10.異邦人たちの夜(後編)

「――ああ、うん。分かってるよ。と言うか、オレより自分の心配をしろって。……おやすみ。すぐまた会えるよ」

 送話口の向こうの相手へ苦笑混じりに囁き、ニコラスはモバイルの通話終了ボタンを押した。
 電話を掛けていた相手はミストである。フォテーリ家のロッジを出た後、
片手間潰しにロレインとネルソンの話を振り返っていたのだが、
その内、無性にミストの声が聞きたくなり、起きているかどうかをメールで確認したのだ。
 それが深夜一時を少し過ぎた頃である。間もなくミストのほうから電話が入り、暫く話し込んでいたのだった。
 ヒューとレイチェルが不在にしている為、ミストは友人のミルクシスルの家で寝泊りをしている。
親友を愛してやまないミルクシスルに用心の名目で引き摺り込まれたそうだ。
 そのミストが真夜中にニコラスと電話をしていたと知れば、ミルクシスルの機嫌は確実に最悪なものとなる。
自分から連絡をしておいておかしな話だが、佐志に帰ってからの報復(こと)を思うと、
ほんの少しだけニコラスには憂鬱だった。
 無論、ミストの声からは憂鬱を吹き飛ばすだけの充足感を受け取っている。
 佐志に暮らす子どもたちを相手に読み聞かせしている創作童話も好評のようだ。
『太陽を背負った銀騎士と月のさだめの流民』と言う題名のファンタジーである。
 王道的な冒険活劇と言うこともあって男の子たちは作品の世界に自分を没入させ、
女の子たちは作中に登場する美麗な兄弟――古い言葉で『太陽』と『月』を意味する名を持つらしい――に夢中とのこと。
 性別を問わず、幅広い層から支持されるとは、まさしく非凡な文才と言えよう。

「――何かあったのですか? こんな遅い時間に連絡をくれるなんて珍しいですよね」

 互いの近況報告を終えた直後にミストから向けられたその問い掛けには、ニコラスは返答に窮してしまった。
 さすがに「お前の声を聞きたかったんだ」とは言い出せず、迷いに迷った末、「ちょっとヒマな時間が出来ちまってさ」と
口から出任せで誤魔化すしかなかった。
 尤も、受話口からは嬉しそうな笑い声が聞こえてきたので、もしかすると内に隠した本心は見透かされていたのかも知れない。
通話を終えた今も頬の火照りは続いていた。

(……あんなもん見せられて平気でなんかいられるかよ……)

 熱を帯びているのは頬だけではない。ネルソンとロレインの話を聞かされてからと言うもの、
心に灯った火が留まることなく燃え続けているのだ。
 階級制度、即ち身分の差と言う旧態依然としたしきたりによって引き裂かれながらも、
ネルソンは愛を貫くべく勇気を振り絞った。貴族階級の居住区から駆け去ったとき、己の出自と特権を捨てた筈である。
 彼と同じ立場になったとき、自分も情熱的に動けるだろうか。勇気ある一歩を踏み出せるだろうか。
ミストとは――いつでも支えてくれる彼女とは、階級どころでなく生まれ育った世界(エンディニオン)すら異なっているのだ。
 モバイルから聞こえてくる穏やかな声も、愛らしい文面で綴られたメールも、その全てがニコラスの心を支えている。
 彼は左手首にミストから贈られたアクセサリーを身に着けていた。色とりどりのビーズを繋いだブレスレットである。
中心に位置する銀細工は護符の一種であり、ニコラスを災いから守って欲しいと言うミストの願いが込められていた。
 鷲の頭部を象った護符は、ミストの想いへ応えるかのようにニコラスを守護し、彼の危難を悉く跳ね除けてきたのだ。
 そして、その護符を見つめるニコラスの口からは熱い吐息が滑り落ちていく。

「へぇ〜、ミストちゃんとは面白おかしくやってるみてーじゃねぇか。ニクいねェ、この色男!」

 遠く彼方の少女へと想いを馳せている最中に冷やかしの帥激bドの後姿が在る。
幸せな時間を顧みることなく、ただひたすら血塗られた道を突き進もうとする親友の姿が。

「……こんな風にはしゃぐのも忘れて、ギルガメシュを倒すことに全てを懸けるバカな軍師がいるんだ。
そいつを放っておけねぇよ……ッ!」

 両帝会戦を経て、アルフレッドは復讐の狂気から解き放たれはした――が、戦いが終息したわけではない。
むしろ、彼を取り巻く争乱の嵐は激化の一途を辿っていると言えよう。
史上最大の作戦を立案した責任を果たすべく、今まで以上に無理を重ねるのは明白であった。
 誰かが傍に随いていなければ、どこかで必ずアルフレッドの心は折れてしまうだろう。
フィーナやマリスも支えにはなるだろう。しかし、それだけで堪え切れるほどアルフレッドが背負った重責は甘くはない。
彼女らにも出来ない役割を担うのが己の使命だと、ニコラスは信じて疑わなかった。
 その“軍師”は、現在、駐屯地の様子を探りに出掛けている。万が一、武力衝突へ発展した場合を想定し、
難民キャンプを守りつつ敵兵を全滅させる方策を練り上げるとのことである。

「ニコちゃんってば昔から苦労ばっかり背負(しょ)い込むよな。生まれ付いての性質(タチ)ってヤツか? 
円ハゲになっても知らねぇぜ。アルと一緒にツインハゲチャビン結成かぁ? あいつもハゲるタイプだぜ!」
「苦労の半分はお前の所為だろ。アルはお前みたいに手が掛からねぇよ」
「ど〜かなぁ〜? アルってすっげぇ面倒くせーだろ? その内、俺サマのことが恋しくなるんじゃねーの?」
「ねぇよ、バカ。お前を押し付けちまって、アイルに申し訳ねぇくらいだ」

 決意を新たにするニコラスの肩を、“腐れ縁”のダイナソーが叩いた。すかさずニコラスも相棒の頭を張り倒す。
 腐れ縁同士の喜劇めいたやり取りを、アイルは微笑ましそうに見守っていた。





 心もとない懐中電灯を頼りにアルフレッドは森の中を進んでいた。
幾重にも折り重なる枝葉に遮蔽されている為、星明りもここには届かない。
しかも、だ。ギルガメシュ兵に勘付かれないよう注意を配る必要があり、実質的には足元しか照らすことが出来ない。
「一寸先は闇」と言う諺があるが、まさしくそのような状況と言うわけであった。
 だが、目指すべき場所――ギルガメシュの駐屯地を見失うと言うことはない。
そこは煌々と夜間照明が点灯されており、深い宵闇に包まれたワーズワースの中に在って別世界の様相である。
 CUBEによって無尽蔵に電力を供給し続けられるからこそ、夜を昼に変えてしまえるような光を放っていられるのだ。
 目的地に程近いところで歩みを止めたアルフレッドは、木立の向こうに見える兵営の様子を舐(ねぶ)るように観察していく。
視覚から情報を取り込みつつ、頭の中では難民たちの居住区と駐屯地の位置関係などを思い浮かべていた。
 アバーラインの依頼を引き受けたわけではないが、現時点で駐屯軍と戦闘に突入した場合、
如何に効率よく敵を全滅させるか、アルフレッドはその策を思料し続けているのだ。
 勿論、即時の武力衝突は最悪のシナリオであり、考えたくもない事態だ――が、
だからと言って備えを怠って良いと言う理由にはならない。起きて欲しくない事態こそ常に考慮しておくべきなのである。
 足元に落ちていた木の枝を拾い上げると、オーケストラの指揮者の如く先端でもって駐屯地を指した。

(抗う力を奪われた人たちには難攻不落の砦にしか見えないだろうが、内実は大したものでもない。
ここまで隙だらけだと、逆に罠ではないかと疑ってしまいそうになるな……)

 駐屯軍はワーズワースに専用の通路を拓いており、そこから出入りしている。
兵営まで攻め込まれた際には件の通路から退却することだろう。
 攻め入る側にとっては、そこが狙い目である。駐屯軍を敢えてその通路まで追い込み、
予め待機させておいた伏兵でもって奇襲を図るのだ。狭い通路に詰め込まれた敵兵は身動きすら満足に取れなくなり、
恐慌状態に陥る。そこを挟み撃ちに攻め滅ぼすと言う算段であった。
 敵兵の追い込みにヒューの『ダンス・ウィズ・コヨーテ』を投入すれば、より大きな効果を得られる筈である。
全く同じ顔が大挙する様は、相手に計り知れない心理的圧迫を与えるのだ。
ダンス・ウィズ・コヨーテとは最大一〇〇人まで分身を作り出せるトラウムだった。
 攻め寄せられた際に正面突破を狙えるほどの兵力を駐屯軍は有してはいない。
そもそも、ワーズワースで戦闘が発生することさえ想定していないように思えた。
 難民からはMANAを取り上げてある。この地にギルガメシュを脅かすような者は存在し得ない――
ヴィンセントの話によれば、責任者のベイカーはそのように驕り昂ぶっているそうだ。
 その慢心が崩れ落ちたときこそ、駐屯軍の破滅である。
ハブール難民ならいざ知らず、戦力を万全に整えた集団の前には一堪りもあるまい。

 このようにして駐屯地を攻め落とす策を熟考するアルフレッドであったが、同時に周辺への警戒も忘れていない。
背後から忍び寄る気配と物音は、その距離まで正確に把握している。
互いの距離が十歩程度のところまで狭まったとき、振り向きもせず背中越しに
「人をおどかしたいなら、もっと上手くやることだな」と鋭く言い放った。

「なんだよ、バレバレか」

 忍び寄ってきたのはダイジロウである。さしものアルフレッドも視認するまでは個人の特定は出来なかったが、
殺気を感じない以上は敵ではなく、敵ではないと分かっていれば迎撃体勢を取る必要もあるまい。
 当のダイジロウは「いつまでも帰ってこないから心配しちまったぜ」と苦笑いしている。
どうやら、大盛り上がりのローガンたちに代わってアルフレッドの様子を見に来たらしい。

「……はっきり言って尾行には向いていないな。探偵業は諦めろ。
どうしても生業にしたいのなら、うちの名探偵にでも弟子入りするんだな。見た目はアレだが、腕だけは確かだ」
「冗談。俺の専門は『マクガフィン・アルケミー(特異科学)』だぜ。推理や捜査なんてミステリー小説だけで十分だよ」

 ダイジロウが口にした『マクガフィン・アルケミー』なる学問の名にアルフレッドは首を傾げた。

「マクガフィン・アルケミー……? どこかで聴いたことがあるな――」
「マジかよ。こっちにもあんのか!」

 確かに聞き覚えのある学問だが、アルフレッドが知る限り、Bのエンディニオンにこれを取り扱う教育機関は存在しない。
別の場所、即ちAのエンディニオンの人間がその名を話していた――と振り返っている内に、
彼の脳裏にトキハの顔が浮かんだ。
 本人の口からであったか、それともニコラスやダイナソーからの伝聞であったのかは定かではないが、
トキハの専攻する分野が件のマクガフィン・アルケミーだった筈だ。

「――ああ、そうだ、想い出した。トキハの専攻だったな、マクガフィン・アルケミーは」
「“トキハ”って、……もしかして、トキハ・ウキザネか? お前さん、トキハのことを知ってんのか!?」
「それはこちらの台詞だ。なんだ、トキハと知り合いなのか」
「同じアレクサンダー大学だよ。あいつは通信制の学生で、こっちは院生だけどな。
熱心なヤツでよぉ、二ヶ月に一度くらい、遠くからわざわざプロフェッサーの研究室まで訪ねてくるんだ。
……そうか、お前さんもトキハのダチかよ」

 世間は狭いと言うか何と言うか、同じ分野を専攻しているだけでなく、ダイジロウはトキハと親しく付き合っているそうだ。
更に尋ねてみると、サークルも一緒であるとのこと。共に『神人研究会』なる集まりへ参加しているとダイジロウは語った。
無論、この輪の中にはテッドも含まれていた。
 アレクサンダー大学に所属するプロフェッサーのもと、ダイジロウは院生ながら研究助手を務めている。
 もうひとりの助手たるテッドはダイジロウと同い年であるが、一年浪人を経験しており、現在は大学四年生。
いずれは院生となってプロフェッサーの研究へ更に貢献することだろう。
 トキハは同大学の通信教育にてマクガフィン・アルケミーを学んでいた。
三人は課程の隔たりを超えて友人付き合いをしていると言うわけだ。

「ラスたちを見て気付かなかったのか? トキハと同じアルバトロス・カンパニーの職員なんだが……」
「生憎、俺は制服フェチじゃないんでね。どこの会社がどんな制服着てるかなんて分からねぇよ」
「誰もがクラップと同じってわけではないか――当たり前か……」
「佐志ってトコのお仲間かい? そんな名前の人は今回のメンツにはいなかったよな」
「いや、死んだ幼馴染みさ。ギルガメシュに殺されてしまったんだ」
「……いきなりヘビーな展開だな、おい……」

 ダイジロウが呻き声を以って難儀の度合いを物語ったように、アルフレッドの呟きは受け手を確実に困らせるものであった。
何しろ非業の死が直接的に関係する内容である。反応の仕方によっては相手を酷く傷付け兼ねないのだ。
迂闊な発言は絶対に許されなかった。
 案の定、ダイジロウは痛ましそうな表情で言葉を詰まらせている。

「……お前さんがギルガメシュと戦う理由は、その――ヤツらへの復讐……なのか?」
「む……」

 熟慮熟考を重ねた末、ようやく口を開いたダイジロウであったが、即妙な受け答えなど容易には生まれないもので、
今度はアルフレッドのほうが絶句する番だった。
 クラップを失った直後のような狂気に染まることはなくなったが、ギルガメシュへの怨嗟が完全に消失したわけではない。
やり場のない怒りは胸中にて埋火の如く黒煙を燻(くゆ)らせている。
 ギルガメシュを倒すと言うことは、それ自体が復讐の達成に他ならない――が、
怨敵の討滅よりも前に為さなくてはいけないことを、今のアルフレッドは確かに見据えている。
 妹のベルを無事のまま奪還することが、アルフレッドにとって、いや、ライアン家とシェインにとっての宿願であった。
憎悪に憑かれ、目に見えるものが歪んで映っていたとき、一度は見失ってしまったが、今の彼に曇りなどはない。

「妹さん、か……」

 実妹がギルガメシュに拉致されていることをアルフレッドより明かされたダイジロウは、
心底から湧き起こったやるせない思いを抑え切れず、視界に入った巨木へと左の掌を打ち付けた。
 太い枝に止まっていた鴉が一斉に目を覚まし、不吉な鳴き声を残して飛び立っていく。
駐屯地に勘付かれはしないかと身を強張らせるアルフレッドだったが、怠慢の極みにあるギルガメシュの兵士たちは、
不自然な時間に妙な場所から聞こえてきた大量の羽音さえも気留めようとはしなかった。
 騒ぎを起こしたダイジロウは「……すまねぇ」と一言だけ誤り、以降は苦しげに俯き続けている。
 その痛ましい様子を見つめている間に、アルフレッドもまたダイジロウの身の上を想い出した。
 ハンガイ・オルスにて初めて言葉を交わしたときにダイジロウより聞かされた話だ。
彼にはひとりの妹がいる。両親も祖父もいる。その肉親たちとダイジロウは、現在、離れ離れとなっており、
一切の連絡がつかない状況にあった。
 つまり、Aのエンディニオンに辿り着いているのかも分からないと言うことだ。
相棒のテッドも同じ境遇である。彼は年老いた養母の行方が捜し続けていた。
 クレオパトラも捜索に全力を傾けているのだが、その進捗状況はダイジロウの沈鬱な表情からも察せられよう。

「……ワーズワースの人たちと同じような目に遭ってなけりゃいいんだけどよ……」

 この地に於いては禁句ではないかと憚りながら、それでもダイジロウは己の“本音”を打ち明けずにはいられなかった。
 胸に秘めたまま口に出さずにいれば、自らを恥じ入ることにはならなかっただろう。
だが、一度抱いた醜い考えを隠匿しておくのは、偽善と言う名の仮面を被るのと同義であり、
沈黙を貫いて己の心を誤魔化していられるほど、ダイジロウは“大人”ではなかった。
 彼の心を激しく揺さ振っているだろう苦悩と葛藤を酌んだアルフレッドは、何も言わず彼の肩に手を置いた。
 もしかすると、ダイジロウのこの思いを人でなしのエゴなどと糾弾する者もいるかも知れない。
ハブール難民を不幸の指標に挙げて、妹の安寧を祈るのか、と。
 しかし、肉親への情をどうして否定出来ると言うのだろうか。ダイジロウの祈りと憂いは、人間らしい心の有様(ありよう)だ。
同じことを思う者はこの世界に数え切れない。
 そう信じればこそ、アルフレッドはワーズワースを蝕む禍根を捨て置くわけにはいかなかった。

「だから、俺はギルガメシュを倒さなければならない。あれだけ大仰に難民保護を謳っておきながら、
ヤツらは自分の同胞まで暴力で支配した。……こんなことが許されて良いわけがない」
「それを実現するのが、お前さんの立てた史上最大の作戦――ってワケか」
「俺ひとりでどうこう出来ることじゃない。勇気ある者が打ち揃って不当な支配に立ち向かうんだ。
……徳の意味さえ解さない愚か者に裁きの鉄槌を食らわせてやる」

 木の枝を使い、改めて駐屯地を指し示したアルフレッドの双眸には決意の光が宿っている。
在りし日に連合軍諸将へ秘策を説き聞かせたときと同じ輝きである。

「……合い言葉は勇気だ――」





 ワーズワース南東の外れには両階級共同の墓所が設けられている。
 墓石はなく、環境汚染によって枯れた木切れを組み合わせて拵えた墓標が隙間なく林立している。
 辺り一帯に充満した死臭は、風に乗ってワーズワース全体へと及んでいた。
その影響を最も受け易いのは、隣接する労働者階級の居住区である。
 死臭を発しているのは、墓所に埋葬された遺骸であった。
 難民たちは施設も物資も持たざる為、遺骸を荼毘に付すことも出来ず、
已む無く亡くなったままの状態で墓穴へと葬っているのだ――が、
これが生きている人間の心身を蝕む死臭の根源(みなもと)になってしまっていた。
 どうしようもない悪循環である。
 ヒューやセフィの調査によって判明した通り、飢餓や疲弊、病気による犠牲者も後を絶たない。
ここ一ヶ月の間だけでも一〇〇を超える墓標が新たに作られていた。
 即ち、死臭の濃度が過去最悪の事態を迎えたと言うことだ。
 遺骸すら満足に弔うことも叶わないハブール難民たちは、この区域を「仮墓地」と呼んでいる。
いずれは真っ当な方法で葬ってやりたい――切なる願いを込めた呼称ではあるのだが、
実現の可能性は絶無に等しく、それ故に死者への負い目を強く感じていた。
 やがてその負い目は人間の恐怖心を煽り立て、いつしか、犠牲者の怨霊が仮墓地に出現すると言う噂まで
流れるようになってしまった。これもまたワーズワースを苦しめる悪循環のひとつである。

 埋葬以外の目的で仮墓地へ足を運ぶような者は少ない。
森の只中と言っても開けた場所に所在する為、光も差し込み易い筈なのだが、日中でさえ人っ子ひとり寄り付こうとしなかった。
 ハブール難民は怨霊から呪い殺されることを恐れていた。
悲惨な形で土に埋めてしまったことを怨まれていると、誰もが信じ切っていった。
 現在時刻は午前三時。本当に怨霊が蠢くとすれば、まさしくこのような真夜中であろう。
 それ故、仮墓地は人目を憚る密会に打ってつけであった。
何にも遮られることなく星明りが差し込む為、森の中であっても互いの顔を確認出来る。これもまた好都合だ。
 死臭垂れ込める仮墓地には、慟哭の怨霊ではなく三つの人影が立っていた。
ジョゼフとラトク、もうひとりはショルダーバッグ――外見上は小振りなジュラルミン・ケースだ――を提げた女性である。
三十代半ばくらいであろうか。ラトクと同じ――否、ルナゲイトが抱えるエージェントたちと同じ漆黒の出で立ちだった。
柔軟性や機能性を重視してパンツスーツをチョイスしている。
 その女性に対して、ジョゼフは「ミシェル」と呼びかけていた。

「――暫く見ぬ内に『向こう』は厄介なことになっておるようじゃな。よく調べてくれたものじゃ。礼を言うぞ、ミシェル」
「勿体なきお言葉。この身は会長に捧げたも同然でございます。存分にお使いくださいませ」

 ジョゼフの言葉を、その存在を畏敬するかのようにミシェルは恭しく一礼した。
 新聞王に対する接し方やラトクと同じ出で立ち方からも察せられる通り、この女性もまたジョゼフ直属のエージェントである。
 同僚たるラトクはミシェルより手渡された分厚い書類に目を通しているのだが、
何事にも動じない彼にしては珍しく満面が狼狽の色で塗り潰されていた。

「進化型のクリッター? それがギルガメシュの援軍になっている……だと?」

 書類より顔を上げたラトクは、頭を振って溜め息を吐き、次いで夜空を仰ぎつつ重低に呻いた。

「そう驚くことでもあるまい。どう言った経緯かは知れぬが、ギルガメシュはクリッターを兵力として投入しておる。
尖兵として自由自在に操っておるのじゃ。ならば、そのクリッターをどうやって捕獲したのか? 
その疑問が一気に解けたわい。成る程、辻褄も合うと言うものじゃ」
「第三者の差し金とは思っていましたがね。それにしても進化型のクリッターとは……」
「私も最初は信じられませんでした。……しかし、書類(そこ)へ記した通り、
ギルガメシュの副将と接触を持った大型のクリッターは、はっきりと人語を喋ったのです。
明瞭な発音からして声帯を得ているのは間違いありません」
「それを以って『進化型』と定義付けたと言うわけじゃな。悪くない見立てじゃぞ、ミシェル」
「恐縮でございます」
「……クリッターが進化するとは……」

 ジョゼフの推論とミシェルの報告に打ちのめされ、ラトクは再び呻き声を漏らした。
 人語を解し、意思の疎通まで図れると言うことは、高次の理知を得た証明でもある。
少なくとも、人類の側の記録にはそのような前例など存在しない。

「……コールタン氏はそのことを教えちゃくれませんでしたね。我々を“協力者”と持ち上げておきながら……」

 暫しの瞑目の後、徐々に落ち着きを取り戻していったラトクは、ギルガメシュと自分たちを繋ぐ一本の線へ思いを巡らせ、
「似ても焼いても食えませんな、あの御仁」と苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちした。
 共にギルガメシュを突き崩そうと約束した同志は、
佐志の者たちを使い勝手の良い駒のようにワーズワースへ送り込んでおきながら、
新たに確認された“援軍”の情報など一度たりとも言及しなかった。あるいは隠匿されたと見なすべきかも知れない。
 相手はギルガメシュの最高幹部だ。件の“援軍”の存在を知らないわけがない。

「“信頼に足る協力者”と“信じられる味方”は、必ずしも同じとは限らんじゃろう? 
コールタンにとってワシらは後者ではないと言うことじゃ」
「手切れになったときに備えて“有利なカード”は残しておく、か。……やれやれ、寒気がするほどのポーカーフェイスだ。
こちらと『向こう』、共通の天敵を味方に引き入れたんだ――これ以上に強力なカードはありませんな」
「こんなときにまでカードゲームを例えにしなくても。……ギャンブルは程ほどにしておきなさいな、ラトク」
「世話焼き女房気取りかい? こりゃフェロモンを撒き散らしすぎたかな? 俺はいつでもウェルカムだけど」
「そのテのお誘いは離婚調停が終わってからにして頂戴。“火遊び”するほど暇を持て余しちゃいないわよ」
「なんじゃ、ラトク。まだケリをつけておらんのか。おヌシにしては手際が悪いのぉ」
「このゴタゴタの中では裁判所だって動きませんよ……」

 思いがけず自身のプライベートを穿られそうになったラトクは、場の空気を切り替えようとわざとらしく咳払い。 
その慌て振りがミシェルの失笑を買ってしまったが、これ以上、スキャンダラスな話題で弄ばれたくないと
無視を決め込んでいる。言い返した後の反撃が恐ろしかったわけである。

「ミシェル、人間の言語を喋り出したクリッターは例の一体だけなんだな? 他にはどうなんだ?」
「今のところはその一体だけよ。……ただ、ひとつ気掛かりなのは二足歩行型と言う点ね」
「二足歩行するクリッターは今までにいなかったわけじゃないだろう。
この間の合戦では巨人(ギガント)型のクリッターまで投入されていたそうだ」
「……でも、人語を喋ったクリッターは比較的人間に近いサイズだった。巨人(ギガント)よりもずっとコンパクトなのよ」
「人間と対話を持つのに適したサイズへと進化した――と言いたいのかね? 」
「私が挙げたのはひとつの仮説よ。でも、こじつけではないわ。この目で確かめた事実しかレポートには書いてない。
「そのレポートには、例のクリッターの脇に、もう一体、二足歩行型が控えていた――とも書いてあるな。
これはつまり、あれかね……」
「そうよ。もう一体のクリッターも進化型の可能性が否めないわ。両者のサイズに大きな差はなかったもの」
「いずれにせよ、注意を要することに変わりはなかろう。ミシェルの言う通りの進化型なのか、
もしかすると突然変異かも知れぬ。この変化が将来的に如何なる変化をもたらすのかは未知数じゃ。
今はまだ断定出来るだけの情報は集まっておらぬ。当面の影響は、ギルガメシュの兵力じゃよ。
進化型とやらが他のクリッターを従えておるとすれば、事実上、彼奴(きゃつ)らの兵は無尽蔵と言うことになるわい」

 ミシェルの仮説をジョゼフが継いだ。

「果たして、進化型が何体おるのか。そして、その進化はいつ頃に発生したものなのか。
まずはこれらを洗い出さねばなるまい。進化型とやらが他のクリッターに対して強権を有しておるのかも含めてのォ」
「鋭意調査中にございます。どうぞお任せくださいませ」

 ジョゼフの言葉を受けて、ミシェルは再び一礼する。他のエージェント同様に彼女も新聞王には徹底して従順のようだ。
 命令されることに快感すら覚えているようなミシェルの様子を、ラトクは皮肉めいた薄笑いを浮かべつつ静観している。

「気張るのは構わないが、まァ、せいぜい無理だけはしなさんな。『向こう』じゃキミご自慢のトラウムも使えんのだろう? 
襲われたときに対処出来るのかい。進化型のクリッターがどんな異能を使ってくるかも分からんよ」
「お生憎様。『向こう』でユニークな物を手に入れておいたので」

 言うや、ミシェルはショルダーバッグの正面に施された意匠を指先でもって撫でた。
すると、バッグの側面が下方へとスライドし、ジュラルミンの板で覆われていた箇所から銃身が飛び出した。
見れば、バッグ正面にはグリップ(銃把)まで現れたではないか。
 サイズと形状こそ違えど、その変形機構はニコラスたちが使うMANAと全く同じものであった。
側面に出現した銃口からはガンドラグーンのように強力なレーザーが照射されるに違いない。

「ほう? MANAの一種じゃな?」
「トルピリ・ベイドで売り出されているものです。サンプルとして入手いたしました」
「ここまで小型のMANAは初めて見るな。……間抜けな質問だが、メインターゲットは“我々”で間違いないんだな?」
「ご明察。新規顧客の開拓ってところかしらね」
「……露骨に媚びてきたな、『向こう』は」

 変形したショルダーバッグを興味深そうに観察していくジョゼフとは対照的に、ラトクは複雑そうに面を歪めていた。
 『トルピリ・ベイド』とはロンギヌスの本社が所在すると言う都市である。
ミシェルはそのトルピリ・ベイドまで直接赴き、件のMANAを買い求めたと言う。“新規顧客”を対象とした品物を、だ。

「トラウムに取って代わるかな、コレは?」
「さぁ、どうだか――『向こう』にはアルストロメリア条約と言うものがあって、
MANAの所有にはライセンスとは別に登録が必要なのよ。危険な乱用を規制する為と言うのが建前のようね。
……そんな面倒な手続きをこちら側の人間がするかしら?」

 その登録をミシェルは偽の身分証明でクリアーしたと言う。

「ロンギヌス社は是が非でも推し進めるだろうよ。これほどラクな個人情報の吸い上げはない。
本人の気に入らないトラウムを具現化させてしまった者、もしくはトラウム不適合者ってところかな、切り崩しの標的は」
「そこから徐々にマーケットを広げていくって? ……有り得ない話ではないわね」
「商売上手はするりと人の心に入り込むものさ。キミのバッグだって雑貨と一緒に売り場に出されていても違和感ないよ」

 ラトクと推論を述べ合った後、ミシェルは急に神妙な面持ちとなり、次いでジョゼフへと向き直った。

「……こちらのMANAをご覧頂ければお分かりかと存じますが、……『例の計画』もそろそろ限界かと。
こちらと『向こう』の接触が余りにも大きくなり過ぎました。最早、互いの情報は筒抜けになっているものと思われます」

 「ロンギヌス社の新製品であるこのショルダーバッグが何よりの証拠」ともミシェルは言い添えた。

「……潮時と言うべきじゃな」

 ミシェルの具申へ鷹揚に頷いたジョゼフは、それきり瞑目してしまった。
 一瞬、機嫌を損ねてしまったかと不安に駆られるミシェルであったが、
報告や具申の義務は、何があっても果たさなければならなかった。その果てに盟主たる新聞王から忌み嫌われようとも、
それがルナゲイト家に仕えるエージェントの使命であると自負しているのだ。

「ミシェル・ラナ、これより『向こう』へ戻ります」
「うむ――定期連絡とは言え、このような辺境まで呼びつけてすまなんだな」
「勿体なきお言葉。会長のお呼びとあらば、どこであろうとも馳せ参じます。それが私の喜びですので」

 改めてジョゼフに一礼し、MANAをショルダーバッグの状態に戻したミシェルは、
死臭垂れ込める仮墓地――否、ワーズワースより去っていった。
今し方の口調から推察するに、夜が明ける頃にはBのエンディニオンからも姿を消しているかも知れない。
 仮墓地へ居残る恰好となったジョゼフは、会合を終えてからもその場に留まり続けた。
嗅覚を破壊してしまうような死臭の只中に立ち、何事かを思案している様子であった。

「会長……」
「潮時じゃよ――ギルガメシュがこちら側にやって来た日から分かっておったことよ。
ルナゲイトも次なる段階へ移るときが来た。……ただそれだけのことじゃ」
「……成る程、“次なる段階”ですか」

 ジョゼフの言葉に頷きながら、ラトクは腰のシャープスカービンへと手を掛ける。彼の注意は正面の巨木へと注がれていた。
正確には、その裏側にて息を潜めている第三者の気配に対して、ラトクは愛銃を向けようとしている。
 その気配はミシェルと合流する前から感じていたものだ。誤って迷い込んでしまった難民と言う可能性も考慮し、
今の今まで放っておいたのだが、三人の会合が終わってミシェルが去った後も、巨木の裏の人影は微動だにしなかった。
 ジョゼフとラトクの会話にまで聞き耳を立てようとしているわけだ。
最初から盗み聞きが目的であったと見なしても間違いなさそうである。仮に本物のハブール難民であったとしても、
聞いてはならないことまで耳にしてしまった以上、最早、手遅れであった。
 それ故にラトクは人影の始末に動こうとしたのだが、ジョゼフはこれを目配せでもって制した。
墓標をひとつ増やすどころか、追いかけて口止めをする必要もないと言うのだ。

「会長、しかし……」
「……“あれ”もワシらと同じ『知っている側の人間』」じゃよ。釘を刺すだけ無駄な労力と言うものじゃ」

 ジョゼフのこの言葉に反応したのか、巨木の裏に潜んでいた気配がついに動いた。
 ふたりの前に身を晒すことはなかったが、その半面で隠れようとする意識も薄く、
大袈裟に足音を踏み鳴らしつつ宵闇へと消えていく。
 肝が太いと誉めるべきか、無用心と言うべきか。ラトクにはその足音だけで人影の正体が判ってしまった。

「……“あれ”もコールタン氏と同じ所属――なのでしょうか」
「さて、な。ひとつだけ確かなのは、弟子思いの手品師がその本性ではないと言うことじゃ」

 喉の奥から空気の塊を吐き出したかのような異音が木立に跳ね返り、当たり構わず不快感を撒き散らしていた。





「『知っている側の人間』ってのもやりにくいわね」

 幾千幾万とも知れない星々を仰ぎながら、余人には意味が通じない不可思議な呟きを漏らしたトリーシャは、
夜の闇に溶け込んでしまうのではないかと思えるほどに暗い面持ちでいるネイサンの隣へと腰掛けた。
 ふたりの視線が向かう先は、ワーズワース唯一の池である。源流より運ばれてきた水を溜める天然ダムの如き場所であり、
ここを中継地点として川は下流に向かっていく。
 その畔にてふたりは眠れぬ時間を持て余していた。「眠ろうにも眠れない時間」と言い換えることも出来そうだ。
 まるでネルソンとロレインの逢瀬を再現したような恰好である。フィーナやマリスあたりが発見しようものなら、
大昂奮でにじり寄っていくに違いない。年頃の女性らしく、ふたりともこう言った話には目がなかった。
 畔に建つ掘っ立て小屋――ハブール難民は礼拝堂と呼んでいる――には女神イシュタルを象ったと言う像が安置されており、
これがハブール最大にして唯一の財産であるそうだ。
 マコシカの酋長と言うこともあり、レイチェルは佐志の誰よりも『神像』と言う美麗な彫刻に興味を抱いていた。
Aのエンディニオンの女神信仰へどのように用いられ、また役立っているのかが気になって仕方がないわけだ。
 トリーシャもまたニュースバリューと言う点では注目していた――が、
最愛の恋人が熱を上げる興味の対象にもネイサンは見向きもしない。
今の彼にはそのようなものへ執心出来るだけの余裕がなかった。
 ただ空虚としか言いようのない面持ちにて水面に起こる波紋を見つめるのみ。
 夜空の星々を映し込み、斑模様の光を跳ね返す池は、さながら万華鏡のようである。

「こんな風にゆっくりと川なり池なり眺める機会なんてなかったわぁ。改めて見ると、アレよ、万華鏡みたいね」
「……僕も、今、そう思っていたところだよ」
「なによ、もう。以心伝心ってヤツ? いやあ、照れるわね〜」
「そりゃあ、だって、……僕らは“番(つが)い”みたいなもんだし」
「……ネイト。あんた、段々アルに似てきたんじゃない? いくら親友だからって朴念仁まで真似しなくてもいいのよ。
カノジョが池見て万華鏡みたいだって言ったら、キミの表情のほうが万華鏡みたいだよとか、
気の利いたセリフを出すもんでしょーが!」
「文法メチャクチャだよ、それ」

 じゃれ付いてくるトリーシャを相手しながら、ネイサンは嘗て読んだ本の記述(こと)を思い出していた。
 物心付く前の小さな子どもにとって万華鏡は特別な物であると言う。
覗き込んだ筒の中で模様が次々と移ろっていくと言う鏡像の展開から“世界の変転”まで想起するそうだ。
 その閃きは知性を刺激し、無上の快感を与えるとまで記述されていた。
 ネイサンには「物心付く前」と言う感覚が分からない。万華鏡の楽しみ方ですら他者からの伝聞と本の記述でしか知らない。
筒の中で繰り広げられる色とりどりの世界を実体験としては理解出来ないのだ。
 さりとて、「知性を刺激する」と言う一点についてはイメージが湧かないこともない。
ネイサンにとっては、エンディニオンを旅すること自体が万華鏡を楽しむのと同義であった。
 中でもアルフレッドとの旅には格別な思いがある。グリーニャから始まった彼らとの旅は刺激と新発見に満ちていた。
『今まで見たことのない世界』へ出逢うことを目的とする人間にとって、それはまさに夢の日日と言えよう。
 アルフレッドは確かに新世界の門を開いていた。
 しかし、弾けるくらい楽しかった筈の旅は、徐々に、しかし、着実に様相を変え始める。
見るモノ全てが鮮烈であった世界は急速に色褪せていき、やがて濃い闇を纏うようになった。
 当初の“予定”にないことばかりが起こり出したのである。

 ひとつのきっかけは悪名高い不良冒険者チーム、『メアズ・レイグ』と出会ったことだ。
 最初の内は何かの手違いで紛れ込んだ“イレギュラー”と捉え、深刻には考えていなかったのだが、
イーライ・ストロス・ボルタにトリーシャを奪われそうになった頃から歯車が狂い始めたように思える。
 ギルガメシュとの争乱に突入してからは更にエンディニオンは面白くなくなってしまった。
 勃発する直前までは『両帝会戦』とて最高の喜劇になるものと期待していた――
それにも関わらず、いざ戦場へ立ったときに去来したのは、尽きることのない虚しさであった。
 喜劇の象徴となるように思われたアルフレッドの狂乱にも愉悦は感じず、
凄絶の一言では表し切れない激情の迸りを前にして、ただただ圧倒されてしまった。
 歯車さえ狂っていなければ、生の感情を剥き出しにする悪夢の復讐鬼さえも、
「運命に翻弄された人間の姿」として興味深く観察していられただろう。
 心中にて膨張を続けていた当惑の念が破裂したのは、佐志軍とエトランジェの直接対決の瞬間である。
嘗て絆を結んだ仲間同士の殺し合いに心が張り裂けるような痛みを覚えてしまったのだ。
 喜劇など何処にもない。熱砂にて繰り広げられるのは責め苦すら伴う悲劇だった。
 やがて、その合戦はニコラスの奮起や、シェイン、ルディアの勇気によって終息する。
最後まで心と絆を信じて戦い抜いた者たちが絶望の影を拭い取り、佐志とエトランジェを和解へと導いた。
 いずれまた再会しようと両者が約束を交わしたときなど涙が零れるほど胸震わされたものである。
 そして、そのことにネイサンは酷く動転していた。
 享受すべき『喜び』の意味がすっかり変わってしまっていた。

(あれは……あんなのは……知的欲求でもなんでもない――)

 今まで見たことのない世界に戸惑い、もがき苦しむ人々を目の当たりにしたときに湧き起こったのは、
知的好奇心を満たす喜びではなく、悲しみであり憤りであり――人の情と言うものであった。
 時々刻々と変わり、歪んでいく世界の情勢に怯え、ロンギヌス社へ縋りつくしかなくなってしまったワヤワヤの人々には
底なしの憐憫を感じ、彼らを救うことも出来ない己の無力に打ちのめされた。
 ワーズワースで不当な暮らしを強いられるハブール難民にも同様の念を抑え切れなかった。
 この池から難民の居住区へと流れ込む川に汚染の可能性を見出した瞬間、
誰に頼まれるでもなく反射的に水質の検査へと動いていた。
 在りし日のグリーニャでも水質汚染の実態調査を行ったが、それはクラップの依頼を引き受けたからである。
 これもまた“予定”通りの出来事であった。隣町に個人経営のリサイクル業者が滞在していることを、
悪徳廃棄物処理業者に苦しめられるグリーニャの青年が知ったなら、良かれ悪しかれ何らかの興味を抱くのは必然だ。
ゴミ――リサイクルの場合は有価物だ――を収入源として取り扱う点に限っては、ネイサンもスマウグ総業も大差はない。
 その場で「汚染の検証も出来なくはない」と一言でも述べれば、望み通りの反応をクラップから引き出せるわけだ。

「――頼む、あんたの力を貸してくれッ! 今、グリーニャは……オレの生まれた故郷が大変なことになってんだよ! 
腐れ外道みてーな業者にゴミを持ち込まれちまってよぉ……! このままじゃ村の川も大地も……みんな、腐っちまうッ!
ヤツらを追い出すにはあんたの腕がどうしても必要なんだッ!!」

 クラップの懸命な訴えを、故郷を愛する心を、ネイサンはある種の高処(たかみ)から眺めていた。
「掌の上で踊らされる哀れな小物」などと心中にて小馬鹿したほどである。
 それなのに、今のネイサンはクラップと何ら変わらない。自分とは無縁であった筈の人の情に衝き動かされていた。
 そのことを自覚したときには、今まで『喜び』と感じていたものが残滓の如く心の底へと溜まり込み、
痛みすら伴ってネイサンを蝕むようになっていた。最早、後戻りの出来ない場所に立っていた。
 産まれてから一度も体験した覚えのない異常事態であり、完全な想定外である。

「想定外の出来事なんて、昔は最高のご馳走だったのにね……」

 足元に転がる小石を拾い上げたネイサンは、自嘲の笑みを漏らしながらこれを池へと投げ入れる。
たちまち水面へ波が起こり、万華鏡のような光の模様は滅茶苦茶に壊されてしまった。
 己の混乱が波紋へ映し出されているように思えてならず、ネイサンは顔を背けた。
 それを追いかけるようにしてトリーシャはネイサンの背後に回り込み、彼の眼前にデジタルカメラを差し出した。
背面の液晶パネルには撮影した写真の見本が小さな画像となって表示されている。
写真の出来栄えを確認する為のプレビュー画面である。
 驚き仰け反るネイサンに構わず、トリーシャは撮り溜めた画を一枚ずつ大写しにしていく。
液晶パネルに表示されたのは新聞記事の素材ではなく、旅の合間の想い出(オフショット)と言えるものだ。
 飲み比べをするディアナとレイチェルの姿が感慨深いマコシカでの宴会。
今となっては「昔日」と冠せざるを得ないフェイチームのキャンプ風景。
リーヴル・ノワールへ調査に入る直前、隊伍を乱してフツノミタマからどやしつけられるホゥリーや、
佐志のオノコロ原でハーヴェストと共に射撃訓練に励むフィーナなど、旅の想い出は尽きることがない。
 フィガス・テクナーで購入したブバルディアのペンダントを自慢するルディアも愛らしい。
写真の中の少女と同じ物をトリーシャも持っていた。これはフィーナたちと共有する友情の証しであるそうだ。
 旅とは新たな出会いの連続であり、そこに大切な想い出も生まれると言うもの。
 両帝会戦へ赴く最中、甲板まで入り込んできた海水を被ってしまったラドクリフの身体を、
シェインが苦笑混じりで拭くと言う一幕もあった。初めて出来た親友からの心遣いラドクリフの顔は緩み切っている。
 撫子の家で撮った物もある。フィーナとルディアが両脇に回り、彼女の腕を取って半ば強引にピースサインを作らせていた。
友人同士による記念撮影なのであろう。このところ、フィーナたちは時間さえあれば撫子の家に詰め掛けている。
勿論、この一枚の撮影者たるトリーシャも一緒だ。

「……これって――」

 最後に表示された写真は、だいぶ古い物である。ネイサンとトリーシャのツーショットだ。
初めて海を見に行った際、通りがかりの人に撮影を頼んだ一枚である。
 海辺に立ってはにかむネイサンと、彼の腕に抱きついて満面の笑みを浮かべるトリーシャが好対照であった。
 写真の中のトリーシャは人生と言うものを心から謳歌しているように見える。

「もっと気楽にやったらいいんじゃない?」

 デジカメの電源を落としていたトリーシャが、ふとそのようなことを呟いた。

「あんたにはやらなきゃならない『義務』があるわよ。でも、そいつで雁字搦めになっちゃ何の意味ないでしょ」
「そんなわけには行かないよ。僕の『兄弟』たちはもっとずっと上手くやって来たんだ。
……今のままじゃ僕だけ欠陥品だよ」
「欠陥品かどうかなんて、自分で決め付けるもんじゃないわよ。あんたは欠陥品なんかじゃない。
そうね――少しだけ油を差し忘れただけよ。故障さえしてないんだから全然大丈夫!」

 暗く俯きそうになるネイサンの頬に向かって、トリーシャは「オイル注入っ!」と冗談めかして唇を押し付ける。

「楽しみなさいって、『今の世界』を。『今まで見てきた世界』とは全然違う、このエンディニオンをさ。
アルだってフィーだってギルガメシュだって――何もかもが全っ然違うっしょ? これって最高に面白くない?」
「違うだけなら問題ないさ。トリーシャの言うように楽しんでもいられたよ。
……『万物の理(スキーム)』とかけ離れているから、だから弱っているんじゃないか……」

 『万物の理(スキーム)』――トリーシャとは共有しているらしい不可解な言葉を口にした後、
ネイサンは悲しげに頭を振った。

「“予定”が修正されないまま、『明けの明星』を目覚めさせようものなら、一体、どうなってしまうか……」
「仮にそうだとしてもあんたにはどうすることも出来ないでしょ? 運命と偶然を変えるのはあんたの役目じゃない。
……って言うか、『大いなる意思』はそう言うブッ壊れた計画だって喜ぶんじゃないの? 
アレ自体、最初から壊れてるようなもんだし」

 『大いなる意思』とトリーシャが口にしたとき、ネイサンの双眸が薄く開かれた。
彼女の言葉に今後の指標ともなり得る手掛かりを見出したのであろうか、真紅の瞳には少しだけ活気が蘇っていた。

「……知的好奇心の赴くままに――か」
「それが私たちの唯一の理(ことわり)……でしょ?」

 ネイサンの正面まで回り込んだトリーシャは、左右の手でもって彼の頬を挟んだ。
それも、静まり返った池の畔に乾いた音が鳴り響くほどの勢いである。

「迷いがあるなら、それをあるがままに受け入れなさいよ。
義務とか使命みたいなつまらないモンに押し潰されたら絶対に承知しないわよ!」
「つまらないって、ひどいなぁ。真面目にお務めを果たしてるって言うのに」
「だーかーら! 楽しみ方を変えろって言ってんの! 何がどうあっても、『記録』は続けられるんだもの。
ぶつくさ言ってないで、どれもこれも楽しんだもん勝ち――でしょ?」

 暫し説教を垂れた後、トリーシャは己の唇をネイサンに押し当てた。今度は頬でなく唇を食んでいる。

「……ホント、敵わないや。例えとしてはおかしいかもだけど、壊れた機械も一発で直しちゃう天才メカニックみたいなもんだね」
「聞くまでもないでしょ? あたしはその為だけに産まれてきたんだから」

 心から人生を謳歌するような笑い声を上げたトリーシャは、次いでネイサンの胸の中へと飛び込んでいった。




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