13.心の行方 精神感応兵器――トリスアギオン。 『福音堂塔』と、コードネームで呼称されることが圧倒的に多いとコールタンは語った。 カレドヴールフがAのエンディニオンに留まっている技官に命じて独自に開発を進めており、 プロジェクトに気付いているのも、『アネクメーネの若枝』――否、『四剣八旗』の中で コールタンただひとりである。 最高幹部にすら存在が一切伏せられた、まさしく機密事項であった。 コールタンも手を尽くして調査を進めたのだが、何処で開発されているのかも判明出来ずに終わっていた。 カレドヴールフより指令が発せられたことのみが確実と断言し得る唯一の情報であり、 開発が進められている工廠に至るまで、ありとあらゆる手掛かりを自分たちで見つけなければならなかった。 しかも、だ。Aのエンディニオンへ渡る手段すらアルフレッドたちで調達する必要がありそうだった。 物資や少人数を行き来させる為の転送装置が『バブ・エルズポイント』なる軍事拠点に設置されているのだが、 どうやら、そこを征圧しない限りはAのエンディニオンには渡れそうにない。 コールタンによると、件の転送装置はバブ・エルズポイントの一基しか、 Bのエンディニオンには設置されていないと言う。 ギルガメシュにとって最重要な装置が在る以上、必然的に警護は厳しくなる。 バブ・エルズポイントへの突入は極めて困難なものになるであろう。 最高幹部の一声があれば、警備を手薄にすることなど造作もなかろうが、 その直後に重要拠点が陥落したとなれば、カレドヴールフから疑いの目を向けられるのは必定。 コールタンの立場も危うくなるに違いない。 「わたきュしの立場もわかって欲しいにょ。権力にしぎゃみちゅくちゅもりはにゃいきぇれど、 お互いの為にも今にょポジションは保っておいたほうが都合が良いにょだ」 コールタンは殊勝に頭を下げたものの、内容自体は不条理としか表しようがなかった。 グンフィエズルもブルートガングも、本隊の任務を帯びている為、突入の手引きすら出来ないと言う。 その上、彼らは再訪を約束しただけで早々に退散してしまっている。 何から何まで道理に合わないのだ。よもや、コールタンに騙されているのではないかと、 ヴィンセントは懸念を示している。一所に叛乱分子を誘き寄せ、掃射でも行なう謀略に違いない、と。 ヴィンセントの語ったような罠ではないとしても、無謀な作戦を強いられていることに変わりはない。 「一刻も早く阻止しないと、エンディニオンに未来はない」と言う空前絶後の揺さぶりを凌げる人間が、 果たして、どこに在るのだろうか。 意外にもアルフレッドはバブ・エルズポイントを攻め落とすことに積極的だった。 Aのエンディニオンに突入することは勿論だが、彼は敵の重要拠点を押さえると言う戦略上の益に注目していた。 攻撃者が佐志の人間であると気取られないよう潮を見て引き上げなくてはなるまいが、 ギルガメシュに与えるダメージは計り知れない筈だ。 史上最大の作戦とその運営に差し障りが生じるからこそ、早期の撤収が前提となるのだが、 そうした制約さえなければ、バブ・エルズポイントを占拠しておきたいとアルフレッドは考えていた。 「重要な拠点さえ守り切れないと知れ渡れば、人の心は更に離れていくだろう。 ついでに転送装置を利用させて貰うんだ。猛毒か細菌でも送りつけてやれば、 更にひとつ、ギルガメシュの拠点を潰してしまえる。一挙両得だ」 周囲が仰け反るほどに恐ろしいことを口走るアルフレッドだったが、おそらく実行出来ないまま終わるだろう。 無差別な殺戮にも等しい振る舞いをコールタンが許可する筈もない。 フィーナやジャーメインからは「人の道に外れることは、力ずくで止めるから!」と宣告されてしまった。 ヴィンセントに至っては「万国公法に照らし合わせて反対するし、強行する気ならあらゆる手を尽くして訴追する」と 厳しい警告を発している。 それに、だ。長期に亘ってバブ・エルズポイントを占拠し続ければ、 いずれはブクブ・カキシュから討伐軍が差し向けられるだろう。 如何に百戦錬磨の佐志軍と雖も、不慣れな地で大軍を迎え撃つのは得策ではなかった。 「エブリバディが反対しなかったら、チミ、アブソリュートに居座ったでショ。別荘よろしくロングロングステイ? ザットの間にギルガメシュへどんなプレゼントしてたんだろうねェ〜。 とにかくエネミーを苦しめたいメンだしィ、神経ガスの詰まったケースかなァ? 何も知らナッシングのピーポーがオープンしたら、ボワワンとデスがハローってカンジィ?」 「それくらいで済むんなら、ギルガメシュだって幸せだろ。ド汚ェ策を考えさせたら、アル公の右に出るヤツァいねェ。 転送装置の行き先とやらが全滅するのは間違いねぇな」 「酷い言われ方だな。コクランにも言われたばかりだ。人道に反することは慎むつもりだ」 「あからさまに摩り替えてんじゃねーよ、ボケ。誰も反対しねェならどうしたかっつー話だろが」 「しかも、チミ、慎む≠チて濁してエスケープしてるジャン。ノーと言えないメンかネ?」 「合戦は生き物だ。時々刻々と状況は変わる。だから、何事にも『絶対』と言うことはない。 俺が言うべきなのは、それだけだ」 「か〜、相変わらずクサレてやがらぁ。ガキどもまで汚染すんじゃねーぞ、コラ」 「煩い、黙れ」 ホゥリーやフツノミタマの当てこすりが何時にも増して手厳しいが、敢えてアルフレッドは明答を避けた。 それとは別に大きな問題もある。バブ・エルズポイントに設置された転送装置は現時点では試作段階にあるらしく、 実験を経て人体への影響が少ないことは立証されているものの、一度に大人数を移動させることが出来ず、 また、過負荷が掛かった場合にどのような事故を引き起こすか、見当も付かなかった。 物体を量子レベルにまで分解し、亜空間を経てふたつの世界を渡し、移動先にて再構築する転送装置のことを、 コールタンは『ニルヴァーナ・スクリプト』と呼んでいた。 「亜空間か〜。テッドを想い出すなぁ。そんなようなモン、確か言ってたよな」 「シラネさんと一緒に大学のことを話して下さいましたね。 ……私には亜空間などと言うものが実在することも信じられませんけど」 シェインとジャスティンはテッドから教わった話を振り返っている。 それはアレクサンダー大学の四人がファラ王の庇護を受ける以前のことであった。 テッドたちは亜空間で実験を行なっている最中に異常現象に巻き込まれ、 挙げ句の果てにBのエンディニオンまで飛ばされてしまったのである。 亜空間を用いた演習はアルフレッドもアカデミーにて経験している。 アレクサンダー大学――と言うよりも、プロフェッサーが行なっていた実験が如何なるものか、 おぼろげながら想像も出来るのだ。 しかしながら、異なる世界の行き来に亜空間を利用するシステムなど訊いたことがない。 アルフレッドとて己が世界の全てを知り尽くしているとは思っていないが、 最新の技術が集うアカデミーでもニルヴァーナ・スクリプトのような理論は実践されていなかった筈だ。 無論、これも「アルフレッドの知る限りでは」と言うことが前提となる。 いずれにせよ、ニルヴァーナ・スクリプトを使用するには、相当な覚悟を決める必要がある。 片道切符となる可能性も低くはないのである。 つまるところ、進むべき導(しるべ)もない無限の砂漠へ身を投じるようなものであった。 しかも、助けとなり得るモノは絶無に等しい。 絶望的と言っても過言ではない状況を解決していく為、 アルフレッドは先ずAのエンディニオンへ突入する決死隊の編制に着手した。 一度に大人数を転送できないと言う制約があるので全軍を投入することは出来ない。 また、Bのエンディニオンに留めておく戦力との釣り合いも考慮する必要があった。 万が一、アルフレッドたちがバブ・エルズポイントへ突入したことが露見すれば、 その本拠地たる佐志は熾烈な報復に晒されることだろう。これに対する備えを怠るわけにはいかなかった。 無論、連合軍の同志と共に戦い続ける兵力も残しておかなくてはならない。 Bのエンディニオンこそが争乱の中心地であることは、誰ひとりとして失念してはいない。 大いに頭を悩ませるアルフレッドであったが、最終的には少数精鋭でAのエンディニオンへ乗り込むことに決定。 続けて決死隊へ加わる要員の選抜に移った。 「シェインの背中はオイラが守るぜッ! コレだけは絶対に譲れねぇッ! ここにゃいねぇけど、ラドだってそうしたいハズなんだ! こいつは一世一代の大勝負なんだからよッ!」 真っ先に手を挙げたのはジェイソンだった。過剰に強さを追い求めてきた彼のこと、 今よりもっと強くなる為に死地へ臨むのかと思いきや、その動機は友情に在った。 当のシェインが決死隊に選ばれるかどうかも決まっていない内から、親友と共に戦い続けると意気込んでいるのだ。 「ボクの意思は無視なのかよ」 「あれだけの啖呵を切っといて行かないおめーじゃねぇだろ? おめーがゴネたってオイラが連れてくぜ!? オイラたちは一心同体ってもんだッ!」 「ムチャクチャなコトを言ってるって、そろそろ気付けよな〜」 気恥ずかしさもあって口では憎まれ口を叩くシェインだったが、今では頬が緩むのを抑えきれずにいる。 ここまで頼もしい鼓舞を受けたのだ。勇気が沸騰するのも当然であろう。 互いの拳を打ち付け合ったシェインとジェイソンは、共に勇ましい笑みを浮かべている。 「どうして、あなたたちはそんな単純なのですか。背中を守ると言いつつ、ふたりとも見ている方角が一緒では? 前途ばかり追い掛けていたら、その内に何処かで蹴躓いてしまいますよ。 油断や失敗と言うものは、希望を膨らませる最中に限って後ろから忍び寄ってくるものです」 「そんなチンケな失敗するもんか。オイラの勘は百獣の王より鋭いんだぜ!」 「物の例えです。それに自分の能力をライオンより優れていると考えるような人は、尚のこと、心配でなりません。 ……あなたたちとは別の方角を見ている人間がいなくては、本当の意味で背中を守ることにならないのでは?」 「――おッ! ジャスティン、おめー、さては?」 「そりゃあ、お前が随いてきてくれるなら百人力だけど、……でも、良いのか? ディアナのことは――」 「私は別にマザコンではありませんよ、シェインさん。私も母も自分のするべきことを選んだまで。 ……するべきこと≠ネんて言い回しだと、何だか義務みたいに聴こえますね。 私がシェインさんやジェイソンさんと一緒にいたいのです」 「ジャスティン……!」 「こう見えて、我が侭なんですよ、私」 頬を桜色に染めて含羞(はにか)みながら、ジャスティンもジェイソンに同調した。 照れ隠しに理屈を捏ねているものの、彼も最初からシェインに同行するつもりであったのだろう。 親友と共にいたいと語った声は、何時になく力強い。 すかさずジェイソンが飛び付いてきたが、くすぐったそうに身じろぎしながらも、 ジャスティンは決して彼を拒もうとはしなかった。 やがてシェインも交えて三人して肩を組み、「ひとりはみんなの為に! みんなはひとりの為に!」と 熱い友情を確かめ合う。それは、両帝会戦へ赴く折にラドクリフと交わした誓いと同じものである。 (――行ってくるぜ、ラド。お前やみんなの為にもボクらは戦うからッ!) 無論、シェインはラドクリフにも――この場にはいない一番の親友にも、心の中にて絆を誓っている。 それはジェイソンにしても同じことであった。 「それはルディアがいなくちゃ始まらないのっ! ジェイソンちゃんもジャスティンちゃんも抜け駆けはズルいの!」 三人の輪の中にはルディアも飛び込んでいく。必然的に彼女もAのエンディニオンへ突入することが決まった。 シェインたちが躊躇なく覚悟を決める一方で、守孝や源八郎と言った残らざるを得ない者≠熨スい。 守孝は現村長であり、源八郎はその補佐だ。源少七とて師匠と父を助けていかなくてはならなかった。 佐志の――否、Bのエンディニオンの海運の行く末は、この三人に懸かっていると言っても過言ではないのだ。 マイクとてBのエンディニオンを離れるわけにはいかない。Aのエンディニオンへ亘るアルフレッドに代わり、 史上最大の作戦の行く末を見届けることになったのだ。 アルフレッドにとって最大の懸念事項は、作戦立案者の身でありながら異世界に戦いの場を求めることであった。 ギルガメシュの最終兵器を阻止すると言う大目的があろうとも、 エルンストから連合軍の命運を預けられた人間には有るまじき行動と言えよう。 トリスアギオンを巡る戦いに身を投じている間は、Bのエンディニオンの情勢から全く切り離されてしまうのである。 しかも、だ。Aのエンディニオンより復帰出来る時期とて定かではない。それは誰にも分からない。 アルフレッドとて無責任は百も承知であるが、別の人間に己の役目を引き継ぐしかなかった。 そこで白羽の矢が立ったのが、マイク・ワイアットその人であった。 世に名高い冒険王が在野の軍師の役目を代行するのだ。連合軍諸将とて必ずや納得することだろう。 これ以上に相応しい適任者もあるまい。 そもそも、史上最大の作戦の趨勢は既に各勢力へ委ねており、アルフレッドから新たな指示を出すこともない。 連合軍が正常に機能しているか否かを見極めていくことは不可欠だが、 Bのエンディニオンを丸ごと捉える観察眼と、それに付帯する交渉などは、 在野の軍師より冒険王のほうが長じているくらいだった。 シェインを筆頭とする少年少女の行く末が気掛かりではあるものの、この争乱を大局的に見つめるならば、 やはり誰かがアルフレッドの代わりを務めねばならず、それには冒険王の肩書きが最も相応しい。 自分の個人的な希望を押し通すわけにも行かず、冒険王はアルフレッドの要請を二つ返事で承諾した。 「ご立派ですよ、マイクさん。あなたのことをビッグハウスの皆さんは誇りに思うでしょう。 この場に居るみんなも、そして、私もね。それでこそ支え甲斐があると言うものです」 「そこは頼り甲斐≠カゃねーのかよ! 助けてもらうのが前提ってのも、ちと寂しいぜ?」 「いちいち口にしなくても、あなたが頼もしいことは解っていますからね。 だからこそ、私たちも全力であなたを助けるのではありませんか。頼り切りではいられません」 「……いちいち言うコトがクサいんだよなぁ、ジョウは」 ジョウはマイクの選択をねぎらったが、今もって冒険王の視線はシェインに注がれている。 また無理をするのではないかと気が気でないのだ。 「頼むぜ、フッちん。若い力は分厚い壁だってブチ破るもんだが、勢いが付き過ぎると却って危ねぇ。 上手いこと、あいつらを導いてやってくれ」 「ンなこと、てめぇに言われるまでもねぇ。つーか、いい加減にその呼び方はやめろやッ! 帰ってくるまでに直しておかなかったら、てめぇ、承知しねぇかんなッ!」 ここから先はフツノミタマを信じるしかない。彼もシェインたちの後に続いて決死隊へと志願していた。 「――ま、ギルガメシュの本隊はあたしたちで何とかしとくから、アルたちはトリスアギオンとやらをよろしくね。 そっちがヘマしたら、こっちの頑張りまで無駄になっちゃうってコト、忘れないよーにっ!」 次に残留を告げたのはジャーメインである。アルフレッドたちがトリスアギオンを阻止している間に、 自分たちもギルガメシュ本隊を倒してしまうつもりだと、彼女は胸を叩いて見せた。 大言の裏に秘められたのは健気な気配りだ。決死隊には後顧の憂いなく戦って欲しいのである。 アルフレッドにとって気掛かりであろうBのエンディニオンの戦局(こと)は、 自分たちが責任を持って引き受ける――ジャーメインは翡翠色の瞳にてそう語っていた。 これはアルフレッドにとって大きな誤算であった。誤算と言うよりは失念と言うべきであろう。 彼はジャーメインのことを対トリスアギオンの戦力に数えていた――が、 パトリオット猟班の隊員をシュガーレイの許可も得ずに引き連れ回すわけにはいかないのだ。 考えの相違からスカッド・フリーダムを離れたパトリオット猟班であるが、義の心まで失ってはいない。 現在(いま)もシュガーレイたちは自衛の手段すら持たない寒村へ警護に赴いているのである。 ジャーメインとジェイソンは、ワーズワースを調査する為に赴任までの猶予を得たに過ぎないのだった。 彼女の話を耳にし、今更ながらに己の立場を想い出したジェイソンは、 呆れた表情を浮かべるジャスティンの傍らにて、「ここに来て、オイラの進退が大ピンチ!」と頭を抱え始めた。 「おばか、こっちのことはあたしが引き受けるって言ったばっかでしょうが。 あんたの任地くらい何とかしてあげるわよ。ミル姉さんやモーントにも相談するし」 「そ、そーゆーわけには行かねぇだろ。オイラだって義の戦士なんだぜ。 自分勝手なことをやっちまったら、シュガーの兄キに顔向け出来ないって!」 「あんたにはあんただけの義があるでしょ? 親友を支えたいって言う心がさ。今はそれを大事にしなさい。 隊長だって、きっと分かってくれるわ」 「メイ……」 「でも、ちゃんと自分の口から隊長に話すこと。モバイルでも何でも構わないわ。 義を貫くには、筋を通さなきゃ――でしょ?」 「お、おう……!」 ジェイソンの懊悩を笑顔で受け止め、進むべき道を優しく諭すジャーメインだったが、 そんな彼女とは対照的に、両者のやり取りを見つめるアルフレッドの顔は苦み走っていた。 心中では「計算が狂った」と、しきりに漏らしている。 「……残るつもりなのか?」 「ジェイソンが一緒だからって、あたしまであんたに随いてくって法則(コト)でもないでしょ」 「いや、お前なら必ず一緒に来ると思っていた」 「な、なな、なにそれっ! なんで、あんたと一緒にいるのが当たり前みたいになって……ッ!?」 「お前はギルガメシュを潰すことしか頭にないからな。コールタンの手前もあって、こちら≠ナは気を遣うが、 向こう≠ノ行けば、思う存分、暴れられるだろう?」 「……一瞬、気持ちがグラついたけど、やっぱりやめやめっ! 誰があんたなんかと一緒にいてやるもんですかっ!」 自分が必要とされている理由≠ヘ戦力の足し引きに過ぎないと悟ったジャーメインは、 無神経極まりないアルフレッドに向かって横薙ぎの拳を振り抜いた。 だが、二度に亘る格闘戦を通じて彼女の呼吸を見極めているアルフレッドは、こともなげにその拳を受け止める。 それでいて勝ち誇ることもないのだから、「そのスカした顔が本ッ当にむかつくのよ!」と、 ジャーメインは歯軋りを止められないのだ。 放っておけば殴り合いになると考えたフィーナは、慌てて両者の仲裁に入った。 「アル、あんまりメイさんを困らせちゃダメだよ。それぞれの持ち場で頑張るから意味がある――でしょ?」 「ほら、フィーだって分かってるじゃない。良いトコ取りしようって魂胆がキタナいのよ!」 「それはそうかも知れないが、工廠と言った狭い空間での戦闘が想定される以上、 なるべく小回りが利いたほうが良い。ジャーメインは打って付けの人材だ。中身はともかく技は口惜しい」 「口の減らない男ねぇ! ムエ・カッチューアだって中身≠ノ違いないでしょーがっ!」 「ま、まぁまぁ――アルもメイさんも落ち着いて、……そう、落ち着いて」 先達(せんだっ)て行なわれたカキョウの親睦会以降、フィーナもジャーメインの存在を少しずつ意識し始めていた。 マリスのように対抗意識を燃やすことはないのだが、さりとて平静でいられないことも確かだ。 今のようにアルフレッドとジャーメインの距離が著しく近付いたときなど、心が酷くざわめくのだった。 だからこそ、フィーナはジャーメインの残留を後押しした。 心の中で彼女に謝り、また自分の醜い部分に打ちのめされながらも、それぞれの持ち場で戦うことを確かめた。 懸命になって何でもない笑顔を装いつつ、それぞれの領分≠ェあることを示したのである。 無論、フィーナの心はジャーメインにも伝わっている。不意に距離≠縮め過ぎたと悟った彼女は、 アルフレッドに対して俄かに余所余所しくなり、シュガーレイに連絡を入れるだけと告げて、その場を離れようとした。 ここでアルフレッドが引き止めていれば、フィーナの疼きも、ジャーメインの揺らぎも深刻さを増したであろうが、 在野の軍師と呼ばれる彼は極めて合理的である。ジャーメインの意思を最終確認するや否や、 「それなら構わない」と言い捨て、ヒューたちのもとに歩いていってしまった。 ヒューやセフィにはアルフレッドのほうから残留を要請している。 異世界と言う未知の領域――ニコラスが同行するとしても――では、彼らの能力は欠くべからざる物であろうが、 それではギルガメシュ本隊との情報戦が疎かになってしまうのだ。 ギルガメシュの軍師たるアゾットは諜報部隊を率いているとコールタンは語っていた。 ワーズワース暴動の収束に於いてアゾットの手腕を思い知ったアルフレッドは、 何かひとつでも手違いがあれば情報戦でも敗れるとの危機感を抱いている。 ギルガメシュとの情報戦は、史上最大の作戦を成功させる要でもあり、連合軍にとっても極めて重大なのだ。 そして、闇に紛れての諜報に於いては、ヒューやセフィより優れた人材は絶無に等しい。 つまるところ、アルフレッドにとっては、ジャーメインの存在よりヒューたちとの打ち合わせのほうが 優先順位が高いと言うわけだ。 寂しげに振り返るジャーメインも、それを痛ましげに見遣るフィーナも、アルフレッドは気にも留めない。 少し離れた位置から皆の様子を傍観していた撫子が「クソだ、こいつ」と吐き捨てたのは当然であろう。 撫子の罵声が耳に入ってしまったフィーナも、それを咎めることは出来なかった。 (……今もアルはあの夜≠ニ同じなのかな。私とマリスさんの気持ちを考えてくれたときと……) 思わず自問するフィーナであったが、考えれば考えるほど、嘆息が漏れ出してしまうのである。 『ふたつの恋』に誰も傷付けない決着を模索し、最も望ましい形で清算すると誓った筈のアルフレッドは、 最早、何処にも居ないように思えてならなかった。 「史上最大の作戦の立案者」と言う責務にアルフレッド・S・ライアンと言う人格が飲み込まれてはいないだろうか。 今の彼は、復讐の狂気に染まっていた頃とは別の意味で心が壊れているように見えるのだ。 マリスへの対応は冷酷としか言いようがない。本来ならば、すぐにでも追い掛けて己の無神経を詫びるべきなのだが、 彼はローガンに彼女への伝言を依頼しただけで、ここ数日は満足に顔も合わせていない。 その伝言とて謝罪や弁明ではなく、Aのエンディニオンへ渡ると言う決定事項の通達のみであったのだ。 ローガンも直接はマリスと面会せず、タスクと話したに過ぎないのだが、 どうやらアルフレッドの恋人≠ヘ相当に憔悴しているそうだ。 「物には言い方があるやろ? 余計なトラブル増やしてもお前が損するだけや」と、 それとなく注意を促すローガンだったが、アルフレッドは時間の無駄とばかりに取り合おうとはしなかった。 耳さえ貸さなかった程である。 彼はマリスとの仲直りなど必要としていない。そもそも、彼女を傷付けたと言う認識すら持ってはいないだろう。 議論の障碍を取り除いたとしか思っていないのかも知れない。 これほど恐ろしいことはなかった。万事を合理的な思考で取捨選択するようになったなら、 それはアルフレッドと言う人間が消滅したことを意味する筈だ。 心ない機械など誰も欲してはいなかった。そのような機械に仲間を傷付けられて平気ではいられない。 マリスも、そして、おそらくはジャーメインも恋敵に違いない――が、それと、同時に苦楽を共にする仲間なのだ。 「――こらこら〜、女の子をそんな邪険に扱うなんて、いくら二枚目だからって許されないよ?」 そんなとき、フィーナの心を代弁する者が現れた。 見れば、ヒューのもとへ向かおうとしていたアルフレッドのコートの袖を、 カキョウが力任せに掴んでいるではないか。その場に彼を引き止め、「感心しないなぁ」と軽く睨み付けている。 「何のつもりだ」 「それはこっちのセリフ。周りに冷た過ぎるんじゃないかなぁ。こないだもマリスに辛く当たってたし……。 あれからちゃんと謝ったの? そんな風には見えないよ?」 「……部外者は口を挟まないで貰おうか」 「部外者だから見えるモノだってある――でしょ? この理屈、聡いキミなら解るよね?」 フィーナ、マリス、ジャーメイン――三者の間に例えようのない緊張を招いたことはカキョウ自身も気にしており、 何とか仲裁を図りたかったのだ。 一番心配なのはマリスである。様子を確かめようと、幾度か彼女が暮らす仮設住宅を訪問していたのだが、 ローガンと同様に今日まで本人と顔を合わせることはなかった。そのような機会には恵まれなかった。 他者との繋がりを拒んでしまうほどに、マリスの心は傷付いているということだ。 自分がアルフレッドとマリスの間を取り持たなくては――と、カキョウが逸るのも無理はない。 アルフレッド以外に恋人≠フ心を癒せる人間は居ない筈なのだ。 それと同時にアルフレッドの態度に疑問を感じてもいる。 先程もジャーメインに対して神経を逆撫でするような言行を繰り返していたのだ。 同じ女性としても、恋する乙女を応援したい一個人としても、過ちを正さなくては気が済まない。 「メイちゃんにもヒドいことしてるけどさ、一番はやっぱりマリスちゃんのコトだよ」 「本当に余計なお世話だ。プライベートなことにまで首を突っ込むな」 「マリスちゃん、キミのことが本当に大好きなんだよ? 悪ノリでからかって、それは悪いことしちゃったんだけど―― そんなときだってあのコはキミを一番に考えてた! ……キミはその気持ちに応えている? マリスちゃんに向かって、『俺にはお前が一番大切なんだ』って、胸を張って言えるのかな?」 「あんたに答える義理はない。……そんなこと、いちいち口に出すほうがどうかしている。 俺は美辞麗句で人を釣るような真似はしたくない」 「うちの相方は、ちゃんと言ってくれるよ。だって恋人≠セもん。 キミは美辞麗句って言って逃げるけど、言葉にしなきゃ伝わらない気持ちもあるんだよ」 「……人は人、俺は俺だ」 カキョウの言葉はどこまでも真っ直ぐであり、アルフレッドの心に深々と突き刺さる。 マリスのことを一番¢蜷リとは思えない彼にとって、それは何よりも堪える糾弾だった。 間近にはフィーナの姿がある。今までになく痛ましげな面持ちで自分のことを見つめている。 彼女の面に滲んだ感情が『ふたつの恋』に対する苦しみではなく、憐憫であることもアルフレッドには解っていた。 一番大切に想っている恋人≠ゥら傷付けられ、打ちひしがれたマリスへと思いを馳せているのだ。 己の最も醜い部分を指摘されたこともあって、アルフレッドもカキョウを強引には振り解けない。 低く呻いた後、「今は戦時だ。それに応じて優先順位がある」と躱すのが精一杯だった。 「悪いが、私情を優先させている場合ではない。俺には果たすべき役目がある。ギルガメシュと戦う為の仕事だ。 それを疎かにすることはロンギヌスの損害にも通じると思うのだが、違うのか?」 「でも、それじゃ、マリスちゃんの気持ち≠ヘ――」 「マリスなら俺の立場≠解ってくれる。俺はそう信じている。……もう一度、言おうか。部外者が口を挟むな」 「あ、ああ言えば、こう言う……っ」 「お互い様だ」 「恋人≠ネらば自分の苦しい立場も理解してくれる」と言われては、カキョウとしても切り返すことが出来ない。 それもまた心を通い合わせる伴侶(パートナー)の真理であり、 恋人同士の機微を説いてきた手前、間違いと決め付けるわけには行かないのだ。 反論に惑ったカキョウが仰け反るなり、アルフレッドは彼女の掌中からコートの袖を引き抜き、 今度こそ立ち去っていく。振り返りもせず、次なる打ち合わせに向かっていく。 一連のやり取りを目撃していたヒューとセフィは、この空気のままでは何ともやりにくいと、 互いの顔を見合わせた程であった。 小難しい理屈で煙に巻かれたカキョウであるが、さりとて軍議を妨げるわけにもいかず、 臍を噛むような思いでアルフレッドを睨み据える。口をへの字に曲げているあたり、 まだまだ糾弾し足りない様子だ。 チョーカーより垂らされたプラチナのペンダント――片翼を模した物だ――を人差し指の先でもって撫でたカキョウは、 次いでフィーナに顔を近付け、自分の口元を手の甲にて隠しつつ、 「お兄サンって、いっつもあんなカンジなの? 一緒にいて疲れない?」と訊ねた。 カキョウが抱いたのは至極当然な疑問であろう。贔屓目に見てもアルフレッドの言行は誉められたものではない。 己自身にも密接に関わる問題だけに、フィーナは大弱りの表情(かお)で俯くしかなかった。 一方のジャーメインも第一会議室の扉へ――アルフレッドと反対の方角へ歩き始めたが、 その面からは活力と言うものが抜け落ちてしまっている。 傍目にも傷付いたことが察せられるふたりの少女と、 何事もなかったかのように打ち合わせを再開したアルフレッドとを交互に見遣った撫子は、 今一度、「クソだ、コイツ」と痛罵を吐き捨てた。 アルフレッドが決死隊の編制を終えたのは、それから一時間後のことである。 用意された黒板にチョークを走らせ、Aのエンディニオンへ突入する者たちの名を次々と並べていく。 アルフレッド・S・ライアン。 フィーナ・ライアン。 シェイン・テッド・ダウィットジアク。 ムルグ。 フツノミタマ。 ホゥリー・ヴァランタイン。 ジョゼフ・ルナゲイト。 ルディア・エルシャイン。 ハーヴェスト・コールレイン。 ネイサン・ファーブル。 ニコラス・ヴィントミューレ。 ジェイソン・ビスケットランチ。 ジャスティン・キンバレン。 マリス・ヘイフリック。 タスク・ロッテンマイヤー。 ――以上、一四名と一羽がBのエンディニオンの命運を握る決死隊として選抜された。 少ない。余りにも少ない。少数精鋭とは雖も、二〇にも満たない人数で異世界に突入するなど、 無謀としか思えなかった。阻止と破壊のみならず、トリスアギオンが開発されている工廠(ばしょ)さえも 自力で調査しなくてはならないのだ。 編制を練ったアルフレッドにも不安はあるが、佐志自体の兵力が連合軍諸隊に比して少ない為、 腕利きの多くを決死隊に割くことが出来ない。 一四名と一羽――それが考えられる限界の要員であった。ここから更に減ってしまうと、 Aのエンディニオンに到着したところで、満足な行動も取れなくなってしまうだろう。 人数の補填として、所有するCUBEは殆どが決死隊に割り当てられることとなった。 炎の力を宿した『MS‐FLM』だけはトリーシャの手元に残された。 近頃、彼女はこのCUBEを用いて戦闘訓練に励んでおり、その点が考慮された結果である。 それでも、まだ戦力は足りていないだろう。 撫子が決死隊選出から漏れたことに残留組≠ノ属するセフィは 「ミサイルのトラウムは破壊工作には不可欠では?」と懸念を示し、ルディアは個人的な理由から駄々を捏ねた。 当然、これもアルフレッドは思慮に含めている。 「ギルガメシュが佐志に攻め寄せてきたとき、要となる戦力が欠かせないんだ。 水无月のトラウムは、間違いなく佐志の最強の攻撃力。上陸される前に敵を壊滅出来るのだからな。 俺たちのほうは攻撃力は最小限で構わないんだ。破壊工作と合戦は別物なんだよ。 ……俺たちに随いてくるよりこちらに残ったほうが楽しめる≠ニ思うぞ」 「説明が長ぇんだよ、クソ虫が! そのしたり顔も気に入らねぇ!」 「その憎たらしい顔とやらも暫くは見納めなんだ。もう少し付き合え」 「……うッわ、胸糞悪ィ! てめー、そーやって何人の女を誑し込んできたんだァ? 言うことなすこと、生理的に受け付けねーんだよな。てめーみてーなスケコマシはよォ!」 「……何の話をしているんだ、お前は」 「ぶぅ〜、アルちゃんのゴタクなんか知ったこっちゃないの。 ナデちゃんが一緒じゃないと、ルディア、つまんないのっ!」 ルディアは自ら志願して決死隊に加わっている。 アルフレッドも最初は躊躇したのだが、ギルガメシュによって惨殺された友達の仇討ちと、 何よりワーズワースと同じような悲劇を食い止めたいと願う彼女の意志を酌むことにしたのだ。 「知るかよ、ボケかまし。こっちはうるせぇのがいなくなって清々すらぁ」 「んふふのふ――強がり言ってられるのも今のうちだけなの。 ルディアたちがいなくなった家で、きっとナデちゃんは独り泣いちゃうのね。 わかってるの、わかってるの。出発までずーっとナデちゃんの家に泊まってあげるのっ! ルディアの成分(エネルギー)、ナデちゃんにチャージしといてあげるのねっ!」 「……おめーはよォ、どうしてそう言う……」 撫子としてもAのエンディニオンに乗り込んで暴れ回るつもりだったのだが、 理詰めで説かれては黙るしかあるまい。 ルディアだけは未だに納得していない様子だが、決死隊にはタスクと言う別の生け贄≠ェ随いていく為、 いずれはそちらに意識が向けられ、憤激も鎮まることだろう。何かにつけて身体中をまさぐられては、 如何に撫子と雖も堪らないのだ。 余談だが、叢雲カッツェンフェルズはこの場に呼び付けてもいない。 決死隊と言う重大な役目を戦力外の者たちに割り当てるなど持っての外。 同行を直訴してくることが予想出来る為、敢えてハリエットを遠ざけたわけである。 「……向こうに残っている人間には、貴方たちに協力するよう指示書を作っておこう。 メールもファクシミリも使えないから、本人に手渡しと言うことになるがな。 それで連中が承諾するかどうかは、申し訳ないが、貴方たちの交渉次第だ」 トリスアギオン阻止に協力するようロンギヌス社のエージェントへ取り計らうとナガレも約束してくれた。 会長代理としてヴィンセントも一筆添えた為、必ずや力を貸してくれるだろう。 仮にロンギヌス社のエージェントに協力を断られたとしても、決死隊は臆することなく使命に向かっていく筈である。 ニコラスなどは、鋼鉄のグローブで固められた右の拳を左の掌に叩き付けながら、 「これだけいれば十分だぜッ!」と気合いを迸らせている。 昨晩、ダイナソーやアイルとモバイルで話したのだが、 『ゼフィランサス』で行動を開始したふたりから大いに刺激を受けた様子である。 張り上げた声にも気力が漲っていた。 「馬の骨に手柄取られんのはシャクだが、暫くは親子水入らずを楽しむとするかねぇ」と軽口を叩くヒューだが、 その実、横目にてニコラスのことを頼もしそうに見つめている。 他方では、皆を驚かせる差配もあった。懐刀として新聞王に付き従ってきたラトクが残留することになったのだ。 これはジョゼフの指示であるそうだ。 混乱に乗じてルナゲイト家が悪巧みでもしているのではないかと、ヒューは猜疑の視線を新聞王の懐刀に向けたが、 ラトク当人は「私の顔に何か付いているかね?」と知らばくれるばかり。 白々しい態度が居直りのように思えてならないヒューは、セフィと顔を見合わせ、肩を竦ませた。 「例え、時空を隔てているとしても心はひとつだ。俺たちは常に身近にある。 今こそ俺たちの絆が問われる機(とき)だ。皆、一丸となって戦い抜き、必ず生き抜くぞ」 アルフレッドの号令を受け、決死隊のメンバーは世界の命運を双肩に担う覚悟を己に問い、 残留する仲間たちと無事の再会を固く誓い合った。 決死隊の編制が決まった後もアルフレッドは第一会議室に篭り切り、仲間たちと議論を重ねている。 出発までに決めておかなくてはならない事案が山積みであるのだ。 決死隊の編制を優先させた為に連絡が滞ってしまっているが、 今度の一件はテムグ・テングリ群狼領にも伝えておかなくてはならなかった。 トリスアギオンのこと、決死隊のこと、そして、アルフレッド自身がBのエンディニオンを離れること―― いずれもエルンストの御曹司たるグンガルに打ち明けなくてはなるまい。 本来ならば、新たな御屋形たるタバートに報告すべきだが、アルフレッドは彼のことを殆ど信用していなかった。 益の有無に対して鼻が利きすぎることが気掛かりであり、近頃ではギルガメシュへ媚を売り始めたと言う噂もある。 これは警戒を要する事態であり、余りにも不穏な気配が目立つようであれば、 粛清をも視野に入れなくてはならない。 テムグ・テングリ群狼領の御屋形とは、即ち連合軍の主将でもある。 その首を挿げ替えることは危険な賭けとしか言いようもないが、全軍の空中分解だけは避けなくてはならないのだ。 (……誰に何を話したって、俺の考えを解ってくれるとは思えないけどな……) アルフレッドを悩ませているのはタバートだけではない。 ワーズワースを破滅に導いたフェイの存在も気鬱の種である。 如何なる事情があるにせよ、難民への攻撃だけは必ず食い止めなくてはならないが、 どうしても「フェイ兄さん」に対する私情を捨て去ることが出来ないのだ。 カキョウに向かって「私情を優先させるべきときではない」と言っておきながら、 誰よりも私情に囚われているのはアルフレッド自身であった。その自覚と、自嘲と、自責と―― 様々な感情が彼の心中にて黒い渦を作り出していた。 甘い考えとは解っているが、同郷の兄弟分である以上、心を尽くして説得すれば、 きっと改心してくれる筈だとアルフレッドは期待を持ってしまう。 長きに亘って育んできた絆と情が、彼に「和親」と言う解決策を訴えるのだ。 フェイに対してだけは、「粛清」と言う言葉を用いたくはない。 それこそがアルフレッドの偽らざる本心である。 無論、周囲がそれを許さないこともアルフレッドには解っている。 特定の人間にのみ温情を掛けて許される立場にないことも自覚している。 ソニエの協力を得ることが出来たなら、あるいはフェイの暴走を穏便に鎮められる可能性も生まれるだろう。 しかし、ハンガイ・オルスから失踪したと言う彼女の行方は杳として知れない。 ジョゼフも捜索を急いでいるのだが、新聞王のネットワークを以ってしても孫娘の足取りは掴めないそうだ。 消息不明なのは、フェイ当人も同様だ。彼もハンガイ・オルスを離脱して以来、 表舞台から完全に姿を消している。こちらの居場所も手掛かりすら掴めていなかった。 未確認ながらアルカークと手を結んだと言う風聞もあり、ヴィクドに匿われていたことも想定される。 真偽を確かめるべく、『提督』の実弟でありながら佐志に協力的なディオファントスに連絡を取ったのだが、 彼のもとにはフェイに因んだ情報は一切入っていないと言う。 「……お前らしくねーな。奴さんのハナシを鵜呑みにすんなよ? 表面上は良いツラしてっかも知れねぇが、あいつだってヴィクドの人間なんだからよ」 ヒューには釘を刺されてしまったが、学者肌のディオファントスは、 暴力に訴えるしか能のない兄とは大きくかけ離れた人間であり、 見識の深さひとつを取っても、味方に引き入れるだけの価値があるとアルフレッドは認めている。 それ故にディオファントスからの返答を信じようと皆を説き伏せたのだ。 雲行きが怪しくなってきたとしても、前言を翻すわけにもいかなかった。 自分の指示で動く傭兵にもフェイを捜索させてみよう――ディオファントスの言葉もアルフレッドは信じている。 当然、ケロイド・ジュースの行方も不明であった。フェイとソニエのどちらかに随行しているのか、 ふたりを見限って去っていったのか、それすらも定かではない。まさしく八方塞の有様である。 自分がBのエンディニオンを離れている間にフェイが再び難民を攻撃すれば、 彼のことを心底より憎むヴィンセントたちは勇んで滅ぼしに掛かるだろう。 状況によってはスカッド・フリーダムまでもが攻め寄せるかも知れない。 そのとき、フェイに振り下ろされた鉄槌を止める者は何処にも居ないのである。 アルフレッドも、フィーナも、シェインも、ムルグさえも――彼と親しく交わってきた者たちは、 いずれもAのエンディニオンに在る筈だ。 フェイ・ブランドール・カスケイドとは、今や佐志にとって不倶戴天の敵なのである。 (……不倶戴天と言うのもおかしいな。俺にはフェイ兄さんに恨みなんかない……) そんなアルフレッドの気詰まりを見て取ったマイクは、周囲を見回しながら一時間の休憩を告げる。 彼の提案には誰ひとり――アルフレッド本人も含めて、だ――反対しなかった。 シガレットを咥えながら第一会議室を抜け出したアルフレッドは、 その足で佐志唯一の軽食喫茶、『六連銭(むつれんせん)』へと向かっていった。 後ろからはニコラスが随いてきている。「歩きタバコなんて行儀悪ィぜ」と注意を受け、 携帯用の灰皿に吸殻を捻じ込んだアルフレッドは、これで良いかと言わんばかりに親友を振り返る。 そのときには、両者は『六連銭』の前まで辿り着いていた。 「いらっしゃ――おや、アル君にラス君。今って会議中じゃなかったっけ?」 店内にはカミュの姿しかなかった。現在、女主人(ママ)は外出中であり、 ウェイターの彼はひとりきりで店番を任されていると言う。 近頃はカミュ自身も料理の腕を上げており、いずれは女主人(ママ)と共に厨房に立つことだろう。 以前に働いていたサルーンのレシピを再現することは彼の悲願でもあるのだ。 店を開いたままで外出するあたり、女主人(ママ)は彼の腕前を相当に評価しているらしい。 事実、メニューに記された軽食ならば、カミュは誰の手も借りずに調理出来る。 着実に仕事の幅を広げているカミュであるが、 コーヒーの淹れ方だけは、どうしても女主人(ママ)には敵わないそうだ。 「ちょっとばかり小休止さ。サラリーマン稼業でもねぇし、ギチギチに根を詰めて働かなくても良いよなってワケ。 適当に休まねぇと頭がパンクしちまうよ。……特にコイツ≠ヘね」 「ああ、アル君はねぇ〜。……また皺が増えたんじゃない? 今からそんなんじゃ、年を喰ってから大変だよ」 「つーか、目から口から皺で潰れちまうんじゃねぇかな」 「それはそれでちょっと見てみたいかも。『妖怪しわだらけ』とか言ってさ。 まァ、フィーナちゃんは一〇〇パーセント泣くと思うけど……」 「こう見えてコイツは調子が良いからさ。フィーの前だと皺が引き締まってハンサムになったりしてな。 で、お目当てがいなくなると、また顔面が崩れまくるんだよ」 「おぉ、だいぶ妖怪っぽくなってきたね〜! アル君、そう言うわけだから、思う存分、皺を作って良いよ?」 「……人の顔で好き勝手に遊ぶな」 状況を説明しつつホットコーヒーをふたつ頼んだニコラスは、アルフレッドを促してカウンター席に腰掛けた。 用意されたおしぼり≠ヘ程よく冷えており、顔や脇の汗を拭い取ると清涼な心地が一気に押し寄せてくる。 これによって心身の昂ぶりを鎮めたアルフレッドは、堪らず快楽の吐息を漏らしてしまった。 カミュとニコラスからは「おっさん臭い」と茶化されてしまったが、こればかりは仕方あるまい。 愧じて慎み、抑えるべきものではない筈である。 ふたりの笑い声も現在(いま)は心地良かった。幾日も気を張り詰めてばかりいると、 流石のアルフレッドも精神的に疲れ切ってしまうのだ。 そんなときこそ気心の知れた友人と語らい、暗い気持ちを入れ替えるに限る。 だからこそ、アルフレッドの足は――否、彼の心身は、『六連銭』を求めたのであった。 「――また一波乱あるんだってね……」 注文の品をふたりの手元に置きながら、カミュが物憂げに呟く。 決死隊を結成してAのエンディニオンに突入することは、既にアシュレイからも報(しら)されているそうだ。 彼の愛妻はコールタンを交えた話し合いにも同席していたのである。 淹れたてのコーヒーを口にしたアルフレッドは、その味を堪能するかのように一呼吸を置いた後、 「これだけ波乱が続くと、一体、何が平時なのか思い出せなくなってくるよな」と呟いた。 そのようにカミュに答えつつも、思考(あたま)の別の部分では、 彼の淹れたコーヒーの味が女主人(ママ)に近付いてきたと考えている。 恩人のレシピを復活させる日も遠い未来の話ではなさそうだ、と。 最悪の状況を想定するが故に物事を深刻に捉えがちなアルフレッドにしては珍しく楽天的であった。 「冗談言ってる場合じゃないでしょ、アル君ったら……」 「あながち冗談でもないがな。四六時中、合戦のことばかり考え続けているんだ。感覚が麻痺するのも不思議じゃない」 「そ、それは――……だ、大丈夫なの? アル君、波風立ちまくりじゃないかな?」 「あんまりカミュを困らせるなって。アルが言うとシャレに聴こえねぇんだぜ」 「……笑うところだったのだがな、今のは。通じなかったか……」 「も〜、ぼくは真剣に心配してるのにぃ! 異世界に飛ぶんでしょ? 右も左も判らない土地なんだよ? アル君、怖くないのかい?」 「なんだ、お前、そんなことを気に病んでいるのか」 「いや〜、フツーは一番心配するトコでしょっ!」 カミュは『未知なる世界』と言う部分に大きな不安を覚えている様子だった。 その地に降り立った途端、風土病に罹ってしまうのではないかと案じているのだろう。 あるいは、見たこともない化け物の跳梁跋扈を想像しているのかも知れない。 そんな彼の目には暢気に映ってしまったようだが、 当のアルフレッドは『未知なる世界』そのものに対して何の不安も持ってはいなかった。 そして、これ≠ヘ決死隊の誰もが共有する思いであろうと信じている。 「任務には苦労させられそうだが、俺たちが行こうとしているのはラスやコクランたちが暮らしていた世界だぞ? 一体、何に怯えろと言うんだ。どんな原理かは解らずじまいだが、貨幣もふたつの世界で共有出来ている。 気掛かりと言えば、せいぜい向こうの食事で腹を壊さないかどうかだ」 コーヒーの味をミルクと角砂糖で調え、銀のスプーンで掻き混ぜていたニコラスは、 隣に座したアルフレッドの言葉を受けて口元が綻んでいる。 アルフレッドは客観的な分析に基づいてAのエンディニオンでの活動に不便が少ないことを説いていた。 難民と言う立場であり、様々な面で苦労は多いものの、ニコラスたちはBのエンディニオンでも確(しか)と生きている。 生命を繋ぐのに必要な空気や水も変わらず、言語とてふたつの世界で不自由なく通じている。 心の触れ合いも、育んだ絆も、世界の隔たりを超えて分かち合えるのだ。 転送装置を潜った後、決死隊の立場はBのエンディニオンで難民と呼ばれている人々と逆転するだろう――が、 アルフレッドには大した変化とも思えなかった。 「異世界と言っても、誰も俺たちと変わらない」と言うアルフレッドの説明も、 それに納得して首肯するカミュも、ニコラスには嬉しくて堪らなかった。 「――では、こっちに残していく悩みはフェイ・ブランドール・カスケイドのことだけだな」 店の入り口から第三者の声が投げ掛けられたのは、ニコラスがコーヒーを口に含んだ直後のことである。 何事かと思って振り返れば、そこにはヴィンセントが立っているではないか。 三者とも話に夢中で気が付かなかったのだが、何時の間にやら店内まで入り込んでいたらしい。 今し方の口振りから推察するに、アルフレッドの説明にも耳を傾けていたようである。 「人が悪いと言うか、趣味が悪いと言うか……居たのなら声くらい掛けてくれ」 「どう考えても悪趣味だろ。オレたちは仲間じゃねぇか。盗み聞きは頂けねぇぜ」 「寄って集って悪者扱いとは涙が出るような大歓迎だな。ライアンが真剣なんで、入り込む隙を見つけられなかっただけさ。 文句ならそっちに言ってくれ」 「そんな責任転嫁があってたまるか」 非難の声を受け流しつつ、ヴィンセントはアルフレッドを挟んでニコラスの反対側に腰掛けた。 次いで自分もホットコーヒーを注文するが、カミュから応答は返ってこない。 フェイの罪過を論じた経緯からカミュはヴィンセントのことを快く思っておらず、 注文されたコーヒーを乱暴に置くなり、詫びもせずカウンターの隅に引っ込んでしまった。 相当な嫌われ様であった。間違ってアイスコーヒーが出されたことを訴えても全く取り合って貰えないのだ。 もしかすると、注文の誤りとて作為かも知れない。そう思わせるような態度なのである。 さしものヴィンセントも「俺、冷え性なんだけどなぁ……」と傷付いたような表情を見せた。 「カスケイド氏の始末が付かないことには此方を離れるのは難しいか、ライアン?」 冷たいコーヒーを啜って動揺を落ち着けたヴィンセントは、次いでアルフレッドの横顔に瑠璃色の双眸を転じた。 彼の心を穿つような強い眼差しである。 同じ知恵を武器にする者として波長が合うからであろうか―― 決して口にしない密かな懊悩までヴィンセントには見透かされてしまっており、 アルフレッドは「あんたは俺の双子の兄弟か」と苦笑いを浮かべた。 煩わしさを感じることはないが、さりとて何もかも看破されてしまうことは望ましくも好ましくもない。 反対にアルフレッドのほうもヴィンセントの考えが殆ど読めるようになっている。 次に彼が如何なる提案を持ち掛けるのかも予想が付いていた。 保安官事務所(シェリフ・オフィス)へ所属していたマルレディに対して、 ヴィンセントはBのエンディニオンに於ける刑事裁判の仕組みをしきりに訊ねていたのである。 そこから導き出される答えを、アルフレッドはひとつしか知らなかった。 「事件の真相を突き止める為にも、カスケイド氏だけは何としても逮捕しなくちゃならない。 ……問題はその後だ。カスケイド氏は我々の世界の法律で裁くべきだと思うんだが、ライアンはどう思う?」 彼はフェイをAのエンディニオンの法律に則って裁判に掛けたいと言明した。 ヴィンセントなりに懸命に考えた落としどころとも言えるだろう。 これこそアルフレッドが想像していた通りの提案であった。 「俺なりに調べてみたんだが、裁判のシステムはふたつのエンディニオンで大差ないように思うんだ。 起訴から開廷に至るプロセス、裁判官たちの配置、木槌に陪審員もな」 「個人的には興味深い話だが、それが何だと言うんだ?」 そう聞き返しながらも、アルフレッドの脳裏には次にヴィンセントが語るだろう単語が浮かんでいる。 裁判を口にした以上、ヴィンセントは得意の万国公法を持ち出すことだろう。 彼が新しい世界の基準になるものと考えている『力』を、だ。 「殺されたのはハブール難民。……今、難民と呼ばれている人々だ。つまり、起訴の権限は俺たちの側に在る。 それなら、万国公法に基づいて裁きを受けさせるのが理に適っていると思うんだがな」 「そ、それはどう言う意味ですか……」 身を乗り出して尋ねたのはカミュである。 難民虐殺の容疑者としてフェイの身柄を捕らえ、問答無用で処刑するものとばかり考えていたカミュにとって、 ヴィンセントが口にした『裁判』と言う二字は、余りにも意外なものであったのだ。 これ見よがしに音を立ててアイスコーヒーを啜ったヴィンセントは、 「法律の役目は容疑者を葬ることではありません。何が正しいのか、その筋道を明らかにするもの」と答えた。 「ワーズワースを破滅に導いたものは何か。その発端とは何か。裏で何らかの『力』が働いていたのではないか。 ……裁判は真実を探し当てる為にあるのです。二度と同じ悲劇が繰り返されないよう過ちの全容を確かめるのですよ。 その為には公平な審理が欠かせません。審判はその最後に待ち受けているもの。 幾ら相手が容疑者だからと言っても、人道に反する扱いは許されませんよ」 裁判の必要性をカミュに説きながらも、ヴィンセントはアルフレッドの面を覗き込んでいる。 深紅と瑠璃の瞳が静かに交わり続けている。 粛清の名のもとに生命を奪うのではなく、裁判を通して真実を解き明かし、これを以って裁きを与える―― それで納得して欲しいと、ヴィンセントは双眸でもって語りかけていた。 ワーズワースに銃器を流入させ、暴動の遠因ともなったフェイを取り逃がすわけにはいかない。 アルカーク・マスターソンと言う背後関係まで悉く洗い出し、必ずや犠牲者への償いをさせなくてはならなかった。 真実の解明はワーズワース暴動に関わった人間の務めであり、その手段としてヴィンセントは裁判を選んだのである。 フェイを裁く為に最も相応しいモノとは、彼が行使したのと同じ暴力ではなく、 社会の理性とも骨格とも言うべき法律であろう、と。 「一口にカスケイド氏を裁判に掛けると言っても、体制を整えるまで相応の時間が必要だろう。 第一にこちらのエンディニオンでは万国公法が周知されていない。 ……その間はカスケイド氏は何処かに留置しなくちゃならないな」 「コクラン……」 一朝一夕では万国公法に基づいた法廷を機能させることは不可能ともヴィンセントは言い添えた。 それはつまり、決死隊がBのエンディニオンに帰還するまでは フェイの生命が脅かされることはないと保証したようなものである。 一度、宣言したからには、ヴィンセントはフェイの身柄を法律に基づいて保護することだろう。 問答無用の抹殺とは真実を葬り去ることにも等しいのだ。 瑠璃色の瞳には真実を守らんとする決意の光が宿っている。 「……裁判が開始されるまでに、本人に罪の意識が芽生えたら――審理の流れがどう動くかは判らない」 「助かるかも知れないってこと?」とカミュから尋ねられたヴィンセントは、言葉なく首を横に振った。 「助かるとは言えねぇよ。罪を犯した人間は、それを償う責任がある。それはどっちのエンディニオンも一緒だろう? 幾らフェイさんがスゴい英雄(ひと)だからと言っても、それで罰を免れたらハブールの人たちが浮かばれねぇ。 ……情状酌量の材料にはなるかもだが、罪は消せねぇ。過去の功績で何もかもチャラになるような裁判なら、 オレがガンドラグーンでブッ飛ばしてやる」 「……そんな……ニコラスくん……」 「悪いな、カミュ。……オレ、ハブールの人たちに何もしてあげられなかったからさ……」 自分は門外漢だからと前置きした上で、ニコラスはカミュを強く諭した。 果たしてそれは、ワーズワース暴動に立ち会った人間としての言葉である。 事件に秘められた真相を解き明かすのが裁判であるが、 進んで自供したからと言って犯人の罪を軽々しく減じるわけにはいかない。 それは被害者や遺された人々の無念を踏み躙ることにも通じるからだ。 協力的な態度さえ演じていれば、どのような罪を犯しても許されると言う前例を作り、 社会全体に善からぬ影響を及ぼすことだろう。例外は一度たりとも許されないのだった。 そして、フェイ・ブランドール・カスケイドは間違いなく重い刑を受ける身であろう。 「……それが裁判と言うものです。ヴィントミューレが説明したように犯した罪から逃れることは出来ません」 「それじゃあ、裁判をする意味なんかないよ。結局、フェイさんが助からないのなら……」 「しかし、救われる=B……少なくとも、カスケイド氏の魂は救われます。 その人は嘗ては英雄と謳われていたそうですね?」 「……フェイさんのことを尊敬する人がシェルクザールにもたくさんいましたから」 「審理の中では過去も問われます。法廷では彼の名誉も公平に扱われると言うことですよ。 それはフェイ・ブランドール・カスケイドと言う英雄の復活にも等しいとは思いませんか?」 「と、突拍子もないけど――」 英雄の復活などと大仰に語られて面食らうカミュであったが、 ヴィンセントの言わんとしている意味を悟ると、それきり口を噤んでしまった。 反論を諦めたのではない。裁判を行なう意義をカミュなりに納得したと言う証左である。 汚辱に塗れた大罪人として粛清されるのではなく、最後の誇りを取り戻せるのかも知れない―― それこそが英雄の復活であった。 幼い頃から弁護士を志してきたアルフレッドにとっては、裁判による決着は最も望ましかった。 法律のもとにフェイの人生を問い、公平なる審判を下すのである。 しかし、彼にはヴィンセントの提案を受け容れることがどうしても出来なかった。 過去まで含めて審理を進める以上、フェイにとって――否、グリーニャにとって呪わしい出来事をも 掘り返さなくてはならないのだ。それが兄貴分の心をどれほど傷付けるか、 アルフレッドには想像するのも恐ろしかった。 (……本当は開廷するまでもないことなんだ。それはコクランだって分かっているだろうに……) フェイに対する私情は、最早、言い訳≠ノ過ぎないこともアルフレッドは自覚していた。 身柄を拘束された後、獄中から密かに指示を飛ばして外の世界を混乱に陥れた権謀術数の士など、 歴史を紐解けば幾らでも転がっている。類稀なるカリスマ性と英雄としての名声を兼ね備えたフェイには、 過去の類例に則った謀略も不可能ではあるまい。 連合軍に対する影響も無視できない。疑わしき者は情けを捨てて粛清すべしと大音声を発したにも関わらず、 己で身内を生かしていると知れ渡れば、史上最大の作戦の成否に差し障るのは明白だ。 生かしておくだけで災いとなる人間は確かに存在し、 それが敬愛する兄貴分であると言う事実にアルフレッドは苦悩を深めている。 ワーズワース暴動の『真実』を解き明かすよりも、 難民虐殺に加担した大罪人の粛清と言う『事実』が必要とされる局面なのだ。 ヴィンセントが知恵を絞った提案は、結局のところ、是が非でもフェイを抹殺しなければならないと言う現実≠ アルフレッドへ思い知らせただけである。 「――ま、ここでブツクサ言い合っていたって仕方ねぇよ。まずはフェイさんを見つけないことにはな。 先走ってコケたら話にならねぇもん」 アルフレッドの葛藤を見て取ったニコラスは、それとなく裁判の話題を打ち切った。 休憩時間はまだ三〇分も残されている。『六連銭』に於いても難解な話を続けてしまえば、 アルフレッドの思考は確実に焼き切れるだろう。 ニコラスの真意を察したヴィンセントも、「自分の専門分野だけについアツくなっちまったよ」と頬を掻く。 場の空気を切り替えようと言うのか、彼はポケットから一枚の封書を取り出した。 小さな便箋が納められているだろう白い封書である。背面には厳重な封蝋が見て取れた。 それをアルフレッドの手元に置くと、カウンター越しに座っていたカミュへ『ホットコーヒー』を注文した。 「……これをエージェントとやらに渡せば良いのか?」 「成る程、ロンギヌスの――って、一通だけかよ。何しろオレたちにゃ少数精鋭なんだぜ? サポーターがひとりきりっつーのは、流石に厳しいものがあるんだがなぁ」 「い、いや、その、そうじゃなくてだな――この手紙を向こう≠ノ残ってる家内に渡して欲しいんだよ。 ……他のみんなの前じゃ、こう言うのも頼み辛くてさ」 「誰の家内だ……?」 「わざわざ言わせるなよ、ライアン。俺の家内に――だよ」 照れた素振りで語るヴィンセントに『ホットティー』が運ばれてきたのは、それから間もなくのことである。 * 「……わたくしはアルちゃんにとって一番ではなかったのね……」 自分たちに宛がわれた仮設住宅にて洗濯物を片付けていたタスクは、鼓膜を打ったその声に双眸を見開いた。 この住居にはタスクと、彼女の主人がふたりで暮らしている。必然的に呟きを漏らした人間も絞られると言うものだ。 窓際へ寄って床の上に座したまま、タスクの指先を虚ろな眼で見つめていたマリスが、 誰に聞かせるでもなく深い嘆息を吐いたのである。 あるいは、我慢に我慢を重ねて堪えていた鬱屈が決壊した瞬間であったのかも知れない。 認めたくなかった現実を吐き出してしまったことによって、マリスの中で何かが堰を切ったのだろう。 一瞬、赤ん坊のようにしゃくり上げたかと思うと、両手で面を覆い隠した。 左手で嗚咽を押し殺し、右手で大きな瞳と――そこから滴り落ちる悲しい雫を隠そうとする。 自分でさえ認めたくない感情(きもち)を必死になって誤魔化そうとするのだが、 今や滂沱はマリスの意思では止めようがなく、身に纏うドレスを濡らしていく。 それでも懸命に抗っていたのだが、限界と言うものは何事にも例外なく訪れる。 濡れそぼったドレスが肌へ吸い付く頃には、マリスの嗚咽は忍び泣きの域を超えてしまっていた。 コールタンが来訪した日――村役場を飛び出したマリスのことをアルフレッドは追い掛けようともしなかった。 ローガンやカキョウは仮設住宅にも訪ねてきたが、肝心の男は電話の一本すら入れていない。 衆人環視の中で怒鳴りつけたことを謝罪するメールさえ送っていない。 生来、冷淡な気質ではあったが、ここ数日のアルフレッドは極端に薄情である。 まるで会談の途中で離脱した罰と言わんばかりの接し方だった。 如何に多忙とは雖も、せめてメールくらいは送ってくれるものと淡い期待を抱いていたマリスの心は、 惨たらしく踏み躙られてしまったのだ。 「……あの娘が……フィーナさんさえ……いなければ……わたくしがアルちゃんの――」 これこそがマリスの偽らざる本心であった――が、同時に他者に晒してはならない領域≠ナもある。 無意識とは雖も、絶対に口に出してはならないことを吐露した己を恥じ入り、 双眸を見開いたマリスは、その直後にきつく唇を噛んだ。 フィーナへの後ろめたさだけではない。それを口に出して認めてしまったことで余計に己の境遇が惨めになり、 身も心もどうしようもないくらい苛まれたのだ。 先日の親睦会の折にカキョウから刺激されたマリスは、 己とアルフレッドの心の距離を改めて考えるようになっていた。 あるいは、「思い詰めていた」と表すほうが正しいのかも知れない。 最愛の恋人との距離が途方もなく離れてしまったと言う危機感に苛まれたマリスは、 彼の心を引き止めようと逸り、その役目を援(たす)けるべく努めたのだが、結局は全てが失敗に終わっていた。 俄かに生じた溝を埋めるどころか、今では疎遠な日々が続いている。 (……フィーナさんだけじゃないわ……メイさんだって……あの人だってアルちゃんを……!) 何よりも焦燥を煽ったのはジャーメインの存在である。 二度に亘る戦いを経て通じ合ったのか、アルフレッドは彼女の武技を誰よりも頼りにしていた。 アルフレッドがジャーメインに寄せる期待を、マリスは一度として向けられたことがない。 戦闘に於いては、むしろ足手まといと見做されているのだ。その現状が歯痒くて仕方がなかった。 ジャーメインと己の体型を見比べては、「自分のほうがアルフレッドを満足≠ウせられる筈だ」と 心中にて勝ち誇っているものの、所詮は虚しい遠吠えに過ぎず、 タイガーバズーカ仕込みの武技に対する嫉妬は鎮められなかった。 そのジャーメインにもアルフレッドへの思慕が芽生え始めている。 自覚の有無は定かではないが、友情とは明らかに異なる心が彼女を満たそうとしている。 身の裡から湧き起こってくる感情の正体を彼女が見極めたとき、 マリスは奈落の底へと突き落とされるのである。今のままではジャーメインにさえ敗れ去ることだろう。 そして、絶対に乗り越えられないフィーナ・ライアン―― アルフレッドの全てを知り尽くし、誰よりも深くその心へ寄り添うことの出来る彼女の存在が、 マリスの心を惨たらしく引き裂いていた。 「マリス様のお気持ちは、このタスクが誰よりも存じ上げております。 どんなに時間がかかるとしても、マリス様の悲しみの全てを受け止めるつもりでいます。 ……ですが、それも今の失言を撤回なされた後のこと。 マリス様が己の過ちを認め、悔い改めなければわたくしもお力にはなれません」 片付けを中断したタスクは、泣きじゃくるマリスをその腕の内に抱き締めた。 抱擁は優しく温かかったが、掛けられる言葉は厳しい。 傷付いたマリスを慈しむだけでなく、怨念に満ちた失言への戒めも含まれていた。 「……このまま……泣かせては……くれないのね……」 「お恨み下さい、マリス様。わたくしを憎むことでマリス様のお気が晴れるのでしたら、 いくらでも憎み、恨み、蔑んで下さい。使用人風情が身分を弁えず諫言しましたこと、罰して下さいませ」 「……タスク……」 「けれど、わたくしも退くわけには参りません。……マリス様、決してわたくし以外の誰をも恨んではなりません。 それはマリス様の健やかな御心を害するものなのです。誰かを恨むことはマリス様の御心を乱し、 やがて貴女様の身に更なる災いを招くのです」 マリスへの抱擁を解かぬままタスクは優しく語りかけ続ける。 「このタスク・ロッテンマイヤー、一命に賭けてマリス様を災いよりお守りいたします。 それがわたくしの、不肖な使用人の大それた願いであるのです。 お聞き届け下さいとは申しません。御心変わりまでを乞うのは余りにも過分。 わたくしめに出来るのは、全存在をマリス様の為に捧げることのみです」 マリス当人はタスクのことを使用人などとは思っていない。 幼い頃から己を支えてくれた、大切な『家族』だと考えている。そのように記憶が訴えている。 それ故、厳しい諫言であっても素直に受け入れることが出来るのだ。 「ですが、不敬を承知で一言だけ申し上げたいと思います。お気に触りましたときは、 容赦なくわたくしの腕を跳ね除け、何なりと処罰をお申し付けくださりませ――」 そのとき、マリスを抱き締める力が一等強くなった。 「――マリス様、……どうかフィーナ様を大事になさってください」 「え……っ?」 タスクから語りかけられる言葉のひとつひとつを、噛み締めるように聴いていたマリスであったが、 フィーナの名前が鼓膜を打った瞬間、涙で濡れた瞳を困惑に揺らした。 今のマリスにとって、それは禁句にも近い名前であろう。 アルフレッドと仲睦まじくあるよう諭されるか、あるいは素行を叱責されるとばかり考えていたところへ フィーナを引き合いに出されたのだから、驚くなと言うほうが無理からぬ話であろう。 「もっと……もっとご自分を大切になさってください、マリス様。 親友になるかも知れない相手に善からぬ思いを抱いてはなりません」 「親……友……ですって?」 「恋は人を惑わすと言うのは迷信です。不幸せな恋をする人間の言い訳です。 マリス様はそうではないでしょう? マリス様がお天道様に胸を張れるくらい幸せな恋をしているのなら、 その幸せを周りの人たちへ伝えられるようになって欲しいのです。みんなを幸せに出来るように……」 「い、一体……一体、何を言っているの、タスク? わたくしはアルちゃんと……」 「もう一度だけお願いを申し上げます。親友になれるかも知れない相手を―― フィーナ様を醜い眼差しで見つめてはなりません。 さもしく邪な想念が恋も、親愛も、マリス様の全てを不幸せな結末へ導くのです。 ……どうか……どうか、真に大切にすべきものを見定めてくださいませ。 わたくしの目には、フィーナ様はマリス様にとって欠くべからざる御仁のように思えるのです」 「何を……何を言っているのよ……!」 この思いも寄らない訓戒にはマリスも虚を衝かれた思いである。 冗談にしては余りにも笑えない。そもそもタスクはこのようなときに冗談を言う人間ではない。 下品な振る舞いは、常日頃より忌み嫌っているホゥリーと同類に成り下がることをも意味するからだ。 それだけに真意が掴めず、混乱したマリスは、殆ど無意識にタスクを突き飛ばし、その腕から逃れた。 次の瞬間、自分の行いを悟ったマリスはすぐさま悲鳴を上げ、申し訳なさそうにタスクの面を窺ったが、 彼女は突き放されたことにも決して怯まず、真剣な眼差しで主人を見つめていた。 フィーナを親友として大切にすること――それがタスクの願いであった。 その眼差しにマリスは見覚えがあった。 史上最大の作戦を成し遂げる為、アルフレッドたちが連合軍諸将に多数派工作を図っていたときのことである。 その折にもマリスはフィーナを妬み、醜い陰口を叩こうとしていたのだ。 アルフレッドの寵愛を一身に受けているかのような義妹が忌々しく思えてならなかったのである。 即ち、フィーナ・ライアンと言う少女が、彼の義理の妹にしてマリスが恋敵と目する少女が、 主人にとって真に必要な人間であると、タスクは以前から考えていたと言うことになる。 あの折にもタスクは今の訓戒を述べようとしていたのだ。 両目に涙を溜めながら盟主の前に立ちはだかった、あの瞬間に――。 ハンガイ・オルスでは思わぬ邪魔が入ってしまい、最後まで語り切ることの叶わなかった訓戒である。 その訓戒を改めて受け取ったマリスだったが、今の彼女には心の裡へと納めることは出来なかった。 タスクより投げかけられる無言の祈りが強ければ強いほど、マリスの混乱に拍車が掛かってしまうのだ。 一番の味方と考えていた『家族』から受け入れ難い言葉を投げ掛けられた困惑がマリスの思考を蝕み、 応じるべき言葉を奪い去っていた。 酷い眩暈と頭痛に苛まれつつも衝動的に立ち上がったマリスは、 タスクの眼差しから逃れようと彼女に背を向け、窓の外へと視線を巡らせた。 レースのカーテンの隙間からは移住者用の仮設住宅が見えるばかりだ。 周囲は宵闇に包まれており、家々の窓から微かに光が漏れ出している。 タスクの眼差しを避けられるのであれば、闇夜に何も見えずともマリスには構わなかった。 呼気を吐く度に喉がヒリヒリと痛む。全身の水分が蒸発してしまったのではないかと錯覚するような渇きが、 マリスの喉を直撃している。動揺と狼狽は彼女の身体まで痛めつけていた。 「わたくしが欲しているのはアルちゃんただひとり。アルちゃんと添い遂げるその為だけにわたくしの生命はあるのよ。 アルちゃんがわたくしの全てだと、タスクにも判っているでしょう?」 「……マリス様……」 「……判っているのでしょう?」 深紅の双眸は混乱と言う海の中を泳いでいた。 タスクを一瞥さえしないものの、恨みがましい念が宿っているわけではない。 瞼の裏に浮かべたフィーナやジャーメインへ醜い嫉妬を吐露し、それを自ら恥じたこと―― そうした心の揺らぎにこそ可能性が眠っていると諭すタスクから顔を背けずにはいられなかったマリスだが、 『一番の味方』の言葉を完全に拒絶することは出来なかった。 自分を思っての訓戒を撥ね付けることなどマリスに出来る筈もない。 「……無理よ……無理に決まっているわ……こんな……こんなにも醜い私には―― 光に手を触れることさえ……怖がってしまう……こんな私には……」 それだけを呟き、マリスは窓越しに宵闇の空を見上げる。 厚い雲が月の光を閉じ込めており、夜天の彩(いろ)は、そのままマリスの心の在り様を表しているようだった。 (……大切な人――) もう一度、マリスは瞼の裏にフィーナを思い浮かべる。 そこに現れた少女、醜い感情さえ優しく包み込んでくれる太陽のような笑顔を湛えていて―― それ故にマリスは双眸を見開き、夜天に光を求めたのだ。 エンディニオン全土を抱き締めてくれる月の光ならば、惨めな自分をも癒してくれるに違いない。 そう信じて求めた月明かりは、雲間より僅かに差し込むばかりで、疲弊した心を満たすには足りそうもない。 タスクからもフィーナからも目を背けなければ自我を保てそうにない己がどうしようもなく虚しく、 その苦しみを癒してくれる筈の月明かりさえか細く、マリスの瞳は再び宵闇へと沈むのだった。 「――夜分に申し訳ござらん。マリス殿、タスク殿、ご在宅でござろうか。少弐守孝でござる。 火急の報せにつき、まかり越した次第でござ候」 呼び鈴が鳴り、ドアの向こうから声を掛けられたのは、そんなときである。 声の主は守孝だ。何やら重要な言伝を預かっているらしく、声の調子も平素より硬い。 弾かれたように立ち上がったタスクは、やや上擦った声で「はい、ただいま」と応じつつ、 大慌てで外へと飛び出していく。 タスクが守孝と話している間、マリスはひとり取り残される恰好となった。 静まり返った部屋の中、マリスは閉ざされたドアを虚ろな面持ちで眺めている。 狭い領域≠ノて自分自身の世界が完結しているような錯覚が押し寄せてくる。 そこから逃れたくとも、決して扉が開かれることはない―― いつしかマリスは刹那の静寂(しじま)にすら果てしない孤独を思い、心の奥底まで闇で満たそうとしていた。 (……もう二度と私を見てくれる人はいないのかも知れないわ……) 我が身を掻き抱いて、「独りぼっち」と言う恐怖に耐えようとするマリスであったが、 程なくしてドアは開かれ、『一番の味方』が戻ってくる。 そして、マリスは己が「独りぼっち」でないこと悟るのだ。 守孝がもたらした言伝は、弱りきっていたマリスの心を大いに奮わせるものだった。 彼はAのエンディニオンへ乗り込む決死隊の委細を告げるべく来訪したのである。 その要員としてマリスとタスクも選ばれていた。 決死隊の選抜はマリスとタスクが去った後に取り決められたことであり、その経緯をふたりは全く知らない――が、 マリスにとって重要なのは、自分がその隊に選ばれた事実ひとつである。 『リインカネーション』のトラウムは少数精鋭の決死隊にとって欠くべからざるチカラ。 治癒の異能さえ確保していれば、無理な戦いを強行しても取り返しが付くだろう――それがマリスの選出理由であった。 それがアルフレッドからの要請であることも守孝は忘れずに言い添えた。 塞ぎ込んでいるマリスを彼なりに元気付けようとしたわけだ。 玄関の外に守孝を残し、決死隊に加わるか否かをマリスに問い掛けるタスクであったが、 部屋に戻る前から主人が快諾することは解っていた。 案の定と言うべきであろうか、決死隊の委細を告げられた瞬間、マリスの面に生気が蘇った。 今まさに消えかけていた生命が、イシュタルの慈悲を受けて息を吹き返したようにも見える。 「アルちゃんは……アルちゃんが私を選んでくれたっ! 私を……私を必要としているのよ、タスクっ! 呪わしい運命などあってはならないものよ、そうだわ、ええ――愛することを迷うなんて一番の裏切りではないの。 本当、何を血迷っていたのかしら……けれども、今の私は違う……心は蒼穹の如く晴れやか……! その心を以ってして、私はアルちゃんの太陽となるわッ! 魂の一片まで真っ赤に燃え盛っているのよッ!」 奈落の底から救われたような表情を見せるマリスに、最早、タスクは何も言えなくなってしまった。 アルフレッドから決死隊に選ばれたことで彼女は完全に浮き足立っている。 選出理由には『リインカネーション』以外に何も含まれていないのだが、それすらも気付いていない。 最愛の恋人が自分を必要としてくれた――ただそれだけでマリスの心は幸福の彩(いろ)に染まり、 これまでの哀しみから解き放たれるのであった。 先刻の苦悶など見る影もなく霧散しており、守孝への返事も失念して出発の支度に取り掛かっている。 (……アルフレッド様、貴方には他者の人生を狂わせていると言う自覚がおありですか……?) 特別な能力(リインカネーション)に期待したアルフレッドの要請は何ら誤りではない。 少数精鋭と言う苦境を乗り切るには欠かせないトラウムなのだ。その判断も正しい。 しかし、これでは余りにもマリスが惨めではないか。人間にとって最も大切な感情を弄ばれた挙げ句、 アルフレッドの掌の上で都合よく転がされているようにしか思えなかった。 「忙しくなるわよ、タスク。私には私を必要としてくれる方がいる。その為にこそ私は生命を燃やせるのだわ! これが私の愛……私が生きている証し……今こそ愛の試練に打ち克つ機(とき)なのよっ!」 「……左様で……ございますね……」 『愛情の証明』――あるいは、『孤独への恐怖』と言う名の糸によって踊らされる主人が不憫でならず、 今度こそタスクは目を逸らした。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |