14.アカデミーと言う名の原罪‐T


 決死隊がそれぞれの支度を進める中、この男は自らに課せられた使命を終えようとしていた。
カッツェ・ライアン――彼はトリスアギオンの阻止と言う大目的に当たって、極めて重大な役割を任されていた。
 息子のアルフレッドが村役場へ篭り切っているのと同様に、
彼も作業場として使用しているプレハブ小屋にて作業に没入していたのだ。
 普段はそこで電化製品の修理を行なっており、言わば『ライアン電器』の移転先とも呼べる建物なのである。
 しかし、現在(いま)のカッツェが手掛けている物は一般家電などとは全く違う。
次元が違うと言っても差し支えはあるまい。作業台の上にはモバイルにも似た小型の機械が安置されているのだが、
これは紛れもない軍事兵器なのだ。
 便宜上、『インプロペリア』なる呼称が付けられたこの機械こそが、
トリスアギオンを阻止する為の鍵≠ニなるのだった。
 小型の機械を作るのに必要とは思えない量の部品が小屋の各所に堆く積み上げられている。
また、作業台の脇に置かれたダンボールには、幾十もの失敗作が乱雑に詰められていた。
 これらの部品は発注の覚書と共にコールタンが運んできたものである。
 書類に記された概要や使用し得る部品に基づいて設計図を引き、開発に着手したのだが、
コールタンをして「天才技師」とまで謳われたカッツェの腕を以ってしても、
インプロペリアは大変な難産であった。
 完成に漕ぎ着けるまでに一〇日も要してしまったのだ。最初の計算では九日で仕上げるつもりであったのだが、
結局は丸一日超過している。
 尤も、大急ぎと言うだけでコールタンは具体的な期限を指定してはいなかった。
予定の超過を悔いるのは、プロフェッショナルとしてのカッツェのプライドである。

「……何をのめり込んでいるんだ、俺は……」

 我知らず開発へ夢中になっていたことを悟ったカッツェは、思わず自嘲の溜め息を漏らした。
こんなこと≠したくて電器屋を開業したわけじゃないんだがな――と、誰に聞かせるでもなく言い添える。
 電子部品や器具、拡大鏡と共に設計図の上に乗せられたインプロペリアは、
まさしく精魂込めた一品と言えるだろう。この二四〇時間余り、寝食も忘れて開発に取り組んできたのである。
 完成によって緊張の糸が途切れた為か、今頃になって視界が霞むほどの疲弊を自覚し始めた。
体力の限界も弁えずに遊び回る子どものようなものであり、内心、カッツェは己の短慮が恥ずかしくて仕方がない。
 玩具であれば可愛げもあったのだが、彼が夢中になったのは軍事兵器の開発なのだ。
胸中に自嘲の念が湧いても不思議ではあるまい。
 達成感がないと言えば嘘になる。体力的にも堪え、またしても視力が衰えるのではないかと言う不安もあるが、
精神は例えようのない感慨に震えている。
 果たして、それは心の充足などではなかった。コールタンより課せられた使命を果たしたことで、
一先ずは最愛の娘の無事が保証されるのだ。自嘲と共にカッツェの心を満たすのは、親としての安堵である。
 ギルガメシュの高官から召喚を受けた折には、ベルの身に最悪の事態が起きたと考え、
ルノアリーナと共に相応の覚悟を決めたものだ。
 訃報の予感はカッツェの心を惨たらしく弄び、正常な思考をも引き裂いていた。
どのような経路で村役場まで到達したのか、本人にも分からなかった程である。
 そのときに味わった喪失の恐怖に比べれば、飲まず食わずで作業を続けることなど何の苦にもならない。
 一分一秒でも早くベルを取り戻す。親としての強い念(ねがい)がカッツェを衝き動かし――
いつの間にか、作業そのものに深く没入していたのだった。

(誰にも知られるわけにはいかんな。家族より機械いじりのほうが楽しかったのか……なんて問い詰められたら、
俺には何も答えられん……)

 コールタンが言うには、カレドヴールフの庇護を受けたベルは、今のところは息災にしているそうだ。
 敢えて「今のところは」と強調したところにカッツェは言外の脅しを感じていた。
 ベルが置かれた「人質」と言う立場を、コールタンは最大限に利用するつもりのようである。
それも、ギルガメシュ本隊の意思とは掛け離れた局面に於いて、だ。
 いずれにせよ、カッツェには要請を断ると言う選択肢はなかった。


 コールタンが来訪した当日まで記憶を遡ることになるのだが――
インプロペリアの開発に先立ち、カッツェは彼女に幾つかの質問をしていた。
 アカデミーが進めていた超兵器開発計画は『福音堂塔』だけではない。
『竜皇』、『裁きの雷』、『背徳の砦』は現在も棄却されずに進行しているのか。
それをフランチェスカが、カレドヴールフが主導していると言うのか――
カッツェは追及にも近い語気でコールタンに明答を迫った。

「残念にゃがら、カレドヴールフがアカデミーの計画をどこみゃで復活しゃしぇるつもりかは、
わたきュしにも調べがついていないにょ。でも、トリスアギオンを建造しゅるからには、
あんたしゃんに匹敵する技官が欠かせにゃい。……アカデミーの研究者を引っ張り込んだにょかも知れないにゅ」
「しらばっくれているが、あんたじゃないのか、それは? ギルガメシュの技官だと名乗っていなかったか?」
「ギルガメシュの技官と、カレドヴールフの息がかかった技官には大きにゃ隔たりがありゅにょ。
最初に言ったように、これは他の幹部にも知らしゃれなかったコトなんだにょ」
「――だからこそ、開発メンバーをギルガメシュの外で探す必要があったと言うことか」

 カッツェとコールタンの問答に口を挟んだのはアルフレッドだった。
 腕を組みつつ、ふたりの会話を分析していた彼は、ひとつの仮説に行き着いたようである。

「……ようやく合点が行ったよ。カレドヴールフがグリーニャを襲撃した理由がな。
あの女は父さんを連れ去ろうとしたんだったな?」

 実母を「あの女」呼ばわりするアルフレッドに苦いものを感じながらも、カッツェは静かに頷いた。

「……そうだ。しかし、俺の代わりにベルが誘拐され、クラップが……」
「今、論じるべきはそこじゃない。相当に深刻だぞ、これは」
「……どう言うことだ?」
「グリーニャが襲われた時期を振り返ると――おそらく、カレドヴールフは父さんのことを
トリスアギオンとは別のプロジェクトに組み入れようと考えていたんだろう。
……コールタン、トリスアギオンとやらは既に進められていたプロジェクトなんだな?」
「あんたしゃんが訊きたいことは分かるにゅ。ご明察と言っておくにょ。
しょうだにょ、アレは完成までに恐ろしく時間の掛かるモニョだにょ。
わたきュしが気付いたときには設計まで終わってしまっていたにょだ」
「……つまり、カレドヴールフは他のプロジェクトとやらにも着手したがっていると言うことだ。
そして、その悪巧みは今も密かに進み続けている……!」
「そ、それってどう言うことよ? あんたらの話してること、全然分かんないのよねっ」
「手も打たずに野放しにしておくと、今後の合戦がもっと厳しくなるってことさ、トリーシャ」
「な、なんでよ? どうして、そんなことがネイトに分かるわけ?」
「僕じゃなくても分かるって。タイムスケジュールを頭の中に思い描いてご覧?」

 カレドヴールフは他のプロジェクトにも着手した――その言葉の意味を訊ねたのはトリーシャであった。
そして、問い掛けに答えたのは、アルフレッドではなく彼女の隣に座していたネイサンである。
 答え合わせを求めるかのように視線を向けてくるネイサンに対し、アルフレッドはゆっくりと首肯して見せた。

「トリスアギオンに携わっているにょがアカデミーでもタチの悪い連中だったら、
カッツェしゃんはどうしゅるにょ? にょ? にょ?」
「……脅すのはやめてくれ。もうたくさんだ。……アカデミーの体現者≠ネら『哲学兵器』まで作り兼ねん」

 「アカデミーの体現者≠ネらば……」と繰り返したカッツェは、次いで首を横に振った。
 首の振り方だけを見れば、要請を断ったようにも見えるが、苦悶に満ちた面には承諾の意思が表れている。
それは、コールタンから問われた「己のすべきこと」を悟った表情とも言えよう。
 一方、事情を知る者≠除く殆どの面々は、余人には意味不明な内容を語らうカッツェとコールタンに
目を丸くして驚いている。「呆気に取られた」と表すほうが正しいのかも知れない。
 この場に居合わせた殆どの者は、アルフレッドの実父であるカッツェのことを
片田舎の電器屋としか記憶していなかった。
 それが、現在はどうだ。ギルガメシュの兵器開発についてコールタンと淀みなく語らっているではないか。
トリスアギオンなど様々な計画(プロジェクト)≠ノついても既に知っていたかのような口振りである。
 しかも、だ。コールタンはカッツェのことを「アカデミー始まって以来の天才技師」とまで賞賛している。
カッツェ当人は「外郭機関の技師だ」と訂正を入れたが、
その程度で和らぐほど第一会議室を揺るがした衝撃は小さくはない。
 反射的にトリーシャがフィーナを窺うと、彼女は親友からの問い掛けに目配せでもって答えた。
アカデミーに深い関わりがあると言う父の前言を認めているのだ。

「はぁ〜、世間は狭いっちゅ〜こっちゃなァ。アルのオトンまでアカデミーの関係者とはなぁ〜。
言うても、ワイらもアカデミーがどないなモンか、いまいち分かってへんけど」
「ある意味、得心が行きましたよ。夢を叶える為とは言え、いきなり士官学校まで話が飛ぶのは、
些か突拍子がないと思っておりましたからね」

 セフィの言葉に皆も頷いて見せた。
 弁護士資格の取得と言う目的があるにせよ、ジョゼフからの働きかけがあったにせよ、
片田舎に店を構える電器屋の跡取り息子がアカデミーへ進学すると言うのは、発想としては余りにも突飛である。
 しかし、親の代からアカデミーと繋がりがあったとすれば、状況も変わってくるだろう。
進学先の選択肢に入ることも自然な流れと言えた。

「こちらのお嬢さんが紹介してくれた通り、確かに俺はアカデミーの外郭機関に所属していたんだ。
もうずっと昔のことだがね――カレドヴールフ、……いや、フランチェスカ、それにランディハムは、
アカデミーとの関係は俺よりももっと深い。ふたりともアカデミーに所属する研究者だったのだよ」

 隠すことでもあるまいと、アルフレッドやフィーナに了承を取ってから、
カッツェはライアン家とアカデミーの繋がりを少しだけ明かした。
 それもまた一同を騒然とさせるものであった。グリーニャの人間として既に事情を知っていたシェインなどは、
むしろ周囲の反応に驚いた程である。
 中でもジャスティンは、特に険しい表情を浮かべながら、カッツェの話に意識を集中させている。

「――ちょ、ちょっと待って下さい。俺たちはアカデミーなる機関を士官学校としか聞いていません。
研究者と言うのは、一体、どう言うことなのですか? 教官の誤りでは?」

 ひとつひとつ情報を整理していこうと努めているヴィンセントの質問には、
「教育機関と言うのは、ひとつの顔にしか過ぎないんだ」とアルフレッドが答えた。

「アカデミーは本当に巨大な組織でな。内部は幾つものセクションに分かれているんだ。
俺やマリス、ゼラールやトルーポが所属していた士官学校もそのうちのひとつに過ぎない」
「教育機関だけじゃないと言うことか? ……そんな情報(ネタ)、ロンギヌス社にも入っていねぇぞ……」
「俺たちのセクションと一番関わりが深かったのは、最新の戦術や兵器を研究する機関だな。
ルーインドサピエンス(旧人類)時代に遺失された技術の復元なども網羅していた筈だ」
「――そして、そうした技術を様々な分野に役立てようと、より発展的な研究を行なうセクションもあったのだよ。
一種のシンクタンクと思って欲しい。……いや、セクションと言うよりは学派と言うべきかも知れん」

 息子によるアカデミーの説明にカッツェが項目をひとつ付け加えた。

「そのシンクタンクに所属していたのが、フランチェスカとランディハムだ。
……ランディハム・ユークリッドのことは知っているんだったね?」

 カッツェの問いにヴィンセントは首を横に振った。カキョウやナガレもこれに倣っている。
リーヴル・ノワールの探索に関与しなかったヴィンセントたちがランディハムのことを知る筈もないのだ。
 カキョウだけはリーヴル・ノワールに赴いていたが、
彼女が調べたのはランディハムが破壊の限りを尽くした後の廃墟である。爆破の犯人の姿など残っているわけがない。
 当然、ジャスティンとマクシムス、更にはパトリオット猟班のふたりも「ランディハム」の名に首を傾げている。
 彼らに成り代わってハーヴェストが「フィーの実のお父さん……ね」と答えたことは、
事情と背景を把握するのに大いに助かったであろう。

「――まさか、こんなところでランディハム・ユークリッドの名前を聞くとはな。
ローガンじゃねぇが、世間は狭いってコトかも知れねぇや」
「マイクさんも父を――いえ、ユークリッドのことをご存知なんですか?」
「フィーのお父上とは思わなかったけどな。直接、面識はねぇんだが、あちこちで妙なコトをしてるそうじゃねぇか。
オレはあいつこそ『ジューダス・ローブ』の正体だって睨んでいたんだよ」
「そう……でしたか……」
「すまねぇな、もうちょっと楽しい話をしてやれたら良いんだけどよ……」
「そ、そんな! マイクさんの所為じゃありませんからっ!」

 世界を股に掛ける冒険王は、その名に聞き覚えがあったようだ。
 彼の説明があれば、ヴィンセントたちにもランディハム・ユークリッドの経歴≠ヘ察しが付くであろう。
 「あちこちで妙なことをしている」とマイクが語った瞬間、ライアン家の人々は瞬時にして面を強張らせたが、
こちらはフィーナの実父≠フ人となりを推察する材料となった筈である。
 ランディハムとライアン家の関係が相当に拗れていることは、ムルグの唸り声が明かしていた。

「俺が働いていた外郭機関と言うのは、件のシンクタンクが母体だったんだよ。
……それで、フランチェスカと親交が生まれたと言うわけだ」
「なんでぇ、そりゃあ、おっさんの馴れ初めじゃね〜の? ここからはノロケ話の時間かい?」

 無粋な横槍を入れようとしたジェイソンの後頭部をジャスティンが鉄扇で打ち据えた。
極めて手荒い方法を以って強制的に沈黙させたわけである。
 向学心の塊のような少年だけにアカデミーの話に興味を刺激されたのだろう。
一字一句、聞き漏らすまいと、食い入るようにカッツェのことを見つめている。
 必死としか言いようのないジャスティンこそシェインには不思議だったが、
足元で悶絶し続けるジェイソンの二の舞にもなりたくない為、その真意を尋ねられずにいる。

「アル公の進路だの、おっさんの馴れ初めなんてのはオレたちにゃ興味がねぇんだよ。
っつーか、ンな話題で脱線されっとイライラしてくんだ。とっとと要点に行けや、要点に。
シンクタンク勤めの連中が、何でテロリストに宗旨替えしてんだよ。ワケ分かんねぇぞ、オラ」

 今度はフツノミタマが首を傾げる番だった。
 彼は皆の疑問を代弁したようなものである。軍事に転用し得る技術に接しているとは雖も、
カッツェの話を聴く限りでは、カレドヴールフ――フランチェスカもランディハムも軍人だったわけではない。
どのような経緯(いきさつ)で『唯一世界宣誓ギルガメシュ』などと言う武装組織を率いるようになったのか、
皆目見当も付かないのだ。
 ギルガメシュとの関与は不明だが、ランディハムとてジューダス・ローブに間違われるような人間であり、
現在も「アカデミーの研究者」と言う肩書きを名乗っているとは思えない。

「最初に掲げた志を貫く中で、手段が目的に摩り替わることは多々あるわい。
そこから先に待つのは魔道よ。矛盾に気付いた直後は修正を図ろうとする。
じゃが、一度、歪んだ指向を正すことは極めて難しいものじゃ。
幾度も幾度もしくじる内に矛盾は狂気と化し、やがては何もかも塗り潰していく――
あのふたりに当てはまるか否かは分からぬが、狂気に冒されて魔道に堕ちた可能性は否定出来ぬな」

 想定し得る可能性をフツノミタマに説いていくジョゼフだが、その視線はコールタンに向けられている。
 素知らぬ顔で「人間と言うもにょは厄介にゃ生き物にょ」などと相槌を打っているが、
カレドヴールフによるギルガメシュ結成の真相をコールタンが知らないわけがない。
叛意を企てているとは雖も、彼女は歴(れっき)としたアネクメーネの若枝なのだ。
 ジョゼフに吊られてカッツェもコールタンを窺ったが、
知らぬ顔を決め込む彼女よりも、その傍らに侍るブルートガングのほうが印象に残った。
 果てしなく遠い目であった。ここではない別の世界≠ナも見つめているかのような佇まいだったのだ。
問答の焦点が「アカデミー」に絞られた前後から、その少年は虚ろな表情を湛えていた筈である。
 身の丈や顔立ちから察するにシェインと大して変わらない年齢だろうが、纏った空気は少年らしからぬ物があり、
どこか浮世離れしているようにも感じられた。

「……ああ、ジョゼフさんが仰ったように、有り得ない話じゃないぜ」

 ジョゼフの言葉に同調したのは、意外にもニコラスであった。
 見れば、彼の表情は極めて硬く、己の左手で右手首を強く掴んでいる。

「何か≠ノ取り憑かれた人間ってのは倫理も道徳も置き去りにしちまうもんだ。
憑かれたモノの為には何を犠牲にしても正しいんだって、手前ェで勝手に信じ込むんだ。
……ふざけた話だよな。研究≠ェ何の免罪符になるって言うんだ……ッ!」

 ニコラスの心中に湧き出した何か≠ノ勘付いたダイナソーは、
咄嗟に「その話はやめとけって。お前がキツくなるだけだろ」と気遣うが、当人はそれを制して話を続けていく。

「アカデミーとは毛色が違うみたいだが、オレの親父も一端の科学者だったんだよ。
……本当に『科学者』だったのかどうかってのも、今となっちゃ分からねぇがよ」

 言いながら、ニコラスは右拳を強く強く握り締める。彼の右手は鋼鉄のグローブで包まれている為、
金属の擦れ合う音が室内に響いた。

「独り善がりな正義に酔い痴れて、トチ狂って、最後はブッ壊れるんだ……!」

 「魔道」の二字から苦い過去を想起したらしいニコラスは、忌々しげに怨嗟の言葉を吐き捨てた。
 果たして、彼の怨嗟はギルガメシュとは別の存在に向けられていたのだが、
それを指摘する声は何処からも上がらなかった。
 激情家とは言い難いニコラスだけに、一個人に向けて憎悪を露にする姿は衝撃的であり、
皆が皆、驚愕して言葉を失ったのだ。
 心配したダイナソーやアイル、レイチェルが寄り添っていなければ、
ニコラスの心は更なる憤激に塗り潰されていたかも知れない。

「狂気に冒された――か……」

 カッツェは煩悶の溜め息を吐いた。
 近頃、その二字に懊悩させられる機会が極端に増えた。一時は愛息も復讐の狂気に取り憑かれていたのだ。
風聞であり確証はないものの、フェイまでもが件の激情に冒されたかも知れないと言う。
 では、燃え盛るグリーニャにて遭遇したフランチェスカ――カレドヴールフに狂気は在っただろうか。
無論、その所業は狂乱としか言いようがない。しかし、数年ぶりに対峙したその瞳には理念を湛えていたように見えた。
 少なくとも、カッツェはそのように信じている。

(それとも、別の何か≠ノ衝き動かされているのか――)

 ギルガメシュ結成に至った経緯について、狂気とは別の理由をカッツェが推察する中、
ジャーメインが新たな疑問を口にする。

「カレドヴールフがアルのお母さんってコトは知ってるけど――それが、どうして異世界からやって来るわけ? 
そこが先ず分からないのよね」

 それはライアン家の面々にとっても大いなる疑問であった。
アカデミーの関与も含めて以前より不可思議に思ってはいたのだが、さりとて確かめる手段がなかった。
 ところが、今は違う。ギルガメシュの高官が相手であれば、真相を突き止められるに違いない。
アルフレッドとカッツェ、フィーナとムルグ――それぞれがそれぞれの心持ちにてコールタンを仰いだが、
当人は「わたきュしはアカデミーとは無関係だから分からにゃいにょ」と舌を出すばかりである。
 彼らが望む答えを提示し得ないことを詫びているのか、それとも全てを知り尽くしていながら誤魔化しているのか。
態度だけを見れば明らかに後者であるが、ベルを人質として利用≠ウれている以上、
アルフレッドたちも難詰を続けることが出来ない。
 憤懣やる方ないものの、その場は引き下がるしかなかった。
 問答が一段落したと見て取ったコールタンは、ブルートガングとグンフィエズルに命じて
必要な部品などを小型艇――彼女らが乗りつけた物だ――からカッツェの作業場に移すと、
「足りない物があったら連絡欲しいにょ。ルナゲイトの御隠居にはアドレスを教えてあるにょで」とだけ言い残し、
そのまま佐志を去っていった。


 それが一〇日前のことである。
 幸いにして最初に用意された部品だけでインプロペリアは完成出来たが、
ここに至るまでの経緯(いきさつ)を――長い長い年月(としつき)を振り返ると、やはり喜んでなどいられない。
穏やかならざる感情がカッツェに押し寄せてくるのだ。

「『原罪』――と言うものかも知れないな。アカデミーと言う名の……」

 パイプ椅子に腰を下ろしたカッツェは、天井を仰ぎながら呻くようにして呟いた。
 アカデミーと言う名の原罪――と。

「食事を運んできたのだけれど、……必要なかったかしら」

 カッツェの背中に声が掛けられたのは、天井から作業台へと視線を落とした直後であった。
 ルノアリーナだ。キャンディロールサンドやコーンスープ、フルーツの盛り合わせなどを載せた四角いトレーを手に、
作業場の入り口から夫の様子を窺っている。
 反射的に壁掛けの時計を振り返ると、二本の針が正午を過ぎたことを告げている。
そこでようやく空腹感を自覚し、漂ってきたコーンスープの香りにカッツェの胃は悲鳴を上げた。
 インプロペリアの開発も最後の検査を残すばかりであったので、今日は朝食も摂らずに作業へ入っていたのだ。
 働き者の夫の為に作業場まで食事を運ぶのもルノアリーナの仕事であった。
 迅速に栄養補給を済ませられるようサンドウィッチなど食べるのに手間取らない物ばかりを用意している。
良妻賢母として評判なルノアリーナらしい気配りと言えよう。
 食事のときだけでも作業場を離れ、十分に身体を休めて欲しい――それがルノアリーナの本心だが、
事情が事情だけに夫の仕事を止めさせるわけにもいかなかった。
 いつか過労で倒れてしまうのではないかと案じていたのだが、それも今日までのこと。
振り返ったときに夫が見せた表情からルノアリーナは作業の落着を悟った。
 流石は以心伝心の間柄と言うものであろう。満面を塗り潰した苦悶の中に僅かながら安堵の色を見出したのだ。

「本当にお疲れ様――」

 トレーを作業台の隅に置いたルノアリーナは、心の底から夫の労苦をねぎらい、
感謝の思いも込めて互いの唇を重ね合わせた。
 愛する娘を助ける為、夫は無理を押して戦い続けてくれたのだ。
どれほど言葉を尽くしても、後から後から湧き起こる感謝を表すには足りなかった。

「――もう一度、アカデミーに関わることになるとは思わなかったよ……いや、二度と御免だと思っていた……」
「……あなた……」
「だが、アカデミーと、……『セクンダディ』との宿縁からは逃れられないようだ……」

 パイプ椅子から立ち上がり、愛妻を強く抱擁したカッツェは、心に溜め込んでいたものを初めて吐き出した。
 二四〇時間もの間、誰かに吐露することも出来ず、ただひたすらに堪え続けていたのだろう。
彼の声は微かに震えていた。

(……これで俺もフランチェスカと戦争する身になったわけか……)

 カレドヴールフ――フランチェスカと出逢った頃は、このような日が訪れるとは想像もしていなかった。
 彼女や親友と過ごした青春の日の追憶は果てることがない。
 同じグリーニャに生まれたランディハムと切磋琢磨して勉学に励んだ日々がカッツェの脳裏に蘇っていく。
彼とふたりでアカデミーに進み、そこでフランチェスカと巡り会ったのである。
 更なる学究の末、ランディハムとフランチェスカは研究者としてアカデミーに残り、
カッツェはふたりが所属するセクションの外郭機関で働き始めた。
 何と充実した日々であったことか。カッツェにとって、まさしく輝ける青春の日々であった。
 その間にフランチェスカと結婚の約束を交わし、彼女をグリーニャに迎えてアルフレッドを設けたのだ。
 研究と実験、開発と検証――息をつく暇もない程、働き詰めの毎日ではあったが、
それでもカッツェは満たされていた。そのような幸せが永遠に続くと信じて疑わなかった。

(あの日の幸せと、今の幸せ――どちらも掛け替えがないものだ。それは間違ってはいないが……)

 甘やかな追憶から現実へと意識を引き戻したカッツェは、妻を抱き締めたままインプロペリアへと目を転じる。
 「……これはあいつの置き土産みたいなものだ」と呻いた夫を、余り思い詰めないようにとルノアリーナが慰めた。

「フランチェスカの組織がアカデミーと繋がりを持っているとしたら、
……いつかまた、あの子たちの前にランディハムが――」
「おそらく、そうなるだろう。今更、ランディハムがフランチェスカと手を組むとは思えないが、
……どうやらアカデミーの『智慧』は、本人の意思に関係なく、携わった者同士を引き付けるようだ……!」

 夫を労わった後、ルノアリーナもまた重苦しい溜め息を吐いた。
 ランディハムがアルフレッドたちの前に姿を現したことは、佐志へ入る前からふたりとも知っていた。
 不意の遭遇を知らされた頃は、ふたりともグリーニャで暮らしていたのだ。
旅先のアルフレッドから緊急の連絡が入り、ランディハムの消息を問い質されたのである。
「父さんや母さんには何の連絡もいってはいないか? あの男と未だに交流があるのか?」と、
大変な剣幕であったことが想い出された。

「アルとフィーがランディハムに出くわした場所――確か、『リーヴル・ノワール』と言ったそうだが、
俺の記憶が正しければ、そこもアカデミーの研究施設だった筈だ」
「……そのことをふたりには……?」
「伝えてはいない。……伝えられるわけもない。あの子たちにはアカデミーの『智慧』に触れて欲しくないんだよ。
そして、アカデミーに蓄えられた『智慧』は『闇』にも等しい。
『闇』が狂気の引き金になることを、俺は思い知ったばかりだ……」
「……願わくば、あの子たちが『闇』に触れないことを――」
「ああ、……イシュタル様に祈るしかない」

 ルノアリーナと共に天へ祈りながらも、カッツェはアカデミーの『智慧』との接触は不可避であろうと考えている。
アルフレッドたちが立ち向かおうとしているトリスアギオンも、それ以外の超兵器開発計画も、
いずれもアカデミーの『智慧』より産み落とされた『闇』なのだ。
 カッツェが精神感応兵器への対抗手段を開発したように、『闇』を祓う術を『智慧』に求めていけば、
いずれはアカデミーの全てを目の当たりにするだろう。
 カッツェは――外郭組織にて技師を務めていたこの男は、アカデミーに巣食った『闇』の深さを知っている。
 リーヴル・ノワールもまたアカデミーの『闇』の一部である。あるいは、その象徴とも言うべきものかも知れない。
アルフレッドたちの話に拠れば、ランディハムはその『闇』を爆裂によって吹き飛ばしたと言うではないか。
 カッツェの想像の域を出ないものの、ランディハムと言う男は、現在も『闇』から『闇』へと渡っているようだ。
ならば、アルフレッドたちとの再会も必然と言えるだろう。

「……あいつはアカデミーの『原罪』をたった独りで背負う身なのかも知れん……」

 そこまで語り、カッツェは「『原罪』の一言で済ませるわけには行かなかったんだ……」と苦渋を滲ませた。
 罪を背負うべきは己であり、購うのも己だと言う自覚――否、自責が彼には在る。
 アカデミーの『闇』とは何の関係もないベルを巻き込んだ挙げ句、『闇』との戦いを息子や娘にまで背負わせている。
数多の人間の行く末を『原罪』で縛ってしまった――それがカッツェを苛む罪の意識であった。

(次の世代に残さぬよう『原罪』を断ち切るつもりなのか――だから、お前はたった独りで……?)

 ここにはいない親友に対し、カッツェは心の内にて問い掛けた。
 追憶の彼方の別離以来、ランディハムとは一度たりとも顔を合わせていない。
ランディハム当人も故郷に近付こうとはしなかった。
 それ故に真意を掴めずにいるのだが、世界最悪のテロリストたる『ジューダス・ローブ』に間違われるような
悪逆非道に堕ちたとも思えなかった。風変わりな一面を持っていたのは確かであるが、
だからと言って、無軌道な破壊活動に愉悦を感じるような男ではなかったのだ。

「……次は『ニルヴァーナ・スクリプト』だったな……」

 あるいは、ランディハムはそこにも姿を現すかも知れない。
ニルヴァーナ・スクリプトが設置されたと言うギルガメシュの軍事拠点に、だ。
 件の転送装置の開発にもカッツェは携わっていた。完成を見届けることなく所属機関を去ったのだが、
転送に求められる理論や体系は今も記憶(あたま)の中に入っている。
 アカデミーの『智慧』を用いることによって初めて実現し得る程、高次の理論であったことは確かだ。

「あんな代物を使うと言うことは――いや、転送に成功した後だって命がけだ。
そんなところに子どもたちを送り出す羽目になるとはな……」

 やがて、カッツェとルノアリーナには、我が子を死地へと送り出す親としての葛藤が圧し掛かってきた。
 アルフレッドは連日に亘って軍議を重ね、その間にフィーナは戦闘訓練に励んでいる。
ムルグも彼女の特訓に付き合い、新たな必殺技を編み出そうと逸っているそうだ。
 シェインとて同じである。剣の師匠や親友たちと稽古を積み重ね、毎日、数え切れない程の生傷を作っている。
佐志に移り住んで以来、彼が冒険者としての訓練に励む姿は一度も見たことがなかった。
 誰もが戦いの支度を急いでいた。今や生命のやり取りが日常の一部に組み込まれている。
グリーニャが健在であった頃は想像もしなかった状況であろう。
 そして、争乱の渦中には「在野の軍師」などと呼ばれるようになったアルフレッドが屹立しているのだ。

「アカデミーに進学したのは、こんなことをする為ではないでしょうに――」
「――……それについては謝っても許されぬであろうな……」

 ルノアリーナの嘆きに謝罪を以って答えたのは、彼女を抱擁し続けるカッツェではなかった。
 ドアが開け放たれたままの出入り口に、いつの間にかジョゼフが立っていたのである。
先程の声の主は新聞王と言うわけだ。
 夫婦の時間を覗き見されていたことに気が付いたふたりは、互いの身体を慌てて引き剥がした。
羞恥に染まって俯くルノアリーナに代わり、「ゴシップのネタ探しは堪忍して下さい」と、
カッツェが頭を掻きながら抗議する。
 尤も、これはドアを閉めていなかった自分たちの失敗でもある。
それを揶揄されるのだろうと身構えていたカッツェであったが、当のジョゼフは一向に口を開かない。
老人らしい余禄に富んだ冗談を飛ばすどころか、いつになく神妙な面持ちで佇んでいる。

「……カッツェの仕事ぶりでも拝見しようと思ったのじゃが、どうやら莫迦はワシひとりのようじゃ――」

 尋常ならざる気配を感じ取ったカッツェとルノアリーナも、姿勢を正して新聞王に向き直った。

「――ルノアリーナが申しておったじゃろう? アカデミーへの進学は、アルにこんなことをさせる為ではない、と。
……その通りじゃ。本当ならば、アカデミーは弁護士の夢を叶える為の手段に過ぎぬ」

 そう切り出したジョゼフの声は重苦しい。喉奥から搾り出す呻きにも近かった。

「じゃが、今は違う。法律が意味を為さぬ修羅の巷に身を置かざるを得なくなっておる。
おヌシたちには如何にも苦しかろう……」
「ジョ、ジョゼフ様、私は何もそんな――」
「――気丈に振る舞わずとも良い。ワシとて人の親じゃ。おヌシの気持ちも分かるつもりじゃよ。
……それ故な、近頃、思うのじゃ。アルをアカデミーへ誘(いざな)ったのは誤りではなかったのかと……」

 両親にとって、あるいはアルフレッド自身にとっても望ましくない状況であろう。
知恵と法律で弱い者を助ける弁護士を夢見てアカデミーに進学したと言うのに、
今では作戦家としての手腕を評価され、全世界を巻き込むような大合戦の采配を振るっているのである。
 アカデミーへ進むことをアルフレッドに勧めたのは他ならぬジョゼフであった。
その折には学費の援助をも引き受けている。
 だが、現状はどうであろうか。アルフレッドは弁護士とは正反対の道を歩んでいるではないか。
進学先としてアカデミーを選んだのは、あくまでも法律の専門家としての資格を得る為である。
カリキュラムに組み込まれていた軍略などは、彼にとって副次的なものであった。
 法律の勉強の傍らに修めたような軍略の才能が持て囃されるなど、これ以上に皮肉な運命もあるまい。
 アカデミーと言う選択を推しただけに、ジョゼフはアルフレッドの置かれた現状に対して、
強く責任を感じているのだろう。
 そのような状況を作り出した遠因が己にあると捉えたらしいジョゼフは、
カッツェとルノアリーナに向かって深々と頭を垂れた。

「ワシがおヌシらの運命を歪めてしまったようなものじゃ。
謝って許されるとは思うておらぬが、如何なる償いでもさせて貰うつもりじゃ……」

 アカデミーになど進学させず、故郷で家業を続けていたほうがライアン家にとって幸せであったかも知れない。
少なくとも、戦火とは無縁のありふれた日常を共に過ごせた筈である。
弁護士の夢を叶えるにしても、働きながら地道に勉強を続けると言う選択肢もあったのだ。
 それをジョゼフが変えてしまったのである。
 頭を下げ続けるジョゼフに歩み寄ったカッツェとルノアリーナは、
首を横に振りつつ、「アルフレッドを援けて頂いたからこそ、こうして自分たちも生命を長らえたのです」と、
嘗ての援助に改めて感謝を述べた。

「遅かれ早かれ、グリーニャの運命はギルガメシュに狂わされていました。それは誰にも変えられなかった筈です。
アルがアカデミーに行かず、村に留まり続けていたら、果たしてどうなっていたか。
おそらく、フランチェスカに攻められた時点で村民は全滅していたでしょう。
……少弐さんたちと我々を引き合わせてくれたのもアルです。私たちを助けてくれたのは倅なのです。
そして、今のアルを育てたのはアカデミーなのですよ」
「あの子の選択は決して誤りではなかったと、私も主人も信じています。
今も多くの人たちの力になっている――親として、そう信じるしかありません」
「……本当なら、詫びなきゃならないのは俺なんです。『セクンダディ』……いえ、アカデミーから逃げられると、
甘いことを考えた所為で、結局、子どもたちまで巻き込んでしまった――」

 そこで話を区切ったカッツェは、徐(おもむろ)にルノアリーナと手を繋いだ。
 互いの覚悟を確かめるように、強く強く握り合った。

「――しかし、逃げるのはもうおしまいに。ギルガメシュとの戦いで役に立てるのであれば、俺は何でもしましょう」
「それが私たちの戦いです。子どもたちだけに辛い思いはさせません」
「俺もルノアリーナも、もう後戻りは出来ません」

 親として、また、アカデミーと言う名の『原罪』を背負う者としての覚悟をカッツェは淀みなく語っていく。
ルノアリーナも家族の戦いを支え抜く決意だ。
 カッツェから促されて頭を上げたジョゼフは、暫しの間、両者と見つめ合い、
その後に「これから先も責任を以ってアルフレッドを後見する」と誓った。


 作業場の手前にてジョゼフを待っていたラトクは、退出してきた新聞王へ追従し、
自分たちの声がカッツェやルノアリーナの耳に届かないところまで歩いてから、
「会長も人が悪いですな」と喉の奥で笑った。

「何のことじゃ、藪から棒に」
「カッツェ・ライアンのことに決まっているではありませんか。あの方、もう後には退けなくなりましたよ」
「いちいち歪んでおるな、おヌシは。ワシは己の不徳を詫びたまでじゃ」

 言葉そのものに偽りはなかろうが、万事に於いて抜かりのない新聞王は、
己の行動が他者に与える影響を完全に読み抜いている。カッツェとルノアリーナにアルフレッドのことを詫びたのも、
老獪な計算≠フひとつであるとラトクは捉えていた。
 言葉巧みにふたりを発奮させ、ギルガメシュとの争乱から途中で逃げ出すことがないよう釘を刺しておく計略だ。
「フランチェスカ・アップルシード」と言う身内≠ニの精神的な対決を仕組み、
「後戻りは出来ない」と自ら宣言させることに意味がある――それがラトクの見立てであった。
 人が悪いと揶揄されても否定しないあたり、ラトクの推論は大きく外れてはいないのだろう。
新聞王の懐刀は、前を行く背中を見つめながら腹の底にて「極悪人」と笑った。

「……しかし、アカデミーに対処しなくとも大丈夫でしょうか。
あれが表沙汰になれば、成り行きによっては我々の使命≠ワで晒されることになりますが……」

 込み上げてくる笑気に頬を痙攣させるラトクだったが、ふと別件に対する懸念が脳裏を過(よ)ぎり、
密事めいたことをジョゼフに耳打ちした。
 聴きようによっては些か不気味なやり取りだが、すれ違う人々から猜疑の視線が向けられることはない。
穏やかならざる密談が繰り広げられていることにも気付いてはいないだろう。

「おヌシは相変わらず肝が据わらんな。……こうなった以上、運を天に任すより他あるまいよ」
「しかし……」
「激流と化した河を、人間の脆弱な掌のみで堰き止められるか? 
仮にそれが成ったとしても、無理に力を加えた所為で地形は歪曲し、
ひいては全てが氾濫した土石流の下に――時代の瓦礫に全てが埋もるのじゃ」
「……会長はポエムの才能をお持ちですが、ご覧の通り、自分は凡人でして。意味が掴み切れず、あいすみません」
「阿呆、『褌を締め直せ』と言っておるのじゃよ」

 ジョゼフの指示によって、ラトクはBのエンディニオンへ居残ることになっている。
 それはつまり、新聞王がAのエンディニオンに向かった後もラトクの任務は継続されると言うことだ。
乱世にテレビタレントも何もなかろうが、表の稼業への復帰は大きく先延ばしとなりそうである。

「……くれぐれもアナトールから目を離すでないぞ、ラトク。
俗物風情に好き勝手に動かれては、ルナゲイトの使命≠煢スもかも吹き飛ぶわい。
ワシがおらぬ間に何事か謀ったときには――良いな?」
「心得ております」

 含みのある指示≠受けて、ラトクは深々と頭を下げた。

(アナトール・シャフナーはともかく、……マユ様には何の警戒もしなくてよろしいのですかねぇ――)

 ラトクの脳裏には指示≠ウれたものとは別の考えも浮かんでいたが、実際に口に出すことはない。
正確には口が裂けても言えないのだ。ルナゲイト家のエージェントは、新聞王の後に追従するのみである。
 砂浜まで赴き、漁の道具が片付けてある倉庫の手前にて足を止めたジョゼフは、瞑目しながら豊かな白髭を撫でた。

「……『福音堂塔』――コールタンが申すように、本当にギルガメシュの幹部が知らぬと思うか?」
「設計図を目にしたことはありませんが、大掛かりな物と推察されますね。
常識的に考えれば、そんなものは隠しようがありません。ギルガメシュ側の最終兵器と言うことなら、尚更です。
末端の兵士ならいざ知らず、幹部たちも開発は承知しているかと」
「その事実を捻じ曲げた上でワシらを煽る――か。共倒れでも謀っておるのかよ、あの性悪め」
「何しろ底が知れませんからな」

 水平線の彼方へと目を転じたジョゼフは、次いで「この歳になっても骨が折れるわい」と浜辺の砂を蹴り上げた。

「……歯車の軋む音が聞こえてくるようじゃ――」





 嘗て新聞王が治めていたルナゲイト――その片隅に所在するゼラールの洋館では、
賑々しく晩餐会が開かれていた。その席には、ラドクリフを通じて軍団員とも打ち解けたベルや、
ゼラールの贔屓と言うべきムラマサも招かれている。
 隻眼の老将には未だにカレドヴールフから正式な指令が下されておらず、
軍団へ転属されたわけではない為、ゼラールによる私的な招待と言う形を取っていた。
 最初は『ドク』ことゼドー・マキャリスターも招こうとしていたのだが、
何分にも彼は抑留中の身であり、ブクブ・カキシュの外へ連れ出すことは不可能に近い。
第一、大変に気難しい男である。仮に誘いかけたとしても、
おそらくは「くだらんことに費やす時間はない」と一蹴されただろう。
 洋館には玉座の間の他にも幾つか広い部屋があり、その内の一室に縦長の卓を並べて晩餐会の場を整えていた。
 ゼラールを最上の座に据え、トルーポ、ピナフォア、カンピラン、スコットらが思い思いの席に腰掛けている。
バスカヴィル・キッドの席も用意されているのだが、彼は配下から緊急の連絡を受けて中座していた。
 ベルの為に用意された椅子はラドクリフの真隣である――が、現在はゼラールの膝の上に座らされていた。

 そのベルが驚愕すべきことを語ったのは、十日余り前のことである。
 トレーニングルームでラドクリフと出会い、またゼラール軍団にライアン家の末娘として紹介された日、
彼女はギルガメシュへの報復を言明したのだった。

「カレドヴールフはグリーニャをメチャクチャにした犯人です。
わたしの遊び相手をしてくれたお兄さんも、そのときに死んでしまったんです。
今は人質にされていますが、必ずチャンスを見つけて、カレドヴールフを倒します。
……あの人はわたしには隙を見せるんです。不意打ちだってできなくはありませんよね? 
こんな子どもが牙を剥くなんて絶対に想像していませんし。
たぶん、世界で一番、わたしがあの人の喉下に近いのだと思いますから」

 天真爛漫とした顔立ちで幼年らしからぬ策謀を語ったベルには、
彼女の兄を良く知るトルーポですら目を丸くしたものである。彼女が口にしたのは完全なる暗殺なのだ。
 誘拐と軟禁の負い目からか、カレドヴールフはベルに対して極めて甘く、
余程の難題でない以上は何でも頼みごとを聞き入れている。
 フェンシングが習いたいと要望を口にすれば、自身の近衛隊長に伝授を命じる――
このようにギルガメシュの力まで私的に用いてしまう有り様だ。
 己にのみ許された利点を最大限に活かし、力を蓄えつつギルガメシュの弱点を探っているとベルは打ち明けた。

「どうしてわたしを攫ったのかは分かりません。身代金を要求したと言うような話も聴いていません。
ですが、そのことを質問したとき、あの人はとてもアタフタしていました。
……絶対に何か裏があります。それを調べられたら、弱点を突けるんじゃないかなって思うんです」

 大人も顔負けの策謀を論じていくベルには、ピナフォアも唖然としたものである。
 傍らで眺めていたトルーポも兄に似て末恐ろしいと顔を引き攣らせていた。
ベルの兄は連合軍諸将を納得させるだけの作戦を立案してしまう男だが、彼女も彼女で相当に利発である。
紙の上の知識だと本人は謙遜しているが、十にも満たない幼年にも関わらず、種々様々な知識に精通している様子だ。
 ゼラールも「兄に似て小賢しい」と認め、大変に気に入ったらしい。
『閣下』の膝の上など軍団員の誰もが未経験であり、
ラドクリフもピナフォアも、少しだけ羨ましそうにベルを見つめていた。

「ダインスレフ殿によく懐いておられますな、可愛いお姫様は。いっそ未来の奥方とされては如何かな?」
「戯(たわ)けを申すでないわ、ムラマサよ。こやつの兄は余が世界で最も嫌う男なのじゃ。
あのような男を義兄殿と呼ばねばならぬと、想像しただけでも虫唾が走るわ」
「兄も同じようなことを言っていました。ゼラールさんのことが誰よりも苦手だって。
……男の人って、そう言う風に心が通じ合うんですね――ちょっとステキだなって思います」
「フェハハハ――ラドクリフが気に入るわけよ。そちの言うことはいちいち愉快じゃ。
道化師として余がもとに置いてやっても良いぞ」

 ベルはゼラールのことを「変わり者の旧友」として兄から聞かされており、
ラドクリフが自身の所属する軍団のことを説明した瞬間、すぐさまに思い当たったのである。
 兄が語った通り、何者にも媚びない人間であれば、おそらくは野望を秘めてギルガメシュに潜入している筈であり、
そのような相手には己の目的を明かしても問題ないと判断した――と、ベルの説明を締め括った。
 トルーポたちが瞠目したのは言うまでもあるまい。まさしく子ども離れした利発さと勘働き、胆力である。
サーモンのムニエルを頬張る姿などキンダーガートゥンそのものだが、
小さな身の裡には兄にも劣らぬ才覚を秘めているのだろう。

「めっけもんじゃないかい、ええ、ラドぉ? あのホモの妹ってのがちと引っかかるけど、
今からツバ付けといたほうがいいよ。あれはイイ女になるよ」
「フィーの妹って言い方もあるわよ。それなら、アタシは大歓迎ね。
あんたら、とっととくっ付いて佐志との架け橋になりなさいよ」
「ベルのほうがちょいと年齢(トシ)が足りてないけど、細かいコトを気にする奴はココにはいないからね。
事実婚でも何でもしちまいなっ! チューしてこい、チュー!」
「だ、だから、そう言うのはやめてくださいってっ! シェインくんに怒られますから――」

 カンピランとピナフォアがふたりがかりでラドクリフをからかっていると、
席を外していたバスカヴィル・キッドが足早に戻ってきた。
 その面には明らかに緊張が滲んでいる。ゼラールのもとに駆けつけたバスカヴィル・キッドは、
一礼の後に跪き、次いでベル、ムラマサへと順繰りに視線を巡らせていく。
 何かを躊躇うような姿から彼の意図を察したゼラールは、「ここにおるのは我が身内も同然じゃ」と報告を促した。
即ち、バスカヴィル・キッドは余人に聞かせることを憚るような報せを抱えているわけだ。
 『閣下』の命令を受けたバスカヴィル・キッドは、僅かな躊躇を挟んだ後、「申し上げます――」と切り出した。

「――コールタン氏が再び佐志に向かった模様でございます」
「ほう? またも海を渡りおったか」
「今回は副官も連れず、おひとりで出掛けられたようです」

 近頃、コールタンが頻繁に佐志へ赴いていることはゼラールも把握していた。
彼女の渡航はギルガメシュ本隊には秘せられており、ゾリャー魁盗団の諜報能力を以って掴んだ情報である。
 何事かの密談が交わされているのは間違いないのだが、何分にも海の向こうのことであり、
コールタンの目的は判然としない――が、ギルガメシュが陥落させようと目論んだ土地に足繁く通うのは、
どう考えても不思議であった。あるいは「不審」と言い換えることも出来よう。
 「佐志」と言う地名を聞いて顔を向けてきたベルに対し、ゼラールは「そちの家族が住まう港よ」と微笑み返した。

「余もあの港を好んでおる。景も人も良い。いずれは我が別荘でも構えたいものよ。
……されど、コールタンのことじゃ。気ままな一人旅と言うことではあるまい?」

 やがて、ゼラールはムラマサへと目を転じる。
 彼の視線に気付いたムラマサは、口元をナプキンで拭い、一礼を挟んだ後に自らの考えを述べ始めた。

「――話は飛びますが、このところ、バブ・エルズポイント付近に奇怪な集団が出没し始めたとの報告があり、
俄かに警戒が厳しくなっているそうです」
「バブ・エルズポイント――ギルガメシュが拠点のひとつであったな。その集団とやらが佐志の手の者と申すのか?」
「そこまでは何とも。しかし、コールタン氏が佐志に通い始めたのと、
バブ・エルズポイントを脅かす影≠ェ現れたのはほぼ同時期。無関係と決め付けるのは早計かと。
そもそも、バブ・エルズポイントの危急を報せてきたのは誰なのか――情報源が曖昧過ぎます。
……そうでしたな、キッド殿?」

 急に話を振られて面食らったバスカヴィル・キッドは、
僅かに眉を顰めた後、気を取り直して「まだ調べがついていません」と頷き返した。
 確定的な情報が得られていない為、ゼラールへの報告は控えていたのだが、
バブ・エルズポイント周辺の緊張が高まりつつあることは、本隊への調査を通じてゾリャー魁盗団も掴んでいる。
しかし、誰がそのような情報を持ち込んだのかは分からない。
 ムラマサが語ったように情報源の正体は闇に包まれていた。
何者かによる報告あるいは風聞が本隊の中で一人歩きしているのが現状である。
 不透明な情報源も、ゾリャー魁盗団の動きも、老いた隻眼は全て読み抜いていたようだ。

「それとなくコールタンが流している――と言うことも考えられますな」
「おいおい、待ってくれ。そいつは完全な情報操作じゃねぇか。もっと言えば、本隊の霍乱だ。
あの人は何を企んでいやがるんだ? ヘタすりゃ……いや、ヘタをしなくたって叛乱だぜ?」

 ムラマサの話へ耳を傾けていたトルーポが素っ頓狂な声を上げた。
 コールタンはギルガメシュに於いてゼラール軍団の後ろ盾ともなっている。
彼女が造反を図っているとすれば、自分たちも無関係ではいられないのだ。
 加担するか否かに関わらず、企みが露見してコールタンが処罰されようものなら、
今まで軍団を支えてきた後ろ盾は消え失せる。それどころか、連座を疑われる可能性もあるのだ。

「そこまでは測り兼ねるが、コールタンが佐志を動かしているのは明らか。そして、注目すべきは今度の渡海だ。
部下を連れずに飛び出したと言うことは、それだけ急いでいると言うことかも知れません」
「佐志に何らかの謀略を仕掛け、それが成ったと申すか。はてさて、どうやって篭絡せしめたのやら」
「佐志は海運の要衝。そこを押さえた場合の利益は計り知れません。故にギルガメシュも兵を差し向けたのです。
……コールタンが私的な理由で支配下に置けば、極めて強力な基盤≠ニなりましょう」

 ゼラールとムラマサが熱心に語らう中、ピナフォアの機嫌は秒を刻む毎に悪化している。
 報告に駆け付けたバスカヴィル・キッドでもなく、懐刀のトルーポでもなく、
彼らの頭越しにムラマサへと意見具申を求めるゼラール――この構図がピナフォアには面白くないのだ。
 ムラマサは『閣下』の軍師でも気取るつもりなのかと、幾度、心中にて悪態を吐いたか分からない。

「いずれにせよ、数日中にはバブ・エルズポイントで何かが起こるでしょう」

 そのとき、老将の隻眼が烈しく煌いた。

「この件についてはギルガメシュ本隊は何者かによって霍乱されています。
コールタンが糸を引いているかどうかは、この際、脇に置いておきましょう。
我々にとって重要なのは霍乱を受けていると言う事実ひとつ」
「合戦を仕掛ける為の布石、か。されど、バブ・エルズポイントの警護(まもり)を固めさせてどうなる? 
攻め寄せる側には不利であろうよ。よもや、本隊の注意をバブ・エルズポイントに引き付けておいて此処を攻めるか? 
それはそれで面白いではないか。阿呆の浅知恵でしかないがな」
「敵の狙いはあくまでもバブ・エルズポイントかと存じます。
陽動を以ってブクブ・カキシュの陥落を図るつもりであれば、注意を引くにしても、より効果的な策を講じる筈。
バブ・エルズポイントは死守すべきほどの拠点でもありません。痛手にはなっても、致命傷には至らんと言うことですな」
「全軍を挙げて防御を固めるほどではなく、最小限の防御で済む場所か。
そのような場所を攻める理由が分からぬな。調練のつもりか? はたまた、戦の意味も解さぬ阿呆の独り善がりか?」
「大方、我々の兵器でも強奪するつもりなのでしょう――」

 テーブル上に置いてあった調味料の内、塩が納められた小瓶を二個、胡椒が納められた小瓶を一個、
それぞれ手元に引き寄せたムラマサは、葡萄酒が注がれているワイングラスを指して、
「これをバブ・エルズポイントに見立ててください」とゼラールに語った。
 ワイングラスから少し離れた場所に塩の小瓶のひとつを置き、向かい合わせるように胡椒の小瓶も動かしていく。
この配置を基準としたムラマサは、もう片方の塩の小瓶をワイングラスの背面へと移した。
丁度、その位置には花飾りが据えられており、小瓶は完全に隠れてしまう。

「先ずバブ・エルズポイントにギルガメシュの兵を固めておき、そこから離れた場所で騒ぎを起こします。
敵の強襲を予想して警備を増やしたわけですから、
バブ・エルズポイント側の意識は必然的にそちらへと引き付けられます。
事前の撒き餌≠ヘ、警戒心を最高潮にまで引き上げる為のもの。
おそらく、バブ・エルズポイントに詰めた兵の大多数が撃って出ることでしょう。
……そして、守りが手薄になった頃合を見計らって別働隊が乗り込む――これが寄せ手の策かと存じます」

 説明の内容に沿った形で、ムラマサは卓上の駒≠動かしていった。
 差し向かいの恰好であった塩と胡椒の小瓶は、基準となっていた位置より遠く離れたところに移され、
花飾りの影に隠されていたもうひとつの塩の小瓶がワイングラスの傍に在る。
 ワイングラスをバブ・エルズポイントに見立ててあるので、
胡椒の小瓶がギルガメシュの警護に、塩の小瓶が攻撃者の軍勢に、それぞれ対応しているわけだ。
 ムラマサの説明や駒≠フ移動に触れながら、トルーポは『群狼夜戦』とも呼ばれる合戦のことを想い出していた。
エルンストが異母弟と馬軍の後継者を争った騒動――その最後の一戦である。
 佐志のオノコロ原を決戦の部隊と定めたエルンストは、地形を生かして敵の背後まで回り込み、
鮮やかな奇襲戦を展開したのだ。
 前方に敵の注意を引き付けておいて奇襲を図る。戦況の推移だけに注目すると、嘗ての群狼夜戦に似ていなくもないが、
その下準備は更に周到であった。

「この奇襲を食い止めたとき、ダインスレフ殿の武名は弥が上にも高まるものと存じます」
「――ベラベラと面白ェことをくっちゃべってくれてっけど、アタシらにはそんな命令出てないんだよ。
勝手に出撃なんかしてみろよ、それこそ難癖付けられて罰を受けるんじゃないかい? 鬱陶しいったらありゃしないね!」

 如何にも苛立った調子でカンピランが口を挟む。
 「軍師気取り」に対する不満もあるだろうが、彼女の場合、それ以上に長話に辟易している様子だ。
腹立ちを紛らわそうと、蒸し焼きにされた鹿のモモ肉へ噛り付いている。
 そうした反論をムラマサは予期していたようで、「なかなか鋭い着眼点だ」と更に切り返した。

「命令が出されるより前にバブ・エルズポイントへ駆け付け、戦果を上げるからこそ値打ちがあるのです。
アサイミーの小娘あたりが軍律違反だと喚くやも知れませんが、何しろ総司令は情に脆い。
規律よりも迅速且つ適切な救援を評価することでしょう」
「口出しするのはいけないかもですが、わたしもお爺さんに賛成です。
あの人は生の感情を抑え切れないように見えました。たぶん、規則を守っていくことのできないタイプです。
自分もそうですし、それ以外の人に守らせることもできないんじゃないかなぁ……」

 ムラマサの見立てには、ゼラールの膝の上に在るベルも頷いた。
聡い彼女もカレドヴールフの弱点を「情」と見抜いているようだ。
 自分の身を庇護してくれている相手の弱点まで躊躇なく言い当てたベルには、
さしものラドクリフも冷や汗を垂らしている。そして、「ぼくも気を付けよ……」と心に誓ったのだ。
 一方、トルーポはムラマサの慧眼へ素直に感心していた――が、さりとて彼の具申を鵜呑みにすることも出来なかった。
 鉄色のレインコートに身を包む――食事中は流石に脱いでいるが――隻眼の老将は、
連合軍の要たる史上最大の作戦を見破っているのだ。先程もバブ・エルズポイントへ向かうよう『閣下』を煽ったが、
その真意を見極める必要があった。それも早急に、だ。
 コールタンが佐志を動かしたのと同様に、ムラマサもゼラール軍団を意のままに操ろうとしているのかも知れない。
事実、彼は『閣下』の心を完全に掴んだのである。
 ゼラール軍団が史上最大の作戦を潰す布石――捨石とも言えよう――にされる可能性もある。
バブ・エルズポイントへの救援も、先日から提案されている『緬』と『プール』両国の討伐も、
全てムラマサの計略であり、『閣下』を陥れる為の罠ではなかろうか。
 トルーポはそこまで考えているのだ。些か過敏かも知れないが、常に最悪の事態を想定しておくのが彼の役目である。
 ムラマサはギルガメシュに於いて軍師を務めていた男なのだ。どうして警戒を怠ることが出来るだろうか。
 トルーポにとっての最大の懸念は、ゼラールがムラマサの言いなりになってしまうことだ。
そこまで行き着いてしまうと、最早、意見具申の領域ではない。
 万が一、そのような事態に陥った場合、トルーポは一命を賭して『閣下』を押し止める覚悟である。
必ずや他の仲間たちも力を貸してくれることだろう。
 それでも立場上、具申の可否を尋ねなくてはならない。それもまたトルーポの役目であった。

「――して、出兵は如何なされますか、閣下?」
「此度(こたび)は見送る。斯様な小さき戦、余が自ら出向くことでもあるまい。
我が力を示すのは、より面白き戦ぞ。……それで構わぬか、ムラマサ?」
「御意」

 ムラマサの具申を面白いと語りながらも、ゼラールはルナゲイトに留まることを決定した。
トルーポが憂うまでもなく、『閣下』は個人の愉悦と軍団の趨勢とを割り切って熟慮していたのである。
 ムラマサの操り人形にされてはいないと確認したピナフォアは、密かに安堵の溜め息を漏らした。
トルーポだけでなく軍団の誰もが憂慮していた事態なのだ。
 危機感を持ち得ないのは、我関せずと言った調子で食事を楽しんでいたスコットくらいのものであろう。
暢気に葡萄酒を呷っている彼を一瞥したピナフォアは、先程とは別の意味で溜め息を吐き捨てた。
 続けて隻眼の老将を窺うが、己の具申を却下されたにも関わらず、彼は愉しげな微笑を浮かべている。
機嫌を損ねているとばかり考えていたピナフォアには、その反応も意外であったのだ。

「此度の騒動は、ギルガメシュの内部に溜まった膿より引き起こされたものに相違あるまい。
バブ・エルズポイントが攻め落とされるか、守り切るか、いずれの結果になろうとも、
ギルガメシュは大きく揺さ振られる。膿が傷口より零れ落ちれば、また別の展開も見えてこよう」

 「突くべき弱点を炙り出せるかもしれない……と言うことですか」と尋ねるベルの頬を、
ゼラールは高笑いを交えつつ両の指先で弄んだ。

「灼熱の炎が、誰を、何を焼き尽くすか――酒でも呑みながらゆるりと見物しようではないか」

 ベルの柔肌を楽しみながら、その頭越しに尋ね掛けてくるゼラールに対して、軍団員一同は「御意」と答えた。
 周囲のことに全く関心のないスコットの返事だけが遅れたものの、それを気に留める者もいなかった。




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