5.White Bear's YAWARA 打撃主体のアルフレッドと投げ技中心のテッドによる代理戦争≠ヘ、硬い板張りの床の上で繰り広げられている。 これはテッドにとって著しく有利であった。受け身を取ることによって、 投げ技のダメージはある程度は緩衝出来るのだが、それにも限界と言うものがある。 硬い床に叩き付けられたなら、当然ながらアルフレッドの側が被るダメージも大きくなる。 場合によっては受け身を取ろうとした腕を痛めてしまう可能性もあるわけだ。 それでもアルフレッドは攻め手を休めない。代理戦争≠煽る声と無益な戦いへの非難が飛び交う中、 臆することなく踏み込み、打撃の嵐でもってテッドを猛襲した。 「白熊」と比喩されるほど体格に恵まれたテッドではあるが、彼の側から攻勢に転じることはない。 極めて優れた柔道家ではあるものの、誰より穏やかな性情の彼は、 アルフレッドとの対決にも迷い以外の感情を持ち込んではいなかった。 さりとて、何もしないまま一方的に嬲り者にされるのは本意ではない。 それが為に迎撃を繰り出すのだが、アルフレッドの腕や腰のベルトを狙う度、 この一回で勝負がつくようテッドはイシュタルに祈っている。 そして、柔道の技を使う以上は全力である。左拳の突きに対して見舞った双手背負投も手加減はしていない。 今し方も中段蹴りを打ち込まれたのだが、この蹴り足を片手でもって抱え込み、 対の手でもう片方の足をも捕まえたテッドは、そのままアルフレッドを押し倒しに掛かる。 双手刈(もろてがり)と言う技だ。高い位置から落とされ、硬い床に強か叩き付けられたアルフレッドは、 間違いなく骨身が軋んでいる筈だ――が、寝技に移ろうとするテッドの顔面へと右の肘を振り抜き、その動きを制した。 受け身を取った際に生じた反動すらアルフレッドは肘打ちに生かしている。それ程までに風切る音は鋭かった。 「ゾクッとしたよ、今の――」 「お互い様と言うやつだ。寝技に持ち込まれたら危ういだろうからな」 「……ハンガイ・オルスのときも寝技上手の女性と戦っていたね。 こうして自分まで戦うことになるとは思わなかったけど……」 「それもお互い様だ。……あんなバカな真似は二度と御免だと思っていたが、挑まれたからには仕方ない」 「ぼくから挑んだわけじゃないだろぉ……」 寝技へ持ち込むことが出来なくなって飛び退ったテッドは、改めてアルフレッドと向かい合う。 袖を通さずマントのように羽織ったロングコートを翻し、構えを取り直す彼の姿に身震いを止められなかった。 勇ましい武者震いの類でないことはテッド自身が誰よりも解っている。 硬い床の上に何度も落下していると言うのに、アルフレッドは平然と立ち上がってきた。 如何なる投げにも完全に受け身を取り、そこから瞬時に反撃へと転じるのだ。 相当な場数≠踏んでいるのは間違いない――テッドもそれなりに実戦は経験してきたつもりだが、 アルフレッドが潜り抜けた修羅場など想像もつかなかった。乗り越えた死線の数とて自分とは比較になるまい。 だからこそ、身の裡から起こる震えが止められないのだ。 ハンガイ・オルス、ワーズワースと、アルフレッドが戦う姿は何度か見てきた。彼が手練であると認識もしている。 事前の心構えがあってさえ、正面切って対峙したこの男が恐ろしくて堪らなかった。 見れば、周囲の者たちは話し合いに使っていた机や椅子を壁際へ片付けようとしている。 村役場の会議室と言っても、それほど広いわけではない。戦いの最中に激突しては危ないと守孝が憂慮したのである。 この作業を制したマイクは、対決するふたりを取り囲む形で机を並べ替えるよう指示を出した。 闘技場の如き状況(シチュエーション)を整えようと言うのだ。 アルフレッドとテッドが睨み合いを続ける中、第一会議室に急拵えの闘技場が完成した。 「……マイクよ、ワシとしては、この辺りで手打ちとしたいのじゃがな。 本当に一戦交えてしまっては後々の遺恨となろう。ワシらは同志じゃ。 更に言うなら、これはギルガメシュとの戦いとは全く関係がない。相争う理由などあるまいて」 「だからっつって、ここでジジィが出張ったらもっと後腐れが酷くなっちまうぜ。 溝ってのはよ、感じた瞬間に埋めねぇと広がる一方なんだぜ。なァに、ここはオレに任せときなって!」 「お主の言う解決法が信じられんから弱っておるんじゃ」 自身の失言が原因で代理戦争≠ノまで発展してしまったことを悔いるジョゼフは、 それとなく中止を訴えてみたが、この場を取り仕切るのは自分であると言ってマイクは聞き入れない。 あくまでも両者を争わせようとするマイクの意図がテッドにはどうしても解らなかった。 冒険王なるこの男は、紛争調停の名人ではなかったのだろうか――と。 パトリオット猟班がハンガイ・オルスにて引き起こした乱闘騒ぎと非常に良く似ている。 経緯(いきさつ)の違いこそあれ、話し合いの場が決闘の舞台へと一変した点は全く同じである。 そのような事態だけは忌避したいとアルフレッドが口にしたのは、つい数分前のことであるが、 マイクの言行を見て取った後にも構えを解く気配がなかった。 「行け行けドンドン、アルフレッドさん! そんなウドの大木、必殺キックで叩き斬っちまってくださいよ! どうせまともに動けやしねぇんだ! 虚仮威しってヤツですって!」 能天気なハリエットはアルフレッドに場違いな声援を送り始めた。 これにはテッドも大弱りである。周りが煽れば煽るほど、プロレス≠行なう側も引くに引けなくなってしまうのだ。 声援を糧としてアルフレッドの恐怖が膨れ上がるように思えてならない。 「……すまない。あのバカは後で厳しく叱っておく。この場は聞き流してくれ」 「えーっと、一応、確認させて欲しいんだけど、後で≠チてことは……」 「愚問だな。この戦いが終わった後だ。更に付け加えるなら、ミーティングが全て完了した後と言うことになる」 「ああ、やっぱり、そうなるのか……」 「思うところもあるだろうが、それまでは堪えて欲しい」 「ぼくが言いたいのは、それじゃないんだけどなぁ……」 やはり、この青年は恐ろしい。「戦う」と言うことに関しては決して退こうとはしない。 命のやり取りとまでは行くまいが、どちらかが動けなくなるまで構えを取り続けることだろう。 テッドがひとつ呼気を吐く。 恐怖の克服は己にしか出来ない――身の震えに押されるようにしてテッドが初めて攻勢に出た。 巨躯に似合わぬ速度で間合いを詰めたかと思いきや、一瞬だけ左方へと身体を振り、 その反動を利用して左手でもってロングコートの襟を掴みに掛かる。 狙うは右襟だ。アルフレッドが迎撃の左拳を突き込んでくると、これを対の手で弾き飛ばし、 一連の流れの中で右襟を取る。 なおもアルフレッドは抗った。自由を奪われる前に膝蹴りで返り討ちにしようと試みた――が、 テッドの動きは予想を遥かに上回っていた。襟を掴んだ左腕を巧みに振ってアルフレッドの重心を崩し、 そこから一気に己の側へと引き込んだ。 テッドが背を向けたかと思った瞬間にはアルフレッドの両足は地を離れ、視界もろとも回転した。 「――アルっ!」 フィーナの悲鳴は、室内に響き渡った轟音によって噛み砕かれた――が、 そこに在ったのは彼女の想像とは大きく異なった光景である。 背負われた直後、アルフレッドは中空にて巧みに身を捻り、テッドと向かい合う恰好で着地して見せたのだ。 「猫みたいなことをするね」 「身体の裡に猫≠一匹飼っているのでな」 この芸当自体が反撃に転じる合図であった。 相手と肉薄する間合いは柔道家のテッドの領域(テリトリー)である。対するアルフレッドは投げ技には明るくない。 しかし、だからと言ってこの間合いでの攻め手が全く存在しないわけではなかった。 「ワンインチッ!」 ジャーメインが歓声を上げるよりも早くアルフレッドの右拳が閃いていた。 およそ二五ミリと言う僅かな間隙から拳を突き込むアルフレッドの得意技、『ワンインチクラック』である。 全身の力を拳に注いで爆発的な打撃を生み出すこの技を、ジャーメインは過去の戦いの中で実際に刻まれている。 限りなく零に近い距離で神速の打撃が襲ってくるのだ。回避など不可能に近い。 「その距離でテッドに勝てるヤツはいねぇよ」 ワンインチクラックの炸裂を確信したジャーメインへ答えるかのように、ダイジロウが口の端を吊り上げた。 彼はテッドの相棒だ。即ち、『柔道家、テッド』の力量を誰よりも一番知っている。 何より重要なのは、ダイジロウもまたアルフレッドの格闘戦を幾度か目撃している点だ。 その上でワンインチクラックが決まらないと読んだのである。 果たして、その予測は現実となった。拳が突き刺さる寸前、アルフレッドの右腕が高々と吊り上げられた。 無論、天井より垂れ下がる糸で操られたわけではない。テッドが自身の左手でもって掴み上げたのである。 対の右手にてロングコートの左襟を握り締めている。 この時点でテッドの技は半ば完成していた。双方の身体を密着させつつ自身の腰にアルフレッドの上体を乗せ、 更に両膝を軽く曲げている。足のバネを発揮させて投げようと言うのだ。 さしものアルフレッドも今度ばかりは反応し切れず、受け身さえ取れないまま、板張りの床に叩き付けられた。 袖釣込腰(そでつりこみごし)。回避不能とも思われるワンインチクラックを破ったのは、 芸術的とも言える投げ技であった。 読んで字の如く、本来は相手の袖を掴む投げ技であるが、テッドは応用を利かせてアルフレッドの手首を捕っている。 今までにないダメージを受けたのだろう。アルフレッドの動きは明らかに鈍っていた。 床の上に転がったまま、離れつつある意識を引き止めようと頭を左右に振っている。 申し訳ないと心中にて謝りながらも、今が好機と見たテッドは、袖釣込腰の折に掴んだ左襟を決して放さない。 強く押し付けることでアルフレッドの身体を制しつつ、対の左手をアルフレッドのベルトに差し込もうとする。 横四方固めへと持ち込み、アルフレッドを封殺するつもりであった。 これもまた寝技の一種だ。仰向けに転がった相手の上へ側面から覆い被さり、 更に左右の手でもって襟と太腿あるいは帯を掴んで身動きを抑え込むのである。 こうした寝技は試合∴ネ外では実用しにくいものの、現在(いま)はマイクがレフェリーとして付いている。 完全に抑え込んでしまえば、彼の冒険王が勝負を止めてくれるだろう。 「――させるものかッ!」 だが、アルフレッドもやられてばかりではいられない。 ベルトを掴もうとするテッドの左手と交差させるように己の右膝を突き上げ、彼のこめかみを打ち据えた。 「ぐあ……ッ!」 テッドにとっては思いがけない反撃だ。脳を揺さぶられて反射的に上体を引き起こそうとしたが、 アルフレッドは更にもう一方の足をも振り上げ、両足でもって彼の首を挟み込んだ。 両手でもってふたり分の体重を支えつつ身を捻ったアルフレッドは、そのままテッドを後方へと放り投げた。 切り札のひとつでもある『フランケンシュタイナー』、その簡易版とも呼べる投げ技だった。 しかし、ここではダメージを与えるのが目的ではなく、間合いを離すことが最優先である。 巧みに受け身を取ってダメージを減殺させたテッドは、アルフレッドよりも先に立ち上がり―― けれども、追い討ちを仕掛けようとはしない。戦いが進もうとも、彼の心は優しさを失ってはいなかった。 「……ぼくにはとても真似出来ないよ。頭がグラついたらそこで降参してる」 「嘘吐きめ。今だってすぐに立ち上がったじゃないか。そんなにヤワではないだろう?」 「誉め言葉は嬉しいけど、降参出来るものなら今すぐ降参したいんだけどね」 意識が混濁する中でも反撃に転じて見せたアルフレッドの気魄にテッドは慄いているが、 これは単なる引っ掛けに過ぎない。頭部に深手を負った芝居でも見せてやれば、 与えるダメージが最小限で済む抑え込み系の技を選ぶと読んだのだ。 (お前はフィーと同じくらいのお人好しだから、必ず騙されると思ったんだ) ――本心は決して口には出せない。 つまるところ、今の攻防はアルフレッドの性悪≠ノ軍配が上がったと言うわけであった。 「乱闘騒ぎのときにこないなことを言うたら、ホンマはアカンのやろうけど、ワイはアルの味方やで! 冷静に行くんや、冷静に! お前はやれば出来る子やねんっ!」 「どうして急に子ども扱いなんだ。確かにお前は俺の師匠だが、別に養育された覚えはないぞ」 「養育? 養育されたいて? よ、よっしゃ! 養子にしたってもええでッ! 今日からワイがお前のパパやッ!」 「話を聴け、バカ師匠。何をそんなにテンパッている」 遠巻きに戦いを見守っていたローガンがアルフレッドを落ち着けようと声援を送る。 得意のワンインチクラックを破られて動揺しているのではないかと案じたのである。 尤も、アルフレッド自身は少しも心を乱されてはいない。 戦いの場に於いて自身の技が潰されることなど大して珍しくもないのだ。 いちいち気にしては攻防を組み立てることも出来まい。 ワンインチクラックを破られたことは、本人よりも周りの人間のほうが衝撃だったようだ。 特にジャーメインは呆けたように口を開け広げている。 神懸った反射神経としかテッドを評することは出来まい。密着した状態から神速で突き込まれる拳を捕らえたのだ。 打撃の巧者であるアルフレッドは数多くの技を備えているが、ワンインチクラックはその中でも間違いなく最速。 それが特殊な技法ではなく反射神経のみで破られたと言うことは、 極論ではあるものの、他の技が何ひとつ通用しない可能性もあるわけだ。 しかも、だ。打撃主体のアルフレッドと投げ技中心のテッドは相性が芳しくない。 突き込んだ拳、あるいは振り抜いた脚を最小最速の動きで捕捉され、投げでもって返され続ければ、 さしものアルフレッドもいずれは五体を潰され、立てなくなるだろう。 戦いが長引けば長引くほど、硬い板張りの床はアルフレッドを苦しめるのである。 ならば短期決戦に持ち込んだほうが有利と考えたのか、それとも別の思料があったのか―― 巧みな投げ技にも臆することなく、アルフレッドは打撃を頼みに攻めかかっていく。 最速の拳が破られたにも関わらず、だ。 「――何発凌げるか、試してみろ」 「なんの!」 『ラピッドツェッペリン』――相手に飛び掛りながら連続蹴りを繰り出すアルフレッドの得意技だが、 蹴り込む寸前であった右の出足をテッドが足裏にて払ってしまった。 足払いを繰り出す寸前にはロングコートの右襟を、更には左肘を掴んでおり、 この二点で重心を崩してアルフレッドを振り回した。 送足払(おくりあしばらい)と呼ばれる技である。 横倒しにされる間際にテッドの右手首を掴み返したアルフレッドは、これを支点として身を振り戻し、 払われた足でもって激音が轟くほどに強く床を踏み締める。 反動を付けて後方へと飛び退ろうとしていた。緊急回避の後は延髄に足甲を叩き込むつもりである。 地上からの手が届きにくい中空での戦いにもアルフレッドは精通しているのだ。 相手に組み付いた状態での攻防を得意とするテッドにとっては、中空まで飛び上がられてしまうと甚だ不利だ――が、 機先を制し、地上で潰してしまえば何の問題もない。 猛烈たる脚力でもって空に逃れようとするアルフレッドの動きを、テッドは容易く潰して見せた。 左の五指を襟から右肘へと移し、次いで腰を捻る。上体から生み出された回転力で彼を巻き込んだのである。 払腰(はらいごし)――本来は相手の足を払って仕掛ける技であり、テッドが繰り出したものは変則の形だった。 件の技に於ける体重の移動を体さばきのみで再現させたのだ。 両足が浮き上がった状態のアルフレッドでは避けようもなく、瞬く間に床の上へと転がされてしまった。 追い撃ちを警戒したアルフレッドは、すぐさま反撃を試みる。 転がされた状態から両足を繰り出し、テッドの脛と膝裏を挟み込んだ。 彼の側面より技に入って左右の足を同時に捕獲したのである。 それからすぐにアルフレッドは上体を跳ね起こし、腰をも捻ってテッドを前方へ引き倒した。 体勢を崩されて膝を突く恰好となったテッドであるが、拘束された両足を引き抜くや否や、 逆にアルフレッドへ関節技を仕掛けていく。床に突いた掌を支点に巨体を横に滑らせ、 両足でもって彼の腕を搦め取ろうと言うのだった。 テッドが狙ったのは、腕挫脚固(うでひしぎあしがため)なる関節技であった。 文字通りに両足でもって相手の腕を挟み、肘関節を極めてしまうのだ。 両の膝裏で相手の片腕を固めつつ、空いた両手でもって足や首をも締め上げると、 自然と上体が反り返って肘が極まる――これもまた腕挫脚固のひとつの形である。 (……なんだ、これは――関節技……ッ!?) 巨体を傾けておいて腹部に足甲をめり込ませようとしていたアルフレッドだが、 テッドの動きに寒気を覚え、一瞬にして後方へと退いた。 両者の攻防を見守るしかない守孝と源八郎は、驚愕に身を強張らせていた。 彼らも一種の嗜み≠ニして柔道の心得がある。それだけにテッドの優れた力量が判るのだ。 「源さん、今の攻めが見え申したか……」 「世の中、広いとしか言いようがねぇやな。アルの旦那、よく随いていけるもんだぜ。 あそこからブッ込もうとした関節技、あんなの、見えたところで返しようがねぇよ。俺にゃどうにも出来ねぇ」 「技の入り方からして腕挫脚固あたりでござろうが、……ううむ、お見事なる達人でござ候」 寝技のみに限って言えば、ジウジツを極めたミルドレッドのほうが機敏であるのかも知れない。 だが、それは一面のみを材料とした場合の判断である。如何なる状況でも対応し切れる抽斗(ひきだし)≠ヘ、 テッドとてミルドレッドに勝るとも劣らない様子だ。 「ライアンも可哀想にな。テッドのジュードーは世界一だぜ? メタル化しなくたって十分に強いんだよ」 「ダイちゃん、世界一は言い過ぎだよ。ぼく、別に世界選手権とか出てないでしょ」 「バカ言うなよ、大会に出てるような連中だって目じゃねーぜ」 相棒の腕前を誇るダイジロウに対し、ジャーメインは悔しげに唇を噛んだ。 これまでテッドの戦いを目にする機会のなかった彼女は、アルフレッドの圧勝に終わると信じ切っていたのだ。 ダイジロウはテッドの柔道を世界一と誉めそやしているが、おそらくそれは贔屓目ではなく事実であろう。 スカッド・フリーダムおよびタイガーバズーカにも優れた柔道家は多いが、 アルフレッドの前に立つ白熊は、彼らと比しても数段上手(うわて)であるように思えた。 落雷すら避け切るのではないかと思わせる反射神経や、それを十二分に生かすことの出来る身体能力は、 ジャーメインが知る何(いず)れの柔道家にも備わってはいない。 (……負けるとこなんて見たくないわよ、アル――) ホウライさえ駆使すれば、テッドの反射神経に競り勝つことも不可能ではなくなるだろう。 しかし、アルフレッドは自身の虎の子を封印している。一度たりとも発動させようとはしなかった。 あくまでも試合は己の身ひとつで行なうもの。ドーピングに等しい行為など持ち込むことさえ卑怯な振る舞いなのだと、 アルフレッドとテッドは認識しているわけだ。 暗黙の了解と言うものである。どちらかがこれを踏み破ってホウライなりメタル化なりを行使すれば、 彼ら自身の誇りを守るべくマイクが注意を飛ばす筈だ。 攻防の行く末を憂うジャーメインと、相棒こそ世界一の柔道家だと胸を張るダイジロウ―― 双方の眼前で戦いは再び動き始めた。 (空中戦が駄目だと言うのなら……ッ!) 一気に踏み込むアルフレッドであったが、今までのように懐深くまで間合いを詰めようとはせず、 中距離で軸足を定めるや否や、対の足甲でもってテッドの膝を横薙ぎに抉った。 アルフレッドが陣取った場所は、テッドの――否、柔道家の間合いから離れている。 つまり、相手の射程圏外からダメージを刻もうと言うわけだ。 レフェリーを務めるマイクからは「ずっこいコトしてねぇで会心の一撃で行こうぜ」などと軽い非難を飛ばされたが、 アルフレッドには取り合うつもりはなかった。観客相手に試合を見せているわけではないのだ。 勝ちを得るのに必要な戦術ならば全て用いるつもりであった。 「痛(つう)……ッ!」 「リャアァァァぁぁぁッ!」 左右の膝、その内側と外側目掛けてアルフレッドはローキックを繰り出し続ける。 それも斜めに振り下ろす蹴り方だ。これは芯までダメージが貫通する技法である。 焦れたテッドが懐へ入り込もうとすると、足甲よりも更に硬い踵を膝に叩き付けて動きを押し止め、 その間に素早く後方あるいは左右へと跳ね飛んでしまうのだ。 強引に割り込まれそうになると、足裏を押し出す前蹴りにて巨体を撥ね返す―― あくまでもアルフレッドはテッドの射程圏外から攻撃を続ける構えだった。 「本当に頭の切れるヤツだな。ライアンめ、考えやがったもんだぜ……!」 ほんの数分前までテッドが競り勝つと疑わなかったダイジロウも、アルフレッドの講じた戦術には焦りを感じ始めた。 メタル化をしなくてもテッドの肉体は十二分に頑強である。生半可な打撃ならば苦もなく跳ね返す筈だ。 しかし、相手はアルフレッドである。ジャーメインとの戦いを見ただけでも判ったが、 彼の蹴りは恐るべき威力を秘めている。さすがの相棒でも最後まで凌ぎ切れるとは思えなかった。 しかも、だ。テッドは膝だけを集中的に狙撃されている。そう遠くない内に関節も悲鳴を上げ始めるだろう。 それはつまり形勢逆転を意味していた。 己と相手、双方の体重および重心の支配が投げ技の極意である。 改めて詳らかにするまでもなく、これは両足こそが最大の要であり、 ダメージによって機能が損なわれるとたちまち真価を失ってしまうのだ。 「マーシャルアーツ・マスター」と謳ったマリスではないが、 アルフレッドはジークンドーやサバットを体得した優秀な武術家である。 柔道の要を潰す手立てに勘付いても何ら不思議ではなかった。 「ぼくにも意地があるからね――」 己の膝が軋み始めたことをテッドも自覚している。それ故に彼は乾坤一擲の攻勢に出た。 蹴りを恐れずに敢えて深く踏み込んでいき、アルフレッドが迎撃を繰り出そうとした瞬間、その踵を左手で捕った。 (――アレ≠ゥ……ッ!) テッドに捕獲されたのは右足だ。双手刈を警戒し、無事な左足で後方に飛び退ろうとするアルフレッドだったが、 その機転が却って災いした。 右踵を掴んだまま、アルフレッドの懐まで入り込んだテッドは対の手にてロングコートの襟を掴み、 重心を一気に前方へと傾けた。 ふたり分の体重がアルフレッドの身に圧し掛かり、背後に向かって勢いが増していく。 それは、最早、アルフレッド自身にも制御出来ない速度となっていた。 ――踵返(きびすがえし)。これもまた正当なる柔道の技である。 双手刈のときよりも更に高く、しかも、後頭部から急降下させられたアルフレッドは、 芝居ではなく今度こそ本当に意識が消し飛びそうになった。 だが、アルフレッドの墜落を以ってしてもテッドの攻勢は止まらない。 一撃では倒せないと悟った彼は、心の中で幾度も幾度も謝罪しつつ、意を決して危険な技に移った。 右手でもって一層強く襟を絞め、そのままアルフレッドを引き起こしたテッドは、 踵を掴んでいた左手を彼の股に潜らせて太腿を掴んだ。これらは全て大技への布石に他ならない。 「行くよ、ライアン君ッ!」 間もなくアルフレッドの身体を担ぎ上げたテッドは、肩の上で転がすようにして彼を投げ落としに掛かった。 肩車(かたぐるま)。数多ある柔道の投げの中でも古来より必殺として恐れられる大技である。 「おっしゃあ! そのまま決めちまえ、テッドッ!」 「なに寝ぼけてんのよ、アルッ! そんな場合じゃないでしょ!?」 テッドの肩車に正反対の声を上げるダイジロウとジャーメインだったが、両者の悲喜はすぐさまに逆転した。 今まさに墜落させられようとしていたアルフレッドがテッドの左手を強引に振り解き、 彼の後頭部へと両の膝を叩き込んで投げの拍子を崩したのである。 「これは……ッ!?」 突然の変化によって拍子を乱されたテッドは、膝に溜まったダメージの影響もあって体勢まで崩してしまった。 このとき、テッドは左の手首と肘をアルフレッドに掴まれている。 腕を捕られて後方へと引き倒された恰好だ。垂直気味で落下した直後、彼の左肩は軋み音を上げた。 この瞬間に鎖骨が折れていても不思議ではない。 テッドを仰向けに転がしたアルフレッドは、自らは腹這いの状態となって彼の左肘関節を極めた。 左右の五指は掴んだ獲物(ひだりうで)を決して離さない。右の脇で抱え込むようにして完全に拘束していた。 「『ハードキャプター』……ジークンドーにも関節技くらいある。柔道だけの専売特許だと思わないで貰おうか」 「……やられたよ……」 無理な体勢で転がされたテッドと異なり、両の腕力を最大限に発揮出来るアルフレッドは、 彼の左関節を容赦なく反り返らせていく。これによって肩にまで深刻なダメージを与えようと図っているのだ。 柔道家のテッド相手に関節技を仕掛けると言うアルフレッドの奇策にはフィーナも声を上げて驚いた。 但し、大博打にも近いハードキャプターへ仰天したのではない。彼が関節技を使う姿など今まで見たこともなかったのだ。 打撃こそがアルフレッドの本領だとフィーナは認識している。 興味深そうに戦いを見つめていたフツノミタマは、初めて披露された関節技に驚嘆し、 「オレと戦ったときにも使いやがれ!」などと嫉妬に近い吼え声を上げていた。 「なにブルッてんねや。ジークンドーにはサブミッションもあるて本人かて言うとるがな」 トレイシーケンポーの『仮想敵』としてジークンドーを研究していたシルヴィオは、 関節技を使った程度で驚くフィーナが不思議でならなかった。 彼は袖釣込腰によってワンインチクラックが破られた瞬間(とき)にも全く動じてはいなかった。 それもその筈である。シルヴィオ自身、アルフレッドと立ち合った際に一度はワンインチクラックを破っているのだ。 この「一度は」と言う点が重要である。ジークンドーとトレイシーケンポーの対決は長期戦となったが、 その間、破った筈のワンインチクラックを直撃されている。 シルヴィオには解っているのだ。必中の技などはこの世には存在せず、状況によっては避けられることもある。 しかし、戦いの流れの中でいくらでも直撃させる好機はいくらでも巡ってくるのだ、と。 些か偏狭ではあるものの、自分が倒すまではアルフレッドが――ジークンドーが敗れることはないと、 シルヴィオは確信している様子であった。 「きっとアルはあなたに火を点けられたんですね。全部、解き放つ気になったんだ……」 「火ィ点けられたんはわしのほうや。ジークンドーの全てを味わわんと熱気が鎮まらんのじゃ」 「それもアリだと思います」 「ところで、何で鼻血垂れとんねん」 長い付き合いであり、アルフレッドのことならば何でも分かっている筈のフィーナですら知らない技―― それを解き放ち始めたのは、あるいはジークンドー永年の『仮想敵』との一戦を経て訪れた変化なのかも知れない。 「そや、あいつ、サブミッションはあんま得意とちゃうやろ?」 「え? あ、はい――少なくとも、私は見たことがありませんでした」 「ほんなら、わしとの再戦までに鍛え直してもらわんとかなわんな。ありゃあ、えらいナマクラになっとるで」 「鈍ら……?」 体得したとは雖も実戦で使わずにいる技は感覚のレベルで鈍っていくもの――と、 シルヴィオは言いたかったのかも知れない。 事実、マイクにギブアップの意思を尋ねられてもテッドは首を横に振った。 それはつまり、関節を極められた状態からでも逆転出来ると言う自信の表れだ。 命のやり取りであったなら、あるいはアルフレッドも肘の関節を折ったかも知れない。 だが、これはあくまでもプロレス≠セ。「結果的に折れてしまった」と言うことならばともかく、 意図的に骨を破断することは許されなかった。 だからこそ、テッドもハードキャプターから脱け出す機会を狙っていける。 彼の防御は極めて原始的だった。自由を保っている両足でもって床を蹴り、身体を揺り動かし、 あるいは背や尻で滑って回転し、アルフレッドによる拘束から自身の左腕を引き抜こうと言うわけだ。 左腕が軋む原因とは、関節を本来の可動域とは逆の方向へ引き伸ばされているからに他ならない。 その状態さえ覆すことが出来れば、テッドにも突破口と言うものが見えてくる。 「――ぬおぉッ!」 人間の五指は万力のようにはなれるかも知れないが、決して万力そのものと化すことは出来ない。 肌あるいは衣(きぬ)が断続的に擦れたなら絞め込みも徐々に緩まっていき、 これに伴って拘束の力も弱まってしまうものである。 そうはさせまいと、アルフレッドが両足でもって彼の胴を挟み込もうとした――その瞬間にテッドは活路を見出した。 体勢を変える前後には、どうしても絞め付けが緩まってしまう。この好機を柔道の達人が見逃す筈もなく、 自らの両足で踏ん張りを利かせてハードキャプターの拘束から左腕を引き抜いたのだ。 「餅は餅屋≠ニ言うことさ……!」 「そのようだな……!」 アルフレッドがミルドレッドの如く関節技の巧者であれば、このような失態を犯すことはなかっただろう。 だが、シルヴィオから「鈍ら」などと酷評される程にハードキャプターの極めは甘く、 柔道家として寝技の心得があるテッドに敢えなく外されてしまった。 大して苦労した様子もなく脱出されたからには、左腕の関節も時間の経過で回復することだろう。 効果的な痛手を与えたとは言い難い。 だが、アルフレッド自身もハードキャプターでテッドを仕留め切れるとは思っていない。 次なる挙動まで見越した体勢の変化こそが彼の狙いであった。 左の肘を壊される前にテッドは拘束から脱け出すことに成功した――が、 全身を運動させた為に動作が過剰に大きくなってしまい、立ち上がるまでには相当な時間を必要となった。 対するアルフレッドはどうか。身を翻すだけですぐさまに体勢を整えることが可能であり、 テッドが片膝を突くタイミングに合わせて追撃を見舞うのも難しくはなかった。 大地を震わすほど強く踏み込んだ足を軸として掌打を繰り出す『ペレグリン・エンブレム』だ。 しかも、狙いは人体急所たる眉間である。 屈むような体勢であったテッドはペレグリン・エンブレムを直撃され、頭部もろとも後方へと弾き飛ばされた―― (バカな、手応えが……) ――そのようにアルフレッドは確信したのだが、驚くべきことにテッドは眉間でもって掌打を受け止めた。 歯を食い縛って耐え抜き、後方へと吹き飛ぶこともなく、聳え立つ壁の如くその場にて踏み止まったのである。 メタル化に頼らずともテッドの肉体は頑強そのものだ。その打たれ強さを根性の名のもとに最大限まで引き出し、 アルフレッドの打撃を凌いで見せたのだった。 この間合いで耐え抜かれては危険だ――アルフレッドが窮地を悟ったときには既に遅く、 テッドにロングコートの左右の襟を掴まれていた。 すぐさまにテッドは反撃に出る。己の背を床の上で滑らせつつアルフレッドの襟を引き込み、 これと同時に軽く膝を曲げた右足の裏をアルフレッドの腹へと添えた。 「えッしゃあああぁぁぁァァァッ!」 裂帛の気合いと共に右足を跳ね上げ、アルフレッドを後方へと投げ飛ばした。 巴(ともえ)投げ――相手の下方へと潜り込みながら足の屈伸を生かして投げを打つ大技である。 襟を掴んでの引き込みによって重心を崩されていたアルフレッドには堪えようもなく、 またしても鈍い音と共に落下させられてしまった。 最小の動作にて振り返ったテッドは、なおも背を向けたままでいるアルフレッドの首へと両腕を伸ばした。 脇の下から潜らせた左腕でもって後頭部を脅かし、対の手にてロングコートの襟を握る―― この技を柔道では片羽絞(かたはじめ)と呼んでいた。 文字通りに絞め技の一種であり、相手の片腕を押さえつつ頚部を捕らえる一石二鳥の攻め手である。 全力で仕掛ければ、一瞬にして絞め落とすことも不可能ではない強力無比の荒業なのだ。 (お前なら必ず来ると……思っていた!) だが、当のアルフレッドは決してテッドに首を掴ませない。 彼に背を向けたまま、後方へと右肘を振り抜いてその頬を強打し、 これによって反動を付け、片膝を支点にして急速旋回、遠心力を乗せた横薙ぎのフックまで繰り出した。 轟然と風を裂くフックは防がれてしまったものの、アルフレッドは駒の如く回転を止めず、 続けざまに得意の後ろ回し蹴り――『パルチザン』を放った。 地面を擦り兼ねないような低い位置で繰り出された左のパルチザンは、テッドの足首を刈ろうとしている。 アルフレッドの狙いを察知したテッドは、後方へと転がって横薙ぎの一閃を避けた――が、 振り向きざまに大技が連続するとは予想もしていなかった為、虚を衝かれて姿勢を崩してしまった。 身を起こそうとする寸前によろけたと見て取るや、アルフレッドはテッドの右肩を己の左手にて押さえ付け、 挙動を封じた上で左肘を彼の脳天目掛けて垂直落下させた。 「――へぇ? 上手いこと、吸収したみたいね。さすがはガリ勉タイプってところかしら。 可愛いコの太腿に挟まれて、のぼせ上がるような間抜けじゃないものねぇ」 そう感嘆を漏らしたのはレイチェルだ。 相手の頭部を押さえた上で肘を落とすこの技は、本来はジャーメインの得手である。 アルフレッドは彼女が用いる肘鉄砲(わざ)の術理を拝借し、状況に即した形へと応用を利かせていた。 レイチェルはハンガイ・オルスに於いてもアルフレッドとジャーメインの戦いに立ち会っており、 それ故に彼の工夫に気が付いたのだった。 即席の肘落としにしては上出来であろう――が、当のアルフレッドは眼下に恐怖を認めている。 この強撃すらもテッドは耐え忍んだ。脳天を激しく揺さ振られようとも踏み止まり、 両足を取ろうと腕を伸ばしてきたのだ。 「これでも終わらないか……!」 「石頭ですまないねッ!」 反射的に右足を振り上げ、甲でもって彼の顎を撥ね飛ばした――サマーソルトエッジと呼ばれる蹴り技だ――が、 テッド当人は巨体を浮かされた瞬間、右手で彼の左手首を、対の手でロングコートの襟を掴み、 次いで股を割るようにして己の左足を滑り込ませた。 すかさず斜め前へとふたり分の体重を移動させ、これと合わせて左足を一気に振り上げる。 太腿の裏を当てるようにしてアルフレッドの右足を払ったのだ。 右足一本で立つテッドとは正反対にアルフレッドの身は受け身も取れないまま床の上に投げ出された。 内股(うちまた)の名を持つ技が炸裂したのだった。 着実にダメージを与えていくテッドであるが、今度は追い討ちを仕掛けようとせず、すぐさま後方へと飛び退った。 果たして、その判断は正解だった。転ばされた状態からでもアルフレッドは反撃を繰り出そうと準備していたのだ。 聞き分けのない子どもが駄々を捏ねるような姿勢で連続蹴りを繰り出す『リバースビートル』である。 「……さすがに自信がなくなってきたよ――これでも全力で投げているんだけど、簡単に立ち上がってくるんだもん。 まだまだ修行が足りないと言うことかなぁ……」 「自分を過小評価するな。お前の投げは十分に効いている。我ながらよく骨が保(も)っているものだ。 何回、腰が砕けたと思ったことか」 「だけど、立てるんだろう? ……その時点で、やっぱりぼくは甘ちゃんなんだよ、きっと」 「俺はお前を甘いとは思わない。投げ技の切れ味は尊敬に値する。シラネが言う通り、世界一の柔道家だろう」 「そ、そうやって真顔で言われると照れちゃうなぁ〜」 辛くもリバースビートルから逃れたテッドは、即座に起き上がったアルフレッドと暫し睨み合う。 内股で倒した後に追撃へ転じなかったのは、寝技の類がアルフレッドには通用しないと認めたからだ。 今し方の攻防についても、迂闊に寝技を仕掛けようものならリバースビートルで返り討ちにされたかも知れない。 対するアルフレッドは寝技の防御に様々な工夫を重ねていた。 ミルドレッドとの戦いを通じて寝技の恐ろしさを実感した彼は、 拘束されるより先に相手の動きを止めるよう心に留めているのだ。 その成果こそが、寝技を巧みに妨げた返し技の数々と言うことになるだろう。 テッド自身も寝技や抑え技の類ではアルフレッドを仕留められないと思っている。 「おらおら、どうしたどうした? ふたりしてカタマッちまったら客からブーイングが飛ぶぜ? 膠着状態ってのがプロレスじゃ一番つまらねーんだ!」 「あの、……ぼくらは別にプロレスやってるわけじゃないんですけど……」 間合いを取りつつ相手の出方を窺う両者を、レフェリー役のマイクが煽った。 この戦いが目当てで集まった観客≠ネどどこにも存在しないのに、だ。 そもそも、だ。レフェリーは試合に審判を下すのが役目であり、煽動は固く禁じられている筈である。 (膠着状態が面白くない≠フはこちらも同じだ――) マイクの扇動へ応じるようにアルフレッドは再び中距離まで接近し、柔道の射程圏外から蹴りを雨霰と降り注がせる。 つまり、致命傷を与えるような強撃が狙いではない。 足首や四肢の付け根目掛けて足甲あるいは脛、身を翻して踵を次々と叩き込んでいく。 テッドが反撃を試みれば、機先を制して横薙ぎの蹴りを繰り出し、その肘を狙撃する。 伸ばしかけた腕を折り畳むようにして重い脚を当てるのだ。 ローキックで膝に揺さぶりを掛けたときと酷似する状況であるが、今度は狙い撃ちにする箇所が多い。 嵐に飲まれたテッドは、身じろぎすら満足に出来ない状況に置かれている。 それでも彼は諦めない。懐まで入るべくダメージの蓄積を度外視して、半歩ずつ一歩ずつ、先に進もうとする。 テッドの動きを見て取ったアルフレッドも後方あるいは左右へと跳ね、中距離を保ち続けた。 そのテッドにしても、いつまでも翻弄されてはいない。 左外膝に振り落とされたローキックを右方へ跳ねるようにして逃れ、 更には電撃的な速度でアルフレッドの背後まで回り込む。 「――ぬんッ!」 背中から伸ばした左右の五指でベルトを掴み、腰と膝のバネでもって後方へと放る―― テッドが仕掛けたのは裏投(うらなげ)と呼ばれる大技だった。 自身も後方へと倒れ込みながら投げ落とすと言う威力の高い技なのだが、これは残念ながら不発に終わった。 ローキックの体勢から右足を鞭の如く撓らせ、脳天よりも高く振り上げたアルフレッドは、 ベルトに掛けられた手を引き剥がすべく上体を捻り、この動作に合わせて足の側面をテッドの鼻頭へぶつけた。 相手に背を向けた状態で蹴り技が繰り出せるなどとは夢にも思わなかったテッドは、 器用としか例えようのない奇襲をまともに喰らい、思わずよろめいてしまう。 裏投を打つ為の拘束(ふせき)から完全に逃れたアルフレッドは、 軸足を捻らせるなり瞬時に旋回し、その流れの中で踵を落とした。高空より走る紫電の如き一閃だ。 両腕を交差させて踵落としを防ぐテッドであったが、それが為に胴が全くの隙だらけとなってしまう。 すかさず右足を翻したアルフレッドは横薙ぎに中段蹴りを繰り出し、この足裏が床板を踏むや否や、 滑り込むようにして間合いを詰め、左の回し膝蹴りで右脇腹を抉った。 このとき、アルフレッドには上体の捻りに基づき、横方向への強い力が働いている。 体重移動に長けたテッドがこれを見過ごすわけがない。肩の上より覆い被さるように回した右手で 後ろからアルフレッドのベルトを掴み、対の手でロングコートの右襟を取ると、 回し膝蹴りで生じた勢いをも利用して彼の身を瞬く間に投げ落とした。 ベルト――正式には帯であるが――を掴んだ手で相手の身体を釣り上げることから、 この技は釣腰(つりごし)と名付けられている。 「……本当に、どんな技にも対応してくるんだな……!」 油断なく受け身を取ったアルフレッドは、防御に用いた右腕でもって己の身を高々と持ち上げ、 左右の足を交互に突き出していく。丁度、二本の斜線を引くようにして白熊の顎を狙っていた。 この変則的な二段蹴りもテッドに避けられてしまったが、アルフレッドは構うことなく上体を思い切り捻り、 遠心力を作り出して全身をコマの如く旋回させた。 大きく開いた両足はさながらプロペラである。この回転に巻き込んでテッドの足を薙ぎ払おうと言うのだ。 『アウトプットピボット』なる技名も付いた豪快な蹴りであったが、 標的たる白熊は更に後方へと退(すさ)り、唸りを上げる旋風から逃れてしまった。 だが、攻防はなおも続く。一旦は飛び退ったテッドだが、着地と同時に反動をつけて前方へと踏み出していく。 迫り来る白熊の手に対し、軽やかな宙返りを披露して後方へと逃れたアルフレッドは、 テッドの手並みを模倣するかの如く着地の直後に反撃を仕掛けた。 身体を放り出すようにして前方へと跳ね飛び、中空にて腰を捻りつつ後ろ足を内から外へと回転させ、 鋭角に踵を叩き落す――宙返りから横回転の浴びせ蹴りへと変化する妙技、『バンカーバスター』であった。 今までになく大振りの蹴り技であり、テッドにとっても足を捕り易い筈だ――が、 余りにも奇怪な動作(うごき)であった為に反応が遅れてしまい、 投げ技で切り返すどころか、降り注ぐ踵をガードすることが精一杯だった。 たっぷりと遠心力を乗せた浴びせ蹴りだ。ガードした左腕ごと圧(へ)し折るつもりでいたアルフレッドは、 自身の読み違いに思わず舌打ちしてしまった。 テッドの打たれ強さは並大抵ではない。屈んだ状態から足裏を突き出し、 浴びせ蹴りを当てたのと同じ箇所を再び揺さぶるものの、おそらく左腕の骨にはヒビひとつ入ってはいないだろう。 (せめて肘でも痛めてくれたら御の字だが、……望むべくもない、か) 蹴り足を引き戻しつつ立ち上がったアルフレッドに向かって、 ダイジロウから「お前のほうから降参したほうがいいぜ。うちのテッドはビクともしねぇ!」と声が飛ぶ。 「かめへん、そのまま行ったれ! 見てみ、テッドの腕! 痣が出来とる! 相手が人間っちゅー証拠や! あいつが世界一の柔道家なら、お前は世界一のキック名人! 蹴って蹴って蹴りまくりやッ!」 「世界一かどうかは知らないが、言いたいことは伝わった――」 師匠(ローガン)の声援を背に受けて、アルフレッドは堅牢なる白熊を打撃の嵐で飲み込んでいった。 「シェインさん、あなたの先輩はどう言う稽古を積んできたのですか。 あんな人、私は他に見たことがありませんよ」 「最初に習ったジークンドーって武術の師匠が実のお祖父さんだったんだよ。 ボクは小さかったから覚えてないんだけど、化け物みたいに腕が立つ人だったんだって」 「シルヴィオんトコのライバル流派だな。そーいや、サバットの心得もあるみてぇだよな、アルの兄キ」 「それは士官学校で教官から叩き込まれてきたって言ってたっけ。 ローガンとの修行も楽しそうだし、きっとアル兄ィは良い先生に恵まれたんだよ」 「良い先生、か。それだけで、こうも動きが違うものなんですね」 「いやいや、テッドだって負けてね〜べ? アルの兄キにゃ悪ィけど、オイラはテッドのほうを応援しちゃうぜ〜」 「勿論、あの方を忘れてはいませんよ。……と言うよりも、私はおふたりの立ち合いから目が離せません」 親友の兄貴分と言うこともあり、相当に集中してアルフレッドの戦いを観察していたジャスティンは、 次から次へと繰り出される妙技の数々に感嘆の溜め息を吐いた。 基本的には打撃を中心に攻め手を組み立てなければならないアルフレッドと比して、 拳や脚を鮮やかに迎え撃つ投げ技主体のテッドのほうが僅かに有利ではないかと、ジャスティンも考えていたのだ。 実戦慣れこそしているものの、別に彼は武術に精通しているわけではない。 その為、徒手空拳の対決に関しては素人考えに近いものがあった。 自ら攻め込んでいくことが多くなる打撃はリスクが高く、その動きを冷静に見極めて返り討ちにするほうが 理に適っているとさえジャスティンは思っていたわけだが、テッドの柔道と相性が悪い筈のアルフレッドは、 極めて優れた技巧によって互角以上の戦いを演じているではないか。 戦術(スタイル)による有利と不利は確かに存在しているだろうが、 達人の領域ともなると相性などは殆ど問題にならなくなる様子である。 最後に勝つのは、あらゆる状況を踏まえた上で、やはり『強い者』のみ―― 我知らずジャスティンは強く拳を握り締めていた。 「――お客さん呼び込んだら、結構良い商売になりそうだよ。総合格闘技のプロだって真っ青だなぁ」 高次の水準で攻守を組み立てるアルフレッドとテッドは、戦いの中へと身を置く者を少なからず高揚させていった。 第一会議室の入り口にて立ち尽くしていたカキョウ・クレサキもそのひとりだ。 唐突に始まった乱闘騒ぎへ最初こそ面食らったものの、時間が経過するにつれて徐々に慣れていき、 今では両者の立ち回りを細かく分析するようになっていた。 刀剣型のMANAを携えた姿からも察せられる通り、彼女もまた優秀な剣士なのである。 「……クレサキ殿? 何故、そこもとがここに?」 そのカキョウをアイルが見つけた。ダイナソーとマクシムスも彼女の声に引き摺られて会議室のドアへと目を転じる。 フィガス・テクナーの三人とカキョウは、以前にリーヴル・ノワールで顔を合わせており、それ以来の再会であった。 彼女がヴィンセントのサポートをするべく佐志に派遣されたと知ったダイナソーは、口笛まで吹いて大喜びしている。 リーヴル・ノワールで出会ってからと言うもの、彼はカキョウが大のお気に入りらしく、 何かにつけて言い寄っているのだ。 ロンギヌス社が推し進める難民ビジネスを憎んでおきながら、何とも節操のない話である。 恥知らずとアイルが青筋を立てて注意しても、当のダイナソーは聞く耳を持たなかった。 「おっと、いけねぇ! 俺サマとしたことが眩暈クラクラだったぜ。 何故かって? カキョウちゃんって言う太陽が現れたからさ! 暗ェコトばかりで心の枯れた日が続いていたけど、 これでもうシャッキリ元気! 太陽ってのは偉大だな! って言うか、カキョウちゃんが偉大だぜッ!」 「はいはい、ありがとありがと。そんなこと、相方にも言われたことないよ」 「俺サマで良かったら、二十四時間ず〜っと耳元でささやき続けてあげるよ! なんなら、カキョウちゃんの枕になろうか!? 夢の中まで愛の花が咲き乱れらぁッ!」 「――で、何がどうなったの? ヴィンセントからはミーティングだって聞いてたんだけど?」 「へへへ――仕切り上手なカキョウちゃんもチャーミングだぜッ!」 長々と口説き文句を並べ立てるダイナソーを押し退け、マクシムスに委細の説明を求めたカキョウは、 真相を知るなり「意味わかんないっ」と腹を抱えて笑った。 対決せざるを得なくなった成り行きはともかく、わざわざ硬い床の上で立ち合うなど酔狂以外の何物でもあるまい。 しかも、片方は明らかに乗り気ではない。それにも関わらず、見事な投げを披露し続けているのだ。 これほどまでに奇妙な催し物≠カキョウは聞いたことがなかった。 「気を付けて、アルッ! さっきみたいに両足を狙ってくるよ! なんとか踏ん張れっ!」 「いけません、アルちゃんっ! お逃げになってくださいましっ!」 「そこで逃げないッ! 蹴りをかまして一発逆転ッ!」 大振りの足刀を防がれ、あまつさえ蹴り足まで捕られたアルフレッドに様々な声が上がった。 見れば、フィーナは懸命に声援を送り、そのすぐ近くでマリスが顔を真っ青にし、 やや離れた場所ではジャーメインが拳を握り締めているではないか。 三者三様の反応が視界に入ったカキョウは、「はっは〜ん」と瞳を怪しく輝かせている。 山なりの眉毛を上下させたことには、果たして、どのような意味が込められているのか知れたものではない。 口元は薄い笑み――それも何やら好奇の色が強い――が浮かんでいた。 当のアルフレッドはその場で跳ね飛び、続けざまに身を捻って自由な側の足を大鎌さながらに振り抜いた。 踵の一閃がテッドの目の下を掠め、反射的に彼はアルフレッドの拘束を解いてしまった。 レフェリーのマイクが危険行為だと注意を飛ばしたが、テッドは首を横に振って介入を制した。 実際に目は潰されておらず、卑劣な振る舞いなどと主張するつもりはなかった。 「不本意と言っている割に戦いを打ち切るチャンスは自ら潰すんだな」 「自分でも不思議だよ。こんなこと、怖くて仕方ないのにね。 でも、柔(やわら)の道を志した人間として、それを汚す真似をしたくないって気持ちも確かにあるんだ」 「敵に背を向けることが一番の不本意、か。その気持ちは分からなくもないかな」 「だからね、ぼくも止まれない――」 言うや、テッドが大きく踏み込んでいく。 稲妻の如きローキックが右足首を軋ませた瞬間、駆け巡る痛みと痺れを堪えて床を踏み締め、 アルフレッドとの間合いを一気に詰めた。 無論、間合いを詰められる状況(こと)はアルフレッドも最初から想定している。 心乱されることなく連続して拳を振るい、正面切ってテッドを迎え撃った。 ジャブ、裏拳、手刀を利き手の左のみで繰り出す『バタフライストローク』だ。 テッドはこれを顔面で受け止め≠ツつ懐まで飛び込んでロングコートの襟を取り、 アルフレッドの重心まで巻き込むようにして後方へと一気に引き絞る。 このとき、テッドは右脹脛の裏をアルフレッドの右足首に引っ掛けていた。 テッドが新たに仕掛けた技を目の当たりにして、シェインとジェイソンは揃って身を乗り出した。 「――シェイン、あれってばッ!」 「ああ、ボクが教えてもらった技だよ!」 相手と立ち技で競り合う最中、意表を突いて足を引っ掛ける技法をシェインはテッドから教わったのだが、 それに類似する状況なのである。 小内刈(こうちがり)――それがシェインに伝授された技の本来の姿である。 アルフレッドの体勢が傾いたと見て取った直後、テッドはその技を変化させた。 左足を素早く彼の背後へ差し込み、これと同時に左手でもって肘を掴む。 刹那、左足を振り上げてアルフレッドの右足を後ろから払い、そのまま一気に押し倒す大外刈(おおそとがり)だ。 重心も抜かりなく操作していた――が、今までのように大きなダメージを与えることは叶わなかった。 テッド自身がよろめき、軸足から前のめりに崩れ落ちてしまったのである。 (掛かった――) テッドと共に折り重なるようにして床に倒れ込むアルフレッドだったが、 これまでに打ってきた布石≠フ効果を確認したことで口元には笑気が宿っている。 如何に優れた柔道家とは雖も、足の機能が鈍っては得意の投げを打つことも難しかろう。 如何にアルフレッドの重心を支配出来たところで、テッド自身がふたり分の体重を支えきれない。 柔道の利を叩き潰す為、膝や足首を執拗に攻め立ててきたのである。 今のテッドは、刃が欠け、亀裂の走った太刀に等しかった。 巨体を押し退けると同時に斜め上へと裏拳を振り抜いたアルフレッドは、 これが避けられると見て取るや、片膝を突いたまま対の拳にて直線的な突きを繰り出した。 咄嗟に深く身を沈めて追撃を避けたテッドは、左右の膝を交互に突いて前進し、 片膝立ちにも近い状態となっているアルフレッドの足を右腕一本で抱えた。 アルフレッドの膝裏を抱え、これと同時に対の手でロングコートの襟を掴み、 体重を前方に傾けることで彼を転倒させる。この技法を柔道では朽木倒(くちきだおし)と呼んでいる。 先ほど用いられた踵返と同系統の技だ。 互いに低い姿勢での朽木倒であった為、ダメージそのものはごく僅かであるが、真の狙いはここからだ。 両手をアルフレッドの右腕に絡めたテッドは、瞬時にして身を翻し、 左右の膝が床に突くほど低い体勢から一本背負へと移行したのである。 この形を柔道では背負落(せおいおとし)と呼んでいる。 「今度は外さないっ!」 四肢のダメージは相当に蓄積している。先ほどは大外刈を狙って自ら傾ぐと言う醜態を晒してしまった。 テッドとしても同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかったのだ。 強引と言っても差し支えのないような荒業である。右手一本を取られて担がれたアルフレッドは、 為す術もなく宙を舞うかに思われた。 その瞬間(とき)、奇怪な事態が訪れた。 背負落の動作が最頂点に達した直後、テッドの肉体に凄まじい重量が圧し掛かり、 技の拍子が乱されてしまった。いきなり錘を担がされたような錯覚に陥った程だ。 (な、なんだ、これ……ッ!?) 錘と言うよりも、アルフレッド自身が一本の太い棒と化したようにも思える。 柔道衣を被せ、帯まで締め込んだ丸太を相手に稽古を積むこともあるのだが、テッドの体感としてはそれに近かった。 自然、背負落の形は崩れ去り、ふたり分の荷重が反動となってテッドに襲い掛かる。 白熊の如き巨体が後方へと激しく反発してしまった。 地を這う竜巻に飲み込まれながら、アルフレッドはテッドの腰に左掌を添えていた。 その掌から何か不思議な力でも放たれたとしか思えなかった。 しかし、彼は一度たりともホウライを行使してはいない。下方に降り注いで背負落を潰した力の作用≠ヘ、 あくまでもアルフレッド個人の技術である。 「どうなったのじゃ、今のは……アルは何をしたのじゃ? パジトノフ君が何ゆえ……」 「全知全能の会長に分からないものなら、私には皆目見当も付きませんよ」 代理戦争≠フ成り行きを見守っていたジョゼフが、何事かと首を傾げるのも当然であろう。 周りの人間の目には、アルフレッドが僅かに肘を屈伸させたようにしか見えなかったのだ。 一度は浮かした膝を再び床に突いたテッドは、これを支点にして急速旋回し、アルフレッドと向かい合う。 このとき、既に彼は反撃の体勢を整えていた。 片膝を突いた状態で内から外に上体を捻り、これによって発生した腰のバネを肩から腕、手首にまで連動させていく。 全身に作用する回転の力を左拳へと伝達して爆発的な破壊力を生み出す『スピンドルバイト』であった。 正確にはその術理を応用し、腰の回転を起点にして突き上げる変則の形だ。本来は足首の回転を軸に据えている。 一瞬、サマーソルトエッジのように顎で受け止めることも考えたが、 轟々と唸りを上げるアッパーに戦慄を覚えたテッドは、左の掌で拳先を押さえようと構えを転じた。 念には念を入れて、右の掌をも重ねている。 果たして、この機転は正解であった。今までの技とは比べ物にならない衝撃がテッドを襲い、 白熊の如き巨体が浮き上がった。直撃など受けようものなら、頑強な顎でさえも砕かれたに違いない。 「……あの勁=\―こちらにも同じ理論(はっそう)が存在するのですね」 アルフレッドが見せた回転の連動へ――その寸前に見せた、下方に降り注ぐ力の作用にも――ジョウが目を細める。 何かしら閃くことがあった様子だが、彼の真意は確かめようもなかった。 第一、彼の反応に気が付いた者は周りには誰もいない。 在りし日を懐かしむようにして独り頷くジョウの眼前では、スピンドルバイトを左掌で受け止めたテッドが すぐさま反撃に移ろうとしていた。 右手でもってアルフレッドの左肘を掴み、防御から攻勢に転じた左手はロングコートの右襟を取っている。 双手背負投を警戒するアルフレッドはテッドを引き摺るように後方へ退こうとしたが、 その判断、動作こそが命取りであった。 出足を制して肘を引き付け、襟を押し上げ――その瞬間にテッドはアルフレッドの身をくるりと回転させてしまった。 互いの重心を計算し、中空にて風車さながらに振り回したのである。 隅落(すみおとし)、あるいは『空気投げ』の俗称でも知られる秘技であった。 体重の移動と言う術理を最大限に生かした秘技の前に、またしても競り負けるかと思われたアルフレッドだが、 巻き込むような一本背負を潰したときと同じように、今度も返し技の機会を狙っていた。 中空で左手の拘束を振り解き、更に身を翻してテッドの首筋に肘を引っ掛け、 自身を飲み込んだ回転の勢いすら利用して変形の首投げを試みたのである。 しかも、だ。肘による拘束へ対の手を添えることでテッドの首をきつく固めている。 地に足が着いた瞬間、彼は軸を得て白熊を投げ捨てることだろう。 テッドの首を支点としてアルフレッドが中空に円を描いた。 「アホちゃうか。ワレのナマクラ投げが本職相手に通じるとホンマに思てんのか。柔道、ナメ過ぎやぞ」 アルフレッドが競り勝ったと多くの者が確信する中に在って、シルヴィオは眉を顰めている。 彼の呟きに不安を覚え、思わず振り抜いたフィーナにも「鈍ら」の二字を繰り返した。 床の上に投げ倒した後、頭部を踏み付ける計算なのだろう――と、彼は付け加えている。 大地を揺さぶるほどの脚力が降り注ごうものなら、如何にテッドが打たれ強くとも一撃のもとに粉砕されるのは間違いない。 シルヴィオはその判断にも苦虫を噛み潰したような表情(かお)を浮かべていた。 ダイジロウはフィーナやシルヴィオとは対照的な表情である。 テッドが得意の投げ技を返されたと言うのに、その相棒は微塵も動じてはいなかった。 (体重移動を極めたっつーコトは、どんな状況でもそいつを使いこなせるって意味だぜ、ライアン――) 投げ技に於いてはテッドに一日の長がある。即ち、投げ技勝負では他の追随を許さないと言うことだ。 アルフレッドが空中回転を披露する間に、彼の肘と襟――どちらも左側だ――を掴んだテッドは、 首投げに転じる寸前、即ち着地の瞬間を見計らって己の身を前方へと振った。 無論、両手で仕掛けた拘束はアルフレッドを捕らえて離さない。 自身の右脹脛でもって彼の左足首を払えば、この返し技は完成である。 大外刈のときと同じ醜態を晒すわけにはいかない。蓄積されたダメージが膝を軋ませるものの、 構うことなくテッドは軸の左足で思い切り踏ん張りを利かせた。 自身の首へと掛かっていた圧迫が離れた瞬間、床に投げ出されるアルフレッドの姿を視界に捉えることが出来た。 「山嵐(やまあらし)やて……」 山嵐――テッドの繰り出した技にローガンは感嘆の声を上げた。 それは、ルーインドサピエンスよりも更に古い時代に生まれ、伝説として名を残した柔道家、 西郷四郎(さいごう・しろう)の幻の秘技である。 西郷四郎の武名はタイガーバズーカでも語り継がれてきたが、その技を再現出来た者は誰ひとりとしていない。 ローガンの知る限り、中途半端な模倣の域を出てはいなかった。 故に幻と呼ばれ続けてきた。「西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし」とまで謳われてきた。 往時の西郷四郎など知る由もないが、この青年はその妙技に最も近付いたのではないかと、 ローガンは密かに身震いしていた。 ジャーメイン、シルヴィオ、更にはハーヴェスト――タイガーバズーカに生を受けた者たちは、 誰もがテッドの山嵐に瞠目して驚いている。 それは守孝と源八郎についても同じことだ。両名ともに全く言葉を失っていた。 「……音に聞こえたシロー・サイゴウの技まで体得しているのか――さすがに堪えたな……」 「山嵐(これ)でも終わってはくれないのかい。……やっぱり、ぼくは甘ちゃんみたいだ……!」 幻の秘技だけに威力も桁外れだ。さしものアルフレッドも自身の動きが鈍り始めたことを認めざるを得ない。 それでも、彼は攻め手を休めなかった。背を床に着けたままで右のオーバーヘッドキックを繰り出し、 これを避けてテッドが飛び退ると見るや、すぐさま身を翻して左拳を突き込んだ。 拳が避けられれば、すぐさま左で中段の蹴りを、これも防がれたなら右のフックを―― アルフレッドは打撃の嵐で以ってテッドを追い掛けていく。 むしろ、山嵐で仕留め損ねると夢にも思わなかったテッドのほうが心の乱れは大きかった。 次の攻め手に迷い、今では防戦を余儀なくされている。 いつまで経っても倒しきることが叶わない――が、だからと言って、今までの投げが全く効かなかったわけではない。 威力も速度も徐々に落ち始めている。ダメージはアルフレッドの身にも確実に蓄積されているのだ。 (……だからと言って、じわじわと追い詰めるような真似はしたくないよ……) 大きく間合いを離した直後、アルフレッドが間遠から飛び込んでくるのが見えた。 右のロングフックをねじ込もうと言うのだ。その動作(うごき)は余りにも大振りで、組み合うには絶好の機会だった。 今こそ活路を見出すべきと意を決し、テッドも間合いを詰めに掛かった。 横薙ぎの拳を左手一本で防ぐと、対の右手でもってロングコートの左襟を掴む。 左の五指も右腕を取るつもりで構えている。それがアルフレッドにも解ったのだろう。 テッドの左手が攻めに転じるよりも早く身体を右に開いた。 自然とアルフレッドは左半身を前にした構えとなる――これがジークンドー本来の形であることは、 テッドにも見抜けなかった筈だ。戦いを見守る者たちの中でも「ここで変わりおった!」と 反応を示したのはシルヴィオだけである。 刹那、アルフレッドの左拳がテッドの顔面を捉えた。自身の左襟を掴んだ腕と交差させるようにして、 垂直に立てた拳を顎へと叩き込んだのである。 無論、気の抜けたジャブではない。利き手、利き足を前にして構えを取り、 最短距離から最大威力の打撃を繰り出すと言うジークンドーの術理に則った一撃だった。 この寸前、テッドはロングコートの左襟を自身の側へ引き込もうと試みていた。その動きに合わせての迎撃であった。 アルフレッドとしては、このカウンターパンチを以ってして左襟の拘束を引き剥がす算段であったのかも知れない。 しかし、テッドは右の五指を決して離さなかった。アルフレッドの拳をわざと受けた≠ニ言っても良い。 歯を食い縛ってその場に踏み止まり、次いでアルフレッドの正面へと回り込むや否や、 先ほど逃した彼の右手を今度こそ掴み上げたのだ。 対の拳による追い撃ちを潰され、ジークンドー本来の構えをも崩される恰好となったアルフレッドだが、 やはり動揺の色は見られない。正面切って組み付いてきたテッドの後ろ首へと自身の両掌を引っ掛ける。 その様にジャーメインが「マジで!? パクり放題じゃないッ!」と素っ頓狂な声を上げた。 アルフレッドが試みたのは、彼女が最も得意とする必勝の形、『首相撲』に他ならないのだ。 抜かりなく両の五指を組み、テッドの頭を押さえている。 即ち、首相撲を以って柔道家と組み合おうと言うのだ。 形は違えども、力の掛け方、重心の取り方を競う駆け引きではある。 互いの身へと作用する負荷をどちらが先に掌握出来るのか――この一点に焦点が絞り込まれた。 「……まさか、この形になるとは思わなかったな」 「自分が有利だと言いたいのか? なら、試してみろ。これは自殺行為でも何でもない。俺なりの勝算だ」 柔道家を相手に打撃主体の人間が正面から組み合うなど無謀な選択としか思えないのだが、 アルフレッド自身には勝算があった。 襟と手を組んで絶対的に有利な形となったテッドであるが、幾度、重心を崩しに掛かっても必ず失敗してしまう。 巻き込みの一本背負を潰されたときと同じ技――アルフレッドが一本の棒と化したような力の作用≠ェ働き、 体さばきを乱されるのだ。 体重を操作してアルフレッドを崩す筈が、逆に振り回される始末であった。 (俺だって、ただ弄ばれたわけではないぞ、パジトノフ) ここに至るまでアルフレッドは数え切れないほどテッドの投げ技を喰らってきた。 ダメージが骨身に重なっていることも否めない。 その一方、テッドが投げに転じる瞬間の呼吸≠煬ゥ極められるようになっている。 痛みに耐えて学習と分析を繰り返してきたからこそ、彼の仕掛けに合わせて件の防御法を発揮出来るわけだ。 首を押さえる両の掌がその鍵≠ネのではないか――そのように推察を進めるテッドであるが、 理を説き明かすまでアルフレッドが待ってくれるとは思えない。 投げの拍子を崩す度、彼は拳や肘落としを頭部目掛けて容赦なく撃ち込んでくる。 主として打撃に使われるのは自由な左手である。テッドの側も襟を絞って肩の可動を制限し、 威力の減殺を試みてはいるものの、体勢を崩された直後に打ち込まれる為、思うような効果を上げられなかった。 「その防御法(わざ)、どんな状態でも出せるみたいだね。ぼくら柔道家には鬼門だなぁ」 「技と呼ぶほどでもない。要は力≠フ使い方だからな。お前の体重移動と大して変わらない筈だ」 不可思議な防御法に翻弄され、攻め倦ねるテッドに隙を見出したアルフレッドは、 『エアレイジ』と言う名を持つ技を試みた。 現状としてテッドに左襟と右腕を掴まれている。先ずアルフレッドは右肘を旋回させ、 更には手首のスナップを利かせてテッドの左こめかみにコンパクトな裏拳を見舞った。 無論、テッドの拘束を受けたままである。しかし、手技の敏捷性ではアルフレッドに分があり、 例え腕を掴まれた状態であっても有効な打撃を放つことが出来るのだ。 裏拳に用いた右手をテッドの左肘へ引っ掛けたアルフレッドは、続けざまに自身の左腕を彼の背後へと回し、 最後にふたり分の体重を左方へと一気に放り出した。 背を押さえる左の掌と、テッドの左肘を掴んだ右の五指――この二点を軸に据えた投げ技である。 自身の横転へ巻き込むようにして白熊の如き巨体を回転させ、脳天から落とそうと言うのだ。 傍目には迅速そのものに見えるのだが、シルヴィオが「柔道を舐めるな」と罵った通り、 この投げ技すらもテッドには容易く破られてしまった。落下の瞬間、彼は自由な右手でもって受け身を取り、 頭部へ降り掛かる衝撃を最小限に抑えたのである。 「あちゃあ〜、一発で捌かれちまったぜ、アル。餅や餅屋≠チて、さっき言われたばかりじゃねーか」 レフェリーのマイクからは手厳しい声を飛ばされたが、投げによるダメージが主目的ではないアルフレッドは、 それを右から左へと聞き流した。 すぐさまに上体を起こしたアルフレッドは、床の上に転がるテッドの首を左手甲でもって押さえ付け、 次いで右の拳を振り落とす――ここまでの一連の動作を以ってアルフレッドはエアレイジと呼んでいた。 投げと打撃がひとつに連なっていく珍しい技だ。落雷の如く轟いた右拳は、テッドの額を鋭角に打ち抜いた。 一際大きな音が会議室に響き渡ったが、それでもテッドを沈黙させるには至らなかった。 額でもって強撃を受け止めた#柱Fは、引き戻される前にアルフレッドの右腕を左右の手にて掴み、 更に己の両足を振り上げた。二本の足を引っ掛けたのは、言わずもがなアルフレッドの右肩である。 これもまた三角絞(さんかくじめ)と呼ばれる柔道の技だ。 テッドは両足にてアルフレッドの右腕と首を絞め込む形を作っている。 寝技や絞め技に持ち込まれまいとする防御や回避に工夫の見られるアルフレッドであるが、 さすがに技を決められた後ではどうすることも出来まい。 絶望的な状況を前にして、マリスが「アルちゃん!」と悲鳴を上げる。 三角絞とは、その見た目の通りに首と腕を同時に極める技なのだ。 テッドほどの使い手ともなれば、一瞬にして絞め落とせることだろう。 だが、アルフレッドも止まらない。技は違うが、首を狙った絞め技ならばミルドレッドにも掛けられていたのだ。 それはつまり、同じ状況に陥った場合の対処法を試行錯誤してきたと言うことでもあった。 左手を後ろに回してテッドの左足をまさぐったアルフレッドは、次いで足関節の隙間へ親指を捩じ込ませた。 「――うぐぅッ!」 皮膚を突き破られることはなかったものの、それに匹敵する激痛がテッドを襲い、反射的に右足を引いてしまう。 三角絞の破綻を見て取ったアルフレッドは、すぐさま右腕を引き抜き、後方へと飛び退った。 「うーん、今のはハッキリ言ってグレーじゃね〜かなぁ。サッカーで言ったらイエローカードに近いっつーか――」 マイクが審判(ジャッジ)を述べ終わるよりも早く、両者は間合いを詰めに掛かった。 ワンインチクラックと同じように全身の筋力を一瞬で発揮する体当たり―― 『サイレントイラプション』をアルフレッドが仕掛けてみれば、 テッドはこれを胸部で受け止め、両の腕を伸ばして右腕と左襟を捕る。 応じたアルフレッドもすかさずジャーメイン譲りの首相撲へと持ち込んだ。 「今ので仕留め切れなかったのは失敗だな、パジトノフ。二度と抜かりはしない――」 「ぼくもそのつもりで行こう。しくじりは一回で十分さ――」 またしても同じ恰好でテッドと組み合ったアルフレッドは、最早、動作の大きな技を仕掛けようとはしなかった。 ジャーメインであれば、一発逆転を期して威力の高い膝蹴りでも放つのだろうが、 この状態で大振りな技を試みることは、テッドに命を差し出すようなものである。 よしんば直撃させたとしても、次の瞬間には足を取られて倒されるに違いない。 テッドよりも自身のダメージのほうが大きいと認めるしかなかった。 柔道の要たる四肢を攻め立ててきたが、頑強な肉体を停止させるまでには至らなかった。 ならば、取るべき選択肢はひとつ。地味であるとしても、片手で頭を押さえつつ、確実に削り取っていく。 それがアルフレッドの判断だった。 「ベストな判断や! 慎重に攻めぇッ! お前の持ち味がビシッと出とるでッ!」 ローガンから寄せられた声援に、アルフレッドは口の端を微かに釣り上げた。 「今ッスよ、アルフレッドさん! 超必殺後ろ回し蹴り! 一撃ノックアウト間違いナシ!」 無論、状況把握能力が欠如しているハリエットの放言には全く耳を貸さない。 「――ッしゃあああぁぁぁァァァッ!」 幾度目かの攻防の末、テッドが吼え声を上げた。それは決着を告げる号砲とも言えるものであった。 右の五指をベルトの下から差し込み、同時に左足をアルフレッドの右側面へと踏み出す。 これによって体重を前方へと振りつつ、彼の背後へと左腕を回し、死角から脇を潜らせていった。 帯落(おびおとし)と呼ばれ、文字通りに相手の帯を利用する投げ技である。 相手が柔道衣を纏っている場合、脇下より滑り込ませた手で襟でも捕るところだが、 生憎とアルフレッドはタンクトップ。五指で掴んでも握力で千切れてしまう可能性が高い。 そこでテッドはマントの如く羽織ったロングコートの利用を閃いた。 腕を通していない左の袖刳りに五指を引っ掛け、彼の身体を振り回そうと言うのだ。 ベルトと袖刳り――力を掛ける部分こそ変則的だが、技の原理を完全に把握するテッドならではの工夫であった。 コートの裏から右手を差し入れ、袖刳りを捕らえたテッドは、 自然とアルフレッドを後ろから抱え込むような恰好となる。 しかし、これはアルフレッドにとっても有利な状況だった。 左腕を伸ばしている為、テッドの右半身は相手の射程内に無防備のままで残されているのだ。 ベルトを掴んだ右手では打撃を弾くことも難しい。 「決着だ――」 密着状態から投げに転じようとするテッドの右脇腹へ己の左拳を添えたアルフレッドは、 そこから最速の牙を突き立てた。先刻、袖釣込腰によって封じられたワンインチクラックである。 一瞬の後に鈍い音が鳴り響き、同時に走った激痛によって、テッドは己の肋骨が砕けたことを確認した。 「だけど――」 アルフレッドが逆襲のワンインチクラックを繰り出した直後、 テッドはその腕を巻き込むようにして鋭く身を旋回し、一本背負の体勢に入った。 打撃が終わった瞬間にこそ隙が生じる。そのようにして彼の虚を衝こうと言う機転だ。 全身の力を振り絞ると言う性質上、発動こそ最速ながら放った直後に隙が生じるワンインチクラックは、 実はテッドにとって絶好の狙い目であった。 改めて詳らかとするまでもなく、今までと同じ防御法を以ってしてアルフレッドは投げの拍子を潰そうとした――が、 実はこれこそがテッドのフェイントだった。帯落まで含めて、ここまでが誘い≠セったのだ。 (――柔道家の端くれとして、組み合いで負けることは――) 右の脇下から腕を差し込むまでは一本背負と同じであったが、次の動作から急激に変化した。 ワンインチクラックによって刻まれた傷が動きを鈍らせるが、 テッドは精神の昂ぶりによって我が身を奮い立たせていく。体さばきを一等加速させていく。 アルフレッドに対して完全には背を向けず、腕を潜らせるのと同時に彼の股下へと右足を滑り込ませ、 体当たりの如くぶつかっていったのだ。この流れの中で互いの右足を絡め、瞬時に踵を払う―― 「――断じて許されないッ!」 「ぐはッ!」 ――我が身もろとも後方へ叩き落す技を小内巻込(こうちまきこみ)と言った。 己を引き込もうとする力に備えていたアルフレッドも、その反対、押し込んでくる力までは計算に入れていなかった。 互いに組み合った状態からでは、朽木倒のような技も仕掛けられないと誤った認識さえ持っていた。 今度はアルフレッドの側が拍子を崩され、頼みの防御法も敢えなく突破されてしまったのである。 油断の一言であろう。渾身の力で押し倒されたアルフレッドは、視界が大きく揺れる中で己の迂闊を後悔していた。 (……借り物でどうにか出来る筈もなし、か……) 自嘲に口元を歪めるアルフレッドは、すぐさまテッドに引き起こされた。その体勢は両膝が床に突くほど低い。 どうやら先ほど失敗した背負落を再び試みるつもりのようだ。 件の防御法を原理の段階で破ったわけではない。しかし、ダメージが蓄積されて身動きの鈍った今ならば、 必ずやこの技を決められるとテッドは確信している。 果たして、それは現実のものとなる。今度こそアルフレッドの身は宙を舞い、為す術もなく硬い床へと叩き付けられた。 アルフレッドの腕を掴んでいた右の五指が反動で外れてしまうと、すぐさまにこれをロングコートの左襟へと移す。 寝転んだままであることも構わずに改めて組み直しを図り、そこから彼の身を再び引っこ抜いた。 次に見舞ったのは王道的な双手背負投である。今度ばかりはアルフレッドにも中空にて身を翻すような余裕はない。 「アルちゃん……アルちゃんッ!」 悲痛としか言いようのないマリスの絶叫すらも、爆発の如き轟音に飲み込まれていった。 アルフレッドが立ち上がる限り、テッドは心を鬼にして何度でも投げを繰り返すつもりだったが、 それも今し方の双手背負投で打ち止めとなった。アルフレッド自身がマイクに向かって降参する旨を告げたからである。 ようやく戦いを終えられたことに安堵し、次いで心配そうに覗き込んできたテッドに対して、 アルフレッドは自嘲気味に笑った。 「……底なし沼に落ちたような気分だ。いや、世界屈指を相手に勝てると思ったのが一番の傲慢か……」 負け惜しみのように取られるかも知れないが、それでも構わなかった。 それほどまでにテッドは強かった。寝技を潰し、使える技の選択肢を狭めても勝ち目を見出せなかった。 奇妙な成り行きで始まった戦いではあったが、アルフレッドの心は清々しい充足感で満たされていた。 「ぼくも同じだよ。これ以上は――投げるどころか、まともに動くことだって出来やしない。 ……引き分けってヤツさ」 斯く言うテッドは、やはり謙遜であろう。ワンインチクラックでもって脇腹を抉りはしたものの、 致命傷になったとは言い難い。彼が本気になれば、幾度でも投げを続けられた筈だ。 それこそ、アルフレッドが完全に沈黙するまで。 敢えて「引き分け」と言う結果を選んだ気遣いは、少しも厭味には感じられなかった。 ←BACK NEXT→ 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