13.もうひとりの軍師


 アルフレッドたちが佐志へと帰港したのは、暴動から一両日を経た後のことだった。
 ワーズワースへ向かう道中にて合流したダイジロウとテッド、更にヴィンセントたちも一旦は佐志に身を寄せている。
皆がみな、心身ともに疲労困憊だった。少しでも静養を取らなければ、それぞれの根拠地へ戻ることもままならない。
化け物じみた体力を誇るシルヴィオですら、第五海音丸の船上で一言も喋らなかったのである。
 余りにも重苦しい帰還であった。皆を出迎えた源八郎は、アルフレッドたちがグリーニャから戻ったときのことを
思い出さずにはいられなかった。アルフレッドも、フィーナも、シェインも――あの日と同じも絶望の色に塗り潰されていた。
 桟橋へと降り立ったアルフレッドは、ねぎらいの言葉を掛けてくれるカッツェとルノアリーナを無視し、
そのまま独りで丘の上の慰霊碑へと向かった。
 海と町とを一望出来る丘の上には、グリーニャで犠牲になった人々を弔う慰霊碑が建てられていた。
石碑の隣には鎮魂の鐘楼が設けられており、ここを訪れた人々が失われた命を慰めるべく鐘の音を響かせるのだ。
 守孝はここに新たな慰霊碑を建てると誓っている。グリーニャと同じくギルガメシュによって攻め滅ぼされたシェルクザールと、
ワーズワースにて虐殺されたハブール難民を弔う石碑である。
 疲れ切った身体を引き摺りながら丘を上り、グリーニャの慰霊碑まで辿り着いたアルフレッドは、
祈りを捧げることもなく、鎮魂の鐘を打ち鳴らすでもなく、ただ虚ろな表情で立ち尽くしている。
 またしても、理不尽な暴力を食い止めることが出来なかった。
グリーニャと同じ悲劇が繰り返されるのを、あろうことか目の前で許してしまった――
どうしようもない無念が吹き荒び、アルフレッドをズタズタに引き裂いていた。

(軍師だ何だと持ち上げられても、所詮、俺の力などこんなものだ。……笑ってくれ、クラップ)

 心中にて今は亡き親友に語り掛けるが、答えなど返ってくるわけがない。
せいぜい己自身で想像した声が虚しく反響する程度である。それは都合の良い妄想に過ぎなかった。
 そもそも、だ。亡き親友の声を想い出す気力さえ今のアルフレッドには残されてはいないのだ。

「よもや、これで終わってしまうようなタマではあるまいの……」

 イシュタルの御許へと召されたクラップの代わりに、別の声がアルフレッドの背に突き刺さる。
声のした方角を振り返れば、そこには坂を上ってくるジョゼフの姿が在った。

「御老公……」
「この程度で折れてしまわれても困るのじゃがな……」

 間もなくアルフレッドに追い付いたジョゼフは、彼に向かって自身のモバイルを差し出した。
 どうやら通話中のようだ――が、誰の着信であるかは尋ねるまでもなく判っている。
 ジョゼフからモバイルを受け取ったアルフレッドは、送話口へ「恨み言なら聴く準備がある」と擦れ声を吐き出した。

「……声が死んでるにょ。うんにゃ、死んでるにょは心のほうかにゃ? 
どっちにしても、あんたしゃんに文句を言うつもりなんきゃ、しゃらしゃらにゃいにょ」

 アルフレッドの予想した通り、着信の相手はコールタンであった。
 否、予想も何もあるまい。この状況でジョゼフのモバイルを鳴らす人間など極僅か。
ましてや、新聞王を経由してアルフレッドに連絡を図るのは彼女くらいのものである。

「それ以外に何の用がある? 俺たちは依頼にしくじった。責めを負う覚悟も出来ている」

 悲劇の場に居合わせながら、何も出来なかったアルフレッドは、
有らん限りの自嘲を込めて、失敗の責任を引き受けるとコールタンに返す。

「責任を負わにゃきゃにゃらにゃいのはこっちのほうだにょ。……しょにょことで、今日は悲しいお知らせがあるにょ」

 悲報をほのめかされたアルフレッドは、反射的にジョゼフへと目を転じる。
既にその委細を知っているだろう新聞王は、真紅の瞳から逃れるように顔を背けた。
その顔もまた苦悶に歪んでいる。

「あれ以上のことが……あるとでも言うのか?」

 アルフレッドが搾り出した詰問の声は、哀れに思えるくらい擦れ切っていた。
「あれ以上のこと」などあってたまるかと、頭を振り続けている。

「とても残念だにょ。つい今し方、特別法廷で……逮捕されたハブールの人たちは……みんな、処刑されてしまったんだにょ」
「それは……それは、どういう意味だ?」

 よもや「処刑」の二文字を聞くとは考えていなかったアルフレッドは、コールタンの説明へ思わず口を入れる。
 暴動当夜、アバーラインを始めハブール難民の三分の二以上が命を落としていた。
暴動による死者と、その後に行われた『掃除』の犠牲者の割合は定かではないが、
一夜にして壊滅状態に陥ったことだけは確かである。
 さりながら、根絶やしにされてしまったわけではない。ハブール全体からすればほんの一握りかも知れないが、
生存者も確認はされていたのだ。そう言った者たちはベイカーの手によって“逮捕”されていた。
 だが、拘束の先に待ち構えていたのは、暴動よりも更に残酷な運命であった。
 駐屯軍によって逮捕された者は得体の知れない裁判に掛けられ、
労働階級の者は反逆罪で、貴族階級の者はそれを幇助した罪で、それぞれ極刑に処されたのである。
 『特別法廷』と名付けられてはいたものの、被告側たるハブールには弁護士など付けられず、
そもそも彼らに弁明の機会は認められない。
 ただ一方的に判決を――極刑を言い渡すのみである。裁判の形式(かたち)すら整えられてはいなかった。
 刑死した者の中にはトゥウェイン・フォテーリの名もあったという。
 彼は最期の最後までハブールの代表らしく毅然と振る舞ったとコールタンは打ち明けた。

「一切の責任は代表者の私にあります。私の身はどうなっても構いません。他の者は解放していただきたい。
彼らは難民だ。……あなたがたの慈悲に縋らねば生きていけない弱い者なのです。
そんな人間を処刑したところで、ギルガメシュの誉れとはなりますまい」

 それがトゥウェインの、ハブール代表者の最後の言葉である。
 己の同胞たる貴族階級だけでなく、僅かに生き残った労働者階級の人々をも守ろうとしたのだ。
難民キャンプに於いて、自分たちが生き残る為に散々足蹴にしてきた人々を、だ。
 先に逝ったネルソンやロレインへ果たすべき責任と考えていたのかも知れない。
 だが、その勇気がギルガメシュの怒りを買った。反逆の首謀者と断定された挙げ句、
まるで見世物のように首を刎ねられてしまったのだ。
 しかも、だ。トゥウェインの首は『ブクブ・カキシュ』の兵営に晒されていると言う。
そのやり口もまた非道だ。路上に獄門台を立てるなど、これ以上ないほど死者を冒涜している。
 他の者が銃殺刑であったのに対し、余りにも惨い仕打ちではないか。

「バカな……」

 僅かな期間ではあったものの、ネルソンたちハブール難民と関わる中で様々なことを考えさせられた。
出来ることならば、彼らを苦境から救い出したいとも願っていた。
 だが、そのネルソンは悪夢のような暴動の中で命を落とし、トゥウェインもまた理不尽極まりない最期を遂げた。
 ワーズワースでの記憶が走馬灯のようにフラッシュバックしたアルフレッドは、声を詰まらせ、その場に崩れ落ちてしまった。

「本当のレイニーウィークになってしまったんだにゃ……」
「……どういう意味だ」

 コールタンも湿った声で話を続ける。
 トゥウェインがアルフレッドに説明した『レイニーウィーク』――
その根本は、どうやら現代に伝承された内容とは少し違っていたようだ。
 ハブールに伝わるレイニーウィークと言う風習は、本来、安息の為に設けられたものではなかった。
嘗て亡くなった者たちを偲んで、一切の労働を排して祈り、泣き続ける為の期間であると言うのだ。
 時代や人の変遷と共にレイニーウィークの意味も変わったのだとコールタンは締め括った。

「……それが何だって言うんだ……」

 しかし、そのように説明をされたところで、アルフレッドには何の慰めにもならない。失われた命も二度とは戻らない。
古来の風習などに想いを馳せても何ら意味がないのだ。

「貴様に与えられた時間は祈りを捧げる為じゃなく、その地位を利用してひとりでも多くの難民を助ける為にあるはずだ。
……お前なんぞに死者を弔う資格があると思うな!  安息の時間もある筈が無い!」

 コールタンもただ手を拱いているわけではなかっただろう。自分が出来得る限りの手を打っていた筈である。
彼女の語り口からは、一方ならぬ心労があったことも察せられる。
 だからと言ってアルフレッドには到底納得の出来るものではない。

「何がレイニーウィークだ――ふざけるんじゃねぇッ!」

 抑えようのない強烈な憤怒に支配され、込み上げる感情を激しく吐き出したアルフレッドは、
通話状態のままモバイルを地面に叩き付けた。
 衝撃で液晶画面が壊れ、何も表示しなくなったモバイルからは、なおもコールタンの声が聞こえてくる。
 しかし、今のアルフレッドはそれに耳を傾けられるような精神状態ではなかった。

「……よもや、これで終わってしまうようなタマではあるまいの」

 先程と同じ問い掛けを繰り返すジョゼフに対しても、アルフレッドは何も答えようとはしなかった。
 しかし、その双眸は絶望に沈んではいない。復讐の狂気に歪んでいるわけでも、
ギルガメシュへの怨嗟を煮え滾らせているわけでもない。
 静かな、けれども強い光を宿していた。その光を以ってして、アルフレッドは己の為すべきことを見定めようとしていた。

(終わらせてなるものか……あいつらが生きたかった未来を、エンディニオンを――絶対に終わらせはしないッ!)

 残酷な運命に弄ばれて疲弊し、片膝を突きながらも、アルフレッドは“前進”することを決して諦めない。
 勇気ある一歩を踏み出さんとするその姿に、ジョゼフは満足そうに頷いていた。





 エンディニオン史上類を見ない暴動の舞台となったワーズワースには、
事件を検証する為に『ブクブ・カキシュ』から調査隊が派遣されていた。
 暴徒の鎮圧や反逆者の処刑を以って解決とするのは余りに乱暴であり、
また楽観が過ぎるとコールタンが強硬に主張した結果である。
 一過性の出来事として締め括ってよいほど単純な事件ではなかった。
ギルガメシュはワーズワース以外にも数多の難民キャンプを抱えているのだが、
そうした場所でも同じような暴動が発生しないとは限らない。
今回の一件が風聞となって他の地域にまで流れ込めば、その危険性は加速度的に高まるだろう。
 あってはならない失態を二度と繰り返さない為にも綿密な調査を実施し、最善の対策を練り上げる必要があった。
難民の感情を疎かにするのは、災いの芽を残しておくことにも等しいのだ。
 ワーズワースから教訓を受け取らない限り、『ディアスポラ・プログラム』の進捗はおろか、
ギルガメシュは難民救済の大義すら見失う――そこまでコールタンは強弁していた。
 フラガラッハやアサイミーと言った強硬派――アサイミーの場合は先だっての醜態を誤魔化そうとの目論みだが―-は、
武力に物を言わせて抑え付ければ手っ取り早いと反論を唱えたものの、
比較的穏健なグラムやバルムンクがコールタンに同調したことで議論はふたつに割れた。
 ギルガメシュの軍師たるアゾットは、また少し違う見方をしている。
将兵の怠慢を戒める“装置”として、難民キャンプを上手く使っていきたいと腹の底では目論んでいた。
暴動にまで拗れるのも困るが、難民から駐屯軍に対して突き上げが起こる分には一行に構わない。
これによって難民救済の難しさと言うものを常に意識させようと言うわけだ。
 ギルガメシュの将兵も、保護した難民も、生かさず殺さず転がしていくのがアゾットの理想である。
尤も、話し合いの場では助手のトキハに配慮してコールタン支持の立場を取っている。
 嘗てエトランジェに所属していたトキハは、ワーズワースと同等の地獄を味わった経験があり、
今度の一件に関しても最初からハブール難民に同情的だったのだ。
 そのトキハはワーズワースの顛末を聞かされた直後から全く活気を失っている。
アゾットとしても“愛弟子”を元気付けてやりたかったのだろう。
 反逆者は漏らさず裁くよう命じていたカレドヴールフも最終的にはコールタンの主張を容れ、
ワーズワースの現場検証が執り行われる運びとなった。

 その役目を任されたのは、他ならぬゼラール軍団であった。コールタンの肝煎りで調査隊に選出された次第である。
 ギルガメシュ入隊後の初出動にしては地味な任務だが、テムグ・テングリ群狼領からの寝返りを周旋してくれた恩人、
コールタン直々の指名とあっては引き受けないわけにはいかなかった。
 折角ならば合戦で武勲を立てたいと減らず口を叩きながらワーズワースを目指していた軍団員であったが、
現地に到着した瞬間、その意識は一変することになる。
 そこは、難民キャンプと言う事前の情報が吹き飛んでしまうほどの焼け野原であった。

 軍団員の中には以前にワーズワースを訪れた人間もいたが、その者が眺望した光景など殆ど残っていない。
豊富に群生していた筈の天然自然は七割がた灰燼に帰しており、禿山の如き様相を呈していた。
 最大の名所とされているストーンブリッジすら真っ黒な煤で穢されてしまっており、
至る場所に焼け焦げた痕跡も散見された。戦闘車両の往来や流れ弾の直撃によって橋自体もかなり損壊している。
 駐屯軍の報告書や特別裁判の記録によれば――暴動を起こした労働階級の難民が自身の居住区に火を放ち、
これが際限なく延焼した為に七割の自然が焼け落ちたのだと言う。
 労働者階級の難民は駐屯軍の知らない間に何処からか大量の銃器を入手しており、これを以って暴動に及んだとされている。
特別裁判で下された罪科は「反逆」であるが、その実態は身の毛が弥立つほどに恐ろしい。
武器を取った暴徒は、ギルガメシュではなく同じ難民へと銃口を向けていたのだ。
 ハブールに根差していた階級制度、即ち身分差別が招いた暴動であると報告書には記載されていた。
 件の書類には別の記述もある。如何なる事情があれども武器を持って暴動を引き起こすことは、
ギルガメシュに対する重大な反逆行為であり、その庇護より脱却することにも等しい――と。
 これこそが「反逆罪」に処される根拠であった。密かに大量の銃器を買い揃えていたことも問題のひとつに挙げられている。
偶々、難民同士の殺し合いに使用されたものの、いずれはギルガメシュに牙を剥いていただろうとの推論も添えられていた。
 ワーズワースの生存者は、以上の根拠に基づいて「反逆罪」と見なされ、極刑を言い渡されたのである。

 では、この地で起きた暴徒の鎮圧はどうか。そこに正当性はあったのだろうか。
 大量の銃器が使用されたと言う理由から駐屯軍は戦闘車両を駆り出し、暴徒の鎮圧に当たった。
しかし、難民の全てが銃を取って暴れたわけではない筈だ。
 駐屯軍の掃射による犠牲者には、明らかに暴動と無関係の者が含まれている。否、「含まれている」どころの話ではない。
一部過激派の巻き添えとなって掃射の餌食にされた者が大多数を占めていたのである。
 但し、報告書の上ではハブール難民は総員が「暴徒」に分類されている。
ワーズワースで暮らしていた人々は、誰もが制裁の対象であったと駐屯軍は主張したのだ。
 無関係の人間まで“誤射”した駐屯軍が責任逃れの為に帳尻合わせを図ったとしか思えなかった。
正常(まとも)な軍隊であれば、絶対に許されない行為であるが、
ギルガメシュに於いては「反逆罪」と言う事実が先行し、このような悪逆非道が罷り通っている。
 暴徒の括り方も含めて、駐屯軍の報告書と特別裁判の記録には不審な点が多過ぎた。

「――で? ぶっちゃけ、あんたはどう思ってるんだい? ここを仕切ってた連中、どうもいけ好かないんだよねェ」
「好かねェどころか、虫唾が走るぜ。毛ほども信用してねぇし、上層部(うえ)の皆サマもキナ臭ェと思ったから、
オレたちを差し向けたんだろうよ。ベイカーとか言う隊長、叩けば埃が出まくるんじゃねぇのか?」
「その証拠でも掘り起こそうってのかい? ……気が滅入るねぇ、ホント。陸の上は見たくもないモンばっかりだ」
「そう言うなよ。オレんとこの故郷(さと)は、お前、気に入ってたじゃねぇか」
「ダンナの実家まで嫌いになったら、それこそ行く場所ないだろうに。あんたにゃ嫁(おんな)の気持ちは分からないさ」
「……お前の口からそんな台詞が飛び出すとはなァ。オレは夢でも見てんのかね」
「おぉ、いやだいやだ! 亭主(おとこ)の気楽は見てるだけでムカッ腹が立ってくるよ!」

 犬も食わない夫婦喧嘩はさておき――駐屯軍より渡された情報についてカンピランは信憑性を甚だしく疑っている。
 信頼に足りるか否か、愛妻から意見を求められたトルーポは、迷うことなく首を横に振った。
彼は難民キャンプの管理方針をも含めた駐屯軍の体質を疑問視しているのだ。
 今回の暴動に於いては、事前の銃器流入問題がひとつの要点である。
 Aのエンディニオンの人間が、どうして外部より銃器を仕入れる必要があったのか、
そこからしてトルーポには不思議でならなかった。
 彼らにはMANAがある。ビークルからウェポンモードにシフトさせるだけで強力な戦闘能力を確保出来るのだ。
現場から押収された銃器も確認したが、暴動に使われたのは相当古い世代の物ばかり。
MANAを持つ者たちがリスクを冒してまで型落ちの武器を入手する理由が見当たらないのである。
 報告書を読む限り、難民側は誰ひとりとしてMANAを所持していなかったと言うことだ。
 これもまたトルーポには引っ掛かった。MANAそのものはAのエンディニオンでは一般に普及した物であり、
トルーポ自身、両帝会戦の折に現物を視認している。ニコラスがガンドラグーンを用いる場面にも幾度か遭遇していた。
 市井で広く使われている筈のMANAを、何故かハブール難民だけが持っていない。
これは信仰上の理由なのか。それとも、駐屯軍によって取り上げられてしまったのか――
軍備の不足を市民から徴発すると言うケースも珍しくはない。
 身分差別から生じた両階級の感情の軋轢についても不可解な点が多い。
こうした衝突を起こさせないよう監督してこその駐屯軍ではなかろうか。それがこの地を預かる責任と言うものである。
 報告書を読んでも、裁判記録を確認しても、難民キャンプがどのように管理されていたのかが判然としないのだ。
不審に思う点を質そうにも、ベイカーたち駐屯軍は既にワーズワースを立ち退いてしまっている。
最早、自分たちの仕事は終わったとばかりの速やかな撤収であった。

 ベイカーたちと入れ違いでワーズワース入りしたゼラール軍団は、
まず駐屯地に入り、そこで各人の割り振りを決めた後、本格的な現場検証を開始させた。
 高所に位置する駐屯地より見下ろす光景と実際の焼け野原は、当然ながら何もかもが異なっていた。
犠牲者の遺体は埋葬もされずに打ち捨てられており、その殆どが銃砲の直撃によって酷く損壊していた。
 軍団員たちが最も胸を痛めたのは、ストーンブリッジを挟んだ東の区域――労働者階級の居住区の有り様である。
年端も行かない子どもの遺体が多く、中には母親に抱かれたまま炎に焼かれたと思しき赤子の姿もあった。
 正視に堪えない惨状であるが、犠牲者の為にも真相を究明せねばならないと、
ゼラール軍団は歯を食い縛って調査に取り組んでいる。
 調査隊の中にはラドクリフの姿もある。心の底から込み上げてくる感情を必死に抑えつつ、黙々とプロキシを使い続けていた。
瓦礫を撤去する事前に水を浴びせ、粉塵が舞い散らないよう工夫しているのだ。
 自分とあまり変わらないような子どもたちの遺体と対面することは、ラドクリフへ筆舌に尽くし難い苦しみを与えているのだが、
それでも彼は弱音ひとつ吐こうとしない。今にも切れてしまいそうなか細い理性を奮い立たせるようにして、
棒杖(ワンド)を振るい続けている。

(……シェインくんやジェイソンくんと一緒じゃなくて良かったよ。こればかりは見せたくない――)

 しかし、ルディアと同じ髪型をした女の子の遺骸を見つけた瞬間、とうとう堪えきれなくなってその場に蹲ってしまった。
 女の子の遺骸を抱き締めながら声を殺して泣き続けるラドクリフに対し、
共に瓦礫の撤去を担当していたピナフォアは掛ける言葉がどうしても見つけられない。
 彼は黙っていれば少女のようにも見える可憐な容姿の持ち主だ――が、
戦士としての気構えは、馬軍の将兵にも比肩するほどに猛々しい。
 合戦場にて涙を流すことは滅多にない。少なくとも、ピナフォアは戦いの最中に嗚咽するラドクリフなど見た覚えがなかった。
 しかし、ここは難民キャンプだ。ギルガメシュが庇護すべき人々の暮らす場であった筈だ。
それが、どうして焼け野原になってしまったのか。未来を担う子どもたちまで理不尽に命を落とさなければならないのか――。
 ラドクリフの慟哭が呼び水となり、ピナフォアの双眸からも一筋、二筋と悲しみの雫が滑り落ちていった。

 焦土と化したワーズワースを己の目で確かめて回っていたゼラールは、
独力では立ち上がれないほどに打ちひしがれたラドクリフの肩へと手を置きつつ、軍団の総員に向かって大音声を発した。
 現場検証が完了次第、ワーズワースを再び焼き払うとの宣言である。
醜く黒ずんだ焼け野原も、暴力の犠牲となった悲しき遺骸も、
何もかも『エンパイア・オブ・ヒートヘイズ』の炎を以ってして跡形もなく焼き尽くし、鎮魂に代えようと言うのだ。
 ゼラール軍団にとってエンパイア・オブ・ヒートヘイズは栄光と再生を司る聖なる炎である。
ワーズワースに残された数多の無念を浄化せしめ、魂を安寧の地へ葬送(おく)ることも不可能ではなかろう――
軍団員たちはそう信じて疑わないが、しかし、“閣下”のトラウムにはひとつだけデメリットがあった。
 エンパイア・オブ・ヒートヘイズはゼラールに流れる血潮を炎に変換するトラウムである。
炎の勢いが増せば増すほど大量の血液を費やすと言うわけだ。
 ワーズワース全土を浄化し切るにはどれだけの量の血潮を要するのか、見当も付かなかった。
ひとつだけ確かなのは、閣下自身にも命の危険が及ぶと言うことである。
 閣下の身を案じ、多くの軍団員が思い留まるよう哀訴した。動転したピナフォアなどはゼラールに縋り付いてしまったほどだ。
 瞑目にて配下の訴えを受け止めるゼラールではあったが、己の意志を曲げることはない。
真紅の瞳を開き、ピナフォアの顎を愛おしそうに撫でた後、
「人智で計る程度の限界など問題にはならぬ。余が成さしめるのじゃ」と、改めて大言を張り上げた。
 その一声でもってピナフォアたちの心から不安の影が払拭された。同時に訪れたのは深い悔恨である。
 人にして人を超えた“閣下”の威光(ちから)を、あろうことか自分たちの常識へ当て嵌めてしまった。
そのようにして計ることすら本来ならば不敬なのだ。
 ゼラール・カザンに不可能などない――ただそれだけを信じて随いていくのみである。

「余が聖火(ほのお)は全能にして不滅なり。魂へと還った者にすら神苑への導(しるべ)となろう。
女神のもとには参らぬ。余が許に在りたいと願う者も多かろうの。ならば、挙(こぞ)って集うがよかろう。
未練を残して縛られる者も、暫しゆるりとしておればよい。その念(おも)い、晴れがましい夢に換えてくれようぞ」

 今度は誰ひとりとして不安を口にする者はいなかった。人間界の基準で言う奇跡すら閣下にとっては児戯に等しいのだ。
 それに、だ。ワーズワースの惨状に心を軋ませてきた軍団員にとって、
ゼラールの決断が大いなる希望であることに変わりはない。
 憐れとしか例えようのない犠牲者を最良の形で葬ってやることが出来る。それは現場検証へ邁進する励みともなるだろう。
 確かな希望を胸に秘め、軍団員たちは再び作業へと戻っていった。


 軍団員の活力が蘇ったのを見届けたトルーポは、川を遡るようにして歩き始めたゼラールへと追従する。
 ふたりが辿り着いたのは川の上下流の中間に所在する大きな池であった。
水辺にも数多の遺体が横たわっている。炎に包まれ、水を求める内に命数の尽きてしまった者たちに違いなかった。
 畔に建つ礼拝堂は見る影もなく焼け落ち、安置されていた女神像に至っては首から上が完全に吹き飛んでしまっていた。
痕跡から察するに銃砲の直撃を被ったものと思われる。
 見たこともない彫像――Bのエンディニオンの人間にとっては縁のない物である――を前にしたゼラールは、
そのまま腕組みして微動だにしなくなった。
 珍奇な彫像を鑑賞していると言うよりは、その痛ましい様相へ何事かを思案している様子だ。
トルーポは数歩ばかり下がったところに控えている。

「正直、ギルガメシュがここまで愚かとは思いませんでしたよ。……我々は身を誤ったかも知れませんな」

 その距離を維持したまま、トルーポは軍団の指針をゼラールへと訊ねた。
 批難とも受け取れるような物言いではある。しかし、不敬を承知で敢えて問わなくてはならなかった。
 トルーポ個人は悪逆の道になろうともゼラールに随いていく覚悟だが、
同時に軍団員を取りまとめる立場でもあるのだ。同胞たちの狼狽を鎮め、軍団の結束を守っていく為には、
尊崇する“閣下”を煩わせることまで質さなければならない――それが己の務めであるとトルーポは心得ていた。

「救いようのない愚者の集まりと見える。遥かな高みを仰ぎながら、足元では無法を許すなど本末転倒よ。
莫迦はそれと気付かずに業(ごう)を浴びるものぞ。唯一世界宣誓の名にどれほどの悪霊が憑いておるものやら」
「では、早々に手を打ちますか?」
「そう急くでない。いずれ我らで喰らい尽くしてやるのじゃ。ならば、業(ごう)が膨らみ熟れるまで待つのも一興ぞ」

 平素と同じように大言を吐くゼラールだが、全身を十字架に見立てたお決まりのポーズを取ることはなかった。
トルーポに背を向けたまま、湖水の如く静かな声色で話している。
 その後姿へと跪きながら、トルーポは「熟れどきに備えて、今から準備をしておきましょう」と具申を続ける。
 さしあたって必要なのはギルガメシュ内部の切り崩しである。
 軍団の鞍替えを周旋し、初任務まで与えてくれたコールタンは信用が出来るだろう。
『アネクメーネの若枝』あるいは『四剣八旗』の一員ではあるものの、他の幹部とも一歩引いているように見えた。
 だからと言って、組織の転覆を視野に入れた工作へ応じるとは思えない。
少なくとも、現時点でゼラール軍団への参与を誘うのは危うい賭けになるだろう。
 最高幹部と独立し、それでいてギルガメシュ全体に影響をもたらすような人材の取り込みから始めるとしよう――。
 振り返ることなくトルーポの思料を読み抜いたゼラールは、少しばかり声を弾ませつつ、「善きに計らえ」と命じた。

「手配りはそちに任せる。好(よ)き者を余の前に召して参れ」
「我々の計画に賛同しつつギルガメシュ内部で上手く立ち回れるような、……まあ、理と利に聡い器用者になるでしょうな」
「知恵が働く者は構わぬが、どこぞの軍師殿のような者であれば余は要らぬぞ。道化はひとりで充分じゃ」
「そりゃあ、アルみたいなのが身近にいると疲れますからね」

 ゼラールの決裁を受けたトルーポは、切り崩しを仕掛ける標的をバスカヴィル・キッドに調べさせようと思案し始めた。
密偵として神業の如き手腕を発揮する彼のこと、ギルガメシュ側に軍団の意図を気取らせないまま、
内部調査を完遂することだろう。

 ワーズワースに新たな怪異が訪れたのは、バスカヴィル・キッドを呼び寄せようとトルーポが口を開いた瞬間のことであった。
水辺に折り重なっていた遺体が俄かに動き始めたのである。
 ガンベルトのホルスターに納めてあるハンドガンを引き抜いたトルーポは、
数多の遺体の最下にて蠢くものを警戒の眼差しにて睨み据える。ワーズワースの郊外にはクリッターの生息域が確認されており、
死肉を貪り喰らう半機械半生体の化け物と言う可能性も捨て切れなかった。
 やがて、堆く折り重なる遺体からひとりの男が這い出してきた。
 頭頂から足先に至るまで血と泥濘に汚れ切っており、酷い疲労が満面に滲んではいるものの、外傷らしい外傷は見られない。
ボロ布を継ぎ接ぎしたような衣服と、何よりもこの状況から推察するにハブール難民の生き残りと考えて間違いあるまい。

「やっぱりそうだ――あんたら、“あいつら”のお仲間だろ」

 手前のトルーポとその奥に在るゼラール、ふたりの出で立ちを順繰りに観察したその男は、やがて珍妙なことを口走った。
 ゼラールとその軍団員はギルガメシュの軍服を身に着けてはいない。トルーポとて別の軍服を用いている。
そこからふたりの素性(こと)をギルガメシュとは別の組織の人間であると勘違いしたようだ。
 彼の言う“あいつら”とは、ゼラール軍団よりも先にこの地を訪れた者たちを指しているのだろう。
 トルーポは小さからぬ嫌悪感を覚えていた。遺体を隠れ蓑にしてベイカーたちの目を欺いたようだが、
この男からは同胞の虐殺を憂うような気持ちが少しも感じられないのだ。
一面の焼け野原を見回した後も「あーらら、こりゃひでぇわ」と軽薄な感想しか口にしていない。
 己の命を繋いだ安堵ばかりが満面に浮かんでいた。
 今になって隠れ蓑から這い出してきたのは、ゼラール軍団ならば自分の身の安全を保障してくれると見込んだからであろう。
“あいつら”の仲間であれば、自分のことを無碍には扱うまい、と。
 危機回避を訴える本能に従ったと言えばそれまでだが、生存の代償として“人間らしさ”を悪魔に差し出したのではなかろうか。
トルーポにはそのように思えてならなかった。

「――その者を召して参れ。ワーズワースにて何が起きたのか、真実を解き明かすのじゃ」

 これまでの人生で味わったことがない嫌悪感に打ち震えるトルーポに対し、ゼラールは振り向くことなく命令を発した。
 甚だ不服ではあるものの、保護を命じられては従わないわけにもいかない。
座り込んだまま屈伸運動をしているその男にトルーポは右手を差し伸べた。

「あんたはハブールの人間なんだな? 詳しく話を訊かせて頂きたいんだがね」
「おぉ、スコット・コーマンってモンだ。……事情聴取の前に何か食い物を恵んじゃくれねぇか?」





「――例え、真実が分かったところで、世に広まった事実は覆せん……かよ」

 ワーズワースからも、佐志からさえも遠く離れた地にて、ひとりの男が真理めいたことを呟いていた。
 何とも陰気な場所である。室内を照らす蛍光灯は半分切れ掛かっており、
壁から天井まで煙草の脂(やに)で酷く黄ばんでしまっている。壁紙本来の色は真っ白であった筈だ。
 そもそも、紫煙の充満する室内に於いて色彩感覚が正常に働くようには思えなかった。
この部屋の主は、シガレットを三本同時に咥えているのである。
 カーテンすら掛けられていない窓からは派手派手しいネオンライトが無遠慮に飛び込んでくる。
コンマ数秒の間隔で点滅する電灯は暗がりに淫靡な趣を作り出していた。
 ネオン管に負けないほど怪しい光を落とすのは、北側の壁一面に設置された無数のテレビモニターだ。
何処かの建物全体を撮影しているのか、狭苦しい通路や袋小路、何やら番号の振られた扉などを
様々なアングルから捉えている。建物の正面玄関に取り付けられたと思しきカメラは、
コールガールの往来をモニターへと映写していた。
 天然色を映し出さないモノクロのモニターである為、心許ない照明の代わりにはならない。
 紫煙とネオンライトとモノクロの明滅が、薄暗い空間の中で溶け合うことなく混在しているのだ。
摩訶不思議な世界としか言いようがなかった。
 幻惑の世界の主は、部屋の隅に設けられた洗面台の鏡へと老身を映している。
 オールバックに撫で付けた白髪は耳の上あたりまで大きく後退しており、
禿げ上がった右の頭頂部から左頬にかけて一筋の戦傷が走っている。
鼻の上をも横断する大火傷の痕は、内側に深く抉れているのが特徴であった。
 揉み上げから顎の先まで白髭で覆われ、眉間には幾筋もの皺が刻み込まれている――が、
その面構えや肉体は衰えと言うものを全く感じさせなかった。
強靭な筋肉に包まれていることが、ワイシャツ、スラックスの上からでも明確に判るのだ。
 大火傷を負った際に巻き添えとなったのか、右の瞳は白濁としており、光を失っていることが察せられた。
 必然的に健常な左の瞳にて睨(ね)めつけるような目つきとなってしまうのだが、
隻眼より発せられる光には、相手を射抜く威圧と共に深い情けをも感じられる。

 その隻眼は、今、机上の地図を眇めていた。
 何とも不可思議な地図である。ルナゲイトやマコシカと言った主だった地名こそ記されているものの、
描画された地形は必ずしもBのエンディニオンとは一致していない。
 Bのエンディニオンで市販されている世界地図では確認出来ないような島や建物が散見される上に、
陸地の形状まで大きく異なっている。実在しない筈の突端や山脈、内海が追加された場所も少なくなかった。
  地図そのものは市販品ではなく、この老人が手ずから拵えたようだ。
書き損じのように思えなくもないが、それにしても極端な失敗と言えよう。
 あるいは、一種の空想なのであろうか。佐志のすぐ近くには大きな島が描かれている。
無論、そのような事実はBのエンディニオンの何処にもない。
 Aのエンディニオンの地名――フィガス・テクナーやトルピリ・ベイドである――まで書き加えられた世界地図には、
何やら縮尺模型(ミニチュア)が並べられていた。これもまた老人の手製のようだ。
 模型の予備はキャスター付きのサイドテーブルの上に置いてある。
一口に「置いてある」と言っても別段整理されているわけではなく、
種々様々な酒瓶や、ピスタチオが入ったアルミ缶の間隙を縫うように適当に転がしてあるだけだった。
中にはシガレットの箱の下敷きにされた物もある。

「大勢が望む事実の前には、大抵の真実は葬り去られる。今度も真実が負けちまった」

 不衛生にも抜き身のままでサイドテーブルに放り出してあった果物ナイフを掴むと、
老人はこれを地図のある一点へと突き立てた。
 その一点とは、アルフレッドたちが完敗を喫し、ゼラールたちが浄化の火で弔おうとしているワーズワースであった。
 切っ先をめり込ませた際の衝撃によって、地図の四隅を押さえる重石の代用品(かわり)が音を立てた。
吸殻を堆く積み上げたクリスタルの灰皿に、中身が半分以上残っているラム酒の瓶、
安全装置を利かせた大口径のハンドガンと、分厚い軍略の書物が、だ。

「天の機(とき)――」

 軍略の奥義のひとつを唱えた老人は、地図上のあちこちに置かれていた家の模型を摘み上げると、
これをハンガイ・オルスの位置まで移していった。この模型は人間の生活圏を表したシンボルのようなものである。
馬軍の本拠地へ移される前は各町村の上に置かれていた。
 その中にはフィガス・テクナーと言ったAのエンディニオンの都市も含まれている。
 殆どの場所からハンガイ・オルスへと家の模型が移されていく中、『聖地』と記された地点は手付かずのまま残された。
ここには鳥の形や十字架をした模型も置かれているが、やはりどこにも移されることはない。
 『聖地』の中央には、女神の姿を彫り込んだ楕円形の駒が意味ありげに置かれている。

「地の利――」

 次に老人が動かしたのは、騎馬と仮面の模型である。
 仮面は言わずもがなギルガメシュのシンボルであり、騎馬はテムグ・テングリ群狼領のシンボル――
そこから転じて彼らが主将を務めた反ギルガメシュ連合軍を表す物であった。
 ふたつの模型は相対する形で配置されている。両軍が合戦する様を地図上にて再現した恰好だ。
老人は騎馬を前方に押し出し、仮面を大きく後退させていく。彼の隻眼には両軍の優劣がこのように見えているらしい。
 ふたつの模型が向かい合わせで並べられた場所は、言わば仮想の合戦場であるが、
そこには該当する土地の特色や要点などが驚くほど緻密に書き込まれている。
 佐志に至っては、港の防備だけでなくオノコロ原や地下水脈のことまで詳細に分析されていた。
何時どのようにして調べ上げたのかは知れないが、マコシカの集落周辺の地形についても詳述がある。

「人の和――」

 ややあってから老人は仮面の模型を全てルナゲイトに集めた。
正確にはギルガメシュの本陣の周りを固めたと言うべきかも知れない。
ルナゲイトの中心、即ちブクブ・カキシュを表すシンボルは、隊の徽章を彫り込んだ楯の形の駒である。
 最後に各所へ配しておいた騎馬の模型を全て使い、楯の駒を取り囲んだ。
 騎馬による包囲網を作ったところで、老人は思い出したように新たな模型を追加した。
サイドテーブルから摘み上げたのは、半獣半人の模型である。真鍮色の塗装が施されているあたり、
さしずめクリッターのシンボルと言ったところであろう。
 ワーズワース暴動の始末によってギルガメシュから人心が離れ、テムグ・テングリ群狼領の本拠地(もと)へ――
即ち、連合軍のもとへ向かう様を縮尺模型で再現しているとでも言うのだろうか。
楯の駒を包囲する騎馬の模型は、人心の乖離を好機と見て本陣まで攻め入らんとする連合軍に他ならない。

 偶然か、必然か――この老人はアルフレッドが立案した史上最大の作戦を地図と縮尺模型のみで再現していた。
細かな違いや過程の割愛はあるものの、民の支持を失ったギルガメシュを攻めると言う一番の要点は踏まえている。

「“あの小娘”には分からんだろうな。運に見放されるとは、どう言うものか……」

 老人は楯の駒を人差し指でもって弾いた。机の上を勢いよく滑るギルガメシュのシンボルは、
そのまま酒瓶や空き缶で埋め尽くされたゴミ箱へと真っ逆さまに落下していく。
 老人にはそれがギルガメシュの現状のように思えてならなかった。
 数時間前のことになるが――兵営に晒された反逆者の首を確かめに出掛けてきた。
多くの将兵が晒し首を取り囲んでいたが、それを見て嘲り笑う者などひとりもいなかった。
皆、酷い当惑の表情を浮かべていた。嗚咽を漏らす者とて少なくはなかった。
 当然であろう。一部の無法者はいざ知らず、多くの将兵にとって難民とは守るべき対象なのだ。
その難民を反逆の名のもとに処刑し、打った首を晒すなど、唯一世界宣誓の理念自体を裏切ったことにも等しいのである。
 この老人もまたギルガメシュの一員であることに間違いはなかった。
洗面台に面した壁へ設置されたハンガーフックには、カーキ色の軍服が引っ掛けてある。
 丁度、ハンガーフックの反対側に掛けられた古めかしい壁時計が深夜零時を告げた。
それを合図に老人は椅子から立ち上がり、咥えていたシガレットを全て灰皿へと突っ込んだ。
 次いで粗末なパイプベッドへと隻眼を転じる。だらしなく乱れた寝具の上には、鉄色のレインコートが放り出されていた。
相当に年季が入っており、袖口や襟、裾は惨めに擦り切れ、あちこちにドス黒い染みが付着している。
 顔面の戦傷を撫でた老人は、自嘲めいた薄ら笑いと共にレインコートを羽織った。
 その間、彼の隻眼は部屋の片隅に置かれた木箱をじっと眇めている。成人男性の頭部がすっぽり収まる程度の大きさだ。

「ガキの尻拭いは爺の仕事と決まっているんでな――」

 アルミ缶から摘んだ一粒のピスタチオを口へと放り込み、音を立てて噛み砕きながら老人はドアノブを回した。
その左脇には件の木箱を抱えている。
 部屋にひとつしかない扉を開け、闇の中へと消えていったこの老人こそが、
後にゼラール・カザンの軍師としてアルフレッドの前に立ちはだかる謀神であった。
 その名(コードネーム)を『ムラマサ』と言う――。




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