2.Tracy Kenpo フォテーリ家のロッジに宿泊していたアルフレッドたちも日の出と共にワーズワースの調査を再開した。 決して狭いとは言い難い自然公園を効率的に経巡る為、二人から三人の組に分かれて散開し、 三十分おきに連絡を取り合う体制を取っている。嘗てリーヴル・ノワールを探索したときと同じである。 彼らの面持ちは一様にして暗い。山肌から滑り落ちてくる旭日に照らされると、翳りの濃さが浮き彫りになるのだ。 昨晩、検問所にて難民のひとり――ポールのことを指している――が殺害されたと言う報せは、 類例に漏れず貴族階級の居住区をも震撼させていた。 あろうことか、ギルガメシュに銃殺されたと言うのだ。難民保護を主務とする者たちに、だ。 その所業は外道と言う蔑称すら相応しくないように思える。駆け寄ってきた難民に無数のライフル弾を撃ち込み、 蜂の巣にした上に火炎放射器で遺骸を焼き払ったと言うのだ。 この処断には一切の尋問は挟まなかった。何をも目的として検問所を訪れたのかも確かめないまま、 ギルガメシュは殺戮に酔い痴れたのである。鬼畜の一言であった。 第一報はトゥウェインの側近がもたらし、たちまち西部全体に広まった。 その直後にはフィーナからもメールが入り、これによってアルフレッドは犠牲者の本当の目的を知った。 フィーナが紡ぐメールにしてはひどく散文的であり、常用している絵文字もない。 それが彼女の混乱を如実に表していた。そこに東部の慟哭が顕れているように思えてならない。 「これ以上、悲劇を起こさせるわけにはいかない」 後発隊の皆にそう発したアルフレッドは、ネイサンを伴ってストーンブリッジを渡り、 労働階級の居住区を避けるように川沿いに森の中へ入っていた。 先日は探索と言うよりも通過に近かったので、奥深くまで調べ上げようと考えていた。 本当にワーズワースへ銃器が流れ込んでいるとすれば、それは難民にとって最大の“切り札”と言うことになる。 しかし、そのようなものを無防備に晒しておくだろうか。まず間違いなく秘匿する筈である。 テントなどでは心もとなく、ともすれば秘密の隠れ家でも築いてそこに運び込むだろうとアルフレッドは推理したのだ。 鬱蒼と茂った森は隠し場所には打ってつけである。 埋蔵の可能性を考慮し、地面や草叢の状態を注意深く調べていたアルフレッドは、 集団によって踏み荒らされた形跡を見つけた。昨日今日付けられたであろう足跡も確認出来る。 物は試しとばかりにその辺りの土を掘り返そうとするネイサンだったが、 スコップの刃を突き立てた途端に地中から何かの液体が噴き出し、彼の顔面に付着した。 「だ、大丈夫か? 朝露が跳ねたか?」 「いや、違うよ。そんなに情緒あるもんじゃない――これ、汚水だよ」 「汚水……だと?」 ネイサンは自身の頬を汚した液体の正体に戦慄すら覚えていた。 土を掘っただけで汚水が飛び出すなど、いくら環境破壊の影響を受けているとは言え、余りにも異常である。 胸中に浮かんだ仮定を立証するかのようにネイサンは辺り構わずスコップを突き立て、その都度、同じことが繰り返された。 汚水によって穢されていく木立や草叢を眺める内に、いよいよアルフレッドは複雑な心境となってきた。 「……グリーニャにそっくりだね、アル」 「……ああ……」 その胸中をネイサンは精確に言い当てた。 グリーニャの汚染を調査し、村民たちの様子を間近で見てきたネイサンだからこそ親友の心を察することが出来たのだろう。 それはつまり、彼自身も同じ鬱屈に苦しめられていると言うことだ。 この森を調べる目的がもうひとつ増えた。確かに手間も倍化するだろうが、ふたりには時間の浪費とは思えない。 それが証拠に彼らの足は異臭が強い方角へと向かっていった。 臭路を追跡するかの如く森を東へ進んでいくと、アルフレッドとネイサンは開けた空間に辿り着いた。 さながら動物の集う広場のような場所であるが、そこに垂れ込める異臭は、嗅覚を破壊するのではないかと疑う程に濃い。 ネイサンに至っては、この場へ足を踏み入れた瞬間に「最悪のシナリオじゃないか!」と憤りを露にした。 最早、ここに野生動物が集うことは有り得ないだろう。数多のゴミが分別もされずに山積されていたのだ。 歩みを進める度に足の裏にも感じられるのだが、まるで大雨に降られた直後のように地盤が緩い。 日に何度も掘り返され、ゴミが埋め立てられている証拠であった。地面を浸食するのは、言わずもがな件の汚水である。 おそらく同様の行為は森の中でも常態化しているのだろう。ネイサンの言葉ではないが、まさに最悪のシナリオであった。 これでは土壌が汚染されても当然と言えよう。 トゥウェインから聞いた話によると、貴族階級から出たゴミは駐屯地の焼却炉にて処理されていると言う。 居住区の立地から考えても、この投棄の犯人が労働階級であることは想像に固くない。 (……もう手遅れではないのか? 俺たちでどうにかなる問題なのか……?) ワーズワースの有様に懊悩するアルフレッドを煽り立てようと言うのか、俄かに風が吹き、木々の枝葉がざわめいた。 ――だが、それは自然に吹き抜ける類の風ではなかった。確かな破壊の力を持ってアルフレッドに迫りつつある。 ネイサンではなくアルフレッドひとりに狙いが絞られていた。 「なっ――」 突如として飛び込んできた風切る音と、何よりも凄まじい殺気を感じ取ったアルフレッドは、咄嗟の判断で身を屈めた。 その直後、彼が立っていた場所を何かが猛然と通り抜けていった。 コンマ一秒でも挙動が遅かったら、おそらくアルフレッドの上体は“それ”によって貫かれていただろう。 “それ”は着地と共に土砂や汚水を周囲へと撒き散らした。地面を抉る際に生じた衝撃波によって数多のゴミが撥ね飛ばされ、 アルフレッドは汚物の洗礼を避けるべく後方へと退いた。 そうして間合いを測りつつ、状況を確かめる。飛来した者――否、攻撃者はひとりの男であった。 重力に背いて逆立つ緋色の巻き髪は、見方によっては燃え盛る大火焔のようでもある。 襟足のところでふたつに分けた後ろ髪は、さながら不死鳥の翼と言った趣であろうか。 強く幼さを残した面は凄まじい憤怒で満たされている。それは人生経験の浅い年少者が作り出せる表情ではなかった。 童顔に騙されては、痛い目を見るだろうとアルフレッドは気を引き締めた。 この男が飛び蹴りを打ち込んできたのは間違いない――が、アルフレッドはその顔に全く見覚えがなかった。 「だ、誰だい、君は?」と誰何するからには、ネイサンとも面識がないのだろう。 白地に黒い縦縞模様のシャツと、ダメージド・ジーンズと言う装いからしてギルガメシュには見えない。 小柄ながらも強靭な筋肉に包まれた体躯は、慢性的に栄養が足りない難民ともかけ離れている。 「……何者だ、貴様……」 「自分の胸に訊いてみぃッ!」 故郷言葉(おくにことば)でもってアルフレッドを突き放したのは、シルヴィオ・ルブリンその人であった。 ヴィンセントと行動を共にしていた筈の義の戦士が、突如としてアルフレッドの前に姿を現したのである。 それも、轟々たる憤怒を燃やしながら、だ。 無論、アルフレッドにとってシルヴィオは正体不明の人間である。そのような相手から急襲を仕掛けられたのだ。 動揺は一瞬のことで、すぐさま彼の心は憤慨に満たされた。 「もう一度、尋ねる。お前は誰なんだ。一体、どう言うつもりで俺を――」 「やかましいわ、ボケカスッ! いつまでもナメた口叩いとンやないぞ、オォッ!?」 それでも言葉を交わしていこうとするアルフレッドだが、シルヴィオの側には応じる意思など一欠けらも見られない。 左半身を開くようにして構えを取り、右の拳を突き出してアルフレッドを牽制していた。 フットワークは鋭敏そのものだ。劣悪な足場であっても乱れることなく一定のリズムでステップを踏み続けている。 疑いようのない手練である。激情に駆られつつも、隙と言うものが全く存在していない。 「……離れていろ、ネイト」 「わ、わかった……」 戦いに巻き込まれないようネイサンに注意を促したアルフレッドは、次いで自らも構えを取った。 相手が臨戦態勢を解かない以上、武技を以って応じるしかあるまい。 「こないな辺境までのこのこ出張ってきたのが運のつきやったのぉ。昨日のアレもワレの差し金ちゃうんかッ!?」 「昨日? ……何の話をしている」 「すっとぼけんのも大概にせぇやッ!」 前方へ突き出した左の拳と、胸の手前で曲げた右の拳を交差させるのがアルフレッドの構えであった。 腰を落としているのは、全身のバネを最大限に生かす為の工夫である。得意の蹴り技に最も適した形なのだ。 対するシルヴィオは得手と不得手が全く読めない。フットワークはボクサーのそれに近い気もするが、 先ほどの飛び蹴りを見る限り、拳打のみが武器と言うわけではなかろう。 出方を窺っていたアルフレッドの脳裏に、ふと遠い昔の記憶が蘇った。 ひどくおぼろげなもので、明確な形すら為してはいない。それなのに彼の意識へ強引に割り込み、 蜃気楼の如く奇怪な人影を映し出そうとするのだ。 その幻像は、目の前に立つこの男と全く同じ構えを取っていた。 (――切羽詰ったときの錯覚でなければ、これは……) この構えをどこかで見た記憶がある――そう認識したとき、アルフレッドの双眸は驚愕に見開かれた。 勿論、彼のことは名前すら知らない。ならば、この構えを取る使い手と何処かで対峙したと言うことか。 (アカデミーでサバットを教わったときか? ……いや、祖父からジークンドーの手ほどきを受けたときだったか――) 自身に格闘術を授けてくれた先達を振り返りつつ、脳裏の幻像に答えを求めようとするアルフレッドであったが、 戦いの場にあっては深い考察など望むべくもなく、一足飛びに間合いを詰めたシルヴィオによって 全ての推論が断ち切られてしまった。 「わしには仇討ちをしてやる義理はあらへん。せやけど、あないなもん見せられたら黙っておれんのじゃ――」 独特の故郷言葉(おくにことば)からしてタイガーバズーカの出身なのか――と想像する遑(いとま)もない。 シルヴィオが繰り出す猛襲は火炎旋風の如く唸りを上げ、打撃戦に長じるアルフレッドですら防戦を余儀なくされた。 間遠で眺めるだけでもフットワークの鋭さは伝わってきたが、実際に立ち合ってみると、ただただ圧倒されるばかりである。 踏み込みと共に顔面、それも同じ箇所へ右拳の連打を見舞ったかと思えば、瞬時にして側面に回り込み、 ガードの隙間を縫うように水平の手刀で脇腹を脅かそうとする。その動きにばかり気を取られていると、 今度は背後から裏拳が降り注ぐのだ。 彼の技が単発で終わることは皆無に等しい。跳ね飛びながら腕を旋回させる裏拳は、 延髄を打ち据えるだけでなく直撃後にアルフレッドの動きを押さえ込む役割も兼ねていた。 確実に獲物を制し、その上で対の手より追撃を振り落とす――あるいは、最後の手刀こそが本命かも知れない。 斜めに軌道を描く手刀は頚椎を狙っている。辛くもシルヴィオの束縛から逃れ、片腕にて手刀を防いだものの、 骨身に響くような衝撃が圧し掛かってきた。まともに喰らっていれば、あるいは首の骨が折れたかも知れない。 尋常ではない筋力である。小柄な身体の何処にこのような力を秘めているのだろうか。 しかも、だ。シルヴィオの肉体は鋼鉄の如く硬い。突き込まれる拳も、振り抜かれる脚も、 何もかもが人間離れしており、一撃ごとに骨の髄まで威力が貫通するのだ。 例えば、鉄板を貫通させることはアルフレッドにも不可能ではない。得意の後ろ回し蹴り、『パルチザン』は、 鉄筋コンクリートをも破砕する威力を誇っている。 だが、それも攻める側でのこと。打撃を“受ける側”では要する技術も身体能力も全く違う。 今のところ、手刀以外は打撃の軸を反らして威力を減殺させているが、 一度でも直撃を許せば、ただそれだけで骨が砕かれてしまうだろう。 延髄に裏拳を受けた際にも身を捩ることで衝突時の力を分散させ、何とか致命傷は避けていた。 「おのれ――」 「ワレが言うなやッ! 性根の腐り切ったワレがのぉッ!」 呼気を整えるべく後方に飛び退るアルフレッドだったが、シルヴィオは吼え声を引き摺りながら彼の影を踏み付ける。 あっと言う間もなく追いつかれたアルフレッドは、またしても防御を固めるしかなかった。 技と技の連携が閃光のように速い。絶え間ない運動のことを「矢継ぎ早」などと例えるが、 シルヴィオが誇る敏捷性は、一瞬にして千里を貫く光線にも等しかった。 右の拳を顔面へと突き出し、このフェイントによってアルフレッドの体勢が変化すれば、 即座に対の手で遠心力たっぷりのフックを繰り出していく。ただ拳のみを横へ一閃させるのでなく、 跳躍でもって身体ごとぶつかり、着地と同時に標的の側面へと回り込んでしまった。 次なる攻防時に最も有利な位置を、打撃と連動させる形で押さえようと言うのである。 無論、横殴りの鉄拳も強烈だ。その上、精密な“狙撃”とも付け加えられる。 大振りにも程がある技は、凡人であればまず当てられるものではない。 ところが、シルヴィオは持ち前の素早さと技巧にて大技の弱点を解消し、容易く使いこなして見せた。 (スピードとテクニックとパワーを完璧に兼ね備えた打撃――格闘技者の理想だが、出来れば別の形で出会いたかったな……!) 破城槌の如きフックを辛うじて受け流したアルフレッドは、最早、何度目とも分からない戦慄に打ちのめされていた。 ジャーメインと戦った折にもムエ・カッチューアの破壊力に慄いたが、今度はその比ではなかった。 打撃の破壊力は彼女を、また技巧と速度はフツノミタマを、それぞれ凌駕しているように思える。 (……フェイ兄さんだってどうなるか分からないぞ、こいつ――) アルフレッドはいずれの猛者をも退けてはいる。だからと言って、各人が持つ最大の戦闘能力を上回ったわけではない。 技の駆け引きや試合運びの結果によって勝利を得たのである。 ならば、今度も同じようにしてシルヴィオを出し抜けば良い――そのように楽観視することが出来たなら、 あるいはここまで追い詰められることもなかったかも知れない。だが、アルフレッドは悲しいまでに賢かった。 自身の限界と、相手との力量の差を見極められる程に、だ。 烈火と化して襲い掛かってくるこの男は、現時点では『ホウライ』すら用いていない。 本当にタイガーバズーカの出身であるならば、この奥義は確実に会得しているだろう。 万が一のときには、互いのホウライを衝突させて中和する防御法、『ホウジョウ』を使わねばならないが、 それには今まで以上に集中力を研ぎ澄ませる必要がある。 打撃とホウライ、双方の回避に囚われて神経が磨耗した瞬間にこそ死が訪れる筈だ。 シルヴィオを見失い、まともに強撃を受けてしまったのは、早くも神経が蝕まれつつある証拠でもある。 ステップを踏んで右側面に回り込んだシルヴィオは、握り締めた左右の拳をハンマーに見立てて振り落とし、 アルフレッドの背中を軋ませた。しかも、狙いは背骨ではない。背を貫く衝撃でもって肺を揺さぶったのだ。 「がぁ……ッ!」 「ちったぁ人の痛みっちゅーモンを思い知ったか、ド畜生がぁッ!」 堪り兼ねて身をくの字に折ったアルフレッドに対し、シルヴィオは左右の脚を立て続けに振り上げた。 この二段蹴りだけは両腕を交差させることで防いだものの、アルフレッドに降りかかる暴威は尚も止まらない。 背後まで回ったシルヴィオは左腕にてアルフレッドの首を抱えて絞め、これと連動するように左膝裏まで踏み付けた。 自然、アルフレッドの身は後方に傾いでしまう――が、シルヴィオは倒れることさえ許さなかった。 左膝で彼の背中を突き上げつつ、その身を受け止め、続け様に首への絞めつけを強める。 これらの挙動は“獲物”を固定する為のものだ。 確実に仕留められる状態を整えた後に、シルヴィオは右手を鉤爪の如く振り抜いた。 「――そこだ……ッ!」 アルフレッドの左脚が跳ね上がったのは、その寸前のことである。シルヴィオの左腕を自身の左手でもって掴み、 ここを支点にして身体を振り回したのである。左膝の急降下は見事にシルヴィオの後頭部を揺さぶった。 アルフレッドにとっては、開戦以来、初めての攻撃である。オーバーヘッドキックの要領で打ち込まれた膝蹴りには、 さしものシルヴィオもダメージを免れなかった。 「行くぞッ!」 鉤爪によって右頬を抉られたものの、シルヴィオの首絞めからも脱したアルフレッドは、 すぐさま身を翻して必殺のパルチザンを見舞った。相手の体勢は崩れている。直撃させる自信があった。 「ナメんやないぞ、ワレぁッ!」 しかし、このパルチザンを以ってしても、シルヴィオの反射速度を上回ることは叶わなかった。 風を薙いで振り抜かれた左の足裏は、敢え無く左右交差の手刀で受け止められてしまったのである。 ゴミの山の只中まで吹き飛ばすことには成功したが、全くと言って良いほどダメージは与えられていない。 「しぶッといのぉ! カスはカスらしく、とっとと往生せぇやッ!」 「ふざけるな。身に覚えのないことに命を差し出すほど俺はお人好しじゃない」 アルフレッドとシルヴィオは、間遠にて睨み合う恰好となっている。 ダメージの差は歴然としていた。後頭部に受けたダメージが早くも回復しつつあるシルヴィオに対し、 アルフレッドは咳き込む度に血反吐を迸らせている。 「ア、アル……」 「大丈夫だ……まだやられたわけじゃない……ッ!」 「大丈夫のように見えないから心配してるんじゃないか!」 ここまで追い詰められるアルフレッドの姿はネイサンも初めて見ることだろう。 フェイやイーライと三つ巴の決闘を演じたときも、一方的に攻め立てられるような事態にはならなかったのだ。 しかも、だ。アルフレッドは未だに虎の子のホウライを発動させていない シルヴィオにホウライ使いの可能性が残されている以上、無闇な乱発は落命の原因ともなり兼ねなかった。 アルフレッドにホウライが備わっていると見れば、シルヴィオも同じ力を使い始めるに違いない。 ありとあらゆる状況がアルフレッドの不利を示していた。 (――違う、そんなことじゃない! 僕は『こんなイレギュラー』を知らない……ッ!) アルフレッドの劣勢を憂えているのか、それとも、目の前の状況そのものが『イレギュラー』なのか、 これをネイサンに質す者は誰もいない。 シルヴィオから発せられた難詰も、その対象はアルフレッドのみに絞られている。 「なんや、“アル”っちゅーのは? ……ああ、偽名かいな。いかにもド汚いギルガメシュの親玉らしい小細工やのぉ」 シルヴィオが反応を示したのは、つい先ほど交わされたアルフレッドとネイサンの会話について―― ネイサンが「アル」と呼びかけたことをシルヴィオは訝っていた。 その上で、シルヴィオはアルフレッドを「ギルガメシュの親玉」と呼ばわったのだ。 「なに言ってんだい、どこにカレドヴールフがいるって?」 「黙っとれ、外野ぁ! 目の前に居てるやろが! ワレの目は節穴かいッ!?」 「……僕の目が節穴だと言うのなら、君の目は腐乱してんじゃないの……」 シルヴィオがアルフレッドを襲撃してきた理由に行き着いたネイサンは、その真相に唖然と口を開け広げた。 アルフレッド自身も殆ど同じ心持ちである。呆れが半分あり、そこに憤慨も混ざっている。 「お前はバカか?」 「言うに事欠いてわしをバカ呼ばわりか! 親玉サマもえらい落ちぶれたもんやのぉ!」 「……お前はバカだ」 銀髪、深紅の瞳、そして、赤色の物を羽織ったシルエット―― こうして列挙すると、確かにアルフレッドとカレドヴールフには共通する特徴が少なくない。肉親同士なので顔立ちも似ている。 だが、声はどうだ。先日もプロパガンダめいたテレビ中継で肉声を発していたが、 その質はアルフレッドと似ても似つかなかった筈である。 そもそも、だ。性別すら異なっているではないか。何をどうすれば両者を見間違えてしまうのか、 アルフレッド自身でさえ理解に苦しんでいる。 「チンケやのぉ、カレドヴールフッ! こないチンケなヤツがエンディニオンの統治者かと思うと泣けてくるで! ……性根が腐りきっとる証拠じゃ。偽名なんか使わんと、正々堂々と名乗れや! 尋常に勝負せェッ!」 勘違いと思い込みも、ここまで来るといっそ清々しい。つまるところ、シルヴィオは独りで勝手に義憤を燃やしているわけだ。 ギルガメシュに憤慨するのは良いが、ぶつける相手を間違えては何の意味もなかろう。 呆れて物も言えないとはこのことだ――が、逆上している人間に理を以って説明しても聞く耳は持つまい。 開戦前に「仇討ち」と口走っていたが、それはおそらく昨夜の惨劇を指しているのだろう。 射殺された難民の縁者かどうかもアルフレッドには分からないが、 報復が目的ならばこちらの息の根を止めるまでシルヴィオは攻撃を止めない筈だ。 最早、戦闘不能へ持ち込む以外に道はなかった。 「……一応、訊いておく。お前、ジャーメインの仲間か?」 「おうおう、さすがは天下に名高いパトリオット猟班や! ギルガメシュの間でも名前が知られとるんかいな! わしらスカッド・フリーダムも鼻が高いっちゅーもんや――って、裏切りモンの自慢なんかさせるんやないわぁ!」 「俺が言いたいのはそう言うことでは――」 「――そやけど、わしかて義の戦士や! 流血がまかり通る世の中は何があっても許せんのじゃあッ!」 これでスカッド・フリーダムの一員であることは確認した。つまり、ホウライを使えることも確定であろう。 義の戦士ならば、人間離れした肉体にも得心がいくと言うものだ。 「今度こそ潰したるッ!」 再びシルヴィオが動いた。次なる攻撃を仕掛けるべく接近を図った。 そこにアルフレッドは迎撃の拳を突き込み、これを頭だけ傾げて避けたシルヴィオは反撃として両の拳を同時に放った。 右拳は眉間、左拳は鳩尾とそれぞれ急所を撃ち分けている。 今までの攻防を経て徐々にシルヴィオの速度に慣れてきたアルフレッドは、 両の掌で同時攻撃を受け止めるや、逆に腕力でねじ伏せようと試みた。 「純粋な力勝負なら俺に分がありそうだな!」 「ナメんなて何回言わすんじゃ、アホボケカスッ!」 両者、正面から組み合う恰好だ。これもまたアルフレッドの狙いだった。 シルヴィオの動きを封じ込め、この場に留めたのである。 思いがけない反撃に惑うシルヴィオの右足へとアルフレッドは立て続けにローキックを見舞った。 斜め下に振り落とす左右の蹴りは、鋭角に膝を打ち据えていく。 さしものシルヴィオもこの連打は堪らず、衝撃に押されて弾け飛んだ――わけではなかった。 自ら両足を浮かせたからに他ならず、身を捻って両腕を振り解き、更にアルフレッドの右側面へ回り込もうとしていた。 シルヴィオの右手が鉤爪のように閃き、背を横断してアルフレッドの左肩を掴む。 これと同時に両足を大きく開いた。右で膝裏を、左で足首をそれぞれ挟み込む。 自身の落下にアルフレッドを巻き込もうと言うのだ。 そうはさせまいと踏ん張るアルフレッドであったが、両足を搦め取られては為す術がない。 シルヴィオは接地した左の腿を軸として身を回転させ、アルフレッドをうつ伏せに薙ぎ倒した。 「今度こそ潰す」と宣言しただけあって攻め手は執拗である。 身を起こすのと同時に己とアルフレッドの右足を絡め、彼の動きを封じ込めた。 左肩を押さえ付けることも忘れない。今度も確実に仕留められる状況を作った上で右拳を振り落とした。 その拳は延髄へと迫っている。無防備のまま直撃を受ければ、即死は免れまい。堪らずネイサンは悲鳴を上げた。 「――ちィッ!」 「舌打ちしたいんはわしやッ!」 しかし、アルフレッドは尚も諦めなかった。 両腕の力を駆使し、強引に身を捩ってシルヴィオの拳を避け、更にこの勢いを以って搦め取られていた右足をも引き抜く。 片足のみの拘束であり、関節を極められたわけでもないので苦もなく自由を取り戻せた。 相手が寝技に長けたミルドレッドであったなら、今の攻防で右足を壊されていたかも知れない。 シルヴィオよりも早く立ち上がったアルフレッドは、体勢を整えるべく間合いを取った。 (組ませたほうが動きが単純化するか。そのほうが戦い易いか?) 今の攻防で見極めたことを反芻するものの、如何せんアルフレッドは組み技が得意ではない。 一通りの技は習っていたが、例えば投げを狙おうにも生半可なものでは簡単に返されてしまうだろう。 投げに長じていたとしても、今は“場”が悪い。両足でもって相手の頭部を挟み、 地面に叩き付ける荒業をアルフレッドは切り札のひとつにしている。 だが、汚水に浸食されつつある此処でその技を使っても必殺の威力は望めまい。 組み技の勝負は出来ない。だが、攻めに転じられる可能性を見出したのも事実。 このように学習能力を駆使して戦うしかなかった。アルフレッドには冷徹なまでの賢さこそが最強の武器なのである。 (そうだ――ひとつひとつ、噛み砕いていくんだ!) 拳の突き込みにも影響が見られるが、相手に向かって半身を開く構え方や、 間合いの詰め方と離し方はフェンシングの如く直線的である。 そして、踏み込んだ一点を軸にして、火炎旋風が吹き荒ぶのだ。 (火炎旋風――“円”の攻撃と言うことか……) シルヴィオの打撃を凌ぐ中、彼の技巧が円の軌道に基づいていることが解って来た。 今までの攻防を振り返ると、その特徴はより鮮明となってくる。 側面や背後を脅かす際には、必ずと言って良いほど円の動きとなっている。 相手に対して有利な位置を取る為の、所謂、「回り込む」と言う挙動に当たっては、円を描く足さばきは必然かも知れない。 だが、円の軌道は打撃の面にも大きく作用しているのだ。 基本の構えから突き込む拳打や蹴りは直線的だが、ここから派生する多くの技は、殆どの場合、円の運動を伴っていた。 裏拳は横の半円、続く手刀は縦の半円を描いている。背面を打ち据えた後に続けて繰り出した二段蹴りは、 両足の軌道が四半円であった。ここからの派生としてアルフレッドの首を左腕一本で絞め付けたが、 内側に向かって働く力も円によって描き出せることだろう。 全円の軌跡を取る打撃は見ていないが、間違いなくシルヴィオは身の裡には備わっている筈だ。 円の動きには軸たる中心から遠心力が働く。この原理に基づいて桁外れの破壊力を生み出しているようだ。 成る程、遠心力の発生は打撃の術理に於いても要のひとつである。 これを極めれば、一撃一撃に必倒の威力を与えることも難しくはない。 最も強力な円の軌道を作り出すには、身体をどのように動かし、どの位置へ踏み込んでいけば良いのか―― 数手先まで見極めて攻守を組み立てているわけだ。 (――ああ、そうか。さっきからぼんやりと浮かんでるのは、やっぱりこの流派かよ……) 構え方だけでなく、円の軌道に基づく技法もアルフレッドは聞いた覚えがあった。 遥か昔にどこかで耳にし、潜在的ながら記憶されていたからこそ、この複雑な術裡にまで行き着けたのだ。 だが、今はおぼろげな記憶の断片に悩んでいるときではない。幻像の相手をしている場合でもない。 ようやく分析が捗ったシルヴィオの技術的特徴を徹底的に潰し、攻防を優勢に運ぶのが先決であった。 「ボサッとしとるヒマがあるんやったら、懺悔でもせんかいッ!」 シルヴィオが再び間合いを詰める。アルフレッドから見て“奥”に当たる左足から飛び膝蹴りを繰り出した。 地面を舐めるようにして一気に突き上げられたこの膝は、綺麗な弧を描いている。加わる遠心力もそれだけ強烈であった。 しかし、これすらもシルヴィオにとっては繋ぎ技に過ぎない。アルフレッドは右の掌で膝蹴りを受け止めたものの、 その威力に耐え切れなくなって身体が浮き上がった。 そこにシルヴィオの左の掌が伸びた。中空に押し上げた身体を更に押さえ込もうと言うのだ。 このときには既に右腕が振り上げられており、怒号と共に握り拳が急降下した。 握り拳を手斧に見立て、刃に相当する外側を突き立てるのである。 半円の軌道を取る一撃を右手で防いだアルフレッドは、尚も力で押し込んでくるシルヴィオを 『サイレントイラプション』の要領で弾き飛ばした。 本来、サイレントイラプションとは肩口からぶつかっていく体当たりなのだが、 全身に溜めた力を一気に解放すると言う術理は、このように縺れ合った状況でも応用が利くのだ。 アルフレッドが繰り出した技に対して、今度はシルヴィオが怪訝な顔になった。 先ほどまでの憤怒も何処へやらと言った様子で、不思議そうにアルフレッドを見つめている。 もしかすると、シルヴィオの脳裏にもおぼろげな幻像が立っているのかも知れない。 そこに付け入る隙が生じた。基本技のひとつである横蹴りに移ろうとする瞬間を見計らって、 アルフレッドは身体ごとぶつかるようにして間合いを詰め、左拳にて『ワンインチクラック』を試みた。 密着した状態から真価を発揮するこの技ならば、円の動きを封じた上で大ダメージを与えられるに違いない。 「――遅いわぁッ!」 だが、またしてもアルフレッドはシルヴィオに反射速度で敗れてしまった。 アルフレッドに対し、シルヴィオは全円を描くようにして右手を振り回し、 今まさにワンインチクラックを突き入れてくる彼の左腕を巻き込んだ。 アルフレッド得意のワンインチクラックとは雖も、肘を絞められ、体勢が崩されてはどうしようもない。 脇腹に当てることは出来たものの、三割程度の威力しか伝達しなかった筈だ。 ところが、今の一撃は物理的なダメージ以上の効果があったようだ。 三割程度の打撃しか受けていない筈のシルヴィオは、驚愕に目を見開き、「ワンインチやて……」と呻き声を漏らした。 その面には明らかな動揺が滲んでいた。それも、かなり深い動揺だった。我に返るまで丸々一秒を要した程である。 慌てて追撃を繰り出すものの、このときには既にアルフレッドも体勢を立て直している。 幸いにも右腕は捕まってはいない。鉤爪と化したシルヴィオの左手をこれで受け流し、 続けて突き上げられた左膝には自身の右膝を合わせて弾き返した。 最後にシルヴィオは左の五指にてアルフレッドの喉を挟み込み、握力を利かせた状態から一気に腕を引いた。 頸部の破壊を試みる恐るべき技であった。 一瞬、目の前が真っ暗になるような衝撃を受けたが、それでもアルフレッドは耐え抜いた。 首筋からは血も滲んでいるが、頚動脈を裂かれたわけではなく、致命傷には至っていない。 そうしている間にシルヴィオはアルフレッドの左腕を解放し、追い討ちを掛けることもなく後方へと飛び退った。 面に滲む動揺は、秒を刻むにつれて色濃くなっていく。 対するアルフレッドは口元に薄い笑みを浮かべている。と言っても、シルヴィオの動揺を歓迎しているわけではない。 頭の中の靄が晴れて、ようやく視界が開けたような心持ちであったのだ。 つまり、アルフレッドは一足先に“明答”へ行き着いたと言うわけである。 (――完全に想い出した。こいつの技、これはじいさんから教わったんだ……!) 今や、幻影は全き形を整えていた。アルフレッドは過去にシルヴィオの技を見たことがある。 はっきりと断言出来るほどに記憶が蘇っている。 瞬間移動かと錯覚するような体さばきも、円の軌道に基づく武技の極意も、猛禽類の爪の如き引き裂きの技も―― 過去に「仮想敵」として習っていたのだ。 それは武術の師匠でもある祖父と稽古をしていたときのことである。当時、アルフレッドは十歳にも満たなかった筈だ。 ライアン家の祖父がアルフレッドに叩き込んだのは、主として『ジークンドー(截拳道)』なる武術であった。 この開祖はルーインドサピエンスよりも更に古い時代の武術家であると言う。 ジークンドーの開祖と共に武術界を担った者は多く、その中に「伝説」とまで畏怖される男が在った。 その伝説の男が創始した流派より一組の兄弟が分かれ、編み出した武術の名を―― (――『トレイシーケンポー』……!) アルフレッドは胸中にてそう唱えた。 伝説の男が示した“道”より分かれたふたつの武術、『ジークンドー』と『トレイシーケンポー』。 故にアルフレッドの祖父は「仮想敵」としてトレイシーケンポーを意識し、技術的な特徴を孫に教え込んでいた。 しかし、今日を迎えるまでアルフレッドは「仮想敵」と巡り会う機会がなく、祖父の教えすら風化しかけていた。 おそらくは目の前に立つ男もそうなのだろう。幻像を伴う違和感は、「仮想敵」との邂逅によって引き起こされるものなのだ。 ワンインチクラックとは、ジークンドーの開祖が得意とした絶技の継承でもある。 「現存していたとはな。とっくに途絶(た)えたとばかり思っていたが……」 シルヴィオをトレイシーケンポーの使い手と認めたアルフレッドは、ふと自身の構えを変化させた。 相手を正面に見据えつつ、両の拳を交差させた今までの構えとは異なり、右半身を大きく開いている。 右拳は顎の辺りで引き付けており、対の左拳は柔軟な動きを確保するべく肘を軽く曲げ、その上で相手に向けられている。 左はアルフレッドの利き手でもあった。 握り拳の向きも今までとは違っている。従来の構えでは水平気味であったが、現在は垂直に立ててあった。 そして、この構えは、細かな差異こそあれども全体的なシルエットはシルヴィオのトレイシーケンポーに似ている。 「……まさかと思うたが、ほんまにジークンドーかいな―― ここで会ったが百年目とでも言うたらええんか? 百年じゃ足らへんか!?」 どうやら、この新たな構えがシルヴィオを“明答”に導いたようだ。一瞬だけ驚きの声を上げたものの、 今や口の両端を吊り上げ、野獣の如き笑みを浮かべている。 互角に撃ち合おうと言うのか、くるりと身を翻して彼も左拳を前方に突き出した。アルフレッド同様、右半身を開く恰好である。 「カッコええ言い方するなら、宿命に導かれたってトコやろな。……上等じゃ。因縁の戦いなんておあつらえ向きやんけ。 わしも何の気兼ねもなくやれるっちゅーもんじゃ」 「だろうな。……俺にも貴様と戦う理由が出来たようだ」 「ちょ、ちょっと!? なにふたりして運命の戦いみたいな空気を作り出してんの!?」 ここまでの流れはネイサンにとって何が何だか全く分からないのだが、 当事者ふたりは何故だか分かり合ったように笑気を帯び、白熱していた。 「因縁の戦いって一体なんだい!? そもそも! アルとカレドヴールフは別人なんだっ! 僕たちは戦う為にワーズワースへやって来たわけじゃないんだよ――」 このままでは良からぬことが起きるものと直感したネイサンは、慌ててシルヴィオに全てが誤解であると訴えた。 難民の調査と支援こそが自分たちの目的であると明かし、アルフレッドとカレドヴールフが別人であることも強調した。 弁明を紡ぐ度に昂奮してきたのか、「性別の違いにも気付かないとか、頭おかしいんじゃないのか!?」と、 最後には叱声まで飛ばす有様。ふたりが戦う理由はどこにもないと懸命に説いたのである。 それでもシルヴィオは構えを解かなかった。何を考えたのか、アルフレッドまでもが戦いを止めようとはしなかった。 理に聡いアルフレッドが、だ。ギルガメシュとの合戦ならばいざ知らず、 個人間の荒事と言った無益なことは、むしろ諌める立場にある。 そのアルフレッドがシルヴィオには闘争心を剥き出しにしている。自身を強襲したことへの怨恨があるようにも見えなかった。 「ど、どうしたんだよ、アル……」 「心配するな、ネイト。俺は負けない。何としてでもトレイシーケンポーに勝つ」 「だから、アルが何を言ってんのか、意味わかんないってば!」 親友の変調に戸惑うネイサンであったが、最早、彼の言葉では両者を止めることは出来ない筈だ。 アルフレッドとシルヴィオの間には凄まじい気魄が満ちていた。 「人違いとはすまんかったのぉ。今すぐにでも土下座で詫びたいんやが、……こうなったらそうも行かん。 最期まで付き合うてもらうで。ええよな、偽カレドヴールフ?」 「何度も言わせるな。俺にも戦う理由が出来た。……それで十分だ」 言うや、稲妻の如きフットワークで間合いを詰めたシルヴィオは、そこから更に跳躍を試みた。 傍目には足腰の動きが全く分からない程の速度である。しかも、相手に対して垂直に近い姿勢を取っている為、 アルフレッドには、この“線”がいきなり前面へ迫り出してきたかのような錯覚を与えるのだ。 ここから繰り出される左拳も回避は非常に難しい。アルフレッドの目には突如として“点”が飛んでくるようにしか見えないだろう。 火炎旋風の前段階とも言うべき直線の動きにも慣れてきたアルフレッドは、 シルヴィオの左肘を自身の右掌で打ち据えて制し、彼の着地を待たずに反撃の左手を突き出した。 左手と言っても拳による打撃が目的ではなかった。突き込まれた五指はシルヴィオの両目を狙っていた。 目突きの技である。五指を以ってシルヴィオから光を奪うつもりなのだ。 アルフレッドには眼球を穿つまでの意識はなかったかも知れない。だが、それでもシルヴィオを怯ませることは出来るだろう。 しかし、トレイシーケンポーを背負うこの男も負けてはいない。 瞬時に右腕を引くと、目突きを狙ってくるアルフレッドに向けて手刀を撃ち返した。それも、左右の二刀流だ。 左の手刀で肩を、右の手刀で肘の内側をそれぞれ打ち、五指が届く前に腕ごと堰き止める。 最大の目的は防御にあるが、手刀は四半円の軌道を描いており、十分な攻撃力をも発揮していた。 事実、アルフレッドは左腕が軋む音を聴いている。靭帯の損傷は免れたものの、骨にヒビが入ったことだろう。 (我ながら腕ばかりよくやられるものだな――) その上更にシルヴィオは右拳を振り落とし、アルフレッドの左腕を下方へと弾き飛ばす。 水平に寝かせた左手刀でもって首を打つと言う追撃も忘れない。 アルフレッドの口からは新たな鮮血が迸るが、当人はそれすら構わずに身を捻り、 シルヴィオの股下へと滑り込ませていた左足を容赦なく振り上げた。 金的に対する蹴り上げである。これは男性にとって致命傷になり兼ねなかった。 肉体的な欠損に留まらず、我慢の限界を超えて襲い掛かる不可避の激痛で身体機能が妨げられ、 以降の攻防にも支障を来たすと言うことだ。 シルヴィオとて例外ではなく、肘打ちの中途より変化させた左掌にて忌むべき蹴り上げを受け止めた。 つまり、今の彼は左手を使えない。そこに攻め入る好機を見出せる。 すかさず対の右足裏でシルヴィオの左太腿を踏み付けにしたアルフレッドは、 これを踏み台として跳躍するなりパルチザンを放った。 俄かに体勢を崩されていたシルヴィオは、すぐさまアルフレッドを中空に追い掛ける――が、 後ろ回し蹴りで迎え撃つだけの時間的余裕はない。背を向けながら後方に右脚を速射した。 その側頭部を左後ろ回し蹴りが捉える。しかし、彼の後ろ蹴りもまたアルフレッドの背を抉っていた。 円の軌道こそ描いていないものの、衝撃は心臓まで貫通しただろう。 中空にて相討ちとなったものの、両者ともに着地をしくじることはなく、数多のゴミを踏みしめつつ地上にて再び向かい合った。 「化けの皮が剥がれてきたのぉ。ホンマに“偽者”なんか、ワレ? やり口がいちいちド汚いんじゃ」 これはシルヴィオによる罵声だが、ネイサンもネイサンで今の攻防には戦慄を禁じ得なかった。 アルフレッドに対する戦慄を、だ。 ネイサンとてアルフレッドに備わる全ての武技を知っているわけではないが、 少なくとも、敵から「ド汚い」と罵られるような戦い方は初めて見た。 復讐の狂気に染まっていた頃でさえ、そのような罵倒は浴びなかった筈だ。 ローガンに師事してからは荒っぽい喧嘩殺法も身に着けたそうだが、 競技に於けるラフプレーと反則行為が違うように、喧嘩殺法と卑怯な攻撃手段は必ずしも一致するものではない。 ましてや、ローガンの性格上、そのような技を教えるとは思えなかった。 ならば、これがアルフレッドの本来のスタイルなのであろうか。 より正確に言うならば、通常の構えとは異なる状態から繰り出されるジークンドー本来の姿なのか。 「卑怯呼ばわりとは心外だな。トレイシーケンポーにだって金的も目潰しもあるだろう。俺はそう聞いている。 ……俺は全ての技を出し切って貴様を倒す。それがトレイシーケンポーへの礼儀だ」 「ガシンタレが! トレイシーケンポーかてジークンドーかて、使うのはその人の心じゃ! わしゃ、相手に一生モンの怪我はさせとうない。義の信念やッ!」 「愚かにも程があるな。所詮、戦いは生きるか死ぬかの世界だろう。どこを狙おうが、怪我をするときは怪我をする。 後遺症だってどうなるか分からない。その覚悟で戦うのみだ」 「ケッ――真性のワルやな。因縁抜きにしても、ギルガメシュのことを外しても、わしゃワレのことは好かん!」 「煩い、黙れ。二度と合わせることもない顔だ」 両手を広げながら正面切って突っ込んできたシルヴィオに対し、アルフレッドも左拳を閃かせて応じた。 それは、目を背けたくなるような乱打戦の始まりであった。 最短距離からのジャブ、裏拳、手刀を利き手の左のみで叩き込む『バタフライストローク』をアルフレッドが繰り出したかと思えば、 シルヴィオは左の拳で彼の脇腹を殴り抜け、返す刀の右拳で肩甲骨を強打、 更には振り子の原理で左拳を再び振り回し、トドメとばかりに初撃で叩いた脇腹へダメージを重ねた。 言うまでもなく、全てが半円の軌道を描いている。遠心力を乗せた拳であると言うことだ。 両者ともに避けることも防ぐことも忘れて、互角の殴り合いを演じていた。 互いが同時に打撃を繰り出し、相討ちになった瞬間もある。 バタフライストロークはシルヴィオの顔面を血だらけにし、半円の往復はアルフレッドの肋骨を何本も圧し折った。 この激突に当たり、アルフレッドはついにホウライを投入させた。蒼白いエネルギーを膜のように展開させて胴を防護し、 これによってシルヴィオの連打を防ごうとしたのだ。 結局、打撃を撥ね返すことは叶わなかったものの、その威力は大きく緩衝された。 だからこそアルフレッドはバタフライストロークの直後にライトニングシフトまで派生させられたのだ。 「電光石火の如き神速の変位」などと称されるこの肘打ちは、シルヴィオのこめかみを精確に貫いた。 脳を揺さぶられて意識が掻き消えそうになったシルヴィオは、歯を食い縛ってどうにか踏み止まる。 その胸部目掛けてアルフレッドはワンインチクラックを叩き込んだ。 「砕けろッ!」 「がぁッ――」 先程、決め損なった必殺技も今度こそは完成し、シルヴィオの身はゴミの墓場を突っ切り、森の只中にまで撥ね飛ばされた。 おそらくアルフレッドは心臓を圧潰させるつもりで繰り出したのだろう。 しかし、シルヴィオは更に化け物じみていた。吹き飛ばされる最中にあって右手を鉤爪の如く一振りし、 アルフレッドの胸を斜めに引き裂いたのである。 その手には蒼白いスパークが宿っている。ホウライによって光の爪を作り出し、これを間遠のアルフレッドに飛ばしたのだ。 間もなくシルヴィオの身が巨木と激突する音が鳴り響き、不意打ちの“飛び道具”は一度きりで終わった。 「今のうちに逃げよう!」と呼びかけるネイサンだったが、アルフレッドは親友の声をも黙殺してシルヴィオの後を追っていった。 森の中へと駆け込んだときには、既にシルヴィオは立ち上がっていた。 戦いの序盤こそ圧倒的な優勢を保っていたが、威力の高い技を立て続けに受ければ、 さすがにダメージが響くと言うものである。溢れ出る戦意とは裏腹に肩で息をしていた。 「まさか、ホウライ使うとは思わなんだわい。ワレぁ、それをどこでパクったんじゃ?」 「師匠がお前と同郷なんだ。ただそれだけだ」 「フカシこくなや。ジークンドーはタイガーバズーカには残ってへんのやぞ」 「ジークンドーは別の人間から教わった。ホウライを習った師匠のことだ」 「秘術持ち出すとかアホかいな! どこの誰や、そのアホは!?」 「ローガン・H・R・ルボー……お前の同志ではないが、タイガーバズーカでは有名人らしいな」 ローガンの名を耳にした瞬間、シルヴィオは目を丸くした。ただでさえ大きな白目が面から零れ落ちそうになっている。 その反応が意味するところを悟ったアルフレッドは、「知り合いらしいな」と口の端を吊り上げた。 「知り合いも何も、ガキの頃から世話ンなっとるセンパイや。ワレにもいてるやろ、地元にそないな人」 「……生憎と故郷を失くしているんでな」 「なんや、アホでもやらかして追い出されたんかい。ワレみたいな卑怯者には似合いのオチやのぉ」 「何とでも言え」 雑談を交わす内に呼気が整ってきたのだろう。シルヴィオの気魄が今まで以上に猛々しく膨らんだ。 「ローガンもいけずやな。ジークンドー使いを弟子に取ったっちゅーんなら、わしに教えてくれたってええやろ」 「誰もが“俺たち”の因縁を知っているわけじゃない。……時代錯誤なものに踊らされてるんだからな。 それこそ周りにはバカにしか見えないだろうよ」 斯く言うアルフレッドも自分の行動に驚き、呆れていた。 祖父より授けられたジークンドーにとって永年の「仮想敵」が目の前に居る―― ただそれだけの理由でトレイシーケンポーの継承者と戦っているのだ。 紛れもなく『私闘』であった。 連合軍の説得と言う計算の上で繰り広げたパトリオット猟班との乱闘とは全く違う。 粛清の危機に晒された旧友を救うべく立ち上がった義戦とも共通点は見つけられない。 個人的な理由だけで拳を振るうなど今までになかったことである。これは、人生に於いて初めての『私闘』なのだ。 そして、如何なるときでも使うまいと心に決めていた筈の禁じ手が身の裡より飛び出していく。 ジークンドーと言う武術が持ち得る全てを「仮想敵」へぶつけるかの如く。 アルフレッド本人の技よりグラウエンヘルツと戦いたい―― 嘗て、フツノミタマから挑発されたときにも同種の衝動に駆られたものだが、 この戦いの中で湧き上がるのは、先例よりも遥かに暴力的であった。 あるいは、“原始的な本能”と言い換えられるかも知れない。 己の武技が相手に勝ることを証明したい。目の前に立つ男に勝ちたい――それがこの『私闘』の本質であった。 最初の内は意趣返しを指向していたシルヴィオも、今や同じ衝動で全身を満たしていることだろう。 「トレイシーケンポーの技は見極めた。次で仕留める」 「アホちゃうか、ワレ。あないなモンは序の口、基礎中の基礎や。真髄なんて半分も見せてへんわ」 言われずとも、そんなことはアルフレッドにも分かっている。 祖父より授けられた「仮想敵」と相対する為の知識は、完全な形で蘇っているのだ。 トレイシーケンポーの極意とは、単純に円を描くだけのものではない。 円の内側に於いても様々な軌道を取り、ここから神秘的な力を生み出すものである。 その真髄をシルヴィオは殆ど披露していなかった。 だからこそ、アルフレッドは“勝負”を誘った。ジークンドーの極意は、相手に何もさせず倒すことにある。 利き手利き足を前にした構えは、最短最速で敵を封じ、瞬殺する為にあるのだ。 「仮想敵」へ全き勝利を誇るには、シルヴィオが真髄を解き放つ前に決着をつけるのが最善であった。 地の利はアルフレッドの側にある。先程のような広場ではなく周りを木々で囲まれた森の中では、 シルヴィオとて余りに大きな動きは取れないだろう。円の軌道にも制限が掛かって然りと言うことだ。 「行くぞ、トレイシーケンポー……ッ!」 「来いや、ジークンドーッ!」 そして、両雄(ふたり)は電光石火で動いた。 蹴りを繰り出さんとしていたシルヴィオの左足を自身のそれで踏み付け、動きを封じた瞬間に左の拳を突き入れる。 垂直に立てた拳はシルヴィオの顎と頬を同時に揺るがした。 この縦拳には蒼白いスパークを宿していた。無論、シルヴィオは双方のホウライを衝突させて中和するホウジョウで対応。 火花が散った後、アルフレッドの拳からはホウライの効果が消え去ってしまった。 アルフレッドにとっては想定の範囲内である。こちらがホウライを使うと分かった以上、 相手がホウライ外しで相殺を図るのは必定なのだ。 しかし、構うことはない。ホウライの恩恵に期待出来ない戦いはジャーメインとミルドレッドで経験している。 己の武技にて攻め切るのみである。 通用もしないホウライを使い続けるのは、言ってみれば小細工であった。 ホウライ外しを誤るわけにはいかないと言うプレッシャーでシルヴィオの神経を削り取り、心理的に追い詰めるつもりなのだ。 この攻防は必ず効果を発揮するだろうとアルフレッドは確信していた。 シルヴィオが振り上げた右の鉤爪を己の左縦拳で弾き飛ばしたアルフレッドは、そのまま相手の股を割るように踏み込んでいく。 肩口から入る体当たりである。全身に溜めた力を一気に解放するサイレントイラプションでもってシルヴィオを撥ね飛ばした。 彼が巨木に叩き付けられたのを見て取ると、そこへ押し込むようにしてアルフレッドは打撃の嵐を見舞った。 巨木を背にして挟み込まれた状況からシルヴィオが逃れようとすると、 アルフレッドはすかさずその出足を蹴り、あるいは眼球狙いの五指を繰り出して行く手を阻む。 何としても、この“磔台”から逃すわけにはいかなかった。 「言っただろう、貴様の技は見極めたと」 「ワレぁ――」 右横へ退路を求めるステップに合わせ、アルフレッドは内回しの左肘を振り抜く。 咄嗟に上体を引き起こして直撃こそ免れたものの、右眼の下は深々と裂けていた。 肘の位置が数ミリでも上であったなら、シルヴィオは本当に光を失っていたかも知れない。 左横へのステップは、身を捻って繰り出す右後ろ回し蹴りが阻んでいる。 閉所に於いても機敏さを維持するべく膝を曲げ、引っ掛けるようにして踵を当てていった。 小回りを利かせる工夫は、蹴り技の巧者たるアルフレッドならではと言えよう。 足を鎌に見立てた後ろ回し蹴りは、シルヴィオの横っ面を掠めた後、すぐさま中段蹴りへと変化。 胴を薙ぐと共に彼の身を“磔台”まで強引に押し戻した。 槍の如き前蹴りもシルヴィオの腹部へ一直線に突き刺さる。 巨木に押し付けることでダメージを増幅させ、内臓を圧潰するつもりだ。 無論、シルヴィオも防戦一方ではない。裏拳で鼻を潰されながらも右のボディーアッパーで反撃し、アルフレッドの鳩尾を強打。 怯むと見るや、同じ右拳を反時計回りに振り落として顎を打ち、更に対の左手を鉤爪のように振るった。 先に付けておいた胸の傷を再び抉り、速射砲の如き右手刀で喉をも打つ。 この反撃でアルフレッドの動きを制し、瞬時にして危地から逃れようとしたのである。 「りゃあああぁぁぁァァァッ!」 ――が、アルフレッドは吼え声と共に掌打でもって追い掛けた。 蒼白いスパークで包まれた掌打とは、ペレグリン・エンブレムである。 両腕を交差させることで完全に凌ぎ切ったシルヴィオにはダメージは全く見られない。 だが、この流れの中では直接的な痛手ではなく身動きの取れない状況へ持ち込むのが肝要なのだ。 アルフレッドの掌打は、シルヴィオの身を対角線上に在る巨木へと再び叩き付けた。 「そうなんべんも――」 同じ策(て)には乗るまいとシルヴィオのほうも警戒している。一足飛びで接近してくるアルフレッドへと左拳を突き出した。 機先を制する為の一撃とて想定内であった。回避と連動する形で身体を捻らせ、 シルヴィオの正面まで回り込んだアルフレッドは、その顎目掛けて左拳を突き上げた。 「これで……終わりだッ!」 全身を捻ることで生じた力を拳の先まで伝達させ、骨をも砕く一撃を見舞う―― スピンドルバイトは、アルフレッドにとっても必倒を託すに足りる大技であった。 果たして、変則のアッパーカットを直撃されたシルヴィオの顎は、激しい血飛沫と共に上方へと撥ね上げられた。 そのダメージは体内を貫いて脳天まで達するに違いない。 これで勝敗は決した――そう確信するアルフレッドであったが、突如として右肩に猛烈な痛みを覚えた。 鉤爪だ。シルヴィオの左鉤爪が肉を裂いて右肩に食い込んでいた。 当然、シルヴィオの身は中空まで吹き飛ぶことなく地上に振り戻されてくる。 この瞬間に鉤爪へと込められた力は尋常なものではなく、食い込んだ箇所からは血が噴き出した。 筋肉が破断したのではないかと、アルフレッドの背筋にも寒気が走る。 そして、その寒気は、振り戻されてきたシルヴィオの面を捉えたとき、戦慄へと姿を変えた。 シルヴィオの双眸は真っ赤に染まっていた。白目の部分が血の色に変わっていたのだ。 しかも、獲物を前にした猛禽類の如く瞳孔が開き切っている。 およそ人間の貌(かお)ではなかった。人間が持ち得る相とはかけ離れていた。 (なんだ、こいつは!?) その禍々しい形相をアルフレッドが視認出来たのも一瞬のことであった。 急降下の勢いを加えた頭突きにてシルヴィオから反撃され、意識が混濁してしまったのだ。 「――いてまうぞ、コラァッ!!」 着地と同時に右の縦拳を眉間に突き込んだシルヴィオは、次いで右側面へと回り、 水平に寝かせた左拳で脇腹を揺さぶっていく。 脳と肝臓の双方に強撃を受けたアルフレッドは、最早、構えすら満足に取れる状態ではなくなっていた。 これが格闘技の試合であったなら、すぐにでもネイサンはタオルを投げ入れただろう。 ホウライによって打撃の速度と威力を倍化させるシルヴィオに対して、アルフレッドはホウライ外しすらままならないのだ。 しかし、これは実戦である。どうやら余人には立ち入ることの許されない、“因縁の死合(しあい)”でもあると言う。 それ故にシルヴィオはアルフレッドが倒れて動けなくなるまで攻撃の手を緩めるわけにはいかなかった。 左の掌をアルフレッドの右首筋に引っ掛けたシルヴィオは、ここを軸にして彼の身を振り回した。 文字通りの意味である。己の左腕にて円を描き、この軌道に飲み込まれたアルフレッドを回転させたのだ。 回転そのものは小さかったが、宙に浮かされたアルフレッドには全く為す術もない。 彼の顔面が手頃な位置に降ってくるのを見計らって身を捻ったシルヴィオは、 肩と平行になる程の高い位置より地面を擦るようにして右のアッパーカットを放った。 「死にさらせェッ!!」 中空のアルフレッドは頭部を軸として全円を描き、シルヴィオもまた右の拳で全円を描いている。 ふたつの輪が交わったとき、右拳の威力はスピンドルバイトをも凌駕するのだ。 閉所に押し込めば、円の軌道も封殺出来ると言う見立ては、アルフレッドの失策であったようだ。 トレイシーケンポーは如何なる空間でも円を描ける。空間の条件などに囚われる筈もなかった。 武技の“極意”とは、他流の推量などで容易く破れるものではない。 遠心力を最大限まで引き出したアッパーカットで顎を貫かれたアルフレッドは、そのまま高空へと吹き飛ばされた―― 「――まだ……終わりはしないッ!」 ――かに思われた。ところが、強い衝撃が反動となって意識を覚醒させた彼は、 無理な体勢から更に上体を反り返らせ、全体重を乗せて左足を振り上げた。『サマーソルトエッジ』と呼ばれる蹴り技である。 本来は後方へ飛び上がりながら繰り出すのだが、この場に於いては自身のダメージをも利用したと言うわけだ。 執念の塊とも言うべき左足甲は斜め下方より掬い上げるようにしてシルヴィオの脇腹を捉え、 今度こそ中空高くに撥ね飛ばした。 「ぶ、文献やと飛燕一文字蹴り……っちゅー技名が付いとったのぉ、それ……」 「初めて聴いた……何の文献だ……」 無様に落下することなく中空にて身を捻って着地したシルヴィオは、 流血や打撲箇所こそ散見されるものの、余力はまだ残していそうだ。 全円の打撃こそ用いたが、真髄と呼ばれる領域には程遠い。トレイシーケンポーの技すら一端を見せた程度であろう。 アルフレッドが祖父から教わった話では、「仮想敵」と戦うに当たって峻烈な打撃の他に組み技の攻略も課題に含まれていた。 事実、シルヴィオは投げ技にも長けているようだ。 そのアルフレッドは、戦いの継続など殆ど不可能のように見える。 受け流すことに失敗すれば骨が砕ける――そのような打撃を既に何発も刻み込まれており、 現実問題として肋骨まで折れている。最後のアッパーカットには凄まじいまでの威力があり、顎の感覚など殆ど失せていた。 それでもシルヴィオから目を離さず、震える腕でジークンドーの構えを取っている。 ネイサンの目には愚かとしか映っていないが、これこそが格闘技者としての矜持と言うものであろう。 (……あの眼は何だったんだ? 人にあらざる何かを見た気がするが……) 意識が揺らぐ中での見間違いだったのだろうか――シルヴィオの双眸は普通の状態に戻っている。 だが、人外の化け物でないと確かめたところで事態は何ら好転しない。 もう一度でも火炎旋風に吹き荒んだなら、それが訃音となるであろう。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |