3.新聞女王


 祈りを終え、鎮魂の鐘を鳴らし、様々な思いを噛み締める一団が次に足を向けたのは、佐志の村役場である。
港に程近く、出動時の利便性もあり、普段の軍議には村の中央に所在する待合所を使っているのだが、
しかし、新聞女王と言う世界一の賓客を迎える場所としては粗末極まりない。
清貧なりに礼儀の尽くし方、相応しい場の整え方と言うものがあるだろう。
 守孝の代理として佐志を預かる源八郎は、彼の留守中に粗相があってはならないと気を引き締め、
村役場に会談の場を設けるよう源少七へ命じた。
 時間の猶予は皆無に等しい。マユが丘を下りきる前にセッティングを完了していなければならないのだ。
事情を聞いたミストたちが手伝いに加わっているものの、今頃はてんてこ舞いになっているだろう。
源少七に適した仕事、または向かない仕事と言うものは、武辺の身なりを見れば瞭然である。
 市街地を抜け、いよいよ村役場の門が見えてきたとき、それこそ源八郎は祈るような気持ちであった。
いつもの調子でつい源少七に指示を出してしまったが、息子がセンシティブな作業を取り仕切れるタイプでないことは、
実父の彼が誰よりも一番わかっているのだ。何らかの失態を演じようものなら佐志の沽券にも関わり兼ねなかった。
 村役場への途上で張り裂けるのではないかと錯覚する程に心臓が早鐘を打っていただけに、
正門の前に整列するミストたちの姿は、どれだけ源八郎を安堵させたであろうか。
にこやかに出迎えてくれたと言うことは、滞りなくセッティングが済んだと考えて良い筈だ。
 それとも、実は予定の半分も進捗しておらず、ミストたちは時間稼ぎをする為に待ち構えていたのだろうか――
病的なまでに疑心暗鬼になっている源八郎が胸を撫で下ろしたのは、
村役場のガラス戸を開きつつ、ジプシーワートが「第一会議室へお上がりください」と案内してからのことだった。
 いっそ清々しい程に信用されていなかったことを人伝に聞いてしまった源少七は、
大いにヘソを曲げて一週間ほど父と絶交状態になるのだが、それはまた別の話。
 しかし、源少七が不貞腐れてしまうのも無理からぬ話であろう。
廊下を進む最中も源八郎の面は滝のような汗で濡れそぼち、今もって半信半疑と言う彼の心情が如実に表れていた。

 ミストたちに先導されて入室した第一会議室は、源八郎の予想――この場合、彼が想定した最悪のシナリオ――を
大きく裏切る形でセッティングが為されていた。完璧な会議の体裁を整えていたのである。
 会議室の中央には折り畳み式の円卓が置かれ、パイプ椅子も四方に一脚ずつ並べられている。
清潔感の溢れた純白のテーブルクロスは、よくよく目を凝らすと波をあしらった刺繍が施されており、
海運の要衝にちなんだ特注品であることが察せられた。
 テーブル上には水差しとタンブラー、更にはおしぼりまで用意されていた。
窓から差し込む光でもって水差しの波紋を映し込んだタンブラーの数量は、パイプ椅子のそれに対応している。
 会議を円滑に進める為の支度には、早咲きの菫などが生けられた花瓶も添えられていた。
各人の顔を遮らないように丈の長さも調節が施されており、慎ましくも殺風景にはさせない一点の美を円卓にて醸し出している。
染み入るような色合いの花弁は、円卓に着く者の心に寄り添い、議論の疲れを優しく癒すことだろう。
 これらの細やかな気配りがミストたち女性陣の発案であることは疑いようもない。
貴賓を迎えるに当たってもフンドシ姿のままでいられる源少七には、逆立ちしても思い付かないことだった。
 円卓の近くには十数名分のパイプ椅子が用意されており、キーパーソン以外はこちらで議論の成り行きを見守ることになる。
意気込みの表れなのか、マユたちが入室したときには、気早にも既に何人かが着席していた。
 最後列の左端に在るのは撫子だ。膝を抱えるような姿勢で座面に乗り、モバイル遊びに興じている。
その姿からは想像し難いが、本人なりに傍聴の意思はあるらしい。
 マユと共にクルーザーから降り立った老執事も傍聴用のパイプ椅子に腰掛けていた。
主人の到着を「良き語らいが出来たご様子。さぞやグリーニャの皆様もお喜びのことでしょう」などと恭しく出迎えはしたものの、
それが慇懃無礼であることは、源八郎を始め佐志の誰もが周知している。
 見るからに好々爺だ。桟橋で初めて対面した際の印象を、源八郎は「ひとかどの人物」と振り返った。
ルナゲイト家の執事を名乗るからには、相応の器量と人格を備えているに違いない。
源八郎ばかりでなく誰もがそう信じて疑わなかった。
 ところが、だ。その数分後、慰霊碑へ赴くと言うマユに対して、
老紳士は「私は遠慮させていただきます。別にグリーニャとは縁のもゆかりも、興味もございませんので」と
澄ました顔で言い放ったのである。
 確かに彼とグリーニャを結ぶものは何もない。丘を登ろうとする主人の行状に不満を抱くのは無理からぬことであろう。
慰霊碑が建つ丘は、老齢にとって険しい道のりではある。だが、それは胸中に留めておくべきものであり、
必ずしも口に出す必要はない筈だ。「ひとかどの人物」と言う印象がひっくり返るには十分な放言であった。
 それにも関わらず、ルナゲイトの執事はさも面倒とばかりの物言いである。
アナトール・シャフナー。グリーニャの生き残りは、この名前を決して忘れはしないだろう。無論、悪い意味で、だ。

「――本日は、わざわざ時間を作っていただき恐縮です」

 第一会議室には直立不動で一行を出迎える者も在った。
 胸の前に両の拳を引き付け、精密機器で測定でもしたかのような角度と挙動で一礼するその男に源八郎は全く見覚えがない。
源少七と談話していたようだが、さりとて佐志の人間ではなく、戦災者、疎開者の一員でもない。言わば異邦人であった。
 しかし、その一礼には質実剛健の誠意が感じられる。アナトールのような紛い物の紳士とは根本的に違っているようだ。
 それ故に源八郎の脳裏に閃くものがあった。丘を下る道中、ある人物を佐志に紹介させて欲しいとマユから請われていたのだ。
クルーザーに同乗してきたと言うその人物が誰を指しているのかは、最早、詳らかにするまでもあるまい。
 彼が所属する組織についても自己紹介を待たずに明らかとなった――と言うよりは、その出で立ちが全てを物語っている。
 白地に黒い虎模様が散りばめた上着と、裾が爪先近くまであるだんだら模様の腰巻は、属する組織の象徴とも言うべき隊服である。
議論の場を威圧しない為に現在は外してあるが、本来は胸甲、鉢鉄(はちがね)と言った軽武装まで含まれるのだ。
 そして、胸板を覆う六角形の装甲には、隊士総員の誓いたる「義」の一文字――
白虎の群れの如き一団は、自らをスカッド・フリーダムと称していた。
 彼らはいずれも優れた格闘技者である。軽武装の下では強靭な血肉が熱く躍動し、
そこから繰り出される武技の数々は、力の芸術と讃えても過言ではない。
 格闘技術の研究が盛んな町、タイガーバズーカで興った白虎の群れは、
その卓越した身体能力、戦闘力でもって世界平和に貢献しようと日夜研鑽に励んでいる。
シェリフでは太刀打ちの出来ないような凶悪犯罪を平らげることも、被災した地に赴いて支援活動を実施することも、
義を掲げて戦うスカッド・フリーダムの使命であった。
 彼らの特徴を端的に表すならば、世界規模で活躍する自警団である。
一般市民からの信頼も厚く、正規の警察機関である筈のシェリフと比して圧倒的な支持を得ていた。
 逮捕権を認可されているのは、あくまでもシェリフである。
ガンベルトやリボルバー拳銃などアウトローに対抗する為の武器も支給はされている。
しかし、実戦を切り抜けられる程に熟達していないケースは後を絶たなかった。
 懸命に働きながらも「烏合の衆」、「穀潰し」などと陰口を叩かれるシェリフ・オフィスには甚だ不本意だろうが、
如何なる強敵にも敢然と立ち向かい、且つ無償で危険を引き受けるスカッド・フリーダムをこそ民衆が頼みにする風潮は、
ある意味に於いて自然の流れとも言えた。
 何しろ白虎の武装を纏って活躍する義士たちは、今では二千名を超えているのだ。

「スカッド・フリーダムで戦闘隊長を務めております、エヴァンゲリスタ・デイナ・シュマンツと申します。以後、お見知りおきを」

 褐色の巨体に白虎の武装を纏う彼――エヴァンゲリスタもその一員であった。
 正確には“一員”と言う呼び方は相応しくないかも知れない。
彼が名乗った「戦闘隊長」なる肩書きとは、スカッド・フリーダムが参加する全戦闘の指揮官を指しているのだ。
つまり、総大将に次ぐ地位と言うわけである。
 スカッド・フリーダム、いや、Bのエンディニオンに於いても絶大な発言力を有するだろう男が、
いくら海運の要衝とは言え辺鄙な港にまで出向く事態は、異例としか言いようがない。
その上、同じ室内にはBのエンディニオンの最高実力者と畏怖される新聞女王まで居合わせているのだ。

「一体全体、佐志はどうなるってんですかい? 反撃の拠点にしたいとお考えで? そいつは止したほうがいいな! 
四方八方、島中がギルガメシュに包囲されておしまいですぜ。腕っ節の強さじゃ解決できねぇ問題もあるってことでさぁ。
アルの旦那も賛成しないでしょうね」

 緊張と混乱の極みに達した源八郎は、思わず埒もないことを口走ってしまった。
根っからの職人気質で、自分が表に出て行くことを好まない彼にとって第一会議室は異次元空間に等しく、
先程から眩暈が止まらないのだ。
 同じ症状にはアシュレイも見舞われている。彼女も源八郎と共に円卓へ同席するようマユから要請されたのだが、
その意味からして理解が出来なかった。
 丘へと足を向ける直前――桟橋にて対面したマユは、今後、ギルガメシュと渡り合っていく為の戦略を練りたいと、
そう源八郎に申し出ていた。果たして、ウィリアムスン・オーダーに戦略へ加担するような技術や実績があるだろうか。
発掘作業と合戦は全く別物なのだ。確かにオノコロ原の塹壕作りには携わったが、
同じ作業を別の場所で実行するよう命じられても期待に添える自信はない。
 早くも暗礁に乗り上げてしまった感のある円卓を涼しげに眺めていたアナトールは、
やおら傍聴用のパイス椅子から立ち上がると、皆の注目を集めるかのように両の掌を打ち鳴らした。

「権田さんの言い分はご尤も。佐志には佐志の事情があって然りです。
我がルナゲイト家も、スカッド・フリーダムも、そちらの意思を無視して強引にことを運ぶつもりなどございません。
互いに協力し合えることや、そうでないことを先ずは見つけましょう。具体的な議論はそれからでも遅くはありませんよ。
つまるところ、長丁場は必至。立ったままの話し合いは大変ですからね、
ここは一つ、権田さんのご子息の顔を立てて差し上げてくださいませ」

 傍聴用の席からマユの背後へと移動したアナトールは、四人のキーパーソンに着席を促しつつ、
論点の明確化を新聞女王とスカッド・フリーダムの戦闘隊長に具申した。
 周章狼狽する源八郎とアシュレイを見るに見兼ねた――と言うよりも、
独力では落ち着きを取り戻すことさえできない彼らを小馬鹿にするのが狙いなのだろう。
老執事の口元は、厚意とは正反対の薄笑いで歪み切っていた。
 アナトールの提案を容れて円卓に着いたエヴァンゲリスタは、そこで初めて源八郎とアシュレイの混乱に気付き、
「言葉足らずで申し訳ない。何も佐志に砦を構えようと言う話ではありません」と深く頭を垂れた。
 精悍な両頬には炎が渦巻く様を模ったタトゥーが刻まれている。このタトゥーは耳の下を通ってスキンヘッドの後頭部にまで達しており、
両の頬から噴き出した炎は、やがて褐色のキャンバスにサラマンダーの威容(すがた)を紡ぎ上げるのだった。
 役職に似つかわしくない前衛的なタトゥーは見る人に凶暴そうな印象を与えるが、
よくよく風貌を観察すると、目玉が大きく、睫毛も長く、飴玉のように丸々とした双眸には愛嬌すら滲ませている。
 拳頭は真っ平らに潰れ、鼻の頭も団子のように拉げているが、
これは戦闘隊長を名乗るに相応しい戦歴を踏んできた証であり、生きた勲章とも言える。
一般人に乱暴を働くような無礼者でないことは誠実な言行からも察せられるものの、
いざ敵と相対すれば、スカッド・フリーダムの戦士らしく火災旋風の如き強さを見せ付けることだろう。
剥き出しの腕にも黒い炎が刻まれていた。

「――佐志の皆さんは、砂漠の合戦にも出陣されたそうですね?」

 早鐘打つ心臓を落ち着けようと冷水を一気に呷った源八郎は、視点とタンブラーの底とが水平になった瞬間、
ガラスの丸窓の向こうに反応を窺うようなエヴァンゲリスタの顔を見つけた。
 源八郎とエヴァンゲリスタは差し向かいに座っている。
彼らが目端に捉えるのは、おしぼりで汗を拭うアシュレイと、その様を値踏みするかのように眺めるマユの姿だ。

「……それで思い出しましたぜ。スカッド・フリーダムの皆さんは、あの合戦には不参加でございやしたね。
オイラも詳しい事情は知らねぇが、加勢に来たってぇ話は聞きませんでした」

 今度は源八郎が反応を窺う番である。
 些か棘のある言い方をされたエヴァンゲリスタは、返事が出来ないまま困ったようにスキンヘッドを叩いている。
掌から達した衝撃によって頬肉が波打つと、本当に烈火が揺らめいているようにも見えた。
 だが、猛々しい烈火の揺らめきとは裏腹にエヴァンゲリスタの表情(かお)は水底の如く暗い。
テムグ・テングリ群狼領やヴィクドの傭兵部隊に比肩する戦闘能力を持ちながらも
エンディニオンの趨勢が決する戦いを傍観したことに対し、彼なりに負い目があるようだ。

「私たちが参戦出来なかったのは、治安維持こそスカッド・フリーダムの義であるからです。
それもこれも、命を張ってきた皆様には言い訳にもならないと思いますが……」

 「参戦しなかった」のではなく「参戦出来なかった」と苦々しく搾り出したあたり、
民の守り手たる戦闘隊長の立場として参画拒否を決断したものの、エヴァンゲリスタ個人は出撃を希望していたような、
そんな矛盾と葛藤を抱えているのかも知れない。
 スカッド・フリーダムが合戦より治安維持を優先したことについては、源八郎もアルフレッドから聞かされていた。
それも正しい選択であろう。佐志を狙う海賊やアウトローが増加したことからも分かる通り、
戦時に於いて治安は著しく乱れるものなのだ。無法の悪党にとっては争乱の意義など興味をそそられるものではない。
弱った者を自分たちの糧にする――ただそれだけのことだった。
 Bのエンディニオンが有する全ての戦力が砂漠に一極集中してしまったなら、誰が無法の悪党を取り締まると言うのか。
本来の警察機関であるシェリフ・オフィスは、真っ先にギルガメシュの標的にされて壊滅してしまっている。
 「治安維持こそスカッド・フリーダムの義」とエヴァンゲリスタが宣言した瞬間、マルレディの表情に影が差した。
かつてシェリフ・オフィスに勤務していた彼にとって戦闘隊長の言葉は胸に突き刺さるのだろう。
 一方、シェリフ助手であったハリエットは、スカッド・フリーダムへ並々ならぬ対抗意識があるようで、
反論こそ踏み止まっているものの、先程から口先を尖らせている。これで憤りを示すつもりなのだ。
 しかし、ハリエットの憤りとて実績の前には愚かしい虚栄に過ぎない。
スカッド・フリーダムがシェリフに代わって世界の治安を守ってきたのは、揺るがし難い事実であった。
そして、彼らは今後も民の為の戦いを続けていく覚悟を固めたようだ。

「……オイラもちと口が悪くなっちまいましたな。申し訳ねぇ。
ドンパチやってるときに限って火事場泥棒を働くバカが増えるってコトは佐志も実感してんだ。
ありがてぇコトにココは迎え撃つ準備が完璧でね。今のところは守り切れちゃいるが、他のトコは……」
「ええ、アウトローの被害は日増しに多くなっています。……ギルガメシュならいざ知らず、
同じ世界の人間の食い物にされるなど信じられますか? これは由々しき事態です」

 エヴァンゲリスタの話を受けて、傍聴用の席からどよめきが起こった。
Bのエンディニオンを取り巻く悲惨な状況は、皆の予想を遥かに上回っていたと言うことだ。
 アシュレイの胸中にもやりきれない思いが込み上げており、
「手を取り合わなければならないときに、何をやってるんだ、一体……」と堪り兼ねたように頭を振っている。
嘆息する愛妻を離れた場所から見守るしかないカミュもまた沈痛な面持ちだ。
 アシュレイの嘆きに重苦しく頷いたエヴァンゲリスタは、
傍聴者のどよめきをもまとめて引き受けるように「これを取り締まるのが、我々の使命なのです」と二の句を継いだ。

「二千の同志を各地に派遣していますが、……正直申し上げて、状況は芳しくありません」
「もしや、グドゥーでの合戦が影響してるってんですかい? 負けたオイラたちの世界(ほう)が……」
「ああ、いえ。今のところ、そう言ったケースは確認されていません。問題は、我々の世界にやって来た方々のことです」
「難民が――ですか? ……それを言うなら、町を焼け出された私たちも難民に違いはないのだが」

 次々と降りかかるBのエンディニオンの窮状に打ちのめされてしまったのか、
遠くからカミュが案じる中、アシュレイは自虐的な呟きを引き摺りながら俯いてしまった。
 一方のエヴァンゲリスタも自分の不躾な発言の所為でアシュレイを傷付けたと誤解し、
悔恨の表情(かお)で説明を途絶させている。
外見に反して繊細な彼は、このまま話を続けて良いものか否か、大いに葛藤していることだろう。
 第一会議室に垂れ込めた重苦しい沈黙を拭い取るべく動いたのはマユであった。
彼女はグリーニャやシェルクザールの境遇に沿った呼称として「戦災者」を示し、
Aのエンディニオンの「難民」と分けて考えるようエヴァンゲリスタとアシュレイに言い諭した。

「わたくしもルナゲイトを追われ、今は流転の身ですわ。けれど、自分の身の上を難民と思ってはおりません。
先の合戦でテムグ・テングリは敗れ、将来、形勢がどう転がるかも分かりません。
それでも難民を名乗ることはないでしょう。……エンディニオンまで追われたわけではありませんもの」

 難民と戦災者――そのように呼び分けることへ異論を唱える者はひとりとしていなかった。
共に故郷から遠く離れた地に在るものの、悲劇に至る背景や状況は全くと言って良いほど異なっており、
混同して考えることは必ずしも正確とは言い難い。
 マユの計らいで気持ちの整理がついたアシュレイは、エヴァンゲリスタへ話の再開を促すように強く頷いて見せた。
褐色の戦闘隊長はこれに応じて頷き返し、次いで感謝を込めてマユに一礼した。
話を再開させるに当たっても、彼は大真面目に礼儀を尽くしている。

「では、話を戻しましょう――アウトローによる被害は、今では難民にまで及びつつあります。
我ら、スカッド・フリーダムが最も憂えているのが、この問題の対処なのです」

 友人たちと共に傍聴用の席にてエヴァンゲリスタの話に耳を傾けていたミストは、
彼の口から難民の被害が飛び出した瞬間、反射的にパイプ椅子から立ち上がってしまった。
ただでさえ色白な頬からは全く血の気が失せており、殆ど病的な青さとなっている。
 叢雲カッツェンフェルズから離れ、親友や妹と固まっていたミルクシスルもすぐさまに起立し、
今にも崩れ落ちそうなミストの腰へと手を回した。
 フェンネルとジプシーワートの動きも敏速である。
円卓から未使用のタンブラーとおしぼり――エヴァンゲリスタの分だが、彼は進んで提供――を調達し、
ミルクシスルに支えられながらゆっくりと着席したミストへこれを手渡した。タンブラーは冷水で満たされている。
 三人ともミストが心中にて何を思い、面を不安の色で染め上げたのかを察している。
ルナゲイトにてサミットが開催された折、酋長補佐として彼女も現地に入っており、
そこでアルカーク・マスターソンの恐るべき計画を聞かされていた。
即ち、難民をBのエンディニオンに寄生する害虫として駆除すると言う排斥の論である。
 ヴィクドの傭兵部隊を束ねる提督の掲げた差別的な思想に感化された者が、ついに現れてしまった――
それこそが、ミストの身の裡を走り抜けた恐怖の正体である。
ニコラスを始めとして難民たちと深く交わってきた彼女にとっては、生きたまま心臓を握り潰されるのに等しいショックであった。
 戦慄に思考を破壊され、言葉を紡ぐことさえ困難になってしまったミストに代わり、
彼女が確かめたかったであろうことをフェンネルがエヴァンゲリストに尋ねた。

「失礼を承知でお尋ねします。もしかして、難民の皆さんが集中的に狙われていると言うことでしょうか? 
……その、邪魔者のように追い詰められて……」

 沈鬱な面持ちで見つめてくるフェンネルに対し、エヴァンゲリストは首を横に振った。
 その動きは緩慢で弱々しく、彼女の問いかけに「否」と答えたわけではなさそうだ。
むしろ、胸中に湧いた遣る瀬ない思いを振り払おうと努めているように見える。

「心の痛い話になりますが――アウトローには標的の事情など全く関係がありません。
無法者の興味は、結局のところ、カネを持っているかどうか。それだけが基準なのです。
……ただ、身の保障を持ち得ない難民は、その分、消耗が激しいのも現実」
「それって、つまり……」
「……アウトローは、弱った者、戦う力を持たない者を好んで襲うと言うことですよ」
「……同じ人間とは、思えない……。だって、そんな非道が――」

 ミストに続いてフェンネルまで言葉を失ってしまった。差し迫った事態であることは最初から分かっていた筈だ。
しかし、世界に吹き荒れる暴力の深刻さは、彼女の想像を遥かに上回っていたらしい。
 エヴァンゲリスタの言うことは、いちいち尤もである。ミストが恐れるような危険思想に侵され、
凶行に走った暴徒ならいざ知らず、弱者の蹂躙のみを目的とするアウトローが、
AとB、ふたつのエンディニオンの人間を選り分けるわけもない。
 その点で言えば、難民は恰好の餌食であろう。異世界へ放り出された彼らは、身の保障など何も持たないのだ。
一定の空間ごと強制転送されるにしても、フィガス・テクナーのように自衛が可能な大都市ばかりではない。
MANAすら行き届かない寒村、あるいは小さな集落などは、裸同然で敵に囲まれているようなものであった。
 佐志やマコシカの集落のように保護や支援を申し出る町村と巡り会えたなら幸いだが、現実はどうしようもなく過酷である。
アルカークほど過激ではないにしろ難民を得体が知れないと忌避し、
クリッターの群がる荒野へ追いやってしまう者も少なからず存在する。
良心の呵責はあれど、蓄えの乏しさから受け入れを拒まざるを得ない貧しい村もあることだろう。
 様々な事情から野をさすらう身となった難民は、食料の確保すらままならず、餓えて弱っていくのだ。
そして、そのように疲弊した人間、いや、“餌”を悪逆非道のアウトローは決して見逃さない。
 無慈悲に降りかかる迫害からの庇護を掲げ、ギルガメシュはBのエンディニオンの武力征圧に乗り出したのである。
宣戦布告の折には、難民へ攻撃を仕掛ける者に対して、それ相応の暴力でもって報復を加えるとも言明していた。
 彼らはルナゲイトの征圧に続いて両帝会戦でも大勝利を収めた。
いよいよ彼らは、先住するBのエンディニオンに対して支配階級の如き権力を振るうことだろう。
 しかしながら、テムグ・テングリ群狼領ほか反ギルガメシュ勢力との攻防が激化する最中にあって、
難民庇護の大目的を合戦と両立させ、なお且つ世界規模でこれを徹底出来たであろうか。
 テムグ・テングリ群狼領を撃破して武威を知らしめることは、難民庇護の第一段階に相違あるまい。
決して自分たちには逆らえないと言う恐怖をBのエンディニオンに植え付け、主導権を掌握した上で様々な展開を図ろうと言う計画である。
 だが、仮面兵団が権力の確保へ躍起になる間にも、庇護すべき難民が銃火に晒されていることを忘れてはならない。
Bのエンディニオンとの戦いに要した時間は、犠牲者数と言う形で難民に降りかかるのである。
 何者かがアウトローの襲撃を哀訴すれば、カレドヴールフはすぐさまに報復の号令を下すだろう。
だからと言って、それが何の解決になると言うのか。仇討ちが果たされたところで亡くなった命は二度とは帰らないのだ。

「難民は我々に救援を求める手段を持っていません。スカッド・フリーダムと言う名前すら知らないでしょう。
善意ある誰かの通報か、警邏中の隊士が直接発見する以外に、彼らの声は聞こえない……。
難民の救出には一歩出遅れるのが現状です」
「――ちょっと待ってくだせェ。それじゃなんですかい? あんたがたは異世界の難民まで助けて回ってるんで!?」
「当然です。人は人、命は命。生まれ育ちがどこであろうと、苦しみ悲しむ人のもとに我らは駆けつけます。
それがスカッド・フリーダムの義なのですから」
「こりゃあ、たまげた! いや、オイラぁスカッド・フリーダムを誤解してたかもしれねぇや! おみそれしやした!」
「訊くのが怖い気もしますが、……ちなみに私たちは、皆さんの目にはどのよう映っていたのでしょうか?」
「失礼を承知で申し上げるなら、元気があれば何でも出来る派の集まり」
「アッシュさん、オイラの台詞を取らんでください」
「……あら? 驚きましたわね。四人席の内、三人が同じ物の見方をしていたなんて。偶然とは思えませんわ」
「さりげなく人数増やすのはどうなんですか、ルナゲイトさん。つまり、そう言うことですか、……いいのですけど、ええ……」

 ある程度、予想していたとは言え、現実として巷の風聞を突きつけられるのはショックなのだろう。
打ちひしがれたエヴァンゲリスタは、大きな双眸を寂しげに瞑ってしまった。
 タトゥーだらけの巨体を揺すらせて落胆する様子は何とも滑稽であったが、
しかし、彼と、彼が兵権を執る元気があれば何でも出来る派の集まりもとい、スカッド・フリーダムは、
偉大と賞賛されるべき活動に力を注いでいた。
 本来、Aのエンディニオンの同胞たるギルガメシュが果たさなくてはいけない難民保護を、
Bのエンディニオンのスカッド・フリーダムが代行しているようなものなのだ。
無論、これまで同様に謝礼は一切受け取らない。いつか敵対するかも知れない相手を
エヴァンゲリスタたちは無理を押してまで助けているわけだ。それもまた「義」の名のもとに貫く正道である、と。
 源八郎は皮肉な話と思わずにはいられなかった。
 難民保護の大義を掲げ、これを大義名分としてギルガメシュは侵略行為を続けているが、
実際には難民と言う大問題に対して、何ら解決を試みてはいない。いや、方策を示したこともなかった筈だ。
他を圧するだけの力を付ければ、何かしらの展望が開けるかも知れない――
それが、Bのエンディニオンにて仮面兵団が実行したことの全てであった。
 傍聴用の席にてエヴァンゲリスタの話へ耳を傾けていたミストは、
スカッド・フリーダムが遵守する義へ感じ入ると同時に自身の早とちりを猛省し、次いで安堵の溜息を漏らした。
 依然として難民は銃火に晒されており、予断を許さない状況ではある。だが、望みが全く絶たれたわけではない。
どれ程の時間が掛かろうとも、無秩序な暴力を根絶する道は必ず開ける。
アルカークの強弁する迫害思想が広く伝播しなかったことが、世界が悪意に染まっていないことが、
その希望を証明していた。

(絶対に大丈夫だよ。私とラス君も仲良くなれたのですから、他の皆さんも、必ず……!)

 心の整理を済ませ、ようやく落ち着きを取り戻したミストは、思い出したようにタンブラーの水に口を付けた。
ガラスの表面には、今まさに立ち上がろうとする葛の姿が映し込まれている。

「だッがぁぁぁーっ! さっきから聞いてればチョロクセーことをウジウジとぉっ! 言いたいことをハッキリ言いなさいよ! 
良いオトナなんでしょ、キミらは! まだ同じことを続ける気なら帰るよ、もうっ!?」

 円卓で交わされる会話は、どうやら自称くの一が備えた理解力の限界を超えてしまったようだ。
事情の把握があって初めて本題に入れるものと他の誰もが納得している中、葛だけが癇癪を起こしたのである。
 この上なく分かり易い相互確認であり、それが証拠に葛以外のどこからも不満は出ていなかった。
 ただひとり、例外を挙げるとすれば、ハリエットであろうか。葛のように喚き散らすことはないものの、
サーベルの柄頭に嵌められた猫目石を強く握り締めているあたり、目の前で飛び交う言葉の意味を殆ど理解できず、
相当にストレスを感じているらしい。
 ハリエットの場合はスカッド・フリーダムへの対抗意識が根底にある為、葛に比しても鬱屈を溜め込み易くなっている。
心中にはドス黒い物が山積していることだろう。
 葛にせよハリエットにせよ、何かの拍子にマユやエヴァンゲリスタへ鬱屈をぶちまけてしまうかも知れない。
その危険性を強く感じたマルレディは、ふたりに成り代わって円卓へと新たな質問をぶつけた。
リーダー自らの手にてガス抜きを図った次第である。

「随分とこんがらがってきたなぁ。シェリフ・オフィスに同じ案件が持ち込まれたら、きっと裸足で逃げ出してましたよ。
お世辞でも何でもなく、シュマンツさんには頭が下がりますよ。本当、私たちに出来ることがあれば、何でも言い付けてくださいよ。
スカッド・フリーダム程の大所帯がありませんが、気持ちは同じですから」

 マルレディがエヴァンゲリスタに投げかけた質問とは、年少組の間で渦巻いていた感情の代弁でもある。
葛とハリエットはそのことに気付いてもいなかったが、攻撃性の高い部分に削りを掛けるなど
マルレディが幾らか手を加えたからであろう。言い回しを少し変えるだけで印象が柔らかくなり、相手もキャッチし易くなるのだ。
 どことなく頼りなく見えるものの、人生経験は確かに積んでおり、そこから生まれる配慮や工夫は、
暴走しがちな叢雲カッツェンフェルズにとって何よりの財産なのである。
 マルレディの意図を汲んだエヴァンゲリスタは、葛とハリエットを順繰りに一瞥した後、質問に答えるべく身を乗り出した。
ところが、その出鼻をマユの挙手によって遮られてしまい、勢い余った彼は右膝を円卓の裏で痛打する羽目になった。
 運がないと言うか何と言うべきか、膝を突き上げた際に金具の出っ張りが関節にめり込み、
エヴァンゲリスタは悲鳴を上げつつ身悶えた。如何にスカッド・フリーダムの肉体が強靭であっても、こればかりはどうしようもない。
 痛みに耐え兼ねて蹲ってしまったエヴァンゲリスタを尻目に、傍聴用の席にまで歩み寄ったマユは、
新聞女王の威光に気圧される一同を見回しつつ、「わたくしどもは、佐志との間にとある協定を結びたいと思っているのです」と
自分の真意を明かし始めた。

「世界には数限りない善意が息づいています。皆さんにシュマンツ氏の姿はどう映りますか? 彼と共に戦う義の戦士たちは? 
スカッド・フリーダムは、今ではふたつの世界の架け橋とも言えるのではないでしょうか。
自分たちの労苦を省みず、異なる世界の難民に手を差し伸べるなど、並大抵の勇気ではありません。
ましてや、己を盾にして災厄から難民たちを守っているのです。尊い、眩いばかりに尊い。
これを善意と言わずに何と言うのでしょうか。……善意でなければ正義です。ふたつの世界を導き、照らす正義がここにあるのです」

 スカッド・フリーダムの行動を褒め称えるマユであったが、彼女を補佐すべきアナトールはどこか白けた様子だ。
それはマユにも分かっていたようで、老執事が口を開きかけた瞬間、機先を制するかのように鋭い眼光をぶつけた。
 これによって沈黙せざるを得なくなったアナトールだが、彼の悪質な性格から察するに、
「腕力だけしか能がないとコケにしたのはご自分でしょうに」とでも皮肉ろうとしたに違いない。
 降参の意思を表そうと言うのか、恭しくお辞儀をするアナトールを目端に捉えたマユは、
非生産的な牽制を止めて己のするべきことに意識を集中させていく。

「――けれど、スカッド・フリーダムに頼りきりで良いのでしょうか? 彼らの力にも限界があります。
今こそ、わたくしたち一人ひとりが、彼らと同じように勇気を振り絞るときなのです」

 思わず腰を浮かせる源八郎とアシュレイを振り返ったマユは、握手でも求めるかのように彼らへ右手を突き出した。
ふたりの注意が自分の指先に注がれていることを確かめると、今度は開いていた手を固く握り締める。
決意漲るとはこのことか。血の巡りを妨げる程に掌の内へと力が集中しており、
小刻みに震える握り拳は、その先にあるマユの表情と合わせて限りなく勇ましい。

「義を以って難民を守る勇気と、女神への感謝を以って世界を蘇らせる勇気。
いずれもエンディニオンの将来を占う大いなる力。何があろうと欠かせません。
……人は――ふたつの世界の人間は、いずれ戦争の終わったエンディニオンに還らなければなりません。
そのとき、恨みを抱いていて良いのですか? 相撃の巻き添えを受けて傷付いた大地がわたくしたちを受け入れてくれるでしょうか?
答えは、否。生まれも育ちも関係なく、人が人として在る為の勇気を踏み出さない限り、
あらゆる意味でエンディニオンは死に絶えるでしょう」
「それがあんたがたの言う協定――ってワケですかい? いまいち、よく飲み込めねぇんだが……」
「し、しかし! それではますます私の呼ばれた意味がわからない! 申し訳ないが、戦争に関しては足手まといでしかないぞ!?
ワールド・イズ・マインで、金属探知機で地雷でも探せと!?」

 舞踊の一種ではないかと錯覚する程に雅な足取りでアシュレイへと歩み取ったマユは、
不安と混乱を一緒くたにしたような面持ちで押し黙る彼女の手を握り締め、
「あなたの手には、もうエンディニオンで唯一の力があるではありませんか。
ウィリアムスン・オーダーと言う名の大いなる力が……!」と語りかけた。
 オウム返しに「どこに!?」と尋ねるアシュレイは、無論、マユの真意を測り兼ねていた。
鼓舞でもするかのように強く頷く新聞女王の双眸には、絶対的な自信が宿っている。
瞳の奥にて燃え盛る自信の根源は、「大いなる力」とまで称えられたウィリアムスン・オーダーへの信頼であろう。

(何を期待されているのかも分からないのだが……、やはり塹壕を掘れと強いるつもりなのか……?)

 マユの考えること、その意味は、ツナギ姿の女社長には全く理解出来なかった。
ウィリアムスン・オーダーを通して何かを確信した様子ではあるものの、その具体的なビジョンを周りの者たちは共有し得ないのだ。
 マユとアシュレイのやり取りを間近で眺める源八郎も、半ば置いてきぼりに近いような状態である。
未だ痛打から復帰出来ずにいるエヴァンゲリスタは論外として――マユの執事たるアナトールは、
どうやら彼女の腹の内を理解しているようだ。底意地の悪そうな眼差しでアシュレイを舐(ねぶ)るあたり、
予めマユとの間で打ち合わせがあったのだろう。
 皆の動揺も読み取っている筈だが、白波のように広がっていくどよめきへ愉しげに耳を傾けるこの性悪似非紳士が
丁寧な解説などするわけもない。

「どう言うことですか? 社長には、何か隠し玉でもあるのですか?」

 一体全体、どう言う意味なのか分からないマルレディは、満面に疑問符を貼り付けつつアシュレイの夫を窺った。
 シェルクザール駐在の元シェリフとレイフェル夫婦は旧知の間柄である。
親友と呼べる程の距離(かんけい)ではないものの、さりとて、互いに深刻な隠し事を持つようなこともなかった。
それ故、マルレディは何の疑いを差し挟むこともなく、発露されたリアクションをそのままの意味で受け取ることが出来たのだ。
カミュもまたマユの言行を掴めず、首を横に振り続けている。
 再び円卓へと目を転じれば、面を滝に変貌させたアシュレイを確認できる。面と言わず全身から汗が滴り落ちていることだろう。
さりとて、新聞女王が相手では握り締められた手を振り払うことも叶うまい。
これをただ見守るしかないカミュも額に脂汗を滲ませており、若夫婦の置かれた状況がマルレディには気の毒にさえ思えた。

「――買い被りですよ。それとも、私には自分でも気付かない潜在能力があるとでも? ……バカな、バカげている」

 ようやく搾り出されたアシュレイの声は、聞く者皆が居た堪れなくなる程に擦れてしまっている。

「それは、ご自身で気付かなければならないことですのよ、“ウィリアムスンさん”。
自らの意志と勇気で起つには、何が出来て何が出来ないのか、その身に持ち得る力を自覚しなければなりません」
「……申し訳ないが、今の私はレイフェルだ。ウィリアムスンは、今は社名にしか――」

 ウィリアムスンと言う旧姓がビジネスネーム以外の役割を持たなくなって久しいと説明していたアシュレイは、
そこで急に目を見開き、弾かれたようにマユへと顔を向けた。どうやら自分の紡いだ言葉の中に何かを発見したようだ。
 アシュレイの胸中に湧き出したものを肯定するように、マユは深々と頷いて見せた。
おそらく新聞女王は、この瞬間を待ち侘びていたのだろう。
 傍聴用の席に在るカミュとマルレディは、彼女たちとは別の意味で顔を見合わせている。
アシュレイとマユは意思の疎通を果たしたらしいが、これを見守る人々は依然として置いてきぼりにされたままなのだ。

「……それが私たちの役目と言うことか。確かにウィリアムスン・オーダーにしか出来ない大仕事だな……」
「これで戦争が終わるとは思えません。戦火は容赦なく世界を覆うことでしょう。
引き裂かれた自然を、穿たれた大地を再生させられるのは、ウィリアムスンさん――いえ、ミセス・レイフェル、
あなたを置いて他にはいないのです」

 他の誰にも通じないような言葉のやり取りを続けるアシュレイとマユに焦れるカミュではあったが、
しかし、その思考は徐々に働きが早まりつつある。さながら雲間より光が差し込むような感慨である。

「――違うさ。私ひとりで何が出来ると言うんだ。土や水、木や花を、たかだかひとりの力でどうにか出来るわけがない。
……エンディニオンの皆が勇気を振り絞るときだと、あなたは言った筈だ。本当に、その通りだと思うよ。
世界中で輪を作らなきゃ、星一つを蘇らせることなんて不可能だ」

 アシュレイの発したその言葉が決め手となり、遂にカミュもマユの真意を悟った。
マルレディを置き去りにして協定への理解に至った彼は、勢いで立ち上がり、
「見積もりを出して貰わなくちゃ!」と素っ頓狂な声を上げてしまった。

「エンディニオンの再生って、そう言うことでしょう? 戦争に加われってことじゃなくて、アッシュの本来の仕事をしろって――」
「おやおや、ようやくお気付きになられましたか。最後までご理解頂けないかと案じておりましたよ。
海亀の産卵が終わってしまうくらいゆっくりとした足取りでしたが、いやはや、これにて一安心ですな」

 マユに代わって返答したのは、人を小馬鹿にしたような態度からも察せられる通り、アナトールである。
不敬にも主人を遮って口出ししたばかりか、カミュの言葉を受けて協定の本旨に気が付いた佐志の人々に対し、
侮辱混じりの薄ら笑いを浮かべている。品格を疑われるような言葉を連ねつつも好々爺の風体を崩さないのが憎らしかった。
 当然、このように悪質な振る舞いをマユが捨て置くわけもない。アシュレイとは笑顔で見つめ合っているものの、
執事の名を呼ばわる声は底なしに冷酷。激することのない静かな態度は、却って怒りの深さを表していると言えよう。
 アナトールもアナトールで、彼女が示すだろう反応も読み切っていたようだ。
マユが「お仕置きが必要かしら?」と二の句を継ぐ頃には、彼の姿は第一会議室のドアの前に在った。
身のこなしは至って軽やかだ。侮蔑の眼光でもって追跡される前に廊下へ逃れ出たアナトールは、
主人より向けられる批難の一切をスライド式のドアによって遮断してしまった。
 邪悪そのものとしか言いようのないアナトールは、トイレの為に中座する旨をほのめかしていたが、
おそらくはこの部屋に戻ることはなかろう。あるいは、トイレにも寄らずに退室したその足で
クルーザーまで引き上げるかも知れない。
 繰り返される悪行には、さしものマユもほんの一瞬ながら気色ばんだ。
アナトールが会議室の片隅に置いていった楕円形の物体――サタニックな装飾が施された物だ――を険しい眼差しで睨み付け、
次いでそちらに指先を動かしかけたものの、すぐさま思い直して頭を振った。
アシュレイを説得した折とは別の力で込められる握り拳では、頭から振り落とされた憤激が潰されようとしている。
 無駄な労力は使うだけ損をすると悟ったのであろう。瞬間沸騰した挙句、
アナトールが去っていったドアに向かって罵詈雑言を喚き散らし、
仲間たちに押し止められている葛やミルクシスルとは大違いの器である。

「――人には、それぞれの役割や領分があります。無理を押してそこから逃れようとしても、必ず還らざるを得なくなる宿命が。
これは貴賎の物差しではありません。人それぞれの果たすべき天命の証明なのです。
己の道を見定めた者は、皆、ミセス・レイフェルのように賢明――
己が何者か、探し求めることを放棄した人間は、ただただ不幸で憐れなばかりです」

 咳払いの後、執事の非礼を詫びたマユは、そう言って話し合いを本来の軌道へと修正した。
アナトールへの皮肉が含めているように聞こえるのは、おそらく勘違いではあるまい。

「……ルナゲイトさんは、この戦争が終わった後のことまで考えているんですね……」

 心底より感服したようなカミュの声に、マユは浅く頷き返した。
 敢えて浅く加減したことには明確な理由がある。カミュの心情が屈従の意味合いを含む場合、
これまで同様に力を込めて首を振ってしまうと、彼との対照から驕慢な印象を振り撒き兼ねないのだ。
ましてや、アシュレイを説得し終えた直後である。
 新聞女王の異名を持つ身ではあるが、決して居丈高に物を言うのではない――
マユの立ち居振る舞いからは、己を律し、謙虚であろうとする姿勢が窺えた。
 少なくとも、アシュレイとカミュはマユの言行を誠実と受け止めたようだ。悪辣極まるアナトールとは、何から何まで正反対であった。

「命を暴力から救う最前線がスカッド・フリーダムの戦場ならば、ウィリアムスン・オーダーは星の蘇生を司るのです。
戦後の世界に要るのは、新たな政体でなければ論功行賞でもない。斬り裂かれた世界を在るべき姿に復元することでしょう。
ミセス・レイフェルには、その復興事業の旗頭に立って頂きます」
「全身全霊で取り組ませてもらうつもりだよ。それには、皆の意識がエンディニオンに寄り添わなくては。
自分たちの手で故郷を元通りにするのだと、意識できなければ何も始められないんだ」
「ルナゲイト家の名に誓って、わたくしも力を尽くす所存ですわ」

 マユの求めに対して、アシュレイは握手で以って応じた。
 新聞女王の要請とは、つまり、ギルガメシュとの争乱を終えた後の土木事業であった。
世界中を巻き込むまでに規模の拡大したこの戦いは、間違いなくBのエンディニオンの大地へ深刻なダメージを与えることになるだろう。
その痛手が環境破壊や汚染によって痩せた世界へどのような影響を及ぼすのか。
死活問題とも言うべき問いに答えられる者は、悲しいかな誰ひとりとしていなかった。
 砲撃の痕跡など世界の負った傷を放置しようものなら、自然環境の崩壊が加速するのは火を見るより明らか。
マユが指揮を執る世代の内に死滅と言う最悪の結末を迎えるかも知れないのだ。
 大地の原状回復と言う途方もない事業を、マユはアシュレイに託した次第であった。
 無論、ウィリアムスン・オーダーばかりが意気盛んに働いたところで抜本的な解決には至らない。
全世界の土木事業者と連携し、綿密な計画を遂行して初めて達成出来る。それ程の大仕事をアシュレイは双肩に担おうとしていた。
 アシュレイと握手を交わしつつ、そこにもう一方の手を重ねたマユは、
必要な機――即ち、戦いが終わった後には必ず力を貸して欲しいと、念を押すようにして言い添える。
 気早と言うか何と言うか、彼女たちはBのエンディニオン優勢で争乱が終結することを前提に話を進めている。
おそらくはエルンストら諸将が大逆転すると確信しているのだろう。
万一、ギルガメシュの覇権が覆らなかった場合、件の大仕事も机上の空論で終わるのだが、
発奮するアシュレイの頭からは、Bのエンディニオンが完全に敗れ去ると言う可能性など抜け落ちてしまっているようだ。

 実際にギルガメシュ軍と戦い、別次元とも言うべき兵器群の脅威を味わった源八郎の目には、
その風潮は極めて危ういものとして映っている。
 主力の一角として両帝会戦へ赴いた源少七も同じ危機感を抱いたらしく、不安に揺れる双眸でもって父の様子を窺った。
さながら、答え合わせのようなものである。自分の胸中に湧いた不安は、単なる杞憂として忘れて良いのか、
それとも、重大事として向き合うべきなのか――。
 息子の思いを察した源八郎は無言で頷き返し、これを見て取った源少七は表情を引き締めた。
 暗澹たる状況が続く中、意気軒昂となるのは良いことだ。その傾向自体を否定するつもりはない。
しかし、それだけでギルガメシュと互角以上に渡り合うつもりとは、現実を理解しない妄言に等しかった。
源八郎に言わせれば、自分たちの実力を過信して大言を吐く叢雲カッツェンフェルズと大差はないのだ。

(復興作業が大事なのは分かるぜ。ご両人の言う通りだ。しかしね、合戦ってモンを甘く見て貰っちゃ困るんさ)

 どこかで戒めなければならないと考える源八郎だが、その糸口を見つけるには骨が折れそうだった。
話の流れから推察するに、次はスカッド・フリーダムから何らかの協定が提案されることだろう。
そもそも、だ。不幸な事故に遭ったエヴァンゲリスタが後方へ退いてしまった為、
マユがイニシアチブを引き継いだものの、途中まではスカッド・フリーダムによる難民の保護が主題であった筈だ。
 エヴァンゲリスタはその話の中で、難民保護に回せるだけの人手が足りないと、義の戦士たちの窮状を訴えていた。
スカッド・フリーダムの求める協定とは、おそらく難民保護に充当し得る人材の提供であろう。
徴集の対象は佐志に違いない。その交渉相手として、源八郎は円卓へと招かれたと言うことである。
 これは非常にまずいことだった。両帝会戦にて出逢ったエトランジェとの約束もあり、
難民の保護には積極的に協力したいとは思っている。それも住民の総意ではある。
しかし、佐志自らが計画して実施することと、綺羅星の如き人材と彼らの指揮権を他方へ委ねることは、
同じ難民保護の行動であっても根本的に違うのだ。
 人材の派遣とは、単純に佐志の防衛力が激減することを意味している。 
例えば、佐志がギルガメシュから三度目の襲撃を受けるとしよう。
その際、派遣された人材は自分たちの都合で佐志に駆け戻ることは許されない筈だ。
あるいは、難民保護の名目で縁もゆかりもない死地へと送り込まれる可能性もある。
 いずれも危うい話であった。何よりも源八郎が不安視するのは、予想通りの協定が提案された場合、
叢雲カッツェンフェルズが諸手を挙げて賛同してしまうことだ。戦いの場を求める彼らにとっては、まさしく渡りに船。
スカッド・フリーダムの側も参戦の申し出を断る理由はなかろう。
 些細なことで我を忘れるようなハリエットや葛が仮面兵団を向こうに回して生き延びられるとは思えない。
それ以前に、格闘を得手とする義の戦士たちが砲煙弾雨としか例えようのない合戦場の現実を弁えているのか。
アウトローとの集団戦は幾度となく繰り返しているだろうが、しかし、泥沼の合戦場に加わったと言う話は聞いたことがない。
彼らは両帝会戦に当たっても斥候すら出していなかった筈だ。

「――で、佐志は社長さんの後ろ盾になりゃいいのかな? カネの相談はちと厳しいが、人手のやり繰りなら出来る筈だぜ。
今ンところ、他所に回せるだけの余裕はこれっぽっちもねぇが、復興活動が始まるまでには、まあ、なんとかなるでしょうよ」

 イニシアチブを握られようものなら、勢いでスカッド・フリーダムに引き擦り込まれるかも知れない――
これを危惧した源八郎は先手を打って主題を切り出し、マユとエヴァンゲリスタを牽制した。
幾分、遠回しな表現ではあるものの、スカッド・フリーダムに差し出せる人材はひとりもいないと明言したのである。
 そのときになって、ようやく自分たちの目の前にチャンスがぶら下がっていると気が付いたハリエットは、
部屋の片隅に立て掛けてあった八雲の旗を引っ掴むと、天井に当たるのも構わず高々と掲げて見せた。

「難民を守るって任務なら、喜んで手伝うぜ! おれたちもスカッド・フリーダムと同じ義の戦士団なんだっ!」

 猫にちなんだ小物をシンボルマークとする若き一党は、
今こそ自分たちの存在を知らしめるべく円卓に向かって吼え声を上げた。
 リーダーのマルレディや、ハリエットらグリーニャの子どもたちを案じるカッツェは懸命になって押し戻そうとしているが、
如何せん、ブレーキを失った力と言うものは御し難いものがある。
 恐れていた事態の勃発に頭を抱えた源八郎は、マルレディたちに加勢するよう息子に目配せで合図を送ったものの、
叢雲カッツェンフェルズの肩を持つ源少七がこれに応じるわけもなく、返ってくるのは苦笑ばかりであった。

「佐志のことは心配しなくていい。自分たちは独立部隊のようなものだ。ここを離れて戦うことに何の支障もない。誰にも迷惑はかからない」

 口々にそう叫ぶ仲間たちを、ミルクシスルは少し離れた場所で眺めていた。
本来は同志の一員として加わるべきなのだが、顔色の優れないミストや妹を放ってはおけず、
その場に踏み止まって介抱を続けることにしたのだ。
 結果的に賢明な判断であった。佐志から遊離することに「誰にも迷惑はかからない」などと啖呵を切る隊員もいたが、
それ自体が彼の未熟を端的に表している。取り繕いようのない軽率な発言だが、
誰からもこれを叱責する声は上がらず、これによって叢雲カッツェンフェルズの幼稚性までもが露となったのだ。
 もしも、その輪の中に加わっていたなら、フェンネルを深く傷付けたことだろう。
ジプシーワートからも「あの中に混ざりたいなら好きにして。でも、泣くのはフェンネルだけじゃないから」と釘を刺されたが、
鉄砲玉の暴走を客観視した今、ミルクシスルは黙って頷くしかなかった。
 同志のひとりから悲しげな眼差しを向けられているとも知らずに、叢雲カッツェンフェルズは勢いを強めていく。
中心で気炎を上げていたハリエットと葛は、ついに円卓へとにじり寄っていった。

「――キミたちは思い違いをしている。修羅の巷に立つのは我々の仕事だ。それは誰にも譲ることの出来ない一線だ」

 鼻息荒く円卓に駆け寄ろうとするハリエットと葛を制したのは、他でもないエヴァンゲリスタであった。
ようやく膝の激痛から回復した彼は、マユと入れ替わるような恰好で源八郎の前に立ち、
叢雲カッツェンフェルズに向かって右の掌を突き出した。
 あたかもスカッド・フリーダムが在る領域――修羅の巷へ足を踏み入れてはならないと、そう宣告しているようにも見える。
実際にエヴァンゲリスタはそのつもりである。思い掛けない拒絶の意思に戸惑いつつ、それでも前に進もうとした葛を、
彼は「義の何たるかを理解しない子どもを死地に連れていくわけにはいかないッ!」と一喝で押し止めた。

「独立部隊と、誰かがそう名乗ったね。キミたちが? ……笑わせるな! 自分が死んだときのことを考えなさい。
その死は自分だけのものか? 他に泣く人はいないのか? 悲しませる人が本当にいないと断言できるのか? 
……我々は義の為に死ぬつもりはありません。義の為に生きて、戦うのです。
人として守るべき義とは、誰にも悲しい思いをさせない誓いでもあるッ!」

 なおも続くエヴァンゲリスタの叱声を前にして、叢雲カッツェンフェルズはすっかり牙を折られてしまっている。
 スカッド・フリーダムこそが自分たちの受け皿になってくれると期待していただけに、そのショックは甚大だ。
ハリエットも葛も、腰砕けにへたり込んだまま反論一つ返すことが出来ずにいる。
天井を削っていた八雲の旗は、彼らのショックを象徴するかのように床へ放り出されていた。

「あたしたちの完敗よ。そうでしょう? この人の言うように大事なことを忘れていたわ」

 ダメ押し気味に叢雲カッツェンフェルズを諌めたのは、離れた場所から暴走(こと)の成り行きを見守っていたミルクシスルである。
後は自分が引き受けると、エヴァンゲリスタに視線でもって伝えた彼女は、仲間たちに退室を命じた。
 負けん気の強い葛はなおも食い下がろうとしたが、「自分の飛び出してきたトコを振り返ってみて」とミルクシスルに諭されたことで、
ついに折れた。折れざるを得なかった。ハリエットや他の隊員たちも同様である。
ミルクシスルに促されて傍聴用の席を振り返ると、そこには悲しげな表情で佇むマルレディら大人の姿――
そこで彼らは先程の失言の重さに初めて気が付いたのである。
 「ここを離れて戦うことに何の支障もない。誰にも迷惑はかからない」。その覚悟をエヴァンゲリスタから詰問された際、
誰ひとりとして首を縦に振ることが出来なかった。そんな若者たちは、今、マルレディたちに自分の両親を重ねている。
 最早、この場に留まることは許されなかった。冷静に状況を把握してきたリーダーの号令に従い、
彼らは苦悶の面持ちでひとり、またひとりと第一会議室から去っていく。
ミルクシスルもジプシーワートへ目配せすると仲間たちの後に続いた。
 彼女の他にも議論を傍聴していた大人たち数名が付き従っていく。並々ならない程の肩入れをしている源少七も
彼らの後を追いかけ、そんな息子の姿に源八郎は顔を顰めた。
 源八郎の眉間に寄った皺は、エヴァンゲリスタから叢雲カッツェンフェルズへと贈られた言葉の所為で一層深くなった。

「いつか、キミたちが本当の意味で義を理解したときには、必ず共に戦うことを約束しましょう。
我々は同じエンディニオンに生きる同志です。私はいつでも、いつまでもキミたちに手を差し伸べているよ」

 若者たちの寂しげな背中に向かって叱責を詫びたエヴァンゲリスタは、そのようなことを柔らかな声で言い添えていた。
 ハリエットたちを焚き付けなかったことに感謝していた源八郎だが、蛇足以外の何物でもないこの言葉を聴いた途端、
彼の中でのエヴァンゲリスタの評価は一気に急降下してしまった。とにかく期待を持たせるような発言だけは謹んで欲しかったのだ。
もしも、源少七あたりがこの気配りを受け取っていたなら、後で必ず厄介な事態に陥る。

 落ち着く間のない成り行きに嘆息する源八郎に向かって、エヴァンゲリスタは闊達に微笑みかけた。
 アナトールのように皮肉混じりの言行であったなら気持ちの整理も容易いのだが、彼の場合は誠心誠意真っ直ぐである。
それだけに源八郎は振り上げた拳を持て余してしまうのだった。

「――今しがた、彼らに話した通りです。我々、スカッド・フリーダムは戦力の補充を求めるつもりはありません。
難民を救う義の戦いはあくまでも我々の役割なのです」

 このときにはマユは既にアシュレイを伴って円卓へ引き下がっており、話し合いの主導権はエヴァンゲリスタに譲渡されている。
発言の主と従を巡る構図は源八郎にとって望まぬ形であったが、耳を傾ける限り、
エヴァンゲリスタの提案には強硬な姿勢でもって相対する必要もなさそうだ。
 彼は人手不足の解消を要請するつもりはないと、源八郎へはっきりと宣言した。
それはつまり、難民を保護する義の戦いの負担を佐志には一切求めないと言うことだ。
 てっきり兵力の提供を強いられるとばかり信じ込んでいた源八郎は、急に自分の器の小ささが恥ずかしくなった。
主導権を握られまいと先走って牽制までしてしまったのだ。これ程、バツの悪い話もない。

「先程も申しましたが、二千の同志をもってしても手は足りていません。それに、難民の声を全てキャッチ出来ているわけでもない。
……未熟を痛感させられましたよ、我々も」
「それなら、なんでガキどもを断ったんだい? いや、ホントにあんたがガキどもを連れて行こうとしたら、
申し訳ねぇが、ここで一戦構えていたところだがね」
「九死に一生を得たわけですね。“佐志の鉄砲権田”と言えば、スカッド・フリーダムでも知らぬ者はいませんから」
「おだてたって何も出ねぇぜ。……本当に佐志からは何も出せねぇんだ。人、物、さすがに乏しくなってきていらぁ」
「お察しします――そのような折に恐縮ではあるのですが、佐志の皆さんにも難民保護への協力をお願いしたいのです。
……と言っても、我々に加担はしなくても結構です。ただ、佐志の周辺で難民を発見した場合、
せめて人道的に対処して欲しいと、それだけをお願いしたい」
「そいつぁ、頼まれるまでもねぇけどよ、……それで何か解決になるんかい? あんたがたは苦しいまんまだろ?」
「いえ、楽になりますよ。自分たちと同じように難民を助けようとする仲間がいてくれると思えば」

 愚直としか言いようのないエヴァンゲリスタには、最初こそ疑ってかかっていた源八郎も心を開きつつある。
成る程、確かに彼らの目的は戦力の補充ではなさそうだった。

「見ての通り、オイラたちは難民や戦争で被災した人を積極的に受け入れてる。だが、それにも限度があらぁな。
際限なく受け入れていって共倒れになるようなコトだけは避けなきゃなんねぇ。そうなったら、どうすりゃいい?」
「賄い切れるだけの人数でも構いません。もしも、一挙に大量の難民が押し寄せてきたときや、
彼らを養える余力が尽きてしまったときには、スカッド・フリーダムにご連絡を。
受け入れ可能な先を探し出して、そこに難民を移そうと思います。勿論、移送時の護衛は我々が請け負います」
「それじゃ、あんたがたは……」
「――そうです。難民の支援を世界規模で進める連絡網に協力して欲しいと、お願いに上がった次第です」

 難民と言う不可避の事態へ取り組むに当たっては、個々の努力だけでは限界がある。
包括的な難民支援の体制を整えることが、世界秩序を守る為の急務なのだ。
難民の膨張が深刻化してからでは遅い。今すぐに着手しなければ――そう締め括ったエヴァンゲリスタに向けて、
ミストは我知らず拍手を送っていた。これを耳にした源八郎もまた胸を震わせている。
 エヴァンゲリスタは戦闘隊長と言う肩書きをかなぐり捨てて連絡網に参加できそうな町村を訪ね歩き、
この協定を取り付けて回っていると言う。協定の取り交わしと言うよりは、意思の疎通に近いと言えるだろう。
 ここまでの大志を聞かされては、源八郎も協定の申し出を無碍には出来ない。出来よう筈もなかった。
円卓を窺えばアシュレイが、反対側に目を転じるとミストやカミュ、それから数多の仲間たちが、彼の考えを支持し、頷き返している。

「わたくしも最初は驚きましたのよ。セントラルタワーが乗っ取られ、通話やメールが傍受されている可能性もある今は、
ネットワークが寸断されたのに等しい状態です。それをこの方は気合があれば何でも出来ると仰って……」
「実際に連絡網は完成しつつあるじゃないですか。何事も気合ですよ。気が入っていればこそ、相手にも魂が伝わるのです」
「……元気があれば何でも出来ると言うものかしら……」

 円卓にてタンブラーに口を付けていたマユは、エヴァンゲリスタの熱弁が一区切りする頃合を見計らい、
今日と言う日を迎えるまでを振り返り始めた。
 義の為に戦うスカッド・フリーダムと、世界を実質的に支配するルナゲイト家は、本来であれば相容れない存在である。
両者が密接な関わりを持つようになったのは、サミット――つまり、ルナゲイトがギルガメシュに襲撃される前後からであった。
 世界平和の象徴とも言うべきサミットへの襲撃予告がジューダス・ローブに届いた直後、
ジョゼフ自らスカッド・フリーダムの本部に救援を申し入れたのだ。
 新聞王の依頼を受けるか、否か。隊内では物議を醸したが、以前から追跡していたジューダス・ローブを野放しには出来ず、
また、サミットの崩壊だけは断じて許せぬとの結論となり、ついにジョゼフのもとへ選りすぐりの腕利きが送り込まれた。
ここにルナゲイト家とスカッド・フリーダムを結ぶ縁が生まれ、以来、両者は付かず離れずの微妙な距離を保ち続けている。
 さりとて、完全なる和解に至ったとは言い難い。今のところ、協力体制を整えてはいるものの、過度に歩み寄ることもなかった。
ホットライン以外での交流は皆無に等しく、一緒に佐志入りしたエヴァンゲリスタとマユは、
しかし、一度たりともまともに連絡を取り合ったことなどない。
洋上にてたまたま遭遇した為、ルナゲイト家所有のクルーザーへ同舟しただけのことである。
なお、スカッド・フリーダムの戦闘隊長は、最初は遠泳でもって佐志を目指していた。
 「わたくしたちは恩讐を乗り越えたのです。ルナゲイトとスカッド・フリーダム、
長年の因縁を持つ者同士でもこうして手を携えているのですよ? 難民となった人たちと、彼らを向かえる人たち――
エンディニオンに生きる全ての人たちにも同じことが言えるのではありませんか」と源八郎へ、
そして、第一会議室に居残った佐志の一同へ語りかけるマユであったが、裏舞台には今も穏やかならざる空気が垂れ込めている。

「あんたがたの考えは分かったぜ。詳しいことはお孝さ――いや、少弐代表が戻ってから詰めなきゃならんが、
佐志もその連絡網とやらに加わらせて貰うぜ」

 裏の事情など知る由もない源八郎は、エヴァンゲリスタとマユの弁証に納得し、協定への参加を示そうとした――が、
そのとき、部屋の片隅から円卓に向かって何かが放り投げられた。それは卓上に到達することはなく、
放物線を描いて源八郎の足元に落下してしまった。
軌道から察するに、あるいは最初からこの落下地点に狙いを定めていたのかも知れない。
 反射的に足元へ眼を落とすと、そこにはモバイルが転がっていた。それも、源八郎には見覚えのあるモバイルだ。

「……撫子ちゃん……」

 モバイルの持ち主、つまり、これを円卓に向かって放り投げた犯人の名を源八郎は当惑の滲む声で呟いた。
 傍聴用の席と向き合うと言う立地もあり、投げ付けられるまでの一部始終を目の当たりにしたのであろうか。
ある一転を見据えたまま、アシュレイは絶句して固まっている。
 長時間の連続使用で熱を帯びているモバイルを拾い上げた源八郎は、次いでアシュレイの視線が向かう先を確かめる。
彼女ばかりには限らず、室内の誰もが凝視するその先には、果たして撫子の姿があった。
 いつの間に作り出したのか、ボールペン並みの小型ミサイル――彼女のトラウム、藪號The‐Xだ――を
お手玉のように掌で転がしている。
 一人遊びに興じているように見えなくもないが、マユとエヴァンゲリスタに向けられる昏(くら)い眼光から察するに、
これは彼女なりの威嚇なのであろう。ただでさえ目付きの悪い撫子だけに、鋭さを増した双眸は、さながら抜き身の白刃の如きもの。
瞳の奥にて揺らめく暴力性に何らかの刺激が加われば、次は小型ミサイルが投擲されるに違いない。

「お気に召さないことがあるのでしたら、なんなりとわたくしに――」
「――源さんよォ、ンなクソボケた調子じゃ、いつか詐欺に引っ掛かって大借金抱えんぞぉ!? 
ちったぁ疑えよ。疑った結果がそのザマかぁ? ……ギギギ――ダッセェのぉ! 田舎モンだぜ、田舎モンッ! 
テメーらがそんなザマだからよォ、俺たちまで山猿みてーにナメられまくりなんだよッ!」

 にこやかに歩み寄ろうとするマユを黙殺した撫子は、面食らっている源八郎目掛けて罵詈雑言を降り注がせた。
肺一杯に吸い込んだ空気は、全てこの悪言の嵐に費やされたのである。
 なにくれとなく面倒を見てくれる恩人に対して無礼千万な罵倒であったが、
当の源八郎は不届き者を激怒するどころか、吹き荒ぶ嵐へ神妙に聞き入っている。
 やがて脳裏に閃くものがあった源八郎は、掌中に在るモバイルへと再び目を転じた。
何やら真新しいデコレーションの施されたモバイルは、相当な衝撃を被ったにも関わらず故障してはいなかったらしい。
液晶画面を開いてみれば、そこにはとあるホームページが表示されていた。液晶漏れもなく、奇跡的に無傷である。
 どうやらインターネット上で飛び交う様々なニュースの記事を集約したサイトのようだ。
撫子が閲覧していたと思われる記事の見出しには、「待ったなし! スカッド・フリーダム大暴走」と記されていた。

「おい、こいつは……」

 弾かれたように顔を上げた源八郎は、すかさず撫子へと視線を巡らした。ニュース記事の信憑性を問い質そうと言うのだ。
 満面に色濃い困惑が浮かぶ貼り付けた源八郎を撫子は鼻で笑い、続きを読み進めるよう顎で示した。
それが信憑性に対する答えであった。
 改めてホームページへと目を通すことにした源八郎は、内容を追うにつれて表情を曇らせていく。
 周りの人々には如何なるものが液晶画面に表示されているのかさえ分からず、
それが為に固唾を呑んで動静を見守るしかないのだが、不可思議にも表情は源八郎と同調していた。
彼がホームページの内容に衝撃を受け、只ならぬ変調を来たしていることは明らかなのだ。
見守る人々が不安を抱かないわけがない。
 焦れたカミュが「一体、何が書かれているんですか!?」と問う頃には、源八郎の瞳はページの末尾にまで辿り着いていた。
 そこには閲覧者が自由に文字を入力出来るスペースが設けられており、既に「クリアボタンを押してみろ」と書き込まれている。
所謂、検索システムだ。スペースの右隣に設置されたボタン――ご丁寧にもゴーサインを表している――をクリックすると、
入力済みのキーワードをサイト内からピックアップする仕組みとなっている。
 しかし、「クリアボタンを押してみろ」と検索したところで、エラーが表示されるばかりだろう。
当該する文字列は、ホームページのどこを探しても存在しないのである。
 つまりこれは撫子からの伝言であった。モバイルの操作盤にある「クリア」のボタンを押すよう源八郎を誘導しているのだ。
通常、クリアボタンは入力中の文字を削除する為に使われるのだが、他にも閲覧を済ませたページに戻る機能能が割り当てられている。
一回クリックする度に一つ前のページを読み返せると言うわけだ。
 撫子の伝言に従って一つ前の画面に切り替え、その掲載内容を読み取ったとき、源八郎はついにモバイルから顔を上げた。
当惑と猜疑の入り混じった眼差しは、一直線にエヴァンゲリスタへと向かっていく。
 これにはエヴァンゲリスタ当人も面食らって絶句した。先程まで感じていた信頼は、今やすっかり消え失せている。
撫子のモバイルを覗き込んでからと言うもの源八郎は人が変わってしまったようだ。

「連絡網ってのはお手軽な詐欺だよな。お涙頂戴に弱ェ連中はウマいカモだもんなぁ? 
ギギギ……ギッギギィ――……ウゼェことはお断りだがな、自分より腐ったクズにナメられんのも癪に障るわけよ。
腐り切ったそのドタマによォ、ブチ込んでやろうかぁ、ハンバーグの素をさァ〜?」

 撫子の罵声を背に受けて、源八郎は彼女のモバイルをエヴァンゲリスタへと手渡した。
“鉄砲権田”とは戦闘隊長の述べたニックネームだが、まさしく弾丸の如く鋭い眼差しが彼の双眸より叩き付けられている。
 エヴァンゲリスタには良い災難だ。急に掌を返されてしまった意味も分からず、
身に覚えのない責め苦を耐えるかのように口を真一文字に結んだ彼は、一礼してモバイルを受け取ると、
液晶画面へと目を落とし、そこに表れた内容に我が目を疑った。

「……なじょしてこだ物が外さ出回っとる……」

 そう搾り出したのを最後にエヴァンゲリスタは喉が嗄れてしまったようだが、二の句を継げないのも無理はあるまい。
彼の頬からは急速に生気が抜け落ちていき、さながら罪を暴かれた大悪人のような風体と化している。
 しかも、だ。すっかりと素に戻ってしまったのか、口走ったのは故郷(おくに)言葉である。
 何事かと心配したマユとアシュレイが彼の掌中にあるモバイルを左右より覗き込むと、
果たして液晶画面には一枚の写真が表示されていた。
 スカッド・フリーダムの隊士がギルガメシュ兵と一緒に写った写真である――
改めて詳らかにするまでもないが、両者は不倶戴天の敵同士。仲良くピースサインを決めるような類いの写真ではない。
両者の戦いを捉えた一枚なのだが、その様相が余りにも惨たらしい。
 一人の隊士が仮面の兵士に組み付き、その首を脇に挟んで締めると言う構図だが、
敵が武器を捨てて諸手を挙げ、降伏の意思を表しているにも関わらず、腕の力を緩める気配が見られないのだ。
 画面をスクロールすると続きの写真が表示されていくのだが、途中まで見てアシュレイは目を背けてしまった。
そのページは、仮面の兵士の首が有り得ない方向に曲がる瞬間までを克明に記録されていた。
新聞女王の異名を持ち、それに相応しい胆力を備えたマユでさえも顔を顰める程の残酷な有様だった。
 何より最も恐ろしいのは、ギルガメシュ兵の首をへし折った隊士の表情が、一枚目と全く変わっていない点だ。
見れば、彼の足元には首や胴体を破壊された遺骸が山のように折り重なっているではないか。
いずれも仮面で死に顔を隠している。酷いものになると、腰のところで上半身が大回転し、尻と同じ方角を向いていた。
 おそらく彼は動揺を浮かべることもなく遺骸の山を築いていったに違いない。およそ義とはかけ離れた所業と言えるであろう。
 写真の隊士は、どう言う事情か、エヴァンゲリスタとは僅かに装いが違った。
白虎を思わせる上着とだんだら模様の腰巻は、確かにスカッド・フリーダムと言う身分を証明しているものの、
写真の中の男が着用するグローブのほうがやや厚く、手の甲と言わず五指と言わず、
至る部位に小さな鉄板が縫い付けられている。手首の部分には固くテーピングが施されており、
何かの弾みで外れてしまうと言うアクシデントは起こりそうにない。
 エヴァンゲリスタとの最大の違いを挙げるとすれば、歯を防護するマウスピースを用いているか否かに尽きる。
写真の隊士は黒色のマウスピースを噛み締めていた。どうやら特注の品であるらしく、
歯茎を覆う部分にはだんだら模様の溝が彫り込まれている。ギザギザ状と言うこともあり、遠目には魔獣の牙のようにも見えた。
 双眸全体をカバーするゴーグルは、おそらく写真の隊士独自の装備であろう。
わざわざ両サイドに掛けられた簾状の前髪が当人なりのこだわりを感じさせた。

「頭ン中が晴れ模様のテメーラがよォぅ、仲間をブチ殺されて黙ってるのはおかし〜と思ったんだよ。
ちょろっと検索してみりゃ、出るわ出るわ、ゴロゴロゴロゴロ、ジャンジャンバリバリよぉ」

 ページから切り替えると、「待ったなし! スカッド・フリーダム大暴走」なるタイトルを冠した別の記事が掲載されているが、
おそらくは数多の写真を補足するような内容に違いない。

「ズル賢さは褒めてやらねーでもねぇよ? 連絡網とやらで難民の居場所を吸い上げて、直ちに急行、皆殺しって寸法だべや? 
合理的って言うんかねぇ、こ〜ゆ〜のも。ギギッ――見習わないとなんねぇわ。
……あ、狙いはギルガメちゃんだっけ? 他の難民は関係ナシぃ? どっちみち、テメーラの言うことにゃもう何の説得力もねぇけどな」

 インターネットに掲載されていた内容と、これを見ての狼狽ぶりを証拠として提示され、
スカッド・フリーダムが掲げる義との矛盾を糾弾されるエヴァンゲリスタだったが、
何ら反論を試みることもなく、肩を震わせながら液晶画面を睨むばかりであった。
 写真の中の隊士は、ゴーグルの下に濁り切った双眸を隠している。




←BACK     NEXT→
本編トップへ戻る