24.Brothers in the arms 「フィーちゃんはどうして私たちに随いてきたのかな? 他の皆を待ってるのに退屈しちゃった?」 重い足取りでワヤワヤからの帰路を――夜の帳が下りたのを機にテントを張ることに決めた一行は、 遅い夕食を済ませた後、疲弊を癒そうと思い思いの時間を過ごしているが、その頭上にはさすがに憂色が垂れ込めている。 中でも深刻に落胆しているのはフィーナである。悄然と夜空を見上げる彼女は今にも掻き消えそうなくらい儚げで、 思わずレオナはその肩に手を差し伸べた。存在を確かめなくてはいられなかったのだ。 気遣わしげに肩へと置かれた両手からレオナの温もりが染み入り、フィーナはふっと頬を緩めた。 思えばそれは、ワヤワヤに関わって以来、初めて緊張を解いた瞬間でもあった。 「……きっかけはルディアちゃんです」 ワヤワヤで蓄積された怒りを発散するかのように夕食の残りを貪るルディアの横顔へフィーナは目を細めた。 ビーフンのカレー炒めを頬張るその様は、エンディニオンに垂れこめた暗雲など丸ごと吹き飛ばしてしまいそうな活力が漲っている。 彼女の傍らではイーライがコーヒーを、ムルグが煎り豆をそれぞれ口にしているが、こちらはさすがに元気がない。 「暗殺者が入り込んだハンガイ・オルスから連れ出したかった――とか?」 「それもありますけど。……この娘はこの娘なりにいろんなことを頑張ろうとしています。 だからかな、負けていられないな、私もがんばらなきゃって思って……」 それからフィーナは同い年の友人たちのことにも触れた。 ゼラールの為に勇気在る一歩を踏み出したピナフォアのこと、戦後のことまで見据えて行動を開始したマユのこと―― いずれもメールのやり取りから知らされたことだが、友人の発奮にフィーナも大いに刺激されたのである。 音信不通の陳謝と共にピナフォアから送られて来たメールには、特に心震わされた。 「自分にとって一番大切な存在(もの)の為に命を賭けるって、言葉だけならロマンチックだし、憧れちゃいますけど、 ホントに実行に移せるかどうかは、私には分からなくて……。ピナフォアは――私の親友は、色々なことを背負うことになっても ゼラールさんの為に覚悟を決めたんですよ。その話を聞いたとき、私、身震いして――」 そこで話を一旦区切ったフィーナは、胸の前で右の拳を固く握り締めた。己に宿る力の限界を確かめるように、強く強く握り続けた。 「――私自身、何かをしたいんです。アルもお姉様も、みんながエンディニオンの為に戦ってる。 そんなときに私は待っていることしか出来ない。それで良いのかな、もっと私に出来ることがあるんじゃないかなって。 具体的に何をすればいいのか、まだ全然見つかっていないんですけど……」 「……うん」 「でも、戦うこと以外の何かを見つけたいとは思うんです。もっともっとエンディニオンの為に色々なことが出来るんじゃないかって」 例えば、そう――今でこそ恋人のフェイに付き従っているソニエは、胸の裡には惑星環境の再生と言う大志を抱いていた。 彼女はただ漫然と夢を視ているだけではない。冒険者として活動する傍ら、疲弊した惑星の生命力を回復させる技術や、 大地を蝕む廃棄物を撤去し、汚染さえ除去し得る方法を調査し続けている。夢を現(うつつ)へ手繰り寄せようとしているのだ。 敬愛すべき師、ハーヴェストもソニエと同じく夢を叶える為に努力を重ねている。 失われた正義を取り戻したいと言う彼女の夢は、心ない人から失笑を買ってしまうような途方もないものだが、 その決意は世界中の誰よりも高潔だ。 エンディニオンの全ての人々が笑顔でいられる未来を夢見るフィーナとは通じる部分が多い。 この眩いばかりの勇気を持った師匠こそが、道に惑って無法に染まってしまう人々を正しい道へ導くのだと彼女は真剣に信じていた。 尊敬する先達のように何かを成し遂げたい。この世界の為に何かをしたい―― 希望を求めて群青の空へ伸ばした左腕が、その指先が満天の幻燈(あかり)を掴み取る前にフィーナは俯いてしまった。 星を追うことを止めて空を切った指先も、今は月の明かりが落とす影を睨むばかり。 固く握り締められた右拳は、込められた力が嘘のように儚く、痛ましいまでに血の気が失せている。 「……でも、結局、私には何も出来ませんでした。恥ずかしくなるくらい私は無力で、だから――」 「だから、ワヤワヤのことを解決できなかった――って?」 「……はい……」 もしも――自分がソニエやハーヴェストと同じように高潔で、勇気ある人間であったなら、 恐慌の極みにあったワヤワヤへ適切な行動を起こせたかも知れない。 あるいは、雄弁や態度でもって混乱を集束させ、ワヤワヤの人々に未来の希望を示せたかも知れない。 しかし――自分に出来たことは何もない。ロンギヌス社やスカッド・フリーダムのように村の困窮を支援出来たわけでもなく、 彼らの本質を見誤って批判を飛ばしただけである。ともすれば、ピーチ・コングロマリットよりも性質が悪い。 エンディニオンを笑顔溢れる世界に――大それた夢を抱きながら、己の意思など何ひとつ持ち合わせていなかったのである。 偽善者と罵られても無理からぬことであった。 ワヤワヤでの一件は、フィーナに己の浅慮を残酷な程に突き付けていた。 「でも、ここで立ち止まるような真似はしないんだよね?」 「勿論です。……自分がどれだけちっぽけなのか、ワヤワヤで教わりました。今日から再出発です。 今より一歩でも先に進まなくちゃいけない――それが、今の私に出来る精一杯のことですから」 「諦める」と言う選択肢は最初から入っていない。希望を手放すと言う逃避も考えていない。 スタートラインにも立っていない人間が道の険しさに怯えるなど愚の骨頂としか言いようがなかった。 如何に過酷な道が広がっていようとも最後まで駆け抜ける覚悟がフィーナにはあった。 「その為に荒れた大地へ飛び出したんだ」と吼え声を上げたフィーナは、 俄かに熱を帯びて朱に染まった拳を勢いよく夜天へと突き出した。 月に掛かる薄雲を焼き尽くしてしまうのではないかと思えるような熱き迸りであった。 「だったら、それでいいんじゃないかな。ガムシャラになったって、倒れそうになってたって、みんなが支えてくれるでしょう? 支えてくれる人が傍にいる限り、人間はグングン強くなっていくから。 ……泣きたいくらい今が苦しくても、それを見守ってくれていた人たちといつか笑い話に出来るからね」 「はいっ、今日も明日も自慢の仲間と一緒です! みんなとならもっともっと大きなことが出来そうな確信がありますっ!」 「うんうん、いいぞいいぞ、その調子っ。ふぁいとだ、フィーちゃんっ!」 肩を叩いて激励してくれるレオナの両手を握り締め、正面から彼女を見つめたフィーナは、 情けない自分を応援してくれることへ心からの礼を言おうとした――が、今まさにありがとうの「あ」が口から出かけた瞬間、 ポケットに仕舞っておいたモバイルが電子音を上げてそれを妨げた。 特別な着信音に指定してあるので、誰からメールが届いたか一発で判る。 女性アイドルグループのナンバーが設定されているのは、トリーシャからのメール受信である。 肝心なところで腰を折られたフィーナは、バツの悪そうな表情でモバイルを引っ張り出し、 「空気読まないところはホゥリーさんにそっくりだよね」と、心中にてトリーシャに文句を呟いた。 心の内に留めておくからこそ呟ける悪態だ。まかり間違ってトリーシャ本人の耳に入ろうものなら、その場で絶交されてしまうだろう。 勿論、瞬間的な沸騰である為、本当にトリーシャがホゥリーと同じ堕落者であるとはフィーナも思ってはいない。 ――トリーシャ発! スペシャルニュースサイトのムービーを見逃すな! 受信したメールの本文は、たったそれだけだ。いずこかのホームページへ繋がると思しきリンクと、 必見との指示以外には何も書かれていなかった。 「……意味わかんないから」 藪から棒にこのようなメールを受け取ったフィーナが面食らったのは言うまでもない。 レオナと親睦を深めている最中に横槍を入れられた挙げ句、意味不明なこの文面。イタズラだと思い込んでしまうのも仕方あるまい。 「フィー! ちょっとこれを見てくれよ、フィーっ!」 文句の一つでも返信メールに載せてやろうかと地団駄を踏むフィーナへネイサンが慌てた調子で声を掛けてくる。 つい先程までフィーナと同じくらい塞ぎ込んでいたのが信じられないような勢いである。 同様のメールを受信したのだろう。彼の手にもモバイルが握られており、 液晶画面にはフォーマルなスーツに身を包んだトリーシャが表示されていた。 * フィーナやネイサンが受信したメールに記載されていたアドレスは、 ギルガメシュに掌握されたどの回線にも属さない独立したチャンネルのホームページへと繋がっており、 そこでは衝撃的なニュースが配信されていた。 画面の中のトリーシャは、世界最悪のテロリストと恐れられた『ジューダス・ローブ』の真実を詳らかにしている。 ジューダス・ローブの生き様、秘められた戦いとその孤独、末路に至るまでが克明に伝えられ、 最後にトリーシャは「彼の犠牲を無駄にしてはならない。私たちが彼の信念を受け継ぐんだ」と勇気ある者たちへ決起を呼びかけた。 このニュースはエンディニオン全土へリアルタイムで届けられている。世界中で飛び交う電波をジャックし、 テレビあるいはラジオ、更にはインターネット上の動画サイトへ強制的に割り込んでいるのだ。 この時間この瞬間、エンディニオンの全ての人々がジューダス・ローブの真実を見守っている。 セフィ・エスピノーザと言う名前は意図的に伏せられたが、今となってはジューダス・ローブの正体になど誰も注目していない。 彼の成し遂げようとした偉業と、誇り高き決意、悲哀に満ちた生き様にこそ人々は心を震わせ、思いを馳せているのである。 トリーシャのこの放送をビルギットやワヤワヤの人々は――新たな暴力の影に怯える人々はどんな想いで見ているのだろうか。 反ギルガメシュの機運が世界規模で高まるものと勇気を奮い立たせ、考えを改めているのか。 それとも、敵を刺激して更なる苦境を呼び込むとの強迫観念に怯え、震えながら耳を塞いでいるのだろうか。 ハンガイ・オルスの控室に設置された大きいスクリーンでトリーシャのニュースを視聴していたセフィ―― つまり、嘗てジューダス・ローブと呼ばれた男にも、この配信がどう転ぶかは見当も付かなかった。 ポップコーンを貪りながらスクリーンを眺めるヒューの予想によれば、ギルガメシュと向き合う勢力を心理的に激しく揺さぶるだけでなく、 今なお貴賓室で続けられている交渉にも大きな影響を与える見通しだ。 ギルガメシュに遺恨を持つ者たちはジューダス・ローブを聖なる殉教者のように崇め奉り、戦意を極限まで昂揚させる筈である。 彼らの戦意がピークに達した瞬間に史上最大の作戦が通達されれば、おそらく誰もが首肯することだろう。 ヒューのこの見立てにはセフィも納得している。 強烈な印象を残した犠牲者と言うのは、その生き様を通して人々の心へある種の思想性を刻み込むものであり、 戦時においては特に士気昂揚へ利用されることが多い。 史上最悪のテロリストと目されたジューダス・ローブは、その役割にまさに打ってつけと言える。 蛮行以外の何物でもなかった数々のテロ行為の裏側には、実は知られざるギルガメシュとの戦いが秘められていたのだ。 こうした美談にこそ世相は大きく揺さぶられるものである。 悪になることも厭わず、自らの命を犠牲にしてまでエンディニオンの為に戦ってくれたジューダス・ローブ。 稀代の英雄に続けとばかりに皆が勇気を奮い立たせ、ギルガメシュへの反攻に繋がっていくのである。 かの『ベテルギウス・ドットコム』、あるいはギルガメシュが宣戦布告時に採った手段と近似する放送ながら、 ジョゼフは満足そうに頷いている。 撮影環境を整えるなどトリーシャの為に様々なお膳立てをしたのは、他ならぬ新聞王なのだ。 愛弟子のこの放送には、他の面々とは共有できないような感慨を抱いているのかも知れない。 目を細めつつスクリーンへ見入っている辺り、ルナゲイト家の秘密回線を一つ潰してまで試みたこの放送は、 彼にとっては賞賛に足る結果だったようだ。 滅多に他者を誉めることのないシュガーレイでさえ、トリーシャの放送には「最も効果的なカードを切ったものだ」と良好な反応である。 皆が反ギルガメシュの昂揚に期待する中、セフィだけはジューダス・ローブが一人の英雄として評価されることへ 割り切れぬ思いを抱き、黙りこくっていた。 事実上、この放送によって自身の犯した罪がジューダス・ローブの名と共に昇華されるのだ。 贖い一つしていない内に大罪が赦された挙げ句、これを情報戦へ利用することにも通じている。 「なるようにしかならねーだろ。いい加減、腹ぁ括れっての」 「ヒューさん……」 ポップコーンの詰まった紙のカップをセフィの鼻先に押しやりながら、ヒューは叱咤の言葉を投げかけた。 確かに事態(こと)がここに至った以上、なるようにしかならないだろう。とうの昔に腹も括っていた筈だった――が、 こうして気を遣わせてしまったと言うことは、裡にのみ秘めて表に出していないつもりだった憂いが、 陰気となって滲んでしまっていた証拠である。 鼻先に押し付けられたポップコーンを一つまみしたセフィは、口内に広がる薄い塩気や煎りトウモロコシの香ばしさと共に 自分で発した言葉の重みを噛み締める。噛み締めれば噛み締めるほど、何とも言えない苦いものが口内へ、 ……いや、心中へジワジワと広がっていき、それを追い出すように大量のポップコーンを掻き込んだ。 「あんまえぇ顔はしてへんな、セフィ。また小難しいことでも考え取ったんとちゃうか?」 「小難しいと言いますか……」 「ワイの分も残しといたってや」とふたりの後ろから手を伸ばし、大量のポップコーンを掴み取ったローガンは、 爆ぜ損なって固いまま残っている粒までバリバリと噛み砕くと、小さな子供をあやすかのようにセフィの頭を撫でつけた。 よりにもよってポップコーンを掴んだ側の掌、つまり、油で汚れた掌で撫で付けられたセフィは堪り兼ねて悲鳴を上げたものの、 振り返って文句を言う余裕までは得られなかった。 細い首にローガンの野太い腕が回され、四の五の言う間もなく彼の逞しい胸板に引き寄せられてしまったのだ。 ローガンに抱き込まれる恰好となったセフィは、首を絞めこんでくる彼の腕を指先で叩き、 苦しいから外して欲しいと訴えかけるが、意地も悪く当人は知らん振り。セフィが不満を言う度、腕に込める力を強めていった。 「お前は、今、こうしてワイらと一緒におる。ワイらと一緒にエンディニオンを守る為に踏ん張っとる。それはお前の意思とちゃうんか?」 「それは――」 その通りである。ほんの数日前までは――ローブを纏うことになったきっかけを明かした日までは、 全てを告白した後に自らへ始末をつけるつもりでいた。だからこそ、長い長い“遺言”と、 ギルガメシュと戦う意思の継承をアルフレッドたちに託したのである。 だが、その覚悟は「未来は変えられる」と言うアルフレッドの説得で覆された。考えようもしなかった可能性を示唆され、 それを受け入れ、新たな覚悟を決めたからこそ、今、自分はここに在るのだ。 予知の力を秘めたトラウムを以ってしても掴み切れなかった未来の可能性をこの手で切り拓く。 そう誓ったからこそ、今、仲間たちと共に戦っているのだ。 「ほんならええやん。胸ぇ張って行こうやないけ」 そう言ってローガンは豪快に笑い、励ますようにセフィの背中を引っ叩いた。 彼はいつもそうだ。仲間が迷ったとき、次の一歩を踏み出すのに躊躇しているとき、いつだって傍に寄り添い、 鬱屈した気持ちを底抜けの明るさで吹き飛ばしてくれる。天性の明るさで仲間たちを導いている。 「……あなたは単純で良いですね。あやかりたいものですよ、本当に」 「お気楽極楽はワイの専売特許やさかい。肩に力入れんで済む方法やったら、いくらでも伝授したるで。 アルも誘うて一杯引っ掛けよか。ヒューも付き合うやろ?」 「おさわりオッケーな店なら奢ってやっても構わねーぜ? 自己紹介と肌年齢が明らかに掛け離れるような伏魔殿はカンベンだけどな!」 熱砂の合戦の果てに己の醜さに打ちのめされたと言うアルフレッドも、この太陽のような温もりに救われたのだろう。 以前は煩わしいとしか思えなかったローガンの豪放磊落な明るさが、今は感謝の言葉もないこの優しさが、セフィにそのことを確信させた。 「ここまで来て難癖をつけるつもりは無いけど――あたしとしては少し心苦しいわね……」 不埒な夫を睨めつけ、拳を鳴らし始めたレイチェルの隣にはハーヴェストの姿がある。 スクリーンへと釘付けになっていた彼女は、配信され続けるジューダス・ローブの歩みへ複雑極まりない溜め息を漏らした。 行動理念にこそ正義を共鳴させるハーヴェストだが、如何なる理由があれども、 ジューダス・ローブの為したことはテロと言う悪行でしかない。それをさも美談のように仕立て上げることには、どうしても抵抗があるのだ。 「ワールドのスキームはチミやローガンのおブレインほどシンプルじゃナッシングってことサ。 ウォーズにボディをインしたってんなら、ぼちぼちビターなテイストにも慣れてプリーズだネ。 チミのスチューデントだってクライシスなプレイスへゴーオンしてまでファイトしてるんだしィ、 ココでマスターがグチグチほざいてたらルックがつかないっショ?」 「……これからどうなるのかしら。アルの作戦が実行に移されたとして、あたしたちはどう戦って、正義を示せば良いのかしらね」 ホゥリーの言葉で更に苦悶の色を濃くしたハーヴェストは、やはりスクリーンに食い入っているフツノミタマにそう話し掛けた。 「なるようにしかならねぇ――としか答えようがねぇだろうが。ンなこたぁ、オレが答えるまでもなく手前ェにもわかってんじゃねーのかよ」 「あたしはそこまで器用じゃないわ。自分で言うのもなんだけど、むしろ不器用なほうだもの」 「戦意高揚のプロパガンダは戦時における定石じゃて。その昔の戦争では、玉砕の道連れに何人もの敵を倒した将軍を神格化して 味方の士気を高めたと言うわい。ジューダス・ローブはその亜流じゃな。ギルガメシュの強いる無法の暴力へ屈さず、 正義の名のもとに立ち向かおうとする意志がこれで世界中に芽生えるのじゃ。 暴力や悪徳を決して看過せぬ健全な心が育まれるのは、お主の正義に適うのではないかな?」 「言いたいことはわかりますけど――あたしの正義はそんな打算的なもんじゃないんですが……」 「おぉ、こりゃすまんかったのぉ。歳を喰うとついつい世の中のことを計算立てて見てしまうでな。 年寄りの悪い癖が出てしもうた。この通りじゃ、すまん」 三人の会話へ徐に入り込んだジョゼフは、焦燥を滲ませるハーヴェストに対してこの放送によって得られる利を説いていく。 こと細かな指摘から察するに、先程の呟きをも耳聡く拾っていたのだろう。 「……年齢(トシ)とかじゃなくて単に性格が悪いだけでしょ。あんたみたいヒトがいる限り、正義が生まれる世の中にはならないわよ。 正義がふたつあったら戦争が起こるってのは、一体、誰の言葉だったかなぁ!」 ミルドレッドやモーントと並んで放送を見守っていたジャーメインは、聞くともなしに耳へ入ってきたジョゼフの語りに眦を決した。 「慮外じゃわい。お主の気分まで悪くしてしもうたか。ま、年寄りの冷や水と言うやつじゃ。軽く聞き流してくれ」 「いやいや、聞き捨てならないわよ、メイ。この世に正義は常にひとつ! 正義がふたつ揃って生まれるのは輝く未来だけよッ! なぜならば! 正義と正義は人と人とを繋ぐ宿命の誓いなのだからッ!」 「正義が万能じゃないから、あたしたちはスカッド・フリーダムを離脱(ぬ)けたのよ! 偉そうな志なんかじゃ何にも守れないっ!」 「メイ……」 「だから、こうして戦ってるんじゃない! ヤツらに身を以って償わせてやるんだからッ! それなのにさぁ! 今更、あーだこーだ言うのはやめてよッ! ジタバタしてる場合じゃないでしょッ!」 ジョゼフとハーヴェストを喝破したジャーメインは、驚いたように双眸を見開くふたりに一瞥さえくれず、 棗紅の長髪を振り回しながら控室を出て行ってしまった。 ドアを開ける間際にすら「つまんないところでウロウロしていたんじゃあいつらには勝てないよ!」と大声を張り上げた彼女は、 全身から剣呑なる鬼気を漂わせている。憤然と去っていく背中を追いかけるミルドレッドとモーントであったが、 ふたりがかりで宥めても機嫌が復するとは思えなかった。 「……すげぇな、あいつ。あんなキレ方するのかよ。御老公を怒鳴りつけるなんて、とんでもない度胸だぜ」 「ん? ああ、……メイはしゃーねぇんだよ。ちょっとした事情(コト)があってね――」 突然の大噴火に目を丸くするシェインに対し、ジャーメインが爆発した由縁を察しているジェイソンは、 何とも言えない面持ちで頭を?きつつ、「身内がやられちまったんだよ、あいつも」と明かせる範囲で彼女の事情を語っていく。 「姉貴の婚約者がギルガメシュに殺されたんだ。メイにとっても良い兄貴分みたいな人でよ。オイラもよく稽古つけてもらったもんさ。 ……バロッサ家ってな、タイガーバズーカでも結構な名門でよォ。仇討ちには大反対してたんだよ」 「なんでっ!? そんなに大事な人が殺されたのに!?」 「任務上の殉職に意趣返しなんて恥さらしとか何とか言ってたっけな。体面っつーの? 名門っつーのは、そーゆートコが面倒臭ェんだって。 でも、メイだけはどうしても納得出来なくてさ。仇討ちしなくちゃ収まらないつって、勘当同然で家を飛び出したんだよ」 「……なあ。もしかして、その人、サミットの警護に当たってたんじゃないの?」 「……そーゆーこった。ジェロム・モンテフィアスコーネっつー名前なんだけどよ。もしかしたら、シェインとも顔合わせてるんじゃねーか?」 「名前までは分からないけど、きっとルナゲイトで会ってるよ……」 僅かな説明からジャーメインの葛藤を悟り、ある種の共鳴に至ったシェインは、彼女の去って行った扉を真剣な眼差しで見つめ続けた。 我知らずブロードソードの鞘を握る右手に力が入っている。鞘を軋ませる程の渾身の力が、だ。 「……辛いよな……」 呻くように呟き、きつく瞑目したシェインは、脳裏にクラップとベルの顔を思い浮かべていた。 * 「悪いが心配はしないぞ。反ギルガメシュの機運が高まれば、それだけお前たちを取り巻く情況も厳しくなる。 顔色を悪くさせるのはまだこれからだ。しかし、勝つ為には止むを得ないこと」 「あぁ、そこらへんは覚悟しているさ。なにしろ俺は捕虜、人質なんだからよ」 世界中の人々がジューダス・ローブの顛末を報道するトリーシャのニュースに釘付けになっている頃、 アルフレッドとニコラスのふたりは喧騒から隔絶された場所に身を置いていた。 ハンガイ・オルスの中央に位置する庭園を散歩するふたりの耳にも昂揚した将士の雄叫びは飛び込んでくる。 しかし、居住区画から離れている為か、間近で訊けば地響きのようであってもこの場所では遠雷のそれとさして変わらなかった。 アルフレッドもニコラスも、四方八方から鳴り響いては鼓膜を震わす喚声から逃れたくて中央庭園に足を運んだのだが、 ここまで連れ立って来たという訳ではなかった。喧騒から外れた場所を求めるうちに偶然にも行き先が合致した次第である。 同じ場所に静寂を求めた相手がいるからと言って、その占有を譲る必要はなく、 自然と顔を突き合わせる恰好になったアルフレッドとニコラスだが、交わす言葉は途切れがちであり、会話らしい会話には続かなかった。 さりとて、気詰まりと言うことでもない。気心の知れた仲だからであろうか、 静寂に身を委ねつつ、隣人との絶妙な“間”を愉しんでいるような趣さえ感じられた。 「……いや、やはり前言撤回しよう。捕虜でも人質でも、長いこと隣に居れば友人になる。気を遣うなと言うほうが無理だ」 「うん、そう言うと思ってた。お前はヒールになりきれねぇタイプだもん。クールな二枚目気取ってるように見えて、 実は動物感動ものとか観て号泣してるイメージな。でもそれがバレるとカッコ悪ィからって必死に隠してるって感じでな」 「性分については否定しないが……と言うか、お前の中で俺はどう言う扱いなんだ。それじゃただのバカだろうが」 「あぁ、否定はしねぇよ?」 「しろよ、そこは」 アルフレッドが少し前までの自分の暴走を冗談に換え、ニコラスがそれを混ぜっ返す。 コメディアンの演芸を彷彿とさせるやり取りが静寂へ僅かばかりの波紋を落としているが、 そうした応酬以外には広場の中央に湧く小さな泉の水の音くらいしか耳には入らない。 静けさの中に忍び込んだ愉快な――それでいて、どこかくすぐったい――交流を満喫するには、 これくらい“間”を意識できる場所が望ましかった。 殉教者のように祭り上げられた『ジューダス・ローブ』の名を呼ぶ喚声さえ彼方の国の出来事のように聞こえる。 戦いの趨勢へ沸き立つ星空の下に在って、中央庭園にだけは例外的に穏やかな夜が訪れていた。 「やっと見つけた――こんなところにいらしたのですね、アルちゃん」 そんなふたりを追いかけてきたのはマリスであった。 ふたりと言うよりもアルフレッドを探してやって来たのだろう。彼の姿を見つけるなりマリスは一直線にその傍らへ駆け寄り、 ニコラスに比べて数段引き締まった二の腕に自分のそれを絡ませた。 自分の肩へ枝垂れかかって来るマリスの頭を撫でようとしてそれを躊躇い、 何かの気配を窺うかのように恐る恐る伸ばされたアルフレッドの指先は微かに震えている。 一部始終を傍観していたニコラスは、“恋人”を相手に神経質になっている彼の心中を慮って苦笑いを浮かべた。 心の内での葛藤をも見透かされたように思えたアルフレッドは、苦笑を噛み殺しているニコラスへ「俺のことなど捨て置け」と目配せした。 いかにニコラスが親友と雖も、“恋人”に甘えられる姿など見せたくはなかろう。 それでなくともアルフレッドは気恥ずかしい状況に弱いのだ。 「先程の話ではないが、何か気に病んでいることはないか?」 「……はぁ?」 「お前のことは仲間として迎えているが、さりとて捕虜と言う立場は変わらない。不都合も悩みもあるだろう。 だが、ここには俺とマリスしかいない。何か気に掛かることがあるなら話してくれ。……顔色だって優れないぞ」 「……お前――」 気まずい空気を払拭しようとしたのか、アルフレッドは急にギルガメシュとの戦争へと話題を切り替えた。 露骨にも程がある転換にはニコラスも閉口し、続けて襲い掛かってきた笑気によって激烈な腹痛まで引き起こされてしまった。 厳しい態度で取り繕うアルフレッドの滑稽さは腸が捻転したのではないかと心配になるくらい可笑しい。 引き攣り続ける腹筋に悶えつつも笑気の噴出だけはどうにか堪えた。 への字の口にて笑気を押し殺すニコラスの額には脂汗が滲んでおり、眉間の皺などは切り立った連山の様相を呈している。 成る程、深刻な悩みを抱えたような面相である。 「不安になるのも無理もない。名目上は捕虜だが、こうなった以上はトキハたちとも完全に敵対関係だ。 俺たちと行動することでカンパニーの皆と戦うのは、やはり――」 「――そんなこと考えてたわけじゃねぇって。大体、俺はあのなんたらっつー砂漠であいつらと別れてるんだぜ? 今更、蒸し返されたってこっちが困っちまうぜ」 「しかしだな……」 「それによ、完全に敵対なんて言ってたらレイチェルさんや守孝さんに叱られるぜ? ……みんな仲間じゃねーか。 オレはその絆ってのを信じてるよ。その内、どっかで落ち合うさ」 「……楽観的だな」 「お前が根を詰め過ぎなんだっての。しかも周りに気ィ配ってばっかだしな。くたびれるだろ、そう言う生き方」 「ニコラスさんの言う通りですよ、アルちゃん。一度、こうと決めると働き詰めになるではありませんか。 天を焦がす炎も薪をくべなければ、いつかは消えて絶えてしまいます。もっとちゃんと息抜きをしてください」 「ほら見ろ、……カノジョにまでこんなこと言われるようじゃ問題だぜ。肩の力抜けよな、うん」 「……善処するが、今は俺よりお前のことだ。そんなに眉間に皺を寄せておいて、何もないと言うことはないだろう?」 「あのなぁ、アル〜」 苦手な空気を打ち消すつもりで猿芝居じみたことをして来たのだが、言葉を交わすうちに少しずつ熱が上がってしまい、 いつしかアルフレッドは本気でニコラスの身を案じるようになっていた。深紅の瞳は真剣そのものに研ぎ澄まされている。 熱砂にて繰り広げられた一騎討ちは、言わば心と心の激突であった。醜い心さえもアルフレッドは露にしたのである。 そのときとは真逆の感情(おもい)を受け止めたニコラスは、鉄のグローブで固められた右の指先で鼻の頭を掻き、照れ臭そうに微笑んだ。 「心配するな」と返せば、これ以上照れ臭い思いはしなくて済むだろう。第一、正面きって不安を打ち明けることは憚られる。 感情を吐露することには、身悶えるような気恥ずかしさを覚えてしまうのだ。 しかし、親友から寄せられる真摯な気遣いを無碍にしたくもない。アルフレッドに応える為なら思いの丈と共に羞恥も吐き出すとしよう。 「……気がかりっつーか、まぁ、この先、どうなってくかは不安ではあるさ」 「社会的な保障も乏しいからな。不安に思うのは当然だ。そこはご老公とも相談してみようと思う」 「保障とか待遇の問題じゃねぇよ。……その、なんつったら良いんかな……」 「勿体つけずに言え。そんなにウジウジしていたんじゃミストに嫌われるぞ」 「俺を捕虜にしとくことでお前らに迷惑掛かるんじゃねぇかって、それだけが心配だよ」 「ラス……」 「アルカークの野郎が何を言ってくるか、分かったもんじゃねぇぜ。やりにくいだろ、あのヒゲのクソオヤジ」 そこまで言って、ニコラスは自分まで真顔になっていると気が付いた。 アルフレッドに引っ張られた所為か、どうやら自分でも気付かない内に熱くなっていたようだ。 「俺が近くにいることで痛くもねぇ腹を探られるのは不都合だろ。お前には相当やりにくいんじゃ――」 「――本当にやりにくかったら、とっくの昔に対策を練っている。俺はそう言う男だ」 「……アル」 「むしろ、やりにくいのはこいつのほうだ。抱きつき人形じゃないんだぞ。こうもへばり付かれたのでは、動きにくくて仕方ない」 「アルちゃん、それはあまりにご無体。わたくしはアルちゃんと共に在るのが運命なのですよ? 愛する殿方の傍に控えて支える喜びを動きにくいだなんて……」 「あ、いや――す、すまん、マリス。さすがに冗談が過ぎた……」 「あぁ、こりゃ確かに動きづれェわな。所帯持つってのは大変なんだな、他人事ながら」 「そう言う合いの手は要らんっ!」 やむにやまれぬ事情があったとは雖も、ギルガメシュに属したニコラスへ向けられる視線は必ずしも友好的とは限らず、 アルフレッドと共に多数派工作へ臨む中で、“寄生虫”を飼うような人間とは手を取り合えないと撥ね付けられたこともある。 これは、アルカークのような排他的な思考の持ち主が少なからず潜在していることをも示しているのだ。 そのことをニコラスは気に病んでいた。自分を抱えていることで連合軍の足並みが乱れるのであれば謝っても謝り切れない。 足手まといになる場合には構わずハンガイ・オルスの外に放り出して欲しいと、一度は言明した程である。 この哀しい申し出に対し、アルフレッドは了承する気など毛頭ないと即座に言い渡した。 ヒューとレイチェルに至ってはニコラスの首根っこを捕まえ、叱責(カミナリ)まで落としている。 誰が何と言おうとも俺たちは共に在る――その折にアルフレッドから掛けられた叱咤を、ニコラスは今再び反芻していた。 「ともかくだ――俺たちを仲間だと思ってくれているのなら、どこにも行く必要はない。 仲間同士、手を取り合って困難に立ち向かおう。……何度も言わせるなよ、ラス」 「……すまねぇな……」 「お前の困難は、俺たちの困難だ」 「こ、こうもクサい台詞を直球で吐かれちまったら、反応に困るってもんだぜ! 笑い転げりゃいいのか、……泣けばいいのか分かんねぇよ」 口調こそ静かだが、その言葉には有無を言わせぬ強い意志が込められている。改めてアルフレッドの友情を噛み締めたニコラスは、 今度こそ破顔を我慢し切れなかった。 照れ臭そうな笑みを浮かべたニコラスと、それを眩しげに見守るアルフレッド――ふたりの絆を間近で感じたマリスの面も 口元に柔らかい微笑を湛えていた。 「フェハハハ――小さい小さい! 実に小さい男よッ! しかるに貴様のような有象無象の小物には身の丈に相応しい眼力と言うものか! そうであろう、アルフレッド・S・ライアンッ!?」 ――と、ここで幕引きとなっていれば、友情の在り方を説く美談としてまとまったのだが、 庭園の静けさと周囲の喧騒を一束ねに破砕する高笑いの闖入によって、これまでの筋運びが台無しにされてしまった恰好である。 高飛車で、居丈高で、地上に存在する全存在を見下すかのような高笑いは、庭園に植えられた霊木の頂点より降り注いでいる。 仰ぎ見れば、頂上には月が掛かっていた――が、今宵はその貌(かお)が珍奇であった。 朧な光で地上を包んでいる筈の満月は、今日に限って炎の揺らめきを映し出している。 よくよく目を凝らせば、霊木の頂点では満月を背にして十字架が立ち、これを中心として烈火が燃え盛っているではないか。 「……ゼラール……」 霊木の頂点に何が在るのかを確信したアルフレッドは、呆気に取られるマリスとニコラスの傍らで盛大な溜息を吐き捨てた。 ――ゼラール・カザンその人である。霊木の頂点にて両手を伸ばし、自らを十字架に見立てて屹立していたのだった。 その身にはエンパイア・オブ・ヒートヘイズの劫火を纏わせている。舞い散る火の粉に至るまで己が身の炎をコントロール出来るのだろう。 大樹を踏みつけているにも関わらず、枝葉にさえ延焼は見られなかった。 アルフレッドが自分に気付いたものと確かめたゼラールは、全身から立ち昇る炎を翼に換えて地上へと舞い降り、 開口一番に「よう見れば小物輩がまたぞろ首を揃えておったわ」と悪態を吐いた。 彼の言行は常に己を上位者とする傲岸不遜なもの。稀有壮大なる紅蓮の翼にて羽撃(はばた)いたからか、 今宵は特に悠然とした立ち居振る舞いが強調されている。 ゼラールの気性に慣れている筈のアルフレッドですら辟易する程なのだ。 ニコラスとマリスには計り知れないような不快感が圧し掛かっているに違いない。 「いつから居た?」 「愚問とはこのことよ。そも貴様らが余のテリトリーへ侵入したがことの始まりぞ」 「……まさかと思いますが、ずっとあの樹のてっぺんにいらしたのでございますか?」 「そちがアルフレッド・S・ライアンを求めて彷徨い歩いておったのもこの目で見ておったわ。 斯様な朴念仁に懸想するとは、貴様の趣味は余には解せぬがな。愛い奴に甘えられても応じる術さえ知らぬ男ぞ」 「ア、アルちゃんの素晴らしさを理解しない貴方に言われたくはありませんわ!」 「……つーことは、最初から見られてたのかよ。全く気がつかなかったぜ……」 顔を真っ赤にして怒るマリスの隣では、ニコラスが左手で顔面を覆っている。 物理的に遮断されている為に実質を窺うことは難しいが、十中八九、呆れの表情を浮かべていることだろう。 「気付いていたなら一声掛けろ。相変わらず趣味の悪い男だ」 「小物同士が密会して何を企てるか、見物しておったのよ。ことに貴様はエルンストらに小賢しき入れ知恵をしておるようなのでな」 大樹の影は自然の摂理に従って地面へと落ちており、その頂点に人影があったとすればどう考えても不審だ。 それに気付かなかったのだから、「貴様らの眼力などその程度よ」と皮肉られてもアルフレッドたちには反論のしようがなかった。 「アルフレッド・S・ライアン、我が友よ。貴様、配下の小娘をワヤワヤへ派遣したそうだな?」 最初、“配下”と言う呼称に思い当たるものがなく、顔を顰めたアルフレッドだが、ワヤワヤと言う地名からひとつの閃きが走り、 これによってゼラールの発した問い掛けを全く理解した。 「配下でなくて妹だ。それに俺が派遣したわけじゃない。調査自体はお前の上官がメアズ・レイグに頼んだことだ。 フィーはそれに随行したに過ぎない」 「名などどうでも良いわ。……して、貴様の耳には如何な情報が入っておる?」 「どうと聴かれてもな――混乱し切っているとしか答えようがない」 「混乱? あれを混乱の一言で済ませるつもりか。甘い、甘いわ。二年熟成させた蜂蜜よりもなお甘い。 その甘さ、いや、臆病こそが貴様の限界と言うものを如実に表しておるわい」 「……たかが言葉のアヤをそこまで悪し様に言うお前も十分にどうかと思うがな」 「して――件の買収騒動を聴いた瞬間(とき)、貴様はどう思った? 何を考えた、アルフレッド・S・ライアン」 フィーナたちも立ち寄ったと言う領事館から緊急連絡が入ったのか、ゼラールもワヤワヤの窮状を把握しているようだ。 テムグ・テングリ群狼領にとって赦し難い叛逆行為を確かめたと言うのに彼は微塵も動じておらず、 その興味は、フィーナから報告を受けたアルフレッドの反応にのみ向かっている。 「下々の事情などは全て把握しておる」と大威張りしながらアルフレッドを見下ろす眼差しは、 「よく飽きないものですわ」とマリスが溜息を吐き捨てる程に傲慢であった。 「アルフレッド・S・ライアンよ――粛清には行かぬのか?」 どう答えようかと迷っているアルフレッドに焦れたのか、はたまた他人の逡巡など考慮にも入れていないのか、 ゼラールは畳み掛けるようにして質問を重ねていく。「質問は一度につき一つにしておけ」と言う呆れ声すら黙殺し、返答を急く彼のことだ。 他者が思料に要する時間など待てる筈もなかった。 「……どう言う意味だ?」 「粛清」と言う苛烈な言葉でもって鼓膜を打ち据えられたアルフレッドは、口元を歪めるゼラールへ訝るような眼差しを向けた。 「質問に質問で返すとは愚の骨頂。阿呆の極みであるな。思い返してみよ。粛清には行かぬのか――ほれ、言葉通りぞ。 己が計略に背くものは誰であろうと抹殺するのであろう? ワヤワヤの奴輩も粛清の対象となるのではないか?」 「……ギルガメシュに寝返ったわけではないだろうが。テムグ・テングリの領地問題にまで口出しするつもりはない。 俺の仕事は連合軍を勝利に導くことだけだ。今のところは様子見としか言いようがない」 「誉めて遣わすぞ、適切な言い逃れをよくぞこの短時間で思いついたものじゃ」 「誤解があるようだからはっきりさせておくが、何でもかんでも処断するつもりはないぞ。無差別な粛清は味方の士気に関る。 篭絡できるものなら武力の前に餌で釣るさ」 「ルナゲイトの新聞王やビッグハウスの冒険王のようにか? さても、優しき心配りではないか、軍師殿。 赤髪の小僧っ子も言うておったが、やはり、貴様は悪にはなり切れぬわ」 「お前にどう思われていようと知ったことじゃないが、俺は状況に応じて手札を変えているだけだ」 「もうよいもうよい。いくら言い逃れが得意と申しても短時間で使い続けては息切れにもなろう。 貴様のペテンは余には通じぬ故、早(はよ)う存念を申すがよい」 「おい……」 「――徹底的な統制を進言しておきながら、いざとなれば逃げ道を探しに出る。しかも、その道とは己自身が逃げ込む為のものぞ。 軍人として甘いとは思わぬか、アルフレッド・S・ライアン。兵権を取る者としてはあまりに惰弱よな」 粛清の二文字を掲げてアルフレッドに迫るゼラールの右手には、紅蓮の炎で形作られた大きな鎌が握られている。 赫亦(かくえき)なる刃先を彼の首筋に近付けては、断頭の真似を繰り返し続けた。 無論、これは挑発の域を出ておらず、実際にアルフレッドの首が落とされるようなことはない。 それが証拠に鎌の刃先と首の間にはかなりの隙間が開いている。熱風によって火傷を被りそうにはなるものの、 今のところは薄皮さえ焦がされていなかった。 乾いた音を立てて爆ぜる火の粉よりも気掛かりなのは、これ見よがしに大鎌を作り上げた意図である。 余人の目には戯れのように映る行為であるが、ここからワヤワヤ粛清の暗喩を抜き出すのは突飛な想像だろうか。 アルフレッドの献策を絶対の基準とするのであれば、ゼラールが指摘したようにワヤワヤは裏切り者として粛清せざるを得なかった。 裁きの鉄槌を振り落とすようエルンストに進言すべきことでもある。 先程は介入の意思がないように振舞ったが、その内心は正反対。ワヤワヤが仕出かした行為は最悪としか言いようがないのだ。 この状況に於いては馬軍の領地など問題ではない。連合軍の足並みを乱す行為が許し難いのである。 主将たるエルンストの領地から落伍者が出たと言う事実は、必ずや士気に悪影響をもたらすだろう。 史上最大の作戦の要とは、逆転を期した仮初の降伏だとギルガメシュに悟られないことである。 これを成し遂げるには人としての情さえ切り捨てる覚悟が不可欠であった。 裏切りの疑義がある者は肉親とて容赦なく抹殺すべし――声高に宣言したのはアルフレッド当人なのだ。 そこまでの強弁を打ったからにはAのエンディニオンへと身売りしたワヤワヤは葬り去らねばならない。 それが道理と言うものであった。今後の情勢次第でロンギヌス社がギルガメシュに与するとも限らない。 両者が“同胞”であると言う事実はどうあっても覆せないのだ。 ワヤワヤには史上最大の作戦の概要は通達されておらず、即時に機密が漏洩される心配はない。 だが、件の身売りへ同調する動きが連合軍の中に起こってしまったら――それこそが最も恐れるべき展開であった。 「黙って聴いてりゃ、あんた、ちょっとフザけたことを言い過ぎじゃねぇか? 軍人だろうが軍師だろうが、人を殺せばいいってもんじゃねぇだろ! 粛清しねぇっつーだけでアルが逃げてるってのか!? 一体、何から逃げてるってんだよッ!?」 「戦いを避けるのもアルちゃんの優しさですわ。温情を持つ者にしか人は随いて参りませんっ」 「兵馬の回し方すら解さぬ雑魚どもは黙っておれ。見苦しいわ」 不当且つ辛辣に罵倒され続けるアルフレッドを見ていられなくなり、ニコラスとマリスは彼に代わって反抗を試みたが、 ゼラールはこれを一喝のみで封じ込めた。 なおも喰ってかかろうとするふたりをアルフレッドは目配せでもって制し、改めてゼラールと向き合った。 ゼラールの手に在った鎌は、いつの間か単なる火の揺らめきに戻っている。 それが赤熱の燐粉を撒き散らす灯蛾へと姿を変え、妖艶に舞い躍っては夜空を朱に染め上げていった。 アルフレッドの周囲を旋回すると、彼の輪郭は夜の闇の中で浮き彫りとなる。 ゼラールはその面を右の人差し指にて示し、この上なく厭味な高笑いを上げた。恩讐、未だ消えず――と。 「本気で大量虐殺しろと言っているのか、お前は。俺は軍の統率の重要性は説いたが、独裁政治を勧めたわけじゃない」 「裏切りの兆候ありと見なせば首を刎ねろと申したのは貴様ではないか、アルフレッド・S・ライアン」 「それは認める。ギルガメシュに味方する者、その疑いがある者は全て抹殺する。 そこまで徹底しなければ拾える勝ちも見逃す」 「ならば、貴様の妹とやらに今すぐに下知せよ。ワヤワヤはその取決めから外れた。紛れもない粛清対象じゃ。 調査依頼から外れると言う御託は要らぬぞ。貴様は作戦の提案者じゃ。裏切り者を粛清したとて誰も批難すまい。 それどころか、己が計略の手本と示したと認められようぞ」 己に向けられた指の先をアルフレッドは鷹のように鋭い眼で見据えている。 眉間にはある種の歪みの如く皺が寄りつつあった。 「今一度、問おう――アルフレッド・S・ライアン、貴様にワヤワヤが討てるのか? 裏切り者の討伐を下知出来るか?」 ワヤワヤ討伐の是非を問い質したゼラールに対し、冷厳なる眼差しを向けることで 無言のうちに肯定を示すアルフレッドだったが、その直後、突如として驚愕の面相を浮かべた。 双眸を見開いただけでは変調は終わらず、ゼラールから視線を反らすようにして俯いてしまった。 「フェハハハ――化けの皮が剥がれたようじゃな、アルフレッド・S・ライアン」 豹変の一部始終をつぶさに見届けたゼラールは、先ほどにも増して大きな笑い声を上げた。 「だから、甘いと言うておるのじゃ。今すぐ攻撃命令を下せば奇襲に持ち込めたであろう? 貴様はその好機をみすみす看過した。それでよく勝機だ何だと吹いたものよな」 「いい加減にしてくださいまし! 彷徨える命を前に戸惑うことが罪だと言うのなら、あなたは極刑に値するのではありませんかっ!? 命の為に葛藤するアルちゃんを追い詰めたッ! 恥を知りなさい!」 侮辱以外の何物でもないゼラールの態度には、さしものマリスも我慢の限界を来した。 激情を爆発させ、気色ばんで食ってかかるが、当のゼラールはアルフレッドを見据えたまま彼女になど一瞥さえくれなかった。 眼中にも入れずに「こやつを真の善人と思うてか? 片腹痛いわ」と嘲笑を浴びせ掛けるのだ。 「アルフレッド・S・ライアンがワヤワヤの粛清を躊躇う理由はな、貴様が妄想しているようなものとは違うのじゃ。 貴様の妄想の中ではこの男はどのように振る舞っておる? 白馬の王子様とでも言ったところか? そのような者は地上のどこを探してもおらぬ」 「そんなことございません! アルちゃんはわたくしの永遠の王子様ですッ!」 「大局よりも身内への情に流された男ぞ、こやつは。そんな見下げ果てた男を捕まえて、貴様は美しいと言うつもりか?」 「なっ……」 「命の為に葛藤? ワヤワヤなんぞ道端に落ちておるゴミとしか見ておらぬのにか? 己の妹や仲間の手を汚すのが忍びないからワヤワヤへの攻撃命令を呑み込んだ――それだけのことじゃ。 要は尻込みしおったのよ。この群衆(むれ)の中で誰より覚悟が足らぬのはこの男じゃ」 「それの何が悪いってんだ? 人並みの心ってもんがあるなら誰だって同じことするじゃねーか!? 仲間にド汚ぇことを平気でやらせるヤツのほうが、アタマおかしいぜ!」 マリスに続いてニコラスもゼラールの態度に激昂し、胸倉を掴みに掛かっていく。 チョーカーを締めた細首へと鉄製のグローブが触れるか否かの瞬間、一羽の灯蛾が彼の鼻先を掠め、その動きを制した。 鼻先を薄く焦がした灯蛾はその場で激しく燃え上がり、ゼラールとニコラスとを遮断する炎の壁と化した。 傍目にはニコラスを遮る為の防御壁のように見えるが、それにしては火勢が余りにも激しい。 圧し掛かるほどに大きな炎は、むしろ示威に近いのであろう。その気になれば骨まで焼き尽くせると言う威嚇であった。 戦場に出れば配下より先行してエンパイア・オブ・ヒートヘイズを繰り出し、 相対する敵兵を消し炭に変えてしまうゼラールのことだ。その可能性は十分に考えられる。 「何度も繰り返させるな、赤髪よ。余がいつ身内の情を否定したと言う? 余の鼻を笑気で叩くのはな、身内以外があの場におったらワヤワヤを根絶やしにしたであろうこやつの愚かしさよ」 「バカ言うな、アルがそんな――」 アルフレッドの擁護を試みるニコラスだったが、抗弁は半ばにて途切れてしまった。 どうにかしてゼラールを言い負かそうと思考を巡らせる中で、彼の指摘にこそ理があると気付いたのである。 アルフレッドが非道であるとは思わない。その点だけはニコラスも断固として譲らないつもりだ。 彼の立てた作戦がある種の残虐性を帯びていることさえ飲み込んでいるのだ。今更、恐れを為す理由もない。 ただひとつ――ゼラールによって抉り出された『アルフレッドの弱点』がニコラスから反論を奪ったのである。 「身内に攻撃命令に下せと言うたとき、こやつは如何なる面(つら)を晒した? それが全てを物語っておるのよ」 燃え盛る炎の壁に右手を差し伸べ、果実でも毟るように一握りの塊を抜き出したゼラールは、この火球をアルフレッドの足元へと投擲した。 落下するなり小規模な炸裂を起こした火球は、刹那の発光でもってアルフレッドの横顔を照らし、 そこに宿る昏い想念を宵闇へと映し出した。当惑、憤激、悲哀、そして、恩讐――数多の感情が入り混じった面相である。 「貴様もテムグ・テングリも、余に言わせれば底が知れておるのじゃよ。 目先の勝利にばかり鼻息を荒くして、負の連鎖を断ち切ろうとは少しも考えておらぬ。いや、現実に目も向けてはおるまい。 ワヤワヤを唆した――ほれ、ピーチ・コングロマリットと言うたか? かの小悪党のほうがよほど世情に通じておるわ」 「俺は俺に考え付く限りの作戦を練り上げたつもりだ。現実的な問題へ対処する為のな。 欠陥を指摘するのなら幾らでも受け入れるが、代わりに対案も挙げろ」 「対案? なんじゃ、貴様の浅知恵より優れた計略を作ってやればよいのか? もう一度、繰り返してやるから感謝して跪け―― 良いか、かような体たらくを余は呆れておるのじゃ。戦略だの戦術だのと馬鹿の一つ覚えのように繰り返すが、 それしか視野に入っておらんのが既に蒙昧なのじゃ。これで良くぞエンディニオンの覇を争うなどと大法螺を吹いたものよ」 「戦いに勝たなければ何も始まらない。遠い先のことを胸算用していられるほど俺たちに余裕はない。 ギリギリの状況を挽回させるのがどれほど骨の折れることか、お前にだってわかるだろう?」 「質問に質問で返すのは、相手の質問があまりにくだらないときじゃ。勝利の先をも見据え、長期的な計画を練るのが覇者の務めぞ。 しからば御屋形様はどうか? 未来のビジョンを示したか? 余の知る限り、具体的には何も肩ってはおるまい」 「エルンストも俺と同じだ。夢想になんか浸ってはいない。お前と一緒にするな」 「阿呆が。……どこまでも阿呆めが。上に立つ人間がボンクラならば、手下まで鈍らになるのも道理じゃな。 ギルガメシュのほうがよほど健全な戦後統治のプランを持っておろう。断言しても良いぞ」 「ギルガメシュのほうがマシと聞き捨てならないぞ、ゼラールッ!」 心の弱さを暴き立てられ、苦痛に苛まれるアルフレッドであったが、ギルガメシュを肯定するかのような発言を耳にしては黙っていられない。 いくら旧友とは雖も、こればかりは許せる筈がなかった。 怒りに燃える旧友を鼻先で嘲ったゼラールは、続けて二度三度と両の掌を打ち鳴らした。 アルフレッドを小馬鹿にしようと手拍子を打ったのではない。何者かを呼びつける為の合図だった。 「畏まりました」と応じる声が上がったかと思うや否や、霊木の後ろに控えていた人影が宵闇を裂いて現れ、 アルフレッドへ一礼した後、ゼラールの傍らに跪いた。 三十に手が届くか否かと言う年頃の男である。アルフレッドたちにとっては初めて見る顔だが、彼もまたゼラール軍団の一員に違いない。 どこか狼を彷彿とさせる出で立ちであった。全身をすっぽり包み込むほど大きなグレートコートや首回りを覆うマフラー、 耳当て付きのクロケットハットに至るまで全て灰褐色の毛皮で誂えてある。帽子の後部からは野獣の尻尾を模した飾りが飛び出している。 これもまた剽悍な狼を思わせるデザインであった。 マフラーの上から締めた細身の革帯は、首輪の代わりと言ったところであろうか。同じ素材のベルトは腰にも見られた。 これもまたグレートコートの上に締められており、側面には黒い革紐で短剣を吊り下げている。 ゼラールの首に在るチョーカーは鎖でもって装飾の短剣と繋がっており、これをペンダントのように垂らしているのだが、 彼が携えた一振りも盟主(あるじ)たる閣下と全く同じ物。鋸の如く歪で、且つ、血の色の刀身を持つ短剣である。 装飾としての機能に比重が置かれたゼラールの物より一回りは大振りであり、鞘より抜き放てば実戦でも十分に通用するだろう。 彫りの深い面を生真面目に引き締めた男は、恭しく礼をした後、「バスカヴィル・キッド」と名乗った。 「――またはゾリャー魁盗団のリーダーって言う肩書きもあるわね」 そう言ってバスカヴィル・キッドの説明を補ったのは、彼と共に姿を現したピナフォアである。 トルーポたちはハンガイ・オルスを発つ支度で忙しいのだろうか。ゼラールが供として従えているのは、このふたりのみであった。 ピナフォアが口にしたゾリャー魁盗団と言う名称にはアルフレッドも聞き覚えがある。 記憶が曖昧ながら、世界各地で金庫破りや銀行の襲撃などを繰り返してきた盗賊団であった筈だ。 いつかヒューとの雑談でも名前が挙がったと記憶している。 「盗賊団だの強盗団だの、仕事柄、そーゆー連中は腐るほど見てきたけどよ、ゾリャー魁盗団だけは別格だぜ。 盗んできた金銀財宝を派手にばら撒きやがる。……捜査なんて始めてみろ。あっちこっちから妨害されまくりだっつーの。 ジューダス・ローブとは別の意味で相手にしたくなかったぜ」 名探偵が臍を噛むのも頷ける。ゾリャー魁盗団とは、言わば義賊集団なのだ。 富める者からしか盗まず、しかも、収奪した財宝は殆どを貧困に喘ぐ者へ分け与える――これで民の支持を得られぬ理由(わけ)がない。 不当なやり口で暴利を貪る悪党には特に容赦がなく、億万長者を無一文に転落させると言う痛快な神業を見せ付けることもあった。 ここ暫く名を聞く機会がなかったので、スカッド・フリーダムに鎮圧でもされたものと勝手に想像したのだが、 いつの間にかテムグ・テングリ群狼領の――いや、ゼラールの靡下に入っていたようだ。 義賊を標榜してきた為か、それとも生来の性分か。アルフレッドへ角形の茶封筒を差し出す際にも畏まって跪いている。 これにはアルフレッドも面食らってしまった。はち切れんばかりに膨らんだ茶封筒を受け取りはしたものの、 どのように声を掛ければ良いのか、見当も付かないのである。誰かに平伏された経験など今までにはない。 ピナフォアも「そんなヤツにまで謙る必要ないわよ!」と呆れ返っていたが、あくまでもバスカヴィル・キッドは礼儀を尽くそうとする。 盗賊と言う一種の汚名がこれ程までに似つかわしくない人間は、世界中のどこを捜してもいない筈である。 困ったようにゼラールへと目を転じるアルフレッドだったが、彼は封筒を開けるよう顎でもって催促するばかり。 旧友を助けようとする気配など一切見られない。 「臭いものに蓋をして隠してしまうような小物輩が、ギルガメシュの情報を探っておるとは思えんのでな。 特別に施しをくれてやろう。歓喜の涙を流すが良いぞ」 「……どう言う意味だ?」 「鈍いの。そこに入っておるのは支援プログラムじゃ、ギルガメシュ製のな。向こうも向こうで食糧の配給やインフラの整備に至るまで 長期的に難民を支援する計画を組んでおったのよ。戦争に勝つだけでは何も生まん。肝心要はその後の采配ぞ。 明確なビジョンを出せぬでは、民の心は千々に乱れるのみじゃ」 「――どう言う意味だ!」 「言うた通りぞ、アルフレッド・S・ライアン。ギルガメシュは戦後の展望も確(しか)と持っておる。貴様とは違うのじゃ」 さも当然のようにギルガメシュ側が抱く戦後の展望を語るゼラールだが、彼がそこまで深く敵状を知り得た理由は不明である。 満面を強張らせたまま、ついに黙り込んでしまったアルフレッドに成り代わり、 ニコラスが「どうやったらそんなもんを調べられるんだよ。あんた、エスパーかよ?」と情報の出所を訊ねた。 ゼラールはこれを鼻先で嘲り、想像力の欠如とまで罵った。 「会談に忍び込んだに決まっておろうが。目と鼻の先にギルガメシュの使者がおるのだぞ? 聞き耳立てぬなど間抜けでしかないわ」 「ご、ご冗談でしょう? ジョゼフさんでも締め出されたのですよ? ゼラールさんにどうやって――」 そこまで言って、マリスは口を噤んだ。ゾリャー魁盗団の長がこの場に在ることは、それ自体が疑念に対する名答でもあるのだ。 万全のセキュリティが行き届いた大富豪の邸宅に侵入し、一切合財を収奪してしまえるバスカヴィル・キッドにとっては、 議論の盗聴など造作もないことであろう。 「――ふざけるなッ!」 茶封筒の中身はギルガメシュのプランを詳細にまとめた書類に違いない。開封するまでもなくそのことを悟ったアルフレッドは、 怒りに任せてこれを地面に叩きつけた。真っ白な書類が宵闇に舞い散ったが、そんなことは気にも留めていない。 血走った眼でゼラールを睨み据えた。 「お前はそんなデタラメを信じるつもりか!? あいつらにその力があると思うか!? 断言してもいい。あいつらにそんな余力はない。 必然的に資金や資材は現地調達になる。……略奪だよ。お前はそれで良いのか? 強盗まがいの接収を許せるのか!?」 「ほう? 臆病者にしては性急なことよな。必ず略奪が行われると、どうして分かる? 未来を見通す力を持っておったかな?」 「未来はとっくに炭クズになった。過去(おもいで)も焼き尽くされた。……だから、分かるんだよ。 お前に分かるのか? ヤツらに何かを奪われたかッ!?」 グリーニャの悲劇はバスカヴィル・キッドも承知していたようだ。故郷の焼亡を根拠としてギルガメシュの非道を語るアルフレッドに 憐れむような目を向けている。 「そうやって巻き上げられた金と物で何が救われる!? そんなものはギルガメシュの自己満足だ。……偽善でしかないッ!」 「偽善の何が悪い? 自己満足であろうと、それによって救われる人間もおろうが。 前時代的で非生産的なことしか考えられん愚か者より遥かに上等じゃ」 「ハーヴの台詞を借りるなら正義は地上から消え失せるな。奴らは潔癖か? 邪悪そのものだ! 紛い物の慈善活動は印象操作の常套手段だろうが! 一時的な救済など、将来の悲劇に壊されるのみ!」 「妙なことを刷り込まれると怯えておるのか? 金払いの良いギルガメシュに皆が靡くと? 小さい小さい!」 「ギルガメシュに徳のないことを知らしめねば、本当の勝利にはならないと言っている!」 「そもそも、貴様に金の話をする資格などあるのか? ルナゲイトの後ろ盾なくしては独力で立つこともままならぬスネ齧りよ。 最近は冒険王もスポンサーとなったのかのぉ」 「利用出来るものは利用し、邪魔になりそうなものは先んじて封じておく。戦略を練り上げる上でのセオリーだ。 お前だってロドニー教官に習っただろう? アカデミーの講義を忘れたのか?」 「スネ齧り風情に名を呼ばれるとは、ロドニーのオヤジには不名誉なことであろうの。 難癖をつけるのみで発展性のない愚物が大局を語るでないわ」 「難癖とは言ってくれる! それは貴様だろうがッ!」 アルフレッドとゼラールのふたりが繰り広げる論争に気圧され、ニコラスもマリスも完全に言葉を失っていた。 盗賊団と言う闇の稼業に生き、人並みはずれた胆力を備えている筈のバスカヴィル・キッドでさえ、 この激烈な応酬には口を挿む余地さえ見出せずにいる。 「根本的な解決をせぬ限り、この混乱はいつまでも続くのだと言うておるのじゃ。 未来に如何なる世界を築くか――これを失念し、今そこにある戦いにしか頭の回らぬ浅はかさ! 力の限界、愚物と批難されるのが悔しかろう? されどそれが紛れもない貴様なのだ。弁えよ、アルフレッド・S・ライアン!」 「長期的な展望を見出す為の、短期的な対処だ。当然、戦後の対処もプランに入れている。 まず、分断された勢力を取り戻し、それから――」 「論功行賞の打ち合わせなど誰も知りとうないわッ! 世界を救う術を開示せよッ!」 これまでにない大音声をぶつけられたアルフレッドは、余りの迫力に思わず後退り、紡ごうとしていた言葉さえ呑み込んでしまった。 気持ちでは反論に逸っているものの、その衝動とは裏腹に肉体は完全に竦んでしまい、喉などは痛みで咳き込む程に渇いていた。 本人の意思から切り離されてしまったかのように深紅の双眸も忙しなく泳ぎ回っている。 身の震えを伴うくらいゼラールに威圧されていると言う事実をアルフレッドはどうしても認められなかった。 意見の相違は言うに及ばず、嘗て机を並べて学んだ旧友――好敵手に器の違いを見せ付けられた格好でもあるからだ。 彼に遅れを取ることは屈辱以外の何物でもない。 「難民救済を如何にして完遂するのかと聴いておるのじゃッ!」 「難民……救済? あんた、難民の救済を目指しているのか?」 俄かにアルフレッドが沈黙し、ようやく発言の機会を得たニコラスだったが、 口を衝いて出たのは意見と言うほど洗練されたものではない。電流の如く身の裡を走り抜けた驚愕が食み出したようなものである。 声にこそ出さなかったものの、驚きに目を見開いているのはマリスも同様である。 大きく胸を反り返らせ、「無論じゃ」と大威張りのゼラールに奇妙な眼差しを向けていた。 生まれて初めて接触する珍獣を窺うような――そんな驚きが深紅の瞳に宿っているのだ。 ――難民救済。 戦雲に埋もれてしまってはいるが、アルバトロス・カンパニーと同じ境遇の迷い人が加速度的に増え続けるエンディニオンでは、 本来は最優先で考えなければならない問題である。ロンギヌス社やスカッド・フリーダムなど一部の有志に委ねて良いことではない。 世界規模で取り組むが急務であった。 その機運を高めるチャンスが今までに全くなかったわけではなかった。 ルナゲイトで開かれたサミットに於いても難民問題は多くの議論を呼んだのである。 結論が出る前にジューダス・ローブ及びギルガメシュの襲撃を受けてサミット自体が有耶無耶の内に破綻し、 これ以降、全人類の最優先事項はテロリストとの戦争に摩り替わってしまった。 ギルガメシュとの戦いに臨む連合軍の中で難民と真剣に相対している者は、果たしてどれだけ存在するのか。 佐志やグドゥーなどAのエンディニオンと親しく交わった一部の者に限られることだろう。 何しろ連合軍は瀬戸際まで追い込まれている。戦争以外に注意を払うだけの余裕もないのだから、これは無理からぬ話である。 結果、難民と言う不可避の問題へ実際に取り組んでいるのは、 ギルガメシュやロンギヌス社などAのエンディニオンの組織ばかりとなった。 これほど皮肉な話もなかろう。難民と境遇を同じくする者しか解決に動けないと言うことなのである。 彼らを寄生虫扱いするアルカークならば、「同族で傷を舐め合っている」などと侮辱的な放言を飛ばした筈だ。 しかし、ゼラールは違った。ふたつのエンディニオンの誰しもが考え、解決に向けて取り組まなければならない問題―― 難民救済の完遂を臆することなく言明したのである。自分以外の者を常に見下しているようなこの男が、だ。 ゼラールと言う男を傲岸不遜としか思っていないマリスが、信じられないと言った調子で頭を振るのは当然と言えば当然であろう。 テムグ・テングリ群狼領の将士がこの場に居合わせたなら、顎が外れるくらい口を開けっ広げて驚くに違いない。 「エンディニオンに溢れる救われない人々を閣下は常々憂いておられました。難民もその内に含まれております。 ……我々も、それにペガンティン・ラウトも、閣下の大いなる慈悲で助けられたのですから」 己が盟主(あるじ)のことを誇るバスカヴィル・キッドにマリスはまたしても衝撃を受けた。 「慈悲を以って他者を助ける」など、ゼラール・カザンと言う歪んだ人格からは天と地ほどにかけ離れているとしか思えないのだ。 そもそも、だ。慎みと言う感覚(もの)を持ち合わせる人間であれば、功績をひけらかすようなバスカヴィル・キッドを窘め、下がらせただろうが、 ゼラール本人は得意気に踏ん反り返っている。崇められて当然とばかりの横柄な態度である。 それにも関わらず、バスカヴィル・キッドは“慈悲深い閣下”について熱っぽく語り続けるのだ。 彼が率いる盗賊団も最近ではスパイ活動より難民の実態調査のほうが忙しいと言う。 最後には「閣下はご自身の慈悲が全ての難民にまで行き届くことを願っているのです」とまで付け加えていた。 「生まれた世界の違いなど関係ありません。そもそも、人間と言う生き物は、皆、どこかしか違っていて当然ですからね。 寒さに耐え兼ねて身を寄せ合うとき、いちいち出身地を確認しますか? ……それと同じことです。 閣下の慈悲は、世界の違いなどに左右されるものではござません」 「そ、それはどちらのゼラールさんでございますか? わたくしの知っているゼラールさんとは似ても似つかないのですけれど……」 「臣下だからと言って美化しているわけではありませんよ。脚色する必要などありません。 閣下は常にエンディニオンの未来を見据え、今、最も求めていることを実行なされる御方なのです。 即ち、閣下御自身が世界に、時代に求められていると言うこと」 「……その結論は同意しかねますが、けれども――」 虚実の乖離に混乱し、思わずアルフレッドを振り返るマリスであったが、どう言うわけか、彼は神妙な面持ちになってゼラールを見つめている。 (……そうか、またお前は誰かを――いや、もっと多くの人たちを……) ゼラールが難民救済を口走ったときは確かに驚かされた――が、不思議と違和感に苛まれることはなかった。 それどころか、「あいつなら、そんな大それたことを言い出しかねない」と心底から納得までしている。 アルフレッドとてバスカヴィル・キッドが言う「大いなる慈悲」に救われたひとりなのだ。 絶望の闇へと転落しかけたとき、「我が友」と言う呼び声が光溢れる場所まで引っ張り上げてくれた。 己の全てを否定しそうになったとき、ただその一言が心身を奮い立たせてくれた。 陰鬱すら突き破る高笑いでもって鼓膜を叩かれていなかったなら、今、こうして相対していたかも分からない。 バスカヴィル・キッドの語った慈悲と言うものがアルフレッドは実感として解るのだ。 何か裏があるのではないかとゼラールを訝るように睥睨していたニコラスもアルフレッドの表情から全てを悟り、 次いで不必要な疑念を打ち消した。 両帝会戦の終結直後、打ちひしがれたアルフレッドを「他の誰が裏切っても、余は貴様を裏切らぬ」と鼓舞した姿は、 今もニコラスの記憶の中で鮮烈な光を放っている。 「迷える子羊どもを収まるべき檻へと追い立ててやるのも覇者の務めよ。それも解せぬか、アルフレッド・S・ライアン。 無知で蒙昧とはこのことよ。血も涙もない人非人と呼んでくれようかの」 「本気……なのですわね。意外ですけれど……」 「赤髪の小僧っ子とその愉快な仲間たちだけではないぞ。ワヤワヤとて等しく救わねばならぬ。あれらも難民と変わらぬぞ」 「……難民? ワヤワヤの人間が、か? フィーの、……いや、妹からの報告では、あいつらは別に難民では――」 「間抜けたことを申すでない。ワヤワヤはれっきとした難民予備軍ぞ。覇者の手にて救うべき民ぞ」 聳え立つようにして燃え盛っていた炎を太陽の如く球状に変化させたゼラールは、 これを掌の上に乗せ、アルフレッドの眼前へと突き出した。 「何故、ワヤワヤがロンギヌスとやらに土地を売り払ったか、その原因を考えてみるがよい。 あれらをそこまで追い詰めたがは先の戦ぞ。……突き詰めて行けば、余や貴様と言うことになるのじゃ」 「……解っている。言い逃れする気はない」 「いや、解ってはおらぬ。ワヤワヤはテムグ・テングリの台所とも言うべき要所ぞ。真っ先に狙われようぞ。 ……ギルガメシュが手出し出来ずとも、テムグ・テングリが報復に出なくとも、狙いを付ける者は数知れぬ」 「裏切り者の成敗を口実にして略奪を仕出かす者が出る――と言いたいのか。 ……いざと言うときには、スカッド・フリーダムが出張するだろうよ。ヤツらはロンギヌス社と懇ろのようだからな」 「ならば、ワヤワヤ以上に脆いビルギットは如何する? バイケルとか言う代表者など見るに耐えんぞ。 先の合戦で余力を使い果たしておる故な。最早、村の自衛すらまともに維持できんはずじゃ。 戦争が続けば村を捨てざるを得なくなると方々に助けを求めておったわ」 「その件は報告を受けている。マイクが話をつけたそうだ」 「しからば、アルフレッド・S・ライアンよ。貴様はワイルド・ワイアットなくしてビルギットを救えたか? 此度の作戦、貴様は天運こそ要と抜かしたそうじゃが、何もかも運頼みとは言うまいの?」 「マイクを引き寄せたのは、ビルギットの運だ。俺の運が良かったわけではない」 「然様な論法が通じると思うてか? 戦争は今後ますます激化していく。そうなれば、か細い運など容易く踏み潰されよう。 力なき民を何よりも揺るがすのは、いつ失せるとも知れぬ暗雲に他ならぬ」 「……酷な言い方になるが、勝つ為には多少の犠牲にも目を瞑らなければならない。 最少の犠牲で最大の戦果を挙げることが作戦家の役目だ」 「犠牲の種を撒いたがは貴様自身であろう、アルフレッド・S・ライアン。貴様の立てた作戦で犠牲になるのは、 地を舐め、這いつくばっておる者たちよ。……貴様、予測犠牲者数を算出したことがあるか? 今なお復讐のみに囚われ、ギルガメシュを滅ぼすことしか考えておらんのではないか?」 「もう一度、繰り返す。……言い逃れはしない――」 皮膚が焦がされてしまうような至近距離に火球を感じながらも、アルフレッドはたじろぎもせずにゼラールを見据えている。 月下に現れた太陽でもって照らされる双眸には依然として昏い陰が差し込んでいるものの、 身の裡より発せられる決意の輝きは、煌々たる炎と拮抗する程に眩い。 如何なる批難にも屈さず、己の選んだ艱難の道を進み切ろうとする強さがアルフレッドを満たしていた。 掛け替えのない友と言葉を交わす内に、その力が湧き起こっていた。 「――お前の言う通り、俺は犠牲者数を割り出していたわけじゃない。ただし、全く想定をしていなかったこともない。 恨みも業を背負う覚悟であの戦略を練ったんだ。誰に後ろ指差されても俺は自分の作戦を曲げるつもりはない。 ……誰かの批難で曲げるなんて有り得ない話だ。それこそ犠牲者への侮辱だ」 「余は全て否定してくれるわ、貴様の粗略も足りぬオツムもな。 貴様が当然の犠牲とほざく一二〇〇〇世帯全てに余が手ずから施しをくれてやろうぞ 「……一二〇〇〇世帯……?」 「新たに発生が予想される難民の世帯数ですよ。我々の独自の調査による概算なので増減はあるかと思いますがね」 バスカヴィル・キッドが説明を補足し、ゼラールは不愉快そうに鼻を鳴らして首肯した。 部下の差し出口が面白くなかったと言うことではない。「一二〇〇〇世帯」と言う数字が彼には腹立たしいのだ。 「ワヤワヤとビルギットも含まれた概算よ。一二〇〇〇世帯――およそ九六〇〇〇もの民が路頭に迷うのじゃ。 戦争の激化によって故郷を焼け出されてな。全体の比率まで確かめると、予想される難民の多くは低所得だそうな。 ……尤も、これは昨日の深夜零時までのデータじゃ。今は更に予想者数が増えておるやも知れぬ。減らぬことだけは確かであるがな」 これにはアルフレッドも脱帽せざるを得なかった。具体的な予測数まで把握し、 且つ詳細な分析まで行なっているとは思わなかったのである。 難民救済に寄せるゼラールの決意の強さと、何よりも真摯な姿勢がその一言に集約されているようだった。 「貴様に救えるのか、九六〇〇〇人分の命が。責任が持てるのか、一二〇〇〇世帯の命運に」 アルフレッドには答えられなかった。ここまでの覚悟を以て難民救済に当たろうとするゼラールに対して、 何事か語る資格さえ自分は持ち合わせていないと思っている。 「なればこそじゃ。余がやらずして、果たして誰がこの覇業を達成すると言うのじゃ。 ゼラール・カザンの雷名(な)を以ってエンディニオンに恒久の平穏をもたらそう。 世情の安定なくして難民の増加は食い止められぬ。故に根本的な解決を要すると申しておるのよ。 ……貴様の尻拭いをしてやろうと言うのじゃ。額を擦りつけて感謝するが良いぞ、我が友よ」 不出来な友を持つと苦労するわ――夜空へ放った灼熱の塊を花火の如く炸裂させ、 高らかに笑うゼラールの顔をアルフレッドは改めて見つめた。 士官学校で机を並べていた頃からゼラールは傲岸不遜ではあった。名家の出身であることを鼻にかけ、トルーポら取り巻きを侍らせ、 教官であろうが誰であろうが全ての人間を見下し、争いの種を自ら振り撒いていたのだ。 己を誇示するだけの能力が備わっていたことは確かである。 戦略シミュレーションや格闘術こそアルフレッドに首席を譲ったものの、次席は必ずキープしており、 それ以外の教科では他の追随を許さない突出した成績を叩き出していた。 平素の振る舞いとは裏腹に、親の七光りや天稟に甘んじることなく努力を重ねていたともアルフレッドは知っている。 彼は虎の威を借る狐ではなかった。 だからこそ、ゼラールのことを心の底から憎めずにいるのだ。 喧しさを疎ましく思いこそすれ、切磋琢磨し合える好敵手であることも認めている。 戦略シミュレーションの成績でアルフレッドに及ばなかったことが、ゼラールの人生で初めての敗北だったと記憶している。 その折に彼は歯を剥き出しにして悔しがるのではなく、未来に於いての逆転を謳ったものだ。 「貴様は実に面白い。もっともっと己を磨き、その度に余に勝ち誇れ。そうでなくては乗り越える甲斐もない」と言う愉しげな笑い声は、 今なお鼓膜にこびり付いていた。 彼は常に己の威光を強めんが為に驀進してきた。カザンと言う血統の為ではなく、ゼラールと言う奇傑(おとこ)を世に知らしめる為に。 しかし、天の高さを睨むばかりの彼は、己の足元に目を向けようとはしなかった。 侍らせていた取り巻きに気を留めることはなく、足手まといになるような者には見向きもしない。 期待外れの者を切り捨てることはないにせよ、躓いた者へ手を差し伸べようともしなかった辺り、自他共に厳しかったのは間違いない。 名家の出身らしいエリート意識の塊でありながら人が随いてくるのは、まさしくカリスマの為せる業と言えよう。 ところが、目の前で高笑いを上げている現在(いま)の彼はどうだ。 旗幟に大書した「天上天下唯我独尊」を体現するかのような立ち居振舞いは学生時代と少しも変わっていないが、 彼の瞳は天の高さだけでなく大地の広さやそこに息づく数多の声にも向けられていた。 近親者にさえ差し伸べられることのなかった手には、優に九六〇〇〇人を超える見知らぬ人々への慈愛を握り締めている。 (俄かには信じられませんが……) マリスにとっては信じ難いことだが、つい先日も道を踏み外しそうになったアルフレッドを叱咤している。 これもまた数年前までのゼラールには考えられないことである。 アカデミーを卒業してから再会するまでの間にゼラール・カザンと言う男の中で何かが変わったのかも知れない。 いや、確実に変わったのだ。 「……これからどうするんだ?」 奇しくもトルーポへ向けたものと同じ質問をアルフレッドは繰り返していた。 未練との自覚もあるのだが、それでも今一度、旧友たちを佐志へ誘わずにはいられなかった。 難民救済と言う志は確かに尊いが、小規模な集団で成し遂げるのは不可能に近く、見果てぬ夢として終わるのは火を見るより明らかだ。 多少なりとも縁故のある佐志と同盟を結ぶことは、ゼラール軍団にとっても有益な筈である。 旧友を思うアルフレッドの心中を知ってか知らずしてか、当のゼラールは玩具を前にした子どものように無邪気な笑みを浮かべている。 彼がこのような表情を見せたときは、決まってろくでもないことが起きる。長年の付き合いからそのことを理解しているアルフレッドにとって、 凶兆としか例えようのない笑顔であった。 「故に余はギルガメシュにでも参ろうと思うておったのじゃ」 「――はァッ!?」 ろくでもないどころか、とんでもない爆弾発言がゼラールの口から飛び出し、またしてもアルフレッドは血相を変えた。 天地がひっくり返るようなことを、どうしてこの人は何の躊躇もなく簡単に言えるのだろう―― 落ち着くよう促すニコラスを振り切り、恐ろしい剣幕でゼラールに詰め寄っていくアルフレッドを見送りつつ、 マリスは呆れたような溜め息を漏らした。 盟主(あるじ)とアルフレッドが取っ組み合いに発展する兆しを見せる中、バスカヴィル・キッドは敢えて沈黙を保っている。 これは両者にしか解決出来ない問題なのだと弁えているようだ。口出ししようと身構えたピナフォアも目配せでもって押し止めた。 「自分が何を言っているのかわかっているか!? ギルガメシュへ降るだと!? 冗談はその性格だけにしろッ!」 「冗談を疑うならば貴様の足りぬ頭も同じであろうが。内々の交渉は既に済ませておる。 面妖な兵卒ども、仮面の裏は見えなんだが、存外に話の通じる連中であったぞ――おぉ、仮面を相手に面妖とはこれ如何に」 「煩い、黙れ! ……いつだ? いつの間に敵に寝返っていたんだッ!?」 「何度も同じことを言わすでない。交渉の相手ならば身近におるではないか」 「使者へ直談判したと言うのか!? エルンストたちの交渉を尻目に……!」 「愚図め。あれらも四六時中議論しておるわけではなかろうが。幕間を狙ったのじゃ。少し考えれば分かろうが」 呆れるほど旺盛な行動力の為せる業と言うべきか、ゼラールは会談の合間にギルガメシュの使者へコンタクトを図り、 直接言葉を交わす機会まで得たと言う。一切の手配りは盗聴に続いてバスカヴィル・キッドが整えたそうだ。 激情に駆られたアルフレッド程ではないにせよ、マリスもマリスで衝撃に打ちのめされており、 今し方の感心を返してくれと言わんばかりに頭(かぶり)を振り続けていた。 「……信じられません……」 「特使殿も同じことを申しておったわ。いや、特使殿は余が知らしめてやった力に慄いておったのだがな」 テムグ・テングリ群狼領に切り捨てられるや否や、昨日まで戦争をしていた相手に自分を売り込んだと言うのだ。 「内々の交渉が済んだ」と言明したからには、使者の側もゼラールをギルガメシュへ迎える意志があると見て差し支えあるまい。 一体、どのような手段を用いてギルガメシュの歓心を買ったのか。テムグ・テングリ群狼領の軍機を手土産にでもしたのか―― 聴取したい事情は山ほどあるが、それすらもアルフレッドにとっては瑣末なことでしかない。 このタイミングでテムグ・テングリ群狼領より寝返りが起きると言うことが問題なのだ。 もしも、ゼラールの寝返りが不安定な情勢に波紋を落とし、 去就に迷っていた勢力が雪崩を打ってギルガメシュに傾いてしまったなら、形勢逆転は不可能になる。 世界中の人々がエルンストの求心力に疑問を持つことだろう。 皮肉な話である。追放処分を通告されたことで初めてゼラールはテムグ・テングリ群狼領にとって大きな意味を持ち、 両軍の形勢を占うほどの影響力を有するようになったのだ。 このような旨味でもなければ、組織の規律を乱して追放されたゼラールをわざわざ引き入れるわけもない。 Aのエンディニオンを根拠とするギルガメシュとの間には縁故とて存在しない筈だ。 真に能力(ちから)持つ者は何処にも引く手があるものよ――恩あるテムグ・テングリ群狼領への裏切り行為に胸を張るゼラールだったが、 史上最大の作戦を破綻させる要因である以上、アルフレッドには彼の行動を看過することは出来ない。 何よりも彼や軍団員たちに対する個人的な感情が――ある種の仲間意識がアルフレッドを憤怒に駆り立てた。 血管が浮かび上がるほど強く握り締めた左拳には蒼白いスパークを纏わせている。 「お前はトルーポたちを何だと思っている! 共に戦った日々を壊す権利はお前にもないッ!」 ゼラールが下した決断とは、数多の絆を踏み躙る行為にも等しいのだ。 フィーナとピナフォアはどうなるのか。シェインやホゥリーはラドクリフと引き裂かれることになる。 アルフレッド自身、トルーポやゼラールと戦いたくはなかった。旧友たちと力量を競い合うことは無上の喜びであるが、 本気の殺し合いなど誰が望むと言うのか。このような結末を迎える為にツァガンノール御苑へ駆けたわけではない。 アルフレッドが旧友への思いを吐露したとき、ピナフォアの面には哀しげな陰が差していた。 「そう言えば、随分と仲良しこよしをしておったそうじゃなぁ。余の計画に水を差しおってからに」 「土俵で遊んでいただけのお前が語るなッ! ……お前はあいつらのことを何も考えていないのかッ!?」 「フェハハハ――人の駒にまでケチを付けるとは、いやはや用兵を極めし軍師殿は何でもお見通しよのォ」 「用兵ではない! 人の心の話をしているッ!」 やり場のない怒りに震えるアルフレッドを見据えたゼラールは、鋭い犬歯で右の手首にうっすらと傷を作り、 そこから染み出した血潮を以って再びエンパイア・オブ・ヒートヘイズを発動させた。 ゼラールの右腕に宿った炎へ共鳴するかのように、アルフレッドの左拳にてホウライの稲妻も烈しさを増していく。 ふたりの身より舞い散った火花が中空で混ざり合い、耳を劈くような激音を立てて爆ぜ飛ぶ―― 夜の漆黒を旭日の如く塗り替えてしまいそうな二条の光と、そこから迸る凄まじい闘志に圧倒され、 マリスとニコラスは我知らず後退ってしまった。ピナフォアとバスカヴィル・キッドも同様である。 余人が足を踏み入れることを決して許されない領域に、今、アルフレッドとゼラールは身を置いていた。 「そこまで……そこまでして権力にしがみ付いていたいのかッ!?」 「貴様のような陪臣気取りにはわかるまい――将たる者は臣下の礼を取った者たちへの責任があるのじゃ。 有事には我が鎧、我が剣となる者たちよ。その功に報いてやらねば将として起つ意味がない。将としての喜びなど何も感じられぬ。 郎党の餓(かつ)えを満たす場こそ選ばねばならん。これぞ将たる者の必定ぞ」 そんな言葉がゼラールの口から出て来るとは思わなかった――今夜はそればかりだ。 如何なるときも尊大で、取り巻きまで軽んじるような人間であったゼラールが、今は人の上に立つ者としての自覚と心得を説いている。 裏切り者の汚名を着てでも部下を守るのが務めであり喜びであると胸を叩いている。 今も昔も功名心の塊ではあるのだが、その指向は確実に変わっていた。手にした権力で自身を飾ることには興味などないようにも見える。 「――それに懐へ飛び込んでみねば、敵の内情を真に知り得ることは叶うまいて」 如何にも意味ありげな含みを残すゼラールであったが、アルフレッドの左拳に纏わりつく稲光は秒を刻む毎に激しさを増していく。 敢えて、「敵の内情」と語ったゼラールの意を察し、昂ぶりを鎮めることなどなさそうな気配だ。 「……お前の決意は解った。だが、陪臣気取りにも守らねばならない責任があるんだ。 自分を見込んでくれた人へ力の限りを尽くし、恩を返す責任がな」 「ご機嫌取りに精が出るのぉ、走狗の鑑とは貴様のことよな」 「……お前をこのまま行かせる訳にはいかない。何としてもこの場で食い止める」 「アルフレッド・S・ライアン、我が友よ。余の馘首を御屋形への供物とするか? 片腹痛いわ!」 ゼラールの言い分が全く理解出来ないアルフレッドではない。ましてや、彼の変化と成長を嬉しくも思っている。 さりながら、これを理由に寝返りを容認するなど有り得ないことだ。大博打とも言うべき奇策を信じ、 そこに命運を賭けようと決意してくれたエルンストの恩に報いねばならない。 ゼラールが部下を想うのと同じように、アルフレッドもこの一線だけは決して譲れなかった。 例え、自分のことを友と呼んでくれる相手であろうとも、最後の勝利の為、エルンストの為――アルフレッドは鬼神と化して立ちはだかるのだ。 「敵の懐に己の身内がおるのも有利と思えぬのか、貴様?」 「お前の力と性格は俺が一番知っている。……だからこそ危険だ。敵に回られてはこの上なく厄介。その前に始末を付けさせて貰う」 「慮外なことを申すわ。所詮、貴様の戦略眼などその程度よ。故に一兵卒から抜け出せぬのじゃ」 進むべき道を見定めて轟々と猛る灼火が、天翔る不死鳥を搦め取らんと縛鎖の如く閃く雷鳴が、 互いの光を喰らい尽くさんと一際強く輝いた―― 「そうゼラールを責めてやらないでくれるか、アルフレッド」 ――その瞬間、思い掛けない声がふたりの間に割って入り、今まさに交わろうとしていた青と赤の烈光を―― ホウライの稲光とエンパイア・オブ・ヒートヘイズの灼光を左右に切り分けた。 「お前たちの赤い瞳は夜目にも良く見える。尤も、ゼラールの炎に邪魔されて折角の輝きも薄らいでいるがな」 「……お前……」 ホウライの維持も忘れて呆然と立ち尽くすアルフレッドの瞳は、ある一点を捉えて離さない。 彼の視線が向かった先を窺うと、果たしてそこにはエルンストの姿が在った。 ギルガメシュより訪れた使者と会談の席に着いていた筈の馬軍の覇者が、だ。 見れば、デュガリとブンカン、更にはグンガルまでもが傍らに控えているではないか。 ティンクやジョウを伴ってはいないが、マイクも彼らに随行していた。 テムグ・テングリ群狼領の頂点に立つ男の登場である。ニコラスとマリスも慌てふためき、バスカヴィル・キッドなどは反射的にその場へ平伏した。 馬軍を裏切った身のピナフォアは苦渋に染まった顔をエルンストたちから逸らしている。 本当ならば逃げ出したいところであろうが、ゼラールの従者としてこの場に在る以上、如何に辛かろうとも留まらざるを得ない。 (……エルンスト……) 予想だにしない来訪者へ目を瞬かせて驚くアルフレッドだったが、そんな彼を冷やかすように、 「興味深い内容だったぞ、お前たちふたりの討論。つい声を掛けるのも忘れてしまった」とエルンストは磊落に笑った。 つまるところ、エルンストはアルフレッドとゼラールのやり取りを黙って観察していたわけである。 ゼラールとの対峙に意識を集中する余り、周囲への警戒が疎かになっていたことは悔いるべき遅鈍だが、 だからと言って、見物を決め込まれるのは不愉快そのもの。顔を顰めて抗議を表すことにした。 「人が悪い」と文句を言われても、エルンストには返す言葉などあるまい。 尤も、馬軍の覇者は弁明の言葉など最初から用意はしていない―― 「アルフレッド、ゼラールの言う難民救済を実現させるにはどうすれば良い?」 エルンストはアルフレッドに対してゼラールの理想を具体化する術を訊ねた。信頼する軍師へ献策を求めるような口振りである。 「俺が答えるのか――そうだな……、難民の漂着は、エンディニオンの人口が増えると言うことでもある。 ワヤワヤのような食糧供給の拠点を死守出来るかどうかだ。全ての世代に住居やインフラを提供するのは難しいが、 生命に直結する食糧だけは最優先で確保しなければならない。ギルガメシュがどう動くかにも依るが、先ずは要所の守備を固めるべきだな」 会談の最中、ブンカンあたりから報告があったのだろうか。「ロンギヌスとかってヤツらも考えることは一緒みてーだな」と頭を?くマイクに アルフレッドは深く頷いて見せた。 「ロンギヌス社はギルガメシュからの保護を謳い文句にしているようだが、所詮は浅知恵だ。テロリストには常識も法律も通じない。 カネで買収された連中も銃を突きつけられたら考えを翻すだろうな」 固唾を呑んでアルフレッドの説明に耳を傾けていたグンガルは、 少しばかり上擦った声でもって「だからこそ、テムグ・テングリの領地を守るのは、テムグ・テングリでなければならないのですね」と 自分なりの意見を述べた。 その双眸には憧憬にも似た感情が宿っており、アルフレッドから名答だと肯定されたときには満面を喜色に輝かせたものである。 「御曹司の言う通りだ。これ以上の侵略はテムグ・テングリの沽券にも関わる。これは連合軍の士気まで揺るがす事態だ。 スカッド・フリーダムが向こうに付いたのは手痛い誤算だが……」 「フェッハハハ――食糧の供給だけで民を救えるものか。傷病、それを原因とする伝染病が蔓延した場合は如何にする? 医療の充実も必要不可欠じゃ」 「医師を出すにしても派遣先は吟味しなければならないぞ。フィガス・テクナーのように都市ごと転送されてきたなら、 薬も含めて医療体制は整っている筈だ。そうした場所は独力に期待する。 ダイジロウ――グドゥーへ漂着した難民のように地元民と連携を取っている人たちも支援は必要ないだろう」 「その為の吟味であらば余にも得心が行くところよ。されど、万が一に足りぬ場合は如何にする。 アルフレッド・S・ライアン、難民の総数は十万を軽く超えるやも知れぬぞ」 「万全の状態で医療を整えられないと言うのなら、ギルガメシュを動かす。あいつらも軍医くらい従えている筈だ。 情報戦でも仕掛けて何事か吹き込めば、容易く動かせるかも知れない。偽りでなければ、ヤツらの目的は難民救済だ。 難民を支援する義務がヤツらにはあるんだからな」 「敵を利用するか。フム――それも悪くはないな。……かの隊へ参った折には貴様の吹聴には気を付けるとしよう。 余計なことまで吹き込まれては面白うない。貴様もせいぜい余に勘付かれぬよう知恵を絞るのじゃな」 「お前ひとりでどうにかなるものかよ。あいつらの思考は虫けら並みに単純だぞ。いや、それ以下かも知れない」 ギルガメシュに対する最大級の当てこすりを嘲笑と共に飛ばしていたアルフレッドは、ふとマイクが沈黙し続けていることに気が付いた。 何があったのかは知れないが、口をへの字に曲げ、子どものように不貞腐れている。 訝るような視線を気取ったマイクは、「お前のアイディアと同じようなコトが会談でも話し合われていたんだよ」と、 幾分くたびれた声で明かした。 やはり機嫌は芳しくなさそうだ。「盗み聞きされてるとは思わなかったけどよ〜」などとゼラールやバスカヴィル・キッドに噛み付いている。 「……あんたがそんなに荒れるなんて、明日は槍でも降るんじゃないか」 「話がややこしくなってきやがったんだよ! ……ギルガメシュが組んだっつー触れ込みの難民救済プランな、 あれを提案したのはウチの者(もん)なんだよ」 ギルガメシュが抱く難民支援の計画について、会談を通じて知り得たことを詳らかにしていくマイクだが、 彼が何を言っているのか理解出来ず、聞き手のアルフレッドは目を丸くするばかり。微かに口を開いている辺り、分析さえ捗らないようだ。 「……話が見えないんだが……」 「サミットのドサクサで『ビッグハウス』の外交担当がギルガメシュに拉致られたって話はしたよな?」 「“ドク”――だったか。そんなニックネームだったな」 「本名はゼドー・マキャリスターっつーんだけどよ、このバカが出しゃばりやがったんだ。 お前たちには難民を救おうと言う意志が見られない。恥を知れ、俗物――とか何とか喚き散らして、 挙げ句の果てに手前ェで計画書作って叩き付けたってハナシだ」 「それでお前が呼ばれたと言うわけか。ようやく腑に落ちたな」 「使者の皆さんからそのハナシを聞かされたときなんか、お前、もう居た堪れなくて仕方なかったぜ……。 便所蝿にゃあ、さんざん茶化されるしよぉ。マジで顔から火が出てんじゃねーかって思ったよ」 「まあ、人質からそんな話を持ち出されたら誰だって驚くな」 「人質ってのを忘れてんだよ、あのバカ! ちったぁ自分の身を心配しろっつーのッ!」 Bのエンディニオンの人間――それも人質として拘束されている立場で、だ――がギルガメシュに難民救済を直談判するなど、 余人には理解に苦しむことである。同じ志を持つゼラールともスカッド・フリーダムとも大きく異なっており、 マイクは「あいつは昔ッから余計な世話ばっか焼きたがるッ!」と頭を掻き毟っている。 冒険王の仲間も、マイク当人に負けず劣らず破天荒であるらしい。如何にもシェインが好みそうな話ではないか。 早速、共感を覚えたのか、ゼラールも「ゼドー・マキャリスターか。話が合いそうじゃな。またひとつ愉しみが増えたわい」と 手を叩いて喜んでいる。 「『ディアスポラ・プログラム』――ドクが捻り出したプランをギルガメシュはそう名付けたそうだぜ」 マイクが明らかにした『ディアスポラ・プログラム』なる計画名をアルフレッドは心中にて反芻した。 バスカヴィル・キッドが差し向けた封筒にもその名を記した書類が含まれていたのだろう。 (やはり、ギルガメシュは愚鈍の集りか。……難民とディアスポラを混同するとは――) 『難民』と『ディアスポラ』――故郷から離れざるを得ない者と言う状況こそ酷似しているものの、その本質には大きな隔たりがある。 『難民』が故郷へ帰還する可能性を秘めているのに対し、『ディアスポラ』は流浪先へ帰化する者に当てはめられることが多い。 むしろ、意味合いとしては『移民』に近いと言えるだろう。 『難民』の支援を掲げるギルガメシュが『ディアスポラ』を引用することは、理念との矛盾を糾弾されてもおかしくはない。 それ故にアルフレッド「愚鈍の集まり」と嘲ったのだ。 アルフレッドとマイクの話が一段落するのを見て取ったエルンストは、続けてゼラールへと目を転じた。 テムグ・テングリ群狼領を見限ってギルガメシュへ向かおうとする男に、だ。 「……ゼラール、お前はどうする。アルフレッドの立てた戦略を、お前はどう生かす?」 「ギルガメシュを利用すると言うことで結論は出ておろうが」 「そうではない。ギルガメシュを打倒する為の策――軍議に於いて決定された作戦のことだ」 これから敵となる者に面白い質問をなさる――高らかに笑ったゼラールは、次いで「真に恐れるは民の心じゃ」と具申した。 「御屋形様の不在は連合軍の士気に致命的な影響を及ぼす。口では如何様にも言えるが、心の底までは計り知れぬ。 満足に土台を固めぬまま、石材や柱ばかり良品を揃えても強き城は築けまい? 土台に等しきもの、即ち全軍の連携を固め、これを支柱に据えることが最善の手立てじゃ」 「そこまで言うからには手立てはあるのだろうな?」 「知れたことよ。目に見えてそれと判る象徴か何かを連合軍に持たせ、結束力の増進に務めるが必須。 同志の間にて分かち合えるものであるなら、旗でも何でも構わぬ。反攻の象徴を携えておれば、味方に士気と勇気を与えよう。 無論、敵には恐怖心と逼迫感を与えるのよ。目に見えぬ包囲網ともなるのじゃからな」 ゼラールが提示した「目に見えない包囲網」と言う発想には、さしものアルフレッドも感心したように溜め息を吐いた。 「搦め手としてはなかなか上出来だな。お前の言うシンボルとやらを考えてみるか……」 「上出来? 回りくどい言い方をせんと素直に上策と言わぬか。それとも余の智謀が己を上回っているとは認められぬか? ククッ――何とも器が小さい話じゃ」 「好きに言って貰って構わないが、お前のは残念ながら策とは言えないな。方向性を定めただけで、良くて小細工だよ。 高まった士気をどう生かすかを考えて、初めて発想は実践可能な策に昇華される。 ……俺なら統一されたシンボルは切り札に取っておく。全軍で共有すると言う点は賛成だが、包囲網を使うのは最終局面だ。 総攻撃の折に同じ旗でルナゲイトを取り囲む。連合軍で輪を作ってな。四方八方見渡す限りに何万もの同じ旗幟が立っているんだ。 ギルガメシュには悪夢のような光景だな」 「フェハハハ――崇高なる余に身震いさせるとは、貴様もなかなか享楽と言うものが解ってきたようじゃな」 「元々はお前の出した案だ。その瞬間がやって来たときには、せいぜい自業自得を噛み締めるんだな。 ギルガメシュの側に回ったことを後悔すると良い」 「愉快の極みとはこのことじゃ。愉しみがまた一つ増したぞ。我が友よ、アルフレッド・S・ライアンよ」 ――議論を白熱させていく二人を眩しげに見つめ、何事か納得したように独り頷くエルンストが彼らに手向けるべき言葉は、 その胸中にてたったひとつと定まっていた。 「……これで俺も一安心だ――」 今一度、アルフレッドとゼラールの顔を見比べた後、エルンストは満足げに頷き、 胸の奥に溜まっていたものを吐き出すかのような呟きを漏らした。 「――アルフレッド、ゼラール。お前たちに全てを託す。俺の全てをお前たちふたりに……」 連日連夜に及ぶ交渉は強靱な肉体を持つエルンストとて相当に堪えるのだろう。 顎や頬に茂る無精髭は疲弊を象徴しているようにも見えた。 しかし、その双眸は実に晴れやかであった。薄い笑みを浮かべたエルンストは、アルフレッドとゼラールの肩へと手を置き、 少しの淀みもなく、「託す」と申し付けた。 肩から伝わり、全身に広がっていく微かな温もりと、覇気に満ちた眼差しを受け止めるふたりは、 身じろぎひとつせずにエルンストを見つめ返していた。 馬軍の覇者よりそう告げられることを、アルフレッドもゼラールも薄々勘付いていたのである。 テムグ・テングリ群狼領、いや、エンディニオン全土に衝撃を与えるだろうその言葉にもふたりは少しも動じなかった。 ゼラールまでもが高笑いを止め、神妙な面持ちで静かにエルンストと相対している。 その様にピナフォアとバスカヴィル・キッドは思わず身を震わせた。閣下へ臣従する者にとっては、神々しさを感じるような情景であろう。 事実、彼はこの場に立ち会えないトルーポたちへ罪悪感すら覚えているのだ。 ピナフォアたちほど大仰ではないにせよ、ニコラスとマリスも我知らず心を震わせている。 凛としてエルンストと見詰め合うアルフレッドの顔を、おそらく一生忘れることはあるまい。 ゼラールはエドワード・エルガーが手がけた行進曲「威風堂々」第一番を殊のほか好んでいるが、今こそその名曲が似つかわしい。 月下に起つ三人は、まさしく英雄であった。 「……終わったのか、会談……」 「つい今しがたな。全てお前の望んだ通りの結果になったぞ、アルフレッド」 「フェハハハ――豪華絢爛なスイートルームが待っておると言うわけじゃな。戦場より離れて暮らせるとは羨ましい限りぞ」 「独房(ひとりべや)だと助かるのだがな。いびきがとにかく酷いと、カジャムにも文句を言われる」 「……冗談を言っている場合じゃないだろう」 「暗くなる必要がないと言え。それもこれもお前たちのお陰だよ」 誰が、どう言った状況でいびきを確かめたのか――この件についてはグンガルから批難めいた眼差しをぶつけられてしまったが、 それでもエルンストは清々しく笑んでいる。 「……エンディニオンの未来へ全身全霊を傾けるお前たちの討論、胸に響いたぞ。 胸を張って行け、アルフレッド、ゼラール。お前たちがいるからこそ俺も俺の戦いに全てを懸けられるのだからな」 今日のエルンストはいつになく多辯であった。平素、代弁者のような役割を担っているデュガリの出番もなく、 エルンストが自らの口で語り続けていた。滅多に言わないであろうジョークまで織り交ぜているのだ。 しかし、アルフレッドは彼に調子を合わせる気にはどうしてもなれなかった。 史上最大の作戦を全うするべく過酷な道に踏み込んでいくエルンストを鼓舞し、勇気を以って旅立ちを見送りたかったのだが、 胸の裡から込み上げる感謝の念がアルフレッドを揺さぶり、雨の雫で覆われてしまったかのように視界を歪ませ―― そこから先は声にならない感情(こころ)に取り憑かれ、俯くことしか出来なくなっていった。 「――甚だ不安ではあるが、御屋形様の判断とあらば我らも従うしかあるまいな」 「敵に飲まれぬ精神の持ち主ならばカザン君を間諜として送り込む名分も立つ――そう推したのはデュガリ殿ではありませんか」 「……余計なことを言わんでも良い、ブンカン」 そのように語らうデュガリとブンカンへ思わずピナフォアは驚きの声を上げた。 ツァガンノール御苑での戦闘以来、ゼラール軍団へザムシードたちに続く討手が放たれることはなかった。 最強馬軍の面子に賭けて本格的な粛清へ乗り出すと考えたピナフォアは、カンピランらと共に迎撃体勢を整えてもいたのだが、 彼女たちの知らない間に「ゼラール軍団はスパイとしてギルガメシュに送り出す」との決定が群狼領の内部にて下されたようだ。 「何を驚く。妥当な着地点ではないか? 喧嘩両成敗と言うだろうに。……大体、お前たちはテムグ・テングリを追放された身。 その後に何をしようが、我らには関わりのないことだ」 「クソジジィ……」 「……その悪態も聞き納めだな」 デュガリの前言をなぞるようなものだが、今度の一件については「喧嘩両成敗」が最も適切な落とし処であろう。 ゼラール子飼いのアクアヴィテによってツァガンノール御苑は修復不可能なまでに破壊されてしまった。 確かにこれはテムグ・テングリ群狼領にとって許し難い大罪である――が、件の乱闘にはザムシードとビアルタも加担しているのだ。 ましてや、彼らはエルンストの許可も得ずにゼラール軍団へ先制攻撃を仕掛けている。破壊より先に聖地を血で穢したことも問題であろう。 トルーポらの謀った囮作戦と言う結果はともかくとして、非理はテムグ・テングリ群狼領の側にもある。 ゼラール軍団へ更なる汚名を着せることを善(よし)とせず、スパイと言う“体裁”を整えたことは、 ザムシードたちの暴走に対する償いとしては妥当かも知れない。 無論、馬軍の将士を納得させるには相当な労苦があった筈である。疲れが滲むデュガリの声にピナフォアの胸は軋んだ。 エルンストもピナフォアの裏切りを咎めようとはしなかった。畏まって平伏する彼女の前に立つと、 「ピナフォア、ゼラールを支えよ。……お前には誇り高きテムグ・テングリの血が流れている。その力は必ずやゼラールの役に立てるだろう。 己が選んだ主の為に生命を賭して仕えよ」 ――そのように激励の言葉を掛けた。 ピナフォアは頭(こうべ)を垂れたままエルンストの言葉を受け止めている。ブラックレザーの甲冑越しでも判る程にその双肩は震えていた。 特赦にも等しい待遇を受けたゼラールはエルンストの心遣いに感謝するどころか、 「晴れの門出なのじゃ。お涙頂戴にしてくれるなよ」と鼻で笑っている。 「風邪など召さぬようせいぜい気を配るのじゃな、御屋形様。若作りしておっても良い年齢(とし)なのじゃ」 「お前こそ身体を大事にするのだぞ、ゼラール。もう俺にはお前を守ってはやることは出来ん。独りで立つしかないのだ」 言うや、エルンストはゼラールの肩を強く掴んだ。我が子の行く末を案じる父のように、強く強く掴み続けた。 「思い残すことがあるとするならお前のことだな。お前の望むものを与えてやれず、このような形になってしまった。 ……不甲斐ない主を恨め、ゼラール」 「恨むも何もあるものか。余は誰も頼みにしたことなどない。テムグ・テングリとて余には更なる高みへ昇る為の踏み台でしかないわ」 「その意気だ。それでこそゼラール・カザンだ」 あるいは、これが今生の別れになるかも知れない。そのような局面に至ろうともゼラールは不遜であった。 ついぞふてぶてしい態度を崩そうとはしなかった。 デュガリとブンカンもこれには眉を顰めたものの、不調法な物言いさえも心地好いと軽やかに笑ったエルンストは、 ふたりの側近を目配せひとつで制すると、改めてゼラールと向き合い、「思うがままの道を往け。お前にこの草原は狭すぎる」と、 独り立ちの瞬間を迎える若き将に心からの激励を送った。 応じたゼラールは「いずれ銀河を治めるゼラール・カザンぞ。余にはこの世界全土とて狭いわ」と、 なおも不遜な物言いで鼻を鳴らしていたが―― 「全軍の将を集めよ。これより敗北宣言を行なう。……気を張れ、長い夜になるぞ」 ――連合軍諸将へ緊急召集を発すべく踵を返したエルンストに向けて、彼は静かに頭を垂れた。 偉大なる背に礼を尽くして平伏した。誰にも頭を下げず、媚びようともしなかった男が、だ。 エルンストとその側近たちが去った後も頭を垂れ続けるゼラールの頬は小刻みに震えていた。 テムグ・テングリ群狼領が誇る偉大なる御屋形への敬意と尊崇がそこに顕れている。 驚天動地としか言いようのないゼラールの平伏を目端に捉えながら、アルフレッドはひとつの答えに到達していた。 何が彼をここまで変えたのか――その疑問に対する解である。 エルンストより授けられた薫陶の数々が真にゼラールの血肉となり、人の上に立つ大器を磨き上げたと言っても過言ではあるまい。 絶対の王者たるエルンストの生き様は、ゼラールの魂をも震わせていたのだ。 (……ある意味じゃ運命共同体みたいなものか……) アルフレッドとゼラールは、エルンストと言う偉大なカリスマによって結ばれた絆を分かち合っている。 いずれ敵味方に別れる運命であるが、この繋がりだけは何があっても断たれまい。 大恩ある英傑へ礼を尽くしているこの好敵手に賭けようと、アルフレッドは心に決めたのである。 寝返りが作戦に与える影響など微かに引っ掛かっていた蟠りとて、今のアルフレッドには瑣末なことのように思えていた。 「俺にも見えたぜ、アル」 そう言いながらアルフレッドの首へ腕に回すニコラスは、自身の考えを噛み締めるようにして何度となく頷いている。 ふたりのやり取りを見守る内に何事かを得心したようだ。 「この人とお前が揃えば、エンディニオンは確実に変わるよ。お前たちは最高のコンビだぜ」 「……コンビだと? 縁起でもないことを言うなよ。エンディニオンが変わる前に胃に穴が開く」 「これから敵になる男とコンビなど組めるか」と、ニコラスの額を軽く小突くアルフレッドだったが、 親友から掛けられた言葉を内心では嬉しく思っている。素気無い返答とは裏腹に満更でもなさそうな照れ笑いが面に浮かんでいた。 「……アルちゃん」 「あぁ、わかっているよ、マリス」 ニコラスとふざけ合っていたアルフレッドの手を引いたマリスは、進むべき道へと彼を導こうとしている。 「戦いはまだ終わっちゃいないからな」と頷いて見せたアルフレッドは、ゼラールの肩が自分のそれと並ぶのを見計らってから庭園を後にした。 共に進み始めたふたりの背中をピナフォアとバスカヴィル・キッドは眩しげに見つめている。この先、ゼラール軍団にとって険しい道が続く。 だが、威風堂々たる閣下に仕える喜びと、史上最大の作戦が行き着く末を見届ける愉しみは、必ずや試練の日々に勝るだろう。 ふたりの英雄には冒険王が付き添っている。アルフレッドとゼラールを交互に見つめる瞳は溌剌と煌いていた。 エルンストの心中を誰よりも深く理解しているのは、若しかするとこの男なのかも知れない。 「長い夜か。言い得て妙だな」 「夜が長くとも、闇が深くとも陽はまた昇る――否、余がエンディニオンを照らす太陽なのじゃ」 「またお前は減らず口を……」 ゼラールの大言へ顔を顰めたアルフレッドの背を「シケた顔してんなって。笑っていこーぜ!」と叩いたときにも、 マイクは痛快に笑っていた。激化する争乱への憂慮や悲壮など僅かも見られなかった。 「一丁おっ始めるか、アル。ここがオレたちのスタートラインだぜ!」 「そうだ――扉は開かれた……!」 今は感傷に浸っているときではない。在野の軍師が向かうべき場所はただひとつ―― 勇気を以って追いかける覇者の背中は、今、仄昏き闇の中に在る。 <セカンドシーズンへ続く> ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |