11.ワーズワース暴動 駐屯地の偵察を終え、ダイジロウと共に貴族階級の居住区まで戻ったアルフレッドは、 丁度、遊園地から引き上げてきたばかりのフィーナたちとフォテーリ家のロッジの前で合流した。 間もなく時計の針は午前三時を指そうとしている。 今し方の偵察の結果を踏まえて、ワーズワースにて想定される災いへの対応策を練り上げようとするアルフレッドだが、 フィーナとシェインから左右の手を掴まれた挙げ句、別の場所まで強制的に連行されてしまった。 「根をつめても身体に毒だよ。気分転換行っとくぅ?」と言うシェインと、それに賛同したフィーナの計らいである。 本音を言えば、ふたりの手を振り解いてでも駐屯地を攻め落とす策――これは最悪の事態の想定だが――を 立てておきたかったのだが、その一方でシェインとフィーナが自分の体調を気遣ってくれていることも分かる。 それ故にアルフレッドは文句を言わずふたりに付き合おうと決めたのだ。 マリスとジャーメイン、更にはジェイソンとジャスティンも三人の後を随いていく。 言うまでもなくマリスの傍らにはタスクが控えていた。 アルフレッドと同じ時間を共有したいと願うマリスは、フィーナのみならずジャーメインにまで対抗意識を燃やしていた。 何かとアルフレッドと絡む機会が多いジャーメインのこと、自分と似たような感情を彼に対して抱いているのではないか―― マリスの警戒心は日増しに強まっているのだ。 だが、それは完全なる杞憂と言うもの。ジャーメインは単純に夜の散歩を楽しんでいるだけである。 ジェイソンとジャスティンも全く同じ理由でアルフレッドたちに追従している。 ワーズワースとは、真夜中にも関わらず散歩に出掛けてしまいたくなるような場所なのだ。 「昼間の出来事が嘘のように思えますね。まるで、別世界のようですよ。 ……隣を歩いているのがジェイソンさんでなければ、もっと楽しかったのでしょうけどね」 「なんだい、急に。オイラじゃ不満なのかよ? ひとりで回るよりずっと楽し〜だろ?」 「いえ、そう言う意味ではなく。……うん、ジェイソンさんには少し早かったかも知れませんね、このテの話は」 「こんにゃろ、オイラをバカにしてやがるな〜」 「してませんよ。ジェイソンさんはジェイソンさんのまま、可愛いままでいてくださいな」 「だから、絶対バカにしてんだろ。仮にバカにしてなかったとしてもコケにはしてんだろ」 「――あ、ほら、ジェイソンさん。あそこ、珍しい野草が咲いていますよ。……素晴らしい生命力ではありませんか」 「イイ話風にまとめんなよなぁ〜。露骨に誤魔化しやがってよぉ〜」 元々が自然公園であるワーズワースは美しい緑に囲まれており、 また、周囲には高度の建造物や暗闇を照らす人工の明かりがない為、 星々は自らが放つ美しい輝きを何かに妨げられることなく彼らに直接浴びせていた。 この地を襲う環境汚染の影も、今は夜の闇に隠されていて、誰の目にも入らない。 ストーンブリッジまで差し掛かったとき、フィーナは思い切り背伸びをした。 鼻腔を刺激する異臭は如何ともし難いが、焼却炉の排煙がない分、昼間と比して和らいでいるようにも思えた。 「ここに来て、ずっと忙しいことばかりだったから空を見上げるのも忘れていたけど、 ……こうしているとさ、色々しみじみ感じるね」 「ああ……」 「つれない返事じゃんか。折角散歩しているんだから、考え事なんて止めて素直に景色を堪能すれば良いのにさ。 夜の自然公園ってのも悪くないぜ?」 「本当にアルは気が利かないって言うか、何て言うか……ホント朴念仁」 「そんなことはない。……ただ、どこか似ている風景だと思っただけだ」 「似てる? ……あー、確かにここら辺はグリーニャっぽいなぁ」 美しい自然に囲まれ、どこか牧歌的な様子の夜のワーズワースは、 同じく山中の緑に囲まれていたグリーニャに似通っており、故郷を思い出させるには充分であった。 平地と山地と言う違い、開けた景色と連なる山々、生息している昆虫や小動物、自生している植物等々、 細かい差異は当然にあるものの、夜の帳が降りた後ではその違いも曖昧となり、 夜空に輝く星の力もあって、同様の景色のように感じさせられた。 「色々な思い出があったけど、でも、そんなグリーニャはもう――」 フィーナの言葉に続きをつけるとしたら、「もう喪失(な)い」とでも表すのが正しいのだろう。 ワーズワースのような穏やかな姿を見せていたグリーニャは、“あの日”を境に悲劇の舞台へと変わってしまった。 努めて思い出さないようにはしていたが、フィーナの言葉にアルフレッドもシェインも痛ましい記憶を呼び起こしてしまい、 酷く思い詰めた表情を浮かべてしまう。 現場を目にしたわけではないマリスやジャーメインも居た堪れない気持ちになってしまい、 「心中お察しします」と言葉をかけるのが精一杯だった。 三人の落ち込み具合を訝っていたジャスティンもジェイソンから事情を説明されて納得し、 すぐさまシェインのもとへと駆け寄った。 「シェインさん……」 「バカだな、どうせ想い出すなら楽しいことだけにしとけって……」 「よ、よせよ、ふたりとも! 特にジェイソン! お前にそんなシケた顔は似合わないってば!」 慌てて誤魔化すシェインだが、その顔色は夜目でも分かるくらい明らかに悪い。 炎に包まれる家屋に木々、さらにはギルガメシュの首魁、カレドヴールフによってベルは拉致され、 そして、クラップの命を絶たれてしまったその一幕――この世の物とは思えない悲惨な光景を目にしたのだから、 何かの拍子に感傷へ浸ってしまうのも無理からぬ話であろう。 親友ふたりから本気で心配されるほど、シェインの落ち込みようは著しかった。 如何に前向きな明るい性格だとはいえ、彼はまだ子どもなのだ。 とてもではないが、故郷の悲劇を真正面から受け止められるほどに精神が強靭には成長していない。 徐々に過去と向き合うだけの余裕は出てきたのだが、ふとした弾みから記憶が呼び起こされ、どん底まで落ち込んでしまうようだ。 現実に耐え、それを呑み下すことが出来るようになるまでには、まだまだ時間を要するのかも知れない。 そんなシェインをフィーナは包み込むようにして優しく抱き締めた。 「“あの日”に起きてしまったのは悲しいことだったけど――でも、いつまでも落ち込んではいられないね。 辛いことがあったって、皆は一生懸命頑張っている。ワーズワースにも諦めないで勇気を振り絞った人がいる。 ……希望の手掛かりは、此処にあったんだよ。どんなに絶望的な状況でも、生きている限りは未来を変えられる。 そうやって懸命になっている人たちが、今夜、新しい絆を育もうとしてるんだ」 ――と、たおやかな口調で、シェインの心を優しく撫でるように語りかけた。 「……そうだね、フィー姉ェの言う通りだよ。ボクは生きてる。未来へ向かって進んでいける―― 今は残った人たちのためにも、ボクたちが何とかしなきゃいけないんだッ!」 「うんうん、やっぱりシェインくんはこうでなくっちゃ! 私たちもネルソンさんやロレインさんに負けていられないね――」 ようやく笑顔の戻ったシェインは、フィーナや親友たちと共にストーンブリッジの彼方―― 労働者階級の居住区へと思いを馳せた。 無論、アルフレッドたちもそれに倣っている。 ネルソンとロレインの勇気を称え、その幸せを願うと、自分自身も力が湧き立つような思いであった――が、 それは何の前触れもなく終わりを告げた。 つかの間の穏やかな時間も、これからワーズワースに舞い降りる筈だった希望も何もかも、 宵闇を裂く激しい異音によって終焉へと導かれてしまった。 「……この音は……」 「な、なによ、一体……ちょっと、アル――」 「黙っていろ、ジャーメイン! 黙って、耳を澄ましていろ!」 乾いた音が遠くの方から数回聞こえてきたかと思うと、 ほんの少しの間を置いて、合図されたようにけたたましい怒号が耳に入ってきた。 銃声だ――とアルフレッドが認識する頃には、その銃声が無数に轟き始めたのであった。 先程までの静寂を打ち破って、遠くの方では何か恐ろしいことが起きている。それはここにいた者たちが判断出来たことだった。 「あれは一体? アルちゃん、何が起きたというのでしょう?」 「分からん! だが、あの騒ぎは尋常ではない!」 アルフレッドたちが事態を計り兼ねてその場に立ったままでいると、後方より貴族たちが次々に姿を見せた。 静かに時が流れるはずのレイニーウィークの最中に起こった何物か――おそらくは非常事態に驚き慌て、 様子を窺おうとテントから飛び出してきたのだった。 立て続けに起こる異音の正体が銃声であると知った途端、その場に身を屈めたり、テントへ引き返す者も多い。 フォテーリ家のロッジで待機していた佐志の仲間たちも直ちに駆け付けた。 池まで遠出していたネイサンとトリーシャも異音を聴いてすぐに戻ってきた。 佐志から訪れたメンバーはラトクを除いて全員がストーンブリッジに揃っている。 そのラトクも一度は皆と合流したのだが、今はジョゼフの命を受けて労働者階級の居住区へと調査に向かっている。 飛翔出来るまでに回復したムルグがラトクの後を追いかけようとしたが、アルフレッドはこれを一喝で制した。 銃声が轟くような場所へ単身飛び込ませれば、前日の二の舞になるのは明白だ。 ニコラス、ダイナソー、アイルの三人は万が一の事態に備えてMANAをウェポンモードにシフトさせている。 臨戦態勢を取るのは、今やMANAの持ち主だけではない。 マリスの傍らに立つタスクが巨大手裏剣を具現化させたのを皮切りに、ハーヴェストたちも順次トラウムを発動していく。 燐光を伴って舞い散ったヴィトゲンシュタイン粒子が、俄かにストーンブリッジを照らした。 動転し切っている貴族たちはその光にさえも悲鳴を上げた。 シェインはビルバンガーTを具現化する代わりにブロードソードを抜き放っていた。 彼と肩を並べて立つジャスティンも鉄扇と緋色の紐を構えているが、しかし、その面には動揺の色が濃い。 呼気を整えつつ拳を鳴らすジェイソンと異なり、何らかの戦闘に巻き込まれた折には相手の気勢に飲み込まれてしまいそうだ。 「……ジャスティン。おめー、オイラやシェインから絶対に離れんな」 「な、何を仰るのですか! 私だって戦えますよ! バカにしないでください!」 「強がりって言うのは顔を真っ青にして言うもんじゃねーよ」 「シェインさんだって同じようなものじゃないですか。さっきまであんなに元気がなかったのに……!」 「あのな、ジャスティン。ボクらはお前を足手まといだなんて思っちゃいないよ。 でもさ、気持ちのほうはどうにもならないだろ? いくら強くたって、気持ちが折れてちゃどうにもならない」 「ここはオイラたちが前衛(まえ)に出る。おめーはサポートを頼まぁ!」 「シェインさん……ジェイソンさん……」 ジャスティンと同じように気持ちが揺れる者も少なくはなかろう。 ダイジロウも右手をメタル化させてはいるものの、Aのエンディニオンの難民を巻き込み兼ねないと判断したときには、 自慢のロケットは発射出来なくなるだろう。テッドがメタル化しないのも、そうした最悪の事態を想定しているからだ。 自慢の槍を脇に抱えた守孝は、銃声が起こったであろう方向を険しい表情で凝視している。 「アルフレッド殿、あれをご覧あれ!」 「ああ、分かっている! 俺も視認(み)ている!」 守孝の視線が向かう先に閃光が走った。正確には彼が睨み据えた場所にて発生した光がこちら側まで届いたのだ。 火の手が上がったのだとアルフレッドが判断すると同時に、ニコラスのモバイルが鳴った。 着信の相手はマクシムスである。 思わず取り落としてしまったガンドラグーンを拾うことも忘れ、ニコラスは大慌てでモバイルを耳に押し当てた。 一体、何が受話口からもたらされていると言うのか。その面からは瞬時にして血の気が失せていく。 「――ア、アル……マックスからだ。今、電話が……」 「落ち着け、ラス。どうした?」 「暴動が……向こうのキャンプで暴動が起きているって、マックスが……」 「暴動だとッ!?」 通話を終えてアルフレッドへと転じた瞳は、激しい動揺に揺れている。 マクシムスの一報を、ニコラスを介してアルフレッドが受け取る頃には、上がったばかりだと思っていた火の手は勢いを増し、 一軒、また一軒と隣接するテントに燃え移っていった。 延焼の規模は広く、また急速だ。何もかも飲み込んでしまうのではないかと錯覚させるような火柱が立ち、 周辺を眩く照らし出す。それは夜空に輝く星の光が感知できないほどの強烈な明るさであった。 皆から遅れてストーンブリッジへと駆けつけたトゥウェインも火の手が上がった方角を窺う。 その横顔は生気と言うものが抜け落ちており、ニコラスから暴動の発生を聞かされるに至って、ついにその場へ崩れ落ちた。 「……まさか、ネルソンに何かが起こったのかも……」 貴族たちは燃え広がる炎をただ呆然と眺めていたが、トゥウェインにとっては対岸の火事などではない。 暴動の発生場所はネルソンが赴いた区画なのである。最愛の息子の身を案じ、真っ青になって震え出していた。 (……使われてしまったか、あの銃器が……) 考えられる最悪の事態が起きたと見て間違いない――平常心を失うまいと、アルフレッドは必死に理性を奮い立たせている。 このようなときこそ冷静さを欠いてはならないのだ。焦燥に飲み込まれては、犠牲を最小限に留めることも出来なくなる。 それこそがグリーニャを失ったときに悟った最大の教訓である。 ヴィンセントと連携の方策を協議したかったが、最早、そのような猶予は望めまい。 彼らがテントを張った場所は労働者階級の居住区とも近いのだ。マクシムスがニコラスへ急報を入れたときには、 シルヴィオと共に暴動の渦中へ向かった後かも知れない。 おそらく、銃火轟く修羅の巷にて合流することになるだろう。 自分たちの取るべき行動を思案し続けるアルフレッドのすぐ近くでは、 K・kを引っ立ててきたヒューが、彼の手首を長らくの拘束から解き放っていた。 「長いこと、手錠(ワッパ)を掛けてて悪かったな。見逃してやるよ。こっから先は好きにしたらいいぜ」 「あ、あ、悪魔ですか、あんたは!? こんなところに放り出すなんて……責任もって最後まで面倒見てくださいなッ!」 「わかった。駄目だったときには葬式くらいは挙げてやる」 「ちッがーうッ! ワタクシの申し上げた責任はソレじゃなーいッ!」 K・kより迸る悲痛な叫び声は、再び激しさを増した銃声によって揉み消されてしまった。 「アルちゃん、なに迷ってるの!? なにボサーッとしてるの!? さっさと足を動かすのッ!」 「……ルディア……」 「……も、もしかして、もしかすると――ロレインちゃんやセレステちゃんたちを見殺しにする気なのッ!? そ、そんなの、ルディアが許さないのッ! 絶対ダメなのッ!」 一刻も早く友達のもとに駆けつけたいルディアは、いつまで経っても動こうとしないアルフレッドに怒声を張り上げた。 「ルディアの言う通りだよ! アル兄ィ、早く行かないと! こんなところで何立ち止まってるんだよ!?」 「もう知らないの! アルちゃんだけ置いていくの! ルディアたちだけで解決してやるのっ!」 言うや、炎が渦巻く労働者たちの住まいへ駆け出そうとするシェインとルディアだったが、 アルフレッドはその歩みをも「無闇に行動するな! 余計に拗れる!」と一喝で押し止めた。 焦りともどかしさに苛まれるシェインやルディアにとって、制止の声すら理解し難いものであった。 こうしている間にも銃器によって多くの人が傷付けられている筈なのだ。 「暴徒化した連中は何処を狙うと思う? 一体、何がこの騒ぎの引き金だと思う? ……ヤツらが次に狙うのは間違いなく此処だ。怒りの矛先は特権階級の人間に向けられる」 貴族の誰かが情けない悲鳴を上げたが、アルフレッドは構わずに話を続ける。 「ワーズワースの地形を思い浮かべてみろ。ヤツらが西の区域まで侵入するには何処を通らねばならない?」 「……ストーンブリッジかよ」 シェインとルディアに成り代わり、フツノミタマが呻くように呟いた。 「そうだ。此処はふたつの階級を繋ぐただひとつの架け橋だ」 「上手い言い回ししてる場合じゃないの! 何が言いたいのか、ルディアにはさっぱりなのッ!」 「聞け――このストーンブリッジから真っ直ぐに東の区域へ向かうのは、確かに最短ルートかも知れない。 だが、間違いなく道のどこかで向こうの住人と遭遇する。その可能性が極めて高い」 「だったら、何だって言うのさ!?」 「銃で武装した一団と鉢合わせになると言っているんだ。……俺たちはワーズワースの支援にやって来たんだ。 暴徒と化しているとは言え、難民と正面から戦うのは絶対に回避しなければならない。 違うか、シェイン? どうだ、ルディア? 難民たちを片端から打ち倒していくつもりなのか?」 「何言ってんだよ、アル兄ィ!」 「そ、そんなこと、できっこないのっ!」 「……だから、落ち着けと言っているんだ!」 武装した集団と遭遇してしまっては、双方ともに無傷で通り抜けることは難しい。 それだけは絶対に許されなかった。難民へ危害を加える事態などあってはならないことだ。 ようやくふたりを説得したアルフレッドは、仲間たちを見回しながら進入経路の変更を提案した。 此処から少し離れた場所にある浅瀬――ネイサンが水質検査をした場所だ――を渡り、 森の中を通って労働者階級の居住区へ入ろうと言うのである。 アルフレッドが示した迂回の策は理に適ったものであり、シェインたちにも突っ撥ねることは出来ない。 ましてや、それが最善の手段ならば受け入れざるを得なかった。 「善は急げ、そして、急がば回れということだ。……何としてもこの暴動を終わらせるぞッ!」 アルフレッドの発した号令に皆が強く頷いた。 「あ、あんたらはそれでいいかも知れないが、わ、我々はどうしたらいいんだ……こ、殺されるのを待っていろってことか……」 「応ッ!」と決然たる声を張り上げた佐志の面々とは対照的に、貴族の誰かが泣き声を漏らした。 アルフレッドは西の区画が労働者の手によって蹂躙されることを前提に話を進めているが、 貴族側の犠牲を防ぐ方策は何ひとつ示していない。これで取り乱すなと強いるほうが無茶である。 「……報いを受けて当然だって、あんたら、そう言いたいのかよ……」 ここに至って、貴族たちは初めて己の過ちに気が付いたようだ。 レイニーウィークと言う旧来からの風習を破らざるを得ないほどに労働者たちは追い詰められていたと言うわけである。 そして、そこまで彼らを逼迫させた原因は身分制度に他ならない。 人間同士の間に序列を作ってしまう忌まわしい制度――その上に胡坐をかいてきた者からすれば、 待ち受けているのは「報い」と言うことになる。 ふたつの階級同士で唯一絶対的に共有してきたのが、偉大なる預言に基づく信仰であった。 誰もが敬虔な信徒であり、それ故に身分制度が成立したとも言える。 「生きる」と言う現実の問題は、その神聖なる誓いすら凌駕することを貴族へ突きつけていた。 特権を貪ってきた者たちから続々と悲嘆の声が上がる中、アルフレッドは口を噤んだままトゥウェインを見つめている。 真紅の瞳が何を訴えようとしているのか――その真意を酌んだトゥウェインは、 暫時の逡巡の後に立ち上がり、「落ち着け。皆の命は私が保証する。必ず守ってみせる」と貴族たちに呼びかけた。 次いで、森の奥まで逃れ、身を潜めているよう指示を出していく。 貴族の――否、ハブールの代表者として自分だけが居住区に残ると、トゥウェインは最後に付け加えた。 「労働者たちが押し寄せてきたとき、誰かが残っていなければならんだろう? ……彼らの怒りは、恐らく貴族階級(われわれ)に向けられたものだ。ならば、代表者として話をつけるしかない」 トゥウェインの決意を聞いたローガンは、「漢やで、あんた!」と嬉しそうな声を上げた。 「……私にも振り絞る勇気があったようだよ。ここが戦うべきときだ」 「息子と、……我が家の嫁のことをよろしくお願いします」と頭を下げたトゥウェインに強く頷き返し、 アルフレッドはついに労働者階級の居住区へと足を向けた。 ネルソンとロレインを、幸せな未来を約束されたふたりを案じるフィーナは、不安と焦燥の面持ちで先を急ぐ。 先程よりもさらに早く、自身が持ち得る限りの全力で走り続けた。 回り道をした以上、目的地に到達する時間は遅れてしまう。その分だけ焦燥が圧し掛かるのだ。 駆けて、駆けて、駆けて――そして、辿り着いた先に待ち受けていたのは、一面に広がる惨劇の世界であった。 「そんな……こんな事って……」 「ひでえ……何もかもが滅茶苦茶だよ……」 夢想だにしなかった衝撃的な情景に誰もが言葉を失い、立ち尽くす。 アルフレッドたちの目に飛び込んできたのは、まさしく陰惨を極めるものだった。 辺り一面から上がる炎は煌々と輝き、労働者たちの住まいを焼き尽くしながら更に勢いを増していた。 そして、その明かりに照らし出されるのは、数限りない労働者たちの屍。 傷口を見る限りでは、彼らに行き渡っていた銃器による射撃が致命傷となったのであろうと推測される。 流れ出ていった赤い血液は、同色の炎に照らされて、実際よりも黒ずんで見えた。 物が燃焼する音にかき消されるまでもなく、折り重なるように倒れていた労働者たちから聞こえてくる声はなかった。 皆が皆、恐怖に、狂気に、苦悶に満ちた表情のまま動くことは無かった。 事が起こってからそれなりの時間が経っている事になる――と、アルフレッドは努めて冷静に状況を判断した。 「何て惨いことが……アルちゃん、何が原因でこのような事に?」 「原因が何かは分からない。だが、労働者たちが銃で殺し合いを始めてしまったのは間違いない」 アルフレッドが分析したように、ことの発端こそ定かではないが、 少なくとも労働者の一部過激派が、嘗ての隣人を、身を寄せ合い助け合って生きてきた筈の者たちを射殺したのは確かなこと。 そして、狂気を孕んだその行動から推察するに、やはり貴族階級の者たちに襲いかかろうとしている筈だ。 銃器を携えて荒れ狂う暴徒は、今やこの居住区を離れてしまっている。 考えられる最悪の事態が起こってしまった以上、ネルソンもロレインも無事でいるのかどうかは分からない。 「ロレインちゃん……ロレインちゃんッ!」 切羽詰ったルディアの声に引っ張られるようにして、一同はロレインのテントへと急いだ。 「……良かった。ここはまだ火の手が上がっていないみたい」 幸いな事に原形を留めていたロレインのテントを見て、反射的に安堵の溜め息を吐くフィーナだったが、 ルディアたちと共に肝心のロレインを捜す彼女には、余りにも非情な現実が待ち受けていた。 「ロレ――」 ロレインは自身の住まいの近くに倒れていた。倒れたまま、ぴくりとも動かなかった。 「ロレインさん! ねえ、しっかりして、ロレインさん!」 すぐさまロレインのもとへと駆けつけ、その身を抱え起こしたフィーナは、 ルディアやレイチェルと共に一心不乱に彼女の名を叫び続けた。 「こんなのってないの! ロレインちゃんはお嫁さんになる人なの! 絶対、絶対……幸せにならなきゃいけないのッ!」 しかし、彼女からは何の言葉も帰ってくることはなく、見開かれた瞳は炎の揺らめきを反射したままである。 そのとき、フィーナは自身の手が何かべっとりとしているのを感じた。 その手はロレインの鮮血によって濡れていた。背中に作られた無数の銃痕から流れ出たものであった。 「ウソでしょ……ねぇ、返事して、ロレインさん……ロレインさんってば……ねぇ……」 「そんな……そんなのって……さっきまで普通に……だ、だって……おしゃべりしてたの……」 ロレインの死という現実を目の前にしても、フィーナとルディアはことを完全には受け入れられないでいる。 心臓を鷲掴みされたかのようなショックに打ちのめされたまま、その場にへたり込んで動かなくなってしまった。 駆け寄ってきたトリーシャに肩を揺すられても、背中を叩かれても、 フィーナとルディアは糸の切れた人形のように何も答えない。 「そうだ……生き残った人を捜さなきゃ……!」 信じられない――否、信じたくもない惨劇の前に呆然と立ち尽くしていたシェインは、 レイチェルの嗚咽を耳にした瞬間、弾かれたように首を左右に振り、炎の中に生存者を捜し始めた。 絶望的な状況に変わりはないものの、助けを求めている人間がいる可能性は零ではない。 そのとき、炎の中で何かが蠢き、大きな音を立てた。 テントの骨組みに使われていた木材が焼け落ちただけであったが、 混乱の極致にあるシェインの目には助けを求める生き残りと映ったようで、 人間かどうかも確かめずに音のしたほう――大火炎の中へと反射的に駆け出そうとしていた。 フツノミタマが咄嗟に右腕を繰り出していなければ、あるいは本当に炎に巻かれていたかも知れない。 「バカ野郎! 無闇に動き回るなって、アル公に言われただろうが! 二度も三度も同じこと言わすなッ!」 「無闇じゃない! やるべきことは決まってるッ!」 左腕を搦め取られたシェインは、邪魔だと言わんばかりにもがきながらフツノミタマと睨み合う。 「こんなの……グリーニャと同じじゃないかッ! もう二度と、あんな思いをしたくないんだッ!」 そして、焦熱の地獄の中に決意の叫びが響き渡った。 「とっつぁん、オイラからも頼むよ! こいつがこんなに必死になってんだ……オイラ、力になってやりてぇッ!」 「お願いします! シェインさんにとって大切なことなのではないでしょうか!?」 「て、てめーら……」 ジェイソンとジャスティンにまで頭を下げられては、フツノミタマとしても自由にさせてやるしかない。 拘束を解かれたシェインは、親友ふたりと一緒に火の粉舞う中へと飛び出していった。 「ダイちゃんッ!」 「せめて、これくらいは……ッ! いざとなったらメタル化してでも炎をフッ飛ばしてやるッ!」 ダイジロウとテッドもシェインたちを支援するつもりだ。 一瞬、アルフレッドの様子を窺うフツノミタマであったが、彼はシェインたちの行動すら目に入っていない様子だ。 (最悪の事態――いや、ここまでの事態は想定など……ッ!) 物言わぬ骸と化したロレインを確認し、押さえようのない不安に襲われたアルフレッドは、 彼女と一緒であっただろうネルソンを捜し回る。 貴族と言う身分から暴徒によって身柄を拘束されたか、痛めつけられた上で引き摺り回されている可能性も高い。 自身の安全が確保出来る限り、広い範囲を捜索するようアルフレッドはローガンやニコラスに指示を飛ばした。 その一方で、 セフィとヒューには別の指示を出す。 耳を覆いたくなるような残酷な事件へ他者よりも慣れているだろうふたりに対して、だ。 アルフレッドの意図を察した両名も神妙に頷いている。 「こう言う暴動が起きたときは、往々にして“見せしめ”が出てくる。俺の言いたいことは分かるな?」 「……口に出すのもどうかと思いますが、以前、“行き過ぎた抗議運動”を煽った経験(こと)がありまして」 「詐欺紛いの手口で荒稼ぎしていた宝石商が被害者たちから磔にされたと言う件だな。……お前、あれにも絡んでいたのか」 「敵の資金源を絶つのも戦術のひとつと、アル君からお解かりいただけるかと」 「テロ自慢はいらねーっつの! やっぱ手錠掛けたろかな、この性悪……」 「それは後にしろ。今は――」 「わーってる。……リンチってのは紛争地帯じゃ良くあることなんだよ。特権持ってるヤツが落ちぶれたときなんかは特にな……」 「……そのときは、……頼む!」 ネルソン捜索の手配を終えたアルフレッドは、生前にロレインが暮らしていたテントへと足を踏み入れた。 どうやらテントの内部までは暴徒は侵入してこなかったらしい。近所から預かった洗濯物が地べたに散乱しているが、 そこには血の染みや弾痕などはどこにも見られなかった。 その代わりに最も残酷な結末がアルフレッドを待ち構えていた。 簡素なベッドから転げ落ち、血溜まりの中に倒れ込むネルソンの姿が在った。 「なんて事だ……」 表に声を掛けるのも忘れて、アルフレッドはネルソンのもとへと駆けつけた。 外傷は判然としないものの、大量の吐血が見られる。それは素人目に見ても致死量であった。 ロレインと同様にネルソンまでもが既に事切れてしまっている――余りにも残酷な結末に歯噛みするアルフレッドだったが、 俯いた瞬間、抱え起こした彼の喉が微かに動くのを見て取った。慌てて脈を取ると弱々しいながらも反応がある。 口から大量に吐血をしていたものの、ネルソンにはまだ辛うじて息があったのだ。 「大丈夫か!? 一体……一体、何があったんだ!?」 「ああ、君か……本当、何があったんでしょうね……」 己を抱きかかえているのがアルフレッドだと知ると、息も絶え絶えになりながらも、 ネルソンはこの場にはそぐわない笑顔を見せた。 歪んだ口元は、吐き出された血液と口の中からわずかに覗かせる彼の歯で、鮮やかな紅白のコントラストを彩っていた。 「アルちゃん、どうなさったので――」 アルフレッドの大声に気付き、マリスもテントへと入ってきたが、惨たらしいとしか言いようのないネルソンの姿を見つけるなり、 双眸を驚愕に見開いて固まってしまった。 そんなマリスに対しても、ネルソンは微笑みかける――が、その目は既に焦点が合ってはいなかった。 「彼女に――ロレインに毒を仕込まれたみたいだ。僕のプロポーズを受け入れてもらったはずなのに……」 確かにテーブルには二人分のカップが置かれたままになっている。 どちらか片方にネルソンは口を付け、やがて全身を猛毒で冒されてしまったのだろう。 「……どうしてだろう? 何か悪いことでもしちゃったのかな?」 事態が飲み込めずに混乱しているのか、それとも、意識が混濁しているのか―― ネルソンは虚空に向かって右手を伸ばしている。 マリスはそれを自身の両手で包み込んだ。大粒の涙を零しながら、彼の魂を現世へ繋ぎ止めようと、強く強く握り締めていた。 ネルソンを抱きかかえたまま、アルフレッドは思考回路が焼き切れてしまったかのように固まっている。 遠くの方から聞こえてくる銃声と叫び声が、彼の意識を現実へと引き戻した。 「そうだ、ロレインだよ……彼女は……彼女は無事なんですか……?」 ここまでの仕打ちをされながらも、それでもネルソンは最愛の恋人の身を案じている。 彼女の結末を知るアルフレッドとマリスは、その問い掛けにすぐさま答えようとはしなかった。 と言うよりは、出来なかったという方が正しいだろうか。 何もかも手遅れであったと正直に打ち明けるべきか否か。 今まさに死出の旅に出ようとしているネルソンの為にはどうすべきかと逡巡したが、意を決して首を横に振り―― 「彼女は先に旅立ってお前を待っている。ここではなく、“向こう”で一緒に幸せになれ」 ――と、暗にロレインの死を示唆して唇を噛む。 エンディニオンそのものがイシュタルから見捨てられたと言うこともあり、 神々が作り出す世界と言うものを懐疑的に思っているアルフレッドであったが、 今のネルソンに語りかけられるような言葉はこれくらいしかない。 せめて最後は穏やかに、苦しみを和らげて送り出そうという気持ちが、彼にこの言葉を選択させたのだ。 「そんなバカなことが……ロレイン……!」 だが、アルフレッドの苦渋の決断もネルソンには逆効果でしかなかった。 ロレインの非業を伝えられるなり、ネルソンは僅かも力が入らなくなっている身体を揺するように動かし、 アルフレッドの腕の中から抜け出す。 そして、ゆっくりと這い蹲りながらロレインのもとへ辿り着こうとする。最愛の恋人の姿を一目見ようと身を引き摺っていく。 「そんなことをしても……もういいんだ、止まれ……!」 アルフレッドの懸命の語りかけもネルソンには何の効果ももたらさない。 何かに支配されるように動き続けるネルソンの姿は、その思いは、尋常ならざるものである。 だが、彼が見せる姿はどこまでも惨たらしく、正視に堪え得るようなものではなかった。 吐き出された血液が彼の身体によって床に擦り付けられ、赤いインクのペンで殴り書きをしたような線が現れた。 ロレインに会うため、彼女に一言告げるため、ネルソンは身体全体を使って前へと進む。 「……わたくしのトラウムで、リインカネーションでネルソンさんをお救い――」 「よせ、マリス。そんな事をしても、もう無駄なんだ……このまま死なせてやれ。それが、せめてもの慈悲だ……」 「……アルちゃん……!」 筆舌に尽くしがたい惨状に表情を強張らせていたマリスは、せめてネルソンの命だけでも救うべく、 リインカネーションを試みようとした――が、アルフレッドはネルソンの元へ駆け寄ろうとしていた彼女の腕を掴み、 首を横に振ってそれを制する。 マリスがネルソンを助けようというのは至極真っ当な反応で、 アルフレッドが彼女を制するのは残酷なことのように思えなくもない。 しかし、ロレインが傍らに居たからこそ、ハブールを取り巻く過酷な現実と戦おうとするだけの勇気を、 ネルソンは振り絞ることが出来たのだ。 そのロレインが息絶えてしまった以上、生を長らえる事はネルソンにとっては何の意味もあるまい。 リインカネーションによって治療を施し、彼を生き延びさせる方が非情なのかも知れない。 命の灯火が消えかかった彼が、最期の思いを果たせるよう祈り、見つめ続けることしかできないのだと、 アルフレッドは決断を下したのだ。 「ロレイン……待っていて……くれ……まだ君に伝えていないこと……ある……んだ……」 目の前で終末を迎えようとしている人間を、治療もせずにただ見送るのみという選択は、 如何に人の生死にシビアになっているアルフレッドとは言え断腸の思いである。 出血してしまうのではと言うくらいに噛み締められた唇から、爪が食い込むほどに握り締められた手から、 彼の苦悩と無念は察せられた。 ゆっくりと進み続けるネルソンだったが、もう少しで外まで辿り着こうかと言うところで緩慢だった動きが更にゆっくりになり、 そして、程なくして全く動かなくなった。 これ以上はどうにもならない――自らの最期を悟ったネルソンは、闇に落ちていく視界の中でアルフレッドの姿を捜した。 すぐさまネルソンのもとへと歩み寄るアルフレッドだったが、最早、彼の目は光を失っており、 何処を見ているのかも定かではなかった。 最後の力を振り絞り、ロレインは己の腕を高々と掲げる。 「僕らは、幸せになることができなかった……でも、君たちは……君たちなら……」 差し出された手の中には指輪が――そう、プロポーズの際にロレインへ捧げようとしていたアメジストの指環があった。 息を吐くことさえままならず、最後まで言い切れない苦しそうな息遣いで、ネルソンはアルフレッドに指環を託す。 「……お前の思いは確かに受け取った。だから……安心して眠れ」 最後の、そして、悲壮な願いを聞き入れ、アルフレッドは彼の手をしっかりと握る。 神聖な誓いを立てるかのようにして、アメジストの指環を受け取ったのである。 既に指先には感覚など残っていなかったが、アルフレッドが指環を受け取ったものと信じたネルソンは、 精一杯の力で安堵の表情を作る。それから一つ大きく息を吸い込んだ。 どこか悲しげな表情になったネルソンは―― 「運命が悪いんだ、何もかも」 ――と言い残し、重力に押し潰されたようにぐったりとなった。そのまま二度と動き出すことはなかった。 恋人にも運命にも翻弄された果てに非業の死を遂げた哀れな青年に対して、 アルフレッドは掛ける言葉が思い付かなかった。弔いの聖句を唱えることさえ失念していた。 (……どこかで見ているのか、イシュタルよ。貴様らはこうやって人間の運命を弄ぶのか……? ネルソンもロレインも……幸せにならなければいけないふたりじゃないのかッ!?) 少なくとも、今のアルフレッドはイシュタルたちに死者の庇護を祈ることなど出来はしなかった。 全知全能のイシュタルであれば、苦しくとも懸命に生きる者たちへこのような「運命」を与える筈などない。 ささやかな幸せすら許さない無慈悲な女神など認めたくもなかった。 一切の感情が消え失せた面を引き摺りながらテントを出たアルフレッドは、 そこでけたたましい金切り声に鼓膜を打ち据えられた。 ルディアだ。遠い彼方で迷子になっていた意識が現実に引き戻されるや否や、 リボンを交換した友達を助けようと彼らの住まいへと向かおうとしたのである。 しかし、セレステたち労働者階級の子どもたちが暮らしていると言う方角は炎の壁で覆われており、 生存者が残っている可能性は絶無に等しい。 それでもルディアは助けに行くと言い張って聞かないのだ。撫子が羽交い絞めにして食い止めているが、 体力のない彼女ではいつまで保つかも分からない。 「このバカガキ、いい加減、おとなしくしや――……あッ!」 「メンゴなの、ナデちゃんっ!」 ついに撫子を振り解くことに成功したルディアであったが、その行く手に今度はアルフレッドが立ちはだかった。 「どいて、アルちゃ――」 邪魔する者を押し退けてでも先に進もうとするルディアの頬を、アルフレッドは平手で張り飛ばした。 炎の中に乾いた音が響き、それから暫時の沈黙が訪れた。 赤く腫れた頬を押さえながらへたり込んだルディアにも、周りに居た者たちにも、今、何が起きたのかが解らない。 アルフレッドが目下の人間に手を上げる様など、誰ひとりとして想像したことがなかったからだ。 復讐の狂気に染まっていたときでさえ、そこまでの暴走(あやまち)は踏み止まったのである。 「今、何しやがった? てめぇ、今、何しやがったんだよッ!?」 「待たれよ! 待たれよ、撫子ちゃん! これには深い理由がござるのじゃッ!」 「バカぶっこいてんじゃねぇよ、お孝さん! このガキ、とんでもねぇことしやがったんだぞ!?」 ややあってから事態を認識した撫子は、激昂してアルフレッドに掴み掛かろうとしたが、 彼の意を察した守孝がこれを取り押さえた。 アルフレッド当人は、へたり込んだままのルディアに視線を合わせると、 静かに、けれども感情がまるで感じられない声で「おそらく、お前の友人は誰も生き残ってはいない」と語りかけた。 「お前の友人は死んだ……みんな、死んでしまったんだ……」 「そんなの……わからないの……捜さなきゃ……ルディアは……みんなの親分――ヒーローなの……」 「皆殺しにされたんだッ! 現実から目を反らすなッ!」 しゃくり上げながらも反論するルディアの肩を掴み、アルフレッドは残酷なる現実を突きつけた。 一切の逃げ場を与えないよう強く言い諭した。 双眸に涙はない――が、その面は悲愴の色で塗り潰されている。 それにも関わらず涙を一粒も零さないのは、例え心が引き裂かれようとも、 決して慟哭はするまいと己に誓っているからに他ならない。 ネルソンもロレインも――ハブールの何もかもを救うことの出来なかった自分には、涙を流す権利すら与えられていない。 その思いがアルフレッドを衝き動かしていた。 「――お前は生きろ! 何としてでも生き延びろッ! それがお前の、遺された人間の務めだッ!」 その吼え声が撤退の号令であった。 禁を犯し、ルディアを平手打ちまでしなければ収拾出来ないほどに事態は逼迫しているのだ。 その衝撃は他の仲間にも波及しており、撤退と言う決断に反対する声は終ぞ上がらなかった。 * 最早、留まるべき理由を失った労働者階級の居住区をアルフレッドたちは北へと抜けた。 フィーナたちがワーズワースへ入る際に使った経路を逆進する形だ。 その一帯にはルーインドサピエンス時代の廃棄物が不法に投棄されており、 ワーズワースの中でも特に環境破壊の進んだ区画である。廃油に侵された大地にまで延焼すれば、 それこそ自然公園全体を巻き込むような大火災へと発展し兼ねない。 しかも、だ。大型クリッターが件の廃棄物を棲み処にしている。安全な場所まで逃れるには人類の天敵を退ける必要があった。 北へ進み切ればワーズワースから離脱することは可能だ――が、緊急時に於いてはまず選ぶべき経路ではあるまい。 背後より地面を舐めるようにして炎が迫る中、正面切って大型クリッターを相手にしなければならないのだ。 火の勢いが収まるまでの間、別の場所に避難しておくのがベターであろう。 しかし、貴族階級の居住区まで引き返すのは既に困難な状況であった。 到達時に用いた迂回路は疎(おろ)か、ストーンブリッジへ抜ける道まで炎の壁で塞がれてしまっている。 余りにも火勢が強い。環境汚染の影響から労働者階級が暮らす区域は他と比して非常に乾燥しており、 また、耐火性のない襤褸切れをテントの材料に用いていたのが延焼を加速させた次第である。 ホゥリーやレイチェルは、冷気を操る『フロフト』や水柱を立てる『ガイザー』を以って消火を試みようとしたが、 これはジョゼフによって制止させられた。神人(カミンチュ)へ歌舞を奉じている間に ふたりのほうが焼き尽くされてしまうだろう。 危険を承知で飛び上がったムルグの誘導のもと、唯一残された退路として已む無く北へと抜けたのである。 右手にはネルソンから受け取ったアメジストの指輪を握り締め、左手では混乱したままのフィーナを引っ張っている。 絶望の余り、フィーナはロレインの亡骸から離れられなかった。 アルフレッドは半ば引き剥がすようにして彼女の手を掴み上げたのだ。 フィーナと同じく動転から立ち直れないルディアは撫子が肩車で運んでいる。 救えなかった友人を思い、何度も何度も振り返るルディアは、小刻みに身体を震わせていた。 「畜生、出やがったッ!」 右手をメタル化させたまま、先頭切って駆けていたダイジロウが鋭く舌打ちする。 何事かと前方を窺えば、何体ものワニ型のクリッターが這いずり回っているではないか。 労働者階級の居住区から漂ってくる血の匂いを嗅ぎ付け、犠牲者の“死肉”を喰らおうと蠢き始めたのであろう。 身の毛も弥立つその様を見て取ったダイナソーは、球状にシフトしているMANAよりエネルギーの膜を展開させた。 その球こそがエッジワース・カイパーベルトのウェポンモードである。 出力等を調節し、攻守に使い分けるバリアジェネレーター(発生装置)と言うわけだ。 ジェネレーターの周囲を覆うようにしてバリアを展開させたダイナソーは、 にじり寄ってきた一体へ鉄槌の如くこれを振り落とした。 ピンポイントに集束させたバリアの一撃は、クリッターの装甲をいとも容易く打ち砕く。 頭部を粉砕された半機械半生体のワニは、その段階で生命活動を停止していたのだが、 馬乗りになったダイナソーは相手の状態など気にも留めずに攻撃を加え続けた。 「――この野郎ォッ! ブッ殺してやらぁッ!」 四肢がバラバラに弾け飛んでからもダイナソーはMANAを振り被る。そして、憤怒の叫びと共に強撃を叩き落すのだ。 クリッターを迎撃するべく右手を翳したダイジロウも、その鬼気迫る様に圧倒されてしまい、 ロケットの発射すら失念してダイナソーに見入っている。 未だ嘗て他者に見せたことのない姿であった。長年、アルバトロス・カンパニーで共に働き、 今は難民支援を志すパートナーとして傍らに在るアイルですら、このような激昂は初めて目の当たりにするくらいだ。 仲間の仇討ちか、それとも一所に留まり続ける愚かな獲物を喜んでいるのか、 左右から同時に別のワニ型クリッターが襲来するものの、眼下の敵にのみ意識を集中しているダイナソーは、 自身に迫る危機へ全く気付いていない。 ニコラスがガンドラグーンを、ハーヴェストが速射式グレネード砲――ムーラン・ルージュを変形させた物だ――を、 それぞれ放っていなければ、ダイナソーは間違いなく咬み殺されていただろう。 大型クリッターだけに一発のみでは致命傷には至らず、ローガンとフツノミタマが追撃に飛び出し、最後は接近戦で仕留めた。 特にローガンが相対した一体は生命力が桁外れであり、ホウライを纏う拳でもって腹に風穴を開けられようとも動き回った。 加勢に入った守孝が槍を突き立て、ネイサンが電磁クラスターで頭部を爆破し、ようやく絶命したのだ。 それでもダイナソーは後ろを振り返ろうともしなかった。 何かに取り憑かれたようにバリアジェネレーターを振り落とし続けている。 彼の眼下に在るクリッターは、既に原形を留めない程の残骸と化していた。 「どこ見てんだ、このバカッ! 死にたいのかよッ!?」 更に別のワニ型クリッターへとヴァニシングフラッシャーを照射しつつ、ニコラスはダイナソーへ叱声を飛ばした。 周囲に響くような大喝であったのだが、その親友の声すらもダイナソーには届かない。 アイルが後ろから抱きすくめていなければ、ダイナソーはバリアジェネレーター自体が壊れてしまうまで 攻撃の手を緩めなかったことだろう。 自分の出る幕ではないと判断して右手のメタル化を解きつつ、ダイジロウが「……辛ぇよな」と呟いた。 その視線は、やはりダイナソーへと向かっている。 ハブール難民を救えなかった無念がダイナソーを暴虐へと駆り立てるのだ。 彼が本当に叩きのめしているのは、粉々になったクリッターではなく己自身である。 その気持ちがダイジロウには痛いほど分かった。グドゥーの使者として意気揚々とワーズワースに入っておきながら、 そこで暮らす人々の為には何もしてあげられなかったのだ。これ以上に悔しいことはない。 「……ダイちゃん、また自分を責めてるだろう? 何もかも背負い込んでしまうのは身体に毒だよ」 「真っ青な顔してるヤツに言われたくないぜ。……お互い様だ」 狂った世界としか言いようがなかった。背後では大勢の難民が惨たらしい最期を迎えていると言うのに、 自分たちは逃げ場を得る為にクリッターを掃討しているのだ。 虚しい限りの掃討戦も間もなく終わろうとしている。最後に残った一体は眉間を鉛弾で撃ち抜かれて息絶えた。 フィーナのSA2アンヘルチャントではなく、ヒューのRJ764マジックアワーによるものでもない。 ましてや、暴徒化した難民が撃発したわけでもなかった。 ラトクである。いつの間にやら一行に混ざっていたラトクが、自慢のシャープスカービンにて狙撃の腕前を披露したのだ。 「さすがにあんな場所に置いてきぼりにされるとは思わなかったよ。連絡くらいしてくれたって良かったんじゃないかい? こちとら心細くて半ベソだったんだよ。四十路半ばのダンディズムがね」 銃口より立ち上る煙を気障ったらしく吹き消すラトクであったが、彼は彼で危地から脱するのに難儀したようだ。 火の粉舞う中に身を投じていたのだろう。スーツのあちこちが焼け焦げていた。 彼はジョゼフに命じられ、労働者階級の混乱を探るべく別行動を取っていたのだ。 口振りこそおどけていたが、推察するに相当な苦労を重ねてようやく一行に追い付いたらしい。 ラトクが東の居住区へ飛び込んだのは暴動が発生した後である。死地に向かわせたようなものであり、 ねぎらいの言葉くらいあっても良さそうだが、ジョゼフは寸暇すら与えずに報告を求めた。 「一体、何があったのじゃ、ラトク!? 何ゆえ、斯様な有り様となったのじゃ!?」 「……申し上げにくいことなのですが――」 ジョゼフから詰め寄られたラトクは、一瞬だけ眉間に皺を寄せ――新聞王の人使いに嫌気が差したのではなく、 報告すべき内容に躊躇の念があったのだ――、咳払いをひとつ挟んでから惨劇の一部始終を語り始めた。 兼ねてよりフォテーリ家が所有する配給承認証に目を付けていたらしいロレインは、 テントまで訪ねてきたネルソンに一服盛ってそれを強奪した。 彼を愛していた筈のロレインがそのような事をするのかと俄かには信じ難いが、謀殺を裏付ける物は幾つもある。 事実、フツノミタマは毒の入った小瓶を棚に発見していたのだ。 やはり、目の錯覚ではなかったのだと、最悪の結末を以って確認することになったフツノミタマは、 心中にて「……救えねェバカだぜ……」と呟いた。 フィーナは首を横に振るばかりである。ロレインの行動は、最早、彼女の理解の限界を超越しているのだろう。 愛とは何者をも裏切らないとフィーナは信じて疑わなかった。 ならば、ロレインは最初からネルソンのことなど愛していなかったのだろうか。 逢瀬のときに交わしていた恋人らしい言葉すら、貴族から特権を奪う為の欺瞞に過ぎなかったのであろうか――。 今となってはロレインの本当の気持ちは分からない。 自分を想っていてくれたネルソンを裏切った負い目なのか、それとも、殺害の現場から一刻も早く逃げ出したかったのか、 ロレインは目当ての承認書を握ったまま外に出てしまった。 そこに第一の誤りがあった。 その直後、餓えに苦しむ貧民窟の者――つまり、彼女と同じく配給承認証を持たざる者だ――に運悪くそれを発見され、 どこで入手したのかと彼女は問い詰められる。 迫る男と、入手経路に関して口を割らないロレインの間で口論が起こった。 たちまち他の難民たちも集まり、事態は紛糾した。 このまま言い争っていても埒が明かないと判断したのだろうか、ロレインは男たちの傍から逃げ出そうとし、 それを制止しようとした難民のひとりが勢い余って発砲したと言うことである。 「それがあの最初の発砲だったという事か。だが、何故それがこんな大事に至った?」 「そこからさらに話がややこしくなるが――」 アルフレッドの疑問に回答するように、ラトクはさらに時系列に沿った話を進める。 射殺されたロレインの手から配給承認書が滑り落ちた。ハブール難民にとって何にも勝る至宝が、だ。 その至宝を――たった一枚の紙切れを巡って、今度は労働者間で争いが起こったのである。 ロレインから流れ出る血の色によって、あるいは発砲音によって、皆の抑制が壊れていたのだろう。 あっという間に銃撃戦と相成り、無関係な人間にまで死傷者が出ると言う事態と陥った。 このまま最後まで残った者が手にするのかとラトクは予測を立てたのだが、 際限なく暴走する狂気が、理性に基づいて導き出された着地点へ向かう筈もない。 「ひとつの物を奪い合うよりは貴族どもから奪ってきたほうが楽だ」 誰かの漏らした恐るべき一言が引き金となり、それに賛同した暴徒たちがそのままの勢いであちらこちらを荒らし回り、 大規模な暴動にまで発展していったと言うことであった。 そして、貴族からの略奪を呼びかけたのは、本来、このような暴挙を抑えるべきアバーラインであると言う。 「……ウソでしょ……他のヤツならまだしも……あの人……まともそうだったのに……」 貧民窟の中にあって理性を保っていたアバーラインが忌まわしい略奪を指揮するなど信じ難く、 ジャーメインは頭を抱えながら首を左右に振り続けている。 誰もが言葉を失う中、ラトクは更に残酷な事実をアルフレッドたちに突きつけた。 ストーンブリッジを渡る前に暴徒が向かったのは神学校であった。 レイニーウィークと言う古い風習から精神的に解き放たれようと、預言者の教義を伝道してきたソテロを血祭りに上げたのである。 暴徒からすれば信仰と言う名の枷を外す為の儀式(セレモニー)であったのかも知れない。 冷静になるよう訴えるソテロの眉間をアバーラインがライフルで撃ち抜き、他の難民たちも彼に倣った。 何十発もの銃弾を撃ち込まれたソテロの遺体はバラバラに弾け飛んでしまったが、 それでもアバーラインたちは銃爪を引き続けたそうだ。 理性の維持などと言う問題ではない。アバーラインたちは完全に狂っていた。手にした暴力(ちから)に酔い痴れ、壊れていた。 おそらく、ひとりふたりと射殺する内に得体の知れない快楽を覚えるようになり、 それが群集心理の中で増幅され、遂には破裂したのであろう。 アバーラインたちは狂気の銃弾によって己の良心を葬ったのである。 「今まで虐げられてきた者たちが、銃という強大な力を手に入れたのじゃ。根拠のない万能感を覚えて無茶な行動に出る。 自分たちの手に余る力を持てば、それに支配される。行き着く先は悲劇じゃ……」 ちょっとした誤解と言ったような、単体であればどうとでもなるようなことであっても、 それが複雑に絡み合うことで負のエネルギーが増幅されるケースは少なくない。 この暴動とて同じだ。幾つもの要因が絡み合った末の悲劇だった。 「それがどうした。そこまで見ていながら、なぜ何もしないで傍観していた!?」 起きてしまったことに対してどうこう出来るわけでもないのだが、それでもアルフレッドは例えようのない憤りに駆られ、 冷静に事情を話したラトクの襟を両手で掴み上げてしまった。 「無茶を言わないでくれ。あんなことになっては人間ひとりの手ではどうにもならない。 一旦発生した激流を食い止める事なんて出来やしないさ。そうだろう?」 「――すまん、あんたの言う通りだ。……だが、しかしだな……」 たったひとり、ラトクの独力だけでは狂気に支配された労働者たちを止められない。 そんなことはアルフレッドにも分かっているつもりだったが、しかし、それを受け入れられるだけの余裕は、 今の彼にあるはずもなかった。 振り上げたのは良いが、どこに下ろせばよいのか困った拳を無理矢理動かすように、 襟を掴んでいた両手でラトクを突き飛ばしたアルフレッドは、やり切れない思いを吐露した。 「理由はどうあっても、そんな殺し合いを黙って見ているだけだなんて、そんなことできないッ! 難民の人たちを助けるって決めたんだから、何としてでも止めさせなきゃ!」 「だめです、シェインさん! 落ち着いてください! 相手は何人いるか分からないんですよ!? 私たちだけでは、もうどうにもなりませんッ!」 「わかんねぇだろッ! やらない内から諦めてどうするんだよ! こうしてる間に何人も……ッ!」 「思い出せ、シェイン! ジャスティンが言ってただろ、『難民の心を変えなきゃ何も解決しない』ってよ! ……ただ組み敷きゃいいって問題じゃねぇ! だから、どうしようもねぇんだ! オイラたちは何も出来ねぇんだッ!」 完全なる狂気に冒されているのであれば、暴徒と化した労働者たちは貴族を一人残らず探し出して惨殺するだろう。 話をつけると決意したトゥウェインとて全身を撃ち抜かれて終わりである。 そんなことは絶対にさせない――ビルバンガーTを具現化させてでも西の居住区へ戻ろうとするシェインを、 ジェイソンとジャスティンがふたりがかりで押し止めた。 「ダチのほうがよっぽど現実ってのを解ってるじゃねぇかッ! 頭冷やせ、このクソガキッ! 剣じゃ人の心までは斬れねぇッ! どんな名刀だって今は何の役にも立たねぇんだッ!」 「オヤジ……」 「……オレたちの剣は、もう通じねぇんだよッ!」 叱咤するフツノミタマにもシェインの気持ちは痛いほど分かる。 しかし、ここに至っては全てが手遅れであった。川を挟んで見えるのは、暴力と破壊の衝動に支配された人々と、 それによって成された惨劇だ。銃声が、絶叫が、悲鳴が――どれもこれもが聞こえない瞬間はない。 ここまで行き着いてしまった状況を収拾することなど、アルフレッドの鬼謀を以ってしても不可能であった。 メタル化したダイジロウとテッドを投入すれば銃弾を跳ね返せるかも知れない。 あるいは、トラウムとプロキシを総動員し、暴徒を鎮圧することは不可能ではない。 MANAを駆使してトゥウェインだけでも救い出すと言う道がないわけではない。 だが、それでは何の解決にもならないのだ。ハブールは、死んだのだ。 最悪の結末を見せ付けられて、一同は茫然自失となったまま立ち尽くしている。 まるで劇場に招待された観客のように、皆がこの惨状を見守り続けるしかなかった。 他の誰よりも暴力や血生臭い場面を好む撫子も、「こいつは酷でえな」と漏らしたきり沈黙し、 普段から締まりのない表情ばかり見せているホゥリーですら、「テリブルなディザスターだネ」と、神妙な面持ちとなっている。 しかし、悲劇はこれで幕引きとはならなかった。狂気の舞台となったワーズワースには更に新たな参加者が現れる。 重厚な金属音をかき鳴らしながら、数台の戦闘車両が駐屯地より出動していくのが望遠出来た。 改めて詳らかにするまでもなく、乗りつけようとする先は貴族階級の居住区である。 (何をするつもりだ、ギルガメシュ……) その自問さえ愚かと言うものだ。この地を“支配下”に置くベイカーが難民の暴動に対して打つべき手はひとつ。 戦闘車両を投入したことが駐屯軍の判断を余さず物語っていた。 「お前ら、ここにいたのかよ!」 そのときである。轟々と燃え盛る労働者階級の居住区を突っ切ってヴィンセントが姿を現した。 見れば、マクシムスとシルヴィオも後続している。 暴動が起こってからと言うもの、連絡を取り合うことが出来なくなり、互いの安否すら確かめていなかったのだが、 どうやらヴィンセントたちも一行と同じ避難経路を選んだようだ。 東の区域一帯を夜回りしていたと言うシルヴィオの機転に違いない。 彼はその背に一挺のライフルを担っていた。当然、アルフレッドにも見覚えがある。労働者のひとりが携えていた物だ。 スコットに掛け合ったのか否かは定かではないものの、密売者を暴く為の手掛かりを首尾よく手に入れたようである。 しかし、このような状況ではその成果を誇る気にもなれないのだろう。 彼は先程から何も喋ろうとせず、ただひたすら苦しげに俯き続けていた。 「……あんたたちだけでも無事で良かったよ」 「挨拶は後だ! ボヤボヤしてる場合じゃねぇ! とっとと逃げるぞ! ここはもうヤバいッ!」 めまぐるしく変化するこの状況へ完全に飲み込まれていたアルフレッドは、 ヴィンセントの言う意味もすぐには理解出来なかった。 「な、何だよ、これ以上、どんなヤバいことがあるって言うんだよ……」 「治安維持を口実にしてギルガメシュのヤツらがワーズワースの『掃除』を始める。一刻も早く逃げろ!」 ニコラスに答えたのはマクシムスである。 彼ら三人は暴徒と化した労働者から逃れるように、一旦、自分たちのキャンプ地まで戻っていたのだが、 そこから難民の居住区へ突入する駐屯軍の姿を捉えたと言うのだ。 「はあっ!? どうしてギルガメシュが!?」 『掃除』の意味を測り兼ねているニコラスに成り代わり、シェインが身を乗り出して聞き返したものの、 焦りの表情が色濃いヴィンセントとマクシムスには、それに回答している余裕など残っていなかった。 一刻も早く皆をワーズワースから避難させようと、大きなゼスチャーで捲くし立てるばかりである。 そのとき、またしてもワーズワースに変化が訪れた。 あるいは、事態が最終局面に入ったことを告げるものであったのかも知れない。 先程から聞こえてきた銃声が一段と大きくなった。しかし、それは労働者たちが手にしている銃では出せない音だ。 ギルガメシュの戦闘車両に備え付けられている機銃が火を吹いたのである。 暴徒化したとは雖も、相手は庇護の対象であるべき難民だ。まずは説得を呼びかけるのが道理と言うものだ――が、 駐屯軍にそのような心配りなどない。“標的”を捕捉した次の瞬間には掃射が開始されていた。 マクシムスが伝えたことそのものだった。 ベイカー率いる駐屯軍には暴徒を説得する気などは更々なかった。 一体、兵士たちにはどのような報告が、そして、命令がなされていたのかは知る由もないが、 彼らは暴徒の鎮圧に当たり、警告や威嚇すらせずに問答無用で機銃掃射という非情な手段を取ったのだ。 目の前で次々に射殺されてゆく人間を見るうちに、暴徒たちの狂気は恐怖へと変化していく。 今までは狩る側にいた筈が、一転して狩られる側となったのだ。 腹部や腕が千切れとんだ死体――今まで自分たちが作り出したものよりも損傷が激しい――を飛び越えながら、 暴徒たちは必死の思いで逃げ去ろうとする。 だが、ギルガメシュ兵の掃射は更に激しさを増し、また車両から降り立った兵士も携行している火器を使用して、 逃げ惑う人々を的にしてゆく。 最高潮にあった悲鳴は徐々に小さくなっていき、死体の上に別の死体が重なり、 たちまちワーズワースは血と火薬の臭いで満たされた。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |