9.ゼラールとムラマサ


 トルーポら側近を大広間に残したまま、ムラマサのみを伴って中庭へと移ったゼラールは、
回廊にて行き違った侍女へ酒肴の支度をするよう命じた。
 回廊を渡る間もゼラールは上機嫌だった。窓の外に土俵場が見えようものなら、
「相撲の嗜みはあったかの? 空手を極めたと聴いておるが、土俵には興味が湧かぬか?」と、
弾んだ声で世間話を持ち掛けていたのだ。
 果てしなく突き抜けるほどに陽気である為、追従するムラマサのほうが却って気後れを感じていた。
ほんの数分前、トルーポやピナフォアから全く正反対の激情を叩き付けられたのである。
今頃、大広間に残された者たちは、秘密≠突き止めた男を如何にして始末するか、
陰惨な激論を交わしているに違いない。
 それにも関わらず、トルーポたちの主君たるゼラールは抹殺すべき対象と酒を酌み交わすつもりなのだ。
「自分を油断させる為の罠か」とムラマサのほうから勘繰ってしまう程、「閣下」の面は笑気に満ち満ちていた。
 回廊の窓からでも確認出来たことだが、ボルシュグラーブを迎えた折に相撲へ興じていた者たちも
今は洋館の中へと引き上げており、土俵場には人影ひとつ見当たらない。
辺り一面を静寂が飲み込んでいるだけに立派な屋根がやけに物悲しかった。
 その情景へ賑々しいゼラールが入り込めば、余計に侘しさが際立つことだろう。
しかし、彼は土俵場には足を向けなかった。
 以前に洋館を所有していた者の趣向なのだろうか、中庭の隅には平べったい岩が幾つも転がっており、
ゼラールはそちらへとムラマサを促した。
 土俵場ほどの華やかさには欠けるものの、景(けい)自体は悪くない。
通りに面した川より水を引いてささやかな分流を造り、岩々の間隙を通るようにして窪みに溜まっている。
侘びた風情の池には様々な彩(いろ)の金魚が放してあった。
 陽が傾きつつある今は橙色の光が水面に映り込み、そこに幻想(まぼろし)の花を咲かせていた。
 この池を造らせたのもゼラールである。岩々が生み出す風情に興味を引かれ、
自ら設計図を引いたのだとムラマサに説いていく。これもまた彼にとっては愉快な世間話なのである。
 大仰な振る舞いが目立つゼラールには似つかわしくないとさえ思えてしまう清冽の美であり、
感性の奥深さと多芸に対して、ムラマサは感心するばかりであった。

 岩のひとつに腰を下ろしたゼラールは、後から負い掛けてきた侍女より酒肴を受け取ると、
自身の真隣へと誘ったムラマサにも檜枡を手渡した。
 檜枡も米酒も、ボルシュグラーブを招いた宴の余りである――が、ムラマサが不満を漏らすことはない。
決して好々爺の表情(かお)を崩さず、そもそも不満など抱こう筈もなく、
「恐悦至極」と檜枡を手に取り、恭しくゼラールの酌を受けた。
 肴は塩のみであるが、これはムラマサの所望だった。米を材料とする醸造酒を楽しむとき、
彼は塩を摘んで舌を引き締め、杯を傾けることを好んでいた。
 勧められるがままムラマサの呑み方へ倣ったゼラールは、「面白き呑み方じゃ」と唸ったものである。

「気に入っていただけて何より。惜しむらくは、そう毎日、同じ呑み方が出来ぬことですな。
美味きものほど身体に悪い。……これは早死の主因(もと)にもなりますのでな」
「それを申すならば、そちこそ身体に毒であろう。摂生に努めているようには見えぬぞ。
毎夜毎晩、塩を舐めておるのではなかろうな?」
「どうか、お目溢しを。先の短い老身の、最期の楽しみと言うものですからな、
これを取り上げられたなら、次の日にもポックリと逝ってしまうでしょう」
「フェハハハ――抜かしおったわ、こやつめ」

 ムラマサの酌で枡が満たされる度、ゼラールはこの上なく美味そうに呷る。
一息で飲み干すと、次の酒は一滴一滴を噛み締めるように時間を掛けて味わっていくのだ。
 ゼラールはこの繰り返しを幾度も幾度も続けていた。

「なかなかの酒豪ですな。私が訪ねるまで酒宴を張っておったそうですが、それにしては乱れることもない」
「さしずめ、これは迎え酒じゃ。呑めば呑むほど酒気が飛び、目が覚めてくるやも知れぬぞ? 
何しろ、今日の供(とも)はそちと塩じゃ。脳は蕩けず、燃え滾ろう」
「お戯れまで豪放で――」

 「酒は百薬の長。火照った身に浴びねば、薬効(ききめ)も行き届かぬ」と一際大きく笑いながら、
ゼラールはムラマサの酌を受けた。

「……先程は出過ぎたことを申しました」
「何のことじゃ?」
「名は何と言いましたかな――大柄な彼が言う通り、配属になってもおらん内からペラペラと余計なことを喋り、
ダインスレフ殿に不快な思いをさせたのではないかと……」

 中庭へ移る前から切り出す機会を窺っていたのだろう。ゼラールが酒を呷った瞬間(ところ)を見計らい、
ムラマサは先刻の非礼を詫びた。
 彼が非礼として詫びたのは、即ちトルーポをも激怒させたこと――ゼラールとカザン本家のことである。

「これは異なことを。策を授けるよう申したのはピナフォアじゃ。余もそちの献策を望んだ。
語り足らんと言うことはあろうとも、行き過ぎと言うことはなかろう」
「いやいや、姉君のことでございます。口舌の先走りで片付けるには、余りにも無神経でございました」
「それこそ要らぬ気遣いじゃ。ベアトリーチェとは仲を違えておるわけではない。
偶に手紙(ふみ)を出し、我が常勝を伝えてもおる。……考えても見るが良い。
二〇(はたち)を超えた者が姉に媚びておっては、不名誉な勘繰りも免れまいぞ」

 ベアトリーチェ・カザン――その名はムラマサも調べ上げている。
当主たる弟に成り代わってカザンの家宰を担う女傑であった。
 『エンパイア・オブ・ヒートヘイズ』に勝るとも劣らぬ恐るべきトラウムの持ち主であり、
比類なき武威と、何よりもカザンの血統ならではのカリスマ性を以ってして本家を取り仕切っていると言う。
 ゼラールとは六つばかり歳が離れており、幼くして実母と死別した彼にとっては、
母親代わりとも言うべき存在であった。
 そのゼラールは、隻眼の老将が己の身辺を調べ尽くしていることなど既に承知している。
だからこそ、何の前置きもせずに「ベアトリーチェ」と姉の名を口にしたのである。
 この期に及んで腹の探り合いなど無用だと、ゼラールは伝えたかったのだ。
空となったムラマサの枡に酒を注ぎながら、「身内のことで気が休まらぬのはお互い様じゃ」と、
冷やかすような笑みを浮かべた。

「四〇も離れた小娘を囲うとは、はてさて如何なる軍略を用いたものか?」
「お恥ずかしい限り……」

 これは隻眼の老将にとって泣き所にも等しい秘密である。「老いらくの恋」と言うものだ。
ムラマサには年若い恋人がおり、現在は彼がオーナーを務めるモーテルで経理の責任者として働いていた。
 モーテルに勤め始めたのが先なのか、ムラマサが囲ったのが先であるかはさて置き、
ムラマサ自身は一度たりとも「老いらくの恋」を口外したことがなかった。
ギルガメシュの幹部にも気付かれてはいないことだろう。
 これは、バスカヴィル・キッドが内部調査を進める最中に偶然発見したものであった。
勿論、ゼラールには弱点(よわみ)として利用するつもりはなく、それを示す為にも酒の席で笑い話にしたのだった。
 ゼラールの心配りを受け止めたムラマサは、泣き所≠フ発覚に頬を?きつつ、照れたように微笑を返した。
 それも一瞬のことだ。隠し事も遠慮も無用であると言外に確かめ合ったムラマサは、
檜枡を岩の上に置くと、ゼラールの横顔を強い眼差しで見つめた。
 隻眼の視線を受け止めたゼラールは、悠然と米酒の味を楽しんでいる。

「――ならば、敢えてお訊ねしましょう。……何故(なにゆえ)、カザンの御本家を頼みとされないのか。
抱えた私兵は一〇〇〇〇にも達すると伺いました。近隣に号令を発すれば、より多くの兵力が集まるとも。
低く見積もっても二〇〇〇〇は堅い。姉君と手を携えれば、ギルガメシュでの地位を高めることも叶いましょう」
「ギルガメシュの人手不足は深刻じゃ。二〇〇〇〇の大軍は喉から手が出るほど欲しかろう」
「いや、この際、ギルガメシュは関係ありません。ダインスレフ殿のことです。
大軍を率いて加われば、アネクメーネの若枝どころか、カレドヴールフ様とて気後れするでしょう。
即ち、確固たる地位を得る好機。それを見逃すほど浅慮とはどうしても思えませなんだ」
「浅はかと言うてくれるな。己が力のみで事足りる余裕と言うものじゃ」
「――左様。テムグ・テングリ群狼領に属していた頃もダインスレフ殿は独立独歩。
ワーズワースを浄化せしめた烈火によって、あらゆる敵を退けてこられた」
「これからも我が炎は奇跡をもたらすであろう。……カザン家の名誉が巡り巡って余のもとに――と申したな。
気長と言えば聴こえは良いが、所詮は小兵の考えぞ。余は直ちに功績(こと)を為し、名を成す。
身内であろうが何であろうが、他者の働きなんぞに期待しておっては日が暮れるだけじゃ」
「……しかしながら、合理的とは言えますまい?」

 隻眼の力が一等強まった。

「カザン本家の兵力を切り捨てることには、如何なる理由がおありか? 
即時に益が望める選択肢から目を逸らし、好機をも逃しては名将の器とは言えませんぞ」

 ムラマサの指摘は極めて正確であった。
 アカデミー時代からの学友、テムグ・テングリ群狼領の将士、世界最大の海賊団とも呼ばれるペガンティン・ラウト、
更にはアウトロー崩れに至るまで、ゼラール軍団には世界各地から様々な人材が集(つど)っている。
 マコシカが誇るレイライナー(術師)のラドクリフ然り、ガンスミス(銃職人)のクレオー然り、
多士済々とも言うべき顔触れであるが、その中にカザン家から随伴してきた者はひとりとして含まれていなかった。
皆、アカデミーを出た後に従えた人材なのである。つまり、カザン家とは関わりのない人材とも言い換えられる。
 トルーポを筆頭に一騎当千の猛者が犇いてはいるものの、これを以って数万の兵力に匹敵するかと言えば、
現実はそこまで甘くはない。そして、その事実を認められないほどゼラールは浅薄ではなかった。
 だからこそ、ムラマサはカザン家が誇る圧倒的な兵力を用いないことに疑問符が浮かぶのだ。
連山の如き大軍は、ただそれだけで見る者を威圧し、大勢の優劣まで左右し得るのだ。
 その利を――カザン家に生まれた者だけが許された特権を、ゼラールは自ら切り捨てたようなものであった。
親族に呼び掛けるだけで、すぐさま得られる武威(ちから)にも関わらず、だ。

「名将になど、誰がなるものか――」

 檜枡を置いて立ち上がったゼラールは、ムラマサに背を向けたまま歩みを進め、
左右の足を閉じて立ち止まるや否や、今度は両手を大きく広げて見せた。
 我が身を十字架のように見立てる得意の体配り(ポーズ)である。

「――余はイシュタルをも超える者ぞ。将の器などと小さき物には囚われはせん」

 その宣言を以ってして、辺り一面にヴィトゲンシュタイン粒子が満ち、
光の帯となってゼラールの身に収束すると、彼の背に炎の翼を作り出した。
 今まさに天空へ飛翔(と)び上がらんとする不死鳥の如き偉容(すがた)であった。

「ゼラール・カザンの手にて切り拓く運命であればこそ意味があるのじゃ。
余が歩むは、余の覇道である。カザンの名誉ではなく、余が為の道じゃ」

 降りかかる火の粉を避けようともせず、頬が焦げるのも構わず、ムラマサは嘶く不死鳥を見つめ続けている。
 遠くの空にはブクブ・カキシュも聳え立っているのだが、
老いた隻眼は、最早、ゼラール・カザンと言う灼光(ひかり)しか捉えてはいなかった。

「エルンスト・ドルジ・パラッシュは偉大な英雄であった。あの男が起こす太刀風には血が騒いだものじゃ。
……されど、血族や名跡、領土と言うものに縛られておる。それが限界、行き止まりぞ。
ならば、ギルガメシュはどうか? 理想は気高いが、その輝きに目が眩み、足元が見えておらぬ。
故に己が大義を己が手で穢してしまったのじゃ。本末転倒とはこのことであるの」

 ゼラールの言葉はギルガメシュへの逆意を明確に表すものだが、
ムラマサは身じろぎひとつせず雄弁に耳を傾けている。

「イシュタルとて然り。次元の隔たりなどと言う限界によって救いの手も差し伸べられぬではないか。
……知っておるか、ムラマサ。古代より秘儀を受け継ぐ民が神託を求めた折、
創造女神は地上を見放したのじゃ。人の可能性を信じると言い残してな」

 「創造女神は地上を見放した」とは、無論、レイチェルとイシュタルの問答を指している。
佐志と共同戦線を張った折に耳にしたことをムラマサにも語ったわけだ。

「秘儀の民……ダインスレフ殿にもお味方しておられる『マコシカ』なる人々のことですかな」
「神人に踊らされる者どもよ。その果てに見棄てられるとは哀れも哀れ――」

 一瞬の逡巡の後、ムラマサは「秘儀を受け継ぐ民」がマコシカであることを看破して見せた。
外≠フ情報にも注意を払う彼は、ラドクリフとそのルーツをすぐさまに結び付けられたようだ。
 プロキシの件もある為、本来ならばマコシカの存在は秘匿を貫くべきなのだが、
如何なる小細工を用いたとしても、老いた隻眼には見透かされてしまうことだろう。
 そのムラマサにとっても、イシュタルとレイチェルの問答は全くの初耳であった。
神々の領域まで踏み込んでしまう秘術の実在も含めて、女神が下した託宣には少なからず動揺を覚えたものだ。
 しかし、「驚愕」と言う点に於いては、ゼラールの雄弁が勝っている。
隻眼にて捉えた不死鳥は、冒涜にも等しいことを口走った挙げ句、自らが「女神を超える」とまで言い放ったのである。

「――ならば、女神が抜かした可能性を、エンディニオンの未来を余が導いてやろうではないか。
何物にも囚われず、何者をも愛でる。そのときこそ余は創造女神を超えるのじゃ。
余がエンディニオンに名を示すは、新しき時代の開闢(はじまり)と心得よ――」

 ゼラールの志とは、まさしく天地を超越したものであった。前人未到の領域と言っても過言ではあるまい。
 この志を承知しているからこそ、カザン家の名を口にしたムラマサにトルーポは激怒したのである。
カザンの本家に拘泥することは、ただそれだけで「閣下」の本懐に差し障りがあるのだ、と。

「――余はゼラール・カザンなりッ!」

 勇ましい吼え声に呼応するかのように炎の翼が爆ぜ、燐光と化して飛び散った。
残されたのはヴィトゲンシュタイン粒子の余韻ばかりである。
 不死鳥の残影を求めるかの如く、火の粉にも似た燐光へ目を細めていたムラマサは、
一呼吸を置いた後、「尚の事、姉君の力を頼られませ」と、今までになく声を張って進言した。

「御本家の力、存分に使い切ってこそと思われます。例え、この地に招き入れずとも
手を携えて参ることは不可能ではございますまい」
「あくまでも姉上に、プール、緬を討たせよと申すのじゃな。そちの策は利に適っておる。
応じてやるのも吝かではないが――」
「全てはダインスレフ殿の志の為でございます」

 我知らずムラマサも立ち上がっていた。
 隻眼にはゼラールの背中がはっきりと映り込んでいる。それ以外には何も捉えてはいなかった。
洋館の向こうに望むブクブ・カキシュの威容とて、ムラマサの意識を侵すことは出来ない。

「カザン家の力を以ってすれば、何事も捗るのではございませんか? 
エンディニオン全土に武名を轟かせることも然り、難民を救わんとする働きも然り。
志を成し遂げるには相応の人手が欠かせませぬ。現状(ただいま)の持ち駒≠セけでは苦しかろう。
……感情(おもい)ひとつでは覇業など到底成し遂げられません」

 ムラマサの言行はトルーポとは悉く真逆であった。どこまでもゼラールの志に寄り添おうとするトルーポに対し、
ムラマサは志を達成する為の道を冷徹に示そうとしている。
 どちらが正しくて、どちらが誤りと言うことではなかった。ゼラールは両者の考えを等しく尊重するだろう。
相反するように見えて、両者共に目指す方向が同一なのだから、これほど滑稽なことはあるまい。
そのことを悟ったムラマサは、密かに苦笑を噛み殺した。

「カザン本家は外≠ノ置かれた力。それはダインスレフ殿が自由に行使できる力とも言えましょう。
手足の延長なのです。ルナゲイトに在って采配を振るい、本懐を遂げられるが宜しかろう。
難民の大義に通ずるならば、本隊も邪魔立ては致すまい」
「……余の心がそれを望まずとも、か?」
「己が迷いすら力と換えることも覚悟のひとつにて――」

 稀代の名軍師の言葉を背中で受け止めたゼラールは、再び笑気を爆発させた。
心の底から喜色が湧き上がってきたかのような高笑いであった。
 笑い声の中に「面白き男じゃ」と言う呟きが混ざったのをムラマサは聞き漏らさなかった。
先程の具申に対する答えであることに間違いなく、その言葉は鼓膜を通して心に沁み込み、
老いた身を一等昂ぶらせていった。

「先程からそちばかりが質問しておる。少しは余にもそちの話を訊かせよ」

 そう言いながら振り向いたゼラールは、面に悪戯っぽい笑みを宿していた。
 見る者全てを平伏させるような威風堂々たる振る舞いではなく、
二十歳(はたち)を超えたばかりの青年に似つかわしい混じり気のない笑顔と言えよう。
平素の「閣下」には微塵も感じられない幼さ≠ェ弾けていた。

「愚者の手で晒されしハブールの長(おさ)が首、葬ったのは真に天晴れじゃ。
なれど、ひとつ打つ手を誤れば叛逆の罪に問われたであろう。
隠居の身でありながら、斯様な危険を冒したのは何故(なにゆえ)じゃ?」
「それを申すなら、こちらも同じこと。何故(なにゆえ)にダインスレフ殿はワーズワースを焼き払われた? 
我が身の危うさを省みず、生命の炎で犠牲者を浄化されたのか? 本隊の許可も得てはおられますまい。
利口なやり方とは言えませんな」

 寄せられた質問に対し、悪びれもせず質問で返したムラマサの諧謔(こと)を、
ゼラールは頤(おとがい)を反らして笑った。

「……そちは真に面白き男じゃ」

 一頻り笑った後、先程の呟きを繰り返した。
 深紅の双眸に親愛の情が宿っていることを認めたムラマサは恭しく一礼し、
俄かに華やいだ心中にて「似た者同士と言うことか」と呟いた。

『……ムラマサ殿は随分とダインスレフにご執心の様子だが、本人とはお会いになられたのか? 
まさか、伝え聞いた情報のみでそこまで入れ込んでいるのではなかろうな?』

 ふと、ムラマサの脳裏にドゥリンダナの言葉が蘇った。
 彼女から指摘されたことが引き金となり、こうしてゼラール本人を訪ねたのだが、
どうやらその直感は正しかったようだ。言葉を交わせば交わすほど、灼熱の魂に触れれば触れるほど、
老いた身と心が奮い立ち、血が騒いで仕方がなかった。

「酒はまだ残っておるか?」
「二瓶ほど余っておりますが」
「ならば、余を案内(あない)せよ。……供養の酒、振る舞ってやらねばなるまい」
「……御意――」

 酒瓶の残量を問うゼラールの真意に気付いたムラマサは、
「どこまでも滾らせてくれる」と心中で高く笑い、改めて頭を垂れた。
 ゼラールの面は眩いばかりの威風を纏っている。





「――ギルガメシュに作戦がバレたぁ!?」

 洋館の大広間に怒号が響き渡ったのは、ゼラールとムラマサが酒を酌み交わし始めたのと同じ頃であった。
 大音声を張り上げたのはカンピランである。彼女は所用を済ませる為にルナゲイトを暫く離れており、
数日ぶりに帰還したばかりなのだ。
 その間、海の民の象徴とも言うべき大帆船――と言うよりも海賊船であるが――、
『シアター・オブ・カトゥロワ』を駆っていた為、洋館へ戻るまでは鼻歌を披露するほど上機嫌だったのだが、
突如として発生した緊急事態によって、船旅の余韻も一瞬で吹き飛ばされたわけである。
 カンピランは複数の役目を担ってルナゲイトを出立していた。
土俵場の作成に手を借りた太刀颪たちを然るべき場所――エンディニオン相撲協会が管轄する力士の要請施設だ――まで
送り届け、そのついでにクレオーから頼まれた機械部品を調達してきたのだ。
 レプリカのCUBEがAのエンディニオンで流通しているとスコットから教わり、新兵器を閃いたと言うのである。
この開発に必要な部品とレプリカのCUBEを確保するようクレオーはカンピランに頼み込んでいた。
 老ガンスミスの要請は太刀颪たちの送迎よりも遥かに難しかった。
如何に流通しているとは言え、それはAのエンディニオンでのこと。
異世界の流通網がBのエンディニオンに適用される筈もなく、市場に出回っている数量はごく僅かだった。
文字通り、東奔西走してかき集めなくてはならなかったのだ。
 無論、労力を費やすだけの値打ちはあるとカンピランは信じている。
 レプリカのCUBEから純粋なエネルギーのみを抽出し、これを様々なプロキシへと変換する装置を
クレオーは作り出そうとしていた。神人との交信を経由せず、CUBEをエネルギー源として
マコシカの秘術を使いこなそうと言うわけだ。
 レプリカのCUBEは、予め登録されたプロキシしか発動させることが出来ない。
クレオーの試みが成功すれば、そうした制約からも解き放たれるだろう。
 勿論、使用者はラドクリフが想定されている。剣術の稽古はそのまま継続させるとして、
件の装置はジャンビーヤの柄頭にでも組み込もうとクレオーは考えていた。
 この構想を聞かされたスコットは、感心半分呆れ半分と言った表情を見せたものだ。
 当人はガンスミス(銃職人)が本職だと言い張り続けているのだが、
彼が手掛ける兵器の数々は、明らかに副業の領域を超えてしまっている。
平素から皮肉や憎まれ口の多いスコットも、クレオーの力量には舌を巻くばかりであった。
 部品とCUBEの調達を請け負ったカンピランとて大いに期待を膨らませたのだ――が、
近況報告の中でムラマサのことに話が及び、軍団に迫る絶体絶命の危機を突きつけられ、
潮風の余韻も何もかも木っ端微塵となったのである。
 ギルガメシュの内部調査に当たっていたバスカヴィル・キッドも報せを受けて洋館に馳せ戻り、
大広間へ入るや否や、カンピランから怒鳴りつけられてしまった。

「あんたがいながら何やってんのさッ!? 手前ェんとこの防御も出来なくて、密偵なんざ務まるのかいッ!」
「……面目次第もない」
「謝って済む問題じゃないだろうッ! どうやって巻き返すのかってコトだよッ! ……えぇ!? どうすんだよッ!」

 叱声を浴びせられる前から己の迂闊を責めていたらしく、バスカヴィル・キッドは一度たりとも抗弁しなかった。
 彼に課せられた任務は、あくまでもギルガメシュ内部の調査である。
特別に命じられていれば、カンピランが言うような情報の守衛≠燒恆Sに整えただろうが、
敵の懐深くまで潜り込む以上、防御については後手に回らざるを得ないのだ。
 ムラマサの動きは余りにも周到であり、バスカヴィル・キッドとゾリャー魁盗団の慧眼を以ってしても
見通すことが出来なかった。
 それに、だ。ギルガメシュの内≠ヨと潜行(もぐ)るバスカヴィル・キッドに対し、
外≠フ世界の動きまで把握しろと強いるのは酷と言うものであろう。
 そのことはカンピランにも解っているのだ。しかし、感情の部分でどうにも抑えが利かず、
後から後から怒声が飛び出してしまうのである。「こんなことをしてる場合じゃねぇ」とトルーポが押し止めるまで、
彼女の口舌は理性と言う名の制御から全く乖離していた。
 諌めの言葉ひとつで堰き止まったのは、本心からバスカヴィル・キッドを責めるつもりがなかったからに他ならない。
誰かひとりに責任を被せても仕方がないのだ。一丸となって窮地に臨まなくてはならなかった。
 連合軍の間で取り決められた『史上最大の作戦』の露見は、致命傷と言う以外に表しようがない。
ゼラール軍団がテムグ・テングリ群狼領のスパイであることもムラマサの隻眼は見抜いている筈だ。
 言うまでもないことだが、スパイと言うのは建前であり、本来は馬軍からの追放処分ではある。
その実情はともかくとして、テムグ・テングリ群狼領との穏やかならざる繋がりを疑われた時点で一巻の終わりなのだ。
ムラマサがカレドヴールフに報告すれば、この洋館は忽ち討伐軍に包囲されることだろう。
 それは史上最大の作戦の崩壊をも意味している。エルンストも処刑され、何もかもが灰燼に帰すのである。

「……いっそ口を封じてしまうか? 今ならまだ上層部(うえ)に話も行っていないハズだ」
「奴さん、自分ンとこの宿屋で暮らしとるんじゃったな。そこに時限爆弾でも仕掛けてみるか。
簡単なモンなら酒盛りが終わるまでに仕上げられるぞい」

 バスカヴィル・キッドは汚辱を被ってでも責任を取る覚悟だ。
ムラマサ暗殺を仄めかした彼に触発されてか、クレオーまで物騒なことを言い始めた。
 ゼラール軍団に加わって間もないスコットは、「おっかねぇ話になってきたなぁ」と身震いして見せた。
『閣下』とその配下たちは、決して気が優しいだけの集団ではない。戦うべき機(とき)には死神と化すのだ。
 期せずしてゼラール軍団の本質を再確認することになったスコットは、すっかり萎縮してしまっている。

「手荒なことは閣下がお許しにならねぇよ。あの厄介な爺さんを随分と買っておられたからな。
……それに、本当に作戦がバレたって言う確証もねぇ。思わせぶりな言い方から十中八九間違いねぇとは思うが、
下手を打ったら藪蛇ってことも有り得るぜ」
「なんじゃい、ジジイ同士の頂上決戦になるかと思ったのに足踏みかい」
「軍団(うち)の爺さんも厄介っちゃ厄介だぜ!」

 短慮に走ろうとするバスカヴィル・キッドとクレオーをトルーポが宥めた。
 彼とて動揺が鎮まったわけではない。腹の底では、ムラマサの息の根を止めてでも事態を収拾したいと思っている。
しかし、相手は「稀代の名軍師」とまで畏怖される男だ。好々爺の仮面の裏で何を謀っているか分かったものではなく、
その出方を慎重に見定めるしかなかった。

「一先ず閣下のお帰りを待つしかないわね……」

 トルーポと共にムラマサと直接対峙したピナフォアも軽率な行動を戒めている。
その声は微かに震えており、心中を満たす不安の大きさが窺えた。

「にっちもさっちもどうにもお手上げってコトかいッ! ムシャクシャするねぇッ!」

 悔しげに吐き捨てたカンピランは、自慢のカットラスを放り出しながら絨毯の上に胡坐を?いた。
 一刻も早く対策を練り上げる必要があると言うのに、この場に於いては指針を定めることさえ叶わないのだ。
カンピランの性格上、引くことも進むことも儘ならない閉塞が最も不愉快なのである。

「全く! どうなっちまうんだろうねぇ! テムグ・テングリのほうもゴチャゴチャしてるみたいだし、
いっそアタシらだけで独立しちまうってのはどうだいッ!?」
「お前はまたそんな……やけっぱちでムチャ言うんじゃねーよ」
「みんなして海賊稼業をおっ始めようか!? 『海賊閣下』ってのも、案外、サマになるんじゃないかねぇ〜。 
海の暮らしは毎日が痛快だよッ! どうだい、ピナフォア?」
「いや、て言うか、その前に――」

 破れかぶれのようなカンピランの喚き声から聞き捨てならない情報を拾い上げたピナフォアは、
「――群狼領に何かあったの?」と眉を顰めた。

「まさか、御曹司の身に何か……」
「ああ、お坊ちゃんは元気みたいだよ。アルフレッドんトコともよろしくやってるって聴いたし。
ただねぇ――……タバートだっけ? 新しい頭目サマがちょいと危ないかもなんだ」
「おい、待てよ、カンピラン。そんな話、聴いてねぇぞ。そう言う大事なコトは先に言えよ! 
キッドのことをさんざんいじめといて、手前ェで報告漏らしてたら世話ねぇだろ!」
「う、うっさいねぇ! 仕方なかったんだよ! 切り出すタイミングも見つからないしっ!」

 カンピランが口にしたのは、凶兆とも言うべき事態である。
身を乗り出してくる仲間たちに向かって「他所で聞いた話だから、あんまりアテにされても困るよ」と前置きし、
彼女はタバート周辺に垂れ込めた善からぬ風聞を明かしていった。
 テムグ・テングリ群狼領の新たな御屋形となったタバートは、
連合軍主将の役目、ひいては史上最大の作戦の指揮をも引き継いだ筈であったが、
近頃はギルガメシュに取り入るべく数多の財物(ざいもつ)を献上していると言うのだ。
しかも、差し出された品々は、全てエルンストの隠し財産ではないかと疑われている。
 外≠ヨ出掛けた折、カンピランはこの種の風聞を各地で耳にしていた。一所ではない。各地で、だ。
不安渦巻く混乱期には事実無根の風聞も立ち易いが、それにしても遭遇した回数が多過ぎる。
行く先々でタバートの不審が囁かれていたのである。
 表立っての献上だとすれば、アゾットあたりが大々的に喧伝したに違いない。
何しろ、テムグ・テングリ群狼領から求心力を奪う絶好の機会なのだ。
 そうしたパフォーマンスもなく、贈与の噂だけが各所にて流れているとしたら、あるいは密かな賄賂かも知れない。
 改めて詳らかにするまでもなく、ピナフォアの表情(かお)は秒を刻む毎に険しくなっていった。
 エルンストの私財が貪り食われる状況にカジャムは心を痛めていることだろう。
そのような横暴を許しておくことは、馬軍の御曹司たるグンガルの沽券にも関わるのだ。
 もしも、風聞が誤りでないとすれば、タバートが粛清の標的にされるのは必至である。
連合軍諸将に対する裏切りは勿論のこと、テムグ・テングリ群狼領としても許してはおけない。

「いくら御屋形と言ったって、周りがそんな暴挙を許しておく筈がないわ。誰かが食い止めなかったら――」
「――テムグ・テングリは真っ二つに割れるな」

 ピナフォアの懸念をトルーポが言い当てた。不安に揺らぐ彼女へ険しい現実を突きつけたかったのではない。
打開すべき問題を自分自身に言い聞かせようとする声色であった。
 贈賄疑惑については、直ちにコールタンに質し、真偽を確かめなくてはなるまい。
これはテムグ・テングリ群狼領に内乱を招く火種なのだ。
 タバートはテムグ・テングリ旧来からの氏族を尊重しており、
外征の過程で斬り従えた者を平等に取り立てるエルンストの方針とは大きく異なっている。
 嘗てエルンストは実の弟と熾烈な後継者争いを演じたのだが、
その戦いは守旧派と革新派の代理戦争と言う側面も持っていた。
即ち、テムグ・テングリ旧来からの氏族と新興勢力の派閥闘争である。
 タバートの動向次第では、その派閥闘争が再び繰り返される可能性もあった。
テムグ・テングリ群狼領がふたつに割れたとき、新たな御屋形には守旧派が味方することだろう。
 そして、馬軍で内乱が勃発すると言うことは、史上最大の作戦の破綻をも意味している。

「……アタシら、いつの間にか、えらく追い込まれてないかい?」
「ようやく悟ったか、バカ嫁。だから言ってんだ、報告が遅過ぎるってよ」
「バ、バカって言うほうがもっとバカだっ!」

 外≠フこと――とりわけ、テムグ・テングリ群狼領の内紛(こと)はアルフレッドに任せるしかないと思いつつ、
トルーポは暗澹たる気持ちが拭い切れなかった。
 旧友の立てた史上最大の作戦は、早くも暗礁に乗り上げようとしているのだ。

(や〜れやれ、こりゃいよいよダメっぽいな。ま、おれの運なんざハナから尽きてるようなもんだけどよ)

 憂色に包まれる軍団員を傍観しながら、スコットはまたしても逃げ出す算段を練り始めていた。


「あれ、夕食の準備ってまだ済んでないんですかっ?」

 大広間に満ちた憂いを切り裂くかのように、能天気とも言える声がトルーポたちのもとに飛び込んできた。
 声の主はラドクリフだ。短剣術の訓練を終えて、ブクブ・カキシュから戻ってきた次第である。
 大広間にやって来たのがラドクリフひとりであったなら、
ピナフォア辺りが「遊んでる場合じゃないのよ、クソガキが!」と怒号を返したことだろうが、
彼はひとりの客人を連れていた。それも小さな女の子を、だ。
 予想外としか言いようのない展開に皆が目を丸くし、思わずピナフォアも憤激を飲み込んでしまった。

「こちら、ベル・ライアンさん。えぇっと、その――……アルフレッドさんとフィーナさんの妹さんです」
「はいっ、ラドちゃんからご紹介に預かりました、ベル・ライアンと申しますっ。
いつも兄と姉がいつもお世話になっております」

 ラドクリフから紹介を受けた軍服姿の女の子――ベルは、居並ぶ人々へ行儀良く頭を下げた。
 アルフレッドの、そして、フィーナの妹と言う紹介に一同が騒然となったのは言うまでもない。

「ア、アルの妹さんって、あのカレドヴールフに誘拐されたって言う……?」
「はい、いわゆる人質です」

 半ば情況が飲み込めていない様子のトルーポにもベルはあっけらかんと答えた。
あどけない笑顔で「捕虜って言い方もあるかも知れません」と自称されては、
自虐に基づく冗談なのか、突き抜けた悲嘆なのか、受け止め方に惑うと言うものだ。
 反応に困って硬直したトルーポはさて置き――ベルがカーキ色の軍服を着用していることについて、
止むに止まれぬ事情≠ゥらギルガメシュに入隊したのだとラドクリフは説明した。
ドゥリンダナに師事してフェンシングを教わっていることも忘れずに付け加える。
 隣で耳を傾けていたベルは、まるで答え合わせでもするかのようにラドクリフへ頷いて見せた。

「偶然、トレーニングルームでラドちゃんと一緒になりまして。折角なので、一緒に練習させて貰いました」
「ぼくが言うのもおかしな話ですけど、ベルちゃん、筋が良いみたいですよ」
「ラドちゃんはコーチからすっごくダメ出しされてたね。腕の振り方から足の運び方までビシバシと」
「ベルちゃん、よく耐えてるよ……。ぼく、あんなスパルタ教育は生まれて初めてだよ……」

 流れからラドクリフまでドゥリンダナの猛特訓(シゴキ)を受ける羽目になったのだが、
一緒に汗を流す内にベルとはすっかり打ち解け、砕けた話し方まで出来るようになっていた。
共通の人間関係であるシェインの存在が互いの緊張を和らげたと言っても良い。
 猛特訓が終わる頃には「ラドちゃん」と言う愛称まで付けられていたのだ。
 そこまで打ち解けられたからこそ、ラドクリフも彼女を夕食に誘えたのである。
長らく離れている兄と姉、それにシェインの話も聴きたいだろうと計らったわけだ。
 ゼラール軍団にはトルーポやピナフォアが居る。アルフレッドやフィーナと親しかった人間が、だ。
ふたりと話せば、人質と言う立場の憂鬱も紛れるに違いない。
 それだけではなく、『閣下』からアルフレッドにまつわる愉快な話を聴けるかも知れなかった。
 常日頃からベルに振り回されているらしいドゥリンダナには、
真剣な調子で「いっそそっちで引き取って欲しい」と言われたが、さすがのラドクリフもそれは丁重に断った。

「フィーの妹かぁ〜」

 親友の妹と聞いて俄然興味が湧いてきたピナフォアは、
両の掌でもってベルの頬を挟み込むと、彼女の顔に姉の面影を求めた。

「――ああ、似てる似てる。目元とかフィーそっくりだね。て言うか、アホ毛からして分身みたいだけど」
「お姉ちゃんのこと、知っているんですか?」
「うんうん、フィーとアタシは大の仲良し。ピナフォア・ドレッドノートって言うの」
「そうでしたかっ! お姉ちゃんと仲良くして下さって、ありがとうございますっ」
「くはぁ〜、姉妹揃って可愛いったらありゃしないわ〜。アタシのこともお姉ちゃんって呼んでいいのよっ!」

 ベルの頬がこの上なく心地良かった為、ピナフォアはついつい掌で弄んでしまった。
極上の羽毛布団よりも遥かに柔らかく、それでいて肌に吸い付いてくるような感覚なのだ。
いつしか彼女は夢中に柔肌を捏ね繰り回していた。
 弄ばれる側のベルは、くすぐったそうにはにかんではいるものの、別段嫌気が差したわけではなさそうだ。
年上から相手をして貰えることが、ほんの少しだけ恥ずかしいのである。

「ちょっと、ピナフォアさんっ! ベルちゃんをいじめないでくださいよっ!」
「あぁっ、アタシのベルがぁ〜」
「誰がピナフォアさんのですかっ! ……ベルちゃん、この人には近づいちゃダメだよ? 
触られ続けたら、きっと若さを吸い取られちゃうからね?」
「人を妖怪みたいに言うなッ!」

 いつまでも頬を捏ね繰り続けるピナフォアに業を煮やしたラドクリフは、
後ろからベルを抱きすくめると、力ずくで両者を引き剥がした。
 実力行使で切り抜けなければ、この妖怪≠ヘ本当にベルを誘拐していたかも知れない。

「ほっほ〜? ラドのクセに見せ付けるじゃないの」
「カ、カカ、カンピランさんっ! そんなんじゃないんですってっ! 
ベルちゃんはシェインくんのガールフレンドなんですよっ!? あんまり失礼なことを言わないでくださいっ! 
誤解されたらどうするんですかっ!?」
「略奪愛たァ、またまたやるねェ。いいよいいよ、男に生まれたからにゃあ、がっつり荒らぶってなきゃねッ!」
「いい加減にしてくださいよっ、もうッ!」

 カンピランから冷やかされたラドクリフは、満面を林檎の色で染め上げている。

「――あの、ラドちゃんって本当に男の子なんですか? 実は女の子と言うことは……」
「ベルちゃんっ!」

 かと思えば、またしてもベルから不名誉な扱いを受け、先程と別の意味で顔を真っ赤にした。
一部始終を眺めていたカンピランは、「ラドったら、もうメロメロじゃないかっ!」と笑い転げたものだ。
 今や大広間は憂色から明るい空気に塗り替えられていた。
 勿論、大人たちは心の底から楽しんでいるわけではない。心の底には如何ともし難い鬱積を感じている。
それでも、ベルやラドクリフのお陰で気晴らしになったのは確かである。
 ふたりがやって来なかったなら、昏(くら)い顔を見合わせて、更に深刻な悪循環に陥っていたかも知れないのだ。

「しっかし、何でまたギルガメシュに入隊したんだい? ここの連中はキミにとっちゃ仇みたいなもんだろ?」
「はい、仰る通り、ギルガメシュはグリーニャの仇(かたき)です」

 先程、触れられた止むに止まれぬ事情≠尋ねるトルーポに対し、ベルは些かも躊躇うことなく本音を打ち明けた。
 逡巡すらも挟まない即答であった為、トルーポは彼女が冗談を言っていると思ったほどだ。

「私がギルガメシュに入った目的は、たったひとつしかありません」

 しかし、あどけない双眸には、兄と――在野の軍師と称される男と同じ光が宿っている。
 一足先に彼女の事情≠知らされていたラドクリフは、表情を一気に引き締めると、
反応と影響を確かめるように仲間たちの面を注意深く見回していった。




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