4.海賊討伐


 遠乗りをすると言うラドクリフに付き合い、大草原へと出掛けていたシェインは、
いつ果てるとも知れない余韻を噛み締め、心震わせる熱の引く瞬間が一秒でも遅くなることを女神へ祈らずにはいられなかった。
 現在は厩舎に戻り、乗馬の後片付けの真っ最中なのだが、その間にもシェインの指先は痺れたように震え続けていた。
危うく落馬し掛け、そのときの恐怖がこびり付いている――などと言う矮小な理由ではない。
迸る昂ぶりは、心臓の早鐘と共鳴するかのように震えとなって発露し、彼の全身を熱く激しく満たしているのだ。

 僅かに時間を巻き戻せば――アルフレッド、フェイ、イーライの三名がエルンストへ献策する権利を賭けて対決すると聞かされ、
その舞台と定められた馬軍の闘技場に急ぐ最中、只ならぬ様子のラドクリフを発見し、
悲しげな背を追い掛けたのがそもそものきっかけであった。言い換えれば、それは昂奮の火種である。
 シェイン本人は気が塞いでいると見て取ったラドクリフを励ますつもりだったのだが、
いつの間にか立場が逆転し、自分のほうが発奮する始末だ。
彼の眩い笑顔にラドクリフも癒され、気持ちが上向いたのであるから、これもまた一つの励まし方と捉えても差し支えはあるまい。
 かつては冒険者を志し、今はその夢を小休止して剣術修行に励むシェインではあるものの、
グリーニャと佐志、ふたつの拠点には乗馬を行う環境がなく、鞍の乗り心地を味わう機会さえ持ち得なかったのだ。
 ラドクリフには「騎士にも憧れていた」などと冗談めかして嘯いたが、
軍用バイクなどを駆るギルガメシュへ立ち向かう為にも早急に馬術を体得しなければならないと考えていた。
手綱を捌きながら剣を振るうことなど、今のシェインには想像もつかない領域である。
遠乗りの間は、親友の背中へしがみ付くので精一杯だったのだ。

 逸る気持ちもあり、先日もフツノミタマに馬上剣術について尋ねていた。
さすがにその場で伝授して貰えるとは考えておらず、ただ単に経験談を知りたかったのだ――が、
彼は瞬間沸騰とも言える程の過剰反応を示し、「まともに剣を使いこなせてねぇようなガキが! ほざくなッ! 
ンな色気出したってなぁ、剣技の軸も定まってねぇようじゃ馬に振り回されて落ちるのがオチだ!」と、
シェインの頭にゲンコツ一発を振り落としたのである。
 断るにしてもやり方と言うものがあるだろう。ましてや、叱声の中に剣術の教訓もそれとなく含めてあるのだ。
言い方さえ考えれば、必ずや弟子の血肉となっただろうが、このような仕打ちを受けては、シェインの側も感情だけで反発し始める。
案の定、ゲンコツによって火が点き、ムキになり、間もなく売り言葉に買い言葉の罵り合いへともつれ込んでしまった。
 シェインにとっては、ある種の「怪我の功名」であろうか。激情に任せて大人気ない悪口を並べ立てる内に、
フツノミタマは秘事である筈の馬上剣術の輪郭を口走ったのだ。眼を血走らせ、怒鳴り声を上げた際に飛び出したところを見ると、
師匠から弟子に贈るささやかな配慮などではなく、本当に無意識で飛び出したに違いない。
当人は口を滑らせたことにも気付いていない様子だった。
 裏社会の仕事人として暗殺剣を振るうフツノミタマは、得物こそ通常の刀剣に比して短めなドスを用いているものの、
技術と経験はリーチを補って余りある。ありとあらゆる状況に適応し、狙った標的を逃さず仕留めてきたことは、
闇の世界を渡り歩くその身を以って証明している。
 「テメェみてーなチンケなガキにゃ、絶対真似できねぇだろうがよォ!」と口火を切って説明がなされた彼の馬上剣術は、
手綱から完全に手を離し、あまつさえ鞍上に爪先のみで立って白刃を繰ると言うものだった。
一定になりようのない重心の操作、上下左右から圧し掛かる負荷にも打ち克って初めて使いこなせる芸当である。
 成る程、足場の狭さを除けば、四肢は自由に使える筈だが、それにしても人智を超えている。
鞍から標的に飛び懸かり、中空で死の刃を閃かせた後、先に駆けさせておいた馬のもとへ降り立つと
フツノミタマは事もなげに言い放ったが、この話を聞かされたシェインは、悪態を吐きつつも内心では戦慄した程だ。

 爪先のみで鞍の上に立つことは、あるいはラドクリフであれば容易くやってのけるかも知れない。
急な遠乗りを共にしてくれた愛馬を労う優しげな横顔――少女に見紛うばかりの容姿との言い方は禁句だ――を見る限り、
およそ戦場とは縁のなさそうな少年だが、その実、自分より遥かに強いことをシェインは十分に知っている。
 大草原に繰り出した際、襲い掛かってきたクリッターの群れを一匹残らず光の弓矢にて駆逐したのも彼だった。
光の弓矢――『イングラム』のプロキシは彼の十八番だが、それを抜きにしても見事な腕前だ。
 かの砂漠の合戦に於いては、エミュレーショニアと言う彼独自の戦闘技術も披露したと聞いている。
種によって千差万別ながら、クリッターは火炎放射や毒ガス噴霧など恐るべき攻撃能力を備えたモノが殆どだ。
ラドクリフはこれらのメカニズムを解析し、自身の術でもって完璧に再現してしまうのだと言う。
プロキシと言う秘術の深淵を理解し、且つ、神人の力を自在に制御し得る天与の才能なくしてエミュレーショニアにはなれない。
 佐志の誰かが「プロキシの天才」とラドクリフのことを絶賛していたが、これを耳にしたとき、シェインは親友の活躍を心から誇りに思ったのだ。
 ゼラールと共に歩む限り、ラドクリフは更なる高みへと上り詰めることだろう。
先ほど新たに知ったゼラール軍団の武勇伝が、その未来予想を保証している。
 それは、ゼラールとその軍団がテムグ・テングリ群狼領にて挙げた最大の武功である。
遠乗りから帰る途中、シェインに武勇伝をねだられたラドクリフは、最初こそ「自慢話になっちゃうから……」と渋っていたものの、
親友より寄せられる熱い視線に根負けし、かつて参加した海賊討伐のことを語って聞かせたのだ。
 つまりシェインを大いに昂ぶらせたものの正体とは、この海賊討伐の武勇伝なのである。


 そもそもの発端は―テムグ・テングリ群狼領の幕下に入るとゼラールが決断した日にまで遡ることになる。

「エルンストと言う稀代の豪傑に興味が湧いた」

 たった一言だけが馬軍に下る理由として告げられたものの、トルーポに言わせると、これは皆を納得させる為の方便とのことだ。
 エンディニオンの覇権を狙うテムグ・テングリ群狼領の戦に血が騒いだ――
おそらくはそれが真意だろうとトルーポから聞かされたラドクリフは、本当ならば身勝手な振舞いに呆れるべきところで、
堪え切れず笑気を吹き出してしまった。
 実にゼラールらしい理由ではないか。主従と言うよりは兄弟同然のトルーポでさえゼラール本人には畏れ多くて確認していないそうだが、
それ以外の真実は有り得ない、いや、“閣下”には似つかわしくないとラドクリフは思っていた。
 丁度、故郷のマコシカを離れ、軍団の一員として迎えられた頃の話である。
自身の愉悦を優先して一軍を振り回すなど、将たる者としては失格の筈だ。
ところが、だ。このとき既にラドクリフはゼラールの言行の全てを楽しく感じるようになっており、
「お前もすっかり染まったなァ」などと頭を撫で付けてくるトルーポと顔を見合わせ、大笑いしたのである。
 不安に思うことは何もない。それどころか、閣下の進もうとする道が何処へ到達するのか、
そもそも果てはあるのかと想像することでラドクリフの頭は一杯だった。
 それ故に、軍団内で物議が起こった際にも一貫してゼラールの決定を支持し続けた。
ゼラールの気まぐれには軍団員一同慣れているのだが、だからと言ってテムグ・テングリ群狼領に下ることは容易く承服出来るものではかった。
 この当時のゼラール軍団は、アカデミー時代から閣下に従ってきた元士官候補生、
即ちレモンイエローの軍服に身を包む一団が主戦力を担っていた。
ラドクリフのように旅先で引き入れた仲間も少なくはないが、最古参とも言うべきアカデミー勢の忠誠心は、
さながら血の盟約の如く深く、濃い。神の如く尊崇するゼラール以外に主君を持つことなど有り得なかったのだ。
 ましてや、相手はエルンストである。当時はまだ先代御屋形――バルトロメーウスが健在であり、
彼は後継者候補のうちのひとりにしか過ぎなかった。いくら興味が湧いたとは言え、
馬軍の覇者より格の落ちる男のもとに“閣下”を向かわせて良いのか。その議論もまた紛糾した。

 最後には彼らと同じ立場にあるトルーポが宥めすかし、亀裂が生じるような展開は回避されたものの、
テムグ・テングリ群狼領に下った後もゼラール軍団の試練は続いた。
 バルトロメーウス、いや、エルンストに差し出すような領地も、財宝も持ち合わせていないゼラール軍団は、
雑兵を下回るような扱いを受けたのだ。
功名を立てる合戦場からは遠ざけられ、それどころか、敵味方の戦死者の埋葬などを押し付けられていた。
半ば使い走りの下働きである。ときにはテムグ・テングリ群狼領を裏切った者を追い詰める粛清の役割を強いられることもあった。
 不当としか言いようのない仕打ちには、ラドクリフも含めて軍団員の誰もが反発したものの、
ゼラールとトルーポはあくまでも冷静だった。

「戦場で亡くなった者たちに礼儀を尽くすのは、カルい役目なのか? オレは合戦で一番大事な仕事だと思うがね。
それとも、敵になるヤツはみんな虫けら以下ってことかい? ……そんなド汚ェ根性で勲章貰ったって、自分で自分を褒められねぇさ。
我ら閣下の軍団は、もっと誇り高くありたいじゃねぇか」
「フェハハハ――ド汚い根性とは言い得て妙ぞ。然様な鼠輩に限って主君を裏切るものじゃ。
余に言わせれば、裏切られるほうこそ愚かじゃがな。たかが下僕風情を引き止めてもおけぬとは、器が知れると言うものぞ。
愚昧な主君と蒙昧な下僕、ふたつの顔を見比べるが良い。如何なるものが人心を動揺せしめ、破滅へ誘うか。
一目で下衆めを見極められるよう目を肥やしておけ」

 軍団の頂点に座すふたりは、どれだけ屈辱的な任務を課せられようとも愚痴ひとつ漏らそうとしない。
それどころか、腐りそうになる配下へ不遇の期間こそ見識の広がる好機だと諭していった。
 ゼラールのカリスマ性と、トルーポの卓越した指揮のもとに統率された軍団は、
暴発することなく結束力を強め、汚れ仕事でさえも完璧にこなし、その度に軍団員は精兵への進化を遂げていく。
いつしかエルンストに目を掛けられる程、馬軍の中でも抜きん出る存在となっていた。
 思惑が外れて、煩悶したのはテムグ・テングリ群狼領の幹部たちだ。
指揮下に入った直後から独立部隊のように振る舞って軍律を乱し、あまつさえ御法度の筈のトラウムまで平然と行使する軽率な輩は、
プライドを貶められるかのような仕打ちに耐え兼ね、早々に根を上げるだろう――誰もがそう予想していた。
ところが、結果は見事に正反対。ゼラール軍団は次期御屋形候補の信頼まで勝ち取ってしまったのだ。
 こうなると、馬軍の諸将もいよいよゼラールを無視出来なくなってくる。
群狼領最古参の氏族出身であるピナフォア・ドレッドノートが軍団に送り込まれたのは、そんな折であった。

 ピナフォアを経由して軍団に与えられたのは、それまでの汚れ仕事とは打って変わって華々しい功名の猟場だった。

「我が軍の船舶を無差別に脅かす海賊の頭目、ペガンティン・ラウト族を殲滅せよ。これは特務にして急務である」

 それが、ゼラールに用意された猟場の全容である。なお、「猟場」と例えたのはトルーポであり、
任務の委細を確かめたラドクリフからは、「漁場の間違いじゃないですか」と言葉遊びのような指摘を受けていた。
 ようやくありつけた大仕事を前にして、ゼラール軍団は俄かに浮き足立ったものの、現実には相当な難易度の任務だった。
 討伐すべき標的は、ペガンティン・ラウトと呼ばれる海の一族である。
元は海洋貿易で栄えた漂海民の一部族だったが、根城とする海域がテムグ・テングリ群狼領によって侵犯され、
生業の維持さえままならない状態にまで追いやられてしまっていた。
商売相手であった土地も次々と馬軍の支配下に置かれ、ついには貿易規制が敷かれたのだ。
 エンディニオンの武力統一に着手したテムグ・テングリ群狼領は、喉から手が出る程に優秀な水軍を欲していた。
編制に当たって目を付けたのが、ペガンティン・ラウトだったと言うわけだ。
 漂海民とは、読んで字の如く、一生を海の上で過ごす民族である。
海水を沸かすと言う民族独特の産湯に浸かった瞬間より彼らは海の一部となり、
波を揺り篭にして育つと、潮風を友とし、潮流を師と仰ぎ、魚と戯れ、やがて真のペガンティン・ラウトとして独り立ちするのだ。
その部族名は、現地の古語で「海に添い遂げる人」を意味している。
 帆船こそが海の一族の家である。
 交易拠点として幾つかの家屋は保有しているが、それらも全て海上に建っている。
海底から太い柱を立て、これを土台として建物を支える仕組みだった。
そうした家屋は複数戸が密集する為、遠目には集落を形作っているように見えなくもないが、所詮は一時の溜り場に過ぎない。
貿易品を納めておく倉庫や、寄り合いに使う食堂が建つ程度で、生活の基盤とはなり得なかった。
 生きるときも、死ぬときも、彼らは海の一部であった。
 そのようにして栄えてきたペガンティン・ラウトは、テムグ・テングリ群狼領に勝るとも劣らない歴史を持ちながらも
陸と言うものを全く知らない。「海の一部」とは比喩的表現などではなく、
知識や五感――自身の全存在に海の全てが刻み込まれていると言うことだ。
 生まれながらにして海の全てを知り尽くすペガンティン・ラウトを手中に収めると言うことは、世界にふたつとない海戦力を得るのに等しい。
水軍を欲するテムグ・テングリ群狼領は、困窮したペガンティン・ラウトが降伏してくるのを待った。待って待って、待ち侘びた。
 それでも、ペガンティン・ラウトがテムグ・テングリに頭を下げることはなかった。
どれほど揺さぶりを掛けられようとも、日々の暮らしに窮しようとも、海に生き、海に栄え、やがて海に還る漂海民にとって、
陸の勢力と交わる選択肢など最初から持ち合わせてはいなかった。

 その後、ペガンティン・ラウトはテムグ・テングリ群狼領の思惑を大きく裏切る行動に出た。
彼らの欲する海の民の力を生かし、海賊と化してテムグ・テングリ群狼領所有の船舶を襲撃するようになったのだ。
 常勝を誇る馬軍もこればかりは全く想定しておらず、ペガンティン・ラウトの海賊化を許してしまったばかりか、
自分たちの確保した海路まで脅かされる羽目に陥ったのである。
ペガンティン・ラウトが秘める水軍としての可能性を、皮肉にも己の身をもって味わった次第だ。
 馬軍と敵対する勢力のもとに援軍として海賊船を漕ぎ出すケースが後を絶たず、両軍の闘争は泥沼化の様相を呈していた。
 つまり、根の深い因縁の決着がゼラール軍団に託されたわけである。
 ゼラールにとっては比類なき地位を確保する為の千載一遇の好機だが、
それと同時にテムグ・テングリ群狼領の諸将にも旨味の多い作戦であった。
 討伐に成功すれば、長らくの念願であった最強の水軍を手に入れることが出来る。
海賊団の全滅と言う最悪の事態に陥ったとしても、深刻な問題であった海路の安定化は得られるのだ。
万一、ゼラールが討伐に失敗した場合は、これを理由に忌まわしい軍団もろとも放逐させられる。どう転んでも馬軍に損はなかった。

 ピナフォアが率いる馬軍の一隊は、ゼラール軍団のような寄せ集めの集団ではなくテムグ・テングリ正規の将兵である。
ゼラールの実力を本軍が認めた証左として自分たちは遣わされてきたとピナフォアは語ったが、
それが建前であることは誰しもが理解している。ゼラールが過剰な力を持たないよう監視する密命でも帯びて来たのだろう。
 最古参の氏族出身でもある彼女は、テムグ・テングリ群狼領とペガンティン・ラウトが闘争に至った経緯も承知している。
因縁の決着とも言うべき作戦に当たって、自分はバルトロメーウスの名代として立ち会うつもりだ――
わざとらしく自身の身分を強調するようなピナフォアの宣言は、突出しがちなゼラールへの牽制でしかなかった。
 今でこそ“閣下”からの寵愛をラドクリフと争うピナフォアであるが、
軍団へ参加して間もない頃は、常習的な軍律違反や問題行為の数々を事前に聞かされていたこともあり、
ゼラールのことを快く思ってはいなかった。それどころか、馬軍の内憂と敵意さえ抱いていたのだ。
 しかし、その悪印象は、海賊討伐を通じて塗り替えられていくことになる。

 ピナフォアを最初に驚かせたのは、入念な戦略の策定であった。
平素の大言壮語からして猪突猛進に攻め入ることしか能がないとばかり思っていた彼女には、
闊達に意見を交わすゼラールたちの姿が信じられなかったようだ。
 ゼラール軍団は下調べにも余念がない。海賊団の行動パターンや活動領域を一から洗い直し、
自軍の優勢に持ち込める攻撃開始地点を熟慮熟考していく。当該地点の潮流や地形までゼラールは徹底的に調べ上げていた。
必勝の場所として選ばれたのは、数少ない交易相手との取引に使われる入り江である。
偽の商談を持ちかけて誘き寄せ、その上で海賊船を制圧しようと言うのだ。
 相手は海の全てを知り尽くすペガンティン・ラウトだ。潮流など調べたところで付け焼刃にしかなるまいが、
さりとて無知のまま戦いを挑むのは愚の骨頂と、トルーポは軍団員に叩き込んでいる。
 ピナフォアたち正規の将兵が加わったとは言え、兵力も海賊団には及ばない。
そもそも、ゼラールは馬軍に期待などしていなかった。海上での戦闘に於いて、彼らが本来の実力を発揮出来るだろうか。
確かにテムグ・テングリ群狼領は強い。しかし、それも陸の上での話であった。

「おのれらは随分と長く海賊どもを持て余しておったようじゃな。馬蹄の利かぬ海を如何にして御すか、ひとつ披露してみせよ。
長期の戦いなれば、その程度の知恵は練っておろうな? よもや最強馬軍が無為に時間を過ごしたわけではあるまい?」

 ゼラールからそのように挑発されてもピナフォアには返せる言葉がない。馬軍が海での戦いに不慣れなことは覆し難い事実なのだ。
 負けん気の強いピナフォアは、口を真一文字に結びつつも胸中で「それはお前たちも同じ条件(こと)だろう」と反論したが、
しかし、その虚しい抵抗さえも彼女自身へ痛烈に跳ね返ってしまった。
 蒙昧とばかり思っていたゼラール軍団は、古今東西の海戦の知識を一通り習得していたのである。
 主として海での戦い方を論じたのは、レモンイエローの軍服に身を包むアカデミーの出身者だ。
驚くべきことに、彼らは戦闘中に敵船を拿捕するような荒業まで習熟していた。
潮の読み方や船の操縦では一歩劣るものの、こと海戦の知識に関しては、ペガンティン・ラウトにも比肩するのではなかろうか。
 無論、古参ばかりを重用することはなく、ラドクリフのように旅先で加わった軍団員にもゼラールは積極的に耳を傾ける。
多士済々の顔ぶれだ。中には海賊との戦いに欠かせない造船の技術に長けた者もいる。
それは元士官候補生たちにも知り得ぬことであり、ゼラール軍団の財産のひとつであった。
 年甲斐もなく軍団に加わった老ガンスミス(銃職人)、クレオー・ケイヒル・ウォーレンドルフは、
“閣下”と目が合うと、鷲鼻を飾る丸眼鏡の黒縁を指先で弾き――

「頭目(かしら)の船をひっ捕まえちまえば良いんでしょう? そんなのは造作もないことですよ。
どこにも逃げられないよう物理的に繋ぎ止めちまえば良い。
身動き取れなくなりゃあ、海賊船だろうが何だろうが、ただのデカい浮島ですぜ」

 ――弛み切った頬を笑気で震わせつつ自らの妙案をひけらかしていった。
 具体的な方策を割愛している為、身勝手な放言のようにも聞こえるが、ウィンクでもって自己顕示を仕掛けるあたり、
彼の腹中では、海賊船を封じ込める秘策が出番を催促しているらしい。
 クレオーが一介のガンスミスに留まらない力量の持ち主だと認めているゼラールは、
頤を反らせて笑った後、トルーポへと目配せした。それは、老ガンスミスの提案を採用することに決めた合図である。
 頭頂部の禿げ上がったクレオーは、肩書きこそガンスミスであるものの、銃器以外の武器も幅広く取り扱っている。
軍団員が携える武装の修理や改造を一手に担うのも、この老人であった。
 トルーポが用いる重装備もクレオーの手によって改造された物ばかりだ。
装甲板を貼り付けたマントなどは彼の手製の品である。
それ程の力量の持ち主が物怖じもせず自信たっぷりに胸を反り返らせたからには、海賊船封殺の秘策は大いに期待できるだろう。

 作戦が決した後の行動も迅速かつ大胆である。
 軍団総員に軍備の徹底を命じたゼラールは、自ら海賊船攻撃地点への視察に赴いていった。
こうした下調べは奇襲攻撃の要であるが、総大将が自分で足を運ぶなど前代未聞の珍事である。
予想外の綿密な軍議に続き、またしてもピナフォアは度肝を抜かれたわけだ。
 傲慢を絵に描いたようなゼラールの性格上、面倒ごとは配下に押し付け、自分は特等の椅子にふんぞり返っているのだろう――
そのような歪んだ予想が外れるのは、通じて二度目である。自分の見方が偏っていることに気付いたピナフォアは、
勇者にあるまじき振る舞いを恥じ入り、去り行く背を大急ぎで追い掛けたのだった。
 その殊勝な態度が笑気を誘ったのであろうか、ゼラールはその双肩にピナフォアを担ぐと、
慌てる彼女を「肩車は子どもの特権ぞ。身の丈を越えた高き世界を愉しむが良い」とからかって見せた。

「――貴様には見たこともない光景であろう? 何しろ貴様は子どもじゃからの。広き世を知らず、狭き塀の中で満足しておる。
されど、余と共におれば人に肩を借りずとも斯様な高見をいつまでも眺めていられるのじゃ。
余の在る場、それこそが高き次元であり、いずれエンディニオンにもたらされる新秩序である」

 毎度のことながら大言壮語が飛び出したものの、今度こそピナフォアは何も反論を返さなかった。
やり込められて沈黙を余儀なくされたと言うことではない。心中にて悪態を吐くような真似もしない。
このときには、軍団員から“閣下”と尊崇されるゼラールのことを、そして、彼の肩から眺望できる高い世界のことを、
もっと良く知りたいと思い始めていたのだ。
 軍備調達の指揮を任されたトルーポは、ゼラールに肩車されたままハンガイ・オルスを出て行くピナフォアに向かって、
「なかなか心地好いもんだろ、そこからの眺め」と笑いかけた。その言葉にも彼女はしおらしく頷き返した。

 ゼラールたちが視察に赴いている間にも海賊討伐に必要な準備は急ピッチで進む。
海賊船との戦いに於いて肝要と目された木造ボートも続々と仕上げられていった。
 海戦が不得手とは雖も、テムグ・テングリ群狼領とて軍船くらいは何隻も所持している。
衝角(ラム)付きの大型帆船を使用する許可もゼラール軍団には出されていたが、
あくまでもトルーポは閣下の指示に従ってボートを新造していく。
 これを垣間見た馬軍の将士たちは、揃って首を傾げたものだ。
幾度となくテムグ・テングリ群狼領に辛酸を舐めさせたペガンティン・ラウトは、名実ともに世界最強の海賊団である。
そのような相手を討伐しようと言うのだから、最大級の帆船で乗り付けて武威を示すのが定石。
小型のボートを乱造したところで、たちまち蹴散らされて海の藻屑と化すだろう。
 ゼラールが木造ボートにこだわった理由は単純明快だ。
それを旅の道中で聴かされ、振り子のように首を縦に振ったピナフォアは、
後にボートの新造を嘲った将士へ「短慮」との叱声を飛ばすことになる。
 海賊船を包囲して身動きを封じる場合、大型帆船よりも小回りの利くボートを用いたほうが遥かに戦い易い。
戦場と目された入り江の立地を考慮すれば、小型ボートは当然の選択であった。
第一、海賊たちは大型船との攻防に慣れ切っている。帆船を陥落させる術は何千通りと知っていることだろう。
 それだけならば、馬軍所有の小型船を手配すれば間に合う筈だが、ゼラールには機動力の確保以外にも思惑があった。

「我が方の軍船は、これまでにも海賊どもと戦っておろう? ならば、こちらの船もヤツらには憶えられている筈じゃ。
それでは虚を突けぬ。敵の心理を乱すのが奇襲の旨味と言うに、テムグ・テングリの船籍と割れては台無しぞ。
あやつらは我らの攻撃に気構えが出来ておる。……じゃが、船籍不明の船が襲ってきたならどうなる? 
テムグ・テングリ以外の誰が戦いを挑んできたのか、まずは動揺する。ほんの一瞬な。その一瞬に我らは勝負を仕掛ける」

 ゼラールの分析によれば、敵の記憶にあると予想される船は奇襲には不向きであった。
仮に偽装を施したところで、海や船を知り尽くすペガンティン・ラウトの目は誤魔化せないだろうとも考えている。
そこで、新造ボートの出番と言うわけだ。吐いていない嘘は見抜かれようがない――
その理屈に則り、初披露のボートでもって海賊に不意打ちを仕掛けようと言うのである。
 海賊に知られていないボートを用いることが奇襲の要であるなら、
該当する物をどこかの造船所から買い付けても事足りるのではないかとピナフォアは尋ねたが、
そうした取引情報がペガンティン・ラウトに流れている可能性をもゼラールは想定していた。
 内海を腕(かいな)へ抱くかのような地形となっている入り江を観察しつつ、
こうした場所で戦いを有利に進める方法を論じるゼラールは、
ピナフォアだけでなく彼女に随行した群狼領の部将をも強烈に惹き付けている。
 その人に潜在する才能を見出し、限界を超えるほどに引き出し、総合してひとつの大きな力に束ねる――
ゼラールが“閣下”と崇められている理由を馬軍の者たちも理解しつつあった。


 ――ここまでが、海賊討伐の前段であった。
 当時、ゼラールから“ある人物”への協力を仰ぐよう指示されていたラドクリフは、入り江への視察に随伴することも叶わず、
別行動を余儀なくされたのだが、その間にピナフォアは肩車の“名誉”を受けたのである。

「その瞬間からぼくにとってあの人は敵になったんだよ。いつか自分の立場ってものを分からせてやるんだ、絶対」

 後になってそのことをトルーポ経由で聞かされたラドクリフは、以来、ピナフォアを敵視するようになったと言う。
 海賊討伐の話をねだったシェインもこればかりはリアクションに困ってしまい、
「どんだけ閣下大好きなんだっつーの。そこまで行くと、ちょっと妬けるぜ」と冗談を飛ばすしかなかった。

「……これがぼくの初陣さ。シェインくんの初陣は砂漠だったから、なんだか正反対って感じがするね」
「そうかぁ? 砂漠だからカラッカラに乾いちゃいたけどさ、だからって海と比べるのはちょっとムリがあるよ」
「もー、ちょっとくらい浸らせてくれたっていいでしょ〜。シェインくんとぼく、砂漠と海、剣とプロキシ、悪魔と一緒か、閣下と一緒か――
ほらほら、並べてみるといろんなところが正反対だよ」
「なんでもかんでも繋げんなって。つーか、さりげなくアル兄ィにとんでもないコト言いやがったな、おい」

 初めて目の当たりにした合戦の凄まじさが前段を語り終えたところで蘇ったのであろうか。
脳裏に押し寄せる初陣の情景を噛み締めるようにして、ラドクリフは静かに瞑目した。
 意識を遥か彼方へ飛ばした様子の親友を見つめるシェインは、両の眉を八の字に歪めながら頭を振った。
自分たちの境遇を比べたラドクリフは互いの初陣を「正反対」と評し、シェインはこれを無理な決め付けと否定していた。
ところが、実際にはラドクリフの言う通りであったのだ。
 海賊討伐に当たり、ラドクリフはゼラールから特使の任務を託され、その上、実戦にもその身を投じている。
最初、合戦場の外に置かれていた自分とは、同じ初陣ながらも正反対と言えよう。
シェインには戦場に立ったと言う感慨さえも皆無だった。

「恨みを残さない形で決着したところは、同じかも知れないなぁ。……砂漠でのことを聞いたときは、ぼくもまさかと思ったけどね。
あの悪魔もといアルフレッド・S・ライアン氏は、昔の仲間だって皆殺しにしてしまうように見えたもの」
「……無理もないかもだけどさ、ラドってばアル兄ィにはホントに手厳しいよな」

 ――そこからが、海賊討伐の後段である。
 互いの初陣に共通点を見出したラドクリフは、それが具体的に如何なるものであるのか、詳らかにし始めた。


 その正体を後で聞かされたシェインは飛び上がって驚くことになるのだが――
ある人物への協力を取り付けたラドクリフが本隊へ復帰したときには、
木造ボート、新兵器の開発に至るまで海賊討伐の支度は万端に整っていた。
 奇襲作戦は幾つかの段階に分かれている。海賊船が入り江深くまで入り込み、
碇泊(ていはく)したところで戦端が開かれる手筈だった。
 予めペガンティン・ラウトには偽の情報を流してある。買い付けを担当するバイヤーの船が浸水のアクシデントを起こしてしまい、
出航に手間取ってしまった――これを待ち合わせの刻限間際に伝達したのだ。
取引は全て海上で行われるのだが、入り江に商談相手の船がなくとも海賊団は何ら不思議には思わないだろう。
碇を下ろし、前祝いの酒盛りでも開くに違いない。彼らが浮き足立つような大口の取引を吹っ掛けたのである。
 ペガンティン・ラウトは何隻もの海賊船を保有しており、
これらを巧みに運用することで略奪行為や海洋貿易を同時進行的に切り盛りしていた。
また、一定の金額を超える商談に限り、シアター・オブ・カトゥロワなる頭目専用の船艇が用いられることも下調べで確認済みであった。
今回は大口の取引だけに頭目自らの御出座しと言うわけだ。
 何隻かの護衛は付くかも知れないが、取引先に指定された入り江の立地を踏まえれば、
大型船は必然的にシアター・オブ・カトゥロワのみに絞られる。
 ハービンジャーと名乗る頭目自慢のシアター・オブ・カトゥロワは、帆船ながら何門もの大砲を備え、
海賊団の中でも特に優れた精兵が乗組員に選定されると言う。
 船体の側面からは巨大な棒が海中へと無数に飛び出しているが、これは推進力を担う櫂であった。
屈強の漕ぎ手が一斉に櫂を操り、巨大な海賊船に白波割る力を与えているのだ。
 平たく言えば、これからゼラールが挑もうとしているのは、世界最強の大海賊船なのだ。まさしく軍団の大一番であろう。

 美しい珊瑚礁に彩られる入り江から水平線を睨み据えていたラドクリフは、
陽炎の如く海賊船が現れた瞬間、それまで感じたことのないような昂揚に満たされ、思わず腰を上げてしまった。
 シアター・オブ・カトゥロワである。写真や絵図によって事前に確認していた通りの大海賊船がついに姿を現したのだ。
絶対の自信の表れであろう。一隻の護衛も付けず、単身にて堂々と入り江にやって来た。
 世界最強の海賊が誇る旗艦と言うべきか。その威容は相応しく見るもの全てを圧倒していった。
一番の特徴は、船首より突き出した極大なラム(衝角)であろう。
 しかし、銃砲による射撃や水雷術――機雷や魚雷を指している――が発達した現代に於いてラムに武威を求めるのは、
それ自体が前時代的であった。しかも、シアター・オブ・カトゥロワに取り付けられた物は、ラムの用途としても一世代前。
前面に搭載して突撃する点に変わりはないが、現在は船底近くにまで位置が下げられ、
水面下にて敵船の浸水を図る武装となっていた。
 このように構造のみを論じれば、シアター・オブ・カトゥロワのラムは余りにも時代錯誤で、古めかしい骨董品かも知れない。
しかし、突撃槍の如く勇ましいシルエットはどうだ。直径数十メートルにも及ぶ極太な突起は、
一度、突き込んだなら敵船の胴を真っ二つに切断してしまうのだった。
 バランスを危うくしてはいないかと心配になるような大きさでありながら、シアター・オブ・カトゥロワは悠然と白波を切り裂いていく。
仮にペガンティン・ラウト以外の者がこのラムを操ろうとすれば、一瞬にして船を転覆させてしまう筈だ。
これもまた海の民にしか使いこなせない武装なのだ。

「あんな物で突撃されたら一たまりもなかったわね。テムグ・テングリの軍船(ふね)でも分が悪いわ……」

 喉を鳴らしてそう呟いたピナフォアは、早鐘を打つ心臓を抑えるかのように深呼吸を繰り返している。
その手は既に曲刀の柄頭へと掛けられており、如何に彼女が逸っているのかを如実に物語っていた。
 ピナフォアが乗り込むボートには、トルーポとラドクリフの姿もある。先頭に立つのは、無論、ゼラールである。
同舟した四人は、カモフラージュの隙間からシアター・オブ・カトゥロワの様子を静かに窺った。
 海賊討伐の為だけに新造された何隻ものボートには、周囲の風景に溶け込むよう木の枝などでカモフラージュが施されている。
この迷彩偽装は見事に奏功したようだ。大海賊船は入り江の山陰に隠されたボートやその乗員に全く気付いてはいない。
 シアター・オブ・カトゥロワを入り江に迎えた段階で、早くも奇襲の算段は完成していた。
 ピナフォアを瞠目せしめた極大なラムであるが、しかし、対帆船用の武装である為、
さすがに小型のボートを有効範囲へ入れることは叶わない。つまり、この戦闘に於いては何ら役には立たないと言うことだ。
 ラムの有効範囲も計算に入れていたのかとゼラールに尋ねようとするピナフォアだったが、
その寸前、ラドクリフが両者の間に割って入り、更に大声で喚きかけた彼の口をトルーポが塞いでしまった。
 自分の与り知らぬところで肩車と言う無上の喜びを得たピナフォアに対して、このとき、ラドクリフは嫉妬に狂っていた。
兄貴分として彼の気質を十分に理解しているトルーポは、いつかこのような事態に発展すると考えており、
事前の気構えがあった為、喚き声が上がるより先に即応出来たと言うわけだ。
言葉として紡がれてもいない唸り声がトルーポの掌の下から漏れ出してくるが、これが抜き身のままで入り江に晒されていたら、
折角の迷彩偽装が台無しになるところである。
 喜劇のようなやり取りをゼラールは薄ら笑いで眺めていた。それなりに場数を踏んできたピナフォアでさえ緊迫していると言うのに、
大一番の直前とは思えない落ち着きようだ。
 この胆力は、どこから湧いてくるのだろうか――底なしの湖でも覗き込んでいるかのような茫洋とした気持ちを持て余し、
ますますゼラールから目の離せなくなってきたピナフォアだったが、ここは戦場である。何時までも暢気に構えてはいられない。
 入り江の真ん中へと巨体を進めていたシアター・オブ・カトゥロワが、とうとう碇を下ろし始めたのである。
巨大な鎖が海中へ沈み込んでいく様を四人は息を潜めて見守った。碇泊の支度が終わってこそ、開戦の機(とき)なのだ。

「――そろそろ始めようぞ、我らの覇道を」

 海賊討伐の本番は、ゼラールが高笑いを上げた瞬間から始まった。
 これを合図にトルーポは迷彩偽装を剥ぎ取り、野太い櫂を繰ってシアター・オブ・カトゥロワの真正面へとボートを滑り込ませた。
イングラムのプロキシを構えたラドクリフも、曲刀を抜き放ったピナフォアも、
太陽の熱を肌身に、アドレナリンの味を口の中にそれぞれ感じている。
 極大なラムの落とす影の下に入った四人は、頭上に在るシアター・オブ・カトゥロワの甲板へ明確な動揺を感じ取っていた。
それはそうだろう。吹けば飛ぶような小型の木造ボート一艘が世界最強の海賊船の前に飛び出して来たのである。
武装こそしているものの、乗員はたかだか四人。果たして何を目的としているのか、海賊たちも掴み兼ねているのだ。
 まさか、この四人が自分たちを討伐する為に差し向けられた刺客とは思うまい。
そして、その「まさか」と言う心理の隙を見逃すゼラールではなかった。

「仕掛け時ぞ、トルーポ。今こそ貴様の力を我が前に差し出せィ」
「御意ッ! 一日千秋たぁこのことだぜッ!」

 ゼラールの目配せを受けたトルーポは櫂を足元に転がすと、ボートの片隅に準備しておいた鉄の鎖を握り締めた。
先端は釣り針を彷彿とさせる分銅になっており、これを甲板に投げ入れると船縁に食い込んで捕捉することが出来る。
 動揺を強める海賊たちを嘲笑うようにトルーポはシアター・オブ・カトゥロワの甲板へと分銅を投げ入れ、
鉄の鎖を力の限り引っ張った。如何に彼が豪腕であろうとも、力任せに海賊船を牽引することは不可能だ。
しかし、それが目的ではない。海賊船へと直通する一本の道を作り出すことがトルーポの役目である。
木造ボートと海賊船とを繋ぐ鉄の鎖をその道に見立てようと言うのだ。
 文字通りの綱渡りだが、ゼラールは些かも躊躇することなく鎖の道筋へと踏み入った。
ピンと張った鉄の鎖の上を駆けていくゼラールの背をラドクリフとピナフォアも追い掛ける。
無茶にも程がある侵入方法だが、不思議なことにピナフォアの胸中には嫌悪感など微塵も湧かなかった。
それどころか、彼女自身もこの危険な状況を愉しく感じている。
誤って足を滑らせようものなら海の底へ真っ逆さまに落下し、鮫の餌食になるかも知れない。
それにも関わらず、ゼラールの背を追いかけることが愉しくて仕方がないのだ。
 心を支配するのが“閣下”に対する思慕の念であると悟ったのは、甲板へ乗り込んでからのことだった。
 間もなくトルーポも鎖を振り回して船体に飛び付き、しかる後に三人と合流。
すかさずマチェットとハンドガンを両手に構え、「退け、退け! まずは口上を聞きやがれ!」と海賊たちに啖呵を切った。
 トルーポの魁偉に恐れ戦き、海賊たちは一斉にたじろいだものの、それがなくともいずれは後退させられたに違いない。
右手首を鋭い牙で噛み切り、流れ出た血潮を炎に換えたゼラールは、海賊たちへ見せ付けるかのように拳を握り締め、
次いで腕を振り上げると、人差し指一本でもって天上を示した。

「テムグ・テングリ群狼領より遣わされたゼラール・カザンである――これだけ言わば、目的は分かるであろう? 
余の軍門に下るか、抵抗して犬死するか、おのれらに残された道はただふたつのみ。
余は蛮族風情とは違うでな。時間はたっぷりとくれてやるから、ゆるりと考えるがよい」

 小麦色の肌を収奪品で着飾った海賊たちは、突如として現れた正体不明の一団が
テムグ・テングリ群狼領の刺客と知った瞬間、狼狽から一転して憤怒を沸騰させた。
潮風や海の状態を全身で読み取る為か、バンダナやハーフパンツ以外には何も着用しない者が海賊団には多く、
剥き出しとなった素肌に血肉の滾る様が表れている。
 殆ど布切れに等しい着衣は、潮風と海水によって揉みくちゃにされ、また照り付ける陽に灼かれ、
強く引っ張っただけで裂けてしまうのは瞭然と言う程に痛んでいる。
それでいて収奪した装飾品だけは過剰に豪奢である為、擦り切れた着衣や傷だらけの肉体にこれが重なると、
粗末な画布に高級な絵の具を塗りたくったような滑稽さが浮かび上がるのだ。
 間もなく金属や宝石の表面にヴィトンゲンシュタイン粒子の燐光が映し出され、
反射による毒々しい輝きが収まる頃には、海賊たちは各々のトラウムを掌中に具現化させていた。
ノコギリ状の刀剣に戦斧、投げ銛、果ては火炎放射器などいずれも暴力性の高いトラウムばかりだ。
海賊団にはペガンティン・ラウト出身以外の人間も含まれている筈だが、どうやら揃いも揃って荒くれ者であるらしい。

 甲板にて対峙する海賊の人数は秒を刻む毎に増え続け、今やゼラールたちは前後左右を完全に包囲されてしまっている。
たった四人の刺客に対して、実に四十人以上の手練をぶつけるとは、大層な出迎えと言えるだろう。
おそらくシアター・オブ・カトゥロワに乗船する殆どの海賊が甲板に集結している筈だ。
 強弓など飛び道具を携えた者も少なくない。まさに蟻の這い出る隙間もないような死の包囲網であるが、
自分でも驚く程にピナフォアは平然と落ち着いていた。見れば、これが初陣である筈のラドクリフの面にも恐怖は感じられない。
トルーポに至っては、この窮地を楽しんでさえいるようだ。
 彼らは絶体絶命の窮地を前にしても決してたじろいだりしない。その素振りすら見せない理由を、
ピナフォアは今や完全に分かち合っていた。より詳しく言うならば、彼女もふたりと同じ心境に至ったのである。
 ゼラールが右手に宿した炎――エンパイア・オブ・ヒートヘイズを見ていると、
如何なる状況に身を置かれても何ひとつ恐れを感じなくなるのだ。
 エンパイア・オブ・ヒートヘイズとは、即ちテムグ・テングリ群狼領が使用を厳禁しているトラウムである。
目の前で堂々と軍律違反が行われた以上、お目付け役のピナフォアはこれを弾劾せねばならないのだが、
赫亦(かくえき)なる炎の揺らめきに魅入られた彼女には、そのような“出過ぎた真似”など出来よう筈もなかった。

「――こんな雑魚ども、“閣下”のお手を煩わせるまでもございません」

 我が身を盾と化してゼラールの前に仁王立ちしたピナフォアは、左手にヴィトゲンシュタイン粒子の燐光を灯している。
無論、それはトラウムが具現化に至る前段階である。
数秒もすれば、彼女の手にはまだ誰も見たことのない武器が生み出されることだろう。
 群狼領古参の氏族として監視の任務を命じられた彼女が、今、自ら軍律を破ろうとしていた。
それは、あってはならないことである。自分自身の存在意義を否定するのに等しい行為なのだ。
 しかしながら、敵の完全包囲の前に精神が破綻し、自棄になったと言うわけではない。
それが証拠に彼女の面は恍惚とも陶酔とも取れる表情(いろ)に染まっており、
死の影に呑み込まれるどころか、我が世の春とでも言うような歓喜が溌剌と弾けているではないか。

「あたしの全ては閣下の為にッ! ……邪魔するクソどもはまとめてブチ殺したるぁッ!」

 何とも物騒なことを口走るピナフォアの掌の上では、リンゴやオレンジ、バナナなどの果実類が
ヴィトゲンシュタイン粒子の力を借りて浮揚しているが、そのファンシーな見た目に騙されてはいけない。
これは後にイッツァ・マッド・マッド・マッド・ワールドと命名されることになる吸着爆弾のトラウムであった。
読んで字の如く、敵性と認めた勢力へマグネットのように張り付き、とてつもない爆裂を発生させるのだ。
一挙に大量の爆弾を作り出せるばかりか、使用者の意思が及ぶ限り、一つ一つを自由にコントロールすることが出来る。
間接的ながら自動追尾の機能も有すると言うことだった。
 生まれて初めて――いや、一生涯、縁のないものだと考えてきたトラウムであるにも関わらず、
彼女は早くもその使い方を会得したようだ。掌の上にて浮揚するパイナップルを二房ほど海へ誘導し、
程なくして立ち上った水飛沫に「……快・感!」と陶酔している。
 Bのエンディニオンにのみ宿るトラウムとは、使用者の深層心理に潜在するモノを具現化するチカラの総称である。
それ故であろうか、具現化させた瞬間、誰かに説明されるでもなくその使い方を知覚するのだ。
たちまち身体の一部のように馴染むことと併せて、大いなる不思議に数えられているものの、これに明答をもたらす人間は誰もいない。
 いずれにせよ、吸着爆弾は、威力、精密操作ともに非の打ち所がない。
百戦錬磨の海賊たちも轟音と共に噴き出した水柱には、すっかり動転してしまっている。

「ほほう――なかなかに面白きトラウムぞ。健気なものよな、ピナフォア。誉めて遣わす故、今後も余の手足となって存分に働くが良い」

 新たに具現化させたトラウムの威力をゼラールは拍手喝采でもって賞賛し、
これを受けてピナフォアは蕩けるように「閣下のそのお言葉だけで、あたし、あたし……身篭ってしまうッ!」と、
聞きようによってはかなり危うい妄言を抜かした。
 外来のゼラールを無頼漢などと罵っていた彼女はどこへ消えたのやら。
ピナフォアに付き従ってゼラール軍団に入った馬軍の将兵は、このような姿を見たら卒倒してしまうのではないだろうか。
 彼らとは別の意味で卒倒しかけているピナフォアは、またも嫉妬に狂ったラドクリフに突き飛ばされ、
危うく吸着爆弾を甲板にぶちまけるところだった。もしも、この危険な果実を取りこぼしていたなら、
シアター・オブ・カトゥロワ諸共、皆揃って無理心中する羽目になっただろう。

「こンのチビクソッ! あんたのドタマから吹っ飛ばしてやろうかぁッ!?」
「新入りの分際で勝手なことをするからでしょうっ!? 閣下のお世話をするのは、ぼくだけの特権です! 
よりにもよってあなたみたいに下品な……、イングラムの標的(まと)にしますよっ!?」
「その前にあたしのトラウムでバラバラにしてやるッ! 鮫の餌にしてあげるわ、喜びなさいな!」
「だから、そう言うのが下品だって言ってるんですよ! 第一、いいんですか、トラウムなんて使って!? 
あなた、テムグ・テングリでも良家(いいところ)の人なんでしょう!?」
「愛に生きるあたしにとって氏族なんて肥溜めくらいの価値しかないのよ! ……愛、愛なのよッ!」
「虫でも湧きましたか、脳みそに」
「いちいちうっさいわねッ! あんた、マジにフッ飛ばされたいみたいねぇッ!?」
「試してみます? その可愛い子ぶりっこなトラウムなんて、全部射落として差し上げますよ」
「あーもーッ! 口が減らないったらありゃしないッ! 今すぐにくたばりなさい! 一秒だけ待ったげるからッ!」
「あなたからお先にどうぞ」

 肩や肘のぶつけ合い、口汚い罵り合いで醜悪に争うラドクリフとピナフォアを黙殺し、
ゼラールと肩を並べたトルーポは、ある一点を見据えたまま、彼に「真打ちの相手はオレが」と耳打ちした。

 トルーポの視線が向かう先を探ると、海賊たちがその身を以って築いていた包囲網の一角が左右に分かれ、
そこに一本の道が開かれた。人並みを掻き分けるようにしてそこから飛び出してきたのは、褐色の肌が眩しい女海賊である。
 年の頃はゼラール、トルーポと殆ど同じであろうか。後ろで縛ったライトパープルの長髪を風に靡かせ、
颯爽と躍り出た女海賊は、その逞しい肩に長大なカットラス(片刃の湾刀)を担いでいた。
刀身の補助目的か、それとも単なる装飾か。柄頭からは細長い青布が垂れ下がり、
その端には碇の形状を模した分銅が括り付けられている。柄には滑り止め用に同系色の布が巻いてあり、
褐色の手でもってこれを握り締めると、双方を鮮やかに引き立てるのだった。
 両の腕に締められた革帯は微かに赤みがかっており、柄頭から垂れ下がる布と絶妙なコントラストを生み出している。

「テムグ・テングリにも骨のあるヤツがいたのかい? それとも、雇い兵かぁ? 四人だけのカチ込みなんざ見上げた根性だよ」

 機敏な動きに適したハーフパンツの上にワインレッドの腰巻布を重ねるのは、如何にも女性らしい着こなしと言えるが、
その気性は並み居る海賊たちの中でも一際勇ましい。
 ライトパープルの髪を覆うダークグレーのバンダナもファッションの類ではなく、あくまでも防具の範疇。
鉄製のワイヤーを編み込んだ赤い鉢巻もバンダナに当てており、これによって頭部を防護しているようだ。
 痛み放題の髪の毛を見れば、彼女が洒落っ気と言うものに無頓着と言うことは瞭然である。
本来ならば、この紫髪もより深みを持っていた筈なのだが、手入れを怠り続けてきたせいで繊細な色合いが脱け落ちてしまっていた。
 おそらく、「女性らしい着こなし」と思われた腰巻布も機動性を殺さずに身を守る為の工夫でしかあるまい。
 カンピラン――周りの海賊仲間からそう呼ばれた女海賊は、壁を作るばかりで一向に攻める気配もなかった彼らを
「こいつらの爪の垢でも煎じ薬にして貰ったらどうだい!?」と怒鳴りつけ、次いでカットラスの剣先をゼラールたちに向けた。

「シアター・オブ・カトゥロワに斬り込んできたクソ度胸だけは認めてやらないでもないけどねェ。
残念ながら、アタシが出てきた以上、快進撃もここまでさ」

 イッツァ・マッド・マッド・マッド・ワールドの威力を目の当たりにしながらも怖気付くことなく前列に飛び出したカンピランは、
勇往もそのままに、自慢のカットラスでもって四人全員を同時に相手にするとまで豪語した。
 カンピランが勝気な挑発を披露した途端に、海賊仲間たちは「さすがは我らの海賊小町ッ! 言うことがシブいぜ!」などと
大歓声を上げて持て囃しにかかったものの、これも彼女は「やっかましいッ!」と一喝した。

「改めて確認するなんざ間抜けな話だけど、今日の儲け話ってのも、ありゃ、アンタらの嘘ってことだろ。
……ッたく、手の込んだ真似をしてくれるよ。バカ面を引っさげて、こんなヘンピなトコまで来ちまったじゃないか」
「これからは商談相手をもっと調べるコトだな。別にオレは商売に明るいワケじゃあないがね。
真っ当な取引でないなら、余計に神経を使うところだろう?」
「頭悪そうなデカブツのクセして、意外と細かいねェ。おマンマのタネがそこにある――船を漕ぎ出す理由なんざ、それひとつで十分さ。
乗るか反るかは、海と潮風のお導き次第ってね!」
「そいつで失敗してりゃ世話ねぇだろうに。こんな考えの浅い連中に負け続きだったとは、我が本隊ながらテムグ・テングリも情けないぜ」
「わかってないね。こんな連中だから、お馬の大将サンは今日の今日までボロ負けだったのさ。
……今日はいつもより楽しめそうだけどねェ!」

 自分たちが騙されたことを悟った後もカンピランは快哉で、恥ずべき失態をもカラリと笑い飛ばしている。
周りの仲間まで苦笑させる程の高笑いから察するに、彼女は知略の持ち主と戦える機会に喜びすら感じているらしい。
 どこまでも勇ましい女海賊の登場に対し、トルーポは珍しく困惑の表情を浮かべている。
 殺気か、あるいは闘気か。鋭利な気配を敏感に感じ取り、相当の屈強な相手が現れるものと期待していたのだが、
実際にはカンピランただひとり。手合わせしていない以上は予測に過ぎないものの、力量そのものは申し分ないのだろう。

「膾斬りにして欲しいのはアンタかい? 今時分、アタシんとこのピラニアが腹を空かせてる頃だから丁度良いよッ!」

 それにも関わらず、右手に構えたマチェットの剣先を合わせようとしないのは、彼女がトルーポにとって苦手な部類に入るからだ。

「どうした、どした? アタシは誰からの挑戦でも受けるよ!?」
「い、いや、……オレには荷が重いかもしれん……」

 そう言って勢いよくトルーポとの間合いを詰める度に、カンピランの身体は一部が大きく揺さぶられる。
一目見たピナフォアが、「毒婦めッ! 閣下を誘惑しようったって、そうは行かないわよ!」とやっかむ程に豊満な双丘である。
ダークグレーの布切れで覆っただけの肉感的なラインは、ちょっと身体を動かすだけでダイナミックに律動してしまうのだ。
 長年に亘って男所帯で過ごしてきたトルーポは、実は女性に対する免疫がそれほど高くはない。
軍事について抜群の才能を持ち、また身体能力も卓越しているトルーポにとって、女性とは唯一の弱点である。
 さりとて、女性の前でガチガチに緊張してしまう程の重症ではない。日常会話を交わす程度であれば全く平気なのだ……が、
やや自己主張の過剰なカンピランの肢体は、彼には目に毒であったらしい。
 カンピランのほうも厚手のジャケットを身に纏ってはいる。胸部が剥き出しになっているわけではないのだが、
しかし、ジャケット程度では双丘の自由運動を押さえ込めてはおけず、
どうしても浮かび上がってしまうシルエットからトルーポは目を反らすしかなかった。
 彼女から逸らした視線の先には、丁度、ゼラールの横顔があった。
ところが、だ。“閣下”は茶化すような眼差しでトルーポのことを見つめており、その双眸を以ってして彼のことをヘタレとからかっていた。
 そこまで冷やかされては、トルーポとしても黙ってはいられない。
口を真一文字にしてカンピランに向き直り、マチェットの剣先をカットラスのそれに合わせた。

「ピラニアってのは、何かの例えかな、お嬢さん?」
「言ったままの意味だよ。ペットの餌ってコトさね――それからね、淑女(レディー)をダンスに誘うときは、目を合わせるもんさッ!」

 乳房が強調される破廉恥な恰好をしておきながら淑女(レディー)を名乗るとは、これ如何に――
そのようなことを内心で愚痴るトルーポであったが、所詮は自分自身に対する言い訳でしかない。
 依然としてゼラールからは意地悪な眼差しが向けられている。弱点の克服とは程遠い不甲斐なさを見透かされ、
からかわれているのだが、しかし、これに対抗する反論をトルーポは持ち合わせていなかった。
 第一、反論を楽しんでいられるだけの余裕もない。ダンスに擬えて斬りかかってきたカンピランは、
おどけた物言いとは裏腹に、これまで彼が相手にしたどの敵よりも手強かった。
 縦一文字にカットラスを振り落としたカンピランは、白刃がマチェットによって受け止められたと見るや、
左手でもって己の剣の峰を叩きつつ思い切り踏み込んでいった。
 最初の一閃が受け止められた直後には、互いの白刃を重ね合わせるかのようにカットラスを水平に構え直している。
この状態で渾身の力を加えられたカットラスは、さながら鉄道のレールと車輪のようにマチェットの刃を滑ることになる。
そして、水平に構えたカットラスの剣先が向かう先は、トルーポの心臓である。横一文字に彼の胸部を薙ぐ格好となるのだ。
 カンピランの狙いを読みきったトルーポは、冷静に半歩程退き、迫り来るカットラスの剣先を避けて見せた。
 しかし、カンピランの反応も早い。横薙ぎの一閃が避けられた直後には追撃の体勢に入っている。
冗談めかしてダンスなどと言っていたカンピランは、これを踏襲するかのようにその場で錐揉みしつつ、再び水平にカットラスを構えた。
凍えているかのように身を縮めたのは、トルーポに撃ち込む箇所を気取らせない工夫であり、
また、斬撃へ移るに当たって全身のバネを一気に解放する為の“溜め”である。
 彼女が錐揉みする間、トルーポの相手を務めたのは碇型の分銅である。
やや遅れて刀身を追いかける分銅は、所謂、時間差攻撃と言うわけだ。
同じ軌道を辿るのではなく、こめかみに狙いが定まっているあたり、背を向けて旋回しつつあるカンピランが器用に操っているのだろう。
 下手に動いて姿勢を崩せば、間もなく繰り出されるだろう二度目の斬撃で首を刎ねられるかも知れない。
そう悟ったトルーポは、甘んじて分銅の一撃をこめかみに食らうことにした。正確に言えば、こめかみで受け止めようと言うのだ。
確かにダメージは免れないが、しかし、気を失う程のものでもない。今は小さなダメージよりも次なる刃をこそ警戒すべきである。
 やがて分銅が振り抜かれ、脳を真横に揺さぶるような衝撃を被るトルーポだったが、
それでも彼はたじろがず、じっとカンピランの動きを注視し続けた。
 じっと目を凝らす彼の前でカンピランは急速旋回を終え、ついに二撃目が繰り出された。
今度は胴よりも少し下方――下腹部の辺りを斬り裂くのが狙いのようだ。
縮めていた身体を一気に広げながらの二撃目は、全身のバネが発揮されたことによって一撃目とはまるで速度が違っている。
どうやら白刃の加速だけでなく、呼吸を読ませまいとする工夫も含まれていたようだ。
 高度な技法であるが、カンピランにとっては、それすらも“次”への布石にしか過ぎない。
トルーポがマチェットを構え直した直後、カットラスの軌道が急激に変わり、
左の脇腹から右の肩口に掛けて滝を遡る竜の如く紫電が閃いた。
 例えば短刀など軽量の得物ならば、白刃を閃かす最中に撃ち込みの箇所を変化させることも可能だが、
カンピランがその手に握り締めているのは大型のカットラスである。
急激に負荷を掛けようものなら獲物の重量に彼女自身が振り回され、最悪の場合、骨や筋を痛めかねない。
 そうしたリスクを度外視して技の変化を試みる度胸もさることながら、
動きも速さも全く損なわない技術には、トルーポも目を見張ったものである。
撃ち込み箇所の変化とは、即ち力が発生する起点を別に移すと言うことでもあるのだ。
 今の攻防で例えようとすると、水平に刃を振り抜こうとする場合、当然の如く横方向へ作用する力が生まれる。
彼女は水平の薙ぎ払いを途中で上方に跳ね上げたのだが、これによって横方向に働いていた力は打ち消されてしまった。
あるいは、ブレーキを掛けた際に負荷となって彼女の骨身を軋ませたことだろう。
そして、跳ね上げたその地点にて、縦方向へ作用する力が新たに発生するのだ。
これが、「力が発生する起点を別に移す」と言うことだった。
 また、力の方向性を変えるとき、そこには虚が生じる。
刹那の出来事ながらも力の作用が完全に途切れる静止状態を、「虚」と例えているわけだ。
達人ともなれば、力の作用や虚の状態のコントロールなどは造作でもないことだが、
カンピランの場合は、剣腕とは別の方法をもってして技の変化を達成していた。
 ペガンティン・ラウトの彼女を導くのは、やはり大海の力である。
波浪によって発生する船の動揺は、甲板を踏みしめる者には必ず影響を及ぼす。
甲板上に在る限りは、身体に宿る力の方向性が船の状態に影響されることは免れない。
船体の傾斜然り、動揺然り。ときには甲板へと飛び込んでくる白波、突風でさえも力の基点を大きく変えてしまうのだ。
 このようにして絶え間なく訪れる力の変化を、カンピランは自由自在に操っていた。
横薙ぎから斬り上げに変化する直前、船体がほんの一瞬だけ傾いだのだが、彼女はこの刹那に生じた力さえも自身をバネに転化した。
僅かな船の傾斜は水平に薙ぎ払われる刃を加速させ、垂直へ斬り上げを放つ場合には、元のバランスに戻ろうとする力に乗れば良い。
振り子の要領である――が、理詰めで説明したところで、このような技術を使いこなせるのは、
運動神経と感覚神経とが極限の高みにて融合したペガンティン・ラウト以外にはまず存在しない。
 彼女の身のこなしや船の傾きから原理を見抜いたトルーポではあるものの、
同じことを模倣するように閣下から命令されても、断る以外に選択肢はなさそうだった。
 ペガンティン・ラウトは、海とダンスを踊っているようなものなのだ。

「大したもんだ。あんた、どこでそんな剣術習ったんだ? 海賊にしとくのは勿体ねぇぜ」
「こちとらンなご大層なもんじゃないんだよ。我流ってぇの? ケンカしてる間に勝手に身についてったもんさ」
「……またおっかねぇコトを言ってくれるぜ」

 またしても遅れて襲ってきた分銅は、今度はトルーポが左手に構えるハンドガンの周りをぐるぐると回転し、
青い長布が巻きつけてしまった。ただそれだけを見ると、飛び道具の奪取を試みたようにも思えるものの、
横薙ぎが斬り上げに変化したときと同じくカンピランの狙いは全く別のところにある。
 固く締め上げていたハンドガンを引き寄せつつ飛び跳ねたカンピランは、
何とトルーポの巨体を軸に据え、中空にて自身の身体を振り回したのだ。
遠心力を利用した彼女は、自由落下よりも遥かに速度の乗った急降下状態となっている。
 左手で長布を手繰り、右手でもってカットラスの柄を握り締めていると言うことは、
トルーポに接近した瞬間、身を翻して彼の左手首を切断するのが狙いであろう。
 海賊らしく容赦のカケラもない狙いを看破したトルーポは、すかさずハンドガンを放り捨てた。
カンピランの繰り出した青布も手首にまでは及んでおらず、自然、軸を失った彼女は中空に投げ出される格好となった。
しかし、そこは海と船を知り尽くした一族の手練である。帆柱より垂れ下がったロープに手を絡め、
あわや甲板から転落すると言う失態は回避した。
 策に溺れる恰好となったカンピランだが、その面に悔しさはない。それどころか、真っ白な歯を剥き出しにして笑っている。

「あんたこそ、さぞ名のある剣士なんだろう? アタシとケンカしてここまで保った野郎は珍しいよ。
手首も落としてやるつもりだったのにさ。大抵のヤツは、四、五分でタイガーフィッシュの餌食だよ」

 タイガーフィッシュとは、カットラスに刻まれた銘である。
持ち得る限りの全力を使い切って戦える相手と巡り会えたことに興奮しているようだ。
 一方のトルーポは、相変わらずの目の焦点が定まらない。このように表すと意識の混濁を疑われそうだが、
何のことはない、帆柱の下より仰ぐカンピランの肢体が、彼の目には猛毒なのである。

「お生憎様と言うのが良いのか? それとも、気が合うって言ったほうが正しいのかね。
オレも刃物(ヤッパ)の使い方は自己流だよ。ナイフなら士官学校で習ったがね」
「ガッコぉ? ……かぁ〜、草賊にしちゃ妙みたいなナリしてると思ったら、案の定、おかしなヤツだったってワケね」
「おかしなヤツとは言ってくれるぜ。他人の身形をとやかく言う前に、まずは自分を振り返ってみることだ」
「コレのどこがおかしいってのよ? トップレスってワケでもなしに――
てか、ンな説教かますクセして、アンタ、こっちを見ないじゃないのさ。そんなヤツにケチつけられたかないね」
「おしとやかにしていろと、そう言う時代錯誤を言うつもりはない。……ないがな、それにしたってだな……」
「……なにさ、アンタ、照れてんの? アタシに見惚れちゃったりなんかして?」
「バ、バ、バカなことを言うのはよしなさい」
「あらやだ、今時、珍しい純情クン? そりゃあ、刺激が強いってもんよね。ごめんごめん、お詫びに触ってみるぅ?」
「は、恥じらいを持て! せめてッ!」
「別にぃ? 減るもんじゃナイしぃ? 敵に欲情してるアンタのほうがよっぽど恥知らずじゃん」
「誰が欲情なんぞするかッ!」

 熟したリンゴのように頬を染め上げたトルーポをケラケラと笑い飛ばすカンピランだったが、上機嫌も長続きはしなかった。
ふと甲板全体を俯瞰してみれば、海賊仲間たちは華々しい見事な剣劇(チャンバラ)に酔い痴れ、
暢気にも拍手喝采を送っているではないか。
馬軍の刺客を取り囲んでいながら、壁以外の機能を果たしていなかったと言うことだ。
 彼らが剣劇(チャンバラ)を堪能している間にもピナフォアは、数多の吸着爆弾を中空に展開させ、
シアター・オブ・カトゥロワを取り囲んでいる。気が付いたときには、いつでも爆撃を仕掛けられる状態にまで持ち込んだわけである。
包囲中の相手から逆にやり返されるとは、情けないにも程がある状況だった。
 敵味方総員の中で最年少となるラドクリフでさえ光の弓矢で帆柱を――カンピランを狙い定めている。
しかも、だ。彼の顔つきは甲板へ飛び込んできたときとは別人のように違った。
冷酷さすら感じさせるその面構えは、死地へ臨む戦士としての覚悟そのものと言えよう。
 己の為すべき使命を全うした上で寵愛を争うふたりの側近に対し、ゼラールは威嚇に留めるよう言い付けてあった。
「言いつけてあった」とはカンピランの想像でしかないが、そのように指示が飛ばされていなければ、
今頃、この船は死体で溢れ返っていた筈である。

 ――それ程までにテムグ・テングリ群狼領は、海の一族の力を欲しているのか。
他者の事情を理解せず、自主独立の基盤を崩壊させて追い詰めておいて、更なる辱めを加えようと言うのか。
頭を下げて陸に上がることなど、一族の誇りがそれを許さない。
 ゼラールが降伏勧告を視野に入れていると捉えたカンピランは、上機嫌を粉々に粉砕し、
「ボーッと突っ立ってんじゃないよ! カチ込みはどう言う風に歓待するのか、見せてやんなァッ!」と
海賊仲間たちへ檄を飛ばした。ラドクリフとピナフォアの行動を見過ごしたことへの腹立ちもあり、語気は相当に荒んでいる。
 トルーポから搦め取る形となったハンドガンを本来の持ち主目掛けて乱射したカンピランは、
この激音を以て仲間の尻を叩くつもりであった。

「草賊なんざ、屁でもないってところ、見せておやりよッ!」

 カンピランに叱咤され、ようやく自分たちの本来の役目を思い出した海賊たちは、
気合を入れるべく仲間同士で顔を張り飛ばし合い、次いで馬軍の刺客へと挑み掛かっていった。
 帆を震わすような吼え声は確かに猛々しいのだが、一斉に殺到した為、押し合い圧し合いの混雑を起こしてしまい、
甲板上は大渋滞と言う有様である。
 本当に世界最強の海賊なのか、疑わしくなってしまうような醜態であり、トルーポの射殺を試みる間もカンピランは溜息が尽きなかった。
 甲板に穿たれた無数の弾痕を見下ろすトルーポも困ったように頬を掻いているが、しかし、応射の構えは見せなかった。
 第一、今の彼には反撃の銃弾を見舞う手段がない。小型ボートを用いる今回の戦いに普段の重武装は適しておらず、
マチェット一振りを除けば、飛び道具はハンドガン一挺しか持ち込んでいなかったのだ。
銃弾程度であれば簡単に弾き返せるヒーターシールドも今日は携えていない。
 調子が狂ってばかりいるトルーポに向かって、再びゼラールから茶化すような笑い声が飛ばされた。

「つまらぬ通過地点になるかと思うたが、あの娘御のお陰で愉快になってきたわ。嫁にでも取ってみるか?」
「閣下の好みですものね、ああ言うタイプ」
「こやつめ、間抜けを言うでない。お前の嫁取りの話をしておるのじゃ。余の好嫌を論じておったが、お前こそ相性が良いではないか」
「なッ、なんでオレがッ!? ご覧になってましたよね、オレがどんな目に遭わされたかッ!? どう考えてもそりゃ的外れでしょうッ!」
「フェハハハ――満更でもないようじゃな。ならば、トルーポよ、あの娘御を必ずや生け捕りにせよ。
乾杯の音頭くらいは取ってやるでな。無論、酒盛りの話ではないぞ。ゴンドラ入場の後の話じゃ」
「お式のプログラムまで決めんでくださいッ!」

 意味不明の流れに飲み込まれたトルーポが悲鳴を上げる頃には甲板の渋滞もようやく解消され、
唸り声を上げる海賊たちが四人へ肉薄しようとしていた。
 大笑いのゼラールは右手に宿した火炎でもって迫り来る海賊たちを怯ませているが、
しかし、左手や両足の爪で引き裂く以外の攻撃は、今のところ、殆ど見せようとしない。
時折、突進してきた相手の腕を捻り上げ、組み伏せる程度である。
 発動こそさせているものの、エンパイア・オブ・ヒートヘイズでもって海賊を焼き尽くすつもりはなさそうだ。
それに爪による攻撃も頚動脈など急所は外している。
 威嚇を厳命されたピナフォアも思慕する閣下に倣い、殺生は控えていた。
 プレッシャーを与える目的で中空に展開させた吸着爆弾は現状維持のままで留め置き、
自ら曲刀を振るって海賊と斬り結んでいる。馬軍の姫将軍などと称されるだけあって太刀捌きも様になっている。
“曲刀”の由来ともなった刀身の反りを生かして海賊のカットラスを巧みに受け流していく。
 その技法は芸術的と言っても過言ではない。
敵の刃に曲刀を重ねたまま手首を捻ると、双方の刀身もこれに連動して回転することになる。
一気に踏み込みながらカットラスを巻き上げ、跳ね飛ばしたピナフォアは、それと同時に敵の手首にも痛撃を浴びせた。
 カットラスの次は、槍や鉾と言った長柄の武器が相手となったが、これもピナフォアは容易く撃退せしめた。
ふたりの海賊が同時に繰り出してきた長柄の武器に対し、ピナフォアは左手に鉄製の鞘を握り締め、
即席の二刀流でもって応じていく。突き込まれる二種の穂先を曲刀と鞘でもって弾くと、
すかさず一足飛びに間合いを詰め、長柄の先に在る海賊たちを峰打ちに仕留めた。
 即席の二刀流はその後の攻防でも価値を発揮した。鞘でもって攻撃を捌きつつ、対の曲刀で相手の腕や脛を斬り裂き、
戦闘不能状態へ陥らせるのだ。従来の戦場であれば、攻撃を受け流した時点で素首を刎ね飛ばしている為、
一対多数の状況よりも力の加減のほうが彼女にとっては難儀であった。

「おや? ちょっと驚きましたよ。あなたなら甲板を血の海にすると思ったんですけど」
「殺すべからずが閣下のご命令でしょうが! ご命令を喜んで守るのが臣下の務めよ!」
「いつから臣下になったのやら。それを言うなら、あなたは命令違反が大好物じゃありませんか。
この戦いから生きて帰ったら、あなたはどんな罪で裁かれるんでしょうね」
「愛に殉じるなら本望よッ!」
「処刑のときには執行人はぼくが引き受けますよ。眉間をブチ抜きますので、安心して逝ってください」
「うっさい、チビッ! 末代まで呪ってやるわッ!」
「総力を挙げて御祓いしますから。カケラひとつ、あなたの存在をこの世界に残しません。マコシカをナメないでください」

 巨漢のみぞおちにめり込ませていた柄頭を引き抜き、深呼吸するピナフォアに向かって辛辣な悪態を吐くのは、
改めて詳らかにするまでもなくラドクリフである。
 光の弓矢を一旦解除し、棒杖の状態に戻した彼は、別なプロキシを準備しつつもピナフォアの乱舞を目端で観察していたのだ。
思った以上に腕が立つこと、それをゼラールが「面白き催しぞ、ピナフォア。我が愛しき下僕よ」と誉めていることが、
彼の癇に障って仕方がなかった。
 ただでさえ今のラドクリフは虫の居所が悪い。攻めかかってきた海賊たちは、揃って彼のことを少女と勘違いし、
荒くれ者とは思えない程、紳士的に接するのだ。
「騙されて連れてこられたんだろう!? 早く逃げるんだ」などと逃げるよう促されたときには、さすがに開いた口が塞がらなかった。
 巷では血も涙もないと噂されている海賊団だが、その内実は、気の良い連中なのかも知れない。
緊急退避用に備え付けてあるボートまで提供しようと言うのだから、度を越したお人好しと言うよりも、むしろ阿呆の範疇であるが。

「余計で、しかも、大きな――お世話だよッ!」

 紳士たちに対するラドクリフの返礼は至ってシンプルだ。
指先から稲妻を迸らせるペネトレイトのプロキシでもって紳士たちをまとめて感電させ、「目を覚ましてください!」と吐き捨てた。
 可憐な容姿の持ち主ではあるものの、そのことにコンプレックスを抱いているラドクリフにとって、
紳士もとい海賊たちの厚意は迷惑以外の何物でもない。
 「ぼくは男だよッ! 次に女扱いしたら、眉間を射抜いてやるからッ!」と腹の底から力を搾り出して宣言するラドクリフであったが、
それでも海賊たちは「きっと複雑な事情があるんだ」、「男として育てられるなんて不憫だよ」などと妄言を吐いて信じようとしなかった。
 おめでたいとしか言いようのない連中には、さしものラドクリフも掛ける言葉が見つからなくなっていった。

「――おかしくない!? どうしてあたしが無視されてるワケ!? さっきからずっと戦ってんじゃないのさ!?」
「女性に見えないからでしょ? ぼくだって未だにあなたの性別を疑ってますよ」
「よ、世の中には言って良いことと悪いことがあるって知らないようねぇッ!? なんなら、丸裸にしてあの変態どもに放り込んでやろうか!?」
「……いちいち下品ですよね、発想が。だから、女性に見て貰えないんでしょう? 鏡を見てくださいよ、鏡。
どうせコンパクトだって持ち歩いてもいないんでしょうけど」
「くッあぁぁぁッ!! こんなに性格悪いヤツが女扱いされてんのに、どうして……! 世の中、絶対間違ってるわよッ!」

 ラドクリフと自分との扱いの違いには、ピナフォアは大いに不満があるらしい。
 渦中の人と口汚い罵り合いを演じた後、見る目のない海賊たちに向かって、
「女の子ならここにいるでしょーがッ! あたしに言うのが筋ってもんじゃないの、ええ、紳士どもッ!?」とぶちまけたものの、
逆に「ウソつけ! 女装してオレたちを油断させようってんだろ!」などと野次を返される始末であった。
 乙女心が傷付けられたピナフォアは、ラドクリフに提供されようとしていた緊急退避用のボートに飛びつき、
これを固定していたロープを曲刀の一閃で断ち切った。
 こうした用途のボートは甲板より数段高い位置に備え付けられている為、万が一にも落下すると大変に危険である。
船縁の一部にめり込みながら甲板へと飛来した一個の巨大な木塊は、一先ず直下の海賊たちを巻き込むことはなかった。
粉々に大破した残骸へ飛び移ったピナフォアは、逃げ惑う海賊たちに「乙女をいじめると、こうなるのよ!」と
快哉に見得を切っている。
 胸を反り返らせながら曲刀を振り翳す様には、トルーポから「ンなもん見せられたら、“女の子”扱いはしねーだろ」と
鋭い指摘が入ったものの、おそらくはピナフォアの耳には届いていないだろう。
 当然ながら、この体たらくもカンピランの怒りへ油を注いだ。

「男でも女でも関係ないだろーがッ! こいつらは敵! 刺客! 馬軍の使いっぱッ! 
ブチ殺すかどうかは任せてやるから、どいつもこいつも、まともに戦いやがれッ!」

 今も頭上にて銃撃を続けているカンピランから思い切りどやし付けられた海賊たちは、渋々ながらもラドクリフへと立ち向かうようになった。
満面には悲痛な思いが浮かんでおり、これを見て取ったピナフォアは、またしても「乙女心ナメんなッ!」と怒号を張り上げた。
彼女の憤激は今度も黙殺である。
 生け捕りにするつもりで掛かってくる海賊たちには、ラドクリフも苛立ちを隠せなかった。
この期に及んで、なおも彼らは自分のことを女の子扱いしていると言うわけだ。
 自分を組み伏せようと迫ってくる数多の手を棒杖の一撃で叩き落としたラドクリフは、
そのまま身を屈めると、小柄を生かして海賊たちの股座を潜り抜け、瞬く間に包囲網の背後を奪(と)った。
ついでに無礼な連中――態度は紳士そのものだが――の股間を蹴り上げることも忘れなかった。
 その間にも棒杖へ次なるプロキシの力を宿しており、背後に回った瞬間、エネルギーの弾丸が辺り一面に乱れ飛んだ。
ホローポイントのプロキシである。レイチェルのもとで修行に励んでいた友人の十八番を真似てみたのだが、
その効果は絶大であり、彼のことを少女として扱った者たちは、間抜け面を晒して甲板に倒れ込んでいった。
後頭部や背中に痛撃を喰らったものの、いずれも急所は外れている為、命に別状はなかろう。
 不甲斐ない男たちに代わっていきり立つのは、帆柱より垂れ下がったロープを繰って跳躍する数名の女海賊だ。
男たちの頭上を飛び越えて軽やかに着地するや否や、甲高い気合いを張り上げながらラドクリフに突撃していく。
 棒杖を奪取するべく繰り出された鞭に対し、ラドクリフは中空にて十字を切る二筋の熱線を繰り出した。
クルスと呼ばれるプロキシだ。十字に交錯する光とは、魔を引き裂く儀礼を模したものである。
 これによって鞭は焼き切ったものの、続けて踏み込んできた二人組にはラドクリフも苦戦を強いられた。
三叉の矛と手斧をそれぞれ携えた女海賊だが、息の合った連続攻撃が曲者であった。
まず手斧が振り下ろされ、これを避けると片割れが三叉の矛を突き込んでくるのだ。
上体を反らせて辛くも刺突を避けるラドクリフだったが、手斧を得物とする女海賊はその間に彼の側面へと回り込み、
三叉の矛が引かれると同時に再び縦一文字を繰り出してきた。
 局地的な竜巻を起こすシャフトでもって斧ごと吹き飛ばすラドクリフだったが、またしても片割れに側面から刺突を見舞われ、
これを防げば、着地と同時に甲板を蹴った追撃者が襲ってくる――この繰り返しだった。
 時間差と移動を巧みに組み合わせた連携攻撃である。
今のところは、ギリギリで切り抜けているものの、いずれ逃げ切れなくなって捕まることだろう。
よしんば二人組を切り抜けたとしても、その間にやって来る別の女海賊に取り囲まれれば、一巻の終わりであった。

「そちらがそのつもりなら――」

 起死回生を期したラドクリフは、横薙ぎに手斧を振り抜こうとする女海賊へと遮二無二飛び掛り、得物を握る右手首を捻り上げた。
 虚を衝かれた彼女は思わず身を浮かせてしまい、このときに生じた反りをラドクリフは大いに利用した。
勢い任せに手斧の女海賊を甲板へと投げつけたのだ。曲芸のようにその場で回転した女海賊は全身を強打し、
とうとう得物を取り落としてしまった。腕の筋も相当に痛めつけられた筈だ。
 ヒューから習った護身術――正しくは逮捕術――のひとつだった。
レイライナー(術師)の最大の弱点は、敵に接近された際にプロキシの使用が難しくなることであり、
これを克服する術としてヒューに体術の手解きを受けたのである。
 連携攻撃の一角を崩すことで状況の打破を試みるラドクリフだったが、しかし、乱戦時に足を止めるリスクを彼は完全に失念していた。
完璧な連携攻撃を重ねてきた女海賊の片割れが止まった的を見逃すわけがない。
彼が自身の迂闊を悟ったときには、三叉の矛はその眉間へと迫っていた。
 絶体絶命のラドクリフを救ったのは、意外にもピナフォアである。
海賊たちの脳天を踏み台代わりにして飛び跳ね、ラドクリフを包囲しようとしていた女海賊たちを曲刀一閃でもって牽制した。
 一団の動きが止まったと見るなり、間髪を容れずにラドクリフの背後へ回り込んだピナフォアは、
その襟首を力任せに引っ張り、彼の身を後方へと投げ飛ばしてしまった。
 甲板には滑り止めの為に砂が撒かれているのだが、それでもラドクリフの身を止めることは出来ず、
結局、船縁に激突するまで潮の薫りが染み付いた木板の上を転がり続けた。

「なにするんですかッ!? 一体、何の恨みがあって、こんなッ!?」

 しこたま背中を強打したラドクリフは、反射的に怒声を浴びせ掛けてしまったが、
ピナフォアが先程までの口論の腹癒せにやって来たわけではないことは、他ならぬ彼自身が一番よく分かっている。
 ラドクリフの頬から一筋の血が滴っていた。一瞬でも襟首を引っ張るピナフォアの手が遅かったなら、
彼の顔面には見るも無惨な風穴が穿たれていた筈である。

「あんだけ悪口をほざいておいて、恨みがあるかどうかを訊くつもり? バカにするんじゃないよッ!」

 いつもの憎まれ口で応じるピナフォアは、今やラドクリフを襲撃する筈だった女海賊たちを一手に引き受けている。
三叉の矛と言わずカットラスと言わず、左右から同時に繰り出された数多の武器を曲刀と鞘のみで受け止めていた――
彼女の状態を表すには、それが最も適切であろうか。
 両手は完全に塞がり、しかも、数名分の力を片手で凌いでいるのだ。そのような無茶がいつまでも持続する筈もない。
 溜め息混じりにイングラムのプロキシを発動したラドクリフは、ピナフォアへ圧し掛かっている武器、武器、武器を
光の矢にて精密に射抜いていった。
 時折、光の矢はピナフォアの頬や鼻先を掠めていくが、これは一種のご愛嬌。

「飛び道具には飛び道具! みんなで撃てば怖くないッ!」

 カンピランの命令に応じ、ボウガンやライフルなど飛び道具を携える者たちがラドクリフとピナフォアに向かっていく。
 不承不承ながら引き下がった女海賊の一団と入れ替わる恰好で現れた無数の飛び道具は、
明らかにピナフォアに集中している。彼女に矢弾を引き受けて貰えば、その間に海賊側の射手を仕留められると
邪悪な考えを浮かべるラドクリフだったが、結局はその囮作戦――ピナフォア未承認だが――が実行されることはなかった。

「みんなで撃てば怖くねぇだぁ? おいおい、がっかりさせてくれるぜ! 芯が通ってると思ったんだが、やっぱり賊は賊か。
根が腐った連中をまともに相手にしようとしたオレたちがバカだったぜ!」

 今まさにトリガーへ指を掛けようとしていた海賊たちを「卑怯者」と侮辱する声が背後にて上がったのだ。
 何事かと声のした方角を窺えば、トルーポが船縁の上に立っているではないか。
海賊たちへ見せ付けるようにして右拳を突き出しているが、一本だけ立てられた親指は空ではなく甲板を示している。
地獄に落ちろ――裏返しの拳が物語るのは、やはり挑発の意思であった。
 トルーポの右拳は、先んじて彼に打ちのめされて甲板に転がる海賊たちをも指していた。

「――抜かすんじゃないよッ! パシリの分際でッ!!」

 激情を交えつつも状況に即した采配を振るってきたカンピランだったが、
トルーポの挑発――いや、侮辱だけは聞き捨てならなかったようだ。
 彼から奪い取っていたハンドガンを再び撃発しようと構えるものの、
無意味な乱射が祟って弾倉内は空となっており、幾らトリガーを引いても一発として銃弾が飛び出すことはない。
それすらもトルーポに愚弄されていると感じたカンピランは、ハンドガンを本来の持ち主目掛けて力任せに投擲した。
 高所からの急速落下となったが、トルーポは愛用の品を見事にキャッチし、
「物の価値がわからねぇヤツだな。目利きなんて上等なマネが出来るとも思えねぇがよ」などとわざとらしく嘲って見せた。
 海の一族が生業としてきた海洋貿易まで暗に貶められていると悟ったカンピランは、
自らの腕に巻き付けていたロープを離し、帆柱からトルーポへと飛び掛っていった。
 高所より振り落とされるカットラスは、急降下の勢いが重ねられる分、切れ味は通常と比して数倍にも跳ね上がる。
足場としては最悪の条件に近い船縁の上で器用に半身を反らし、直撃を避けるトルーポだったが、これは最善の判断であろう。
数秒前まで彼の立っていた場所は、甲板と直に接する根元まで垂直に切断されていた。
 そればかりではない。タイガーフィッシュと銘打たれた巨大カットラスの重量は爆発的な衝撃をも発生させたらしく、
切断箇所を中心として、船縁、甲板に至るまで無数の亀裂が走っていく。
先程のラドクリフではないが、反応があと僅かでも遅れていたなら、脳天から真っ二つになっていたのは間違いない。
 柄頭から垂れ下がる長布と分銅による二撃目を警戒し、いつでも甲板へ降り立てるようトルーポは身構えていたのだが、
本来ならば鞭のようにしなる筈のそれは、彼女の足元にて物言わぬ物体と化している。
木板の上に転がった分銅は、激情に駆られた特攻の証左と言うわけだ。そこに二撃目を考慮する余地はない。

「愛する海で手前ェの誇りを汚す――汚さなければやっていけない虚しさが、アンタなんぞにわかるのかよッ!? 
知った風な口を叩くんじゃないよ、ゲス野郎ォッ!!」

 カンピランの口より迸ったのは、テムグ・テングリ群狼領によって海賊へと追いやられたペガンティン・ラウトの――
誇り高き海の一族の魂の絶叫だった。
 確かに海の賊に身をやつす選択は自分たちで下したものではある……が、
陸を主戦場とする馬軍へ対抗するには、海賊船の組織しか採るべき道がなかったこともまた事実だ。
バルトロメーウスの野心を満たす為だけに生業を奪われた者たちにとって、徹底抗戦のみが最後の誇りなのである。
 ところが、何人にも侵し難い悲壮な誇りすらトルーポは鼻先で笑い飛ばし、双肩を震わせるカンピランへハンドガンの銃口を向けた。
残弾が撃ち尽くされた今となっては、それは単なる飾りでしかない。

「ピーピーと泣き言を言うんじゃねぇよ、負け犬が」
「負け犬だぁッ!? あんたねぇッ!」
「だってそうだろ? どう言い訳したって、てめぇらが負け犬って事実は変わらねぇだろうに。
てめぇらは“コイツ”と同じだ。中身のねぇ連中がどう粋がっても、何の意味もありゃしねぇのさ」
「……さっすが、バルトロメーウスの飼い犬は言うコトが違うね。自分の気に食わないヤツは、息絶えるまで嬲り者にする。
正真正銘、クズの中のクズだよ」
「海賊でも何でも、こうと決めたことは死ぬまで貫けって言ってるんさ。今頃になって泣き言、恨み言なんて吐いたら安っぽくなるだろ。
つまるところ、お前らはハナからハンチクだったってコトだ」

 トルーポが並べ立てた心無い挑発には、カンピランだけでなく海賊仲間たちも一様に怒号を張り上げた。
 飛び道具を携えた者たちは躊躇なくトルーポへと照準を合わせようとしている。
一斉にトリガーを引けば、たちまち船縁の上の的はズタズタに引き裂かれることだろうが、
激情に駆られるカンピランは、最早、仲間たちの撃発を待ってはいられなかった。
 ありったけの怒気を鍔元から剣先にまで込めたタイガーフィッシュを振りかざし、再びトルーポへと肉薄していく。
先程まで木偶の坊同然の扱いを受けた荒くれの男たちもまたカンピランに続いた。
 軽く押しただけで海に落下するような状態に有利を見出したのか、はたまた単純に感情任せなのか、
こぞって殺到してくる海賊たちを正面に見据えたトルーポは、
足を薙ぎ払おうと横一文字に振り抜かれるタイガーフィッシュの刀身を踏み付けにし、そこから一気に跳ね飛んだ。

「逃がすか、こいつめッ!」
「逃げるかよ、ハンチクめ」

 中空にて足を搦め取るべく追いすがってきた碇型の分銅を一蹴りで弾いたトルーポは、着地と同時にマチェットを横薙ぎに一閃した。
彼の巨体に合わせた特注品である為、ほんの一振りするだけで数名をまとめて吹き飛ばせるのだ。
無論、今は彼もマチェットを刃物ではなく鈍器として使っている。平打ち――つまり、剣の腹でもって相手を叩き伏せるのみである。
 帆柱のロープへと長布を巻き付け、船の動揺に合わせて中空に飛び上がったカンピランは、
轟々とマチェットを振り回すトルーポ目掛けてその身を躍らせた。
海の一族を侮辱したこの男だけは、何としても自らの手で首を取らなければ気が済まないのだろう。
 右手にタイガーフィッシュを握り締め、空いた左腕をトルーポの首へと絡めたカンピランは、
その状態で全身を振り回し、生じた遠心力を生かして彼を引き倒そうとしていた。
 トルーポにとっては、たまったものではない。自然と彼女の双丘が顔面に押し付けられる恰好となり、
これによって精神的に圧迫された彼は、全身を著しく硬直させてしまった。
頭の軽い海賊のひとりが「羨ましいぞ、このデカブツッ!」などと不埒なことを抜かしていたが、
トルーポとて代われるものなら代わって欲しいところだ。
 さりながら、彼も戦士の端くれである。殺気に応じて即座に全身の自由を取り戻した。
逆手に持ち替えたカットラスを突き立てようとするカンピランを強引に引き剥がし、帆柱に向かって放り投げつけたのである。
それも、「誇りの前に身に着けなきゃならねぇもんがあるだろがッ!」との説教付きだ。
 カンピランに後続しようと、近接戦闘に長じた者たちは背後からトルーポを襲撃したものの、
ある者は風を切って戻ってきた柄頭に眉間をブチ抜かれ、
追従していた者は手首のスナップを利かせて振り落とされた平打ちで脳天を揺さぶられ、続々とマチェットの前に沈んでいく。
 トルーポをも上回る巨漢の海賊は、ガントレットで固めた豪腕を繰り出し、マチェットごと彼を粉砕しようと試みた。
轟然たる打突ではあったものの、剣の腹を盾にしてこれを受け止めたトルーポは、膂力でもって逆に押し返し、
驚愕する相手の顔面を刀身の裏から掌底で打ち据えた。
 怯まず立ち向かってきた海賊のカタナは縦一文字で迎え撃ち、その刀身を中程から断ち切ってしまった。
折るのではなく断ち切る、だ。
 その断面とトルーポとを交互に見比べた海賊は、呆けたように腰を抜かしてしまった。
カタナはトラウムである。再度、具現化をすれば刀身も元通りになる筈だが、心まで叩き斬られてしまってはどうすることも出来ない。
 呆けている相手を頭突き一発で仕留めたトルーポは、「だから中身がねぇと言うんだよッ!」と威勢良くマチェットを掲げた。

 全身を分厚い筋肉で固めた魁偉とは思えないスピードで暴れ回るトルーポは、
飛び道具を構える一隊にとって厄介極まりなかった。ときに残像すら引き連れる剣の舞にすっかり幻惑され、
一向に狙いを定められずにいるのだ。ハンドガンを乱射したカンピランが一度たりとも直撃に成功しなかったわけである。
 このままでは埒が明かないと焦れ始めていた矢先、彼らに絶好の機会が飛び込んできた。
攻め続けていれば良かったものを、高らかにマチェットを掲げて勝ち誇るとは、的にしてくれと申告しているのに等しいではないか。
今こそ攻める機(とき)と頷き合った射手たちは、なおも威嚇を続けているトルーポの背に狙いを定め、
各々のトリガーに指を掛け直した。
 程なくしてボウガンの矢が、銃火器の弾丸がトルーポへと撃発されたものの、
忌むべき標的が彼らの望み通りに蜂の巣になることはなく、それどころか、頬や肩を掠めもしなかった。
 より正確に状況を説明するならば、矢弾はトルーポの身体まで到達すらしなかった――そう言うべきであった。
狙い定めて撃ち放たれた筈の矢弾は、突如として横から分け入って来た紅蓮の炎に飲み込まれ、
瞬きひとつするよりも早く蒸発してしまったのだ。
矢弾を飴玉か何かと見誤った炎の魔人が、灼熱の舌を伸ばして平らげてしまったようなものである。

「うぬらも未熟よの。斯様に疾(はや)き的は眼で追うのではない。次なる軌道を予測して射抜くものぞ。
風、空、波――うぬらも海の表情(かお)を読むのは得意であろう? それと大差はない。いずれ余が指南してくれよう」

 火吹き芸人のような技でもってトルーポを守るとすれば、該当者はこの場にひとりしかいない。
ゼラールだ。憎むべき刺客の長を先に仕留めるべく、海賊の射手は炎が噴出されたその源へと銃口、鏃を向けていった。
 彼らが風切る音を頭上に聞いたのは、悠然とした立ち居振る舞いで炎と戯れるゼラールを捉えたか否かの刹那(とき)である。
最初にその音を聴いた者は、蒼天を仰いで絶望に打ちのめされたことだろう。
他の者が異変に気付いたときには、何十もの光の矢が帆柱よりも低い位置にまで迫っていた。
 鋭く風切る音は、たちまち打楽器のそれへと趣を変えた。五十にも達するであろう光の洗礼が射手たちへ降り注ぎ、
甲板に突き刺さった流れ矢が乾いた音を立てるのだ。光の矢が奏でる音色は、どこかフラメンゴの旋律にも似ていた。
 光の矢は、つまりイングラムのプロキシであり、これを射るのはラドクリフである。
絶妙な見切りと褒め称えるべきであろう、殺伐の気配を帯びた面持ちながらも彼は腕や太股だけを狙い撃ち、
誰ひとりとして殺めてはいなかった。
 トルーポが引き起こした混乱の最中、再び隊列を入れ替えて彼とピナフォアに挑んでいった筈の女海賊たちは、
甲板の上にその身を横たえて苦悶している。彼女たちの中にも死者は確認出来なかった。

「いやいや、誤魔化してません? 二、三人、首を飛ばしちゃってるけど、閣下に嫌われたくなくて密かに海へ捨てたりとか」
「アホみたいにハデな真似をブチかましたあんたがそれを言うわけ!?」

 ラドクリフと悪態の応酬を演じつつ曲刀を鞘に納めた姿からも想像出来る通り、
再び襲撃してきた女海賊たちはピナフォアがひとりで片付けたのである。
 曲刀の峰で叩き伏せ、柄頭で横殴りに倒し、返す刀で平打ちを仕掛け、場合によっては脛や太腿を掠め斬り――
彼女が十倍以上の敵を相手に激闘する間、ラドクリフは底意地悪く加勢しなかったわけではない。
光の弓矢を構え、敵の射手を一掃する好機を虎視眈々と探っていたのだ。
 このとき、ラドクリフとピナフォアは目的を共有し合っていた。
ふたりが数多の銃口、鏃に狙われた際、トルーポは大音声で挑発を繰り返し、敵の注意を引き付けていたのだ。
彼の機転によって窮地を脱したふたりが為すべきは、その恩を返すことである。
 途中、ゼラールの助力を借りる一幕はあったものの、ピナフォアが露払いを、ラドクリフが狙撃をそれぞれ分担し、
蜂の巣にされる危機から見事にトルーポを救ったのだ。

 甲板に突き刺さった光の矢が消失する頃には、トルーポもマチェットを肩に担ぎ、一息を吐いていた。
彼の挑発に乗って波状攻撃を仕掛けていた海賊たちは悉く返り討ちに遭い、その場に身を横たえている。
トルーポも殺生を働かなかったようだ。「威嚇程度に留めるように」との閣下の厳命を最後まで貫き通したと言うわけである。
 尤も、大立ち回りそのものは威嚇の領域を逸脱している。それでもゼラールの口から叱声が飛び出すことはなく、
「死者を出さなかった」と言う点を以って任務完了の判断が下された。
 甲板にはまだ十数名ばかり海賊が残っているが、ここからの逆転は相当に厳しそうだ。
面からすっかり生気が抜け落ちており、そう遠からず内に抗戦を諦めて投降するに違いない。
 恥辱に打ち震えるのは、トルーポに投げられた拍子に帆柱のロープが絡まり、身体の自由を奪われていたカンピランだ。
参戦こそ出来なかったものの、様々に指示を飛ばして形勢逆転を図ってきた彼女は、
その望みが完全に絶たれたことを悔やみ、血が滲む程に唇を噛み締めている。
 かくなる上は自ら特攻して四人の刺客と斬り結ぶしかない。それこそが、貫くべき最後のプライドなのだ。
 四肢を締め付けるように絡まっていたロープを原始的に噛み千切ったカンピランは、
帆の頂点までよじ登ると、そこからトルーポ――最優先で攻撃対象にされるのは、やはり彼だ――へ斬り掛かるべく、
タイガーフィッシュと大上段に構えた。

 しかし、カットラスを振り翳したところで彼女は急に身動きを止めてしまった。
 驚愕に見開かれたカンピランの双眸は、周囲の景観に溶け込む為の偽装を取り外し、
岸辺より漕ぎ出してくる無数の木造ボートを捉えている。ゼラールたちが乗り込んできた物と全く同じボートを、だ。
 シアター・オブ・カトゥロワを四方より取り囲んだボートでは、「天上天下唯我独尊」と大書された軍旗が潮風に靡いている。
ゼラール軍団の、いや、ゼラールの旗ジルシである。
 馬軍の刺客を名乗りながらも、テムグ・テングリ群狼領本来の軍旗を用いないとは、これ如何に――
戸惑いの隠せないカンピランを更に驚嘆させたのは、ボートより射出された百を超える矢弾である。
いずれも甲板ではなくシアター・オブ・カトゥロワの側面のみに狙いが絞られていたが、
想像を絶する恐怖に晒された海賊たちの心をへし折るには、その威嚇射撃のみで十分だった。
残存していた者たちもついに得物を放り出し、トラウムを解除し、その場にへたり込んだ。

「――舐め腐るなッ! アタシひとりでも戦えるッ! 海の戦士のド根性、見せたろうじゃないかッ!」

 自分ひとりだけでも戦い抜くと気合いを入れ直すカンピランだったが、海賊船への包囲網はこれを許してはくれなかった。
入り江の伏兵が岸辺へと運び込んだ大型の機械から船体目掛けて鉄製の杭が打ち込まれたのである。
 さながら鮫の如く船体深くまで喰らいついた鉄杭は、極太の鎖にて陸上の機械と連結している。
鉄杭自体も特殊な機構となっていた。硬質な尖端でもって防壁を突き破り、侵入した先で杭の底から鉤が飛び出す仕掛けだ。
 無数の鉤を壁や床など空間の至る箇所へ突き刺すことによってシアター・オブ・カトゥロワを捕縛しようと言うのだ。
漕ぎ手は上下三段構えで配置され、膂力を発揮して櫂を操るのだが、その根元――いや、“手元”への直撃も
ゼラール軍団は避けており、鉄杭による無益な犠牲は出ていない筈である。

「舐め……舐め腐るなっつってんでしょーがッ!」

 鉄杭が打ち込まれた瞬間はどうにか凌いだものの、次から次へと立て続けに起こる振動には耐え切れなくなり、
とうとうカンピランは帆柱より振り落とされてしまった。
 偶然にもその直下に在った為か、それとも運命と言う名の必然か、真っ逆様に落ちてきたカンピランをトルーポは咄嗟に抱き留めた。
彼が反射的に両手を伸ばしていなければ、彼女は二度と目を覚まさなかったかも知れない。
初めて女性と密着した衝撃で脳を貫かれたトルーポは鼻血を噴いて卒倒してしまったが、
同じ「意識を失う事態」であっても、彼の場合は笑い話で済むだけ安全と言うものだ。
 トルーポの腕の中より這い出したカンピランは、半ば転がるようにして船縁へと駆け寄り、岸辺の様子を再び凝視し始めた。
 ロープの内側には鋼索を通してあり、生半可な力ではビクともしない。今や海賊船と陸地とは完全に繋ぎ止められていた。
 見れば、ボートの乗員はシアター・オブ・カトゥロワへ接近しつつも掛け梯子などの支度を進めている。
入り江にて身動きが取れなくなった今、甲板への突入は容易であろう。
 世界最強の大海賊船は、最早、船舶としての機能を完全に奪われたのである。


 「天上天下唯我独尊」の軍旗を掲げていたボートの乗組員や陸上の伏兵たちも間もなくシアター・オブ・カトゥロワへと移り、
降参した海賊たちを順繰りに拘束していった――と言っても、手錠や足枷などの拘束具は一切用いていない。
武装の解除と所定の箇所への集合を申し付ける以外には彼らを縛ろうとはしなかった。せいぜい監視役が立てられた程度だ。
 こうした措置は、テムグ・テングリ群狼領の内部では生温いと批難されるものだったが、
ゼラールはあくまでもの自分自身の判断で事後処理を進めると宣言し、敗れた者たちへの不当な仕打ちを決して許さなかった。
 自分自身も参戦するつもりで海賊船に足を運んだクレオーは、心置きなく暴れられる機会を得られなかったと不満そうだったが、
それでも、“閣下”からの命令は遵守している。第一、彼は独自に開発した秘密兵器が海賊船捕縛の立役者となったのだから、
満足度も十分にお釣りが来る筈である。
 鮫の如く獰猛な鉄杭も、そこに仕掛けられた特殊な機構も、全てこの稀代のガンスミスの開発した物なのだ。
開発した兵器の機能からして既に生業たる銃の範疇を超えているのだが、それもこれもクレオーの才覚あってこその賜物だった。
 シアター・オブ・カトゥロワの船上には、ピナフォアに従ってきた馬軍の将兵の姿もある。
 彼らと無事を確かめ合ったピナフォアは、トラウム使用の有無――即ち、ゼラールへの忠誠についても併せて尋ねた。
ボートに乗り込んだ一部の将兵が「天上天下唯我独尊」の軍旗を掲げる様を彼女は目撃していたのだ。
本来、これは許されない背信行為である。

「……で、トラウムの使い心地はどう?」
「最高に開放的です!」

 馬軍の――いや、“元馬軍”の将兵たちは、清々しい面で互いの軍律違反を笑い合った。
 海賊討伐を通じてゼラールのカリスマ性に魅せられたのは、ピナフォアばかりではなかったと言うわけだ。
馬軍特有の革鎧に身を包む彼らは、ひとりの例外もなくトラウムを発動させている。誰もが御法度を破ることに躊躇いはなかった。
憑き物が取れたような笑顔からは、誰よりも先駆けて“閣下”の武威の礎となる覚悟さえ感じられた。

 真の意味で団結に至ったゼラール軍団は、シアター・オブ・カトゥロワの征圧を終えようとしている。
ここに至ってカンピランも観念せざるを得なくなり、仲間たちの身の保障を条件として尋問に応じ始めた。
 彼女の聴取を任されたのはピナフォアである。感情任せの口喧嘩が絶えないラドクリフはその起用に懸念を示したものの、
一軍の将としての英才教育を施されてきた彼女は、公私と言うものをちゃんと弁えていた。
あくまでもカンピランには礼節を以って接している。戦った相手にこそ公明正大であるべしと、幼い頃から教わってきたのだ。
 最初の内は格式ばった態度に「ヨユーぶっこきやがって!」などとカンピランは反発していたが、
やがてピナフォアの誠実な態度と丁重な扱いに心を開き、仏頂面を崩さないまでも質問には真っ直ぐ答えるようになった。
 唯一の反撃と言えば、すっかりダウンしてしまったトルーポを膝枕し、
意識を取り戻した彼に再び血の気が引く体験――と言うか、血は鼻から噴き出すのだが――を味わわせるくらいだった。
 一方、甲板の始末を配下へ委任したゼラールは、船室にて海賊団の頭目と接見に臨んでいた。
それはつまり、テムグ・テングリ群狼領と深い因縁を持つペガンティン・ラウトの長との決着をも意味している。


 シアター・オブ・カトゥロワの甲板へ新顔が乗り込んできたのは、海賊討伐が大詰めを迎える最中のことである。
船内の巡邏に当たっていたアカデミーの古参たちは、仮設された縄梯子を上ってくる人影に一瞬だけ緊張を走らせたが、
すぐさまその正体に気付いてラドクリフを手招きした。
 「このウスノロ! かったるくってやってらんないわよ!」などと連れの者に文句を言われつつ船縁へ手を掛けた男のことも、
彼をこの場に招く手筈を整えたのがラドクリフであることも、ゼラール軍団の総員が承知していた。
 それ以前に、だ。甲板に在る誰もが件の新顔の正体を周知しており、
ラドクリフから事前の通達がなかったとしても不審者として捕らえるようなことはなかったであろう。
 トレードマークはベースボールキャップだ。正面には「NEW HORIZON」と刻印された真鍮製のプレートが縫い付けられており、
ツバが後ろを向くと言う独特の被り方を見れば、たちまち彼に付けられたニックネームの大合唱となる。
あるいは、サインなり記念撮影なりを求めるかも知れない。
 不躾にモバイルのカメラを向けられたとしても、彼は喜びこそすれ黄金の瞳を曇らせることはない。
軽やかな笑顔を浮かべてピースサインを作る筈である。
 幾分、軟派とも取れるその態度を、汚らわしいゴミでも見るような目で睨む連れは、決まってこう吐き捨てるのだ。
「見てくれに騙されるバカばっかりだわ」と。
 パートナーから散々に貶された風体は、成る程、見る人を強烈に引き寄せるだけの魅力を放ってはいる。
 木目細かなブロンドの長髪は襟足のところで束ねられているのだが、
驚くべきことに紐の代わりとして宝石をあしらった首飾りを用いている。
小粒の玉石と黄金の髪とが織り成す光彩を見れば、世の女性は振り返らずにはいられなかった。
 世の男性は、むしろ首から下の着こなしに興味を引かれることだろう。
レザージャケットにヴィンテージジーンズ、左右非対称のグローブに、首から垂れ下げる美麗なネックレスと、
ボトムアウトのシャツまで含めて何の変哲もないカジュアルファッションのようだが、
ダメージを感じさせる革やデニムは、世界中の風に晒される中でその味わいを醸造してきたのである。
 彼が身に纏う物は、それ自体が偉大な冒険者とも言える。
膝下までをすっぽりと覆うロングブーツは彼と共に世界中の土を踏みしめ、
左右合わせて十指の半分以上に嵌められた色とりどりの指環には悠久の時間を旅してきた物も含まれている。
 豪奢な装飾の施されたペッパーボックス拳銃と併せて、ロープやコンパス、望遠鏡など旅の必需品が収納されたガンベルトは、
冒険旅行の花形と言っても過言ではなかった。
 そして、偉大な冒険者たちを従え、自身の力として使いこなすこの男も世界の風を識(し)る者に他ならない。

「お待ちしておりました、マイクさん。丁度、戦いも一段落したところです」

 ラドクリフからその名を呼ばれた彼――マイク・ワイアットのことを、世の人は専ら別の異称(な)で呼ぶ。
生ける伝説、冒険王、ミスター魔境探し人、あるいはワイルド・ワイアットと。
 ハーヴェスト、フェイ、メアズ・レイグなど世界を股にかけて活動する冒険者は数限りなく存在するが、
マイク・ワイアットは名声、実績ともにその頂点に位置する者である。
 主に未踏の地の開拓を専門としており、彼によって発見された秘境の数は計り知れず、
ルーインドサピエンス(旧人類)時代の遺産、遺跡の発掘にも余念がない。
エンディニオンの歴史を紐解く研究への貢献と言う面でも絶大な評価を得ているのだ。
 まさしく冒険旅行を体現する男であるものの、彼が生ける伝説などと持て囃される最大の理由とは、
世界の謎に挑んできた実績ではなく、“稼業としての冒険者”の最高の成功例として知名度であった。
 旅先で手に入れた遺産や財宝の殆どは、広く世に渡るよう貿易や競売の商品に充てている。
これによって財を成した彼のことを、心の貧しい人間は守銭奴と密かに陰口を叩いていた。
 尤も、ワイアット家自体が大商人の一族である。貿易を副業とすることは、むしろ自然の成り行きと言えよう。
マイクを成功者として知らしめた巨万の富は、冒険の実績と副業の相性が偶然に合致しただけなのだ。
第一、マイク本人は富にも財にも関心が薄く、「冒険者の頂点」などと言う世間の呼び声は興味の対象外。
仰々しい肩書きや伝説的な功績に萎縮する者は、気さくな人柄に接して心をほぐされるのだ。
 ゼラールの特命を受けてマイクの“拠点”を訪ねたラドクリフも他の類例から漏れることはなかった。
貿易センターとも俗称される港の市場で冒険王と対面することになった彼は、その直前までガチガチに緊張していた。
任務の完遂に気持ちが逸っていたのである。閣下より授けられた大仕事は、一命に代えても果たさなければならない。
もしも、閣下の顔に泥を塗るような事態へ陥ったときには、死んで詫びるしかないとさえ思い詰めていた。
 それだけにマイクが「こりゃまた懐かしい顔じゃねーか。オレで良ければ、何でも相談に乗ってやるぜ?」と、
おどけた調子で握手を求めてきたときには、どれだけラドクリフは救われたことか。
 秘境を探し訪ねるマイクは、マコシカの集落にも何度となく足を運んでおり、
ラドクリフとは彼が幼少の頃からの知り合いであった。それが為にラドクリフはゼラールから特使として選ばれたのである。
 暫くの間、マイクと会っていなかったラドクリフは、現地に入るまで顔を忘れられている可能性を憂慮しており、
実際に面会するまでは不安のほうが強かった。
それだけに冒険王の温もりは心に染み入るものであり、思わず泣き出しそうになった程だ。
 ゼラールの密書に目を通し、ラドクリフの説明へ耳を傾ける間もマイクは険しい表情など一度たりとも作らなかった。
例え、密書と説明の内容が無理難題――テムグ・テングリとペガンティン・ラウトの和睦調停の依頼であっても、だ。

「ハービンジャーとワイアット家は古い付き合いだ。オレの親父の代からの友人さ。やれねぇことはないと思うぜ。
……あのおやっさんを口説くのは骨が折れそうだけど、このままにしといたら、ペガンティン・ラウトは自滅するしかねぇ。
そいつぁ、世界の損失ってもんだ。喜んで引き受けさせて貰うぜ」

 ハービンジャーとは、ペガンティン・ラウトの長の名である。
 余人には不可能とさえ思える難しい調停にも関わらず、マイクは満面を輝かせながら快諾した。
無理難題の本番を迎えた今も初対面のときと同じ陽気な笑顔を浮かべており、
出迎えの為に駆け寄ってきたラドクリフには「いいコにしてたみたいだな。そう言うラドにおみやげだぜ」と
冗談めかして紙包みを手渡している。
 貿易センターの食堂で口にして以来、ラドクリフを虜にしているうどんだ。昼食を共にしたマイクはそのことを憶えていたのである。
生麺ではなく乾燥麺だが、思いも寄らないうどんとの再会に彼は思わず相好を崩し、
彼のリアクションに満足するマイクもカラリと明るく笑った。

「お前らのドンパチ、遠くからでも良く見えたぜ。えらいハデにやったみたいじゃねーか。
この船に攻め入って無事だったヤツを、オレは他に知らねぇよ」
「悪趣味だなぁ。観戦していないで加勢してくれても良かったじゃないですか。ぼくは何回死にそうになったことか……」
「そいつは出来ねぇ相談ってもんだ。オレが加わってみろ? 調停から説得力がすっぽ抜けちまうぜ」

 そう言うマイクの右人差し指は、内陸部を示している。
 入り江より一望できる森林地帯を分け入っていくと、奥深くには現地の人々が暮らす集落がある。
ペガンティン・ラウトとも交易を続けていると言うその集落に前日から滞在していたマイクは、
海賊討伐が終息する頃合を見計らってやって来たと言うわけだ。
 親交の深い海の民が襲撃されていると知って加勢に向かおうとした件の集落の人々を説得し、
矛を収めさせたのもマイクだが、ラドクリフがそのことを知るのは、全てが一件落着した後のこと。
手柄をひけらかすことを好まず、少しも飾ろうとしないマイクは、
テレビ番組や雑誌でよく見る軽佻浮薄な物腰で船上の人々に笑いかけている。

 歴史解説や秘境探索のナビゲーターとして露出する際にもトレードマークのベースボールキャップを欠かさないマイクだが、
そうした平素のシルエットに見慣れた者たちは、今日の出で立ちに僅かな違和感を覚えていた。
首を傾げさせる物が一点だけ紛れ込んでいるのだ。
 かのワイルド・ワイアットは、左肩に鈍色の石柱を担いでいた。と言っても、硬い石塊をそのまま肩に押し当てているわけではない。
何やら籠状の機械の内側へと石柱を収納し、ベルトでもって背負っているのだ。
 本来、この機械はリュックサックのようにして背負うべき物らしいが、
マイクは設置された二本のベルトをひとまとめにして左肩へ掛けていた。
分散されることなく一点に重量が集中する形だが、それでも彼の足取りは軽やかである。
 先端部分がささくれ立つ石柱の表面には、象形文字を彷彿とさせる不思議な紋様が刻み込まれている。
時折、蛍火のように明滅するあたり、人間界で用いられる鉱物と同じ次元にはなさそうだ。
あるいは、見た目よりも遥かに軽量なのかも知れない。
 石柱を収納した籠状の機械からは数本のケーブルが垂れ下がっており、これはマイクの左手を覆うグローブに連結されていた。
正確には手の甲の部分に設けられた円形の機械と繋がっているのである。
円の表面には魔方陣が刻まれており、その材質は石柱と同じ物ではないかと思われる。
 石柱の他に幾つも不思議な宝物を身に着けているが、これらはテレビでも何度か披露されていた。
 プラチナの輝きを放つ角笛や、鞘から刀身に至るまで古代語を刻み込まれた宝剣は、拳銃と一緒にガンベルトへ吊るしており、
靴の裏には神速を付与するとの言い伝えを持つ護符が貼り付けてあった。
首のネックレスも見たことのない硬貨に穴を開け、金糸で束ねた物だ。
 メディアに露出する際は、これらを古代の遺産、発掘・出土品としか紹介していないが、おそらく単純な宝物の類いではなかろう。

 尤も、冒険王らしいこの出で立ちを彼のパートナーは「ただのかっこつけマンよ」と小馬鹿にしていた。
 マイクの周りを飛び回っては暴言を撒き散らすパートナーもワイルド・ワイアットに負けないお茶の間の人気者であり、
その稀有な存在はエンディニオン中の人々に広く知れ渡っている。

「ティンクさんも遠路遥々よくお出で下さいました。閣下に代わって御礼申し上げます」
「私にゃ礼なんかいらないわよ。ただの物見遊山よ、旅行気分なのよ。ムツカシ〜ことに関わる気もないから、そのつもりでね」
「承知しておりますよ。何かと立て込んでいますが、ゆるりとしてくださいな」
「折角だからあのババ――奥サマに写真でもメールしてやろうかしら。連れてけ連れてけってクソうるさかったのよ」

 ラドクリフからティンクと呼ばれたマイクのパートナーは、その背に蝶の如き羽根を備えていた。
おそらく身長は十センチメートルにも満たないことだろう。
 光の粉を散らしながら空を翔る小さな淑女――淑女とはあくまでも自称だが――は、
マコシカの文献にてその名が確認される妖精(フェアリー)なる種族の一員であった。
 エンディニオンに絶えて久しいとされるこの種族は、神代の時代には女神イシュタルの身辺の世話を務めていたと言う。
即ち、ティンクは伝説の種族の生き残りと言うことになるのだが、現代に蘇った妖精は、随分と俗世間に染まってしまったらしい。
 臍が露になる短めのキャミソールにダメージ加工の施されたデニムハーフパンツ、
おまけに星屑をあしらったネックレスまで垂らしているではないか。
ミディアムボブに切り揃えられたプラチナの髪は、ただそれだけでも美麗なのだが、
更にエメラルドを散りばめたスリーピンで飾っており、これによって前髪を左右に分けていた。
 これらの装飾は全てティンクの身長に合わせて作られた特注品であり、妖精ならではの美しい容貌を一層引き立ててはいる。
それは事実なのだが、ときに目を刺すようなどぎつい輝きには、どうしても「俗世間」の三文字がチラついてしまうのだ。
 テレビ画面や雑誌を通してではなく、初めてティンクの実存(すがた)を認めた者の目には、
その虚飾とて元より妖精が持ち得る美として映ることだろう。百戦錬磨のゼラール軍団もすっかりティンクに見蕩れてしまっている。
だらしなく口を開け広げる軍団員の醜状にラドクリフは苦笑するしかなかった。

「おいおい、こりゃどんなジョークだ? ティンクが誘蛾灯ってことかよ。あべこべだろ、あべこべ。
こいつのほうがフラフラと寄ってくほうな。夜のコンビニ見てみ? コイツの仲間がどんなメに遭ってるか」

 案の定、憎まれ口を叩いたマイクの顎へ体重の乗った蹴りを食らわせ、物理的に沈黙させたティンクは、
周囲から向けられる賛美の眼差しを満喫しつつ、一箇所に身柄を集められた海賊たちのもとへと飛んでいく。
不貞腐れて胡坐を掻くカンピランを発見したのは、丁度、ボトムのポケットからオーダーメイドのモバイルを取り出したときであった。
 彼女は交差する太股の上にトルーポの頭を乗せていた。復活する度に鼻血を噴いて卒倒と言うパターンを繰り返し、
今や彼の面は土気色に変わりつつある。おそらく次に目覚めたときも大量の血を失うことだろう。
失血死の危険性も現実味を帯び始めていた。
 そのように珍妙な体勢でピナフォアの尋問に答えていたカンピランは、ティンクと目が合った瞬間、この上なく表情を曇らせた。
どうやら両者は旧知であるらしいが、その関係はあまり良好ではなさそうだ。
少なくとも、目を合わせまいと顔を背けてしまったカンピランの態度は友好的とは程遠い。
 何事かと訝るピナフォアの眼前を横切り、カンピランの頭上にて浮揚し始めたティンクは、
バツが悪そうに俯いている眼下の彼女に向かって「大海賊の副頭目サマも、こうなったらカタなしね」と吐き捨てた。
聞こえよがしに厭味たっぷりの鼻息を添えるあたり、なかなか性根が捩れている。
 ティンクから手酷い一撃を被ったカンピランであったが、口をへの字に曲げたまま何ら言い返すことはなかった。
 鼻周りの筋肉がピクリと律動した様子からも察せられるが、言い返したくないと言うわけではなさそうだ。
しかし、ティンクの性格はどうか。妖精とは思えない程に捩れた性根はどうなのか。
ひとつの反論に対して何倍もの仕返しが襲ってくるのは想像に難くない。
 余計、こじれても面白くないと分かっている為、カンピランは敢えて口を噤んだようだ。
そこまで互いの性格を見極められるとは、ふたりの関係は昨日今日に始まったような浅いものではなさそうである。

「妖精サマのありがたみっつーもんをブチ壊しにしている手前ェがそれを言うのかよ。
ギンギラにおめかししてる手前ェのほうがよっぽどカタなしだっつーの。妖精なのか、銀蝿なのか、どっちだ」

 そう言ってティンクを諌めたのは、彼女から一撃食らった顎をいたわるようにしてさするマイクである。
 ラドクリフに伴われてふたりのもとまでやって来たマイクは、
今まさに罵詈雑言を吐き出そうとしていたティンクを右の人差し指でもって弾き飛ばし、
空いた左手でカンピランの頭を優しく撫で付けた。
 朗らかに笑うマイクをジロリと一睨みするカンピランではあったが、バンダナ越しに感じる彼の温もりに抗うことはなく、
救われたような溜め息を吐いた後、「相変わらずイヤミな連中よ。このハイエナめ」と減らず口を叩いた。
 悪足掻きを引き連れてそっぽを向いたカンピランと、彼女の頭を柔らかく叩いたマイクとを交互に見比べたピナフォアは、
両者のやり取りへ然もありなんと頷いている。

 尋問を経て判明したのだが、カットラス片手に海賊たちを率いて戦ったカンピランは、
ペガンティン・ラウトの副頭目と言う立場にあった。それもその筈で、彼女は頭目の愛娘なのである。
“とある事情”から父の代理としてシアター・オブ・カトゥロワの舵取りを担うことになり、
その結果、馬軍――いや、ゼラール軍団に征圧されると言う憂き目に遭ってしまったのだ。
 彼女の無念は計り知れない。尋問に当たったのが礼節を重んじるピナフォアではなく敗者を愚弄するような鼠輩であったなら、
おそらく死を賭してでも刃向かったに違いない。
 最終的に大敗の全責任は頭目が負うことで決着がついた。
戦闘にこそ参加出来なかったものの、彼もシアター・オブ・カトゥロワには乗り込んでいたのだ。
海賊船征圧から一時間以上が経過しているが、今もまだ頭目は船室に篭り切ってゼラールと話し合いを続けている。
勝者と敗者が互いに着地点を模索しているのである。
 テムグ・テングリ群狼領に虐げられて海賊に身を落とさざるを得なくなったペガンティン・ラウトが、
戦いに敗れたからと言って容易く頭を下げられる筈もない。議論が平行線を辿るのは最初から分かっていたことだ。
 ――そう、予想がつくことであるが為にゼラールは先手を打っていた。
ラドクリフを使者に立てて招聘したマイク・ワイアットこそが、ゼラールの講じた一手と言うことだ。

 ワイルド・ワイアットの名声は、本人が望む望まずに関わらず世界中に轟いている。
 冒険の最中に知り合った人々との繋がりこそが一番の財宝と公言して憚らず、
副業の貿易を通じて培った関係をも合わせると、マイクの人脈はエンディニオン全土にまで及ぶのだ。
 豊かな人脈を持つが故に紛争調停の取りまとめを請われることも少なくなかった。
マイクも自身の活動に支障を来たさない限り――いや、ときには採算を度外視してでも争いを食い止め、
対立勢力同士が並び立てる環境の開発に力を注いでいた。
 その手腕に着目したゼラールは、ワイアット家が古くからペガンティン・ラウトと交流を持っていたことも調べ上げ、
戦闘終了後に不可欠になるだろう調停の役目を依頼したのであった。
マイクは現在も海の一族と交易を結んでいる。余人ならばいざ知らず、ハービンジャーも彼の言葉には耳を傾けるしかなかろう。
 上策ではあるが、実はこれもテムグ・テングリ本隊への背信行為スレスレであった。
「ワイルド・ワイアット」と、彼の“拠点”は、度重なる圧力にも屈することなく独立を保ち続けている。
その上で紛争調停に乗り出すマイクのことを馬軍は目の上のタンコブのように忌々しく思っていた。
紛争の中には、テムグ・テングリ群狼領がけしかけたものも含まれているのだ。
 命令違反に問われるリスクを犯してまで調停の道を選ぼうと言うゼラールの心意気に打たれ、
マイクは彼の依頼に答えることに決めたのだ。相手を力ずくで斬り従えるような者には、幾ら報酬を積まれても協力しない。
それがマイク・ワイアットのスタンスであった。

「――んじゃ、いっちょやってみっか!」

 己に活を入れるべく拳を鳴らしたマイクは、ラドクリフの案内を受けてゼラールたちの待つ船室へと向かっていった。




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