8.軍団潜入


 愛馬に打ち跨ってブクブ・カキシュを降り、ルナゲイトの片隅に所在する洋館を訪ねたバルムンクは、
中庭に凝らされた珍奇な趣向へ顔を顰めた。我知らず「豪勢な趣味もあったもんだ」とまで漏らしていた。
 彼の目に飛び込んできたのは、立派な屋根まで設けられた土俵場である。
 『四剣八旗』の異名で称されるギルガメシュの軍団長たちも、自分の趣味を楽しまないわけではない。
バルムンク自身、厳しい任務の合間に息抜きの時間≠持つようにしている。
気詰まりこそが失態の主因(もと)であると、兄貴分のグラムからも常々注意されていた。
 さりながら、ここまで手間暇と金を趣味に費やす者をバルムンクは他に知らない。
そして、それは彼ひとりの意見ではない。ギルガメシュに属する誰もが過分な贅沢と見做しており、
土俵場が出来上がるまでの一部始終を渋い顔で眺めていた。
 生真面目なバルムンクは、洋館の主たるゼラールの趣味が特に気に障る。
それ故、実際に土俵場を目の当たりにした瞬間、表情を険しくしたのである。
 土俵の上では、ゼラールの軍団員たちが威勢よく相撲を取っている。
アカデミー以来、『閣下』へ追従してきた者の中には、バルムンクが見知った顔も多く含まれていた。
 トルーポとてその内のひとりだ。先日も顔を合わせたのだが、
優れた士官候補生であった彼が自身の将来を棒に振ってまでゼラールに従ったことを、
バルムンクは残念に思っていた。
 旧友であることは間違いない――が、トルーポの人生に口出し出来るような権利など持ち合わせてはいないのだ。
だからこそ、「自分の部隊で働かないか」と誘いたくなる気持ちを懸命に堪え、飲み下したのである。

「火急の用件と言うから駆け付けてみれば、相撲見物だと? 貴様、自分をおちょくっているのか。
副官ごときが上官に不敬を働くつもりなのか?」
「久方ぶりに再会した友と旧交を温めるのも一興とは思わぬか? 
そちも相撲を好んでおったろうに。相撲中継を皆で愉しんだこと、忘れるような歳でもあるまいよ」
「相撲は観るよりも自分でやるほうが――い、いや、そう言う問題ではない!」
「忘れておらぬのであらば、あの頃に戻ってゆるりと愉しもうではないか。ボルシュグラーブ・ナイガード、我が友よ」

 苦虫を噛み潰したような表情で立ち尽くすバルムンクをコードネームではなく本名で呼び付け、
破顔を以って出迎えたのは、言わずもがなゼラール・カザンその人である。
 彼は土俵場を眺めるのに適した位置にて胡坐を?いており、
隣に座るようバルムンク――ボルシュグラーブにも促した。
 依然として険しいボルシュグラーブだったが、手招き自体を断るつもりはないらしく、
暫時の逡巡の後、躊躇いがちにゼラールの真隣へと腰を下ろした。
 嘗ての付き合いはともかく、現在は上官、部下と言う立場。
生真面目なボルシュグラーブであれば、上下関係の線引きを徹底しそうなものだが、
自分のことを本名で呼び捨てる不敬さえ咎めようとはしなかった。
 「我が友」と言うゼラールの呼び掛けに表情を緩めたこととは、決して無関係ではあるまい。
 ボルシュグラーブが座るのを見届けたゼラールは、幾度か満足げに頷くと、
手拍子でもって呼び寄せた侍女に酒肴の支度をするよう命じた。
 程なくして整った酒肴にボルシュグラーブは思わず感嘆の声を上げた。
米を材料とした醸造酒が用意されたのだが、これを注いだ檜の枡には梅花の塩漬けが浮かべられており、
澄んだ水面にえも言われぬ風情を与えていた。
 この場に凝らした風情を数えるならば、ふたりが腰を下ろした物も含まれることだろう。
ゼラールはありきたりな椅子ではなく円形の茣蓙(ござ)を用意していた。
 客を迎えるにしては些か質素かも知れないが、こうした侘びた風情こそが相撲を楽しむのに最も適していると
ゼラールは考えたわけだ。相撲とはエンディニオンに於いて神聖な闘技とされている。
 我知らず背筋が伸びてしまうほど清廉さを追求した趣向は武人を標榜するボルシュグラーブの心へ確かに響いており、
感嘆の溜め息が絶え間なく漏れ続けていた。
 質素ながらも情緒豊かな趣向を満喫していたボルシュグラーブだったが、
唐突に「アッ」と素っ頓狂な声を上げ、間もなく顰め面に戻ってしまった。
 わざとらしく咳払いしたボルシュグラーブは、「贅沢が過ぎる! けしからん!」と、
取って付けたようにゼラールを糾弾した。
 これがゼラールの爆笑を誘ったのは言うまでもない。
 莫迦が付くほど生真面目な彼のこと、ふと冷静になった瞬間、同胞への示しが付かないとでも思い至ったのだろう。
しかし、今更になって取り繕っても空々しいだけである。
 己を戒めようと口をへの字に曲げたところで、動揺と狼狽が入り交じって上擦った声は隠しようがなかった。
 そのような声色で「難民が苦しんでいるよきに遊興に耽るなど言語道断! 恥を知れ、ダインスレフ!」と
凄まれても少しも怖くはなかった。

「どこでこの檜枡を仕入れたか、鼻息荒く訊いてたのは、どこの誰だったかな。なぁ、ボルシュ?」
「そ、それを! それを言うのか、トルーポっ!」
「――おっと、今はバルムンク様とお呼びしなくちゃいけませんでしたかな?」
「やめてくれ! あ、いや、本当ならやめてもらったら困るんだが……、
お前たちに敬語なんか使われたらサブイボが出そうだよ」

 土俵の上からトルーポにまで茶化されてしまい、ボルシュグラーブは力なく肩を落とした。
 誰に指摘されるまでもない。自分が滑稽であることは、ボルシュグラーブ自身が一番良く分かっている。
自己嫌悪が面に浮かんでからは声色も情けなく弱まっていき、
遂には「だから俺はダメなんだよなぁ……」と頭を抱えてしまった。
 苦悶する旧友をゼラールとトルーポは容赦なく笑い飛ばし、対するボルシュグラーブは彼らを恨めしそうに睨み付け、
やがて自らも噴き出した。一緒になって笑い声を上げていた。

「そも、これは余が独りで愉しむ贅沢(もの)でなく万民を導く為のものぞ。
地上は絶望ばかりではない。素晴らしき楽土も実在すると、我らが身を以って伝えねばならんのじゃ。
万民の面(つら)に笑顔の花が咲くのであらば、喜んで海老すくいでもして進ぜよう。
覇者たる者、それだけの気概とゆとりを心に持っておらねばならぬ。
ボルシュグラーブ・ナイガード、我が友よ。王道の何たるかを存分に学ぶが良いぞ」
「……お前はいつだって俺を理屈で追い詰める。そう言うところが厭なんだよ」
「フェハハハ――屁理屈とは言うてくれる。余は真理しか論じておらぬぞ。
それに随いて来れぬ我が身を省みるのだな。……おぉ、これはすまん。足りぬ頭ではそれも叶うまいがな」
「普通、こんな厭味を言われたら誰だって頭に来るんだろうけど、
そう言うのを通り越して日常会話にしちまうところは、冗談抜きで感心するよ」
「うむ、殊勝殊勝。傅いて跪けぃ」

 皮肉をたっぷりと含んだゼラールの笑い声にボルシュグラーブは「まーた始まった」と頭を?いた。

「感心と言ったら、トルーポも、だ。……俺はトルーポを尊敬するね。
四六時中、ゼラールと顔を突き合わせてて、よくアタマがおかしくならないもんだ」
「俺たちゃ閣下に惚れ込んでいるんだぜ? おかしくなる理由がねぇだろ」
「……その思考(アタマ)は本当に理解出来ないが、それくらいブッ飛んでるヤツでもなけりゃ、
ゼラールの相手は務まらないってことかな」
「生温かい目で見るなよ、こいつめ」

 鋼鉄の如き肉体へ廻(まわし)を締めたトルーポは、土俵の上で部下たちを相手にしつつ旧友に応じている。
 
「そう言えば、嫁さんを貰ったんだってな。海賊の女船長だっけ? 
まさか、合戦に勝った褒美として貰った――なんて言うんじゃないだろうな?」
「だ、誰がそんなゲスな真似するか! えーっと……そうだな……お見合い結婚――みたいなもんだ」
「だよなぁ、女性に免疫のなかったお前が、そんなガツガツしてるわけないもんなぁ。
同期ん中じゃ最後まで独り身だろうって言われていたんだぜ、お前」
「免疫ないのはお前だって同じだろうが! 『愛しの令嬢(あのコ)』に手紙を貰って鼻血噴いたコト、
まさか、忘れたんじゃねーだろうな。俺らの間じゃ未だに語り草になってんだぞ」
「おま……そ、それを持ち出すのか!? お、お前だってなぁ――女性教官に呼び出されただけで
カチコチになってたじゃないかっ! 教材運ぶのを手伝ってって、ただそれだけの話にも関わらず!」
「こ、個室でふたりきりになるんだぞ!? 気ィ遣うのが普通じゃねーか!」
「――阿呆、相手は亭主持ちの五十路であろうが。緊張する意味が分からぬわ。
斯様な体たらくであるから、未だに子のひとりも授からんのじゃ。それとも、お預けでも喰らっておるのか?」
「か、かか、閣下っ!」

 ボルシュグラーブとゼラールの言葉に気を取られて前方への注意が疎かになったトルーポは、
突進してきた部下に為す術もなく転ばされてしまった。
踏ん張りも何もなかった為、尻餅を突かせたほうが目を丸くしている。
 周りのことが全く目に入らず、手にも付かなくなるほど気まずかったわけだ。
ゼラール軍団最強の戦士は、耳の先まで紅潮させて項垂れていた。

「何だよ、もう尻に敷かれているのか?」
「そう言うわけじゃねぇ……」
「一緒にルナゲイトに来てるなら紹介しろよ。友人の奥さんだ。ちゃんと挨拶しておかなくては」
「い、今は外に出張ってらぁっ!」

 羞恥を紛らわせようと髪の毛を掻き毟るトルーポを楽しげに眺めつつ、ボルシュグラーブは枡を傾けた。
 嘗て机を並べた学舎でも三人は同じようなやり取りに興じていたのだろう。
言葉遊びは一瞬たりとも詰まることがなく、何を話せば相手がどのような反応を示すのか、
互いに知り尽くしているようにも思えた。
 口では悪態を吐いているものの、知り合った当時から少しも変わらないゼラールとトルーポに、
ボルシュグラーブは懐かしげに目を細めている。
 アネクメーネの若枝としての矜持も旧友の温もりには克てなかったらしい。

「お前たちとこんなところで再会するとは思ってもみなかったよ。
テムグ・テングリ群狼領に属していると知ったときには、いざとなった自分の手で――って覚悟まで決めたんだぜ」
「それは余も同様ぞ。脳味噌まで筋肉で出来ておることは知っておったが、
よもや武装組織の若き精鋭(エース)とはな。現世(うつしよ)とは、斯くも驚くことばかりよな。
であるからして面白いのじゃ」
「すぐにエルンスト・ドルジ・パラッシュのもとで働き始めたのか?」
「暫し旅をしておったのよ。覇道を歩むからには、己が欲するエンディニオンを
この眼で見、この耳で聴き、この身にて感じねばならんからの。
覇者たる者、治むるべき全てを知っておく義務があるのじゃ」

 アカデミーで別れてからテムグ・テングリ群狼領へ至るまでの道程をゼラールより聞かされたボルシュグラーブは、
「旅かぁ、いいなぁ」と、心の底から羨ましそうに呟いた。
 旧友が歩んだ旅路を頭の中で空想している様子だ。

「さぞ楽しかったんだろうな。……俺はすぐにギルガメシュに入隊したからなぁ」

 ゼラールの話を聴くに付けて、ふと自分の歩んできた道程に微かな感傷が差し込んだのだろう。
ボルシュグラーブの口から深い溜め息が滑り落ちた。
 さりとて、自分の歩みを後悔しているわけでも、ゼラールの歩みに嫉妬しているわけでもない。
そこに込められているのは、例えようのない複雑な感情であった。
 あるいは、世界の有様(ありよう)を自由に見聞出来る『旅』と言うものへ羨望を寄せているのかも知れない。
心の奥底より湧き起こった感傷の正体は、ボルシュグラーブ自身も見極めてはいない様子だ。

「そちも一度は経験しておけ。旅とは真に得難き財産ぞ。狭き世界におっては、求めても手に入らぬものばかりじゃ」
「お前の口からそんな優しい言葉が出てくるとは思わなかったぜ。旅をする内にちょっとは丸くなったのかな」
「その最中にエルンスト・ドルジ・パラッシュの名声を聞いてな。面白きことが出来ると思うて遊んでやったのよ。
何しろ、余を敵に回すは世界を敵に回すのと同等。憐れみを施してやったようなものじゃ」
「――そうそう、お前はそう言う偉そうなのが一番似合ってるよ。人としてどうかとは思うけどな!」

 「つまらぬ気鬱は酒で洗い流せ」とばかりに、ゼラールはボルシュグラーブの枡に醸造酒を注いだ。

 トルーポたちの相撲を観覧し、檜の枡を傾けながらもふたりの会話は途切れることなく進んでいる。
 肴には豚の塊肉をカレー風味のタレで煮込んだ物が出されたのだが、ボルシュグラーブはこの料理を大いに気に入り、
「こんな美味いものが世の中にあったのかよ!」と唸りながら堪能していた。
 発汗を伴う程には酔ってはいない筈なのだが、彼は軍服のボタンを外し、胸元を大きく肌蹴させていた。
 アネクメーネの若枝として将士の規範たらんと努めているこの男にしては珍しい風体だ。
口調もだいぶ砕けたものに変わっている。
 カレドヴールフや同胞たちの前で見せる凛々しさとは正反対と言えるだろう。
程よく脱力した面持ちからも緊張を解いていることが窺えた。
 ゼラールもゼラールで、普段より酒を飲み干す間隔が早い。
 旧友との再会と、嘗て結んだ友情が今なお健在であると確かめたことで、ふたりとも気分が昂揚しているのだ。
 土俵の上ではトルーポが次なる挑戦者を迎えていた。
 その相手とは、何とピナフォアである。トレーニングウェアの上から廻を締め、トルーポと力闘を演じている。
 両者の体格差は余りにも大きいのだが、彼女は少しも負けていない。
相手の眼前で手拍子して怯ませる猫騙しに、細身を生かして跳ねる八艘飛びと、
技巧を凝らしてトルーポを翻弄していった。
 テムグ・テングリ群狼領でも伝統相撲が盛んであり、将士の鍛錬に取り入れられていた。
当然、ピナフォアも幼少の頃から件の格技に親しんでいる。相撲に関しては一日の長があるわけだ。
 種々様々な技巧によってトルーポを土俵際に追い込んだピナフォアは、
やりにくそうにしている彼の足を払い、見事に勝ち星を挙げた。

「……あいつは――アルはどうしてるのかな……」
「ほう……?」

 柔よく剛を制し、仲間たちから喝采を浴びるピナフォアを見つめながら、
ボルシュグラーブは場にそぐわないことをぽつりと呟いた。
 視線ではトルーポとピナフォアの力闘を追っていたが、
心の中に於いてはゼラールと話す間に染み出した葛藤を持て余し、静かに思い悩んでいたようだ。
 物憂げに枡酒を呷るボルシュグラーブを目端に捉えたゼラールは、その眼を怪訝そうに細めている。
 「どうしている」も何も、アルフレッドは反ギルガメシュ連合軍の中核を為し、
現在も地に伏せて粛々と工作をこなしているではないか。
 反ギルガメシュ連合軍の間で取り交わされた密約と、この上に張り巡らされた史上最大の作戦を、
ゼラールは一度たりとも口にしてはいない。彼はテムグ・テングリ群狼領から送り込まれた間諜(スパイ)なのだ。
胸中の野望はともかく、カレドヴールフへの密告など以ての外である。
 史上最大の作戦を明かしていないとは言え、アルフレッドの拠点をギルガメシュが把握していないことは
ゼラールには信じられなかった。
 スコットの話によれば、『敵の参謀』として末端の兵士にまでアルフレッドの顔写真が出回っているのだ。

「あいつの故郷を焼き討ちにしたって訊いたときは心臓が凍り付く思いだったよ。
……カレドヴールフ様に伺ってもグリーニャのことは何も話してはくださらないし……」
「……銀髪の死傷者はおらなんだのか?」
「判らないんだ。若い青年が一人殺されたらしいが、アルじゃないことを祈るしかないよ」
「随分と曖昧な言い方よな。完全に事後報告であったのか?」
「あぁ、そうか――お前は焼き討ちの後に入隊したんだもんな。
……あれは俺たちの与り知らないところで決まった作戦だったんだ。
俺たちに回ってきた報告は、攻撃の結果と推定死傷者の数だけ。
焼き討ちの目的は極秘扱いでな。アネクメーネの若枝にさえ報(しら)されていないんだ」

 苦々しげに漏らすボルシュグラーブの様子に、ゼラールは何事か閃くものがあったらしい。
胸の内に湧いたものを気取られぬよう、肴を頬張る旧友から視線を外した。

「カレドヴールフ様の独断であったのか」
「カレドヴールフ様の一存だよ」

 カレドヴールフの「一存」とは雖も、グリーニャ焼き討ちについてはボルシュグラーブも得心が行かないようだ。
上官に配慮して抑え目の表現に言い換えたものの、声色は明らかに重苦しい。

「何かあいつから連絡とかないか? 生きていることだけでも確認したいんだけど……」
「無茶を言うわ、こやつめ――あやつの故郷が滅ぼされたこととて、今、初めて知ったばかりじゃ」
「そっか……お前とあいつは特に仲が良かったからさ、連絡が行ってるかと思ったんだよ。
でも、そうだよな……焼き討ちがあった頃、お前はエルンストのもとにいたんだから、
小さな農村に気ィ回してもいられないか」
「左様。ギルガメシュと一戦交えるか否かの瀬戸際であったわ。
あの頃、テムグ・テングリ群狼領は他の勢力を吸収しておる最中であったゆえ、
誰も彼もがきりきり舞いであったのよ。……佐志とか言う漁村の武装船団まで合戦に乗り気でな。
奴らの取り込みには余も骨を折ったわ」
「うちの軍艦を沈めたって連中か――仕方ないこととは言っても、やっぱり現実突きつけられるとキツいな。
漁村の人間にまで恨まれてるのかってさ……」
「佐志如き小さな漁村、捨て置けばよい。――そう、佐志などはな」

 湿っぽい溜め息を吐くボルシュグラーブに対して、ゼラールは先程とは違った意味合いで目を細めている。
 隣のボルシュグラーブは感付いていないが、ゼラールの眼差しには、いつしか不気味な光が宿っていた。
心中にて何らかの企みを練っている証左である。
 旧友の無事を祈るように瞑目したボルシュグラーブは、アルフレッドの生存を本当に知らない様子だ。
 無論、彼が佐志を拠点にしていることも掴んでいないと見える。
 佐志は早い段階から海運の要衝として注目されており、ギルガメシュも一度は制圧の兵を派遣していた。
 件の出兵はゼラールも既知しており、それだけに不可解で仕方がない。
アルフレッドは自ら陣頭に立って村民を組織し、ギルガメシュに応戦したと言う。
「空城計(くうじょうのけい)」と呼ばれる古来(いにしえ)の陽動作戦軍略を以ってして
侵略者を蹴散らしたとも聞いていた。
 アネクメーネの若枝は何の報告も受けなかったのだろうか。
アルバトロス・カンパニーの裏切りに遭い、アルフレッドは捕虜まで逃がしてしまったのだ。
逃げ戻った兵士たちが戦闘を指揮した謀将のことを報せなかったとは思えない。
 海運の要衝と目された場所での敗北だけに、善後策を練る上でも戦闘の経過を確認することは
極めて重大な意味を持つ筈である。
 それとも、小さな漁港での敗北など瑣末なことと見なして、上官たちはまともに取り合わなかったのだろうか。
 もうひとつ、ゼラールには解せないことがあった。
 アルフレッドとゼラールは、それこそ目立つ程に幾度も連合軍の陣中で接触していた。
ハンガイ・オルスでは激論まで交わしたのだ――が、
衆目に晒された邂逅すらボルシュグラーブの耳には入っていなかった。
 何しろ、連合軍最大の軍議で論陣を張った男なのだ。警戒していないほうがおかしい。
 敵陣に間諜(スパイ)を放つのは、戦時における常套手段である筈なのだが、
ギルガメシュはそう言った搦め手を疎かにしているようである。優れた諜報部隊を抱えているにも関わらず、だ。
 疎かなどと言う生半可な水準ではない。ウィルス対策を施さないまま、
インターネットの世界に繰り出すようなものである。
 この調子では機密情報の守秘すら脆弱であるに違いない。
手馴れた者であれば、軍機さえ容易く外部に運び出せることだろう。
 何よりもゼラールを驚かせた――もとい、呆れさせたのは、支離滅裂としか言いようのない命令系統だ。
熱砂の合戦における手並みなどを見る限り、戦闘に於ける指揮は鮮やかなものだった。
 アゾットの計略が見事と言うこともあるだろうが、彼の智謀が最大限に発揮されたのは、
グラムやボルシュグラーブが指揮官として優秀であればこそである。
 しかし、組織全体の統率は考えていた以上に緩い。
 末端の兵士が危険視しているアルフレッドの存在を、今もって幹部は把握していなかった。
部署ごとの意思の疎通すらまともに機能していないと思わざるを得ないのだ。
 ベイカーのような暴走が起こったのは、ある意味では必然と言えた。
 いくら首魁とは雖も、幹部らの了承も得ずに独断で戦闘を行い、形だけの事後報告で済ませているようでは、
組織として破綻していると嘲られても文句は言えまい。
 末端の動向を完全に管理することは難しかろうが、
せめて、部隊を直轄する士官とは情報を緊密に交換しておくべきであり、それが組織の運営と言うものである。

「我が友、ボルシュグラ――」

 ゼラールがボルシュグラーブに声を掛けようとしたそのとき、彼の胸元から無機質な電子音が鳴り響いた。
 行進曲『威風堂々』第一番のオーケストラ演奏を着信音として設定しているゼラールと異なり、
ボルシュグラーブは初期設定から変えていないらしい。
 耳障りな電子音を鳴らすモバイルを胸ポケットから取り出したボルシュグラーブは、
液晶画面に表示された内容に小さく溜め息を吐いた。
 通話をせずに用が足りたと言うことは、電子メールによる連絡であったらしい。
彼は返信もしないまま、モバイルを胸ポケットに仕舞い込んだ。

「――すまない、ゼラール。折角、誘って貰ったのにお暇(いとま)しなくちゃならなくなっちまった。
……呼び出しだよ、それもカレドヴールフ様直々だ」

 枡に残っていた酒を一気に飲み干したボルシュグラーブは、申し訳なさそうにゼラールへ頭を垂れた。

「急なこともあったものよ。今日が非番と訊いておった故に酒宴を張ったのだがな」
「俺もそのつもりでいたんだが――どうも非常召集みたいだ。……それも内密の、な」
「内密――とな」

 聞き出そうと思えば、内密の任務とてゼラールは知り得たに違いない。
しかし、彼は過剰に詮索をすることを控え、「有難く思え。近い内にまた招いてくれようぞ」とだけ言って
ボルシュグラーブを送り出した。
 脇へ除けておいた軍刀を帯び、肌蹴ていた軍服を正したボルシュグラーブは、
すぐさま『バルムンク』へと立ち戻り、如何にも軍人らしい様でゼラールに敬礼すると、
「……今更、取り繕っても締まらないかな」と照れ臭そうに笑った。

 土俵場のトルーポにも声を掛け、「今度は自分が招待する」と約束して去っていった友の背中を見送りながら、
ゼラールもまた枡酒を呷った。
 主賓が帰ってまで酒宴を続けても意味はない。これにて御披楽喜(おひらき)と言う合図である。
 ハンドタオルにて汗を拭いつつ土俵場を降りてきたトルーポは、見送りに間に合わなかったことを悔やみながらも、
ゼラールに「どうしますか、ボルシュは?」と旧友のことを訊ねた。

「……思えばあれもまた哀れな男よ。愚直が過ぎる故に美徳を通り越して身を滅ぼすのじゃ。
あれは律義者、かように腐り果てた組織と心中するのも厭わぬであろうよ」
「個人的なことを言わせて貰えるなら惜しいと思いますよ。あいつは好い男だ。
こんなチンケなトコで終わらせちまうのは勿体ない」
「狭き世界に留まり続けている己を愧(は)じてもおる。そちが申した通り、少しは使えるようになったもの――」

 ゼラールの声は旧友への憐憫を孕んでいる。
 依然として深紅の瞳は煌々と輝いているものの、策士めいた不気味な光は消え失せており、
嘗て暴走するアルフレッドを諌めた折と同じ優しげな彩(いろ)を宿している。

「――余の慈悲にて救ってやらねばなるまい。……我が友、ボルシュグラーブ・ナイガードよ」

 ボルシュグラーブの愛馬、フィドリングブルの機械音声(いななき)がどこからともなく聴こえてくる。
 友からの別れの挨拶であろう鳴き声を鼓膜に――心に受け止めながら、
ゼラールは掌中にて生み出した火の鳥を高空へと放つ。
 フィドリングブルへ伴走するかのようにしてルナゲイトの町並みを駆け抜けるその朱鳥は、
純粋な闘志を秘めたまま任務へ赴かんとする友への餞に他ならない。

「おっと? 堅物サン、随分と早いお帰りのようですね。ミソが付かなくて、丁度、良いや」

 ゼラールのもとにスコットがやって来たのは、ボルシュグラーブが去って間もなくのことであった。
 例によって例の如く、彼は相撲にも付き合わず洋館の中に引き篭もっていたのだが、
どうやら、その間に急を要する事案が起きたらしい。

「先程からお客サンがお待ちですよ」
「客とな? さて……」

 スコットの報告にゼラールは小首を傾げ、同じく怪訝そうにしているトルーポと顔を見合わせた。
ボルシュグラーブ以外に人を招いた憶えなどなかったのである。





 洋館の大広間は、君主が特使や賓客を迎える謁見の部屋の如き趣であった。
 天井のシャンデリアなど溜め息が出るほど華美。式典で用いるのか、室内には据え置き式の燭台も散見される。
長い柄(ポール)に支えられたガラスの器へと油を注ぎ、火を灯す仕掛けだ。
 器の表面には瑠璃色の塗料で星屑の海が再現されている。
明るい部屋で鑑賞するのは勿論のこと、闇夜にて火を灯せば、壮麗な影絵を映し出すことだろう。
 入り口から壁際まで一直線に深紅の絨毯が敷かれており、
これが行き着く最奥には玉座の如く立派な椅子が設えられている。
 驚くべきことに黄金の玉座である。燃え盛る日輪のステンドグラスを背にした件の椅子は、
烈火の揺らめきを模った象嵌が各所に施してあり、ゼラールの為だけに誂えられた玉座であることを示していた。
 ステンドグラスの正面には、玉座を挟む形でふたつの品が飾られている。
左方にはテムグ・テングリ群狼領の革鎧が、右方には『天上天下唯我独尊』と大書された軍旗が、
それぞれ配置されているのだ。
 黒革(ブラックレザー)の具足一揃いは、馬軍へ加わった折にエルンストより直々に授かった品である。
実際に着用する機会こそなかったものの、収納に用いる鎧櫃(よろいびつ)と共に保管されていたのだ。
黒く塗装の施された木製の鎧櫃には、狼の紋様が彫り込まれている。
 玉座と向かい合う形で置かれた椅子も金色(こんじき)に輝き、そればかりか、無数の碧玉まで鏤められている。
賓客を迎える為、玉座にも見劣りしない逸品を選んだわけだ。
 これらはテムグ・テングリ群狼領を離れる際に運んできたものであった。
黒革の具足一揃いと鎧櫃が最たる例であろう。
 どのような意味を持たせてあるのは定かではないが、あろうことか、カレドヴールフより授かった軍刀を
馬軍の具足の正面に飾っている。
 太刀を掛けておく台には二本の羊角が使われている。大きく螺旋を描いた角の内側へと刀身を通し、
安置しておく構造(つくり)だが、土台の部分は古木であり、そこにはやはり狼の彫刻が見られた。
即ち、この台もテムグ・テングリ群狼領にて常用される品と言うことだ。
 ギルガメシュに属する人間の神経を逆撫でするような行為であったが、
玉座の向かい側に座した客人は眉を顰めることもなく、瞑目のまま、ただ端然と洋館の主を待っていた。
 程なくして開扉の音が大広間に響き、次いで数名分の足音が鳴り渡った。
 洋館の主――ゼラールが到着したのである。
 スコットひとりを従えて絨毯を進んだゼラールは、玉座に腰掛けて客人の正体を確かめた瞬間、
満面を喜色で染め上げた。

「そちの風聞(はなし)は兼ねてより聞いておった。一度、酒宴に招きたいと思うておったのじゃ。
何しろ、『ギルガメシュにその人あり』とまで畏れられた傑物であるからの」
「恐悦至極――勇名を馳せるダインスレフ殿にそう言われては、何とも面映いですな」
「仰々しいコードネームなど不要じゃ。ゼラール・カザンと呼ぶが良いぞ、ムラマサよ。
それとも、互いに本名で呼び合うが望みかな? 余も其れが好ましい」
「これはまた恐縮……」

 玉座の脇に控えるスコットは、「だから、さっき伝えたじゃねぇか」と心中にて呟いたが、
彼の皮肉っぽい表情(かお)など深紅の瞳には一瞬たりとも映らない。
 突然の来訪者とはムラマサであった。ゼドーのもとを辞してすぐに洋館を訪ねたのだろうが、
今はギルガメシュの軍服に着替えており、その上に鉄色のレインコートを羽織っている。
 ゼラールの頬に酔いの色を見て取るや、ムラマサは「お楽しみを邪魔したようですな」と頭を下げた。
無論、ゼラール当人は些かも気にしていない。それどころか、隻眼の老将の来訪を心から歓迎している。

「――で? 一体、何の御用向きですかね。ルナゲイトまで降りてこられるとは尋常じゃあない」

 そう尋ねたのはゼラールの声ではない。後方より軍靴を打ち鳴らしてやって来た男の物である。
 声の主はトルーポであった。来客の報せを土俵の上で聞いた為、着替えに手間取って余計な時間を費やしてしまい、
遅れて大広間に駆け付けたのだ。
 彼に後続するピナフォアも同様であった。当人にとっては悔やんでも悔やみきれない遅刻であるが、
むしろ、短時間で黒革の甲冑まで身に着けたことを誉めるべきであろう。
 トルーポの物言いには棘があり、重低な声色まで含めて質問と言うよりも詰問に近い。
喜色満面の「閣下」とは異なり、ムラマサの来訪を不審に思ったようだ。
 ピナフォアと共に玉座の両脇へと屹立したトルーポは、如何にも険しい面持ちで隻眼の老将を見据えている。
 やや遅れて到着した側近に気を遣ったのか、スコットは玉座から少しだけ離れていった。
その間に「こりゃまた失業かねェ。貰った小遣いで食い繋がにゃあ」などと不穏当な算段を立てている。
ムラマサの逆鱗に触れたら、ゼラール軍団にギルガメシュでの居場所がなくなると考えているわけだ。

「控えよ、トルーポ。稀代の名軍師殿が訪ねて参ったのじゃ。教えを乞うにしても言い方があろう」
「はぁ……」
「名軍師などと煽てられても、こんな老い耄れは何も出せませんぞ。
……いや、何か手土産でも持ってくれば良かったですな。間抜けな爺で申し訳ない」

 警戒心を露にするトルーポをゼラールが「無礼をするでない」と窘めた。
 これに対し、トルーポの反対側――左脇に立つピナフォアは目を見開いて驚いている。
天地に存在する誰よりも優れている「閣下」が相手のことを立てたのだ。
今までゼラールの傍近くに仕えてきた彼女も、このような事態に遭遇するのは初めてだった。
 一方、窘められた側のトルーポは苦笑するばかりである。

(やれやれ……アルみたいなヤツは要らないって仰ったのになァ)

 ギルガメシュ内部の突き崩しを謀るに当たって、ゼラールは「アルフレッドのような者」は不要としたのだが、
その条件にムラマサほど当てはまる人間もいなかった。
 ゼラールに「稀代の名軍師」とまで称されたムラマサは、その異名の通りに並々ならない知恵者である。
カレドヴールフに命じられるよりも早く、独自にゼラール軍団のことを嗅ぎ回っていたのだ。
 現役こそ退いているものの、彼はアゾットの前にギルガメシュの軍師を務めていた男。
そのような人間に身辺を調査されるなど、これほど恐ろしいことはあるまい。
 兼ねてよりの風聞(はなし)≠――ムラマサの経歴をゼラールに報告したバスカヴィル・キッドは、
自分たちが狙われている事実も併せて注進している。
 このことは、「閣下」のみならず軍団全員が承知していた。
事前にムラマサの恐ろしさを教わっていたからこそ、スコットも咄嗟に逃げる算段を練ったのだ。
 ところが、だ。ゼラール当人はムラマサのことを大変に気に入ってしまった。
 危険も顧みずに軍団へ探りを入れてきた胆力を痛快と笑い、
そればかりか、ムラマサの事績≠ヘ尊敬に値するとまで激賞したのである。
 ゼラールが他者に敬意を表すことは珍しいが、さりとて前例が存在しないわけではない。
実際に口に出すことはなかったものの、旧主たるエルンストも確かに敬っていたのだ。
 それ故にトルーポは気を引き締めなくてはならなかった。
 今でこそ好々爺を気取っているものの、頭から頬にかけて走る大きな戦傷(きずあと)は、
ムラマサが歩んできた壮烈な道を如実に物語っている。
そこに「稀代の名軍師」としての凄みが顕れているようにも見える。
 「閣下」から窘められようとも、ムラマサが油断のならない相手と言うことに変わりはないのだ。
内部の切り崩しを謀るつもりが、逆に取り込まれてはならなかった。

「ダインスレフ殿を訪ねた理由でしたな――」

 隻眼で以ってトルーポを見つめ返したムラマサは、次いでゼラールへと目を転じ、
「何のことはない、ほんのご挨拶」と詰問の答えを述べつつ自身の顎髭を撫でた。

「いずれ内示か、あるいは正式な辞令が出されるでしょうが、この度、ダインスレフ殿の隊に配属となりましてな。
それに先立ってご挨拶を……と。何しろ我々は互いのことを何も知らんでしょう? 
余所者≠ェ我が物顔で上がり込めば、御一同も心穏やかではおられますまいて」
「根回し、か。手際が良いこった」
「如何にも。それが大人≠ニ言うものですからな」
「ギルガメシュから俺たちに預けられた兵を指揮する――それがあんたの任務かな?」
「詳しい話を聞かされておらんので即答は出来兼ねるが、おそらくはそうなるでしょうな。
ギルガメシュの用兵はギルガメシュが一番よく知っている――とは申せ、
一旦引退したロートルまで引っ張り出さんで欲しいものですがな。人手不足を理由に無茶なことを言われては適わん」

 ゼラール軍団への配属を口にしたムラマサに対し、ピナフォアは「あんたがぁ!?」と大口を開けて驚き、
トルーポは「成る程な」と静かに呟き、次いで双眸を細めた。
 彼が口にした「成る程」とは、「いよいよ監視を付けてきたか」と言う意味である。
 隻眼の老将がゼラール軍団の行状を上申し、これによって警戒の目が強められたのか――
この場に於いて内実を質すことは出来ないが、今後はムラマサの個人的な調査ではなく、
ギルガメシュ本隊の意思に基づく監視へと切り替わるわけだ。

「……大ベテランが加わってくれるのなら、こっちも大助かりだけどな。
俺たちゃ右も左も判らない新参者だ。余計なこと≠ノも気ィ遣っちまうんでよ」
「何なりと相談して頂きたい。気を張らずに呑める酒場≠ナも何でも、
自分に分かることなら全てお教えしましょう。周りに気を配ってばかり≠ナは疲れるでしょうからな」
「頼もしい限りだぜ」

 ゼラールがバスカヴィル・キッドを通じてギルガメシュ切り崩しの機会を探っていることも、
自身の調査が見破られていることも、ムラマサは全て承知している。
 それでも隻眼に動揺を宿すことはない。トルーポから向けられる猜疑の眼光に対し、
好々爺然とした微笑を返すばかりであった。
 ムラマサとトルーポの話に耳を傾けるゼラールだったが、一区切りつくまで待ち切れず、
両者の間へ割り込むようにして「祝着至極」と高笑いを上げた。
 酒が入っている所為か、普段よりも甲高い笑い声である。
 軍団の周辺を嗅ぎ回り、またギルガメシュ本隊から監視として送り込まれると言うムラマサに対して、
ゼラールは好意以外の感情を微塵も持ち合わせていない。隻眼の奥底に潜む影≠気にも留めなかった。
 それもまた覇者の大器と言うものであろうが、さすがのトルーポも今度ばかりは弱ってしまった。

「あんた、『稀代の名軍師』なんでしょう? つまらない裏話なんか面白くも何ともないわ。
どうせなら、閣下の威信を高める策でも立てて貰おうかしら」

 トルーポと入れ替わるようにしてムラマサを睨み据えたピナフォアは、何の脈絡もなく彼に献策を求めた。
ギルガメシュではなくゼラールの武名を世に広める手立てを、だ。
 無論、これは挑発である。抜き打ちで献策を命じたのは、言わば新入りへの洗礼≠フようなものだった。
 闊達なピナフォアのこと、ゼラールの前でムラマサを貶めようとする卑劣な作意ではない。
ただ単純に好々爺を困らせてやろうと言うのだ。些か幼稚な悪戯である。

「ピナフォア、お前、何を言って……」
「トルーポは黙ってなって。アレよ、手土産代わりってヤツよ」
「しかしだな、こちらさん、辞令を持ってきたわけじゃないんだぜ?」
「いやいや、お嬢さんの言うことにも理はありますぞ。辞令が下されるには相応の時間が掛かりましょう。
それでは、いざ動かんとしたときに必ずや遅れが生じます。
そして、その僅かな遅れが綻びとなり、大局にて躓く場合もある。ならば、この場にて道筋を立てるのも一興。
古の軍略に曰く――凡そ先ず戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いつ)し、後に戦地に趨(おもむ)く者は労す。
故に善く戦う者は、人を致して人に致されず。……何時如何なるときにも最善を求めるのは将士の心得と言うもの」

 ピナフォアの思惑とは裏腹に、ムラマサは急な要請にも全く動じなかった。
「その程度のことで良いのか」とでも言わんばかりに肩を揺らしている。
 一番の関心事とばかりに身を乗り出し、双眸を輝かせるゼラールへと一礼し、
ムラマサは「疾風(はやて)の如く石≠打つならば――」と静かに語り始めた。

「――ダインスレフ殿の号令のもと、『プール』と『緬』を討伐するべきかと存じます」
「ぷーる? めん? ……何よ、それ」

 聞き覚えのない単語(ことば)にピナフォアは眉を顰めた。
 言わずもがな、プールも緬もBのエンディニオンの土地を蚕食する悪徳の国家だ――が、
いずれの国名(な)もゼラール軍団には届いていなかったようだ。
 当然ながら、両国が戦争状態にあることも知り得ない。そのことを見て取ったムラマサは、
ゼラールたちに緬とプールのあらましを説き聞かせていった。
 Aのエンディニオンの国家間戦争が、Bのエンディニオンを巻き込んで展開されている事実に、
トルーポは「そう来たか……」と顔を顰めた。
 ピナフォアの狼狽は特に激しい。プールに至っては、テムグ・テングリ群狼領の土地を
食い荒らしていると言うではないか。
 訣別こそ果たしたものの、生来、血と言う絆で繋がった一族である。
テムグ・テングリ群狼領の苦境を他人事と割り切っては考えられなかった。
現在(いま)も多くの身内が馬軍として戦い続けているのだ。
 両国が相争っていることを一般常識――この場合はAのエンディニオンの常識と言うことになる――として
知っていたスコットは、「そんなに驚くことかねぇ。こんなこと、ガキでも予想出来るぜ」などと首を竦めている。
どうやら、Bのエンディニオンで生まれ育った人々の衝撃など微塵も解らないらしい。

「俺たちの情報網に穴があるってコトは認めようさ。情けねぇ話だが、プールも緬も、今、初めて名前を聴いたぜ」

 トルーポは自身の落ち度を悔やんでいる。バスカヴィル・キッドと言う最強の耳目≠ェ在ると言うのに、
その力を生かせなかったことは、軍団員を統括する立場として痛恨の極みなのだ。
 「閣下」に最新且つ正確な情勢を献上¥o来なかったのは勿論のこと、
バスカヴィル・キッドやゾリャー魁盗団にも申し訳が立たないと、トルーポは歯噛みしている。

「致し方ありますまい。御一同はギルガメシュ入隊以来、この地を殆ど離れてはおりません。
そもそも、御一同から見れば、プールと緬は異世界の者ですからな。目に入らんのもまた必定」
「遠征にだって出掛けてたんだぜ。俺たちがワーズワースへ出向いたこと、知らねぇとは言わさないぜ」
「無論。御一同のお働きでギルガメシュの失墜は持ち直しましたな」
「外に出る機会があったって言うのに、そんな大事な情報を見逃したのが問題なんだよ。あっちゃいけねぇことだ」
「プールや緬がこちら側≠ナ侵略(わるさ)し始めたのは、ワーズワースで暴動が起きる前後のこと。
活発になったのだってここ半月だ。今でも大きく取り沙汰されてはいない筈ですぞ」

 事実、ギルガメシュの上層部にAのエンディニオンの国家間戦争へ関与しようとする気配は全く見られない。
おそらくはBのエンディニオンに飛び火したことも掴んではいないだろう。
 Bのエンディニオンに暮らす大多数の人間は、緬とプールのことなど悪質なギャング団程度にしか
見做していない筈である。それ故にマスメディアで報道されることもないのだ。
 即ち、ゼラール軍団に情報が入らなくとも当然と言うわけである――が、
ムラマサの慰撫にもトルーポは首を横に振り続けた。

「言い訳にはならねぇさ。今じゃインターネットだって使える。検索すりゃ秘密のニュースも一発だ。
……ネットって言えば、ベテルギウス・ドットコムのふたりに外≠フ様子を聴くことだって出来たんだ。
やって当たり前のことを怠った俺のミスだよ」
「……随分とご自分に厳しいのですな」
「失敗は徹底的に反省しねぇと気が済まないんだよ。図体ばっかりデカい小心者なんでね」

 切り崩しに向けたギルガメシュの内部調査にばかり気を取られていたのが仇となった次第である。
広く情報を得ようと努めてきたつもりなのだが、我知らず意識が内≠ノ篭っていたようだ。
 トルーポの反省は留まるところを知らず、譴責されたわけでもないのに
「面目次第もありません」とゼラールに陳謝する始末であった。
 テムグ・テングリ群狼領からギルガメシュに移って以来、身動きが取り難くなったのは確かだ。
ペガンティン・ラウトの海賊船もコールタンの許可を得て運用しているが、
航路や目的まで厳正に管理されてしまい、気軽に船を出すことさえ難しくなっていた。
 つまり、ゼラール軍団はルナゲイトから離れることを制限されたわけだ。
原則的に上層部の命令なくして遠征は出来ない。ルナゲイト乃至はブクブ・カキシュにて待機するよう定められていた。
 外≠フ情勢に疎くなるのも無理からぬ話であろう。
 尤も、この規制はゼラール軍団に限定されたものではなく、
ブクブ・カキシュ内に詰め所が新設された『エトランジェ(外人部隊)』にも当てはまることだった。

「……で、どうしようってんだ? ご覧の通り、今の俺たちゃ世間知らずも良いトコだ。
檻ン中に閉じ込められたままで、どうやって外≠ノ陣取った連中を始末出来る? 
それらしい理由でも作って、出撃命令を無理矢理引っ張り出すのか?」

 乗組員(クルー)と偽って数名の軍団員を海賊船に同行させ、
その上で相手方から攻め寄せてくるよう仕向けて返り討ちにする――ひとつの策を思い浮かべるトルーポだったが、
すぐさまに自身の浅慮を悟って打ち消した。
 ムラマサの話を信用するならば、緬もプールも小勢で戦えるような規模ではなさそうである。
Bのエンディニオンに於いてどれだけの兵力を掻き集めたかは知れないが、
本領の大きさはヴィクドにも匹敵するようだ。「それが『国家』と言うものなのか」とトルーポは己の心に刻み込んだ。
 上手く取り計らって貰えるようコールタンに頼み込むことも考えたが、いくら彼女がアネクメーネの若枝とは雖も、
ゼラール軍団全軍をルナゲイトから動かすことは難しかろう。
 ワーズワースへの遠征は、『難民』と言う大目的に合致したからこそ実現したものである。
 ところが、ムラマサの用意していた答えは余りにも意外なものだった。
意外と言うよりも意味合いとしては慮外に近く、トルーポを唖然とさせてしまった。

「御一同で攻める必要はありません。攻め取る手立ては既に外≠ノございます」
「……どこに? 何人かは外≠ノ出張っちゃいるが、如何せん、そいつらは海の上だ。
陸(おか)に上げて合戦をさせるにしても、ちっとばかり荷が重いぜ?」
「いや――ここはカザンの本家にご出馬頂いては如何でしょうか?」
「あんた、何を――」

 「外≠フことも少し調べましてな」と、ゼラールの身辺調査を行なった旨を遠回しに明かしたトルーポは、
彼の本家――即ち、カザン家に出兵を催促する策を打ち出した。

「聴くところによると、カザン家は軍人の名門とか。先祖代々に亘って領地にて私兵を養い、鍛え、
堅固な砦をも構えているとも伺いました。今はダインスレフ殿の姉君が御本家を守っておられるのでしたな。
緬、そして、プールを平らげるには、まさしく打ってつけかと存じます」
「そう言うことじゃねぇんだよ! 閣下と御本家は――」

 ゼラールの本家=\―カザン家を巻き込もうとするムラマサに対して、トルーポは怒号を張り上げた。
 激烈としか言いようのない反応から察するに、軍団員にとって絶対に踏み込んではならない領域だ――
そのように老いた隻眼は捉えている。

「――続けよ」

 今にも殴りかかりそうな勢いのトルーポを片手で以って制したゼラールは、次いでムラマサに続きを話すよう促した。
 彼の面には憤怒など少しも滲んではいない。むしろ、好奇の色が一等強くなったようにムラマサには感じられた。
機嫌を損ねるとばかり予想していただけに、さしもの老将もこの反応には驚かされたが、
さりとて話を止める理由もない。求めに応じて策を披露し続けた。

「御本家に然るべき使者を立て、姉君に討伐の兵を挙げて頂きます。
プールにとっても緬にとっても、カザン家は未知の敵と言っても過言ではありますまい。
奴らはテムグ・テングリ群狼領、あるいは我らギルガメシュには注意を払っているやも知れません。
その意識の隙を衝き、姉君の軍勢で食い破って頂くのです。浮き足立った者などは敵ではありません。
片方を平らげた後、すぐさま馬首を返してもう片方を潰す――これに勝る伏兵はありますまい」
「『未知の敵』の正体が割れるより早く動き、攻め抜くと申すのじゃな」
「我らは異世界同士。互いに知らぬことは山ほどありましょう。
しかし、それも時間(とき)の経過と共に解決されるもの。……今しか通じぬ利は、使い切らねば口惜しかろうと」

 来るべき決戦に備える為、プールと緬はBのエンディニオンを侵略しているともムラマサは言い添えた。
 そう言った意味でも、ムラマサが説いた策は「今しか使えない利」を生かしたものである。
敵が力を付ける前に叩くと言う理にも適っていた。

「安寧の妨げともなり得る悪党を姉君がお討ちになれば、カザン家の名声は弥が上にも高まりましょう。
そして、その恩恵はいずれはダインスレフ殿のもとにも巡って参るのです。
御本家の出兵を手引きしたのは、ダインスレフ殿なのですから」
「……そう上手く行くのかしら。あたしには机上の空論にしか聴こえないんだけど」
「いずれにせよ、プールの討伐は急務でございましょう。あれはテムグ・テングリ群狼領を侵す者。
彼の馬軍の威光が地に墜ちれば、御一同も生きた心地がしないのではありませんかな」
「なっ……――」

 計略の実現性を疑問視するピナフォアに返されたムラマサの答えは、
彼女とトルーポの心臓をまとめて凍り付かせるものだった。
 テムグ・テングリ群狼領の威光を保つことは、アルフレッドが立てた『史上最大の作戦』に於いても最重要だ。
決起の日が訪れたときに連合軍の要が零落していては腰砕けも良いところである。
例え、エルンストを主将に戴いたとしても諸将は粗末な馬軍を侮り、
その求心力は衰え、日を経ずして内部崩壊を起こすに違いない。
 それどころか、決起の好機すら巡ってこない可能性もある。永遠に、だ。
 しかし、ギルガメシュの側にはテムグ・テングリ群狼領の威光を守る理由などない。ましてやその必要もない。
墜ちれば墜ちるほど好都合の筈だ。エルンストの築いた権勢が昔日のものと化せば、
新たな「御屋形」として推挙したタバートも操り易くなるだろう。
 それにも関わらず、ムラマサはテムグ・テングリ群狼領を庇おうと言い放ったのである。

「ダインスレフ殿もそれを一番に望んでおられるのでしょう」

 ムラマサの言葉より導き出される答えはただひとつであり、それが為にトルーポとピナフォアは打ちのめされたのだ。

「旧主が落ちぶれる様など愉快なものではありますまい。
新たな頭目を推した手前、ギルガメシュとしてもテムグ・テングリ群狼領を潰すのは得策ではありませんのでな。
馬賊が廃れ、その領内で内乱が起きようものなら、おそらく鎮撫は我らの役目。これほど無駄な労力はありますまいて。
……テムグ・テングリの命脈を保つのは万人の益――と言ったところか」

 わざとらしく言い添えるムラマサだったが、真意が別にあることは明々白々である。
理解に至らず呆けたように口を開け広げているのは、史上最大の作戦の委細を教わっていないスコットのみであった。

(このジジィ……ッ!)

 トルーポの身を震わせるのは、今までの人生で味わったことのない戦慄だ。
 連合軍の何者かに聴取したのか、推論を重ねて名答(こたえ)に至ったのかは定かではないが、
隻眼の老将はアルフレッドが立てた史上最大の作戦を見破っていた。
 それはゼラール軍団にとって――否、Bのエンディニオンにとって致命傷である。
何があっても避けねばならなかった事態に、トルーポたちは直面してしまったのだ。
 尋常ならざる殺気を帯び、ムラマサを睨み据えるトルーポとピナフォアだったが、
玉座のゼラールは面に緊迫の色を滲ませるどころか、今にも爆発しそうな喜色を全身から迸らせていた。
 間もなく上体を反り返らせて笑い出したゼラールには、さしものムラマサも面食らうばかりである。
どう考えても、笑気を噴き出すような状況ではなかろう。
 隻眼に宿った困惑の色さえも愉快で仕方がないのか、ゼラールの笑い声は一等大きくなった。

「ムラマサよ、ひとつ訊ねたい」
「……何なりと」
「そちは米酒は呑(や)らんのか?」




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