11.鉄の結束


 誠衛台の事務所の裏手には喫煙専用の空間が設けられている。
と言っても、ルドラが片手間で作った木製のベンチと小さな灰皿が置かれているのみであり、
休憩所と呼べるほど設備が整っているわけではない。
 そもそも、だ。誠衛台は全館禁煙と言うわけではなく、
わざわざ事務所の裏手まで回らずとも煙草を喫(す)うことは自由である。
だからこそ、技官のイザヤも評定場で堂々と喫煙していたのだ。
 この休憩所を使うのは、主として『戦頭(いくさがしら)』と言った幹部たちであった。
それも男性陣に限られる。誰からともなく足を運び、何時の間にやら一種の溜まり場となっていったのだ。
 男ばかりが集まってするものと言えば、雑談や猥談の類であり、
設備は粗末ながら、息抜きの場として有効に機能していた。
 ナタクやルドラ、ハクジツソと言った煙草を喫(す)わない面々も毎日のように顔を見せている。
昔からの仲間と任務以外の話をすることが大切なのだ。
 軍議が終わった直後(あと)もラーフラたちは自然と其処に足を向けた。
大司教の策略を再確認したことで溜まった鬱屈を発散しようと言うわけである。

「――あれ、ナタクは? 一緒じゃねーの?」

 尻を地面に付けないよう気を配りつつ、股を開いてしゃがんでいるシュテンがラーフラにナタクの所在を問う。
平素であれば副長や総長と共に休憩所へやって来るのだが、今は何処にも局長の姿が見当たらない。

「あやつは例の場所≠ナ座禅を組んでおる筈じゃ。毎度のことではないか」
「かーっ……ホント、アイツはジジ臭ェなァ。ツラだけならラーフラが一番老けてんのによォ、
それ以上のジジ臭さだもんな。寿命の進み具合も人並み以上じゃねーの?」

 尋ねられたラーフラは、パイプ煙草に火を点けつつ、例の場所≠ェ位置する方角を顎で示した。
 休憩所に屯する面々の中で煙草を嗜むのはジャガンナート、ナラカースラ、シュテン、アラカネ、ホフリ、
そして、ラーフラの六名だ。こだわりの特注品(パイプ)を使う副長以外はシガレットを喫(す)っている。
 他にもルドラ、ハハヤ、ニッコウ、ゲット、ハクジツソが休憩所に顔を並べているが、
彼らが口に運ぶのは煙草ではなくペットボトルの清涼飲料だ。
ゲットだけは些か特殊で、ミント味の禁煙パイプを好んで咥えていた。

「……やっぱりシュペルシュタインの野郎は殺っとくべきだったよな。
お前、何で絶好のチャンスを逃しやがったんだよ」

 壁に凭れつつ鼻から紫煙を噴き出したアラカネは、シュテンを相手に物騒なことを言い始めた。
彼はモルガン大司教を生きたまま逃したことを未だに納得していないのだ。
 護衛としてナタクの間近に控え、モルガンの言行をつぶさに見てきたアラカネにとって、
彼(か)の男は生かしておくべきではない対象なのだろう。
 抹殺の好機を見送ったことを批難されるシュテンだが、彼とて気持ちだけはアラカネと同じである。
ナタクに対し、再三に亘って爆殺の許可を求めてもいた。

「てめーに言われるまでもねぇ。オレだってブチ殺したくて仕方ねーよ。
でも、仕方ねぇじゃねーか、局長命令だったんだからよ」
「許しなんか訊かねぇで殺しちまえば良かったのによ。あんときゃ、やったもん勝ちだったじゃねーか。
ああ言うカスは後腐れなくキチッと消しとかねぇとよ。
さてはてめー……カミナリ落とされるのが怖くてビビりやがったな」
「おめーだって何もしなかったじゃねーか! オレばっか責めてんじゃねーぞ、でくのぼうッ!」
「まーまー、カリカリすんなって、ふたりとも。優男≠ェゲロッた内容は全部録音してんだからさぁ。
一番の弱点を握ったんだし、それで今回は納得しようよ? 
ヤツの喉元へ銃口突きつけてる状況に変わりはないんだし。
今はおれたちのほうが圧倒的に優勢なんだぜ? いつでも潰せるのさ、あんなヤツ」

 平素の如く不毛な口論を始めたシュテンとアラカネをゲットが理詰めで宥める。
今回はモルガンの謀略に出し抜かれたものの、さりとて全く成果が挙がらなかったわけではない。
一定の収穫があったものと捉え、次の機会を待つと言うのがゲットの考えである。
 尤も、ゲットとて卑劣な大司教を許すつもりはない。アラカネのように口には出さないだけで、
彼も――否、ナタクの仲間たちは、誰もがモルガンに対して深い憎悪の念を抱いている。

「仮にモルガン・シュペルシュタインを潰したところで、教皇庁と抗争になる心配もなさそうだしね。
いずれ必ず追い詰めてやるさ。覇天組を敵に回したことを死んでも後悔させてやるよ」
「ガンちゃんまで煽るなって〜」
「ボクは勝算があって言ってるんだよ、ゲット。ナタクの話を聞く限り、
大司教は教皇庁と言う大きな権力の中に完全に取り込まれてる。細胞の一部になってるわけだ。
ヤツが消えても教皇庁は何も変わらない。ヤツが消えた穴は何事もなかったように回復させる。
それが組織の機能と言うものだからね。……そして、ボクらがヤツを消しても、教皇庁は手出し出来ない。
何だかんだ言って、例の録音は交渉材料には持って来いだよ」
「外科的に切除したら、二度と回復されないモンだって少なくないぜ? 
あいつが教皇庁の器官≠セったらどうするのさ。ムリしてこっちからメスを入れるよりも、
壊死でもするように持っていったほうが安全じゃね?」
「外科的な切除でも壊死でも結果は一緒だよ。器官なり細胞なりが別の場所から移植されて、ハイお終い。
トカゲの尻尾切りより扱いはもっと酷い。……大司教も教皇庁と言う権力の中では雑魚以下なんだよ。
ボクらは返り血が飛ばないタイミング≠見計らうだけで良いのさ」
「そこがおれには一番怖いんだ。覇天組の看板がモルガンの返り血で穢れちまったら、
マジで局長交代みたいな事態になっちゃうもんね」
「そう考えると皮肉な筋運びだね。最初は局長のアタマを挿げ替えるつもりじゃないかって心配してたのに、
今では大司教の挿げ替えみたいな話になってる。しかも、『何も変わらない』って結論まで一緒だな」

 ゲットには呆れられてしまったが、ジャガンナートは本気でモルガンへの報復を企図している。
 大司教の仕組んだ罠を見抜けず、軍師としての矜持も深く傷付いた様子だ。
このまま捨て置くつもりはないと、古くからの仲間の前で決意表明したようなものだった。

「大司教にも腸煮えくり返ってるがよ、テンプルナイトの連中だって潰しておかなきゃならねぇぜ」
「ちょ、ちょっと!? ナラカースラさんッ!?」

 皆の憤りが教皇庁に集中しつつある中、ナラカースラは更に不穏当なことを言い捨て、
隣に立っていたハハヤを仰天させた。
 ナラカースラの言う『テンプルナイト』とは、
言わずもがな、高原別荘地で対峙したゲルハルト・ザッカーの一団である。
 パオシアンの王子、ザッハーク・カヤーニーの調停を容れて和睦した――そのつもりでいたのに、
ナラカースラは解決済みの対立を蒸し返そうと言い出したのだ。
 この話をシンカイが聞いたなら、比喩でなく顔を真っ赤にして激怒したことだろう。
 二番戦頭は休憩所ではなく武道場に直行し、汗を流すことによって苛立ちを紛らわせている。
この場に居合わせなかったのは、ナラカースラにとって幸いであったか、はたまた逆か。
 思わぬ成り行きから敵対関係になってしまったものの、シンカイはテンプルナイトの事情を酌み、
また彼らの精神性や技量を認めていた。それ故に剣を交えなければならない状況を悔やみ、
和睦が成った瞬間には誰よりも喜んだのである。
 ナラカースラはシンカイの気持ちを真っ向から否定したようなものだった。
 モルガンから捨て駒として扱われたゲルハルトらにはハハヤも同情を寄せており、
「その話はもう決着がついたじゃありませんか」とナラカースラの発言を諌めた。

「俺に言わせれば、問題を先延ばしにしただけだぜ。ケリなんか着いちゃいねぇ。
あいつらとは潰し合いしかねぇって、前も言ったよな」
「それこそ最悪のシナリオですよ。いがみ合ったままじゃ何も前進しませんし」
「寝惚けたことを言ってんじゃないよ、ハハヤ。陽之元の人間をまとめてミュータント呼ばわりした連中だぜ。
どうしてこっちが奴らに合わせてやらなきゃならねーんだ。
大体、おんなじ目線に立つことを奴らが喜ぶと思うか? 俺らは人間≠ニ思われてねーんだぞ」
「ですから、それはザッカーさんたちを留学生として迎えることで――」
「何をどう勉強したところで、人間、根っこの部分はそうそう変えられねぇんだよ。
歪んじまった価値観なんてものは特にな」

 どのように注意されようとも、ナラカースラは強硬な態度を崩さない。
 テンプルナイトのことを想い出して苛立ってきたのか、
吸殻を灰皿に突っ込むなり、新たなシガレットに火を点けている。

「付け入る隙を見せたヤツから喰われる――そんな戦いだったじゃねーか、『北東落日の大乱』はよ。
心を開いて良い人間と、そうでない人間がいるってことは、ハハヤだって身に染みて分かってんだろ? 
どうしたって敵≠ノしかならねぇヤツは、世の中に確実に居るんだよ」
「それは分かります。分かってますよ。でも、ザッカーさんたちは確実に前者です。
あんなに潔い人たち、滅多にいませんよ。その心は絶対に信じて良いと思いますっ」
「敵と味方を分けて見るときに人格なんざ何の意味もねぇよ。勿論、個人的な感情だって関係ねぇ。
現にヤツらを動かしてたモンは局長への恨みじゃなかった。……もっと根深いモンが俺らに向けられてただろ」
「そ、そんなことを言い出したら、何も出来ませんよっ」

 四番組――『死番組』とも自称している――を率いるナラカースラは、時代の闇≠生きて来た男である。
マフィアの使い走りをさせられていたシュテンとは違う意味で裏社会を根城にし、
汚辱に塗れ、牢獄に繋がれながらも生命を永らえてきたのだ。
 彼の歩んできた道程が如何に凄惨であったのかは、全身に彫り込まれた刺青が物語っている。
それだけに人間の醜い部分、おぞましい心の働きと言うモノを知り尽くしているのだった。
 対するハハヤは、人間には醜い部分などないものと信じている。
師匠(センパイ)譲りの人の好さと言うべきか、人間の善良な部分を決して疑わないのである。
 一度はすれ違ったゲルハルトたちとも言葉を尽くせば理解し合える。いつか必ず手を取り合える――
それがハハヤの結論であり、この先も貫いていくだろう信念であった。
 純真無垢な魂を保ったまま『北東落日の大乱』を戦い抜いたハハヤにとって、
相手の性情を疑い、解り合えないと諦めてしまうことはどうしても受け容れ難い。
絆を結ぶ可能性さえ断ち切るのは、何よりも悲しいことなのだ。
 まさしく相反する姿勢(スタンス)である。だからこそ、ふたりの話は噛み合わない。
最初から噛み合う筈もなかったと言えよう。

「仮にな、お前やシンちゃんの目利きが当たって、ゲルハルト・ザッカーが正常(まとも)だったとしても、
俺に言わせりゃ、それはたまたま運が良かっただけなんだぜ」
「何がいけないんですか。それこそ御縁≠カゃありませんか。良い兆しですよ」
「いーや、凶兆以外の何物でもねぇ」
「……一度でも前例を作ってしまったら、ナタク君のお人好しに拍車が掛かると言いたいんだね」

 ナラカースラの言葉に閃くものがあったのか、ペットボトルから口を離しつつルドラが低く呻いた。
 隣でパイプを喫(す)っているラーフラも苦虫を噛み潰した表情だ。
ルドラと同じ考えに行き着き、懊悩している様子である。

「ほれ見ろ、総長だって分かってるじゃねーか。……陽之元の人間をミュータント扱いしやがる人間とも
必ず和解出来るって、誰彼構わず受け入れてみろよ。いつかどこかでババを引くのは間違いねぇ。
そうなったとき、一番痛い目に遭うのは誰だ? 結局、局長じゃねーか」
「……悪いが、ワシもナラカースラと同じ考えじゃ。ハハヤの気持ちは尊重したいのじゃが、
お主の言う御縁≠ェ続いた後には、そこに付け込もうとする下衆が必ずや現れる」
「ナタク君はそんな輩も選り分けたりしないだろう。それはハハヤ君が一番解っているんじゃないかな? 
解った上で、わざわざナタク君が傷付く道を採ろうと言うのかい?」
「ルドラさんまで、そんな……」
「ゲルハルト・ザッカーたちの留学は反対しないよ。そこから事態が好転することを祈らずにはいられない。
でも、だからと言って、あらゆる可能性を否定しないで欲しい。我々は覇天組なのだから」

 如何にハハヤと雖も、こればかりは言い返せなかった。
副長と総長は言うに及ばず、『別選隊』を率いる四番戦頭も、今まで覇天組を守る為に泥を呑んできたのだ。
様々な局面に於いて「あらゆる可能性」を考え抜き、あるときは最善の策を打ち、
またあるときは最悪の事態を回避してきた男たちであった。
 人の根源は善良であると信じ過ぎる余り、視野が狭まっていたことを省みたハハヤは、
己の言動を悔いるように唇を噛んだ。

「一回くらい痛い目に遭えばいいんだよ。そしたら、あいつだって少しは懲りるんじゃね?」

 一方でハクジツソのような意見もある。これはシンカイやハハヤに向かって言っているわけではない。
この場には居ないナタクに対して、痛手を被るよう言い捨てたのだ。
そうすれば、度を越した人の好さを悔い改めるだろう、と。
 突き放した言い方にも聞こえるが、それもまた長い付き合いと強い信頼があればこそ。
ハクジツソ自身、人の好さが原因でナタクが傷付く場面を幾度も見てきたのである。
 それ故、「痛い目に遭え」と思わずにはいられなかった。
裏切りなり和解の破綻なり、決定的な打撃でも被れば、その瞬間だけはどん底まで苦悶するだろうが、
以降は自己防衛を心得るに違いない。

「……その程度で性根が直るようなら、あやつはもっと利口に生きておったよ。
少なくとも、覇天組の局長に就任することはなかったであろうの。
それどころか、ワシらがこうやって顔を突き合わせることもなかったハズじゃ」

 ハクジツソの語る荒療治を受けて、ラーフラは首を横に振った。
 覇天組局長と言う男の人の好さは、周囲が呆れてしまうほどの筋金入りである。
モルガン・シュペルシュタインの胆力を認めたように、
敵対関係にある相手にさえ尊敬し得る部分を見つけ出してしまうのだ。
 それがナタクの短所であり、同時に局長を務める上での長所でもある。
計り知れない度量によって荒くれ者揃いの覇天組を導き、太陽の如く照らし続けているのだった。
 人の情けよりも理知が先行する副長や総長では、隊務を取り捌くことは出来ても、隊士を導くことは出来ない。
『誠』の心を体現するナタクなくして、覇天組の結束は有り得ないのだ。

「あやつは損な生き方しか出来ぬ男じゃ。そのお陰でワシらはひとつにまとまっていられる。
……覇天組が存在し続ける限り、局長は小利口にはなれぬのじゃよ。そのこと、ワシらだけは忘れてはならぬぞ」

 こうも言い添えたラーフラに、皆が首肯した。

「――ンま、どうしたってヤベェって思ったら、見せしめに留学生どもをやっちまえばいいじゃね〜の。
ミュータントがどんなにおっかねぇのか、手前ェらで思い知れってね」

 ベンチに寝そべって輪状の煙を吹き出していたホフリは、ナラカースラ以上に過激なことを口走った。
留学生とは、当然ながらゲルハルトらテンプルナイトのことを指している。
相互理解が不可能だと見極めた時点で彼らを抹殺すれば良いと、彼は言い出したのである。
 すかさずハハヤが「論外ですっ!」と食って掛かったが、それも当然の筋運びであろう。

「後腐れが面倒なんだべ? だったらさぁ、殺っちゃうほうが手っ取り早いじゃんか。
そうすりゃ、二度とバカなことを言い出すヤツもいなくなると思うぜ。
シンカイちゃんとゲルなんちゃらの斬り合いをちょいと見学させて貰ったけど、
あれくらいのレベルならMANA装備で来られても、オイラたちだけで始末出来そうだしィ?」
「臭い物に蓋をしただけでは何の解決にもならないじゃないですか! 
もしも、自分たちを最後まで信じきれないなら、そのときは正々堂々と勝負しよう――
シンカイさんはそう約束していました! ホフリさんはそれまでメチャクチャにしようと言うのですか!?」
「そこで、ナラカッちゃんの話に行き着くワケよ。相手はオイラたちをミュータント呼ばわりした連中だべ? 
いざ尋常に勝負って、お膳立てしてやる義理なんかね〜ってばさ」

 ハハヤとホフリの言い争いは、先程まで繰り広げられていたものと何ら変わらなかった。
一番戦頭と相対する顔が交代しただけであり、内容など殆ど同じ。所謂、堂々巡りの様相を呈していた。
 己の狭量を反省したハハヤも、流石にホフリの発言だけは聞き逃せなかったわけである。
陽之元の人間を突然変異体などと呼びつける排他的な層への見せしめとして、
ゲルハルト・ザッカーらを抹殺する――このように極端な理論へ肯くことは不可能であった。
 水掛け論を続けるハハヤとホフリを、ニッコウが「他にもやることは山ほどあるだろ!」と一喝した。

「ミュータント扱いされるのは確かに気分が良いもんじゃないが、差し迫った問題でもないだろ? 
今はギルガメシュがおれたちのターゲット、バックに居そうなアカデミーもな。
陽之元全体で言ったら、『艮家(こんけ)』の生き残りを探し当てることが最優先事項だぜ!」

 艮家とは、嘗て陽之元に巣食っていた旧権力の象徴とも言うべき一門である。
国家の中興から現代に至るまで、数世代に亘って隠然と支配力を発揮してきた血族とも言い換えられる。
 陽之元と言う島国に血肉と化して溶け込んでいたと言っても過言ではない。
そのような存在は国を腐らせる原因であり、世代を重ねるにつれて膿≠ェ噴き出し、
やがて大規模な内戦の時代にまで発展したのだ。
 婚姻と言う政略を駆使して権力の土台を築き上げてきた艮家は、陽之元と言う島国に細胞の如く息衝いており、
根絶は不可能かと思われた――が、反乱の指導者のひとりであり、
ナタクの師匠でもあるフゲンが奇跡と称される『秘策』を打ち出し、
これによって艮家の権力は完全に消え失せてしまった。
 艮家の凋落を受けて、陽之元の内乱は終焉に向かった次第である。
 そもそも、『北東落日の大乱』と言う呼び名は艮家の凋落を表したものなのだ。
曰く、東に日が落ちるような有り得ない事態が起きた――と。
 しかし、権力は剥奪しても人材(にんげん)は残る。
艮家は中央政権だけでなく各地の有力者とも婚姻を結んでいた。
そうした者たちが新政権に加わり、国を操るようになっては艮家の時代の繰り返しとなる。
そこで覇天組は老若男女を問わず艮家を族滅≠ケしめたのである。
 血筋の全てを根絶やしに出来たとは思えないが、少なくとも現世代に於いて国体に影響を及ぼし得る者は、
「国家を腐らせた天下の罪人」と言う大義名分を掲げて残らず始末した――その筈であったのだが、
数ヶ月前に末裔が生存している可能性が報(しら)されたのだ。
 どの世代かは定かではないものの、艮家の一族には貿易相手国を通じて海外に移住した者も在り、
おそらくはその子孫であろうと予想が立てられている。
 ナタクの養子にして優秀な監察方であるヌボコは、艮家末裔の生存が噂される国へ潜伏し、
真偽の調査に当たっていた。この任務にはニッコウとシンカイの伴侶も随伴している。
 両名とも覇天組の隊士なのだ。ニッコウの妻が一番組に、シンカイの恋人が二番組にそれぞれ属している。
 少年隊士が危険な任務に就いているときに目上の人間が優先順位を見誤ってどうするのかと、
ニッコウは窘めているわけだ。

「早期に解決しなきゃ、最悪、『北東落日の大乱』の蒸し返しになっちまう。
艮家の強かさはおれらが一番分かってるだろ? どこかに帰化してるからって油断はならねぇよ」

 大乱の蒸し返しとまで説かれては、如何に軽佻浮薄なホフリと雖も黙るしかない。
ハハヤに至っては恐縮したように俯いてしまった。
 強硬な意見を述べ続けていたナラカースラとて同じである。
ヌボコのことは日頃から目に掛けており、それが為にニッコウの言葉が心に突き刺さった。

「こう言う具合に雁字搦めになっちまうから、大司教くらい先にツブしておきたかったんだがよ」

 皆がニッコウの話に納得して押し黙る中、アラカネだけは憎まれ口を叩く。
彼が咥えるシガレットは、休憩所に着いてから数えて五本目だ。

「問題はひとつずつ消して行くしかあるまい。艮家の追跡も今のワシらにはどうすることも出来ぬ。
さりとて、寝ながら果報を待っておる余裕もない。
アラカネの弁ではないが、先に潰せるものは優先順位をひっくり返してでも始末をつけねばな」

 アラカネの憎まれ口を継ぐ形となったラーフラにニッコウは眉根を寄せている。
 覇天組にとって、又、祖国にとっての優先順位を乱し兼ねないアラカネの言行を、
ラーフラは副長と言う立場でありながら肯定しているのだ。

「ラーフラさんまで煽らんで下さいよ。副長がそれじゃ、まとまるモンもまとまらなくなっちまう」
「そう睨むでない、ニッコウ。要は臨機応変に対処せよと言うことじゃ。それはお主の大得意じゃろうが。
最優先は対ギルガメシュ。これは変わらん。アカデミーの関与が疑いなくなった今、断じて変えられん。
……局長の為にもアカデミーは必ず滅ぼさねばなるまい」

 そう答えたラーフラは、今一度、「アカデミーだけは許さぬ。決して逃さぬ」と繰り返し、
愛用のパイプを片付け始めた。皆に解散を促す合図だった。
 はぐらかされたような気持ちになったニッコウは、なおもラーフラに食って掛かろうとしたが、
その寸前、ゲットの腹が盛大な音を立てた。
 辺りに胃袋を刺激する匂いが垂れ込めていた。それまで充満していた鈍色の煙も香辛料は敵わない。
陽は西に傾き掛けており、夕食の時間が近いことを示している。即ち、厨房で料理当番が奮闘している頃合だ。

「――ご、ごめん。すっごい微妙なタイミングで話の腰を折っちゃった感じだな」
「いや、……もういいよ。おれもアツくなり過ぎてた」

 ゲットの胃袋が上げた悲鳴に脱力させられたニッコウは、過熱していた己を省みるように頭を掻いた。
人と話している最中に声を荒げるなど、全くもって自分らしくもないと気恥ずかしくもある。

「ギルガメシュにせよ、その裏に潜んでいそうなアカデミーにせよ、あるいは艮家にせよ、
戦う順番はそれほど重要なことではないよ。覇天組の――と言うか、我々の最優先はナタク君だ」

 ペットボトルの中身を一気に呷った後、ルドラが皆の顔を順繰りに見回した。

「相手が強大である程にナタク君は危険な戦いをしてしまう。……そこが一番の問題だ。
無茶をしても許されると言う口実を与えてはならない――だろう? ニッコウ君?」
「……あの死にたがりを満足≠ウせるわけには行きませんよ……」
「そのような事態に陥る前に、如何なる敵も退けるしかない。
ナタク君本人は不満だろうが、局長あっての覇天組なのだからね」

 背広の内ポケットにパイプを仕舞うラーフラを目端に捉えながら、ルドラはニッコウの肩を叩く。
 「局長あっての覇天組」と締めくくった総長には、ニッコウだけでなく他の仲間たちも強く頷くのだった。





 陽之元は夕間暮れを迎えている。誠衛台の中庭に敷き詰められた白砂も橙色に染まり、
昼間とは全く違う色彩を生み出していた。あと二時間もすれば空は群青色に塗り替えられる。
その頃になると白砂は星明りを映し、中庭全体が渋味のある趣に変わることだろう。
 時の刻みによって表情≠変える景を、ナタクは飽きもせずに眺めていた。
 覇天組幹部を召集した軍議を終え、電話で覇天組の意向をバーヴァナに伝え、
後回しにしていた荷解きを済ませ、僅かばかり時間のゆとりを得ると、
彼は誠衛台で最も気に入っている場所へ直行した。
 評定場に程近い小部屋である。所謂、板の間であり、
木戸を全開にすると中庭を一望の如く見渡すことが出来るのだ。
 照明が設置されていないので、他の場所と比して相当に暗いのだが、
白砂との対照によって深い味わいが感じられる。少なくとも、ナタクは白と黒の対比に清廉な美を見出していた。
 誠衛台にはナタクの私室もある。だが、彼は余暇をこの小部屋にて過ごすことが多い。
座布団を敷かず、硬い床の上に端然と正座をしている。
 そして、殆どの場合に於いて腕組みし、眉間に皺を寄せている。
 誠衛台の中で最も静かなこの場所は、考えに耽るには最適の環境でもあった。
覇天組局長と言う立場は、思い煩うことが余りにも多い。
中庭と向き合うこの時間は、ナタクにとって必要不可欠と言うわけである。
 それが分かっているからこそ、他の隊士も滅多なことではこの場所に立ち入らないようにしている。
局長の思料を妨げない為の配慮だった。
 特別な資格が必要と言うわけではないのだが、
この空間に入っていけるのは、副長や総長など僅かな人間のみである。
 それ故に――と言うべきか、ナタクは足音だけでも誰が入室して来たのかが判る。
今も入り口の辺りで床板が軋んだのだが、誰の体重を受けた音なのかも直ぐに察せられた。

「――シャラ君か。何かあったのか?」

 砂紋から視線を動かすことなく、ナタクは後ろに座った者に尋ね掛ける。
果たして、そこには公用方――シャラの姿があった。
 言い当てられた側も驚いた様子はない。ナタクなら自分の足音を聞き分けると見越していたのであろう。
だからこそ、声を掛けることもなく、黙したまま彼の後ろに座ったのである。
 部屋の隅に置いてある座布団に手を伸ばしたナタクは、その内の一枚をシャラの手元まで滑らせたが、
彼女はこれを真横に送った。局長に倣い、自分も座布団を使わないつもりである。
 それがナタクにも分かったのだろう。敢えて後ろを振り返ることはなかったが、
代わりに短く溜め息を吐いた。唇から滑り落ちたのは、呆れを含む吐息であった。

「今日の晩御飯はカレーうどんだよ。三種類のチーズをトッピングにして――」
「……そんなことを伝える為にわざわざ来たわけじゃないだろう」

 当然と言えば当然なのだが、適当な受け答えは直ぐに見破られてしまう。
大した理由もなくこの空間へ立ち入る人間など覇天組にはいないからだ。
 暫しの逡巡の後、シャラは困ったように頬を掻いた。

「……フゲンさんのこと、考えてたのかな?」
「……それもあるにはあるが――」

 シャラの真意を悟ったナタクは、先程とは別の意味で溜め息を吐いた。今度は深く長い吐息であった。
誰かに促されたのかは知らないが、ナタクの様子を窺いにやって来たと言うわけだ。
 覇天組に於いて公用方と言う役職は秘書官の役割も担っている。
筆舌に尽くし難い重責を担う局長が心身を健やかに保てるよう気を配るのも彼女の務めであった。
 さりながら、公用方の任務として定められているわけではない。
本来ならば不要である筈の負担をシャラに掛けているのであり、そのことがナタクには心苦しかった。

「――今回の視察は師匠も特に気合いを入れて取り組んでいた。
どんな形であれ、それが途切れてしまったことがやるせない。師匠の悔しさを思うと、俺は……」
「局長……」
「確かに異世界へ飛ばされたことは心配だ。……それ以上に師匠の無念が俺にはやりきれない。
一度、決めたことを断念するのは、あの人にとっては何より辛い筈だから……」

 一瞬だけ瞑目し、それから言葉を継いだナタクは、今まで胸中に留めていた真情を吐露していく。
 フゲンが神隠しの被害に遭ったことは、先程の軍議でも発表していた。
彼の捜索をモルガンが利用せんとした企んだことも併せて話していた――が、
ナタクはこの件を陽之元の要人の失踪≠ニして扱い、己の師匠とは一度も口にしなかった。
 無論、古くからの仲間たちはフゲンとナタクの師弟関係を知っている。
『北東落日の大乱』では旧権力を倒すべく共闘までしたのだ。覇天組にとっても関わりが深い人物である。
 ニッコウは「大事なお師匠さんじゃないか。他人事みたいに言わなくてもいいんだぜ」とも気遣ったのだが、
ナタク当人がこれを受け付けなかった。
 莫迦が付くほど大真面目なナタクは、私情に流されてはならないと己を厳しく戒め、
あくまでも公人としての立場から陽之元の要人≠フ神隠しに取り組む構えである。

「……トルピリ・ベイドの視察は大事なお役目だもんね……」

 シャラの口からも溜め息が零れた。神隠しの被害に遭う前にフゲンが視察へ赴いていたのは、
『トルピリ・ベイド』と言う名の都市(まち)であった。
 世界屈指の軍需企業、ロンギヌス社が興ったその都市は、
数世代も遡る遠い昔、陽之元より旅立った移民団が辿り着いた土地でもあるのだ。
 即ち、陽之元とトルピリ・ベイドは同じ祖先(ルーツ)で結ばれているわけである。
それにも関わらず、トルピリ・ベイドの側には陽之元特有のプラーナは受け継がれていない。
太古の昔から文献でも確認される異能(ちから)だ。移民になったと言うだけで失われるとは思えなかった。
 果たして、どの世代でプラーナの継承が途絶えてしまったのか。
また、どうして異能の消失に至ったのか。この謎を解き明かすこともフゲンは楽しみにしていた。
 勿論、移民の歴史(あゆみ)やトルピリ・ベイドと陽之元の文化的な共通点を検証することも重要である。
ナタク個人としては、こちらのほうに興味を引かれるのだった。
 だが、公人としてのナタクは全く別のものに注意を払っている。
 フゲンはロンギヌス社の動向を探ると言う重大な任務に帯びていた。
会長のサーディェル・R・ペイルライダーが失踪したと言う風聞が巷に起こったのだ。
彼も神隠しに遭ったのではないかと推量する声もある。
 あくまでもトルピリ・ベイドと言う土地への視察がフゲンの目的である――が、
何しろ世界を動かし得るロンギヌス社の変事だ。陽之元の政府も事態を重く受け止め、
真相の究明をフゲンに託した次第である。
 そして、幾つもの重大事を抱えたまま、フゲン自身が地上から消え去ってしまったのである。

「確かに異世界ファンタジーは大ブームだけど、まさか、こんな身近に迫ってくるなんてねぇ〜。
ちょっと面白そうかも――なんて言ったら不謹慎かなぁ」
「そう言うものなのか? 世間の流行り廃りは俺には良く分からねぇが……」
「ま、異世界ファンタジーでもパラレル冒険記になっても、フゲンさんなら何の心配も要らないんじゃないかな。
教皇庁は変なことを企んでるみたいだけど、そんな人たちにも異世界に居ながら一泡吹かせてくれるハズだよ。
具体的にどんな風にぎゃふんと言わせるのかは、ちょっと思い浮かばないけど」
「――かも知れねぇな。師匠は何事も楽しむ人だからな。
向こうの世界でも友達一〇〇人くらい簡単に作っちまいそうだ」

 シャラに背を向けたまま、ナタクは肩を揺すらせて笑った。
 彼女が述べたことについて、フゲンの弟子としては確信に近いものを持っている。
教皇庁が異世界への侵略行為を企むと直感し、現地の人々と結んで防衛策を練り上げるかも知れない。
それくらいのことは平然とやってのける怪物なのだ。
 仮にフゲンが教皇庁を迎え撃つ備えをしていたなら、ナタクは喜んでその戦列に加わるつもりだ。
如何に自分たちのエンディニオン≠護持する為とは雖も、
ギルガメシュと同じ悪逆に手を染めることが許されるわけがない。
 晴れて堂々と教皇庁を討てると言うものであり、
そのときは覇天組を――否、陽之元を挙げての大合戦になるだろう。

「ナッくんって本当にフゲンさんのことが好きだよねぇ」
「バカ弟子と呼んでくれて構わねぇぜ」
「それはどうか分からないけど、ミカボシちゃんは飼い主に似たんだなぁって。
ミカボシちゃんもナッくんの後ろを喜んで随いてくもん」
「あいつはメシくれるヤツに尻尾振ってるだけだよ。……まあ、広い意味では似てると言えるのかもな」

 ナタクの口から笑い声が零れたことでシャラの緊張も解れたのであろう。
いつしか「局長」と言う役職名ではなく「ナッくん」と愛称で呼び掛けるようになっていた。
 ナタク自身も声が少し柔らかくなったように思える。
ほんの一時のことではあろうが、覇天組局長と言う重責から解き放たれた様子である。

「――そう言えば、ちょっと前にフゲンさんの逆パターンがあったね。ほら、ナッくんに逮捕された……」
「逮捕とは人聞きが悪いな。挙動不審だったから、ちょいと職務質問しただけだぜ。
まあ、妙な抵抗しやがったんで、一発シメてはやったけどさ」

 「前科だって付いちゃいないぜ。本気で逮捕したら、国外退去だったよ、あいつ」と語りながら、
ナタクはシャラの挙げた出来事を記憶の底より引っ張り上げた。
 彼女が想い出したのは、ナガレ・シラカワと言うトルピリ・ベイド出身の青年であった。
移民(じぶんたち)の起源(ルーツ)が如何なるものかを見聞する為に陽之元へ来訪し、
そこでナタクと出逢ったのである。
 ナガレと言う青年は正式な手続きを踏んで入国しており、覇天組としても咎める理由はなかった。
悶着が起きた原因は、彼の挙動にあった。よりにもよって首都で不審な振る舞いを見せた為、
止むを得ず誠衛台まで連行したのだ。
 その過程で一戦交える羽目にはなったのだが、公務執行妨害として逮捕することもなく、
事情聴取だけで放免していた。しかも、戦いで負った怪我の治療と言う厚遇(サービス)も付けて、だ。

(――ああ、そうか。ナガレもロンギヌスの一員だ。……年取ると大事なことまで忘れちまってダメだな)

 嘗ての悶着を振り返りながら、ナガレ・シラカワがロンギヌス社の社員であったことを
ナタクは想い出していた。事情聴取から受けた印象では、上層部に将来を嘱望されるような逸材であった。
今もまだ彼(か)の企業に在籍しているとすれば、一番の出世頭になっているだろう。
 ともすれば、ナガレを通じてロンギヌス社の内情を探ることが出来たかも知れない。
もっと早くにこのことを思い出していれば、フゲンとの間を取り持つ裏工作も図ったのだが、
今となっては何の意味も為さなかった。

「『シメた』って言う割には、ナッくんも結構やられた憶えがあるけど?」
「ああ、……ヤツが使ってたMANA、ロンギヌス社の最新モデルだけあって面白かったよ。
戦闘訓練もしっかり積んでいやがった。平社員ってコト以外は突っ込んで訊かなかったけど、
もしかしたら、MANAのテストパイロットか何かだったのかも知れねぇな」
「『面白かった』の一言で済ませちゃうのもどうかと思うよ? 
一歩間違えたら、腕を焼き切られるところだったんだから」
「さすがにそれはねぇよ。……せめて、あの男くらい――カナン・ミトセくらい速くなけりゃ、
俺もやられてやるわけにはいかねぇよ」

 神速の攻防の好例として、ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男――カナンをナタクが挙げたとき、
シャラの脳裏に閃くものがあった。彼女の頭の中でトルピリ・ベイドとミトセの名が結び合わさっていた。

「もしかして、ミトセさんもトルピリ・ベイド移民だったのかな」
「……なんだって?」
「アタシ、そう言うのはあんまり詳しくないからうろ憶えなんだけど、
カナンさんのご先祖様はヨシダさんとか何とかって、ナッくん、前に話してなかったっけ?」
「あー……、よく憶えてたな」
「それで、ちょっとピンと来たの。ヨシダさんって苗字、トルピリ・ベイドにありそうじゃない?」

 シャラの閃きにナタクは思わず唸った。カナン・ミトセは嘗ての好敵手であるが、
今の今まで出生地に想像を巡らせたことなどなかったのだ。
 しかし、彼女の推察が正解とはどうしても思えない。
 ナタクの読んだ文献によると、ジェームズ・ミトセの系譜はヨシダ≠ニ言う血族を
祖先(ルーツ)にしているそうだ。シャラはこの話を想い出し、推察の材料にしたのである。
 確かにヨシダと言う家名は、トルピリ・ベイドで使われているもの――嘗て陽之元でも一般的であった――と
極めて良く似た響きと言える。
 しかし、ジェームズ・ミトセ自身はルーインドサピエンス(旧人類)よりも更に古い時代の人間なので、
トルピリ・ベイド移民に相似性を求めるのは些か難しかろう。
家名の響きが似通っているのも単なる偶然でしかあるまい。

「あんまり自分のことは話さなかったけど、少なくとも、トルピリ・ベイド出身じゃなかったと思うぜ。
ミトセの流派だって陽之元では誰も継承していなかった。それなら移民と一緒に向こうへ伝わることもない」
「成る程、そーゆーところからも分かるんだね。いいセン行ってると思ったんだけどなぁ」
「着眼点は良かったと思うよ。俺、あいつの故郷なんて全く興味なかったからさ」

 トルピリ・ベイドでなければ、当代のミトセは何処で生まれたのか。
そもそも、ジェームズ・ミトセの流派は如何なる国にて継承されているのか――
膨大な量の武術史を調べたナタクでさえ、その問いには答えを持ち得なかった。
 ジェームズ・ミトセの系譜についても文献を読み漁った筈なのだが、
何故か、其処だけが記憶から抜け落ちてしまっていた。
些か記憶が不鮮明であるが、もしかすると現在の伝承地は文献にさえ明記されていなかったかも知れない。
 そう思えてならないほど、ミトセにまつわる記憶には虫食いの箇所があるのだった。

(あれだけミトセ、ミトセっつっといて、俺も薄情なモンだな……)

 我ながら物忘れが激しくなったものだと、ナタクは頭を掻くしかなかった。

「多分、ナッくんからの聞きかじりだったと思うんだけど――ジェームズ・ミトセって人は、
生まれ故郷とは別の国に渡って格闘技を教えたんだよ……ね?」

 一方のシャラは、嘗てナタクから伝聞したジェームズ・ミトセのことを懸命になって思い出そうとしていた。
知り得る限りの情報を記憶の底から拾い上げるつもりなのだろう。
 そこまでしなくても構わないと思ったが、
虫食いを埋める答えを過去の自分がシャラに話していたかも知れない。
だから、無理に話題を打ち切ろうとはせず、暫時、彼女に付き合うことにした。

「移り住んだ先で武術を興したのは間違いねぇよ。だから、その土地では拳法の祖とも呼ばれていたらしい。
……『ミトセ』を名乗るようになったのは初代から数えて二一代目のときだったかな。
それがジェームズ・ミトセその人だよ」

 ナタクの調べたところによると、ジェームズ・ミトセは常夏の島で生まれ育ったと言う。
父祖の代に別の国から移り住んだとも文献には記されており、
この家系にて連綿と受け継がれてきた武術こそが、俗に『ジェームズ・ミトセの系譜』と呼ばれる流派(もの)、
あるいはその源流であった。

「ジェームズ・ミトセにはトーマスと言う息子がいたんだが、その人に父祖伝来の流派が授けられ、
……色々あった後、二二代の継承者になった――と俺は聞いているよ」
「一子相伝ってヤツかな? じゃあ、トーマスさんも息子さんに跡を――」
「道場を構えてたくさんの弟子を取っていたから、別に一子相伝でもなかったみたいだぜ。
……ただし、その道場の師範と、ジェームズ・ミトセ直系の業は別々の人間が継いだそうだ」
「なんか、複雑な裏事情が絡んでるっぽい?」
「ミダさんが齧(かぶ)り付いてる昼ドラみたいな話でもねぇけどな」

 「他所の家の事情だから、迂闊なことも言えねぇが」とナタクは前置きをしてから、言葉を継いだ。

「ジェームズ・ミトセはな、若い頃に自分の先祖が生まれた国へ渡って、そこで修練を積んだんだ」
「如何にも武術家って感じだね」
「そして、その修練の最中に土地の女性と恋に落ちて、ひとりの男児(こども)を授かった。
正式に籍は入れなかったそうだが――結局、ジェームズはその土地を離れることになり、
以来、恋人とも息子とも逢うことはなかった。……祖先の国と、自分の生まれた国の間で戦争が起きたと言うから、
こればかりは仕方ねぇな」
「今までの流れから推理すると、修業時代に生まれた息子さんが直系の業って言うのを継いだ……のかな?」
「半分だけ当たりだ――正確には息子じゃなく孫が継いだらしい」

 その孫は死期が迫っていた獄中のジェームズ・ミトセとも対面を果たせたそうだ――と、ナタクは言い添えた。

「トーマス・ミトセにとっては複雑だよな。親父が他所で作った子の――そのまた息子が現れたんだから」
「さっき、ナッくんは違うって言ったけど、これ、思いっ切りミダさんが好きな昼メロ展開だよっ!?」
「残念だけど、ここからドロドロにはならねぇんだ。……血は争えないと言うか何と言うか、
その子が父の才能を受け継いでいると、トーマスも見極めたんだろう。
道場で教える表≠フ技とは別に裏≠フ業(わざ)まで全てを叩き込んだそうだよ」
「表と……裏?」
「それがジェームズ・ミトセの直系の業だ」

 そして、その業が現在までにジェームズ・ミトセの系譜として継承されてきたのだと、ナタクは締め括った。
「俺が調べた資料ではそう書かれていたよ」と付け加えることも忘れずに、だ。
 ジェームズ・ミトセが生きた時代から無窮の年月が過ぎているのだ。
完璧な形で真実を伝えている文献などは何処にもあるまい。
ナタク自身、己が知り得た情報も「ひとつの可能性」として捉え、
絶対的に正しいとは断言しないように心掛けている。
 当代のミトセ――カナンに答え合わせを求めたならば、仮説と真実は全く違うと鼻で笑われるかも知れなかった。

「それじゃあ、以前(まえ)にナッくんと戦ったカナンさんは、直系の業を継いだ人の子孫なんだね」
「多分な。ヤツの業は本物≠セった。騙りなんかじゃ絶対に生み出せねぇよ。
身体に刻まれた痛みは今でも鮮明に憶えてるぜ」

 我知らずナタクは拳を握り締めていた。
 ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男と立ち合った後も、彼は多くの死闘を経験した。
「戦いの申し子」と畏怖される者の宿命に導かれて、だ。
 全身に猛毒が回り、四肢の機能が失われ、意識が混濁する中で極限を超えたこともある。
 聖王流の最終奥義を半ば破られた挙げ句、喉笛を咬み千切られて生死の境を彷徨ったこともある。
『北東落日の大乱』の最中に起きた同門≠ニの血戦では、
互いに最終奥義を繰り出し、刹那の見誤りが絶命を招くと言う死線にも立った。
 そして、カナン・ミトセと繰り広げた死合は、間違いなくこれらと同等のものである。
戦いの烈しさが肉体と精神を凌駕し、人間としての極限に達した後、その先≠ワで進む道が開かれる――
武術を志す者にとって得難い時間を分かち合えたのだ。

「また戦いたい? カナンさんと――」

 シャラの問い掛けにナタクは頭を掻いた。ある意味に於いては答えようのない質問と言えた。

「さて、どうかな。あいつの流派は裏≠フ秘伝まで全部見せて貰ったし、
あの日の死合で満足しちまった気がしないでもねぇよ」

 「一期一会」と言う至言(ことば)がある。また、『死合』と言う天涯にも等しい境地がある。
生命の遣り取りとは、まさしく一度きりの極限であり、次の機会に仕切り直すと言う状況は有り得ない。
 ナタクもカナン・ミトセも、桁外れの逞しさによって生命を永らえはしたものの、
本来ならば墓の下に在ってもおかしくはなかったのだ。
『死合』の果てに待つものは、余人が考えるほど甘いものではなかった。
 それでも、しぶとく生き延びた。だからと言って、わざわざ再戦する必要性は感じられないとナタクは語った。
あの一戦で互いの全てを出し切った。双方の最終奥義もぶつけ合った。
『拳法斎』を名乗る求道者の言葉を借りるならば、「学ぶこと」はもう残されていないだろう――と。

「……完璧に壊れちまったあいつが、それを突き抜けて更なる高みまで辿り着いていたなら、
もう一度、戦う意味はあるのかも知れねぇな」

 口では消極的なことを言いながらも、ナタクの声は大いに昂ぶっている。
ジェームズ・ミトセについて語らう内、心に灼熱の火柱が熾きたと言う証左である。

「やっぱり、また戦いたいんでしょ?」
「気持ち的には五分かな。もう一度、カナン・ミトセと立ち合ったら、俺は今度こそ死ぬかも知れねぇ。
……それも悪くねぇか。俺を殺れるとしたら、多分、それはあの男だから」
「……それは困るよ、覇天組局長さん=v
「だから、五分。……あの頃に比べたら、俺だって若く≠ネいしな」

 いくら武術家としての血が滾ったとは雖も、自分からミトセの消息を探ろうとは思わない。
神隠しの実態を徹底的に洗う≠ニしても、捜索を優先すべき人間は多いのだ。
それこそが、覇天組局長としての務めである。
 ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男と初めて戦ったときは、
武術家としての矜持を優先させることが出来た――が、現在(いま)は背負っているものが余りにも違う。
双肩に食い込む重責(おもみ)など往時とは比べ物にならなかった。

(……壊れた者同士なら、前とは違う結果になるかも知れねぇな――)

 だが、カナン・ミトセ自身が眼前に現れ、極限の死合を再び望むのであれば、
そのときはナタクも喜んで応じることだろう。

(――それも面白ェ)

 自分を殺れるとすれば、それはジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男――その思いは確信にも近いのだ。

「腕試しも分かるけど、……自分の身体をいたわらなきゃダメなんだからね、ナッくん」

 シャラが掛けた言葉には様々な念(ねがい)が込められている。
無謀な戦いを繰り返すことへの戒めも含まれている。いや、その念こそが何よりも強かろう。
 覇天組局長と言う責任と自覚さえも、今のナタクは或る瞬間に突き抜けてしまう。
鼻先まで迫る死の影に危機感ではなく悦楽(よろこび)を見出し、これに心身を委ねてしまうのだ。
 覇天組公用方としても、シャラと言う一個人としても、断じて見過ごすわけにはいかない。
今、目の前に在るナタクの魂は、死地を超えるのではなく、死地を往くことばかり目指している。
それは武術家の矜持と明らかに異なる精神(もの)であった。

「『気持ち的には五分』とだけ言っとくよ、シーちゃん」

 シャラの念を背中で受け止めたナタクは、それ以上は言葉を発さず、ただ砂紋を眺めるばかりである。
半ば閉じかけた双眸には、虚ろな光を湛えている。
 白砂を染める夕陽の色は秒を刻む毎にその濃さを増し、清廉な美に更なる深みを与えているが、
最早、ナタクの意識は中庭の景には向かっていない筈だ。
 遠くを――此処ではない遥か遠くを見ている。
そのことが背中越しにも分かったシャラは、黙したまま唇を噛むのだった。





 陽之元が夕間暮れを迎える頃――西方に所在する或る国では、
最も高い位置まで昇り切った太陽が燦然と地上を照らしていた。
 太陽の祝福を受けた往来は賑々しく、人々は活力に満ち溢れている。
 監察の任務を帯びてこの地に潜入しているヌボコは、
しかし、陽の光が届かないような薄暗い路地裏を駆けていた。
全身を漆黒のプロテクターで固め、両手には『金剛杵』と呼ばれる武具を握り締めている。
 やや短めの刃と、この根元から弧を描くように張り出す二本の爪を組み合わせた『三鈷杵』を左手に、
長い一本の刃が突き出した『独鈷杵』を右手に、それぞれ携えていた。
 裏通りを屯する現地の人々には、冥府より降り立った死神のように見えたのだろう。
あるいは、見た者に呪いを振り撒く悪魔だと見做されたのかも知れない。
馳せ違った折に幾人かは悲鳴を上げ、腰を抜かしていた。
 驚かせてしまったことを心中にて詫びつつも、ヌボコは決して走る速度を落とさない。

 ことの発端は同行していた仲間からの連絡である。
 ヌボコはふたりの隊士と共に同地に潜伏し、散開して調査に当たっていたのだが、
そのひとりから「ギルガメシュの支援を図る集団を発見した」と言う急報を受けたのだ。
 教皇庁の要請を受けてギルガメシュと戦っている覇天組ではあるものの、
今回の任務に彼(か)の組織の取り締まりは含まれていない。
 陽之元の旧権力を象徴し、且つ覇天組にとって最大の政敵でもあった『艮家』の血脈が
遠国にて生き延びているとの情報を受け、逃亡先と予想される地域を調べているのだった。
 だが、ギルガメシュの支援者とあっては看過するわけにはいかない。
しかも、件の隊士はもうひとりと連携して疑惑の集団を路地裏まで追い込んでいると言うのだ。
幾筋もの細道が合流する地点には自然公園があり、そこまで誘導して取り囲む作戦のようである。
 裏を取らない内から攻め立てるなど如何にも性急であり、誤認の可能性とて否めないものの、
既に追い込みが開始されている以上、ヌボコも加わらないわけにはいかなかった。
 間が悪いことに同行する二名は覇天組創設以来のメンバーであり、ヌボコにとっては大先輩に当たる。
その上、ニッコウの愛妻とシンカイの恋人――誤りではないかと質すことが憚られる相手なのだ。

(……あのふたりは思い込みで突っ走るから、こう言う場合の判断も信用出来かねるんだが……)

 こうなったら、諸先輩の直感を信じるしかない。背の高い建物の脇を通り抜け、ヌボコは合流地点へと急いだ。
 ひとりの少年を視界に捉えたのは、そのような折のことであった。
辺りの様子を頻りに窺いつつ、物陰から物陰へと忍び足で移動している。
何か≠ノ追われて逃げ惑う最中であることは、汗で塗れた顔を見れば瞭然であろう。
 右手にはブロードソードを握り締めている。

「……そこで何をしている」

 声を掛けると、その少年は弾かれたようにヌボコを振り返り、すぐさまに双眸を見開いた。
自分のこと――否、自分たちを追い立てている一味と見極めたのであろう。

「お前か、ボクの仲間を襲ったのはッ!?」

 吼え声を引き摺りながらヌボコへと向き直り、剣先を相手の喉元に突き付けるような高さにて
ブロードソードを構えた。オリエンタルブルーの瞳は強い憤激で燃え滾っている。

「攻撃されるだけの理由がある筈だ。身に憶えと言うものが」
「はァッ!? ワケわかんないこと、言ってんじゃないぞ、コスプレ野郎めッ!」
「コスプレとはご挨拶だな」

 剥き出しの闘志を浴びせられるヌボコであるが、金剛杵を構えながらもその思考は至って冷静である。
己と同い年くらいであろうとも見極めた。
 使い込まれたロングコートを纏っている為、一見すると大人びた印象なのだが、
目元や顔立ちからは幼さが抜け切っていない。
それは、ヌボコ自身がシュテンやホフリに茶化される部分でもあった。

「抵抗は無意味だ。大人しく投降しろ」
「通り魔のクセに保安官みたいなことを言うなッ!」

 両手で握り締めるブロードソードも単なる虚仮脅しではなく、一応は剣術の心得もありそうだ――が、
シンカイと比して余りにも拙い。駆け出しの剣士と言うことは構えを見ただけでも分かってしまった。
おそらくは基礎を修めた程度であろう。
 ヌボコに言わせれば、不慣れな者が狭い路地にて抜剣すること自体、大いなる迂闊であった。
 閉所に応じた剣法は幾つも在る。間合いを潰すよう巧みに立ち回ると、
攻め懸かってくる相手を一方的に封殺し、広い場所で戦うよりも遥かに恐ろしくなるのだ。
 だが、目の前に在る空色の髪の少年はどうか。そこまでの剣法を体得しているようには見えなかった。
 閉所にて長い刃を振るうことを全く考慮していない構え方や剣先の動きからして、
このような状況で戦うこと自体が初めてなのだろう。狭い空間と言うことを失念して大きく振りかぶり、
左右の壁に刀身をぶつけてしまうかも知れない。
 両者の力量は、残酷なまでに掛け離れている。
 小手調べとばかりに剣先を二度、三度と突き出してくるが、いずれもヌボコは三鈷杵でもって弾いた。
正確には中央の刃と爪の隙間で挟み込み、刀身ごと少年の上体を振り回した。
 得物の長さではブロードソードのほうが遥かに勝っているのだが、
技量の差が開いていては何の意味も為さない――空色の髪の少年にも歴然たる腕≠フ違いが伝わったのだろう。
ほんの一瞬ながら面を焦燥で歪ませた。
 しかし、それでも彼は諦めない。即座に気を引き締め、呼気を整え、柄を握り直した。
肩に余計な力が入っている様子だが、強敵を前にしても臆することなく立ち向かう気概は悪くない。

「――くそゥッ!」

 鋭く呼気を吐き出すと同時に、空色の髪の少年は再び斬撃を繰り出した。
 手首の柔軟性を駆使して素早く刃を振るい、掠めるようにしてヌボコの右手を狙う。
指を斬り裂いて独鈷杵を奪うのが狙いのようであった。
 これもまた閉所に於ける技法の一種だった。構えの甘さなどから未熟者と早合点してしまったのだが、
様々な状況に応じた戦法そのものは心得ているらしい。
 ヌボコは構わずに右手を打たせた――と言っても、五指を差し出したわけではない。
直撃の寸前に手を翻し、甲を守るプロテクターで刃を跳ね返したのである。
 これがシンカイあるいはバーヴァナのような達人であったなら、
装甲の継ぎ目を見極めて切断するところであるが、そこまで高度な技術を求めるのは流石に酷と言うものだ。
 そのような領域には達していないと考えたからこそ、ヌボコも斬撃を避けなかったのである。
 空色の髪の少年が刃を振るう度、ヌボコの耳に金属の擦れる音が飛び込んで来た。
ロングコートの裏地にでも小振りの鎖を編み込んでいるのだろう。
どの程度の強度を備えているのかは知れないが、ヌボコが――否、覇天組の隊士が本気になれば、
生半可な防具など容易に突破出来るのだ。
 編み鎖など無意味と言うことは少年の側も察知しているらしい。だからこそ、別の方法で防御を工夫し始めた。
路地裏には梯子や樽と言った日用品が置かれてあり、
これを路面に倒すことで攻め寄せてくる側の足場を悪化させたのである。
 ヌボコにとって、それは浅知恵以外の何物でもなかった。
如何なる状況であっても機敏に動けるよう修練を積んでいるのだ。
 しかも、路面に転がるのは日用品ばかりであり、専門的な罠の類ではない。
障害物などとは考えず、踏み越えれば良いだけであった。
 ヌボコが大きな樽を飛び越えた瞬間、空色の髪の少年は着地の足を狙って斜めに刃を振り落とした。
どうやら、日常品を障害物代わりに使ってきたのは、この瞬間の布石であったようだ。
 攻撃に気を取られた所為で閉所と言うことを忘れ、振り翳した刃を壁に当ててしまったが、
数手先まで計算した工夫自体は悪くない。素早く半身を開いて斬撃を躱したヌボコも、
「今のは良かったな」と賞賛を口にした程である。

「この野郎、ボクを舐めてやがんなッ!」
「舐めてはおらん。他者(ひと)を見下せるほど俺だって上等じゃない」

 少年の身のこなしもヌボコは見直していた。斜め下へと振り落とす一閃が避けられた後、
彼は即座に上体を引き起こし、反撃に備えたのである。その動きに無駄は見られなかった。
 剣の腕前は半人前ながら、身体能力や反射神経は非凡である。熱心に鍛錬を積んでいることが窺えた。

「目に物見せてやるかんなーッ!」

 四方向からの細道が交わる辻に差し掛かったとき、空色の髪の少年は初めて強撃を試みた。
今までになく大きく踏み込み、縦一文字を振り落としたのである。
 ヌボコが後方に飛び退ると、ブロードソードは勢い余って石畳を叩き、火花を散らしつつ跳ね返った。
 ヌボコにして見れば、反撃の好機であったのだが、浅く前足を動かすだけに留め、様子を窺うことにした。
崩れた体勢からでも上体を跳ね起こし、追撃を繰り出してくると見えたからだ。
 果たして、空色の髪の少年は身を捻るようにしてブロードソードを振り上げた。
最初の斬撃の際に離された間合いを詰めるべく、半歩ばかり踏み込んでいくことも忘れてはいない。
 広い空間にて大振りの技に転じたのは、当然ながら先程と同じ醜態を演じない為の工夫である。
刀身が壁に当たれば撃ち込みの拍子が崩れ、技の威力も速度さえも減殺されてしまう。
ただでさえ格上の相手だと言うのに、自ら出端をしくじっていては話になるまい。
 空色の髪の少年は、戦いの中から最善の選択肢を学び、これを即座に実践している。
冷静さを欠いていない証左であった。

(ギルガメシュの雑魚よりもずっと歯応えがある。ここで討つには惜しいかも知れん)

 斜め下から襲い掛かってきた斬り上げを独鈷杵の刃で撥ね飛ばしたヌボコは、
まるで値踏みでもするかのように空色の髪の少年を見据えた。
 互いの刃が衝突した瞬間、全身を振り回されるような衝撃に見舞われた筈だが、
少年はブロードソードを取り落とすこともなく耐え凌ぎ、すかさず構えを直して見せた。
 勝負勘が鋭い。何よりも肝が据わっている。確実に追い詰められていると言うのに、
一瞬たりとも取り乱したりはしない――この少年の真っ直ぐな瞳を、ヌボコは気に入り始めていた。

「お前は何者なんだよ!? 何でボクらを狙うんだッ!?」
「覇天組――そう名乗れば、こと足りるだろう」
「ハテングミィ!? そんなん知らな――あ、いや、待てよ? どこかで聞いたことがあるような……」
「しらばっくれとるのか? どの道、ここで逃すつもりはない。ご同行願おう」
「冗談ッ! いきなり襲ってくる通り魔なんかに従えるかッ!」

 重心を落として金剛杵を構えたヌボコは、少しずつ両足を前方へと運んでいく。
対する少年は、ブロードソードの柄頭を臍の上に引きつけ、剣先の高さを相手の喉元に定めたまま、
じりじりと後退りを始めた。
 ヌボコの側は言外の威圧を仕掛け、少年の側は攻め倦ねているわけだ。
 少年の退路からは眩いばかりの光が無遠慮と言うほど差し込んでいる。
その先には広い空間が、自然公園が所在している筈だ。そこが仲間との合流地点と言うわけである。
 ヌボコは威圧を以ってして空色の髪の少年を押し出すことに決めた。
精神的に圧迫していたぶるような趣味はなく、気分はすこぶる落ち込んでしまうが、
力ずくで攻め立てるよりはまだ良い。
 前進するヌボコと後退する少年剣士――これを繰り返す内に両者は自然公園に至った。
 開けた空間を見渡すと、別の少年ふたりが背中合わせで臨戦態勢を取っている。
彼らを取り囲んでいるのは、急報を入れてきたふたりの女性隊士であった。
 一番隊のクンダリーニと、二番隊のジーヴァだ。前者がニッコウの、後者がシンカイの伴侶である。
 少年のひとりは体術を得意としているらしく、その場で軽やかに飛び跳ねつつ、固く拳を握り締めている。
身のこなしからして、おそらくは『ルチャ・リブレ』の使い手であろうとヌボコは見当を付けた。
 そして、もうひとりは――

「……成る程、両手に花ですか。良いご身分ですね」

 ――冗談めかして批難の声を飛ばしてくる少年にヌボコの目は釘付けになった。
 肩に掛からない程度の長さで切り揃えたローズグレーの髪にも、
ローアンバーの瞳にも、唇の左下に置かれたホクロさえも、ヌボコには見覚えがあった。
 見覚えどころの話ではない。この少年と紡いだ想い出が親愛の情と共に蘇ってくるのだ。

「な、なんだよ、急にどうした?」
「い、いや、……そんなバカな……」

 突然の変調に空色の髪の少年も首を傾げるが、当のヌボコは満足に答えも返せないまま全身を硬直させている。

「……ジャスティン……なのか!?」
「ご無沙汰しております、セシルさん=v

 ジャスティンなる少年が口にしたセシル≠ニは、ヌボコが潜入調査の際に用いる偽名であった――。




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