15.出撃前夜


 ギルガメシュの切り札と目された精神感応兵器、『トリスアギオン』――
これを阻止し得るとされる『インプロペリア』の完成を受けて、佐志は出撃の前夜を迎えていた。
 バブ・エルズポイント攻略の手配りも既に完了している。
突入に当たってテムグ・テングリ群狼領へ協力を要請しており、先ずはグンガルの部隊と落ち合うことになった。
 バブ・エルズポイント、そして、Aのエンディニオンへと赴く決死隊は、今や夜明けを待つばかりとなっている。
 ギルガメシュに察知される危険性を少しでも減らす為、
『両帝会戦』の折のような出陣式も行なわないことに決まった。
 誰からも見送られることもなく、ただ粛々と船を漕ぎ出すのである。
 そのように悲壮感すら感じられる出撃を企図してきたアルフレッドだけに、
インプロペリア完成の報せを受けて再訪したコールタンには、
「何もかもあんたの所為で台無しになりそうだ」と呆れ返ったものである。
 突発的な渡航であった為か、今回はブルートガングやグンフィエズルを伴ってはいない。
仮にもギルガメシュの最高幹部が独りで出歩くなど、無用心極まりないようにも思えるのだが、
アルフレッドには注意を促す義理もなく、「大した自信だ。ギルガメシュに危害を加える人間など、
ここには誰もいないと信じ込んでいるわけだな」と皮肉を飛ばすのみであった。
 当て擦りを軽く聞き流したコールタンは、佐志の主だった面々を村役場に呼び集めると、
今日までの尽力に感謝を述べ、深々と頭を垂れた。
 最大の功労者とも言うべきカッツェと相対したときなどは、彼の手を強く握り締め――

「あんたしゃんの働きには、あたきュし、感謝の言葉もにゃいにょ。大変だったと思うにょ。心労もあったと思うにょ。
よく耐えてくだしゃったにょ。けれど、あんたしゃんの勇気は必ず報われるにょ。
これでエンディニオンは救われるんだにゃ。イシュタルしゃまも娘しゃんをお守りくだしゃるにょ」

 ――と熱烈に語りかけたほどである。
 思い掛けないコールタンの言葉に、カッツェはひたすら恐縮したが、
その息子――アルフレッドは、白けた思いで両者のやり取りを眺めている。
 コールタンが述べる感謝の弁など、彼の目には人身掌握のパフォーマンスとしか映っていなかった。
 心が清らかな守孝は真に受けて貰い泣きしてしまったが、フツノミタマやヴィンセントと言った面々も
アルフレッドと同じように冷ややかな目をコールタンに向けている。
 ホゥリーに至っては、「そりゃチミは疲れナッシングだろ〜ねェ。疲れるわけナッシングさァ。
メンをマリオネットよろしくコントロールするだけなんだもん。ザットでマックスな効果をアップするなんて、
ペテン師の鑑だねェ。マウス講のてっぺんにも似てるヨ」と、露骨に悪言を浴びせ掛けたのだが、
コールタンの鼓膜は極めて便利な構造をしているらしく、彼女にとって都合の悪い内容は綺麗にすり抜けるようだ。
 微塵も反応を示さない相手を皮肉って面白いわけがない。
見切りを付けたホゥリーは、早々に第一会議室から出て行ってしまった。
 コールタンの言行に苛立っていたフツノミタマがホゥリーに続くと、
シェインやジェイソン、ジャスティンもその後を追った。
 彼らはひとつの流れを生み出した。挨拶の済んだ者から帰路に着くと言う流れを、だ。
老体を夜中に引っ張り出すなと憤るジョゼフが、ピンカートン家に招かれていると言うニコラスが――
皆が次々と第一会議室を出て行くが、コールタンは去る人々を咎め、引き止めようとはしなかった。
それどころか、にこやかに手を振って彼らを見送っている。
 所詮、コールタンにとっては、自分の思い通りに駒≠動かす為のパフォーマンスに過ぎないのだろう――
思わず鼻を鳴らすアルフレッドだったが、軽蔑を孕んだ態度とは裏腹に、彼は最後まで第一会議室に居残った。
 フィーナやカッツェを先に帰らせ、少しでも話す時間を設けたいと願うマリスをも下がらせ、
現在はコールタンと一対一で対峙している。

 そのときにはアルフレッドの表情は軽蔑から憤怒に変わっている。
面に帯びた冷気も秒を刻む毎に張り詰めていき、遂には殺気にまで研ぎ澄まされた。

「……ベルは本当に無事なんだろうな」

 人を食ったような笑顔を満面に貼り付けるコールタンに対し、アルフレッドは鋭く詰問を投げた。
 これまでは言葉巧みに誤魔化されてきたが、今度ばかりは違う。
満足のいく明答(こたえ)を返さなければ、第一会議室から外には出させないと無言の内に突き付けている。
 足元にて青白い火花を散らす『ホウライ』は明確な恫喝であった。
一度でも言い逃れを口にしたときには、脅しではなく本当にコールタンの身を稲妻が貫くだろう。
 数日前、アルフレッドはこの部屋でテッド・パジトノフと立ち合っている。
そのときは互いに示し合わせた上で『試合』を繰り広げたのだが、コールタン相手に手加減するつもりはない。
例え、刺し違えてでも撃滅する覚悟であった。
 コールタンを倒した上でバブ・エルズポイントを押さえ、トリスアギオンを阻止しようと言うのだ。
 アルフレッドの心中を読み抜いたらしいコールタンは、腹を抱えて笑気を爆発させ、
更には「キャラに似合わにゃいコトはやめときにゃしゃい。男の格を下げるだけだにょ。
しょーゆー熱血ってゆーにょは、あんたしゃんと同郷の男の子とかのほうが似合うにょだ〜」とまで言い放った。
 そればかりではない。携えてきた編み棒型のアヴァタール――遠隔操作型機械のことだ――を中空に浮揚させ、
その尖端でもってアルフレッドの顎を撫で始めたのだ。これ以上の侮辱は他にはあるまい。

「貴様――」
「前にも話したんじゃにゃいかにゃ。あんたしゃんの妹は今も元気にしてるにょ。
人質にゃのだから勝手気ままに動き回れるわけじゃにゃいけど、しょれ以外は不自由してにゃいハズにょ。
……ああ、最近、フェンシングを始めたってウワサは聞いたにょ〜」

 悲壮な決意をも虚仮にされ、遂に拳を握り締めるアルフレッドであったが、
身を乗り出す寸前になってコールタンが彼の望む答えを返した。
 前後の脈絡を殆ど無視した拍子での返答であった為、アルフレッドは勢い余って前方に転びそうになってしまった。
それを見てコールタンは笑い声を大きくさせている。
 アヴァタールの先端にコートの襟を引っ掛けられ、無様な転倒だけは避けられたものの、
笑い者にされた屈辱は変わらない。上体を起こして立ち上がってからもアルフレッドの怒りは鎮まらなかった。
 しかし、爆発だけは必死に堪えている。経緯はともかく、ようやくコールタンも質問へ答える気になったようだ。
今後の財産≠引き出す為にも、一時の激情で彼女の機嫌を損ねるわけには行かなかった。

「フェンシングに興味を持ったのか、あいつ――」

 シェインと一緒になって野山を駆け回っていたベルの姿がアルフレッドの脳裏に蘇る。
 猪突猛進の傾向があるシェインを心配したベルは、知識で彼を援けると言って片端から書物を読み漁り、
ときには難解な軍略まで教えて欲しいと兄に強請(ねだ)ったのである。
 カレドヴールフに誘拐されたときには、家族の誰もが絶望に沈んだのだが、一先ずは健やかに過ごしているようだ。
アルフレッドとしては、それが分かっただけでも救われる思いだ。
 無論、一刻も早くブクブ・カキシュから救い出してやらなくては――と気持ちも引き締め直している。

「――しかし、どう言う理由で? 剣術の教本なんか読んでいたとは思えないが……」
「ウワサにょ、ウワサ。詳しいことまでは、わたきュしにだって分からにゃいにょだ。
あのコは他の人質≠ニ違って特別誂えの部屋で暮らしてるにょ。
しょーゆー区画(ブロック)は総司令しか入れにゃいってのがお決まりにょ」
「他の人質と言うと、サミットのときに捕らわれた人たちか。
マイクのところの――『ドク』とか言う外交官もそこに収監されているんだな?」
「『ディアスポラ・プログラム』ってゆ〜ウチの難民支援計画の骨子を作ったのも、そのドクだにょ。
今じゃ幹部級のミーティングにも加わってるにょ〜」
「どう言うことだ、ギルガメシュに寝返ったのか? 冒険王の仲間ともあろう男が……」
「全然、しょの正反対にょ。あたきュしたちのやり方を目のカタキにしてるにょ。
難民のことを任せちゃおれんにゃんて言い出したのが、ディアスポラ・プログラムの始まりにゃのだにょ。
彼のアイディアが悪くにゃいんで、ギルガメシュもしょれに乗っかってるんだにゃ」
「聞けば聞くほど、意味が分からない男だな……」
「あんにゃ善人、わたきュしは他に知らにゃいにょ。しょんにゃわけでドクも今は無事にゃにょだ。
見ていて、冷や冷やしゅるような発言も多いけどにょ」

 出撃前にでもマイクに教えてやろう――しっかりと記憶に刻み込むべく、アルフレッドはコールタンの話を反芻した。
初めて彼女を迎えた場に於いても、マイクは他の面々に気を遣って
『ドク』ことゼドー・マキャリスターに関する質問を控えていた。
 『ビッグハウス』の事情よりもエンディニオン全体の趨勢を優先させたのは、如何にも冒険王らしい配慮と言えよう。
 しかし、それはゼドーのことを見限ったと言うことではない。仲間のことを何よりも大事にするマイクのこと、
口では文句を言っていても、彼の安否が気にならない筈があるまい。ディアスポラ・プログラムを献策したこと以外、
人質にされてからの情報は全く入って来ないのだ。

(……少しはマイクに恩返しが出来そうだな……)

 そこで質問を一区切りさせたアルフレッドは、今一度、コールタンを正面から見据えた。
 アルフレッド自身、己の顔が引き締まっていくのを感じている。
人を食った笑顔を崩さないコールタンから、最も難しい情報(こと)を引き摺り出さなくてはならないのだ。

「……お前はアカデミーについて、どこまで知っているんだ」

 この質問を以って、アカデミーに対するコールタンの知識量を確かめようと言うわけではない。
アルフレッドにも知り得なかったアカデミーの『闇』へ踏み込もうとしているのだ。
 グリーニャを旅立ってからここに至るまで、何らかの形でアカデミーの『智慧』が自分たちに関わってきた。
 ギルガメシュとの争乱が始まってからは、その機会も著しく増えている。
 兵士たちが用いる光線銃、『ハウザーJA‐Rated』はアカデミーにて使用されていた物と同一であり、
両帝会戦の折に撃沈させた軍艦も授業の中で教わった船舶と酷似していた。
 そもそも、だ。ギルガメシュはアカデミーにて研究されていた最新の軍略を駆使して戦っているではないか。
 そして、ギルガメシュとは関係のない場所にもアルフレッドはアカデミーの『闇』を見つけている。
リーヴル・ノワールにて行なわれていた生体実験にもアカデミーが関与していると彼は予想していた。
 突如として姿を現したランディハムによって建物自体は爆破されてしまったが、
脱出の際にルディアが口走った内容は、嘗てアルフレッドがアカデミーの研究者から教わったことと
奇妙なほどに合致しているのだ。
 その研究者はアカデミーにて死者蘇生の実験が行なわれていると話していた。
 一度、失われた生命を蘇生させるなど神にも匹敵する奇跡であり、人智に於いては有り得ない技術である。
 しかし、そのような「有り得ない技術」の数々が、ときにルディア・エルシャインと言う形で、
ときにギルガメシュの最終兵器と言う形で、目の前にはっきりと現れたのだ。
 アカデミーでは亜空間に潜行≠オての訓練も行なわれていたが、
これもまた人智では「有り得ない技術」のひとつであろう。
 亜空間を利用した転送装置、ニルヴァーナ・スクリプトにもアカデミーの『智慧』が反映されていると、
アルフレッドは確信にも近いものを感じている。
 それ故にアルフレッドは確かめずにはいられなかったのだ。
これらの『闇』を、アカデミーの『智慧』を、コールタンは掌握しているのか――と。
 何しろコールタンは存在そのものが怪奇だ。ワーズワースで犠牲となったハブールの民の間では、
遥か昔に異世界より訪れたとされる旅人の伝承が語り継がれてきた。
ハブールと言う都市の成り立ちにも深く関わった伝説的な人物である。
 アルフレッドはコールタンこそがハブールにて伝承される異世界の旅人であると睨んでいた。
人智を超えた存在であればこそ、同じく人の手に余るような技術に通じていてもおかしくはない。
 これまでの言行からして、アカデミーの『智慧』と『闇』に触れてきたことは明白だった。

「『知的好奇心は人間にとって最も自然な欲求』――あんたしゃんもアカデミーに染まってるみたいだにょ?」
「煩い、黙れ。俺は研究者連中とは違う。お前たちがアカデミーの力を利用していることが気掛かりなだけだ。
……あんたにだって分かるだろう? 自分たちのしていることが、どんなに危険なのか……!」
「しゃてねぇ? あたきュしはアカデミーの人間じゃにゃいから、
危険アブにゃいって言われても、イマイチ分からにゃいにょ〜。お望みにゃらカレドヴールフに忠告するにょ?」
「この期に及んで恍けるか」
「アカデミーと無関係にゃんだから答えようがにゃいだけにょ〜」

 このような返答もアルフレッドは予め想定していた。つまり、対抗策を練り上げてきたと言うことだ。
先んじて用意しておいた切り札≠以って、コールタンを追い詰めようと試みる。

「――それなら、どうしてマリスの病気のことを知っていた? お前から口に出した筈だな? 
今更、ハッタリだったとは言わせないぞ」
「おぉっ? 『ネクローシスの染色的増殖』にょことかにゃ? あの娘しゃんもよくぞ難病を耐え抜いたもんだにょ。
細胞の壊死が加速度的に全身に及ぶにゃんて、まさしく奇病だにょ」
「おい……」
「心筋に神経細胞に脳――全部がいっぺんに壊しゃれるにゃんてねぇ〜。
おまけに肉体は腐って崩れ落ち、地獄の苦しみを味わい続けるにょ。想像しゅるだけで身震いしちゃうにょ」
「俺が訊きたいのは病状のことではない――貴様、やはり……」

 コールタンの前でマリスが罹っていた病名を口にした者はいない。
アルフレッドは言うに及ばず、タスクとて主人の病気を持ち出したことはなかった。
彼女を苦しめていた呪い≠フ反復など出来るわけがなかろう。
 それにも関わらず、コールタンは『ネクローシスの染色的増殖』と病名を言明したのだ。
予めマリスの病気を知っていたと言う証左に他ならない。

「今度こそ答えてもらおうか、マリスがどうやって生き永らえたのか――」
「あたきュしに分かるにょは、アカデミーで研究されていたテクノロジーの一部にょ。
ギルガメシュに持ち込まれた技術と言ったほうが分かり易いかにゃ? 
しょれを使わせてもらってるだけ。しょれがわたきュしの限界にょ。
しょこから先は、ぶっちゃけ、詳しい皆しゃまの言いなりにょ。マニュアルがにゃいとにゃんにもできにゃいにょだ」
「……自分の発言が矛盾しているとは思わないか? おまけに破綻もしているぞ」
「いっや〜、わたきュしも忙しい身だしぃ? 考えなきゃにゃらにゃいことがたくさんあるにょ。
切羽詰ってくると頭も混乱しゅるしぃ? 記憶やら何やらが頭にょ中でぐるぐる回ってしまうんだにょ。
しゃ〜て、ネクローシスの染色的増殖にゃんて単語、どこかから飛んできたにょかにゃ〜? 
どこだったかにゃ〜? 最近、誰かに聞いたにょか、いつかにゃにかの本で読んだにょか〜?」
「そんな言い逃れが通じると思うのか!?」

 「恥知らず」と言う侮蔑がアルフレッドの脳裏を過ぎった。
あろうことか、コールタンは最も重要な部分の回答を有耶無耶に誤魔化すつもりなのだ。
 これでは今までと何も変わらない。翻弄されてはなるまいとアルフレッドは懸命に食らい付いていった。
 懸命に追いすがる声を遮ったのは、コールタンが所有するモバイルである。
赤提灯で流れているようなムード歌謡を第一会議室に響かせ、アルフレッドの虚を衝いた。
 電子メールの着信を報せる信号音と言うわけだ。Bのエンディニオンで普及しているものとは
種類が違う――液晶画面を指で撫でて操作をするタイプだ――が、基本的な使い方は大差がなさそうである。
 電子メールの送り主はジョゼフであった。液晶画面の表示をアルフレッドの眼前に翳したコールタンは、
「御隠居から呼び出しにょ〜」と、如何にも申し訳なさそうな表情を作って見せた。
 無論、本心から残念がっているわけではない。笑気を含んだ声色が何よりの証左であろう。
人を小馬鹿にするような態度によって、アルフレッドの神経が逆撫でにされたことは言うまでもない。
 それでも、彼が憤激を爆発させることはなかった。コールタンに気を遣ったのではなく、
一種の諦念が怒りの根源(ねっこ)を断ち切ってしまったのだ。

(……また物陰で悪巧みですか、御老公……)

 追及を受けるコールタンに対して、ジョゼフが助け舟を出したとしか思えなかった。
そう判断せざるを得ないような状況と言えよう。あるいは役場の何処かにラトクでも潜ませているのかも知れない。
 決して口に出すことはないのだが、時折、ジョゼフたちが見せる陰謀めいた動きには、
アルフレッドも内心では困り果てている。連合軍一丸となってギルガメシュと相対しなくてはならないのに、
佐志は内部に於いても様々な思惑が絡み合い、乱麻と化している。
 『新聞王』と言う極めて重大な立場は理解しているつもりだが、
仲間にまで隠しごとをされては軍略にも支障を来たし兼ねないのだ。

「……アカデミーのことを、あんたはどこまで知っている」

 諦めにも近い声ではあるが、もう一度、アルフレッドは先程の質問を繰り返した。
 底意地が悪いと言うか、何と例えるべきか――どうせ答えはしないだろうと溜め息を吐いたアルフレッドに、
コールタンは「カッツェしゃんが口を噤んでるようなことを、わたきュしが喋るわけにもいかにゃいにょ」と、
意味深長な答えを返した。
 アルフレッドの胸中が諦念で満たされた頃になって、ようやく向かい合うのだ。
煮ても焼いても食えない人間とは、まさしく彼女の為に在るような言葉であろう。

「カッツェしゃんはあんたしゃんに何か話したのかにゃ? アカデミーのことを誰より知ってるお父上にょ。
ご本人は外郭機関とかニャンとか言ってるけど、内部の事情に疎いわけがにゃいにょ。
技師としての実力(じつりき)はあんたしゃんだって聞いたことがあるにょ? 
アカデミーに通ってた頃だって周りからイロイロと言われたんじゃにゃいかにゃ?」
「父さんは何も語らない。……俺のほうから訊くのも悪い気がして、な」
「しょれは知らにゃいほうが良いってことだにょ。知らにゃくて良いことって言い方もあるかにゃ」
「またそうやってはぐらかす……」
「しょーゆーわけじゃにゃいにょ。あんたしゃんってば、ホンットに性根が拗(ねじ)くれてるにょ〜」
「煩い、黙れ」
「大切にゃ戦いに挑もうって人に余計な重荷を与えたくにゃいだけだにょ。
わたきュしは勿論、あんたしゃんのお父上だっておんにゃじ気持ちだと思うにゃ。
……しょれに、どうしても立ち向かわにゃくてはにゃらにゃい『真実』と言うもにょは、
望むと望まじゃるとに関わらじゅ、向こうからやって来るもにょだにょ」
「……含蓄に富んだお言葉だな。年の功と言うわけか?」
「……出発前だから見逃してあげるけど、次におんにゃじことを言ったら、頭突きの刑を強制執行だにょ」

 「なにはともあれグッドラックにょ」と、アヴァタールの尖端で以ってアルフレッドの肩を叩いたコールタンは、
それきり振り返ることなく村役場から去っていった。

(出発前の重荷と言われてもな――今でも俺は押し潰されそうだが……)

 暫しの間、悄然とした面持ちで立ち尽くしていたアルフレッドも、
身を引き剥がすようにして第一会議室を後にする。
 部屋の片隅に置かれた滑車付きの白板には、決死隊のメンバーが列記されている。
そこに名を記された者は、翌朝の出発までに身体を休めておかなくてはならないのだ。





 コールタンから少し遅れて村役場を出たアルフレッドは、
仮設住宅の立ち並ぶ区画には直行せず、夜を徹して哨戒が続けられている港へと足を向けた。
 港や浜辺、沿岸には万が一の奇襲に備えた警護が張り巡らされており、
守孝と源八郎だけでなくローガン、ヒューと言った面々も陣頭指揮に当たっている。
 彼らもバブ・エルズポイント攻略戦には寄せ手として加わる為、本来ならば出撃に備えて休まなくてはならないのだ。
徹夜で警戒に当たると聞かされたとき、アルフレッドは注意を飛ばした程である。
 それでも、彼らは港の守りを固めている。今から駆け寄って叱責しても、頑として持ち場を離れないだろう。
何が待っているか分からない異世界へ決死隊のみを向かわせる――そのことに彼らは複雑な苦悩を抱いていた。
死地を共に出来ない葛藤も大きい。
 せめて、決死隊を無事に送り出す。それこそが己の使命だと心に決めていた。
 中でもローガンの頑固は筋金入りだ。アルフレッドとマリス、更にはハーヴェストまで見送らなくてはならない為、
内心忸怩たる思いがあるらしく、セフィが申し出た交代さえも断っている。
 ローガンはバブ・エルズポイント攻略戦では最前線での遊撃を担っている。
疲れを残したまま戦場に出ることは無謀としか言いようがあるまい。
少しでも休んで欲しいとセフィは半ば拝み倒したほどであった。
 この懇願に対して、ローガンはグンガルとの合流地点へ向かう船上で仮眠を摂ると答えていた。
無論、セフィは信じていない。何かと理由をつけて甲板に立ち、
文字通り、不眠不休で決死隊の警護を全うするに違いない。
 両帝会戦の折にも用いた鞣革の胴鎧や、握り拳を模った飾りが猛々しい鉢鉄(はちがね)と言う出で立ちで
威勢の良い声を張り上げており、その姿からも並々ならない覚悟が感じられた。
 バブ・エルズポイント突入戦の折には、敵兵の殺到する只中へと飛び込み、
決死隊の障碍を根こそぎ蹴散らすであろう。
 哨戒の邪魔にならないよう遠くからローガンの姿を確かめたアルフレッドは、
誰に聞かせるでもなく「……頼りになるよ、本当――」と呟き、次いで闇夜を照らす篝火に背を向けた。

 今度こそ、その足は仮設住宅の区画へと向かっている。
 無尽蔵に活力を生み出せるローガンとアルフレッドは違う。
十分に休息を摂っておかなければ、異世界への突入と言う難関を突破出来なくなるかも知れないのだ。
体力も気力も、万全に管理する必要があった。
 師匠の気遣いを申し訳ないと思いつつも、アルフレッドはライアン家に宛がわれたプレハブにて
久方振りに羽を伸ばすことになった。
 一足先に村役場を出ていたフィーナとムルグも一緒だ。
 出撃前夜と言う緊張した状況下であり、何よりもベルの不在と言う寂しさが圧し掛かるものの、
珍しく家族水入らずの一時(ひととき)である。

 ライアン家にとっては、実に二年ぶりの一家団欒なのだ。
 グリーニャが焼亡した後、一家も揃って佐志へ疎開したのだが、
当時は両帝会戦の真っ最中であり、腰を落ち着けて談話出来るような余裕はなかった。
 アルフレッドたちがグリーニャを出発したのはイシュタル暦一四八〇年のこと。
現在のカレンダーでは、そこへ二年分を加算することになる。
 「二年」と口にして数えたアルフレッドは、その二字にどうしようもない重みを感じた――否、感じざるを得なかった。
 ほんの二年の間に様々な出来事があった。
 『スマウグ総業』との諍いから始まった旅は、戦いの連続だったと言えよう。
道中ではフツノミタマから命を狙われ、マコシカの集落に入ったところでアルバトロス・カンパニーと対決し、
休む間もなく世界最凶のテロリストと戦ったかと思えば、不良冒険者のコンビとは抗争にまで発展した。
 それから間もなくギルガメシュとの争乱に突入し、その最中に故郷と親友を失った。
 妹のベルは未だにギルガメシュの人質となっており、顔を見られなくなって一年が経過しようとしている。
コールタンの話によれば、安全な場所に軟禁されているそうだが、だからと言って安堵しているわけにもいかない。
 たったの二年だ。たった二年の間に、アルフレッドの運命は大き過ぎるくらい変転してしまっていた。
 片田舎でメカニックの仕事をしていた凡庸な青年が、非凡な軍才を持つが故に戦場へ駆り出され、
挙句の果てに実の母親と血で血を洗う闘争を繰り広げているのだから、運命は残酷であると嘆息するしかない。
 グリーニャでの穏やかな日々こそ、泡沫の夢≠セったのではないかと、最近では思うようになっていた。
 目の前で楽しそうに談笑する家族の姿は、グリーニャで見た泡沫の夢≠ニそっくり同じで、
久方振りに口にしたルノアリーナの手料理も、その味付けも、あの頃と何も変わっていない。
 母の得意料理であるポテトグラタンが今日も食卓に並んだのだが、
これも泡沫の夢≠フ中で味わったもののひとつだった。
 中身を刳り貫いて蒸かしたポテトへグラタンソースを注ぐのがルノアリーナ流だ。
何とも言えない味わいを生み出す隠し味には酒粕を用いている。

(……どうも感傷的になっちまうな……俺らしくもない……)

 口の中一杯に広がる芳醇な味わいが、フィーナとルノアリーナの笑い声が、アルフレッドの意識を現実へと引き戻した。
 そして、「何が泡沫の夢≠セ」と、心中にて己を叱咤する。
 故郷で過ごした幸せな記憶は夢幻(ゆめまぼろし)などではない。
今もまだ胸を軋ませるクラップが幻像である筈がないのだ。
 グリーニャの想い出の全てが現実の重みを持ってアルフレッドの心に留まり、未来へと進む勇気を与えているのだ。
 断じて夢幻などではない。
 住む場所も、置かれた状況すらも一変してしまっているものの、ここに在るのは現実のライアン家なのだ。
グリーニャと言う土地が育んだ家なのだ。
 一時の迷いとは言え、それを見誤りそうになった自分をアルフレッドは心から恥じた。

「そう言えば、シェイン君はどこにいるの? あの子も来てくれると思ってたから、お母さん、張り切ったのに……」
「シェイン君なら、今頃はフツさんと剣の稽古をしてるんじゃないかな。すごく頑張ってるんだ、シェイン君。
新しい友達もすごく強いし、みんなに引っ張られて剣術の腕もメキメキと上達してるみたいだよ」
「コカ! コカコカ!」
「……ベルの為に頑張ってくれるのは嬉しいのだけど、暴力的なことに手を染めるのは素直に喜んで良いのかしら……」

 コールタンからは、ベルがフェンシングを習い始めたことも聞かされている。
その話を言い添えると、ルノアリーナはますます難しい表情(かお)となっていった。
 彼女自身が戦災者と言う立場である為、小さな子どもたちが武技を磨くことには複雑な思いが有るようだ。
ハーヴェストの指導のもと、フィーナが射撃訓練に励むことも望んではいない。
 近頃のフィーナは、自身が備えたリボルバー拳銃のトラウムだけでなく、
ライフルなど様々な銃器の扱い方もハーヴェストから教わっている。
 高度な狙撃術については源八郎からも指導を受けており、用途に応じた銃弾の取捨選択まで含めて、
二年前とは比べ物にならないほどの戦闘能力を備えていた。
 それもまた戦乱の時代の宿命であるが、母としては娘の行く末に一抹の不安を抱いてしまうのだ。

「ルノアリーナ、そう短絡的に決め付けてやるな。武術と言うものは本来は自分の心を鍛錬する為にある。
俺も若い頃は親父に鍛えられたもんだ。色々な武術を仕込まれてな……」
「コカ? コッココー……」
「それホント? もう何年もお父さんの娘やってるけど、そんな話、初めて聞いたよ、私。
ムルグだって『とっつぁん、露骨なフカシはみっともないぜ!』って言ってるし」
「ごめんなさいね。お父さん、とっても見栄っ張りだからその場その場であることないこと吹いてしまうのよ。
……昔からそうなのよ。遠くからお友達を招いてホームパーティーを開いたときなんかね、
自分は若い頃、村中のワルを仕切って殿下≠チて呼ばれてたとか言っちゃってね……。
聞いてるこっちは、もう恥ずかしくてどうしようもなかったわよ」
「……うっわー……素で引くよね、そう言うの」
「村中のワルとか言ってるけど、私たちの世代に不良学生なんていなかったし、
子どもだって仕切るって言うくらい多くはなかったのよ。
殿下≠チてニックネームは、一応、本当のことだけど、
それだってお父さんの仏頂面を怖がった小学生が呼んでただけだし……」
「それもあるけど、自分を強く見せる為に不良だったとか言い切っちゃうところがイタいよ。
……ごめん、生まれて初めてお父さんの娘ってことを後悔したかも知れない、今」
「ケッ!」
「は、鼻で笑われた! ムルグにまで鼻で笑われたぞ!?」
「笑われないと思ったのか、情けない……」

 カッツェが披露した見栄(ハッタリ)は、横で聞いていたアルフレッドも恥ずかしくなるものだった。
 アルフレッドが使う武術、『ジークンドー』は、祖父――即ち、カッツェの父から叩き込まれたものである。
その稽古は過酷の一言で、幼少の頃から幾度となく死の危険に晒されたのだ。
身動きひとつ取れなくなって病院に運ばれた経験(こと)も一度や二度ではない。
 周りの者のほうが戦慄してしまうような修練を耐え抜いたアルフレッドは、
成長期も半ばへ差し掛かる頃には、ジークンドーを己の血肉に変えていた。
武技も理念も、いつか立ち合うべき『仮想敵』との相対し方までも、全てを吸収していたのだ。
 その後、アカデミーに進学して『サバット』と言う足技主体の格闘術も学ぶことになるのだが、
武術家としての骨格≠ヘ、祖父との修練によって既に完成されていたのである。
 カッツェはその稽古に根を上げたのだと、アルフレッドは訊いている。
それ故に、一代を飛び越えて祖父からジークンドーを伝授されたわけである。
 その祖父も現在では行方知れずだった。自分より強い者を求めて武者修行の旅を続けているそうだが、
殺しても死なない人間だと分かっているので、連絡が絶えても家族は誰も心配していなかった。
 しかし、虚しい見栄を張ってしまうカッツェの体たらくを知れば、すぐにでも舞い戻って性根を叩き直すに違いない。

「――し、しかし、なんだな。シェインとその先生はそんなに仲が良いのか? 
ずっと住み込みで稽古しているようなものなんだろう?」
「露骨に話を摩り替えにかかったね、お父さん」
「そ、そう言うわけじゃ……」
「でも――うん、仲良しだよ、あのふたり。傍から見てると口喧嘩ばっかりしてるけど、結構良いコンビだと思う。
フツさんも自分用のプレハブにシェイン君のスペースをちゃんと作ってあげてるし、
見た目も喋り方も怖いけど、面倒見は良い人なんだよ」
「シェイン君の面倒をちゃんと見てくれるのなら、私たちも何も文句はないけど……」
「本人たちは照れて全否定すると思うけど、今じゃ親子にしか見えないもん。大丈夫だよ」
「しかしなぁ、あの男、確か、スマウグ総業の雇われ者だっただろ? 危なくないのか?」
「少なくとも有り得ない見栄を張っちゃうようなヒトよりは良いお父さんになると思うよ」
「コッケッケッケ!」
「ムルグもムルグでいちいち傷口に塩を塗るんじゃありませんッ! お父さん、もう泣くぞッ!? 
それでもお前はお父さんを嘲笑うのかッ!?」
「夫の情けない姿を見せられた私のほうがよほど泣きたいわよ、カッツェ」
「お、お、お前まで……」

 家族全員から弄ばれた挙げ句、目配せで以って助けを求めてくる実父にアルフレッドは呆れ返り、
肩を竦めて苦笑を漏らした。

「――あら? アル、ちゃんと食べてる? 久しぶりのお母さんの手料理なんだから、お残しは許しませんよ〜」
「言われなくても食ってるって。まだまだフィーじゃ母さんの腕に届かないってことを、
文字通り、噛み締めてるところだよ」
「ひどいな〜、も〜。そんなこと言うともうアルには何にも作ってあげないからねっ!」
「それだけは勘弁してくれ。母さんの料理は確かに最高だが、お前の料理を食えなくなるなんて拷問だよ、俺にはな」
「も、もう……アルってホントにズルいぞっ! 私、何も言えなくなっちゃうじゃん〜」
「俺は事実を言ったまで――」

 すっかり家族の団欒に浸り、グリーニャに居た頃と同じ心地でフィーナと語らっている――
そのことを自覚したアルフレッドは、思わず息を呑んだ。

(今、俺は何をしていた? 何を考えて……――)

 アルフレッドを満たしたのは安らぎだけではない。相反する情念が彼の心を蝕んでいった。
 慙愧の念である。家族からもたらされた安らぎを飲み込むように、マリスに対する深い後悔が押し寄せていた。
 マリスに手酷い仕打ちを加えておきながら、自分はどうだ。
温かな団欒に包まれながら、笑みまで浮かべているではないか。
 マリスが求めて止まず、また彼女の心の支えになるであろう笑みを、フィーナや家族の前では曝け出している。
『恋人』を素気無く突き放してきた自分が、だ。
 そのことに気が付いたアルフレッドは、最早、良心の呵責を抑え切れなくなった。
 厳粛な態度で糾弾したのは、重要な話し合いから身勝手に離脱したマリスへの訓戒のつもりだが、
他に幾らでもやり方はあった筈だ。
 せめてマリスを傷つけない方法を案じるべきであった。
後の祭りと後悔を重ねても、全てが手遅れのように思えてならなかった。

「あれ、ホントにお箸が止まってるよ? アルの分まで食べちゃうよ?」
「あ、ああ、いや……」
「もーっ、そこは何かツッコミ入れてくれなきゃ〜。お前は射撃じゃなくて胃袋を鍛えてるのかってさ〜」

 弾けるようなフィーナの笑顔にマリスの泣き顔が重なり、アルフレッドは思わず目を伏せた。
 自分が幸せに浸っている陰で、マリスはどのような気持ちでいるのだろうか。
 コールタンの呼び掛けで村役場に集まったとき、久方ぶりに顔を合わせたのだが、満足に話もしなかった。
 すぐに謝ってしまえば良かったのだが、何しろ今はバブ・エルズポイント突入を控えた大切な時期だ。
征圧戦、その先にある異世界突入、マイクへの引継ぎなど、
蜂起の日まで準備しておかなければならないことが山積していた。
 突入の準備に忙殺される中、時間だけが経過し、とうとう出発の前夜を迎えてしまったのである。
 何処かですれ違う度、タスクからは軽蔑の眼差しをぶつけられている。
取り付く島もないと言った様子であり、マリスの近況を確かめることも難しかった。
 いや、その邪険な態度にこそマリスの近況が察せられると言うものだ。
『恋人』がどれほど傷付き、苦しみ、失意に塞ぎ込んでいるのか――その全てがタスクの眼差しに表れていた。
 それが為に、アルフレッドは目の前の団欒から目を背けた。
幸せを享受する資格など持ち得ないと、良心が訴えかけていた。
 好意を以って接してくれる人を、生きる希望とまで言って頼ってくれる人を、裏切り続けているのだ。
 如何ともし難い鬱屈を吐露すれば、家族は真摯に受け止め、醜く歪んだ心根さえも解きほぐしてくれるに違いない。
 ムルグだけは今こそ好機とばかりに鋭い嘴を突き立ててくるだろう。
アルフレッドの抹殺を虎視眈々と狙う彼女が、「断罪」と言う絶好の機会を見逃すわけがあるまい。
 しかし、そんなじゃれ合いすらもアルフレッドには許せなかった。
 ムルグに脅かされるのは、フィーナを巡る諍いの延長ではあるが、
突き詰めれば、家族として対等≠ノ向き合えているからだ。
 普段こそ殺伐とした空気を漂わせているものの、アルフレッドが本当の窮地に陥ったときは、
彼女も意地を張らずに助けてくれるのである。
 自らを甘えさせる環境の全てがマリスへの裏切りのように思えるアルフレッドにとって、
この場所は、この風景は、余りにも辛いものだった。
 幸せであればあるほど、良心の呵責は大きくなるのだ。

 ぶっきらぼうに「一服してくる」とだけ告げ、プレハブを出たアルフレッドは、
「煙草は程ほどにしておきなよ? と言うか、いっそ禁煙しなよ。
これからは一層健康に気を配らなきゃなんだから」と言うフィーナの気遣いにも背を向け、海辺へと歩を進めた。
 湾岸沿いには無数の篝火が立てられ、真昼の如き明るさと温かさを保っているものの、
頬を撫でる夜風が痛いくらいに凍みた。
 当て所もなく散歩しているだけなのだが、口喧しい軍師が抜き打ちの検査にやって来たものと誤解されたらしく、
すれ違う皆に「余計な心配をする暇があったらゆっくり休め」と呆れ声で言われてしまった。
 目敏くアルフレッドの姿を見つけた源八郎には、「旦那、そいつぁちょっとルール違反ってもんだ。
仲間を信用してないって言ってるのと同じもんですぜ」と追い立てられたくらいだ。
 プレハブを出て五分もしない内に八方塞になってしまったわけである。
家族のもとへ戻ることも出来なければ、気ままな散歩すら難しい。

「シャワーを浴びた後でしょう? あまり夜風に当たっていると風邪を引くわよ」
「か、母さん?」

 身勝手を承知でマリスのプレハブに足を伸ばそうか――
そんな考えが脳裏をかすめたとき、思いがけない声がアルフレッドの背中に追い掛けて来た。
 ルノアリーナだ。カッツェやフィーナの相手をしていた筈のルノアリーナが、
知らぬ間にアルフレッドのすぐ近くにまでやって来ていた。
 今の言い方から察するに、行く先々で眉を顰められた姿まで見られていたらしい。
 授業参観で味わうような独特の気恥ずかしさに頬を掻きつつ、
アルフレッドは自分のコートを「そっちこそ風邪を引く」とルノアリーナの肩に掛けた。
 やはり、気のせいでなく潮風は冷気を含んでいる。
母に体調を崩されでもしたら、こちら≠ノ不安を残したまま向こう≠ヨ発つことになるのだ。
安定した精神状態を維持する上でも好ましいことではない。
 そう、母親への気遣いは作戦を完遂する為の必要事項なのだ――
心の中で誰に聞かせるでもない言い訳を並べている自分が可笑しくなり、アルフレッドは頭を掻いた。

「……何か気にかかることがあるなら、出発はきちんとそれが解決してからにしなさい。
重い悩みを幾つも同時に抱えると集中が乱れて危ない目に遭うものよ?」

 だからこそ、アルフレッドはその言葉に心を穿たれた。
 ルノアリーナから発せられたのは、まさしく彼の懊悩を揺さぶるものであった。
 裡(うち)に秘めた事情を気取られまいと誤魔化しに掛かるアルフレッドだったが、
母の瞳は打ち明けられないような悩みを持つ息子を咎めてはいない。責めてもいない。
 息子の不調を純粋に気遣っているのである。
 そのことを悟った途端、アルフレッドは苦悶で押し潰されそうになった。
何の詮索もせずに心配してくれるルノアリーナに対して、罪悪感が溢れ出したのだ。

「……なんでもお見通し、か」
「それはそうよ。何年あなたの親をやっていると思ってるの? 
……血は繋がっていなくても生まれたときからあなたを知っているのよ。
それにね、あなたほど素直な子を私は他に知らないもの。フィーよりあなたのほうがわかりやすいくらいよ」
「冗談だろ? 根性のひねくれまくった俺が、天真爛漫なフィーよりわかりやすいって?」
「今さっき自分がしたこと思い出しなさい? 何も言わずにお母さんに上着をかけてくれたでしょう?」

 自分の肩に掛けられたコートを――仄かに息子の体温を残すコートの袖を抓みながら、
ルノアリーナは茶目っ気たっぷりに微笑む。

「感情を顔に出さない人って言うのはね、こうやって態度に出るものなのよ、アル。
あなたは自分が思っている以上に素直で優しい子なの」
「親バカって言葉を知っているか?」
「――ほら、また態度に出ているわ。口ではぶっきらぼうに言っても、目は喜んでるわよ。
……それでいいのよ、アル。あなたはそれでいいの」
「敵わないな、母さんには……」

 不貞腐れた態度を取ったところで、母の目には何もかも見透かされているらしい。
どうにも気恥ずかしくなったアルフレッドは、先程とは別の意味でルノアリーナから顔を背けた。
 頬の紅潮もルノアリーナには完全に見られているだろう。このときばかりは篝火が恨めしかった。

「――そうは言ってもね、アル。ときには自分を素直にさらけ出すことも大切なのよ?」

 このまま顔を背けていたかったのだが、どうやらルノアリーナはそれを許してはくれないらしい。
 聞き慣れた朗らかな声が急に引き締まったのだ。怪訝に思ったアルフレッドがルノアリーナを振り返ると、
母の面は憂いを湛えていた。それは、息子を案じる表情(かお)であった。

「あなたが、今、どんな悩みを抱えているのかまでは、お母さんにもわからないわ。
いくら自分の子どもでも、心の内側まで踏み込んではいけないと思うの。
……だから、ここから先はお母さんの勝手な独り言だと思ってちょうだい」

 呆けたように目を丸くする息子を正面に見据えて、ルノアリーナはなおも静かに語り続ける。

「あなたの不器用な優しさを、私たち家族はよく知っているわ。
あなたがどんなに無口でいたって、何を考えているのかもちゃんと理解(わか)る。
辛いことを自分の中だけに押し隠して、やせ我慢していることも全部。
でもね、言葉にしなきゃ伝わらないこともあるものなのよ。
楽しいことや苦しいこと、何でも分かち合える友達でも身振りや手振りでは伝えきれないことも確かにあるの。
……あなたは人一倍頑張り屋で、そのくせその頑張りを表に出そうとしない謙虚な子だから、
特に誤解されやすいのよ。その逆もまた然りね。自分の弱さを打ち明けることに慣れてないわ」
「……そこまで自分が慎み深い人間とも、出来た人間とも思わないがな」
「今のも、そう。あなたは本当に謙虚な子だから、人から褒められても自分で自分にそっぽを向いてしまう」
「慢心は大敵だ。思い上がらないってことでは何の自慢にもならないよ。誰にでも出来ることだ」
「――アル、あなたはもっと自分に胸を張ってもいいのよ? そして、誇りを持っても。
それも自分をさらけ出すことの一つなんだから」

 ルノアリーナの――母の言葉がアルフレッドの心に降り積もっていく。
今や彼は身じろぎひとつせずに母と向かい合っていた。

「自分をさらけ出すことはとても怖いわ。もしかしたら、誰かを傷付けてしまうかも知れない。
だけど、これだけは覚えておいて欲しいの。あなたにとって本当に必要な人なら、
あなたのことを大切に思ってくれる人なら、あなたが何を抱えていたとしても必ず受け止めてくれるわ。
家族にも相談できない悩みだったとしても、必ずあなたの力になってくれる。
……それにね、アル。自分をさらけ出して分かち合える喜びもあるのよ? 
ときには喧嘩になってしまうことだってあるかも知れないけれど、
そのことを恐れて殻の中に閉じこもってしまうより、色々なことを分かち合えるほうが素敵なことだと思うのよ」
「母さん……」
「そして、何も恐れずに踏み出していける勇気があなたにはある。
あなたの周りにはたくさんの友達がいるでしょう? あなたの言葉を信じて随いて来てくれる友達が。
……それとも、あなたの友達は、悩みや苦しみを打ち明けたら面倒くさいって逃げてしまうような、
そんな薄情な人なのかしら?」
「――それはない。……少なくともそれだけは胸を張れるよ」

 ルノアリーナの問いかけにアルフレッドは少しの迷いもなく頷いて見せた。
 親の贔屓目と失笑されてしまいそうなルノアリーナの言葉は、羞恥心が邪魔して全てを肯定することは出来ない。
そもそも、母に褒められるほど上等な人間であると言う自信は少しもない。
 だが、旅先で出会い、背中を預け合い、ときに激しくぶつかりながら絆を結んだ仲間たちは、
何があっても自分を裏切ったりはしない――その確信だけはある。
 逆に仲間のうち誰かが悩みを打ち明けたとしても、決して疎ましいとは思わないだろう。
その解決へ力を尽くすに決まっている。
 戦場で結んだ絆にはそれほどの強さがあった。
 これ以上ない醜態を晒してしまったときにも彼らは絆を以って受け入れてくれたのだ。
判断を誤ったときは体当たりで止めてくれるともアルフレッドは確信していた。
 仲間たちが存分に力を発揮出来る作戦と、その立案は、彼にとって恩返しでもあるのだ。
自分を見捨てずにいてくれる人々へ何としても報いたいと、アルフレッドは常に意識している。

「それなら安心。……うん、お母さん、安心したわよ」

 淀みなく答えを返した息子へ満足げに頷いたルノアリーナは、
独り言はこれでおしまいとばかりに、声色を普段の朗らかなものへと戻した。
 それから暫くは夫に対する愚痴を息子相手に零していた。

「男は背中で語るって言うけど、男同士ならそりゃいいわよ? 
でも女性にはなかなか伝わらないのよ。お父さんったら結婚記念日だって言うのに何も言わないのよ? 
それで頭に来て口を聞かなかったら、『オレは背中で感謝を語ったんだ』って。それは違うわよねぇ」
「そんなことを仕出かしていたのか、父さんは……」
「言葉に出して伝えるって言っても、アレとかコレって抽象的な言い方はダメなのよ。
以心伝心に慣れちゃうと、いざってときに自分の考えが明確に通じていない可能性もあるんだから」

 こうした愚痴のひとつひとつが、父親譲りの不器用である息子への訓戒のように思えてならない。
 アルフレッド自身、自分に当てはまる箇所を幾つも見つけており、
恥ずかしそうに顔を背けながらも訓戒そのものには相槌を打っていた。

(……勇気、か――)

 暫くはルノアリーナの愚痴に付き合い、苦笑いを漏らしていたアルフレッドだが、
すぐに暗澹たる気持ちが垂れ込めてきた。
 母の訓戒は至極真っ当であり、アルフレッドとしても否定する気持ちは全く起こらない。
 しかし、マリスは違う。
 マリスとの間に在り、いつか決着をつけねばならない問題は、友情や親愛で推し量れるものとは一線を画している。
フィーナとの本当の関係をアルフレッドが告げた瞬間、マリスの心は間違いなく折れてしまうだろう。
 如何なる汚辱を被ることも覚悟しているが、彼女に再起不能なほどの痛手を与えることが忍びなく、
それを考えると、どうしても最後の一歩を踏み出せなくなってしまうのである。
 彼女の為を思えばこそ――そんな言い訳を繰り返しているが、結局は我が身が可愛いだけではないか。
他の誰でもないアルフレッドの理性が糾弾の声を上げている。
 微温湯のように心地好い情況を手離すのが惜しいから、いつまでも結論を先延ばしにしているのではないか――と。
 本当に勇気があるのなら、マリスのことを真剣に想っているのなら、
ルノアリーナの励みで弾みをつけ、彼女のもとへ駆け出せたのではないか。
「大事な作戦遂行の前に士気を乱れさせるわけには行かない」などと小賢しい言い訳すら考えずに、だ。
 懊悩に絡め取られて立ち尽くすのは、「勇気」の二字より遠く離れた卑怯者だからに他ならない。

(――こんな邪な男に勇気など宿るものかよ……)

 幾ら悩んでも、結局は振り出し≠ノ戻ってしまう己が情けなくなり、
心底より消沈するアルフレッドの左手が温もりで包まれた。
 どうやらルノアリーナは、慈愛でもってアルフレッドの心を温め、癒そうとしてくれているようだ。
 掌から全身へと母の温もりが伝わっていくにつれて、歪んでいた心も落ち着きを取り戻していくではないか。

「……母さん、そこまでされたら、まるで俺がマザコ――」

 照れ笑いを引きずりながら振り返ったアルフレッドだったが、そこには既に母の姿はなかった。
 母に代わってアルフレッドの左手を包んでいたのはフィーナだった。
 さしものアルフレッドも呆気に取られ、ポカンと口を開け広げている。
鬱屈と言う闇の中を彷徨っている間にルノアリーナと摩り替わったようだ。
 肝心の母は既にプレハブへ戻ったらしく、影も形もなかった。

「お母さんじゃなくて残念でした。それとも、やっぱり交代したほうがいい?」
「……だから、俺はマザコンじゃない……」

 アルフレッドの心がどこに向かい、何を悩んでいるのか、フィーナも見抜いている。
彼のことを見つめる瞳は、深い憂いと憐憫を帯びていた。

「一緒に乗り越えるって約束したでしょ? 私がついているから大丈夫だよ。
何があってもアルを独りにはしないから」

 あの日に交わした宣誓が、左手を伝って心に響く。
 温もりと癒しをもたらしてくれたフィーナの想いが、アルフレッドを支える何よりの力になる。
そのことに些かの間違いもない。今し方も千切れそうになっていた心を救ってくれたのだ。
 けれども、その優しさがアルフレッドには苦しかった。
 愛する人の温もりに包まれ、心に安らぎを得ること自体がマリスに対する背信であるように思えてならず、
宣誓も、温もりも、癒しも、フィーナの想いさえも耐え難い痛みとして心に突き刺さる。

(どうしようもない臆病者め、卑怯者め。生きていて恥ずかしくないのか……!)

 その夜、アルフレッドがフィーナの手を握り返すことはなかった。
 心が軋む今宵だけは、愛する人の想いへ応えることが出来なかった。





 フィーナの予想通り、シェインとフツノミタマは、出発を数時間後に控えた夜更けにも関らず、
何時もと変わることのない荒稽古をこなしていた。力の入れ具合は普段以上であるかも知れない。
一切の手加減はなく、不出来を咎めて叱声を飛ばしている。
 子どもの面倒を見始めた影響もあるのか、今でこそ丸くなったようだが、
フツノミタマの壮烈さは裏社会でも有名であり、その名を聞いただけで震え上がる者も少なくなかった。
 拷問にも長けている。顔面の生皮を剥ぐようなことも平然とやってのける男なのだ。
 泣こうが喚こうが標的≠ノは容赦がなく、余りに煩い手合いは、逆さ吊りの上で膾斬りにしていた。
 苛烈であった頃を知る人間からすると、今の彼はフツノミタマであってフツノミタマでないような錯覚を覚える筈だ。
 仕事≠フ道具とも言うべき剣術を、噛んで含めるようにして子どもに教えるなど有り得ない話である。
  守孝から借り受けてきた篝火をオノコロ原に立て、その下で稽古を続けているのだが、
これもまたシェインの頼みを容れた形である。
 共に武技を磨くジェイソンとジャスティンも現在はそれぞれの寄宿先に戻り、翌朝の出発に備えている。
フツノミタマとて一度は解散を宣言したのだ――が、精神の昂ぶりを抑えられないシェインから模擬戦を挑まれ、
済し崩し的に稽古を続けているのだった。
 内心、フツノミタマは嬉しかった。
 稽古を始める少し前にマイクから呼び出されたシェインは、餞別として虹色に輝く宝玉の首飾りを授かっていた。
冒険王の話によると、これはレリクスの一種であるそうだ。
 レリクス≠ニはルーインドサピエンス(旧人類)時代の秘宝であり、
現代科学を遥かに超越した神秘的な力が宿るとされている。

「そいつは『フィラデルフィアの虹』って言ってな。強い守りの力を秘めた代物なんだよ。
絶体絶命のピンチのときにもお前を守ってくれるハズだ。……本当は一緒に行きたいんだけど、
アルも助けてやりてぇし――そいつをオレの代わりだと思ってくれ!」

 更には「次に会うときには、今よりもっとでっかくなってるんだろうな。それを楽しみにしているぜ!」と言い添え、
冒険王は神秘の首飾りを手渡したそうだ。
 その話を聴かされたフツノミタマは、当然ながら嫉妬に狂った。
 物で子どもを引き寄せるなど誘拐犯の手口と喚き散らし、
挙げ句の果てには、「あーあ、やる気起きねぇ。やっぱりガキの頃からの憧れのほうが良いのかねェ」と
拗ねてしまったのである。
 そうした事情もあって、フツノミタマにはシェインとの稽古が嬉しくて堪らなかった。
何時にも増して指導に力が入ってしまうのだが、それも無理からぬ話であろう。
 シェインとて厳しい指導を素直に受け入れている。幾度、弾き飛ばされても立ち上がり、剣尖を師匠に向けるのだ。
自分はまだまだやれる――溌剌とした笑顔が彼の意欲を示していた。

「――ッしゃあ、もう一本だ! 敵の刃を鍔で受け止めるときも気合で負けるんじゃねぇ。
防御は尻込みだーっつってブッ千切るのは、早死にするバカの典型だ。
防御も攻撃のひとつと思いやがれ。一瞬たりとも攻めの姿勢を忘れるな。
鍔競りになった日にゃあビビッてると見せかけて、騙されたバカのどてっ腹に柄打ち一発叩き込んだれ!」
「応! 突いて、裂いて、薙いで、カチ割りやがったらトドメに払え! オヤジの口癖、いい加減覚えちまったよ」
「丸暗記してりゃ上出来だ。オレの剣術に逃げはねぇと思いやがれ!」

 シェインとフツノミタマは、互いに本気で斬り結ぶと言う荒稽古を続けている。
薄皮一枚の距離で生きるか死ぬかがすれ違う危険な修練だが、
その甲斐あってか、シェインの身のこなしは日に日に機敏になっていた。
 さすがに師匠の域とまでは行かないが、剣の冴えは鮮やかの一言だ。
 フツノミタマが繰り出した鋭い刺突術を柄頭で弾き飛ばし、
返す刀で豪快な縦一文字、次いで片手一本刺突と次々に斬撃を繰り出し、
更には腕を狙って小さく打ち込み、向こう脛を払うべく斜方にも白刃を振り落とす――
シェインは全ての技を途切れることなく連ねていった。
 流れるような連撃は、フツノミタマの教えを忠実に守ったればこそ身についたものである。
 上達しているのはシェインだけではない。
 稽古を開始した直後は、意味不明な擬音を連発して混乱を招いていたフツノミタマも、
今では理論的な説明が出来るようになっている。
 このように互いを刺激し合っているからこそ、シェインの上達も早まったのであろう。

「ちったぁ筋肉も出来てきやがったか」

 僅かな休憩の時間、タオルで汗を拭くシェインの上体を観察したフツノミタマは、
筋肉の育ち方に満足したのか、薄笑いを浮かべながら幾度も頷いている。

「四六時中、剣を振ってるもん。ロートルなオヤジなんかすぐに追い越してやるぜ」
「バカが。オレの場合、ドス使うのに適した筋肉に育ててんだよ。
そもそも筋肉の作り方に勝ちも負けもねーっつの。そんなもんも分かんねぇようじゃ、まだまだガキだな」
「う、うっせ〜な。そう言うところをちゃんと教えてくれってばよ!」
「――ったく手間のかかるガキだぜ。……いいか、オレの筋肉ってのはな、
居合いを使いこなせるよう反応速度やキレを重視したもんだ。
ってーか、この技を使ってる内に、そう言う筋肉になったっつーほうが合ってるな。
お前にゃ別の剣≠教えてやってんだ。膂力とかよ、使う筋肉がそもそもオレと違うんだぜ。
てめぇはオレとは違う肉体(からだ)に育ってくワケだ」
「……前々から不思議だったんだけど、ドスが得意なオヤジが、なんで長い剣を教えられるの? 
大体、剣の種類だって全然違うし」
「今更かよッ! っつーか、てめぇ、オレをナメてんだろ! 長ェのも短ェのも、どっちも使えんだよ、こちとらッ! 
でなきゃ、最初(ハナ)っから断っとるわ! 暗殺剣なんかガキが使うもんじゃねぇッ!」

 フツノミタマ曰く、長短二振りのドスを同時に振るうのが彼の真髄であるそうだ。
二刀を天地に見立て、これを一(ひとつ)に束ねたとき、初めて奥義にまで達すると言う。
 尤も、現在(いま)の彼は左腕を包帯で吊っている為、真髄であると言う二刀流を披露することは出来ない。
本来の力を封じながら幾多の戦いを切り抜けて来られたのは、
それだけフツノミタマの剣が優れている証左とも言えよう。
 しかし、封印された左腕が実は健常であることをシェインは知っている。
 フツノミタマもそれを隠しているわけではない。包帯で吊ってはいるものの、
左腕の筋肉は右腕と遜色がないほどに鍛えられているのだ。これを見れば瞭然と言うものである。
 戦いの場に於いて左腕を使わない為、敢えて包帯で封印しているのではないかとシェインは想像していた。

(最初から二刀流だったら、アル兄ィだって危なかったんじゃないかなぁ。何だか勿体ない気もするなぁ……)

 彼の左腕を横目で盗み見ては首を傾げるシェインだったが、余計な詮索はするまいと心に決めている。

「――おぉっと、とうとう尻尾出しやがったな、このストーカー野郎め!」

 オノコロ原に不穏当な声が木霊したのは、そのときであった。
 ジェイソンでもジャスティンでもない――誰何しようとするシェインに対し、
宵闇の向こうから突如として棒状の物が投擲される。
危うくブロードソードで弾き飛ばしたが、一秒でも反応が遅れていたら、間違いなく眉間を貫かれたことだろう。
 すかさずシェインの前に立ちはだかり、我が身を盾としたフツノミタマは、
居合いの構えを取りつつも草叢に落ちた棒を探っていく。
暗がりと言うこともあって正確に判別することは難しいが、どうやら槍のようだ。

「実家の手伝いを蹴っといて良かったぜ。居酒屋休んでダチを助けられるなら安いもんだ。
……親父殿に説教されるわ、小遣い減らされるわで明日が怖いけどな」
「――てめぇ、イブン・マスードかッ!?」

 宵闇の向こうから飛び込んできた声には、フツノミタマは聞き覚えがあった。
馴染みがあると言うほどではないにせよ、シェインとて全く知らない声ではない。
 裏社会では『冥星朱砂(みょうじょうすさ)』なる異名を取り、
また『世界一腕の立つ仕事人』と恐れられる男――イブン・マスードである。
 奇妙な成り行きから浅からぬ縁を結ぶことになった『仕事人』だが、
シェインに向かって槍を投擲してきたのは彼ではない筈だ。
 様々な機巧を搭載した義手や短剣をイブン・マスードは得物としていたが、
少なくともハンガイ・オルスにて遭遇した折には、長柄の武器は携えていなかったのだ。
 師弟が惑っている間にも闇の向こうでは金属音が鳴り響く。イブン・マスードが何者かと格闘しているのだ。
その相手こそがシェインを脅かした犯人であろう。
 ここに至って自分たちが危機的な状況に在ることを認識したシェインは、
ブロードソードを構えてイブン・マスードの加勢に向かおうとする。
 しかし、フツノミタマは一喝でもってその動きを制した。
イブン・マスードの相手が闇を棲み処とする裏の仕事人であったなら、シェイン程度では一溜まりもあるまい。
 表と裏――ふたつの世界の戦いは、作法も常識も、何もかもが異なっているのだ。

(クソがッ! 寄りにも寄って、こんなときに仕掛けて来やがるとはッ!)

 フツノミタマはワーズワースでもイブン・マスードと接触している。
その折に「お前は生命を狙われている」と極めて重大な忠告を受けたのだ。
 闇の向こうでイブン・マスードが戦うのは、フツノミタマを狙う者と見做して間違いあるまい。
そして、それは闇を棲み処とする者同士の戦いであることも意味している。
 光溢れる世界で刃を振るうのが似つかわしいシェインを巻き込みたくない――それがフツノミタマの本心であった。

「イシシシシシ――堪らないねェ。恐怖と緊張と驚愕をごちゃ混ぜにした、本能丸出しの殺気だ」

 イブン・マスードの物でもない新たな声は、シェインの背後から聞こえてきた。
 刹那、フツノミタマはシェインの背を守るようにして回り込み、
「薄汚ェ真似なんかしていねぇで、とっとと出て来いやッ! ブッ殺してやらぁッ!」と怒気を爆発させた。

「……それにしても、冷たいじゃあないか。足元に転がっている棒っきれを見た瞬間に気付いてくれよ。
キミにとっても馴染みある物なのだから、ピンと来ないほうがおかしいよォ」

 声の主は珍奇としか言いようのない姿で現れた。
 上体を大きく仰け反らせたまま、爪先だけで歩みを進めているのだ。曲芸を披露する道化師の如き姿とも言えよう。
上半身と下半身が腰を境に直角を描いているので、前方を視認することは不可能の筈である。
 しかし、隙と言うものが全く存在していない。隙を見出して斬り込もうとする者の気魄を
先に挫いていると言うのが正しいのかも知れない。
 全身から迸る殺気が障壁の如く彼を包み込んでおり、見る者全てを圧迫していた。
事実、シェインはブロードソードを構えたままで硬直してしまっている。
斬り掛かろうにも手足が動かないと言う有様であった。

「――やっぱりてめぇ……『ヌバタマ』かァッ!?」

 フツノミタマにはその男の正体が判ったようだ。
 薄汚れたワイシャツに葬儀用のネクタイに締め、鴉の羽の如き色のスラックスと貫頭衣を着用し、
右手には鋭利な銛を携えている――その男を、フツノミタマは「ヌバタマ」と呼んだ。
 名を呼びつけられた男は、哄笑を引き摺りながら上体を引き起こし、舌を出してこれを上下左右に振るわせる。
この舌が爬虫類の如く長細い。正確に測る者はいないが、おそらく一二センチはあるだろう。
 ありとあらゆる挙動にシェインは寒気を覚えていた。戦慄と言うよりは生理的な嫌悪感に近い。
 額から二本ほど飛び出している長い前髪は、昆虫の触角を彷彿とさせた。

(……それも、あんまり出くわしたくないほうの虫だよ、コイツは……!)

 大仰な立ち居振る舞いからゼラールのことを思い出すシェインであったが、
目の前の男が――ヌバタマが輻射させる気魄は、ラドクリフの主人とは対極である。
 気魄の質はともかくとして、身の裡に秘めた暴威(ちから)は、ゼラールに勝るとも劣らないように思える。
 ヌバタマは鴉と同じ色の布切れでもって双眸を覆っており、視界は完全に遮断されているのだ――が、
それで姿勢を崩すことはなく、歩行に支障を来たすこともなかった。
 このような芸当を難なくこなす人間が見掛け倒しである筈がない。

「ハロォゥ〜、フツノミタマ。いや、『秋水』って呼ぶべきかな? 
いや、実に久しぶりだ。具体的には四八一八〇時間ぶりの再見だぞォ〜う」
「――ホント、根っからのストーカー気質だな! 言うことがいちいちキモいぜ!」

 程なくしてイブン・マスードもフツノミタマの真隣へと舞い降りた。
格闘の最中に取り逃がしたのが悔しいようで、「裁判所に接近禁止命令でも出されろ!」と頻りに悪態を吐いている。
 裏社会きっての仕事人ふたりと対峙――片方は世界一腕が立つとまで畏怖されている――したヌバタマだが、
それを恐れるどころか、「感激でお脳が痺れてきたぞ」と哄笑を上げている。
 奇怪な言動も含めて、誰の眼にも正常(まとも)とは思えなかった。
 初対面のシェインなどはヌバタマの一挙手一投足に面食らうばかりだったが、
その一方、理解し難い言動の中にひとつだけ気掛かりなもの見つけていた。

「――『秋水』って誰だよ? あんたか?」

 呼び名であることまでは推察出来たものの、誰を指しているのかが掴めないシェインは、
首を傾げながらイブン・マスードに尋ねかけた。

「物忘れには早すぎるぜ、ボクちゃん。自己紹介ならハンガイ・オルスでもしただろう。
俺にはイブン・マスードってぇれっきとした名前があるんだぜ。『ウース』って愛称で呼ぶヤツもいるがな」
「じゃあ、何なんだよ、秋水って」
「っつーか、ボクちゃん、フツノミタマからホントの名前も知らされてねーのかよ。
……ダメじゃねーか、愛弟子にくらい名前教えとかなきゃ、ねぇ、秋水クン?」

 そう言ってイブン・マスードはフツノミタマに笑い掛ける。このときに用いられた呼び名こそが『秋水』であった。

「ベラベラベラベラと――てめぇがオレの役目取るなやッ! 
……こ、こう言うのはタイミングってもんがあってだなぁ、それを掴めねぇとだなァ……」
「もう名前はいいっつの! ンなこと楽しくくっちゃべっていられる状況かよ、バカオヤジ!」
「てめぇで話振っといて勝手に打ち切んなやッ! つーか、人の本名をンなこと∴オいか、クソガキィッ!」

 イブン・マスード、そして、ヌバタマの口振りからも察せられる通り、『秋水』とはフツノミタマの本名であろう。
 裏社会の人間が称するのは、大抵の場合が異名あるいは偽名である。フツノミタマの場合は前者であった。
無論、ヌバタマもイブン・マスードも本名ではない。
 秋水――と、シェインは心中にて師匠の本名を反芻した。
 フツノミタマ当人にも打ち明ける時機を見計らっていた様子が窺える。彼なりに悩んでもいたようだ。
 他者の口から明かされてしまったことは、フツノミタマにとって本意ではなかろうが、
もっと頭に来たのは、秋水と言う本名に対してシェインの反応が薄かったことだ。
「もっとこう……なんかあるだろ……」と唇を尖らせ、不貞腐れている。
 シェインとて関心がないわけではない。だが、そのことを暢気に問答していられる状況ではない筈だ。
 顔を真っ赤にして憤激するフツノミタマに守られながらも、シェインはヌバタマと睨み合いを演じている。
 片方は双眸を覆い隠しているので、「睨み合い」と言う例えは誤っているのかも知れない。
だが、布切れの向こうから確かに視線のような気配を感じるのだ。
 音に聞く『心眼』の類ではないかとシェインは思っていた。
 心眼とは古来より武術の秘伝であり、視覚を断った状態でも空間の情報を正確に知覚すると言う。
 双眸を布で覆ったヌバタマは、心の眼にて獲物≠品定めしている筈である。

(だからって、遅れを取るわけにはいかないッ!)

 依然として身体は硬直しているが、万が一のときには気迫と覚悟で揺り動かすしかない。
状況次第では『ビルバンガーT』の具現化も考えねばなるまい。
 鋭く気合いを入れ直し、シェインは改めてヌバタマと対峙した。
 闇の住人の殺気を浴びせられようとも、怯むことなく剣を構えているシェインに感心したのか、
ヌバタマは「大人に手間をかけさせない感心な少年だ。実に前途有望である!」と大きく哄笑した。
 その笑気の質が揶揄に近かった所為か、フツノミタマは忌々しげに舌打ちをする。
これもまた愉快であったらしく、ヌバタマの笑い声が一段と甲高くなった。

「暫く見ないうちに人は変わると良く言うが、相棒、お前は本当に変わらんなァ。
元々フケ面であったのだから代わり映えも何もあったもんじゃあないか」
「てめぇにだけは老け面どーこー言われたかねーんだよッ! 相変わらずゾンビみてーな格好しくさりやがって!」
「ゾンビ? 我輩が? 失敬だなァ、一張羅を選んだのだぞ。染み付いた死臭を嗅いで見給え。
たちまちお脳が溶かされてしまうぞ〜?」

 「お前にも染み付いている臭いだがねェ。消せないねェ、ソレばっかりは」とヌバタマは『相棒』を指差した。
 その指摘(ことば)にフツノミタマは一瞬だけ肩を震わせた。
 ヌバタマと同じ死臭を纏っていると言う事実を、背後のシェインがどう思うだろうか――
そのことを想像した瞬間、鋭い恐怖が心を貫いたのだ。
 己が貶められることは構わなかった。一度は闇を棲み処にした人間だ。
我が身が血で穢れていることも言い逃れするつもりはない。
 それでもフツノミタマは動揺を抑えられなかった。闇の住人の穢れ≠知ってシェインが離れていくことが、
今の彼には堪らなく怖かったのである。
 『剣殺千人斬り』の通り名を持つ裏社会の仕事人であることは、佐志の主だった面々は誰もが知っている。
シェインもそれを承知で剣術を授かろうとしているのだ。
 自分を受け入れてくれた人々を思い返し、そこに絆を確かめても、フツノミタマの心には不安が広がっていく。
 シェインはヌバタマの狂気を通して裏社会の闇に触れてしまった。その闇はフツノミタマにも内在している。
だからこそ、喪失の恐怖を拭えなかったのである。

「お前なんかと一緒にすんなよッ! 確かにコイツはバカオヤジだし、ちょっとアレなところもあるけどさ、
お前みたいにトチ狂ってなんかいないんだッ!」

 心を軋ませていたフツノミタマにとって、シェインが発した反駁は何よりの救いとなった。
真隣に立つイブン・マスードには視線でもって冷やかされたが、今の彼にはそれすらも好ましい。

「ンああ〜。そうか――なんか代わり映えしないと思ったら左手の包帯か〜」

 一体、どのような手段を用いているのだろうか。本当に心眼の使い手なのだろうか――
視界を遮断しているにも関わらず、ヌバタマはフツノミタマの左腕が如何なる状態に在るのかも言い当てた。
過去の姿を知っていたとしても、現在の姿は己の眼で視認するか、あるいは他者から説明されなくては分かるまい。
 ヌバタマはトラウムの恩恵でも得ているのか、フツノミタマに尋ねようとするシェインだったが、
眼前の背中から迸る殺気がそれを躊躇わせた。不用意に声を掛けられるような気配ではない。

「もう左手塞いでる必要なんかないだろうに、いつまでもお律儀だねぇ、秋水クンはぁ」
「……ンだとォ?」
「だって、あのコの供養にそんな包帯してるんだろ? 代替品見つけて楽しくやってんのに、
供養も何もあったもんじゃないじゃあないのよ」
「おい、てめぇ、ヌバタマぁ……!」
「代替品を見つけて楽しくやってんだ。嫁さんが見たらなんつーかねぇ。
案外、喜ぶか。ようやっと根暗男が昔を吹っ切ってくれたっつってねェ〜」
「黙れッ! 黙りやがれ、『贄喰(にえじき)』のヌバタマァッ!!」

 あのコの供養――そう揶揄された瞬間、フツノミタマがドスを一閃させた。
口に咥えた鞘より白刃を抜き放つ最速の居合い抜き、『棺菊(かんぎく)』だ。
 電光石火で踏み込みつつ、得物たる『月明星稀』を横一文字に薙ぐものの、
ヌバタマは上体を仰け反らせることで斬撃を躱し、返す刀で振り落とされた縦一文字をも宙返りで避け切った。
 着地するや否や、今度は痩身を蛇の如くうねらせてフツノミタマの股下をすり抜けていく。
 当然ながら、その進路上にはシェインの姿が在った。

「――シェインッ!」

 悲鳴にも近い声を引き摺りながら後方を振り返るフツノミタマであったが、
手遅れであることは彼自身が一番解っている。己の短慮を責めてもいる。
 即座にイブン・マスードがシェインを庇い、ヌバタマと正面切って対峙する――が、
死神の銛が彼らを串刺しにすることはなかった。
 イブン・マスードに肉薄した瞬間、何を思ったのか、ヌバタマは中空へと跳ね飛び、
身を翻すや否や、左右の足裏でもってフツノミタマの両肩を踏み締めた。

「ンン〜、この殺気、たまらんねぇ。『剣殺千人斬り』はこうでなくちゃいかんよ、ンン〜?」

 脛を断ち斬るべく頭上に向かってドスを振り上げるものの、
その寸前にヌバタマは夜空を舞い、再びフツノミタマの正面へと降り立った。
 敢えて神経を逆撫ですることによって『相棒』を弄ぶつもりなのだ。長い舌を振るわせては憤激を煽り立てている。

「オレがいつコイツをそんな目で見たってんだッ!? あいつの……『タテナシ』の代わりなんかにッ!!」

 抜き放ったドスを鞘へと納め、再度、居合いの構えを取ったフツノミタマは、
血走った眼(まなこ)でヌバタマを睨み据えている。眉間にはくっきりと青筋が浮かび上がっていた。
 今こそフツノミタマに加勢しなくてはならないと、シェインも思考(あたま)では分かっているものの、
どうしても次の一歩を踏み出すことが出来ない。どうあっても身体が言うことを聞かないのだ。
 しかし、今の彼を押し止めているのはヌバタマから発せられる威圧ではなかった。
彼自身の脳裏に渦巻く混乱が、フツノミタマの隣に立つことを躊躇わせていた。
 その混乱はフツノミタマが『タテナシ』と口走った瞬間から始まっている。
 シェインは『タテナシ』に聞き覚えがあった。嘗て、フツノミタマ自身が彼に向かって呼びかけた名前である。
 往時のフツノミタマは狼狽と動揺の極致にあり、無意識のうちに誰かと見間違えたのだとシェインは考えていた。
自分に『タテナシ』なる人物を重ねてしまったのだろう――と。

(この男も『タテナシ』ってヤツを知ってるのか……!?)

 フツノミタマから錯覚されて以来、ずっと『タテナシ』と言う名は記憶の片隅に残り、
折に触れて意識していたのだが、しかし、代替品とはどう言うことなのか。
 真相を知りたいと願う反面、フツノミタマの剣幕から触れてはならない名前であることも察せられる。
それ故にシェインは唇を噛み締め、前に立つ背中を見つめることしか出来なかった。
 自然、シェインの面からは勇ましさも消え失せ、懸命になって滾らせていた気魄さえも萎んでしまう。
その弱々しい様をヌバタマは指を差して笑った。
 シェインを嘲笑されたフツノミタマが怒号を張り上げたのは言うまでもない。

「おッお〜う、いいぞいいぞ、それでこそ秋水クン。我輩の最愛の相棒だ。
左手塞がってても殺気はあの頃と少しも衰えておらん。代替品に骨抜きにされたんではないかと心配だったが、
これで我輩も安心した。いや、私情剥き出しな分、あの頃よりおっかないかもしれん。それはそれでヨイよッ!」
「いい加減にしやがれッ! 代替品なんて思ったことは一度もねぇッ! シェインはシェインだッ!」
「イッシシシ――今のでイイこと、閃いたぞ! お前には最も残酷な結末を贈呈して差し上げようじゃないか。
昔の誼(よしみ)もあることだしィ、お脳が痺れるエクスタシーを分けて進ぜよう〜!」

 これまでになく大きな哄笑が宵闇に轟く。
 我慢の限界に達して居合い抜きを放とうとするフツノミタマを押し止めたイブン・マスードは、
そのまま両者の間に割って入り、更にヌバタマに向かって左の義手を突き出した。
 この義手には数え切れない量の機巧が仕込まれているのだが、今、この瞬間に限っては攻撃の意思は見られない。
五指を広げるのみと言うことは、純粋にヌバタマを止めようとしているだけなのだ。
 双眸を布切れで覆い隠したヌバタマにイブン・マスードの動きが見えているかどうかは、
今更、詳らかとするまでもなかろう。

「話を聴きやがれ、『贄喰』のヌバタマ! お前が誰から何を吹き込まれたかは知らないが、
フツノミタマには制裁を受ける謂れはねぇ! スマウグ総業の件であれば、あれは殺された社長側に非がある! 
『ギルド』もそれは了承済みだ! これ以上、勝手なことをするとお前こそ制裁の対象にされるんだぞ!?」
「例えばそう、シェイン・テッド・ダウィットジアク。代替品のボクちゃんにも舞台に挙がってもらってねぇ」
「ウースくんの説得は全無視ですか! そうですか!」

 ギルド――即ち、仕事人を束ねる巨大組織の意向を直に伝えるイブン・マスードであったが、
ヌバタマの耳には全く届かなかったようだ。
 フツノミタマはヌバタマから生命を狙われている。これは間違いない。
その理由が過去の諍いにあるとイブン・マスードは――否、ギルドは推察していたのだが、
「仕事人の掟は破られていない」と言う説得にも耳を貸さないと言うことは、
彼には他に殺す動機≠ェ在ると考えるのが自然であろう。
 如何なる動機かと質すべくヌバタマに迫るイブン・マスードだったが、
後ろから右腕を強く引っ張られたことで、その追求は頓挫してしまった。
 ヌバタマと相対する役目をフツノミタマが奪い取った次第である。
 抜き放ったドスの剣尖をヌバタマの喉元に突き付け、「今、なんつった、てめぇ……」と問い詰める。
彼の双眸には、喪失の恐怖に抗わんとする烈しい意志が滲み出していた。

「てめぇ――シェインに何をするつもりだッ!?」
「小僧に何かするとも決めていないさ。もしかしたら小僧を喰うかも知れんし、お前さんを喰うかも知れん。
我輩にとって一番サイコーなのは、お脳が痺れて昇天出来る殺しかどうか――今も昔も変わらんよォ」

 対するヌバタマは、難詰に答えるつもりなど微塵もないらしい。
 散々に囃し立てても、未だに満足出来ないのか、
「賢い子どもを育てたいなら、毒の味を教えてやるのがコツでオツなんだよおゥ」と、
上体を反り返らせて爆笑している。

「そうそう――何時、その小僧を代替品として見たかって言ってたねぇ。
じゃあ、お前の右手は、今、どこにある? 神業みたいな速さで動いたその手は。
……そいつが動かぬ証拠だよ、秋水クン。取り繕わなくたって、お前は良いパパさんだァ」

 ヌバタマの哄笑に、シェインは今までのことを振り返る。
 不気味な哄笑が背後から聞こえてきた瞬間、フツノミタマはすぐさま我が身を盾にして庇ってくれた。
自分に危害が及びそうになると、それこそ取り乱すほどの勢いで怒り狂ったのだ。
 何よりも深く心に刻み込まれたのは、ヌバタマが『代替品』なる嘲笑を破裂させた瞬間のことである。
これに対し、シェインは『代替品』などではないと、フツノミタマは迷いなく断言していたのだ。
 少しずつ活力を取り戻していくシェインを見て取ったヌバタマは、
嘗ての相棒すら躊躇なく斬って捨てようとするその愛情が理想の父親像――と、哄笑交じりに語った。

「イシシシシシシ――我輩、ますますもってコワしがいが湧いてきちゃいましたよ……イッシシシシシシ――」

 ようやく満足したのか、それとも、別の思料を抱いているのか――
出現した際の逆回しの如く、『贄喰』のヌバタマは宵闇の中へ吸い込まれるように消えていった。
 耳障りな哄笑は、暫しの間、三人の鼓膜にて残響し続けた。

「オヤジ……」
「……今は何も聞くんじゃねぇ。……オレにも整理ってもんが出来てねぇんだ」
「……あぁ、……わかったよ――」

 三人には憔悴だけが残された。窮地を脱したと言う安堵は皆無である。
 フツノミタマが横目にてイブン・マスードを窺うと、彼は疲れた様子で静かに頷き返した。
 フツノミタマはギルドから斡旋された仕事を反故にした。それ故にヌバタマは制裁に及んだ――
これが凶行に至った概略(あらまし)であると、今までは考えられてきたのだ。
 しかしながら、イブン・マスードが代弁したように、ギルドはスマウグ総業社長への報復を正当な措置と認めており、
フツノミタマには制裁を受ける理由が存在しないのだ。第一、ヌバタマに襲撃を命じた者もいない。
 ヌバタマの行動は常軌を逸しているとしか言いようがなかった。
 このような事態に陥った背景だけはシェインも説明を受けたが、彼にはひとつだけ釈然としないものがあった。

「……あんた、なんで佐志にいんの? オヤジのピンチに駆けつけたにしては早過ぎるよな?」
「いやぁ、フツさえ見張ってたら、あの野郎、向こうからやって来るだろうな〜って思ってさ。
案の定、網に掛かって万々歳――だろ?」
「はあァッ!?」

 イブン・マスードの回答にシェインは素っ頓狂な声を上げた。
 それも無理からぬ話であろう。生命を狙われているフツノミタマを囮に使ったようなものではないか。

「ボクちゃんの稽古もバッチシ見てたぜ〜。てか、ちょっと見直しちまったよ。
スカッド・フリーダムのチビ助も、妙に色気のあるオカッパも大したもんだけど、
今の調子ならすぐに追いつくんじゃねーかな!」
「どっちがストーカーだよッ! 影でこそこそ覗き見なんかしてないで、声くらい掛けろよな!」
「敵を欺くには味方からって言うじゃね〜のよ。仲良くお茶してるとこを見られたら、何もかも台無しだろ?」
「だからってッ! ……オヤジは生命まで狙われてたんだぜッ!?」

 このような状況では剣術の上達を褒められても嬉しくはない。ブロードソードを抜き放って追い回したいくらいだ。
助けてもらった恩に免じて、シェインは何とか堪えている。
 フツノミタマも自分が囮にされていたことを初めて聴かされたのだ。
「冴え渡る勘は自分でも怖くなるぜ」と、おどけた調子で話すイブン・マスードの脳天へ報復の拳骨を振り落とした。

「ジョークはここまでにして――とりあえず、オレはヌバタマを追うぜ。
ギルドの面子にかけてもあんな狂人を野放しにはしておけない。人死に酔った者は食い止める。
……ギルドの掟のひとつだ」

 瘤の盛り上がった脳天を摩りながら、イブン・マスードは今後の対応をふたりに告げる。

「……殺るのか、ヌバタマを」
「お前にケリを譲るかどうかは、まあ、見つけたときにでも考えるよ――」

 言うや、イブン・マスードは疾風の如く去っていった。
 彼の気配が完全に消えた後、フツノミタマは重苦しい溜め息を吐き捨てた。
これまでの人生の中で味わった全ての苦渋を溶け込ませたような溜め息だった。

「何も聴くなって言うけどさ――でも、これだけは言っとくぜ。
ボクはあんな気持ち悪い野郎になんか絶対に負けたりしない。
オヤジだってボクの剣の腕は知ってるだろ? ……ボクはオヤジ譲りの剣を信じてる。
ボクに剣の道を教えてくれたオヤジを信じてる」
「てめぇ……」
「それに――……シェインって、名前で呼んで貰えて嬉しかったし」
「……バカヤロ、この……クソガキめ……」

 苦しみに呻く「オヤジ」の背中を、シェインは喝を入れるように平手で打った。
 この光景も何処からかヌバタマに見られているかも知れない。
あの男の狂気を煽ることになるかも知れない――それでも一向に構わなかった。
 握り締めて以来、片時も離さず振るい続けてきた己の剣を、
そして、シェインと名前で呼んでくれた「オヤジ」のことを、シェインは強く信じていた。
 このふたつが近くに或る限り、どんな難敵が相手であろうと必ず勝てる。
『贄喰』のヌバタマだろうと、異世界だろうと、何も恐れるものはない。

(――でも、いつかは話してくれよな。……『タテナシ』って人のこと……)

 篝火に照らされる「オヤジ」の顔を見上げながら、シェインは心の中でぽつりと呟いた。




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