2.Clapp Garfield Live


 八雲の旗を掲げてひた走る叢雲カッツェンフェルズにとって、沖合に現れた不審な船影はまさしく千載一遇のチャンスであった。
予想された通り、それがギルガメシュの船籍であるとすれば、目的は疑うまでもなく佐志への再侵略である。
 数週間前にも佐志はギルガメシュの襲撃を受けている。軍事行動を世界規模で展開するならば、
海運の要衝たるこの港を押さえることは、極めて重要な意味を持つ。言わば、死活問題だった。
 仮面兵団の野望は、しかし、アルフレッドが自ら指揮を執った空城計つまり陽動作戦によって完膚なきまでに打ち砕かれた。
大した戦力も持たない辺鄙な港町に返り討ちにされるとは、ギルガメシュの軍師とて予想していなかっただろう。
 しかし、葛もハリエットも、その空城計に参加することは認められなかった。
 当時のハリエットは、焼け出された同郷の仲間たちを追って佐志に入ったばかりだった。
焼討の話を聞き、出向先から直行したのだ。幸いにして道中でギルガメシュとは遭遇せず、
疲労こそあったものの、無傷に等しい身であった。それにも関わらず、故郷の仇討ちを許されなかったのだ。
 アルフレッドは戦う力を求めていた。復讐を果たせるだけの力を、だ。彼と自分と、目的は同じ。故郷も同じ。
必ずや参戦を認めてもらえるだろうと確信していた。それなのに、下された判断は戦力外通告。
血が出る程に唇を噛んだことを、今、ハリエットは振り返っていた。
 今度こそ自分たちが実戦でも十二分に通用するのだと、何が何でも証明しなければならない。
正体不明の船影は、ギルガメシュの物でなくては困るのだ。
両帝会戦の結果、Bのエンディニオンはいよいよ不利な情勢に傾きつつある。
自分がギルガメシュの立場であれば、この余勢を駆って再び海運の要衝に攻め入ることだろう。
 被災者や疎開者を迎えてくれた新たな拠点が戦闘に巻き込まれることを歓迎するなど、
我ながら不謹慎だとハリエットも自覚はしていた。恥ずべきことだとも思っている。
だが、これこそは運を司る神人(カミンチュ)、ティビシ・ズゥの導きに違いない。
 猫目石を柄頭に嵌め込んであるサーベルを抜き放ったハリエットは、全軍を鼓舞するべく白刃を高々と掲げ、
腹の底から吼え声を上げた。ミルクシスルも葛も――八雲の旗を掲げる皆がこれに応じて喊声を上げていた。
 ただひとりの例外は、リーダーの座に据えられたマルレディであった。
ハリエットのトレードマークであるテンガロンハットとも違う奇怪な形の帽子を被った元シェリフは、
若者たちの行動を危ういものとしか見ていない。まして、自ら死地へ赴くその行動力を勇気などとは思えなかった。
 港へ向かう道中で顔を合わせた源少七は、不審船は一直線に佐志へ向かっていると話していた。
おそらく埠頭へ突入してくるつもりだろう、と。成る程、警備を任された戦闘員たちは、一目散に埠頭を目指して走っている。
誰もが港の入り口へと吸い込まれていた。
 どうやら不審船は、中型のクルーザーのようである。侵略軍を満載しているとは思えないが、
例え少数であっても、恐るべき兵器群にて一騎当千を実現するのがギルガメシュと言う組織だ。相手にとって不足はない。
 八雲の旗が何処へ向かおうとしているのか気付いた者には「邪魔になるだけだ」、「ガキはとっとと逃げろ」と注意されたが、
誰ひとりとして聞く耳など持たなかった。彼らは目の前に餌をぶら下げられた犬猫同然なのだ。
最早、チャンスと言う名の芳香に侵され、自制を失っている。
 自制心を失した彼らを統率出来るかどうか、マルレディには自信がなかった。皆無と言っても良い。
名ばかりのリーダーとは雖も、前途ある若者を守る為ならば我が身を犠牲にする覚悟はあるつもりだ。
しかし、自分の命を差し出したところで、彼らの心を動かすことが出来るのだろうか。
説得力のひとつとして生み出せない無駄死になどと言う虚しい結末だけは、マルレディも自身のプライドに賭けて避けたかった。
 だからこそ、叢雲カッツェンフェルズが埠頭へ到着したとき、正規の戦闘員たちが既に撤収作業を始めていたことは、
彼にとって望外の喜びであった。思わず女神イシュタルに感謝の祈りを捧げた程である。
 絶好のチャンスとばかりに意気込んだ反動から呆然と立ち尽くす隊員に成り代わり、マルレディは作業途中の者に事情を確かめた。
どうやら沖合の船との無線連絡が実現され、船籍も判明したらしい。
ギルガメシュと無関係どころか、佐志の味方と言うことも確認されたそうだ。
 マルレディからそう報告を受けた叢雲カッツェンフェルズは、拍子抜けの余り、その場にへたり込んでしまった。
 埠頭に入る間際、星勢号を始め数隻の武装漁船が沖へ向けて出港しているのを確認したときには、
いざ開戦かと奮い立ったのだが、結局、源八郎たちの目的は機雷の一時的な解除にあった。

「ンだよ、ウゼェガキどもか……。ピクニックはおしまいだぜ。とっとと家に帰って、ママのお乳でもしゃぶってな」

 振り上げた拳をどこに下ろせば良いのか惑い、がっくりと項垂れる葛に向かって痛烈な皮肉が飛ばされた。
唇を噛みつつ面を上げた葛は、そこに見つけた声の主に驚き、皮肉られた怒りも何処かへ放り出してしまった。
 ――撫子だ。面倒ごととは距離を置き、太陽の下にはまず出てこない筈の水无月撫子が
波除のテトラポットの上に胡坐をかき、葛たちを小馬鹿にしたような目で眺めていた。
 相変わらずモバイルをいじり倒しているようだが、その出で立ちはいつもと少しばかり違う。
ヨレヨレのジャージの上には、おそらく豊かな肢体に合わせた特注品であろうボディーアーマーを着用し、
頭部も半首(はっぷり)と呼ばれる佐志伝統の防具で固めている。
 この半首は額と頬を覆い隠すヘッドギアの一種で、こめかみから後頭部にかけて紐で結び、締め付けることで固定する。
必然的に顔面の左右へ同時に力が加わり、些か後ろへ引っ張られるような格好となるのだが、
運動と縁遠い撫子の場合、これによって顎下の贅肉が団子のように成形され、その滑稽な様は見る者の勘所をくすぐった。
所謂、笑いのツボである。
 他の者と比べて頬の肉も豊かである為、半首の頬の部位で無理矢理に押さえ付けてしまうのだ。
はみ出した分が顎下へと逃れることになり、飯粒ならぬ歪な“肉団子”を顔に付けるしかなくなった撫子を、
葛はお返しとばかりに「どうせならアゴを紐で包んだらどうです。いいハムになるんじゃないの!」と腐したが、
その声は依然として驚きに揺れている。

 どう言う風の吹き回しだろう――それが、葛の感想だった。
 撫子は佐志の界隈では余りにも有名である。ある事情から両親を早くに亡くし、
それから更に降りかかった不幸な事情によって気力が萎え衰え、働く意思さえ失ってしまった、或る若年無業者。
 両親とも親しかった源八郎が食事などの面倒を見ているが、基本的には他人を殆ど寄せ付けず、
海に向かってミサイルのトラウムを発射すると言う意味不明な奇行――おそらくは趣味なのだろう――以外には外出すらしない。
日がな一日、カーテンを閉め切った家に篭ってモバイル遊びに興じているのだ。
 それが、葛の知る水无月撫子、或る若年無業者であった。
 村の者も積極的に関わろうとはしなかった。源八郎以外では、佐志随一の大天才とまで謳われた男が
ちょっかいを出していた程度であろうか。名を犬養賢介(いぬかい・けんすけ)と言うその男は、
撫子とはエレメンタリーからの同級生だった。ことあるごとに撫子に上から目線の説教を垂れていたと言う。
 常人には理解し難い天才ならでは趣味と言ったところであろうか。実際、犬養賢介は撫子に負けず劣らず変わり者だった。
神童と呼ばれる程に頭脳は明晰なのだが、言行の一つひとつが人の神経を逆撫でし、
一時は「犬が歩けば棒で殴り殺される」と陰口を叩かれるまで嫌われていた。
それでいて、何処にでも神出鬼没に現れ、人々の噂、自分に対する悪口へ聞く耳を立てたと言うのだ。
 葛は犬養某と実際に会ったことはない。彼にまつわる奇妙な話は、全て年長者から聞かされたものである。
彼は十年以上前に佐志を出てルナゲイトに渡り、それ以来、全く音信不通の消息不明。
陰湿な性情が新聞王の逆鱗に触れて抹殺されてしまったのではないかとの流言まで飛び交っていた。

「あの変形したコケシみたいなオバさんて、フィーたちのお仲間なのよね。
てか、葛のほうがそこら辺の事情(こと)に詳しいんじゃないの?」
「いえ、逆にグリーニャから来られた方のことはミルクシスルさんでしょ。……一応、撫子さんのことは私も知ってるけど」
「オバさんの家に上がり込んでるって話じゃないの、フィーたち」
「――ああっ、それでか」

 ミルクシスルからそのように耳打ちをされて、葛は思わず両の掌を弾き合わせた。
 物好きな犬養某が去り、源八郎くらいしか出入りする者のいなかった水无月家が、最近は俄かに活気付いているのだ。
どうやら両帝会戦を共に戦ったフィーナたちが足繁く通い詰めているらしい――そのことを蔓はようやく思い出した。
 塀の外から窺った程度のことしか知り得なかったが、数日前まで廃墟の如き様相だったとは思えないくらい水无月家は華やいでいた。
第一、賑々しい声が聞こえてくる水无月家は、それ自体が葛にとって、いや、佐志の人間にとって驚天動地の出来事であった。
 フィーナたちは水无月家の扉を本当の意味で開いたのであろうか――年齢相応の好奇心に駆られた葛は、
撫子に訪れたであろう変化の仔細を余さず読み取ろうと、値踏みするかのように頭のてっぺんから爪先まで視線を這わせていく。
その不躾な観察は、対象たる撫子当人から「なに見てんだ、クソガキ。ハンバーグにすんぞ」と怒鳴られるまで続けられた。
 佐志の人間から見れば撫子の変貌は好奇の的であろうが、復讐に燃えるハリエットとっては煩わしいばかりである。
ただでさえ出鼻を挫かれて気持ちがささくれ立っていた彼は、葛と撫子のやり取りを目尻に捉えつつ、
心中にて「茶番がしたいなら他所でやってくれ」と唾棄していた。
 一度、戦うと決意した以上は、脇目も振らずに討つべき仇敵へと剣尖を向け続けるべきだ。
別の事柄へ意識が移ろうと言うことは、葛もミルクシスルも、決死の覚悟が足りないに違いない。

(まことの戦士はおれだけと言うことだな……ッ!)

 当初の目論見が不発に終わった為、一旦、鞘に納めることになった猫目石のサーベルであるが、
ハリエットの右手は、その柄頭をいつまでも握り締めている。痛いほどに強く、握り締めている。
 空いた左手に持つのは双眼鏡だ。機雷の撤去を終えた武装漁船に誘導され、入港しつつあるクルーザーを“監視”しようと言うのだ。
源八郎らに味方の船と信じ込ませたのは計略で、正体がギルガメシュであれば――との浅はかな期待も含んでいる。
 舵取りを行う操縦席の屋根には、船籍を明示する旗が掲げられていた。
陽の光を反射し、また風に靡いている為、ロゴマークや印字は判然としないものの、
ギルガメシュが用いる四剣の徽章でないことは確かだ。
 操縦席から舳先に目を転じると、そこにはひとりの女性が仁王立ちしているではないか。それも、眩暈がするような美女である。
浮ついた話には少しも興味を持ち得ないハリエットであるが、しかし、そのようにシャイな少年をも見蕩れさせる程の魔性が、
舳先の人影より立ち上っていた。
 蠱惑とも言うべき色香に全身を貫かれたハリエットは、舳先を見つめ続けることに背徳感すら覚え、
眼窩に宛がっていた双眼鏡を咄嗟に離してしまった。
 それを観察に飽きたと捉えたミルクシスルは、今度は自分の順番とばかりに彼の左手から双眼鏡を引っ手繰った。
まことの戦士は自分だけだと燃え滾っていた闘志はどこへやら。すっかり呆けてしまったハリエットは、
ミルクシスルの強引な仕打ちにも文句ひとつ飛ばすことはなかった。
 早く交代するようせがむ葛を押さえつつ、接岸の準備に入ったクルーザーを観察していくミルクシスルは、
舳先の人影に辿り着いたとき、かなりの角度に首を傾がせた。

「んー? ……ん〜。おっかしいわね、どっかで見たコトがあるような、ないような……」

 ストレートに下ろしたチャコールグレーの長髪でもって潮風と戯れる舳先の美女は、
勿論、ミルクシスルも初めて見る顔――その筈なのだが、
どう言うわけか、いつかどこかで出逢ったことがあるような錯覚に見舞われてしまったのだ。
 もしかすると、誰かしらの面影を重ねているのかも知れないが、それが、一体、誰なのかをミルクシスルは特定出来ずにいる。
記憶の底から該当する顔を掬い上げようとするものの、波紋が立つばかりで水面は手がかりさえ映し出そうとしない。
 それなのに違和感だけは秒を刻むごとに大きくなり、ミルクシスルは臍を噛む思いであった。

「ひとりで悩んでいたって始まらないでしょう。とっとと変わってくださいよ、後が閊えてるんですから」
「うっさいわね、じっくり見てる内に想い出すわよ」
「良いこと、閃きましたよ。お手元のビール瓶で自分のアタマをドツいてみたらどう? 記憶の糸がつながるかも」
「人のアタマを壊れかけの電化製品みたいに言うな!」
「お手伝いしますよ。我が忍群の秘術には爆弾使ってド派手にブチかますものも多いですから、きっと一発ですよ」
「……色々ツッコミたいけど、ニングンって何よ。コスプレしてんの、あんたひとりじゃないの」
「コスプレじゃない! 忍者! くの一! 世を忍ぶ影の業ッ!」
「世を忍ぶ影のワザが、なんでド派手にぶちかますのよ! ンなことしたら、記憶ごと脳漿が弾けるわッ!」

 ミルクシスルと葛が不毛極まりない掛け合いを演じている間にクルーザーは接岸を完了し、
件の美女は桟橋へと降り立った。相当に高貴な身分であるのか、召使と思しき老紳士を共に連れている。
成る程、彼女が身に纏う着衣は素材ひとつ取っても上等なようだ。船旅には不慣れとも思える若草色のロングドレスは、
絹の輝きを流麗に放っていた。二の腕まで包み込む手袋も、アクセントとして腰に巻かれたパレオも
同じ素材で織り上げられているようだ。
 但し、パレオに限っては深緑の彩(いろ)。これによって淡い色合いのドレス、手袋に深みを与えている。
三点で共通するのは銀糸の刺繍だ。百合の花弁をあしらった刺繍は三点が一揃いの逸品であることを示していた。
内面に秘めた不屈の精神を表しているのだろうか。パレオには紅玉が散りばめられており、
銀と深緑が織り成す宇宙の中で恒星の如く燃え滾っている。
 さながら避暑地にバカンスへ訪れた貴婦人のような姿態であるが、桟橋に足跡を刻む履物は一種異様である。
ここまでめかし込むからには、シューズもドレスに合わせるのが自然であろうが、
しかし、彼女は厚手のブーツを選んでいる。それも奇抜、いや、前衛的な装飾を施された物を、だ。
靴職人の名前は知れないが、おそらくデザイン上のコンセプトは、「死神の供物(くもつ)」と言ったところであろう。
 靴底も相当に頑丈だ。軍靴でも打ち鳴らすかのような乾いた音を埠頭に響かせている。
 勇ましさは靴音ばかりには限らない。ハリエットをも魅了した艶やかな面は毅然と引き締まっており、
マルーンの瞳などは全ての真理を見通すかのような知性で満たされている。
同性の葛でさえも見蕩れてしまう程に立ち居振る舞いは優雅である。
 堂々と桟橋を往く女傑は、星勢号から飛び降りた源八郎へと恭しく一礼し、次いで友好の証しにと握手を求めた。
 その間にもチャコールグレーの長髪は艶やかに空で踊り、ハリエットと葛はすっかり釘付けになっている。
一方で、撫子は警戒を解いてはいない。口先を窄めているのは、小型のミサイルを発射する為の準備であった。
 彼女の視線は、女傑に後続する召使を捉えて離さない。その老紳士は、背に細長い楕円形の物を担っているのだが、
表面には悪魔とその儀式を彷彿とさせる紋様や装飾が施されており、何らかの危険物である可能性を撫子に示していた。
盾とも仮面とも知れぬ物体の縁には、肉食獣の物と思しき爪や牙まで嵌め込まれている。
これで怪しむなと強いるほうが無理な注文であろう。
 ミルクシスルも召使の荷物に疑問を抱いたらしく、同志の輪を離れ、撫子が陣取るテトラポットへとにじり寄っていった。
 クルーザーのクルーを注視する最中にミルクシスルから目配せを受けたマルレディは、許可の意と共に頷き返した。
おそらくクルーたちは純粋な“船乗り”ではあるまい。海上または接岸の作業に適しているとは思えない黒服姿は、
殆どマフィアの構成員だ。ミルクシスルと撫子が連携してくれたなら、“いざと言うとき”に佐志側の有利となるだろう。
 自分の隣のテトラポットに座ったミルクシスルへ聞こえよがしに舌打ちをする撫子ではあったが、
胸中ではマルレディと同じ考えを捏ねているのか、その場を立ち去ることも、彼女を拒絶することもなかった。

「……てめぇ、あの成金女を知ってんだろ? ありゃあ、何者だ? 写真撮ってネットに上げてやったが、
どこの掲示板でもウンともスンも言いやしねぇ。ムカつくぜ」
「あら? 意外と地獄耳なのね。モバイルの外には興味なんてないと思ったけど」
「地獄耳もクソもあるかよ。バカでけぇんだよ、てめぇらの声」
「それにしても、参ったわね。期待してもらって悪いんだけど、あたしも見覚えがあるってくらいなのよ。
今はどこで見たのか、てか、マジで見たコトがあるのかどうかを確かめてる最中ね」
「あと一分で全部終わらせろ。……ッとにウゼェぜ」
「ムチャ言わないでよ! 人の顔を覚えるのがこの世で一番苦手なんだから! 今でも長老連中の見分けがつかない!」
「じゃあ、ハナから絶望的じゃねぇかッ!」

 雑談で間を持たせようと試みるミルクシスルだが、時間を稼いだところで違和感の正体を掴めないのでは仕方ない。
先ほどから全力を注いでいるものの、思考も記憶も、どうにも空転しているようだ。
 生来、撫子は辛抱強いほうではない。むしろ、そう言った忍耐力はホゥリーと同等か、信じ難いことながら彼以下である。
額に汗をかきつつ考え込むミルクシスルにさえ苛立ち始めていた。

(……アホくせぇ。大体、こんなドンパチに付き合ってやる義理もクソもねぇだろうが。ふざけんなよ、カスどもがよォ……)

 撫子にとって興味の消失とは、即ち、危険人物に対する警戒をも放り出すことに等しいのだ。
マルレディが期待するミルクシスルとの連携とて、いとも簡単に投げ捨ててしまうだろう。
 とうとう右手がモバイルに伸びかけたとき、撫子は埠頭の入り口に新たな興味の対象を見つけた。
港からの離脱と言う事態は、これによって危うく回避されたわけである。

「てめぇのおトモダチじゃねーのか、アレは。……おぉ、あの根暗っぽいのは、見覚えがあるぜ。
生け捕りにしたクソガキとデキてんだっけな」
「誤解よッ! 誤解じゃなくてもあたしゃ認めないわッ! なんであたしのミストと赤髪ブタ野郎がッ!」

 気まぐれにそう話しかける撫子ではあったが、ミルクシスルの返答に耳を傾けるつもりはなかった。
 記憶が正しければ、彼らはアルフレッドとフィーナの親類だった筈だ。
両帝会戦へ赴く直前、合戦の展望を論じる席でアルフレッドが掲げた暴論に対し、大変な剣幕で反対したのを微かに覚えている。
理由は定かではないが、シェルクザールの疎開者とマコシカの少女たちを引き連れていた。
尾ひれのように随行するのは源少七だ。
 一団のひとり――ルノアリーナが素っ頓狂な声を上げたのは、それから間もなくのことである。

「マユちゃん? どうしてあなたがここにっ!?」





 ルノアリーナが「マユちゃん」と呼びかける相手は、Bのエンディニオン広しと雖も、
娘の親友であるマユ・ルナゲイトを置いて他にはおらず、
また、マユ・ルナゲイトと言えば、Bのエンディニオンを実質的に支配する新聞女王のことを指すであろう。
クルーザーを駆って佐志へ訪れた女傑とは、ルナゲイト家の現当主その人であったのだ。
 他愛のない文通から始まった新聞女王とフィーナの縁は、手紙を重ねるごとに何物にも変え難いほど強いものとなっていき、
今や、互いの立場を超越した一番の親友となっている。
 新聞王の後継者と言う身分ゆえに年の近い友人を持ち得なかったマユは、フィーナに心を開いてからと言うもの、
お忍びでグリーニャに出かけることが多くなり、大都市とは時間の流れからして異なる長閑な山村をも好ましく思うようになっていた。
 マユとフィーナの縁から生まれたことはとても多い。
当時はまだ総帥としてルナゲイトを取り仕切っていたジョゼフを視察の名目でグリーニャへと誘い、
弁護士の夢を諦めかけていたアルフレッドと結び付けたのもマユである。
田舎の片隅に埋もれる運命だった才覚へ花開くチャンスを与えたと言っても過言ではなかった。
 姉のソニエをフィーナに紹介したのもマユであった。
偶然か必然か、このときにフェイとソニエ、更には彼女に同行してきたケロイド・ジュースが初めて顔を合わせたのだ。
すぐさま意気投合したフェイは、ケロイド・ジュースとコンビを結成して本格的に冒険者稼業をスタートさせ、
後にソニエをも加えたチームへと発展していくことになるのである。
 親友を独り占めするアルフレッドとは初対面から反りが合わず、子どもじみた口喧嘩が絶えない。
 ある特殊な傾向の音楽に影響されたマユは、「Kill you(キリュー)」などと穏やかでない言葉を挨拶代わりに用いている。
フィーナを始め、心を開いた相手には「食べちゃいたいくらい大好き」と言う親しみを込めて呼びかけており、
相手にもその思いは伝わっていた。一種の言葉遊びと言えるのだ。
唯一、例外的にアルフレッドに限っては、文字通りの意味を叩きつけている。フィーナを返せ、くたばれ、と。
その敵愾心(おもい)も明確に伝わる為、顔を合わせる度に口汚い罵り合戦となるわけだ。
 ムルグも同じ理由からアルフレッドを敵視しているのだが、彼女とマユにはひとつだけ大きな違いがあった。
この若き新聞女王は、ときに周囲から呆れられるような喧嘩を娯楽として満喫しているのだ。
 自分に向かって無遠慮かつ不躾に文句を吐き散らしてくるのは、同年代ではアルフレッドが初めてである。
大抵の人間は、先ずルナゲイト家の威光に恐れをなして恭順してしまい、反抗するだけの牙を自ら折ってしまう。
ところが、アルフレッドにはそれが全くなかった。無礼千万な物言いさえもマユには心地が良いものだった。
 アルフレッド本人はひたすら迷惑がるだろうが、フィーナを愛する者同士のシンパシーもあり、マユにとっては良き好敵手。
最愛のセフィともまた異なる親近感を密かに抱いていた。
 勿論、グリーニャと言う土地そのものもマユは心から愛していた。
 奇抜なファッションを冷やかす声はあったものの、さりとてルナゲイト家に媚びを売ろうとする下衆はおらず、誰もが気さくであった。
「マユちゃん」と呼んでくれるルノアリーナには、誰にも話したことはないのだが、亡き母の面影さえ重ねている。
 秒単位で情勢が変わり、醜い権力、利権争いが渦巻くルナゲイトとは何もかもが違っていた。
グリーニャで過ごす時間こそがマユには至福であったのだ。

 自分が持たざるものを惜しみなく与えてくれたグリーニャへの想いは、一言では表せないとマユは語った。
そうして指先を触れ、落涙と共に祈りを捧げたのは、佐志の丘の上に建てられた慰霊碑である。
源八郎と挨拶を交わしたマユは、その足で鎮魂の鐘を鳴らしに向かったのだ。
 ギルガメシュの暴挙を防ぐことは出来なかったものの、せめて第二の故郷の為に祈りを捧げたいと、マユは強く懇願した。
 普段はデモナイズドされた扮装でしか人前に出ないマユが、ごく限られた人間しか知らないであろう素顔を晒し、
飾り気のない漆黒のドレスに着替えたのは、まさしく弔意の証左であった。
 カッツェらグリーニャの生き残りもマユの想いを無碍にする理由はない。
彼女の申し出に心底から感謝し、共に犠牲者の安らかな眠りを祈り、彼らの魂に届けと鎮魂の鐘を打ち鳴らした。
 他の者たちが祈りを終えてからもマユはその場に留まり続け、無念の魂が救われるよう一心不乱に女神イシュタルへと希った。
 タチの悪い新聞記者がその様を目撃しようものなら、「支持者への人気稼ぎ」などと好き勝手に書き立てるだろうが、
マユの流した涙を、声にもならない嗚咽を疑うような心のさもしい者は佐志にはひとりとしていなかった。
 以前と変わらぬ温もりを感じられたからこそマユも涙を拭い、過ぎ去った日々の想い出を振り返ることが出来たのだ。


 ――在りし日のグリーニャを瞼の裏に描くマユは、己の人生にとって忘れ難い一日のことを紐解き始めた。
 農耕を主産業とするグリーニャでは、毎年の秋に作物の収穫などを祝う感謝祭が催されていた。
祭りの当日は村中総出で大盛り上がりだ。確かにルナゲイトのような大都市の喧騒と比べれば、
それはささやかなものであろうが、一年間の労を癒し、次なる一年への研鑽意欲を確認するには欠かせない。
言わば、グリーニャにとって最も大切な一日なのだ。
 幕開けを報せる花火が上がれば、もうグリーニャは大騒ぎである。
焼きとうもろこしなどの屋台が立ち並び、ダンスショーやのど自慢と言った出し物も村のあちこちで行われていた。
感謝祭が近付くにつれて家々から陽気な歌声が聞こえてくるが、
それは当日の目玉プログラムに数えられる女性コーラスの練習なのだ。
 感謝祭で演じる出し物の為に一年間を丸ごと費やす住民も少なくない。
中でも広場の特設ステージで実施される品評会は、感謝祭の最高潮であった。
 グリーニャで生み出されたありとあらゆる物を村長たちが選考し、特に優秀な成績を修めた者には様々な賞が贈呈されるのだ。
上等な黒檀の記念楯に純銀のプレートが嵌め込まれ、そこに栄誉に輝いた者の名前と功績が刻まれる。
これこそグリーニャ村民の名誉の証しであった。
 焼き討ちによって灰燼に帰してしまったものの、かつてはライアン家の居間にも二枚の記念盾が飾られていた。
カッツェが電化製品奨励賞を、ルノアリーナが最優秀晩ご飯のおすそ分け大賞を、それぞれ受賞したのだ。
 この記念楯は村民のステータスであり、最年少で力作時計賞を授与されたクラップは、
自身への励みとするように工場のデスクへずっと飾っていたと言う。
アルフレッドもフィーナも、記念楯を授かった瞬間の感動を耳にタコが出来るくらい聞かされたと言うのだから、
クラップにとっては間違いなく一生の宝物だったのだろう。どれだけその受賞を誇りに思っていたのかが窺えると言うものだ。
 初めて参加した収穫祭で品評会に立ち会ったマユは、グリーニャに住む人々の温もりに抱かれたかのような心地だったと、
後にフィーナに語っていた。こんなにも楽しい宴は生まれて初めてとまで打ち明けたのである。
 ルナゲイトでも春夏秋冬に催し物はあるが、純粋に祭りを楽しむと言うよりは、採算が大前提となる興行に近い。
出店は熾烈な客の取り合いを演じ、出し物とて競争相手を如何にして出し抜くかばかりを考えられたものばかり。
競争社会の息苦しさがそこに集約されていると、マユは自嘲気味に鼻を鳴らした。

「勿論、ルナゲイトのイベントを否定するつもりはありませんよ。内外の観光客を最高のおもてなしで迎えることも、
わたくしたちの大事な仕事ですもの。……商品の値段やメーカーの価値に関わってしまうので、
品評会のような催しが出来ないのは、わたくしには残念ではありますけれどね」
「――いやいや! そーゆー話じゃねーじゃん!? 折角、グリーニャに遊びに来てんだからさ、
マユちーもアタマやっこくしてていいんだぜ!? 値段とか価値とか、ンなもん、無視無視っ!」

 ルナゲイトとグリーニャ、出身の違いが思わぬ形で浮き彫りになってしまったと、
頭を振りながら締め括ろうとしたマユへ待ったをかけたのは、なんとクラップだった。
 「マユちー」などと気安く呼び付けているのがルナゲイトの関係者に発覚しようものなら、もれなく制裁の対象にされてしまうだろうが、
いみじくも彼が言った通り、ここはグリーニャである。それも、気を張ることなく心ゆくまで楽しめる感謝祭の真っ最中だ。
 きょとんとしているマユに向かって、クラップはなおも持論を続けた。
彼曰く――この村でなら、この感謝祭でなら、どんな小さな夢だって絶対に叶う。
誰かが足を引っ張ることなんかない。誰かを出し抜こうだなんて対抗意識を出す必要もない。
自分のやりたいことだけを考えれば良いのだ。グリーニャの誰もがそれを認めてくれるのだ。
 クラップの話に閃くものがあったフィーナは、思いがけない言葉に戸惑っている親友の肩を優しく叩いた。

「私はお母さんと同じ賞を獲りたいな。ううん、夢はおっきく! 朝ごはん、昼ごはん、晩ごはんの三冠を狙うよっ」
「フィーちゃんがまだ入賞していないのが、わたくしには信じられませんわ。おばさまもフィーちゃんは一人前だと仰っていたのに」
「こいつの場合、大食い大賞のほうが先だと思うぜ?」
「なッ……、ク、クラ君は余計なこと言わないのっ!」
「クラップさんのおっしゃることは尤もですわね。今日もどれだけの屋台が悲鳴を上げられていたかしら……」
「マユちゃんまでぇ〜! わ、私、そんなに食べてないもん!」
「……コォー……カァ〜……」
「ちなみにムルグちゃんは何と?」
「……いや、あの、トドメの一言をやられた本人が説明するって、イタいにも程があるから……」

 思いがけずダメージを被ってしまったものの、先ずは自分の夢を語ることでマユを解きほぐそうと試みたフィーナは、
次いでアルフレッドに目配せを送った。つまり、彼がバトンタッチの相手である。
 まさか、自分のところにバトンが回ってくると思っていなかったアルフレッドは、
迷惑と言わんばかりに思い切り顔を顰め、自分以外で話を進めるよう促したが、当然、誰かに聞き入れられる筈もない。
ついにはシェインから「いつまでもスカしてないでさ。ここで逃げたら、すっげぇカッチョ悪いよ」と尻まで叩かれてしまい、
満面に不本意を貼り付けつつ、渋々ながら口を開いた。

「今の仕事に不満があるわけじゃないが、……弁護士になれたら、それで俺は満足だ」

 彼が夢として何を語るかは、この場に居合わせる誰もが予想をしていた。
「フィーを幸せにした大賞を獲る」などと気の利いたことを言えるだけの甲斐性がないことも周知の事実である。
 アルフレッドが口にした夢は、少なくとも収穫祭に於いては場違いも甚だしく、
「そう言うことを話してるんじゃないってのッ!」と、それこそ集中砲火の如き容赦のないツッコミが降り注いだ。

「な、なんだよ!? お前たち、夢を打ち明けろって言ったじゃないか!」
「お前、話聞いてた? 聞いてねーだろッ! 将来の希望職種を聞いてんじゃねーんだよッ! 冷めるわー、マジで」
「大体さ、アル兄ィって士官学校で弁護士試験に落ちたんでしょ? そろそろ現実見たほうが……」
「弁護士試験じゃなくて司法試験だ! シェインな、お前は知らないだろうが、司法試験は本当に狭き門なんだぞ。
何度も挑戦して、初めて受かるんだよ。その下地を作れただけでもアカデミーには大きな価値があるんだ」
「……わたくしの記憶が確かなら、弁護士資格目的で士官学校に進まれた方は、
余程のことがない限り、一発でパスすると聞いておりましたけど?」
「……待て。それが本当なら、俺、もう立ち直れないんだが……」
「コォッケッケッケッケ〜」
「ムルグから有難いトドメの一言を貰ったけど、翻訳しようか?」
「翻訳しなくて良いから、そのニワトリ、一発殴らせろ。贅沢は言わない。蹴りでも構わない」

 苛立ちを堪えつつ、内なる夢を披露したと言うのに、余りと言えば余りの始末である。
完全に不貞腐れたアルフレッドは、バトンを回す相手を指定することもなくそっぽを向いてしまった。
実際、彼は憤激する資格を十分に持ち合わせているだろう。
 そんな兄貴分を尻目に、次は自分の番だと意気込んで挙手するシェインだったが、
彼も彼で「どうせ冒険者デビューだろ。アルと同じ轍踏まね〜ように言い方変えて、冒険者新人賞とか?」と
クラップからにべもなく切り捨てられ、それ以上、何も言えなくなってしまった。
 クラップ、フィーナと続き、アルフレッドの番から明らかに脱線した夢の披露を、
この場に即した形で語ることの出来た真の三番手は、ムルグである。
 マユの頭の上へと乗ったムルグは、「アルフレッド公開処刑敢闘賞」と、成し遂げるべき夢を得意げに語って聞かせた。
無論、彼女が発するのは鳴き声のみで、通訳の受け持ちはフィーナである。
 品評会の判断基準は、グリーニャの地で生み出されたものであれば、有形無形にはこだわらない。
極端な話、何らかの一芸を飛び入り参加で演じても選考の対象になるのだ。
心優しき審査員たちは、その場で記念楯のプレートに受賞内容を刻んでくれるだろう。
ムルグの夢も観客が引かない限りは対象になる筈である。

「……本当、夢いっぱいですのね、グリーニャは」

 是非ともムルグの夢に加担したいと笑ったマユは、「煩い、黙れ。刑事告訴の対象だぞ、貴様ら」と言う外野の声を黙殺し、
それから少しだけ逡巡した後、祖父にも姉にも語ったことのない密かな願いを打ち明けた。
数多の権力者と互角に渡り合ってきた新聞女王には珍しく、恥らうように小さな声で「歌を、唄ってみたいのです」と語った。

「立場上、人前で歌うことは許されないのです。利敵行為にもなり兼ねませんし。
……でも、一生に一度で良いから、喉が嗄れるまで皆さんの前で唄ってみたい。それがわたくしの、わたくしだけの夢ですわ」

 さながら魔王の如く禍々しい化粧や着衣――衣服と言うよりは甲冑と呼ぶべきかも知れない――からも察せられる通り、
マユが好み、熱唱したいと希望するのは、所謂、デスメタルと呼ばれる類のものだ。
 新聞女王の立場から気が咎めてしまう――そのような言い方をしてはいるものの、
一般的に馴染みのある歌であれば、例え、ワールドツアーを企画してたとしても誰も止めたりはしないだろう。
仮にもBのエンディニオンを支配する女傑が、「全人類虐殺」、「精神破壊」、「隷属化」などと言った刺激的な単語を、
これでもかと乱暴に綴った歌を口ずさむのは、どう考えても差し障りがある。
 言うまでもなく、音楽のジャンルに貴賎などはない。それは確かだ。
どのような音楽を好むとしても個人の趣味は守られるべきであり、他者がこれを侵害することは決して許されない。
 しかし、だ。権威を纏って政治を動かす者には、やはり相応の模範的姿勢が求められるのだ。
殺戮を推進するような歌詞に心酔しているなどと口走るモラルリーダーを、果たして世界は望むであろうか。
 それ故に自分の夢は叶わないと、マユは首を横に振った。歌うことそのものを、先程までは完全に諦めていたのだ。

「だったら、叶えちまおうぜ! 一年に一回くらい、こーゆー楽しみがなくちゃやってらんね〜っしょ?
……なァに、ココはクソ田舎さ。マユちーを邪魔するようなアタマの固いヤツぁどこにもいねぇよ! 
そんなバカヤロウがいやがったら、きっとアルがとっちめてくれるさ!」
「俺を巻き込むな、俺を」
「おめーなぁ、ほんのちびっとでも良いから空気を読めっての! 友達の夢を手伝うなんて、なんかワクワクゾクゾクするじゃんよ!?」
「あの、……クラップさん?」
「さ! さッ! さあッ! オレたちのアーティストを夢のステージにご招待だぁ!」

 それでもクラップはマユに夢を持つことの素晴らしさを熱弁し、次いでほっそりとした右手を掴むと、
彼女を特設ステージ――品評会の選考会場へと引っ張っていった。
 何が起ころうとしているのかが全く分からず、右往左往しているマユをステージの上に押し上げたクラップは、
大声でもって飛び入り参加の追加を宣言した。「アカペラで一曲ね!」と付け加えたのは、追いついてきたフィーナである。
 ダンスやのど自慢をサポートするバックバンドもステージの奥に控えてはいるが、
さすがにマユが好むようなジャンルは網羅していないだろう。アカペラの指定はフィーナなりの配慮であった。
 スタッフからムルグ経由でマイクを渡されたマユは、ここに至って自分の夢が叶おうとしていることに気が付いた。
叶わないと諦めていた夢を、グリーニャの友人たちがお膳立てしてくれたのだ。
 ステージ下の最前列にちゃっかりと陣取ったシェインは、腕を振り回してエールを送っている。
 依然として口をへの字に曲げてはいるものの、アルフレッドもシェインの隣でマユを見守っていた。
“友人”の大一番を前にして会場を立ち去ってしまう程、彼も薄情ではなかったと言うことだ。

「それでは歌っていただきましょう! ブラッディ・ソードより、スクラップ・アンド・スクラップ――ッ!!」

 小気味の良いクラップの合図によって背中を押されたマユは、心底から湧き上がってくる昂揚感の赴くままにマイクを握り締め、
冥界の門を開け放つかの如き悪魔的なシャウトでグリーニャを烈震させた。
 ブラッディ・ソードとはマユお気に入りのデスメタルバンドであり、
件のグループをインディーズレーベルの伝説へと導いた代表曲がスクラップ・アンド・スクラップである。
 歌詞にて語られているのは、単刀直入に言うと、「全人類を皆殺しにした上に、その魂魄も亡骸も更に抹殺する」。
お世辞にも秋祭りを盛り上げるような選曲とは言い難く、その場に居合わせた殆どの聴衆がドン引きしてしまった。
 マユと趣味を共有するブラッディ・ソードのファンもごく僅かながら会場に詰めていた為、
全くの無反応と言うわけではなかったが、ルナゲイトの基準では、この時点で大失敗との評価を下されただろう。
 しかし、マユが立ったのはグリーニャのステージだ。
彼女が「本当、夢いっぱいですのね」と、包み込むような温もりを噛み締めた村である。
歌い始めた頃は戸惑っていた聴衆も一部のバンドファンやマユの熱唱に合わせて手拍子を打つようになり、
いつしか大盛況となっていった。
 物騒極まりない歌詞やハウリングを伴う爆発的な節回し(デスボイス)は、この場に於いては瑣末なこと。
ステージに上がったマユが一生懸命に歌っている――ただそれだけでグリーニャの人々には十分なのだ。
 最後にはアンコールまで請われたマユは、その日、死神的超魔大賞と言う栄えある賞を授与された。
セントラルタワーのオフィスには飾れなかったが、受賞内容と自分の名前が刻まれた記念楯は、
彼女にとって一番大切な宝物である。
 それは、実現不可能な筈の夢だった。悪魔的な熱唱を最高のステージで披露することなど、
新聞女王の権力をもってしても叶わないと、そう諦め切っていたのだ。
 アンコールを歌い終えた瞬間の達成感と、これに腕を振り上げて応じてくれた聴衆と、
自分を最高のステージに誘ってくれた友人たちのことは、何があっても一生忘れない――そのようにマユは締めくくった。
彼女にとっては紛れもなく人生最良の一日であった。


 丘を下る道すがら、マユの想い出に耳を傾けていたカッツェは、「グリーニャが一番幸せだった時期だよ」と感慨深げに相槌を打った。
彼女が語ったのは、スマウグ総業の魔の手が伸びる少し前の感謝祭だ。
そのときのグリーニャは、間もなく頭上に垂れ込める暗雲には全く気付いていなかった。
長閑で穏やかな日々が永遠に続いていくと、誰もが信じて疑わなかったのだ。
 マユの話に今日(こんにち)との落差を思い、同行していたカミュは思わず涙を零してしまった。
平和の象徴たるグリーニャの焼亡と同じくらいに、クラップが――あの友達思いの青年が、
今はもうこの世にいないと言う事実が彼には信じられなかった。
 これはマユも同様である。冥福を祈りながらも、どこかでクラップが今も生きているのではないかと考えてしまうのだ。
その内、ひょっこりと顔を出して、「驚いた? ドッキリびっくり大成功だぜ!」などとおどけて見せるのではないか。
叶わぬ夢とは分かっていながらも、心の片隅にそんな期待が浮かんでいる。
 おそらくこの先も不可思議な期待は失せることなく心に在り続けるだろう。
クラップ・ガーフィールドと言う青年は、夢で満たされたあの村と共に生き続けるのだから。

「いつでもどこでも、誰にでもクラップ君はクラップ君なんだなぁ。……なんだか嬉しいや」
「――あら? あなたもクラップさんをご存知なのですか?」
「隣町ですけどね。彼とは親友でした。……ううん、今でも親友です。ぼくはそう思っています」
「気が合いますのね。わたくしも同じ思いでおりましたの――……こんなことを言うと、またセフィくんが嫉妬してしまいますわね」
「あれ、もしかして、なんだかノロケ話? いいよいいよ、そう言うの、大好きだよ、ぼく」
「それほどのことではありませんよ。ただ、そう……クラップさんは、本当に大きくて、温かい人ですから……」
「……だね。ぼくも彼と出会えたことが本当に嬉しいよ」
「ますます気が合いますわね。男女問わず引き付けてくれるとは、クラップさんも罪作りですわ」
「――おぉっ! もしかして、今、ぼくの性別(こと)、一発で見抜いた? やるじゃん、キミ、合格だよ〜」
「よく分かりませんけど、光栄ですわ。友人として合格と、そう仰せなら、もっと光栄なのですが」
「モチのロンさ。クラップ君も喜んでるよっ! オレも混ぜろって言って、飛び出してくるんじゃないかな」

 クラップと言う共通の友人を持ったカミュとマユは、初対面ながら早くも意気投合しつつある。
フィーナとも親しいと分かれば、一層、話も弾むことだろう。
 これもまたあの悪戯好きの青年が結びつけた縁か――新聞女王とウェイターと言う珍妙な組み合わせは、
それこそ天と地ほど離れており、クラップが間に入らない限りは永遠に交わらなかっただろう。
 一握の寂しさを噛み締めながら想い出話に話を咲かせるカミュとマユを眺めながら、
アシュレイはクラップと言う存在へ思いを馳せていた。

 何とも例え難い思いを秘めてマユを凝視するのは叢雲カッツェンフェルズも一緒だ。
中でもハリエットは、舐め回すかのように彼女の全身へ視線を這わせている。
 彼も件の感謝祭は鮮明に覚えていた。シェリフ助手として働きに出る前のことで、
マユがブラッディ・ソードを披露したステージにも居合わせたのである。
アンコールは言うに及ばず、彼女に記念楯が授与されるまで一部始終を見届けていた。
 新聞女王とフィーナの交友や、ルナゲイトの一族がお忍びでグリーニャへと遊びに来ていたことも知っている。
マユのこともテレビや新聞ではなく実物を何度となく目撃したのだ。
それにも関わらず、ハリエットはクルーザーから降り立った女傑の正体を見抜くことが出来なかった。
不覚であった。彼女がサタニックなメーキャップを施していなかったとは言え、
人並みの観察眼さえ備わっていないと自ら明かしたようなものである。
 尤も、同じ条件である筈のグリーニャの生き残りとてマユの正体を看破した者は誰もおらず、
彼の洞察力だけが際立って劣等と言うことではない。マユの素顔を予め知っていたライアン家は例外中の例外だった。
 ハリエットと同じ懊悩を味わうのは、むしろ、ミルクシスルである。
マユの実姉であるソニエとはミルクシスルも親しい付き合いがあり、マコシカの集落では共にプロキシの修行に励んだ仲である。
それどころか、彼女のことを密かに姉のように慕ってさえいた。
 その自分がソニエの面影を全く見落としてしまうとは、ハリエットではないが不覚としか言いようがなかった。
脳裏にこびり付いて離れなかった違和感の正体は、血縁に求めればすぐに解決したのだ。
 姉のように慕う相手の顔を憶えていなかったのか――誰かひとりにでもこのように皮肉られたときには、
きっとミルクシスルは自分が入る墓の穴を掘り始めるだろう。ソニエに申し訳が立たないとまで彼女は思い詰めていた。
 勝手に懊悩するハリエットとミルクシスルを交互に見比べた葛は、次いで「ザコ過ぎてお話になんないわね」と鼻先で嘲り、
最後にマルレディから脳天へ教育的指導――要はゲンコツ――を貰っていた。




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