8.レイニーウィーク


 ワーズワースの中央に架けられた名所、ストーンブリッジ――公園内のふたつの区画を繋いでおり、
現在は労働者と貴族と言う階級を隔てるシンボルとして存在していた。
 ふたつの区画の中継地点でもあるその橋には、ロッジを飛び出したネルソンの姿が在った。
酷く疲れた面持ちで欄干に凭れ掛り、夜空を見つめている。
 満点の星である。見上げた自分がちっぽけに思えるほど眩い光が溢れている。
このような景は世俗より隔絶された自然公園ならではと言えよう。

「勢いよく出て行った割にはこんな場所で何をしているんだ?」

 何度目かのため息をネルソンがついたとき、何者かが夜の闇の向こうから声を掛けてきた。
 アルフレッドである。フィーナの後を追ってきたにも関わらず、彼のほうが先にネルソンを発見したのだ。
 何とも珍妙な筋運びだが、乙女らしくムードと言うものを重視するフィーナだけに、
イシュタル像の置かれた池にでも当たりを付け、まっしぐらに駆けて行ったに違いない。
 そこはネルソンとロレインの逢瀬の場所でもある。

「……何だ、あなたか」
「気障な真似をしていないで、もう少し冷静になって考えたらどうだ? 
そんな紙切れ一枚あったところで問題が解決するとは思えないだろう?」

 やがてネルソンは欄干へと座り込んでしまった。弱々しく項垂れる彼に対して、
アルフレッドは「勝負と言うものは熱くなったほうがしくじる。これはお前の大勝負なのだろう?」と諭した。
 ワーズワースに蔓延している慢性的な食糧不足は、承認証が行き渡っていたとて解決しきれる問題ではない。
ましてや、トゥウェインの承認証だけでどうにかなるようなものであるはずも無い。
 労働者階級を救おうとするならば、一時の熱気に身を任せるのではなく、頭を冷やしてもっと合理的な案を出すべきだと、
アルフレッドは語った。厳しい口調ではあったが、じっくりとネルソンを諌めていった。
 先程のように血気に溢れた反論でもしてくるかとアルフレッドは考えていたのだが――

「それは分からないわけじゃないんです。僕がこうやっても、事態が好転するわけは無いというのは……」

 ――と、ネルソンは意外なまでに落ち着き払っており、父と相対したときとは打って変わって穏やかに受け答えをしていく。

「父さんのやってきた事だって理解は出来るんです。身分がどうこうの前に、まずは自分の家族を守らなければいけない。
だからああいう手段をとらざるを得なかった」
「父親が葛藤してしまう状況も分かったということか」

 この青年は愚かではない。むしろ、人一倍賢い――と、アルフレッドは胸中にて感心さえしていた。
 しかし、若い。ハブール以外の世界にも触れた経験もそれほど多くはなさそうだ。
それだけに父親への反発が激情となって決壊してしまったのだ。
 アルフレッドにはそれを非難する気はない。心の働きなど理知だけでは制御し切れない。
そして、それこそが人間らしい有様(ありよう)なのである。

「独りで色々と考えていると――皆がそれぞれ辛い立場に置かれているんだ、ということが解ってきましたよ。
先ほどはそんなことにも考えが及ばなくて……」
「そこまで考えられるだけ、お前は立派だよ。十分過ぎるくらいだ」
「――それから、こんな事に至ってしまった経緯も……運命がいけないんです……何もかも、運命が……」

 そう言ってネルソンは視線を自分の足先へと落とした。
 照明の無いこの場所では彼の表情を覗う事はできなかったが、
彼の口調から判断するに、悲壮感に満ちた顔であるのだろうというのは想像に難くない。

「……運命か。数奇なものだな」
「そうです。こんなことが僕たちの前に待ち受けているだなんて、一体誰が想像できたでしょうか? 
こんな事さえ起きなければ、きっと今でもあちら側の世界で同じ日常が続いていただけでしょう……」

 ネルソンの言葉は、アルフレッドに語りかけていると言うよりは、己自身に言い聞かせているように思える。
 全く予想だにしない事態に巻き込まれた自分への言い表し難い思いなのだろうか。
 ネルソンは呟くように言葉を続ける。
 かつてそこにあったはずの平穏が、何ということのない幸せが存在していた日常が、
異世界への転送などという思いもよらない、それでいて回避不可能な事態によっていとも簡単に打ち砕かれてしまった。
 貴族と労働者という身分の違いによる階級間の隔たりや理不尽とも言える格差などもあったにはあったが、
それだって、かつて「あちら側」のエンディニオンにいた頃は、危ういながらも辛うじて均衡は取れていたのだ。
 階級間の不平等についても、異なる者同士での闘争に持ち込もうだとか、
体制そのものを暴力的手段によって打倒しようとする者もおらず、表面的には穏やかに時が流れる社会を形成していた。
 それこそが宗教都市ハブールの在り方であった。周りから見れば旧態依然としているような階級制度とて、
ハブールの人間にとっては信仰の形、即ち、「女神との約束」であったのだ。
 それなのに、「こちら側」にやって来てからというもの、
配給を差し止めようだの、銃まで持ち出して強行的に物事を解決しようだのと、
互いが互いの生命にまで干渉しようとしている。

「特権階級にいるからそんな甘い考えなんだとか、見せかけの平和というぬるま湯につかっていただけなのだとか、
思われるかもしれませんが……」
「甘いと言えば甘いが、……ここに来て皆が現実に目覚めてしまったとでも言うべきか」
「それだけの事――なのかもしれませんね」
「危ういバランスの上に成り立っていたものは、やはり脆かったという事だな」
「そうですね、崩れ落ちてしまったような感じですよ。……ロレインにプロポーズしようと、指輪まで用意したのに……。
あの頃だったら上手くいったかもしれないのに……なのに、どうして……」

 「運命」という一言で片付けることなどは到底出来そうも無い残酷な現実に、認めがたい人生の転換に、
それに抗うこともままならない己自身に、ネルソンは語りつくせない悔しさを抱いていた。

「こんな物があったって、ロレインに渡したって、物事が上手く回るわけでもない」

 ネルソンは父親の元から持ち去ってきた配給承認証をじっと見つめている。
 アルフレッドが発した言葉の意味も、ネルソンは逡巡の中でとっくに理解出来ていた。
理解していたからこそ、このやり切れない現実が、余計に彼を押し潰していくのである。

「このまま交際を続けていたとしても、彼女は、ロレインは不幸になっていくだけじゃないのか。そう思うとやはり……」

 口を開いて以来、か細い様子であったネルソンの声は、さらに弱々しいものへとトーンダウンしていった。

「そう思うのは勝手だが、しかし本当に――」

 どんどんと落ち込み、沈み込んでゆくネルソンにアルフレッドが何か言おうとしたその時――

「そんなのはだめ! 本当に相手のことが好きなら、諦めるなんて絶対にだめッ!」

 ――突如としてストーンブリッジに大音声が響き渡り、アルフレッドとネルソンは肩をビクつかせた。
 驚いて振り返った先には、池に向かっていたと思しきフィーナの姿があった。
多少汗ばんでいるようではあったが、ほとんど息は切れていない――
と言うことは、ストーンブリッジの近くに辿り着いてから多少の時間が経過していたのだろう。
 ネルソンの話を立ち聞きしていたことになるが、今ここではそのようなことを糾弾する意味もない。

「フィー? お前、いつの間に?」

 フィーナの――最愛の“妹”の気配を感じ取れなかったことから、
自分自身が思った以上にネルソンへ感情移入していると気付いたアルフレッドは、何となく照れ臭くなって頬を?いた。
 そんなアルフレッドの心も、ネルソンの動揺さえもお構いなしにフィーナは熱弁を振るい続ける。

「不幸になるなんて、そんな事は絶対にない! 
ロレインさんがネルソンさんの話をしている時は本当に嬉しそうな顔をしていたもの。
ネルソンさんが想っているのと同じように、ロレインさんだって想っているんだから。
こんな時でも――ううん、こんな時だからこそ、お互いのためにも今ある気持ちを貫き通すことが一番大切じゃないの!?」

 どうやら、フィーナは会話をあらかた聞いていたようである。
 気持ちが萎えかけていたネルソンに向かって、受け取りようによってはお節介ともなり兼ねない説教を始めた。

「お、おい、フィー。殆ど初対面のような人間に向かって、何をいきなり……」

 ネルソンの困惑を見て取ったアルフレッドは、突拍子のない説教を押しとめようとしたが、
しかし、フィーナの顔は真剣そのものである。
 こうなると、どうにもこうにも手が付けられないと言うことを、アルフレッドは長年の“付き合い”から理解している。
最早、彼女のやりたいようにさせるしかなかった。
 顔を合わせた程度で挨拶すら満足にしていないような少女から、
いきなり恋愛についてのレクチャーを受ける破目になったネルソンは、
咄嗟のことに対応出来ず、未だに混乱している様子である。
 絵で表現するならば、彼の周囲には幾つものクエスチョンマークが並んでいたことであろう。
 うろたえたままのネルソンに――

「こうなったら長いからな。大人しく黙って聞いているのが一番正しい方法だ。たまに相槌を打つとなお良いだろう」

 ――と、アルフレッドはこっそりと耳打ち。ふたりしてフィーナのご高説をありがたく拝聴する事にした。
 自分を遮るものがいなくなり――いや、いたとしてもだが――、フィーナはさらに力強く語りかける。

「今は辛くても、それに負けちゃいけない。ネルソンさんだって自分で言っていたじゃない、
『神は耐えられない試練を与えはしない』って。その言葉を思い出して、何があっても進んでいかないとっ!」
「確かにロレインにそう言ったけど……でも、どうしてあなたがそんな事まで知っているんですか?」
「え!? え、えっと、それは……」

 ネルソンを説得する為にと、ついつい気分が高揚していたフィーナは、
事もあろうにネルソンとロレインの逢瀬を覘いた折に耳にした、彼の言葉をそっくりそのまま引用してしまった。
 迂闊にも程がある。
 確かに効果は覿面であろう――が、自分のことを知らないでいると思った相手から嘗ての発言を復唱されたなら、
大抵の人間は驚かずにはいられない。
 フィーナとて「何故、それを知っているのか?」と質されれば、言葉に詰まってしまうわけだ。
 だが、フィーナはここを強引に押し切った。自分の覗きが露見したのはバツが悪いが、そんなことに構ってはいられない。
なんとしてでもネルソンにはロレインとの関係を諦めて欲しくなかった。その情熱で押し切った次第である。
 これ以上の疑問を抱く余地をネルソンに与えないよう「そんなことはとにかく!」と無理やり説得を再開すると、
彼に熱い視線を向けつつ、先にも増して素早く捲くし立てていった。

「諦めたらそこでお終いなの。だからこそ、相手の事を思い続けなくちゃ! 
……私とアルだってそうだった。ふたりとも別々の両親だったけど、その片方同士で再婚したことで、
私とアルは血は繋がっていないけど兄妹になったんだ。そうなる前から、お互いの事は良く知っていたけど、
それでもやっぱり兄妹で付き合うなんて世間じゃ受け入れてもらえない。
そんな中で関係を続けていくのは大変だったし、やっぱりいけない事なのかもしれないって挫けそうになったことも一度じゃない。
でも! それでも今まで上手くやってこられたのは、アルが私を想い続けてくれたからだし、私がアルを信じ続けたから――
お互いを大事に想い合うことができるなら、困難だって乗り越えられるはずじゃないかな」

 フィーナの話は留まることを知らない。
 ネルソンへ諦めてはいけないと諭したいが為に、いつしか自分とアルフレッドの恋人関係を例に引いて、
彼を延々と説得し続けた。

(何でこんな時にそんな事を持ち出すんだ……)

 よもや自分たちの関係(こと)を熱弁されるなどとは思ってもみなかったアルフレッドは、
気恥ずかしさで胸の辺りから何かがこみ上げてくるような感情を覚え、決まりが悪そうな表情でネルソンの様子を窺った。
 どんな表情で聞いているものやらとアルフレッドは思ったが、意外にと言うべきか、まさかとでも言おうか、
ネルソンはフィーナの言葉に神妙な面持ちで聞き入っており、あまつさえ感動して震えているようであった。

「お、おい、大丈夫か?」
「……ありがとう。これで迷いが吹っ切れたよ。絶対に諦めない。僕はロレインに気持ちを伝えるッ!」

 フィーナが話し終えたその直後に、ネルソンは気力に、勇気に満ち溢れた表情で立ち上がった。
 勇気ある一歩を踏み出す決意を促してくれたフィーナと握手を交わすと、
ストーンブリッジを渡ってロレインのテントがある労働者区画へと消えていった。

(確かに熱意はあったが、しかし、そこまで感動したのか……)

 ネルソンの背中を見送ることしか出来ないアルフレッドだったが、勇んで駆け出して行く彼の姿には思うところがある。
 その背に最愛の“妹”を重ねていた。世の中の倫理観と、世間の目と、抑えることのできない気持ちと、
自分が置かれた現実が心の中でせめぎ合って葛藤に苦しみながらも、それでも弱音を吐かずに前向きに頑張るフィーナを、だ。
 夜の闇へ吸い込まれていくネルソンの後ろ姿に向かって、誰にも聞き取れない小さな声で、
アルフレッドは「がんばれよ」とエールを送った。





 決意に満ちたネルソンを見送ったアルフレッドとフィーナは、ひとまず西の居住区へと戻っていった。
 貴族たちは既に解散しており、佐志の仲間たちもフォテーリ家のロッジへ入っているようだ。
談笑と言うほど陽気ではないものの、それなりに賑々しい声がランプの明かりと共に戸外へと漏れ出していた。
 「只今戻りました」との畏まった挨拶を交えつつ、アルフレッドがドアを開けると、果たしてそこにはヒューたちの姿が在った。
見れば、ダイナソーとアイルも佐志の面々に混ざっている。
 アルフレッドより目配せでもって状況の説明を求められた守孝は、
「折角の再会ならば今宵は旧交を温められよ……とのコクラン殿のご配慮にござる」と切り出した。
言わずもがな、アイルとダイナソーのことであった。
 現在の両者は、サンダーアーム運輸を代表して調査に訪れたマクシムスの補佐と言う立場にある。
本来ならば佐志の面々と同じ空間で久闊を叙すと言うのもおかしいのだ。
ましてや、彼らは熱望にてワーズワースへ訪れていたのである。
 だが、マクシムスもヴィンセントも小さなことにはこだわらない気質であり、旧友たちの再会を妨げるほど無粋でもない。
聞けば、ヴィンセントのほうからダイナソーたちにロッジへの宿泊を勧めたそうだ。
 シェインやジェイソンと親しくなったジャスティンにもヴィンセントは同じことを勧め、
それが為に三人の少年は部屋の片隅で仲良く語らっているのだった。
 ダイジロウとテッドもロッジに招かれていた。ただし、彼らを誘ったのはジョゼフである。
子どもたちとの触れ合いを経て元気を取り戻したとは雖も、クレオパトラの振る舞いに対するショックは今も後を引いている。
新聞王はそれを憂えたのであった。
 交流の場を演出したヴィンセント本人は、シルヴィオやマクシムスと共に自身のテントで夜を明かすそうだ。
彼らのキャンプ地から労働者階級の居住区は程近く、何か良からぬ事態が発生したときには即座に駆け付けられる。
その為の措置――否、警戒態勢だった。
 状況が状況だけに、素早く身動きの取れる人間を分散して配置するのは正しい判断と言えよう。
 アルフレッド個人としては、『万国公法』と言うものについてヴィンセントから詳しく講義を受けたかったところだが、
こればかりは仕方あるまい。
 今もまだ着衣を借りたままなのだ。これを返却するときにでも講義を頼むとしよう――
そのように期待を膨らませるアルフレッドの真後ろでは、フィーナが両の目を剥いて妄想を滾らせていた。

「……ワタクシはどうなるのでしょうか。トイレだってずっと我慢しているのですが……」

 フォテーリ家のロッジにはK・kも引き据えられているのだが、アルフレッドは眼中に入れようともしなかった。
必要な事情聴取はヒューたちが済ませている筈だ。そうである以上、最早、この男と言葉を交わす理由もない。
ヴィンセントもヴィンセントで用が済んだと判断したからこそ、身柄を佐志へと引き渡したのである。
 相変わらずK・kは手錠でもって拘束されているが、そのことを気遣ってくれる人間はどこにも見当たらなかった。
アルフレッドの帰還を知ったトゥウェインからは、進路の邪魔とばかりに押し退けられてしまったほどである。
どのような人間にもぞんざいな扱いを受けると言うことを、K・kは宿命付けられているようだ。

「お、お帰りなさいませ。それで、……ネルソンは?」

 K・kを蹴倒し、縋りつくようにしてアルフレッドへと尋ねるトゥウェインの目には、未だに濃い動揺が滲んでいる。

「そちらに大事な人がいるように、ネルソンにも同じく大事な人がいる。
……その人の為に尽くすことが出来たならネルソンは必ず戻ってくるだろう」
「……やはり、倅はロレインのところに……」
「危なげなところもあるが、それでも彼も良識を持って行動している。今はとにかく息子を信じてやるべきだと俺は思う」
「そうですか。ネルソンは分かってくれましたか……」
「父親の立場も痛いほどに――と言ったところかと」

 息子たちの帰りを待っていたトゥウェインに、アルフレッドは一部始終を伝える。
勿論、フィーナがネルソンにとうとうと語った彼にとって恥ずかしい高説は省いたが、それはさておき。
 ともかく、軽はずみな行動には出ないだろうから今はネルソンを信用するようにと念を押した。

「後は銃が渡った労働者たちをどうするか――よね?」

 横から口を挟んだジャーメインにアルフレッドは深く頷いた。
ネルソンの件が片付いた今、最優先事項は再び銃器流入問題に戻る。
 ヴィンセントたちが目を光らせているとは雖も、労働者階級の過激派が何を仕出かすか知れたものではない。
一命を取り留めて身体を休めているムルグに続き、第二第三の犠牲者が出ないとも限らないのだ。
 ところが、トゥウェインの反応は意外であった。配給承認書を奪われたことにはショックを引き摺っていたものの、
銃器の問題については先程と比して随分と冷静であった。

「先ほどは少々取り乱してしまいましたが、それほど性急になるべきものでもないでしょう。
……確かに銃器が入り込んでしまったのは懸念するべき事ではございますが、
明日からは『レイニーウィーク』。彼らもそう無茶な真似はしないかと」
「レイニーウィーク? 初耳だな。それはつまりどういう?」

 レイニーウィーク――耳慣れない言葉である。カレンダーの一定の範囲を示したと思しき名称を、
アルフレッドは首を傾げながら反芻した。

「おや、ご存知ないのですか、レイニーウィークを? 
……ああ、成程。こちらのエンディニオンにはその風習はないのですね。
では、説明しますと、レイニーウィークというのは――」

 トゥウェイン曰く、『レイニーウィーク』とはBのエンディニオンの暦では、
明日から始まる安息週間――ふたつの世界の暦が合致していると言う前提だが――の風習である。
 およそ五日間――およそと言うのは、初日は午前零時から換算し、
そこから六回夜明けを迎えるまでの期間であるからだ――続く事になるこのレイニーウィークは、
医療行為など一部の例外を除き、全ての労働を行なうことなく、家族を始めとする大事な人たちと過ごすという慣わしなのだ。
 トゥウェインの語り口から察するに、Aのエンディニオンでもハブールにだけ根付いた風習のようだ。
 現にニコラスはダイナソーやアイルと顔を見合わせ、「そんなに休んだら仕事の勘が訛る」と意外そうに目を丸くしている。
それからすぐに、「……お前らとは口聞かないんだった」とそっぽを向いたのは予断である。

「そう言うルールに基づいているとなると――つまり、銃を手にしたとは言え、
彼らもレイニーウィークの慣習にしたがって『労働』はしない……と言う解釈が成り立つと?」
「その通りです。この期間内であれば、労働者たちも無理に行動を起こすような真似はしないでしょう」

 アルフレッドの脳裏にソテロたちの姿が蘇っていた。
 預言者の示した教義を遵守し続ける敬虔な人々であれば、古来よりの慣習に従い、
レイニーウィークの期間中はひっそりと大人しくしているだろう。
銃器を手にして暴れ回ることも「労働」に含まれるのだ――それがアルフレッドの出した推論である。
 この場の誰よりもハブールを識るトゥウェインも、アルフレッドの推論には首肯している。

「幸運なことに俺たちには若干の猶予が与えられたというわけか」
「その時間を一秒も無駄には出来ないわね!」
「そうなの! セレステちゃんも、可愛い子分たちもルディアが守って見せるの! やぁってやるのっ!」

 レイチェルとルディアは揃って身を乗り出し、次いで拳を振り上げた。
ふたりは労働者階級の子どもたちと親しく交わっており、その思い入れはとてつもなく深い。
 ルディアに至っては、そこでセレステと言う女の子とリボンまで交換していた。
何があっても、それこそ命を賭してでも、新しく出来た友達を守りたいと決意している。
 それはダイジロウやテッドとて同じことだ。ジョゼフの近くで静かに座っていたふたりもレイチェルたちに触発され、
全身から決然とした気魄を迸らせていた。
 身近に、それも過激な一派の手に銃器が在っては、いつ子どもたちの安全が脅かされるかも分からない。
クレオパトラの言葉ではないが、戦う力のない弱き者から先に銃口が向けられるのだ。

「俺はあの子たちに菓子のひとつもあげられなかった。……せめて災いの根だけでも――」
「プロフェッサーやクレオパトラさんには叱られるかも知れないけれど、ぼくはメタル化だって辞さないですよ!」

 アルフレッドもその思いを汲み、「自分を責めるな。……むしろ、自分の決断を誇りに思え」と、
励ますようにふたりの肩を順繰りに叩いていった。

「この間に銃の流通ルートから洗い出して――」

 ルディアたちの気持ちに応える為にも最善の策を考えなければならないとアルフレッドが頭を捻っていると――

「典型的なワーカホリックだねェ、アルは。リーダーさんのトークをリスニングしてナッシング? 
ザットのレイニーウィークはオールのワークしちゃいけナッシングだろう? 
だったら、チミのやろうとしていることだって、ヘッドにブレインって付くワークなんだしィ? サバスをテイクするべきでしョ〜?」

 策を練ろうとしているアルフレッドのことを、冗談めかした言葉でホゥリーが茶化した。
 文言の上からであればその通りだが、仮にそうだとしても、座してレイニーウィークが過ぎるのを待つわけにはいかない。
レイチェルが述べたように、「一秒も時間を無駄には出来ない」と言うことだ。

「お前こそちゃんと話を聞いていればわかるだろうが。
一部の労働は例外なんだと教わったろう? それならば、俺の頭脳労働もその内の一つだと考えておけばいい。
というよりも、俺たちの間には無い風習なのだから、わざわざ一緒に休む事もないだろう?」
「そうですよ、ホゥリーさん。折角、アルがやる気になっているんだから、水を注さなくても良いでしょう」
「リトルなジョークだヨ。アルってばいつもディフィカルトなフェイスをするからショルダーのパワーを抜いてあげようとしたのにサ。
ザットを寄って集(たか)って……ディスなタイムにまでブレスがマッチしてるんだもんなァ〜」

 ホゥリーの無粋な冷やかしに対し、アルフレッドとフィーナは間髪いれず反撃に転じる。
加勢とばかりにルディアがホゥリーの股間へ頭突きを喰らわせ、更なる悪態を封殺した。
 さしものホゥリーも急所を痛打されては一溜まりもなく、もんどりうってのた打ち回った。
その様は身体を張って笑いを取るコメディアンのようでもあり、
沈み切っていたトゥウェインにも僅かに笑顔をもたらしたようであった。


 場の雰囲気が少しばかり明るさを取り戻したものの、それはほんの刹那のことである。
K・kへの尋問が再開されると、ロッジ内には殺伐とした空気が垂れ込め始めた。
 今度はジョゼフが尋問に当たった。「それで、労働者たちに銃が行き渡った経路というのは分からんのかね?」と、
努めてにこやかに語りかけるが、その背後に立つラトクとセフィは剣呑としか言いようのない気配を漂わせている。
 ラトクは腰のベルトに吊り下げているシャープスカービン――銃身を切り詰めたライフル――を露骨にちらつかせ、
セフィなどはこれ見よがしに戦闘用のラウンドシールドを油布で磨いている。
 無言の圧力と言うものだ。K・kのように肝の小さな人間には、これだけのことでも相当に堪えるだろう。
そのえげつない追い詰め方にシェインとジェイソンは顔を引き攣らせ、
ジャスティンは脅す側と脅される側の一部始終を興味深そうに観察していた。

「ワタクシもこの商売を手広くやっておりますからねえ〜」

 言わずもがな、勿体を付けた態度は単なる虚勢であり、これを見透かしたジョゼフの目は一層柔らかくなっていく。
それは、K・kへのいたわりなどではなく、取るに足らない人間を嘲るものであった。

「誰に売ったかという記録くらいは残してはおりますけれども、
初めの取引相手から更に別の手へ流れていった物などについては、さすがに把握し兼ねますね。
そのような管理(こと)が不可能なのはお分かりでしょう? とてもではありませんが、皆目見当もつきませんよ」
「何じゃ、それではおヌシを問い詰めても無駄骨かの」
「い〜えいえ、話は最後までお聞き下さい。これでおしまいだと二流の商売人。
ワタクシは扱う商品全ての製造番号をきっちりと管理しておりますよ。
現物さえ入手出来れば、誰から渡ったのかと言うことくらいは掴めるでしょう」
「……紛らわしいやつじゃのう。勿体ぶった口舌はどうにも好かんわい」

 斯く言うジョゼフ自身にも似たような面があるのだが、それは棚に上げておくことにする。

「ちょっと待て、……製造番号!? 俺っちが事情聴取したとき、てめー、そんなこと言わなかったじゃねーか! 
どうして今まで黙ってやがったんだッ!?」

 K・kの話を聞いて青筋を立てたのはヒューである。先程まで幾度も尋問を繰り返してきたというのに、
製造番号のことは一度たりとも出てこなかった。おそらくヴィンセントも件の話は聴いていないだろう。
彼にとって最大の懸念事項とは銃器流入問題だ。これを解決する為の有力な手掛かりが判明したのであれば、
それこそロッジまで押しかけてアルフレッドと対策を論じ合うに違いない。

「それはあなた、尋ね方の問題だと思いますよ。訊かれないことには答えようがございませんからね〜」

 浅はかなことではあるが、今度の一件について最重要とも言うべき鍵――製造番号の把握を伏せておいたのは、
どうやらK・kなりの最後の抵抗であるらしい。あるいは、交渉を見越して切り札の確保を図ったのかも知れない。
 わざとらしくすっ呆けて見せるK・kであったが、これは完全に裏目に出た。
我慢の限界に達したフツノミタマによってロッジの外へと連行され、ロープで全身を締め付けられた挙げ句、
屋根の端から逆さ吊りにされてしまった。脳天が地面と接する恰好だが、首から下の体重が頚椎へ垂直に圧し掛かる為、
地味にダメージが大きい。血流も偏る為、二重の責め苦と言うわけだ。

「こーゆーのを見ると、オヤジがヤバい世界の人間だって思い出すよ」
「アホ抜かせ。こんなちっせぇ仕置きで分かったような口を聞くんじゃねぇや」

 ロッジの外から聞こえてくる哀れな悲鳴はともかくとして、ジョゼフの尋問はアルフレッドたちに大きな収穫をもたらした。
 ことの真偽を確かめようと、アルフレッドはまずヴィンセントへ連絡を取った。
彼のメールアドレスなどを聞き損ねていた為、ニコラスからマクシムスのモバイル宛に電話を掛け、
その後にヴィンセント本人と替わって貰った――面倒としか言いようのない手順を踏まざるを得なかったものの、
この際、手間を厭ってはいられまい。
 製造番号の件を説明すると、すぐさまにヴィンセントの声が変わった。
手掛かりが見つかったことへの喜色であり、正念場を迎える緊張感でもあり、
また、最重要の事項を今の今まで伏せていたK・kに対する憤怒をも滲ませている。

「――事情は分かった。それで俺はどうすりゃいい? とりあえず、事件が解決した暁には、
あのオッサンのケツに蹴りを食らわせてやる!」

 今はK・kへの怒りが他の情念を上回っているらしく、すっかり“素”に戻って歯軋りしている。

「労働者の――そうだな、スコット・コーマンと言う男を憶えているか? あの男からでも銃を拝借出来ないだろうか。
札束で引っ叩けば、あいつなら簡単に堕ちる筈だ。それが通用しないなら、……手段は問わない」
「“手段を問わない”ってのは行き過ぎだろ? 表沙汰になったら一大事だ。ことは隠密に――だろう?」
「さすがだな。話が早い」

 今後の行動について、より具体的に打ち合わせを行おうとするアルフレッドだったが、
突如としてヴィンセントの声が途切れ、続いて何かを擦るような雑音で鼓膜が揺さぶられた。
 一瞬、ギルガメシュの奇襲でも受けたものと思い、アルフレッドは身を強張らせたが、
間もなく馴染みのある故郷言葉(おくにことば)が受話口から聞こえてきた為、
「人騒がせな……」と、安堵とも呆れとも取れるような溜め息を吐き捨てた。

「――おう、聞こえとるか、ジークンドー。ここはひとつ貸しにしといたるわ。今度、何か奢れや!」
「……いきなりだな」

 シルヴィオである。どうやらヴィンセントからモバイルを引っ手繰ったらしい。
彼の隣にて上がっていると思しき批難の声も、高性能の内蔵マイクは漏らさず集音していた。

「貸しと言うのは何の話だ?」
「トボけんなや、ガシンタレ。ワレとヴィンセントの通話を聞いとれば、次は何をしたらええのか、アホでも分かるっちゅーねん。
鉄砲をかっぱらってくるっちゅーことやろ。そないなもん、朝メシ前やがな」
「いいのか、トレイシーケンポー? 事情はともかく物を掠め取ることに変わりはないんだぞ。
場合によっては身体の弱った相手から銃を強奪しなくてはならない。それは義の道に反することじゃないのか?」
「物盗りなんてスカッド・フリーダムにあるまじきこっちゃ。バレたら独房に入れられるかも知れへん。
そやけど、義っちゅーのは手前ェの心から湧き上がってくるもんや――せやろ? 
これ以上、犠牲を出さんで済むんやったら、罰でもなんでも、わしゃ喜んで受けたるわ!」
「……良い心意気だ」

 シルヴィオの申し出はアルフレッドにとって僥倖そのものだった。
銃器を譲り受ける工作が失敗した場合、シルヴィオの並外れた身体能力は何よりも頼りになることだろう。
組織に依らず、己自身の義の心を貫かんとする意志も心強い。
 確かにジークンドーとトレイシーケンポーは互いを「仮想敵」と見なしている。ただ、
それは武技の競い合いと言う点に於いて、だ。『私闘』の場より離れれば、いがみ合う理由など何処にもなかった。
 これまでの経緯からスカッド・フリーダムに対する不信感は拭い切れない。
だが、シルヴィオ・ルブリンと言う快男児は信用に足りるとアルフレッドは考えていた。
 交えた拳には一切の邪念が宿っていなかった。正々堂々とトレイシーケンポーで戦い抜いたのである。
 ほんの一瞬だけ見せた凶相には度肝を抜かれたものだが、それは単に目の錯覚だったかも知れない。

「確保するのは一挺だけで構わない。最悪の場合、製造番号だけ確認してすぐに退いてくれ。
お前の強さは身を以って知ったが、だからと言ってわざわざ危険を冒す必要もない」
「わしゃ、ジェイソンとちゃうで。好き好んで荒事起こしたないねん。あいつ、ホンマのアホやろ?」
「ああ、テムグ・テングリの御屋形に喧嘩を売るような阿呆だな」
「そないなことはせぇへん。騒ぎを起こして一番迷惑するんは、今日会うたような小さな子たちや……」
「……そうだな。そう言う人たちの為にも、ここで踏ん張らなくては」
「おう! わしに任せときッ!」

 威勢の良い返事に満足したアルフレッドは、「コクランとサンダーアームにもよろしく言っておいてくれ」と言い添えた後に
通話終了のボタンを押した。
 そのとき、ローガンと目が合う。彼は通話の相手が誰であったか判ったようだ。

「トレイシーケンポーは良い男だな」
「ちゃんと名前で呼んだれや。……タイガーバズーカ広しと雖も、あないなエエ男はおらんで」

 カレドヴールフと間違われた上に急襲されたのであるから、アルフレッドにとってシルヴィオの第一印象は最低最悪だった。
しかし、その出来事とて真っ直ぐな心根の顕れと言えなくもない。
 シルヴィオはスカッド・フリーダムの総意に反してまでギルガメシュへ戦いを挑もうとしていた。
駐屯軍の非道によって落命したポールの仇討ちに燃え、今度は難民たちを守る為に立ち上がったのだ。
 彼はその決意を己自身の義の心に基づくと語っていた。「好漢」の二文字は、この男の為にあるようなものであろう。
  果てしなく真っ直ぐな義の心に免じて、瑣末な諍いは水に流そう――と、頭の中を整理するよう周りを見回したアルフレッドは、
ロッジの外へ出て行こうとするジョゼフの後姿を見つけた。

 新聞王が向かった先は、逆さ吊りにされて悶え苦しむK・kのもとである。
今度はラトクとセフィを伴っておらず、独りで尋問を行うつもりのようだ。

「……今回の騒動について、本当におヌシは関与しておらぬのかね?」

 天地の逆転はあれどもK・kと差し向かいとなったジョゼフは、念を押すようにして銃器流入問題との関与を質した。
ヒューもヴィンセントも同じことを難詰していただろう。だが、新聞王は己自身でも確かめなければ気が済まなかった。
先に事情聴取を行ったふたりの不足を疑っているわけではない。K・kの人格を信じていないだけである。
 いかに真っ当とは言い難い胡散臭い仕事をしているとは言え、あらぬ疑いを何度も何度もかけられては、
さしものK・kとて穏やかではいられない。元から丸い顔を更に丸めたようにむすっとした表情になり、
若干苛立った口調でジョゼフに言い返した。

「またそれですか? 皆が皆、聞くことはそればっかり! 第一、こんな所に銃をばらまいたとて何の旨味がありましょうか? 
ワタクシはノーと申し上げているのに……そんなに信じられませんか?」
「信じるも何も、おヌシ、自分が信用に足る人物だとでも思っておるのか?」
「酷ッ! ご、ご存知ございませんか? ワタクシは誠実第一をモットーに商売しているのですよ。
この業界は裏切りや騙し合いが常日頃だと思われているのでしょうが、ところがどっこい! 
世間一般の商売よりも信頼関係が重要となってくるのでございますからね。
裏社会にもお詳しいであろうルナゲイト様がそこを間違えるとは思えませんが?」
「さて、どうじゃろう。おヌシの評判はしばしば耳にしておったが、あまり芳しいものではなかったぞ。ワシの記憶違いかの?」
「はああ〜、きっとそれは商売敵がワタクシを陥れる為に露骨なネガティヴキャンペーンでもやっているのでございましょう。
同業者間の競争が激しいですから、手段を選ばない連中も多いのですよ。
まったく、武器商人の仁義も地に落ちたものですねえ。ですが惑わされてはなりません、真実はワタクシの方にございます」

 「ロンギヌス社の皆様とは楽しいお付き合いにしたいものです」と、K・kは身を揺すりながら気炎を上げた。
 逆さ吊りの状態で昂奮すると頭に血が上る――もとい、溜まってしまうと思うのだが、果たしてK・kは平気なのだろうか。
豊かな体格から察するに、脳内の血管に優しい食生活を送っているとも思えない。

「陥れられているのが本当だとしたら、充分におヌシの周りは敵だらけという事にならぬか?  
信頼関係が大事だと言う割には、それが築き上げられておらぬのう」
「いえいえ、そういう手合いは往々にしてよく目立つから多くいるように感じられるのです。よいですか――」

 物事を裏面から見る癖を持ち、そこから細かな部分を突(つつく)くジョゼフと、
立腹しながらもどこかのらりくらりと避けるK・kの、どこまでも不毛な言い争いが続いていく。

「ウダウダと気持ち悪ィな、あいつら。っつーか、話が横道にズレまくっていやがるぜ。本題、忘れてるんじゃねーか!?」
「とは申せ、迂闊に口を挟んでも話が進むとは思えぬでござる。ここは静観するのが吉でござろう」
「それがグッドだね。グランパはザットのトークでエンジョイできるストレンジなパーソナリティだからネ」

 フツノミタマや守孝、更にはホゥリーまでもがふたりの化かし合いを呆れの表情で眺めていた。





 夜が更け、ワーズワースの難民たちもあらかた眠りについているであろう頃、
フィーナに励まされたネルソンは、意を決してロレインのテントを訪ねていた。
 貴族階級の出である彼が労働者たちの居住区へ立ち入ること自体が躊躇われる行動なのだが、
今の彼にはそんなことはお構いなしだ。
 どんな困難に遭おうとも自分の気持ちをロレインに伝える――今はその想いが彼を衝き動かしていた。
他のことなどに気を割いている場合ではなかった。

「ネルソン? こんな遅くにどうしたの?」
「ロレイン……大事な話があるんだ。少し、中で話せないかな?」
「大事な話って……?」
「僕たちの今後についてさ。少しでも早く、僕の気持ちを君に話しておきたかったんだ」

 いつになく神妙な顔つきからネルソンの意を酌んだのであろうか、
それ以上は何も尋ねるようとはせずに、ロレインは黙って彼をテントの中へと招き入れる。

「それで、今後のことって言っていたけど、つまりはどういう事なの? ずっと黙ったままだったら何も分からないよ」

 覚悟を決めてロレインの元までやって来たのは良いのだが、それでも人間というのは不思議なもので、
肝心な事については後一歩が中々踏み出すことが出来ず、ネルソンは部屋に入ったきり押し黙ったまま。
 だが、いつまでも黙っているわけにはいかない。ランプの灯りに照らし出されるロレインの顔を、
この世の誰より大切に想う人を真っ直ぐに見つめ、重い口を開く。
 胸中では、先ほどフィーナから掛けられた「諦めたらだめ」という言葉を何度も反芻している。

「こんな世界にやって来ることも、そして、こんな状況に置かれるなんてことも、僕には想像が出来なかった。
想像するのも怖いけれど、これからも僕たちの向かう先にはたくさんの困難が待ち受けているんだと思う。もっと多くの試練が。
それでも、ロレイン、君とだったら乗り越えていける、そんな気がするんだ」
「それって――」

 ついにネルソンの言わんとしていることを悟り、ロレインは驚きに目を見開いた。

「でも、でもネルソン、私とあなたでは……」
「ワーズワースで暮らすようになってからふたつの階級の間には、更に深い溝が出来てしまった。それは分かっている。
例え、偉大なる預言者のお導きだったとしてもね。……それでも、本当にお互いのことを想い合っているのなら、
そんな障碍は何てことないさ。僕の身分が重荷になるというのなら、僕はいつでもそれを捨てて、君と一緒にいることを誓うよ」
「ネルソン……」

 かつては望むべき事ではあったが、いざそれが言葉として自分の耳に入ってくると、案外どうしたらよいものか戸惑ってしまう。
ここで何を告げたらよいものだろうか、と思いが言葉にならず、ロレインの口はまるで自由にならなかった。
 異なるエンディニオンで、それも、難民として生活する事になって以来、階級間の隔たりは恐ろしく大きくなっていた。
それが為にネルソンとの交際を続けていけるのかとロレインは心配になっていた。
 そんな折に難しい顔をしたネルソンがやって来たのである。もしや別れを告げられるのではないかと言う一抹の不安を覆し、
彼は共に生きたいと誓ってくれたのだ。
 語り出したネルソンも、自分がここまで上手く想いを告げられるとは思ってもみなかった。
ロレインに対する直向きな愛がそれを可能にしたのだろう――彼はそう自分自身に言い聞かせた。
 それは永久(とわ)なる誇りになることだろう。

「僕は誓うよ、この思いが揺らぐことは未来永劫無いって。その誓いを籠めたこれを受け取って……くれるよね?」
「ありがとう、ネルソン……私のために……」

 ふたりの姿を映し出すほどに澄んだアメジストの指輪を見つめながら、ロレインはネルソンのプロポーズを受け入れた。
 そして、殆どぶつかりそうな勢いでネルソンに抱きついた。熱い抱擁だった。
 ネルソンはその衝撃で鳩尾の辺りが痛くなるのを覚えたが、彼女が自分の想いを受け入れてくれた事に感激し、
その喜びの前では瑣末なことはどうでも良く――彼も目下にあるロレインの背中に腕を回し、固く強く抱きしめた。

「ありがとうネルソン。私のために指輪なんて……それに、それに……」
「どうしたんだい、ロレイン、何か言ったかい?」
「ううん。ごめんなさい、なんでもないわ……」




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