16.いざ異世界


 Aのエンディニオンへ突入する決死隊は、佐志を発つ夜明けを迎えていた。
 バブ・エルズポイントの制圧と決死隊の護衛を兼務する守孝らは港に入って打ち合わせをしているが、
見送りの者――例えば、カッツェやルノアリーナ、ミストと言った人々は、誰ひとりとして姿を見せなかった。
 無論、彼らが薄情者と言うわけではない。見送りは禁じると事前に取り決めておいたのだ。
 これから始まる作戦は、エンディニオンの未来を賭けた戦いであり、
断じてギルガメシュに知られるわけにはいかなかった。
 敵の軍師、アゾットは恐るべき知恵者である。何かひとつでも手掛かりを得ようものなら、
佐志の計画を看破してしまうことだろう。万が一、ギルガメシュの兵士から目撃されたとしても、
軍事行動ではなく単なる遠出だと認識されるよう細心の注意を払っているわけだ。
 ここで盛大に出陣式でも開こうものなら、佐志に蜂起の気配ありと即座に警戒されてしまうだろう。
 アゾット率いるギルガメシュの諜報員が村に紛れ込んでいないと言うことは、ヒューとセフィの調査で判っている。
残念ながらイブン・マスードの侵入は見落としていたが、『世界一腕の立つ仕事人』は特例と言うものであろう。
 現時点ではギルガメシュ側に佐志の動きが露見したとは考えられない。
無事に船を漕ぎ出し、グンガルが率いるテムグ・テングリの部隊と合流した後が本当の勝負≠ニ言うわけだ。
 昨晩、突如として来訪したコールタンは、現在(いま)も村落に居残っている筈だが、
その姿を港内に見つけることは出来なかった。
 尤も、このようなときに彼女が姿を現したなら、全ての努力が台無しになる可能性もある。
暫くは屋内に留まっていて貰いたいと誰もが願っていた。
 コールタンが乗り付けた小型艇には夜の内にビニールのシートが被せられ、
ギルガメシュの船籍であることを隠蔽してあった。
作業に当たった源少七が「なんでこんなコトやってんだ……」と嘆息したのは言うまでもない。
 出発の刻限に向けて、誰もが忙しなく駆けずり回っている。
 その最中、アルフレッドは亡き親友と静かに向き合っていた。
 海と村とを一望出来る丘の上に建てられた慰霊碑の前に跪き、一心不乱に黙祷し続けている。
 親友の――クラップのもとを訪れるのは、これが最後になるかも知れないのだ。
時間が許す限り、彼の為、そして、ギルガメシュの犠牲となった多くの生命の為に祈りを捧げるつもりであった。
 アルフレッドが訪れる少し前には、フィーナとムルグ、シェインもこの場で同じように黙祷を捧げていた。
慰霊碑には鎮魂の鐘も併設されており、その音が朝一番で佐志の村落に響き渡ったのだ。
 出発の前に慰霊碑へ一緒に参じようと、アルフレッドもフィーナたちから誘われていた。
作戦の成否に関わらず、これが暫しの別れになるのは間違いない。だから、家族で一緒に――と。
 けれども、アルフレッドはその誘いを柔らかく断った。支度に手間が掛かると理由を付けて彼女たちを先に向かわせ、
時間が被らないように見計らい、独りきりで丘を登った次第である。
 もしも、最後の機会になるのであれば、誰にも邪魔されることなくクラップと語らいたかったのだ。
 無論、フィーナたちもアルフレッドの気持ちは察しており、慰霊碑の前で待ち構えると言う無粋な真似はしなかった。
 アルフレッドにとって、今は亡きクラップと向かう時間は何よりも大切なのだ。

(ベルは元気でやってるみたいだよ。何だかよく分からないが、フェンシングを始めたそうだ――
ああ、これはもうフィーから聞いたかも知れないな)

 慰霊碑に向けて心の声を投げかけるアルフレッドだったが、女神のもとに昇ったクラップが答えを返すことはない。
それでも天の親友には届いていると、彼は信じている。
 クラップのような話好きが、一番の親友の言葉を聞き漏らすわけがないのだ。
先に訪れたフィーナたちの話にも愉しげに頷いていたのだろう。

(……向こうじゃ何が待っているんだろうな。なあ、クラップ――)

 一先ずの別れを告げて双眸を開くと、丁度、水平線の彼方から朝日が昇ってくるところだった。
 見事な朝焼けである。山間の村で育ってきたアルフレッドにとって、海の朝焼けは幾度見ても格別であり、
圧倒的な美しさの前に心が震わされるのだった。
 今度の作戦が失敗すれば、こちら≠フエンディニオンの朝日も見納めになるだろう。
件の転送装置が事故を起こした場合も同じである。転送が成功しても、そこから先は更に苦しい戦いが続くのだ。

(お前に会うのが早まったら――どれだけ説教されるか、分かったものじゃないな……)

 慰霊碑の向こうに朝焼けを見つめ、鎮魂の鐘に反射した光に目を細めたアルフレッドは、
「……またな、クラップ」と呟きながら、徐に立ち上がった。
 背後に気配を感じたのはそのときである――が、近付きつつあるのが誰なのかも、彼は既に分かっていた。

「……何か用か、ジャーメイン。お前だって今日が出発日だろう?」
「ちょ――なっ、何で、あたしだって分かったのよっ!?」

 振り返った先に在ったのは、予想した通り、ジャーメインその人であった。
 背中を向けたままで名前を言い当てたアルフレッドに、彼女は翡翠色の目を見開いて驚き、
「あんた、何時から超能力に覚醒したのよ!?」などと混乱していたが、別段、不可思議な力を使ったわけでもない。
 足音でジャーメインと判っただけなのだ。正しくは、「足の運び方」と言うべきかも知れない。
二度も格闘戦を繰り広げ、それ以上に長い時間を共有すれば、彼女の足音くらいは聞き分けられるようになるのだ。
 今日のジャーメインは、何時ものパンプスではなくブラウンのスニーカーに履き替えているが、
その靴音とてアルフレッドは以前に聴いている。
 上着(トップス)もカーディガンから桜色のジャージに替えていた。
スニーカーも含めて、ワーズワースを探索したときと同じ組み合わせである。

「はぁ〜、馬子にも衣装とは言ったもんね。随分と様変わりしたじゃない」
「……そうか?」

 今日からパトリオット猟班本来の仕事へ戻る為、ジャーメインは活動に適した装いを選んでいたのだが、
それはアルフレッドにしても同じことが言える。彼もまた大勝負に相応しい出で立ちであった。
 今までにない武装とも言えるだろう。両帝会戦へ臨んだ際と同じようにロングコートの袖に腕を通しているが、
その下では数多の編み鎖が煌いていた。鎖帷子を身に着けているのだ。
 黒く塗装された編み鎖を灰色の下地に縫い付けた物である。
鎖の一部は銀の光沢を放っており、これによって灰色の中に一枚の線画を描いている。
色数は少ないものの、原理としては様々な糸を用いた織物と同じである。
 鎖帷子に浮かび上がったのは、蜘蛛の巣である。
中央には蝉を模した飾りが置かれ、糸によって捕らえられた様を表している。
 昆虫を模した飾りは左の胸部と右の脇腹にも見られる。
ブローチ状の蜻蛉の羽がそれぞれの箇所に縫い付けられているのだ。
まるで、蜘蛛によって食い散らかされた痕跡のようでもある。
 タートルネックのシャツで肌の露出を抑えている点も、外見の印象を変える要因であろう。
普段のアルフレッドはタンクトップを好んでおり、現在の出で立ちとは対照的であった。
 このシャツと鎖帷子の間には鎧下≠も着込んでいる。
以前にK・kから提供された防具――半首(はっぷり)やベスト型のボディーアーマーだ――と比べても
遜色のない物であった。
 使われている材質が普通の鉄とは違うのか、全身に編み鎖を纏っているとは思えないほど身体が軽い。
アルフレッドが得意とする体術の動きを全く阻害していないのだ。
 この鎖帷子はAのエンディニオンへ突入することが決まった夜に守孝より託された物だった。
永らく少弐の家に伝わってきた防具であると言う。
 如何に餞別とは雖も、代々の宝物を受け取るわけにはいかないと、アルフレッドも一度は固辞したのだが、
守孝は決して引き下がらなかった。

「アルフレッド殿は佐志の恩人。ギルガメシュに襲来された折にも我らをお守り下ったではござらんか。
今こそ御恩に報いたいのでござ候。これは佐志の民全員(みな)の思いでござる。
言わば、この鎖帷子は思いの結晶ぞ。その思いは如何なる矢弾にも負けはせぬ。必ずや御身を守護しましょうぞ。
……アルフレッド殿の無事の帰還を、佐志の誰もが祈っており申す!」

 そこまで熱弁されては、アルフレッドとしても断り切れない。
佐志の武者が用いる戦装束――陣羽織を仕立てると言う提案は即座に却下したが、
蜘蛛の巣の鎖帷子だけは、とうとう受け取ってしまった。
 爪先から脳天に至るまで、アルフレッドの新しい装いを観察したジャーメインは、
次いでそっぽを向き、「どうしよっかなー……そんなに良いモノがあるなら出しゃばっても仕方ないかなぁ」と、
何やら要領を得ない独り言を零し始めた。

「さっきからゴチャゴチャと何を唱えてるんだ、お前――」
「うるさい、だまれっ」

 真意を確かめようとしたアルフレッドの顔面に彼女から何か≠ェ投げ付けられた。
 反射的に右手を差し出すと、そこに小物がひとつ落ちてきた。
 白と灰の刺繍糸を中心に編み上げたミサンガである。部位によっては歪になってしまっているのだが、
これも手作りならではの味わい≠ニ言えるだろう。
 縞模様(ストライプ)の素朴な組紐は、どうやらジャーメインの手製のようだ。
 ミサンガには願掛けの意味もある。身に着けた状態で紐が自然に切れると、そこに込めた願いが叶うとされていた。
転じて、幸運を招く護符の代わりに用いられることも多い。
 餞別かとアルフレッドが尋ねると、ジャーメインは俯いたままで首だけを縦に振った。

「お前にしては気が利いて――」

 右の掌に落ちたミサンガを興味深く凝視していたアルフレッドは、
自分の身に何が起きたのか、正確に把握するまで暫しの時間を要した。
 そして、気が付いたときには清涼な芳香が目の前に在った。ジャーメインに抱き締められていた。
 アルフレッドの背に両手を回したまま、己の頬を編み鎖越しに胸板へと押し付けたジャーメインは、
長い長い吐息を漏らした。そこに帯びた熱は、彼女の体温よりも烈しい。
 それは、心の一番深い部分より込み上げてくるものであった。

「――ちゃんと帰ってきてね、アル……」

 暫しの間、互いの体温を溶け合わせていたジャーメインだったが、
やがて名残惜しそうに身を引き剥がし、「……約束破ったら、絶対に許さないから」とだけ言い添えると、
棗紅の長い髪を朝の風に靡かせながら丘を駆け下っていった。
 たった一度、足を止めてアルフレッドを振り返ったが、そのときには何も言わなかった。
 独り残された恰好のアルフレッドは、呆気に取られた様子で立ち尽くし、訳も分からず頭を掻くばかりである。

「ひとりひとりにこんなことをやってるのか。……律儀と言うか、あいつも暇だな」

 ある意味に於いては、アルフレッドはジャーメインの健脚に感謝すべきなのかも知れない。
彼女がこの呟きを聞き取れる範囲に留まっていたなら、まず間違いなく飛び膝蹴りが降り注いだであろう。
 「朴念仁」とは他称にして蔑称だが、この男は今し方の抱擁を単なる別れの挨拶としか感じていないようだ。
 餞別のミサンガを右手首に結んでいると、これを贈った少女と入れ替わる形で別の人間が丘を登ってきた。
ニコラスとネイサンである。すっかり旅支度を終えた様子であり、アルフレッドを迎えに来たことは明らかだった。
 ネイサンは何時ものように商品――リサイクル品あるいは有価物だ――を詰め込んだリュックサックを
背負っているだけだが、隣に立つニコラスの出で立ちは少しばかり異なっていた。
 アルバトロス・カンパニーの制服でもある上下一体の作業着は同じだが、
不可思議な紋様を織り込んだ布をマフラーの如く首に巻きつけているのだ。
バイクを疾駆させる際に邪魔にならないよう余った部分を垂らさず、内側に巻き込んでいる。
 マフラーに織り込まれたのは、マコシカの民が用いる装束と同じ紋様であった。
ニコラスの無事を祈ってミストが拵えた品である。
 その話を教わったネイサンは、羨ましそうに溜め息を吐いたものだ。
彼も最愛のトリーシャをBのエンディニオンへ残していく形であったが、
名残を惜しむどころか、「特ダネがあったら、死んでも確保するように」と尻を蹴り出されている。
 しかも、だ。トリーシャ当人は恋人の見送りもそこそこに、師匠であるジョゼフの寄宿先へ赴いていた。
余りにも非情な優先順位と言えよう。
 遣る瀬ない鬱憤を晴らす術を求めていたネイサンにとって、今のアルフレッドは格好の的であった。
その口元には厭らしげな笑みを浮かべている。

「アルってばモテモテだね〜。『カノジョ』に隠れてバロッサさんと、イイこと=Aしてたんじゃないの?」

 敢えてイイこと≠ニ言う部分を強調してみせるネイサンだが、
具体的にどのようなことが行われていたのかは、坂の半ばからは見えなかったようだ。
 実際にジャーメインの行動を目撃していたなら、このような揶揄は控えた筈である。
彼も、その隣に在るニコラスも、アルフレッドが抱えた複雑な『事情』を承知している。
 ネイサンの意図が掴めないアルフレッドは、「別れの挨拶をしただけだが、それ以外に何があるのか」と眉根を潜めた。
隠す理由もないので、右手を上げて餞別のミサンガも披露する。
 当然ながら、その面には動揺も狼狽も滲んではいない。

「なんだぁ、期待外れ……もとい、見間違いかぁ。さっき、そこですれ違ったんだけど、
あのコ、顔が真っ赤だった気がするよ? 女の子がそんな風になるって、ちょっとフツーじゃないと思うなぁ〜」
「あいつは元から普通じゃないだろう。仮にもタイガーバズーカの武術家だぞ」
「今の話のどこを聴いたら、そんなリアクションが飛び出すんだい……」

 ネイサンの回りくどい言い方にアルフレッドは苛立ち始めていた。
「何が言いたいのか、明確にしろ」と、逆に噛み付きそうな声色である。
 ようやくネイサンも過ち≠゚いたことが何もなかったと得心し、今度はつまらなそうに肩を竦めた。
「景気づけにおっぱいでも揉ませてもらえばよかったのに。そんで、そこを僕らで押さえるワケさ」などと
破廉恥な冗談を口にするあたり、内心では危うい事態を期待していたようだ。
 下卑た笑い声を漏らすネイサンの脇腹を、「オレたちの親友はそんな不誠実じゃないだろ」とニコラスが肘で小突いた。

「そろそろ、戻らないとマジで怒られちまうぜ、アル。船はお前待ち≠チて感じだ」
「ホゥリーにも遅れを取ったか。……ゆっくりし過ぎたみたいだな」
「フツさんに怒鳴られるくらいは覚悟しといたほうがいいかもね。あの人、朝からめっちゃ不機嫌だったよ。
僕なんか、後ろにいただけでキレられたもん」
「それは良い目覚ましになっただろう」
「何だかシェインまでカリカリしてるし、サラウンドでブッ叩かれるなんて、堪ったもんじゃないよ」
「皆、気が昂ぶっているようだな。何か対策を練らなくては……」
「今のお前に出来るのは、一分でも早く丘を下りるってコト。でないと、オレたちまで大目玉だぜ」
「ま、ホントに怒る人はいないと思うけどね。……みんな、アルのことを分かってるからさ」

 ふたりから促されたアルフレッドは、もう一度だけ亡き親友と向き合い、一礼を以って別れの挨拶に代えた。
 ネイサンとニコラスも彼に倣い、朝日を浴びて輝く慰霊碑へと頭を垂れた。


 ネイサンとニコラスから聞かされていた通り、アルフレッドが港へ着く頃には決死隊の総員が既に揃っていた。
バブ・エルズポイントの強襲を担うローガンたちも乗船の支度を半ば完了している。
 皆、アルフレッドの到着を待ち侘びていたようで、口々に遅刻を咎めていった。
フツノミタマから発せられた怒号を除けば、いずれも軽口の範疇である。

「お待ちしておりました、アルちゃん。私どもは何時でも出陣出来ますわ」
「む……」

 第五海音丸の手前にて待機していたマリスは、アルフレッドの姿を見つけるなり弾けるような笑顔を浮かべた。
長らく接触を禁じられていた恋人と再会したような喜びを爆発させている。
 バブ・エルズポイントでは両帝会戦と同じように機動性が問われると判断した彼女は、
長い髪を結い上げ、艶やかなドレスからもんぺに着替えていた。
 適切な判断を褒めようとするアルフレッドであったが、前日までの気まずさもあり、つい口を噤んでしまう。

「――さあ、皆様、船出の時間でございます! 朝日を導(しるべ)に未来へ参りましょう!」

 胸中に抱えた穏やかならざる葛藤が、硬い態度となって発露してしまったが、
マリス当人は気にならなかったらしく、両手を広げて一同に出発を告げている。
 『恋人』である自分こそがアルフレッドの意思を代弁出来るのだと誇っているようにも見えた。

(……一時はどうなるかと思ったが、最悪の事態は避けられたようだな……)

 アルフレッドの中では未だに後ろめたい気持ちが強いのだが、
マリスのほうは、この数日の間に心身共に持ち直したようだ。
 プレハブに引き篭もったままであると聞かされたときなど気が気ではなかったのだが、
普通に接している分には問題のない状態まで復調したように見える。
 さりとて、無理に気を張っている様子でもない。タスクが上手く取り成してくれたものとアルフレッドは想像し、
心中にて感謝を述べた。
 尤も、当のタスクには先ほどから鋭い眼光をぶつけられている。そこに込められた憤怒の念は何時にも増して激しい。
マリスはともかく、彼女とは言葉を交わせるかどうかも疑わしかった。
 出発を前にして気鬱が圧し掛かり、堪り兼ねたアルフレッドは眉間に皺を寄せていく。

「今から景気の悪い顔してどうするの。アルがしっかりしなきゃ、私たちまで不安になっちゃうよ?」
「……分かっている」

 陰気な表情(かお)をフィーナから窘められたアルフレッドは、頬を掻きつつ気を引き締めると、
居並ぶ仲間たちを順繰りに見回していった。
 皆、決意に満ちた面持ちである。
 この中で最も重要な役目を担うのはムルグだ。丈夫なベルトを身体に括り付け、
そのポケットにインプロペリアを収納している。
 頭ひとつ抜きん出た戦闘力と機動力を兼ね備えるムルグに、決死隊の切り札が委ねられたのだった。
彼女であれば、必ずやインプロペリアを守り抜いてくれるだろうと、誰もが信頼を寄せている。

「――出発だ……!」

 アルフレッドの号令に皆が無言で頷き合った。次いで、武装漁船へと乗り込んでいく。
 決死隊は守孝の第五海音丸に、それ以外の者たちは源八郎の星勢号に、それぞれ分乗する手筈であった。
ヒューやローガン、レイチェルと言った主だった面々は勿論のこと、今回は撫子も自ら同行を申し出ている。


 佐志の者たちは、それぞれの場で決死隊に思いを馳せていた。
遠ざかる船影を見送ることは叶わないが、心だけは港へと飛ばしているわけだ。
 手柄に逸る叢雲カッツェンフェルズも、今回ばかりは目立つような振舞いを控えている。
出航への立ち会いが禁じられた意味は彼らとて解っていた。軽率な行動が世界の未来をも揺るがし兼ねないのだ。
 シェインに夢中な稲熟葛(いながり・かずら)も、唇を噛んで見送りを堪えた。
出発の時間が近付くにつれて居ても立ってもいられなくなり、軒先まで飛び出してしまったものの、
心の裡から湧き起こる衝動は地団太を踏んで誤魔化した。
 たまたま近くを通りかかったジェイソンに手製のバンダナ――三毛猫模様の物だ――を押し付けることで
自分を納得させたのである。
 恋する乙女は力技も辞さないと言うことか、何があってもシェインに渡すようトラウムまで使って恫喝した程だ。
 彼女のトラウムは長い髪を結わえているリボンであった。これは一種の媒介として機能しており、
彼女が思念すると布地からヴィトゲンシュタイン粒子が飛び散るのだ。
 このとき、ヴィトゲンシュタイン粒子は赤色の明滅を見せている。即ち、高熱の火花と化しているわけだ。
風に吹かれようとも冷却されることのない火花を降り注がせ、標的を焼き切るのが葛のトラウム、
『火雷(ほのいかづち)』であった。
 強力なトラウムに違いはないが、その程度で負けるようなジェイソンではない。
彼にも一蹴出来る自信はあったが、実戦経験もないような相手に拳を振るうことは出来ず、
「あいつがどうするかは責任持たね〜かんな」と言う条件付きで、仕方なくバンダナを受け取った。
 葛はそれで堪えることが出来たが、我慢と言うものを知らないのがハリエットである。
他のメンバーの制止をも振り切り、単独で港に駆け込もうとしたのだ。
 あわよくば、自分も決死隊に混ざりたいと言う目論見だ。
甲板に飛び込んでしまえば、済し崩しでメンバーに加えて貰えると彼は信じて疑わなかった。
 先手を打って立ちはだかった叢雲カッツェンフェルズの隊長――マルレディが阻止していなければ、
武装漁船は大変な騒ぎになっていただろう。
 葛たちほど直情的ではないものの、ヴィンセントとカキョウも出発に立ち会えないことを口惜しく思っていた。
過ごした時間こそ短いものの、同志≠ニして認めた相手なのだ。
 しかも、ヴィンセントは妻への伝言をアルフレッドに頼んでいる。
私用を押し付けながら見送りにも出ないことへ気が咎めていた。

「――行っちゃった。あたしたちのエンディニオンまで何事もなく渡れたら良いんだけど……」

 窓辺に立ったカキョウは、身じろぎひとつもせずに港の方角を見つめている。
 彼女とその仲間たちが集まったのは、佐志の村役場の第一会議室である。
此処は高台に所在しており、窓からは港の様子が一望出来るのだ。
 彼女の視線の先では、二隻の武装漁船が水平線の彼方へと消えていった。
白い航跡が海原に静かな余韻を残し、カキョウの心に例えようのない感傷をもたらしている。

「今生の別れじゃにゃいにょ。しょんな深刻ににゃってど〜するにょ」

 物思いに耽るカキョウを揶揄したのは、独特な喋り方からも察せられる通り、コールタンであった。
椅子に腰掛けながら美味そうに緑茶を啜り、役場の棚より勝手に引っ張り出してきた煎餅を茶碗の中に浸している。
 ロンギヌス社の者たちを早朝の会議室に召集したのも彼女だ。
委細を明らかにしないまま、「今後のことについて大事にゃ話をするにょ!」と呼び付けたのである。
 己の弁舌でもって数多の人間を死地に向かわせておきながら、
その身を案じようともせず暢気に構えているコールタンに対して、カキョウは眉を吊り上げた。

「友達の心配するのは当たり前でしょ! ただのビジネスパートナーってだけじゃないんだからっ!」

 カキョウにとってフィーナたちはビジネスパートナーとは違っていた。
同志と言うよりも思いはずっと深く、Bのエンディニオンで出来た友人だと考えている。
 自分の為に親睦会まで開いてくれたのだ。その席では悪ふざけが過ぎてしまい、
人間関係を妙な方向に焚き付けたのではないかと心配しているが、
そうした繊細な話題まで語れるくらい打ち解けたと言う思いも強い。
 本音を明かすと、自分も武装漁船に乗り込んで友人たちを護衛したかったほどだ。
 病み上がりと思しきマリスのことも気掛かりだった。彼女を転送装置まで送り届ける為ならば、
右手に携えたMANAの剣――ファブニ・ラピッドである――を存分に振るえた筈である。
 しかし、カキョウにもロンギヌス社のエージェントとしての任務がある。己の本分と言うものがある。
確かに友情は大切だが、本来の持ち場を離れてまで随伴してもフィーナたちは喜ばないだろう。

「個人的にどんな人付き合いをしていようが、それはカキョウの勝手だが、
ロンギヌス社にとって佐志はあくまでもビジネスパートナー。そこを忘れないでくれ」

 佐志の人間と私的な繋がりを持たないナガレ・シラカワは、カキョウの感傷に対しても冷ややかだった。
任務を遂行する上で障碍になり兼ねない情≠ネど、プロフェッショナルには相応しくないと考えているようだ。
 カキョウの双眸が憤りで染まったのは言うまでもない。
 徹底的に抗弁するべく身を乗り出すカキョウだったが、ヴィンセントの隣に立っていたマクシムスが、
彼女よりも早くナガレに「つまらねぇことを言うじゃねーか、ロンギヌス社」と反論をぶつけた。

「あんたの言うビジネスパートナーってのは、どの辺を指してるんだ? サンダーアーム運輸は入るのか? 
ちなみに俺は可愛い弟分を送り出してんだよ。そいつの会社とウチはパートナーみたいなもんだ。
……パートナーだったら、余計に心配になるだろ?」
「ニコラス・ヴィントミューレのことか。アルバトロス・カンパニーの資料は読ませてもらったが、
あんな零細企業、気に留める理由がない。しかも、彼は役員ではないただの平社員だ。
居ても居なくても、何の足しにもならない人種だぞ。何を以ってパートナーと呼ぶのか分からない」

 情と言うものが極めて希薄なナガレの反駁に、マクシムスは深い溜め息を吐いた。

「ソロバン勘定で語るかよ――あのなぁ、親しい人間を遠くに送り出すときは、無意識で心配しちまうもんだろ。
いくら本人たちから心配はいらないって言われたって、どうすることも出来ねぇよ。
それが、思いやりってもんじゃねぇのか。……あんたらが進めている難民ビジネスだって、
思いやりの精神(こころ)が欠かせないだろ? それとも、あんたらの思いやりってのは建前か? 
そっちがそのつもりなら、サンダーアーム運輸は手ェ引いてもいいんだぜ」
「親会社に楯突くのは、利口なやり方とは言えないぞ」
「莫迦で結構。利口と卑怯を履き違えた連中は長続きしねぇよ。長い目で見れば、手を切るのも正解だ」
「俺もサンダーアームに同意見だな。第一、思いやりを否定したらサーディェル会長が泣くぞ。
あの人くらい人情家はいない。……会長の意向に背くつもりか? それこそ利口なやり方じゃねぇぜ」
「……あんたまでそっちに回るのか……」

 ヴィンセントまでもがカキョウやマクシムスの味方に付くと、さしものナガレも返す言葉を失ってしまう。
 相容れない考え方であるが、社内のステータスが高い相手――自分の位階と比して、だ――に逆らってまで
意地を張る理由もない。「情でメシが食えればラクだけどな」と、如何にも分かりやすい捨て台詞を吐き、
後は押し黙ることに決めた。
 「パートナーには信頼が欠かせないでしょ? その信頼は心からやって来るんだよ」と言い諭すカキョウには、
沈黙を以って返答に代えている。

「う〜む、麗しい人間愛だにょ。しょれこそわたきュしがあんたしゃんがたに大事にして欲しいもにょだにょ。
人が人を思う気持ち、しょれがにゃくては、にゃにごとも始まらにゃいにょだ。
キレイにゃ言葉で適当に取り繕っても、しょれは結局絵空事。いつかはボロが出るもにょにゃ。
本当にデカいことをやれる人は、心にガッチリと軸を持ってるもにょだにょ」

 今し方のカキョウの言葉に感心したのか、コールタンは両手を打ち鳴らして賛美を述べた。
 果たして、本当に賞賛しているのだろうか。尤もらしい言葉を並べ立てただけの慇懃無礼ではないか――
表裏比興(ひょうりひきょう)を疑うような言行が多い為、判別が難しいのだ。
 当然ながら、どちらの意図を持っているかによって、拍手の意味も大きく変わってくる。
 カキョウは言葉通りに受け止め、照れ臭そうに含羞(はにか)んで見せたが、
傍らで聞いていたヴィンセントは、これを憎むべき皮肉として捉えたらしい。
 表情を引き締めてコールタンに向き直ったヴィンセントは、続けて穿つような視線を叩き付けた。
 「もう茶番はお開きだ」と言い放つ声は、被告人へ刑を宣告する裁判官の如く冷厳な響きを持っている。

「お人好しのサーディェル会長まで巻き込んでるじゃねぇだろうな、あんた。
ライアンたちを抱え込んで、佐志を操って――ふざけたツラの下で何を企んでいやがる? 
……ことと次第によっては、二度とギルガメシュには戻れねぇぞ」





 アルフレッドたちがグンガルと合流したのは、佐志を発って二日後のことである。
 テムグ・テングリ群狼領の御曹司は、バブ・エルズポイントと向かい合う形で陣を布いていた――と言っても、
敵の正面に馬軍の旗を立てたわけではない。
 肝心のバブ・エルズポイントは四方を海に囲まれた離れ島に所在しており、
迂闊に軍船(ふね)を寄せようものなら、忽ち発見されて開戦に至るだろう。
 斥候を放ってバブ・エルズポイントの周辺を探らせたグンガルは、件の離れ島の近くに岩礁地帯を発見し、
そこに陣所を設けたのである。「向かい合う形」とは、最寄りの場所から睨みを利かせると言う意味であった。
 一口に岩礁地帯と言っても、グンガルたちが見繕った場所は相当に広大で、小島と表しても差し支えはない。
過酷な環境にも適応し得る植物が僅かながら散見された。
 そのような場所は格好のゴミ捨て場≠ナもあるのだろう。
Bのエンディニオン各地に見られるルーインドサピエンス時代の廃棄物が岩礁地帯の至るところへ持ち込まれていた。
 海に面した場所への不法投棄など悪質極まりないのだが、意外にもこれがグンガルたちにとって有利に働いた。
堆く積み上げられた有害廃棄物には誰も近付かないと判断したのだろうか、
重要な軍事拠点から程近い場所にも関わらず、ギルガメシュの手が全く入っていなかったのだ。
 実際、岩礁地帯は有害物質によって完全に汚染されている。海面より突き出した岩までもが畸形なのだ。
自然現象が偶発的に生み出した「奇景」ではなく、紛れもない「畸形」である。
陸地の廃棄物より染み出した有害な液体が、血液の循環の如く岩石内部の空洞を通い、
やがて表面から噴き出されるのだ。潮風と混ざり合えば毒の霧と化し、更に地表を穢していくのである。
 このような岩礁は、他の地域では見ることが出来まい。それ故にギルガメシュの目を欺く隠れ蓑ともなり得たわけだ。
 嗅覚を破壊しそうな悪臭や地表を侵す有害な液体は流石に堪えるが、
クリッターすら寄り付かないので、即時に生命が脅かさせる心配はない。
 だからと言って、長居したい場所でもなかろう。
毒に冒された挙げ句、波浪によって陸地へと打ち上げられた魚の屍骸は、見る者の精神を確実に蝕んでいる。
 アルフレッドたちが上陸した地点は、最も酷かった。
誤って毒の塊≠食べてしまった海鳥の屍骸までもが累々と横たわっていたのだ。
マリスなどは足を踏み入れた瞬間に吐き気を覚えた程である。

 佐志勢を出迎えたグンガルは、このような場所を合流地点に指定したことを陳謝した。
それ程までにマリスの顔色が悪かったのだ。元より色白であるが、現在は病的な蒼まで混ざっていた。
唇に至っては、生気も失せて紫に変色している。
 『恋人』の様子を痛ましく思う反面、アルフレッドはグンガルの機転に拍手を送りたかった。
四方を海で囲まれ、索敵にも抜かりがないであろうバブ・エルズポイントへ接近するには、
これが最善の選択だったと評価している。
 グンガルは実に周到であった。「布陣」と言っても、軍旗を立てることはなく、幔幕も張ってはいない。
それどころか、彼らは馬軍の象徴たる黒革の甲冑すら身に着けていなかった。
 つまり、テムグ・テングリ群狼領の部隊であることが気取られるような物を一切使わなかったのである。
 表向きは降伏した筈のテムグ・テングリ群狼領がギルガメシュの軍事拠点近くに堂々と陣を張れば、
即座に再戦の宣告と看做され、史上最大の作戦は瓦解するだろう。その危険性を回避した恰好である。
 甲冑を脱いだグンガルたちは、非常に砕けた服装だった。
 尤も、この場合の「砕けた服装」は敵に対する偽装が最優先であるので、誰も彼も寛いでいるようには見えない。
慣れない服装に戸惑い、窮屈そうにしていた。
 後見としてグンガルに付き従うビアルタ・ムンフバト・オイラトは、機敏な活動に適したジーンズ姿にも関わらず、
「こんな物は情弱な人間が着るものだ」と居心地悪そうにしている。
 テムグ・テングリ群狼領の中でも本領に近い者――とりわけ旧来の氏族たちは、平服として白い装束を用いていた。
染め糸によって刺繍が施されているのだが、この糸の色で群狼領内部に於ける位階が見分けられるようになっている。
 パラッシュ家の一門であるグンガルは銀、将の座に在るビアルタは赤銅――このように区別されているわけだ。
最も上質な金の糸は「御屋形」を名乗る者の装束にしか使われない取り決めだった。
 エルンストの御曹司と言う立場もあり、普段は白い装束を身に着けているグンガルだが、
今日の出で立ちは随分と奇抜だ。一言で表すなら御曹司≠ニは思えない服装であり、
隣に控えるビアルタは「義兄上がご覧になれば、さぞやお嘆きになるでしょう」と肩を落としている。
 それについてはアルフレッドも同感であった。合流した直後などグンガル本人だと認識出来なかったのだ。
得物のファキーズ・ホルンを担っていたから判ったようなものである。
 ヴィンテージもののジーンズを穿き、迷彩柄のカッターシャツを着ているのだが、
その裾をズボンの外に出し、胸元まで大きく肌蹴ている。
シャツの下は素肌である為、同じ年頃のシェインたちと比して格段に逞しい胸板が剥き出しとなっていた。
 極め付けは装飾品だ。白銀のピアス、髑髏を模した指環、純金の鎖に象牙の尖端を吊るした首飾りなどで
全身を固めた上に、エルンスト譲りの艶やかな黒髪まで茶色に染めてしまっている。
 「装束と一緒に御曹司の立場まで脱ぎ捨ててしまわれたのですか……」とビアルタが嘆くのも無理からぬ話であろう。
 本人曰く、世相を騒がせるアウトローを意識したそうだが、驚くほど似合っていない。
根が真面目と言うこともあり、悪友に触発された優等生が無理に背伸びをしたような佇まいとなってしまうのだ。
 派手派手しい装飾品で補強を重ねるほど、「衣装に着られている」と言う印象が強くなる。
そもそも、彼はアウトローを履き違えているとしか思えなかった。
 奇怪以外の感想が見当たらないグンガルの偽装≠ヘともかく――
万が一、ギルガメシュに発見されたとしても、有害廃棄物の投棄と言い張れば通用しそうではある。
不法投棄を企むような善からぬ輩が、正業に就いていない人間を下請け代わりに扱き使うことは少なくない。
 その点、グンガルは真っ当な生業を持っているようには見えなかった。
 それにしても――とアルフレッドが疑問に思ったのは、彼に随行する将兵が余りにも少ないことだ。
多く見積もっても岩礁地帯には二、三〇人しか居(お)らず、
ビアルタと言った主だった側近しか従えていないことは明らかだった。
 不法投棄の下請けと偽るには十分な人数だが、バブ・エルズポイントを攻める兵力としては間違いなく不足している。
 この疑問に対して、グンガルは「兵力を分散させているだけです。近くの岩礁や小島に置いた者を結集すれば、
四〇〇名は超えています」と胸を張って答えた。
 バブ・エルズポイントが所在する離れ島の周辺には、広大な岩礁地帯が無数に点在している。
総勢四〇〇の手勢を幾つかの隊に分け、その上で各所に潜ませているとグンガルは語った。
 各隊は小船でもって持ち場に漕ぎ着けており、旗艦は更に後方で待機しているそうだ。
 ギルガメシュの警戒心を刺激しないようグンガルも細心の注意を払っていた。
敵に気取られず用意を整えることが奇襲の要であると心得ているわけだ。
 「ナリはともかく中身は抜け目ナシって感じだな。やるじゃね〜の」と、ヒューは口笛を吹いて褒め称えた。

「あ〜ゆ〜離れ島にぽつねんと立ってる敵地っつーのは、包囲し易そうに見えて、実はめちゃくちゃ厄介でよ。
見晴らし抜群だから、向こうは敵の動きも丸見えよ。バカみてーな大軍勢で物量作戦っつーことならまだしも、
普通なら近付く前に狙い撃ちの的ってワケだ。……だからこそ、奇襲がキくんだ、これが」
「身なりを言ったら、うちの宿六も大概だけど、これでも海軍に勤めていたのよ。
その宿六がアホ丸出しでハイテンションってことは、……御曹司≠フ面目躍如ね」
「軍人ってのは合ってるけど、海軍じゃね〜っつの」

 巧妙な手配りを賞賛するヒューとレイチェルに、グンガルは含羞(はにか)みながら一礼した。

「お褒めに預かり光栄です――と申し上げたいのですが、
これは我がテムグ・テングリの軍師、ブンカンの献策なのです」
「ブンカンも来ているのか」

 テムグ・テングリ群狼領が誇る軍師の名を聞き、アルフレッドが嬉しそうに微笑む。
 彼にとって、これほど心強い援軍はない。
また、Bのエンディニオンを離れる前に今後の算段を詰めておきたいとも思っていたのだ。
 ギルガメシュの軍師は強敵であり、これを撃破しない内にAのエンディニオンへ渡ることが唯一の気掛かりなのだが、
同時にブンカンがこちら≠ノ在る以上は安心ともアルフレッドは考えている。
 両帝会戦では一時的な失策を見たが、ブンカンはテムグ・テングリ群狼領と言う巨大な組織を支える軍師なのだ。
局地戦ではなく、より広い範囲で知謀を競えば、アゾットを相手に遅れを取る筈もない。
 ところが、グンガルは苦い表情(かお)を見せるばかりである。
何か気に障ることがあったらしく、ビアルタは露骨に顔を顰めていた。

「……今回は従軍しておりません。ハンガイ・オルスを発つ前に相談し、手筈を整えたのです」

 そこで説明を区切ったグンガルは、苦々しげに口を噤み、暫しの逡巡の後に声を潜めて続きを語り始めた。

「……御屋形様――タバートの叔父上の動きが怪しいのです」

 ここに至ってようやくアルフレッドは――否、佐志勢の誰もがビアルタの表情の意味を悟った。

 タバートの動向を論じる間に、場の空気は軍議のそれへと変わっていった。
 密談を交わす際の倣いと言うべきか、この地で最も大きな奇岩の陰に移った一同は、
グンガルを中心に据え、各々腰を下ろした。地べたへ直に座り込む者も多かったが、それにはかなりの注意を要した。
油断したジェイソンは、危うく有害な液体で衣服を汚染されるところであったのだ。
 そのジェイソンは第五海音丸の船中にて普段着に替えていた。
隊服を身に着けたままでギルガメシュの軍事拠点へ突入すれば、
スカッド・フリーダム本隊にまで良からぬ影響を与えてしまうだろうと懸念したのである。
 スポーツ選手が用いるようなビブスにハーフパンツ、バスケットシューズと言う活動的な出で立ちだが、
オープンフィンガーグローブやマウスピースなど本隊と被らない装備だけは使い回していた。
 佐志を出発する前に葛から押し付けられたバンダナは、現在、彼の額に巻かれている。
 無論、三毛猫模様が気に入って横取りしたと言うわけではない。一度はシェインに渡そうとしたのだ。
 それなのに、ジェイソンは包みを引っ込めてしまった。手を引かざるを得なかった。
 岩礁地帯へ向かう船中では、フィーナを中心にベルが健在であると言う話になったのだが、
そのときにシェインが浮かべた表情を――心の底から安堵した面持ちを目の当たりにして、
親友には何も告げないことに決めたのだ。
 さりとて、葛の必死な顔を想い出すと、海に投げ捨てるわけにも行かない。
「シェインから譲られたってコトにしとこう」と己に言い聞かせ、三毛猫模様のバンダナを巻いたのである。
 「お、随分と可愛いバンダナ、着けてるじゃねぇか。女の子からのプレゼントだったりして」と
冷やかしてくるシェインには、ジェイソンは苦笑いしか返すことが出来なかった。

「――では、始めましょう」

 皆が腰を下ろした頃合を見計らって、グンガルは正式に軍議の始まりを告げた。
 ビアルタはグンガルの傍らにて胡坐を掻いている。タバートの名を口にするだけでも腹立たしいのか、
眉間に浮き出した血管が小刻みな脈動を繰り返していた。
 ルディアから「フッちゃんとそっくりなの」と耳打ちされたシェインは、思わず噴き出してしまった程である。
 その直後、ふたりのやり取りを聞くともなく聞いてしまったフツノミタマが、
眉間に青筋を立てて拳骨を落としたのは言うまでもない。

「叔父上はテムグ・テングリを生き残らせることに腐心しています。
それも、旧来の氏族の集まりとしてのテムグ・テングリを。
……その為には他の何物を犠牲にしても構わないとお考えのようです」
「随分と回りくどい言い方だな。……そんなに言いにくいことなのか?」
「……我が父の財産を頭領の権限のもとに持ち出し、ギルガメシュの高官に袖の下≠ニして配っているのです。
連合軍が窮地に立たされても、テムグ・テングリの本領だけは安堵されるように――と」
「ちょっと待て、それは――」
「――そうだッ! 新たな御屋形はギルガメシュに寝返ったのだッ!」
「……落ち着け、ビアルタ。叔父上が図っているのは、あくまでもテムグ・テングリ存続だけだ。
我々の作戦を密告してはいない。寝返りと決め付けるのは早計だろう?」
「しかし、御曹司ッ!」

 グンガルが打ち明け、ビアルタが憤激したタバートの動向は、子どもたちのじゃれ合いを吹き飛ばす程に深刻だった。
 連合軍の主将の立場をもエルンストから引き継いだ筈のタバートが、
近頃はギルガメシュの高官に贈与を繰り返していると言うのだ。
 現在のところは外部に漏れないよう策を巡らせているものの、何時まで効果を持続させられるかは分からない。
そして、事実が晒されたときこそ、史上最大の作戦は破綻するのだ。
タバートの振る舞いは連合軍と言う繋がりを根底から揺るがすものであった。
 この事態を危惧したブンカンは、タバートに睨みを利かせるべくハンガイ・オルスに留まり続けているわけだ。
正確には、離れようにも離れられないと言うべきかも知れない。
 今回の遠征に関しても、タバートは執拗に追及してきたと言う。
『プール』の侵略を食い止めるのが目的だと誤魔化してはきたものの、
出発の当日まで幾度も尋問を受けたと、グンガルは疲れたように語った。

「ヘイヘイ、バックを振り返ってトライ? そこら中にスパイでも張り付いてるんじゃナッシング? 
チミってばデリケートなことにスローそうだしィ、おニューなオヤカタサマにルックルックのバレバレだったりして? 
ギャンギャンとシャウトするメンてさぁ、セイっちゃノンノンなコトの分別も付かナッシングじゃナイ?」

 いきり立つビアルタを玩具にして遊ぶつもりなのか、ホゥリーは大袈裟に身震いして見せた。
案の定、馬軍の猛将は「そんな間抜けなどするものかッ!」と顔を真っ赤にして怒り狂った。
 一方のアルフレッドは、危急を冷静に受け止めて分析を始めている。
 タバートとはハンガイ・オルスにて顔を合わせたが、万事に於いて隙がなさそうに見えた。
ホゥリーが指摘したようにグンガルの隊へ密偵を放っている可能性も高かった。
 ギルガメシュへの接触をも含めて考えると、これは相当に危うい事態と言えよう。
 アルフレッドは横目で以ってヒューとセフィ、次いでフツノミタマを窺う。
彼らも目配せで応じたが、現在までに穏やかならざる気配≠ヘ確認出来ないようだ。
 三人とも闇≠良く識る人間であり、息を殺して蠢くような気配をも敏感に察知することが出来る。
岩礁地帯に不穏な視線を感じたなら、即座に始末へと動くに違いない。
 フツノミタマは平素よりも数段過敏になっていることだろう。
 アルフレッドたちも第五海音丸の船上にて報告を受けたのだが、
『贄喰(にえじき)』のヌバタマなる仕事人から謂れのない理由で生命を狙われていると言うのだ。

「はてさて――掟破りもしておらん者を別の仕事人が付け狙うなど聞いたことがないのぉ。
『ギルド』は理由なき同士討ちを禁じておるのではなかったかの。あそこは横の繋がりに五月蝿いのでな。
……ヌバタマとやら、自ら破滅に向かっておるとしか思えぬわ」

 裏社会の事情にも精通するジョゼフは首を傾げていたが、フツノミタマの説明を聞く限り、
ヌバタマは正気を失っているように思える。そのような手合いに道理など通じるわけもなかろう。
 タバートとて正気を保っているのかどうか、分かったものではあるまい。
 守旧派に近しいとは聞いていたが、あるいは本当にエルンストの築いた財産や領土をギルガメシュに差し出し、
旧来の氏族のみを保護するつもりでいるのかも知れない。
 そのような暴挙をアルフレッドは正気とは呼びたくなかった。
形振り構わず防御を固めているように見えて、テムグ・テングリ群狼領の力を自ら削ぎ落としているだけなのだ。

(主将の挿げ替えなどしたくはなかったが、……そうも言ってはいられない、か――)

 アルフレッドの危惧を感じ取ったグンガルは、己の胸元を力強く叩いて見せた。

「それについては予防策は取ってあります。我が軍の間諜を放って網≠張りましたが、
どうやらタバートの叔父上が私たちを見張っていると言うことはなさそうです」

 その網≠張ったドモヴォーイと言う将は、テムグ・テングリ群狼領の諜報部隊を率いる男であり、
絶対的に信頼出来ると言い添えたビアルタは、更に「これは御曹司の機転である」とも付け加えた。
 後見として御曹司≠フ器量を知らしめたいのであろうが、
当のグンガルは威張るどころか、迷惑そうに面を歪ませている。

「最善の判断だと思う。この作戦は敵に露見したらお仕舞いだ。レイチェルではないが、まさしく面目躍如だな」
「あ、ありがとうございます……!」

 アルフレッドから適切な対処であったと褒められたグンガルは、忽ち報われたような表情となり、
感無量と言った調子で頭を垂れた。馬軍の覇者の御曹司としては腰が低過ぎるのかも知れないが、
これもまた人柄と言うものであろう。
 それだけにアウトローを気取った装いとの落差が大きくなってしまうものの、
こちらは滑稽と言うよりも愛嬌の類である。
 相好を崩したグンガルとは対照的に、ビアルタのほうは鼻を鳴らしてアルフレッドを睨み付けている。

(シェインがフツに近寄るのを母さんは嫌がっていたが、……今ならその気持ちも分かるかな……)

 本人の前でなければ、アルフレッドは嘲り混じりの溜め息を吐き捨てたことだろう。
 何事に於いて短慮なビアルタは、後見を標榜しておきながら、
己の言行が御曹司≠ノ与える繊細な影響など全く考えていない様子だ。
それどころか、人間の心理など何ひとつ分かっていないようにも思える。
 グンガルの心労は察して余りある。偽装≠ノ当たってアウトロー然とした出で立ちを選んだのも、
周囲からの圧迫に対するささやかな反抗なのかも知れない。
 白い装束に戻った後も、彼はピアスや指環を外そうとはしない筈である。

「――お前たちこそ、今でも本当に我らの味方なのだろうな!?」

 何かにつけてアルフレッドに突っかかるビアルタだが、今日は一段と憎悪の念が強い。
顔を合わせて以来、常に憤然とした態度を取り続けている。
 タバートの件で苛立ちが募っているものとばかり考えていたアルフレッドであるが、
どうやら他にも理由がありそうだ。そして、彼を不機嫌にさせる原因は佐志にも在るらしい。
 今でも本当に味方なのか――問われた意味も理由も分からず、
「一体、何の話をしているんだ」とアルフレッドが尋ね返すと、ビアルタは歯を剥き出しにして怒り狂った。

「ロンギヌスとか言う異世界の企業と同盟を結んだそうではないか! 
自分の記憶が確かなら、そいつらは我がテムグ・テングリの領土を蚕食していた筈だがッ!?」
「控えろ、ビアルタ。皆さんにも考えがあって――」
「――いいえ、御曹司。これはハッキリと確認しておかねばなりませんッ!」

 御曹司たるグンガルから窘められても、ビアルタの憤怒は止まらない。
今にも胸倉を掴み上げそうな勢いでアルフレッドの前に屹立した。
 血走った眼でもって見下ろすビアルタと、無表情に見上げるアルフレッド――
両者は思わぬ成り行きから立ち合ったことがある。そのときと同じ緊張が漂い始めていた。
 風向き≠ェ変わったのは、守孝と源八郎が立ち上がった瞬間である。
睨み合いに割って入ったふたりは、アルフレッドを庇うようにしてビアルタと対峙した。

「異なことを申されては困り申す。ロンギヌス社に義が有りと見て手を結んだがは佐志の決断。
アルフレッド殿とは関係ござらん」
「そのアルフレッド・S・ライアンは佐志を拠点にしているではないか! 
それで無関係とは、苦し紛れにも程があるッ!」
「佐志の運営にケチを付けられちゃ敵わねぇな。こちとら、あんたらの部下でも何でもないんですぜ。
ましてや、テムグ・テングリの領民でもねぇ。一緒に戦う同志ってヤツだ。
あんたも一端の将軍なら、越えちゃならねぇ一線ってのは弁えて欲しいもんでさぁ」

 ロンギヌス社と同盟を結んだことは、あくまでも佐志の運営の範疇であり、
干渉は無用だと牽制する守孝と源八郎だが、ビアルタは彼らを眼中にも入れていない。
 ただひたすらにアルフレッドを睨め付けていた。

「ちょっと偉くなった人間にはありがちな勘違いですよね。世の中の誰もが自分より低く見えてくる。
浅はかで、皮肉なことです。そう言う思い違いをするタイプに限って、
権力(ちから)の及ぶ範囲はごく僅かなのですから」
「やめとけよ、ジャスティン。こんなトコで揉めたって仕方ないだろ」
「でもよ〜、シェイン。ジャスティンの言うことにも一理あるんじゃねーの? 
このニイちゃん、さっきから実のあることをなんも言ってねぇぜ? 一方的にギャーギャー喚いてるだけじゃん」
「うっわ〜、よりにもよって口でジェイソンちゃんにコテンパンにされてるの。この人、ホント〜に終わってるの」
「おいこら、ルディア。遠まわしにバカにすんのはやめろよ。オイラ、バカだけど、そーゆーのは分かるんだからな」
「バカ呼ばわりされたのはこちらだッ! 礼儀も弁えん小僧小娘にそのようなことを言われる筋合いはないッ!」

 ビアルタが外野――しかも年少者だ――へ癇癪を起こしている間に立ち上がったアルフレッドは、
守孝と源八郎を下がらせると、目の前の猛将を「礼儀も弁えないのはお前だろう」とせせら笑った。

「お、おのれ、ライアンッ!」
「佐志の説明を理解出来なかったのか? お前が小僧小娘と見下した人間のほうが余程道理を弁えている。礼儀もな。
ビスケットランチが言った通りだよ。お前の言葉は毒にも薬にもならない」
「む、無知を謗るならば、貴様はどうだ!? 内通者とやらに踊らされているのではないか!? 
それこそ、連合軍を破滅に追いやる元凶だッ! ギルガメシュの走狗と成り下がったかッ!?」
「思い込みもそこまで行き着けば大したものだな。俺たちは内通者の情報をもとに最良の選択を考えているまでだ。
佐志の主だった人間はこちらに残る。万が一、俺たちに何かあっても犠牲は最小限で済む。
……分かるか? こう言うことが計算≠セ」
「またも愚か者呼ばわりかッ!」
「ロンギヌス社との同盟も同じ計算≠セ。彼らとは難民支援の一点で手を結んだまでのこと。
全てを認めたわけではない。テムグ・テングリの領土を切り売りしている点は今後も糾弾していく。
同盟関係だからこそ是正に踏み込めることもあるのではないか?」
「屁理屈だッ! 言い逃ればかりが達者なッ!」
「だが、事実であり、道理だ」

 理詰めで諭そうとするアルフレッドだが、それすらもビアルタの怒りに油を注ぐ結果にしかならなかった。
 今やビアルタは依怙地になっている。独りよがりの感情だけで反発しているようなものであり、
言葉によって鎮めることは難しそうだ。

「……ビアルタ……」

 グンガルは苦み走った面を右手で覆った。
 佐志がギルガメシュの内通者、即ちコールタンと結託したことはグンガルも承知している。
極秘の電話によるものではあったが、既に委細も説明されていたのだ。
 ブンカンやカジャム、ドモヴォーイと言ったグンガルに近しい将たちも、
連合軍にとって望ましい展開であると捉えている。
 佐志とロンギヌス社との同盟は、テムグ・テングリ群狼領の立場としては諸手を挙げて賛成することは出来ないが、
それでも一定の理解は示していた。頭ごなしに裏切り者と批難するつもりはない。
 今し方の説明にもあった通り、アルフレッドたちはテムグ・テングリの領土が買い叩かれる状況を
促進しているわけではないのだ。むしろ、これを戒める立場である。
 難民支援に於ける同盟と言う説明を信じ、領土の蚕食とは切り離して佐志と接するべきだとグンガルは考えていた。
 しかし、ビアルタには物事を割り切って考えると言うことが出来ない。
テムグ・テングリ群狼領への愛情が深過ぎる余り、アルフレッドの言葉を真っ直ぐに受け止められなくなっている。
そこに個人的な嫌悪感まで加われば、暴走としか言いようのない状態に陥ってしまうのだ。

「……控えるんだ、ビアルタ」
「御曹司ッ!」
「――控えろッ!」

 放置しておけば、論争から同士討ちにまで発展すると危惧したグンガルは、ビアルタを鋭い一喝で封じ込めた。
 この場に於いて再戦することも厭わないビアルタではあったが、御曹司の命令には服従せざるを得ず、
不承不承と言った面持ちで引き下がった。
 浅慮以外の例えが見つからないビアルタに成り代わり、グンガルが頭を下げる始末だ。

「揉めんなっつった手前、こんなこと言うのもなんだけどさぁ、……御曹司サンのほうがよっぽどオトナだよなぁ。
世の中のコト、ちゃんと見えてるよ」

 シェインからは感心したような声を掛けられたが、己の後見が短慮を働いたのであって、
グンガルは素直に喜べなかった。

「皆さんには皆さんの考えがあることと思います。佐志がロンギヌス社に歩み寄ったことも含めて。
それで良いのだと私は考えています。連合軍と言っても、利害が一致しないのは当然。それが普通です。
……我々、テムグ・テングリだって一枚岩ではありませんから」
「――あ、いや、ボクはそんなデカいことを言ったわけじゃないんだけど……」

 よもや、グンガルから反応が返ってくるものとは想像していなかったシェインは、
突然のことにしどろもどろになってしまった。子どもの放言として聞き流されると高を括っていたのだ。
 しかし、グンガルは違った。共に戦う同志のことは平等に扱うつもりなのだ。
そもそも、シェインとは年齢も大きくは変わらない。何の気兼ねもなく意見を交わせる筈である。

「叔父上は自分が必ず抑えます。本当の寝返りとならないよう、今まで以上に目を光らせます。
ですから、皆さんは存分に戦ってください。例え、異なる世界であっても武運を――」
「――自分はそれにも納得しかねるのですがッ!」

 収まりが付かず、アルフレッドと無言で睨み合いを続けていたビアルタは、
グンガルの話を端緒として再び憤りを爆発させた。
 今度はアルフレッドも即座に立ち上がる。強引にでも仕切り直しを図り、議論を進めようとしたグンガルの配慮を、
ビアルタは無神経にも踏み躙ったのである。これだけは我慢がならなかった。

「どう言う了見だ。敵の最終兵器を叩くと言う作戦に何の不服がある?」
「不服だらけだ! そもそも、貴様だ、ライアンッ! 御屋形様に忍従を強いていることさえ忘れたか!? 
あそこまで大それた献策をしておきながら、自分は異世界へ向かうだとッ!?」
「貴様こそ『福音堂塔』の詳細を理解していないのか。あんなものが完成してしまえば、逆転どころではなくなる。
先手を打って破壊せしめるのが最優先だ。子どもでも分かる道理だろうが」
「他の者を向かわせて貴様が残ることも出来た筈だとッ! そう言っているのだッ! 無責任にも程があるッ! 
このような人間に生命を預けたのかと、御屋形様とてお嘆きの筈だ……ッ!」

 ビアルタの口にした「御屋形様」とは、言わずもがなエルンストのことである。
 これはアルフレッドにとっても苦しいところだ。ビアルタの指摘は正論そのものであり、
アルフレッド自身が葛藤していることでもある。
 史上最大の作戦を立案した張本人がBのエンディニオンを離れると言うことは、
己の責務を放棄したも同然――この苦悩は、今もアルフレッドの心中にしこり≠ニして残っている。
 崇拝するエルンストの不遇を思い、一日も早い解放と復権を願うビアルタが憤るのは至極当然であった。

「おもろいアンちゃんやなぁ。いちいち突っ掛かるクセして、アルがおらんと何も出来へんっちゅーのかいな。
むっちゃアルのことを頼りにしとるやんけ」

 アルフレッドの苦境を救ったのは、ローガンの一言である。
 その言葉に閃くものがあったネイサンは、「離れ離れになるのが耐えられないんだね〜」と、すかさず後に続いた。

「やたらめったら絡みまくるし、アルのことが好きで好きで仕方ないんじゃないかな。
そうでなけりゃ、こんなに拘る理由がないもん。恋しちゃったんだよ、アルに」
「――なんですとッ!?」

 ネイサンの冷やかしを受けて奇声を上げたのは、ビアルタでもアルフレッドでもなくフィーナである。
例によって例の如く逞しい妄想が脳内を駆け巡った様子だ。
 間もなく鼻血を噴き出すものと予見したタスクは、瞬時にティッシュペーパーを用意し、
次いでフィーナの面へと差し伸べた。この機転は大正解であり、紅の雫は顎先へ滴る前に全て吸い取られていった。
 一瞬、フィーナの狂態に呆然となったビアルタだが、すぐさま気を取り直し、
ローガンとネイサンを相手に「気色の悪いことをほざくなッ!」と怒声を張り上げた。
 心の底から不快であったのだろう。声が裏返ってしまっている。

「自分が言いたいのは――」
「――どうしても承知出来ないと言うのなら、俺だけ残っても構わない。
お前の言うように作戦立案者としての責任を果たさなくてはならないと迷っていたしな」
「む、……むうッ!?」

 抗弁を予想して身構えていたビアルタは、急にアルフレッドが考えを翻したことで拍子を崩され、
次に発するべき罵声に迷ってしまった。
 執拗な糾弾を受けて折れたようにも見えたが、これはグンガルに論破されたわけではなく――

「俺の軽率な行動でここまで怯えさせるとは思わなかった。……本当に申し訳ないと思っている」
「おび……ッ!?」
「テムグ・テングリの人間でさえ、この怯えようなんだ。他の人間の反応は想像するのも恐ろしいな。
それに怯えが伝播することも気がかりだ。……たったひとりの気後れが全軍の努力を壊し兼ねない」
「……貴様、もう一度、言ってみろ……ッ!」
「何度でも言おう。俺ひとりが抜けた程度で取り乱すなど言語道断。
それくらいで立ち行かなくなる作戦なら最初から成功する見込みもない」

 ――次に飛び出したのは、冷笑混じりの挑発である。
 不意打ち気味に皮肉を飛ばす布石として、一旦、引いたに過ぎなかったのである。

「……味方が抜ける穴を自分ならどう補うか。そこまで考える力が我が将士には備わっていると信じてきたのですが、
どうやら、それは私の高望みであったようです。皆様には見苦しきところをお見せして……」
「お、お、御曹司ッ!?」
「エルンストの考えが分からず、御曹司の期待にも添えないとは、とことん見下げ果てた男だな。
……まあ、本当に恐ろしくて堪らないと言うのであれば、残ってやらなくもないがな。
仲間だけを行かせるのは心苦しいが、全軍の士気に関わる問題は見過ごせない」
「ア、アルフレッド・S・ライアンッ!!」

 アルフレッドの企図を察したグンガルも、わざとらしく不安そうな表情を浮かべてビアルタを煽り立てる。
 案の定、ビアルタは憤激と屈辱で全身を震わせている。顔面の筋肉と言う筋肉が攣り上がり、
悪鬼の如き形相を作り出していた。

「――テムグ・テングリ群狼領を舐めるなッ! 貴様の手など借りずとも戦い抜いてみせるわッ!」

 バブ・エルズポイントの所在する離れ島まで届くのではないかと思えるほどの大音声を張り上げたビアルタは、
グンガルに対してだけ一礼すると、そのまま大股に去っていった。
 同じ岩礁地帯に在る以上、どこまで行こうとも直ぐに見つかってしまうのだが、
兎にも角にも、この場から離脱することが最優先であるらしい。
 「色々とムチャクチャじゃないか!」と言うネイサンの笑い声が追い掛けてきても、
ビアルタは振り返りもしなかった。
 後見役が遠く離れたのを見計らってから、グンガルはアルフレッドに「助かりました」と頭を垂れた。
このような姿をビアルタに目撃されたら、何を言われるか分かったものではない。

「それはこちらの台詞だ。御曹司直々に手助けして貰って、申し訳ない。
……と言うか、本当はオイラトに謝らなくてはならないのだが……」
「ああ見えて、ビアルタも良い大人ですから、頭が冷えれば分かってくれると思います。……たぶん」

 議論が進まなくなってしまう為、些か手荒な策を講じて取りまとめたが、
史上最大の作戦を立案した張本人が異世界へ渡ると聴けば、ビアルタのような反発が生じるのは当然であった。
 直情径行の彼は解り易いほうだ。権謀術数に長けたクレオパトラなどは、果たして何を仕掛けるだろうか。
新聞王の不在も含めて、謀略を張り巡らせるには絶好の機会と言えるだろう。
 その一方で、グンガルのようにエンディニオン存亡の危機であると理解してくれる者もいる。
 理解者も、反対者も――双方の意見を受け止めていかなくてはならないと、
アルフレッドは己に言い聞かせるのだった。


 軍議が終わると直ぐに出陣に向けた支度が始まった。その頃になると不貞腐れていたビアルタも復帰し、
配下の者たちに大声でもって段取りを説いていた。
 バブ・エルズポイントへ攻め入るに当たっては、ブンカンより授けられた、ある奇策を講じることになっている。
馬軍の将兵は、その支度に追われているわけだ。この話をグンガル経由で聴かされたアルフレッドは、
「流石はブンカン、見事な策だ」と、ほくそ笑んだものである。
 当のアルフレッドも奇襲に備えて最後の詰めに入った。
インターネットをも駆使して近辺の気象情報を確認し、時間単位の雲行きまで調べ上げると、
夜半過ぎにも作戦に移れるだろうと一同へ呼び掛けていく。

「ギルガメシュの兵器は俺たちを遥かに上回っている。それは砂漠の戦いでも身に染みた筈だ。
しかも、バブ・エルズポイントは最重要な拠点。間違いなくレーダーを駆使して敵の接近を警戒している。
……そこが俺たちの狙い目だ。高性能な機械を頼みにしている人間は、
目の前で火の手が上がると必ずパニックに陥る。自信の根拠を機械に求めたツケと言うものだな。
奴らが失態を機械へ擦り付けている間に一気に攻め切る――と言っても、恐れることは何もないぞ。
レーダーは気象状況にも左右され易い。嵐は俺たちの進軍を妨げる障碍ではない。敵の盾を吹き飛ばす一番の味方だ」

 視界は双方共に悪かろうが、的≠フサイズは向こうが圧倒的に不利。
撃ってくれと言っているようなものだ――ともアルフレッドは付け加えた。
 これによって、バブ・エルズポイントへの攻撃は風雨の到来を待ってから行われることに決まった。
 本来、嵐の中に船を漕ぎ出すなど危険極まりない行為なのだが、
守孝と源八郎は逆に闘志が燃え上がったらしく、勇ましい吼え声を上げている。
 いずれにせよ、嵐は夕方から夜に掛けて訪れると予報されており、現在の天気は晴朗。
テムグ・テングリ群狼領の将兵や佐志の武装漁船など準備に追われる者以外は、
空模様を眺めながら待機することになった。
 一行が布陣した岩礁地帯とバブ・エルズポイントは相当に離れている。
現在は戦闘状態でもない為、海面より突き出した岩々にギルガメシュ側が斥候を放つ理由もない。
余程、目立つような振る舞いさえしなければ、待機中は何をしても自由であった。
 ホゥリーなどはすぐさまにスナック菓子の袋を開け、
「こんな場所で飲み食いする気になれるなんて、絶対、頭おかしいわ」と、ハーヴェストを呆れさせたものだ。
 岩礁地帯に垂れ込める悪臭は、最低最悪としか例えようがないほどに酷く、食事に適した環境とは言い難い。
現にマリスはへたり込んだままである。上陸直後よりは顔色も回復しているのだが、依然として足取りは覚束ない。
 そのようなときこそ『恋人』による介抱は効果覿面なのだが、
当のアルフレッドは、岩礁地帯の突端にて件の離れ島を遠望していた。
 隣にはグンガルの姿が在る。奇襲を仕掛ける先を独りで眺めていたところ、御曹司から声を掛けられた次第である。
 両者の話題は、専ら『メアズ・レイグ』――イーライとレオナのことである。
 グンガルに同行していないことからも察せられる通り、
現在、メアズ・レイグはテムグ・テングリ群狼領とは完全に別行動を取っている。
「ギルガメシュについて極秘の調査を行う」と言う通達を最後に連絡が途絶えていると御曹司は語った。
 その説明を聞いて、アルフレッドには合点の行ったことがある。
 Aのエンディニオンへ突入すると決めた日、彼はメアズ・レイグにもその旨を伝えておいたのだ。
経過の説明が長くなる為、連絡の手段には電子メールを採ったわけだが、待てど暮らせど返信がない。
よもや黙殺されるとは想像もしていなかったアルフレッドは、
ふたりに何かあったのではないかと密かに気を揉んでいたのである。
無論、今日まで電話も通じない状態であった。
 独自に行動をするのであれば、同盟を結んでいる佐志にも一報を入れて欲しいものだ――と、
そこまで考えたアルフレッドは、脳裏にイーライの顔を思い浮かべ、次いで苦笑いと共に頭を振った。
 連絡の途絶を注意されても、彼の不良冒険者ならば、
「俺たちゃ、てめぇの飼い犬じゃねぇんだよ! 好き勝手やらせてもらうぜ!」と悪びれもせずに言い返すだろう。
 メアズ・レイグの承認を得てから異世界へと臨みたかったのだが、極秘の調査であれば諦めるしかあるまい。
折を見て自分のほうから取り成しておくと言うグンガルを信じるしかなかった。
 「あの方は本当に自由ですよね。冒険者と言う稼業(しごと)が少しだけ羨ましいです」と、
朗らかに話すグンガルだったが、途中から少しずつ声に力がなくなっていった。

「……今の自分は、独りの力では何も出来ない半端者ですから……」

 偽らざる思いを吐露するグンガルの面は、痛ましいまでに苦悶で歪んでいる。
 御曹司の悩みは深い。自領を荒らし回る者たちに対処すべくスカッド・フリーダムとの連携を
アルフレッドより提案されたグンガルであったが、その進捗は捗々しくない。
 再三に亘って要請を出し続けているのだが、スカッド・フリーダムは返答を拒み続けているのだ。
書状は黙殺され、説得に赴いた使者もはぐらかされ、連携まで漕ぎ付ける目途は立っていない。
 エルンストが抜けた今、テムグ・テングリ群狼領は他の勢力から軽く見られている――
そのことが御曹司たるグンガルの心を追い詰めていた。
 不逞の輩の取締りにスカッド・フリーダムが同調しないことはアルフレッドにも想定外である。
 『トレイシーケンポー』ことシルヴィオや、ジャーメインを始めとするパトリオット猟班を見れば分かる通り、
義の戦士たちは悪党を決して許せない。不逞の輩が蔓延っていると言う事実に激怒はしても、
見て見ぬ振りなど考えられないのだ。
 それにも関わらず、スカッド・フリーダムは腰を上げようとしないのだとグンガルは語った。

(上層部に問題があると言うことは、度々、聞かされてきたが……治安維持は奴らの本分ではなかったのか?)

 しかし、スカッド・フリーダムとの連携を取り纏められないからと言って、
グンガルの評価が下がるものではない筈だ。

「そうは見えない。エルンストの御曹司に恥じない働きをしているように思えるんだが……」

 これは世辞でも胡麻摺りでもなく、アルフレッドの率直な感想である。
 ブンカンの知略、ドモヴォーイの諜報など、テムグ・テングリ群狼領の御曹司≠ノ許された全ての手段を
グンガルは使いこなしているように思えたからだ。不安要素たるタバートの動向にも抜かりなく注意を払っている。
 十分に名将の器であると、アルフレッドは感じていた。
 エルンストの後継者として申し分ない未来の名将は、しかし、胸中の懊悩に翻弄され、己の可能性すらも疑っていた。

「……近頃、自分が情けなくて堪らなくなるのです。この先、どうすれば良いのかが分からなくて……」

 このような弱音は、決して後見≠フ前では吐かないだろう。
 父が信頼を置き、また己自身もその力量を認め、憧憬すら抱いているアルフレッドだからこそ、
グンガルは胸の内を明かせるのかも知れない。
 それに、だ。テムグ・テングリ群狼領と近しい立場とは雖も、アルフレッドはエルンストに仕官したわけではない。
馬軍にとっては、あくまでも部外者=\―それ故に本音を語れると言うわけだ。
 エルンストの御曹司として、テムグ・テングリの将士に弱々しい姿を晒すわけにはいかないのである。

「アルフレッドさんも感付いておられると思いますが、何かにつけてビアルタは私のことを持ち上げようとします。
……そこまで家臣に気を使わせるなど、私の力量が至らぬ証拠。父の面目を潰しているように思えてなりません……」

 思った通りだと、アルフレッドは心中にて溜め息を吐いた。
 御曹司を守り立てるのは後見として当然の務めであろうが、ビアルタの場合、それが過剰になってしまう傾向が強い。
 グンガルは聡明である。馬軍の将として強く責任感を持ち、己に甘えを許さない。
それにも関わらず、周囲から異常に持て囃されては、却って自信を喪失してしまうのだ。
 『力』とは、己の身を以って示し、確かめ、噛み締めるものであって、他者から押し付けられるべきではない。
栄光や武勲とて同じことである。自らの手で勝ち取ってこそ、初めて自信に換わるのだ。
 心の働き――それも思春期の少年の繊細さと言うものを、ビアルタは全く解っていない。
自分では解った気になって、無粋な真似ばかりを繰り返している。
 決してグンガルの前では口にしないが、ビアルタとは最悪の組み合わせではないかと、アルフレッドは思っていた。
 さりながら、アルフレッドがビアルタの方針を否定するわけにも行かない。
本人と差し向かいで言い争っている最中ならばいざ知らず、この場で「あの男は間違っている」と発言しようものなら、
それは卑怯な陰口となってしまうのだ。
 何事かをグンガルに吹き込めば、ビアルタは一層依怙地になってアルフレッドへの反目を強めるだろう。
現在(いま)の彼に出来ることは、部外者と言う立場を乗り越えない範囲で行える助言なのである。
 訳知り顔で軌道修正を図るのではなく、己の経験を例に引きつつグンガルの心を奮い立たせようと、
アルフレッドは考えをまとめた。

(……グンガルに一番必要なもの……)

 進むべき道に迷って未来が見えなくなったとき、己の心を奮い立たせたものは何であったか――
そのことに思考を巡らせた瞬間、アルフレッドの脳裏には仲間たちの顔が次々と浮かんだのである。
 それこそがグンガルに送る最良の助言であると、アルフレッドは即座に確信を得た。

「うちのシェインを知っているか? 先程、お前とも少し話したと思うんだが……」
「――は? え、ええっと、……はい、存じております。あの空色の髪の――」
「そいつだ。それとオカッパ頭のジャスティン・キンバレンに、
パトリオット猟班のジェイソン・ビスケットランチ――……ああ、パトリオット猟班とは良い想い出がないんだったな」
「いえ、そのことは水に流しておりますので……」
「それなら、話は早いな。少しあいつらと遊んでくればいい。合戦の支度はオイラトが指揮を執っているのだろう?」
「……え?」

 アルフレッドの意図を測り兼ねたグンガルは、呆けたように口を開け広げ、次いで怪訝な表情(かお)を浮かべた。
 当然と言えば、当然であろう。己の拙劣を情けなく思うと告白したのに、
噛み合っていないとしか思えない答えが返されたのだ。
 年齢こそ近いものの、縁もゆかりもなく、同じ苦悩を共有出来るとは思えないような相手と交わったところで、
そこに何の意味があるのだろうか――視線でもって問い掛けると、アルフレッドは薄い笑みを返した。

「行き詰ったときの解決策だよ、俺なりのな。きっとお前にも解って貰える筈だ。
騙されたと思って、試してみると良い」
「は、はあ……」

 得られる効果が伏せられている為、相変わらずグンガルにはアルフレッドの真意が解らない。
 しかし、テムグ・テングリの軍師に勝るとも劣らない知恵者の言うこと、必ずや含蓄が秘められている筈だ。
 そのように自分へ言い聞かせたグンガルは、行儀良く一礼した後、促されるままにシェインたちを捜し始めた。
 若き御曹司の背を見送るアルフレッドは、何時までも微笑を湛えていた。

 シェインたち三人の少年は、アルフレッドの立つ突端とは反対の方角に位置する潮溜まりにて輪を作っていた。
 「潮溜まり」と言っても、窪みを満たすのは海水だけではない。
あちこちに散乱する廃棄物より有害な液体が染み出し、潮の香りをも腐らせているのだ。
 言わば、猛毒が溜まり込むような場所であり、他の者は誰ひとりとして寄り付こうとはしなかった。
好奇心旺盛なルディアでさえ、そこだけは忌避している。
 シェイン、ジェイソン、ジャスティンの三人は、わざわざ人気のない潮溜まりを選んで話し込んでいるわけだ。
勘の鋭い者であれば、それだけでも不自然に思うのだろうが、
如何せん現在のグンガルには、そのような精神的余裕など微塵もない。
 探し始めて五分もしない内にグンガルは三人の姿を潮溜まりに発見したのだが、ここで最難関へ直面することになる。
どのように声を掛けるべきなのか、いきなり詰まってしまったのである。
 確かにシェインとは少しだけ言葉を交わしたが、ただそれだけで「親しい間柄」とは言えまい。
気さくに話しかけるにしても、言い方次第では「やけに馴れ馴れしい」と悪い印象を与え兼ねなかった。
 更なる問題はジェイソンだ。アルフレッドの手前、ハンガイ・オルスに於ける遺恨も水に流したとは語ったものの、
実際は大違いであった。連合軍諸将の前で味わわされた屈辱は容易く割り切れるものではなく、
今も心の片隅に蟠りとして残っていた。
 だからと言って、ジェイソンたちパトリオット猟班を恨むつもりはない。
グンガル自身、憎しみに囚われるほど堕ちた覚えはない――が、すぐさま友誼を結べる自信もなかった。
 もうひとりの『オカッパ頭』に居たっては未知の相手と言えよう。
言葉の端々からは高い知性を感じさせるが、それだけに己の喋り方に迷ってしまうのだった。
誤って品のないことを口走り、その程度かと見下された日には、御曹司としての気位など簡単に折れてしまうだろう。
 『オカッパ頭』から感じられる威圧――グンガルの錯覚とも言い換えられる――には、
エルンストの御曹司もすっかり腰が引けてしまっていた。
 要するにグンガルは同じ年頃の相手との距離の測り方が上手くないのだ。
 同年代の家臣≠ヘ居ても、対等に付き合える相手――身内≠ニ呼べる者だ――は片手で数えられる。
そして、そこには必ず御曹司≠ニ言う立場と意識が含まれるのだ。
 第一、グンガルはテムグ・テングリ群狼領の外に人間関係を求める必要もなかった。
 だからこそ、馬軍とは異なる世界≠ナ暮らす少年たちへの接し方が分からず、戸惑ってしまうのだった。

(しかし、このまま立ち去るのも情けない……)

 一向に考えがまとまらず、視線の合わせ方など新たな問題が噴き出してきたことで狼狽したグンガルは、
潮溜まりに程近い地点にて腕を組み、「頼もうッ!」と威勢よく呼びかけることで己自身の葛藤に折り合いを付けた。
合戦場に於いて一騎打ちを挑もうとしているかのような声である。
 シェインたち三人は揃って肩を震わせた。大音声で驚かされたのが原因ではなく、
密談を交わしていたところを見つかって焦ったような反応である。

「――あっ、お、お邪魔――でしたか? お邪魔でしたよ……ね?」
「邪魔って言うか……」

 正面にグンガルを迎えたシェインも、両隣に立つジェイソンもジャスティンも、誰もが御曹司の来訪に戸惑っていた。
 実はシェインたちは、今の今まで『贄喰』のヌバタマに対する迎撃策を話し合っていたところであった。
 先般の顛末を聞かされたジェイソンは、肝心なところで助力(ちから)になれなかったことを悔やみ、
もう一方のジャスティンは、己の迂闊を反省した上で、次なる襲撃に備えようと提案している。
 親友と、その師匠を脅かしたヌバタマのことを、次の襲撃で返り討ちに仕留めるつもりなのだ。
 しかしながら、ヌバタマを相手にした戦いはギルガメシュとの争乱とは全く無関係のものであり、
今までテムグ・テングリ群狼領の耳に入れることを躊躇ってきたのである。
 それ故に密談と言う形式(かたち)を取ったのだが、シェインたちの苦心を知ってか知らずでか、
現れたのはエルンストの御曹司である。この場に於いては一番聞かせたくない相手であった。
 落ち着けと強いるほうが無理な話であり、慌てたシェインは汚染された海水へ足を滑らしそうになってしまった。

「何か大切なことを話しておられたようですね。……本当、申し訳ない限りです」
「い、いや! べ、別にそんな大切な話なんて! な、なぁ、ジェイソン?」
「お、オイラに振るなよ!」

 密談ではないと咄嗟に取り繕うシェインだったが、躍起になって誤魔化すのも妙である。
ともすれば、佐志がテムグ・テングリ群狼領を欺き、何事かを謀っていると誤解され兼ねないのだ。
 グンガルと相対する内に言い訳が最悪の事態を引き起こすことに気が付いたシェインは、
ますます余裕を失っていく。アルフレッドのように弁舌に長けているわけでもない為、
今や自分でも何を喋っているのか、分かっていなかった。
 シェインの傍らに在るジェイソンもかなりの重症≠セ。
パトリオット猟班はハンガイ・オルスでテムグ・テングリ群狼領と悶着を起こしており、
ジャーメインに至っては、目の前の御曹司に大怪我を負わせてしまっている。
 そうした事情もあってグンガル相手に腰が引けているわけだ。
 対するグンガルの側もパトリオット猟班に蟠りを抱えているので、互いに牽制し合う有様である。
快活なジェイソンとは思えないほど、余所余所しい会話になってしまっていた。
 グンガルともテムグ・テングリ群狼領とも縁のないことが、この場に於いてはジャスティンに幸いした。
完全な傍観者の視点から三者の空気を見極め、一計を案じることが出来たのである。

「……実はシェインさんの恋人について頭を悩ませていたところなのです」
「――ちょ、ジャスティン、お前、何言って……ッ!?」

 話を逸らす為、ジャスティンはシェインとその『恋人』――ベルを一種の身代わりに使った。
恋人の話を第三者に聞かれたのであれば、シェインがしどろもどろになっても不思議ではあるまい。
グンガルとて違和感を挟むことなく納得するだろう。
 勿論、シェインにとっては大迷惑だった。大切な幼馴染みであることに間違いはないが、
『恋人』として扱った経験は過去に一度もないのだ。それを他者から『恋人』などと言われては、
恥ずかしくて堪らなかった。
 満面を羞恥の色に染め上げたシェインは、すぐさま「あ、あいつはただの幼馴染みだッ!」と喚き始める。
これもまたジャスティンの計算した通りである。彼が本気になって照れ隠しをするほど、
色恋の談義と言うその場しのぎの嘘に信憑性が生まれるのだ。

「今更、秘密にしておくことでもありませんので、ざっくばらんにお話し致しますが、
こちらのシェインさん、ギルガメシュに大切な恋人を誘拐されてしまったのです。
今のところ、彼女は人質。我々はギルガメシュと戦う立場。……これが難しい。
どうしたら、彼女に危害が及ばないよう敵の最終兵器を阻止出来るか、それを話し合っておりました。
ひとつ打つ手を間違えば、我々だけでなくシェインさんの恋人まで危ない目に遭わされますからね」
「……もしかして、アルフレッドさんの妹さん――ですか? 確か、そのような話を伺いましたが……」
「ご賢察。彼もまたグリーニャの出身者なのです」
「そうでしたか、それで……」

 先程とは別の意味で何を言っているのか分からなくなってきたシェインを押さえ込み、
ジャスティンは彼の抱える事情を説いていく。
 これこそまさに『大切な話』であり、余人に気取られないよう密談をしていても不思議ではない――
そのような状況設定≠印象付けたわけだ。
 果たして、ジャスティンの計略は奏功した。グンガルとしても会話の糸口が見つかった形であり、
気遣わしげにシェインを見据えると、「お察し致します」と頭を垂れた。

「自分も情人(じょうじん)≠遠い疎開地(いなか)へ逃しておりまして……久しく声も聞いてはおりません。
状況が違うことは重々承知していますが、不安に思う気持ちは自分にも解るつもりです」
「ほう……? 『情人』とは、また趣のある言い回し。私も見習うとしましょう」
「ジョージン? なんでぇ、そりゃ?」
「……ジェイソンさんはもっと本をお読みになってください。愛しく思う女性のことを指しているのですよ。
つまり、シェインさんとは話が合うと言うことです」
「だ、だから、やめろって、そう言うのっ!」

 鉄扇を開いて口元を隠し、意味有り気な忍び笑いを漏らすジャスティンの脇腹を、シェインが肘で小突いた。
『恋人』と強調される度に、この純情な少年の頬は赤みと熱を増していくのである。

「ああ、いえ――この場合、世間一般で言うところの『彼氏』と言うことになりますか……」

 今度こそシェインは海水に片足を突っ込んでしまった。
 グンガル自身は情人≠ニの想い出を噛み締めるようにしみじみと語っているが、
これは相当に衝撃度の大きな発言である。

「か――、彼氏ィッ!?」

 グンガルの情人≠フ話にシェインとジェイソンは揃って素っ頓狂な声を上げた。
さしものジャスティンも呆気に取られ、すっかり口を噤んでしまっている。
 対するグンガルは三人が何について驚いているのか、そのことが解らない様子だ。

「ど、どうなさったのですか?」
「その、なんつーか、あんまり接点がない世界って言うか、なんて言うか……」
「ああ、成る程――」

 シェインの反応から三人の心中を察したグンガルは、得心が行ったように両の掌を打ち鳴らした。

「『ハックスリイ』と言う通商都市をご存知ですか? 冒険王の『ビッグハウス』ほど大きくはありませんが、
海洋貿易も手掛けております。テムグ・テングリから私掠免許を出し、その見返りに軍船の都合を……」
「あー、知ってる知ってる。町の真ん中にデッカい可動橋があるんだよね。ボク、一度、行ってみたかったんだよな」
「相手はその町長の子息です。非凡な商才がありまして、官吏として取り立てました。
今では公私に亘って私の支えとなってくれております」
「い、いえ、私どもが驚いたのは、馴れ初めではなくてですね……」

 返答(こたえ)に窮するシェインたちを見て苦笑したグンガルは、右の人差し指を彼らの前に突き出した。
三人の意識が注がれたことを見て取ると、これを少しずつ動かしていく。
 やがて、グンガルの人差し指は、マリスを気遣うルディアの姿を捉えた。

「――あちらのお嬢さんは皆様のご友人とお見受けしましたが、あの方をそのような目≠ナご覧になりますか?」

 そのような目≠ニは、即ち色恋の対象に入るか否かと言う意味である。

「ないない、絶対に有り得ない。一日中、あんなヤツにへばり付かれたら、こっちの頭がおかしくなる」
「ンな風にマジに考えることなんかね〜べ? シェインにはベルがいるじゃんよ」
「おま……ジェイソンまでッ!」
「生憎と私には将来を誓った相手がおりますので。浮き名を流す趣味もありませんし」

 シェインのことをからかうジェイソンであったが、不意に頭の中に葛の顔が浮かんでしまい、
「なんで、あんな小生意気なガキが……」と慌てて頭を振った。

「――そう言うものなのです。誰かを愛しく思うとき、そこに拘りを持つ理由はありませんよね。
慈しむ相手は、あくまでも人=B友情と愛情を混同しないのと同じように、心の有り様は誰もが同じと言うわけです」

 シェインたちが無意識の内に感じていた抵抗≠グンガルは敏感に察知し、
それが偏った見方へと変質する前に情≠フ在り方について諭していった。
 逸早くグンガルの思慮を見抜いたジャスティンは、
「自分の心が選んだ『相手』だから好ましく想う――と言うわけですね」と頷いて見せた。

「シェインさんと同じように私にも幼馴染みの許婚がおります。
いずれ、その娘を娶ることになるでしょう。それもまた人の情=B
……テムグ・テングリの氏族から選ばれた者――とも言えますが、
その許婚を慈しみたいと、私自身も願っておりますので」

 グンガルから語られた話を頭の中で整理したシェインは、「何だかスゴいなぁ」と感じ入ったように吐息を漏らした。

「ボクらと同い年くらいだろ? それなのに自分以外の人生に責任持ってるなんてさ。
あ――御曹司なんだから、いつも自分以外の生命を預かってるのか」
「私はまだテムグ・テングリと言うものの全容が掴めておりませんが、背負う荷≠ヘとても大きいようですね」
「父ちゃん捕まって苦労してんのに、そう言うのを顔に出さねぇもんな。……オイラにゃ真似出来そうにねぇや」

 生きる世界≠フ違いと言うものを感じたシェインたちは、しきりに頷き合っている。
 過剰な意識≠植えつけてしまったかと急に表情を曇らせるグンガルだったが、
それを察したシェインは徐(おもむろ)に頭を振った。今度は彼が諭す番であった。

「立場とか色々違うかも知れないけどさ、ボクらはみんな一緒だって、そんなことを思ってたんだよ」
「みんな一緒……?」
「だって、そうじゃないか。人を好きになる気持ちとかさ、ボクらと何も変わらないもん――って言っても、
ボクは別にベルとは、そーゆー関係じゃないから、そこんとこ、勘違いしないようにッ!」

 シェインはグンガルとの間に感じた差≠埋め難い溝と捉えたわけではない。
貴賎の格差として恐れを為したわけでもない。むしろ、その逆である。
 人を想う気持ちの前には誰しもが平等であると分かり、一気に親しみを覚えていた。
生まれ育った環境も、生きる世界≠煦痰、かも知れない。余人には計り知れない重い荷≠背負っているのだろう。
 それでも、心の在り方は一緒なのだ――。

「貴方は不思議ですね。……今の話を聞いたら、『みんな一緒』なんて言わないと思いますよ」
「そうかなぁ? ボクには一番分かり易かったけど……」

 少なくとも、グンガルの身の周りにはシェインと同じことを言う者は皆無であった。
『みんな一緒』などと言う思量は挟まず、平身低頭して御曹司≠フ言行を認めるのみである。
 心を通わせる情人≠煖枕・も、グンガルには御曹司≠ニして接していた。

「お〜、今、お坊ちゃんのことがすっげー身近に感じたわ。そうそう、コイツ、おかしなヤツだよな〜」
「私も同感です。そのおかしな人に巻き込まれて、何時の間にやら、こんなところに居るわけですけどね」
「ボクを奇人変人みたいに言うなよ〜」
「自覚がないのであれば、そろそろ認識を改めて頂かないと。……あなたは十分におかしな人≠ネんですよ」

 『みんな一緒』だと語るシェインを通して、ジャスティンやジェイソンとも繋がっていく。
その連鎖もまたグンガルには不思議であった。
 ただひとつ、確かなことがある。
 つい先程まで己のことを矮小だと思い詰めていた筈なのに、何時の間にか、心を軋ませる懊悩が吹き飛んでいたのだ。
 根本的な解決になっていないことは分かっている。エルンストの御曹司として拙いと言う点は、
強く自覚して乗り越えなくてはならない。それはグンガルが背負った最大の荷=\―宿命と言うものである。
 それでも、だ。今のグンガルの心には、苦難に臨めるだけの活力が漲っていた。

「……『みんな一緒』だと仰って下さるのなら、お坊ちゃんや御曹司と呼び方も止めて貰えると嬉しいのですが……」
「それこそ願ってもねぇや。堅苦しいのはオイラも趣味じゃね〜しよ。よろしくな、グンガル!」
「あなたは無遠慮が過ぎますよ。親しき仲にも礼儀あり。慎みと言うものを学んでください、ジェイソンさん」
「じゃあ、グンガル――ボクたちからもひとつ。敬語、止めようぜ。年齢(とし)だって変わんないだろ? 
もっとフレンドリーに行こうじゃないか」
「分かりまし――……分かったよ」
「少しずつ、慣れて行けばよろしいかと。グンガルさん、何事も焦らずにね」
「――まあ、敬語云々を言うなら、ジャスティンも大概だけどな。いい加減、サブイボ出そうだもん、オイラ」
「私の場合は性分ですから。ジェイソンさんのほうが慣れて下さい」
「見たか、聞いたか、グンガル? コレがおめ〜との違いだよ。
コイツの性分ってのは、所謂、慇懃無礼だからよ。目ェ付けられて、いじめられないような!」
「失敬ですね、ジェイソンさんは。……おっと、今のはこちらこそ失敬でしたね。
あなたの教養≠ノ合わせて接するべきでした。誠に申し訳ありません」
「ほら出た、コレだよ」
「……ふたりとも、その辺にしとけよ。グンガル、引いてるからな。早くも引かれてるからな、お前ら」
「そんなことはないんだが、……少しだけ驚いたかな」

 ようやくアルフレッドの言葉の意味を悟ったグンガルは、シェインたちのやり取りに微笑みつつ、
心の中で静かに礼を述べた。
 得難い機会を与えてくれた在野の軍師に、そして、新たに絆を結んだ友に――。

「……恵みの雨も近そうですね」

 ジャスティンが天候の変化に気付いたのは、まさしくそのときであった。
 アルフレッドが好機と語る嵐は、間近に迫りつつある。




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