1.EPISODE ZERO

 雲ひとつない碧空と澄み切った海原は、剥き出しの陽光を思い切り吸い込むと、
これを生命の躍動として地上に還元していた――世界中の人々から憧憬を集めるリゾート地のガイドブックには、
このような謳い文句が綴られている。幾度もしつこく登場し、読者たる旅客を辟易させるくらいである。
 来訪した誰もが口を揃えて楽園と絶賛するリゾート地には、『ビンゴボブ』なる名が付けられていた。
絶海の孤島に興された、比較的新しい町であった。
 尤も、海外からの旅客の中には、景勝(けしき)よりも遥かに魅力的なモノ≠この地に見出している人間が少なくない。
 ビンゴボブを運営する自治体は、外≠ゥらの収入に対して課税を行わないことでも有名であった。
即ち、オフショアと呼ばれるシステムの典型である。
 原則として外≠ゥらの収入に所得税などを設けないというシステムは、
巨額の資金(カネ)が流動(うご)く経済界、金融界に於いては極めて重要であった。
 ビンゴボブが楽園と呼ばれる真の所以とは、
オフショアによって世界最大の租税回避地(タックス・ヘイブン)と成り得たからに他ならない。
 自然、裏社会から穢れたカネ≠燉ャれ込むようになり、
マネーロンダリングの聖地と見なされるまでに時間は要さなかった。
 「楽園」の二字を絵に描いたような高級リゾート地には、
その景勝に似つかわしくないキナ臭い空気が常に垂れ込めている。
裏通りに視線を移そうものなら、如何にも胡散臭い黒服たちが声を落として密談を交わしているわけだ。
 この地を訪れる旅客たちは、ガイドブックへ記された通りの楽園≠ノ胸躍らせながらも、
その裏に蔓延する空気≠ノは決して触れないよう細心の注意を払っているのである。
飲み込まれたら最後、生きては帰れまい。

 それ故に――と言うべきであろうか、己の足元≠ノは何の関心も持たずにいる。
楽園≠ニ呼ぶに相応しい景勝に、あるいは租税回避地と言う立地が醸し出す空気≠ノ、
誰しも意識を引き付けられていた。
 太陽に達するのではないかと錯覚するほどに背の高い――ホテルやレストランが殆どである――が
林立する都市部の地下に巨大な空洞が穿たれていることなど、海を渡って訪れた旅客たちは夢想もしないだろう。
 ビンゴボブに生を受け、ここで暮らす人々とて同じことであった。
 絶海の孤島に集落が生まれ、観光で興り、世界有数の大都市へと変貌していったのは、
ここ一〇〇年前後の歴史(こと)である。
 それよりも昔に孤島へ入り、地中を掘り進めて空洞を開いた者たちこそが、
ビンゴボブの本当の支配者と言うべきであろう。
 尤も、地底にてうごめく者たちはビンゴボブなどと言う地名(な)は口にしたこともない。
そもそも、地上との接触など一度たりとも行ってはいなかった。観光によって富んだ恩恵に与る理由すらない。
 裏社会が持ち込んだ影よりも遥かに深い闇を棲家とする者たちは、
蜘蛛の巣の如く入り組んだ大空洞を指して『キマイラホール』と呼称している。
 大空洞の内部は幾つもの区画(ブロック)に分かれており、それぞれに宿所や食堂と言った施設が収容されていた。
自走機械が通行する為のトンネルではなく、巨大な人工居住空間(コロニー)として機能しているわけだ。
 さりながら、この大空洞は決して生活圏の確保の為に造られたものではない。
あくまでも生活に必要と思われる機能を備えただけに過ぎず、本来の目的は別に在った。
 地下数千メートルに位置する最深部には、大規模な研究区画が設置されていた。
楽園≠ニの接触を絶ち、わざわざ地の底へ潜むことからも、
ここで行われている研究が秘匿を要する内容であることは察せられるだろう。
 研究区画の彼方此方には創造女神を象ったレリーフが嵌め込まれていたが、
イシュタルの加護が得られるような事業とも思えない。神々は善良なる行いこそ祝福するのである。

 室内に設置された夥しい数のモニター、あるいは空間に展開された『デジタル・ウィンドゥ(映像投射光板)』へと
向かっているのは、当然ながら白衣を纏った者たちであった。
 如何にも研究者らしい出で立ちだ――が、誰ひとりとして面に人間らしさを湛えてはいない。
申し送り以外の言葉は交わさず、ただひたすら操作卓(コンソール)を弄り続けている。
 入力内容に応じてシステム実行の可否を問い掛けるコンピューターよりも、
これを命令する研究者のほうが機械的に見えると言う異様な光景であった。
 研究区画の大半を占めるモニターやデジタル・ウィンドゥには、
熱量の循環効率を測定する計器、心電と思しき光線の走るシステム画面が表示されている。
 入力したプログラムの内容をシミュレーションする画面では、不可思議としか表しようのない映像が流れていた。
三次元CGで再現された人間が、全身から灼熱色の炎を噴出させているのだ。
 最初、それ≠ヘ黄金(きがね)色の稲光であった。人型のCGが纏わせていたその電流は、
種火の如く火花が爆ぜたかと思うや否や、突如として火炎に換わったのである。
さながら手品の如き奇怪な映像であった。

「……あと一歩――ヴィトゲンシュタイン粒子とプラーナの因果律を解き明かせば、
『フェノメノン置換』の理論化が大幅に捗る……」

 シミュレーションの結果を確かめた研究者のひとりが、破顔と共に幾度か首肯する。
突如として蘇った人間らしい感情はどこか歪であり、その面相は不気味としか表しようがない。
 デジタル・ウィンドゥの発光は、確かに顔面へ濃い陰影(かげ)を落としているものの、それが歪みの原因ではあるまい。

 研究区画――否、キマイラホール全体に緊急事態を告げる警報が鳴り響いたのは、
件の研究者が『フェノメノン置換』と口走った直後のことである。
 彼がその単語(ことば)を口にする瞬間を見計らっていたかのような拍子(タイミング)だ。
けたたましい電子音は、避難場所として指定された区画への一斉退去を報せている。
 深刻な事故が発生した場合、地上の楽園≠イと吹き飛ぶような事物をキマイラホールでは研究している。
それだけに防備の仕組みも万全に整えられていた。
不測の事態が生じた場合には一定区間ごとに隔壁によって遮断される為、
危険物質による汚染と言った被害の拡大も食い止められるのだった。
 警報による瞬間的な驚愕こそあろうとも、心底から狼狽している者は皆無に等しい。
ひとりふたりの神経質な人間が悲鳴を上げた程度である。
 つい先月も同じようなことがあった。モルモットの一体が脱走して空洞内を逃げ惑ったのだ。
 一部器官を人工物と交換する途中に暴れ出したのだという。
前頭葉の切除をしないままで施術し、これに伴う感覚の破綻を数値化することもプログラムに含まれていたのだが、
それが原因(アダ)となったわけである。
 そのときはレモンイエローのジャケットに身を包んだ警護兵が出動し、速やかに処分≠オていた。
今度も担当部署が対処するだろう。それが大方の見立てであった。
 研究室に詰めていた人々は、不承不承ながら回廊へと足を運んでいく。
そこは四方を鋼鉄の板で固めた構造である――が、その組成は極めて怪異である。
触れると冷たい感触や頑強な硬度、鉄独特の臭いを放っているものの、表面はガラスのように透き通っているのだ。
 壁の向こう側には、無数のパイプ管やケーブル、レトロチックな歯車が見える。

「折角、集中していたと言うのに台無しだ。こう言うのが一番腹立たしいよ」
「いや、まったく……」

 研究者たちが零した文句は狭い回廊に反響し、耳障りな雑音として跳ね返った。
 小一時間も過ぎれば元通りになる。それまでの辛抱だ――誰もがそう信じて疑わなかったのだが、
今日の想定は大きく外れていた。それどころか完全に見誤ったと言うべきかも知れない。
 果てしなく伸びる回廊の先――照明では捉え切れない闇の向こうに黄金色の明滅が現れた瞬間、
避難の最中であった研究者たちを激しい稲妻が貫いた。
 眩い光に呑み込まれ、あらゆる物質が単色に塗り潰されていた世界が本来の彩(いろ)を取り戻したとき、
回廊に在った殆どの研究者が絶息していた。
 目立つ外傷は見受けられないが、もしかすると稲妻によって心臓を破壊させられたのかも知れない。
物言わぬ骸と化した研究者たちは、誰もが呆けたような顔を晒している。

「――全然、抑えが効かねぇや。……てめぇら、よっぽど人の肉体(からだ)をイジってくれたみてぇだな」

 幸か不幸か、生き残ってしまった者たちがその場にて立ち竦んでいると、
稲光の軌跡を辿るようにして、ひとりの青年が闇の向こうから姿を現した。
 満身を震わせている研究者たちと同じ白衣姿であるが、その下は全くの素肌。
直接、上着を羽織っているような状態(ありさま)だった。
 しかも、だ。どう言うわけか、その青年は頭の先から爪先まで全く濡れそぼっていた。
獅子の鬣の如き癖毛の先には、粘液のようなものまで纏わり付いている。
 その身に纏わせているのは粘液ばかりではない。
今し方、闇を裂いて一閃した稲光が全身の至る箇所にて爆ぜているのだ。
 研究者たちを見下ろす青年の左頬には、血の色をした古傷が流れ星の如く走っており、
これが火花で照らし出された瞬間、数多の悲鳴によって回廊が満たされた。

「ひ、被験者……『ガラデレオン』――」
「何が被験者だ! ふざけた名前で俺を呼ぶんじゃねぇッ!」

 『ガラデレオン』と呼ばれた――本人の神経を逆撫でした様子だが――青年は、怒りに任せて右腕を薙ぎ払った。
視界の先の空間で火花が煌き、そこに在った人影が次々と弾け飛んでいく。
 青年の手には刃物など握られてはいないのだが、絶息した遺骸は何れも輪切り同然の惨たらしい有り様である。
不可視の刃が振るわれたとしか思えなかった。
 果たして、その右腕には余韻の如く黄金色の稲光を纏わせている。

「……虫唾が走って仕方ねェ。暴れても暴れても、ちっとも憂さが晴れねェなんてよ……!」

 己の置かれている状況を改めて振り返った青年は、誰に聞かせるでもなく忌々しげな舌打ちを披露した。
 素肌を擦る白衣がとにかく不快だった。粗い生地によって皮膚を撫でられる感触は言うに及ばず、
足元に転がった骸と同じ服装を選ばなければならない状況も腹立たしい。
 ほんの一〇分ほど前まで彼は素裸だった。如何にも薬品臭い液体で満たされたカプセル型の機械に収納され、
その内部では数え切れないケーブルで繋がれていたのである。
先端は特殊ゴム製だったが、吸盤めいた感覚は現在(いま)も肌に残っている。
 ガラス張りの筒を突き破って脱出し、操作を担当していた人間も全員血祭りに上げたのだ。
身を縛っていた拘束衣へ再び着替える理由などはなく、手近なロッカーから白衣を引っ張り出した次第である。
全部のボタンを留め、裾が捲くれ上がることさえ防いでしまえば、行動に支障はない。
 間に合わせの服装(もの)に文句を言っても無意味なのだが、生理的に不快な部分はどうしようもなかった。

(――グチグチやってても仕方ねぇな。先ずは合流≠キることだけを考えねぇと)

 苛立ちは増すばかりだったが、感情に搦め取られ、足踏みしている場合ではない。
一刻も早く大空洞を駆け抜けなくてはならないのだ。

(あいつら≠ェココを襲ったのは間違いねぇんだが、……さて、俺の居場所をどうにかして伝えるか、
それとも、こっちから出向くべきか。ジッと待ってるのは性に合わねぇが――)

 今もキマイラホール中に響いている警報は、彼が鳴らしたものではなかった。
それどころか、警報が鳴ったことを確かめた後に脱出を試みている。つまりは緊急事態へ乗じたに過ぎないのだった。
 慌てて飛び出してきた警備兵を鎧袖一触で屠っていく青年は、
最初に回廊で遭遇した研究者たちの様子を想い出し、またしても鋭く舌打ちした。
 白衣に身を包んだ者たちは、誰もが余裕綽々と言った調子であった。
奇襲を受ける瞬間まで自分たちに危害が及ぶ事態など想定もしていなかったのだろう。
 あらゆる事象を天上から見下ろしているかのような傲慢には、腸が煮えくり返る思いであった。
 事実、彼らはひとりの人間を捕まえて被験者≠ネどと呼びつけたのである。
その態度にこそ傲慢が顕れていると言っても差し支えはあるまい。

(どいつもこいつも気に入らねぇ……ご大層なモンを研究する前に、人の心を学びやがれ!)

 光線銃で武装した警備兵の集団へ飛びかかり、五体を破壊し尽くした青年は、最後に指揮官と思しき男へと目を転じた。
 部下であろう警備兵たちが無残に薙ぎ倒されていく中、最後列から動こうともせずにいた男を、だ。
 他の者たちが迷彩柄の装いであるのに対して、ただ独りレモンイエローのジャケットに身を包んでいる。
 仲間を捨て石にして付け入る隙でも見計らっていたのだろう。
そのことが『ガラデレオン』と呼ばれた青年を一等苛立たせた。
胸中の憤激に共鳴したのであろうか、その身に帯びた稲光が火花を散らして炸裂し始めた。

「よもや、外界と連絡し合っていたとはな。抜かったわ……」
「ほざきやがれ!」

 言葉を交わせば交わした分だけ、青年の双眸に燈った怒りは、その火勢(いきおい)を増していく。
百獣の王の瞳を彷彿とさせるほどに猛り狂うのだ。
 尤もらしい推論(こと)を言っているが、そもそも外部との連絡など取れる状況ではなかった筈だ。
薬物の投与によって意識を混濁させられ、その間に忌むべき実験に付き合わされたのだ。
拘束衣でもって身体の自由まで封じられていたのである。
 薬物の効力に慣れ、意識が朦朧としている演技(フリ)まで出来るようになったのは、ほんの数日前のことなのだ。
それまでは反撃に転じる機会など望むべくもなかった。ありとあらゆる意味で、だ。

「この騒ぎを手引きしたのが俺だって思ってるんなら、てめぇの脳味噌は単純過ぎるぜ」
「他に理由などあるものか。小型の無線機でも仕込んでいたのか……?」
「手前ェの読みの甘さを他人の所為にするんじゃねーよ。そっちが読み違えたのは人の心ってモンだ。
わざわざ手引きするまでもねぇんだよ。ダチが連れ去られた――そのとき、残されたヤツらは何をするのか。
……ただそれだけのコトだぜ」
「意味不明なことを並べてくれる……言い逃れならば、もっと上手くするものだ。
今となっては無線機を奪ったところで何も変わらんがな……」
「ああ、てめぇみてーな単細胞には意味不明だろうよ」

 レモンイエローのジャケットに身を包んだ男は、警報の原因を口内で捏ね繰り回している。
 この緊急事態をキマイラホール内部から手引きしたものと詰られた青年は、
恨み節めいた推論を聞き流しながらダチ≠フことを想い出していた。
 次から次へとダチ≠フ顔が浮かぶ。走馬灯のようで縁起でもないと、胸中にて笑ってしまった。
 皆、掛け替えのない仲間たちだ。古馴染みもいれば、出逢って間もなく肉親よりも深い縁を得た者もいる。
 多大な心配を掛けたことは間違いあるまい。自分が消え失せた後、血眼になって消息を探っていたに決まっている。
仮に己が反対の立場であったなら、同じように駆けずり回った筈だ。
 そして、掛け替えのないダチ≠ヘ、どうやら楽園≠フ地下に潜む邪悪の巣窟を探し当てたようである。
外界と連絡を取り合う術など持ち得ないので直感でしかないのだが、おそらくは間近まで迫っているはずだ。
 地の底に閉じ込められたのは青年としても不本意だった。自ら危険に飛び込み、下手を打ったわけでもないのだ。
この場所で行われている実験へ付き合わされたときには、薬物によって正常な意識を掻き乱された。
即ち、それと同じ手口で拘束されてしまったのである。

「ガラデレオン――貴様から得たプラーナ……テストも済んではいないが、遠慮なく使わせて貰うぞ」

 言うや、レモンイエローのジャケットを纏った男は右の人差し指を突き出した。
 ガラデレオンと呼び付けられたことで眉を吊り上げた青年は、しかし、一瞬の驚愕を経た後に別の怒りを瞳に宿した。
 眼前の男は指先に黄金色の稲光を帯びていた。その様を一瞥しただけで青年は全てを悟った。
己の身を素材≠ニして使った実験の委細を、だ。

(……舐め腐るな……!)

 床に向かって唾を吐き捨てた青年の右拳には、やはり黄金色の稲光が走っている。
感情の昂ぶりに呼応し、激しい火花が散った。

「……てめぇら、プラーナをイジろうってのか? 人が寝ボケてる間に好き勝手やってくれたみてェだな!?」
「我が名は『バルディエル』――プラーナのデータより奇跡を得た新時代の先駆とでも憶えておくがよい。
せめてイシュタルのもとへ召されるまではな」
「そうやって気取った野郎はな、ロクな死に方しねぇモンなんだよ。……世の常ってのを教えてやらぁッ!」

 バルディエルと名乗った男は左右の五指を前方に突き出し、そこから黄金色の稲光を迸らせた。
極大出力の放電によって有視界内のあらゆる物体を破壊しようと言うのだ。
 無論、床の上に転がっていた骸も次々に炭屑と化していく。
同じ大空洞で暮らしてきたであろう仲間たちを消滅させることにも躊躇いはなさそうだ。
 プラーナと呼ばれる力を全解放した影響であろうか、瞳孔も白目も、深紅に染まっている。
いや、「染まっている」と言うような状態ではない。さながら照明のように妖光(ひかり)を発していた。
 青年もまた同じ黄金色の稲光を纏っているのだが、黒い瞳に変化は見られていない。
拳から髪の毛先にまで宿る光の彩(いろ)を、獅子の如き双眸へ映し込むのみであった。
 その瞳はバルディエルの動きを油断なく捉えていた。それこそ稲光の軌道まで完全に把握しているのだ。
 安全と思われる地点を見極めて即座に身を移し、蛇身の如くうねる電撃を掻い潜ると、
そのままバルディエルの懐へと一気に飛び込んでいく。

「パクリなんぞに後れを取るかッ!」

 腰を捻り込むことで強力なバネを生み出した青年は、この勢いに乗せて左拳を突き上げる。
 胴を狙った左拳でもって相手を中空に撥ね飛ばし、
落下に合わせて掬い上げるような大振りの右アッパーカットを放つ――
青年が体得した武術に於いては、この技は『豹騎(ひょうき)』と呼称されている。
最後の一撃は相手の顔面を無残に潰すものであった。
 左拳が鳩尾を抉った瞬間、そこに黄金色の爆発が起こり、バルディエルの身を弾き飛ばした。
 間もなく天井に激突し、地上へと跳ね返る――そこを狙ってアッパーカットの構えに入ったのだが、
バルディエルが重力に引かれた直後、彼が纏うジャケットの袖からチェーンが飛び出し、青年の両腕に巻き付いた。
 ただの鎖ではない。茨の如く棘が飛び出しており、皮膚を破って肉へと食い込んでいく。
 黄金色の稲光がチェーンを伝うまで時間は掛からなかった。凄まじい量の電撃をまともに被る恰好となった青年は、
しかし、両腕を力任せに振り回してチェーンを引き千切った。
 豹騎の一撃目を受けたレモンイエローのジャケットと同じように、青年が身を包む白衣も彼方此方が焼け焦げている。
それでも肉体への痛手は軽微な様子で、肩を回しつつ、「マッサージにもなりゃしねぇ」と軽口を叩いて見せた。
 損傷が少ないのはバルディエルの側も同じであった。天井に叩き付けられた彼自身のみならず、
ジャケットの袖に隠していた装備も含めて、だ。
 千切られたチェーンの切れ端が自らの意思を持っているかのように蠢き始め、
これに反応して本体の切断面から無数のケーブルと特殊樹脂と思しき皮膜が飛び出した。
 両方の切断面は瞬く間に一体化し、何事などなかったように復元されてしまった。
その経緯(プロセス)は修復と言うよりも「再生」と呼ぶほうが正確に近いのかも知れない。
 さしもの青年もこのような機械は見たことがなく、眉根を寄せて怪訝そうにしている。

「……ガラデレオン、貴様の国≠ヘ長らく世界に門戸を閉ざしていた。
ならば、これも初めて見る機械(モノ)であろう――が、我らの技術力を以ってすれば、この程度は造作もないのだよ」
「ケッ――手品師の商売道具じゃねぇのかよ」
「これは言わば、『鉄生きるモノ』。金属と生命体、双方の特性を備えた技術である。
このチェーンは私の神経節とも連動していてね。言わば、両腕の延長と言うモノなのさ」
「要するにクリッターのパクリじゃねぇか。手前ェの功績(てがら)みてぇに威張ってんじゃねぇよ」
「心外な――これは模倣などと言う程度の低いものではない。……進化≠セよ。これは進化の閃光――」

 「進化」を謳いあげた瞬間、バルディエルは左右のチェーンを辺り構わず振り回した。
この挙動(うごき)に合わせて、黄金色の稲光も先端から迸る。
放電は壁に跳ね返って四方八方に飛び散り、青年を包囲する網を紡ぎ出していった。
 更にバルディエルは右の蹴り足を振り上げた。まるでサッカー選手がボールを蹴り出すような動作(フォーム)である。
 双方の間合いは大きく離れているので、相手を掠めることさえない筈だった――が、
ボールの代わりに床を電流が走り、青年の足元へと一直線に向かっていく。
 余りにも露骨な攻撃であった為、青年は床を走る電流を半身を開くだけで避け切り、
続いて襲い掛かってきたチェーンは先端を踏み付けることで可動(うごき)を封じてしまった。
 素足に棘が突き刺さり、更には電流をも浴びせられているわけだが、この青年は己が身の痛手など気にも留めないらしい。
 百獣の王の瞳は眼前の敵を見据えるのみである。今し方、バルディエルが繰り出した技に心当たりがあるらしく、
当惑と憤激を綯い交ぜにしたような表情(かお)を満面に貼り付けていた。

「確か、『リュウセンショウ』――だったかな。衝撃波を発する性質(タイプ)のテクニックだったと記憶しているがね」
「原理だけは似てらぁ。けどよ、ショウ≠チて言うのは掌って意味だぜ。サッカーみたいな蹴りじゃねぇ。
……うちの流派のビデオでもチェックしたのか? ンなもん、売り出しちゃいなかったハズだけどよ」
「非効率的な発想だな。解析さえしてしまえば、脳に記録された運動パターンを取り込むことなど容易い。
バルディエル――この名前(コードネーム)を名乗る人間が新時代の先駆であること、少しは理解して頂けたか?」
「本当によォ、カンニングだけは大得意らしいな……」

 バルディエルの発言が逆鱗に触れたのであろう。青年はまたしても床へと唾を吐き捨てた。
「盗み見だけで強くなった気か? 思い上がりも甚だしいぜ、てめぇ」とも言い捨てている。

「進化ってのはなァ、誰かを真似して成し遂げるもんじゃねぇんだよッ!」

 猛々しい咆哮が回廊を震わせた直後、青年の身に大いなる変化が訪れた。
 肩甲骨の辺りまで伸びていた長い後ろ髪がそそり立ち、
ここを空中線(アンテナ)として黄金色の稲光が逆巻き始めたのである。
 一等勢いを増した電流の作用と思われるのだが、獅子の憤怒を顕しているように見えなくもない。
眠れる獅子が覚醒するとき――それは、抑え切れぬほどの怒りが爆発する刻(とき)であると言う。

「遊びは終(しま)いだッ!」

 空中線より発せられた烈光(ひかり)がバルディエルの視界を塗り潰し、その刹那、青年は一気に間合いを詰めた。
 「進化の先駆」などと大言するバルディエルは双眸にも――否、視覚にも改造が施されており、
如何に強烈な光を浴びせられようとも決して視力が減退することはなく、周辺の状況を完璧に見極めることが出来る。
如何なる暗所であっても同様である。
 烈光(ひかり)による目潰しを仕掛けられた瞬間など、嘲り混じりの薄笑いを浮かべたほどであった。
 バルディエルにとっての誤算は、そのような改造手術を受けた身であっても、青年の速度を捉え切れなかった点だ。
それほどまでに彼の動きは疾(はや)く、想定された数値など優に凌駕していた。

「てめぇらのお陰でプラーナの調子までメチャクチャだ――それがどんなモンか、自分の身体で味わいやがれッ!」

 言うや、青年はバルディエルの首筋へと咬み付いた。獅子が獲物を喰らうように渾身の力で、だ。
 バルディエルが驚愕の声を漏らした直後、青年の身から稲妻が駆け上った。比喩でなく本当に「駆け上った」のである。
 あるいは、青年自身が黄金色の稲妻と化した――とも喩えられる。
 回廊を眩い光で満たした稲妻は天井をも喰い破っている。
おそらくは数千メートルを瞬時にして貫き、地上にまで到達している筈である。
 さながら間欠泉の如く放電現象が起こっているわけだ。
楽園≠ヘ有史以来最大最悪の混乱に見舞われているかも知れない。
 その稲光にバルディエルのものは全く含まれない。幾らでも再生するものと思われたチェーンは焼けて崩れ、
プラーナなる異能(ちから)を発揮するだけの余裕も消滅させられていた。
 獅子の牙によって咬み付かれた首からは赤黒い電流が拡散している。
噴き出した瞬間に血が蒸発し、その色が稲光へと移ったわけだ。

「……バ……バカ……な――このようなこと……数値上……絶対に有り得ん……のに――」

 バルディエルの口から滑り落ちた月並みな台詞を青年は鼻先で笑い飛ばした。
そして、野獣の笑みを浮かべたまま、新時代の先駆とやらが炭屑と成り果てるまで決して牙を離さなかった。
 黄金色の稲光がバルディエルの生命を完全に焼き尽くしたと見極めた青年は、
彼の身を銜え込んだままで首を振り回し、暗がりの向こうへと無造作に放り出した。
 落下の直後、質量というものを感じさせない乾いた音が聞こえた。
文字通りの炭屑と化したバルディエルは、原形を留めないほどに崩れ落ちたのだろう。

「人間って生き物を数値≠ナ語るようなインテリはな、大抵の場合、有り得ないくらい間抜けな計算ミスをするんだよ。
どこまでも教科書通りだったな、てめぇ」

 口内に残された苦味が不快でならなかった青年は、三度(みたび)、床に唾を吐き捨てた。

「……クソッ――マジで抑えてらんねぇ。プラーナの暴走なんて生まれて初めてだ……!」

 新時代の先駆を標榜する忌々しい相手を屠り、昂ぶりが過ぎた後も青年の後ろ髪はそそり立ったままだ。
そこに帯びる電流は、今や暴発めいた炸裂まで見せている。
 「暴発」と言うことに間違いはないだろう。事実、青年は身の裡から湧き上がってくる力を制御し切れずにいる。
黄金色の稲光として発現されているこの異能(ちから)は、世に生まれ落ちた瞬間から青年と共にあったものであり、
持て余すことなど今までには有り得なかったのだ。
 イリーガルな研究に付き合わされた結果か、これに付帯して投与された薬物の副作用か、はたまた全く別の要因か。
いずれにせよ、異能(ちから)そのものが不安定になっていることは間違いない。
 己の意思を離れて暴走する稲光は、青年の表情(かお)を更に険しくさせている。

(ヤツらの研究の所為だとすると、ちと厄介だな。医者に診せりゃ治るってワケでもねぇのか?)

 「研究」と言う単語が脳裏に浮かんだ瞬間、青年の注意はレモンイエローのジャケットへと移った。
 現物は炭屑と成り果てている為、立ち姿も追想に頼るしかないのだが、
それはともかくバルディエルの出で立ちは他の警備兵と明らかに異なっていた。
 一緒に姿を現したので警備の指揮官と断定したのだが、
もしかすると、その見立ては誤りであり、彼だけは別の部署の所属であったのかも知れない。
そう言うことであれば、部下でも何でもない警備兵を捨て石に使ったことも、理解は出来ないが納得は出来る。
 指先から迸らせ異能(ちから)と、これを「進化」などと誇ってみせた口ぶりから推察するに、
バルディエルもまた被験者≠フ一体であった可能性が高い。

(……新時代だの進化だの、ンなことを口にするのは得体の知れねぇ科学者だって、相場が決まってるよな……)

 降って湧いた疑問を解消し得る手掛かりを求め、青年は研究者たちが退去してきた経路を辿る。
即ち、研究区画へ踏み込もうと言うわけである。
 その途上には人型の塊――物も言えなくしたのは彼自身であるが――が幾つも転がっていたが、
青年は眼下を一瞥することもない。ただ煩わしいとしか思わなかった。
 ともすれば、死者への冒涜とも取られ兼ねないのだが、青年自身も付き合わされた実験の委細を思えば、
キマイラホールに詰めていた人間には敬意を払う理由など存在しないのだ。
 白衣姿の彼らこそがヒトの尊厳と言うものを冒涜していたのである。

(そんな下衆共がイシュタルのレリーフを飾ってんだ。これ以上、趣味の悪ィ冗談はねぇぜ)

 キマイラホールに強襲しているであろう仲間たちと一刻も早く合流しなければならないのだが、
己の身に宿ったものと同じ異能(ちから)を弄する人間を見た直後では、その委細を調べようと言う気持ちが先行してしまう。
 バルディエルはその異能(ちから)を青年から得た――とも言い放ったのだ。
「脳に記録された運動パターンのデータを取り込んだ」と、不可解な発言も残している。
 此処は研究施設である。実験にまつわるデータならば山ほど眠っている筈だ。

 手頃な操作卓(コンソール)を見つけた青年は、座るのも億劫とばかりに立ったままで左右の五指を叩き付けていく。
 時代錯誤と仲間にまでからかわれるような堅物な面があり、それをこじらせて機械の類にも弱くなってしまったのだが、
『師匠』に当たる人間はこうした技術に精通しており、彼も簡単な操作だけは習っていた。
 四苦八苦しながら記憶の底より蘇らせた基礎知識は、キマイラホールのコンピューターにも通用したようだ。
 楽園≠フ地下にて行われていた実験の内容を吸い上げているデータベースへアクセスすると、
二匹のクマを模したナビゲーションソフトが画面に出現した。

(テーマパークのマスコットじゃねぇんだから、もうちょっとマシなナビは作れなかったのかよ。
……まあ、堅物どもがこんなユルいキャラクターを相手にしてたのかと思うと、ちょっと笑えてくるけどよ)

 彼らの説明に従って操作を進めていくと、間もなくバルディエルに施された改造手術のあらましが表示された。
 『プラーナ』と呼称される異能(ちから)の原理(メカニズム)を解明し、汎用化を試みる為の生体実験こそが、
バルディエルと言う男の正体――成れの果て≠セったようだ。
 そもそもこの異能の発動には或る特別な条件≠ェ必須であり、「新時代の先駆」を自負した被験者の場合は、
『アウゴエイデス』なる物質を投与することで代替を試みたようである。

(汎用化だって? 俺たち以外の誰が、どうしてコイツ≠必要にするんだよ。
MANAでも買ったほうが手っ取り早いだろうに。……第一、こんなモンを流行らせたら教皇庁が黙っちゃいねぇぜ)

 「プラーナの汎用化」と言う記述から推論を進め、同時に疑念を深めていた青年は、
次にシステム画面の片隅に表示された『アカデミー』なる単語へと目を転じた。

「――『アカデミー』? ……どっかの大学かぁ?」

 教育機関を連想させる単語に首を傾げ、「アカデミー」と復唱する青年の脳裏にひとつの仮説が浮かんだ。
 アカデミーなる名称と、バルディエルが纏っていたレモンイエローのジャケット――
何の接点もなさそうに思われたふたつの情報は、彼の頭の中でひとつに繋がっていた。

(……例の組織≠カゃねぇか……ッ!)

 レモンイエローのジャケットは軍服の一種であり、『アカデミー』と言う名称の組織にて着用されている品であった。
正体≠ヘともかくとして、表向きは士官学校と言う触れ込みであった筈だ。
 バルディエルも何らかの形で組織に与する人間と考えるのが妥当だろう。
あるいは、「被験者」として組織に自らの身を捧げたのかも知れない。
 そう確信せざるを得ない風聞が『アカデミー』という組織には付き纏っている。
例えば、意中の相手≠誘拐して実験素材に用いることなど、喜んでやってのけるだろう。
 記憶の底から引っ張り上げた答えに、青年の憤怒は極限に達した。
激情は稲光にも影響を与え、四方八方へ拡散するほどに勢いが増していく。
 室内に詰め込まれた機械は忽ち焼損し、モニターに映し出されていたシステム画面も、
ナビゲーターを務めていたクマたちも、耳障りな音を引き摺りながら消滅してしまった。

「どこまでも舐めた真似をッ!」

 眦を決した青年は、憤激に任せて操作卓(コンソール)を殴り付けた。
 掌のぶつかった点を中心に猛烈な衝撃波が輻射し、室内を滅茶苦茶に破壊していく。
電流を帯びた衝撃波だ。彼方此方で爆発が起こり、三分も掛からない間に研究区画全体が火の海となった。
 その程度で鬱屈が晴れるわけもない。研究区画を粉砕させた稲光は、バルディエルを屠ったときよりも激烈であった。
何よりも青年の後ろ髪は天を衝いたままだ。そこに帯びた電流も火花を散らしながら逆巻き続けている。

「――ナッくん!」

 赤々と燃え盛る炎の向こうから女性の声が聞こえてきた。爆発音に飲み込まれそうなほど小さく遠い呼び声だったが、
それは確かに青年の心に染み込んでいく。
 呼び声に在ったのは、久しく耳にする機会のなかった名前である。
人から呼びかけられて想い出すのも妙な話だが、本人の意識からもその名前は抜け落ちていた。
 「ナタク」と言う己の名を、彼は初めて想い出したのである。同時に最優先で為すべき目的(こと)も、だ。

「ナッくんッ!」

 また同じ声が鼓膜に染み込む。その声をもっと近くで聞きたいと、心が求めている。

「……こいつは高く付くぜッ!」

 キマイラホールへ詰めていた者たちから『ガラデレオン』と呼ばれた青年――ナタクは、
誰に聞かせるでもなくその一言を吐き捨て、忌むべき研究区画を後にした。
 呼び声のする方角こそが、ナタクにとっての楽園≠ナあった。




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