23.Droit des gens


 何の前触れもなくギルガメシュの使者がハンガイ・オルスを訪れ、エルンストらテムグ・テングリ群狼領の幹部と交渉のテーブルに着いた――
フィーナがその連絡を最初に受けたのは、五日前のことであった。ワヤワヤに向かう途上にてもたらされた急報である。
 そのときはまだハンガイ・オルスから大きく離れてはおらず、船上でもなかったので引き返すことも可能であった。
実際、レオナからもそのような提案が出されたのだが、連絡を入れてきたアルフレッドはこれをにべもなく却下し、
あくまでも調査を継続するよう指示。「てめぇ、うちのカミさんにナメた口聞くんじゃねーよ!」とイーライを怒らせたものである。

「こちらのことは気にするな。明朝には結論が出ている」

 ――これはアルフレッドが連絡の最後に付け加えた一言であるが、フィーナには説得力を欠いているとしか思えなかった。
本人には指摘出来なかったものの、他者を諭すのではなく己を落ち着かせる為に発せられた言葉であるように聞こえたのだ。
彼の声は、最初から最後まで擦れていた。
 年齢と不釣合いに老成した感のあるアルフレッドは、ともすれば直情径行にあるフィーナやシェインを言い諭す役回りであった。
知識をひけらかすような薀蓄は好まないが、痛烈に相手を皮肉ることは多い。
 だが、擦れ声で物を言うときは違う。説明もつかないような混乱を必死でまとめている最中、彼の声は決まって弱々しくなるのだ。
これが昔からの癖であった。
 アルフレッドのことなら口癖の一つに至るまで知り尽くしているフィーナは、だからこそ「大丈夫なの?」と鸚鵡返しに尋ねたのだが、
返されたのは「俺たちが何とかする。ギルガメシュの好きにはさせない」と的外れな答え。
これはいよいよ混乱が窮まってきた証拠である。
 メアズ・レイグに同行してワヤワヤへ向かっている以上は軽率に足並みを乱すことも出来ず、
とりあえずアルフレッドの指示に従おうと決めたフィーナだが、脳裏にはモバイルの向こう側の姿が浮んでいた。

 それが五日前――何とかすると宣言したアルフレッドからは百時間近く経過しても新しい報せが入ってこない。
 擦れ声を聞かされた時点で交渉が難航すると悟っていたフィーナは、予想通りと溜め息こそ吐くものの、焦れるようなことは一切なかった。
 アルフレッドの癖を知らないメアズ・レイグもさすがに肝が据わっており、狼狽の素振りとて見られない。
ルディアに至っては事態(こと)の重大性を少しも理解しておらず、道中で買い求めた菓子に舌鼓を打っている。
せいぜい、ムルグが騒いだくらいであろうか。尤も、喧しい鳴き声はアルフレッドの不手際をこき下ろすものであった為、
見通しのつかない情勢に対する焦燥は少しも含んでいなかった。
 一行の中で神経質になっているのはネイサンただひとりだが、これも黙殺して差し支えのないものだった。
何と言うことはない。イーライへの私的な感情からささくれ立っているだけなのだ。
 それ自体はフィーナにとって大変に美味しいシチュエーションなのだが、
レオナの手前と言うこともあり、さすがに鼻血が噴出するような事態は抑えている。
 つまるところ、ハンガイ・オルスの逼迫はワヤワヤの調査に何ら影響を及ぼしていなかった。
そもそも、だ。現地に入ってからと言うもの、一行は本隊のことを省みてはいられなかったのだ。


 ハンガイ・オルスを発って三日目にワヤワヤまで到達したフィーナは、そこで信じ難い光景を目の当たりにした。
農村と聞かされていた集落が強固な砦と化していたのである。
 村の縄張りには垣根の代わりに鉄片や土嚢などが高々と積み上げられ、鋭利な有刺鉄線が歪な防壁の至る部位(ところ)へ念入りに張り巡らされている。
直下の路面には先端を杭の如く削り出した丸太が埋め込まれており、これによって侵入者の撃退を図っているらしい。
 かと思えば、筒状に丸めた毛布など弾除けにしては拙劣な仕掛けが防壁の隙間に敷き詰められている。
これこそは住民の焦りが形となって表れているようにも見えた。
 最も視覚的な圧迫感を覚えるのは、集落の出入り口に設けられた背の高い門である。
村の何処かより強引に移設したのであろう。左右の防壁とは高さの釣り合いが取れておらず、如何にも急拵えと言った風情である。
 鉄筋コンクリートで完成された門の中心には、リボルバー拳銃の弾丸さえ弾きそうな鋼鉄の扉が設えられている。
難攻不落を思わせるその門は、外部からの接触を拒むと言う意思を明確に示していた。
 圧迫感の次にフィーナへ降りかかったのは既視感であった。それも曖昧な錯覚などとは異なり、質量を伴う存在感でもって動揺を
引き起こしている。
ワヤワヤの住民が築いたと思しき防壁とは、ギルガメシュを迎撃するべく佐志の随所に施された武装と重なり合う有様なのだ。
ダイナソーの口車に乗ってバリケードを急造させられたマコシカの集落とも類似している。
 外敵を迎え撃つと言う一点に於いて、佐志とマコシカの集落が実行した武装は合致している。
それと同じことがワヤワヤでも同じことが起きたと言うことだろうか。
 「どう言うことでしょうか。私たちが来る前にギルガメシュに襲われたんじゃ……」とレオナに訊ねるフィーナであったが、
メアズ・レイグのふたりこそがワヤワヤの武装に誰よりも驚いていた。
 両帝会戦突入に先立ち、メアズ・レイグはエルンストからひとつの依頼を受けていた。
世界各地を経巡って反ギルガメシュの機運を扇動すると言う一種の工作だ。
その最中、情報収集あるいは監視の為、群狼領の支配下に置かれた町村にも立ち寄っていたのである。
 そうした経緯からワヤワヤにも多少の土地勘はあった――が、嘗てふたりが訪れたときには、
このような防壁など何処にも見当たらなかったのだ。安普請の垣根が申し訳程度に立っていたとレオナは記憶している。
他者を拒絶するどころか、来訪した旅客を喜々として受け入れる温かな町。それがメアズ・レイグの知るワヤワヤであった。

 旅客を装ったネイサンが門の正面にて「旅の者です。どうかこちらで宿を都合してはいただけませんか」と声を掛けたものの、
防壁の向こうからは何ら反応は返されなかった。
 門の裏側から物音や小声は聞こえてくるので無人でないことは確かだが、さりとて四方が防壁によって隔絶されている為、
村落の様子を探ることは不可能に近い。
 そうしたときこそムルグの出番である。高空を飛び交いつつワヤワヤ内部を偵察した彼女の報告――フィーナの通訳を経由したものだ――によれば、
村落は殆ど軍事拠点のような状況であると言う。
 老齢の者や年端の行かぬ子どもに至るまで誰もが武装し、怯えた眼で町中を哨戒しているともムルグは付け加えた。
彼らが手に取った武器とは、ギルガメシュ迎撃の為にテムグ・テングリ群狼領から運び込まれたものであろう。
 只ならぬ事態であることは、最早、疑いようもなかった。

「やっぱり魔が差したってコトじゃねーか? バカみてーな量の武器を持っておかしくなっちまったとかよ。
しかも、テムグ・テングリっつー屋台骨は合戦(いくさ)に負けて揺らいでらぁ。反乱起こすなら今しかねーべ?」
「むむむ! それって卑怯なのっ! 弱ってるときを狙うなんてあんまりなのねっ! そんなふてぇヤロウはルディアが成敗なのっ!」
「コカッ! コッカカカコーココッ!」
「いえっさー! ムルグちゃんも殺る気マンマンなのっ! あんなへっぽこな扉、メガブッダレーザーでブチ抜いてやるのっ! 
そしたら、ムルグちゃん大車輪〜! ひとりたりとも生かしてはおかないの! ヒーロールディア、ここにアリなのっ!」
「コケコッ!」
「こら、イーライっ! 変に焚き付けたらダメじゃない!」
「俺だけかよッ!?」

 状況打開の為に強行突破を口走るイーライと、彼に乗って一暴れしようとするルディア、ムルグを押し止めたレオナは、
ワヤワヤが所在する地域一円の統括を担った領事館へ向かうことを提案。有無を言わせず皆にも了承させた。
 そこにはエルンストの名代として派遣された群狼領の幹部が常駐しており、施設の名が表すよう領地の管理を行っている。
ワヤワヤの異変についても当然把握していることだろう。暴力に訴えずとも鉄の扉を開かせる手掛かりが見つかる筈だ。
そう信じるフィーナにはレオナの提案に反対する理由などなかった。
 しかし、これはフィーナの判断ミスであり、レオナの失策であった。誤算と言い換えたほうが正確かも知れない。

 フィーナたちを賓客のように迎え入れた領事館の人間は、ワヤワヤの武装化について事細かに説明した。
防壁が築かれたのは、ここ数日のことであると言う。予想していた通り、夜を昼に継いでの突貫工事であったそうだ。
 武装化に前後して不審な部外者の出入りも確かめたのだが、道化師の如き仮面やカーキ色の軍服を装着してはおらず、
そこから推察するに、ギルガメシュへ篭絡されると言う最悪の事態は免れたようだ――そう領事館の人間は締め括った。
 説明の続く間は黙って耳を傾けていたイーライだったが、それに区切りが付いた瞬間、椅子を蹴って怒号を吐き散らした。
質疑応答を求めるフィーナを押し退けて説明者に詰め寄り、「てめェら、それを指咥えて眺めてたのか? 誰の領土だ、ワヤワヤは!」と
痛烈に面罵したのである。

「てめぇ、エルンストの命令をシカトしようってのかッ! ワヤワヤはオヤカタサマの持ち物じゃねーのよ! 
それをほっぽり出すなんざ反乱起こすのと大差ねぇぞ!? どうなんだ、オラッ!」
「な、何を言う! 我々だってそんなつもりはない! 状況を注意深く見極めた上で然るべき対処を――」
「うるせぇ、黙れッ! ビビッてんじゃねーッ!」

 胸倉を掴み上げて怒鳴り散らすイーライだったが、当の説明者は怯えるばかりで抗弁ひとつ返そうとはしなかった。
 領事館を預かる身とは雖も、駐在する武官は二十名にも満たない。
そのような兵力で完全武装したワヤワヤに攻め入ることは自殺行為にも等しく、ましてやハンガイ・オルスからの加勢は期待出来なかった。
命を賭した戦いと命を捨てる行為は全くの別物であり、犬死は望むところではないのだ――それが唯一の反論である。
 「勇敢な馬軍が聞いて呆れる」と説明者を突き飛ばすイーライであったが、さりとて彼ひとりを責めるわけにも行くまい。
連合軍がギルガメシュを相手に大敗を喫したと言う衝撃は世界全土へと波及している。
総大将を務めるテムグ・テングリ群狼領にとっては支配の基盤が揺らいだようなものである。
権限の限られた小さな領事館でさえもその災いを否応なく背負わされ、苦悶しているのだ。
 そのことをレオナから諭されたイーライは、ワヤワヤへの対処は自分たちだけで行うとだけ言い放ち、
他の者の反応を待つこともなく領事館を出て行ってしまった。
 領事館の苦境を理解した上での配慮なのか、はたまた激情に駆られての短慮なのか。
真相は定かではないが、いずれにせよワヤワヤの一件は他の誰にも任せておけなくなった。
フィーナやレオナには望ましくない手段ではあるものの、この上は強行突破もやむを得まい。

 息つく間もなくワヤワヤへとんぼ返りした一行は、鋼鉄の扉の正面にて横並びとなり、
テムグ・テングリ群狼領より派遣された使者であると正式に名乗りを上げた。身分を明かした上で代表者との面会を求めたのである。
 領事館より転進する道中、イーライは不意打ちで防壁を突破すると息巻いていたのだが、
レオナとフィーナがふたりがかりでこれを諌め、先ずは対話を求めることに決まったのだ。
仮にワヤワヤへ討ち入るとしても、大義名分を立てるのが常道と言うもの。卑劣な不意打ちなどしてはエルンストの面目を潰し兼ねない――
レオナの発したこの説得が奏功した次第であった。
 しかし、ただ一度きりの好機にもワヤワヤの側は応じようとしなかった。
門の向こうではどよめきが上がっており、うろたえて駆け回る足音などは引っ切りなしに漏れ出してきた。
肉厚の扉を隔てた先に人の気配をはっきりと感じられる。それにも関わらず、開門の気配が一向に見られないのだ。
 張り詰めた空気の中、レオナは徐にランスを構えた。その動きに釣られ、フィーナもリボルバー拳銃のトラウムを具現化させる。
村への立ち入りすら聞き届けられない今、一行はワヤワヤの側にとって格好の的であった。
防壁に梯子でも掛ければ、高所より好きなだけ狙い撃ちが可能なのである。ムルグの報告では飛び道具を持った者は相当数に上ると言う。
 この場の誰よりも狙撃の危険性を熟知しているムルグは、フィーナへ目配せを送った後、すぐさまルディアの防御に回った。
彼女はルディアの騎士(ナイト)だ。両翼を巧みに操り、守るべき少女の頭上にて浮揚し始めた。
どこから飛び道具を撃たれても全て弾き返し、報復に出る気概である。
 一番星を模したマスコット人形――メガブッダレーザーの発射装置だ――を前方に突き出しつつ戦意を昂ぶらせていたルディアにとって、
ムルグのこの行動は愉快とは言えないらしく、「心配御無用なの! 今のルディアはファイターなのね! 誰にも遅れは取らないの!」などと
頬を膨らませていた。勿論、どれだけ不満をぶつけられようともムルグには取り合うつもりはない。

「……短絡的じゃないかなぁ。やっぱり別の方法を考えたほうがいいと思うんだよなぁ〜」

 『電磁クラスター』と銘打った帯電性爆弾を左右の手に持ち、臨戦態勢を整えながらも溜め息を吐いていたネイサンに対し、
イーライは「マジうぜぇんだよ、ゴミ屑野郎ッ! てめぇからブッ殺してやろうかッ!?」と、あらん限りの怒鳴り声を叩き付けた。
この期に及んで消極的な態度を取る彼が癇に障ったのだろう。

「ゴ、ゴミ屑とは失敬だなっ! 僕は常識家なんだよっ! キミみたいなアウトロー崩れと一緒にしないでくれっ!」
「まだグダグダ言いやがるのか!? こうなっちまったら、実力行使でブッ飛ばすしかねぇ!」
「それでどうするのさ? 代表さんの首に縄でも掛けてしょっ引くのかい? それはちょっとやり過ぎじゃないかな……」
「ほざけや、足りねェくれーだ! こちとらエルンストの看板背負ってんだぞッ!? 気ィ入れろッ!」
「ポイント稼ぎに僕らを巻き込まないで欲しいよなぁ!」
「何抜かしやがんだ、てめーッ! 誰がンなちんけな真似をするかよッ!」
「だって、そうとしか思えないじゃないかぁッ!」

 僅かにたじろぐネイサンであったが、兼ねてからの不信感も手伝って一気に沸騰し、彼にしては珍しく真正面からやり返した。
近頃、塞ぎ込むことも多かったのだが、その反動とも思えるような爆発である。
 顔を真っ赤にして噛み付いてくるネイサンと一頻り舌戦を繰り広げたイーライは、レオナの注意を受けて黒光りする扉に向き直り、
次いで自身の右腕を鉄槌に変身させた。ディプロミスタスを以ってして鉄の扉を破砕しようと言うのだ。

「フィーッ! 合図しろッ! あんな扉、俺がブチ破ったるッ!」
「わざわざ扉を吹き飛ばさなくたっていいんじゃないの? オンボロな壁を狙うとかさぁ〜」
「腰を折るな、ゴミ屑野郎! ケンカにも売り方っつーのがあるんだよッ!」
「ま、またゴミ屑呼ばわり! あんたのほうが喧嘩売ってるじゃないか!」
「だから、るせぇッ! うぜぇッ! おい、フィーッ! とっとと合図ッ!」
「――わかりましたッ!」

 領事館を出た時点でフィーナも覚悟を決めている。イーライほど過激な手段を採るつもりはないが、
実力に訴えてでもワヤワヤの代表に接見し、ことの真相を確かめる――アルフレッドもハンガイ・オルスで戦い続けているのだ。
自分がここで臆病風に吹かれるわけには行かない。
 SA2アンヘルチャントの撃鉄をゆっくりと引き起こしたフィーナは、そのまま迷うことなく高空へと銃口を向けた。
右の人差し指はトリガーに掛けられている。やがて一発の号砲が鳴り響き、天を裂いて聳え立つ門をも揺るがした。

「――ッしゃあ! 行くぜ、野郎どもッ!」

 フィーナの鳴らした号砲に応じ、イーライが突撃を開始した。ワヤワヤ側からの応射に備えてレオナもこれに追従する。
 ディプロミスタスによって形成された鉄槌へ破砕の意思が漲った直後、決して開かないと思われた扉に突如として大きな変化が訪れた。
あるいは、本来の可動を実行したと言うべきであろうか。重低な音を引き摺りながら開扉し始めたのである。
 この異変に際し、フィーナたちはそれぞれの武器を構えたまま前方へ極限的な警戒を払っている。
無論、銃声に刺激されたワヤワヤの人々が襲い掛かってくることも想定している。そのときには中央突破を図るつもりだ。
 SA2アンヘルチャントならではの連射技術――ファニングの構えを作っていたフィーナは、
扉の向こうより現れた人影に双眸を見開き、驚愕と戦慄で身を強張らせた。

 一行の前に姿を現したのは、揃いの装束に身を包んだふたりの男である。両名の顔には全く見覚えがない。
過去に邂逅したと言うこともない。フィーナの記憶に有るのは彼らが纏う特徴的な装束のみであった。
 マウスピースやオープンフィンガーグローブの有無と言った装備の差異こそあるものの、
フィーナはこの装束をハンガイ・オルス出発の間際まで目にしていたのだ。
 白虎を思わせる上着にだんだら模様の腰巻、義の一文字が刻まれた胸甲――
ワヤワヤの門を潜ってフィーナたちのもとへと歩み寄ってきたのは、スカッド・フリーダムの隊士である。
 片方は上着も胸甲も外して半裸と言う風貌だ。しかも、頭部の殆どを覆面で隠している。
後頭部のラインをなぞるかのように無数の紐で締め込んである為、素顔が晒されることはなさそうだ。
一番下の結び目からは後ろ髪が飛び出しており、七色のビーズでもって束ねていた。
 雪のように白い上半身は至る場所に縫合の痕跡が散見される。人はその創痍を「歴戦の勲章」とも呼ぶのだろう。
 鈍い光沢を放つ特殊合皮の覆面には冠鷲の頭を模した装飾が施されている。
今まさに獲物へ襲い掛からんとする眼光や嘴を正面から捉えると言う荒々しい意匠であった。
 覆面と言っても目と口の部分は刳り貫かれており、そこだけ生身が剥き出しとなるのだが、
しかし、アメジストの瞳は湖水の如く静かであった。双眸ばかりではない。異様な風貌とは裏腹に物腰は穏やかそのものだ。
さすがは義の戦士の一員と言うべきであろう。

「スカッド・フリーダム隊員、ホドリゴ・バードランズじゃ。テムグ・テングリ群狼領の使者言うがはおまんらかえ?」

 鍛え抜かれた肉体とは似つかわしくない少女のように愛らしい声でもって一礼した覆面隊員は、
フィーナたちをワヤワヤの門内へと招き入れた。


 不審な人影がワヤワヤに出入りしていることは領事館にて確かめていたが、その正体がスカッド・フリーダムの隊員であろうとは、
フィーナも仲間たちも、誰ひとりとして予想していなかった。そもそも、この村に義の戦士が滞在していることが不可思議にして不自然であった。
テムグ・テングリ群狼領とスカッド・フリーダムは、互いに牽制し合う関係にあるのだ。
パトリオット猟班は連合軍へ加担するに当たって本隊を離脱までしている。
 任務の途中に立ち寄っただけ――と言うことではあるまい。彼らは開かずの門の内側より現れ、更には村長のもとまで案内すると申し出たのである。
 ふたりの義の戦士に先導されて村長の邸宅へと向かう道中、この珍妙な筋運びについてネイサンは幾度となく首を傾げていた。

「村の護衛ってコトなのかな? この人たち、シェリフの手に負えないようなアウトローの取り締まりもやってるんだよね? 
ギルガメシュがおっかないってんで、護衛を頼み込んだとか……」

 推察の域を出ない思料をまとめながら自身の顎を撫でるネイサンへフィーナも首肯を以って同意した。
スカッド・フリーダム本来の体質やここに至るまでの経緯を踏まえると、いつ襲来するとも限らないギルガメシュに怯え、
村の護衛を要請したとしか考えられないのだ。急拵えの防壁も彼らの指導で築かれたのかも知れない。
 試しに自身の推論をぶつけて見たものの、一行を出迎えたホドリゴは「随いてくれば分かるき」と述べるに留まり、
具体的なことは何も答えようとはしなかった。こうなってはネイサンも肩を竦めるしかない。
 明言を避けた義の戦士に代わって件の推論を否定したのはイーライである。
覆面隊員を挑発でもするかのように、「ガードっつーのは有り得ねぇ。ここはテムグ・テングリの庭だぜ」と大声で言い捨てた。

「村の防備(まもり)が不安っつーなら、こいつらじゃなくてテムグ・テングリに頼むだろーが。手前ェらを大事にしてくれるオヤカタサマによ。
ただでさえ物資が少ねぇってときに武器まで運び込んでんだぜ? 見捨てるつもりのチンケな村にここまでするかよ。
マジで助かりてぇなら、どうして余所者に縋りつくよ? まずはエルンストに頼るのがフツーじゃねーか。それがスジってもんだ」

 テムグ・テングリ群狼領の計らいを殊更に強調するあたり、イーライは義の戦士のみならずワヤワヤの住民をも皮肉っているようだ。
 それでもホドリゴは振り返らなかった。覆面の裏に感情の一切を隠したまま、ただ黙々と歩を進めている。
 無反応が面白くなかったのか、はたまた彼では会話すらままならないと判断したのか、
イーライはホドリゴと肩を並べて歩くもうひとりの隊員に向かって、「よォ、優男。あんたの親戚に跳ねっ返りの小娘(ガキ)はいねーかよ」と声を掛けた。
 一行と向き合った際、その隊員はホドリゴに続いて「ビクトー・バルデスピノ・バロッサ」と名乗っていた。
ややくたびれたヘッドバンドで象牙色の前髪を押さえ付け、剥き出しとなった額に鉢鉄(はちがね)を締めた男である。
柔和な笑みを湛えた端正な面立ちは、成る程、「優男」と言う当てこすりが相応しい。
 イーライは彼と同じファミリーネームの持ち主を知っていた。

「ジャーメイン・バロッサだよ。あんたンとこの戦闘隊長に連れられてよ、遠路遥々馬軍の砦まで遊びに来やがったぜ」

 イーライの言葉へ真っ先に反応したのは、標的たるビクトーではなくフィーナであった。
 調査出発の準備に忙殺されてファミリーネームを聞きそびれていたのだが、パトリオット猟班の一員であるかの少女が、
よもやこのような局面にまで関わろうとは。「世間は狭い」と言うが、何とも奇妙な縁である。
 ジャーメインと同じファミリーネームを持つビクトーは、振り返ることも歩調を乱すこともなくイーライに「あれは裏切り者ですよ」と返答した。
シュガーレイの肩書きが「もと戦闘隊長」だと訂正することも忘れない。

「頭のおかしい連中と一緒になって勝手に出て行ったのです。戦友の殉職如きで壊れるような弱輩、義の戦士の風上にも置けませんよ。
我が妹ながらバロッサ家の面汚しとしか言いようがありません」
「妹だぁ?」
「正確には義理のね。あれの姉と所帯を持ったもので。……入り婿ですけれどね」

 ジャーメインの義兄であると言うビクトーは、パトリオット猟班へ参加した彼女を身内の恥とまで唾棄した――が、
苛烈な物言いとは裏腹にその声色は穏やかであった。僅かばかりの笑気を含んでいるようにさえ思える。
スカッド・フリーダム本隊に籍を置く立場としては大っぴらに応援こそ出来ないものの、どうやら義妹の行動に理解は示している様子だ。
 あるいは、公然の秘密であるのかも知れない。ビクトーの胸中を見透かしたらしいホドリゴは、
彼の背中を軽く叩きながら、「バロッサの入り婿言うんはあちこち気を遣うて大変じゃき」と冷やかした。

「今はわし以外は誰も見ちょらんき。面汚し言わんでもえいじゃろ。第一、おまんくはおやっさんからして親バカを隠す気がなかじゃろうが。
メイはどこで何をしゆう、メールも手紙もないがか――そんなコトを毎日毎日、何度も何度も言いゆう。
今更、おまんだけ突っ張っても何ひとつ締まらんぜよ。楽になりや、楽に」
「義父(ちち)は義父。私は私だ。義に叛いた者を語る口は持ち合わせていないよ。少なくとも私はね」
「こんまいことを言いなや。シュガーがやりゆうことも仁義の道ぜよ。……メイが仇討ちに出て誰より嬉しかったがは、おまんらじゃろう?」
「……その辺にしておきなさい、ホドリゴ。第一、任務の途中に私語は厳禁じゃないか」
「任務任務任務任務――えッらいのぉ、おまんは。上層部(うえ)のカタブツでもそこまでガチガチなヤツはおらんぜよ。
そんなことやき、人からジジィ呼ばわりされるがじゃ」
「他人の評など気にする年齢(とし)でもなし。私は私の使命を果たすのみだよ」

 それまで厳しい態度を崩さなかったビクトーがホドリゴと悪ふざけのようなやり取りを始め、これによって幾分空気は柔らかくなったが、
状況そのものが好転したわけではない。むしろ、イーライの挑発によって一層悪化したと言える。
開かずの扉から村長の邸宅までの道程にて幾人もの住民とすれ違ったが、その都度、悪魔のような形相で睨まれたのである。
 先程、イーライはテムグ・テングリ群狼領に対する背信を皮肉ったわけだが、これに刺激されて村中に殺気が垂れ込めるようになったのだ。
彼らはひとりひとりが凶悪な武器を携えている。誰かがトリガーを引けば、その瞬間にフィーナたちは暴力の怒涛に飲み込まれることだろう。
 突入の合図としてフィーナは空を撃っていた。その行為とて確実にワヤワヤを脅かしている。

(どうしてこんなことになってしまうのか、……必ず解明してみせる!)

 相手はギルガメシュではない。無用な戦いは是が非でも避けねばならない――SA2アンヘルチャントの具現化を一旦解除し、
住民への刺激を抑えようと努めるフィーナであったが、邸宅の門戸を潜り、村長が居ると言う応接間へ立ち入った際にはさすがに心身を強張らせた。
 大量の書類が詰まれたテーブルと簡素な椅子以外には目立つ調度さえ殆ど置かれていない殺風景な応接間である。
賓客を遇する折に栓を開けると思しきワインやブランデーがガラスのラックに並べられ、そこに向かって窓から光が差し込んでいる。
色とりどりのアルコールがアイボリーの絨毯へ万華鏡のような模様を投射していた。
 フィーナたちが応接間に立ち入ったとき、室内には村長の他にふたりの男が在った。
 両名とも年若い。二十歳前後と言ったところであろう。間に挟まれた村長が哀れな老人に見えてしまうほどの若さが弾けている。

 ひとりは精悍な体躯の持ち主だった。
 アッシュローズのジャケットでその身を覆っているが、分厚い生地の上からでも瞭然と分かる程に気魄が漲っている。
 コルセットの如く胴を覆った防具は強化ゴムで完成された逸品だ。同じ素材の手袋で包まれた五指は無骨そのものであり、
剣でも握れば巨神の如き猛威を発揮するに違いない。アイアンブルーのジーンズが精強なる佇まいを一層引き立てている。
 切り揃えられた黒鳶色の髪も、インディゴブルーの瞳から放たれる鋭い眼光も――
彼を形作る全ての要素(パーツ)が、戦士としての天稟の顕れであった。
 翼を模したペンダントがネックレスより垂らされているが、武辺の気魄と煌びやかな装飾のミスマッチが一種不思議な趣を醸している。

 もうひとりは、ビジネスパーソン風の青年である。
 見た目にも鮮やかな色彩の隣人と異なり、上下揃って裁判官の法服を思わせる紺色であった。
 上着はスライドファスナーで開閉する形式だ。これを覆い隠す為に設けられた幅広のオーバフラップは、最上部に切り込みが入っている。
丁度、重なり合う部分に取り付けられた銀製のシャンクボタンで固定する仕組みと言うわけだ。
 車輪をあしらったレリーフの中央には楕円形にカットされたロードクロサイトが嵌め込まれており、
注視でもしなければブローチとしか思えない装飾性の強いボタンである。
 袖は折り返しとなっているものの、裏地は黒の単色のみ。刺繍なども施されていない為、紺地との代わり映えは絶無であった。
 首回りを覆う詰襟にはシルバーグレイのラインが走っており、シャンクボタンと共に数少ない装飾性を担っている。
左の薬指に嵌められた煌く環もシックな着衣と好対照だ。
 彼は小脇に分厚い辞典を抱えている。表紙へ貼り付けられた銀のプレートには天秤を象った意匠が凝らされている。
よくよく凝視すれば、全く同じ意匠が施されたバッジを左胸部に付けているではないか。
 また、辞典の表紙を飾るプレートには、件の意匠と共に『万国公法』なる耳慣れない文字が刻み込まれていた。

「――まさかと思いますが、この期に及んで商談を台無しにするようなゲストを招いちゃいませんよね」

 ビジネスパーソン風の青年は新たな入室者たちを一瞥した途端に顔を顰め、右手でもってタンポポ色の髪を掻き毟った。
右七、左三の比率で前髪を分けることに相当なこだわりを持っているらしく、ポマードまで駆使して入念に整えていたのだが、
今や理想の型(スタイル)など見る影もなく乱れてしまっている。
 瑠璃色の大きな瞳は、フィーナたちではなく、その前方に立つビクトーとホドリゴを睨め付けていた。

「そのまさかですよ、コクランさん。……テムグ・テングリ群狼領より遣わされた使者の皆様をお連れしました。
彼らには話し合いに出席する権利があります。是非ともこの村の行く末を見届けていただきましょう」

 お世辞にも穏やかとは言い難い眼光を怯みもせずに受け止めたビクトーは、
これから行われる話し合いとやらに“招かれざる客”を同席させるよう求めた。一行の立場を明確にした上での申し入れである。
 「コクラン」なるファミリーネームで呼ばれたビジネスパーソンは、ビクトーの発言に再び頭を掻き毟り、
次いで分厚い辞典を机に放りつつ、「あなたたちが悪魔のように見えてきましたよ。十五分前は天使だったのに……」と重苦しい溜め息を漏らした。

「バロッサさん、パートナーシップと言うモノをお忘れですか? 共通の目的を自らおかしくする意味がわかりませんよ。
……あなたたちの義にも反するでしょうに」
「左様、私たちはスカッド・フリーダムの一員です。何があっても義は守る。今、この場に於いて守るべき義を果たしたまでのことです。
先程も言いましたが、テムグ・テングリ群狼領にはこの話し合いを見届ける権利がある。……いや、権利と言うよりは義務かも知れない。
彼らの立会いなくして議論は始められないと思いますが?」
「……バードランズさんも同じ意見ですか?」
「わしゃビクトーと違って平和主義やき。穏便に済むんやったら、それに越したことはないにゃあ」
「……私たちにスカッド・フリーダムの義を守れ、と?」
「分かってきたがではないかえ。パートナーシップ言うんは、一方通行では成り立たんものぜよ」

 両者のやり取りから推察するに、フィーナたちを招き入れることについては事前に何の打ち合わせもなかったようだ。
不測の事態に際して巨躯の青年は僅かに眉を顰めたが、さりとて具体的な行動を以って「コクラン」へ加勢することはなかった――
と言うよりも、張り詰めた空気を引き裂くような異音によって次なる一手を妨げられてしまった。
 この邸宅の主人であるワヤワヤの村長が机を叩いて立ち上がったのである。

「あんたらのパートナーシップはどうでもいいッ! どう言うことだ!? これはどう言うことなんだッ!?」

 テムグ・テングリ群狼領の使者が訪れたことは既に彼も承知している。それが誰であるかは、フィーナたちが入室した時点で察していた。
以来、一行を憎悪の目で凝視していたのだが、とうとう心身の昂ぶりが限界を突破したらしい。猛烈な咆哮であった。
 狡賢い企みが露見した小悪党の如き憤激である。よもや、本当に住民たちを率いて蜂起するつもりだったのだろうか。
 しかし、仁義に反する行為をスカッド・フリーダムが是認するだろうか。テムグ・テングリ群狼領との対立関係の前に彼らは義の戦士なのである。
その心が失われていないことは、ビクトーの態度を見れば瞭然。仮に全面衝突を望むのであれば、
住民たちの蜂起に付け込むと言う卑怯な真似などせず正々堂々と最強騎馬軍団へ立ち向かうことだろう。

(一体、何を始めるつもりなの? 何が起ころうとしているの……?)

 「コクラン」とビクトーを交互に見比べつつ自問自答するフィーナだったが、答えは全く見つからない。
 造反の可能性が限りなく低まった今、いよいよワヤワヤの真意が分からなくなってしまうのだ。
「話し合いを見届ける責務がある」ともビクトーは話していたが、その意味さえ判然としなかった。
 武力蜂起はともかくとして、ワヤワヤがテムグ・テングリ群狼領の意向へ背きつつあることは明白だ。
何ら疚しいことがなければ、使者を名乗る一行へ過剰反応をする必要などあるまい。
激昂した村長は荒い呼気を吐き出すばかりであった。

「――私はバロッサさんに賛成ですね。後腐れがないよう今日で全てにカタをつけてしまいましょう」

 このような有様のワヤワヤに対し、如何にして働きかけていけば良いかとフィーナが思い悩む中、
ビクトーの要請に初めて肯定的な意見が出された。
それ自体は喜ぶべき進展かも知れないが、しかし、この一声はフィーナたちの背後から無遠慮に投げ込まれたものである。
 “敵地”で背後を取られると言うことは、即ち死を意味している――伏兵の奇襲と捉え、反射的にSA2アンヘルチャントを具現化させたフィーナは、
続けてルディアの正面に回り込んだ。我が身を盾にして彼女を庇おうと言うのだ。その意を悟ったムルグもこれに追従する。
 他の仲間たちも謎の声に即応して臨戦態勢へと移行。イーライなどは反転の最中にはトラウムを発動し、左右の腕を長剣の如き刃へと変身させていた。
 それ以上に敏速だったのは「コクラン」と共に在った魁偉である。
疾風(はやて)と化して馳せるや否や、瞬きひとつする前に一行の正面へと滑り込んだ。
フィーナとムルグがルディアの前に立つのと同様に、彼もまた己が守らねばならない者を見定めている。
 右手には掃除用のモップを握り締め、これを刀剣の如く構えていた。本来の得物を手元に置いてはおらず、
やむなく部屋にあったもので代用したらしい。モップ糸の押さえ金具を剣尖に見立てたわけだ。
 その様を視認したレオナは、小さく呻いた後に絶句した。
完全武装した自分たちを相手に何の変哲もない掃除用具一本で立ち向かおうとする彼の無謀へ呆れたわけではない。
 眼前の魁偉が中段に構えたモップとは、部屋の片隅に立て掛けられていた物なのだ。
まずこれを確保する為に飛び出し、右手で引っ掴むや否や、再び床を蹴って一行へと追い縋った次第である。
 モップが置かれていた場所からの往復など余計な動作と時間の浪費が嵩んだ筈なのだが、
それにも関わらず魁偉は一行が振り返るよりも早く己の持ち場まで到達していた。
 武器の確保と対峙までを一瞬の内に済ませるなどレオナにも不可能であり、これに度肝を抜かれたのだった。
その反応速度と身体能力は驚異――いや、脅威の一言だ。彼が発揮した速度はメアズ・レイグをも遥かに上回っていたのである。
 一行の前に立ちはだかった壁は、どうやら途方もなく大きいらしい。

「ケッ――化けの皮が剥がれやがったな! 使者サマご一行は丁重にお招きしてからブチ殺すってかァ!? 上等だぜッ! 
スカッド・フリーダムだろうが、ワヤワヤだろうが、何だろうが! まとめて潰してやらぁよッ!」

 アッシュローズのジャケットを翻した魁偉は、イーライより浴びせられる怒声にも顔色ひとつ変えなかった。
得物などなくとも退けは取らないと宣言するような涼しい面構えだ。

「それはこちらの台詞だ。丸腰の相手に銃口を向けるなど、まともな神経とは思えない」
「あ、あの……、それはその――ごめんなさい……」

 魁偉から理非を批難されたフィーナは、自身の短慮を省みて反射的に陳謝。
すかさずルディアから「そこで謝ってどうするのっ!」と尻を叩かれる始末であった。
 それでも、フィーナが自己嫌悪から立ち直ることはなかった。魁偉の批難を胸中にてひたすら反芻し、懊悩しているのだ。
 いくらこの幼い仲間を守る為とは雖も、リボルバー拳銃まで具現化させる必要はなかった。
ワヤワヤに刺激を与えないよう注意する筈が、その意思を自分自身の手で握り潰したことにも等しい。
彼女にとっては悔やんでも悔やみ切れない失態である。
 一方、フィーナたちの背後に立った“丸腰”の人物は、自分を庇おうとする魁偉に礼を述べるどころか、
「守る相手を間違っていますよ。キミはコクラン君のお付きでしょう?」と慇懃無礼な言葉でもって追い払おうとしていた。
口元に浮かべられたのは、見る者へ生理的な嫌悪を与えるような厭らしい薄笑いだ。

「キミと私は赤の他人。大袈裟に言っても顔見知りでしょう? 雇用契約も結んでいないような人間に媚を売ったところで、
キミの懐には硬貨の一枚だって入っては来ませんよ。おやめなさい」
「媚びを売る気など最初(はな)からない。……目の前で誰かが襲われていたら、助けに入るのが人情ではないか?」
「人情とは奥ゆかしい言葉をご存知だこと。私に言わせれば、それこそ無駄の極みですよ。リターンもないのにリスクを選んでどうしますか」
「犬養、あんたは……」
「さ、気が済んだら、コクラン君のところにお帰りなさい。私はテムグ・テングリの皆さんにご挨拶せねば――」

 進路の邪魔とばかりに魁偉を平手で押し退け、一行の正面にまで歩み寄ったその男は、
「お初にお目にかかります。私(わたくし)、犬養賢介と申します。以後お見知りおきを」と、如何にも行儀良さそうに一礼した。
 無論、恭しいのは上っ面のみである。自分以外の全ての人間を愚弄する軽薄な笑みは、「礼を尽くす」と言う作法から遠くかけ離れている。
しかも、この男の場合、形ばかり取り繕ったことを相手に見透かされても平然としているのだ。
 正常な神経の持ち主であれば、多少なりとも自分を恥じ入るものだが、そうした思考など最初から持ち合わせていない様子である。
実際、ネイサンから「恩知らずって言葉は、あんたの為にあるようなもんだね」と皮肉られても気味悪く口元を歪めるのみ。
どうしようもなく始末が悪いと言えよう。
 礼のひとつも返されなかった魁偉は、そのことに憤りはしないものの、代わりにうんざりと言った調子で肩を竦めている。
今のところ、両者がどのような間柄であるかは判然としないが、この男――犬養賢介の不調法は、生まれついての性根と見做しても差し支えなさそうだ。
 名前の響きから佐志の出身者であるのかも知れないが、義理堅い守孝や源八郎とは天と地程の開きがある。

「まぁたおまんは趣味の悪い……。なんべんも言うたじゃろうが! いきなり人の後ろに立ったらいかんぜよ」
「トイレに行く権利くらいは許されて然りと思いますがね。大体、被害者は私でしょう? 帰ってきたら、集団に通せんぼされていたのですから」
「ほんなら声くらい掛けや。ダンマリで聞き耳立てとるのはおかしいじゃろうが。それとも、おまん、わしらを狙うスパイか仕事人の類ではないかえ?」
「ユーモラスなジョークですね。しかし、もっと現実を見ましょう。私があなたがたを害したところで何の得になると言うのです? 
そんな無駄なことに労力を使うくらいなら、川にでも繰り出して砂金浚いをしたほうがずっと有益」
「……もうええ。おまんと話しとってもくたびれるだけぜよ」
「良いところに気が付きましたね。それが有意義な時間と言うことです。学んだことを次に生かしましょうね」

 数々の不調法をホドリゴから注意される賢介だったが、やはり、耳を傾けるつもりはなさそうだ。
 それはホドリゴの側も最初から解っていたらしい。魁偉と比して遥かに近接していたにも関わらず、
義の戦士は賢介を庇うこともフィーナたちを制止することもなかったのである。そこに偽らざる本音が顕れているようにも思えた。

「おやおや? コクラン君はご不満ですかな? 確かにテムグ・テングリに黙って“契約”を結ぶのは容易いことですよ。
怖いのはその後です。いくらお膳立てを整えたとしても、軍馬で乗り付けられては実効支配が繰り返されるのみ。
つまり、意思表明は正大にやろうと言うことです。馬賊を黙らせるくらいにね」
「懇切丁寧に説明されなくても判っていますよ。……それならそれで、一言くらい相談して欲しかったのですがね。
こうなったら、もう同席を認めるしかないじゃありませんか」
「聡くて結構。コクラン君の利発には言葉もありませんよ」
「……犬養さん、我々は対等だ。だから、こうして胸襟を開いている。そのことをお忘れなきように」
「コクラン君お得意のパートナーシップですね。善処するとしましょうか。何しろ、我々とあなたがたは一蓮托生。
この先も良いお付き合いをさせて頂きたいものですからね」
「て言うか、あなた、何時から聞き耳立ててたんだ!? どこかに隠れてただろ!?」

 ホドリゴの注意へ自身の憤りを付け足した「コクラン」に形ばかりの相槌を打ち、その間に真鍮のケースから名刺を引き出した賢介は、
茶目っ気のつもりであろうか、レオナが構えるランスの尖端へとこれを突き刺した。
 白い紙片には『ピーチ・コングロマリット代表取締役副社長』と言う彼の身分が印字されている。
その仰々しい肩書きに相応しく、賢介の出で立ちは「コクラン」と同じくビジネスパーソンの典型と言ったものである。
 端的に言えば、ポピュラーな背広姿だ。ダークグレーの生地にピンストライプが入った三つボタンのシングルには、
ウィンザーノットのネクタイが良く映える。
 綺麗な折り返しが付いたズボンの裾より更に下方へ視線を巡らせると、
ストレートチップの黒革靴が下ろし立てとしか思えない光沢を放っている。
悪意の影が満面に染み出しているかのような賢介とは不釣合いの眩しさであった。
 背広のフラワーホールには独創的な徽章が付けられていた。如何なる意味が込められているのかは知れないが、垂直に割られた桃を象っているのだ。
全く同じデザインのロゴは名刺にも印刷されており、これが『ピーチ・コングロマリット』なる企業の象徴であることを示していた。

 律儀にも名刺を手に取ったレオナは、そこに『ピーチ・コングロマリット』なる社名を見つけた瞬間、顔色を一変させた。
続けて、賢介の面――と言うよりも、背広に付けられた桃の徽章と名刺を交互に睨んでいく。

「ピーチ・コングロマリット、ですって……」
「あ? 知ってんのかよ、レオナ。昔、依頼(シゴト)受けたなんてこたぁねぇよな。クソ間抜けな名前、聞き覚えねぇし」
「ばかっ! 世界最悪の企業だよ! まさか知らないの、イーライ!? 何回、新聞に載ったか知れないわよ!?」
「……い、いちいち憶えてねぇよ、昔の記事なんてよォ」
「誤魔化さないで! テレビ欄とスポーツ欄以外も読まなくちゃダメッ!」

 如何なる手掛かりを示されても首を傾げ続けるイーライはともかく――『ピーチ・コングロマリット』の名はフィーナも記憶していた。
レオナの評ではないが、有史以来最悪の悪徳企業とまで忌まれる総合商社であった筈だ。
 人材派遣業、不動産業、金融業などその業務は多岐に渡るのだが、いずれもやり口が暴力的且つ非人道的であり、
組織の体質として良心を持ち合わせていないと言うのが巷の噂であった。真偽の程は不明だが、雇い入れた社員ですら搾取の対象と見做しているフシもある。
痩せ細るまで扱き使った上、労働力が失われたと見るや塵芥の如く放り捨てると言う。無論、被害者への保障などはない。
 今までにも幾度となく告発されているのだが、それでも業務を続けていられるのは、早い話が裁判所を抱え込むからである。
 司法の力を封じる為にはピーチ・コングロマリットは如何なる労力をも厭わない。
“きびだんご”との珍妙な隠語で呼ばれる銀塊を繰り出して裁判の関係者――陪審員など格好の的だ――を買収し、
それでも屈しない相手にはアウトローを放って威圧まで仕掛けるそうだ。
 桃を冠する愛らしい社名とは裏腹に邪悪の化身とも言うべき組織なのは間違いなかった。
 おまけに、この犬養賢介は、毒巣の如きピーチ・コングロマリットの副社長であると言う。

 よくぞビクトーやホドリゴがおとなしくしているとフィーナは驚いたものである。
義の戦士を標榜するスカッド・フリーダムにとって、ピーチ・ファンダメンタルとはテムグ・テングリ群狼領をも上回る不倶戴天の敵であろう。
賢介の身柄を拘束した上で事情聴取を強行していても何ら不思議ではなかった。このような形で同席していること事態が異常なのだ。
 しかも、だ。ピーチ・コングロマリットの副社長は何やら“契約”と言う単語を口走っていた。これを凶兆と言わずしてどうするのか。

「……契約って、どう言う意味ですか? ついさっき、そんなことを言いましたよね?」
「言葉通りの意味でございますよ。私(わたくし)どもは大切な契約を交わす為、ここに集ったのです」

 フィーナの問いかけに応じつつ、机上に山積する書類の一枚を取り上げた賢介は、これを彼女の眼前へと翳して見せた。
 真っ白な書類には、ある土地の所有権を第三者へ譲渡する旨が署名と捺印入りで詳述されている。
売却対象の物件がワヤワヤに所在するものであることは、そこに書き込まれた住所が証明していた――が、
どう言うわけか、所有者はピーチ・コングロマリット名義となっている。

「……どう言うことですか!? 一体、あなたは何をッ!?」
「理解していないのか、それとも理解したくないのか――ま、それは置いときましょう。私は心理学の専門ではないのでね。
噛み砕いて説明して差し上げますとね、ワヤワヤと言うこの村の全てをロンギヌス社に譲渡する商談(はなし)ですよ」
「譲……渡ッ!?」

 賢介の言葉を鸚鵡返しに復唱するフィーナだったが、これは極めて機械的な反射であり、
思考の部分では「譲渡」に込められた意味を消化し切れていない。渦を巻く混乱が認識を妨げているのだ。
 それは他の仲間たちも同様である。イーライはレオナと、ネイサンはムルグと、それぞれ当惑の顔を見合わせている。
誰ひとりとして、賢介が何を言い出したのか理解出来なかった。
 ワヤワヤと言うこの村を、テムグ・テングリ群狼領の領土を他者に売り渡すと賢介は口走ったのである。
彼の掲げる書類にもその旨が明文化されている。

「ジョートってなんなの? 上トロみたいなものなの?」
「お買い物と同じですよ、可愛いお嬢さん。お金を貰う代わりに商品(うりもの)をお客さんにお渡しするのです。
今回はそれがワヤワヤとロンギヌス社と言うわけですね。私たちも仲介はさせていただきましたがね」

 譲渡や契約と言った小難しい単語の判らないルディアにも賢介は丁寧に噛み砕いて解説していく。
これは良心的な配慮などではなく、硬直するフィーナたちを更に打ち据えるのが狙いであろう。
 案の定、追い討ちを浴びせられたイーライはいきり立ち、刃に変えた右腕を轟然と振り上げた。
 ワヤワヤが試みているのは数ある背信行為の中でも最悪の部類ではないか。
正面切って独立を求める武装蜂起のほうが遥かに正大と言うもの。
エルンストの使者としてここまでやって来たイーライには、断じて許してはおけなかった。

「何が仲介だッ! やっぱりてめぇが黒幕なんじゃねーかよッ!」
「やはり――と言われましてもね。大体、あなたは私どもの会社もご存知でなかったとお見受けしましたが。
そのような方が“やはり”とは、いやはや、どう言った了見でしょうな」
「うるせぇ、屁理屈捏ねんなッ!」

 堪り兼ねて賢介に斬りかかるイーライであったが、この一閃は再び乱入してきた魁偉によって弾かれてしまった。
押さえ金具を除く大部分が木製と言う掃除用具でディプロミスタスの刃を受け止めたのである。
 ヴィトゲンシュタイン粒子を得て形作った刃は生半可な刀剣よりも遥かに鋭く、強靭であり、モップ程度なら容易く両断してしまう筈だった。
これはつまり、刃に触れない箇所を一瞬にして見極めている証左に他ならない。その一点にモップの押さえ金具をぶつけたわけだ。
 この魁偉、恐るべき剣腕の持ち主である。このままでは直撃は難しいと判断し、左右の腕を引いて出方を窺うイーライであったが、
相手が本来の得物を携えていたなら、ただ一合の斬り合いで死地に追いやられていたに違いない。
少なくとも五体満足で退くことは不可能であろう。
 達人は得物を選ばずに実力を発揮出来る――ハーヴェストより教わった戦いの極意をフィーナは反射的に思い出していた。

「オーニクス君、キミは本当に暇を持て余しているようだね。どうだろう、我が社に来ないかい? ぴったりな仕事を斡旋しようじゃないか」
「……遠慮しておく」

 自身の生命が危険に晒されていたにも関わらず、賢介はあっけらかんとしており、あまつさえ先程と同じ皮肉を魁偉に向かって飛ばした。
腐りきった性格はともかくとして、肝が据わった人物であることは疑いようもない。
 それとも、恐怖と言う感覚が壊れてしまっているのだろうか。魁偉と睨み合いを続けるイーライをも「暇人」と小馬鹿にしていた。
つい数秒前に自分を殺そうとした相手にまで挑発を重ねるとは、まともな神経では出来ない愚行だった。
 このままでは乱戦にまで縺れ込むと危惧したレオナがイーライの肩を掴んで押し止め、殺伐の気配は立ち消えとなった。
魁偉の側にも追撃の意思は見られない。あくまで賢介を庇う為だけにモップを取った様子である。

 僅かな時間ながら暴力の影が応接間を包んだと言うのに、なおも義の戦士たちは動かなかった。
 そもそも、ビクトーとホドリゴは何を目的としてこの場に在るのか。村の警護でなければ、果たして、如何なる事情があると言うのか。
 彼らは「義」を掲げる戦士である。これに悖る行為は許しておけない気概の持ち主であるとフィーナは信じて疑わなかった。
パトリオット猟班も含め、スカッド・フリーダムとの縁は決して浅くはない。師でもあるハーヴェストやローガンとの繋がりを通じ、
全幅の信頼すら置いていたのだ。
 しかし、今やその信頼は大きく揺らぎ始めていた。
 まさしくワヤワヤは仁義に反する悪徳(こと)へ手を染めようとしている。エルンストからの恩情を裏切ったことは誰の目にも明らかだ。
それなのにビクトーとホドリゴは事態を静観し、外道の振る舞いに糾弾の声を上げることすらなかった。
 ワヤワヤの悪逆を黙認するのは大敵の力を削ぎ落とす戦略のひとつと言うことか。
スカッド・フリーダムの掲げる「義」の一文字とは、実は彼らにのみ都合の良いものであるのか――
イーライのような爆発だけは抑えたものの、穏やかな性情のフィーナでさえ憤激を禁じ得なかった。

(それにロンギヌスって言えば、ニコラスさんが話してくれた――)

 委細までは憶えていないが、フィーナも『ロンギヌス社』と言う企業はニコラスから聞いたことがある。
クインシーと初めて対面したフィガス・テクナーの会合の折にも、ふたつのエンディニオンを論じる中でその名が上がっていた。
 『フラクタルアポリア』なる素材より創出されたレプリカながらもオリジナルに劣らぬ質のCUBE、
これを搭載したMANAや戦略兵器など、ありとあらゆる軍需を一社のみで充足し得る規模と技術を兼ね備えた組織力――
ロンギヌス社とは、名実共にAのエンディニオン最大の軍事企業であった。
 K・kなど足元にも及ばない「死の商人」がワヤワヤを買収して何をするつもりなのか。
これまでテムグ・テングリ群狼領が重用してきた農地を潰し、そこに工廠でも建設するつもりなのか。
様々な憶測がフィーナの脳裏に浮かんでは消えるが、いずれにせよ、この村の将来に光が差すとは思えなかった。
 胸中に湧き起こったドス黒い猜疑と格闘し、苦悶の表情を浮かべるフィーナに興味を持たぬ賢介ではない。
格好の玩具でも見つけたように口元を歪め、「身売りを願い出たのはワヤワヤのほうなのですよ」と、これ見よがしに肩を竦めた。

「皆さんの名誉にも関わることですからお教えしましょう。ロンギヌス社から買収を持ちかけたとか、そう言う事実は一切ございません。
このままではどうしようもない。助けて欲しいと言って泣きついてきたのはワヤワヤなのです。誤解をされては困りますね」
「……それじゃ、まさか……」
「平たく申せば反乱ですな。テムグ・テングリ、いえ、エルンスト氏には何の値打ちもなくなったと言うことでしょう。
馬軍の覇者などと持て囃されて参りましたが、大軍を率いる才がないことは先の合戦で証明済み。
私も手慰みながら六韜三略を嗜む身でありますが、……ま、あのようにお粗末な用兵では勝てる戦も落とすと言うもの。
見切りを付けたワヤワヤは賢明と言うよりありません。実に素晴らしい」
「素晴らしいって、何ですか……反乱の何が……どうして……」
「これはひとつのムーブメントになるでしょう。ワヤワヤ一村で留まるものではありません。
テムグ・テングリの使者ともあろう御方が世の流れを見極められぬとは思えませんが、……如何ですかな?」
「……そんなことは……」

 賢介の発する言葉のひとつひとつにフィーナの心は惨く掻き乱された。
最も痛烈であったのは、両帝会戦での敗北によってエルンストの求心力が失われたと言う一撃である。
万が一、彼の言うことが正解であり、テムグ・テングリの領内で同じ事態が頻発すれば、
アルフレッドの立てた史上最大の作戦は成功する見込みが全くなくなる。それこそが最悪の事態であった。
 今やフィーナの顔面からは生気と言うものが全く抜け落ちており、頬は蒼白に、唇は紫にそれぞれ変色していた。
心臓が病的なまでに早鐘を打っていることは、焦点の合わない双眸を見れば瞭然である。
 ひとりの人間が崖っぷちまで追い詰められる。その様がたまらなく愉快に映るのだろう。
賢介が満面に纏わせた笑気は、半ば狂人のそれであった。
 フィーナが弄ばれていることに勘付いたレオナは、彼女を庇うようにして賢介と対峙し、その悪辣非道な面を睨み据えた。
仇討ちとばかりに飛び掛ろうとするムルグを中空にて引き止め、胸中へと?き抱くことも忘れない。
力ずくでも抑えておかなければ、彼女は間違いなく賢介を引き裂くだろう。
 殺意に駆られたのはレオナとて同じである。床に放り出したランスを拾い上げ、突き殺してやりたいと言うのが偽らざる本心だが、
今はまだそのときではない。ワヤワヤにまつわる疑義の全てを解き明かしてからでも遅くはない筈だった。

「反乱などと仰いますが、あなたたちがそうなるように仕向けたのでは? 山岡桃太郎――ピーチ・コングロマリットの社長(トップ)は
それくらい平気でやってのけるでしょう? 何より儲けのチャンスを見過ごす人間とは思えません」
「ほう? お連れの殿方とは違い、貴女様はなかなか世の中のことをご存知の様子。社長の商才も有名になったものです」
「コカッ!? コカカカカカッ!?」
「生憎と鳥獣の言葉は存じませんが――そちらの可愛いお嬢さんにお話しした通りでございますよ。
私どもはただの仲介人。今回は連絡を受けて動いたに過ぎません」
「“今回は”――ですか」
「左様でございますとも。“今回は”、ワヤワヤの依頼を引き受けたまでのこと」

 賢介は再三に亘ってワヤワヤの自発的な行動である旨を強調している。
何が起ころうとも自分たちには問われる責任などない。引き入れられた立場に過ぎないと主張したいようだ。
どうやら、この悪趣味な男はフィーナだけでなく同席する村長をも玩具にしていたらしい。
 見れば、ワヤワヤの村長は全身汗みずくとなって震えている。
土地の売買と言う反乱がテムグ・テングリ群狼領の使者に露見したことで激しく焦燥しているのだ。
強面は精一杯の虚勢のようである。
 彼を窮鼠の如く逼迫させたのは、支配する側とされる側の間に横たわる“観念”や、裏切りに対する罪悪感ではない。
無論、それらも含まれているが、直接的に恐怖心を煽り立てたのは、賢介が並べた言葉の数々である。
 声ひとつ出せなくなったこの男には正常な応対は不可能であると見做したのか、それとも、焦燥による消耗を憐れに思ったのか――
ここまで事態を傍観してきた「コクラン」が村長に代わって「犬養さんの言う通りだよ」と答えた。

「あなたがロンギヌスとやらの……」
「ヴィンセント・パーシー・ニューマン・コクランだ。普段は兵器コーディネーターをしている。……尤も、今は他所の部署の手伝い中だがね。
状況が状況だけにどこもかしこも人手不足でね。私のほうから頼み込んだくらいだ」
「人様の土地を掠め取る仕事のサポート――ですか? 寡聞にしてロンギヌス社の仕事ぶりは存じませんので」
「……手厳しいな、あんた。期待に添えなくて申し訳ないが、至って普通に法務部の仕事だよ」

 賢介のように名刺こそ出さないものの、「コクラン」――いや、ヴィンセントは初めて己の素性を完全に明かした。
 『兵器コーディネーター』と言う耳慣れない肩書きから連想し得る職種は極端に少なく、
相方より世情に詳しい筈のレオナですら具体的にどう言った業務へ従事するのかを理解出来ずにいる。
 しかも、現在は法務関係の仕事を補佐していると言うではないか。
兵器と名の付く職務と法律に基づく業務を横断的に実行する点もレオナたちには腑に落ちなかった。
法律書を脇に抱えながら銃を撃つとでも言うのだろうか。
 彼の左胸部にて煌くバッジは、今のところ、一行に何らかの手掛かりを示すこともない。

「……ダイン・オーニクスだ。ヴィンセントのお供とだけ言っておく」

 一連の筋運びから次は自分の順番であると思ったのか、元の位置へとモップを戻していた魁偉は、
困ったように短髪を?きつつ、ダインと言う己の名を控えめに呟いた。出来る限り、皆の注目を集めたくはない様子である。
 自己紹介を終えた途端、「本来の任務だぁ? ああ、殺し屋でもしてんだな。クズの片棒を担ぐてめぇらには似合いだぜ」と、
イーライから根も葉もない罵声が飛び込んできたが、ダインはこれを黙殺した。
取り合うのも馬鹿馬鹿しい言い掛かりには、無視を決め込むのが一番なのだ。
 ヴィンセントもイーライの暴言は相手にしていない。背を擦って村長を宥め、椅子に腰掛けるよう促している。
その間も対峙した者たちから瑠璃色の瞳を逸らすことはなかった。

「私やダインのことはともかく、あんたたちはロンギヌス社のことをどこまで知っている?」
「……軍事メーカーと聞いています。友達があなたの会社の製品を使っているので」
「それなら話は早いか――」

 レオナに代わって既知と返答したフィーナを一瞥したヴィンセントは、次いでスカッド・フリーダムのふたりを右人差し指で示した。

「土地の譲渡はスカッド・フリーダムを経由して打診があったんだ。……私たちロンギヌスは難民支援に関して彼らと提携を結んでいる」
「提携っ!? ちょ、ちょっと待って……いつの間にそんなことにッ!?」
「つい先日のことだ。既にスカッド・フリーダムの総帥とも話をつけてあるのだよ」

 フィーナは我が耳を疑った。スカッド・フリーダムがロンギヌス社とパートナーシップを結んだと言う情報など何処からも入っていなかった。
それはつまり、世界中にネットワークを張り巡らせるジョゼフとてこの事実を掴んではいないと言う証左である。
ハンガイ・オルスに参集した連合軍も、あるいはギルガメシュさえも、両者の提携は知り得ないことだろう。
青天の霹靂としか例えようがない事態なのである。
 本隊より離脱したパトリオット猟班も、この件に関しては一度も言及したことがない。
任務上の都合から秘匿していたのではなく、彼らの離脱後に締結された同盟と言うわけだ。
 どう言った経緯でロンギヌス社とスカッド・フリーダムが結び付きを強めたのかは杳として知れないものの、
目的は「難民支援」で合致しているらしい。Aのエンディニオンに属するロンギヌス社から見れば、
Bのエンディニオンに放り出された難民たちは、皆が同胞(きょうだい)のようなものであった。

「――ピーチ・コングロマリットから相談を持ちかけられたときは驚きましたがね。……と言うよりも、隊内でモメましたよ。
山岡桃太郎の一党を信じるか、否かで真っ二つに割れましてね。そこでパートナーであるロンギヌス社に土地を引き取って貰おうと、
そう言う結論になった次第です。仲介と一口に言っても、今度のケースは些か複雑なんですよ」

 ヴィンセントの言葉を引き継いだのは、同盟締結前に離脱したジャーメインを「バロッサ家の恥」とまで切り捨てたビクトーである。

「そちらの世界のどなたかにお譲りしようと考えておりましたので、商談相手を見繕う手間が省けてこちらは大助かりです。
……ああ、説明が前後しましたね。ワヤワヤの土地は村長さんから話を貰った時点で私どもが買い上げておりましたよ」

 ビクトーからバトンを受け取る形でピーチ・コングロマリットの役割を詳らかにする賢介であるが、
大方の予想通り、そのやり口は悪意に満ち満ちており、フィーナたちは揃って顔を顰めた。
 賢介の身を庇っていたダインまでもが苦々しく瞑目しているではないか。
社の意向はともかくとして、彼自身はピーチ・コングロマリットのことを好ましく思ってはいないようだ。
 難民支援を目的としたロンギヌス社とスカッド・フリーダムの連携を逸早く察知し、“稼ぎの場”を提供したとも賢介は言い添えている。
如何なる手段を用いたとも知れないが、ビジネスに関しては世界中の誰よりも鼻が利くらしい。

「ワタクシドモガカイアゲテオリマシタじゃねーんだよッ! そこがふざけてるっつってんだろうが! 根本的にッ! 
なんでエルンストの土地を勝手に売り買いしてやがんだッ!? 何度も言わすなや、タコスケッ!」

 無論、これはテムグ・テングリ群狼領の使者を納得させられるような説明ではない。
売買契約に携わった者たちの役割を明らかにしたところで何がどうなると言うのか。
周囲の煽動も大問題ではあったが、最大の焦点は土地の譲渡そのものである。
それはつまり、ワヤワヤの叛意の是非にも通じることであった。
 ひとつとして得心の行かなかったイーライが床を蹴飛ばして怒号するのも無理からぬ話であろう。
 真正面から激烈な罵倒を浴びせられる賢介であったが、悪びれるどころか、
「エルンスト氏の土地でございますか……」などと失笑を漏らす程に図太かった。

「先程も申し上げたではありませんか。今のテムグ・テングリ群狼領にはアリ一匹の値打ちもありません。
そのような負け犬のどこに支配力があると言うのですか? 反論するからには根拠をお持ちなのでしょうね?」
「てめぇらがそう言ってるだけだろうが! くそみてぇな物差しで――」
「――それは違う。ワヤワヤを支配する権利などテムグ・テングリは最初から持っていなかった」

 ピーチ・コングロマリットを諸悪の根源として捉え、逆巻く憤激を賢介にぶつけようとするイーライを遮ったのは、
横から割って入ったヴィンセントの一声である。
 呆気に取られて固まったイーライへと歩みを進めつつ、「法的な根拠もなく誰かを縛り付けることは誰にも許されない」と、
ヴィンセントは畳み掛けるようにして自身の論を重ねていく。

「テムグ・テングリ群狼領の統治方法については既に調べがついている。言い逃れは見苦しいぞ。
……それがキミたちの本来のやり方と言うのなら、話は別だがね」
「なんだ、てめーは! 奥歯に物が挟まったような言い方、やめやがれッ!」
「ここは法律に沿って治められた土地ではないと言っているッ!」

 気魄漲るヴィンセントの一喝は、不良冒険者として数多の死線を潜り抜けてきた筈のイーライをも圧倒した。
 パートナーが気圧される様をレオナは生まれて初めて目の当たりにしていた。
確かに腹の底から搾り出すような大音声ではあった。しかし、それだけで後退る程、イーライの胆力は脆くないのだ。
 ヴィンセントと言う男は、その気魄の競り合いに於いてイーライを圧したのである。
彼が身の裡より発する“巨(おお)きさ”とは、実際に相対した者にしか計ることは出来ないだろう。

「スカッド・フリーダムから数多くの資料を見せてもらったよ――テムグ・テングリ群狼領、成る程、こちらの世界では最強のようだな。
……だが、邪悪そのものだ。世界統一と言えば聞こえは良いが、暴力に物を言わせて縄張りを主張しているだけに過ぎない。
ワヤワヤを治める法的根拠はどこにも存在しないんだよ」
「ざけんなッ! 勝ったもんが良いトコを取る! そうでなけりゃ、このクサれた世の中なんざ渡っていけねーだろがッ! 
弱ぇヤツから喰われちまうんだよッ!」
「暴力を正当化するなッ! 俺に言わせれば、お前たちはマフィア以下のチンピラだッ!」
「てめえ、コラッ! 誰がチンピラだぁッ!?」
「僕らはともかくキミはチンピラに間違われても仕方ないだろ。自分の顔を鏡で見てきなよ」
「だ、黙ってろ、ゴミ拾い屋ァッ!」

 イーライを相手に丁々発止の舌戦を繰り広げる内にヴィンセント自身も相当に白熱してきたようだ。
いつしか、一人称が「私」から「俺」へと変わっている。これに連動してか、言葉遣いまでもが形式張ったものではなくなっていた。
一言で表すならば、「野趣」である。努めてビジネスライクに振る舞ってきたが、これこそが素の部分であるらしい。
 段々と発言が過激になってきたヴィンセントのことをダインは困り顔で見守っていた。
賢介の前言からも推察される通り、彼に課せられた任務はヴィンセントの身辺警護である。
 論客としてのヴィンセントは確かに凄まじいものがある。イーライ相手にも互角の勝負を演じる程に気骨も逞しかったが、
その半面、直接的な戦闘能力は皆無に等しく、身の安全を確保してくれる随伴者が不可欠なのだ。
 詰襟に天秤のバッジを持つこの兵器コーディネーターがロンギヌス社にとって欠くべからざる逸材であることはダインにも異論はない。
だが、ヴィンセントのほうからイーライの怒りを煽っているとすれば、事情(はなし)は些か変わってくる。
身を呈してこの逸材を守るべきか。はたまた、無用の諍いを防ぐべく腹に拳でも入れて黙らせたほうが良いのか――
どうにも判断に迷うのである。
 何しろ今は大事な商談の最中だ。迂闊な手出しで難民支援を妨げる事態だけはダインとしても避けたかった。
 そんなダインの気苦労を知ってか知らずしてか、ヴィンセントの舌鋒は秒を刻む毎に鋭くなっていく。

「お前たち、テムグ・テングリが法的根拠を示せない以上、ワヤワヤの土地はワヤワヤの住民だけの物だ。
それをどうしようが、この人たちの勝手じゃないか? 全ての権利はテムグ・テングリではなくこの人たちにあるッ!」

 弁論では一歩遅れを取るイーライは、吼え声を上げた当初の勢いがすっかり失われてしまい、歯噛みする回数ばかりが増え続けていた。
テムグ・テングリ群狼領を――エルンストを無知なアウトローのように罵られては、報復の刃を振りかざすわけにも行かない。
ここで短慮を働くと言うことは、ヴィンセントの心ない批難を認めることにも等しいのだ。
 甚だしく劣勢に立たされたイーライへ同情したのか、それとも別の思惑があるのか、
ゴミ拾い屋と面罵されて以来、物言わず事態を見守っていたネイサンが「異議あり」と口を挟んだ。
わざと芝居がかった調子で挙手したのは、法の所在を論じるヴィンセントを意識してのことだろう。

「法的根拠ならテムグ・テングリにもあるんじゃないかな。ちゃんとしたルールに則って領地を治めているんだよ? 
力任せに押さえつけるなんて真似はしていなかったハズだ。アル――あ、いや、友達に法律に詳しいのがいるんだけどさ、
そいつも特に何も言っていなかったし。……大体さ、本当の悪政だとしたらギルガメシュとの戦いなんか関係なく、
もっと早くに反乱が起きていたんじゃないかな」

 テムグ・テングリ群狼領の統治が善政であったと主張するネイサンの一言一言にワヤワヤの村長は肩を震わせている。
叛意を膨らませた身ではあるものの、裏切りに対する葛藤だけは今なお続いていたようだ。
 これを見て取った賢介が、「身の丈に合った」などと愉悦混じりの嘲りを呟いたのは言うまでもない。
 ネイサンからの援護射撃をイーライやレオナは複雑な面持ちで受け止め、他方のヴィンセントは彼の唱えた異議にも反論を叩き付けた。

「お前が言っているのはテムグ・テングリ群狼領が勝手に作った規則だ。そんなものは法的根拠とは言い難い。
せいぜい訴訟の際に証拠物件になる程度だよ」
「そんな会社の就業規則みたいな言い方ってあるかい。一応、領内では通じていたんだけど……」
「仮に強制力があったとしても、その規則は間もなく失効される」
「ちょっと飛躍し過ぎじゃない? 何でそんなことになるのさ。テムグ・テングリが解体されるって言いたいのかい?」
「平たく言えば、そう言うことだ。……エルンスト・ドルジ・パラッシュはギルガメシュの前に敗れた――これが論拠だよ」

 再び両帝会戦での敗北を論ったヴィンセントは、次いでネイサンの正面まで歩み寄り、その鼻先へと自身の右人差し指を突き出した。
それも、詰襟の上着とワイシャツが擦れて音を立てる程の勢いである。

「お前は法律の何たるかを判ってない。お前だけじゃない、テムグ・テングリ群狼領の誰も何も判っちゃいない。
徹底的に壊れた国は、元ある法律が何の意味もなさなくなるんだ。……誰かの思いつきや社会の情勢で善悪の定義まで変わる。
そんなのは法律とは認めない」
「……クニ……?」

 Bのエンディニオンが持たざる『国』と言う概念の前に戸惑うネイサンだったが、ヴィンセントの弁論は彼を置き去りにして加速していく。

「例え話をしよう――あるところに途方もない資産家がいたとしよう。その男は湯水のように金を使って市場を潤し、
また様々な事業にも積極的に出資して経済を回転させていた。良かれ悪しかれ散在王とも呼ばれるような男とイメージしてくれ」
「羨ましい話だけど、随分と不名誉なニックネームだね。当てはまりそうなのがグドゥーにいたっけ……」
「ところが、その国でクーデターが起こり、旧来の行政は悉く否定され、質素倹約を旨とする法律が布かれた。
クーデターを起こしたのは貧民層。発端は上流階級への不満。……さて、その後、散在王はどうなったか?」
「……罪に問われたと言うわけかい」
「ご明察。国を腐敗させた張本人として散在王は公開処刑。自分ではなく国の為に金を惜しまず投入した篤志の人間にしては、
あまりにも惨めな末路だな。旧来の法律で許されていたことがいきなりひっくり返った」
「それと同じことが起きると言うつもりか? 徹底的に壊れた場合に……」
「何かの権威に依拠したり、状況によって捻じ曲げられる規則なんてのは脆くて弱いって言ってるんだ! 
いいか? 暴力に基づく規則は、その根拠となる権威が崩れたとき、多くの人生を破滅に追い込む。権力者の失脚だけで済むと思うなよ!」

 相当に極端な例ではあるものの、ヴィンセントが語った内容(こと)は、テムグ・テングリ群狼領が迎えるだろう近い将来を
冷徹なまでに暗示していた。
 主将の立場で連合軍を率いてギルガメシュと戦ったテムグ・テングリ群狼領は、
どのような形で降伏したとしても最大の戦犯として勝者から断罪され、多くの血を流すことになるだろう。
即ち、ヴィンセントの語った「徹底的に壊される」と言う事態である。その先に待つのは、旧来の規則の崩壊でもあった。
 全く覇権を握ったギルガメシュは、Bのエンディニオンを統率していく為に必ずや新たな規則を敷く。
戦争に勝利した側にとって都合の良い法律を、だ。
 天秤の徽章を付け、『万国公法』なる書物をも応接間に持ち込んでいるヴィンセントは、つまりそのことを並べ立てたのである。
ハンガイ・オルスで行われている会談次第では、その到来は一層早まるかも知れない。

「今、世界は“強い法”によって生まれ変わらなければならない! 誰にでも平等な法律で!」

 ネイサンと対峙しながら法律の有様(ありよう)を熱弁し続けるヴィンセントに対し、例えようのない複雑な眼差しをぶつけるフィーナは、
心に靄が掛かっていくのを感じていた。
 発奮して法を論じるヴィンセントは、弁護士を夢見てきたアルフレッドにどこか重なるのだ。
 幼い頃に彼女が空想した未来のアルフレッドは、弁護士と言う身分を表す徽章にて厳しい背広を飾り、
その輝きを以って弱き者の為に戦っていた。「法律は力弱い人々の為にあるのだ」と教えてくれたのは、他ならぬ彼なのである。
もしも、幼少からの夢を叶えて法廷に立っていたなら、ヴィンセントのように法律を武器とする勇姿を見せてくれたに違いない。

(……アル、教えて――法律は誰の為にあるの……?)

 ただし、アルフレッドとヴィンセントには決定的な違いがあった。
 フィーナにとって最愛の弁護士志望は弱い者を守る為に法律があると語ってきた。
対するヴィンセントはテムグ・テングリ群狼領を追い詰める為に法律を利用している。
 今や、「法律」の二文字は砲弾よりも遥かに恐ろしい脅威と化してフィーナたちを追い詰めていた。

「強い法って、何ですか。法律に強いも弱いもあるんですか――」
「――ある!」

 小声で呟いたフィーナに向かってヴィンセントは勇ましさすら感じる大声を轟かせた。

「何物にも揺るがし難い法理(ことわり)はここにあるッ!」

 言うや、机に駆け寄ったヴィンセントは自身が置いた分厚い書物を取り上げ、フィーナに向けて翳して見せた。
表紙を金属のプレートで装飾した辞典である。そこには彼の詰襟にて煌く徽章と同じ天秤の意匠が刻印されている。

「即ち、『万国公法』。国際法と言う呼称(いいかた)もあるがな」
「いえ、バンコクコウホウといきなり言われても、全然意味が解りませんが……」
「知らずともイマジネーションの世界で補えるでしょう? “公法”とは、全世界で起こる出来事へ当てはめる法律のことですよ」

 慇懃なようで誠実さの欠片もない物言いにて口を挟んだのは賢介である。
ヴィンセントとフィーナは同時に表情を曇らせたのだが、彼はそれを厭味な笑顔で黙殺し、
「これ程、合理的なことは聞いたことがございません」と勝手に話を続けていく。

「いやはや、私も初めてその概要を伺ったときは目から鱗でした。我が社長などその手があったかと膝を叩いたものです」

 賢介の口から飛び出す弁は一切信用ならない為、フィーナは成否を確かめようとヴィンセントへと目を転じる。
 無言で答え合わせを求められた彼は、静かに徐に、けれども力強く頷いて見せた。
下卑た物言いはともかくとして賢介が語る『万国公法』の基本原理に間違いはなかったのである。

 しかし、当のフィーナは全世界で共有し得る法律など見たことも聞いたこともない。
アウトローの勃興によって効力を失いつつあるものの、Bのエンディニオンにも法律は存在している。
無論、テムグ・テングリ群狼領が布いた独自の物ではなく、公に定められた法律である。
 しかし、その委細は町村ごとに大きく違っていた。ある村で罪に問われないことが、別の町では死罰を適用されると言ったケースも
決して少なくはなかった。こうした差異にも対応出来るよう弁護士は広い範囲で法律を網羅しなければならなかったのだ。
 全世界で共有し得るような統一された法律が実在するならば、あるいは真の意味で平等であると言えるだろう。
それがAのエンディニオンには在るとヴィンセントは提示したわけである。これこそが『万国公法』と呼ばれるものであった。
 これに基づいて彼は話を進めようとしているのだが、Aのエンディニオンで効力を発揮した万国公法と雖も、
地平を異にするBのエンディニオンへ必ずしも適合するとは限るまい。
 そもそも、誰が万国公法の執行に対する根拠を与えると言うのか。町村ごとに定められた法律が有効範囲を外れた瞬間に失効し、
通用しなくなることと全く同じである。
 統一された規則と言う点では、先程否定されたテムグ・テングリ群狼領のそれが万国公法に近いのかも知れない。
だとすれば、これにも勝る皮肉な話も他にはあるまい。

「異世界の万国公法が私たちの世界に当て嵌まるとは思えない――そうお考えではありませんか?」

 賢介に内心を言い当てられたフィーナは、忽ち生理的な嫌悪感に身悶えた。
他者を貶していなければ気が済まないとでも言いたげな薄ら笑いには、戦慄にも似た寒気を感じている。

「それが通じるのですよ。正確にはこれから通じるようになります」

 「我々が――いえ、貴女がたの置かれた状況を振り返ってくださいませ」と、賢介は謎々でも愉しむかのようにフィーナへと笑い掛けた。
この笑い声とて彼女に身の毛が逆立つような怖気を走らせるものでしかない。

「戦いに負けたほうは、勝ったほうの言うことを聞くものだと、……そう言いたいのですか」
「聡明で結構。戦争の結果のひとつでございますな」
「黙って聞いてりゃ好き勝手抜かしてんじゃねーぞッ! 俺たちはまだ負けちゃいねぇッ! たった一回、やられただけじゃねぇかッ!」

 「異なる世界の法律でも受け入れてしまえば、案外、使い易いものでございます」と賢介が語った直度、イーライの怒号が割って入った。
 確かにギルガメシュへ降伏する作戦(こと)にはなっている。だが、それは将来的な逆転を期しての秘策であり、
本当に敗北を認めると言うものではない。最後に勝つ為の雌伏と例えても差し支えはあるまい。
 降伏の一件もハンガイ・オルス内部に留められており、対外的には連合軍は両帝会戦で一度敗れたのみである。
劣勢は否めないものの、その芯までは折られていない――少なくとも、反ギルガメシュを掲げる将士の中に
完全敗北と言明した者はいない筈である。
 それにも関わらず、賢介は心底から敗者として相手に恭順しようとしている。
ギルガメシュではなく、彼らの根拠地とも言うべきAのエンディニオン全体に対して、だ。今し方の発言はそのようにしか聞こえなかった。

「剛毅な御方ですねぇ。それでは、お伺いしましょう。今までと同じように万事を勧められるとお思いですか?」

 「いい加減にしてくれないと、こちらも責任を持てないぞ」と言うダインの戒めを聞こえない素振りでやり過ごした賢介は、
再びイーライと正面切って対峙した。
 ガラスのラックに陳列されたワインやブランデーが窓より差す光を吸い込み、賢介の足元へ不可思議な模様を投射している。
万華鏡とも斑模様とも取れる光の乱舞は、大地に混沌の渦を描いているようにも思えた。

「エンディニオンは変わったのです。異世界から難民が押し寄せ、間髪を容れずにギルガメシュはルナゲイトを陥落せしめ、
とうとう頼みの綱のエルンスト・ドルジ・パラッシュまでもが敗れた。ここまで負けが立て込んでもなお何も変わらないと、
どうして断言出来るのか、その論拠をお訊かせ願えませんか。私のような凡人にも理解できるように、どうか――」
「――あんたたちのエンディニオンだけじゃない。俺たちのエンディニオンだって変わっちまったんだ。
何の因果か、ふたつのエンディニオンが接したとき、もう後戻りは出来なくなった。……その理屈だったら解るだろ!?」

 世界は変わった――賢介の発言を継ぐようにしてヴィンセントもこれを繰り返した。
 尤も、これは賢介に対する援護射撃などではなく、執拗にイーライを追い詰めようとする彼に口を噤ませる為の策であった。
ヴィンセントもフィーナや他の面々と同様に賢介の不調法には辟易しているのだ。

「あんたたちも俺たちも、もう同じ場所にはいられない。時代がそれを許しちゃくれねぇんだ! 腹括るしかないだろ!?」

 ヴィンセントのその一言は余りにも衝撃が大きく、フィーナを始めとするテムグ・テングリ群狼領の使者は誰も口を開けない。
 頭を振って気を取り直したネイサンが「万国公法なんて言うけどさ――」と切り出すまでに数分もの沈黙が続いた程である。

「それって、こちらのエンディニオンをあなたたちの都合よく作り変えるってだけじゃないのかい? 
負け犬は負け犬らしくしおらしくしろって、そこの性格悪そーなおっさんは言ってるけど、結局、テムグ・テングリと一緒じゃないか。
変わったのは立場だけだよ。騎馬軍団と万国公法とやらが入れ替わっただけさ」
「何度でも説明するぞ。法律と暴力を切り離して考えられるようになるまでな。……それに俺たちも正義の味方になる気はない。
第一、そんな暇なんかない。絵空事の正義じゃ何も救えねぇからな」
「侵略と大差ねぇな。ええ、正義が聞いて呆れるぜ」

 ネイサンに後続したイーライの皮肉は、ヴィンセントではなくビクトーとホドリゴに向けられている。
 テムグ・テングリ群狼領の版図拡大を認めなかったスカッド・フリーダムが、義の戦士が、どうしてロンギヌス社の「侵略」を許すのか。
「提携」の一言で説明を済まされてもイーライには納得が行かなかった。
 弁解に動かんとするホドリゴを制したビクトーは、イーライと彼の仲間たちを順繰りに睥睨した後、
絵空事の正義では犠牲を増やすばかりと、ヴィンセントの前言を反復した。

「ロンギヌス社は現実の問題として生命を救おうと奔走しています。誰かが行動しなければ失われる生命です。
今のスカッド・フリーダムには、それが最優先。生命を軽んじることは義に悖るのですから」
「わしらぁの第一義は誰かに勝つことではないがぜよ。誰であろうとピンチに駆けつけて助けることじゃき。
悪者退治はその後からでも間に合うからの」

 ビクトーとホドリゴの弁が意味するところは、ロンギヌス社との間で提携を結んだ難民支援であろう。
それにしては含みを持たせた言い方であったが、頭に血が上っているイーライはまるで聞く耳を持たず、
「柔軟性に富んでるじゃねーか。羨ましいったらありゃしねーぜ、そのアタマ」と痛烈な皮肉を飛ばしている。
 「間もなく訪れる新時代は、フレキシブルでなくては生きてはいけないものですよ」と
皮肉の上乗せでイーライをいたぶる賢介であったが、これはヴィンセントによってすぐさま遮られた。
万国公法が記された法律書をイーライにも翳して見せたのである。
 物理的にイーライとの接触を遮断されては、如何に論客の賢介と雖も黙るしかない。

「ロンギヌスは正式な手続きに則ってワヤワヤの土地を取引した。繰り返すが、暴力で押さえつけるつもりはない。
第一、俺たちは土地の所有権を得ただけだよ。村を治めるのはこれまで通りにワヤワヤの人たちだ」
「暴力暴力うるせぇな! そう言う自治だってテムグ・テングリと一緒だっつってんだろうが! 
すり替えんなや! カッコつけてんじゃねぇッ!」
「――ただし! 難民の受け入れを自治の条件にさせてもらったッ!」

 聞き分けのない子供のように食い下がるイーライを抑え込もうと言うのか、ヴィンセントはまたしても大音声を張り上げ、
ロンギヌス社が講じる難民支援の具体案をひとつ明かして見せた。

「自治は認めるが、買い取った土地の有効活用はこちらが主導させてもらう。手始めに再整備。然る後に難民用の居住空間を確保する。
その為ならロンギヌスは幾らでも出資するつもりだ。勿論、ワヤワヤ側の負担も全てこちらで受け持つ。
不都合が生じたときには報償も支払おう」
「ただの買収じゃねぇかッ! 札束でワヤワヤの連中を引っぱたいたってことか!」
「世界が変わるのと同じように人も変わっていくッ! 生まれ変わるってのは、そう言うことだッ!」

 金で釣られたのかとワヤワヤの村長に食って掛かろうとしたイーライの肩を掴み、その場に押し止めたヴィンセントは、
瑠璃色の双眸でもって彼の気魄を射抜いた。
 その瞳には真摯なる信念(たましい)が燃え盛っている。己が傷付くことも厭わず大望へと邁進するアルフレッドと同じ光を宿していた。
 買収と言う手段はピーチ・コングリマリットと同じであり、イーライにとっては虫唾の走るような行為である。
だが、賢介が全身に帯びるような邪気をヴィンセントは持ち合わせていない。手段の是非はともかくとして、彼はあくまでも正大であろうとしている。
 今もハンガイ・オルスにて戦っているだろう友の面影をヴィンセントに見てしまったイーライは、
それ以上、異論を挟むことが出来なくなってしまった。

「人間って生き物は絶対に小さくなんかねぇ! 一所で親しく交わり、苦楽を分かち合えば、
『ふたつのエンディニン』なんて言うちょろくせぇ垣根だって吹っ飛ばせる! 
……その為なんだよ! 誰にもでも平等な万国公法は必ず新しい世界の役に立てるッ!」

 ふたつのエンディニオンと言う垣根を乗り越える――ヴィンセントのその言葉にフィーナの心は激しく揺さぶられた。
 奇妙な出会いから始まった異なるエンディニオンとの関わりは、彼女たちに数多の出会いと絆を教えてくれたのである。
最も身近にあるのはアルバトロス・カンパニーとの友情だ。ニコラスもボスたちも心から信頼し合える友人であり、
そこに「異世界の人間同士」と言う躊躇や蟠りが割り込む余地はない。
熱砂の合戦で邂逅したエトランジェのことも決して忘れてはいない。いつかの再会を心待ちにもしている。
 生まれ育った世界は全く異なっていようとも、立場を違えて離ればなれになろうとも、絆を結ぶことは決して難しくはない。
「人間って生き物は絶対に小さくなんかねぇ」と言うヴィンセントの吼え声は、まさに正鵠を射たものなのだ。
そのことを誰よりも理解し、実感しているのは他ならぬフィーナたちであった。
 「民族浄化は有効な手ですからね」と言う賢介の下卑た冷やかしは誰の耳にも聞こえていない。

「これがロンギヌス社の言う現実的な救済です。我々の義と大きくかけ離れてはいません」

 だからこそ、スカッド・フリーダムは異世界の企業との提携を決断したのだとビクトーは言い添えた。
 イーライと一緒になってヴィンセントらと論戦を交えていたネイサンも、ここに至って反撃の勢いをすっかり削がれてしまっている。
それどころか、狼狽の色すら面に滲ませており、「汚いよ、ホント……」と小さく呟くのが精一杯の抵抗であった。

「ギルガメシュが大勝して、こっちが弱まったところで買収だろ? やり方だって禿鷹みたいにえげつないけどさ、
それ以上に、あんたたちは汚いよ。勝ち馬に乗るにしたって、よりにもよってテロ組織なんてさ……。
あんたがボロクソに言った暴力の塊みたいなもんだよ、あいつらは。それを利用するなんて矛盾してると思わないのかい?」
「……思うさ。俺たちのやり方は確かに悪徳かもしれない。ご指摘の通り、どこもかしこも矛盾だらけだ」
「それなのに、どうして……」
「安全地帯からヤジを飛ばすつもりはないってことだ。どんなに汚くとも構いやしない。
俺たちは俺たちのやり方で世界を変える。救われるべき命に手を差し伸べていくッ!」

 ヴィンセントから迸る決意に呼応し、ダインは静かに、しかし、何よりも力強く頷いた。

「世界を変えていくって――まさか、他の村も買い占めるつもりなんですか!?」
「――ふたつのエンディニオンが生まれ変わる為の出発点にさせて貰うつもりだよ。
必要ならばロンギヌスの営業所なり工場なりを建設しよう。併せて、地域の開発にも全力を注ぐ。
仕事を共にすることで初めて認め合えるものだってある筈だ」
「それは否定しませんけど、……でも――」

 ロンギヌス社が試みているのは、即ち世界規模で相互理解を促進させようと言う働きかけである。
フィーナたちがアルバトロス・カンパニーやエトランジェと結び、育んできた絆の在り方をヴィンセントとダインは――
いや、ロンギヌス社は社会の仕組みとして達成しようとしているわけだ。
 ロンギヌス社の大望自体に誤りはない。ふたつのエンディニオンは手を取り合って進むべきと言う考えにも大いに共感出来る。
ただ、フィーナにはひとつだけどうしても気に掛かることがあった。それが心の深い場所へ棘のように突き刺さって痛みを訴え、
ヴィンセントたちを同志として認めることを思い留まらせるのだ。

(――誰かに手を差し伸べるのは自分自身だよ。無理矢理引っ張られて握手しろって言われて……それで心が通い合うの……!?)

(でも、誰かに押し付けられたことを平気で受け入れられるの? 絆って言うのは自分たちの意思で結ぶものだよ)

 果たして、相互理解の構図を社会の仕組みとして意図的に築くことが本当に正しい選択なのか、フィーナには判断がつかなかった。
ニコラスを始めとするAのエンディニオンの人々と自分たちとの間に結ばれた絆とは、決して誰かに強いられたものではない。
自らの意思で彼らを友と認めたのである。
 自分以外の何者かに押し付けられる形で関係性を作ったからと言って、それが相互理解の萌芽になるとはどうしても思えなかった。
ヴィンセントが気高い志を秘めていることは解ったものの、ロンギヌス社のお膳立てが却ってふたつのエンディニオンの間に
軋轢を生むのではないかと言う不安のほうが遥かに大きい。

「買い占めると言うのは聞こえが悪いのだが――ワヤワヤや他の村を先んじてロンギヌス名義にしておけば、
ギルガメシュも迂闊には手出しが出来なくなると思う。実態は怪しいものだが、一応、奴らは難民保護を謳っている。
自分たちの同胞が買い取った土地を脅かせば、それはギルガメシュの理念を否定することと同じだろう?」
「は、はぁ……」

 志は別として買収と言う行為そのものに難色を示していると思ったのだろう。
ロンギヌス社が土地を買い取ることで得られるメリットについてダインはフィーナに言い諭していく。
 そのようなことを一度も思料していなかったフィーナは、どう反応を返せば良いものかと困った挙げ句、
曖昧に相槌を打つばかりとなってしまった。口から滑り落ちるのも生返事のみである。
 他方ではビクトーとホドリゴが感心したように深々と首肯している。
 Aのエンディニオンを代表するロンギヌス社が買収したとあれば、ギルガメシュはワヤワヤへ足を踏み入れることさえ出来なくなる。
重要な拠点となり得るとしても、だ。ダインの弁ではないが、銃を突き付けて作物の接収など図ろうものなら、
ギルガメシュは自らの大義を撤回しなければならなくなるだろう。Aのエンディニオンの名義となった土地に対する侵略とは、
即ち、守るべき難民を害することと同義であるからだ。
 ギルガメシュの裏を?いたとも言うべき妙策へ反対する理由などスカッド・フリーダムにあろう筈もない。

「ここまでエンディニオンの未来を考える彼らの義を切り捨てられますか? 背中を預け合うのにこれ以上の理由はいらない」
「ギルガメシュが何をしゆう? 難民を保護するち言うても、やっちょることは方々襲って戦争じゃき。
口先だけに見えるではないかえ。そこがロンギヌス社との違いぜよ」

 居た堪れなくなって身じろぎするフィーナに対し、ビクトーはスカッド・フリーダムがロンギヌス社との提携に踏み切った最大の要因を明かしていく。
そこに在るのは、やはり義の心。世界を、人を思う心を以って相通じた次第である。
 果てしなく真っ直ぐな義の心ではあるものの、筋運びを傍観してきたレオナの目には、その潔癖な精神性が危うく思えてならなかった。
彼女とてロンギヌス社の行動に大きな間違いがあるとは考えていない。無論、ピーチ・コングロマリットのやり方は腹立たしいが、
それさえ除けば、難民支援に向けた具体的なビジョンやギルガメシュの介入を封じ込める手立てなど評価にも値する。
 買収に憤るイーライやネイサン、フィーナの手前と言うこともあり、声に出して賞賛することは叶わないものの、
合理性に富む戦略は認めざるを得ない。彼らはまさしく「現実の問題」として難民の支援に励んでいるのだ。
 奇抜にも程がある妙策を何より強く後押ししているのは、スカッド・フリーダムと言う誉れ高き“名声”であった。
この場合、名声は「保証の仮託」と言い換えられるかも知れない。
 ロンギヌス社はAのエンディニオンでも最大規模の企業である。この事実に間違いはない。
だが、Bのエンディニオンの人間にとっては得体の知れない“成金”でしかなかった。
泣きついた先であるピーチ・コングロマリットが仲介を受け持ったとは雖も、
土地を譲るに当たってこれ程までに信用の置けない相手もいないことだろう。
 そこで重大な意味を持つのがスカッド・フリーダムとの提携である。
正体不明としか言いようのない異世界の企業に義の戦士が寄り添っていると認識すれば心証は一変するのだ。
 Bのエンディニオンの人間たちは、彼らスカッド・フリーダムが外道に与するとは決して思わない。
愚直なまでに正道を歩み続ける義の戦士が同盟を結ぶからには、ロンギヌス社もまた良心的な企業なのだろう――
これこそが「保証の仮託」の正体であった。スカッド・フリーダムが与する者を無条件で安全安心と信じ込んでしまうのである。
 一種の刷り込みと言うわけだ。義の戦士が認めるロンギヌス社の行為も衆目には善として映る。
スカッド・フリーダムか、ロンギヌス社か。どちらが先に提携を持ちかけたのかはレオナには知る術もなかったが、
極めて危うい状況であることに変わりはない。ともすれば、ロンギヌス社はBのエンディニオンに於いても思うが侭に振る舞い、
これをスカッド・フリーダムによる「保証の仮託」で許されてしまうのだ。
 おそらくヴィンセントもダインも信用に足る人物であろう。買収によって利益を貪ろうとする悪意も、
これを巧妙に隠蔽する下卑た作為も、今のところは微塵も感じられなかった――が、巨大組織とは様々な思惑の上に成り立つものである。
彼らの意志や権限を超越した上層部(ところ)で無慈悲な決定が為されぬとも限らない。
 あるいは、ヴィンセント自身が口にした「誰かの思いつきや社会の情勢で善悪の定義まで変わる」と言う悪夢の如き筋運びが
断行されるかも知れないのである。

「ギルガメシュと連合軍の戦争を全て否定する気はない。あんたたちにも戦う理由はあるだろう。
……だが、奴らを根絶やしにするまでにどれだけの犠牲が出ると思う? あと何人殺したら、あんたたちの目的は達成されるんだ」

 万国公法が記された法律書を左脇に抱えたヴィンセントは、右の人差し指を突き出しながらフィーナに質した。
あたかもその様は、辣腕なる弁護士が証人喚問に立つ姿と酷似している。

「これは『戦死者』の問題じゃない。『戦災者』の問題だ。そして、俺たちの世界の――難民の問題でもある。
戦いが長引けば長引く程に膨らむ犠牲の全てに、あんたたちは責任を取れるのか? 
……戦争に費やす時間と力で救える生命は星の数ほどある。本当なら救えた筈の犠牲を、俺は絶対に許さない」
「……それは……」

 争乱の渦中へ身を置く者にとって永遠の命題――戦災の拡大を正面から突きつけられたフィーナであったが、
ロンギヌス社のように現実に即した具体案を示すことがどうしても出来なかった。
それどころか、ヴィンセントが指摘した事柄など最初から思料していなかったと言うべきであろう。
 己の浅慮をフィーナは心底より悔いた。彼女が引き受ける責任は、合戦場にて相見(まみ)え、生命を奪い合う相手に終始している。
自分の肉体がいくら損傷されても、血と罪に穢れても、矛盾を謗られようとも、暴力の連鎖を断ち切る為に敢えて鉄火を取る――
それもまた高潔にして鉄の意志であろうが、翻れば一兵卒としての意識しか持ち合わせていないと言うことでもあった。
 合戦場より外のことはアルフレッドやエルンストと言ったキーパーソンに委ね、彼らの作った流れに従うのみであったと、
フィーナは初めて悟ったのである。

(……そんな力、私には――)

 本当の意味で戦争に向き合っていたのかと問われれば、今のフィーナには答えようがなかった。
戦う以外には暴力の連鎖を断ち切る手立ても考え付かない。そのような自分に絶望すら覚えていた。
 ヴィンセントより浴びせられた批難は、その全てがフィーナ・ライアンと言う人間の愚昧を暴いている――
そこまで思い詰める程に彼女は打ちのめされていた。

「――解るわけないだろ、こんな連中に。ワヤワヤのことなんぞ、お前らは虫けらのようにしか思っていないだろ」

 満面より生気が失せたフィーナへ追い討ちを掛けたのは、戦災の憂慮を訴えたヴィンセントでも、性根が腐りきった賢介でもなく、
これまで論戦に加わってこなかった者である。
 ワヤワヤの村長だ。先ほどのヴィンセントの言葉を継ぐようにして、彼は旧主とも言うべきテムグ・テングリ群狼領を謗った。
双眸は死んだ魚のように昏(くら)く、半ば自棄になっているようにも見て取れた。

「……今、なんつった? 今、なんつったんだよ、てめぇッ!?」

 激昂したイーライは村長の胸倉を掴み上げ、天井を揺るがす程の怒鳴り声を張り上げた。
 ムルグを懐中より解き放ったレオナは、両者を引き剥がそうと慌てて手を伸ばした。
このままでは最悪の事態にまで発展すると判断し、ダインやホドリゴも加勢に入ったが、
ふたりがかりで羽交い絞めにしてもイーライを食い止めることは叶わなかった。
 余人の介入すら跳ね除ける程の怒りに彼は衝き動かされていた。
 ただでさえいかつい面構えのイーライから凄まれ、萎縮でもしていたなら事態が拗れることはなかったのだが、
ワヤワヤの村長はその面に自嘲の笑みを浮かべており、これが怒りの炎へ油を注いでしまった。

「……なら、あんたらにワヤワヤの何が分かるって言うんだ? 支配される側の何が……」

 罅割れる程に乾燥した口でワヤワヤの真意をぽつりぽつりと打ち明けていく村長であったが、その態度もやはり捨て鉢であった。

「ようやく何かに従って暮らすことに慣れたと言うのに、それなのにテムグ・テングリはギルガメシュに敗れた。
ワヤワヤを支配する者はいなくなった。しかし、それでどうなる? 我々を支配するものはなくなった――が、
我らを守ってくれるものもなくなったんだ」
「依存してただけじゃねーか、エルンストのオッサンによッ! そんで今度はギルガメシュにブルッちまったってわけか! 手前ェ勝手をほざくんじゃねぇッ!」
「ほら見ろ、やっぱりあんたには何も分からない。暴力を振るう側には分からなくて当たり前だ」

 生身の感情を剥き出しにするイーライへ嘲笑をひとつ飛ばしたワヤワヤの村長は、次いで彼の胸を右の掌で突き押した。
テムグ・テングリ群狼領との決裂を暗示するかのように、強く強く押し続けた。

「あんたに何が分かるんだ? 雇われ者の分際で。自分たちの力で独立することもできないヘンピな村が生き残るには、
長いもんに巻かれるしかないんだよ。それがなくなったら、俺たちはもうどうしようもない。どうすることもできないんだ」
「だったら、ギルガメシュにでも寝返ればいいだろうが! そんで華々しく討ち死にしてろやッ! 金に釣られて身売りするよりずっと上等だぜッ!」
「本当にあんたは根本的なことがわかっちゃいないんだな。だから平気で無責任なことが言える……」

 そのとき、イーライの手が村長の胸元より離れた。ダインとホドリゴの剛腕が抵抗に勝(まさ)ったのではなく、
彼のほうから力を抜いたのだ。
 イーライが正面に見据えた男の頬には、一粒の涙が伝っていた。感情の宿らない双眸から冷たい一滴を滑らせていた。

「支配される立場ではあったが、ワヤワヤはテムグ・テングリのお陰で人並み以上の暮らしが出来るようになった。
作物の流通システムも整えて貰った。ときには物資の工面だって――
この村にはなぁ、テムグ・テングリ群狼領の血潮が隅々まで行き届いているんだよ。
……エルンスト様のお陰でワヤワヤは栄えたんだ。御屋形様は女神イシュタルに勝るとも劣らぬ御人なんだ」
「言ってることとやってることが全然違うだろうが……!」
「だが、理想や夢で現実をひっくり返すことは出来ない。……今のワヤワヤはもうどうしようもないんだよ」

 そう言い置いて窓辺に歩み寄った村長は、室内のカーテンと言うカーテンを順繰りに開け放っていく。
 窓の外ではワヤワヤの住民たちが遠巻きに邸宅を包囲していた。手に手に武器を取り、満面には暴悪の相が浮かび上がっている。
その様は爆発寸前の暴徒のようにも見えた。
 ガラスのラックから床に向かって投射されていた斑模様は、窓から差し込む光量が増えたことで一層膨らんだ。
偶然にしては出来すぎであるが、その様相はワヤワヤを塗り潰していく混沌の顕れとしか思えない。

「不安なんだ。……私たちは怖いんだよ、怖い……何もかもが怖い……! ……テムグ・テングリも…ギルガメシュも……ッ!」

 初めて「恐怖」と口にするワヤワヤの村長であったが、彼は苦悶の感情(おもい)を露にしたのではない。
慟哭だ。心の底から湧き上がる慟哭を搾り出したのである。
エルンストへの恩義と、どうしようもない現実との板ばさみに苛まれた男の偽らざる心であった。
 そしてそれは、ワヤワヤの置かれた状況を象徴する言葉でもある。

「……さっきも話した通りだよ。エルンスト様の庇護下にいなければ、独力じゃ生活も支えられないんだ、ワヤワヤは。
農業に適した地域かも知れないが、それ以外は何もない。流通経路も何もあったもんじゃないんだよ。
我々が人並み以上の生活を得られたのは、エルンスト様に従っていればこそなんだ……」

 遮る物が何もない窓の前に立った村長は、名実ともに住民たちの代弁者となっている。
暴徒の如き有様と化した者たちの運命をも彼は双肩に担っているのである。

「だけど――これまで私たちを守ってくれたテムグ・テングリはもうどこにもない。もう頼りに出来るものは何もなくなってしまった。
……独力で生きていくには、手段を選んでなどいられない。それでもあんたたちはワヤワヤを批難するのか? 
裏切り者として処断するつもりなのか? そんな資格がテムグ・テングリにあるのか?」

 フィーナも、ネイサンも、メアズ・レイグも、ムルグさえも――慟哭に応じる言葉を持ち合わせてはいない。
気休めの労わりや慈しみを掛けることも許されないような血涙が流されているのだ。
 ワヤワヤが置かれた状況を逼迫の二文字で表すことは不可能であった。
頼るべき縁がなくなった人々の不安と混乱は、最早、極限に達していたのだ。
村中に施された武装は、その顕現であった。恐慌の発露であった。
 世界最悪とまで謗られるピーチ・コングロマリットにも縋り付いてしまうだろう。
ロンギヌス社とスカッド・フリーダムから差し伸べられた手は、何にも勝る救いであった筈だ。

 あと何人殺したら、あんたたちの目的は達成されるんだ――ヴィンセントの言葉がフィーナの脳裏に蘇る。
 ワヤワヤの現状とは、アルフレッド献策に基づく戦略が進められた場合のエンディニオンの未来予想図でもあった。
エルンストの敗北宣言によってテムグ・テングリ群狼領では様々な混乱が起こるであろう。
その縮図にフィーナたちは直面しているのである。
 テムグ・テングリ群狼領の援助を打ち切られ、独力で立てなくなった小村が地図上から幾つも消滅するに違いない。
 本当の意味で人を救い得る力が自分には宿っていない。その現実の前に立ち尽くすフィーナは、血が滲む程に唇を噛み締めていた。
そうやって自分を慰める以外に選択肢を持ち得ないことが苦しくて、歯痒くて――果てしない失意で潰されそうになるのだ。

「……んで? どいつをふっ飛ばせばハッピーエンドなの? フィーちゃんをへこませた罪はメガトン級に重いのね。お覚悟なのっ!」

 大人たちの難解な舌戦へ随いて行けずに黙りこくっていたルディアは、どうもフィーナが何者かに傷付けられたと誤解しているらしく、
眦を裂いてマスコット人形を振り回していた。メガブッダレーザーなる破壊光線の発射装置を、だ。
「そこのおっさんは見た目からしてワル全開なのっ!」と歯軋りしつつ賢介に狙いを定めたあたり、
悪の瘴気(におい)を嗅ぎ分けてはいる模様だ。
 小説やコミックの王道たる勧善懲悪の活劇ならば、どれほど苦戦していようとも悪党さえ退治してしまえば平和は戻ってくる。
しかし、これは現実世界の問題である。仮に賢介をメガブッダレーザーで消滅させたところで何の解決にもならない。
むしろ、事態の悪化を招くことだろう。残酷なまでに険しい現実ではあるが、
これを打開する手段として暴力を採ることは許されなかった。少なくとも、ワヤワヤに於いては禁忌となったのである。

「……ルディアちゃん、ダメだよ。ここにいるのは私たちの“仲間”なんだ。ギルガメシュじゃなくてね。戦う相手じゃないんだよ?」
「フィーちゃん、ウソ吐いてるの。ルディアの勘、スーパー冴えまくりだから、そーゆーのはド楽勝に見破れるのね。
仮面の変態じゃなくてもブッ倒さなきゃいけないヤツはたくさんいるの。特にあのニヤニヤ野郎。あれはどこから見ても悪真っ盛りなのっ!」
「それを言ったら、ルディアちゃんは私をやっつけなきゃいけなくなるよ? ここまでワヤワヤを追い詰めたのは私たちなんだ」
「……フィーちゃん……」
「ロンギヌス社の人たちも、スカッド・フリーダムのおふたりも、私たちとやり方は違ってもエンディニオンを良くして行こうって頑張ってる。
だから、……仲間なんだよ、みんな……」
「ほほう? ピーチ・コングロマリットの副社長が入らなかったのは、何らかの意図があってのことでございましょうか? 
いやはや、貴女様も見た目に反して陰湿なことをなさいますねぇ」
「でも、あのニヤニヤ野郎はやっぱりブッ倒していいと思うのっ」
「私もあの人は好きじゃないけど、それでもダメ」

 この場に倒すべき「悪」など何処にもいない――そうルディアを諭したフィーナは、次いで他の仲間たちにも目配せして己の意思を伝えた。
ワヤワヤを去ろうと、無言で訴えたのである。
 即ち、今の自分たちがこの地で出来ることは何もないとの結論であった。
 造反など最悪の事態に陥った場合、ディプロミスタスを駆使してでもワヤワヤを翻意させようと密かに目論んでいたイーライは、
「まだケリはついちゃいねぇ! 俺たちゃエルンストに託されてきたんだぜ」と、僅かばかり抵抗したものの、
腹づもりを知るレオナにまで制止されては諦めざるを得なかった。

「今度の件、エルンストさんにはありのままを報告させて頂きます。そこから先のことは私たちには判断出来ません。
……どんな形であれ、ワヤワヤが不幸せにならないことを祈っております」

 それだけを村長に言い渡すと、彼の返事も待たずにフィーナたちは応接室を後にした。
ヴィンセントとダイン、そして、義の戦士たちの反応すら確かめようとはしなかった。最早、その気力さえ一行には残されていない。
 「署名にも立ち会わないでお帰りになるのですか。まさか、気分を害された? 繊細ですねぇ。人殺しは平気なのに」と言う賢介の皮肉が
背中を追い掛けてきたが、誰ひとりとして振り返る者はなかった。


 村長の邸宅には依然として住民たちが詰め寄せている。自明の理であるが、一行は門戸を潜ったところで彼らと相対することになった。
 テムグ・テングリ群狼領より遣わされた使者を取り囲む者たちは、皆が無言で武器を、特定の得物を持たざる者は農具を携えていた。
ワヤワヤの真意を知られた以上、村の外に逃すまいと誰かが音頭を取ったのであろう。
殺伐の気配を漂わせつつ、じりじりと包囲網を狭めてくる。
 その様を言葉なく睥睨したフィーナは、己の手に在るリボルバー拳銃――SA2アンヘルチャントを空に向かって構え、
太陽でも撃ち抜くかのようにそのままトリガーを引いた。
 撃発は一度きりである。それも、標的を絞ることのない威嚇射撃だった。
 直接的にダメージを与えるものでもなかったのだが、包囲網を作っていた住民たちはこの一発だけで平常心を失ったらしく、
蜘蛛の子を散らすようにして後退っていった。乱れた陣形が再び整えられることはなく、算を乱して逃げ惑った住民たちは、
懐中に武器を?き抱いたままフィーナたちを遠巻きに睨むのみ。
 フィーナはその混迷さえも無言で睥睨している。

「――民間人へ危害を加えることは断じて許しませんよ。我々の一命に換えても守ります」

 不意に戒めの声が飛び込んできたかと思うや否や、ビクトーとホドリゴがフィーナたちの目の前に降り立った。
銃声を聞きつけて村長の邸宅を飛び出し、迎撃に適した間合いへと跳躍した――そんな経緯(ところ)であろう。

「黙って見送るのがお互いの為と思っていましたが、どうやらそうも行かないようですね。晩節を汚さぬことをお勧めしますが……」
「聞く耳持たん言うなら、それもえい。おまんらには腹を立てるだけの理由があるき。じゃが、ここから先の相手はわしらぁぜよ」

 住民への手出しを禁じると宣言したふたりの義の戦士は、それぞれ臨戦態勢を整えている。
 ホドリゴは剥き出しとなった上半身より何やら光沢を放つ液体を分泌させていた。
ヴィトゲンシュタイン粒子の燐光を伴うからには、これが彼のトラウムなのであろう。
このチカラを発動する為に生身を晒していると見て間違いあるまい。
 警告が聞き入れられないときには本気で戦うつもりである。ホドリゴの隣では両の拳を握り締めたビクトーが
大地を踏みしめるかのように構えを取っていた。だんだら模様の腰巻に隠れて見極めづらくなっているが、
その両脚にはホウライの稲光を纏わせている。
 両名を見据えたイーライが左右の五指を錐の如く変身させるまでには数秒と掛からなかった。

「ケッ――飛んで火に入るナントカってヤツだ。憂さ晴らしに一暴れと行こうじゃねーかッ! 義の戦士だか何だか知らねぇが、
化けの皮を剥いでやらぁッ! 覚悟しろ、このゲスどもがァッ!」

 侮蔑の唾を吐き捨てていきり立ったイーライは、表情を曇らせているレオナに向かって追従を号令した。
メアズ・レイズ得意の連携によってビクトーとホドリゴを一気に仕留めるつもりなのだ。
 ムルグもイーライには大賛成であった。ワヤワヤの一件では相当に鬱屈を溜め込んできたのである。
フィーナを貶められたと言う怨恨もある。これらを晴らす為ならば、彼女は獰悪に暴れ狂うことだろう。
強靭な爪でもって砂利を蹴る様などは、水牛の如き猛々しさであった。
 ところが、両者対峙の原因を作ったフィーナ当人はパートナーの猛りを「敵はいないって言ったでしょ、ムルグ」と一喝で押し止め、
臨戦態勢を完了しつつある仲間たちさえも置き去りにし、一歩二歩と義の戦士に向かって前進していく。
 臆することなくビクトーやホドリゴへと向かっていくフィーナをワヤワヤの住民たちは悪魔でも見るような目で追っていた。
誰しもが双眸に恐怖の想念を宿している。怯え、惑い、恐れ慄いていた。
 正常な思考が焼き切れる程に取り乱した誰かがフィーナ目掛けて拳大の石を投擲した。
一切の手加減がない直線的な軌道は、“悪魔”を拒絶する意志の顕れと捉えることも出来るだろう。
彼女がこれを難なく中空にて撃ち落すと、散り散りになった住民たちの間で再びどよめきが起こり、
挙げ句の果てには腰を抜かして命乞いする者まで現れた。

 これこそがワヤワヤに巣食う病理の根幹であるとフィーナは悟っていた。
村長を筆頭に過度の攻撃性となって発露していたものの、それらは虚勢の域を出ていない。
この地に根差し、住民たちの心を蝕み、全て狂わせたのは恐慌であった。
テムグ・テングリ群狼領が――否、BのエンディニオンがAのエンディニオンの前に敗れ去ったと言う現実が恐慌を引き起こし、
彼らを暴走へと駆り立てたのである。
 それでも、フィーナはSA2アンヘルチャントの具現化を解除することはなかった。
人の生命を奪うこの武器こそが恐慌の要因とは分かっていたが、銃を収めたところで彼らの不安を拭い去れるわけでもない。
ならば、自分は“悪魔”の貌(かお)を貫こうではないか――その想いを持ってビクトーとホドリゴを見据えたフィーナは、

「……正義って、なんですか――」

 義の戦士へそのように語りかけた。あるいは、自分自身に対する問いかけであったのかも知れない。
 ビクトーとホドリゴは「正義」の意味を答えようとはせず、真一文字に結んだ口を開くこともなかった。
 何ら返答がないことを見て取ったフィーナは、徐にSA2アンヘルチャントを構え直した。今度は銃口を正面へと向けている。
さりとて義の戦士に狙いを定めたと言うわけではない。照星は並び立つ彼らの間隙を示していた。
 ワヤワヤの住民たちは火線に立つことを恐れて飛び退り、そこに一本の道が開けた。かの鉄扉へと続く道が、だ。
 再び無言の人となったフィーナは、義の戦士の脇を抜けてその道へと一直線に進んでいく。
仲間たちが後続していることも確認せずにひたすら歩を進めていく。
 その頬は幾筋もの涙で濡れそぼっていた。

「……どうしてこんなことになるんだ……なんでこんな……」

 搾り出すように呻いたのはネイサンである。彼の面もフィーナと同じか、あるいはそれ以上に青褪めていた。

(どうしてこんなこと――か。そりゃ、てめぇにとっちゃ驚きだよな。大爆笑出来たハズだもんな)

 当惑に歪むネイサンを目端に捉えながらイーライはいつか視た夢を瞼の裏に蘇らせている。
こんなとき、『彼』は壊れたように笑っていた筈だ――と。知的好奇心を揺さぶられ、満面を笑気で歪めたに違いない。
 しかし、今はどうだ。ヴィンセント・パーシー・ニューマン・コクランと言う智慧の門が開かれたにも関わらず、『彼』は決して笑わない。
ワヤワヤと言う“ご馳走”のような狂気を前にして、人間らしい表情すら浮かべている。

(……“その為”にワヤワヤくんだりまでノコノコやって来たのに、残念だったな、アカデミーの御使よ……)

 レオナより向けられる気遣わしげな眼差しを頬で受け止めたイーライは、それでも『彼』から目を離さない。
いつか視た夢は、彼と『彼』の全てなのだから――。




←BACK     NEXT→
本編トップへ戻る