22.Carry on Wayward son


 ギルガメシュより遣わされた使者がハンガイ・オルスへ入城してから半日が経った。
どのような形で会談が実施されているのか、何らかの交渉にまで発展しているのか、送り込まれた使者とは何者なのか――
貴賓室の情勢が何ひとつ開示されないまま時間ばかりが無為に過ぎている。
 これ程までに時間が経過すると、回廊と言う回廊を席巻していた群衆もさすがに勢いを失っていき、続々と解散。
昼を跨ぐ頃には完全に終息した。勿論、その裏にあった太刀颪たちの尽力も忘れてはならないだろう。
 残念ながら、テムグ・テングリ大相撲は打ち切りとなり、力士たちも土俵からの退場を余儀なくされてしまった。
控え室に下がるその態度も立派であった。緊急事態だけにやむを得ないと誰もが納得しており、
不満の声を上げる者はひとりとしていなかった。
 早くも相撲場の撤去が始まっているのだが、これを見学に行ったジェイソンは、
会場となった内庭の片隅に居残ってファンと交流し続ける太刀颪の姿へ感動すら覚えたと言う。
 撤去と言えば、アクアヴィテに破壊され、瓦礫の山と化したツァガンノール御苑は、当面は手を付けずに安置しておくそうだ。
馬軍の聖地だけに由々しき問題ではあるものの、状況が状況だけに即時の修復は難しい。
現在のテムグ・テングリ群狼領には、ギルガメシュの使者を迎えた会談こそが最優先事項なのである。
 尤も、聖地破壊の真犯人であるゼラール軍団とっては、事後(あと)の始末など知ったことではなかった。
馬軍が定めた規律の中でも最悪の大罪を敢えて断行し、これを以って宣戦布告に代えたのだ。
今更、どのように糾弾されようが恐れるに足りない。
 ツァガンノール御苑を引き上げた後でさえ余裕の態度を崩さないものだから、
部外者――ゼラール軍団に加勢はしたのだが――であるアルフレッドたちのほうがトルーポたちへの追撃者を警戒した程である。
 ザムシード、ビアルタの両将による暴走の代償として、ハンガイ・オルスに居る間は誰にもゼラール軍団へ手出しをさせないと
カジャムは約束していたが、果たして、どれ程の効果があるかまでは分からない。
彼女を信用しないわけではないが、だからと言って、全ての将士を抑え込むことなど不可能である。
意識を取り戻し、ツァガンノール御苑の惨状を目の当たりにしたビアルタは、トルーポへ狂わんばかりに怨嗟を浴びせかけた。
呪詛めいた悪言さえ幾度となく飛び出したのだ。
 カンピランなどは豪胆にも「どんなヤツが来たって返り討ちにしてやるだけさ。馬乗りどもにそんな度胸があればね!」と力瘤を作り、
ラドクリフも勇ましく応じていたが、気合いひとつで四面楚歌の状況を打開出来るわけでもなく、シェインもジェイソンも気が気ではなかった。
 最大の怨敵と見做されているだろうアクアヴィテは、再び大穴を穿って地中へと戻っていった。
当面はハンガイ・オルスの直下に潜み、軍団の指針が固まり次第、ゼラールたちと合流する手筈となった。

「――で、これからどうするんだ?」

 ゼラール軍団が次に打つ手は如何に――アルフレッドはその明答をトルーポに求めた。
旧友は佐志に届けられた差し入れの余りと言うターキークラブサンドを美味そうに頬張っている。
 一先ず詰め所で待機するよう命じ、軍団員を解散させたトルーポは、ラドクリフ、ピナフォア、カンピランを連れ立って
佐志の控え室に身を寄せていた。
 テムグ・テングリ大相撲の撤収に忙殺されているのか、ゼラールと一向に連絡が取れなくなっており、
返信を待つ間、アルフレッドたちのもとで身を隠すことになったのである。

「テムグ・テングリでさえ手が出せねぇような場所にいたほうが安全だぜ。少なくとも、ほとぼりが冷めるまではな。
ブチギレたヤツは何を仕出かすか分からねぇしよ。佐志ンとこは、打ってつけだろ?」

 そう言って誘ったのはマイクであった。勿論、安全確保は親睦の為の建前にし過ぎない。
間もなく訪れるだろう別れに悔いを残さないよう膳立てをしたわけだ。冒険王らしい粋な計らいである。
 誰でも出入り自由な控え室のどこに隠れ場所があると言うのか。第一、主だった幹部を除いて殆どの軍団員が詰め所に戻っているのだ。
このような状況では、「身を隠す」も何もあったものではない。
 マイクの計らいを察したからこそ、討手の迎撃に昂ぶっている筈のカンピランも佐志の控え室まで足を運んだのである。
 親睦の場を整えたマイク当人は、この賑わいには加わっていない。
それどころか、控え室のどこを捜しても彼の姿を見つけることは出来なかった。
 現在(いま)、冒険王はエルンストの傍らにてギルガメシュの使者と会談に当たっている。
 ツァガンノール御苑に飛び入り、アルフレッドたちに急報を伝えたグンガルは、実はマイクを捜し求めていたのだ。
理由は定かではないのだが、ギルガメシュの使者は冒険王に同席を要請していると言う。
 これには本人も含めて誰もが首を傾げた。 確かに彼は調停、仲裁の名手として知られている。
第一、ハンガイ・オルスへ入城したのも交渉の手腕を期待したジョゼフより招聘があったからである。
 だが、それもこれもBのエンディニオンでのこと。Aのエンディニオンに於いては全くの無名の筈だ。
教皇庁と言う世界規模の組織に所属するクインシーでさえ冒険王の称号(な)を知らなかった。それこそが一番の証左と言えよう。
 果たして、ギルガメシュがマイクに何の用なのか――皆目検討がつかないものの、請われたからには出席するしかあるまい。
ティンクとジョウを伴い、グンガルに先導され、冒険王は一路貴賓室へと向かっていった。
その別れ際まで「くれぐれも無茶だけはすんなよ」と念を押した辺り、余程、旧友のことが危なっかしく見えるらしい。
 心配性としか言いようのないマイクには、さすがのトルーポも苦笑いを浮かべるばかりである。
 アルフレッドからも今後の方針について直球で問われたが、連合軍を離脱するにせよ、茨の道を選ぶにせよ、
トルーポには決定権などなく、それが為に答えに窮してしまうのだ。仮に本来の持ち主から委任を持ちかけられたとしても、
それこそ一命を賭して固辞するだろう。
 課せられた責務として助言あるいは諫言の類は進んで行うものの、自分たちはあくまでも閣下に従うのみ――
それこそが側近たる己の領分であるとトルーポは弁えていた。

「そう言や、新聞王のジィさまはまだ戻らねぇのな。グドゥーと一緒になって悪巧みしてんのかい?」

 答えようのない質問からアルフレッドの意識を遠ざけるには、露骨以外の何物でもないが、曖昧に話をはぐらかすしかあるまい。
 さも今気付いて驚愕したかのような芝居がかった言い回しから旧友の情況を悟ったアルフレッドは、
更なる追及を自重し、気遣わしげな声でもって「何もかも自分で背負おうとするなよ、……トルーポ」と、ただ一言のみを送った。
 「お前だって人のことを言えねぇだろ、アル」と返すトルーポの声は、苦境へ立たされたにも関わらず、どこか弾んでいる。
何をそんなに浮かれているのかとカンピランは呆れ顔だが、こればかりは旧友と言う間柄でしか分かち合うことは出来まい。
 陽気になって鼻歌まで披露し始めたトルーポは、フードコートからチーズミルフィーユカツ、イカ墨のカプチーノスープ、
サイコロステーキたっぷりのタコスを見繕って舌鼓を打っている。

「なんや水出しコーヒーをご馳走する言うとったで、あのオバはん。水出しっちゅーのは、いっぺんだけ見たことがあるんやけど、
アレ、アホみたいに時間掛かったで。その間、おしゃべりっちゅー腹とちゃうんかな」

 世間話のつもりでジョゼフの行方を尋ねたトルーポにはローガンより答えが返された。
彼と守孝、セフィ、シュガーレイの四人は新聞王へ同行する形で貴賓室まで赴いていたのだ。
先程の質問に対しては、この場の誰よりも適切な返答を持っていると言うわけであった。

「お喋りと言うか、腹の探り合いと言うか……。どーも、アルの周りにゃロクなのが集らねぇな。
グドゥーの腹黒ババァ、アルも呼べっつってたんだろ? 手前ェが殺そうとしてた相手を招待するか、普通」
「ワイまで悪者かいな? こないな天然素材を捕まえて、そらかなわんでぇ」
「道すがら説明しただろう、トルーポ。イブン・マスードを差し向けたのはクレオパトラではなかった。ましてや、俺は誰からも狙われていない。
だから、俺はお前を……」
「そーだったな、……悪ィな、アル。またヘンな気ィ使わせちまったぜ」

 現在、ジョゼフは思わぬ不運に見舞われていた。貴賓室の前にて遭遇したクレオパトラから強引に腕を引かれ、
グドゥーの控え室まで連行されてしまったのである。
 アルフレッドが不在と言うこともあってクレオパトラの興味はジョゼフに限定されており、残る四人は放免となった。
薄情と言うか冷淡と言うか、自分に関わりがないと確かめるや否や、シュガーレイなどは皆を置いてその場を立ち去り、
「嘘でも良いから少しは心配せんか!」と言うジョゼフの悲鳴にも足さえ止めなかった。
 自然、ローガンたちもシュガーレイを追いかける形となり、哀れにもジョゼフは孤立無援の状態でクレオパトラと対峙する羽目に陥ったのであった。
 結果的に一足早く佐志の控え室へ戻ってきたローガンたちは、それから少しばかり遅れて帰還したアルフレッドたちを出迎えたのだ。
 さすがは秘密会談の舞台と言うべきか。ギルガメシュの使者が巻き起こした混沌の只中と言う状況(こと)もあり、
ツァガンノール御苑の荒事は聖地の外部には全く漏れていなかったようである。
合流して初めてイブン・マスードたちとの激戦を報(しら)されたローガンは、「そないなときこそワイを呼ばんでどないすんねん!?」と
愛弟子の鼻の頭を抓ったものである。
 当のアルフレッドはローガンを宥めるのもそこそこにグドゥーの控え室へ向かおうとした。
ジョゼフひとりを権謀術数に長けたクレオパトラと戦わせるわけにはいかなかったのだ。
今すぐ加勢に入らねば――しかし、この動きはマリスによって引き止められてしまった。
 このところ、アルフレッドは連戦に次ぐ連戦だ。グラウエンヘルツに変身こそしていたものの、
イブン・マスードを相手にまたしても激闘を演じ、その分だけ疲労が重なったのである。
マリスのリインカネーションでは肉体的な消耗を癒すことは出来なかった。
 しかも、だ。食事、睡眠すら充足されない状況が続いており――これは変身による弊害であるが――、
また、絶え間ない多数派工作によって神経も衰弱している筈。
今日と言う今日は休養を取るように言い付けられた次第であった。
 気を利かせたタスクがドアの前に陣取ってしまった為、アルフレッドはドアの外へ出ることも叶わない。
結局、ジョゼフの置かれた状況に些かも変動は見られなかった。

「――どう言うことですか!? 今のやり取りは、何だと言うのですか、アルちゃん!? 
だ、大体! バスターアローさん! あなた、アカデミーの頃はアルちゃんと仲が悪かったのでは!? それが、どうして急に親しげに……。
アルちゃんもアルちゃんですっ! いつからファーストネームで呼び合うようになったのですかっ!」
「どうしてお前が気色ばむのか、分からんが……」
「またアルちゃんはっ!」
「……つーか、誰だっけ、あんた」
「なんでおめーが訊くんだよ、カンピラン。こいつはヘイフリックっつって、アカデミー時代の知り合いだ。
確か大病患ってたと思ったが、……そーいや、いつの間に元気になったんだ、お前」
「あなたには関係ありませんっ!」
「ほ〜う? お嬢サマからめちゃくちゃ嫌われてるみたいだねぇ。はてさて、一体、何があったのやら?」
「な、なにキレてんだよ、お前。目ェ怖過ぎだろ、オイ」
「べっつにぃ? あんたの人間関係に興味なんかクソほどもないしぃ?」
「バッ――浮気疑ってんじゃねーだろうなッ!? 誰がこんな辛気臭ェ女にッ!」
「し、失礼ではありませんこと!? わたくしにも選ぶ権利と言うものがございますわ!」
「あーあー、わかった、わかった。今のでわかった。ラブコメってヤツかい?」
「ちげぇっつの! ……何なんだよ、普段、素っ気ねぇくせして、こんなときばっかり食いつきやがってッ!」
「らしくないな、トルーポ。女の尻に敷かれているのか」
「う、うるせーな、アル! お前だって所帯持てば分かンだよッ!」
「お前、今、何と――お前、結婚したのか!?」
「……あれ? 言ってなかったか? マイクと親しかったみてーだし、てっきりペガンティン・ラウトのことも聞いてるもんとばかり……」
「聞いてない。そう言う大事なことはもっと早く言え。……俺とお前の仲じゃないか」
「――三股ッ!? あ、あんたって野郎はッ!」
「何でアルを勘定に入れたッ! お前、なんでアルを勘定に入れたんだッ!?」

 状況の好転も何も、今ではジョゼフの話題がアルフレッドたちの会話に上ることさえ少なくなりつつある。
この先、新聞王のもとに駆けつける者は現れないだろう。論客が相手では分が悪いと守孝も加勢を諦めている。
 本来、ジョゼフがひとりきりになると言うことは先ず有り得ない。必ずラトクが影のように付き従う筈なのだ――が、
当の懐刀は自分たちの控え室に留まりながら差し入れの余りに舌鼓を打っている。
別件でジョゼフのもとを離れていた為、ラトクは貴賓室には同道していなかったのだ。控え室に戻ってきたのは、それこそアルフレッドたちより後のことである。

「不運不幸とは言うが、ジョゼフ様の場合は日頃の行いだろう。あの御方のことだ。私たちが気を揉まずともここで待っていれば、その内に帰ってくるさ」

 ローガンから事情を説明されたラトクは、嫌味っぽく薄ら笑いを浮かべるばかりで自分からジョゼフを助けに行こうとはしない。

「電話なりメールなりで連絡が入れば、すぐにでも駆けつけるさ。それがないってことは、私の力がなくても足りるって意味だ」
「ホンマかいな? モバイルも使えん状況になってもうたんとちゃうかなぁ〜」
「そんなに心配ならキミが。私はジョゼフ様の気性を誰よりも知っているつもりだ。
出過ぎた真似をすれば気分を害する。誰よりもプライドが高いのだよ、あの御方は」
「……ラトク、お前さん、誤魔化そうとしてへん?」
「さてな。ご想像にお任せする――とだけ言っておこうか」
「知らんでぇ、後でどうなっても」

 主人の窮地と分かっているのだから自ら駆け付けるのが節義ではないかとローガンは首を傾げたが、
さりとて他者の雇用関係へ突っ込んだことを言うわけにも行かなかった。
 あるいは、これもまた主従の在り方なのかも知れない。実際、ローズウェルもK・kを相手に似たようなやり取りをしていたのだ。
 そう言った意味では、ふたりの間には共通点が多い。両足をだらしなく投げ出してソファに座った辺り、
主人の帰りを待つと言うよりは厄介者がいない間に羽根を伸ばしているようにも見える。
同じ状況に置かれた場合、ローズウェルはラトクと殆ど変わらぬ行動を取ったに違いない。
 エージェントの職務を放棄したとしか思えないラトクのことをセフィは白い眼で眺めていたが、
彼はアルフレッドから“あるひとつの指示”を受けてヒューと共に席を外している。

「何だかあんたらはアットホームな雰囲気だねぇ。団欒ってのはいいもんだ。仲間ってのはそーでなくっちゃ」

 誰よりも陽気な声を上げるのは、何故か一行へ随いてきたイブン・マスードである。
 佐志の面々を震え上がらせた「世界一腕の立つ仕事人」の恐怖はどこへ消えたのやら。
標的の血を吸い続けてきたであろう装束から作務衣にも似た調理服へと風体を一変させ、
何やら小振りの鍋へと集中している。これを食堂から借りてきたガスコンロに掛けているのだが、
どうやら彼はカジキマグロの煮付けを調理しているらしい。この魚も差し入れのひとつだ。
 左の袖からはヴィトゲンシュタイン粒子の燐光を放つ腕が伸び出しており、握り締めた鍋の取手へと絶妙な振動を送っている。
琥珀色に輝く出汁の海で泳ぐ魚を鍋底に焦げ付かせない為の工夫であった。
 奇妙な輝きを放つこの左腕は、アルフレッドやトルーポと立ち合った際に披露した義手の類ではない。
生身のようにしか見えないものであった。その燐光からも察せられる通り、これはイブン・マスードが備えたトラウムである。
 今回のように左の義手が完全破壊されたときのみ発動させる文字通りの奥の手であった。
尤も、義手自体は肩口にてアタッチメント形式となっており、乱戦時でもなければ交換は自由自在。スペアも山ほど用意してあるそうだ。
 相手の虚を衝くようにして具現化し、必殺を図るのが本来の用途ではあるものの、
現在(いま)のイブン・マスードは調理と言う形で平和利用している。
それどころか、鼻歌交じりに菜箸を操る姿など小料理屋の名物板前にしか見えなかった。

「へい、カジキマグロの煮付け、上がったよぉぅ! 熱い内に召し上がってくんなぁ!」

 命の奪い合いを稼業とする仕事人の存在を正義の味方として看過出来ないハーヴェストではあるものの、
煮付けが盛り付けられた大皿を威勢の良い声と共に渡されては、手を伸ばして受け取るしかない。
逡巡する間もなく、それこそ反射的に身体が動いてしまうのだ。
 醤油とみりんの香りが彼女の鼻孔を突き、思わず生唾を飲み込んでしまった。
白い湯気を立てる煮付けには牛蒡とネギが絶妙のバランスで寄り添っており、見た目にも美しい。
 それでいて格調高い料理店の一品ではなく、居酒屋のような趣を醸し出している為、堅物のハーヴェストでさえ食欲を刺激されるのだ。
それもその筈、料理の盛り付けには敢えて安皿が選ばれていた。こうすることによって気さくに食べられる雰囲気を演出したと言うわけであった。
 しかし、味のほうは高級料理店にも引けを取るまい。胃袋を刺激する香りは、魚肉を口に放り込むより前にそのことを確信させるのだった。
 憎むべき対象が作った料理に反応してしまったことを悔やみ、不覚とばかりに唇を噛むハーヴェストを
イブン・マスードはカラカラと笑い飛ばしている。
 見れば、ターバンは髪の毛を纏めておく為の半球形の帽子に変わっていた。
これらの着衣は標的を惑わす為の変装ではなく、常日頃より愛用している自前の品々であるそうだ。
曰く、裏の仕事が入らないときには「割烹十二代目」なる居酒屋で調理場に立っているとのこと。まさしく外見通りと言うわけだ。
 世を忍ぶ仮の姿を勤め先の店名まで含めてあっさりと暴露するイブン・マスードであったが、これは本来ならば“最期”まで隠し通すもの。
すかさずフツノミタマから「そう言うもんは手前ェからひけらかすもんじゃねーんだよッ!」と叱声が飛んだ。

「馬鹿ウースがッ! もういいトシだろうが、てめーッ! いい加減、そのクソ軽いノリをどうにかしやがれッ! 
その内、痛ェ目見んぞ、コラァ!?」
「フツがそれ言うかね。えーっと、ウチの店にどんだけツケ溜めてるんだっけなぁ?」
「そーゆー話をしてるんじゃねーだろ! 縁者に迷惑掛けんなっつってんだッ!」
「我が家の父上サマは俺より超スゲェから全然心配ねぇって。なんてったって世界一腕の立つ板前なんだぜ?」
「ンなこた知ってるッ! 鰹の塩タタキ、あの味はおやっさんにしか出せねぇッ!」
「……お前まで乗ってどうする、剣殺千人斬り。鰹のタタキがどうした。刺客を料理でもてなすのか?」

 自分の縁者は「世界一腕の立つ板前」であると胸を張ったイブン・マスードに対し、回答として誤っていると指摘したのは、
フツノミタマではなくミルドレッドであった。
 イブン・マスードが口を滑らせた内容とは、例えば、スカッド・フリーダムに通報されようものなら、
即日中に自身のホームグラウンドを潰してしまう類のものなのだ。
本隊を離れたパトリオット猟班はまだしも、義の戦士たちは容赦なく店内に踏み込むことだろう。
 そうでなくとも、自身の本拠地を軽々しく口にするのは裏社会に生きる者として余りにも不注意。
これを注意したフツノミタマに「世界一腕の立つ板前」と切り返すのは破綻も良いところなのである。
 胡坐を用いて座るフツノミタマの背中へ自身の肘で強く押し当てるミルドレッドは、
その作業を続けつつも、「世界一って誉め言葉、安売りされ過ぎて有難味も何もなくなったようだね」と、
イブン・マスードの軽挙に呆れ返っていた。
 現在、彼女はフツノミタマに整体を施している。
 マリスのリインカネーションを受け、右目の負傷も含めて快癒こそしたものの、何故か身体に淀みのようなものが残ってしまった。
この原因についてフツノミタマは、「あの野郎のパンチはなかなか効いたからよ。ちと骨がズレちまったんだろうよ」と自己分析している。
どうやら骨格の復元はリインカネーションの効果に含まれないらしい。
 そこで白羽の矢が立ったのが、ジウジツを通じて整体の技術も学んでいたミルドレッドであったのだ。
耳聡く骨のズレを耳にしたジャーメインが「良いコ入ってますよ、そこのダンナ!」と推薦したのである。

 フツノミタマを診たミルドレッドは、彼の肉体に先ず感嘆した。
 筋肉の構造などがタイガーバズーカ出身者の格闘士とも全く異なる形で完成されている――
スカッド・フリーダムを経てパトリオット猟班に身を置く彼女でさえ双眸を見開いて驚愕したのである。
フツノミタマは「そう言う稽古を積んでたんでな」としか答えなかったが、いずれにせよ稀有の肉体と言うことに代わりはない。
 「強靭」の二文字では表し切れない高次の筋肉の持ち主にも関わらず、骨盤など各所が歪んでいたとミルドレッドは語った。
即ち、稀有なる肉体を貫く程にザムシードの打撃が強烈であったと言うことだ。
 彼女が入念にマッサージを施したのは右腕だった。抜刀の起点として幾度となく狙われた為か、
肩関節へ妙な癖が付く可能性もあったとミルドレッドは説明していた。刃を振るう度に脱臼しては、フツノミタマにとっては致命的であろう。
 背骨や骨盤にもズレが確認された。おそらくこれは投げを喰らった際に生じたものだ。
殆ど無防備のまま地面へ強か叩き付けられたのである。

「――トラウムを封印し、己が心技体のみを頼みにする、か。何とも報われず、不器用な輩とばかり思っていたが、
実際にやり合ってみると流石に違ったな。……面白い連中だ」

 紫煙を吹かせながら整体を眺めるシュガーレイは、その胸中にてテムグ・テングリ群狼領将士の戦闘力を振り返っていた。
 軍議の場へ乗り込んだ際に勃発した乱闘ではパトリオット猟班の側が完勝した恰好となっているが、
シュガーレイ自身は群狼領の将士を圧倒したとは思っていない。
 第一、あの場で本気を出していたのは、他の将士と比して未熟なビアルタ、グンガルくらいであった。
シャムシール(偃月刀)の使い手たるデュガリも、チャクラムでもってジャーメインを牽制したカジャムも、
本来の実力など三分の一も発揮してはいないだろう。
 そもそも、だ。彼らの最大の武器は、騎馬軍団を運用する指揮統率である。本来、個人技の優劣は問題にはならないのだ。
テムグ・テングリ群狼領とパトリオット猟班の強さを同じ物差しで測るのは無粋の極みと言うものであろう。
 デュガリらに勝るとも劣らないザムシードと互角に渡り合い、ついに追い詰めたフツノミタマは、佐志随一の手練と言えるだろう――
このこともまたシュガーレイは認めていた。
 彼とザムシードの一戦を目の当たりにしたジャーメインによれば、曲刀の投擲に晒されたとき、
フツノミタマは筋肉を鋼の如く収縮させて剣尖を凌いだと言う。これは“元”から硬いモーントとは根本的に違っていた。
筋肉の使い方を技術として完成させたものである。しかも、ホウライなどの補助を必要とせずにこの神業をこなしてしまったのだ。
 斯様な神業を使える者は、武芸で栄えたタイガーバズーカを捜しても幾人と見つかるまい。

 ジェイソンもまた武芸の世界に身を置く一員としてフツノミタマに感服していた。
最初はダメな大人と呆れてもいたのだが、ザムシードとの戦いで見せた神技の数々を通してその評価を改めた次第である。

「いつかシェインくんもおじさんみたいになっちゃうのかな? ちょっと想像もつかないけど……」
「ボクが? オヤジみたいに? なんだそりゃ?」

 初めてフツノミタマの戦いを目の当たりにしたラドクリフも、概ねジェイソンと同じ感想を抱いている。
しかし、彼の場合は直線的な感嘆よりも将来的な危惧のほうが上回っており、質問を投げる声もどこか沈みがちであった。
 フツノミタマは確かに強い。純粋な剣士とは言い難く、むしろ太刀捌きの性質はカンピランに近いものを感じるが、
修羅場に於いて無類の強さを発揮するのは間違いない。あるいは、タイガーフィッシュよりも月明星稀のほうが
一枚上手とさえラドクリフは思っていた。
 だが、彼と同じ闘法をシェインが身につけることに不安も禁じえないのだ。
フツノミタマが発揮する強さとは、己の身体が壊れるのも厭わない修羅の技である。
天稟が有って初めて極められるものであり、常人では太刀を使いこなすより前に身体のほうが死んでしまうだろう。
 シェインはラドクリフを心配してツァガンノール御苑まで駆け付けたのだが、今や立場があべこべだ。
彼のほうこそ親友から行く末を案じられていた。

「フツの兄キが見せたよーなワザを言ってんだよ、ラドは。筋肉をあんな風にコントロールするとか超すげぇじゃん!」
「ホウライ使えるお前がそれを言うのかよ」
「言うさぁ、言いまくるさぁ。オイラ、ゾクッと来たもんよ。修行すりゃお前もあんな化け物になれるんだべ? 
……くぅ〜、腕試しが楽しみになってきちまったぜ! もっともっとゾクゾクさせてくれよな、オイ!」
「そうなの、シェインくん? ホントにそんな風に変わってしまうのかな?」
「どうかなぁ〜。やり方とか理屈は教わったけどさぁ、あんなもん、使えるようになるとは思えないよ。
それにアレって使いどころが難しいんだぜ? そんな細かいこと、ボクにやれっかなぁ〜」
「硬くしてるときに殴られたら逆に危ねぇ――ってか? まあ、柔軟性がなくなったら衝撃も内臓まで貫通しちまうし、
筋肉だってズッタズタのブッチブチにならぁな。でも、心配御無用! オイラは外すようなマヌケはしねーぜ! 
間違いなく真芯を捉えて腹をブチ抜いてやっからよ!」
「何が心配御無用なのか、意味わかんないから。つーか、ダチに殺人予告すんなよ。腹をブチ抜かれたら死ぬっての」
「やられたくねぇなら、もっともっと稽古積まなきゃだろ。ほれ、一汗流しに行こうや。ジッとしてんのも飽きちまったぜ」
「それは望むところだけどな。ラドもやるだろ?」
「……うん。ぼくも一緒に行くよ。……時間の許す限り、傍にいたいから――」

 直情径行が強く、我武者羅に突っ走るシェインは確実に修羅の世界に飲み込まれるだろう。
そのとき、傍にいられたなら道を踏み外さないよう体当たりで食い止められる――が、それは叶わぬ夢であった。
もう間もなく彼とは一緒にいられなくなるのだ。
 シェインのことをホゥリーに頼もうかと一瞬だけ思案したものの、当の師匠は先程から難しい表情(かお)のままむっつりと黙り込んでおり、
とても声を掛けられるような雰囲気ではなかった。
 豊かにも程がある横幅を見れば分かる通り、ホゥリーは万事に於いて緩やかに生きてきた。
“ある意味に於いては泰然自若”とでも言うべきか、ラドクリフが知る限り、腹を立てたこともごく僅かであった筈だ。
 幼少の頃から寝食を共にしていた愛弟子とて師匠の険しい表情は初めて見るものであった。
ツァガンノール御苑へ突入した際の怒りの形相は更に凄まじい。シェインには「愛されてるよな、お前」と冷やかされたが、
その激情さえもラドクリフには未知の姿であったのだ。

(……お師匠様……)

 懊悩と格闘している様子の師匠を煩わせるわけにはいかない。ならば、もうひとりの親友であるジェイソンを頼みにするべきか。
しかし、彼もまた強さを追い求める格闘士である。シェインを抑えるどころか、逆に修羅の技へ魅入られてしまうかも知れない。
その凶兆は既に見え始めているのだ。
 シェインはマイクとも親しくなったと聞いている。かの冒険王であれば、親友を正しい道へと導いてくれるだろうか。
何しろ『ワイルド・ワイアット』はシェインにとって憧れの存在だ。彼が言うことには素直に従う筈である。
 勿論、フツノミタマその人を否定するつもりはない。彼は彼なりにシェインを支え、守り、誤った剣を振るわないよう稽古を付けている。
その姿は実の親子のようにしか見えない――どこか自分とホゥリーの関係を重ねてしまうのだ。

(そんなフツさんだからシェインくんは一生懸命に追い掛ける。……だけど――)

 フツノミタマと同じ修羅の道を歩み続ける限り、いつかどこかでシェインは壊れ、剣を持ったことを後悔するかも知れない。
それは彼のみならず周りの人間をも不幸にしてしまうだろう。そのとき訪れる悲しみは、「慟哭」の二文字を以ってしても表し切れまい。
 願わくは、フツノミタマとマイクが両輪となり、最良のバランスでシェインを導いて欲しい――
その行く末を見届けられないことがラドクリフには唯一心残りであった。

(キミの真っ直ぐなところ、ぼくは大好きだけど、……それが今は怖いよ、シェインくん……)

 ジェイソンに促されて稽古に赴こうとする今もシェインは先頭切って歩を進めている。
重苦しい表情のラドクリフにも気付かず、また一歩、修羅の道へ近付くべくドアノブに手を掛けた――

「はいはい、ちょいとお邪魔するよ、佐志のご一同サン」

 ――その直後、シェインの足は床へ吸い付けられたかのように停止してしまった。
彼よりも更に早く別の誰かが開扉し、これによって面食らったわけである。
 不意の鉢合わせとなったのは、Aのエンディニオンの信仰を司る教皇庁の新官、ゲレル・クインシー・ヴァリニャーノであった。
 ドアノブへ五指を掛けた体勢のまま、金縛りにでも遭ったかのように動かなくなってしまったシェインを訝しげに一瞥した彼女は、
彼の脇をすり抜けて入室しつつ、ラドクリフとジェイソンに向かって「この坊や、一体、何してんだい」と眉を顰めた。

「石像のつもりかい? マニアックな物真似もあったもんだね。プルプル震えちまってるから点数は付けようもないけどねぇ」
「なにが石像だよ、ミラクルとんちんかんババァ。いきなり入ってきたおめーにビクッちまっただけだっつーの」

 反射的に口の悪さを全開にしてしまったジェイソンには、次の瞬間、鼻頭目掛けて鉄拳制裁が飛んでいた。
パトリオット猟班どころか、タイガーバズーカ全体でも群を抜いて優れた身体能力の持ち主に回避の遑すら与えず、
且つ、急所を一撃で抉ってしまうとは、怒れる乙女――敢えてこのように表記する――は、げにも恐ろしい。

「クインシー!? あんた、一体、何のつもりで此処に……!?」
「――おっと、誤解しないで欲しいね、マコシカの酋長さん。あんたらと喧嘩するつもりはないんだよ。今のはノーカンにしといてくれ」

 何の脈絡もなく入室してきたクインシーへ即座に反応し、腰を浮かせたのはレイチェルであった。
このふたりは先日の軍議に於いて信仰論争を繰り広げたばかりなのだ。
敵愾心と呼べる程に激しくはないものの、互いに穏やかならざる感情を抱いている。
 尤も、クインシーを面白く思っていないのはレイチェルばかりではなかった。
史上最大の作戦に物言いを付けられたアルフレッドは言うに及ばず、この場に居合わせる殆どの者が彼女へ何らかの反感を持っているのだ。
 例外は接点のないパトリオット猟班であったが、ジェイソンを殴打したことで心証は一気に悪化。
ほんの数秒の内にクインシーは新たな敵を作ってしまったわけである。

「お呼びじゃないって雰囲気だねぇ。いきなりこんなお出迎えとは、相変わらず失礼な連中だよ!」
「あ、当たり前じゃない! ジェイソンに何すんのよ!?」
「乙女心にケチ付けた、それ以外に理由はいるのかい? あんたも女だったら分かるんじゃないかねぇ?」
「だからってグーパンはないでしょうが、グーパンはっ!」

 鼻血を噴きつつ気絶してしまったジェイソンを抱え起こし、噴火の如く激怒するジャーメインだったが、
対するクインシーは謝るどころか、そちらが悪いと鼻を鳴らすのみ。悪びれもしないその態度が怒りの炎へ油を注いだのは言うまでもない。
「悪口をゆったのはジェイソンだよ。ごめんなさいって言うのは、こっちが先じゃないかな」とモーントが宥めていなければ、
ムエ・カッチューアの奥義が教皇庁との間に新たな遺恨を生み出しただろう。
 「招かれざる客」との言い回しがこれ程までに似合う状況もそうはあるまい。
ドアのすぐ近くに控えていたタスクさえもクインシーをあからさまに警戒している。誰に対しても柔和に接するタスクが、だ。
 冷たい視線を一斉に浴びせられると言う四面楚歌の状況が余りにも滑稽で、トルーポはつい笑気を噴き出してしまった。
 集中砲火の標的となったクインシーは、当然ながら口をへの字に曲げて抗議と不満を表している。

「あんた、そこら中で揉めまくってるみたいだな。俺たちも結構な鼻つまみ者だが、いやはや、上には上がいるもんだぜ」
「余計なお世話だよっ! こっちは売られた喧嘩を買ってるだけさね! こいつらがねちっこいだけなんだっ!」
「どうだか」
「何か言ったかいッ!?」
「いえいえ、なんにも〜」

 トルーポにおちょくられていると思ったのか、クインシーの機嫌はますます悪化していく。
顔を真っ赤にするや否や、憤然とした語気でもって「救いの手を差し伸べてやろうってのに、何だってんだい、この恥知らずッ!」と吐き捨てた。

「あんたらがとんでもない粗相をしたってカジャムから聞いたんでね! 本当に教皇庁で拾ってやろうかって思ったのに! 
もういい! 好きにしたらいいさ! あんたら、まとめて野垂れ死ぬのがお似合いだよッ!」

 クインシーの口から「カジャム」の名が飛び出した瞬間、ほんの一瞬ながらピナフォアは肩を震わせた。
まともに別れの挨拶も交わせなかった相手の名を出されると、どうしようもなく心が揺らいでしまうのだ。
 互いの心中を見透かした上での行動とは雖も、敬愛する姉貴分を騙してしまったことに変わりはない。
決意の末に汚れ役を買って出たのであるから、この期に及んで謝罪するつもりはない。
ましてや、裏切り者の分際で声を掛けるなどおこがましいことなのだ。最早、カジャムと対面する資格さえ持ち合わせてはいなかった。
 ゼラールの栄光の為、全ての権利を投げ捨てたのは自分なのだ――そのように己の立場を弁えてはいるものの、
長年の絆を想う感情はピナフォア本人にも抑え込めず、その胸中にて激しくのた打ち回っていた。
 ピナフォアの葛藤など知る由もないクインシーは、「さすがのカジャムもくたびれた顔してたわ。あんたら、よっぽど手酷くいじめたみたいね」と
追い討ちさながらの発言を続け、その最後に「ゼラール軍団を教皇庁で拾う」と繰り返したのである。
 これを聞いて目を丸くしたのはカンピランであった。寝耳に水と言うように双眸を瞬かせている。

「ちょっと待ちなよ、トルーポ! 何時の間にそんな話になったんだい!? あんた、閣下を売ろうってのかい!? 
大体、何なのさ、このババァッ!? 偉そうに冠なんか付けちまって! どこの成金だッ!?」

 テムグ・テングリ群狼領と対立関係にあったカンピランは、ハンガイ・オルスで行われる軍議には一度たりとも出席したことがない。
閣下に付き従って同道こそしているものの、本音を言えば馬軍の本拠地に入ることさえ苦痛なのである。
城内を歩き回ることもない為、クインシーとは全くの初対面。今し方の話も初めて聞かされたような反応であった。
 タイガーフィッシュの柄に手を掛けながらいきり立つカンピランであるが、応じるトルーポは慌てるどころか呆れ顔だ。

「こっちこそ、ちょっと待てって言いてーよ。一昨日、説明したばっかじゃねーか。教皇庁からスカウトされたって。
閣下の前で報告したっつーのに、……お前、船漕いでたんじゃねーだろうな」
「いや、だから、教皇庁ってのが何なのか、よく分からないんだって!  あたしゃ、コテコテの海の民だよ!? 陸の上のコトにゃ疎いんだよ!」
「陸の上のコトって、お前……。いや、陸の上にゃ変わりはねぇけどよぉ……」
「なっ、何さ!? バカにしてんのかい!?」
「もうちょっと周りのことに注意しねぇと、……オヤジさんが泣くぜ」
「――ンなぁッ!?」

 疲れたように肩を落としたトルーポはともかく――教皇庁がゼラール軍団へ介入していると知った佐志の面々は俄かに騒然となった。
 アルフレッドなどは身を乗り出してトルーポに事実関係を問い質した程である。場合によっては力ずくでクインシーを退けるつもりなのだろう。
深紅の瞳はこれまで以上に鋭く彼女を牽制している。

「勝手なことを言うなよな。教皇庁だろうと何だろうと、あんたなんかにラドは渡さないぞ!」
「……シェインくん」
「待ちな、シェイン。俺っちを忘れてくれるなっての。お前にばかりイカす恰好はさせね〜ぜぇ!?」
「ラドはあたしたちにとっても大事な仲間なのよ。一緒に守らせて頂戴な」
「――おうとも! オイラだってラドはダチなんだぜッ!?」
「みなさん……!」

 ラドクリフの前には我が身を盾としてシェインが立ちはだかり、ヒューとレイチェルもこれに加わった。
親友の危機を察知して息を吹き返したジェイソンも三人と肩を並べ、鉄壁の守りで親友を守ろうとしている。
 これにはクインシーも呆れ返り、「取って食おうってんじゃないよ! あたしゃ人食い鬼かい!?」と腹立ち紛れに床を蹴っ飛ばした。

「どいつもこいつも沸点低いんだよ。血管切れんぞ」

 整体が済んだフツノミタマは、ミルドレッドへ礼を述べると、身体の調子を確かめるようにして背伸びをし、次いでホゥリーに歩み寄っていく。
クインシーの毒牙からラドクリフを守らんとするシェインたちには加わらず、けれども「マイ・ボーイ」から目を離さない巨漢に、だ。

「フッたんにザットなコトを言われたらヒューマンとしてデッドエンドだネ。チミってばフューリーのスイッチがエブリバディとストレンジだもの。
今だってルックしたかい? チミのボーイのクイックなレスポンス。誰かサンにそっくりでキレッキレだネ〜」
「露骨に話逸らしやがって。ンなことで誤魔化されっかよ。……てめー、弟子にまで血圧心配されてんだろ。
血管切れねぇ内に牛乳でもイッキしてやがれ」
「ミルク? ……アイシーアイシー、アドバイスにお応えしてコンデンスミルクでもチューチューするとしますかネ」
「……別の意味で血管切れんぞ。いや、マジで」

 フツノミタマから遠まわしに釘を刺されたホゥリーは、内心の揺らぎを誤魔化すように下手糞な口笛を吹き、
これによって指先へ宿していた神人の力を解き放った。丸みを帯びた人差し指からフツノミタマの頬に向かってシャフトの余韻が輻射していく。
どうやら余人には察知しにくい不可視のプロキシでもってクインシーを狙っていたようだ。
 腰を上げて駆け付けるようなことはなかったものの、胸中では天を焦がす程の怒りが逆巻いていたのである。
もしも、だ。クインシーがラドクリフの腕でも掴んでいたなら、ホゥリーは想像し得る最も残虐な手段で報復に出ただろう。
「マイ・ボーイ」を脅かした者がどのような目には遭うのかは、ビアルタを見れば瞭然であった。

「フツってばイ〜イ観察力な! そーなんだよ、そ〜うなんだよ。肉まんクンのこたぁジッと見てたけど、マジガチ大噴火ってカンジだったぜぇ。
そーか、アレはお弟子サンだったんだなぁ。よーやく納得したわ。……ってこたぁ、俺もブッ殺しリストに入ってたのかね? 
ワオ、九死に一生ぢゃん! 可愛い可愛いマイ・ボーイにカスリ傷でも負わせてたらヤバさ百倍ビンビンだったぜ!」

 自分も参加出来る話題と確かめるや否や、ここぞとばかりに擦り寄ってきたイブン・マスードは、
「マイ・ボーイ」の危機に際してホゥリーが如何にして取り乱し、暴れ狂ったのかを饒舌に語っていく。
それはフツノミタマが敢えて語らなかった部分である。他者のプライバシーを穿り返して愉しむとは、下衆の極みと言うしかなかった。
 額に青筋を立てたフツノミタマは右手の甲で物理的に黙らせようと試みたが、
仮にも「世界一腕の立つ仕事人」とまで謳われたイブン・マスードを捉えることは叶わない。
 裏拳の一撃を軽やかに避けたイブン・マスードは、その足でトルーポやカンピランのもとへと向かっていく。
右手に持った漆塗りの盆には幾つか小鉢が載せてあり、いずれも食欲を刺激する香りを漂わせていた。
山菜の胡麻和えや青野菜のおひたしなどは女性にも好まれることだろう。
 自分の料理を勧めると言うのが建前のようだが、本来の目的は明らかに下世話な暴露話である。
 またしても不愉快な事態が起ころうとしていると見抜いたホゥリーは、改めてシャフトのプロキシを発動させ、
今まさに口を開くところであったイブン・マスードを吹き飛ばしてしまった。
 如何に世界一腕の立つ仕事人と雖も、竜巻の如く唸りを上げる烈風に飲み込まれては為す術もない。
クインシー入室以来、開けっ放しとなっていたドアを上手い具合に通り抜け、そのまま遥か彼方まで押し出されていった。
 悲惨な事態になると予測し、漆塗りの盆を先に受け取っていたトルーポは、術者たるホゥリーへ目を転じると大袈裟に肩を竦め、
「やっぱりアルの周りにゃロクなのがいねぇや」などと苦笑いを披露して見せた。
 一方、イブン・マスードの大回転をトルーポの傍らにて見送ったカンピランは、何やら物憂げな溜め息を吐いている。

「何でもいいけど、あたしゃ自由の身に戻りたいね。何の儲けにもならないしがらみなんて懲り懲りさ。
パカパカやってるだけの能無しどもとようやく手が切れたってのに。……また酒が不味くなる話と来たもんだ!」

 不意に漏れ出したその呟きは、偽らざる本心であろう。群狼領の傘下に下るまで七つの海を自由に渡っていたペガンティン・ラウトにとっては、
何ら背負う物のなかった日々が恋しいわけだ。
 そこに来てクインシーの誘いである。“閣下”に尽くすならまだしも、教皇庁などと言う得体の知れない組織に与するなどもってのほかであった。
 積もり積もった鬱屈も手伝って、ついカンピランはテムグ・テングリ群狼領に向かって悪態を吐いてしまったのだが、
それは氏族との訣別を果たしたばかりのピナフォアには相当に堪えるものであった。
 溜まりに溜まっていたフィーナへの返信メールを考えていたピナフォアは、「能無しどもとようやく手が切れた」と言う痛罵を耳にした瞬間、
ボタンを操作する指を止め、悲しげな呻き声と共に深く俯いた。萎縮して小さくなった双肩は小刻みに震えているようだ。
 真っ青になったのはカンピランのほうである。ようやく己の失言を悟り、またトルーポから脇腹を肘で突かれた彼女は、
タイガーフィッシュを放り出してピナフォアに駆け寄るや否や、他意はなかったと頭(こうべ)を垂れた。
 いくら過去の因縁があるとは雖も、ピナフォアの心情を思えば軽々しくテムグ・テングリ群狼領の悪言を吐くべきではなかったのだ。
彼女はゼラール軍団の為にこそ己の氏族を裏切ったのである。

「な、何、ガラにもないことしてんのよ。これくらいでへこたれると思ってんの? あたしの閣下への愛を見くびらないでよね!」
「あぁ、もう! あたしが全面的に悪いとか、色々言いたいことあるけど――泣くの堪えながらイキがるんじゃないよ、この娘はぁっ!」

 力なく答えるピナフォアを豊かな胸の中へ抱き締めたカンピランは、
掛け替えのない仲間を「あたしはあんたをひとりにゃしないよ!」と励まし続けた。
 その様を痛ましげに見つめ、次いでピナフォアとフィーナの交誼を振り返っていたアルフレッドは、
改めてトルーポに向き直り、強く訴えかけるような瞳を以って「もう一度、よく考えてくれ」と切り出した。

「……佐志に来い。知らない土地に出向くよりも遥かに安心だろう? 行くアテがない旅よりずっと上等だ」
「横入りしようってのかい、このバカ銀髪(しらが)! フィガス・テクナーで会ったときから思ってたけど、正真正銘性格最悪だね、あんた」

 後追いの乱入をクインシーから批難されてもアルフレッドが後に退くことはなかった。
 先程、マイクより発せられた言葉を反復する恰好ではある。ダメ押しと言えるかも知れない。
全てゼラールの意思次第と言うことも承知の上だが、それでも佐志へ導かずにはいられなかったのだ。
 何としても旧友を救わんとするアルフレッドの想いを察したのか、守孝も胸を叩きつつトルーポに頷いて見せた。

「海戦にて船を拝見した折よりもしやと思うており申したが、そこもとはペガンティン・ラウトも味方につけてござったか。
ならば、尚のこと、我が佐志へお出でませ。窮屈と申さば、港も拡張いたしましょう。
名にし負う海の民の力、ここで殺すは勿体のうござる。次なる門出まで佐志にて帆を休められよ」

 アルフレッドや守孝の心遣いへ嬉しそうに微笑むトルーポではあったが、返す答えはただひとつ――自分たちはあくまでも閣下に従うのみ。

「すまねぇな、アル。佐志の村長さんもさ。気持ちしか受け取れねぇのが心苦しいんだけどよ……」
「……どうしても首を縦に振っては貰えぬのでござるか……」
「言うな、守孝。トルーポの決めたことだ。……ここから先はゼラールに委ねよう」
「されど、まことにそれでよろしいのでござるか、アルフレッド殿は?」
「トルーポの前で言うことでもないが、ゼラールは好かない男だ。いつでも俺を苛立たせてくれる。
……だが、判断を誤るような莫迦じゃない。あいつの選ぶ道なら、それがこいつらには一番の正解なんだ」
「いや、お待ちくだされ。ゼラール殿、トルーポ殿はそこもとの朋輩でござろう。シェイン殿、フィーナ殿とて友誼を結びし相手がおり申す。
最早、これは佐志の問題にも等しいのでござる。何としても我が郷(さと)へお連れ申す」
「お、おいおい。どうしちまったんだ? 村長さん、急に意固地になっちまったぞ」
「……守孝……」
「某の如き部外者が口出しするのは不遜でござる。おこがましいとも重々承知してござる。
さりながら、アルフレッド殿は我らの大恩人。ゼラール殿並びに御一門は共に鉄火を取った戦友と心得てござる。
縁を結びしそこもとが苦難、黙って見過ごすことは出来申さぬ。……某、ゼラール殿に佐志への逗留を言上仕る所存。
トルーポ殿、是非ともお取次ぎ頂きたくお願い申し上げ奉る」

 鎧兜が擦れ合う金属音を引き摺りつつ、守孝はトルーポへと頭を下げた。
 いつになく強情な守孝にはアルフレッドも驚かされていた。ここまで我を張る姿など未だ嘗て見たことがない。
思い当たるとすれば、せいぜい陣羽織の着用を勧められたときくらいであろうか。
 彼は節義を重んじる古武士である。それ故にゼラール軍団が迎えるであろう苦境を他人事とは思えなかったのだ。
ましてや共に両帝会戦を潜り抜けた身。戦友とも呼べる人々をどうして見捨てられようか――
守孝自らもトルーポたちには一方ならぬ想いを胸に秘めていた。
 ラドクリフ、ピナフォア、カンピランと順繰りに視線を交わしたトルーポは、その都度、寂しげな表情(かお)で頷き合った。
 守孝の想いは痛いほど伝わってくる。アルフレッドの訴えかけには幾度となく胸を震わされた。
それでも、彼らには守るべき一線がある。仕えるべき存在(もの)もいる。
ゼラール・カザンと言う英傑へ誓った忠誠は、友との絆を以ってしても覆せないのだ。
 もう一度、アルフレッドと見つめ合ったトルーポは、心の内を伝えるかのように頷き掛け、
次いで守孝の肩を叩き、「頭上げてくれよ、村長さん。こっちまで恐縮しちまうぜ」と、前傾気味の姿勢を戻すよう促した。

「されば、トルーポ殿ッ!」
「――何回頭を下げられても答えはひとつきりなんだ。……俺たちはゼラール閣下の臣下。つまり、そう言うことなんだよ」
「それを承知で申してござる!」
「……守孝、そのくらいにしておいてやれ。トルーポもお前の気持ちはちゃんと分かっている。
今度は俺たちがトルーポの気持ちを汲んでやる番だ。それも戦友(なかま)と言うものだろう?」
「アルフレッド殿、されど……!」
「こいつらも子どもじゃない。どれだけ苦しくとも自分で決めた道なんだ。それならもう俺たちに言えることは何もない」
「……アルフレッド殿……」
「だが、これで何もかも終わりじゃない。お前たちに何かあれば、俺は――いや、俺たちはすぐに駆けつける。それだけは忘れるな」
「……チッ――大した色男だよ、おめーは。最後も上手くキメてくれやがってよ。モテる秘訣のデモンストレーションかっつーの」
「皮肉と受け取っておこうか」
「バカ、誉め言葉だよ」

 なおも食い下がろうとする守孝を静かに宥めたアルフレッドは、それ以降、トルーポたちを佐志へ誘おうとはしなかった。
ゼラール軍団と言う一個の強大な意志の前に跳ね返された――と言うよりは、友の新たな旅立ちを認めたと表すのが正しかろう。
 ここに至って両者の心は全く通じ合ったと言えるのかも知れない。無念とばかりに男泣きする守孝を慰めるアルフレッドとトルーポは、
憑き物が取れたように晴れやかな微笑を交わしている。

「手を差し伸べたのは教皇庁(あたし)が先だろう? サシだか差し歯だか知らないが、割り込みするような見下げ果てた連中に将来はないよ。
黙ってこっちに随いてきな。カザンの坊やもあんたらもイシュタルの前には平等――女神の下僕(しもべ)としての務めを果たすんだよ。
女神の聖騎士って名乗りは最高にハクが付くだろう?」

 クインシーはなおも強引に教皇庁を売り込んでいる。心と心の交錯とも言うべき繊細のやり取りへ水を差す無粋な振る舞いであるが、
彼女はそれすらも「瑣末」の一言で切り捨ててしまいそうだ。
 見るに見兼ねたニコラスから「教皇庁だか特許庁だか知らねぇが、人の心が分からねぇヤツは出てけよ!」と面罵された挙げ句、
売り言葉に買い言葉の口論へと縺れ込んだクインシーを観察するラトクは、その胸中にて幾つかの疑問を考察し始めた。
 クインシーはハンガイ・オルスへ駐留する他の誰よりもギルガメシュに強い敵愾心を燃やしている。
これは熱砂の合戦へ突入する以前から判っていたことだ。自らの危険も省みずにテムグ・テングリ群狼領へと飛び込み、
エルンストへ打倒ギルガメシュを働きかけるなど余程の覚悟、いや、憎悪と言えよう。
 ラトクのお付きで幾度か連合軍の軍議にも出席したが、その度、網膜に焼き付けられたのはクインシーの“雄弁”である。
彼女は呪詛さながらの激烈な言葉でもってカレドヴールフたちを貶めていた。その迫力は居並ぶ諸将をも圧倒した程だ。
 ところが、だ。エルンストたちと会談を持ったギルガメシュの使者に対しては、どう言うわけか、至って冷静なのである。
 邪教の者とまで罵ってきた仇敵が同じ城内に在るのだ。迸る嫌悪の余り、気が触れても不思議ではあるまい。
教皇庁の人間でありながら会談から締め出されたことへ激怒するか、騒ぎを起こした群衆の先頭に立って使者の処刑を叫んでいるほうが、
余程、クインシーには似つかわしいのではないか。少なくとも、暢気にトルーポ軍団をスカウトしている場合ではない。
 教皇庁の人間であるが故に会談から遠ざけられた可能性は高いが、ギルガメシュの使者について何も知らないと言うことはなかろう。
天地をひっくり返すような勢いで群衆が殺到すれば、どれだけ遅鈍な者でも異常事態に気付く筈である。
件の喧騒の最中にはカジャムとも言葉を交わしているのだ。
 それにも関わらず、クインシーは落ち着き払っている。現在進行形の口論を除いては、平時と少しも変わらない。
今までに見せてきた異常な執念と照らし合わせれば、余りにも不自然であった。

「……キナ臭ェな……」
「キナ臭いって、ヴァリニャーノが? ……そうね、教皇庁なんて言う組織名からして野望の匂いがプンプンするわ!」
「……いや、まあ――うん、それでいいわ。セイヴァーギアにはぴったりだ」
「今、あたしのこと、バカにしたでしょ?」
「誰が誰を? 私がキミを? どう聞こえたかは分からんが、これでもパーペキ同意見なんだぜ?」
「半笑いで言い繕うんじゃないわよっ」

 不意の独り言を耳聡く拾ったハーヴェストに対し、ラトクは開きっ放しのドアを指差しながら話題の挿げ替えに掛かった。
見れば、回廊にはセフィの姿が在る。


 所用と言うか、アルフレッドからの頼まれごとを済ませて控え室に戻ってきたセフィは、
クインシーの姿を見つけて驚きの声を上げたが、すぐさま気を取り直して恭しく挨拶を交わし、
彼女曰く「バカ銀髪(しらが)」へと向き直った。

「……噂は本当だったようです。フェイさんたちの姿は城内のどこにもありませんでした。いつの間にか義勇軍も解散されていたそうです。
捨て置かれたテントも解体され始めていますし、最早、ここへ戻ってくることはないかと」

 その報告を受け止めたアルフレッド、そして、シェインは満面に苦渋を滲ませた。
 フェイと彼の率いる義勇軍が消え失せたと言う風聞は、既にハンガイ・オルス中に知れ渡っていた。
ギルガメシュの使者が訪れた直後と言うこともあり、敵に恐れをなして逃げ出したと陰口を叩く者も多い。
 果たして、本当に失踪したのか否か、事実関係を含めて調査するようアルフレッドはセフィに頼んだのである。
 リーブル・ノワールの探索を経てソニエと親しくなったマリスも気が気ではなかったのだが、
セフィの調査結果は考えられる最悪のものであった。義勇軍に宛がわれたテントさえも片付けられてしまったのだ。
これこそ離脱の決定的な証拠である。

「じゃあ、フェイ兄ィはマジでいなくなっちゃったのかよ……」
「義勇軍と隣り合わせにテントを張っていた方にも話を伺いましたが、私たちと貴賓室の前で別れた直後に発たれたようですね。
ソニエさんやケロちゃんさんとも何やら揉めていたようで……」
「……使者との会談からも爪弾きにされて、とうとうエルンストにも我慢がならなくなった――そう言うことか?」
「アル兄ィ……」
「それが直接的な引き金になったのかは定かではありませんよ。フェイさんにもやむにやまれぬ事情があったのでは?」
「いや、そうとしか考えられない。……兄さんとエルンストはずっと上手く行ってはいなかった。
そこに俺が割り込んで、献策の機会まで奪ってしまったから……」
「ですから、アル君の所為ではありません。……厳しい言い方になりますが、発言権を失ったのも、大事な会談から追いやられたのも、
全てフェイさんの自業自得です。献策の機会と言いますが、それをあの方は自ら叩き壊したようなものではありませんか。
他人の失態を気に病むほうがおかしい。アル君、それは優しさとは言いませんよ」
「そーゆー言い方すんなよ、セフィ。フェイ兄ィとアル兄ィに失礼じゃないか」
「失礼は承知の上ですよ。しかし、言うべきことは言わなければ。……これ以上、余計な荷物を背負えばアル君は潰されてしまいます」
「“余計”って、おい!」
「もうよせ、シェイン。セフィの言いたいことは分かっている。……だが、」

 セフィから叱咤を飛ばされるアルフレッドであったが、どん底まで沈みこんだ気持ちが振り戻されることはなかった。
 経緯はどうあれ、決闘に敗れた身でありながら出過ぎた真似をしたことは事実である。そのことがフェイをどれほど傷付けたことか。
言わば、セント・カノンで衝突したときと同じ過ちを繰り返したようなものである。それで己を責めるなと言うのは無理な相談だ。
 苦しげに呻くアルフレッドへすかさずマリスが寄り添った。
 間遠からではあるものの、ニコラスとジャーメインもアルフレッドのことを不安げに見つめていた。
 誰の目にもアルフレッドの落ち込みようは痛ましく映っている。ラドクリフやジェイソンに慰められるシェインも相当に落胆しているが、
それにも増して彼は深刻に憔悴していた。
 徹底的に打ちひしがれる様を見せ付けられたセフィには、どうしても報告出来ないことがあった。
 錯乱したフェイが奇行を繰り返した末にソニエを殴打したこと、そうして仲間と決裂した直後、口に出すのも憚るような悪行を仕出かしたこと――
英雄にあるまじき狂態を方々で聞かされていたのだ。人によっては「化けの皮が剥がれたんじゃないか」とまで罵っている。

(ことのほか、ジョゼフ様はフェイさんを嫌っておられましたが、……その見立てはあながち誤りではないのかも知れませんね)

 いずれフェイの仕出かしたことはアルフレッドやシェインの耳に入るだろう。醜聞と言うものには、いつまでも蓋をしてはおけない――
それでもセフィは自身の口から告げることを躊躇したのである。今のふたりは何かの拍子に兄貴分を追い掛けるとも言い出し兼ねない。
新たな刺激を与えるのは極めて危うかった。

「皆、離れ離れになってしまうのですね……」

 ゼラール軍団に続き、フェイたちの離脱まで報(しら)されて感傷的になっていたのだろう。
ドアより離れてマリスの背後へと控えていたタスクが、ふと寂しげな呟きを漏らした。

「人間関係など一時のものだ。いつまでも同じ場所にはいられない。そもそも、人と人との繋がり自体が一時の気の迷いかも知れんがな」

 無神経にもタスクの心情を否定するようなことを言い放ったシュガーレイには、ローガンとハーヴェストから同時に拳骨が振り落とされた。
ミルドレッドとジャーメインもこれに追従し、間もなく制裁は惨たらしいものとなっていった。当然と言えば当然だが、制止を訴える声は上がらない。

「そいつは違うぜ、兄キ! 見てくれよ、こいつらを! 出会ってまだ一週間も経ってないけど、オイラはこいつらを親友だと思ってるッ! 
時間なんて関係ねぇ! 友情は永遠だし、絶対になくなったりするもんかッ!」

 ジェイソンはシェインやラドクリフと腕を組み、人と人との繋がりはずっと続いていくものだと主張する。
 「人間関係をダメだって言われたら、ぼくなんかどうすりゃいいんですかい。みんながいてくれたから行き倒れなくて済んだんですよ」と
モーントにまで窘められては、さしものシュガーレイも折れざるを得まい。
ローガンに引き起こされた彼は、不貞腐れた調子ながらもタスクへ「前言を撤回した上で謝罪します」と詫びた。

「友情は永遠で、絶対になくならない、か。なかなか良いコト、言うじゃねぇか――なあ、アル?」
「トルーポ……」

 ジェイソンの発した至言(ことば)を愛おしそうに反芻したトルーポは、一頻り頷いた後、「そろそろ行くわ」とアルフレッドに告げた。
彼の大きな掌の中にはモバイルが在る。着信音が鳴らなかった為、周囲で気が付いた者はいなかったのだが、
どうやらゼラールより召集が掛かったらしい。
 夫が旧友に掛けた言葉と、何よりもその決然たる面持ちから全てを悟ったカンピランは、
床に転がしたままであったタイガーフィッシュを拾い上げると、続けてピナフォアと深く頷き合った。
ふたりともトルーポと同じように表情を引き締めている。
 往生際悪く、「カザンじゃなけりゃ話にならないようだね。いいさ、直接ケリをつけてあげるよ」などと息巻くクインシーの存在は、
当然ながら誰もが黙殺している。
 ラドクリフも楽しい時間の終わりを受け入れ、親友たちと組んでいた腕を名残惜しそうにゆっくりと解いた。

「……ありがとう、ジェイソンくん。今の言葉、ぼくは一生忘れないよ」

 万感の想いを込めたその言葉は、即ち、別離の刻限が訪れたことを意味している。
強がりとしか思えない寂しげな笑顔を浮かべるラドクリフに対して、シェインとジェイソンはひとつとして言葉を贈ることが出来なかった。
未来を期する鼓舞か、惜別の念か。最後に親友の励みとなることを言わなければならない――その気持ちばかりが焦ってしまい、
胸中にて渦巻く数多の感情(おもい)を言葉として紡げずにいるのだ。

「……シェインくん?」
「ラド……」

 船上での最悪の出会いから今日に至るまでのふたりの歩みがシェインの心へと押し寄せていた。
 初めて出来た親友へ――自分を変えてくれた掛け替えのない存在(ひと)への想いは、
逆さになる勢いで語彙を総動員しても伝え切れそうにない。
 決して互いの温もりを忘れぬようにとラドクリフの手を握り締め、その顔を真っ直ぐ見つめることしか幼い彼には出来なかった。
それがシェインから親友へ送る精一杯の心であった。
 不器用としか言いようのないシェインのことをホゥリーは「どストレートな青春かい。ルックしてるこっちがこっぱずし〜ネ」と鼻で笑った。
別れの情景に在っても平素と変わらない皮肉屋である――が、その面には笑気と言うものが一切見られない。
他者を嘲るような物言いながらも表情自体は果てしなく昏(くら)いのだ。

「今生のグッバイのつもりかい? ザットならドラマティックだけど、そーやってキメてると、意外とクイックな再会になっちゃって、
あらまぁ居た堪れないっつーシチュエーションをテイスティングする羽目になるからネ。せいぜいバカをルックしないようにしてちょ〜」

 なおもホゥリーは悪態を吐き続けるが、レイチェルもヒューもこれを怒鳴りつけたりはしない。
それどころか、呆れ返って詰め寄ろうとするハーヴェストを押し止めた程である。

「さ、寂しくないのかよ、ホゥリーは! ラドはお前の愛弟子なんだろ!?」
「はァん? チミ、リアルで寂しんぼなのかい? スーパーにオーバーだネェ。たかだかアナザー行動ってだけじゃナッシング?」
「……うるせぇ! 寂しいに決まってんだろッ! ずっと一緒にいたいよッ!」

 ホゥリーの言葉が引き金となって感情が決壊したシェインは、ラドクリフを思い切り抱き締めた。
その頬を熱い雫が伝っていく。親友の旅立ちを邪魔してはならないと思い、懸命になって我慢してきたものが溢れ出していた。
 シェインに負けじと反対側から抱き着いたジェイソンは、落涙を通り越して嗚咽を噛み殺している。

(……ぼくは果報者だね……)

 親友の思いを心の一番深いところで受け止めたラドクリフは、ふたりの背中を左右の手で叩き、ありったけの感謝を伝えた。
 彼もまた親友たちの想いへ応じられる言葉を知らない。何にも勝るこの幸せを如何にして例えたら、
ふたりへ完全に届けられるのか――その形をどうしても見出せないラドクリフは、せめて温もりを送り返すことしか出来ないのだ。
 そうして重なり合った三つの温もりは、「友情は永遠で、絶対になくならない」と言うジェイソンの至言(ことば)を
何より如実に表している。

「……それでも、ひとまずはお別れなんですから。……ぼくがいないからって、お菓子食べ過ぎちゃダメですよ、お師匠様?」

 親友ふたりとの抱擁を終えたラドクリフが苦笑混じりに暴飲暴食を注意したとき、ホゥリーの様子が一変した。
 今まで誰も見たことがない真剣な表情を浮かべながらラドクリフへ歩み寄ったホゥリーは、
自ら膝を付いて小柄な愛弟子に視線を合わせると、迷うことも躊躇することもなく彼を抱き締めた。
強く強く、骨身が軋むくらい強く抱き締め続けた。

「――この先、どんなハプニングとエンカウントしても、ユーはボキのたったひとりのマイ・ボーイだヨ。
それだけはフォーゲットしナッシングように。……ラド、ボキらはどこにいてもコネクトしている」

 最初の内は自分が何をされているのかも分からずに呆然と立ち尽くすばかりのラドクリフだったが、
全身を包み込む柔らかな感触と共に少しずつ状況を把握し、ホゥリーから掛けられた言葉の意味を理解し始めると、
最早、滂沱の涙を抑えてはいられなくなった。
 ただただ子どものように泣きじゃくっていた。赤子のようにホゥリーの腹へとしがみ付いていた。
 誰に笑われようとも構わない。親友と師匠――愛する人たちが温もりを以って教えてくれた幸せを、
ラドクリフは熱い迸りと共に噛み締めていた。




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