6.Dogmatism from prophet


 老齢の神官に伴われ、アルフレッドたちが去っていく様を五つばかりの目が見つめていた。
 フツノミタマ、ローガン、アイル、マクシムス、そして、シルヴィオ――以上の五名である。
無人のソッド・ハウスに身を潜めつつ、騒動の成り行きを注視していた。
 彼らはフツノミタマの先導を受け、アルフレッド一行とは別の経路から労働者階級の住居へと紛れ込んでいた。
即ち、異臭漂う森を大きく迂回し、ロレインのテントが建つ居住区の外れより進入を図ったのである。
 目的はただひとつ、ルディアたちの救出にあった。
 件の銃声を引き金としてワーズワースに良からぬ事態が起こるのは必定――そう懸念したアルフレッドは、
依然としてロレインのテントに留まり続けているルディアたちと無事に合流するべく一計を案じていたのだった。

「……またケムリがこっちに来やがったよ……」

 往来を行き交う難民の誰かが悲嘆を引き摺りながら空を見上げている。
 大いに諦念の混ざった呟きが示す通り、黒い靄のようなものが青々とした空を覆い尽くそうとしていた。
雨雲などではない。空に掛かる雲は、苦境を強いられる地上の難民たちが呪わしく思ってしまう程に真っ白であった。
 黒い靄とは駐屯地の焼却炉より流れてくる排煙である。難民たちの居住区と比して駐屯地は高所に在る為、
ここから生じた排煙が風に吹かれて下界まで降りてくることは、日に一度や二度ではなかった。
 悲嘆の声を上げるのも無理からぬ話であろう。この排煙こそが難民の健康に深刻な影響を及ぼしているのだ。
 しかし、サッド・ハウスにて息を潜める五名は、珍奇にも有害なる排煙を待ち侘びていた。
毒々しい靄によって空が塗り潰されたときが行動開始の刻限なのである。
 現在(いま)の風向きは、実は自然の流れに従ってはおらず、意図的に操作されたものであった。
 フツノミタマたちよりも更に大きく迂回して労働者階級の居住区すら縦断したホゥリーが、
風を操るプロキシ、『シャフト』を用いて黒い靄を労働者階級の居住区へと押し出しているのだ。
 彼が所有するトラウム、『クムラン・テキスト』は、内部にプロキシの力を保管しておくことが出来る球状の浮遊体であり、
これを併用して巨大な風の渦を生み出せば、気流を作り変えることもさして難しくはなかった。
 黒々とした排煙が陽の光を遮れば、松明を灯すような余裕もない労働者階級の居住区は、視界が極端に悪くなる。
また、難民たちも有害な煙から逃れるべく屋内へと駆け込んでいく――それこそがアルフレッドの狙いであった。

「夜まで待って行動するのがベストだが、そう悠長に構えてもいられない。ならば、こちらで闇を作り出して隠れ蓑にするだけだ。
一刻も早くルディアたちをあそこから連れ出す。それだけを考えてくれ」

 自らの出立の間際、アルフレッドはそのようにフツノミタマたちへ言い付けていた。
 尚、ホゥリーには護衛役として守孝が随行している――と言っても、
護衛は単なる建前に過ぎず、彼の本当の役割はホゥリーの監視役であった。
彼が調子に乗ってやり過ぎないよう目を光らせると言うわけだ。
 有害な排煙を利用するからには、ハブール難民に掛かる迷惑を最小限に留めなければならなかった。
万が一、ホゥリーが“過ち”を仕出かしたときには力でねじ伏せても良いと、アルフレッドは守孝に耳打ちしている。
 今のところ、ホゥリーは順調に気流を操っているようだ。間もなく難民キャンプは完全な闇に包まれることだろう。

「あのけったいな煙て人体にごっつい害があるんやろ。……ジークンドーのヤツ、使えるモンは何でも使う気かいな」

 垂れ込めていく靄を眺めながらここに至るまでの経緯を振り返ったシルヴィオは、
アルフレッドの取った手段が正しいのか否か、全く分からなくなっていた。
 仲間の身柄を無事に確保するのが目的とは雖も、
ワーズワースの自然と、そこに暮らす人々の健康を侵す排煙まで利用するのは、
幾らなんでもやり過ぎではないか――その疑念をどうしても打ち消せないのだ。
 アルフレッドに対するシルヴィオの心証はすこぶる悪かった。
 ジークンドーとトレイシーケンポーの『私闘』の折、執拗に急所を狙われたことは関係ない。
ギルガメシュを懲らしめる策を講じてくれたことには感謝の念すら抱いている。
 ただ――己の仲間の為に他者を侵害するような計略へ義を重んじる心が疼いて仕方がなかった。

「こないなとき、アルは手段を選ばんのや。士官学校も卒業(で)とる根っからの戦上手やさかいな。
そのとき使えるもんは全部ブッ込んで策を練り上げるんや。ド汚いことかて喜んでやってのけるで」

 シルヴィオの苦悶を見透かしたローガンは、トレードマークたるバンダナを結び直しつつ、努めて穏やかにそう諭した。
 声の質はともかく、どこか愛弟子の悪行を強調するような物言いであり、シルヴィオは思わず首を捻ってしまった。

「ワレはあいつの師匠やろ。そないボロカス言わんとフォローくらいしたれや」
「そない聞こえへんかったか? 心外やなぁ。これでも精一杯フォローしとるつもりやで」
「してへんがな!」
「そやから言うたばっかやろ、あらゆる手段を頭ン中で考えて考えて考え抜くのがあいつのスタイルやて。
そんで、あいつが一番リキを発揮するんは、誰かの為に戦うときやねん」

 「手段を選ばんっちゅーのは、こないなときやねん」とローガンは続けた。

「アルはの、取っ付き悪そうに見えてごっつ仲間想いなんや。
自分が何に支えられて生きとるかも、……それを失(うしの)うたときの哀しみも誰よりも知っとるさかいな――」

 そこでローガンは話を区切った。愛弟子のこととは言え、人の身の上を話し過ぎてしまったと気付いたのだ。
 しかし、シルヴィオに伝えておかなければならないことは全て話せたとも思っている。
師匠として、アルフレッドに向けられた良からぬ誤解だけは打ち消したかった。
 クラップを殺されて狂気に取り憑かれてしまったこと。ニコラスの尽力で復讐の妄念が浄化されたこと――
友を想う心根の美しさを一度も疑わず、最後まで信じきったのは他でもないローガンなのだ。

「そやから、仲間を守る為には泥を被るのも厭わんのや」
「仲間以外やったら多少の犠牲が出てもかめへん言うんか。……アホやろ。そないなもん、ただのアホやんけ」

 ローガンはアルフレッドの心の根の美しさを説いていったが、対するシルヴィオには偽善のようにしか思えなかった。
 内部に変化が起こりつつあるものの、スカッド・フリーダムの本質が『義の戦士』であることは揺るぎない。
身の周りの誰かを守るには他者を犠牲にしても構わないと言う“屁理屈”など許容出来るわけもない。

「お前の考えも解るで、シルヴィー。そやけど、人間っちゅーもんはそない立派には出来(でけ)とらんのや。
全知全能のイシュタル様とちゃうんやから、やっぱり目に映る範囲から少しずつ守って、大切にしていくしかないんや」
「そない不幸が起こらへんよう目ぇ光らせるんがスカッド・フリーダムの務めやろが。
わしらはその為に戦(たたこ)うとるんや。これまでも、これから先もじゃ」
「スカッド・フリーダムはそれでええんや。お前たちが気張ってくれとるさかい、世の中、メチャクチャにならんで済んどる。
アルがお前たちくらい器用やったらええんやけどな。ま、人にはそれぞれの持ち分言うのがあるからの」
「……小器用になったら、視界が狭(せま)なると思うたから、ワレはスカッド・フリーダムにも入らんと、
タイガーバズーカを抜けたんか? わしらには守れへんものがあるて……」
「そら要らん勘繰りっちゅーもんや。ワイは窮屈なルールが厭になって飛び出しただけやねん。ただの放蕩(アホ)やで〜」

 伏し目がちとなったシルヴィオへおどけて見せる――元気付けるにしても、ひどく曖昧な笑顔であったが――ローガンの頭に、
「いつまでくっちゃべってんだ」とフツノミタマから小さくも鋭い叱声が降り注いだ。
 見上げた空も、人気の失せた地上も、今や真夜中の如き闇に塗り潰されている。

「程よい空模様となって参った。いよいよ頃合ですかな、フツノミタマ殿?」

 ミサイルポッド――ウェポンモードにシフトさせたMANAである――を担ぐアイルがフツノミタマに確認を求めた。
念の為にと『月明星稀』を準備したフツノミタマは、器用にも鞘を噛み締めたままで「見りゃ分かるだろうが!」と怒鳴り返した。
 何の脈絡もなく張り上げられた怒声にマクシムスは大口を開け広げて唖然としてしたが、
フツノミタマの気性を既に知っているアイルは、さして気にも留めていない。彼にとっては、これが世間話のようなものなのだ。

「マクシムス殿、何を呆けておられる。小生たちの出番は間もなくですぞ」
「いや、その――世の中には面白ぇ人間がたくさんいるもんだな……」

 アイルに注意されたマクシムスも慌てて超音波砲状態の『ギルティヴェインギーク』を抱えた。
確かに呆けている場合ではない。来るべき瞬間に備えて身も心も引き締めておかなければならない。


 やがて、サッド・ハウスから忍び出た五人は、フツノミタマを先頭にしてロレインのテントへと向かっていった。
 アイルとマクシムスを伴ったのは、他の難民に見つかって騒ぎとなった場合の備えである。
ビークルモードのMANAへとルディアを乗せ、暴徒化した人々の魔手が届くよりも先に離脱する算段であった。
 状況次第ではロレインも助けなければならないことだろう。それ故にMANAの所有者がふたりも随伴しているのだ。
これもまたアルフレッドの采配だった。

(……けったいなことになってもうたわ……)

 闇に包まれた難民キャンプを駆け抜けながら、シルヴィオは胸中に垂れ込める複雑な思いと格闘していた。
 ロンギヌス社とスカッド・フリーダムは、難民支援と言う共通の目的を実現するべく同盟関係を結んでいる――が、
シルヴィオ個人としては『難民ビジネス』がどうしても気に食わない。
 人間としての良心を持ち合わせているのなら、難民を食い物にするような事業など認められるわけもないと思っている。
 ワーズワースを調査すると言うヴィンセントに護衛の名目で同行したのは、上層部(うえ)からの命令と言うことだけではなく、
ロンギヌス社の非道を何としても見つけたかったからに他ならない。
義に悖る振る舞いがあれば、上層部(うえ)も同盟の是非を再考する筈だ、と。
 言わば、オンブズマンのような気持ちで臨んでいた筈なのだが、気付いたときにはアルフレッドの敷いたレールの上を走らされ、
おまけに難民ビジネスの担い手とも言うべきマクシムスと肩を並べている。

 ワーズワースに入って以来、彼の情報処理能力を上回るような事態が立て続けに起きている。
永年の「仮想敵」であったジークンドー使いと巡り会ったかと思えば、
同郷のローガンやハーヴェスト、更には裏切り者たるパトリオット猟班とも一度に再会――
この時点でシルヴィオの思考回路は焼き切れる寸前であった。
 先頭を行くフツノミタマに至っては、スカッド・フリーダムでも警戒の対象に認定されていた裏社会の人斬りである。
義の戦士たる自分が、よりにもよって『剣殺千人斬り』の異名を取る仕事人と協力し合う日が来るなど、
シルヴィオは一度だって想像したことはなかった。
 それに――理不尽な理由で惨殺された難民のことも忘れることが出来ない。
検問所へ侵入しただけで全身を蜂の巣にされた挙げ句、火炎放射器で炭クズにされてしまった男のことである。
 スカッド・フリーダムの上層部は、“護民官”と言う立場を貫く為にギルガメシュとの全面戦争を避けている。
護衛の依頼によって発生した戦闘については止むを得ないものの、
自分たちの側から攻撃を仕掛けてはならないと言う厳命も下されていた。
 この姿勢に我慢のならなかったシュガーレイたちはパトリオット猟班を名乗って離脱していったのだが、
今となってはその決断もひとつの正解ではなかろうかとシルヴィオには思えた。
 悪逆非道としか言いようのないギルガメシュへ鉄拳を振り翳すのは、義の道を全うすることにも等しいだろう。
 事実、シルヴィオはジャーメインやジェイソンよりも先に「駐屯軍を懲らしめたい」と口火を切っている。
 アルフレッドと『私闘』を演じることになった主因(きっかけ)は、彼をカレドヴールフと見間違えたことにある。
惨たらしい殺され方をした男の仇を討つべく、本気でギルガメシュの首魁を狙ったのだ。
 これらの行動は全て上層部からの厳命を無視したものであった。
隊の意向に反したのであるから、下手をすれば厳罰を科せられるかも知れない。
 それでもシルヴィオは自分の行動が誤っているとは思えなかった。
スカッド・フリーダムの本質である義の心へ忠実に動いた結果なのである。
 だからこそ、己の為すべきことが本当に正しいのか否か、シルヴィオには判らなくなっていた。
油断のならない面々よりも、偽善としか思えないアルフレッドの計略よりも、己の行動そのものが疑わしく思えている。

 心に迷いを抱えたままではあるものの、その五感は冴え渡っている。
どれだけ視界が悪くなろうともシルヴィオの双眸がフツノミタマを見失うことはなかった。
 義の戦士ほどには夜目の利かないアイルやマクシムスが躓きそうになる度、
ローガンと共に助けられるだけの余裕は持ち合わせていた。
如何に精神が乱れようとも肉体の働きを正常に保っていられるのは、まさしく鍛錬の賜物であろう。

 程なくして五人はロレインのテントまで辿り着き、屋内に居るであろうジョゼフに向かって
フツノミタマが「聞こえるか、オラ! オレだ、クソジジィ!」と呼びかけた。
 ジョゼフには事前に連絡を入れてある。メールにて委細を伝えたので脱出の手筈も全て解っている筈だ。
返信がなかったことをアルフレッドはいつまでも気に掛けていたが、
そこは「爆発音が聞こえへんのがええ便りの代わりや。キャンプかて火の海になってへんやろ」とローガンが上手く取り成した。
 メールを返してこない事情は不明だが、撫子が暴れていない以上は、
今もロレインのテントに滞在していると見て間違いあるまい。
少なくとも、最悪の事態が起きたと言うわけではなさそうだった。

「……ったく、どいつもこいつもホウレンソウをバカにしやがってッ! メールを途中でブッたぎるって遊びでも流行ってんのか――」

 五人の前にジョゼフが姿を現したのは、フツノミタマが毒づいた直後のことである。
 悪言が途切れる瞬間を見計らっていたかのような登場であった為にフツノミタマも思い切り仰け反り、
それを見て笑いの勘所を突かれたローガンは、「お前ら、以心伝心やんけ」と腹を抱えていた。

「思ったより遅かったではないか。待ち草臥れて昼寝でもしようかと思っておったところじゃ。
……と言うても、今は昼だか夜だか分からんがの」
「メール行ってんなら返事くらいしろや、ボケッ! アル公がうざったくて仕方なかったんだよ、こちとらッ!」
「いちいち怒鳴るでない。ワシらにも色々と事情があるのじゃ――」

 がなり声を張り上げるフツノミタマに肩を竦めつつ周囲へ警戒を払ったジョゼフは、
誰にも尾行されていないことを確かめると、五人をテントの中へと招き入れた。


 どこで誰が見ているのかも知れない為、幾分、身を強張らせながらテントへ入っていった五人は、
目の前に現れた不可思議な情景に面食らい、暫時、呆然と立ち尽くしてしまった。

「ここは保育園かいな……」

 これはシルヴィオの漏らした呟きである。
 その言葉が示した通り、ロレインのテントでは十数人ばかりの子どもたちが賑やかに遊んでいた。
輪の中心に在るのは、体調を崩して休んでいる筈のルディアだ。
周りの子どもたちはどう見てもキンダーガートゥンくらいなのだが、
精神年齢が近しいこともあって違和感なく馴染んでおり、一緒になって素っ頓狂な奇声を発している。
 ルディアの顔は血色も良好であり、つい先程まで弱々しく横たわっていた人間のようには思えない。
風邪を引いて授業を欠席した子どもが、身体を休めもせず遊んでいる内に元気を取り戻すと言う話は、
数多の家庭で良く耳にする。
ルディアの場合もその類例に当て嵌まることだろう。
 ダイジロウたちもそれぞれ子どもたちの面倒を見ている。身体の大きなテッドは自身を巨木に見立て、
子どもたちを逞しい両腕にぶら下げていた。足が宙に浮くと言う不思議な体験を味わった子どもたちは大はしゃぎである。
 先程の一件が相当に堪え、気落ちしていたふたりだが、子どもたちとの触れ合いを通じて少しずつ元気を取り戻していた。
 子ども番組などで司会を務めるラトクはさすがに年少者の扱いに慣れており、
そうしたタレント活動を知らないAのエンディニオンの子どもたちも彼の周りに群がっている。
 それを見たジョゼフが「本当に子どもを釣るのが巧いわ」と胸中にて皮肉ったのは余談である。
 テントに入ってきたフツノミタマの顔に驚き、怯える子どもは少なくなかった。
強烈なショックを受けて泣き出しそうになった子には、すぐさまレイチェルが駆け寄り、頭を撫でて落ち着かせている。

「ちょっと、フツ! あんた、ただでさえ顔がヤバいんだから、少しは愛想振り撒くとかしなさいよ! 
怖いんじゃなくてヤバい! この違いは子どもにはめちゃくちゃキツいんだから! トラウマを植え付けるんじゃないよっ!」
「ムチャ言うなッ! ンな器用な芸当(コト)が出来るんならとっくにやってらァッ!」

 成る程、「保育園」と言うシルヴィオの見立ては正鵠を射たものであった。
 ときに子どもらしい奇声まで交えつつ賑々しく遊んでいると言うことは、ここには先程の銃声も届かなかったらしい。

「少しばかり警戒心が足りねぇ気もするが、子どもってのはこれくらいで良いのかもしれねぇな。
出来れば、危ねぇもんには触れずに済んで欲しいもんだぜ」

 危ないもの――マクシムスの言葉に弾かれるようにして、フツノミタマは屋内に設えられた戸棚へと目を向ける。
そこには猛毒を納めてある小瓶が置かれていた筈だ。

(間違ってチビどもが飲んじまったら、とんでもねぇことになる――)

 しかし、フツノミタマが懸念した物は戸棚のどこにも置かれていなかった。まさしく影も形もない。
 そもそも、記憶違いであったのか。はたまた、別の場所に隠してあるのか。
いずれにせよ、子どもたちの手が触れるような場所に危険物がないことさえ確認出来れば安心であった。

「土産も持たんと手ぶらで来て失敗やったな。こないなことならホゥリーからポテチでもせしめといたら良かったわ。
先に言うてくれや、フツ〜」
「どいつもこいつもうるせぇなッ! オレだってこんなチビどもは知らねぇよッ!」

 ローガンから脇腹を肘で小突かれるフツノミタマであったが、ルディアと仲良く遊んでいる子どもたちは、
彼やフィーナたちがここを出たときにはいなかった筈である。
 困ったような表情でフツノミタマたちを出迎えたロレインの説明によると――
彼女は労働者階級の人々の衣類を洗濯する係を引き受けており、
テントに集まっているのは、家庭の手伝いで汚れ物を運んできた子どもたちであると言う。
 そうした子どもたちを短時間ながら預かり、面倒を見ているのだとロレインは付け加えた。
シルヴィオの脳裏に浮かんだ「保育園」と言う見立ては、あながち間違いでもなかったわけだ。
単身にも関わらず大きなテントを設営しているのも託児を請け負うと言う事情からであった。

「ごく僅かな物資(もの)や時間を使って食い繋ぐには、キャンプのみんなで協力し合わなければなりません。
私はクリーニング店に勤めておりましたので、その経験が生かせるなら嬉しいくらいですよ」

 労働者階級の居住区では、女性を中心に炊事などを効率よく分担しているようだ。
それだけに子どもを預かってくれるロレインは貴重な人材なのであろう。
 今日も数人が洗濯物を運んできたのだが、暫くすると近所の子どもたちにもルディアの存在が知れ渡るようになり、
いつの間にやらこのような状況になったのだと言う。誰も彼も外の世界からやって来た女の子が珍しかったのだ。
 「すぐに打ち解けてしまえるんですから微笑ましいですね」と朗らかに語るロレインとは対照的に、
フツノミタマは秒を刻む毎に険しい表情となっていく。またしても幾人かの子どもを恐怖のどん底に叩き落してしまい、
レイチェルから理不尽な叱声を浴びせられた。
 しかし、そのような瑣末なことに構っていられる余裕などフツノミタマにはなかった。
 “外からやって来た女の子”、即ち、部外者の存在が一所(ひとところ)に滞在していると周囲に露見した以上、
一刻も早くこの場から立ち去らなければならなかった。
 このような状況で暴徒化した難民に踏み込まれでもしたら、ロレインのみならず子どもたちにまで危害が及び兼ねないのだ。
それだけは何としても避けなければなるまい。

 だが、すっかり意気投合してはしゃぎ回っているルディアを子どもたちから引き剥がすのは骨が折れそうだ。
自分だけでもテントに残りたいと駄々を捏ねる可能性も高い。

「うむうむ、出迎え苦しからずなの。でも、ここはちょっぴりわがまま気分なのね。
今日はロレインちゃんとこに一泊して、明日の夕方に帰るスケジュールを立てたの。
『エキサイティング・ピーポー』だってやってないし、まだまだ遊び足りないの!」

 案の定、ルディアは新しく出来た友達から離れたくないと強情を張った。
 彼女の言うエキサイティング・ピーポーとは、特定のルールを定めずに大声を上げながら誰かを追い回し、
そこに生じる例えようのない高揚感を楽しむ遊戯(あそび)であった。
 頭に来たフツノミタマが鬼のような形相で凄んで見せても、
関係のない子どもが泣くばかりでルディア本人には少しも通じていない。
それだけならまだしも、強面相手にも屈しない彼女の勇気に感動した子どもたちが、
「いよっ、ルディアの親分!」、「痺れるぜッ!」などと盛大に囃し立てるのだ。
 勿論、友達の声援を背にしたルディアは得意満面である。ますます此処に居ついてしまうだろう。

「……残りてぇって言うんなら別にそれでもいいんじゃねぇのか。どうせこんなガキじゃてめーらの仕事なんざ手伝えねぇんだ。
足手まといが減るんだから、てめーらこそ願ったり叶ったりじゃねーのかよ」
「ぶーっ、ナデちゃんったらそれはそれでヒドいの。ルディアは超一人前のレディーなのね。
仕事も遊びもカンペキなバリキャリなの!」
「……ふん、どうだか……」

 さすがに子どもたちの相手は出来ず、部屋の隅に引っ込んでモバイル遊びに興じていた撫子も、
労働者階級の居住区へ一泊したいと言うルディアの望みを支持するつもりのようだ。
護衛が必要な自分が残っても良いとまで言い始めた。

「どう言う風の吹き回しだ、てめェ。ベビーシッターにでもなろうっつーのか?」
「面倒くせーことがうぜぇだけだ、勘違いすんな。ガキの近くにいるだけでてめーらに付き合わねぇで済むんだろ? 
俺にとっちゃ割の良い仕事だぜ」
「てゆーか、フッたん、何気にルディアをベビー扱いしたのね。これはペナルティなの。ギルティなの。
お尻百叩きの刑に処すの。シェインちゃんにそうメールしとくから覚悟よろしくなの!」

 意外な角度からの擁護に目を丸くするフツノミタマであったが、さりとて撫子に訪れた変化を詮索してもいられない。
独力では埒が明かないと考え、援護射撃をするよう目配せで以ってレイチェルに訴えた。
 彼女とて人の親だ。小さなルディアや、彼女の周りに集まった子どもたちを危険な目に遭わせるのは忍びない筈である。
 フツノミタマの意を察したレイチェルは、静かに首肯した後、ロレインのテントで遊ぶ子どもたちを自分のもとに招き寄せた。
勿論、その中にはルディア当人も含まれている。

「みんな、ごめんね。本当はもっと一緒に遊んであげたいんだけど、お姉さんたち、今日はもう帰らなきゃいけないのよ」

 「“お姉さん”とは随分とサバ読んだな」と反射的に軽口を叩きそうになるラトクであったが、これは危ういところで堪え切った。
年齢にまつわる不用意な発言をして手酷く報復されるヒューの姿が脳裏へと蘇ったのである。

「――だから、約束しましょう。明日、また遊ぶって。ルディアもそれなら良いわよね?」
「えぇ〜っ、日が暮れるまでまだまだ時間はたっぷりあるのっ! せめて夕焼けまでは子分たちの面倒を見てやりたいのっ!」
「うーん、そっか……ルディアが傍にいてくれたら、怪我をしたムルグも元気になると思うんだけどなぁー」
「ぬおっ!? 待って待って、待ってなの! ムルグちゃん、どこかケガしたの!?」
「さっきアルからメールを貰ったんだけど、ちょっと、ね。身体を痛めたみたいでね……」
「そ、そーゆーのは、もっと早く言って欲しかったのっ!」

 ムルグが狙撃された件を誰からも聞かされていなかったルディアは、その報に愕然とし、大いに慌て始めた。
 アルフレッドからメールで連絡を受けたのは、正確には彼女ではなくジョゼフであった。
他の仲間たちと同様にレイチェルは新聞王からそっと耳打ちをされたのだが、
その際、ムルグの件はルディアには伏せておこうと取り決めていたのである。
 ショックを与えるのは可哀想だと言う配慮だったのだが、レイチェルは敢えてその取り決めを破り、
ルディアの意識を自分たちのもとへと手繰り寄せたのであった。
 完全に取り乱してしまったルディアのことを周りの子どもたちも心配そうに見つめている。
ムルグと言うのが彼女の友達だと聞かされると、今度は「すぐに行ってあげて!」と異口同音で勧め始めた。

「また明日も遊べるじゃん! だから、おれたちは別に寂しくないよ!」
「親分! 行ってくだせぇ! あっしらは親分の帰りを楽しみにお待ちしておりやす!」
「うぅっ、いい子分に恵まれてルディアは幸せ爆発なのっ!」

 一度はどうなることかと思われたものの、今やルディアの意識はムルグへと一直線に向けられている。
 これにはフツノミタマも驚かされた。援護を頼みはしたものの、一瞬にしてルディアを心変わりさせられるとは思わなかったのだ。
 フツノミタマの隣に立ってレイチェルの手腕を眺めていたラトクは、
どこか苦悶にも似た声色で「ああ言うのを本当の“親”って言うんだろうな」と呟いている。
腹の内を明らかにしない男にしては珍しく、素の感情(こころ)を吐露していた。
 敢えて聞こえていない素振りを装ったものの、何か身につまされることがあったのかも知れない。

「――あっ、じゃあ、約束! 約束しよ、ルディアちゃんっ!」

 そう言ってルディアに抱きついたのは、彼女に一番懐いていた女の子だ。
長い水色の髪を首の付け根の辺りで一房に結わえている。そのリボンを解き、ルディアに向かって差し出した。

「針を千本飲ませるって言うのは怖いから、わたしのリボンを明日まで貸してあげるねっ。
一番のお気に入りなんだから、忘れずに返してくれなきゃヤダよ?」
「セレステちゃんっ!」

 セレステと言う名の女の子が差し出したリボンは、白地に金糸の刺繍が入った愛らしい品である。
労働者階級の子どもであるので、やはり身なりは汚れているのだが、ワンポイントだけでも飾りたいと言う乙女心が感じられる。
草花の模様が如何にも年頃の女の子らしかった。
 一番のお気に入りと明言するからには、家族から贈られた物かも知れない。
 彼女の心遣いに感動したルディアは、急いで自身の髪を結わえているゴムを外し、これをセレステに手渡した。

「明日まで取り替えっこなの、セレステちゃん。……って言っても、ルディアのは全然可愛くないけど……」
「そんなことないよっ、すっごく嬉しいよ〜っ」

 普段、ルディアは犬や猫の耳のように頭頂部の髪を二房結わえている。
そこだけ他のところよりも色が濃く、ゴムを外して両サイドへ自然な形で流すと、頭の上から頬にかけて弧を描くような趣となる。
 セレステはその色合いに「わーっ、ルディアちゃん、なんだか大人っぽいね〜」と目を輝かせていた。
 斯く言う彼女は、つい今し方までのルディアの髪型を真似ている。
これに応えるようにルディアもセレステのように後ろ髪をリボンで結わえた。
 セレステほど髪が長くはないので、首の付け根で人房に結わえると些か不恰好になってしまうのだが、
ルディアにはそれでも満足なのである。友達と髪型まで取り替えた――そのことが何よりも大切なのだ。

 テントの外からは淡い陽の光が入り込んできた。ホゥリーがプロキシの力にて操作していた黒い靄が晴れたのだ。
 初めの内は遠慮がちに差し込んでいたものの、秒を刻むにつれて四方へと広がっていき、
間もなく屋内全体を明るく、そして、優しく包み込んだ。
 ルディアたちの前途を祝福しているかのような光であった。そう思わずにはいられなかった。

(ローガンの言うことはわからん。せやけど、……これがわしの戦いじゃ。スカッド・フリーダムの義なんじゃ……!)

 如何なる苦境であっても心を通い合わせ、溌剌と生を謳歌する子どもたちの姿を物言わずに眺めていたシルヴィオは、
義の戦士として為すべきことを改めて己に問い掛けている。
 義の道とは余人から与えられるものではない。このようにありふれた暮らしを守る為にあるのではないか――
ロレインのテントを去る瞬間までシルヴィオは己が歩むべき義の道を見定めようとしていた。





 ソテロと名乗った老齢の神官に案内されて、アルフレッドたち一行は東の区域の一角に向かう。
そこには質素な作りの小屋がぽつんと建っていた。
 周囲のテントと比して幾分まともな建材を使っていると見受けられるその小屋が『神学校』なのだとスコットは紹介した。
そして、ソテロその人こそが神学校唯一の教師であり、校長であるとも。
 その神学校では一行に白湯が振る舞われた。
 汚染物質が混入し、井戸の水が飲めなくなっている以上、これだけでも相当なもてなしになるそうだ。
シェインとジェイソンはロレインのテントでの出来事を思い出し、神妙な面持ちで白湯を見つめている。
 学校と名の付く建物ではあるが、アルフレッドたちが通された教室には幾つかの長机と背もたれもない椅子が目立つだけ。
教壇も急ごしらえで作られたような趣であり、本当にここで授業が行われているのだろうかと不思議に思えるくらいだった。
 そのような中にあって、教室に飾られているレリーフだけは“良い仕事”が為されている立派な出来であった。
 興味深い様子であちらこちらを見回していたシェインは、
レリーフのデザインが嘗てリーヴル・ノワールで発見した者と同じであることに気が付いた。
その顔貌は池の畔に立つイシュタル像にも似ている。つまり、レリーフは女神を象ったものであると言うわけだ。

(あんな研究してた場所にイシュタル様のレリーフを飾るとか、『ハカセ』ってヤツはとんでもない悪趣味だな……)

 シェインと同じように好奇心の塊であるジャスティンは、早速、ソテロにこの『神学校』では何を教えているのかと尋ねる。

「ここでは労働者階級の子どもたちに、預言者が定めた教義を教えているのです。
私は『教皇庁』に認められた司祭ですから」

 斯くの如く語るソテロの額には、成る程、クインシーが用いた物と同じサークレットが嵌められている。
それこそが教皇庁所属の証しであった。

「……不運なことに異なるエンディニオンへやって来てしまいましたが、
定められた職務を全うするのが私の天命でございますので。日々我々の宗派の教えを伝道しております」
「シュウハ? それってつまりどう言うこと?」

 聞きなれない言葉にシェインが首を傾げる。Bのエンディニオンにはそのような概念など存在していないと言って良いのだ。
それを聞いて、ソテロではなくジャスティンが「成る程」と反応した。

「私たちのエンディニオンはイシュタルを信仰する宗教がありますが主に二通りの教えがあるんです。
ひとつはヨアキム派で、もうひとつがガリティア神学派と分かれています」
「うーん……同じ神人を信仰するのに考え方がそこまで違うのか」

 女神像へ祈りを捧げると言うAのエンディニオン独特の風習に驚かされたものだが、よもや教えにまで違いがあるとは。
『ヨアキム派』、『ガリティア神学派』と言うふたつの宗派の名を聞かされたシェイン――
いや、Bのエンディニオン出身者たちは、一様に戸惑いの表情(かお)を浮かべている。

「シンガッコーってのはそのキョーギとやらを教えているってことなのか。……オイラ、なんのことやらさっぱりだ」
「私どもハブールはガリティア神学派に属しております。……偉大なる預言者が神託に基づいて定めたとされる様々な制度、
特に身分制度について、この神学校では教えているのです」
「それはつまり――」

 ソテロが「身分制度」を口にした途端、ジャスティンの表情が強張った。
ワーズワースでの出来事を通じて階級間の格差を目の当たりにしてきたシェインやジェイソンも眉間に皺を寄せている。

「私はフィガス・テグナー出身なので、あまり宗教的な影響を受けないで過ごしてきましたが、
……ハブールはガリティア神学派の教えが強く、それ故に身分制度が存在するのだとお見受けしましたが?」
「――ほほう、小さいのになかなか理解が早いご様子。生徒たちが皆、あなたのようであれば授業も早く進みましょう」
「滅相も……」

 如何にも神学校の校長らしい誉め言葉を、ジャスティンは表情を変えずに受け取った。

「身分制度とは預言者ガリティアが定めた教えでございます。宗教的身分は幾つもの位階に分かれておりますが、
ハブールの人間に限って言えば――貴族の方々が務める『読師(どくし)』と、それ以外の『神僕(しんぼく)』があり、
読師は神僕を指導し率いていくべき立場に在るのです。一方の神僕は読師に従い、
粛々と神に奉仕する身分なのでございます」
「そうなると、このワーズワースに暮らす難民たちの内、上流階級は読師、下流階級は神僕に分けられると言うのだな?」

 ソテロの説明を受けて、今度はアルフレッドが質問を投げかける。
 宗教的な身分の違いが階級の差異に直結しているのかと言うことだが、どうやらそう言うわけでもないようだ。

「いえ、読師と神僕は教会の定義によって決まります。決して富を有しているから読師になるわけではありません」
「と言うことは、ここの階級差は預言者の教えとは無関係だと言うことなのか?」
「そう言うわけでもございません。読師は信徒の心がけ次第でなれるものです。
地道に善行を積むと言う手段もありますが、簡単な手段ですと教会に寄付をすることで読師の身分を得られます」

 ソテロの話へ耳を傾けていたジャーメインは、読師の委細を知るに至って「何よ、それ!」と素っ頓狂な声を上げた。

「ムチャクチャじゃないの! つまりカネで身分を買い叩くってことでしょ!?」
「……いえ、あくまで教会への寄付も善行と言うのが教えであります。
ゆえに、富裕層の殆どの方はこのような“善行”の積み方によって読師の地位を得られることになります」
「結局は売り買いとおんなじよ! それで良いの!?」
「良いも悪いも、これは預言者が望んだ通りの教えなのですから、我々はそれを順守するだけなのです」
「他人が決めた生き方に従えって教えんのかよッ!」

 ジャーメインに続いて、シェインまでもが大声を張り上げる。ガリティア神学派の教えは全く理解に苦しむ考え方であった。
 ソテロ曰く、身分に歴然とした差がある読師と神僕。あらゆることに神僕より優先する読師の身分も、
早い話が金次第で手に入る。そして、その行為も宗派の考えとして正しいのだというのだから、驚くばかりである。

「こんなめちゃくちゃな話を子どもたちに正しいコトだって教えるなんて、どう考えても間違ってるじゃないか!」
「おうとも! 預言者の教えが何だってんだ! そんな不確かなモンで生き方左右されるのが気に入らなきゃ、
金持ちだけが得する仕組みも気に入らねぇぜ! こんなふざけた社会で良いわけねぇだろッ!?」

 憤慨したシェインとジェイソンがソテロに詰め寄っていく。
子どもにこんな教義を教えるのは殆ど洗脳だ、価値観の植え付けだ、ということである。

「おふたりとも落ち着いてください。ここで怒っても問題は何も解決しないんですよ」
「だとしたら、どうだってのさ、ジャスティン! お前、こんなことを黙って見過ごせって言うのか?」
「そう言うわけではないですって。……私だってこんな悪習は即刻改められるべきだと思います」

 ふたりに比べれば理知的なジャスティンは、形の上ではシェインたちの喚き声を諌めているのだが、
しかし、ガリティア神学派の教えには否定的であり、怒りを押し殺しているという体がありありと感じ取れる。

「――余所者にはちとショックがでかいかもだが、ハブールなんてのは、そう言うもんなのさ。
なにせオレたちゃ教皇庁からも見捨てられた立場だからな」

 当事者である筈のスコットは、自分たちを取り巻く理不尽な現状をも自嘲気味に笑い飛ばした。
 「見捨てられた」とは、どう言う意味なのかとアルフレッドが尋ねる。
ハブールを蝕む病理の根幹がスコットの発言の中に隠されていると直感したのだ。
 ところが、その意気込みを遮るかのようにワーズワースの空を暗闇が覆い隠した。
駐屯地の焼却炉から黒煙が噴き出し、風に乗って労働者階級の居住区まで流れ込んできたのである。
 この時間に排煙が陽の光を奪うことは織り込み済みであったが、
タイミングがタイミングだけに一種の凶兆のように思えてならず、思わずアルフレッドは顔を顰めた。

「クソみてぇな話をするには、お誂え向きだな」

 アルフレッドと対照的に薄笑いを浮かべるスコットの説明によると――
ふたつの宗派のみならず、Aのエンディニオンの女神信仰の全てを統括する教皇庁は、
その名の如く頂点に『教皇』なる最高神官が鎮座していた。
 現教皇は殆ど全ての経歴が秘密のベールに覆われており、人となりに至るまで詳細が何も判らない。
嘘か真か、一〇〇年以上も教皇の地位に就き、Aのエンディニオンの宗教的トップに君臨していると言うのだ。
 そのような噂が立つくらいに謎だらけの人物と言うことである。
 判明しているものと言えば、ヨアキム派に属していることと、ハブールの出身者であることくらいであった。

「……矛盾していないか? ハブールはガリティアとか言う宗派を貫いているのだろう? それがどうして別の名前が出てくる?」
「そこが見捨てられた所以ってヤツさ――」

 アルフレッドが指摘した通り、元々はガリティア神学派だったにも関わらず、
長い歴史の中途にて対立するヨアキム派へ鞍替えしたようで、
ガリティア神学派を信じるハブールの人間に教皇を良く言う者は殆どいない。
 最高神官と言う立場の人間に向かって、「裏切り者」、「背教者」などと侮蔑の声を吐き捨てているのだ。
宗教的な身分制度を厳密に守り続けるハブールの人間が、だ。

「ここの人たちが教皇を嫌っていたから、その教皇はハブールを見捨てたってことかい?」

 教皇に関してはそれとなく分かったが、しかし、ハブールが見捨てられたという事実との繋がりがあるようには思えず、
ネイサンは素直な気持ちでスコットに聞いてみる。

「ホントのところは教皇本人に訊かなきゃ分かるわけもねぇがな。そうかも知れないし、そうじゃないかも知れねぇ」
「……曖昧な答えだなあ」
「ついでに言うと、教皇庁は宗教的マイノリティに冷たいんだよ。ハブールの連中が見捨てられたのはそっちの理由かもな」

 いつもの如く皮肉っぽい笑みを浮かべながらネイサンに説明していくスコットだが、
その口振りはハブールの現状を他人事として捉えているようにも思える。
 故郷の苦しみに対して無関心を装っているかのようなスコットのことを、ソテロは気の毒そうに見つめていた。
 そのスコット曰く――教皇庁が宗教的マイノリティに冷淡なのは、何もハブールに対してだけではないそうだ。
そう遠くない昔、ある軍事大国がガリティア神学派の分派を弾圧した時も、
教皇庁は手助けしないどころか一切見向きもしなかったと言う。ヨアキム派とガリティア神学派と言う対立こそあるにせよ、
本質的には同じ女神の教徒であっても、である。

「経緯はさておき、その大国――『メルカヴァ』ってんだが、結局は弾圧していた連中の反撃に遭って滅んだんだけどな」
「……メルカヴァ、か――」

 その国の名に聞き覚えがあるのか、あるいは浅からぬ因縁があるのか、ヴィンセントの頬が微かに震えた。

「……アバーライン氏やお前の仲間は、そのメルカヴァと同じことを繰り返そうと企んでいるのか?」
「そこまで単純な話でもねぇとは思うがな。世の中を振り返ってみな、テンパったやつは何を仕出かすか分からんだろ?」
「だが、そうとしか思えないぞ。お前たちはすこぶる信仰心が篤い」

 預言者の教えに照らして、弾圧される者たちが勝利を収めるという歴史を繰り返そうとしている――
アルフレッドはアバーラインたちの画策をそのように分析していた。
 分派と言う差異こそあれども、同じガリティア神学派による義挙である。メルカヴァを攻め滅ぼしたときと同様の“加護”が
創造女神イシュタルより賜れるものと、アバーラインたちは信じ込んでいるかも知れないのだ。
 これに関してスコットは肯定も否定も出来なかったが、割って入ったソテロは語気も強く――

「それは違います。ハブールと『アマリアート』では共通点がありません。
そもそもアマリアートの民は、聖人に列せられているとはいえ、正統な預言者ではない者を崇めているのですから」

 ――と、アルフレッドとスコットの両者を諌めるように言い放った。
 憤怒を滲ませた声色からは、アマリアートなる者たちと同じような扱いをされるのが気に入らない、
我慢ならないのだと言う様子が窺える。
 どうやらソテロはアマリアートに対して軽蔑にも近い情念を抱いているようだ。

(……ハブールとアマリアート、か。どう言う経緯でマイノリティになったのか、だな……)

 更にソテロは続ける。
 遥か昔に何処からやって来たのかも知れず、そして、還る場所を持たない旅人を迎え入れ、
手厚く保護したという逸話がハブールには残っている。
 ハブールは古より何人であっても拒まずに受け入れる自由の都市であったとソテロは力説した。
 その旅人は身分を証明する物も持たず、恩を返す手段も持たぬ者であった。
しかしそれでも、ハブールの民は旅人を慈悲と博愛の心で手厚く保護し、心安らかに暮らせるように取り計らったのだと言う。
 以前、フィーナが立ち寄り、難民支援の意志を燃やすきっかけともなった、
『ゼフィランサス』なる村のことをアルフレッドは思い出した。
 その村も還る術がない難民たちを快く受け入れ、やがて共存の道を見出し、世界の隔たりを超えて栄えるようになったのだ。
 ゼフィランサスに於けるふたつのエンディニオンの共存とは、奇しくもハブールの歴史に重なるものであり、
奇妙な因縁を感じずにはいられなかった。

「ふーん、帰れる場所がないなんて、まるでこっちの世界に迷い込んできたときのオレたちみたいだな」
「――そうだな、確かに似ているかもしれない……」
「素っ気ねぇなぁ、アル。もう少しくらいノッてくれてもいいんじゃねーか? 『俺たちだって同じように絆を結んだじゃないか』とかさ」
「……そう言うことは、ひけらかさずとも胸に刻んでおけばいいんだよ」

 還る場所なき旅人とハブールの民の逸話を、ニコラスは自分たちの境遇に重ねている。
 一方のアルフレッドと言えば、ゼフィランサスへの追想以降、どこか上の空――と言うのも、
件の旅人の正体が、実はコールタンなのではないかと想像していたからである。
 「ハブールの住民には返しきれない恩がある」とコールタンは言っていた。
彼女が僅かながらに語ってくれた話であるが、情報と情報の断片を重ねると、そのような仮説が浮かび上がってくるのだ。
 しかしだ、とアルフレッドは自身の仮説を否定するかのように思考を巡らせる。
 もしも、伝説的な旅人の正体がコールタンであるのなら、彼女は一体何歳だと言うのか。
ソテロが話した逸話は数十年昔などと言うレベルではない。もう一ケタ多そうだ。
 独特な喋り方や声の質など年齢不詳のコールタンではあるが、
いくらなんでも「古」と呼ばれるような時代から生きていただろうか。
 万が一、その頃より存在していたならば、彼女は人ならざる何かと言うことになってしまう――
疑問が次の疑問を呼び、アルフレッドはすっかり想像の世界へと入り込んでしまっていた。

「博愛の精神を以て旅人を助けたって話が残っている町なのに、だったらどうして貧しい人たちを助けないのさ? 
金持ちだけが楽をしていて、博愛とか助け合いとかどこに行っても見られないじゃないか。
……こんなの、どう考えたっておかしいだろ。矛盾しているとしか思えないぜ!」

 黙りこくるアルフレッドに代わってソテロに詰め寄ったのはシェインである。
 口にする精神と行動があまりにも不一致だと、まるで辻褄が合っていないと噛み付いている。
 だが、ソテロはこのような批難にも慣れているかのように平然と答えた。

「体系的な話をしますと、ガリティア神学派はヨアキム派から分派して出来たものなのです」
「……急に話が飛んだ気がするんだけど……」
「ハブールはガリティア神学派が確立する以前より存在していましたが、その頃のハブールは小さな都市で、
人々の心も決して逸話として語られるような穏やかなものではなかったのです。
……ですが、ガリティア神学派の開祖とでも言うべき偉大なる預言者が現れまして、彼の教えが徐々に広まっていきます。
そして、ハブールの民がその教義を守ることによって、後にハブールは大いに栄えることになるのですよ」
「だからそれとこれはどういう関係があるわけなんだい?」
「ハブールが発展し、ガリティア神学派がより信じられるようになったことで、人々の心には余裕や安らかさが生まれます。
そして、心の変化が他者に対しての博愛や友愛、慈悲を行なえるようになったのです。
つまり、ハブールの博愛精神の源流はガリティア神学派そのものなのです。
この教えを否定することは、連綿と続いてきたハブールの歴史を、我々の祖先を冒涜するのと同義と言ってもよろしいでしょう」

 ハブールとガリティア神学派の教義は不可分なのだとソテロは説明した。
 確かに理屈からすればそうなのかも知れないが、現実として人々の間には教義によって階級の、身分の差が作られている。
そして、その差異が苦しみを生み出しているのもまた確かなのである。
 おかしいことだとは思っているのだが、しかし、ソテロを論破出来るだけの言い分がなく、
シェインは口を噤むしかなくなってしまった。
 ジャスティンも何か言いたげではあったが、しかし、身分制度を改めることは棄教に等しいのだから、
語るべき言葉がどうしても見つからず、「信仰の問題は……根深いのですね」と首を捻って唸るのみ。

「そこまでにしておこう。私たちには未来を変えいくことは出来る。しかし、過去を覆すことは出来ないんだ。
ましてや、こちらは異邦人。そんな人間が他所の歴史を語るのは傲慢と言うものだよ。
……ハブールの真実を聞かせてもらった――それで良しとしようじゃねぇか?」

 ヴィンセントが――他の者たちよりもハブールの実態を冷静に受け止められた男が、
憤懣を持て余すシェインたちを静かに宥めた。
 ワーズワースの空から黒い靄が晴れ、地上に光が差し込んだのはそのときであった。
シェインたちの義憤が袋小路に至ったところで闇が失せるとは何とも皮肉であり、
案の定、スコットは「この光は誰の為のモンだろうな」と鼻を鳴らしている。

 信仰論争がひとまず決着した頃、アルフレッドのモバイルがヒューからのメールを受信した。
“最重要人物”を発見し、現在尾行中とのことである。
 それを受けてアルフレッドは、ヴィンセントに「ワーズワースに武器を流したと思しき人物を見つけた」と耳打ちした。
 ソテロを見据えたまま、「分かった……」と頷いたヴィンセントは、身を引き剥がすようにしてアルフレッドに案内を頼んだ。

「急用が出来たので、失礼ながらここでお暇(いとま)する」

 手短にソテロへ伝えたアルフレッドは、シェインたちにも出発するように促した。

「……銃器の件、ギルガメシュか貴族の方々に告げますかな?」

 去り際、ソテロはアルフレッドの背中に向けて一言尋ねる。
 それを聞いたアルフレッドはすっと振り返ると二歩、三歩、彼の方へ近付いてこう言った。

「俺たちは真実を明らかにするだけだ。結果として、銃器のことを伝えないとは保証出来ない。
……だが、一つだけ。これだけは覚えておいて欲しい。血を流す結果になることだけは避けたい、そう思っている」
「左様ですか。あなた方の働きがハブールの民のためになりますようイシュタルのお導きを――」

 祈りの言葉とともにソテロは文字を描くように指を動かし、アルフレッドたちの今後の幸運を願った。
 「ありがとう」とだけアルフレッドは言うと、仲間たちと神学校を後にした。
 これ以上の犠牲者を出すことは望んではいない。その為にも災いの芽となるであろう銃器流入問題は
何としても解決しなければならない――アルフレッドは改めて心に誓った。


 神学校を出るのとほぼ同時に、周囲には鐘の音が鳴り響いた。
 労働者階級の人々は、この音を聞くと、その場にひれ伏し、礼拝堂が建つ池の方向へ向けて祈祷を始めた。
 何があったのだろうかと不思議に思うアルフレッドやシェインたちに、後を随いてきたスコットが、
これはハブールに伝わる伝統的な宗教行為なのだと説明した。
 定められた時間になると教会が鐘を鳴らし、その音を合図にして、
人々はイシュタルを象った像へと祈りを捧げるのだと言うことである。
 ワーズワースには教会がない。それ故、池の畔の礼拝堂に鐘を設置しているそうだ。
 そして、その鐘を衝き鳴らすのも読師の役目のひとつであるとスコットは付け加えた。

「……だったら、同じ町に住んでいたあんただって祈りを捧げるんじゃないの? やらなくていいのかい?」

 至極当然の質問を投げかけてきたシェインをスコットは鼻で笑った。

「構わねぇさ。ハブールだとか何だとか、今となっちゃ、そんなことにこだわる必要もねぇからよ」

 諦念混じりの言動から考えるに、スコットにはハブールを、故郷を顧みる気は全くなさそうである。
むしろ、自分を縛るものとして疎ましく思っているように見えた。
 そのようなスコットに対して、アルフレッドはある種の呆れや軽蔑の念を抱いていた。
失われた故郷、グリーニャへの望郷や愛郷の意識があったればこそである。
 それ故、ハブールを忌み嫌っているかのようにも思えるスコットへ好からぬ感情を抱いてしまったのかも知れない。

 鐘の音の残響が薄れていくと、辺りは静寂に包まれる。周囲の人々は誰も彼もが一心不乱に祈りを捧げているようだ。
 その中にはアバーラインたち貧民窟の怒れる男たちも含まれていた。

「あれだけギルガメシュ打倒と息巻いてた連中も、このときは静かに祈りを捧げるだけなのさ」
「……不思議なものだ。先ほどまではあれほど鼻息の荒かった連中が……」
「それだけ、イシュタル様への信仰がみんなの中に根付いているってことなんだろうね。
きっと、みんな本当は良い人たちだけなんだろうな……」

 感じた通りのことを呟いたネイサンだったが、それを聴いたスコットは――

「そうさ、どいつもこいつも善人だらけだ。真面目なんだよハブールは。可哀相なくらいにな」

 ――と、自嘲気味に肩を竦めた。

「あんただってそのひとりだろ! 他人事(ひとごと)みたいに言うなよッ!」

 あくまでも故郷を軽んじるスコットに対して、シェインは本気の怒鳴り声を張り上げた。
彼もまたアルフレッドと同じ思いをスコットに対して抱いているのだ。
 言わば、ハブールを思って怒っているのに等しい少年をまじまじと見つめたスコットは、
「将来、でっかくなるぜ、お前」と口元に微笑を浮かべた。いつもの自嘲とは異なる感情を湛えたものであり、
その双眸には僅かながら悲哀の色を宿している。

「……お前らが羨ましいよ。他人の為にそこまで怒ることが出来るんだからな」
「また皮肉かよ!」
「いいや、これは率直な感想さ。……こっちはあれこれ奪われ続けたせいで、怒りの底が抜けちまったんでな」




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