはなかろう」

 突如、背後から辛辣な意見を突き込まれたジョゼフは、身を強張らせつつ声の主を振り返った。
そこに在ったのはシュガーレイだ。地方の寒村を篭絡に当たっていた狂犬の長がいつの間にやら背後に附けていたのである。
 雑踏の真っ只中にも関わらず、彼は器用にも紫煙を燻らせている。その悠然とした態度がジョゼフには憎たらしくて仕方なかった。
 ジョゼフと同じ戦慄に晒されたセフィは、口先を尖らせつつシュガーレイに不満を漏らした。
彼の発した言葉は、先程の三人の会話を明らかに引き継いでいる。つまり、そのときには既に背後に在ったわけだ。
人が悪いとしか言いようがなかった。
 セフィの批難に対してシュガーレイが用意した返答は冷淡の一言であった。
悪びれた素振りすら見せず、「気配くらい自分で読め。それとも“素人”に合わせねばならんのか」と鼻を鳴らしたのだ。
 この世の物とは思えない恐慌の渦中に在った為、個々人の気配まで察知し切れなかったわけだが、
「素人」の二文字を持ち出されては、セフィも押し黙るしかない。
悔しげに「夜道にはご用心下さいね」と呟くのがせめてもの反撃であった。

「買収か〜。ありえへんコトでもないやろ。いや、アルが言うようにエルンストのカリスマ性は疑わんでもええけど」

 シュガーレイの意見に相槌を打ったのは、その独特の故郷(おくに)言葉からも分かるようにローガンである。
 急報を耳にした彼は佐志の控え室に一旦戻ろうとしていたのだが、その道すがら四人の姿を発見し、
必死になって追い掛けて来たのである。人の波に阻まれて近付くことが叶わなかった為、両手を振りつつ声を掛けたのだが、
これもジョゼフたちには届かない。途中からは殆ど半べそであったと言う。
 ようやく間隙を見出して四人と合流を果たし、裏切り者による手引きと言うシュガーレイの意見を聞いたのだ。

「仮に買収したのであれば、どうやって資金を調達したのか独占取材したいくらいじゃ。
勢いこそあれども、あやつらは広い海原に放り出されたようなものぞ。ルナゲイトの給金を超える額を提示出来るとは思えぬ」
「ルナゲイトの金庫でも破ったんとちゃうか? ほしたら、金銀財宝使い放題やろ」
「御金蔵破りにござるか……」
「ルナゲイトに関わる金庫はの、強引に開けた場合、自爆するように仕掛けが施してあるのよ。
ラトクに言いつけて口座も凍結済みじゃ。カネを引き出すことは不可能じゃ」
「約束手形を掴ませたのではないか? 虫唾の走る話だが、形勢はギルガメシュ有利だ。
今の内に味方すれば大儲けが出来ると頭に虫の沸いた愚図にでも吹き込んでな」
「世の趨勢を見極められないような愚か者は、目先の利益に囚われるのが常ですからね。
シュガーレイさんの推理は良いセンを行っていると思いますよ」
「……ルナゲイトではなくエルンストの部下にトンマがおったと信じよう。世の中に不渡りほど怖いものはない。
手形は信用するなと社員教育で教えておるでな」

 貴賓室に近付くにつれて恐慌の度合いは大きくなり、これに比例して人垣の規模も大きくなっていく。
個々人の主張を記したプラカードや旗を掲げる者、「ギルガメシュの悪行を断固として許すな」との横断幕を広げる集団、
魔除けの儀式のつもりなのか、奇怪な化粧をして護符を撒き散らす者まで入り混じっていた。
慌てふためきパンツ一丁で飛び出してきた愚かな男は、女性たちから袋叩きにされている。
 「黒山の人だかり」とは良くある喩えだが、今や群衆は土石流の如く五人に押し迫っていた。
 喧騒(おと)で聞くのみだが、どうやら前方にて乱闘が起きているようだ。こうした軽挙こそが渋滞を深刻化させる原因なのである。
 いよいよ前進が難しくなり、ジョゼフたちは立ち往生を余儀なくされた。
皮肉なもので、行き詰った状況に限って会話は速やかに進むのだ。勿論、その代償として焦燥は加速度的に高まっていく。
ギルガメシュの使者へと続く回廊は果てしなく伸長し、どれだけ歩を進めても辿り着けないような錯覚に陥っていた。

 そのとき、ジョゼフのモバイルからメールの受信を報せる電子音が鳴り響いた。
液晶画面にはラトクの名とメールアドレスが表示されている。
 この緊急事態に即してラトクは使者の実態調査を始めていたようだ。ジョゼフの懐刀と呼ばれるに相応しい機転である。
 ラトクが調べたところによれば、ハンガイ・オルスへ差し向けられたのは紛れもなくギルガメシュの使者であると言う。
正体までは判然としないものの、最高幹部のひとりが派遣されたことも彼は確かめていた。
 ラトクから送信されてきた報告へ目を通し、その内容を他の四人に伝えたジョゼフは、重苦しい溜め息を吐いた後に瞑目した。
 攻城の軍勢を差し向けられこそすれ使者を寄越されるとは、さしもの新聞王とて想定していなかった。
交渉を持ちかける手間が省けたと楽観出来るような事態でもない。多数派工作とて完了には程遠い状況なのだ。
和睦や降伏を促す使者であっても不都合が多過ぎる。

(あまりにも早過ぎる。向こうも焦っているのだと捉えれば……いや、それにしても早過ぎるわい……!)

 既に貴賓室で始まっているだろうエルンストとの会談が頓挫しようものなら最悪だ。
これまでの多数派工作が全て水泡に帰すだろう。それは即ち、アルフレッドの立てた作戦の崩壊を意味している。
 それだけは何があっても避けねばならない。だからこそ貴賓室への道を急ぎたいのだ。
 回廊に飛び出した群衆は誰もが動揺を来たしている。
アルフレッドの献策を支持した筈の者まで自己の判断を疑い、迷い始めている様子だ。
このような不安が全軍に蔓延すれば何もかも終わってしまう。

「そ、そうだ! 例の使者ってのを生け捕りにすればいいんじゃないか!? そうすりゃ本隊だって手出し出来なくなる筈……」

 群衆の中で誰かがそう叫んだ。憐憫を誘うような切羽詰った声ではあるが、これもまた最悪の事態である。
武人たる守孝は、この軽はずみな思い付きがどうしても許せず、「恥知らずを申すべきではござらんッ!」と一喝して黙らせた。
怨敵とは雖も、使者と言うものは丁重に扱うのが古来よりの常識(ならい)。報復として生け捕るなど獣畜に悖る行為なのだ。
 ましてや 今はアルフレッドの親族やマイクの仲間が捕らわれの身となっている。
人道に反する所業はブクブ・カキシュに軟禁された人々の生命を間違いなく脅かすことだろう。

「目くじらを立てるような悪手でもないと思うのだがな。幹部クラスなのだろう? 尋問に掛けるのもいい」
「シュガーレイ殿までッ! 何を申されるのかッ!?」
「客観的な意見だ。ライアン好みの戦略だ」

 シュガーレイは人質を取ることに賛成のようだが、ことギルガメシュとの争乱に関しては正常な判断を欠いてしまうこの男の意見は、
まともに取り上げるべきではなかろう。復讐に狂った人間の暴虐と言うものを守孝は身に沁みて知っていた。
 「シュガーレイ殿は紛うことなき義の戦士。軽々な振る舞いはせぬものと信じてござる」と、改めて釘を刺す守孝だったが、
シュガーレイ当人は曖昧に相槌を打つのみで明答は避けている。その裏に根差す“闇”が実に恐ろしかった。
絶えず目を光らせていなければ、彼はギルガメシュの使者に襲い掛かるかも知れない。

「ええい、これでは埒が明かぬわ! ローガン、お主のホウライでなんとかせい! こやつらを一網打尽に吹き飛ばすのじゃ!」
「無茶言いまっせ、この人。ワイかて行き詰まりはおもろないけんど、他の人らに迷惑かけたないで」
「左様、ここは堪えるべきと存ずる。待てば回路の日和ありとも申しますれば」
「気長に待っておれんから無茶を言うのじゃ! いっそ、オールド・ブラック・ジョーで撥ね飛ばすかの!?」
「ホウ? 噂に聞く新聞王のトラウムか。珍奇で有名な……。ここはひとつ、御披露願おうか」
「見よ、義の戦士の筆頭もこう言うておる。非常手段じゃ。やむを得まい!」
「ジョゼフ様を煽るのはやめてください、シュガーレイさん。ルナゲイトの血筋は箍が外れると本気で無理無体をするんですから……」
「血筋とはなんじゃい、セフィ!? ……ええい、」

 ジョゼフが本気とも冗談とも取れることを口走ったとき、人垣に大きな変化が生じた。
天に新聞王の思いが通じたのか、傍迷惑な癇癪を未然に防ごうと言うイシュタルの配慮であるのか、
いずれにせよ、閉塞した状況は好転の兆しを見せ始めたのである。
 五人の前方に在った群衆が何か強烈な力に押し返され、逆戻りし始めている。遥か彼方では悲鳴と思しき声が僅かに聞こえた。
 訳も分からず押し戻された者はしきりに首を傾げ、悲鳴が発生した辺りから逃れてきた者は顔面を引き攣らせている。
このように逆流する群衆も表情は人それぞれ。温度差のようなものが感じられた。
 ローガンと守孝が先頭に立って群衆を掻き分け、ジョゼフら三人はこれに追従。
大勢の流れに逆らいながら前方に進んでいくと、果たしてそこには数十名もの力士の姿が在った。
 言わずもがな、テムグ・テングリ大相撲に参加していた力士たちである。
いつの間にやら相撲場から回廊へと移り、群衆を整理していたのだ。
それでも強引に突き進もうとする暴徒たちは強靭なる壁によって余さず跳ね返されていた。

「今は大事な話し合いの最中と聞いています。静かにすべきではありませんか」

 力士の先頭に立ち、混迷する群衆に平静を訴えかけるのは、当代随一と名高い太刀颪(たちおろし)だ。
 彼はその双肩に乱闘を起こした張本人たちを担いでいる。諍いの場へ自ら赴き、
水牛とも例えられる猛烈な突っ張りでもってこれを鎮撫せしめたようである。
 昔取った杵柄とでも言うべきか、格技に造詣の深いシュガーレイ曰く――
相撲界へ入る以前の太刀颪は、所謂、“札付き”であり、地元の武闘派集団を束ねていたと言う。
名うてのギャング団ですら太刀颪には道を譲ったと言うから筋金入りだ。
 太刀颪にとっては乱闘を取り静めることなどお手の物と言うわけであろう。
事実、丁寧ながらも反論を許さない凄みでもって群衆を圧していた。
 当人の姿はどこにも見えないが、力士を差し向けたのはゼラールの計らいに違いあるまい。この判断は適切にして絶妙であった。
テムグ・テングリ群狼領の将士ですら持て余すような群衆を太刀颪たちは見事に捌いていく。
 気が付けば、貴賓室へと続く道がジョゼフたちの前に開かれていた。無論、五人は一も二もなくそこへ飛び込んでいく。
背後から制止を呼び掛ける太刀颪の野太い声が追い掛けて来たが、
ジョゼフは「役目大儀」とだけ答え、振り返ることも立ち止まることもなかった。

 色とりどりのプラカード、木切れや布切れ、意味の分からない紙吹雪や爆竹の残骸、物騒な銃弾など群衆が散らかしたゴミを踏み潰し、
駆けに駆けてジョゼフたちは貴賓室に辿り着いたが、群狼領の紋章が刻み込まれたその扉が開放されることはなかった。
 ギルガメシュから派遣された使者との会談、エルンストらテムグ・テングリ群狼領最高幹部のみで行なわれることになり、
それ以外の者は誰ひとりとして入室を許されなかったのである。
 これはギルガメシュの使者が望んだことであると言う。会談に当たって余計な情報が紛れ込むことを懸念したようだ――
貴賓室の出入り口に配備された衛士はジョゼフたちへそう説明した。
 しかし、この衛士も佐志の者だけは会談に列席すべきだと考えているらしく、
貴賓室へ通すことが出来ないと答える声には相当な苦渋を含んでいた。
 気立ての良い衛士をローガンが慰める中、ジョゼフは歯軋りしつつ地団駄を踏んでいる。

「ファラ王の説得にどれだけ苦労したと思っておるんじゃ……。骨折り損のくたびれ儲けなどまっぴらじゃぞ」
「ジョゼフ様が梃子摺るとは……。あの変態もといあの方、どのような無理難題を要求してきたのですか?」
「砂漠のど真ん中で海を見てみたいなどと抜かしてきたわ。
プライベートビーチをテーマにしたアミューズメントパークを造ると約束して満足させたわ」
「……それだけでござるか? クレオパトラ殿が随いておれば、もそっとグドゥーに旨みのある取引を仕掛けてくるやと
思っており申したが……。それだけの女傑と見受けました故な」
「あの女狐がおらぬタイミングを見計らって勝負を仕掛けたのじゃ。あれが同席しておったなら、
海は海でも食用魚の養殖施設を要求されたであろうな。あれは金満の極みじゃわい」
「さすがにジョゼフ様が仰ると説得力が段違いですね」
「……今に見ておれよ、セフィ。その舌、引っこ抜いてくれるわい」

 いよいよグドゥーの切り崩しに取り掛かったジョゼフは、全面協力の約束を取り交わすに当たってファラ王に直接交渉を試みていた。
影の最高実力者であるクレオパトラは、守孝が指摘するように油断のならない傑物である。
彼女の同席のもとで交渉を行おうものなら、際限なく駆け引きが続いたことだろう。

 まずはクレオパトラを交渉の席から遠ざけねばならない。そこでジョゼフは一計を案じた。
『ジプシアン・フード』の息が掛かった倉庫業者に新興企業から敵対的買収を仕掛けさせたのだ。
勿論、これは計略の為に急造した会社であり、登記など正規の手続きは踏んでいない。明るみに出れば処罰の対象となるだろう。
 この場合、敵対的買収の成否は問題ではない。実態のないダミー会社などと糾弾されても構わない。
一瞬でもクレオパトラの意識をハンガイ・オルスから逸らすこと――それが最大の目的であった。
 周到にもAのエンディニオンの企業と偽っている。難民と認定された世界の企業が敵対的買収を強行するなど、
天地がひっくり返るような事態と言えよう。これと並行してギャング団を金で動かし、買収先への妨害工作にも乗り出した。
 つまり、ジョゼフは「クレオパトラが動かざるを得なくなる状況」を作り出したわけである。
各地に潜伏させていたルナゲイト家のエージェントを総動員させたとは雖も、三日と経たぬ内に計略を完成させると言う剛腕であった。
 戦時下にも関わらず、このような事案が持ち上がれば、当然、クレオパトラは怪訝に思う筈だ。
しかし、ジプシアン・フードの利害に関わる事柄である以上、対処を優先させなければならない。
 やむを得ず彼女がグドゥーの控え室を離れた隙にジョゼフはファラ王へと接近し、速やかに佐志との連携を取り付けた次第であった。
 クレオパトラには痛恨事であったに違いない。 アミューズメントパークの建設など享楽的なファラ王の趣味以外の何物でもないのだ。
連携を引き受けるにしても、グドゥー地方にとって政治的なメリットがある見返りを求めるべきであった。
 実際、アポピスは幾度となくファラ王に翻意を促していた。同席していたプロフェッサーは呻いて黙り込み、
テッドに至っては「後でどうなっても知らないですよ……」などと青褪めた程である。
 今頃、ファラ王はクレオパトラから吊るし上げを食らっているかも知れない。

「――女狐とはご挨拶ですね。自領の為に最善を尽くすのは当然でしょう。それが私の務めでございますので。
……その務めを疎かにしたファラには猛省して頂きましたけれど」

 ファラ王への懲罰と言う予測に明答を返したのは、他ならぬクレオパトラ当人の声であった。
 まさかと思って今来た道を振り返ると、プロフェッサーとバイオグリーンを伴ったクレオパトラが貴賓室に向かって歩を進めてくるではないか。
 これにはさすがのジョゼフも面食らってしまった。何時どのようにして姿を現せば衝撃を与えられるのか、
細かく計算していたとしか思えない。まさしく絶妙のタイミングでの登場であったのだ。
 ドレスの裾を翻してジョゼフの面前に立ったクレオパトラは、五人へ恭しく一礼した後、
「ファラにも困ったもの。人の上に立つ者の資質と言うものを新聞王殿にご指南頂きたいものです」と切り出した。

「常日頃より悪癖は慎むよう言いつけてはいるのですが……。グドゥーのような乾いた土地にアミューズメントパークを造って、
果たしてどうなると言うのでしょう。ファラ個人の愉悦の為にジプシアン・フードをパンクさせるわけには参りませんわ。
先程も短慮が過ぎるときつく言いつけておりました」

 夫に対する処遇を口にした瞬間、クレオパトラの眉間に青筋が走るのをセフィは目敏く見つけた。
巨大勢力を統べる立場に相応しく感情のコントロールにも長けているようで、眉間の変化は一瞬にして元通りになったものの、
浮かび上がったのは剣呑なる激情であった。ここから察するに、ファラ王は背筋が凍るような折檻を受けたに違いない。
 「どこの家も一緒ですね」と心中にて呟くセフィは、ヒューの顔を思い浮かべている。

「左様か。いやはや、聡明な奥方殿よ。成る程、グドゥーは乱世が鎮まったばかり。治安の面で万全とは言えぬの。
それでは客も呼べぬし、維持費が嵩むばかりじゃな。ワシも粗忽を反省せねばなるまい。あの場ですぐに気付けば良かったわ」
「全てはファラの妄言。無益な騒動に巻き込み、御手を煩わせたこと、平にお詫び申し上げます」
「なんのなんの」
「そのお詫びではございませんが、私どもの控え室にお出でくださいませ。佳(よ)き豆が届きましたので。
グドゥーの水出しコーヒーは極上の味と評判なのですよ」
「ほう――噂に名高いあの水出しコーヒーか。これはこれは……。馳走にならねば一生の悔いとなるところよ」
「そうですわ、ライアン氏もお呼びくださいな。きっと有意義な話が出来ると思いますわ」
「善処しよう。あれも話好きでな。特に聡明なる」

 努めてにこやかに話すクレオパトラであるが、こちらも太刀颪と同様に有無を言わせぬ凄味を帯びている。
激情など表には一切出していないにも関わらず、だ。随伴するプロフェッサーでさえ直立不動で固まっていた。
 一方のジョゼフは心中にて「女狐」と毒づいている。際どい計略まで講じたと言うのにファラ王との取り決めが反故になってしまったのだ。
 最早、二度と同じ手は通用するまい。新聞王ですら攻め倦ねる程にクレオパトラは手強かった。
これまでの経緯から敵対的買収がジョゼフの策略であることも察知しているだろう。

(それにしてもアルを呼べとは……肝の太い女御じゃわい)

 そのアルフレッドは、旧友への加勢に向かう直前、居残る者たちが如何に行動すべきかを打ち合わせしていた。
彼らがツァガンノール御苑にて戦っている最中も多数派工作を継続すると確認したのだが、
その際にジョゼフはアルフレッドから思わぬ糾弾を受けていたのである。
 イブン・マスードを差し向けた犯人がクレオパトラであると断定し、彼女の周辺を嗅ぎ回っていたことが
ダイジロウを経由して露見してしまったのである。そのことにアルフレッドは大層立腹していた。
 アルフレッドの説明によれば、今のところ、ジョゼフの行動はクレオパトラの耳には入っていないそうだ――が、真実は分からない。
隠密の役割を与えられたと言うアポピスが報告を差し控えたとしても、彼女ほどの才媛であれば自分自身で勘付くに違いない。
 あらゆる意味で気まずい相手との対峙であったが、肝の太さではジョゼフも負けてはいない。
気を取り直すや否や、「して、お主はどうしてここへ? 乱痴気騒ぎの見物かの?」と、悪びれもせずに登場の理由を尋ねた。

「乱痴気騒ぎとはユーモラスな例えですのね。ギルガメシュの使者が入城したと聞けば、居ても立っても居られなくなるのは必定」

 どうやらクレオパトラも類例に漏れず件の急報に反応し、貴賓室まで足を運んできたようだ。
衛士に成り代わって守孝が足止めの事情を説明すると、厚めの唇より憂いに満ちた溜め息を滑らせた。
門前払いにも近い状況に置かれたのであるから、憂色が濃くなるのも無理からぬ話であろう。
それはジョゼフたちとて同じことである。
 扉を隔てた向こうではエンディニオンの趨勢を決する議論が交わされているのだ。
もしも、アルフレッドがこの場に居合わせていたならば、交渉の席から締め出された衝撃に打ちのめされ、呆然と立ち尽くしただろう。

(……すまぬな、アル。お主の中継ぎもしてやれなんだわ……)

 苦悶にも近い感情を押し殺しながら踵を返したジョゼフは、回廊に新たな人影を見つけ、鵜や鷹の如く双眸を細めた。
 群衆が散らかしていったゴミの真っ只中にフェイが屹立していたのである。
決闘の負傷が癒え切らぬ痛ましい姿を引き摺りながら此処までやって来た彼は、一言の声も発することなく貴賓室の扉を見据えていた。
蒼白な顔面には表情と言うものが全く見られない。半ば屍の如き風情であった。

「……去(い)ね。貴様如き下郎、この扉の前に立つこともおこがましいわ。今すぐに退(すさ)れ」

 無言無表情で立ち尽くすフェイに向かってジョゼフは目障りだと吐き捨てた。
同じ空間に居合わせることさえ不愉快と言わんばかりの残酷な語調である。
 いくら何でも口が過ぎるのではないかと焦った守孝は、控えめながら苦言を呈したものの、新聞王は聞く耳を持たない様子だ。
満面に宿る悪意は秒を刻む毎に膨らんでいる。この程度では愚弄し足りないと言う悪魔の形相であった。
 対するフェイの側は何ら反応を示さない。そもそも、彼はジョゼフのことなど眼中にも入れていないようだ。
 両者の間に沈黙が垂れ込めた。回廊の遥か彼方では今もまだ群衆が騒ぎ立てているのだが、
この場に於いて言葉を発する者は誰ひとりとしていない。
 それだけにマッチを擦る音がやけに耳障りであった。見れば、シュガーレイがシガレットに火を点けようとしている。
フェイとはサミットにて共闘し、交誼を結んだ筈なのだが、いくら彼がジョゼフに貶められようとも少しの関心も持ち得ないらしい。
吐き出された紫煙は関知しないとの宣言に等しかった。
 結局、フェイはジョゼフを一瞥すらせずに背を向け、そのまま立ち去っていった。
 遠ざかる背中を不思議そうに眺めていたクレオパトラは、傍らに控えたプロフェッサーに向かって「あれは誰?」と訊ねた。
 これにはプロフェッサーも困惑するばかりである。彼はれっきとしたAのエンディニオンの人間である。
Bのエンディニオンに関する知識は、今のところグドゥー地方の周辺で完結してしまっているのだ。フェイのことなど知る由もない。

「誰と訊かれても……。こちらの世界の事情に奥方様より詳しかったら、それはそれでおかしいでしょう? 
……グリーン君、君は何か知っているかい?」
「プロフェッサーが知らない物を、どうして私が知っているのですか。確か、ギルガメシュと合戦したときに義勇軍を率いていたのでは? 
尤も、アポピス君からの聞きかじりでしかありませんがね」
「……義勇兵などいたか? 私は記憶にないのだが……。グリーン君、大した観察眼だね」
「プロフェッサーが注意力不足なだけです」
「名も知らぬ勇士と言ったところかしら、ね。いいわ、後でアポピスに訊ねるとしましょう」

 プロフェッサーとバイオグリーンは一緒になって知り得る限りの情報を提示していったが、
ついにクレオパトラは傷だらけの青年の正体に辿り着けなかった。彼女とてフェイ・ブランドール・カスケイドと言う勇名は知っている。
それにも関わらず、身なりから連想さえ出来なかった。如何せん手掛かりが少な過ぎたのである。
 今のフェイは英雄の象徴たるツヴァイハンダーも持ち合わせていないのだ。
 なおも首を傾げ続けるクレオパトラに「塵芥などは捨て置け。所詮、あれはその程度よ」と諭したジョゼフは、
聞こえよがしに大きな笑い声を上げた。


 ある意味に於いて最低最悪とも言える侮辱は、フェイの耳にも明確に届いていた。
 グドゥーの最高実力者にとっては、剣匠の異名を取る英雄でさえ虫けら以下の存在と言うことだ。
この三日間、ハンガイ・オルスで行われる如何なる会議でもフェイ・ブランドール・カスケイドの名が呼ばれることはなかった。
多数派工作に奔走する佐志とその同盟者たちにも徹底的に黙殺されている。
 擦り寄って来る者と言えば、悪名高いヴィクドの提督のみ。対して、アルフレッドにはマイク・ワイアットが寄り添っていると言う。
冒険王と傭兵の長では余りにも大きな“落差”ではないか。アルカークに同じ種類の人間と見做された――
その事実だけで気が狂いそうになるのだ。
 外道との結託など持っての他と即座に断ったが、それでも心は疼き続けている。憤激が身の裡にて暴れ回り、今にもはち切れそうだった。
 そもそも、だ。何故、冒険王はフェイ・ブランドール・カスケイドを選ばなかったのか。それが理解出来ない。
三つ巴の決闘に勝利したのは、他ならぬフェイなのだ。それを見誤る程にマイクの器は小さいのか。
 負け犬のアルフレッドは厚顔にも軍議にて献策を強行し、これが連合軍の指針と認められてしまった。
 その場に居合わせたと言うシュガーレイもフェイの神経を逆撫でする人間であった。
彼が率いてきた格闘士と激闘を演じ、見事な勝利を収めたアルフレッドは、この余勢を駆って件の献策を取りまとめたと言う。
 乱闘騒ぎを見物した義勇兵からこの話を聞かされたとき、ここに至る全ての事件がフェイ・ブランドール・カスケイドと言う勇名を
貶める為の罠であったと確信した。そうでなければ、説明が付かないのだ。
 シュガーレイは最初からアルフレッドを後押しするつもりだったに違いない。あるいは、筋書き通りの行動であろう。
成る程、腹黒いグリーニャの人間がやりそうなことだ。アルフレッドと立ち合ったジウジツ使いは、上手く負けることに難儀した筈である。
取るに足らない雑魚がスカッド・フリーダムの戦士に勝てる可能性など万分の一にも有り得ない。
 つまり、タイミングを見計らったように現れたマイクも汚らわしいグリーニャの一味と言うわけだ。
エルンストと共に筋書き通りの茶番を演じ、フェイ・ブランドール・カスケイドを笑い者にした――誰も彼も許し難い愚者であった。
 ハンガイ・オルスに潜入したと言う殺し屋とやらも、アルフレッドを大物のように虚飾する為の策。
グリーニャの自作自演と言ったところか。どこまでも下劣な連中だ。
 不届きにも異論を唱えた義勇兵は、その場で追放を言い渡した。グリーニャの一味に加担したのだから当然の措置であろう。
周囲の兵卒たちが処刑を主張しないことも理解出来ない。裏切り者の始末は自分たちで行うと率先して武器を取るのが、
英雄の名のもとに集った“信徒”の務めではないか。また、それこそが正しい「義勇」の在り方に違いない。

(……何が最後の砦だ。この地のどこに正義がある……邪悪しか存在しない……こんなところ……)

 世界の全てが歪んで見えるような――何よりも哀しく、果てしなく昏(くら)い双眸は、義勇軍に宛がわれた“テント”を目指している。
 フェイ、ケロイド・ジュース、ソニエの三人には専用の控え室が用意されていたのだが、
アルフレッドの献策の舞台にもなった軍議が終了した直後、突如としてその部屋を引き払うよう請われたのである。
あからさまとしか言いようのない厄介払いであった。

「気性の荒い者が個人部屋を用意するよう暴れ始めた為、やむを得ずお願いに上がった。何卒ご了承頂きたい」

 用件を伝えにやって来た群狼領の兵はこのように説明していたが、問い質すまでもなく建前と言うことは明らか。
何処の誰がそのような理不尽を吐き散らしているのかは、最後まではぐらかされてしまった。
「連合軍にとって欠くべからざる部隊」。それがテムグ・テングリ群狼領の用意した返答である。
 諸将が引き連れてきた軍勢はハンガイ・オルスの城壁外にキャンプ地を設け、ここにテントを張っている。
如何に馬軍が誇る本拠地とは雖も、全ての将兵を収容し得るだけのキャパシティはなく、
また控え室を用意出来るのも主立った将士に限られているからだ。
 フェイの名のもとに参集した義勇軍も類例に漏れず城壁へ寄り添うようにしてテントを設営していた。
三人に対する要請とは、つまりそのキャンプ地への移動と言うことだ。
 ソニエとケロイド・ジュースの取り成しによって一先ずはテントに移ったものの、
英雄として名を馳せたフェイにとっては屈辱以外の何物でもなかろう。
本陣から立ち退くよう言い渡されたのであるから義勇兵に対して示しもつかない。
 だが、今となっては城外へ追いやられたことこそ好機だったと思えてならない。伏魔殿の如きハンガイ・オルスの内側にて蠢動する者は、
城壁の外で起きていることなど殆ど無関心であった。キャンプ地にて何かの陰謀が進められようと彼らは些かも気付くまい。
一個の部隊が夜陰に乗じて消え失せたとしても、騒ぎとなるのは明朝になってからであろう。

(何が連合軍だ、馬鹿馬鹿しい。我欲に塗れた烏合の衆じゃないか。志を持たない屑の集まりでギルガメシュに勝てるものかよ)

 最早、ハンガイ・オルスにも連合軍にも用などなかった。一刻も早くここを引き払い、伏魔殿を出立しよう。
然るべき場所にて陣を構え、英雄の名のもとに改めて義挙すべき――これがフェイの結論であった。
 アルフレッドやエルンストの企みに飲み込まれてしまった蒙昧な連合軍の将士たちも、
フェイ・ブランドール・カスケイドの名のもとに参集を呼び掛ければ、必ずや目を醒ます。自分たちが歩むべき正道を選ぶだろう。
英雄の信徒たる義勇軍は、言わばその魁なのである。

(僕には力がある。英雄の名声もある。信じてくれる者どもがいる。……真の正義を証明できるッ!)

 二度と振り返ることはあるまいと、大いなる決意を胸に城門を潜り、義勇軍に宛がわれたキャンプ地へと辿り着いた瞬間、
フェイは我が目を疑うような光景に出くわし、言葉を失ったままで立ち尽くした。
 ――いない。英雄の信徒たる義勇軍が誰ひとりとしていない。
フェイ・ブランドール・カスケイドを真の英雄として崇め、如何なるときでも最大の敬意を以って出迎えた者たちがどこにも見当たらない。
犇くようにして設置されたテントをひとつひとつ検めていくが、いずれも蛻の殻。人っ子一人居なかった。
 ギルガメシュより派遣された使者を一目見ようとハンガイ・オルスへ向かったわけではなさそうだ。
テントの内部に確認出来なかったのは人影ばかりではない。義勇兵たちの荷物もそっくり消え失せていた。
それどころか、横木に繋いでおいた軍馬さえ一頭もいなくなっているではないか。
 英雄の信徒の為に設えられたキャンプ地は、今やゴーストタウンの如き有様である。

「どこだ、どこに……、一体、どこに隠れている? 遠乗りか、それとも訓練にでも出ているのか? 誰かが音頭を取って――」

 他所の部隊の者たちが奇異の視線を浴びせてくるが、そんな瑣末なことになど構ってはいられなかった。
 あってはならないことが起きているのだ。英雄の“信徒”が地上から消え失せてしまったのだ。
ほんの少し前まではここに在った筈の者たち――真の正義の象徴が、だ。

(まさか、アルフレッドが先手を打ったのか!? あいつが僕の信者を虐殺して――)

 消失の原因を己の推理に求めたとき、「グリーニャの軍師」などと持て囃される男の顔が浮かんだ。
このように卑劣な振る舞いをするのは、全世界を探してもたったひとりしかいない。

(アルフレッド……アルフレッド――アルフレッドォッ!!)

 反射的にツヴァイハンダーを構えようとするフェイであったが、勇敢なる父の形見は義勇軍よりも先に喪失されていた。
先の決闘にてアルフレッドに破壊されてしまったのである。
 剣匠の異名を取るこの男は、最早、その奥義を発揮し得る得物すら持ち合わせていなかった。

「僕から剣を奪っておいて、それでも満足しないのか!? ここまでの仕打ちを……――アルフレッドォッ!!」

 何ひとつ思い通りにならない。自分の理想とするものを悉くグリーニャの手の者に邪魔される――
底なしの憎悪がフェイの心を塗り潰し、その面を醜く歪ませた。この世の物とは思えない形相に変えてしまった。
 双眸は極端に細められていた。闇の向こう側へ微かな光芒を見つけようと懸命に足掻いているのだ。
 しかし、歪む世界に希望の兆しなどは顕れない。それ故にフェイは彷徨い続けた。
己の信徒が消え失せた跡を夢遊病者のような足取りで徘徊しながら、アルフレッドの名を呪詛さながらに唱え続けた。

「――おかえり、フェイ」

 老残の如く折り曲げられたその背を誰かが呼び止めた。
 歪み切った世界へ新たに飛び込んできたのは、ソニエとケロイド・ジュースのふたりであった。
著しく濁ってはいるものの、聴覚は損なわれてはいない。今し方、声を掛けたのがソニエであることも認識している。
 英雄にとって最も忠実な従僕たるこのふたりであれば、他の信徒が何処へ失せたのかを知っているだろう。
いや、知っていなければならない。それが従僕の責任と言うものなのだ。

「義勇軍はどこだ。他の者たちはどこにいる。……野外で訓練か? 僕の指示もなく勝手に他所へ連れ出すなど……。
そんなことが許されると思っているのか……!? 分を弁えるんだ、ソニエ……」

 その詰問にソニエは何も答えない。何ひとつ語らないまま、一歩二歩と進み出た彼女は、フェイの右手に自身のそれを重ね合わせた。

「次は何しよっか、フェイ。エンディニオンは一通り回ったし、いっそ未開の土地でも探してみる?」

 ソニエの口から語られるのは、義勇軍の所在などではない。これから先、自分たち三人がどのような道を歩もうかと言う話である。

「それとも、あたしたちが今まで通ってきた道をもう一回順番に巡ってみる? 
このチームを組んでから今日までのこと、あたし、全部憶えてるからさ。きっと道に迷うこともないからねぇ。
生き字引って呼んでくれてもいいよ?」
「……兵士たちはどこにいる? お前が隠したのか? どこに隠した?」
「あー、マジでフロンティア魂に火が点きそうだわ。そろそろエンディニオンの環境再生も本気で取り組まなきゃだし。
どうせなら、北の最果てでも行ってみる? 氷に埋もれた遺跡とかあったりして! 汚染を浄化するような秘密兵器も眠ってると思うな。
どうどう? 超ロマンじゃん?」
「……まさかと思うが、解散したなんて言うんじゃないだろうな。お前たちは僕のすることにいつも反対していた。
合戦に出ることも、ここに来ることも……お前ならやりそうなことだ……ッ!」
「よーし、決めた! 次のあたしたちの目標は、ルーインドサピエンスの遺跡巡りねっ!」
「……僕の兵を返せ……」
「今までさんざんあんたたちに付き合ったんだから、今度はあたしのワガママ、訊いてよね〜」

 満足の行く答えをフェイが返さなくとも、一方通行な希望となっても、ソニエは努めて明るく語り続けた。
 そこにしか未来は開かれないと、ソニエは信じていた。今のフェイには、誰かが未来の在り方を示さなければならなかった。
だから、決して諦めない。諦めるわけにはいかない。何度、振り払われようともフェイの手を握り締める。
 己の体温を――こんなにもフェイのことを大事に思っているその存在を、彼の心にまで伝えようとしていた。

「――僕から駒を奪うつもりかッ! そこまで僕を苦しめて愉しいのかァッ!?」

 だが、フェイはソニエと同じ未来を見てはいない。同じ未来など見るつもりもない。
彼女の体温を振り払ったその手は、英雄と言う名の“我欲”のみを求めていた。

「……義勇軍は……自分たちでいなくなったのだ……フェイ……お前に……恐れをなして……逃げ出したんだ……」

 見るに見かねたケロイド・ジュースがついに口を挟んだ。
 満面をフードで覆っている為に表情までは読み取れないが、その頬には冷たい雫が伝っていることだろう。
いつもは破天荒なくらいに陽気な彼の声が、哀しみに震えていた。

「……お前は……その目で……何を見ていた……何が駒だ……仲間たちが……お前に怯えていたことも……
気付かなかっただろう……お前は……自分の手で……自分の一番大事なものを……壊してしまったんだ……」

 常軌を逸した所業を繰り返すフェイに恐怖あるいは失望し、彼が席を外した隙に全員が逃亡した――
義勇軍の顛末について語るケロイド・ジュースのことをフェイ本人は呆然と見つめている。
 しかし、その眼光は奇怪と言うより他ない。生身の人間ではなく理解不能な物体でも凝視するような目をしているのだ。

「そうか、お前が奪ったんだな。お前が僕の信者を……」

 言うや、虚ろな双眸が再び狂気に染まった。
だらしなく開かれた口より唾を垂れ流しながらケロイド・ジュースへとにじり寄っていくフェイは、
その道程にてまたしてもツヴァイハンダーの構えを取ってしまった。両手を高く翳し、縦一文字を試みようとしたのである。
 長年の習性か、それとも愚かしい妄念なのか――二度と復元することの出来ない剣に縋り付こうとしていた。

「何が信者だよ、バカじゃねーの。こいつ、マジでイカレてやがるな」

 空想の刃を構えたまま、覚束ない足取りで歩を進めていくフェイを止めたのは、ソニエでもケロイド・ジュースでもなかった。
 それは、どこかの誰かが発した嘲笑であった。
 騒ぎを訊き付けた他所の部隊の者たちがフェイを――英雄とまで敬われた男を遠巻きに眺めており、
その内の誰かが不意に漏らしてしまったようだ。
 「誰か」と言うより誰もが嘲笑を飛ばしそうな気配ではある。傍観者の皆が英雄の醜態を呆れ顔で睥睨していた。
先程までフェイには奇異の視線が浴びせられていたが、今やそれは侮辱の嘲笑に変わっている。
 フェイ・ブランドール・カスケイドの名を尊崇を以って呼ぶ者など、最早、どこにも居なかった。

「……グリーニャか……お前たちは、みんな――グリーニャの亡霊かぁッ!」

 標的をケロイド・ジュースから傍観者へと切り替えたフェイは、彼らに猛進しながら何ひとつ握っていない両手を振り回した。
空想の刃などでは人を斬ることも叶わない――それすらも理解出来ないまま、己の身に染み付いた剣技を試みる。
何もかもが虚しく、哀れであった。斬り裂けるものと言えば、空(くう)のみなのだ。
 狂乱に気圧されて傍観者たちは散っていったが、それでもフェイは暴れ回る。目に見えない何かを狙い、空想の刃を振るい続ける。
そこかしこに敵の影は在った。斬り殺すべき亡霊を感じていた。
彼にしか見ることの出来ない歪んだ世界には、「敵」しか存在していなかった。

「滅んでからもまだ僕を苦しめるッ! グリーニャは……グリーニャがッ!!」

 支離滅裂な咆哮と共に空想の刃を一閃したフェイは、両腕の動きに身体のほうが振り回されて横転してしまった。
無様だった。無様としか言いようのない有様であった。

「……フェイ……!」
「――フェイッ!」

 全身を泥で汚しながらも見えない「敵」に追い縋ろうとするフェイの前にケロイド・ジュースが立ち塞がり、
ソニエは彼を後ろから羽交い絞めにした。
 何度も何度も――それこそ喉が嗄れてもなおふたりはフェイの名を呼び続ける。
そうしなければ、二度と彼は自分たちのもとには帰ってこない。ソニエとケロイド・ジュースは忍び寄る絶望の影と戦っていた。
 だが、血を吐くような呼び掛けさえも獣の咆哮は無慈悲に咬み砕いていく。
力ずくでソニエを振り払ったフェイは、「」と壊れたように吼え声を上げた。

「……フェイ……ッ!」

 最早、言葉だけで食い止められないと諦めたケロイド・ジュースは、人並み以上に長い両腕でもってフェイの両肩を掴み上げた。
強硬手段になるが、腕力で押さえ込む以外に選択肢は残されていなかったのである。
 しかし、フェイはこれを許さない。ケロイド・ジュースの胸を突き飛ばし、そのまま体重を掛けて強引に押し倒すと、
次なる挙動を封じ込めるように彼の腹の上に飛び乗った。
 フェイの両拳は血管が浮かび上がる程に強く、固く握り締められている。

「い、いけない――」

 戦慄に目を見開いたソニエが止めるよりも早くフェイの右拳がケロイド・ジュースの頬を捉えた。
馬乗りになった上で「敵」を殴り殺そうと言うのだ。
 仮にもケロイド・ジュースは親友である。掛け替えのない無二の親友なのである――が、それすら忘れたようにフェイは拳を揮い続けた。
フードの上からでもはっきりと出血が分かる。まず間違いなく頬骨は折れている筈だ。
振り落とされる両の拳には手加減と言うものが微塵も感じられなかった。
 何度、ケロイド・ジュースの顔面を抉ったときであろうか。少しずつフェイの拳が外れるようになってきた。
組み敷いた親友ではなく、深緑の絨毯が敷かれた大地を叩き始めたのである。
 狙いが定まる筈もない。既にフェイの双眸は焦点すら合っていなかった。
おそらく、自分が誰を、……いや、何を殴っているのかも認識していないのだろう。
己の所業に気付かないまま、彼は親友を殺めようとしていた。
 ソニエは心臓が握り潰されるような衝撃に苛まれていた。このような様を見せ付けられようともフェイから心が離れることはない。
ただただ絶望していた。どうあっても彼を救うことができず、暴走を止める力すら持ち得ない自分自身に絶望していたのだ。

「フェイッ!」

 有らん限りの苦悶に衝き動かされたソニエは、全身をぶつけるようにしてフェイの右腕を引き止め、
「帰ってきて! そっちに行っちゃダメよ! だから……ッ!」と、最後の力を振り絞って呼び掛けた。

「――フェイは強いんでしょ!? みんなのヒーローでしょッ!? ……あたしの最高のヒーローだよッ! 
あたしの大好きなフェイは、こんなことで負けるような人じゃないッ!!」

 心の底から搾り出すようなソニエの言葉にフェイの動きが止まった。
 英雄の信徒たる義勇軍がこの地より去ろうとも、最後に残った最愛の女性(ひと)だけは、
フェイがフェイとして在る理由を受け止め、認めている――その想いが届かない筈はないのだ。
 己が進むべき道に迷ってしまった英雄は、ソニエの愛でしか救うことが出来ない。
全身を襲う苦痛に耐えながらもケロイド・ジュースはそのことを確信していた。彼女の勇気が絶望を拭い取ったのだ。
 全存在を賭して希望を示してくれたソニエに応えようと言うのか、ケロイド・ジュースから拳を引いたフェイは、
ひどく緩慢な動きで立ち上がると最愛の女性を正面から見据えた。
 ソニエは、愛するフェイを抱きしめようと両手を大きく広げている。あたかも雛を迎える母なる鳥のように。

「フェ――」

 今まさにソニエの愛がフェイを包み込もうとした、その瞬間のことであった。
 胸を撫で下ろそうとしていたケロイド・ジュースの眼前にて乾いた音が響いた。
 フェイの右手が、ソニエの頬を張っていた。

「……フェイ……お前……おま……えは……またも……またしても……」

 それは――それだけはあってはならないことであった。
 例え、心の闇に飲み込まれようとも、明日を見失っていようとも、それだけは許されない。
 フェイは越えてはならない一線を越えてしまっていた。差し向けられた最後の希望を、自らの手で叩き壊してしまっていた。

「……お前は……自分が何をしたのか……わかっているのか……フェイ――フェイッ!!」

 よろめきながら立ち上がったケロイド・ジュースも絶望に囚われている。
 己の思慕を押し殺して祝福したふたりが、今、永訣(わかれ)のときを迎えている。
 今まで共に歩み、育んできた三人の絆が、断ち切られようとしている。
 そうはさせまいと必死になって抗ってきたケロイド・ジュースであったが、最早、終局と言う現実を認めざるを得なかった。
 フェイは己の右手を呆然と見つめ、ソニエは俯きながら左頬を押さえている。
その様を視認したとき、ついにケロイド・ジュースは激情を抑え切れなくなった。

「……ダメだよ、ケロちゃん」

 怒涛と化してフェイを飲み込もうとする憤激は、ソニエの一声で堰き止められた。
 ひどく冷静な声であった。頬を殴られた痛みさえも感じていないような――ともすれば、人間らしい感情が抜け落ちたような声であった。
 よもやソニエまで壊れてしまったのではないかと戦慄したケロイド・ジュースは、
責め苦の如き哀しみに苛まれつつもその面を窺い、呻き声と共に息を呑んだ。
 彼女は微笑んでいた。口の端から赤い雫を滴らせながらも両目に溜めた涙だけは堪えて、最愛のフェイに微笑みかけていた。

「……フラれちゃったね――」

 それが、ソニエからフェイへと送られる最後の言葉となった。
 いつしかソニエの気配はフェイの前から完全に消え失せ、ケロイド・ジュースもまた彼女の後を追った。
 そして、英雄の周りからは、誰もいなくなった。
 無窮にも感じられる孤独の只中に在って、彼は己の右手をただひたすら見つめ続けている。
己の全存在を賭してでも守らねばならなかった人に振り上げ、その愛もろとも粉々に壊してしまった愚かな手を、だ。

 そこに残る生々しい感触を味わうのは、今日が初めてではない。
 あれはそう――ギルガメシュの襲撃を受けて跡形もなく焼け落ちた故郷を、グリーニャを目の当たりにしたときのことだ。
 忌むべき存在の破滅を双眸で確かめたとき、失われた生命への弔いの言葉ではなく、悲劇に苦しむ落涙でもなく、
身の裡からは哄笑が込み上げて来たのだ。今までにない充足感すら湧き起こっていた。
 英雄として――否、人間(ひと)としてあるまじき振る舞いである。己の冷静な部分では恥ずべきことだと自覚したのだが、
それでも醜い感情の発露は鎮まらない。発狂にも等しい哄笑を止めることはどうしても叶わなかった。
 羞恥よりも理性よりも、グリーニャと言う呪いから解放された喜びが勝ってしまったのだ。
 ケロイド・ジュースからは再三に亘って諫止の声が飛ばされたが、それがフェイの心へ響くことはなかった。
鼓膜で拾い、脳が認識するよりも前にフェイ自身の笑気によって掻き消されていたのである。

「あんたらしくないよ! ……あんたは英雄なんでしょ? フェイ・ブランドール・カスケイドなんでしょ!? それなのに、それなのに……! 
思い出して、フェイ。あんたがやるべきことはひとつじゃないッ!」

 そう訴えて暴走を止めようとしたソニエの頬を、フェイは平手でもって殴り飛ばしていた。
 右手に残った彼女の体温が嘗ての過ちを反復させ、その瞬間、フェイは脳が焼き切れるような錯覚に苛まれた。

「……僕は……一体、何を……」

 どうしてソニエを殴ってしまったのかは、フェイ自身にも分からなかった。
グリーニャの焼亡を嘲り、歓喜した哄笑と同じように理性を超越した衝動としか言いようがない。
 あのときも、今この瞬間も――己の心に寄り添おうとする全てを拒絶したのである。
 あのときは、傍にいてくれた。理不尽な暴力を振るわれても、決して見捨てないでいてくれた。
 だが、今この瞬間にソニエはいない。見渡す限りのどこにも最愛の女性はいない。

「……ソニエ……ソニエ……ソニエ……ソニエ……ソニエ……」

 まるで赤子のようにしゃくり上げながらフェイはソニエの影を捜し求めた。
 しかし、正常な判断を喪失した彼に最愛の女性を見つけ出すことは不可能に近い。
辺り構わずぐるぐると回り、かと思えば、英雄の信徒が打ち捨てていったテントを訪ね歩く――ただそれを繰り返すのみであった。

「――フェイ様で、ございますよね……?」

 歪んだ世界の中をたったひとりで徘徊していたフェイの鼓膜を女性の声が叩いた。
 女性の声と言うことだけで反射的にソニエが戻ってきたと誤解し、破顔するフェイだったが、そこに在ったのは全くの別人である。
ヴィクドの控え室で顔を合わせた程度の記憶しか持ち得ないのだが、間違いでなければ、アルカークに仕える侍女のひとりだった筈だ。
緋色のドレスに身を包むこの麗女は、名をマルガレータ・ヴェロニカと云った。

「お城のあちらこちらを訪ね歩いたのですけれど、どちらにもお姿を見つけられずに難渋致しました。
城外(そと)におられたのでございますね。ご自分で使いに出したと言うのに、アルカーク様ったら後からそれを仰るのですもの……。
フェイ様からも諌めてくださいまし」

 相手の反応も待たず、一方的に語り続けるマルガレータを黙殺し、ソニエの捜索に戻ろうとするフェイであったが、
彼女の手に在る物を見つけたとき、愚かにもその足を止めてしまった。
 ――剣だ。これまで見たことがないような豪奢な剣を彼女は持参していた。

「――ああ、こちらでございますね。これはアルカーク様が貴方様に、と。先日の戦いで剣を折ってしまわれたのですよね? 
剣匠と名高いフェイ様のこと、さぞや御心を痛めておるだろうと、我が主は案じておりました。
……こちらはヴィクドで最も強き者にのみ授けられる一振りであるそうです。せめて剣匠の慰めになれば、と……」

 紫の布に包まれていた剣を差し出すマルガレータは、これがアルカークの心遣いであると語って聞かせた。
 三つ巴の決闘までフェイが用いていた実父の形見と同じく両手にて扱う大剣だが、その刃は圧倒的に優美であった。
炎の揺らめきを象ったのであろうか、刀身自体が波を打っているのだ。中程には太陽を彷彿とさせる豪奢な飾りが嵌め込まれ、
そこから剣尖に向かって火炎の勢いは一層激しさを増していく。即ち、殺傷力も大幅に増幅されると言うことだ。
 波を打つ刃は斬りつけた相手の傷口を無慈悲に抉り、縫合不可能なものへと悪化させてしまう――
この恐るべき剣は『フランベルジェ』と呼称されていた。
 古い言葉で「炎の剣」を意味しているともマルガレータは言い添えた。
その名の如く刃は赤色の水晶を加工した皮膜でコーティングを施され、まさしく烈火の輝きを発している。
太陽を模した飾りの中心には本物のレッドダイヤが埋め込まれていた。

「英雄が携えるに相応しき秘剣、どうぞお取り下さいませ。この一振りさえあれば、アルフレッド・S・ライアンなど恐れるに足りませんわ。
寄生虫に加担する裏切り者など……。グリーニャの影を今こそ断ち切ってくださいませ」

 いくら憎んでも足らない相手からの施しなど突き返すことも出来たであろう。触れることすらおぞましいと、黙殺しても不思議ではない。
 だが、マルガレータの口から忌むべき名が漏れ出したとき、フェイは何かに導かれるようにしてフランベルジェへと手を伸ばし、
煌びやかな柄を握り締めていた。
 一介の侍女であるマルガレータがフェイにとって忌むべき名を知っているのは何故か。
よしんばアルフレッドの名に聞き覚えがあったとしても、広い世界の中ではごく小さな山村に過ぎないグリーニャのことを、
フェイを脅かす影まで含めて把握しているとは、いくらなんでも不自然と言うものだ。
 だが、フェイ当人はそのことに微塵も疑いを抱かなかった。彼の心を満たすのは、疑いではなく例えようのない安らぎである。 
父の形見などに固執してきた己を愚かと笑い飛ばす程、彼の心は愉悦に踊っていた。
 思えば、ツヴァイハンダーとてグリーニャと言う呪いの残滓に過ぎないのだ。
悪夢より解き放たれた者は、それに相応しい剣を携えるべきなのである。
 それこそが在るべき英雄の姿であった。この快楽こそは不浄なるモノが身の裡より抜け出た証であった。

「……これが自由か、そうか……」

 自由と呟いた直後、何を血迷ったのか、フェイは手にしたフランベルジェの刀身をマルガレータの首筋へと押し当てた。
剣尖を送るか、手前に押すか――ほんの少しでも刃を動かせば、彼女は辺り一面に鮮血の雨を降らせることになる。
 突拍子もない行動に驚き、目を丸くするマルガレータであったが、己の置かれた立場を認識した直後、
美しい顔を恐怖に引き攣らせ、「何でもしますので、お命ばかりはお助けを、お情けを」と命乞いを始めた。
フランベルジェの試し斬りをするものと捉え、取り乱してしまったのである。
 抵抗の意思は言うに及ばず、武器のひとつも持ち得ないと証明するつもりか、マルガレータは両手を大きく開いている。
首を絞められ、解体されるのを待つばかりとなった鳥と同じように。
 その被虐的な様を眺める内にフェイの心の中でドス黒い衝動(もの)が疼き始めた。
 マルガレータの首筋からフランベルジェを離し、次いで剣尖を大地に突き立てたフェイは、舐るような視線を彼女の肢体へと這わせていく。
 殺される心配がなくなって安堵し、緊張の糸が切れてしまったのか、その場に力なくへたり込んだマルガレータは、
大粒の涙を零しながらフェイに詫び続けた。彼女には何ひとつとして謝る理由などはない筈なのだが、
自己防衛の本能が目の前に立つ男への屈服を訴えているようだ。
 己に迫る新たな危機を察したような素振りは見られない。その間にもフェイの右手は彼女の胸元にまで近付いていた。

「――フェイ様っ!?」

 いきなり胸倉を掴まれたマルガレータは、訳も分からず力任せに引っ張り上げられ、更に最寄りのテントへと放り投げられてしまった。
 余りにも強引であった為にドレスの一部が千切れ、そこから乳房が飛び出してしまった。
満面を羞恥に染め、破れた箇所を両手で隠すマルガレータであったが、フェイはこの挙動すら許さない。
胸元を隠していた腕を掴み上げると、悪魔の如き眼光でもって彼女を恫喝した。
 その瞬間、マルガレータの双眸が恐怖に見開かれた。ここに至って、己に迫る危機の正体を悟ったのだ。
 最早、この男は目に映る全ての存在(もの)を蹂躙することしか考えていなかった。





「……マルガレータがフェイ・ブランドール・カスケイドと接触したそうだ……」

 その報せをアルカークが聞いたのは、ヴィクドの控え室ではなくハンガイ・オルスの片隅に設けられたゲームコーナーであった。
 ギルガメシュの使者、来(きた)る――この急報が駆け抜けた瞬間から場内は騒然となり、回廊と言う回廊に群衆が殺到していった。
先程に比べれば多少は勢いも減退したようだが、依然として耳障りな轟音――怒号や悲鳴がひとつの塊と化したものだ――は続いており、
一向に鎮まる気配がない。混乱が完全な終息を見るまでには今暫く時間を要することだろう。
 その熱に浮かされて管理人まで飛び出していった為、ゲームコーナーは俄かにアルカークの独占状態となった。
 彼が選んだ筐体とは、巷で評判の対戦格闘ゲーム、『ネコ政宗〜戦国おにゃんこ下克上トーナメント』であった。
 厳つい面構えには似つかわしくない巧みな操作でアルカークは順当にステージを進めていく。
実はこのゲームへ相当に入れ込んでいるのだろう。「留守の叔父貴」と言う腕力自慢のネコを使用しているのだが、
攻守の組み立てに全くと言って良いほど無駄がなかった。このキャラクターは一撃ごとの攻撃力が高い反面、
ありとあらゆる動きが極端に鈍重であり、隙を生じ易いとの特徴を持っているのだが、彼はそこまで計算に入れているようだった。
 どこでどのような動きをするのが最善であるかを見極めているアルカークは、
対戦相手の動きを完璧な試合運びで封じ込め、いつしか最終ステージにまで到達していた。
 ディオファントスが姿を現したのは、最後の対戦相手となる宇宙ネコとの張り合いが終わる寸前のことである。
フェイとマルガレータの接触を弟より報(しら)されたアルカークは、ゲーム画面を睨み据えたまま、「そうか」と短く答えた。
 最終ステージは宇宙空間である。どうやら「DEUS」を称する宇宙ネコは、銀河系の彼方から襲来したインベーダーと言う設定のようだ。
十字を象った黄金の乗り物にて鎮座し、「留守の叔父貴」を静かに威圧している。その頭上には光の環が浮揚していた。
 搭載された必殺技は多彩である。何もない空間に突如として宇宙嵐を生み出すなど攻守が予測しにくく、
最後に立ちはだかる難敵の貫禄も十分である。
 しかし、アルカークに抜かりはない。コンピューター側の行動パターンまで頭に叩き込んであるらしく、
攻撃と回避を使い分けて「DEUS」の技を悉く潰し、最後は有効範囲ギリギリの位置から大振りのパンチを直撃させて勝負を決した。
「留守の叔父貴」の側は一度としてまともにダメージを受けていない。まさしく完全勝利であった。
 最終ステージを突破した後のゲーム画面には、スタッフロールが表示されている。そこでアルカークは筐体を離れた。
次に足を向ける先は、ゲームコーナーの片隅に設置された自販機だ。
 その背を「こんな手は好きではないのだがね」と言うディオファントスの溜め息が追い掛けた。

「いくらヴィクドの為とは言え、女を使って誑し込むなど……」

 マルガレータがフェイと接触する前に起きた事件(こと)、フランベルジェを引き渡して以降の“顛末”まで把握しているディオファントスは、
苦虫を噛み潰したような表情である。
 ホットスナックの自販機でピザトーストを一枚買い求め、これを義手の先に突き刺して齧り付いたアルカークは、
顰め面の弟に向かって「クソ真面目なヤツめ」と鼻を鳴らした。幾分、小馬鹿にしているような笑い方である。
 ディオファントスは兄の計略に辟易しているわけではない。毒液を塗布することのある鉤爪に食べ物を直接突き刺すと言う行為に
生理的な不快感を抱いただけのことである。口にしても揉めるだけなので黙ってはいるのだが、
胸中では「中毒を起こしても介抱などしないからな」と悪態を吐いていた。
 兄が軽食を済ませるまで手持ち無沙汰になったディオファントスは、延々と続くスタッフロールをぼんやりと眺めていた。
開発者の紹介が全て終わったところで画面が切り替わり、最優秀成績獲得者の名前を入力するよう求められた。
どうやら過去にエルンストが獲得した点数を追い抜いたらしい。
 筐体へ備え付けられた椅子に腰掛けたディオファントスは、アルカークに成り代わって「VCD」と適当な三文字を登録していく。

「好き嫌いの問題ではなかろうが。それにこれはヴィクドではなくエンディニオンを守る為に必要なこと――
どこぞの軍師サマのように大望、大儀などと大袈裟にするつもりもないがな」

 弟がコントロールパネルを操作している間にピザトーストを平らげたアルカークは、思い出したようにディオファントスの話に答えを返し、
「筋書き通りに事態(こと)が運べば、マルガレータはカスケイドをヴィクドまで誘導するだろう。全てはそこからだ」とも付け加えた。
 ディオファントスはデモンストレーションの始まったゲーム画面を眺めながら耳だけ兄に向けている。
その面はどこか倦んでいるようにも見えた。

「首尾は上々、か? ……稀代の英雄もお前の掌の上と言うわけだな」
「転がしてやるのはこれからだ。まだ舞台も整っておらんわ」
「……努々油断はしないことだな。ただでさえ日頃の行いが悪いのだ。普通、お前のような人間に運は味方しないものだぞ」
「統計学でも持ち出したか、学者先生? ……己の運気などハナから問題にはしておらんわ。
フェイ・ブランドール・カスケイド、あれの命運が尽きていただけの話よ」

 人気のないゲームコーナーにてこの兄弟が論じているのは、裏舞台で進みつつあるひとつの謀略であった。
 これを主導する立場にあるらしいアルカークは、自分の望み通りに“駒”が動いているにも関わらず、何時にも増して不機嫌そうだ。
謀略にて滅するべき標的を思い浮かべただけでも激烈な憤怒が込み上げてくる様子であった。

「抜け殻同然の生ける屍だが、英雄サマの力とやらも使える内は最大限に使わせて貰おう。
……あれには『攘夷(じょうい)』の魁になって貰わねばならん」

 『攘夷』なる言葉が意味するところを知るディオファントスは一等表情を曇らせ、兄の神経を逆撫でしないよう静かに溜め息を吐いた。




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