7.Mastermind of the Diaspora program


 ブクブ・カキシュの回廊をカレドヴールフの親衛隊長が、ドゥリンダナその人が、肩を怒らせて闊歩している。
 余程、虫の居所が悪いのだろう。酷い仏頂面――と言うよりは、鬼の形相であった。
 薄汚れた包帯で顔面を覆い隠し、深々とフライトキャップを被る出で立ちからして物々しい彼女だが、
今日はいつにも増して目付きが鋭く、爛々と輝く瞳には殺伐の気配が見て取れた。
 すれ違う人々にまで緊張を強いるほどドゥリンダナが憤激を昂ぶらせるのは、当然ながら原因がある。
 近頃、副官待遇でブリーフィングに参画し始めたゼラール・カザンの存在である。
 新参者の分際でありながら、アネクメーネの若枝に横柄な態度を取り、
あまつさえ首魁たるカレドヴールフにまで傲岸不遜な物言いで接するのだ。
幾度、彼の振る舞いに血管が切れそうになったか分からない。
 エルンストの降伏に先立つ予備交渉へ特使として派遣されたコールタンがゼラールを見出し、
ギルガメシュに引き入れたのがそもそもの発端なのだが、その経緯もドゥリンダナには気に食わなかった。
 ゼラールはテムグ・テングリ群狼領の幹部である。馬軍の、いや、連合軍の内情を知る彼を味方に付ければ、
Bのエンディニオンの平定も大いに捗るだろうと軍師のアゾットは語っていた。
 要するに鳴り物入りで採用されたに過ぎないのだ。
叩き上げのドゥリンダナにとっては、参入の経緯からして信用の置けない人間なのだ。
 しかも、だ。ゼラールの登用を妬んだ副官候補生たちがギルガメシュに相応しいか力量を試すと言い出した折には、
彼らを烈火のトラウムで焼き殺すと言う一幕もあった。新たな同胞とも言うべき相手を容赦なく皆殺しにしたわけだ。
 この狼藉を咎められたゼラールは、悪びれもせずに――

「新参者が有能だからと言ってがなり立てるなど雑魚の証拠よ。
自らの立場が脅かされると言うものは組織の害虫にしかならぬ。害虫の駆除では手土産の足しにはならんがな」

 ――などと言い放ち、尋問に当たったグラムたちを呆れさせていた。
 遅まきながら素行を調査してみると、テムグ・テングリ群狼領所属時より規則違反の常習犯であったらしく、
コールタンへ取り入る直前には、エルンストから追放まで言い渡されていたのである。
 テムグ・テングリ群狼領を己の踏み台≠ノするとまで公言していた男だ。
ギルガメシュでも同様の言行を取るのは想像に難くない。
 獅子身中の虫を招き入れることになるのではないかとカレドヴールフに直訴したものの、
戦後統治が捗々しくない現在、テムグ・テングリ群狼領の内情に通じたゼラールは
欠くべからざる人材であると一蹴されてしまった。
 ゼラールがテムグ・テングリ群狼領を離反した折には、数百人もの兵士たちがこれに従っている。
人手不足のギルガメシュにとっては、数百もの兵力が、それも高い練度を誇る屈強の戦士団が加わることは、
何にも勝る財産なのだ。
 軍師と言う立場もあってアゾットはこれを大いに喜び、結果として隊内に於けるゼラールの評価も高まった。

「それだけではないぞ、ドゥリンダナ。あれは難民保護の志も高いと言う。
ワーズワースの件を見れば、それも瞭然だ。異なるエンディニオンに良き同志を得られたのは、
唯一世界宣誓の成果ではないか。あの男の魂、軽んじることは出来まい」

 己の無事も省みず、エンパイア・オブ・ヒートヘイズを以ってハブール難民の亡骸を弔ったこと、
カレドヴールフは心底より感心している。ギルガメシュの大罪を浄化した功労者とまで褒め称えたほどだ。
 危機を訴えたドゥリンダナのほうが、逆に「新たな同志を疑うな」と戒められる始末であった。
 カレドヴールフ首魁がゼラールを庇う以上、副官と言う立場から強く意見することは出来ない。
 アネクメーネの若枝が反発してくれることに期待したものの、
グラムはコールタンの眼力を信じて参入を容認しており、最初から興味のないらしいフラガラッハは関知せず、
アゾットに至っては獅子身中の虫を如何にして飼い慣らすかを楽しんでいる様子だ。
 ゼラールの人となりを見知っているらしいバルムンクだけは懸念を示したが、
それもカレドヴールフの決定を覆すには至らなかった。
 アサイミーだけは最後まで抵抗し続けたが、
彼女の場合は、同格の幹部が増えることで自分の立身出世が阻害されるものと思い込んでいるだけであり、
組織の行く末を案じての意見でない。
 カレドヴールフもアサイミーの具申は半ば聞き流しており、適当に相槌を打つのみであった。
 アサイミーの対抗意識を操作し、ゼラールの当て馬として利用することも考えたが、
ひとつでも打つ手を誤れば、却って事態を悪化させ兼ねない。
 取るに足らない小物と見抜きながらも体よく転がしていけるアゾットのような力量は、
残念ながらドゥリンダナには備わっていなかった。生理的な嫌悪感を覚えるアサイミーと向き合おうものなら、
いずれ新たな諍いを生み出してしまうだろう。

(だからと言って野放しにはしておけない。誰かが押さえ付けねば、どこまでもつけ上がる……!)

 先程のブリーフィングを振り返ると、ドゥリンダナはどうしようもない殺意に駆られる。
 軍人気質のギルガメシュに政治的な手腕に長けた人材は少なく、
そのことが戦後統治と難民支援を停滞させている原因の一つであった。
 戦略・戦術を練る議論であれば迅速に進むのだが、専門外の議題が取り上げられると、
途端に着地点を見失ってしまう。
 知恵者であるアゾットやアサイミーですら建設的な意見を出せずにいるのだから、
他の幹部たちには拷問に等しい時間であろう。
 業を煮やしたカレドヴールフが居並ぶ幹部を叱責したとき、あろうことか、ゼラールは首魁の狼狽を鼻で笑ったのだ。

「新参者の分際で立場を弁えなさい! あなたがこの場にいられるのは、
テムグ・テングリ群狼領に詳しいと言う一点のみッ! 数日前まで敵だった男が我が物顔とはどう言う了見だ!」

 アサイミーがヒステリックな金切り声を上げる中、
堪え切れなくなったドゥリンダナは問答無用でゼラールを斬り捨てようとした。
 しかし、断罪の刃がゼラールの首に届くことはなかった。エンパイア・オブ・ヒートヘイズの業火によって翻弄され、
怯んだところを逆にねじ伏せられてしまったのである。
 華奢なゼラールには決して力負けしないと考えていたドゥリンダナにとっては、
屈辱としか言いようのない失態である。この敗北も彼女の焦燥を加速させる要因となった。
 認めたくはないが、ゼラールは強い。本当に強い。
 先の両帝会戦では、ギガント型のクリッターを単騎で滅殺する大金星を挙げたとも聞いていたが、
まさしく噂に違わぬ実力であった。
 だからこそ、増長させることは危うい。
 甚だ認めたくないことだが、彼が強烈な求心力を備えている点もドゥリンダナには気掛かりだった。
数百もの将兵にテムグ・テングリ群狼領からの離反を決意させるゼラールが、
カレドヴールフの足もとを脅かさないとも限らないのだ。
 数百もの私兵が造反でも起こそうものなら、鎮撫せしめたとしてもギルガメシュが被るダメージは計り知れない。
 カレドヴールフに心酔するドゥリンダナのこと、他人から受けた指摘であれば、
「真のカリスマとは我らが首魁のこと」と一笑に付しただろうが、
自分自身で気付いてしまったからには捨て置くこともできない。
 ゼラール・カザンと言う男は、ギルガメシュにとっても、カレドヴールフにとっても、不安要素でしかなかった。
 是が非でもゼラールとその軍団に楔を打ち込まなくてはならない。
台頭を止められることが難しくとも、監視役を送り込むなどして動向を牽制する必要があるのだ。

「……全ては御方(おんかた)の為に……」

 いくら武装組織の首魁とは言え、部下の動向を探らせたと言う風評が立つのは都合が悪い。
下手を打てば、全軍の士気にも関わることだろう。
 これは、あくまでもドゥリンダナ個人の単独行動。カレドヴールフに嫌疑が掛からないよう手配りも済ませている。
 この件を咎められ、カレドヴールフの手で斬首に処されようとも、
忠義を全う出来るのであれば、ドゥリンダナにとっては本望なのだ。
 我が身を盾として、カレドヴールフとギルガメシュを必ずや守り抜く――その覚悟がドゥリンダナの忠義であった。

胸中にてゼラールへの警戒を念じるドゥリンダナは、
ブクブ・カキシュの中でも群を抜いて警備の厳重なフロアへと足を踏み入れた。
 長い回廊には直立不動の兵士が一定の間隔で配置されており、
いずれもギルガメシュの標準装備たるレーザーライフルを携えている。
見る者全てに「群を抜いて厳重」との印象を植え付けるように、
シチュエーションルームが所在するフロアと同等の警備体制であった。
 一言も発さずに屹立する兵士たちも仰々しいが、回廊全体の趣は更に一等奇抜である。
 壁も床も天井さえも――全面が鏡張りであり、
自分自身の視線を四方八方から感じると言う異様――あるいは異常――な空間となっているのだ。
 反射によって網膜に負担が掛かることを考慮しているのか、照明も最低限しか設置されておらず、足元は薄暗い。
如何なる状況にも順応し得るよう訓練を積んで来たドゥリンダナでさえ、
フロアへ立ち入った瞬間に方向感覚が狂いそうになった。
 合わせ鏡≠ニ呼ばれる現象がありとあらゆる方向で発生しており、
己の存在が現世から引き剥がされ、そのまま異次元の彼方へと吸い込まれていくような錯覚すら覚えるのだ。
 心理的な圧迫や混乱の誘発を企図して設計されたことは瞭然であるが、それにしても奇怪な空間である。
 鏡の世界としか表しようのない回廊には幾つもの扉が設けられており、警備の兵士たちはその前にて屹立していた。
扉の左右と中央に一名ずつ配された兵士たちは、決して不審者の侵入を許すまい。
 扉の表面には番号の刻印されたプレートが貼り付けられている。
 『〇・〇・四・二』と番号が振られた扉の前で立ち止まったドゥリンダナは、
兵士のひとりに「居るか?」と短く尋ねかけた。
 その声が余りにも威圧的であった為、兵士は満面を恐怖に引き攣らせたが、
すぐさまに気を取り直し、「おふたりでいらっしゃいます」と答えた。
 此処を訪れることをドゥリンダナは事前に連絡してある。
それ故に問い合わせを受けた兵士も彼女が欲する答えを即時に返せたわけだ。

「これより、ドアを解放します。暫しの間、お待ち下さいませ」
「うむ……」

 扉の脇に設置された制御盤(コンソール)と思しき箱状の機械に向き直った兵士は、
全面を覆うカバーを開き、内部に設置されたキーボードを操作していく。
 自身のポケットから取り出したカードをキーボード右端のスリットに通すのが操作の第一段階だ。
これによって機械が起動し、初めて入力作業が可能となる仕組みである。
 ドゥリンダナの視線を背に受けて萎縮する兵士であったが、キーボードの操作は極めて迅速だ。
彼は開扉に必要なパスワードを入力しているのである。
 キーボードの真上に設けられた液晶画面には進捗状況を表す記号が映し出され、
全ての入力が完了した時点で『パスワード承認完了』と大きく表示された。
 パスワード入力が完了しても、すぐに扉が可動するわけではなかった。
制御盤の内部にてセキュリティを解除する処理が必要なのだろう。
開扉が開始されるまでには、十秒以上も待たされることになった。
 その間(かん)にも兵士たちは殺伐とした眼光を浴び続けており、生きた心地がしなかった。
 やがて、圧縮された空気が扉の隙間から抜け、これを合図にようやく可動が確認された。
 扉は一枚だけではない。鏡張りの物が開くと、そこに分厚い鋼鉄の板が現れ、
これも解放されると更に次の扉が姿を現し――何重もの扉が複雑怪奇に組み合わさっていたのである。
 全ての扉が開かれるまでに一分近く時間を要したのだが、それも無理からぬ話と言えよう。
入り口から室内まではトンネルの如き空間が続いている。
 トンネルの先にはホテルの客室を思わせる構造(つくり)となっており、そこにふたりの人影が確認出来た。
 恐縮の余り、硬直してしまった兵士に礼も言わず、一瞥すらくれず、ドゥリンダナはトンネルを潜っていった。


 方向感覚を錯乱させる鏡の世界とは打って変わって、室内は正常(まとも)であった。
 豪奢とは行かないまでも調度品は美麗な物が取り揃えられ、
壁に埋め込まれたテレビやスピーカーも一人用にしては相当に大きかった。
 見るからに座り心地の良さそうなソファーや黒檀のテーブルまで完備されており、さながら貴賓室の趣である。
 乳白色の絨毯は靴の上からでも心地良さが伝わるほど上等な物だが、
至る所に散らかされた書物や紙束が折角の感触を台無しにしていた。
 尤も、部屋の主(ヌシ)は、そのようなことなど少しも気にはならない様子である。
床ばかりか羽毛布団が用意されたベッドにまで読みかけの書物を放り投げ、
テーブルにも書類の束を乱雑に積み重ねる始末。机上には三台のパソコンとプリンターも置かれているが、
いずれも電源を入れたままで放置と言う状態だ。
 清潔な色合いであった白い壁にも書類が貼り付けてある。固定する手段も統一されてはおらず、
ガムテープやピンなどが適宜――と言うよりも適当に――用いられている。
これでは美観などあったものではあるまい。本来、壁に飾られていた額縁入りの絵画は、
現在は部屋の片隅へ打ち捨てられている。
 壁へ貼り付けられた紙には、棒グラフやレーダー図など何らかのデータを解析した成果が多く記載されているようだ。
目を引く見出しは「今後三年内に予想される難民の推移」とされており、
そこから書類の委細が察せられると言うものである。
 ベッドの上では初老の男性が胡坐を?いていた。彼こそが部屋の主(ヌシ)であり、
貴賓室の如き美観を傍若無人に荒らした張本人である。
 ドゥリンダナの入室を見て取るや、その男は「同族殺しがまたひとり……」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「同族殺しとは手厳しいな。本隊が手を下したわけではないぞ。下っ端連中がおいた≠しただけのこと」

 面罵されたドゥリンダナを更に煽るつもりなのか、皮肉たっぷりに呟きを漏らしたのは、
ソファに腰掛けながら書類の一部へと目を落としていた老人である。
 集中力を高める為なのか、シガレットを三本同時に銜えている。
 隻眼の老人であった。オールバックに撫で付けた白髪は耳の上あたりまで大きく後退しており、
禿げ上がった右の頭頂部から左頬にかけて、鼻の上を縦断しながら一筋の痕(きずあと)が走っていた。
 大火傷の痕(あと)であるが、内側に深く抉れているあたり、相当に手酷い負傷であったことが窺える。
 負傷の巻き添えとなってしまったのか、右の瞳は白濁としており、光を失っていることが察せられた。
 爛々と輝く左の隻眼は底知れぬ威圧感を発しているのだが、それと同時に情けの深さを帯びているようにも見える。
何とも不思議な眼光の持ち主であった。
 身に纏う気魄はドゥリンダナと同じく攻撃性が高い。ワイシャツにスラックスと言う装いの上からでも分かるほど、
その身を強靭な筋肉で包んでおり、とても老齢とは思えなかった。
 ドゥリンダナが獰猛な本性を隠そうとしないのに対して、この老人はただひたすら静寂だ。
それでいて穏やかな佇まいとは程遠く、奥底からは見る者を凍り付かせるような威圧を漂わせている。
 静かなる脅嚇は地に伏して獲物を狙う虎を彷彿とさせ、まさしく「静中有動」。
地響きの如く野太い声は、歴戦を刻み込む面構えにも似つかわしかった。
 老人の所有物であろう。ソファの背もたれには使い古しのレインコートが乱雑に掛けてある。

「言い逃れとはあんたらしくないな。誰が手を下そうが、それをあんたたちが失敗だと悔やんでいようが、
犠牲者が出た時点でギルガメシュの殺戮に変わりなどない。難民救済が聴いて呆れるぞ」
「それを言われてしまうと、返しようがなくなってしまうな」

 老人の呟きを一蹴した部屋の主(ヌシ)も、特徴的な風体である。
 多年に亘って苦労を重ねてきたのか、色白の顔に刻まれた皺の数は、隻眼の老人よりも多いように思える。
痩せて浮き出た頬骨が老いの相を強調させていた。
 波打つ髪は半ば色が抜け落ちているが、本来ならば艶やかなアッシュブロンドであった筈だ。
 面の様子から隻眼の老人と同世代のように錯覚してしまうが、実際は彼よりも遥かに若い。
四〇を三つ過ぎたばかりであった。
 未だ壮年には至っていないと内外に示したいのか、その身を包むのはパイル織のポロシャツとジーンズである。
若々しさの弾ける着衣と枯れた容姿が異彩を作り出していた。
 ポロシャツの左胸には革のワッペンが縫い付けられている。
ここには闘牛の模様が焼印されており、自身の「若さ」を言外に示す意図がありそうだ。
 涙ぐましい努力を重ねていることは分かるのだが、黒縁眼鏡のレンズは分厚く、
そこに経年の疲れを感じずにはいられなかった。
 ふたりの男を順繰りに見回したドゥリンダナは、咳払いをひとつ交えた後、
隻眼の老人へと向き直り、腕を組みつつ「探すだけでも一苦労だ」と声を掛けた。

「留守番も置かずにモーテルを空けるのは無用心では――」
「――新参者の素行調査でもしろと言うのだろう? いちいち一線を退いたロートルを巻き込むな」

 さしものドゥリンダナも面食らって声を失った。
 全てを語り終える前に思案の内側を言い当てられたばかりか、先んじて返答までもが返されてしまったのである。
これで驚かないよう強いるほうが無理と言うものであろう。

「いずれにしても付き合うつもりはない。ダインスレフを斬り殺すチャンスなんぞ自分で探せ」
「ど、どこで、そのコードネームを……」

 またしても、ドゥリンダナは驚愕に打ちのめされた。
 ギルガメシュでは副官以上の階級者には、混迷の時代を切り開く勇者≠ニの意味を込めて
伝承上の刀剣名がコードネームとして割り当てられることになっている。
 副官待遇となったゼラールも数日前にコードネームの授与を通達されたばかりであり、
それこそが隻眼の老人の語った『ダインスレフ』なのだ。
 しかし、これはあくまでも内々の通達である。全軍に公表までは口外することも厳禁と定められていた。
ダインスレフと言う新たなコードネームを知る人間は、アネクメーネの若枝とその副官に限られているわけだ。
 それにも関わらず、隻眼の老人はダインスレフの名を把握していた。当然のように、だ。
 折角、授与されたコードネームだと言うのに、「お定まりの名前で呼ばれるなど管理されておるようで好かん。
余はゼラール・カザンぞ。それ以外の何者でもないわ」などと鼻で笑うゼラールや、
彼の軍団員が外部に誇示するとは思えない。
 ゼラール軍団から隻眼の老人に漏れたと言う可能性は、限りなく零に近かった。

「近衛隊の役目と言うのは存外に暇らしい。私用でホイホイ出掛けられるのだからな。
私用と言うよりは私怨と言うべきか」
「な、何を……」
「誤魔化すな、お前が気に食わんだけだろうが。カレドヴールフとコールタンはあれを気に入っている。
兵力目当ての軍師殿も無碍にはせん。グラムとフラガラッハは静観、言いくるめられたバルムンクも同じく。
アサイミーも反感を持っているが、我が身可愛さが上回っているから、バレて咎められるようなリスクは冒さない。
ほれ、お前しか残されていない。……新入りいじめに躍起になるとは、お前までアサイミーに染まってきたか?」
「お、お待ち頂きたいっ!」

 場≠ニ言うものを弁えずに話を続けようとする隻眼の老人をドゥリンダナは慌てて制した。
その双眸は部屋の主(ヌシ)を窺っている。

「……ギルガメシュの機密を捕虜の前で話すおつもりか?」

 伝説の刀剣名を冠するコードネームは、大々的な公表が行なわれるまでの間は機密事項として扱われる。
また、ゼラール・カザンに対する幹部たちの評価と言うものも外部に漏らすべきではなかった。
 カレドヴールフの忠実たる近衛隊長は、部外者≠フ前で機密事項に言及することを憚っているわけだ。
 そんなドゥリンダナの様子が臆病風に吹かれたものと見えたのか、隻眼の老人は紫煙と共に笑気を吐き出した。

「『ディアスポラ・プログラム』の発案者を捕虜呼ばわりとは強気だな。
彼はダインスレフと同じ副官待遇だと聞いていたが、俺の記憶違いか?」
「捕虜で結構。誰がギルガメシュの副官などになるものか。そう呼ばれるだけでも虫唾が走るのだよ」

 ドゥリンダナと言葉を交わす中、隻眼の老人が初めて部屋の主(ヌシ)の立場≠ノ触れた。
 『ディアスポラ・プログラム』とは、ギルガメシュが推し進めようとしている難民支援計画である――が、
これはアゾットやアサイミーと言った知恵者が策定したものではない。部外からの提唱を容れたものだった。
 しかも、だ。その計画書を編んだのは、冒険王マイクが治める貿易拠点『ビッグハウス』の外交担当者である。
即ち、Bのエンディニオンの人間がギルガメシュの知恵者を差し置いて難民救済の道筋を開いた次第であった。
 その男こそが貴賓室の主(ヌシ)であり、マイクたちから『ドク』なる愛称で呼ばれる男――
ゼドー・マキャリスターなのだ。
 マイクの代理としてサミットへ参加した折にギルガメシュの襲撃を受け、
捕虜としてブクブ・カキシュ内に収容されたのだ。
 つまり、ここは捕虜収容施設と言うわけだ。ゼドー以外のサミット参加者――Bのエンディニオンの要人だ――も
同フロアにて抑留されていた。
 他の者たちは捕虜と言う立場を考え、目立つような振る舞いは控えているのだが、ゼドーだけは違っていた。
世話係から難民の現状を聞き出した彼は、遅々として捗らないギルガメシュの支援活動に憤慨し、
具体的な計画をまとめあげてカレドヴールフに叩き付けたのだ。
 それがディアスポラ・プログラムであった。
 難民キャンプの見直し、食糧や医療など直接的に生命に関わる支援の拡充、
伝染病の防止策、Bのエンディニオンへの帰化の促進など、ゼドーの意見はいずれも具体的且つ建設的であった。
 なお、ディアスポラと言う語句は、実は難民とは定義が異なっている。意味合いとしては移民に近いものがあった。
 この計画書では重大な要項のひとつとして「Bのエンディニオンへの帰化の促進」を掲げているのだが、
それもその筈で、『ディアスポラ』とは、流れ着いた先へ土着する者に当てはめられる呼称なのだ。
故郷へ帰還する可能性を秘めた難民とは、その一点に於いて相容れなかった。
 ともすれば、ギルガメシュの理念から乖離し兼ねないのだが、
それでも敢えてゼドーが『ディアスポラ・プログラム』と言う名称を推した理由は明快である。
危機に晒された生命を救うには、如何なる手段も講じねばならない――この意思ひとつだった。
 ギルガメシュ、いや、難民にとっても、異なる世界への帰化は人生を左右する選択だ。
容易く答えが出せるものでもない。だが、勇気ある決断によって救われる生命、開かれる未来と言うものは、
確実に存在するのである。
 「難民の暮らしを安定化させるのがギルガメシュの大目的ではないのか。
ならば、その志の通りに活動していくべきだ」とゼドーは強弁して見せた。
 ゼドーの言葉に感銘を受けたカレドヴールフは、正式にディアスポラ・プログラムの承認を決定。
そればかりか、難民支援を論じる会議にも出席するよう彼に要請した。
部外者にも関わらず、副官待遇で迎えると言う異例の措置である。
 実際に会議へと出席したゼドーはギルガメシュの方針を徹底的に非難したが、
難民支援の進め方については、組織の状況を踏まえた上で実現可能な案を出していった。

 捕虜の身でありながらシチュエーションルームに立ち入ると言う異例の経緯もあって、
確かにゼドーは幾つかの機密事項を知り得ている。ギルガメシュと言う組織の実像をも把握したことだろう。
だからと言って、余計な情報まで与える理由にはならない筈だ。
 隻眼の老人による明け透けな物言いに翻弄され、慌てふためくドゥリンダナが滑稽に見えたのか、
ゼドーは「部外者を中枢まで招く組織に秘密保持もあるものか」と鼻先でもって嘲ってみせた。

「貴様らが喋っているのはゼラール・カザンのことだろう? ヤツのことなら機密も何もない。
このところ、日を置かずに訪ねてくる。あの莫迦、鬱陶しいと追い払っても聴かんのだ」
「ダインスレフが……?」

 意外としか言いようのないゼドーの話にドゥリダナは首を傾げた。
 Bのエンディニオンの要人がギルガメシュに捕らわれたことは全世界に知れ渡っている。
コールタンにでも尋ねれば、ゼドーの身柄がこのフロアに在ることなどすぐに分かるだろう。
 ゼラールが密偵を遣ってディアスポラ・プログラムの委細――ゼドーの発案と言うことも含めて、だ――を
洗い出していたことなどドゥリンダナには知る由もないが、
この場に於ける問題は件のスパイ行為とは別のところにある。
 ゼラールがゼドーへ面会を求める理由と言うものがドゥリンダナには見当も付かなかったのである。
 難民支援を円滑化させられるディアスポラ・プログラムは、確かにゼドーの独創による物だ。
その功績はカレドヴールフも認めている。だが、ゼドー当人はギルガメシュとは無関係の人間であった。
むしろ、敵対していると言っても差し支えがあるまい。
 そのような男を軍団に取り込んだところで、ゼラールに利益があるとも思えなかったわけだ。
 軍団の一翼を担う海賊団、ペガンティン・ラウトとビッグハウスは古くから交易を結んでおり、馴染みも深い。
ゼドーと親しくすることで冒険王マイクに恩でも売りたいのであろうか。
 想像力を頼りに推理を進めようとするドゥリンダナであったが、
当のゼドーは、ゼラールが日参する理由は難民問題の解決にあると説いた。
 今後、増加の一途を辿るであろう難民全てを救済するのが自身の野望だと大言したゼラールは、
必要な資料や情報を逐次提供するようゼドーに命じたと言う。「求めた」のではなく「命じた」のである。
 ゼドーの話によれば、ギルガメシュに所属する誰よりもゼラールはディアスポラ・プログラムを理解しているそうだ。

「どうやって算出したのかは分からんが、あの男、数年先の難民増加率まで頭に入れていたよ。
予想される世帯数もな。俺の計算とも誤差は少ない。この問題について真剣に取り組んでいる証拠だな」
「あの高慢ちきな男が……? 一体、何の企みがあって……」
「高慢ちきは貴様らだろうが。ワーズワース難民キャンプで貴様らは何をした? 
あそこで暮らしていたのは自分らの同胞ではないのか? 
……俺はあんなことをさせる為にディアスポラ・プログラムを作ったわけではないぞ」
「……ワーズワースのことは本当に申し訳ないと思っている……」
「誰に対して、だ? まさか、俺に対してか? だとしたら、俺は今すぐ貴様の親玉にメールを入れるぞ。
今日限りでギルガメシュとは手を切ると」
「違う、ハブールの民に、我々は――」
「行動が伴っていないのだよ、貴様らは。合戦のことばかり考えておらんで、少しはカザンに倣ったらどうだ」

 改めて詳らかにするまでもないことだが、ワーズワース難民キャンプの顛末について、
ゼドーは狂わんばかりに激怒していた。
 それも無理からぬ話であろう。ディアスポラ・プログラムが採択された後に難民虐殺と言う事態が起こったのだ。
しかも、暴挙に及んだのは難民キャンプを管轄すべき駐屯軍である。
 保護と言うよりは支配に近い管理体制、医療や衛生面の破綻、旧習に基づく差別の横行――
ワーズワース難民キャンプに関する事後調査の報告は、全ての項目がゼドーを激怒させるものであった。
憤激の余り、一度はディアスポラ・プログラムから降りるとまで口走ったのだ。
 仰々しく大義を掲げておきながら、肝心の首魁は難民キャンプの現状すら把握出来ていない。
そのような相手と難民支援計画を論じても無駄骨だ――ゼドーから叩きつけられた糾弾に対して、
カレドヴールフは答えに窮した程である。
 「ここで貴方が離脱したら、ディアスポラ・プログラムは崩壊する。死者はもっと増える。
そのような事態を貴方自身が許せない筈だ」とアゾットにから理詰めで説得されて何とか踏み止まったものの、
ゼドーの怒りは今も鎮まってはいない。
 ゼラールを見習え――甚だ屈辱だが、そのように叱責されてはドゥリンダナも返す言葉が見つからなかった。
 「難民保護の志も高い」、「異なるエンディニオンに良き同志を得られた」と
ゼラールのことを誉めそやしていたカレドヴールフの声が脳裏に蘇り、ドゥリンダナは唇を噛んだ。
 ベッドから降りてテーブルへと向かったゼドーは、パソコンの一台を操作し、二枚の書類をプリンターから出力させた。
これをドゥリンダナに手渡すと、黙って目を通すよう顎でもって指し示す。
 そこにはギルガメシュに対する支持率が記載されていた。
こちらの世界に転位されてきたAのエンディニオンの民間企業が独自に調査を行なったようだ。
 ゼドーは件の企業のホームページを印刷したらしく、ドゥリンダナの受け取った書類の右端には、
『ローザプレト・メンデス・クルゼイロ』と言うリサーチ担当者の名前が添えられていた。
 ローザプレトなる人物の調査によると、ギルガメシュへの支持率はワーズワース暴動の前後に於いて、
一気に一五パーセントも下落していると言う。丁寧にも前後のデータを線グラフで説明していた。
 ところが、だ。本日実行された最新の調査では、回復の兆しを見せているではないか。
 現物を見なくとも書類の内容を察知した隻眼の老人は、肩を震わせているドゥリンダナに向かって、
「昨日、何があったか言ってみろ」と問い掛けた。その声色は多分に挑発の気配を含んでいる。

「……ベテルギウス・ドットコムの独占取材がネット上に流れたからでしょう……」
「またはギルガメシュの尻拭いが世間に知れ渡ったとも言えるがな」

 ワーズワース暴動の実態と、その犠牲者をゼラール軍団が弔ったと言うネットニュースは、
隻眼の老人が語った通り、昨日(さくじつ)配信されたばかりである。
 ベテルギウル・ドットコムが独占記事を配信した直後、
ギルガメシュの支持率は下落時から九パーセントの回復を見せた。
帳尻合わせではあるものの、ワーズワース暴動によって被ったダメージを六パーセントに抑えた恰好だ。
 支持率を割り出したリサーチ会社――『パンタナール・データバンク』の情報は正確だと前置きしたゼドーは、
「あんたが斬り捨てようとしている相手は、本当にギルガメシュの救世主かも知れんぞ」とまで言い切った。
 パンタナール・データバンクは、Aのエンディニオンの人間――こちら側に転位してきた者に限られるが――を
対象にして支持率調査を行なっている。つまり、同胞による純粋な評価であることを示していた。

「まさしく論より何とやらと言うヤツだ。派手好きな首魁より余所者のほうが数字を稼げるとは、
ギルガメシュにとっては皮肉以外に何物でもないな」

 口では悪態を吐いているが、難民の行く末を案じて行動するゼラールのことを、ゼドーは高く評価している様子だ。
少なくとも、目を掛けているのは間違いない。
 浄化の炎を以ってハブール難民を葬ったことも内心では激賞しているのだろう。

「ゼラール・カザンとは面白い男だな。ビッグハウスもテムグ・テングリの動きを警戒はしていた……が、
そんな名前は聞いたことがなかった。ほんの数ヶ月前までは取るに足らない名前だった筈だ。
それが今では世論を動かしている。……ギルガメシュの救世主になろうとしているのだから笑えるぞ」
「口を慎め! 御方の覚えが目出度いとは言え、所詮、貴様は虜囚の身。そのような口舌は許さん!」
「腰に引っ提げた軍刀で舌でも斬り取るか? 欲しければくれてやる。さあ、持っていけ!」

 無礼な物言いは許さないと威圧されてもゼドーは微動だにしなかった。
ドゥリダナの手は御方≠謔阡q領した軍刀の柄に掛けられており、今すぐにでも白刃を抜き放つことが出来る。
そのような示威すらも彼は鼻先で笑い飛ばしてしまった。
 さすがは冒険王の仲間と言ったところであろう。死の危険が鼻先まで迫ろうとも仰け反らないほど肝が据わっている。
 ゼドーの啖呵にドゥリンダナは「むっ……」と唸ってたじろぎ、隻眼の老人は口元を痛快そうに歪めている。

「カザンの影響は、この老人(じじい)を見ても一目瞭然だ。年甲斐もなくあの小僧の足取りを追っかけている。
素行調査はお断りだと言いながら、自分の趣味は別腹か。矛盾は気にならんのか、ムラマサ?」
「さて、な。このトシになると万事大らかになるもんだ。あと二十年すれば、お前も身に沁みて解るようになる。
そこに突っ立ってる小娘は――まあ、幾つトシを喰っても理解出来んだろう」

 隻眼の老人――ムラマサがゼドーを訪ねた理由を知り、ドゥリンダナは目を細めた。
どうやら、その理由を自身にとって好ましく解釈したらしい。
 ゼラールの素行を洗い出す為、近頃、頓(とみ)に親しくしているゼドーへ事情聴取を試みたに違いない。
そして、彼女の推察は、「年甲斐もなくあの小僧の足取りを追っかけている」と言う先程の話が証明している。

「……さすがはムラマサ殿。鬼謀は退役した今でもご健在か」
「こんなものを鬼謀などと呼ぶな。自分の間抜けが大間抜けになっちまうぞ」

 鬼謀などと煽(おだ)てられたムラマサは、心底、不愉快そうに顔を顰め、
隻眼でもってドゥリンダナを睨(ね)め付けたが、彼女のほうは萎縮するどころか、感嘆の溜め息を吐いている。
 他者より促されるまでもなくギルガメシュの将来にとって必要な策を練り、常に先手を打っていく。
それがムラマサと言う男なのだと、感服した様子であった。
 未だ公表されていない筈の機密情報――『ダインスレフ』と言うゼラールのコードネームも、
水面下での諜報によって掴んだのだろう。
 そのように捉え、「お見それしました……」と一礼を以って敬服の念を示すドゥリンダナであるが、
対するムラマサは実に居心地が悪そうだった。

「何をどう考えようがお前の勝手だが、遊んでいられるのも今の内だけだぞ。
このこと≠ェカレドヴールフのお嬢ちゃんにバレたら、お前の首は確実に飛ぶだろうよ。
今のあいつはとにかくピリピリしているからな」
「むっ……」

 不快な空気を切り替えようと、ムラマサが手厳しい指摘を飛ばした瞬間、ドゥリンダナの面は一変した。
包帯で覆われている為に感情の働きも掴み難いのだが、その双眸は明らかに動揺の色を示している。
 ムラマサが指摘する「このこと」とは、ギルガメシュの将来≠フ為に彼を動かそうと図ったことに他ならない。

「やはり図星か。どんな小細工をしてきたかは興味もないが、
自分が関与していないのを幸いに、罪の全てをお前ひとりにおっ被せると思うか、あいつが? 
お前の行動を熟慮して、自己責任を取るに決まっている。
お前、自分を犠牲にすれば、あいつに迷惑が掛からないとしか思わなかっただろう?
自己満足で止まって、先々のことなど考えもしなかった筈だ。……違うか?」
「む、むぅ……」
「威張り散らしちゃいるが、所詮は餓鬼の我が儘だな。自己犠牲は美徳や美意識にはならん。
ならんのが現実と言うものだ。分かるか、小娘」

 ドゥリンダナが胸の内にて思案していた自己犠牲(こと)を、ムラマサはずけりと言い当てた。

「甘っちょろい感傷で世の中が動くのなら、カレドヴールフのお嬢ちゃんだってもっと上手く立ち回れただろうが。
……大体、あいつは何時もそうだ。ここ一番で読みが浅い。
勝つだけ勝っておいて、その先、どうしたら良いか分からずにモタモタするなんぞ阿呆の極み――」
「そこまでにしておこう、ムラマサ殿。それ以上はお互いの為にも……」

 触れてはいけない禁句にまで踏み込みかけていたムラマサを、ドゥリンダナは有無を言わさず強引に押し止めた。
 聡明なムラマサのこと、カレドヴールフが苛立ちを募らせる原因を全て把握しているに違いない。
具体的な問題点を並べ立てることなど造作もない筈だ。
 だからと言って、ひとつひとつを口に出して詳らかにする必要はあるまい。
そうした言行がカレドヴールフやギルガメシュ全体への侮辱、叛意と勘繰られるのは自明の理。
アサイミーの耳にでも入ろうものなら、余計にややこしくなるだろう。
鬼の首を取ったように大騒ぎする小物の姿が目に浮かぶようだった。
 カレドヴールフの近衛隊長としては組織への叛意を含むような言行を見逃すわけには行かず、
ともすれば、処断の剣を抜かなければならなくなる。そのような事態だけはドゥリンダナも避けたかった。
 ドゥリンダナの思慮を汲んだムラマサは、そこで己の言葉を飲み下した。
 しかし、隻眼より放たれる鋭い光は、彼女が押し込めている葛藤を確かに貫いていた。
 ムラマサより糾弾されるまでもなく、ドゥリンダナもギルガメシュの窮状を冷静に受け止めていた。
甚だ認め難いことだが、戦後統治も難民支援計画も、彼女が忠誠を誓う御方≠フ力量だけでは
行き詰まりを打開出来ない状況となっている。ギルガメシュの知恵を結集しても取り仕切れなくなっている。
 ゼドー・マキャリスターと言う存在が、ギルガメシュの限界を如実に表していた。
部外者の建白したディアスポラ・プログラムに頼らなければ、大義の実現すらままならないのである。
これに勝る屈辱などあるまい。

「そのような――そのような状況だからこそ楔を打たなくてはならないのだ。
ダインスレフをつけ上がらせてはならない。ああ言った手合いは組織の害になりこそすれ、
益になること何ひとつとしてない……!」
「だろうな。ウカウカしてると、カレドヴールフのお嬢ちゃんだって食われちまう。
腕も立てば頭も切れ、人心掌握の弁舌も心得ていると来たものだ。
人を惹きつける覇気も十分に兼ね備えている。あれで享楽家でなければ、非の打ち所がないんだがな」

 水面下の諜報なのだろうが、隻眼の老人は相当にゼラールのことを調べているようだ。
不審に思ってゼドーへと目を転じると、彼は「ストーカーみたいで気色悪いだろう」と薄笑いを浮かべている。

「……ムラマサ殿は何の目的があってダインスレフを調べておられるのだ? 
ギルガメシュの為ではないのか?」

 隻眼の奥底に在る真意を掴み切れないドゥリンダナは、訝るようにしてムラマサを凝視した。
 当のムラマサは、珍品の値打ちが解らない客を侮る商人のような厭らしい笑みを浮かべている。

「老い耄れの道楽だ――何を期待したんだ、小娘?」

 ドゥリンダナの眼光は、ムラマサの言葉を受けて一等鋭さを増した。
 彼女の心中は嵐の海の如く荒れていた。己の見立て違いを思い知ったことで湧き起こった恥辱と、
ギルガメシュの行く末ではなく道楽≠ノ現を抜かす老い耄れへの憤怒が波浪を起こし、
身の裡より噴き出しそうなのだ。

「情報を提供してやろうと言っている相手にそんな面(つら)を見せるのは利口ではないな」

 憤激によって言葉さえ失ったドゥリンダナを、ムラマサは尚も嘲笑した。

「嘗ての仲間を裏切って敵の懐に飛び込み、あまつさえ世界の覇権を握った女帝を相手に一歩も譲らない豪胆さ。
こんなに面白い男を俺は久しく見ておらんが、お前はそうではないか?」
「……正気を疑うぞ……!」
「正気? テロリスト同士が顔を突き合わせているんだ。正気も何もあるものかよ」
「わかった、もう良い――ムラマサ殿、そこまで言うからには、ゼラール・カザンの素性で知らぬことはないのだな?」
「女でも男でも、傅く者には平等に慈悲≠与えている――このテの情報も必要か?」

 途中に下卑た冗談こそ交えたものの、ムラマサはゼラールの素性を殆ど調べ尽くしていた。
水面下の諜報ながら、その手際は神業にも等しい。

「士官学校を主席で卒業。家柄も申し分ないし、何より本人に人の上に立つ素質がある。
こいつは取り巻きを見れば一目瞭然だな。皆、心のそこからゼラール・カザンに惚れ抜いている」

 主観を抜いても非凡と言う評価に行き着くゼラールの求心力について、
ゼドーは「なんとも悪趣味な連中だな」と肩を竦めている。
 無論、その言葉が本音ではないと見抜いているムラマサは、
「今晩、風呂に入ったら、鏡の前で同じ台詞を唱えてみな」とゼドーをからかって見せた。
 一方のドゥリンダナは本気で悪趣味だと考え、憎々しげに舌打ちを披露した。

「他人の目には理解し難いほど崇高な信条をな、頑なに守っていられる人間と言うのが、
最後は覇業を成し遂げるものなんだよ。型に納まり切らんスケールが他者を惹き付ける。
それは理屈や理念を超えたモノだ」
「途方もないスケールならば、御方とて問題あるまい。
気高き理想を胸に秘め、その半分までを達せられているのだから」
「及第点を超えているのは認めてやるよ。そこで限界のようだがね」
「またあなたはそうやって……」

 減らず口を叩くムラマサにきつい一瞥をぶつけながら、ドゥリンダナは思い出したように溜め息を吐いた。

「……突出した素質の持ち主は組織崩壊の鍵になる場合が多い。腹の底が読めない相手は尚更だ。
これで我々は爆弾を抱えたことになるのだぞ」
「そんなに恐ろしいか、ゼラール・カザンが」
「恐ろしいとも! あれは獅子身中の虫だ! 御方にもそう申し上げたのに、何故、御方は……ッ!」

 ドゥリンダナの独白が一際熱を帯びたところで、ゼドーはハーブティーのペットボトルを差し出した。
室内に備え付けてある冷蔵庫より取り出してきた物だった。
 これ以上ないと言うぐらい絶妙のタイミングだ。
しかも、精神安定の効能があるハーブティーを選んだあたり、細やかな気配りが行き届いている。
 彼女のような性情(タイプ)が、どのタイミングで爆発するのかもゼドーは心得ているらしい。

「カザンが取り立てられるのは難民支援に熱心だからに決まっている。
人殺ししか能がないお前よりも使い道があると認めたんだろう」
「だ、黙れッ! 部外者の貴様に何が解るッ!」
「部外者ほど公平な目はないと思うんだがねぇ」
「く……ッ!」

 ドゥリンダナに続いて手渡された緑茶のペットボトルを開栓しながら、
ムラマサは「さぞかし女性に持て囃されるんだろうな、この紳士め」と口笛を吹いた。

「……自分にはダインスレフが理解出来ない。あれに従う者たちも。
カリスマだの何だのと言われているが、あれは所詮裏切り者ではないか。
エルンスト・ドルジ・パラッシュを売ったと言っても良い。
忠義の道に背くような人間にどうして人が随いていくのだ……?」

 大軍と言うわけではなかったが、ゼラールにはテムグ・テングリ群狼領の将兵も追従している。
ピナフォア・ドレッドノートと言う優れた女将軍がその筆頭であった。
 鉄の結束を誇ると言われてきたテムグ・テングリ群狼領から将軍≠離反させたことは、
軍師たるアゾットをも「どんな手を使ったのやら」と驚かせたものだ。
 緑茶を呷ったムラマサは、次いでドゥリンダナに「理屈で考えるから迷子になるんだ」と皮肉を飛ばす。

「直感で惚れる――これだ。そして、それが人の上に立つ素質と言うものでもある。
どうやらゼラール・カザンは、それを持って生まれたらしい。
……だから、言っただろう? これほど興味深い男もそうはいない」
「……ムラマサ殿は随分とダインスレフにご執心の様子だが、本人とはお会いになられたのか? 
まさか、伝え聞いた情報のみでそこまで入れ込んでいるのではなかろうな?」
「心が躍るとは、そう言うことだ」
「……ムラマサ殿は我が御方がダインスレフよりも……」
「あるいは半年後にギルガメシュの首座に着いているのはゼラール・カザンかも知れんな」

 言うや、ムラマサはテーブルの上に投げ出されていた書類を、
ゼラールによって回復させられたギルガメシュの支持率を、ドゥリンダナの眼前に突きつけた。

「ムラマサ殿ォッ!」

 ドゥリンダナは平手でもって書類を振り払った。こればかりは彼女も堪え切れなかったのである。
 カレドヴールフのことをゼラールより劣るものと隻眼の老人は見做したのだ。
これこそ許されざる暴言である。ドゥリンダナは反射的に軍刀へと手を掛け、鯉口まで切っていた。
 しかし、抜刀までには至らない。いや、ムラマサによって出端を挫かれ、刃を抜かせて貰えなかったと表すのが正しい。
隻眼より殺気を叩き付けられたドゥリンダナは、その威圧へ打ち克つことが出来なかったのである。
 眼光ひとつだ。眼光ひとつで金縛りにでも遭ったかのように全身の自由が利かなくなってしまった。
 御方≠貶められた怒りを以ってしても、ムラマサの発する殺気を撥ね除けるには足りず、
己の意識と身体の自由とが切り離されたような錯覚の中で、ドゥリンダナは改めてこの老人の恐ろしさを噛み締めた。
額から頬にかけて流れる傷痕が示す豪勇を、衰えを知らない戦士としての気魄を――。
 今でこそ楽隠居を洒落込み、ブクブ・カキシュ居住区に所在するモーテルでオーナーを務めているものの、
彼こそはギルガメシュ結成以来の最古参であり、嘗てカレドヴールフと肩を並べた歴戦の猛者であった。
 副官のドゥリンダナは言うに及ばず、アネクメーネの若枝でさえムラマサの前では新兵同然なのだ。
虎の如く猛っていても、彼に一睨みでもされたなら、牙をもがれて猫に変わってしまうだろう。
 現役時代には、一〇〇〇〇〇と言う敵兵殲滅数の記録(レコード)を打ち立てており、
これは未だに破られてはいない。
 しかも、だ。広範囲を攻撃する重火器などに頼らず、徒手空拳のみでこの大記録を築いたのである。
カレドヴールフにもグラムにも、このような芸当は真似できなかった。
 戦場に放り出すだけで、敵兵を苦もなく蹂躙していくムラマサである。
彼が従軍した場合、ある意味に於いて戦略に狂いが生じると、
何時かアゾットが語っていたことをドゥリンダナは想い出した。
 アゾットが軍略の理想に定めている「五分の勝利」は、ムラマサの現役時代には殆ど実現不可能であったわけだ。
 そもそも、ムラマサが現役であった頃は、アゾットは軍師の座に就いてはいなかった。
この老人こそが、ギルガメシュの軍師と言う大役を担っていたのである。
 カレドヴールフに拮抗し得る地位を持ち、また、文武に秀でた傑物であるからこそ、
ゼラールの楔≠ニなることをムラマサに期待したドゥリンダナだが、今となっては望むべくもない。

「――だが、これと見込んだ人間が期待外れだったときの失望は、それは深いものでな。
落とし前として寝首を掻くケースだって少なくはないのだよ」
「……どう言う……意味ですか……」
「男が男に惚れ、背中と生命を預けると言うことはな、小娘よ、互いに真剣勝負なのだ。
……己の直感が本物かどうかを見極めるのも、また一興だな」
「ムラマサ殿……」
「所詮、道楽に過ぎんがな」

 望みは絶たれたと半ば諦めていたドゥリンダナだったが、思いがけずムラマサのほうから歩み寄った。
どうやら、ゼラールの楔≠断るつもりではなさそうだ。
 ムラマサが殺気を解いたことでようやく身体の自由を取り戻したドゥリンダナは、
全身から冷や汗が噴き出すのを感じながらも気丈に振る舞い、それと気取られぬよう静かに呼気を整えた。
 尤も、自分が激しく動揺していることも、これを隠そうとする虚勢もムラマサにはお見通しだろう。
ゼドーにさえ見抜かれているに違いない。
 早鐘を打つ心臓さえ鎮まるのであれば、この場に於いて恥を?いても構わなかった。

「……なんとも身勝手な話だ。一度、忠節を誓った相手の首を討つなど言語道断ではありませんか。
それをさも当然のことのように言う感覚が信じられない」
「ああ、身勝手な話だ。だがな、お前に他人(ひと)の身勝手を誹る権利はないぞ。
楽隠居の老い耄れを、自分たちの都合でまた引っ張り出そうと言うのだからな」
「誰に命じられるまでもなく自分でダインスレフを嗅ぎ回っておいて、よくそんなことが言えますな」
「何度も同じことを言わせるなよ。老い耄れは出歯亀くらいしか道楽がないんだ」
「使い勝手の良い逃げ口上ですね、『道楽』と言うのは……!」

 些か理解に苦しむ部分はあるものの、ムラマサの承諾を取り付けることには成功したわけである。
委細についてはいずれ打ち合わせると言い置いたドゥリンダナは、ムラマサが頷くのも待たずに踵を返した。
 結局、開栓すらしなかったペットボトルをテーブルに置き、
「御方がいる限り、統率に乱れはない」と、振り返りもせずに彼女は言い放った。
 正確には振り返ることも出来なかったと言うべきだろう。
 ムラマサの眼光によって再び竦まされることを恐れたからではない。
自身の面に浮かんだ表情を衆目に晒すことが、カレドヴールフへの叛意に値すると考えたのだ。
 御方がいる限り、統率に乱れはない――きっぱりと断言したドゥリンダナの声は、
明朗さとは裏腹に酷く擦れていた。
 貴賓室(へや)から去っていく後姿を見送ったゼドーは、「忠誠心もあそこまで行くと哀れだな」と鼻の頭を?いた。

「ゼラール・カザンだけが内憂ではなかろうに。そこのところを見落としているとしか思えないが……」

 ゼドーの言葉にムラマサは苦笑混じりで相槌を打つ。

「昔からクソ真面目だったが、ここのところ、更に融通が利かなくなっておるよ。
あの調子では、自分の身ばかりか、カレドヴールフをも滅ぼしかねん」
「堪え性は年齢と共に薄くなっていくものだよ。……ムラマサ、あんただって、その法則からは逃げられない」
「何だ何だ、急に耄碌呼ばわりか? それとも、遠回しに禿頭(ハゲ)をバカにしているのか?」
「さっき、俺に言ったな――自分の顔を鏡で見てみろと。……そっくりそのまま、あんたにお返ししよう」
「ぬ……?」

 ゼドーにからかわれて、ムラマサは己の面に笑気が宿っていることを悟った。
 あるいは、ドゥリンダナが振り返りもせずにゼドーの貴賓室(へや)を去ったのは、
ムラマサにとっても僥倖だったのかも知れない。
 ギルガメシュの行く末にも関わる大切な決断の最中に笑みなど浮かべていたら、
ドゥリンダナから有らん限りの罵詈雑言を浴びせられたに決まっている。

(ゼラール・カザン、か――……ふむ、年甲斐もなく血が滾って来たわい)

 胸の底から涌き上がるような昂ぶりに満たされたムラマサは、
ゼラールの大器に想像を巡らせて磊落に笑い声を上げた。
 それは、戦列を離れて以来、久しく忘れていた熱き魂であった。

「理屈や理念を超えたモノとは言い得て妙だな。老人(じじい)の道楽に相応しいようだ」

 ムラマサの昂揚が伝播したのであろうか、ゼドーもまた口元を愉悦に歪めていた。





 Bのエンディニオンの要人が抑留される鏡張りのフロアを離れたドゥリンダナは、
その足を士官専用のトレーニングルームへと向けている。
 すぐにでもムラマサをゼラール軍団へ送り込む手配りに取り掛かるべきなのだが、
生憎とベルに剣術の稽古をつける刻限が迫っていた。
 子守≠ノ興じる様を他者に覗かれたくないドゥリンダナは、
なるべく人気(ひとけ)の少ない時間帯を見計らってトレーニングルームを使っている。
それだけに遅刻は許されない。何としても限られた時間内に稽古を済ませたいわけだ。
 刻限を意識して足早になる自分が、ドゥリンダナには堪らなく情けなかった。
力を注ぐべきことは他にも山ほどあるのだ。子守≠ノ費やす時間とて惜しい。
さりとて、お座成りな指導などしようものなら、カレドヴールフから厳しく叱責されるのである。
 煩わしいとしか例えようがなかった。
 発散し難い鬱屈を抱えたドゥリンダナは、トレーニングルームへ足を踏み入れた瞬間、
苦い気持ちすら忘れて双眸を見開くことになる。
 自分と同じように他者の好奇に晒されることのない時間帯を選び、汗を流す人間が在ったのだ。


 その少年は、ドゥリンダナがムラマサやゼドーと対峙している頃から黙々と訓練に励んでいた。
 ラドクリフである。時折、床に置いた教本で技の所作(うごき)を確かめつつ、
一心不乱に得物を振るい続けている。
 彼が右手に握り締める得物(もの)は、師匠のホゥリーから授かった棒杖(ワンド)ではなく、
緩やかな反りの入った刃――『ジャンビーヤ』と呼称される種類の短剣であった。
 獣の角を材料にして作られた柄が目を引き、腰の帯には堅木で拵えた鞘も差し込まれている。
 足元の教本は、つまり短剣術の指南書であった。ジャンビーヤの扱い方も網羅してあるらしく、
開かれたページには同種の短剣を握った男の写真が幾つも掲載されている。
 足の運び方など細かな所作まで図解されており、ラドクリフはこの模倣に励んでいるわけだ。
 マコシカ出身の『レイライナー(術師)』である彼が短剣術を訓練することには、無論、相応の事情があった。
早い話がプロキシの使用を全面的に禁じられてしまったのである。
 ことの発端は、ふたつのエンディニオンに於ける信仰形態の違いであった。
 マコシカが司る自然礼讃と教皇庁が司る神像礼拝など、ふたつの世界の差異は数え切れないのだが、
スコットの話によれば、Aのエンディニオンでは単独によるプロキシなど存在し得ないと言うのだ。
 神人の力を授かるなど不敬も甚だしい――連合軍にも参画していた教皇庁の神官、
ゲレル・クインシー・ヴァリニャーノは、以前にマコシカの秘術を神への冒涜などと罵ったのだが、
それは絶対的な畏敬と言う意識に拠るところが大きい。
 神像と言う媒介(かたち)を経ずして直接的に語りかけるなど、
決して許されない所業であるとクインシーは捉えていたのである。
 別離する以前(まえ)に件の話をシェインから教わったラドクリフは、
ワーズワースの浄化を済ませた後、クインシーが起こした癇癪(こと)をゼラールにも報告した。
 ギルガメシュがAのエンディニオンの組織内である以上、
クインシーと――教皇庁の神官と同じ考え方が大勢を占めているとも限らない。
レイライナー(術師)と言う存在が新たな諍いの火種になるのではないかとラドクリフは懸念したのだ。
 CUBEを用いず、術者単独によって発動されるプロキシがAのエンディニオンに存在しないことは、
バスカヴィル・キッドも掴んでおり、スコットにも裏付けを取っている。
 ピナフォアやカンピランは、小さなことなど気にせず、今まで通りに使い続ければ良いと豪気に笑ったが、
トルーポはラドクリフの懸念を重く受け止めていた。
 神人の力を授かってプロキシを行使するレイライナーは、Aのエンディニオンにとって未知の存在にも等しい。
それ故にギルガメシュから利用されはしないかとトルーポは案じたのである。

「最新兵器みたいに使い潰されるだけなら、まだマシだ。頭のネジが飛んだようなヤツに気に入られて、
人体実験のモルモットにでもされちまったら、本当に取り返しがつかねぇぜ」

 脅かすように語るトルーポにカンピランは「あんたの考えが誰よりもブッ飛んでるだろ」と呆れ返ったが、
それでも彼は慎重な構えを崩さなかった。

「ギルガメシュがアカデミーで習ったのと同じ戦術を使うってコトは前にも話しただろ? 
本当にアカデミーと繋がっているなら、これ程、危ねぇコトはねぇんだよ」
「あんたや閣下が卒業(で)たガッコでしょうが。何をそんなにビビッてんのさ」
「母校だから、ビビるのさ。……俺らが居た頃からアカデミーにはキナ臭いウワサが尽きなくてよ。
表向きは『広く開かれた士官学校』だが、裏じゃ非人道的な実験もやりたい放題だとか、な。
俺だってこの目で確かめたわけじゃねぇが、満更、在り得ない話でもねぇ。
それくらいバカデカい組織だったんだよ、アカデミーってのは」
「……あんたさぁ、その軍服着ながら、アカデミーのオカルト話をするのかい? 
そいつは、アカデミーから払い下げた物だろうに」
「五体満足で卒業出来て良かったぜ。モルモットにされてたら、こんなに可愛い嫁さんも貰えなかったしな」
「アホか。見え透いたご機嫌取りなんか要らないよ!」

 トルーポの示した根拠には、バスカヴィル・キッドも首肯している。
 アカデミーとの関連も含めて、ギルガメシュの実態は掴み切れていない。
組織内部の思想と、これに基づく体質を完全に把握するまでは、目立つ行動は控えるべきとの見解だ。
 配下の議論に耳を傾けていたゼラールは、「在るかどうかも分からぬ影に怯える死神≠ネどお笑い種よ」と
一笑に付したものの、ラドクリフに対してはプロキシの使用を暫く控えるよう命じた。
 テムグ・テングリ群狼領に所属していたときには、禁忌であるトラウムを遠慮なく振るい続けたゼラールだが、
馬軍とギルガメシュでは些か事情が違っている。
 Aのエンディニオンの組織たるギルガメシュが、Bのエンディニオンの人間であるラドクリフを
どのように扱うのか、見当も付かなかった。
 トルーポが危惧するように実験台にされる可能性も捨て切れない。
ギルガメシュの目に映るBのエンディニオンの生命が、
必ずしもAのエンディニオンの人間と同等であると言う保証はないのだ。
 あるいは、アカデミーとの関わりがゼラールを慎重にさせたのかも知れない。

 甚だ窮屈な仕儀となったが、ゼラールの命令とあればラドクリフも遵守しないわけには行かなかった。
 窮屈ではあるが、理屈は通っている。プロキシの制限を以ってラドクリフを押さえ付けようと言うわけではない。
これは、あくまでも自己防衛であった。自分のことを守ろうとしてくれる仲間たちの計らいも
ラドクリフは受け止めていた。
 その最中にカンピランから投げ渡されたのがジャンビーヤだったのだ。

「丁度良い機会だってポジティブに考えるのが吉だよ。アタシらに比べてラドは接近戦が苦手だろう? 
いきなり大振りな武器を使えってのは無理だろうから、まずは短剣から始めたらどうだい。
プロキシが間に合わなくて攻め込まれたとき、手前ェの身を手前ェで守れなくちゃねェ」

 白兵戦に於ける武技を体得し、戦闘能力の底上げも図るようカンピランは提案したのである。
彼女が指摘したことは、まさしくレイライナーにとって最大の弱点であった。
 プロキシの行使に当たっては、先ず神人に歌舞を奉じて神威(ちから)を授からなくてはならない。
その上で術の発動に備えるわけだから、どうしても無防備になってしまうのだ。
 カンピランが言う通り、歌舞を奉じながらでも敵と切り結ぶ武技を体得すれば、これ以上に有用なことはない。
弱点を克服する好機との捉え方は、実に建設的であった。
 両者の話を傍らにて聴いていたピナフォアは、両帝会戦で共闘したレイチェルを例に挙げ、
「神霊剣だっけ? どうせなら、あの人と同じ芸当くらい身に付けなさいよ」と放言した。

「常識を知らない人は、恥も知らないようですね。今に始まったことではありませんが、
よくもそんなおふざけを口に出来たものです。ある意味、尊敬しちゃいますよ」
「なッ、なんですって、このクソチビッ!」
「酋長はマコシカで一番の『レイライネス(術師)』なんです。
ぼくみたいな未熟者に同じことが出来るはずがないでしょう? 
血の滲むような猛特訓をしたって足元にも及びませんよ」

 ラドクリフは感情的にピナフォアの意見を切り捨てたわけではない。
マコシカの民としてレイチェルの立つ領域が遥かに遠いことを知っていればこそ、
短期間の訓練では到達不可能だと答えざるを得ないのだ。
 何年、何十年と専心して修行を積めば、あるいは神霊剣を極める可能性も見えてくるだろうが、
そこに辿り付ける才能は一握りしかいない。事実、現世代のマコシカの集落には、
神霊剣の使い手はレイチェルただひとりであった。
 この点からも神霊剣の難易度が察せられる。独学では通常の短剣術を練習することしか出来そうになかった。
 神霊剣を体得するよう言い放ったピナフォアは、腰に曲刀こそ携えているものの、
剣士を名乗るほどには卓越してはいない。馬軍の将に必要な武芸として修めてはいても、
シャムシールを極めたデュガリのような力量は持ち合わせていないわけだ。
 当然、人に教えることも出来ない。下手に指導などしようものなら、
発展途上のラドクリフに悪い癖≠ェ付いてしまい、却って成長を阻害することだろう。
 カンピランもカンピランで剣術≠フ指南は難しい。
彼女は剣を使った戦いを得手としているだけで、純粋な剣士ではないのだ。
剣術と「剣を使った戦い」の間には大きな隔たりがあった。
 白兵戦の一環としてナイフ術を修めたトルーポが指導役を買って出たが、
軍団を取り仕切る彼は、こなさなければならない実務(しごと)が山積しており、
付きっ切りで稽古をしているわけにもいかない。
 必然的に指南書を手本とした自主稽古が増えるのだ。ここ数日はブクブ・カキシュ内のトレーニングルームに赴き、
短剣術の基礎的な動作を模倣し続けている。ゼラールの陪臣に過ぎないラドクリフが士官専用の施設を使えるのは、
軍団の後ろ盾たるコールタンの計らいであった。
 余談ながら――ラドクリフはスコットもトレーニングルームに誘ったのだが、
「周りでトロトロやられてたら、お前さんのほうが気が散るだろ? 人の迷惑にはなりたかねぇんだ」と、
屁理屈で逃げられてしまった。厄介なこと、疲れるようなことは、とことん忌避するつもりのようだ。

(スコットさんのことは放っておくしかないかな。……人のことより自分を何とかしなくちゃ!)

 他の士官が使用していない時間帯をコールタンから教わっていたこともあり、
現在のところ、トレーニングルームはラドクリフの貸し切り状態だ。
 静まり返った室内に一抹の寂しさを感じなくもないが、独りきりのほうが稽古が捗るとラドクリフは思っている。
新しい技を試す度、体勢が滅茶苦茶に崩れてしまうのだ。無様としか言いようのない姿を誰かに見られるよりも、
ずっと伸び伸びと身体を動かせるのだった。
 無論、第三者の目に拙劣を見極めて貰うことは必要だ。細かな部分はトルーポから指導を受けるとして、
先ずは身体を慣らしていくことがラドクリフの急務である。
 他者の視線を意識して萎縮せず、全身の使い方を育む段階に在った。

(シェインくんも剣術は習い始めだけど、きっとこんな感じなんだろうなぁ)

 ジャンビーヤを振るう度、シェインのことが思い出されてならなかった。
 フツノミタマから暗殺剣を仕込まれることには抵抗を覚えるものの、
シェインとふたりで切磋琢磨し、剣術を磨いていくことは、想像しただけでも楽しそうだ。稽古も大いに捗っただろう。
俊敏な身のこなしはジェイソンから教わることも出来た筈である。

(今頃、何してるのかなぁ、シェインくん。ジェイソンくんは、もう別の任務に就いているのかなぁ……)

 今はシェインともジェイソンとも連絡を取り合えない状態である。それだけに寂しさも募るのだ。
 親友ふたりと過ごした時間は余りにも短い。他の想い出で上書きされてはいないかと、ラドクリフは俄かに心細くなった。

(ぼくのこと、忘れてないかな。まだシェインくんの心にぼくは残っているのかなぁ……)

 脳裏に親友の顔を思い浮かべ、集中を乱したことが仇になったのだろう。
横薙ぎの一閃を振り抜いたとき、勢い余って足が縺れ、その場に尻餅を突いてしまった。
 情けないにも程がある醜態であった。別のことに気を取られて転ぶなどゼラールの軍団員として有るまじき失敗だ。
「自分で自分がイヤになる……」と、自省と共に項垂れるしかなかった。
 誰もいなくて良かったと安堵の溜め息を吐くラドクリフだったが、
それから間もなく、彼に「ケガはありませんか」と心配そうな声が投げかけられた。
 一番、情けないところを誰かに見られた――林檎の如く真っ赤に染まった顔を上げると、
視界にひとりの女の子が飛び込んできた。
 トーニングルームの入り口に見つけたのは、自分よりも遥かに小さい女の子だった。
身の丈から推察するに、おそらく十歳にもなってはいないだろう。
 ギルガメシュの軍服を身に纏っている。腰の剣帯にレイピア(細剣)を吊り下げている辺り、
稽古にこの部屋を訪れたことも明白だ。
 その女の子を見つけた瞬間、ラドクリフの背筋に怖気が走った。
こんな小さな子どもまでギルガメシュは戦争に引き摺り込むのかと、一種の戦慄を覚えた次第である。
 大慌てでラドクリフに駆け寄った女の子は、「どこか痛いところはありませんか」と尋ねつつ、
顔や腕に痣が出来ていないかと目視を以って確かめている。
 特に顔面には注意を払っており、触診の如く頬や眉間を指で突いては、本当にどこも痛くはないのかと繰り返し尋ねた。
 まだまだ小さな子どもではあるが、見た目よりも遥かに確(しっか)りしているようだ。
先んじて部屋の片隅に置かれている救急箱まで走り、薬効の有るコールドスプレーなど応急手当に必要な物を用意していた。
ラドクリフのほうが却って恐縮してしまうほどの手際の良さである。

「もしかして、風邪を召しているんですか? それでフラフラしたんじゃ……」
「――へっ? いや、別にそんなことはないけど?」
「でも、顔が赤いですよ」
「そ、そんなことないよ? キミの勘違いだよ、うん……」
 
 たんぽぽ色の瞳で覗き込まれる度にラドクリフはうろたえてしまう。
どう見ても相手はキンダーガートゥンだ――が、妙に意識して頬が火照ってくるのだ。
 そもそも、ラドクリフには年下の女の子と接する機会がこれまで殆どなかった。
マコシカの集落で暮らしていた頃は、周りには年上の女性しかおらず、
それはゼラール軍団に参加してからも変わっていない。
 精神年齢が相当に幼いルディアも年齢上はラドクリフと大差がない。
あるいは「女の子」として意識して見るのは、目の前の娘が生まれて初めてかも知れなかった。

「我慢だけはしないでくださいね。打ち身もバカには出来ないんですから」
「だ、大丈夫、大丈夫。ぼく、こう見えても頑丈なんだ。ちょっとくらい怪我したって平気さ」
「いけませんよ。女の子なんですから、痕(あと)に残るような怪我をしてしまったら大変です」
「ちょっと待っ――ぼ、ぼくは男だよっ!」

 俄かな胸の高鳴りも一瞬のことであった。例によって例の如く可憐な容姿から女の子に間違われ、
ラドクリフは今までとは別の意味で顔面を真っ赤に染め上げた。

「えっと――事情があって男の子として育てられた……とか?」
「違う違う違うっ! キミ、面白いこと、考えるねっ! でも、ぼくはれっきとした男だからねっ! 
そんなの、見れば分かるでしょっ!?」
「見たところ、マコシカの方……ですよね。民族衣装を物の本で拝見した覚えがあります――ので、
てっきり、変わった風習があるんだなぁって」
「マコシカにそんな風習ないよっ! 男は男、女は女って、ちゃんと別れてるからっ!」
「元々は男の子だったけど、神秘の儀式で女の子になってしまったとか、
神人様と一体化した影響で性別が入れ替わってしまったとか、そう言うタイプの――」
「どうしても、ぼくを女の子にしないと気がすまないのっ!? 
プロキシのことも詳しいみたいだけど、何でそこで不思議な勘違いをするかなぁっ!」
「本当に男の子……なんですか? 男の子と言い聞かせられてきたから自分では分からないけど、
実はわたしと同じ女の子ってセンは――」
「どうしよう、ぼく、年下のコに泣かされそう……」

 独創性に富んだ発想への興味と、大人顔負けな博識への感心と、一向に誤解が改められないことへの抗議で
収拾が付かなくなりかけた瞬間(とき)、ラドクリフの胸中に例えようのない靄≠ェ垂れ込み始めた。
 明確な答えにまでは導いてくれないものの、不可思議な胸苦しさを伴う靄≠ヘ
目の前の女の子に見覚えがあるとラドクリフへしきりに訴え掛けるのだ。
 レンガ色の髪は踵にまで届くほど長く、頭頂部からは三本の癖毛が元気良く飛び出している。
胸元を彩る大きな鈴の装飾(かざり)にもラドクリフは記憶の糸を刺激された。
「探し物は此処に在る」と、追想の向こうから確かに引っ張られている。

(会ったことはないハズなんだけど、それなのに、どうして……)

 胸苦しい靄≠フ正体を解き明かす手がかりを掴もうと、女の子の顔を正面から見つめるラドクリフだったが、
やがて、その脳裏に在りし日の親友の声が、シェインの言葉が蘇った。

『ボクの幼馴染みがギルガメシュの人質になっているんだよ。
そいつを助け出さない限り、ボクは死んでも死に切れないんだ……絶対に救い出して見せる……!』

 それは、グリーニャの焼き討ちと併せて教わった話である。
シェインにとって大切な妹分――アルフレッドやフィーナには実の妹である――がカレドヴールフに連れ去られ、
現在(いま)では全く音信不通になっていると言うのだ。
 フツノミタマに剣術の手解きを希(こいねが)い、危険を承知でギルガメシュとの争乱に身を投じているのは、
故郷の仇討ちと、何よりも妹分の救出と言う意志があったればこそだった。
 絶対に救い出す――決意を語った瞬間にシェインが見せた悲壮な表情(かお)を、
ラドクリフは忘れることが出来ない。
 そして、その妹分の写真はラドクリフも受け取っている。彼のほうから願い出て画像をメール送信して貰ったのだ。
万に一つも有り得ないことだろうが、何処かでその娘を見かけたら直ちに保護し、
連絡を入れるとシェインに約束した次第である。
 その後、ゼラール軍団はギルガメシュへ移ることになったのだが、
件の約束は今もラドクリフの胸中で生き続けている。受信した写真とてモバイルに残っている。
 実父に肩車されて無邪気に笑う女の子の写真であった。ふたりの傍らでは女の子の実母が優しげに微笑んでいる。
まさしく家族の肖像を切り取った一枚と言えるだろう。

(……その写真の男性は、どこかアルフレッドさんに似ていて、女性のほうはフィーナさんの面影があって――)

 そこまで考えを巡らせたラドクリフは、ズボンのポケットから震える手でモバイルを引っ張り出し、
シェインに貰った画像を再確認する。案の定、液晶画面に表示された写真と目の前に在る女の子は全く同じ顔であった。
それどころか、身の丈もそっくりそのままである。

「もしかして、キミは――ベル……ちゃん?」
「――は、えっ?」
「お兄さんの名前はアルフレッドさんで、お姉さんはフィーナさん」
「ど、どうして……っ!?」
「シェインくん――って幼馴染みがいたり……する?」
「は、はいっ、そうですっ! わたしの名前も、兄も姉も、シェインちゃんまで――……あ、あなたは一体……?」

 自分の名前も、家族の名前さえも同一と言うことは、最早、単なる他人の空似では済まされない。
 目の前に在るこの女の子こそ、シェインが追い求める幼馴染み――ベル・ライアン本人なのだ。

(……シェインくん、どうやら『お姫様』に辿り着いたみたいだよ……)

 彼女が――ベルがギルガメシュの軍服に身を包んでいる理由こそ判然としないものの、
このような形で巡り合ったことにラドクリフは運命の不思議さを感じずにはいられなかった。
 「運命のいたずら」と言い換えても差し支えはあるまい。

「ぼくの名前はラドクリフ。……シェインくんとは親友(ともだち)なんだ」




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