12.イシュタルの申し子 『ゼフィランサス』――キアウィトル地方の北方に所在するその村は、元々はテムグ・テングリ群狼領の属しており、 現在も新たな御屋形様≠アとタバートの名のもとに統治が行なわれていた。 統治、領土と言っても、運営そのものは村の住民に委ねられている為、 納税などの義務さえ滞りなく果たしていれば、馬軍から干渉されることも殆どない。 尤も、宗主たるテムグ・テングリ群狼領はギルガメシュとの合戦に敗れて大きく揺らいでおり、 混乱に乗じて幾つかの町村では叛乱や独立騒動が巻き起こっている。 主たる原因は恐慌だ。地上最強と信じて疑わなかった宗主が異世界の軍勢に敢えなく打ち破られた―― その動揺が際限なく膨張し、人々から正気を奪い取ったのである。 顕著な例が『ワヤワヤ』と言う寒村だ。宗主の許しもなく村の土地をAのエンディニオンの企業に売却するなど、 錯乱の果ての迷走としか表しようがなかろう。 ワヤワヤに於ける土地の売買には、Bのエンディニオン最悪の企業と恐れられる『ピーチ・コングロマリット』まで 深く関与しているのだ。 ゼフィランサスとてワヤワヤと同じくらいに規模が小さい。ギルガメシュより軍勢を差し向けられたならば、 おそらく半日と保つまい。自衛するだけの戦闘力など持ち合わせてはいなかった。 それでも住民たちの心は豊かで、正気を失うようなことがない。 ピーチ・コングロマリットに泣きつくようなこともない。 新しい民を受け入れたことで技術交流が盛んになり、得られた手法に基づいて産業が隆盛し、 今ではそれがゆとりとなって人々の心を守っていた。 新しい民とは、Aのエンディニオンより迷い込んできた難民たちに他ならない。 酪農しか産業を持たなかったゼフィランサスは極めて貧しく、難民を支援する余裕など全くなかった。 その筈であったが、篤志の人である村長の決断のもと、行き場のない彼らを温かく迎え入れたのだ。 村長や住民が勇気を以って門戸を開いていなければ、数え切れないほどの犠牲が出たことであろう。 生命を救われた難民たちも恩を返すべく村の発展に力を尽くし、 その成果としてエンディニオン随一の乳製品生産を実現させたのである。 文化や風習の違いもあり、ときに戸惑うこともあるが、今では難民たちもゼフィランラスの一員として馴染んでいる。 村を繁栄させるべく共に汗を流し、その分だけ絆が深まったのは間違いない。 ふたつのエンディニオンの間で夫婦も誕生し、近々、村を挙げての結婚式が執り行われるそうだ。 以前に一度、フィーナもこの村を立ち寄っていた。当時の彼女はワヤワヤの錯乱を受けて心身ともに疲弊し、 気力を失いかけていた。そんな折に出会ったのがゼフィランサスだったのだ。 世界の隔たりを乗り越え、絆を育む人々の姿から勇気を授かったフィーナは、 挫折の危機を脱して再び立ち上がったのである。 ふたつのエンディニオンを結び合わせたいと志すダイナソーやアイルにとっては、まさしく手本とすべき土地なのだ。 ダイナソーとアイルがその地に足を踏み入れたときには、コールタンによる佐志の来訪から五日が経過していた。 佐志の混乱は鎮まってはおらず、後ろ髪を引かれる思いではあったものの、 「お前たちにはお前たちにしか出来ないコトがあるだろ?」と言うニコラスに背中を押され、 ふたりは本来の使命へと戻ったのだ。 ゼフィランサスに入ったその足で村長を訪ねたダイナソーとアイルは、自分たちの事情や目的を説明し、 この村の営みに学ばせて欲しいと頭を下げた。 村長が快諾したのは言うまでもない。それどころか、ゼフィランサスを拠点に置くようふたりに勧め、 活動に必要な物資も手配すると約束したのである。まさに至れり尽くせりと言った配慮であり、 憎まれ口が多いダイナソーも、このときばかりはひたすら恐縮してしまった。 それと同時に確信したことがある。フィーナが語ったように、 ゼフィランサスではふたつのエンディニオンが確固たる絆を結んでいるのだ。 そうでなくては、実態が掴めないような活動に協力を申し出ることなど有り得ない。 村長はワーズワースの一件についても心を痛めていた。その暴動に居合わせながら難民を救えなかったことも、 ふたりは正直に打ち明けた。この真摯な告白こそが村長の心を掴んだのであろう。 ダイナソーとアイルの手を取った村長は、ふたりの心に刻まれた悲しみを慰めた。 ゼフィランサスの行き着いた絆の在り方が世界中に広まれば良い――それが村長の願いである。 一先ず村長の私邸に招かれたふたりは、そこでゼフィランサスの今までの歩みを教わった。 即ち、ふたつのエンディニオンが結び合わさった経緯(いきさつ)である。 そこにはゼフィランサス以外の土地に在る難民の実情も含まれていた。 そして、ダイナソーとアイルは、ワーズワースの苦境が難民全体の一例に過ぎなかったことを思い知らされた。 ゼフィランサスと交流がある村でも難民支援が行なわれていたが、これは最も恵まれた例である。 食料の供給だけでなく、村民たちが分宿まで手配したと言うのだ。 その代わりに労働力を提供すると言う一種の雇用関係が成立し、 難民たちは身分や貧富の区別もなく、生き抜く為に皆で手を取り合っていると村長は語った。 元の世界(エンディニオン)での暮らしに比べれば、確かに貧しているかも知れないが、 難民たちにとっては衣食住の充足が死活問題なのだ。これを確保出来るばかりか、労働に見合った報酬も得られる。 人並みの生活が送れる環境は、難民にとって掛け替えのない幸せであった。 しかし、そうした恵まれた例≠ワで辿り着ける者は決して多くはない。これもまた現実である。 荒野の只中に漂着した難民たちは、クリッターの来襲を掻い潜りながら放浪を続けるしかないのだ。 初めてゼフィランサスに迎えたときの難民の風貌は、思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。 飢餓で痩せ細った身体に鞭打ち、殆ど這うようにして歩みを進めていた――そう語る村長には苦渋の念が滲んでいる。 過酷な旅で生命を削られた難民たちは、ゼフィランサスへ辿り着くまでに半分が息絶えてしまったと言う。 村で治療を受けたにも関わらず、回復出来なかった者も多い。水≠ノ馴染めず、病に罹って亡くなった者も、だ。 幼い子どもが家族との永別を味わうと言う場面に村長は幾度も立ち会ったらしく、 「人間の非力を思い知らされました。神人の定めた運命が残酷であることも。生きることは試練なのですね」と、 悲しげに繰り返していた。 ワーズワース暴動が多くの難民に不安と動揺を落としていることも村長は言い添えた。 スカッド・フリーダムが取りまとめを急いでいる難民支援ネットワークにもゼフィランサスは参加しており、 これによって世界各地の難民の情報が得られるそうだ。 ゼフィランサスやその近隣で暮らす人々は、住環境が安定していることもあって動揺は薄いが、 殆どの難民たちは、何時、ワーズワースと同じ災いが降りかかるかと怯え切っていると言う。 カレドヴールフによって改善も宣言されたのだが、見せしめの処刑などでは難民の不安を取り除けなかったわけだ。 「人を援けるってのはさ、武器持って誰かを脅すもんじゃねぇもんな。 陳腐な言い方になるけど、ラブアンドピースでなきゃならねぇっつーか。 力ずくで言うこと聞かせるとか、物を奪うとか、そんな頭の悪くてダセーことしたってよ、意味ねぇぜ。 やってるほうは自己満で気持ち良いかもしれねーけど、……助けられたほうは、全然、嬉しくねぇさ……ッ!」 ギルガメシュのやり方は断じて許せないと呻いたダイナソーに、アイルも村長も強く頷いた。 その日は村長の私邸に一泊し、ダイナソーとアイルは旅の疲れをゆっくりと癒した。 しかし、翌朝の行動は一等早い。夜明け前に起き出すと、村長の案内で酪農の現場へと赴いた。 ふたつのエンディニオンの人々がどのように働いているのかを見学したかったのだ。 両名とも酪農の経験はなく、仕事を遠巻きに眺めていることしか出来なかったのだが、 牧場で過ごした時間は極めて有意義であり、学ぶべきことが多かった。 餌の支度や牛舎の清掃など数多の仕事を十数名の従業員が手分けしてこなしていた。 村長から誰がどちらの世界の人間かと説明されなかったなら、ダイナソーにもアイルにも見分けが付かなかっただろう。 どちらの世界の人間も容貌(すがたかたち)は変わらないので、外見だけで判別することは不可能に近い。 大切なのは判別の成否ではなかった。従業員の誰もが互いに気兼ねすることなく、 自然な形で混ざり合っている姿こそ村長が見せたかったものである。 事実、ダイナソーとアイルが見学した牧場は、常に笑顔が絶えなかった。 「小生たちが――いや、皆で結んだ絆はやはり正しかったようだな」 「ケッ、正しいも間違いもあるもんかよ。そんな言い方してるから、おめーは可愛げがねぇんだ。 正しいかどうかを物差しにしちまったら、アルやレイチェルさんたちに失礼だし、ラスの立場だってなくなっちまうぜ」 「ち、違う、小生が言いたかったのは――」 「わーってるって、ちとからかい過ぎちまった。……俺サマたちはやっぱりおんなじ『人間』だぜ。 それだけ再確認出来りゃ良い――だろ?」 「そ、そうだ、その通りだ。……お前の言うラブアンドピースだな」 ふたりとも数日前まで滞在していた佐志のことを想い出している。佐志の仲間を振り返っている。 彼らと結んだ絆へ報いる為、ふたつのエンディニオンを結び付けようと東奔西走しているのだ。 そして、牧場を見学したダイナソーとアイルは、戦う理由がひとつ増えたような心持ちであった。 牧場を一回りする頃には朝食の時間となっていた。 従業員たちに混じって牧場の食堂で朝食を摂った後、ふたりは村長と別れてゼフィランサスの散策へと繰り出した。 観光しようと言う気分は全くなかったのだが、ゼフィランサスの日常を耳目で感じておくことも大切な勉強であろう。 住民の暮らしを胸に留めておいて欲しいと村長からも勧められている。 新技術によって繁栄を得た村ではあるが、風景そのものは至って長閑だった。 郊外には背の高い風車小屋が並び立ち、その脇を大きな川が流れている。一本の清流はやがて村内へと行き着くのだ。 川に面した空き地には村の子どもたちが集まっていた。誰かを追い掛け回して大声を発し、 それによって相手を驚かせては笑い転げている。 挙動のみを抜き出して羅列すると、不思議と言うか不審な光景となってしまうのだが、 彼らは歴(れっき)とした遊戯に興じている最中なのだ。 その遊戯は『エキサイティング・ピーポー』と呼ばれるものであった。 ワーズワースの子どもたちの間でも盛んに行なわれていた遊戯である。 Aのエンディニオンの子どもがゼフィランサスにも伝えたのだろう。 奇怪な内容はともかくとして――元気いっぱいで遊び回る姿が、ダイナソーとアイルを牧歌的な気持ちにしてくれた。 村の中心地には食料品店のほか雑貨屋などが軒を連ね、賑わいを見せている。 行き交う人々を見回しても、やはり、どちらのエンディニオンの人間かは判別出来なかった。 見分けも付かないほどに、誰もがゼフィランサスの『日常』に溶け込んでいるわけだ。 その賑わいの只中にて、アイルはゼフィランサスの民族衣装へ夢中になっていた。 この地域独特の筒型衣である。非常に丈長の物で、裾に至っては膝下まで達するのだ。 若草色を基調にしつつ、下部へ向かうにつれて白みが強くなっていく配色の妙に心を奪われた―― 興奮した調子で語るアイルに対し、ダイナソーは機嫌を損ねないよう適当に相槌を打った。 (あんなカタブツも、一応はオンナっつーコトなのかねぇ〜) ふとそんなことを考えるダイナソーだったが、手持ち無沙汰に変わりはなく、 苛立ちを紛らわそうと店の外に足を向けた。買い食いでもしながら、相棒が満足するのを待とうと言うわけだ。 軽食を求めて往来をそぞろ歩く中、視界へ入った途端に強く惹かれる店があった。 何の変哲もない本屋なのだが、店先に貼られたポスターがダイナソーの興味を掴んでいる。 所謂、グラビアと俗称される類の物だった。Aのエンディニオンで活躍する女性格闘家の全身像が印刷された一枚で、 彼女が参戦する興行名や、詳しい試合の日程なども記載されている。 尤も、記された日時は数ヶ月前の物である為、ポスターそのものの宣伝効果は既に失われていた。 店の主人の趣向なのか、単に外し忘れているだけなのかは定かではないが、いずれにせよ、貼り付けておく意味はない。 それとも、客の興味を店自体へ惹き付ける効力に期待しているのだろうか。 二十代半ばと思しき女性格闘家は、大変な美貌の持ち主だった。 教皇庁が信仰に用いる女神イシュタルの彫像にもどことなく似ている。 豊満な肉体は、弥が上にも男性客の関心を刺激することだろう。試合用と思しきタンクトップからは、 今にも乳房が零れ落ちそうである。タンクトップと一揃いであろうショートパンツは素肌に張り付いており、 程よく肉の付いた太腿と相俟って扇情的な趣を醸し出していた。 臍の右にひとつだけ置かれた黒子(ほくろ)さえも淫靡に見えてくるから不思議だ。 他者を屈服させる為だけにあるような高圧的な笑みは、ある特殊な傾向≠フ男性には堪らないものだろう。 赤みがかった瞳に睨め付けられた瞬間、恥も外聞もかなぐり捨てて平伏(ひれふ)すに違いない。 ポスターの中の女神≠ヘ、美麗なブロンドを掻き上げながら、「来たれ、我がもと、喜びの園へ」と命じていた。 さりながら、ダイナソーはこの美貌の虜になったわけではない。 Bのエンディニオンの店舗にAのエンディニオンのポスターが貼られていると言う状況が彼の好奇心を煽ったのだ。 店内もまた彼を刺激する物で満ち溢れていた。陳列されている本はいずれも古い。 「古い」と言っても、一度、人手に渡った中古品ではない。発行の日付が古い以外は新品同然だった。 長期在庫を回収せずにそのまま陳列しているようだ。 何より珍しいのは、いずもAのエンディニオンで流通していた品と言う点だ。 ダイナソーが愛読していた雑誌も陳列されている。 『パンチアウト・マガジン』なる出版社が発行している格闘技の雑誌を手に取り、ページをめくってみる。 ダイナソーが手に取った物は、とある格闘技興行の特集記事が大部分を占めており、 出場選手のプロフィールや格闘スタイル、大会に於ける試合運びの予想などが掲載されていた。 「そーいや、バイスピ≠烽イ無沙汰だなァ……」 雑誌で取り上げられている格闘技興行のことはダイナソーも良く知っていた。 会場まで足を運ぶ機会はなかったが、テレビ中継の折は欠かさず観賞するほど熱中していたのだ。 ニコラスやトキハ、ときにはジャスティンまで引き擦り込んで名勝負の数々に酔い痴れたものだが、 今の彼には、それすらも遠い昔の出来事のように思える。 果たすべき志を抱くと、想い出が記憶の水底へ沈む時間まで速まってしまうのだろうか。 格闘技興行の観賞から離れて、まだ一年しか経過していないのである。 「おや、ニィさん――村で見ない顔だけど、あんたも難民≠フクチなのかい?」 「ま、そんなところさ。ちょいと用事があってゼフィランサスに滞在することになったんだけどね」 言い回しから推察するに、ダイナソーへ声を掛けた店主もAのエンディニオンの人間のようだ。 詳しい話を訊ねると――この店主は、商品を仕入れている最中に件の怪異に巻き込まれ、 そのまま難民になってしまったと言う。放浪の旅の中では邪魔以外の何物でもなかろうが、 折角、確保した品々を投棄する気にはなれず、必死にゼフィランサスまで運んできたそうだ。 艱難の旅を経験したにも関わらず、陳列された本はいずれも新品同然である。 これこそ商売人の意地と言うものであろう。 そして、彼の意地はゼフィランサスで花開く。空き家となっていたこの建物を借り、書店を再開した次第であった。 最近ではBのエンディニオンの人間、つまり、従来の村民も興味を引かれて購入していくと言う。 これもまた文化の交流のひとつであろう。 ふたりの会話は、ダイナソーが手に取っている雑誌の中身――Aのエンディニオンの格闘技事情へと移っていった。 先程、ダイナソーが口にしたバイスピ≠ニは、正式には『バイオスピリッツ』と言う名称であり、 Aのエンディニオンで隆盛を極めた格闘技の興行(イベント)を指していた。 眼球や急所に対する攻撃、噛み付きなどの危険行為以外は全てが許された過激な興行である。 一〇オンスのオープンフィンガーグローブで最低限の安全こそ確保されているが、 試合中に何が起こるかは誰にも分からないのだ。 バイオスピリッツのファンは、そのスタイルを「真のリアルファイト」と持て囃し、熱狂的に支持している。 試合を行なう闘技場も一風変わっていた。金網で囲まれた八角形のリングが採用されており、 檻の中で猛獣が争うような趣なのである。 その檻≠フ中では、柔道家が打撃を行なうことも、拳闘家(ボクサー)が投げを打つことも認められる。 地上に存在するあらゆる格闘の技術を結集し、互いの全てを賭けて心技体を競い合う―― それがバイオスピリッツの謳う唯一無二の理念であった。 「あらゆる格闘の技術を結集する」と言う理念は『総合ルール』の名のもとに体系化され、 これに則って催される試合は総合格闘技――通称、『MMA』と呼ばれた。 MMAとは、『ミクスド・マーシャル・アーツ』の略称である。 「表に貼っといたポスター、気付いたかい? あれもバイオスピリッツの選手さ」 「あんなにデカデカと貼り出したモンに気付かないヤツはいないよ。俺サマだってビックリしたもん。 名前は、そう――ジュリアナ・ヴィヴィアンって言ったよな。 『イシュタルの申し子』なんて、おそろしー宣伝をしていやがったなぁ〜」 「今じゃ、バイオスピリッツの統一王者ってェ肩書きも背負(しょ)ってるんだぜ?」 「マジで!? 何時の話だよ!?」 別の雑誌を引っ張り出した店主は、あるページを開いてダイナソーの前に翳した。 表のポスターと同じ人物――ジュリアナ・ヴィヴィアンを主役に据えた特集記事だ。 白い道着に身を包んだ男へ両足を閉じての飛び蹴り――ドロップキックを見舞い、 ダウンを奪った瞬間の写真が、二ページをぶち抜いて印刷されている。 見出しには『女神降臨』とある為、このドロップキックを以ってノックダウンとなったのだろう。 「こないだのグランプリトーナメントのことさ。前王者の刀全(とぜん)を見事に討ち取ってな。 ……つっても、こっちに飛ばされる前のことだから、今≠ヘどうなってるかは分からないけどな」 「マジで? 刀全、負けたのかよ。俺サマ、結構、贔屓にしてたんだけどなぁ」 ふたりの会話に現れた『刀全(とぜん)』なる選手こそが、女神降臨≠フ際に踏み台とされた人物なのだ。 「刀全はそのまま現役引退。古巣のプロレスに帰っちまったよ。今はトレーナー兼セコンドに転向して弟子を操ってる。 古くからのMMAファンはカデンツァ・スキャパレッリに期待してたみたいだけどな。 ほら、あいつって刀全にとっちゃ盟友みてーなモンだろ?」 「刀全が総合格闘技を興した頃からの仲間だもんな、カデンツァは」 「一応、大会統括本部長を名乗ってるけど、何しろピークを過ぎちまったからなぁ〜。 ぼちぼち引退試合じゃねーかってウワサされてたよ」 「はぁ〜、少し見ねぇ間にバイスピも様変わりしちまったんだなぁ……」 ダイナソーにとっては意外な展開ばかりだった。 店主が口にした『グランプリトーナメント』とは、言わば、バイオスピリッツのチャンピオンシップである。 通常、バイオスピリッツはボクシングやプロレスと同じようにワンマッチ形式で興行を行なっている。 一度の興行に於ける試合が一戦に限られる為、選手にとっても負担が最小限で済むのだ。 これに対し、一年の最後に執り行われるグランプリトーナメントは過酷の一言だった。 年間を通して優秀な成績を残した選手によってトーナメントを組み、統一王者を決定するのだ。 連戦にならざるを得ない為、心技体を極限まで駆使することが求められるが、 バイオスピリッツ出場選手にとって――否、Aのエンディニオンの現代格闘家にとって、それは最高の名誉なのである。 グランプリトーナメントを制することは、MMAの頂点をも意味しているからだ。 そして、前回のグランプリトーナメントに於いて『女神』が降臨したと言うわけである。 「論より証拠ってさ。前のグランプリ後、初めての試合のビデオがあるけど、見てみるかい? こいつも何とか死守してきたのさ」 言いながらテレビの電源を入れた店主は、間もなく一本のビデオを再生した。 テレビ中継を録画した物だ。映像は試合直前の選手紹介から始まった。 選手紹介の演出が凝っているのも、バイオスピリッツの特徴であった。 選手たちのプロモーション映像は敏腕な作家を招いて作成してあり、観客の興奮を最高潮まで高めるのだ。 現統一王者の紹介だけあって、ジュリアナのプロモーション映像は豪華絢爛である。 バイオスピリッツ参戦以降の戦歴を振り返りつつ、 その合間に本人のトレーニング風景や各界著名人の談話を挿入している。 王者へと至る道を「格闘家たちが視る夢」として演出し、同時にジュリアナ当人の強さを強調しようと言うのだ。 戦歴の追想は、前王者を撃破した瞬間で締め括られた。 プロモーション映像の最後に登場したジュリアナは、 薄絹のドレス――やはりボディラインが浮かび上がる物だ――に身を包んでおり、とても現役格闘家には見えない。 世界を股に掛けるトップモデルと言った出で立ちであった。 しかし、その肉体は強靭に鍛え上げられている。美貌の裏側に野性的な闘志を宿している。 実力に裏打ちされた不敵な笑みを以ってして、彼女は如何なる挑戦者が相手でも王座が揺るがないと宣言した。 引き続き、対戦相手のプロモーション映像に移る。 『チーズカーン』なるリングネームを名乗るプロレス出身の選手だ――が、 その風体はジュリアナとは別の意味で衝撃的であった。 シルエットは限りなく球体に近い。プロモーション映像でも繰り返されているが、 公式発表によると身長が一九八センチ、体重が二二五キロ。正面から見ると、首と胴体の境目が全く分からなかった。 無論、筋肉も備えているだろうが、どうしても、はち切れんばかりの贅肉に注目してしまう。 機敏な動きどころか、体重を支え切れるかどうかもダイナソーには疑わしく思えた。 学生時代はラグビーに専念しており、足腰は強靭無比であるそうだ。 しかし、プロモーション映像の中に現れた往時の姿は、現在と比べて遥かに痩せており、 ラガーマン時代の鍛錬が二二五キロを耐える支柱となり得るか、全く不明瞭だった。 ジュリアナにとってはグランプリトーナメント後の最初の試合だと言うが、それにしても珍妙な対戦相手である。 統一王者に対する挑戦者と言う点が強く打ち出されているものの、試合として成り立たないように見えるのだ。 確かに体格の差は歴然としている。特に重量と言う点では百キロ以上もの格差がある。 これを生かして攻め立てれば、あるいは番狂わせが起こるかも知れないが、 そこまでチーズカーンの身体が保ちそうになかった。 何しろ、二二五キロもの巨体を二本の足だけで支えなくてはならないのだ。 体力の消耗は言うに及ばず、各関節への負担も甚大である。試合中に足腰を故障する可能性も十分に考えられた。 少なくともダイナソーの目には、無名の選手を相手にした消化試合としか映らなかった。 事実、彼はチーズカーンと言うリングネームに聞き覚えがない。果たして、どこから引き連れてきた選手なのだろうか。 屈託がなさそうに見える童顔もチーズカーンの実力を隠してしまっている。 ダイナソーの疑念を見て取った店主は、「みんな、そーゆーリアクションをしてくれたよ」と苦笑を漏らした。 「『NEWF』って知っているかい? 正式名称、ニュー・エンディニオン・レスリング・フェデレーション。 ヴィヴィアンや刀全の古巣なんだけどさ」 「バイスピみたく過激格闘を謳ってるプロレス団体じゃねーか。刀全もそこに帰ったんだろ?」 「言ってみれば、刀全(あいつ)はMMAの先駆けみたいなもんだ。 ……だから、古巣に戻ったは良いけど、どうにも収まりがつかなかったみたいでよ。 自分の教え子をバイオスピリッツに送り込んで、ジュリアナ潰しをおっ始めやがったんだ。 チーズカーンはその第一号ってワケ。最終的にはバイオスピリッツのリングをブッ潰すつもりみたいだぜ」 「……おいおい、泥沼になってねェ?」 「野外で殴り合いにならないだけマシって話だな」 店主の話によると、元々、チーズカーンは賭場の催しで生計を立てるショーボクサーであったと言う。 アマチュアボクサー時代には実力派として名を馳せたが、生来、減量に適さない体質であった為、 いつしか所属出来る階級がなくなってしまい、完全な見世物≠ニしてのボクシングに身を投じるしかなかったそうだ。 恐るべきはその打たれ強さである。脂肪と筋肉の入り混じった胴は、 ありとあらゆる打撃を吸収し、無効化する天然の鎧であった。 当然、相手は決定打を欠いて攻め倦ねる。そこへ体重の乗った強烈なパンチを繰り出し、 返り討ちにするのがチーズカーンのスタイルだった。ショーボクサー時代は『爆進重戦車』と言う触れ込みで 人気を博していたのである。 勿論、パンチの威力は折り紙付きだ。怪力無双の一撃で壊して≠オまった相手はひとりやふたりではない。 それに目を付けた刀全がプロレスの世界に招き、チーズカーンと言うリングネームを与えたと店主は語った。 そして、NEWFとバイオスピリッツの抗争にまで巻き込んだわけである。 プロレスの世界では団体同士の抗争は珍しくない。ショービジネスの要素も多分に含んでいる為、 規模の大きな対立が観客には喜ばれるのだ。殆どの抗争は事前に用意された筋書きを踏襲しており、 ときに場外乱闘まで交えてファンを楽しませていた。 しかし、バイオスピリッツとNEWFの抗争に筋書きはない。双方とも相手を潰そうと躍起になっている。 その火付け役がMMAの先駆けと言うのだから、泥沼になるのも無理からぬ話であろう。 テレビ画面では、『VS』、『Professional MMA』、『BIO SPIRITS』なる文字や、 それぞれの所属団体名と共に、ジュリアナとチーズカーンの顔が大写しとなった。 両選手は互いに看板≠背負ってリングに上がるのだ。 やがて映像は選手入場に切り替わった。 先に入場口に立ったのはチーズカーンの側だ。骨身まで震わせるような重低音がスピーカーから鳴り響き、 色とりどりのスポットライトが乱舞する中を巨漢が進んでいく。見た目通り、ゆったりとした足取りである。 余人と比して鈍重になってしまうのも無理からぬ話であろう。両膝はサポーターやテーピングで固められており、 二二五キロもの体重を耐え、凌ぎ切る為の努力が見て取れた。 檻≠フ一角に設けられたドアを窮屈そうに潜ったチーズカーンは、 「今からこの場を蹂躙してやる」と宣言するかのように両手を振り上げて見せた。 サポーターに頼らなければならない状態だが、それすらもジュリアナには良いハンディキャップとなるだろう―― 挑戦者の立場でありながら、チーズカーンの瞳はそう語っている。 金網の外には抗争の張本人とも言うべき刀全の姿がある。肩に掛けたタオルからも察せられる通り、 チーズカーンにはセコンドとして付き添っているのだ。 王座転落の折に用いた道着を脱ぎ、今回は白いシャツを着用している。 胸元には大きくNEWFのロゴが染め抜かれており、これによってバイオスピリッツ側を牽制するつもりのようだ。 チーズカーンがリングに上がるのを見届けてから姿を現したジュリアナは、 銀白のローブに身を包み、神秘的なヴェールで頭部を覆っている。 『イシュタルの申し子』なる自負に合わせた装いと言えよう。 生演奏のオーケストラを背にしてリングへと向かっていくのだが、 先に登場したチーズカーンとは異なり、派手派手しいスポットライトは用いていない。 彼女が必要とする照明は、天から降り注ぐ祝福の如き一条の光のみ。 ただそれだけで、『イシュタルの申し子』の美貌は燦然と輝くのだった。 それでいて、ジュリアナ側は抜け目がない。録音された曲に対して生演奏などぶつけてしまえば、 チーズカーンの入場は前座のような印象になってしまうだろう。 ジュリアナは壮年の男性をセコンドとして連れていた。その男が彼女の実父であることはダイナソーも知っている。 先程のプロモーション映像にも幾度か登場し、己の娘こそ世界最強と胸を張っていた。 そこで切り上げれば良かったのだが、娘自慢の後には己の教育論が続き、遂には完全なる蛇足と化してしまった。 如何に優雅な演出を凝らしても、この男ひとりの所為で全て台無しになっているように思えた。 今もリングに上がったチーズカーンを睨め付け、威嚇している。 礼儀を弁えない態度に観客から批難の声も飛ばされたが、それを笑顔で受け流したジュリアナは、 悠然とリングに上がり、ローブとヴェールを脱ぎ捨て、麗しき女神から逞しき総合格闘家へと姿を変えた。 ワインレッドのタンクトップにショートパンツの一揃いだ。足首にはビーズを編んだミサンガを着けている。 これが『イシュタルの申し子』の戦装束である。黒いプロレス・タイツのみと言うチーズカーンとは リング上の装いでも対照的だった。 ジュリアナのタンクトップには名の頭文字を意匠化したエンブレムが、 チーズカーンのプロレス・タイツにはNEWFのロゴが、それぞれ輝いていた。 両者共に一〇オンスの厚みを持つオープンフィンガーグローブを装着している。 色以外は全く同じ物で、手の甲や手首にはメーカーやスポンサーの名称が記載されていた。 ジュリアナは赤いグローブを、チーズカーンは青いグローブを、それぞれ用いることになった。 両者ともに五指の開閉や空(くう)への突き込みなどを行なって嵌め心地を確かめていく。 歯を防護するマウスピースまで装着すると、出撃≠フ支度は完了だ。 そして、ゴングが鳴り響き、レフェリーが試合開始を告げた。 大会スポンサーの名称が入ったマットを踏み締め、現代総合格闘技の担い手ふたりが対峙する。 ダイナソーにとっては久方ぶりのバイオスピリッツだ。我知らず身を乗り出し、拳を握って試合を見守っている。 開始直後から試合は荒れた。胴への打撃が通用しないチーズカーンは、両手を大きく広げながら舌を出し、 ジュリアナを挑発し続けた。正面から打ち合うよう誘いかけているわけだ。 これは彼女にとって著しく不利である。胴への打撃が効き難い以上、ダウンを奪うには顔面を狙うしかないが、 頭ふたつ分もの身長差は攻守に多大な影響を与えていた。懐まで潜り込んで腕を振り上げ、ようやく拳が届く―― これでは有効打は望めまい。 無論、間合いを詰め過ぎると重いパンチが襲い掛かってくる。 一度でも直撃を被れば、ジュリアナの身体は金網まで吹き飛ばされることだろう。 バイオスピリッツでは体重による階級分けが存在しない。それ故に今回のような対戦カードが成立してしまうのだ。 常識の範疇に照らし合わせると、非常に危険な試みであるが、「究極の無差別級」でしか味わえない興奮(スリル)は 多くのMMAファンから支持されている。 「コスいな〜、こーゆーカッコでプレッシャー掛けんのかよ」 ダイナソーの呟きを肯定するように店主は静かに頷いた。 統一王者となったジュリアナは、観客に無様な試合を見せることなど決して許されない。 バイオスピリッツの威信にかけて、鮮やかな勝利が求められるのである。 そのことを逆手に取ったチーズカーンは、己にとって最も有利な状況へジュリアナを引き擦り込もうと図っていた。 おそらく、策を授けたのはセコンドの刀全であろう。自分自身の経験を狡猾な罠に転用したと言うわけだ。 傍目には窮地に追い込まれたようにしか見えないジュリアナだったが、 やはり、『イシュタルの申し子』の自信は絶対である。彼女はチーズカーンの挑発を一笑に付した。 舞い踊るかのような足さばきで八角形のリングを回り始めたジュリアナは、 肩越しに刀全を一瞥するや否や、瞬時にしてチーズカーンとの間合いを詰めた。 右側面から踏み込み、こめかみ目掛けて連続して拳を突き入れた。 その速度は尋常なものではなく、チーズカーンが防御を固める前に左右の拳を六発は叩き込んでいる。 チーズカーンが振り向き様に繰り出した肘打ちは、後方へ飛び退ることで完全に躱した。 しかも、だ。余裕を見せ付けるかのように宙返りまで披露したのである。 攻守を巧みに使い分けた俊敏な戦法であり、観客は大いに沸いた。 小癪にも挑発を仕掛けてきたが、敢えてその策に乗り、正面から攻め入る理由はない。 鮮やかな戦いによって観客を魅了さえ出来れば、この檻≠フ中では何をしても許されるのだ。 『イシュタルの申し子』が拳を突き上げると、それに応じて観客たちはジュリアナ・ヴィヴィアンの名を連呼する。 持って生まれたスター性も味方しているのだろう。彼女は場内の空気を完全に掌握していた。 だが、試合の流れまで掴めたかは定かではない。 確かにジュリアナの戦法は華麗だが、速度を重視する余り、小手先の打撃が多くなっている。 即ち、どれだけダメージを与えられたか分からないと言うことだ。彼女はチーズカーンのような怪力無双ではない。 実際、頭部を狙い撃ちされたにも関わらず、チーズカーンは平然と起ち続けている。 鷹揚に首を回しつつ、「蚊に刺されたか」とせせら笑ったほどだ。 それでもジュリアナは不敵な笑みを崩さない。大胆にもチーズカーンと目を合わせ、 やや前屈みになって自身の胸の谷間を見せ付ける。 「どう、ボクちゃん? ママのミルクが恋しくなった?」 何とも痛烈な悪言だった。挑発に対して挑発でもってやり返したのである。 そのような冗談を交えながらも、ジュリアナは次の攻め手に移っていく。 迅速な足さばきを駆使してチーズカーンの左側面に回り込み、再び散弾の如き拳をこめかみに叩き付けた。 これに反応されると、今度は背後を経由して右側面まで一気に馳せ、先程と同じ打撃を繰り返す。 チーズカーンが動くと見るや、またしても背後に移り、延髄目掛けて渾身の拳を突き立てた。 当然、彼の意識は背後に向かうのだが、そうしている間にもジュリアナは巨体の股を潜り、 正面へと抜けてしまった。 このとき、チーズカーンは上体を捻り始めており、ジュリアナが正面に在ることにも気付いていない。 彼女にとっては、頭部を狙い放題と言う絶好の機会であった。 慌てて体勢を立て直すチーズカーンであったが、至近距離で標的を捉えたと言うのに為す術がない。 顎、鼻下、眉間と綺麗に打ち据えられ、得意のパンチで迎え撃とうにも軽々と避けられてしまうのだ。 チーズカーンの目には、ジュリアナが瞬間移動しているようにしか見えないらしい。 それも無理からぬ話であろう。間合いを詰めて打撃を繰り出したかと思えば、 次の瞬間には絶対に反撃を受けない場所まで逃れている。これでは追跡のしようもあるまい。 焦れた様子でジュリアナを追いかけ、渾身の力で右拳を突き入れるチーズカーン。 顔面を陥没させるつもりだ――が、『イシュタルの申し子』は首を軽く振るだけでこれを避け、 前のめりに突進してきたチーズカーンの鼻頭へ逆に拳を叩き込んだ。 互いの拳を交差させるような迎撃はチーズカーンへ確実にダメージを刻んだだろう。 しかし、彼も叩き上げの格闘家だ。これしきでは膝を折らない。鼻血を垂らしながらも左拳を横薙ぎに繰り出した。 何人ものショーボクサーを再起不能に追いやった拳ではあるが、直撃しなくては何の意味もない。 ジュリアナは即座に後方へと逃れ、避けた直後に再び間合いを詰め、チーズカーンの眉間に左右の拳を突き込んでいく。 同じような攻防は幾度も続き、その都度、チーズカーンは『イシュタルの申し子』に幻惑された。 その様子を眺めながら、ダイナソーはチーズカーンのセコンドである刀全の戦術を想い出していた。 バイオスピリッツ前統一王者も打撃と回避の呼吸=\―間合いの支配が絶妙に巧かったのだ。 「さっきもちょいと話に出たけど、ジュリアナ・ヴィヴィアンも元々はNEWFの選手だったよな」 「バリバリの女子プロレスラーさ。刀全の教え子のひとりって言い方もあるね」 「打撃のスタイルが似通うのも当たり前か。……以前(まえ)と比べてテクニックが段違いだけどよ」 ダイナソーと店主が語らったように、ジュリアナと刀全はNEWF時代からの古い付き合いである。 打撃の技法を授けるほど親しい関係であったならば、自分から王座を――否、全てを奪い取った彼女は、 幾ら憎悪しても足りないのであろう。 バイオスピリッツとNEWF、両団体を巻き込んでまでジュリアナ潰しを図るのも無理からぬ話である。 憎悪によって作り出された報復の尖兵を、ジュリアナは軽やかな足さばきで翻弄し、冷笑と共に打撃を加えていく。 チーズカーンを手玉に取る技法は、皮肉なことに全て刀全譲りなのだ。 バイオスピリッツ現統一王者のジュリアナとて、NEWFを貶めることに手抜かりはない。 チーズカーンが大振りに拳を打ち込んできた瞬間、彼女は左右の手にてその腕を取り、一本背負を試みた。 体格の差は極めて大きいが、相手の勢いを利用すれば放り投げることは難しくない。 二二五キロの巨体は激音を立ててマットに落下した。一〇〇キロを超える体重差を制して見せたジュリアナには、 当然ながら拍手喝采が送られる。 リングサイドに座した解説者の話によると、ジュリアナは高名な『ジュードー』の選手をコーチとして招いており、 プロレス以外の投げや寝技も熱心に研究しているそうだ。 そのジュリアナから一本背負を喰らい、全体重ごとマットに叩き付けられる形となったチーズカーンであるが、 投げ自体のダメージはそれほど大きくはない。 バイオスピリッツのマットには、選手が大怪我をしないよう配慮して緩衝材が敷き詰めてあるのだ。 マットに背をつけながら身体を振り回し、対面の状態でジュリアナを見上げたチーズカーンは、 そのまま四肢を縮めて防御に徹した。飛び跳ねて踏み付けるか、あるいは拳を打ち下ろすか―― 必ず追撃を仕掛けてくると警戒したのだ。 ここは防御を固めて打撃を弾き、その後に反攻に転じようと言う判断である。 だが、いつまで経ってもジュリアナは何も仕掛けてこない。代わりに降り掛かったのは観客からの失笑であった。 何事かと思って防御を解き、ジュリアナの様子を窺うと、親指をしゃぶるようなゼスチャーを取っているではないか。 身を縮めて防御を固めたチーズカーンのことを、駄々を捏ねる赤ん坊に見立てて揶揄したのだ。 頭に血が上ったチーズカーンは、反射的に侮辱の悪言(ことば)を吐いてしまい、これをレフェリーから咎められた。 当然、観客席からは無数の野次が飛び、ジュリアナの父も「NEWFはブタの躾も出来ねぇのか!」と罵る。 ここに至るまでの全てがジュリアナの思惑通りだったのであろう。 挑発に乗ったチーズカーンは、自らNEWFの評判を落としてしまったのである。 チーズカーンの逆上を見て取った刀全は、冷静になるよう金網の外から注意を飛ばした。 「――ハナから此処はアウェイだ! 味方がいなくて当然! 耳を貸さなくて良い!」 セコンドの指示に従い、チーズカーンは呼気を整えてから起き上がろうとする――が、 その挙動に合わせてジュリアナは強撃を試みた。彼が片膝を突いた瞬間に拳を見舞ったのである。 再び鼻頭に拳を喰らい、今度こそ憤激するチーズカーンだったが、勢い込んで前方に踏み出した直後、 巨体が大きく傾いだ。酩酊したかのようによろけてしまい、危うく崩れ落ちるところだった。 頭を左右に振り回し、何とか意識を繋ぎ止めたようだが、 下手をすればレフェリーから試合続行不可能と判定され兼ねない。 そのレフェリーも一度は彼に駆け寄り、意識の有無を確かめたのだ。 強引に押し退けて試合を続行させるチーズカーンだったが、 ジュリアナ贔屓の観客たちは、ここぞとばかりに主役≠フ名を連呼している。 そんな観客たちの熱狂を煽るように、彼女は人差し指でもって己自身を指し示している。 それはつまり、「とっとと掛かって来い」と言う挑発に他ならない。 高慢とも言える笑みを吹き飛ばさない限り、チーズカーンは決して引き下がれなかった。 童顔を怒りに歪ませ、『イシュタルの申し子』を睨み据えている。 「脳にダメージが溜まったんだろうな。運が悪けりゃパンチドランカーに直行だぜ」 店主の解説にダイナソーも無言で頷く。 絶え間なく連打を繰り返すことで着実にダメージを蓄積させ、ついには脳にまで衝撃を浸透させたのであろう。 こめかみや眉間、延髄と言った振動を伝達し易い部位を徹底的に狙い続けたのも計算≠ノ違いない。 一撃ごとのダメージの低さを速度と技巧で補った成果である。 (パンチの打ち方もなんかクセがあったな……) MANAを駆使した実戦は幾度も経験しているが、ダイナソー自身は本格的に格闘技を学んだことはない。 ジュリアナは拳を突き込む瞬間に妙な動作を見せる――それだけは漠然と分かるのだが、 如何なる原理が働いているのかを解析することは出来なかった。 あるいは、その動作にこそチーズカーンの巨体を揺さぶった秘密が隠されているのかも知れない。 そこでゴングが鳴った――と言っても、レフェリーが試合を止めたわけではない。 第一ラウンドの終了を告げる合図だ。両選手ともにセコンドのもとへ戻り、二分間の休憩を取る。 『インターバル』と称される時間だった。 バイオスピリッツの試合はひとつのラウンドを一〇分で区切っており、これを合計二回繰り返す。 第二ラウンド終了時に決着がつかない場合は、インターバルを挟んで五分間の延長戦を行い、 それでも両者が檻≠フ中に立っていたときに限り、試合内容に基づいて勝敗を判定するのだ。 この時点では試合の内容≠ノ於いてもイシュタルが圧倒していることだろう。 「どうだい、『イシュタルの申し子』は。セコンドはともかく、本人は統一王者に相応しいと思うんだけどな」 「――ん!? あ、あぁ……」 第一ラウンドの感想を訊ねられたダイナソーは、思わず気の抜けた返事をしてしまった。 久方ぶりのMMAだと言うのに、正直なところ、彼は物足りなく感じていた。 アルフレッドやジャーメイン、テッドと言った巧者の戦いと間近に接し、 自身も命がけの危険な状況に身を投じてきた所為だろう。 見応えはあった。「ただ、それだけ」と言うのがダイナソーの偽らざる感想だった。 総合ルールのもとに競技化された試合である為、生命のやり取りなどではない。 むしろ、そうしたリスクから選手を守る配慮が凝らされているのだ。 格闘家たちは殺し合いをする為に技を磨いているわけではない。観客とてそこまでは望んでいない筈だ。 選手生命を永らえるには、総合ルールは欠くべからざる存在であった。 (分かっちゃいるのにスリルが欲しくて堪らねぇなんて、俺サマ、アブない人になっちまったかねぇ〜) 趣味のひとつにも数えていた格闘技興行を味気なく感じる日が訪れるとは、 我ながら目が肥えたものだと、ダイナソーは自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。 『2R』と記されたフリップを女性スタッフが観客たちに掲げ、次いでゴングが鳴り渡る―― レフェリーの号令と共に第二ラウンドが始まった。 「――本番はここからさ。第二ラウンドからヴィヴィアンはマジになる」 店主が語った通り、ダイナソーが感じていた「凡庸」と言う印象は、 ここから『イシュタルの申し子』によって覆されることになる。 第二ラウンドはチーズカーンの速攻によって戦端が切られた。 巨体を揺さぶり、地響きを上げながら猛進したNEWFの刺客は、正面切ってジュリアナに拳を繰り出した。 ボクシングを基盤としているだけあって、流石に速度も乗っている――が、第一ラウンドで証明された通り、 ジュリアナが相手では追尾すら叶わない有様だ。吼え声と共に打ち込んだ両の拳は掠りもせず、 彼女が右側面に回り込むのを許してしまった。 好機と見て取ったジュリアナは、速度重視の打撃から体重を乗せた強撃へと転じ、 腰のバネを振り絞った右拳でもってチーズカーンのこめかみを貫いた。 二分間のインターバルでは回復し切れなかったのだろうか、その一撃だけでチーズカーンは崩れ落ちた。 脳にまで衝撃が達すれば、二〇〇キロを超える巨漢とて一溜まりもあるまい。 しかし、そこからがチーズカーンにとっての勝負所だった。 膝を突いたと思わせて、いきなり上体を引き起こしたのだ。急角度から頭突きを見舞うつもりである。 二二五キロの重量とは思えない速度だった。プロモーション映像でも学生時代を振り返ったが、 彼はラガーマンでもあったのだ。肉体だけでなく瞬発力にも磨きをかけている。 「こいつ、ただのミートボールじゃねぇッ!?」 驚愕の声を上げるダイナソーの脳裏に、『互いの全てを賭けて心技体を競い合う』と言う バイオスピリッツの基本理念が蘇る。MMAの戦場に身を置く選手は、 人生の中で培ってきた経験やポテンシャルを存分に発揮出来ると言うわけだ。 ボクシングスタイルしかなく、また鈍重であるとジュリアナに信じ込ませておいて、 チーズカーンはその裏を掻くような切り札で逆転を図ったのだった。 言うまでもなく、このような頭突きはボクシングでは悪質な反則と看做される。MMAだからこそ許される戦術であった。 直撃を被れば、間違いなく顎が砕ける。当たり所が悪ければ、胸骨や頚椎まで粉砕される。 まさしく一発逆転の必殺技であった――が、その一縷の望みをジュリアナは嘲笑った。 巨大な砲弾と化して突っ込んでくるチーズカーンを軽やかに躱したジュリアナは、 右脇に彼の頭を挟み込み、続け様、尻餅を突くようにして引き倒した。 チーズカーンが切り札として発揮した速度や勢いを逆に利用したのである。 ジュリアナが試みたのは、『DDT』と呼称されるプロレス技であった。 チーズカーンがラガーマンとしての経験を生かしたように、彼女もまた己の基盤より返し技を選んだのだ。 二二五キロもの体重が一気に圧し掛かれば、あるいは首の骨が折れるかも知れない。 だが、ジュリアナには一瞬の躊躇いもなかった。 脳天から落下させられたチーズカーンは、意識に一瞬の空白が生じた。 無論、それを看過するジュリアナではない。うつ伏せに倒れたチーズカーンの右腕を己の左脇に挟み、 彼の身を引っ繰り返すと、更に両膝でもって腕の付け根あたりを押さえ付けた。 己の左手首を右の五指にて掴んで固定すれば、最早、獲物を逃すことはない。 この姿勢から上体を反らすと、チーズカーンの右肘関節は軋み音を上げるのだ。 腕の付け根を押さえ付けた膝を支点に据え、梃子の原理を利かせる為、 チーズカーンの右肘に掛かる負荷は想像を絶するものがある。ジュリアナも関節をへし折るつもりで技を仕掛けていた。 すかさずレフェリーがチーズカーンに降参するか否かを問う。 生命のやり取りでなく競技化された試合では、降参する意思を示せば、身体が破壊される前に試合を終えられるのだ。 しかし、セコンドの刀全は降参を許さない。金網の外から「パワーで壊せ!」と指示を飛ばす。 苦悶の表情を浮かべながらも刀全の指示に頷いたチーズカーンは、 極められていた右腕を無理矢理に振り回し、ジュリアナを引き剥がした。 危ういところで拘束を逃れたチーズカーンだが、右腕は小刻みに震えており、傍目にも酷く痛めたことが分かる。 おそらく、「折れてはいない」と言う状態であろう。 後方に投げ出される恰好となったジュリアナは、またしても華麗な身のこなしで着地し、 何時までも起き上がれずにいるチーズカーンを残忍な目で見下ろした。 投げ出される寸前に上体を思い切り反らせ、チーズカーンの右肘に激甚な痛手を与えていたのだ。 ダウンと判断したレフェリーがチーズカーンの眼前へ屈み、「ワン、ツー……」とカウントを取り始める。 バイオスピリッツのルールでは、レフェリーが一〇を数える前に立ち上がらないと、 その時点で敗北を宣告されてしまうのだ。 カウントが六まで進んだところで立ち上がったチーズカーンは、構えを取り直して戦いの続行を表した。 「なんだ、今のカウントはッ!? 遅ェんじゃねーのかぁッ!? 一カウントに何秒掛けてんだァッ!」 ジュリアナのセコンド――つまり、彼女の父が金網の向こうから声を荒げる。 標的にされたレフェリーは思わず困惑の表情を浮かべてしまうが、無言で首を横に振ったジュリアナは、 外野の声に惑わされず試合を再開するよう促した。 レフェリーの号令を以って、再びジュリアナとチーズカーンの戦いが始まったが、 あるいは先程のダウンで一〇カウントまで達していたほうが、彼にとっては幸せだったのかも知れない。 側面に回り込むでなく、正面切って攻め入ったジュリアナは、左右の拳を立て続けに速射していく。 無論、狙撃は頭部にのみ絞られている。 右腕を痛め、左腕一本しか使えなくなってしまったチーズカーンは、満足に防御(まもり)も固められない。 しこたま頭部を打ち据えられ、またしても巨体を傾がせてしまった。 今度は布石≠ナはない。渾身の左アッパーで顎を撥ね上げられた瞬間、彼の目は焦点が合っていなかった。 そして、『イシュタルの申し子』は仕上げ≠ノ入る。足元が覚束ない状態のチーズカーンの頭を飛び越え、 背後に回り込むと、彼の右足付け根を両手で抱え込み、それと同時に互いの左足を絡めた。 そのまま後方へと倒れ込み、寝かせるや否や、彼の首辺りを支点にしてリング上で大回転を始めた。 相手を固めたまま駒の如く振り回す、『ローリング・クレイドル』と呼ばれる荒業だ。 ジュリアナはNEWF時代からこの技を得意としている。 古巣からの刺客を仕留めるに当たって、これ以上に相応しいものはなかろう。 彼女が回転を重ねる度に観客たちは盛大な歓声を上げる。まさしくジュリアナ・ヴィヴィアンの代名詞≠ネのだ。 「……すげぇ……」 一度でも「凡庸」などと思ったことが恥ずかしくなるほど、ダイナソーはジュリアナに慄いている。 彼女は二〇〇キロを超える巨体を易々と振り回しているのである。 幾ら遠心力を利用しているとは雖も、両者の体格の差を考えれば、普通は押し潰されて回転が止まってしまう筈だ。 圧倒的な技量の為せる業と言えよう。 左右の指では数え切れないほど回転を重ねた後、ようやくジュリアナはチーズカーンを解放した。 脳へのダメージに続き、三半規管をも掻き乱されたチーズカーンは、最早、立つこともままならない。 すかさずレフェリーが降参を訊ねようと駆け寄る――が、それよりもジュリアナの動きのほうが早かった。 最速でチーズカーンの背後に回り込み、右肘の内側を引っ掛けるようにして彼の首を抱え込んだ。 左の五指にて右手首を掴むと拘束が完成し、標的の頚動脈に強烈な絞め付けが発生すると言う仕組みである。 所謂、『スリーパーホールド』であった。 右腕がずぶずぶと脂肪の中に沈んでいく。寒気が走るほど不愉快な感触を味わっているだろうが、 ジュリアナは構わず絞め技を続ける。 その体勢のまま、ジュリアナは前方へと身体を傾けた。チーズカーンをうつ伏せに倒してしまうつもりなのだ。 押し倒す寸前、彼女は自身の左膝を突き出して彼の左腕を腹の前に押し込んでいる。 二二五キロの巨体で下敷きにさせる為に、だ。 哀れにもチーズカーンは、自重(じじゅう)によって左腕まで動かせなくなってしまった。 言わずもがな、右腕も既に使い物にはならない。スリーパーホールドを解く可能性まで奪われたのだった。 ジュリアナは周到である。背中から左膝で押さえ込み、身体の自由を完全に潰していた。 幾らチーズカーンがもがこうとも、腹の下から左腕を引き抜くことは出来ない。 三半規管を揺さぶられた影響で平衡感覚にも異常が生じているのだろう。 身体の揺すり方ひとつ取っても不自然であり、四肢に力が入るわけもない。 もがけばもがくほど脳に蓄積されたダメージが彼の意識を蝕み、首へ掛かる圧迫も強まっていくのである。 頚動脈を絞め上げられたチーズカーンは、レフェリーが駆け寄る前に意識を手放した。 彼がリングに沈むまで、セコンドの刀全は「それでもNEWFの精鋭か」と叱咤の声を発し続けた。 肩に掛けたタオルをリング内に投げ込みさえすれば、棄権と見做されて試合終了になった筈だが、 そのような形で檻≠ゥら逃れることを刀全は決して許さなかった。 遂に終戦のゴングが鳴り響き、レフェリーが勝者の名を呼ぶ。ジュリアナ・ヴィヴィアン――と。 「……えげつねェな、ガチで……」 額の汗を手の甲で拭いつつ、ダイナソーは第一ラウンドとは正反対の感想を漏らした。 恐れを感じた相手は、あくまでも玉砕を命じ続けた刀全ではない。チーズカーンを絞め落としたジュリアナである。 わざわざ彼の左腕を下敷きにしたのは、降参させない為の措置でもあったのだ。 バイオスピリッツのルール上、声が出せずとも、マットか、相手の身体を数回叩くだけで降参の宣言に替えられるのだ。 ジュリアナはそれをさせずに頚動脈を絞め続け、遂には仕留めたのである。 『イシュタルの申し子』による処刑≠ニ言っても過言ではない一戦であった。 「あんなもん、フツーに危険行為じゃねーか。反則取られるんじゃねーかと思ったぜ」 「ところがどっこい、レフェリーは止めねぇ。つーか、止めさせねぇ。 横槍が入る前に自分が攻め易い状況を作り上げていく。それが統一王者の本気(マジ)ってヤツさ。 近頃の観客なんざ、そう言うギリッギリの戦いを歓迎してるくらいだぜ」 「ケチを付けるヤツもいないってコトね。……随分と変わったもんだなぁ、ジュリアナ・ヴィヴィアンも」 以前にもダイナソーはジュリアナの試合を見たことがある――が、 どちらかと言うと、正攻法を駆使して戦うクリーンな印象だったのだ。 このようにクレバーな試合運びをする格闘家ではなかったと記憶している。 つまり、ダイナソーが観賞から離れている一年の間で急激な変化を遂げたと言うことだ。 嘗ての正統派は、今や試合運びだけでなく観客の心を掴む術まで熟知しているように見える。 実父がトレーナーに就任したところで、ジュリアナ・ヴィヴィアンに関するダイナソーの知識は止まっていた。 それが『爆進重戦車』の撃破によって塗り替えられたのだった。 「そう言や、必勝パターンも使わなかったな。アレ≠かましたほうが客はもっと喜んだだろうに」 ジュリアナにはスリーパーホールド以外にも必殺の一手があった筈だとダイナソーは振り返る。 以前に観賞した試合では、ローリング・クレイドルから恐るべき打撃技へと転じていたのである。 チーズカーンとの一戦は、それを披露するまでもなく終わってしまったわけだ。 「王者の余裕ってェもんを見せ付けたかったんだろうね。お客に、そして、NEWFによ」 「それに、一発も蹴りを打たなかっただろ?」と店主は付け加えた。 パンチを主体としてチーズカーンを攻め続けたジュリアナであるが、別に彼女はキックが苦手なわけではない。 王座奪還を決定付けたのはドロップキックだったのだ。むしろ、大得意に入るであろう。 危険を冒してまでパンチに拘らなくとも、間合いの外からローキックを繰り出して膝を壊せば、 第一ラウンドで決着がついたに違いない。 二二五キロもの重量は、チーズカーンの強みであると同時に最大の弱点でもあるのだ。 「弱点なんか突かなくても、チーズカーンくらいなら一蹴出来るってワケさ。イヤミなくらいパーフェクトだろ?」 「こりゃあ、王座奪還してもおかしくねぇわ」 彼女はこの試合でダメージらしいダメージも負っていない。 その上、チーズカーンが得意とするパンチを用いて戦いの流れを制した。 バイオスピリッツ統一王者に相応しい完勝と言えよう。 檻≠フ内側へと踏み入ったジュリアナの父が刀全に向かって何事か喚き散らしたところで、 店主はビデオを停止させた。 想像していた以上に白熱した試合であったが、その内容よりもダイナソーが気になったのはジュリアナの装いである。 「ジュリアナ・ヴィヴィアンって、あんなにエロかったっけ?」と首を傾げた。 表に貼られたポスターでも随分と過激な姿を披露していたが、それは客の関心を惹く為の宣伝≠ノ過ぎず、 実際の試合で用いることはなかった筈なのだ。少なくとも、ダイナソーはそのように記憶している。 彼が以前に見たバイオスピリッツの中継では、彼女はスパッツなどを着用して肌の露出を控えていたのである。 しかし、チーズカーンとの一戦ではどうだったか。ポスターで見せた艶姿そのままで ジュリアナはリングに上がっているではないか。パンチアウト・マガジンの雑誌を読む限り、 刀全との戦いでは既に現在の装いを採っていたようだ。 「ソレも客の心を掴む一環さ。ゴチャゴチャと建前並べてみても、野郎はみんなお好き≠チてコト。 ……MMAに転向してから暫くは控えめだったけど、プロレス時代にも同じようなコトをやってたんだぜ」 肌の露出が過剰になっていった経緯を説明しながら、店主はカウンター席の裏から分厚い本を引っ張り出した。 所謂、ヌード写真集だ。表紙を飾るのは、ジュリアナ・ヴィヴィアンその人であった。 素裸で革張りの肘掛け椅子に座りながら、挑発的な笑みを投げかけている。 「……なんでもアリだな、オイ」 「彼女はリングの外でも攻め上手なんだよ」 流石にこう言った類の本は店には陳列していないそうだ。 親しくなった相手にだけ特別に解放しているのだと、店主は含み笑いを見せた。 そのひとりとして認められたダイナソーは、「マジかよ。俺サマ、ノックアウトされちゃうかも」などと、 下卑た笑みを浮かべながら分厚い本を受け取り、生唾を飲みつつページを開き―― 「こんなところに居たのか。探したぞ、サム――」 ――そこにアイルがやって来た。先程の店での用事を全て済ませたようだ。 胸には紙袋をふたつ抱えている。ダイナソーの分も一緒に民族衣装を購入してきたのだろう。 当然、ダイナソーが読んでいる本の内容も視界に入る。偶然、表紙を飾るジュリアナと目が合ってしまう。 その直後、鉄拳が飛んだのは言うまでもあるまい。 「女神転生」なる見出しが打たれたページでは、『イシュタルの申し子』が惜しげもなく裸体を晒していた。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |