3.暴動の波紋


 ゼラール軍団からカレドヴールフとの関係を怪しまれるアルフレッド・S・ライアンは――
その日、潮風と陽光を浴びながら佐志の砂浜を当て所もなく漫(そぞ)ろ歩いていた。
 先日まで拝借していたロンギヌス社の制服は持ち主のヴィンセントへ返却しており、
現在(いま)は普段の出で立ち――マントの如く羽織ったロングコートにタンクトップ、
ジーンズにチャップス――へと戻している。ペンダントとして垂らした灰色の銀貨は、胸元にて陽の光を跳ね返していた。
 世情の乱れに乗じて一稼ぎしようと目論む海賊や、一度は撃退せしめたギルガメシュの再上陸を警戒し、
要所の巡邏に勤しむ源少七が遠くに見える。
いつにも増して熱が入っている様子だ。村の勇士を引き連れているだけでなく完全武装という出で立ちであった。

 先日のことである。フィーナやシェインはワーズワースへ渡航する最中に奇妙な海賊団と遭遇していた。
フィーナたち一行には撫子も同行していたのだが、佐志の一住民として近海の賊に関する知識を備えた彼女ですら、
件の賊徒には心当たりがなく、帰還後に話を聴かされた守孝や源八郎にも心当たりがなかった。
 佐志の人間にとっては、正真正銘の新手≠ニ言えるだろう――が、海賊との戦いに加わったダイジロウとテッドは、
襲撃者の正体を『緬(めん)』という国の人間だとすぐさまに見破った。
 フィーナたちを襲った賊はMANAを武器にしており、
ダイジロウやテッドと同じAのエンディニオンの人間であることは明白だ。
クレオパトラより派遣されてきたふたりが敵の正体を知っていても何ら不思議ではない。
 緬とはAのエンディニオンに存在する国家のひとつであり、そこに巣食う悪逆非道の一味は、
故郷でも同じような海賊行為を繰り返していたとダイジロウは語った。
 これにはニコラスも頷いている。彼はアルフレッドたちと協力し、
テムグ・テングリ群狼領の領地を不当に占拠していた『プール』なる一味を倒したばかりだが、
驚くべきことに、そのプールは緬と戦争状態にあったのだ。
 緬とプールは、来るべき決戦に備えてBのエンディニオンを侵略し、力を蓄えようとしているのではないか――
ダイジロウやニコラスの説明を耳にした誰もが、思いがけない危機に戦慄していた。
異世界の争乱がBのエンディニオンへ持ち込まれた恰好なのである。
 さしものアルフレッドもこのような事態は想定しておらず、新たなる脅威には大いに頭を悩ませていた。
ただでさえ憂慮すべき問題が山積しているのに、何故に面倒ばかりが増え続けるのか――と。
 バリケードといった浜辺の備えを検めている源少七や、
頼まれてもいないのに巡邏に加わった叢雲カッツェンフェルズとすれ違っては声を掛けられるものの、
いずれも空返事ばかり。ハリエット・ジョーダンが調子に乗っていても窘めようともしなかった。

「おう、見たか、みんな!? アルフレッドさんはおれたちに佐志を守れって言ってくれたんだ! 
葛(かずら)、ギャスパール、おれに随いてこいよ! どこまでもなッ!」
「オレは別に構わねーが……」
「寝言は寝て言えよ、抜け作。私はシェイン様と添い遂げるって心に誓ってるんだから。
あんたを立ててんのは義理よ、義理。チームに迷惑かけたくないし」
「よく言うぜ、天邪鬼め。マジでイヤなら、とっととチームを抜けてんだろ? わーってるって、素直になれよッ!」
「……うちの相棒がホントすまねーな」
「責任を感じているなら、あの抜け作の首を絞め上げて欲しいわね、一秒でも早く」

 誰がどう見ても度を越してきたハリエットには、叢雲カッツェンフェルズのお目付け役であるミルクシスルから
拳骨という名の教育的指導(ツッコミ)が降り注いだが、己の役目を代行してくれた彼女にも
アルフレッドは無反応だった。
 彼の心は思考の海に溶け込んでしまっているのだ。

 ワーズワース暴動から五日が既に経過していた――が、アルフレッドの思考は、今もって件の悲劇に囚われている。
最早、取り返しの付かない惨劇へと思いを巡らせ続けている。
 潮薫る快晴の空へと向けられた深紅の双眸は、決して虚ろではないものの、
何処に焦点を合わせているのかが定かではない。
 もしかすると、空と海とが交わる狭間にワーズワースの亡霊でも見ているのかも知れなかった。
惨劇の舞台に居合わせながら何も救えなかった忌まわしい記憶が、悔恨とも呼ばれる心の傷痕が、
哀しき幻像(まぼろし)を生み出しているのだろう。

「――何を考えておいでですか、アルちゃん」

 アルフレッドの背中を呼び止めたのは、源少七でもハリエットでもない。
そもそも、彼らが「アルちゃん」という愛称を用いることは絶対に有り得ないのだ。
 この愛称で呼ぶ人間はごく限られており、「蕩けるような声色」を基準に定めて絞り込むと、
該当者はただひとりになる。
 愛しい恋人の姿を砂浜に見つけてやって来たマリスであった。
彼女の従者たるタスクも砂浜に刻まれた主の足跡を追っている。

「……俺が考えていることは常にひとつ――ギルガメシュを討つことだ」

 彼と同じ風景(もの)を分かち合いたくて水平線へと視線を巡らせるマリスだが、
当のアルフレッドは相変わらずの朴念仁。恋仲≠フ相手がいじらしい態度を見せているにも関わらず、
怖気が走るほど殺伐とした答えを返すとは、人間の心の機微が解っていない証左であろう。
 ふたりの様子を見守っていたタスクは、無粋なアルフレッドに呆れを通り越して驚愕し、
窘めることすら忘れて固まってしまった。

「アルちゃんのいけず。可愛い恋人が傍にいるのですよ? 
少しくらい気の利いたことを言ってくれてもよろしいじゃありませんか。
例えば、そう――空の青さにマリスの黒髪は映えるね……とか」
「そう言う甘ったるい付き合いを望んでいるなら他所へ行くのだな」
「またそんなむごいことをおっしゃって……」

 佐志へ帰還して間もなく内通者であるコールタンからアルフレッド宛に連絡が入ったのだが、
その電話を境に彼の表情(かお)は、身に纏う気魄は、今までになく険しいものになっていった。
 グリーニャと同じ惨状が繰り返されたことでギルガメシュに対する怒りが一等昂ぶったのは間違いない。
今のところ、嘗てのような狂乱は見られないが、心の裡が嵐の如く荒れているのは誰の目にも明らかだ。
 仲間たちと会合を持ったときは特に酷かった。同じ空間にフィーナたちが居ると知っていながら、
彼は何の躊躇いもなくシガレットに火を点けたのだ。
女性や子どもの前では絶対に喫煙はしないと自分自身に課していたアルフレッドが、だ。
 ジャーメインがシガレットを取り上げ、我に返ったアルフレッドはすぐさま皆に陳謝したのだが、
このような失態は平素の彼には考えられず、正常な判断を欠いているものと察せられた。
 コールタンの電話から一日置いて多少は落ち着いた――かのように見えたのも束の間、
その日に起きた想定外の事件によって彼の心は再び揺さぶられ、明けた五日目は眼光まで鋭さを増している。
 ジャーメインから「ギルガメシュより人殺してそうに見えるわよ」とまで揶揄される始末であった。

「あのこと≠お考えなのですね……」
「ああ……」

 重苦しい声質(こえ)からアルフレッドの心中を察したマリスは、彼の背中へしな垂れかかると、
「責任を取らせたからと言って、ギルガメシュの何が許されるのでしょうか……」と深い溜息を吐いた。
 ギルガメシュが志の組織であることを証明するべく、
カレドヴールフはワーズワース暴動に関わった兵士をひとり残らず処刑し、その一部始終を全世界に向けて公開した。
仮面を外すという世紀のパフォーマンスと同じようにリアルタイムの放送である。
 獣骨の十字架へ磔にされた哀れな罪人たちをルナゲイト中に引き回したカレドヴールフは、
文字通りに死者へ鞭打ち、遺骸を一箇所に集めると、磔台を円状に打ち立て、そこに炎の洗礼を浴びせた。
 曰く、罪を浄化する聖なる炎であるという。
 獣骨の十字架も、聖なる炎による浄化も――全てがイシュタルの預言者≠ノよって定められた儀式の復古であった。
聖なる炎による浄化≠ニいう厳(いかめ)しい呼称とは裏腹に、実際には火炎放射器でもって磔台を焼き払ったのだが、
それは現代ならではの応用であろう。裁きを与える罪人が余りにも多かったため、敢えて儀礼を簡略化したとも言えよう。
 数多の遺骸が火炎放射によって崩れていく様は、背筋が凍り付く程に惨たらしいものであったが、
カレドヴールフの意図は、むしろ凄惨な仕打ちによって一等強調されたのかも知れない。
 いにしえの儀式を以ってして、不貞を働く者は身内であろうと容赦なく裁くという決意表明に代えたのだ。
 預言者の定めた磔刑を復古させたことに如何程の効果があるかは知れないものの、
少なくともカレドヴールフたちが勝利に驕る悪党でないことは、Bのエンディニオンに広く流布されたであろう。
 ギルガメシュの名声に左右される戦略を案じ、これを司ることになったアルフレッドにとって、
カレドヴールフが打った一手は決して愉快なものではない。
 世界中の人々が儀式の復古を見守ることになったのだが、
この放送にはギルガメシュの潔白を証明する以外に、もう一つ別の意図も含まれていた。
 悲惨としか言いようのない難民キャンプの現状をBのエンディニオンに――
難民を受け入れる側≠ノ知らしめる狙いもあったのだ。
 ジプシアン・フードやスカッド・フリーダム、あるいはフィーナのような有志が
難民キャンプの支援に乗り出すことへ期待したのか、そこまではアルフレッドにも読み切れなかったものの、
難民と呼ばれる存在がどのような苦境に在るのかは世界中に知れ渡った筈である。
 ワーズワースでは悲劇的な事件を引き起こしてしまったが、ギルガメシュが支援活動を実際に行なっていることも、
放送を通じて大いに喧伝できただろう。
 思ったことをそのまま口に出すハリエットは、
「ギルガメシュめ……クソ野郎の集まりと思ったけど、案外、イイ奴もいるんだな」と、
無神経にも程がある失言をして場の空気を凍りつかせたものだ。
 儀式の復古と罪人の粛清はカレドヴールフの一存に拠ると、件の放送では繰り返していたが、
副次的な効果を整えたのは敵方の知恵者に違いない――
深慮望遠を取り仕切れる優秀な軍師がギルガメシュには付いていた。

(アゾット――聴いた憶えのない名だが、……いや、カレドヴールフと同じようにコードネームか……)

 ワーズワースの調査と引き換えにコールタンから聞き出した内部情報に拠れば、
諜報部隊を指揮するアゾットなる男がブリーフィングにて作戦立案を主導しているという。
その男こそがギルガメシュの軍師であった。
 ギルガメシュはアカデミーで講義されたものと同じ軍略を使いこなしている。
おそらくアゾットは件の智慧に誰よりも精通しているに違いない。相手にとって不足はなかった。
 先日のパフォーマンスの折にも仮面を外した素顔を確かめたが、
他の幹部と比して、世情を見通しているかの如き涼しげな面持ちだったと記憶している。
 熱砂に於ける両帝会戦では、圧倒的に不利な状況にも関わらず、奇襲を以って連合軍を潰走せしめ、
またエルンストの降伏に当たっては、誰もが予想だにしない先手を打ってアルフレッドたちを翻弄。
軍師としての才覚はアルフレッドをも凌駕していると言えよう。
 「好敵手」と呼びつけるのも躊躇ってしまうほど格上の相手だが、
史上最大の作戦を立案したアルフレッドにとっては、どうあっても意識せざるを得ないのだ。
何としても彼を出し抜かなくては、連合軍は一方的に追い詰められていくだろう。

(俺の頭で通じるかは判らないが、……だからと言って、絶対に負けるわけにはいかない)

 同じ作戦家としての畏怖と同時に、軍師という立場でありながらワーズワース暴動を防げなかったアゾットには、
純粋に怒りを覚えている。
 しかも、だ。ギルガメシュの軍師は犠牲となった生命をも組織の利益に換えようと謀っていた。
失策に対する追及から逃れるべく印象操作を試みた次第である。
 ハブール難民の悲劇を見届けたアルフレッドだからこそ、アゾットの所業を許しておくことはできなかった。
ありとあらゆる意味で、断じて許し難い――その憤激がアルフレッドの面を怒りに歪ませているのだった。
 ネルソンから預かった指輪は大切に保管してあり、彼との約束の重みは心の奥底まで響いている。

「カレドヴールフ、それにアゾット――これ以上、ヤツらの好きにはさせない。……させてはならないんだ」

 ワーズワースの悲劇に端を発する事象(ことがら)は、
全て自分とアゾットとの戦いであると、アルフレッドは捉えていた。
 アゾットを封殺し、ギルガメシュの動きへ楔を打ち込むにはどうするべきか。
そのための妙策をひたすら考え続けているのだが、やがてその思料にも行き詰ってしまい、
気分転換に浜辺を彷徨(さまよ)い歩いていた次第であった。
 尤も、アルフレッドは潮風を浴びた程度で気持ちを入れ替えられるような気質ではない。
脳が疲れていると自覚しながらも、どうしても対アゾットの計略を求めてしまうのだ。
 一時間もすると、佐志に滞在しているヴィンセントやシルヴィオを交えた会合が始まる。
取り上げられる議題≠フ難解さを思うと、アルフレッドの表情(かお)は自然と硬くなっていくのだった。

「……あの件に関わった兵隊は、みな罰せられたそうですけど――それで割り切れるものではありませんのね」

 ベイカーたちが刑死したからといって、ハブール難民の命が蘇るわけではない。
未来を切り開く可能性すら奪われたネルソンやロレインは、二度と還ってはこないのだ。
 何ひとつ解決してはいない。誰ひとりとして救われてはいないのだと、マリスの唇から悲しい溜め息が滑り落ちていった。

「だが、これでギルガメシュは隊伍を乱すぞ。恐怖統制は内部崩壊を招くもの。ましてテロ組織なら尚更だ。
他人へ暴力を振るう人間は、得てして自分に暴力が向けられたとき、脆く崩れるものなんだよ。
虚勢の為に過剰な暴力を振るってきた兵士も少なくはないだろう。今後、どれだけの粛清が出るか、見物ではあるな」

 いきなり飛び出した不穏当な発言にマリスは心臓が飛び出すほどの衝撃を受け、
思わずタスクを振り返って顔を見合わせてしまった。
 今の今までハブールの悲劇を憐れんでいた筈の人間が、ギルガメシュに匹敵するほど恐ろしいことを口走ったのだ。
隣にいたのがマリスでなくてフィーナやジャーメインであったなら、
アルフレッドの頬には鮮やかな紅葉が咲いていただろう。
 悪魔でも覗き見るような眼差しをアルフレッドに向けてしまうマリスだったが、
このような反応が返ってくると彼も予想していたらしく、「救いようがないな、俺も」と自嘲気味に口元を歪めた。
 赫亦たる輝きを湛える双眸は、今も海の彼方を捉えているが、そこに宿る感情は先ほどよりも濃さを増していた。
深紅の瞳を満たしたのは、己自身への嘲りであった。

「……自分でも恐ろしいと思う。ネルソンから大事な預かり物をした身でありながら、
あの悲劇を戦争に利用しようとしているのだからな……」

 忌むべき男と――アゾットと同じ手段を講じている。そのことは自分自身でも重々承知している。
ギルガメシュに対する印象操作は史上最大の作戦にも含まれているのだ。
 それでもアルフレッドは止まれない。都合よく粉飾されたギルガメシュの義を暴き立て、
醜い本性をエンディニオンに晒す方策(てだて)ばかりを望んでいる。まさしくアゾットと同類項であろう。
その自覚を持ち得た今でも別の策など思いも寄らなかった。ギルガメシュを滅ぼせるのならば、
泥に塗れ、汚名を着せられても構わないのである。
 それにも関わらず滲み出してしまう自嘲の念とは、即ち、アルフレッドの心が狂気に染まっていない証しと言えよう。
彼は心中に渦巻く忸怩たる思いとも向き合っていた。

「……フィーナさんは難民の人達を助けられるよう色々と知恵を絞っているみたいですね。
二度とあのような悲劇を繰り返さない為に……」

 アルフレッドがアゾットとの戦いを決意している間にも、フィーナやシェインは次なる一歩を踏み出している。
難民救済には何が必要かを、ダイナソーとアイル、ヴィンセントやマクシムスをも交えて討論していた。
 叛乱鎮撫の題目を掲げてハブール難民を虐殺したベイカーに激昂し、
たった独りで敵陣まで突撃しようとしたフィーナだけに、ギルガメシュへの怒りはアルフレッドに勝るとも劣らない。
 件の内部粛清で溜飲を下げたと言うわけではなかろうが、今は怒りを堪えて難民救済を実現させるのが先決だと、
己の為すべきことを見定めたようだ。
 それこそが亡くなったネルソンやロレイン――大勢のハブール難民への供養なのだ、と。
 フィーナは『ゼフィランサス』なる村を難民救済のモデルケースにしてはどうかと提案していた。
イーライたちメアズ・レイグと各地を経巡っているときに立ち寄った小村であるが、
そこはAのエンディニオンの難民と協力し合い、大いに栄えていた。
 ふたつの世界の共存を成し遂げたゼフィランサスならば、
現状を打開する手がかりが必ずや見つかるものとフィーナは確信しているのだ。
 希望の芽吹いた村のことを知ったダイナソーとアイルは、早速、現地へ赴くつもりのようである。
ふたつの世界を結びつけようと奔走してきたふたりにとって、そこは理想の具現とも言えるのだろう。
 守孝や源八郎も、佐志の船舶で支援を行なう事例を想定し、
迅速な物資搬送搬入や難民キャンプの防衛などを訓練する予定であった。
 ヴィンセントが属するロンギヌス社へ港の一部を貸し与えるのも難民支援計画の一環だ。
 海運の要衝による全面的な協力体制はロンギヌス社にとっても大きな収穫であり、
細かな条件などを話し合うため、間もなく新たなエージェントが佐志を訪れる手筈になっている。
 佐志の防衛体制にも関わることだけに、アルフレッドもその話し合いへの同席を求められていた。
無論、誰にも頼まれなくとも参加するつもりである。

「ワーズワースでは届かなかった手を、今度こそ差し伸べられるように」

 近頃、佐志に集った者たちの間では、この一語が合い言葉となっていた。

「それもひとつの考え方ではあるな。……いや、きっとそれが最も正しいに違いない」

 難民支援の方法を真剣に模索し始めた彼らに比べて、自分は薄情で冷血だとアルフレッドは吐き捨てた。
生命を救う運動に背を向けているわけではないものの、思案するのは戦争のことばかり。
仲間たちとの間に一種の隔たり≠感じてしまうのだ。

「お前は随いて来れるか? これから先は修羅の道だ。何万もの死体を踏み越えることになる」
「フィーナさんは随いては来れないかも知れませんね」
「……マリス……」

 マリスの言わんとしている真意(こと)を察したアルフレッドは顔を顰めて頭を振った。

「お前はバカか。妹≠ノ妬くヤツがいるか」

 何を思って、そんな突拍子もないことを言い出したのか――浅慮を諌めるような調子で応じるアルフレッドだったが、
聴きようによってはフィーナを庇っているようにも捉えられる言い回しだ。
 少なくともマリスの耳にはそのように聞こえ、心を蝕む焦りは加速度的に深まっていった。

「……けれども、わたくしはアルちゃんに全てを捧げる覚悟は出来ております。
アルちゃんが修羅と化すのであれば、わたくしは羅刹となって支える覚悟ですのよ。
ふたりで闇の道をも突き進みましょう。死の薫りを伴う呪いすら永久の誓いとして……!」
「決意は殊勝だが、やめておけ。お前に血は似合わない」
「あら、嬉しいお言葉――ふふっ、一生の宝物にいたしますわ。
砲煙を巻かれるフィーナさんや、……地を這う虎とも見えるジャーメインさんの代わりに、
わたくしがアルちゃんを導きます。戦場の光となりましょう。それこそが、わたくしに相応しい役目でしょう?」
「いや、それはまた別の話じゃないか? 硝煙で視界が悪くなったらムルグを偵察に放てば良いだけのこと」
「……な……ッ!?」
「合戦の場で連れ立つならジャーメインのほうが合っている気もするな。
こう言うと癪だが、あいつのムエ・カッチューアは頼りになる。二度戦って互いの呼吸も掴めてきたところだ。
フィーナにはハーヴェストやタスクと一緒に中間距離から――」
「ア、ア、アルちゃんっ! それはあんまりではございませんことッ!?」
「何故だ? 何がだ?」
「何故って! ……このようなときに他の女性の名前を! しかも、ジャーメインさんのことまでそのようにっ!」
「がなる理由が解らないが、ジャーメインと相性が良いのは事実だ。違うか?」
「わたくしにお尋ねになります!? このわたくしにっ!」
「さっきからおかしいぞ、マリス。少しは落ち着いたらどうだ」
「お、お、おかし……ッ!?」

 マリスがフィーナやジャーメインへ対抗意識を燃やしていることにも気付かず、
アルフレッドは「くだらん話なら付き合う気はない」と呆れたような調子で溜め息を吐いている。
挙句の果てには面倒とばかりに視線まで逸らしてしまったのだ。
 本来、「呆れた」とはマリスの側が吐くべき言葉であろう。
アルフレッドの言行は朴念仁を通り越して無神経の極みであった。
 わざと自分に嫌われようとしているのではなかろうか――
愛する相手にまで猜疑を抱いてしまうほどに、マリスの裡では怒りと焦りが醜悪に混ざり合っていた。
 この悪循環は、誰かが断ち切らない限り、際限なく拗れていく筈だ。

(も、もしかして、アルフレッド様は救いようのない下衆なのでは……!?)

 主人とその恋人の成り行きをやや離れた場所にて見守っていたタスクは、
頭を抱えたくなる衝動を懸命に抑え込んでいた。
 改めて詳らかにする必要もないが――タスクはアルフレッドとフィーナの関係≠ノ気付いている。
一度は彼の不誠実を糾弾し、恥を知るべしとまで罵っていた。
 それでもタスクは三人の関係が壊れてしまわないよう心を砕き、
アルフレッドがマリスに真実≠話すまでの間、暴露と言った行動は慎むと固い約束を交わしたのである。
当人たちで解決することが最善だと判断した次第だ。
 だが、今やタスクは我慢の限界に達しようとしていた。全てを打ち明ける運命の日までは、
せめてマリスを傷つけないよう心を配るのがアルフレッドの責務ではなかろうか。
それにも関わらず、彼は神経を疑うような言行を繰り返している。
 おそらくはマリスがフィーナとの関係≠疑っていることにも気付いていないだろう。
ジャーメインに対する浅からぬ嫉妬についても、だ。
 「人格が腐り切っている。マリス様を任せてはおけない」と、この場で叱り飛ばしてやりたかった。
巨大手裏剣のトラウムを具現化して折檻を加えたいほどだ。
彼の素行を思えば、仕置きを止めようとする人間は殆どいないだろう。
 今にも暴発しそうな憎悪を抑え、即時の処断を踏み止まることが出来たのは、
タスクが良識人(おとな)≠セったからに他ならない。
 だからと言って、救いようのない下衆≠捨て置くわけにはいかない。
苦言のひとつでも叩き付けなくてはマリスとて納まりがつかないだろうと意を決したタスクは、
小憎らしい青年の面前へと進み出ようとした――

「昼メシの時間やでー! 今日はカミュちゃんの店からケータリングや〜ッ! 
急がんと美味いもん、みんな持ってかれてまうで〜!」

 ――が、そこへ豪快な笑い声が飛び込んできた。遠方より無遠慮に「待った」を掛けられた恰好であった。
 言わずもがな、声の主はローガンである。彼が愛弟子の窮地を救うことは決して少なくない。
疾風(はやて)のように颯爽と駆けつけ、その場に最も相応しい行動を選ぶのだ。
今度も張り詰めた空気を笑い声ひとつで吹き飛ばしてしまった。
 タスクとしてもここで諍いを起こすのは本意ではなく、叱声を飛ばす前にローガンが現れたことは
僥倖と言えるものであった。仮にアルフレッドへ食って掛かったなら、
マリスの胸中に渦巻く疑念をも刺激したに違いない。
 タスクの目にもアルフレッドの言行は怪しく映るのか、と。

「……昼飯くらいで大騒ぎし過ぎだな」

 村落のほうから両手を振りつつ歩いてくるローガンへアルフレッドも片手を挙げて応じた。

「なんや? 井戸端会議の最中やったか? ネタは何やねん?」
「大した話でもない。そうだな、……たかが食事如きで煩い師匠をどうやって黙らせるか――そんなところだ」
「そやかて、カミュちゃんトコの店やで! ワイもあちこち旅して回ったけど、あない美味い店、他に知らんて!」
「昔、カミュが世話になっていたサルーンのレシピを持ち込んだそうだ。そりゃ美味くて当然だ」
「なんや、訳知り顔やの? さすがは常連客やな」
「例のサルーンとは少し縁があってな。……俺にとっても想い出の味ってヤツだ」
「かぁ〜、気障なこと言うてサマになるヤツはかなわんで〜。それでカミュちゃんを誑かしたっちゅーんかい」
「どうして俺がカミュに言い寄らなければならないんだ。相手は妻帯者……いや、そもそも男だろうが」
「もっぱらのウワサやで。アルはカミュちゃん目当てで『六連銭(むつれんせん)』に日参しとるってな」
「アルフレッド様、どう言うことなのですか? マリス様と言う方がいながら、白昼堂々、別の相手と逢引を……」
「お前の耳は腐っているのか、タスク。カミュは男だと言っているだろう」
「アルフレッド様は男性でも女性でも見境なく手を出すと伺ったことがございますから、どこまで信用して良いのやら」
「その風説はフィーが出所(でどころ)だな? そうなんだな? ……そろそろ本気で説教だな」

 ローガンの闖入によって大切な話を打ち切られた恰好のマリスは、思わず不服そうに眉を顰めた――が、
みだりに追及したところで解決する類の問題ではないと、すぐさまに考えを改めた。
 アルフレッドへの猜疑に固執することは、恋人≠ウえ信じ抜けない小さな器なのだと認めるようなものであり、
それは愛情の否定にも繋がってしまう振る舞いであった。
 アルフレッドだけは裏切るわけにいかない。彼と育んだ愛が壊れることは、マリスにとって万死にも等しいのだ。

(近頃はフィーナさんよりジャーメインさんが恐ろしい気もしますが、
……誰がどのように想おうとも、アルちゃんとわたくしの気持ちが全て――ですもの……ね)

 不満を飲み込んでからは、険しかった表情も少しずつ和らいでいく。
 タスクが背を擦ってくれたことも、マリスには感情の制動(ブレーキ)として作用していた。
殿方と、それも衆人環視の中で醜く口論しようものなら彼女からどのように叱られるか、分かったものではない。
幼い頃より面倒を見てくれている従者は、二十代半ばを過ぎても怖い存在なのだ。

「……ローガンさんはズルイです。良いところはいつも独り占めですもの」
「そら仕方あらへんわ。所謂ひとつの師匠特権やさかいな!」

 アルフレッドの不貞を穿つ代わりに、マリスはローガンへの不満を漏らした。
 男の味≠ニ言うか、スタミナ料理を教わる師匠≠ナはあるものの、
己こそが請け負うべきと信じる役割を、横から掠め取っていくことだけは面白くない。

(――そうか、……フィーナさんもジャーメインさんも、ローガンさんにそっくりなのですね……)

 予ねてより残り続けるしこり≠フ所為で、愛する恋人にまで善からぬ感情を抱いてしまうマリスには、
アルフレッドを心身ともに支え、助けるローガンが羨ましくて仕方がなかった。
 アルフレッドが窮地に立たされたときには、自分より上手く取り成すに違いない――
マリスから見たローガンの気風とは、ときに闇≠感じてしまうほど眩いのだ。
 己の気風は快活とは言い難い。他者との器量を無意識に比べ、生じた劣等感に苛まれる陰鬱な人間は、
ローガンやフィーナ、あるいはジャーメインのようにはなれないだろう。

「せやけどな、マリス。お前さんはワイよりアルのことをよう見とるやろ? 
ガサツなワイやと目の行き届かんとこもぎょ〜さんあると思うで。
ちゅーか、可愛い弟子かて全部面倒見るっちゅ〜のもアレやしな」

 段々と伏し目がちになっていくマリスへローガンは師匠≠ネりの助言を耳打ちする。

「ワイではアカンと思うたときは好きなだけ出し抜いたらエエんや。
こ〜ゆ〜ことは、後出し抜け駆けいくらでもええんやで」
「……ローガンさん」
「心配せんでええ。お前さんはそのまんまでアルを――って、あだだだだだだッ!?」

 朗らかに笑っていたローガンの顔が突如として苦悶に歪んだ。
 見れば、彼の尻をタスクが渾身の力で抓っているではないか。

「マリス様、これだけは覚えておいてくださいませ。
行き過ぎた抜け駆けは、後々手痛いしっぺ返しが待っているものなのです。
場合によっては誉められないことにもなり兼ねません。……例えば、このように!」
「ちょ、ちょう待ってや!? なんで抓られとんの!? あだだだ、ま、待った、待ってェな! 
抓り方がアカンて! そらプロの抓り方や、プロの! 肉ッ! 肉と皮膚がァッ!」
「特に人様の仕事を横取りするような輩はこう言う具合に罰を受けるのですよっ!」

 恨み節を交えつつ指の力を強めていくあたり、ローガンに自分の役割を取られて機嫌を損ねたようである。
どうやらマリスに伝えようとしていた助言の内容を全て先に言われてしまったらしい。
 マリスの役割を横から奪ってしまうと言う普段のローガンとは逆さまだ。
 タスクにとってはそれが本当に腹立たしかったのだろう。
「はしたない真似はおよしなさい」とマリスが制止を命じても、ローガンの尻が激痛から解き放たれることはなかった。

「それくらいにしといてやってくれ、タスク。痛みに脳でもやられて、新しい趣味に目覚められたらかなわない。
ただでさえ頭の中身が可哀相なんだ。これ以上、ダメにはしないでやって欲しい」
「お前は師匠をそないな目で見とったんかいッ!」

 アルフレッドの一言でようやく落着したものの、そのまま抓られ続けていたならば、
ローガンの尻に一生消えない痣でも出来ていたかも知れない。
 そのような恐怖を芽生えさせる程に、タスクが指先に込めた憤激は烈しいものであった。

 ローガンが解放されたことを見て取ったアルフレッドは、皆を促して昼食へ向かおうとした――が、
その呼びかけは言葉として紡ぎ終える前に途切れてしまった。
 アルフレッドの双眸は、海の彼方に不可解な影を見つけていた。
飛翔体と思しき影は一直線に佐志へと接近しており、間もなく砂浜まで到達しようとしている。
 凄まじい速度であった。瞬きの間にも風切る音は近づき、海面を滑る影は縦に横に膨らんでいく。
陽の光が反射している為に正体こそ判然としないものの、尋常ならざるモノと言う点は間違いなさそうだ。
 異様としか言いようのない光景に慄いたアルフレッドは、大型クリッターの襲来を想定して拳を握り締める。
 彼の両隣ではローガンとタスクも臨戦態勢に入っていた。
マリスの忠実なる従者はヴィトゲンシュタイン粒子を右手に纏わせており、
その掌中には巨大手裏剣のトラウム、『夢影哭赦(むえいこくしゃ)』を具現化させていた。

「ラ、ライアンの旦那! ありゃなんです!?」
「わからない! そっちには何か連絡が入っていないか?」
「ロンギヌス社の客人以外は何も……まさか、あれが!?」
「それならニューマンが出迎える筈! ロンギヌスでないとすれば――ッ!」
「りょ、了解しやしたッ!」

 やや遅れて飛翔体の接近に気付いた源少七は、港を巡邏していた者たちへ大急ぎで召集を掛けた。
 源少七の行動自体は極めて迅速であり、一切の無駄もなかったものの、飛来する物体の速度にはどうしても敵わない。
緊急警戒態勢が間に合わないことは、これを命じたアルフレッドにも解り切っていた。
 佐志の沖合にて白色の閃光が走り、海面に水飛沫を上げ、一筋の稲妻が轟音を伴って砂浜へと落ちる。
ローガン、タスクと三人で落下地点を取り囲むアルフレッドであったが、
天高く砂塵を巻き上げつつ降り立ったそれ≠ヘ、彼らが危惧したようなクリッターではなかった。
 鳥の翼を思わせる板が左右に大きく張り出した円錐状の物体――とでも言い表せば良いのだろうか。
胴体部分は底へ向かうにつれて細く窄まっていき、鳥の尾羽を模したであろう部品が末端に幾つも差し込まれていた。
 徐々に細くなっていく後部とは反対に物体の前方はやや大きく、乗り降りに用いるドアをも確認できた。
 ドアには丸いガラスの窓が設けられている。そこから内部を覗いてみると、
狭い空間の中にてふたつの人影が折り重なるような体勢で縺れ合っていた。
 原理や構造は全く不可解なのだが、佐志の砂浜に大穴を穿ったこの物体が乗り物であることを、
アルフレッドは認めざるを得なかった。即ち、浜辺に特攻を仕掛けたのでなく、着陸を試みたと言うわけだ。
 機体は金属と木材を組み合わせてあるようだが、よくぞ落下時の衝撃に耐え切ったものである。
木っ端微塵に大破していてもおかしくはなかった。
 円錐の先端には風車にも似た部品があり、余韻のようにカラカラと回り続けている。
その回転にさえ異常があるようには思えない。

「な、なんやねん? ごっつデカい扇風機かいな?」
「アイル様のMANAに似ていなくもありませんね。お呼びしましょうか?」
「いや、待て。中に誰か乗っている。それを確かめてからでも遅くはない」

 マリスから無理はしないよう呼びかけられた三人は、下半分が砂浜に埋(うず)まった機体を注意深く調べつつ、
内部へ突入する機会を窺っていく。
 その内部にて変化が起きたのは、アルフレッドがドアへと手を伸ばした直後のことだ。
倒れていたふたりの内、レザージャケットを羽織った男が立ち上がり、勢いよくドアを開けた。
 鉄製のドアでもってアルフレッドを弾き飛ばし、それにも気付かず慌てた調子で顔を出したのは、
思いも寄らない人物である。

「――アルッ! シェインは!? シェインはどーなってんだよ!?」
「……他に言うことはないのか、マイク?」

 砂浜に強か打ち付けられたアルフレッドは、鈍痛走る顎を摩りながら呆れの溜め息を吐き捨てた。
その様を目にしたところで、声の主は今し方の事故≠省みることはなかろう。
 摩訶不思議な乗り物で佐志の浜辺へと乗りつけたのは、生きた伝説とまで謳われる冒険王、
マイク・ワイアットその人であった。





 人質という立場でありながら、己を捕らえたギルガメシュに難民支援計画を直訴したドク――
外交担当を務める仲間へ如何なる対応を図るべきか。そのことを議論するべくビッグハウスに戻ったマイクは、
件の放送を通じてワーズワース暴動のあらましを確認していた。
 親友となったシェインからはワーズワースの調査に乗り出す旨を事前に知らされており、
彼の地で暴動が起きたと知った瞬間、マイクは全身から血の気が引いたと言う。
 それから間もなくシェイン当人から無事を知らせるメールが届けられたのだが、
文面から親友の痛手を読み取ったマイクは、ドクにまつわる議論を仲間たちに任せ、佐志へと急行した次第である。
 グリーニャと酷似する惨劇によってシェインの心身が再び打ちのめされたものと案じたのだ。
 なお、マイクが用いた摩訶不思議な乗り物はルーインドサピエンス(旧人類)時代の遺産である。
 『リンドバーグの魂』なる名を持つこの遺産は、形状からも察せられる通りに鳥を模した大型機械であり、
相応の時間こそ要するものの、大陸間を行き交うことも可能であった。
 現在はマイクが背に担う石柱の内部に収納≠ウれており、砂浜に着陸の痕跡を残すばかりである。
『ガリバートラベルズ』と呼称される石柱には、リンドバーグの魂と同じようにルーインドサピエンスの遺産が
数多く納められているらしく、左手のグローブに接続された機械を通じて自由自在に出し入れしているのだ。
 これもまた珍奇なことであるが、そもそもガリバートラベルズはレリクス(聖遺物)に類される伝説的な秘宝。
石柱そのものも人間界で用いられるとは思えない鉱物であり、
マコシカのプロキシにも匹敵する奇跡の力が宿っていてもおかしくはない。

「に、二度とマイクさんの操縦には付き合いたくありません……!」
「何でだよ、超特急だったじゃねーか」
「そう言うことではありませんから! 常にフラフラヨタヨタして……何回死ぬと思ったことかっ!」
「ンなこと、言うのはジョウくらいだぜ? 他の連中には超好評なのによ」
「真顔でウソ吐くの、やめていただけませんか。では、どうしてティンクさんは一緒に来なかったのですか。
私は奥様から生きる望みだけは捨てるなと何度も念を押されましたが! 救命胴衣は絶対に手放すなとも!」
「ケートは面食いだからな。機体が揺れたとき、顔にキズでもついちゃいけねぇって思ったんじゃねーの? 
旦那にゃ何も言わねーってのがケートらしいぜ!」
「マイクさん、あなたはもう少し周りの話に耳を傾けるべきだっ!」

 ガリバートラベルズの奇跡はともかく、現世に於いて秘宝を使用するのはあくまでも人間である。マイク当人である。
リンドバーグの魂に同乗させられていたジョウ・チン・ゲンは、荒っぽい操縦によってすっかり目が回ってしまい、
機外へ這い出した後も立っていることさえ覚束ない状態であった。
 頑として同行を拒否したティンクには、このような結末が判っていたのだろう。
ならば、教えてくれても良かったではないかと、ジョウは心中にて文句を垂れた。
 物腰穏やかなジョウにまで手加減なく酷評されたあたり、マイクの操縦は推して知るべし――と言ったところである。

 轟音を聞きつけて浜辺に駆けつけたシェインをマイクは無言で抱き締めた。骨が軋むほどに力強く、だ。
 シェイン当人はマイクが佐志に居ることも、自分が抱き締められた理由も分からず、
連れ立ってきたジェイソンやジャスティンに「これ、どーなってんの」と助けを求めるばかりだった。
 やや遅れて到着したフィーナは、例によって例の如く鼻血を噴いたが、それはともかく――
マイクから経緯を説明されたシェインは、「遠路遥々カッ飛んでくることもないじゃん」と呆れたように頬を掻いたが、
その面はうっすらと紅潮しており、悪態も照れ隠しの域を出ていない。
 小さな頃から憧れ続けていた冒険王が、掛け替えのない親友が、自分のことを心配して駆け付けてくれたのだ。
気を抜くと崩れ落ちてしまうほど大きな感動に打ち震えていた。

「みんな、無事に逃げられたってメールしたじゃん。それなのにこんなムチャするなんて……。
とてもオトナのすることとは思えないね。外せない仕事があるんだろ?」
「へんッ、だったらガキでもケッコーだぜ! こんなときにオシゴトなんて手につかねぇよ!」
「そこはもうちょっと冷静になれよな〜。奥さんに叱られたって知らないぜ」
「おう、全治一ヶ月は覚悟の上だ! 後になって頭ァ抱えるより、大事な今に、即行動ッ! 
今、シェインの顔が見れるんなら、痛い思いをすんのだってへっちゃらだぜ!?」
「ホント、うちのオヤジとは別の意味でガキだね、マイクは」
「だろ? 遊び心を忘れねーでいられるのがオレの取り柄だかんな!」

 ついつい憎まれ口を叩いてしまうシェインだったが、感謝の念は伝わっているだろう。
最初は空元気ではないかと案じていたマイクも、いつしか笑顔に戻っていった。


 昼食後のミーティングはマイクとジョウを交えて開かれることになった。
 またしても、シェインを奪(と)られた恰好のフツノミタマは大いに不貞腐れたが、
ワーズワース暴動の原因を話し合う席である点を弁え、文句を喚き散らすような不調法は慎んでいる。
 そもそも、だ。暢気に難癖など付けていられるような場≠ナはなかった。
ミーティングが設けられた役場の第一会議室には、重苦しい沈黙が垂れ込めている。
 今や佐志の一翼を担うまでになった『ウィリアムスン・オーダー』の社長、
アシュレイ・ウィリアムスン・レイフェルも同席しているが、
合戦と言うものに不慣れな彼女は、こうした空気に心が落ち着かない様子である。
 末席には役場に押しかけてきた叢雲カッツェンフェルズの姿もあった。
結局、発言権を与えないと言う条件で同席を許されたのだ。
 手柄を焦る余り、「言ってはならないこと、やってはならないこと」を最悪の状況で断行してしまうハリエットだが、
その無鉄砲な少年でさえ発言を憚るような雰囲気なのだ。

「……何かを信じる心ってモンは、人それぞれの自由だからなぁ……」

 ハブール難民、とりわけ労働者階級の人々が暴発するまでに鬱屈してしまった原因――
即ち「信仰」の問題に触れた瞬間、マイクの表情がこれ以上ないほどに曇った。
 大冒険を経る中で豊富な人脈を得た彼は、その利を生かして紛争調停なども引き受けている。
ゼラール軍団とペガンティン・ラウトの仲裁など、これまでにも幾多の難しい交渉を取りまとめてきたのだ。
そのマイクがワーズワース暴動に対して「一番難しいケースだぜ」との見解を示した。

「レイチェルの前でこんなことを喋んのは口幅ったいかもだが――こいつは人の心の拠り所に関わるもんだ。
難民キャンプの人たちは誰も間違っちゃいねぇ。何か≠ェ間違いであっちゃいけねぇのさ」

 次にマイクは、アルフレッドたち一行とハブール難民との違いを改めて確かめた。
これは暴動を目撃した者と、暴動を引き起こした者の差異とも言い換えられるだろう。
 過去の事例を引いて詳らかとするまでもなく、外界≠ゥら訪れた者と、内側≠ナ暮らしている者とでは、
そもそも視えている世界が異なっている。この場合の世界≠ニは、つまり社会の仕組みであった。
 ハブールにはハブールの仕組みがある。女神イシュタルより授かった神託をもとに大系を整え、
これを教義として定めた預言者ガリティアに倣う仕組みが、だ。
 労働者階級の居住区域にて神学校を開いていたソテロは、
ハブールで生まれ育った子どもたちに預言者の教義を説き聞かせていた。
無論、教義には身分制度も含まれている。例えそれが自分たちの生命を脅かすようなものであっても、
預言者が定めたことであるからと絶対遵守の意識を植え付けていくのだ。
 そして、預言者の教えを刷り込まれたハブールの子らは、同じ歴史を何の疑いもなく繰り返すのである。
 人としてあるまじき身分差別を、改めもせずに累代へと継がせていくハブールの仕組み≠
容認できなかったシェインは、堪り兼ねて「むちゃくちゃな話だ」とソテロに激昂してしまった。
 マイクの意見によれば、その義憤すらもハブールには相応しくないと言う。
 シェインの心に湧き起こった怒りの感情は、外界の常識に基づいて生み出されたものだ。
しかし、ハブールにはハブールの常識がある。外界の人間には解らない仕組み≠心の拠り所にしている。
それを「間違いだ」と否定するのは、他者の心を蹂躙するのに等しい行為であった。
 外界の常識に基づく良心が、別の常識に拠って生きる人々にとって悪魔の所業に見えることもあるだろう。
 ハブール難民は過ちを犯したわけではないと語ったマイクは、
「誰かの心を好き勝手に変える権利なんて誰にも許されちゃいねぇ。……だから、難しいんだよ」とも付け加えた。

「強いて言えば、あらゆる信仰は等しく正しいということでしょうか。
仮に罪を犯すことがあったとしても、それは信仰ではなく道を誤った本人の問題。
過ちの原因を女神イシュタルに求めるのは冒涜と同じことでしょう。
それ故、イシュタルとて人を現世(うつしよ)にて裁くことがないのです」

 ジョウもマイクの見解に同意している。日頃より世話になっている冒険王に花を持たせたわけではなく、
Aのエンディニオンの実態を知る者として先の言葉に頷けたのだ。

「ただし、預言者は違います。教義の、いえ、女神イシュタルの名のもとに人を縛り、裁いてしまう――
その権利を地上にて唯一行使できる存在が預言者であると、私は考えていますよ」
「それがボクにはわからない! 誰かの都合で大勢の人たちを縛り付けるなんて独裁者と変わらないじゃないか!?」

 ハブール難民を縛った預言者に対して、再びシェインが義憤を迸らせた。

「それはどうかな、シェイン君。預言者の教えと言うものは、私が知っている限り、世俗の権力を超越しているよ。
マイクさんの言葉を拝借するなら、まさしく心の拠り所≠ニ言うもの。
感情の働きと同じように、ひとりひとりの心から湧き起こるものなんだよ」

 「最初(ハナ)ッから洗脳してんのに心も何もね〜べや!?」とジェイソンもシェインに続いた。

「イシュタルや神人は我々人類にはあまりにも遠く、かけ離れた存在です。全てを理解することはできません」

 イシュタルとの交信と言う偉業を成し遂げたレイチェルにもジョウの話には頷けることが多い。
救いの手すら差し伸べずに去っていった創造女神の真意を、儀式を執り行った直後は全く理解できなかったのだ。
 「人類はイシュタルからエンディニオンの未来を託された」と解釈して納得したものの、
それが一〇〇パーセントの真実であるとはレイチェルには断言できない。
母なるイシュタルの御心を理解し切ることなど人智では不可能であろう。

「ですが、高次存在(かみがみ)の言葉を地上のものとして翻訳できる人間が現れたとすれば? 
……人間は弱い。何かのきっかけで心は容易く乱れ、恐ろしく脆い。砕けて壊れるのも一瞬のことです。
そのようなときこそ高次存在(かみがみ)に救いを祈るのですが、さりとて女神へ縋りつくのは畏れ多い。
イシュタルへの信仰心が厚ければ厚いほど、近寄り難いと思ってしまうのでしょう」
「矛盾してね〜か? 矛盾っつーか、クソ真面目にも程があるっつーか……」
「ジェイソンの言う通りだよ。ワーズワースのときも思ったけど、自分で自分の首を絞めてるだけじゃないか」
「預言者ガリティアは、そうして道に惑った人々の目には救世主のように映ったのでしょう。
大いなる女神と比べて、より身近な存在を拠り所に選んだということです。
……シェイン君、ジェイソン君、考えてみてください。例えイシュタル様に救いを求めなくても、
ご家族や友達は頼りにするでしょう? 伴侶と言うか、一緒に生きたい相手かな。
身近であればあるほど寄りかかりたくなってしまうのが人間の性だよ」
「流れで訊くんだけど、ジョウにはそんな相手がいるのかい? カノジョとかさ」
「それは返答を差し控えるとして……今のが預言者が誕生した経緯の、簡単な例えだよ。
頼もしい人が身近にいる。だから、頼りにしようとね。そう言う人なら間違いとは無縁。
信じて随いていけば自分たちも道を誤ることはない――そんな考え方が世の中に広まっていくのはおかしなことかな。
自分独りで突き進める人間はそんなに多くはないよ。……勿論、現実はこんなに単純なことではないからね?」
「う〜ん、解ったような解らね〜ような。オイラって、あんま、カミサマ信じてね〜もんなぁ〜。
いまいち、掴みきれねぇや!」
「――んじゃ、家庭ってのをイメージしてみようぜ。お前んとこの家族でも構わねぇからよ」

 ジョウの説明では完全な理解に到達し得なかったジェイソンを助けようと、横からマイクが口を挟んだ。

「その家にはその家だけの決まりごとがあるだろ? それを守って暮らしてると家ん中でケンカがなくなる。
オレんとこもそうさ。ひとりでテレビゲームやってると、カミさん、速攻でキレるもん。
傍(はた)から見たら妙な決まりごとでもよ、それでうちは上手く行ってんだ。
なのに、お前がオレん家に上がりこんできて、奥さん、そりゃおかしいって怒ってみ? 
何もかもしっちゃかめっちゃかになるじゃねーか」
「あんたの言う決まりごとが預言者サマの教えってワケかい」
「あんま上手い例えじゃなくて悪ィな」

 ジョウと同じAのエンディニオンの人間として思うところがあるのだろう。
ニコラス、ダイナソーと言った面々は揃って表情を暗くしている。
 腕組みしながら唸り続けるシェインとジェイソンに挟まれたジャスティンは、
ジョウの説明やソテロの説法≠心中にて同時に反芻しつつ、
「盲信なら盲信で構いません。彼らの生き方さえ否定しなければ宜しい」と、己の考えを並べ始めた。

「世の中には数え切れない主義や思想があります。それをひとつに結合するなんて到底無理でしょう。
それでも力ずくで纏め上げようとすれば、本当にギルガメシュと同類項になってしまいます。
でしたら、仕組みの数だけ道を舗装しては如何ですか?」
「……はあ? ポエムみたいで分かんないよ、お前の例え話」
「シェインさん、その道自体が社会の仕組みなのです。仕組みと合致した人をそれぞれの道に割り振り、
個々別々に歩んでもらう。そう言うことです。預言者を信じる人間はこの道に、
別の宗派の人間はまた別の道に――と言った具合にね。
監督する機関が不可欠になりますが、躓いて道を違えたり、別の道へ侵入しようとする人間には注意を促し、
決して他所の歩みを乱さないようにしていけば、あの暴動のような事態は防げるでしょう」
「いやいやいやいや、ちょっと待てよ? オイラ、本格的にこんがらがってきたぞ。
別々の登山口からてっぺん目指すっつーか、……あ、いや、こりゃ、全然違ぇな」
「ジェイソンさんの解釈は、あながち間違っていませんよ。ゴールはあくまでも異なる仕組みの共存です。
……預言者の教えを信じる人々の道にも、ハブールのような身分制度はありますから、
そこは細かく分けなくてはいけませんが」
「お前、またおっかないコトを考えたな……」
「え!? シェインには解ったのか、今の!? ……オイラ、いよいよ頭がパンクしちまったよ」
「数多くの道、つまり社会の仕組みをひとつの結合と見なして、
エンディニオンを動かしていくことは決して不可能じゃないと言うことです。
別々の道を歩んでいても、その中で生まれる経済効果などは世界全体に行き渡るわけですからね。
それぞれの繋がりを絶つことにはなりません」

 ジャスティンが述べたのは、如何ともし難い因習をも取り込んだ仕組み≠フ構築であった。
 ギルガメシュの如く強引だとシェインとジェイソンから懸念され、一度は取り下げた案ではあるものの、
ワーズワース暴動を目の当たりにしたジャスティンは、荒療治も必要であると再び考えるようになっていたのだ。
 先に捻り出した案へ修正こそ施されているが、
「変革に当たって、第三者の手によるルールを押し付けることも辞さない」という点に於いては、
やはり本質は変わっていない。
 本人の主張とは裏腹に、ジャスティンの案は「共存」とは真逆の性質を備えている。
別々の道と表現しているものの、それは思想の隔離に他ならないのだ。
「共存」と言うゴールは同じかも知れないが、別々の道が交わることは絶対に有り得ない。
 個々の仕組み≠別々に管理し、監督することをジャスティンは提唱したのである。
 さしもの冒険王もジャスティンの案には表情を凍りつかせている。
年端の行かない少年が考え出す案としては余りにも苛烈であろう。マイクと肩を並べるジョウさえも言葉を失っていた。
 否、第一会議室に居合わせた誰しもが絶句している。平素であれば不穏当な暴言を撒き散らす撫子ですら、
今は化け物でも見るような目をジャスティンに向けていた。
 親友の意見でもある為、シェインとジェイソンは頭ごなしに否定こそしなかったが、
さりとて諸手を挙げて賛同することも出来ない。

「理に適っているな」

 唯一、アルフレッドだけがジャスティンの発案に好意的な反応を示した。

「まさか、ライアンさんにご賛同をいただけるとは……」
「優れた意見に注目するのは当然だ。難点はシステムの構築に時間を要することか。
試してみる価値はありそうだが……」
「お前、アル……バカじゃねーのッ!? そいつは下手すりゃ独裁じゃねーかッ!」
「お前こそ過敏に反応し過ぎだぞ、ラス。独裁と思わせないよう手配りすれば済む話だ」
「思わせないようにっつったな? 独裁≠ニ思わせないようにってッ!」
「言葉の綾だ。決して独裁にはしない。その為にも法律を整備していく」
「法律、ナメんなよ、ライアン! 十秒前にヴィントミューレから何て言われたか、想い出してみろ! 
独裁だ、ど・く・さ・い! 監督だか管理だか知らねぇが、見張る側に都合よく法律変えるなんざ、
危険思想以外のなんでもねぇんだよッ!」
「……コクラン、お前までどうした。いずれにせよ法律の見直しは欠かせないと思うのだがな。
今のままでは、これから先のエンディニオンに対応し切れないだろう?」
「それに監督側の都合に合わせた法律に変えようなんて、私は一言も言っていませんよ。
法整備はシステムに即した形で宜しい。肝心要はふたつのエンディニオンの共存です。
何が適切で、何が不適切かは、新しいシステムと照らし合わせれば、自ずと見えてくるでしょう」
「うわー、すげぇな……性悪がひとり増えただけで、全然収拾つかねぇぜ」
「わ、私のことを言ってるんですか、ニコラスさん!?」
「ちょっと見ねぇ内に可愛げがなくなっちまったなぁ。キャロラインが泣くぜ?」
「ラス、そんな言い方はないだろう。利発な子じゃないか。長所を伸ばすのが先輩の務めだ。萎縮させてどうする」
「ライアン、お前はちょっと黙っていような。っつーか、口をホッチキスで止めてやろうかッ!」

 危うくアルフレッドとジャスティンで結託されてしまうところだったが、
これはニコラスとヴィンセントによってすぐさま封じ込められた。

「アルの話はちと極端だったけどよ、言いたいことは分かったぜ。
鉄道よろしくレールに乗せてそれぞれのグループを走らせるってのは、大昔にオレも考えたさ。
でもよ、そいつは問題を先延ばしにしただけなんだ。顔も合わせず肩も貸さずに走ったって
相手の気持ちはわからねぇ。根本的な解決にはなってねぇだろ?」
「……だが、この子の意見にも一理あると思うぞ」
「ライアンさん……」
「お互いにカドが立たねぇルールを作ろうってのは悪くねぇさ。でも、それがベストとは言えねぇかな。
……だから、心の拠り所は難しいんだよ。簡単にはケリがつかねぇし、簡単にケリをつけてもいけねぇんだ」
「何ひとつ解決していないじゃありませんか。……腐りきった制度がどんな末路を辿るのか、
私たちは目の当たりにしたのですよ。最早、生温いことなど言ってはいられないのです……!」
「そのへんにしとこうぜ、ジャスティン。確かにマイクはその場にゃいなかったけど、
ワーズワースみたいなコトはさんざん見てきてるんだよ」
「でも、シェインさん……!」

 ありとあらゆる調停を経験してきたマイクに窘められては、アルフレッドも黙るしかなかった。
 Aのエンディニオンの人間であるが故、冒険王の偉業をあまり理解していなかったジャスティンは、
なおも抗弁しようと試みたが、これはシェインが食い止めた。
 マイクが紛争調停の名手だと耳打ちされたジャスティンは、面に悔しさを滲ませながらも得心がいった様子である。

(青いのぉ、アルもあの小僧っ子も。それ≠ヘ誰にも気取られぬよう誘(いざな)ってこそ意味があるのじゃ)

 若い者たちが主導する議論へ黙して耳を傾けていたジョゼフは、実はジャスティンの発案に感心していた。
それどころか、ルナゲイト家の権力を以ってすれば思想の隔離と監督も不可能ではないと、
頭の中で計画を具体化すらしていた。
 しかし、ジョゼフは口を噤み続けている。それは新聞王がジャスティンより遥かに年齢(けいけん)を重ねていたからだ。
老獪と言うものである。現に賛成と口にしたアルフレッドは、
フィーナやハーヴェストから「人でなし」、「地獄からの使者」などと手酷く罵られている。

「――マクシムス・サンダーアーム君……と言うたかの。お主はアルバトロス・カンパニーの同業者じゃったな」
「ああ、こっちも聴いていますよ。ラスたちが随分と世話になったみたいですね。
世間的にはライバル企業ですが、オレにとっちゃ身内みたいなモンなんでね」

 俄かに張り詰めた空気を循環させようと、新聞王はマクシムスへと声を掛けた。
 サンダーアーム運輸の概要はラトクによって既に内部調査が済んでおり、
マクシムスがボスの妻に横恋慕していることまでジョゼフは把握している。
 それでも敢えて何も知らない素振りを貫けるのが老獪なのだ。即ち、「誰にも気取られない」と言うことである。
 サンダーアーム運輸の委細をジョゼフに報告したラトクは、現在は別件で席を外している。
間接的に権威を示すエージェントが不在と言うこともあり、
おそらくマクシムスの目には、稀代の新聞王は世話好きな好々爺としか映っていない筈だ。

「先刻のジャスティン君ではないが、古い制度がどこまで影響を及ぼしておるか、ワシらも気を揉んでおった。
実際、どうなのじゃ? 以前にフィガス・テクナーを訪ねたときにはハブールの如き風潮は感じられなんだが……」

 ジョゼフがマクシムスに因習の実態を説明するよう求めたのは、
サンダーアーム運輸が世界各地を飛び回る運送業者と言う点が非常に大きい。
 彼の根拠地たるフィガス・テクナーのことばかりではなく、
業務で訪れた土地の委細まで漏らさず明かすべしと暗に促したのである。

「それをセイったら、アルバトロスのチミたちはエブリバディにイーブンだったネェ。
ワーズワースでミートしたあの不貞腐れガイ――スコット何某はヒエラルキーにやたらこだわってたけどサ」
「こだわってたっけ? どちかって言うと関わりたくなさそうにしてたわよ」
「ノンノン、チミはジャーナリストのクセに重要なポイントをルック逃してるネ。
ザットなタイプはネ、ノー関心をキメといて、実は誰よりもビクビクしてるモンさ」

 イシュタル信仰へ関わる事柄だけにホゥリーも強い関心を抱いているのだろう。
デジカメやテープレコーダーまで投入し、気合い十分で臨むトリーシャ以上に身を乗り出していた。

「フィガス・テクナーが恵まれてんだ。……だから、場所によりけりとしか言いようがねぇ」

 横から口を挟んだダイナソーの声には強い憤りが込められていた。
 「身分ってことなら預言者以外にも問題はあるんだ」と、ダイナソーから説明を引き継いだマクシムスによると――
Aのエンディニオンでは、特権階級を頂点とするピラミッド式の身分制度が定められていたと言う。
 頂点に立つ王族や貴族は、世襲の強行など薄汚い策を張り巡らせて政治を独占し、
下等≠ニ見下す労働者階級から富を搾取していた。
 それがAのエンディニオンに布かれてきた支配体制――王制であった。
 民の支持こそが己の基盤であるにも関わらず、特権階級の者たちは歴史を重ねる毎に驕り昂ぶり、
「領民を守る為にこそ貴族は命を捧げる。常に民衆の規範たるべし」と言う気概は近代に至って廃れてしまっていた。
 権威のみが中途半端に残存された結果、支配する側と服属させられる側と言う歪な身分格差が生じたのだ。

「――民衆だって何時までもバカじゃいねぇよ。くそったれた連中が寝ぼけている間、
発展(あゆみ)を続けていたんだからな……ッ!」

 これはニコラスの言葉である。鋼鉄のグローブで覆われた右手を握り締めながら、
彼は「身分なんざクソくらえだぜ」と忌々しげに吐き捨てた。
 ニコラスが語ったように、民衆は特権階級が見下しているほど蒙昧ではなかった。
ここ半世紀の間に産業は飛躍的に発達し、これに伴って労働者の地位も大きく改善されたのである。
 労働者階級によって結成された組合は勢力を伸ばしていき、
富によって骨抜きとなった特権階級に成り代わって国政の実権を握るまでに至った。
 嘗ては搾取の対象としか見なされていなかった者たちが、国家と言うものを懸命に動かしていた。
 平民≠ネどは隷属させるのが当然と考える王族や貴族にとってこれ以上の屈辱はない――が、
権威の上に胡坐を掻いてきた特権階級と、試行錯誤を重ねて発展を続けてきた市民とでは、
世情を見通す力が余りにも違っていた。
 最早、王制と言う仕組み自体が時勢に取り残されていた。
 さりとて、平民≠ノ混ざって労働するだけの柔軟性も技術も特権階級は持ち得ず、
今や王室、貴種の類などは、名ばかりの無用の長物と化しているそうだ。
 フィガス・テクナーは、嘗て労働者階級と蔑まれた逞しき人々が土地を開墾し、
最先端技術によって隆盛した都市であり、身分格差そのものが最初から存在していなかった。
 フィガス・テクナーを訪れたBのエンディニオンの人間が、忌まわしい旧習を感じなかったわけである。

「ロンギヌスの本社があるトルピリ・ベイドも似たようなものだよ。
……尤も、長い歴史の中では色々と厄介なコトもあったみたいだけどな」

 ニコラスとマクシムスの話にヴィンセントも相槌を打つ。
 何やら含みのある言い回しであったが、彼が口にしたトルピリ・ベイドもフィガス・テクナーと同じように
身分格差から解き放たれた都市であるようだ。

「ハブールだけがガッチガチやったわけかい。……そやろな。そら、そうや。
あないキツいことが何べんも繰り返されてたまるかいな……!」

 スカッド・フリーダムの代表の如くミーティングに出席したシルヴィオ・ルブリンは、
Aのエンディニオンに於ける格差の破綻を聴き、ハブール難民の悲劇は二度と繰り返されないと希望を抱きつつあった。
己の期待が間違っていないのだとマクシムスへ確かめようとしたわけである。
 如何なる理由があろうとも、人と人の間に格差を設けるなど義の心には断じて許せない。
 だが、淡い期待は間もなく握り潰されてしまう。マクシムスが苦しげに首を振ったのだ。
Bのエンディニオンの人間が考えるよりも、Aのエンディニオンの病理は遥かに根が深かった。

「先にサムに言われちまったが、場所によりけりなんだよ、シルヴィオ。
フィガス・テクナーは古い習わしから解放されてるぜ? 
でもな、都市部から離れた奥地にあるような村では、今でも古びた制度が残ってる。
……そこはもう厳しいなんてもんじゃねぇ。重税は勿論、貴族の気まぐれで人死にが出ることも珍しくねぇのさ」
「何やてッ!? ど、どないなっとんねん、そらッ!? シェリフは何しとんねんッ!?」
「忘れてやるなよ、シェリフも広い意味じゃ労働者階級だぜ。……悪党を取り締まる立場のヤツに限って、
お貴族サマに媚びへつらうもんだ」
「アホ抜かせ、ンなこと、わしゃ、絶対に許さんわ……ッ!」

 今もまだ理不尽な悪政に苦しむ者がいると突き付けられ、シルヴィオは弱々しく項垂れた。
 特権階級の横暴に対する憤怒もあるだろうが、それ以上にシェリフが悪徳の虜と化した事実へ打ちのめされていた。
立場は違えども、義の心を胸に弱き者の為に戦うのがシェリフの本分ではないのか――と。

「シェリフの汚職はこちらの世界にもないわけじゃないけど、差別の片棒を担ぐなんて本当に救いようがないわ。
そんな輩に正義を問うまでもないわね……」

 正義の不在を嘆くハーヴェストは、シルヴィオの姿に己の心を重ねていた。

「そして、そこに預言者の教えが絡んでややこしくなるんだ。
貴族ってのは悪知恵ばかり働くもんでよ、ガリティアの教えを手前ェらの権威の後ろ盾にしやがったんだよ。
……第一、二大宗派の関わりが身分制度をややこしくしているんだけどな」
「……女神イシュタルの教えに異なる解釈があるなんて、あたしには今でも信じられないわよ。
クインシーの話を聴いた限りじゃ、マコシカと教皇庁の考え方だってかなり違ってるのよ?」
「いたねェ、ザットなオバタリアン。今頃、どこでナニしてるんかナ〜。
おホースのトルーパーが落ちアイになっちまって、お先ダークネスでショ」

 身分制度に対する補足としてマクシムスがBのエンディニオンの二大宗派に言及したとき、
レイチェルは例えようのない表情を浮かべて絶句した。
 ここに至るまでの経緯の中で彼女も二大宗派のことは受け止めていたつもりだが、
唯一無二であるべきイシュタルの教えが、人間≠フ解釈によって左右される事態には、やはり衝撃を禁じ得なかった。
 それは信仰の柔軟性とも異なる領域なのである。
 マコシカの酋長として女神信仰を現代に継承し、
あまつさえ古の儀式を以ってイシュタルとの交信まで果たしたレイチェルにとっては、
宗派と言う身勝手な拘り自体が神々への背徳に思えてならなかった。
 アルフレッド経由でソテロの話を聴かされたときから彼女の心中には複雑な思いが渦巻いている。

「……宗派ってソテロさんが言ってたことだよね。神学校のときに何を言いたいのかちゃんと解っていたら、
あんな暴動も防げたのかなぁ……」

 ネイサンは神学校の校長の顔を想い出していた。Aのエンディニオンの女神信仰を二分する宗派について
懇切丁寧に説明してくれた老神官は、人一倍敬虔だったと言う理由から真っ先に暴徒の手に掛かっていた。
 ソテロの信仰とは、果たして何の為にあったのだろうか――。

「教皇庁を擁護したくはないが、イシュタル様を唯一女神として信仰している点は、我々も一緒なのだ。
それだけは誤解なきように。母なる女神のもとで世界は繋がっている」

 女神の信徒の在り方に当惑するレイチェルを、アイルが慰撫しようと試みる。
 「本質は誰も変わらないですよ! だから、オレたちもすんなりマコシカの信仰に馴染めたんですから!」と、
ニコラスもすぐさまレイチェルに寄り添った。

「女神イシュタルの教えに忠実に従おうと言うのがヨアキム派。教皇庁の最大勢力だな。
人間が触れてはならない絶対的な存在としてイシュタルを畏れ、
むしろ仲立ちの預言者を重んじるのがガリティア神学派――みんな、ここまでは良いな?
……ハブール難民の件で分かったと思うが、ガリティアの、それも保守派連中は未だに身分制度を守ってる。
それどころか、無関係の人間にまでそれを広めている」
「預言者ガリティア……何を考えているのかしら。イシュタルが人間に序列を作るなんて考えられないわ」

 説明を続けるマクシムスへレイチェルは意味が不明とばかりに頭を振った。
差別を是認してエンディニオンを弄ぶようであれば、交信を果たしたとき、「人間を信じる」などとは謂わない筈だ。

「そこまではどうにも……。俺も勉強不足なんだが――」
「身分に差を設ける宣託をイシュタルが下さるわけがない。それなのに、一体……」
「あんまり噛み付いてやるなよ、レイチェル。おめーだって神々と交信して宣託っつーのを頂戴してるじゃねぇか。
俺っちに言わせりゃ、チチンプイプイってプロキシ使うのと、預言者さまのお告げとやらに大差はねーぜ」

 信仰論争については門外漢である為、黙して皆の動向を見守っていたヒューだが、
レイチェルが過剰に熱を帯びた際には、これを堰き止めるのが己の役目だと弁えていた。
 これは極めて繊細な議題である。ヒューのように第三者的な視点は欠かせなかっただろう。
夫の発言によって思考(あたま)が冷えたレイチェルは、次いで我知らず感情を昂ぶらせていたと悟り、
「……あたしもヤキが回ったわね」と気恥ずかしげに俯いた。
 咳払いを交えてマクシムスに説明の継続を促すレイチェルだったが、
そこから先の話はマコシカの酋長を更に困惑させるものであった。
 ホゥリーまでもが「アンビリーバボゥ! ワーズワースのアレは序のマウスだったのかい」と、
思わず腰を浮かせたほどである。

 自然礼賛を第一とするBのエンディニオンと異なり、Aのエンディニオンは偶像崇拝が信仰を担っている。
その在り方については、レイチェルもホゥリーもワーズワースで見聞きしていた。
 偶像崇拝そのものは二大宗派にて共有しているのだが、神々を象った像が安置される場所――
人々が祈りを捧げる為に寄り集まる場所はヨアキム派とガリティア神学派とで異なっていた。
 ヨアキム派は教会や礼拝堂と呼ばれる施設にてイシュタルや神人を想い、
ガリティア神学派は寺院と呼ばれる施設にて神々の叡智を感受していると言うのだ。

「アル兄ィ、キョーカイって、多分、あのオバさんが言ってたことだよね」
「あのマッチ棒≠ゥ。……確かにヴァリニャーノは教皇庁の人間だ。
あいつの話と宗派の話が関わり合いを持ったとしても何ら不思議ではないな」

 アルフレッドとシェインは、ハンガイ・オルスで別れる間際にクインシーと交わした約束を思い出し、
「教会」なる施設と一本の線で繋がったことに因縁めいたものを感じていた。

 聖騎士なる異称で呼ばれる聖地の衛士ですら宗派ごとに変えられている。
 『パラディン』と呼ばれるエリートを教会へ派遣するヨアキム派に対し、
ガリティア派は『テンプルナイト』と呼ばれる聖騎士を、寺院が所在する土地の有力者から募っていた。
 教皇庁からの派遣と言う形態であるが為に少数精鋭とならざるを得ないパラディンと、
信仰の名のもとに寺院の所在地から数千数万もの兵力を動因出来るテンプルナイトと言った図式である。
 教皇庁内部の勢力図はともかく、純粋な戦闘能力と言う点に於いてはテンプルナイトが圧倒的に強大だ。

「テンプルナイトか。ジョウからあらまし聴いてたぜ。兵の数はテムグ・テングリなんか目じゃねーみたいだな。
……だったら、ここまで規模が膨らむ前にギルガメシュを潰せたんじゃねーのかなァ……」

 素朴な疑問を漏らしつつ、マイクは首を傾げる。
 彼が語る通り、寺院を保護するのが所在地の有力者である点も大きい。
その土地を治められるほどの名士が必然的に隊長職を拝命するのだが、いずれも綺羅星の如き傑物揃いであった。
 世界各地のテンプルナイトを総括するのは、「諸王の王」とも名高いマルダース・カヤーニーである。
彼が統治する国では未だに王制が続けられているが、このことに不満を抱く国民はどこにも存在しない。
公明正大な治世によって民衆から絶大な支持を得て王として君臨しているのだ。
 邪悪な圧政を布いてきた帝国を倒し、民主国家としての再生に心血を注いで英雄となったムーサ・ロンゴ、
徒手空拳に長じた特殊部隊を率いるエドワード・シャーマン・クリーブランド、
数限りない船団を駆り出して北の海を支配する女傑、ジョアンヌ・ヤコブセンなど、
いずれ劣らぬ勇者たちがテンプルナイトに名を連ねていた。

 テンプルナイトが誇る勇者たちの名を耳にして「スター勢ぞろいじゃねーか」と口笛を鳴らしたのはダイジロウだ。
 ダイジロウとテッドは現在も佐志に逗留しており、
ワーズワース暴動へ関わった一員としてミーティングへ同席している。
 余談ながら――クレオパトラに翻弄された形の両名が不憫でならないジョゼフは、
再三に亘ってグドゥーと手を切るよう勧めていた。これから先はルナゲイト家で両名の身を保護する、と。
 前途有望な若者を掌で転がしたクレオパトラへ我慢がならなかったのだろう。
 しかし、ダイジロウとテッドは一命を救ってくれたグドゥーへの恩義を裏切れないと固辞し、
篤い気遣いに感謝だけを述べるに留まった。

「マルダース王は特に有名だよ。エンディニオン史上一番の名君じゃないかってもっぱらの噂だぜ。
王子のザッハーク・カヤーニーも大したヤツらしいな。あの親子がいる限り、パキシアン王国は磐石だ」
「あ、ダイちゃんがお話ししたカヤーニー家は、パキシアンと言う国を治める王族なんですよ。
マルダース王もザッハーク王子も剣術に秀でていて、聖騎士どころか世界中の誰も敵わないとか。
まさしく文武両道の理想像ですね」
「話を聴く限り、何だかエルンストに似ているな。そのマルダース何某とは話が合いそうだ」
「さすがはテムグ・テングリの軍師、そこが気になるんだな」
「からかうな、シラネ……」

 並居るテンプルナイトの中でもマルダース・カヤーニーは頭抜けて勇名を馳せている様子だ。
さすがは「諸王の王」と称されるだけのことはある――アルフレッドはその名を心に刻み込んだ。

「……マルダース王のような人がいるかと思えば、憂さ晴らしに異教徒狩りをしようとした危険人物もいるんですよ。
ゴチンコ・オルステッド・ロンリと言う人なんですが……」
「アンラークレチア王国のゴチンコかぁ? あのド変態、とっくに教皇庁から除籍されたんじゃねぇの。
あそこはゴチンコだけじゃなくて国全体がおかしかったけどな。
免許申請が通ったら誰でも勇者になれるとか、意味わかんねぇぜ。勇者の資格≠チてそう言う意味かぁ?」
「契約社員みたいだもんね、アンラークレチアの勇者って」
「……微妙に身分差別も引きずってたみたいだし、俺はあんまり好きじゃねぇよ、あの国」

 ダイジロウとテッドも自分たちが知り得る限りの知識を披露していく。
どうやらテンプルナイトを名乗る全ての人間が高潔と言うわけではなさそうだ。

「そこらへん、カミさんは何も言ってなかったのか、ジョウ? 
オレの記憶違いでなけりゃ、お前のカミさんもテンプルナイトの一員なんだろ?」
「ええ、祖国(くに)で兵長の任を仰せつかっていますよ。
……私や家内の生まれ故郷はガリティア神学派が大多数を占めていますが、
皆さんが懸念なさるような悪しき風習は、今では戒められていますよ。
それも含めて、“風習は場所によりけり”とお考えください」

 これまでの議論に思うところも多々あったのであろう。ジョウの面からは半ば生気が失せかけていた。
それが証拠に、すぐには二の句を切り出せない。

「……私の祖国(くに)は寛容でしたから……」

 重苦しい呼気と共にジョウは喉奥から呻き声を搾り出した。
彼の語る祖国(くに)とは、俗に「外道装備」などと称される禍々しい装束の下、
絹糸の衣に染め抜かれた、七芒星に絡みつく竜の紋章を掲げる土地を指しているのだろう。

「信仰が行き過ぎてヨアキム派が神学派の信徒を追い立てる国もあると聞いています。
その逆も然り。テンプルナイトの中でも特に過激な一派は宗教警察を気取って異教徒≠迫害しています。
数に物を言わせて私的制裁を加えるのですよ? ……正直なところ、耳を塞ぎたくなる……!」

 ジョウの言葉に耳を傾ける中でまた新たな煩悶が生じてしまったのだろう。レイチェルの表情はなおも険しかった。

「場所によっては――って、どう言う意味ですか!? 結局、身分差別は生き残っているってことですかッ!?」

 机まで叩いて声を荒げたのは、なんとフィーナである。
いつも朗らかな笑みを絶やさない筈の少女は、満面を憤怒で染め上げ、鬼の如き形相と化している。
 預言者の教義に基づく身分制度がハブール難民を死に追いやった為、
ガリティア神学派への擁護を含んだジョウの話に穏やかならざる反応をしてしまうのだ。
 彼女はネルソンやロレインを始めとして、ハブール難民と深く交わった。親しくなり過ぎたと言うべきかも知れない。
ワーズワース難民キャンプが焼け落ちようとする最中、
捨て身を承知でベイカーの部隊に攻め込もうとしたくらいだった。
 マクシムスやジョウの語る王制≠ニ言う仕組みが、人間に序列の差を設ける身分制度を悪用したものだと捉え、
烈(はげしい)しい憤怒を燃え滾らせていた。

「そんなの……そんなの絶対に許せないのっ! テンプルナイトだか天麩羅ソバだか知らないけど、
みーんなまとめてルディアがブッ飛ばしてやるのっ!」

 フィーナの怒号で火が点いたのか、ルディアまでもが喚き始めた。
会議室へ並べられた机の上に乗るなり、星の妖精の人形――メガブッダレーザーなる光線を発射する装置だ――を
振り翳して皆に武力掃討まで呼び掛ける始末だ。
 彼女の後ろ髪を結わえるリボンは、ワーズワースにて親しくなった難民の少女と交換した物だ。
その少女――セレステも件の暴動の犠牲者であった。

「コ、コカ? コケケ?」

 激情を露にするフィーナとルディアを宥めようと図るムルグだったが、
その気遣いだけでは彼女たちの心に芽生えた鬼≠ヘ退治出来なかったらしい。
 身分制度がもたらす最悪の結末を目の当たりにしたフィーナたちにとって、
預言者が仕組んだ差別の原理はどうあっても許せず、
ともすれば、ガリティア神学派の教義で利を得る者が諸悪の根源のように見えているのだ。

「コカー……」

 どうあっても消せない憤怒の炎に困り果てたムルグは、珍しくアルフレッドへ助けを求めた。
 訴えるような眼差しに気付いたアルフレッドは、天敵と共にフィーナたちを宥めようと試みたが、
悲しみを慰撫しても、暴走を叱責しても、頭に逆上した人間には焼け石に水。
 アルフレッドとムルグは、顔を見合わせて溜め息を吐くしかなかった。

「落ち着いてください、フィーさん。今の貴女をマユさんが見たら、さぞや悲しまれることと思いますよ。
ベルちゃんは深呼吸をしてみよう。テンプルナイトとやらはワーズワースの件とは無関係なのですよ? 
知りもしない相手へ勝手に恨みを持つのは、キミの為にもよろしくありません」

 途中で折れてしまったアルフレッドの後を継いでセフィが諌めの声を掛けたものの、
現在(いま)のフィーナとルディアには逆効果でしかない。

「はぁッ!? こんなときに善人顔(ヅラ)とか、セフィちゃん、アタマ大丈夫なのッ!? 
どいつもこいつも! セレステちゃんと同じ目に遭わせてやらなきゃ気が済まないのっ! 
ルディアの子分たちはみんな――……みんなの恨みを晴らさずにはいられないのッ!!」
「落ち着いていられるセフィさんが私には分からないよっ! 
ロレインさんたちが犠牲になった理由はセフィさんだって知っているでしょう!?」
「ですから、それとこれとは別問題ではありませんか……」
「ホントに無関係なの!? ねぇ、セフィちゃん、ルディアたちはゲスな身分差別に怒っているのッ! 
それなのに関係ナシなんて! カタキ討ちを忘れていい子にしてろなんてッ! 
同じことをワーズワースの方角を見ながら言えるのッ!?」
「そ、それを言われると……」

 思いがけずルディアから正論で反撃されたセフィは、結局、アルフレッドやムルグと同じ道を歩むこととなった。
 フィーナによって困らされた<Aルフレッドを援護するべく、マリスは勇んで身を乗り出した――

「いい加減にしろや、ボケナスどもがッ! いつまでもつまんねーことをグダグダガタガタ言ってんじゃねぇッ!!」
「つまらないって……なんてことを言うんですかっ!」
「聞こえなかったか、フィー公ォ? 今すぐクソうるせぇ口を閉じろっつってんだよッ! 
なんなら、舌ァちょん切ってやろうか? あァッ!?」
「フッちゃんはワーズワースで何も失ってないから、そんな無神経なことが言えるのっ! 
ルディアたちの気持ちなんか分かりっこないのッ!」
「何かを背負わなけりゃ喋る資格がねぇって考え方が既にガキなんだよッ! 
終わっちまったことにこだわってねぇで、これから何をすんのかを考えろっつってんだッ! 
そいつがケジメの付け方ってもんなんだよ、クソがッ!!」

 ――が、叱咤の役割は眉間に青筋を立てたフツノミタマが横から掠め取ってしまった。
 凄まじい剣幕でフィーナとベルを大喝し、これによって場は水を打ったように静まり返った。
 ベルはなおも言い足りない様子であったが、これは撫子が後ろから抱きすくめることで堰き止めた。

「信仰の自由は守られるべきじゃがな。何者かに強要されるものでも、何者かの傲慢で排除されるものでもあるまい」

 議論を激化させた責任でも果たそうと言うのか、ジョゼフが尤もらしい科白を並べながら溜め息をひとつ吐いた。
 最年長たる彼が仕切らなくては、室内に立て込めた重苦しい沈黙を動かすことは不可能に近かったかも知れない。
新たな社会の仕組みを提唱したジャスティンも、王制の破綻を憤慨混じりに説いたニコラスも、
人間の序列を植え付けた預言者の存在に戸惑うレイチェルも――誰しもが憂色に染まっていた。
 聴けば聴くほど、ヨアキム派とガリティア神学派の違いやこれを発端とする問題の深刻さに皆の頭が痛くなった。
 異なる信仰同士の衝突は、えてして教義の解釈≠ネどが原因となる場合が多い。
ヨアキム派とガリティア神学派の場合は、そこに軍事力まで密接に絡んでくるのだ。
凡庸な思考では解決の糸口など全く想像できなかった。

(ヨアキム派とガリティア神学派――利用するにはあまりにリスクが高いな)

 民族問題や宗教問題はいたずらに突(つつ)くと重大な事態を引き起こしかねない――
対ギルガメシュの戦略にこれらの要素を利用出来ないものかと一瞬考えるアルフレッドだったが、
Aのエンディニオンの人々から委細を聴くにつけ、不遜としか例えようのないその思考を改めた。
 下手に計略へ巻き込んで宗派間の対立を悪化させようものなら、
アルフレッドはエンディニオンでは生きていけなくなるに違いない。
 ギルガメシュ討滅さえ叶うのであれば、己の破滅など瑣末なことと思う反面、
ここに居合わせた仲間たちにまで累が及ぶ可能性を考えると、どうしても無謀な策は打てなかった。
 それはつまり、史上最大の作戦をも破綻に追い込むものでもある。

「――ワーズワースに銃器を持ち込んだ第一容疑者が判ったぞ。……これは厄介なことになりそうだ」

 別行動を取っていたラトクが第一会議所のドアを叩いたのは、
アルフレッドがズボンのポケットにシガレットを求めた直後であった。




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