6.ふたりの軍師


「やあやあ、ラトク君。ぼちぼち定時連絡の時間だが、そちらは、一体、どうなっているのかね?」

 電子音と振動によって俄かの着信に気付き、自身のモバイルを片頬へと宛がったラトクは、
耳朶に滑り込んでは鼓膜の内側を這い回るような気色悪い声に中てられ、たちまちしかめっ面を作った。
 通常の場合、自身が司会を務める『SUPERビャンプ☆ピッチdeぽん!』の主題歌を着信音として設定するラトクだったが、
ジョゼフやマユなど個別の管理が必要な相手については、それぞれに特定のメロディを当てはめている。
先述したふたりについては、セントラルタワーの管内音楽にも採用されていたルナゲイトの社歌を設定し、
自身と同様の立場で新聞女王に仕えるアナトールの着信音には『ブラッディ・ソード』から選曲していた。
 ブラッディ・ソードとは、マユが好むデスメタルバンドである。
件のグループが世に輩出してきた楽曲の中から歌詞全体を通して「苦しみ抜いた末に車裂きで処刑」と
凄惨な情景を歌うものを選び取り、わざわざアナトール専用の着信音に設定しているわけだ。
 今しがた彼が纏う背広のポケットで鳴り出したのは、苦虫を噛み潰したかのようなラトクの表情からも察せられる通り、
穏やかならざるブラッディ・ソードのナンバー。液晶画面を確かめることなく着信の相手を悟ったラトクは、
ジョゼフが真隣へ座しているにも関わらず、堪り兼ねて舌打ちをしてしまった。
案の定、この世で一、二を争う程に忌み嫌う相手からの電話である。
 ジョゼフに一礼して部屋の片隅へと向かったラトクは、同じ質問を粘っこく繰り返す通話相手――アナトールに対して、
「年を取ると堪え性がなくなると言うのは、本当らしいですね。今からご説明致しますから、少しお待ちを」と吐き捨てるように返答した。
 現在(いま)、ラトクは他の仲間たちと共に決闘場から控え室へと戻っている。
ルナゲイト家に仕えるエージェント同士の会話は、余人の耳に入れてはならない極秘情報で溢れ返っている。

「……年齢は関係ないか。あなたは若い頃から、いつだってそうでした。……いつまでも、いつまでもね」

 遥か遠方に在る通話相手に向かって鋭く毒づいたラトクの様子を、ジョゼフは肩を竦めつつ眺めていた。
 主従の関係に限らず、目上の人間の前で舌打ちをすることは無礼極まりない醜態だが、
ジョゼフもまたラトクと通話するマユの執事を忌々しく思っている。共通の大敵と言っても差し支えのない相手なのだ。
言行の全てが癪に障ることも理解している為、非礼を咎めるどころか、同情の念すら抱いている。
 エージェントたちと同等にルナゲイト家の内情を知り尽くすセフィは、
心の底から渋い顔をするラトクとジョゼフに薄い笑みを浮かべている。
他所の火事を野次馬として楽しむかのような、極めてタチの悪い微笑だった。

 控え室にもうひとつの着信音が鳴り響いたのは、厭味っぽい薄ら笑いを浮かべるセフィに口元を引き攣らせた瞬間(とき)のことである。
 今度は完全な電子音だ。それも、最初からモバイルに内蔵されているような、旋律も何もないような無味乾燥な物。
おそらく、そのモバイルの持ち主は着信音の変更方法すら知らないのだろう。
初期設定のまま、モバイルの機能を殆ど眠らせているに違いない。
 設えられていた革張りのソファより「ややッ!?」と素っ頓狂な声を上げて起立し、慌てたように全身をまさぐった末、
着物の帯へと差し込んであったモバイルを取り落としてしまったのは、佐志の代表としてハンガイ・オルスにやって来た守孝その人である。
 ある種、前時代的な趣を感じさせる着信音や、使い慣れていないが為に操作ひとつにも慌ててしまうその様は、
古武士を地で行く守孝であれば誰しもが納得だった。
 つい先日、源八郎との連絡用に買い求めたばかりと言うこともあって通話の開始にさえ手間取る始末だ。
電子音だけが虚しく響く中、滝のような汗を流しつつ当惑する守孝を見兼ね、ついにタスクが手助けに入った。
 彼女から指導を施され、ようやく通話方法を理解した守孝は、長らく電話の向こうに待たせている相方へ詫びつつ、
大股で控え室を出て行った。通話の声でもって騒がしくしない為の気配りである。
 トレードマークの鉄兜を揺らしながら駆け去る後姿を目端に捉えたラトクには、
誰が守孝へ電話を掛けてきたのか、おおよそ検討がついていた――と言うよりも、その情報を現在進行形で得ている最中なのだ。

「ウィリアムスン・オーダーとマユ様の間で“例の商談”がまとまった。
百戦錬磨の女社長も、まさか自分より遥かに年下の小娘に転がされているとは、夢にも思っていないだろうね」

 ラトクに定時連絡の電話を掛けてきたアナトールは、マユに随伴して佐志へ滞在中なのである。
 そのような状況にあって佐志の内情が判らないようなら、即座に通話を打ち切っているところだ。
一刻も早く通話をやめる口実さえラトクは探している。
 「残念ながら、商談成立の瞬間自体は見逃してしまったがね」ともアナトールは付け加えた。
悪言の連続で顰蹙を買った末に佐志の役所から締め出されたこの老執事は、
ウィリアムスン・オーダーとの話し合いの結果をマユから届いたメールにて知ったと言うのだ。
 マユからアナトールへと送信されたメールには、その日は佐志に一泊する旨も書き添えられていた。
久方ぶりにグリーニャの人々と再会したのだ。動乱期に当たって多忙な新聞女王とは言え、久闊を叙す遑くらいは許されるだろう。
 また、新聞女王は同じ文章の中でクルーザーからの外出を禁じる命令も下していた。
それも、一歩たりとも船外には出るな、と強い語調である。言うまでもないが、外出禁止令はアナトールのみを対象としたものであった。
 マユから下された厳しい命令を「鬼の居ぬ間のなんとやらと言うものだよ。せいぜい命の洗濯はさせて貰うよ」などと
せせら笑うアナトールだが、これは別に強がりや負け惜しみではなかろう。
アナトール・シャフナーとは、つまりは“そう言う人間”なのである。
 スピーカーから微かに波の音が聞こえてくる理由を悟ったラトクは、「リフレッシュするのも大事ですが、身辺にご用心を」と
抑揚のない声でアナトールに呼びかけた。これは同僚の身を案じた警告ではなく、皮肉以外の何物でもない。

「そろそろ、そっちにも連絡が行くと思うがね。こんなビッグニュース、キミらが帰ってくるまで黙ってもいられんだろう」
「――ええ、あなたの読み通りですよ。今しがた、少弐守孝がモバイル片手に飛び出していきました」
「と言うことは、着信は権田源八郎からだな。皆を代表して報告を……ってところだろう」
「女社長からの直通では? ……ああ、そうか。少弐氏は新しい疎開者のことをまだ知らないんでしたっけ」

 シェルクザールの戦災者の疎開を始め、新聞女王の来訪など様々な事件が一気に重なってしまった為、
諸々の報告は未だに守孝にまで伝達されていない。かの古武士は今しがたの電話の中でこれらを知り、
相方の判断へ猛烈に感動することだろう。
 セントラルタワーをギルガメシュに征圧された現在も深く静かに生き続けるルナゲイトのネットワークから
疎開先を求めるシェルクザールの動向を知り、これを利用しようとするマユの画策をもジョゼフ経由で聞いていたラトクには、
数日前に耳にしたフィーナやシェインの会話は失笑ものであった。
何も知らないふたりは、カミュやアシュレイと言ったシェルクザールの友人たちを案じていたのだ。

「それからもうひとつ――これは、我々にも想定外だったのだがね、佐志へ向かう途中に思い掛けないゲストをピックアップしたんだよ」
「ピックアップって……。あなたがたも船を出したんでしょう? どこで、どうやって、何を拾ったって言うんですか? 」
「さ〜て、なんでしょ〜かぁ?」

 からかうようなアナトールの口調はラトクを大いに苛立たせたものの、その内容自体には興味を引かれなくもない。
マユの画策とは全く異なるイレギュラーな事件が佐志にて発生したと言うのである。

「わからないようだから、特別に教えて進ぜよう――生身でクルーザーと並走できる人間なんて、
この世にゃいくらもいるものじゃあないだろう? 」
「……教えるって言ったくせに、全然答えになってない気がするんですがね」
「想像力を養うチャンスをプレゼントしているんだよ。キミは幾つも子供番組を担当しているだろう? 
知育にはね、言葉遊びも有効なのだよ」
「……切りますよ、電話」
「別に構わないがね。それをやってジョゼフ様に叱られるのはキミだよ。
勿論、キミが通話を打ち切った瞬間、私はジョゼフ様に直接お電話を差し上げる」
「こちらこそ望むところですね。あなたと自分と、どちらがより会長に嫌われているか、試してみましょうか?」
「賭けにならない賭けを仕掛けるとは、キミもルナゲイト家にどっぷり浸っているねェ」
「お陰様で。あなたに目一杯鍛えていただきましたからね」

 いい加減、悪ふざけに辟易し始めた頃、ようやくアナトールは「スカッド・フリーダム」と、ラトクが求める明答を示した。

「スカッド・フリーダムの戦闘隊長はキミも知っているだろう?」
「ゴタゴタがあって変わったばかりですが、……エヴァンゲリスタとか言う男でしたね」
「そのエヴァンゲリスタ氏と洋上で遭遇したのさ。驚いたねぇ、泳いで海を渡ってきたって言うんだからさ。
知ってるかい? 遠泳の最中はね、食事は海中に潜って適当に調達するそうだよ。
フカヒレを生のまま丸かじりするなんて話、キミ、信じられるかい?」
「……海中で噛り付いたって言うんですか、鮫に」
「体力以外も色々とバカ丸出しだったよ、エヴァンゲリスタ氏は」
 
 アナトールとの定時連絡がスカッド・フリーダムへ及んだとき、ラトクは声のトーンを殊更落とした。
タイガーバズーカを根拠地とする義の戦士たちは、いずれもローガンやハーヴェストと縁が深い。
もしかすると、シュガーレイ同様にエヴァンゲリスタも彼らと親しい間柄なのかも知れなかった。
迂闊に戦闘隊長の名を口に出し、これを聞きつけられては厄介と言うわけだ。
 何やら腕組みしながら部屋の中心を見つめているローガン、フィーナと話し込んでいるハーヴェストを順繰りに窺ったラトクは、
ふたりの耳にエヴァンゲリスタの名が届いていないことを確認し、次いでセフィへと目を転じた。
 と言っても、ニコラスやヒューと語らい、ときにこの名探偵から首を絞められているセフィには、
直接的に用事があるわけではない。彼と――いや、ジューダス・ローブのサミット襲撃に対抗するべく招聘したスカッド・フリーダムのことを、
ラトクはその脳裏に思い描いていた。
 人並みはずれた体躯を持つスカッド・フリーダムの隊士であれば、大海原を生身のまま泳いで渡ることも不可能ではなさそうだ。
それなりの位階に座す者の身体能力は、平の隊士のそれを遥かに凌駕しており、
人間を辞めたとしか思えないような神業すら平然とやってのけるから恐ろしい。
 人にして人を超えた肉体と、これを包む隊服と合わせて「義の戦士」と言う彼らの異称が浮かんだとき、ラトクの口元は厭らしく歪んだ。

「……聞き忘れていましたが、エヴァンゲリスタはどちらの派閥でした?」
「ほう? “どちら”とは?」

 勿体ぶるようなアナトールの言行に対し、ラトクは無言の圧力を掛けることにした。

「……安心したまえ、本隊だよ。新旧の戦闘隊長がどっちも過激派だったら、スカッド・フリーダムはもう終わりだ」

 電話口から何も聞こえてこなくなったことで悪ふざけが過ぎたと反省したらしいアナトールは、
そこから先、エヴァンゲリスタが佐志へ難民援助のネットワークに加入するよう持ちかけたことまで恙なく説明した。
スカッド・フリーダムの事情を聴かされた守孝が涙を流しながら「喜んで参加仕る」と吼える様は想像に難くない。
 間もなく扉の向こうから一字一句同じ言葉が飛び込んできたと言うことは、
どうやらスカッド・フリーダムと佐志の盟約が正式に締結されたらしい。
 既に解決済みではあるのだが、アナトールの説明によれば、一時的ながら盟約成立が困難な状態に陥る瞬間もあったそうだ。
 インターネットに興じていた撫子がスカッド・フリーダムの暴挙を取りまとめたニュースサイトを発見し、
これを論拠としてエヴァンゲリスタを謗ったのである。
 そこには、戦意を喪失しているようにしか見えないギルガメシュ兵の首を無表情に圧し折る隊士たちの写真が掲載されている。
とてもではないが、「義の戦士」を標榜できるような姿ではなく、
 「佐志をてめーらの軍事拠点にでもするのか? 同盟ってのは、そう言うつもりだろうが?」と穿った詰問を投げ付ける撫子や、
彼女の一言で不信感を抱くようになった佐志の人々に対し、エヴァンゲリスタは身の潔白をするべく懸命に説明を尽くした。
 ニュースサイトで残虐非道と報道されているのは、本隊の意思とは無関係に行動する一派だと言う。
 サミットに乱入し、同胞たちを銃殺したギルガメシュに怨恨を抱いた者たちが集結し、
戦争に傍観の立場を貫こうとする本隊から離反して私闘を始めたと、エヴァンゲリスタは苦々しく語った。
 スカッド・フリーダム本隊は、あくまでも市井の人々の護衛であり、崩壊した警察機構、即ちシェリフの代理を務める意思である。
 決して語りたくはなかったであろうスカッド・フリーダム最大の醜聞を包み隠さず打ち明けたことで、
改めて佐志の信頼を勝ち取ったエヴァンゲリスタは、あらぬ誤解を招いたことや分離した一派の残虐行為に深々と頭を下げた。
 撫子だけは陳謝を受け入れずに最後まで執拗とも言える程に疑心をぶつけていたが、
エヴァンゲリスタの言葉に偽りがないことは、カミュのウソ発見器のトラウムによって証明され、
ゴネてゴネてゴネた末にようやっと折れた。

 佐志にて撫子が披露したニュースサイトはともかく――
スカッド・フリーダム本隊から過激な復讐者たちが分離した情報(こと)は、既にルナゲイトも掴んでいた。
アナトールなどは「うまく泳がせておけば、何かと役に立ちそうとは思わんかね?」と、
この危険な一派を駒として使う計画を腹の底に隠しているようだ。

「――我ら、ルナゲイトの“目的”には絶対に合致する。囲っておいて損はないと思うよ、私は」

 アナトールのその言葉には、ラトクは何も答えなかった。電話の向こうの老執事がどのように捉えているのかは知れないが、
少なくともラトクの常識に当て嵌めれば、数多の耳朶に晒されているような状況で話すべき内容ではなかった。

(……神経を疑うぜ、ろくでなしのクソジジィが。とばっちり喰うなんざ御免なんだよ)

 無言でモバイルの通話を打ち切ったラトクは、ことのあらましを綴ったメールをジョゼフ宛に送信した。
本当であれば、直接耳打ちなどで伝えたいところだが、絶対に外部には漏らせない極秘情報が多分に含まれる為、
人々が一箇所に密集する中では、メールによるやり取りのほうが機密保持の観点から見ても安全であった。
何しろルナゲイト専用の秘密回線を使っている。送受信時の暗号化も万全であり、秘密が露見する心配もないのだ。
 ラトクより受信したメールを読み終えたジョゼフは、ブラックレザーのジャケットのポケットへモバイルを仕舞い込むと、
一瞬だけ瞑目し、次いで部屋の中央へと視線を戻した。
 彼の、……いや、控え室に在る殆どの者の視線は、部屋の中心にして押し問答を続けるふたりの軍師――
アルフレッドとブンカンへと注がれている。

 雨垂れの決闘を「敗北」を以って終えたアルフレッドは、胸元に負った深い傷をマリスのリインカネーションで治療して貰うと、
敗者のけじめとして控え室に引き下がっていた。形勢逆転に向けた献策の希望が絶たれた今、
黙して沙汰を待つのが当然だと判断したのだ。
 ブンカンの訪問を受けたのは、濡れた衣服を乾かしている最中のことである。
 エルンストが何らかの決定を下したものと捉えたアルフレッドは、群狼領の軍師を神妙な面持ちで出迎えたのだが、
当のブンカンは彼の殊勝な態度に苦笑を漏らし、「ライアン君ともあろう人が早とちりとは。明日は雨かな」と頭を振った。

「私は御屋形様の指示を携えてきただけだよ――ライアン君、すぐに支度をしなさい。君にも軍議へ参加して貰う。
これは、御屋形様の思し召しなのだよ」

 アルフレッドの双肩に手を置いたブンカンは、今から始まる軍議へ出席するよう要請したのだ。
三つ巴で献策の権利を争ったフェイでもなれけばイーライでもなく、敗北を受け入れていたアルフレッドに対して、だ。
 寝耳に水とは、まさにこのことである。事情はどうあれ敗北したからには諦めるしかない。
そう思っていたところへ願ってもないチャンスが飛び込んできたのだ。

「よかったじゃん! よかったじゃないの、アルっ! もしかすると、もしかするかも知れないよ!」
「さすがは諸王の王とも呼ばれる御方。人の価値、正義の有り様を勝敗と言う名の天秤では量らなかったと言うことですわ。
あの決闘は、何の為にあったのか。アルちゃんに光の道を開く為にあったのですっ!」

 目を丸くしたまま直立不動に固まってしまったアルフレッドを、フィーナとマリスは千載一遇の好機だと促し、励まし、背中を押した。
奇跡としか言いようのない筋運びだ。この申し出を快諾しなければ、二度と献策の機会には恵まれないだろう。
最後の好機と言うことは、誰の目にも明らかだった。
 ところが、だ。何を思ったのか、在野の軍師は頑として首を縦に振ろうとはしなかった。

「エルンスト直々に負けを言い渡されたような人間がいたなら士気に影響するんじゃないか? 
……気遣いは在り難いが、その申し出は辞退させて欲しい」

 愛弟子が心意気を示す瞬間だけは見逃すまいと、固唾を呑んで身構えていたローガンは、
余りにも後ろ向きなその言葉に思わずひっくり返ってしまった。
 今度の献策に賭ける意気込みを知っているローガンにしてみれば、
「決闘の勝利者は自分なのだから、せめて特等の席を用意して貰おう」と主張するくらいの気概を見せても罰は当たらないと思うのだが、
アルフレッド当人が示した態度は、師匠の期待とは真逆だったのである。
 当然、他の者たちも黙ってはいない。口々に「今更、怖気づいたのか!?」などと批難を飛ばし、
フツノミタマに至っては、ドスの切っ先を向けてまで軍議への出席を強要した。
 中でも一番の怒気を見せたのはジョゼフである。普段の温厚さはどこへやら、
フツノミタマを押しのけてアルフレッドに詰め寄っていった。

「もしも、引き際の潔さを美徳と思っておるのなら、お前は何もわかっておらぬッ! 良いか、アルッ!?
その境地には最後まで諦めずに戦い抜いた人間だけが辿り着けるのじゃッ! お主はどうじゃ? 
ここで諦めてしまえば、……お主が想う者たちも浮かばれぬのではないか?」

 新聞王からの愛ある説教だ。自分の前途を案じ、敢えて厳しく叱責してくれていることはアルフレッドにも分かっていたが、
それでも決心を覆すことは出来なかった。
 ――決闘を終えた直後にまで話は遡るが、控え室に戻ったアルフレッドは仲間たちを見回して敗北を陳謝し、
続けて今後の展望を打ち明けた。
 早晩、佐志へと引き上げる。本拠地にて体勢を整えた上で逆転への秘策を自らが主導すると決意表明したのだ。
草の根運動になるかも知れないが、エルンストの面前にて披露することの叶わなかった秘策は必ず実現させる、と。
 己の練り上げた秘策には、アルフレッドも絶対的な自信を持っている。
 どうにかして決心を覆せないかと頭を捻っていたブンカンを相手に、
「連絡は密に取り合おう。俺たちの行動は必ずお前たちのの益になる」とまで言い切ったのは、
形勢逆転が可能と言う自負があったればこそ。
軍議への未練は断ち切っても、ギルガメシュ打倒を実現し得る秘策への意欲は失せていなかった。
 しかし、これは仲間たちも易々とは承知出来ない。
反攻への意欲を失っていないと宣言しておきながら反ギルガメシュの連合軍から離脱するとは、明らかに矛盾しているではないか。
 アルフレッドの判断を尊重しようと考え、これを鈍らせるような発言を控えていたニコラスも、
「そこまで言うなら、やっぱり作戦会議に出るべきだぜ」とさすがに口を挟んでしまった。

「お前がなんでそんな風に胸張ってんのかわからねぇけどよ、ギルガメシュと戦い続けるって言うなら、折角のお誘いを断る理由もねぇだろ。
そもそも、オレらだけであいつらに勝てるのか? まずムリだろ?」

 ジョゼフの隣に立って言い諭そうとするニコラスだったが、これもまた手応えはなかった。

「大軍には大軍の、小勢には小勢なりのやり方がある。所詮は小物に過ぎない俺たちの身の丈にあった作戦を取るんだ。
それなら大軍勢と話し合っても無意味だろう? 大軍勢ならではのセオリーを頭に入れてしまうと
小勢ならではの機動力や小回りが損なわれ、かえって混乱を招く」

 その尤もらしい抗弁にニコラスは肩を竦め、隣で聞いていたジョゼフはアルフレッドに屈むよう促し、
これに従って上体を折り曲げた彼の脳天へと思い切り拳骨を振り落とした。

 脳にまで達するような痛みに身悶えるアルフレッドは、それでも頑なに軍議への参加を拒否し続けている。
その理由は幾つかあるのだが、第一にはエルンストへの恩返しがあった。
 雨垂れの決闘の最後、崩壊寸前にあった自分とフェイの仲を取り成そうとエルンストは気遣ってくれた。
言わば、その逆回しだ。エルンストとフェイの関係を拗れさせないようアルフレッドなりに配慮を思案した末、
一切の甘言を断り、敗者としてハンガイ・オルスを去ろうと決意に至ったのである。
 エルンストに恩を返し、フェイに勝者と敗者の筋を通そうとしているのだ。
言葉の裏の真意はともかく、フェイが決闘の勝利者である事実に間違いはなく、
勝利者の献策こそエルンストや連合軍の趨勢に反映されるべきとも考えていた。
何よりもこの筋運びを採るほうが理に適っている。
 敗者の分際で軍議にしゃしゃり出て、いけしゃあしゃあと大口を叩こうものなら、必ずや全軍の士気を下げるだろう。

「……ギルガメシュとの戦いに於ける軍師は、君を置いて他にはいないと御屋形様は思し召しなのだよ」
「な――……ッ」

 意固地とも言える程に軍議への出席要請を断り続けるアルフレッドの首をようやっと縦に振らせたのは、
やはりエルンストの力であった。

「御屋形様のご意思をもっと汲んでやってくれ。人の心の機微を見抜くのも、我々のような軍師格の役目だろう?」
「しかし、俺は……」
「何も御屋形様とて君の献策を許したわけではないよ。君の言う通り、あれほど厳しく罵った相手から献策を受けようものなら、
御屋形様は主将としての立場を失う。我々としても、二枚舌などと不本意な評価を頂戴するわけにはいかないからね」
「俺を参考人として呼ぶと言うことか?」

 アルフレッドから向けられる真摯な眼差しへ応えるように、ブンカンは深々と頷いて見せた。

「フェイ・ブランドール・カスケイドの献策を全て受け入れる訳にはいかないだろうな。
……君には申し訳ないけれど、彼に戦況を逆転し得るだけの計略が思いつくとは思えない。
よく言うだろう? 戦士として有能な人間が、指揮官として有能とは限らない、と」
「兄さんの策を基に細かい戦略・戦術を練り上げろと言うのか……」
「素案に磨きをかけ、完璧なレベルにまで高めるのも軍師の役目。
そのプロセスの中で君の意見や考えが織り込まれても誰も文句は言わんよ。何しろこれはカスケイドの策なのだからな」
 
 薄い笑みを浮かべつつウィンクを披露するブンカンだったが、穏やかな物腰の裏には最強馬軍の軍師らしい強かさ、
底知れない恐ろしさが確実に潜んでおり、アルフレッドも頭を掻くしかなかった。

「……随分と姑息だな。俺だって憎まれ役は好かないぞ」
「ならば、君の策を私に話せばいい。仲介にも代弁者にもなろう」
「人の策を横取りして功名を挙げ、それが末代まで笑い種にされた武将を物の本で読んだことがあるぞ」
「勝つ為なら笑い者でも蛇蠍でも構わんさ。それに安心しなさい。御屋形様は第一の功名が誰の物かもちゃんと見極めてくださるよ」

 そのとき、アルフレッドの脳裏にエルンストと初めて対面したときの記憶(おもいで)が蘇った。
群狼夜戦とも呼ばれる馬軍最大の内乱劇、その決着の折にアルフレッドは馬軍の覇者と知己を得たのだ。
 この内乱劇を食い物にし、佐志に犠牲が出ることも厭わない悪徳商人への対抗措置を講じたアルフレッドは、
結果的にエルンストに楯突くことになってしまった。成り行きとは言え、群狼夜戦に混乱を招き、
エルンスト軍の進撃を鈍らせたのである。このようなことは、戦場に於いて万死に値する行為であった。
 ところが、本陣に引き据えられたアルフレッドを待っていたのは、断罪どころか、緻密な作戦への評価。
しかも、エルンストはテムグ・テングリ群狼領への仕官まで持ちかけたのである。
単なる将士ではなく軍師として迎えたいと手を差し伸べてくれたこともある。
 出自や貴賎などエルンストの前では何の意味も持たない。
ひとりの人間に備わった才覚や人格、将来の可能性をも全く見通せる慧眼でもって彼は評価と判断を下すのだった。
 結局、仕官の誘いは断ってしまったが、エルンストが真の王者の器であることをアルフレッドは微塵も疑ってはいなかった。

(……エルンスト)

 真の王者として認めた相手から軍師として働くよう誘われた瞬間の昂ぶりを、今でもアルフレッドは鮮明に振り返ることが出来る。
 そのエルンストに、「ギルガメシュとの戦いに於ける軍師はアルフレッドを置いて他にはいないと」とまで言われて
心が弾まないわけがなかった。ブンカンを経由して伝えられた言葉に発奮しようとする自分を
必死になって押し殺してきたものの、先程より加速する一方の心臓の早鐘は、今や限界を超えようとしていた。
この場合の限界とは、内なる思いの発露である。

「我々の仕事は武辺のように目に見えて分かり易いものではない。強い風が吹けば、周到な準備も蹴散らされてしまう。
評価のしようがない役目と言えるな、軍師と言うものは」
「だが、エルンストは……ッ!」
「――そうだ。目に見えない才能を認め、存分に使ってくださる。そのような大将へお仕えするのが軍師の本懐。
……そうではないかな、ライアン君?」

 最早、アルフレッドは心の奥底からこみ上げてくる熱い衝動を抑え切れなくなっていた。

(軍師の本懐――)

 彼の軍略を認めてくれたのは、十余年の生涯の中でエルンストが初めてである。
 しかも、だ。仕官の誘いを断られた後もエルンストはアルフレッドの歩みを常に見守っていた。
あるときに厳しく接して成長を促し、またあるときはフェイとの関係が険悪になるのも厭わずに庇い立て――
出会ったときから変わらずに期待をかけてくれている。

(エルンスト……ッ!)

 アカデミー在学中に戦略シミュレーションの成績を誉めてくれた教官は何人もいたが、エルンストはそれらとは全く違う。
余人には遠く及ばぬような雲上にあって、その頂きから手を差し伸べてくれている――
アルフレッドはそのような感慨と感動を覚えていた。
 ブンカンの言葉ではないが、自分の正しく才覚を評価し、その力を求めてくれるリーダーへ尽くすことは、何にも換え難い喜びなのだ。
その喜びを「軍師の本懐」と称したブンカンの気持ちが、アルフレッドには誰よりも理解できた。

 エルンスト・ドルジ・パラッシュとは、そのような傑物なのである。
 巨大帝国でありながら大規模な内乱にも見舞われず、今日まで平穏に統治を維持出来たのは、
寛大な善政を徹底してきた実績もさることながら、エルンストのカリスマ性によるところも大きい。
 テムグ・テングリ群狼領にとってエルンストの存在とは、領土と領民を導く太陽そのものであり、
彼が玉座を退くなどと言う未来図は仮の想定としても有り得なかった。
それは世界の終焉をも意味するからである。
 エルンストなくして世界の行方に光を見出せない人々の思いが、今のアルフレッドには痛い程に理解(わか)った。

「一世一代の勝負どころじゃないかな。ここで断ったら男が廃るぞ」

 最後の一歩を踏み止まっているアルフレッドの背中を押したのは、親友を標榜するネイサンである。
雨垂れの決闘に際して拵えられた応援旗を取り出し、「ドンと行けよ。僕らはどこまでも随いてくからさ」と
天井ギリギリに掲げて見せた。

「尻を叩いてくれるのは嬉しいが、室内で幟を振り回すのは危ないぞ、ネイト」
「重い尻を引っ叩くんだから、これくらい勢いがなきゃダメなんだよ。それに何か壊しちゃったら僕が引き取るしね! 
弁償代以上のウハウハをゲットしちゃうぜぇ〜」
「そう言う発言は俺たちの信用までガタ落ちになるから慎んでくれ」
「ちぇ〜、親友(ダチ)甲斐がないなぁ、アルは。旗が当たりそうな場所に調度品置いておくほうが悪いとかさ、
過失を相手に擦り付けられる抜け道を教えてくれるとか無いの?」
「親友に詐欺の片棒でも担げと言うのか。お前もなかなか非道だな」

 そして、ネイサンの後には、たくさんの仲間が続く。結局、全員から順繰りに激励されたアルフレッドは、
カジャムやデュガリらに取り囲まれるエルンストの姿を瞼の裏に思い描いた。
 彼もまた大きな決断を下すときに頼りがいのある仲間たちから鼓舞されるのだろうか――
俄かに瞑目し、想像を膨らませていたアルフレッドの額をセフィが指でもって弾いた。

「何を浸っているんですか。私たちの手で未来を変えるのでしょう? ……もう二度と立ち止まらず、走り出すとしましょう」

 額を摩りながら目を開いたアルフレッドは、正面に立つセフィの悪戯っぽい面持ちや、
彼の肩越しに見えるニコラス、ジョゼフの微笑に釣られて、思わず笑気を噴き出してしまった。
 未来を自分たちの手で変えようと宣言したのは、他ならぬアルフレッド自身である。
 やがて迎えるBのエンディニオンの混迷を防ぐ為とは雖も、ジューダス・ローブとして数多くのテロ事件を起こしてきた。
犯した罪を自らの生害にて贖うと思い詰めていたセフィは、アルフレッドのその言葉に救われ、
“未知なる明日”への挑戦と言う新たな道に踏み込む覚悟を決めたのだ。
 セフィ本人から件の言葉を復唱されたアルフレッドは、自分で発したとは思えない程に熱を帯びた雄弁が照れ臭くて仕方なかった。

「――アルフレッド殿! 源さんからの朗報にござるぞッ! やはり、我らの命運は尽きてはござらんッ!」

 そのとき、モバイル片手に退出していった守孝が、アルフレッドの語った未知なる明日への挑戦を
後押しするような報告を携えて戻ってきた。
 シェルクザールの戦災者のこと、スカッド・フリーダムによる難民保護の対策、更には戦後を見越したマユの活動など、
出発した後に佐志で起こった様々な出来事が、この機(とき)に初めて一行の耳に入ったのである。
その報告が守孝より為された瞬間、たちまち控え室は破裂せんばかりの大歓声に包まれた。
皆、隣り合わせた仲間と抱擁し、望外の新展開を喜び合っている。
 ムルグなどは甲高い鳴き声を上げつつ、室内を旋回し始めた。
その直下では、ローガンに抱きついたハーヴェストが自身の軽率な行動を悔やみ、
猛省する意味も込めて彼の鳩尾に拳を突き入れる姿も見られたが、これは一つのお約束と言えよう。
 縁の深いシェルクザールの人々が全滅を免れたと知って安堵したフィーナは、
次いでジョゼフとセフィの手を取り、マユの無事を喜んだ。
 ルナゲイト征圧後、マユの生存は早々に確認されており、フィーナにもその情報は届けられた筈なのだが、
五体満足な姿を自分の両親が見届けたことで、初めて心の底から安心したのであろう。
顔を見合わせたジョゼフとセフィは、歓喜の赴くままに飛び跳ねるフィーナへ苦笑いするばかりだった。
 孫娘を思ってくれるフィーナの優しさに相好を崩したジョゼフは、やおら皺くちゃな手を伸ばし、
彼女の頭を「この大一番が終われば会えるじゃろうて。暫し落ち着かんか」と撫で付けてやった。

 熱砂の戦い――両帝会戦には敗れた。決して安穏としていられるような状況ではない。
だが、輝ける未来に向かって、確実に多くの意思が動いている。
“未知なる明日”を掴む為に自分に出来ることへ全身全霊を注ごうとしている。
 世界を取り巻く大いなる流れを、心の片隅にこびり付いた躊躇や蟠りを理由に断ち切って良いわけがなかった。
 エルンストから差し伸べられた手を取ってしまえば、フェイに対する筋は通せなくなるだろう。
だが、アルフレッドは――いや、エンディニオンに住まう全ての生命が、後戻りの許されない場所に立っているのだ。

(俺にしか出来ないことが、そこにはある……!)

 誰かに強要されたから立つのではない。皆の、本当に大勢の人々に励まされたからこそ、
アルフレッドは人生の岐路とも言うべき重大な決断を下す勇気を持ち得たのである。

「……わかった、やってみよう。微力ながら助勢したい」
「引き受けてくれて助かったよ。もしも本当に断られたら、子供の使いになってしまうところだった」

 屈託なく仲間と頷き合うアルフレッドを眩しそうに見つめていたブンカンは、
長らく待たされた最良の返答を首肯でもって歓迎し、結束を確かめるように握手を求めた。
 固く――本当に固くブンカンと握手を交わしたアルフレッドは、次いで数名の仲間に軍議への同行を頼んだ。
彼が選抜したのは、ジョゼフ、守孝、レイチェル、ハーヴェスト、セフィの五人である。
 すっかり全員で議場に乗り込むつもりでいたルディアは、自分が篩いにかけられたことを不服とし、
「こんちくしょう、ルディアのカリスマに恐れをなしてるの! ルディアに自分の活躍を食われると思ってぇ!」などと
口先を尖らせて抗議したが、こればかりは仕方あるまい。
 大一番への参加を許されなかったルディアが頬を膨らませる一方、
守孝たちと軽い打ち合わせを行うアルフレッドの後ろに回りこんだニコラスは、
一切の迷いを拭い去り、戦う決意が漲るその背中を左手でもって突き押した。
鋼鉄のグローブで固められていない、生身の温もりを伝えられる左手で。

「切り込み隊長はお前に任せるぜ、アル」
「ああ、俺たちの勝負は始まったばかりだ、ラス」

 ふと馴染みのある温もりを感じ、振り返った肩越しにニコラスと真紅の瞳を重ね合わせたアルフレッドは、
親友の激励に力強く応じると、ついに控え室の扉を開いた。
 それきり振り返ることなく、ブンカンと肩を並べて軍議の場へと向かっていくアルフレッドを見送りながら、
マリスは「思いがけない伏兵がいたものですわね」と溜息を一つばかり漏らした。

(……軍師と言うのは、アルちゃんにとって一番の殺し文句なのかも知れませんわね……)

 最愛の彼を煩わせるものが消え失せたのは大変に喜ばしいのだが、
それを為したのが自分でなかったことにマリスは軽い悔しさを覚えていた。
嫉妬と呼べるほど深刻なものではないにせよ、自分以外の人間がアルフレッドを、
それも彼にとって極めて重大な岐路にあたって支えると言うのは、“恋人”としてはやはり面白くない。
 自分でもおかしな話だと思うのだが、アルフレッドがエルンストへの信頼と敬意を深める程に
マリスの心には何とも表しようのない靄がかかっていくのである。

(……それがフィーナさんでなかったことは、不幸中の幸いと言うものでしょうか――)

 せめてもの救いと言えば、アルフレッドの闘志に再び火を点けたのがフィーナでなかったことか。
 当のフィーナは、鼻血を垂れ流しながら「主従の契りってのはやっぱり王道だよねッ!」と寝言を抜かし、
間近に在ったセフィやネイサンをドン引きさせている。

(……何を不安がることがあるの? ……アルちゃんとフィーナさんは只の兄妹なのだから……。
わたくしとアルちゃんの間には何人も立ち入れないのよ? 聖域を侵すものなどいるはずもないのに……)

 鼻の穴に詰め込んだティッシュを数秒と経たない内に赤黒く染め上げるフィーナなど、
最早、論外な気がしないでもないのだが、それでもマリスの瞳は猜疑の揺らぎを止められない。

(――なのに、どうしてわたくしはこんなにもフィーナさんを……っ)

 結局、タスクに見咎められるまでの間、マリスはずっとフィーナを陰鬱とした眼差しで見つめ続けていた。





 ラドクリフと別れたシェインがアルフレッドと遭遇したのは、十字路と控え室とを繋ぐ回廊半ばであった。
 遅ればせながら決闘の行方を見届けようと闘技場に足を向けたシェインは、
引き上げてくる将兵に三つ巴の争いの顛末を尋ね、大急ぎで控え室に向かっていたのである。
 訊けば、アルフレッドは公衆の面前で耐え難い恥辱を受けたと言うではないか。
決闘自体には勝利したものの、状況を考慮すれば、献策は絶望的としか言いようがない。
そのような圧迫の中、またしても兄貴分が暴走するのではないかとシェインは心配で堪らなかったのだ。
 やがて、回廊半ばにてアルフレッドやブンカンたちと落ち合ったシェインは、
兄貴分の面を確認し、崩れ落ちるようにして尻餅をついてしまった。
 長い付き合いだけに、アルフレッドにはこの弟分が何を案じ、額に汗して全力疾走してきたのか、すぐさまに察せられた。
ほんの少しだけ困ったような表情を曇らせた彼は、肩で息をするシェインに向かって
「少しは俺を信用してくれ」と手を差し伸べた。
 アルフレッドの手を取って立ち上がったシェインは、尻餅をついた拍子に放り出してしまったブロードソードを守孝より受け取ると、
兄貴分に対してこれ見よがしに鼻を鳴らした。「アル兄ィがンなこと言っても、何の説得力もないぜ」と減らず口も添えて、だ。
 こうなると、もう売り言葉に買い言葉である。
説得力と言うものが何処から生じるか、裁判に於ける証拠調べを一例として説明していくアルフレッドと、
これに可愛げのない反論でやり返すシェインを、ブンカンは呆れた様子で見比べた。
生真面目に対比させるまでもなく、両者の言い争いは実に子どもじみている。
群狼領の軍師が並行するのも無理からぬ話であろう。
 一方のジョゼフには若者たちの口喧嘩が痛快に聞こえるようで、手拍子まで付けて双方を応援している。

「シェインの言うたこと、しかと胸に留め置くのじゃぞ。お主は融通が利かぬところがある。
強固な意志の持ち主とは、得てして壊れ易く出来ておるのじゃ。しなやかになるよう心がけておれ」
「こいつを調子に乗らせるようなことを言わないでください。ただでさえ、フツの影響が酷くなっているのに」
「御老……公……」

 矍鑠と破顔するジョゼフを振り返ったシェインは、亡霊の如くフェイの幻像(まぼろし)を御老公の背後に思い浮かべてしまい、
今まさに飛び出しかけていた言葉の一切を飲み込んだ。
 ジョゼフの背後にて揺らめくその幻像(まぼろし)とは、セント・カノンに所在するルナゲイト家の別荘地で垣間見た姿――
英雄としてのプライドも、兄弟分との絆もズタズタに引き裂かれ、感情(こころ)が死に絶えた、生ける屍さながらの姿である。
 セント・カノンでフェイに何があったのか。いくら尋ねても誰も何も答えてはくれなかった。
ひとつだけ確かなのは、ジョゼフたちと何事か話し合った直後に様子が豹変したと言うことだ。
 そのときの彼は、何の罪もないルディアを突き飛ばし、
十年来の付き合いがあった筈のムルグにまで警戒を強いるような恐怖を全身に纏っていた。
見る者を飲み込む程におぞましく、また際限なく膨らんでいく恐怖を、だ。
 断定に到達し得る判断材料も少なく、また、大人の事情にも理解が及ばない為、
アルフレッドやジョゼフに対してフェイとの確執を問い質すことだけは避けてきた。
これを訊ねることが不要の諍いを起こす火種になると子供心に理解していたからだ。

「フェイ兄ィだって、同じじゃないかな。だから、あんなことに……」

 それなのに、フェイの幻像(まぼろし)をジョゼフの背後に視た途端、これまで憚ってきた一言がシェインの口から漏れ出してしまった。
これまで懸命に抑え込んできた感情(もの)が、幻像(まぼろし)との邂逅をきっかけに決壊してしまった。
 すぐさまシェインも自分の軽はずみな失言に気付いた。言ってはならないことを口にしてしまったと激しく後悔もした。
しかし、一度、吐露したことを撤回できる程に大人でなければ、器用でもない。

「ボクなんか何の力もないガキだし、知らないことやわからないことだってたくさんあるけどさ、……今がどう言うときなのかはわかるよ。
みんなで力を合わせなきゃならないときじゃん。ふたつのエンディニオンとか、そーゆーのも全部取っ払って、
ひとつにまとまろうってときに仲間同士でケンカしてたら、あいつら笑われちゃうよ」

 今こそ最後のチャンスと自分を奮い立たせたシェインは、呆気に取られて固まってしまったジョゼフへ儚い希望をぶつけていった。
誰だって親しい者同士のいがみ合いなど見たくはないのだ。

「いつか必ず手を取り合おうって約束したんだ、向こうのエンディニオンの友達に。
それってさ、ボクだけじゃ意味がないんだよ。たくさんのみんなが、同じように握手出来るようでなきゃダメなんだ。
そんなときに、ボクらは身内の中で睨み合ってる。……それじゃダメだ。ダメなんだって思うんだ」
「……う、む……」

 よもやここで、しかもシェインから“怨敵”との和解を求められるとは夢にも思わなかったジョゼフは、
口を真一文字に引き締め、人並み外れて逞しい両の眉毛を困ったように垂れ下げてしまった。
 いつもの老獪さは何処へやら。年少のシェインを相手にして、歴戦の新聞王はそれ以外に為す術がなかった。
 シェインからはずっと真摯な眼差しを向けられている。これを無碍に切り捨てることが、ジョゼフにはどうしても憚られたのだ。
例えば、アルフレッドやソニエと相対する場合には、フェイにまつわる醜聞や弱点を並べ立てて論破を試みるだろう。
それこそ、フェイと言う存在を全否定することも厭わない。
 だが、同郷の兄貴分への感情(おもい)ひとつで向かってくる幼い少年に同じことを出来るだろうか。
シェインより投げかけられる言葉は、確かに幼稚ではある。世間を知らないからこそ感情(おもい)だけを優先させられるとも言える。
それだけに、世間を知り、老練されたジョゼフの心には深々と突き刺さるのだ。
若者を愛で、育むことへ生き甲斐を感じているだけに、純粋無垢なシェインの言行は痛烈であった。

「……善処する、と答えておこうかの。お主にまで要らぬ心労をかけておったとは、ジョゼフ一生の不覚だわえ。
成る程、朋輩との足並みすら揃えられぬ身では、将来(さき)の展望を語ってもただの絵空事じゃ」
「御老公! それじゃあ――」
「孫娘に愛想を尽かされるのも面白うない。いずれ機を見て歩み寄ろう」

 自覚出来る程の作り笑いを満面に貼り付けたジョゼフに対して、シェインは全身で喜びを表している。
複雑な心境を抱えたまま立ち尽くすアルフレッドに飛びつき、無理やりハイタッチをせがむその顔は、
夜天を焦がす星のように輝いていた。
 守孝もハーヴェストも、シェインの勇気ある行動に深く感動し、歓喜を分かち合うかのようにハイタッチへ応じている。
ハーヴェストなどはアルフレッドを捕まえてその胸板を叩き、シェインを見習うようにと教育的指導まで行う有様であった。
 履行の可能性が絶無に等しい口約束へガッツポーズを作るシェインが痛ましく思えてならず、とうとうジョゼフは目を背けてしまった。
自身の半分も生きていないような少年に心を乱され、揺るがされるとは、情報を統べる新聞王とて読み切れなかったらしい。
 ジョゼフの心中を推し量ったセフィは、そっと彼の傍らに寄り添い、「私はジョゼフ様を支持しますよ」と耳打ちした。

「シェイン君の言うことは、確かに綺麗です。彼が語るような理想が本当に実現出来るのなら、これほど素晴らしいことはない。
……けれど、理想は理想。彼には現実と言う着地点が見えてはいません」
「抜け抜けと言いおってからに。道化の仮面を脱いだ後も性根は変わらぬか」
「自分でも驚くくらい心変わりしたつもりですが、……目的は今も昔も一緒と言うことですよ。
理想と言う博打を打つ為に現実を差し出すなんて真似は、私には出来ません」
「未来予測をトラウムに持っておるお主が言うと、一段と皮肉じゃな」
「ひどく現実的な物ですよ、ラプラスの幻叡は」

 セフィの物言いは、どこかラトクにも似ている。この場に彼が居合わせたなら、おそらく同じようなことを言っただろう。
 しかし、ジョゼフが眉を顰めることはついぞなかった。人生にくたびれ始めているラトクとは異なり、
セフィの声には嫌味の色が感じられなかった。彼は彼なりにジョゼフの心身を真剣に案じているのだ。

(……そうじゃ、甘い理想の前に、ワシらが生きる現実を差し出すことは出来ぬ……)

 急ぐようにブンカンから促されてシェインと別れた後もジョゼフの心は晴れなかった。
いずれは彼の期待を裏切ることになるのだ。いや、セフィの言うように最初から取り合うつもりもなかった。
 回廊にて交わした口約束は、夢想的な子供を安心させる為の誤魔化しであり、
また、フェイ・ブランドール・カスケイドなど誰ひとりとして必要としていないと思い知ったとき、
明るく輝いたシェインの面は、果たしてどのように歪むのか――その瞬間を想像すると、さしものジョゼフも胸が軋んだ。
 新聞王にしては珍しい感情の揺らぎや、シェインがもたらした波紋を少し離れた位置から見守っていたブンカンは、
人知れず、「朋輩との足並み、か……」と呟き、次いで寂しげに目を伏せた。




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