4.ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男 教皇庁の大司教が主催するだけのことはあり、晩餐会は絵にも描けないほど華やかなものとなった。 所用≠済ませて後から駆けつけたラーフラとルドラは、 贅を尽くした山海の珍味や座興――世界屈指の交響楽団を招いての生演奏だ――を前にして、 軽い眩暈すら覚えたほどである。 世界中の富豪が一堂に会したかのような晩餐会――より正確に述べるならば、 モルガンの私邸には副長と総長以外にも数名の隊士が潜り込んでいる。 正式な招待を受けたにも関わらず、わざわざ潜り込んでいる≠フだ。 最早、ここは敵地である。モルガンが如何なる策を仕掛けてくるのか知れたものではなく、 覇天組としては相応の覚悟を持って臨まねばならなかった。 覇天組隊士たちの視線は、当然ながら局長へと注がれている。 彼はバーヴァナを交えてモルガンと談笑を続けている。 賓客を退屈させない為の世間話には違いないが、その内容は極めて意外なものであった。 「――私の記憶が確かならば、ナタク先生は『ミトセ』と言う武術家とも立ち合われたと伺っております。 そのときの話も詳しくお聞かせ頂ければ嬉しいのですが」 『ミトセ』と言う名の武術家――と口火を切ったモルガンにナタクは双眸を瞬かせたものだ。 「……その話をどこでお聞きになられたのか、私のほうが気になりますね」 「その御仁が現在(いま)は監獄に在ることはご存知でしょうか?」 ナタクの問いかけを遮るようにして、モルガンが言葉を続ける。 そうした小賢しい振る舞いが気に食わないアラカネは、幾度となく心の中で舌打ちをしていた。 「……風の噂程度ですが」 「彼の居る刑務所には親しい友人が勤めておりましてね。 その男から恐ろしく強い武術の達人が収監されていると教わったのですよ。 食事の席での世間話ではありましたが――件の達人は俄かにナタク先生の御名前を口にしたそうです」 「彼の武勇伝をお聞きになられたのですかな」 「私の耳に入るのは、ナタク先生、そして、バーヴァナ先生の武勇伝ばかりでございますよ。 何しろ両先生は陽之元の双璧。いつか機会に恵まれた折には、 我が教皇庁の聖騎士団へ両先生からご指難を賜りたいものです」 「今はそのことよりも――それは以前に聴かせて貰った、あのミトセ≠フ話かい?」 「ええ、……『ジェームズ・ミトセ』の系譜を継いだ男の話です」 思いがけず懐かしい名前を聴かされたナタクは、そう遠くない昔の記憶を紐解いていく。 モルガンが口にした『ミトセ』とは、ナタクと立ち合う為に陽之元の土を踏んだ武術家のことである。 当時の陽之元は『北東落日の大乱』の真っ只中であり、 他国から渡海しようとする者は、武器商人などの例外を除いて皆無に等しかった。 教皇庁の側でも渡海の是非を検討するよう呼びかけていた程なのだ。 目的を達する前に落命するかも知れない――そのような危険で国土が満たされていると判っていながら、 ミトセと言う武術家は海を渡り、ナタクに、そして、『聖王流』に挑戦したのである。 その一戦こそがミトセの目的であった。 本名は、『カナン・ミトセ』だったと記憶している。 齢は三〇に届くか届かないと言ったところであり、無謀を好むような時期は大昔に過ぎている筈だった。 それでも彼は内戦の地へと渡ったのである。 『聖王流』あるいは『蘇牙流』と同じ古流武術の系譜を受け継ぐ者であった。 彼が継いだ系譜は、聖王と蘇牙の両流派よりも更に古い歴史を持っている。 それどころか、開祖はルーインドサピエンスの時代から遥かに遡るそうだ。 果てしない刻の中で連綿と受け継がれてきた系譜は、代々に亘って『ミトセ』の家名を守り続けている。 「寡聞にして存じ上げないのですが、ナタク先生が仰られた『ジェームズ・ミトセ』と言うのは――」 「……ほう? 博学と名高い大司教もジェームズ・ミトセまではご存知ありませんでしたか」 「察するに、ナタク先生と立ち合われたミトセ氏のご先祖……と言ったところでございましょうか」 「そうですな――遠い遠い、……気が遠くなるほど大昔の先達ですよ。 私と立ち合った男が継いだ系譜(もの)は、何しろ『ミトセ』を名乗り始める前から続いていたのですから」 流派の真髄たる『武芸百般』の一環として、古今東西の武術史を探究してきたナタクは、 『ジェームズ・ミトセ』の名に聞き覚えがあった。これはバーヴァナも同様である。 ルーインドサピエンスよりも古い時代――父祖伝来の業を若き俊英に教え広め、 新時代の武術の祖となった偉大な男であると文献には記されていた。 優れた武術家であると同時に大変な求道家であったともナタクは伝聞している。 血は争えないと言うべきか、彼が立ち合うことになった当代のミトセも風変わりな男であったのだ。 初めて言葉を交わした際の印象は、一言で表すなら哲学者。 果てしない刻の中で『ミトセ』の系譜を繋いでいく意味、より原始的に「戦う」と言う行為の意味を常に考察し、 一瞬ごとの仮説へ思い詰めていたようにも見えた。 瞬きの回数が極端に少なく、開け放たれた双眸は世界のあらゆる事象を貪欲に吸収していた。 ある意味に於いては人間離れしていたと言えなくもない。 ナタク自身、学習や演算の装置を搭載した機械でも見ているような気分になったのだ。 内戦の陽之元に入った理由も独特である。武術家としての腕比べではなく、 噂に聞いた聖王流へ生命の遣り取りの意味を尋ねたかっただけだと、当代のミトセは語っていた。 掴みどころのない人間だったのは確かだ。自身の心中に独特の世界を築いており、 決してその領域から出ようとはしなかった。言行も著しく一般常識を欠いていたとナタクは記憶している。 おぼろげにしか憶えていないが、右手の甲に不思議な紋様を刺青していた筈だ。 大きな円の中に八角形の模様を彫り込み、更にその内側に小さな円を三つばかり描いていた。 唯一の人間味と言えば、手作りと思しきミサンガを左の手首に嵌めていたくらいであろう。 白と灰の刺繍糸を中心に編み上げた物であった筈だ。 (……あれは恋人からの餞だったんかな。満願成就なんて有り得ねぇ道だってのによ) 不可思議を絵に描いたような男とナタクは、大杉の生い茂る寺院址で対峙し、 互いの業にて語らうこととなった。 生命の遣り取り――即ち、死合(しあい)≠ニ呼ばれる境地である。 立会人などは置かなかったものの、仮に目撃者がいたとすれば、相当珍奇に映った筈だ。 飾り気のない真っ白なカッターシャツに水浅葱のハーフパンツ、首から下げたロザリオ―― それが当代のミトセの出で立ちであった。天井が平べったく、つばの狭いボーターハットも被っていたが、 これは戦いの最中に何処かへと吹き飛んでしまった。 帽子が吹き飛ばされた後、露になったのは特徴的な眉毛だった。 眉頭と眉尻がやけに薄く、眉山の部分だけが異常に濃い。 その黒々とした眉毛とは対照的に、老境には程遠い年齢でありながら、 頭髪は真っ白であったとナタクは記憶している。 鬢の辺りが僅かに黒く、元来は別の色であったことを示していた。 とにかく酷いほつれ髪であった。頭髪の手入れなど考えたこともないのだろう。 洗髪時も湯を被って適当に汚れを流しているだけのように思える。 それでは髪も痛んで当然だ――が、黒から白へと色が抜け落ちたのは、 心≠ノこそ原因がある筈だとナタクは捉えている。 強さと引き換えに何かを失った人間など数え切れないくらい見てきたのである。 (……そして、あいつは本物の化け物だった。累代の流派を確かに極めていたんだ――) 胸の前にて両の掌を合わせると言う不思議な構えは、彼自身の独創であるそうだ。 対するナタクはビリジアンのジャージにハイカットのスニーカー、薄手のレザーグローブと言う装いであり、 およそ死合≠ヨ臨む人間とは思えなかった。赤いシャツは裾をズボンの外に出しており、些かだらしない。 両者が並ぶと、誘い合わせの上、散歩へ出掛けたように見えなくもないのだ。 尤も、ミトセの側は陽之元へ上陸する前から常に素足であり、 常人とは違う感覚の持ち主と言うことが察せられた。 「バーヴァナ先生はその仕合≠ノは立ち会われなかったのですか?」 「残念ながら私も伝え聞いたのみです。武術家としては一生の後悔と言うものですよ。 凄まじい死合≠ナあったそうです。……そうだったね?」 バーヴァナの問いにナタクは静かに頷いた。 聖王流の本質は体術と武器術を融合させた小具足術である――が、 相対したミトセの流派は拳法が主体であり、武器になりそうな物などひとつとして携えていなかった。 それ故にナタクも得物の軍配団扇を持たず、無手で対峙したのである。 これは武器を持たないミトセに配慮したわけではない。 徒手空拳の相手には自分も条件を揃えたほうが戦い易いのだ。 「あれほどの使い手は滅多にはいませんよ。武術家としてのひとつの到達点でしょう――」 そう――ミトセの武術は凄絶の一言であった。 全身を隈なく用いる打撃に於いても、投げや関節技に於いても、武芸百般の聖王流と互角に渡り合ったのだ。 攻防一体の返し技に翻弄されたのは一度や二度ではなく、 転倒させられた瞬間に降り注ぐ追撃の嵐には確かに死の恐怖を感じた。 あるいは、ナタクでなければ本当に絶息させられていたかも知れない。 百獣の王の如く心技体を鍛え上げていたからこそ、命を拾ったようなものであった。 (ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ者、か。……確かにあんなに面白いヤツはいなかった――) その死合=\―先に仕掛けたのは、ナタクのほうだ。 泰然と腰を落としながら、軽く開いた左手を前方に突き出し、対の右拳を胸の前に引き付ける―― 聖王流に於ける標準的な体術の構えから、噴火の如き勢いで攻め入っていく。 独創的な合掌の構えに如何なる工夫が秘められているのか、これを探るべく、鋭い踏み込みから左拳を突き出した。 威力ではなく速度を重視した一撃である。拳闘(ボクシング)で言うところのジャブに近い。 文字通りの小手調べは、カナン・ミトセ相手には全く通用しなかった。 左の掌と合わせていた右手を瞬時にして動かし、下腕でもってナタクの左手首を撥ね上げたのだ。 最初の一撃を敢えなく外されたナタクだが、左拳をその場所に残したまま、 すかさず対の右拳で鳩尾を脅かす。今度は腰の捻りを加えた重い一撃である――が、 片手が空いているのはカナン・ミトセも同様であり、折角の追い討ちも左の掌によって容易く受け止められてしまった。 ナタクの拳を防ぎ切ったのは、決して偶然などではない。 傍目には奇妙にしか見えない体勢(かたち)であるものの、 己の技巧を無駄もなく使い切るのに最も適した構え方なのであろう。 もうひとつの脅威は、心の働きと言うものが余人の目には全く解らない点である。 本人にしか理解出来ない精神構造を作り上げ、そこに終始している為、 感情の発露や抑揚が他者とは大きく異なっていた。 それ故、相対したナタクにはカナン・ミトセの挙動を先読みすることが叶わなかった。 最初の攻防に於いても、如何なる拍子でもって防御なり回避なりを図るのかも察知出来なかったのだ。 無表情を微かにも崩さないまま、両手のみ精密に動かした恰好である。 それでいて、「生命の遣り取り」に対する考察を呪文のように唱え続けている。 感情の揺らぎから挙動を予測出来ない以上、五感を振り絞って相手の身のこなしを確かめ、 刹那で攻守を組み立てていくしかなかった。 これ以上に難儀な戦いもない――その筈なのだが、ナタクの心は何時にも増して躍っていた。 想像を絶する猛者の到来に、身も心も歓喜で震えていた。 敢えて引き戻すことなくその場に止めておいた左手でもって相手の右手首を掴み、 自身の側へと力任せに引っ張ったナタクは、これと連動させるように水平に構えた右手を振り抜き、 カナン・ミトセの喉を打ち据える。 すかさずカナン・ミトセの手首を離し、横薙ぎの左拳でもって横腹を突き刺すと、続けざまに直線的な右拳打を放つ。 目にも止まらぬ三連打の内、顔面を狙った最後の一撃だけは避けられてしまったものの、 それにも構わずナタクは両膝を曲げつつ飛び跳ね、左右揃えた足裏でもってカナン・ミトセの腹を蹴り付けた。 「蹴り付けた」と言うよりも、「吹き飛ばした」と表すほうが正しいのかも知れない。 事実、その一撃のみでカナン・ミトセは後方へ大きく弾かれてしまったのである。 獅子の如き瞳――当時は強い活力が輝いていたのだ――を見開き、ナタクはカナン・ミトセを追い掛けていく。 相手が体勢を立て直すよりも先に重い前回し蹴りを繰り出した。 これが避けられると見るや、回転力を維持しつつ軸足を切り替え、 対の足で後ろ回し蹴りを繰り出す――初撃で相手の体勢を崩しておいて、 二段目にて仕留めると言う連続回し蹴りである。『鷲尾連(しゅうびれん)』が技名であった。 二段目の後ろ回し蹴りをすり抜けるようにして踏み込んだミトセは、 左右の拳でもって蹴足を挟み、そのままナタクの身を後方へと引き倒した。 このとき、カナン・ミトセはナタクに対して左の半身を開いた体勢である。 即ち、右側面はナタクにとって完全な死角であり、互いの位置関係を予め想定していたカナン・ミトセは、 身を捻るようにして右踵を跳ね上げ、彼の後頭部を狙った。 後ろ足を振り上げる馬を模倣したかのような蹴りであった。 真横に跳ね飛んで直撃を免れたナタクは、姿勢を低く保ったまま再びカナン・ミトセへと突進していく。 足を搦め取るか、掴んで投げに持ち込むか。いずれにせよ組み付くのが狙いに違いない―― そのように信じ込ませておいて、実際に眼前まで迫った瞬間、ナタクはいきなり上体を引き起こした。 右拳を後ろに引いており、打撃に転じる構えであった。 ところが、ナタクが拳を突き入れることはなかった。 何ら攻撃を加えることもなく、次の瞬間にはカナン・ミトセの前から姿を消していたのだ。 残像が掻き消える頃には、ナタクはカナン・ミトセの背後まで回り込もうとしていた。 露骨としか言いようのない突進によって相手に一種の刷り込みを仕掛け、 その意識を限界まで引き付けたところで急激に別の行動へと移って翻弄する幻惑の技、 『暫影蜃(ざんえいしん)』である。 挙動を切り替える間際に一瞬で速度を跳ね上げ、相手の死角まで飛び込むことが肝要であり、 威力攻撃への中継(つなぎ)として使用されることが多い。 奇怪な現象で混乱した人間など仕留めるのも容易いと言うわけだ。 ナタクの狙いとは、背後から両腕を回してカナン・ミトセを捕獲し、後方へと投げ捨てることだ。 柔道の技では裏投(うらなげ)と呼ばれるものが最も近いのだが、 聖王流の場合、標的の両腕を交差させるような形で掴み上げ、脱出不能にすることが特徴である。 兜を被った相手を葬る為に開発された危険な技であった。 常人ならば、この時点で死以外は望めなかったであろうが、 ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ者が相手では、思うように戦況を操れる筈もない。 ナタクの気配を感じ取るや否や、すぐさまにカナン・ミトセは右掌を後方へと送った。 迫り来る敵を振り返ることもなく、だ。 カナン・ミトセの右掌はナタクの眼前へと届き、一瞬ながら彼の視界を完全に遮った。 子供騙しにも近い単純な目隠しであるが、指でもって双眸を抉られるものと勘の先走ったナタクは、 反射的に突進を止めてしまった。如何にナタクと雖も、瞳ばかりは鍛えようがないわけだ。 勝負が決するか否かの瀬戸際であれば、あるいは片目くらい犠牲にしたかも知れないが、 小手調べのような状況で捨て身の戦法に出るほど愚かではない。 尤も、この瞬間のナタクは自身の不覚を愚の骨頂と愧じていた。 児戯にも等しい小細工に引っ掛かってしまったのだから、「ザマぁねぇよ」と歯噛みするのも無理はあるまい。 ほんの一瞬とは雖も、足を止めてしまったナタクはカナン・ミトセにとって格好の標的(まと)である。 鉤の如く折り曲げた右足を後方へと振り回し、これをナタクの右膝裏に引っ掛けたカナン・ミトセは、 そのままの状態で身を旋回させ、彼の体勢を崩そうと図った。 何しろ組み付こうとしていた寸前で足を止めた為にカナン・ミトセとは密着状態に近く、 不意打ちなど避けようもない。膝裏に踵をめり込まされたナタクは、 耐えて凌ぐことも出来ず、片膝を地面に突いてしまった。 軸の左足を捻って今度こそナタクに向き直ったカナン・ミトセは、 鉤の如き状態にあった右足を高く振り上げ、そこから縦一文字に踵落としを閃かせる。 辛うじて左腕を翳し、振り落とされた踵を受け止めようとするナタクであったが、 カナン・ミトセの右足は鞭の如くしなって軌道を変え、無防備な首を打ち据えた。 防御のがら空きとなった右側面を冷静に見極めたわけである。 首の次にカナン・ミトセは脇腹をも右の蹴足で抉った。 目にも留まらぬ連続蹴りに弄ばれはしたものの、それでも崩れ落ちることなく踏ん張り、 反撃に移ったことが、ナタクと言う男の強靭さを端的に表している。 先に突かされた右膝を支点として左足を横に払い、カナン・ミトセの側の軸足を脅かした。 互いの足首を引っ掛け、片足のみで彼の身を中空へと放り上げたナタクは、 己の軸足を入れ替えつつ深く沈み込み、間欠泉の爆発の如く左足を迫り出した。 下方から抉るような角度にて蹴足を突き上げた次第である。 『火車(かしゃ)』と呼ばれる二段式の蹴り技だった。 一段目は相手の足首を刈る為の蹴りと言うよりも、片足のみで投げを打つ技巧である。 二段目の性質は完全な蹴り技だ。奇しくも戦いの序盤に喰らわされた蹴りと良く似ている。 即ち、後ろ足を蹴り上げる馬のような動作と言うわけだ。 こればかりはカナン・ミトセにも避け切れず、両腕を交差させる防御の上から恐ろしいほどの衝撃で撃ち抜かれた。 反撃に転じたナタクの攻勢は全く衰えない。右足を突き上げた状態から身を捻りつつ飛び跳ね、 未だ中空に在ったカナン・ミトセへ逆襲とばかりに踵を浴びせたのである。 『爪燕(そうえん)』と呼ばれる浴びせ蹴りの一種であった。 跳躍するには相当に無理のある姿勢であった筈だが、ナタクは片足の屈伸のみでカナン・ミトセを飛び越えて見せた。 しかも、攻撃に用いたのは先に突き出していた右足。その状態からの踵落としに殺傷力を与えるなど、 常識では考えられないことだった。 まさしく人間離れした挙動と言えようが、相対するカナン・ミトセも負けてはいない。 身動きが満足に取れない中空では回避そのものが不可能――だが、四肢の可動が全く制限されたわけではなく、 踵の落とされる位置を直感のみで探り当て、そこに右腕を翳す。 果たして、予測した場所にナタクの踵が急降下し、防御を固めていたカナン・ミトセは大きな痛手を免れた。 右腕ひとつで爪燕を受け止めたカナン・ミトセであるが、上方から下方へ掛かる力の作用には逆らい切れず、 中空から地上へと一気に押し戻されてしまった。 尤も、これは彼にとって一種の僥倖と言うものであろう。 右腕こそナタクの踵で抑え付けられているものの、空いた左手は自由自在に動くのである。 無論、互いの有利と不利を見誤るナタクではない。右の踵を押し当てた状態から対の左足を振り上げ、 カナン・ミトセの右腕を挟み込んだ。猛々しい獣が上下の牙にて獲物を銜え込んだような格好だ。 このとき、既にナタクは次なる攻撃の準備を完了させていた。 牙で咬み付いた後は鋭い爪で引き裂こうと言うわけである。 左右の足でカナン・ミトセの腕を捕捉したまま、瞬時にして上体を撥ね起こしたナタクは、 先んじて組んでおいた両手を鉄槌の如く振り落とす。これもまた兜を被った相手を屠る為の技であり、 生身の人間が直撃を受けたなら、間違いなく頭蓋骨を粉砕されるだろう。 空いた左手でもってナタクの足を突き押し、捕獲から抜け出したカナン・ミトセは、 脳天へ直撃を被るより早く後方へと飛び退った。 本来の標的から逃げられた鉄槌は、間もなく地面へと叩き付けられ、そこに大きな穴を穿った。 規模と程度の違いこそあるものの、地面の抉れ方は隕石孔を彷彿とさせる。 どう考えても、人間の拳で作り出せるようなものではなかった。 そもそも、だ。落下時の衝撃だけで土や岩が爆ぜ、辺りに飛び散ることなど先ず有り得ない。 (さすがにアレを躱されるとは思わなかったけどな) ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ者と繰り広げた死合を振り返りながら、 ナタクは目の前のモルガンに気取られないよう苦笑を漏らした。 慢心ほどではないにせよ、ナタクにも武術家としての自負がある。 ところが、歴戦の経験に基づく矜持は、カナン・ミトセの前に笑えるほど容易く覆されたのだ。 聖王流及び蘇牙流の体系に於いては、ひとつひとつの技が複雑に結び合わさっており、 この理(ことわり)に基づいて絶え間なく攻撃し続けていくことが可能なのだ。 火車も爪燕も、左右の手を組んでの一撃も――怒涛の勢いで連鎖していた攻め手の数々は、 全てが独立した一個の技と言うわけである。 この時点では聖王流の真髄すら発揮しておらず、ほんの小手調べではあった。 しかし、幾重にも連ねた技は、いずれも一撃必殺の威力を秘めていたのだ。 それにも関わらず、カナン・ミトセの側の痛手(ダメージ)は皆無に等しかった。 これはつまり、致命傷を受ける前に殆どの技を凌いだと言う証左に他ならない。 当代のミトセはナタクに勝るとも劣らぬ超人的な肉体の持ち主であり、五感の機能も同様に突出している。 それ故、常人であれば十数回は殺されているだろう聖王流の技を切り抜け、 生命を長らえていられるわけだ。 カナン・ミトセの身体機能が更なる飛躍を見せたのは、合掌の構えに新たな要素が加わった直後のことだった。 両の掌を合わせたまま、その場で軽く跳ね始めたのだ。 軽やかな足さばきでもって身のこなしを加速させる意図なのかと訝るナタクであったが、 その疑念は間もなく意識の外に吹き飛ばされた。目にも映らないほどの速度で踏み込んできたカナン・ミトセが、 閃光の如き拳でもって彼の顔面を打ち据えたのである。 打撃に長じるナタクでさえ、その拳(けん)を完全には捉え切れなかった。 直線的な突きであることは辛うじて察知出来た。踏み込みに用いた足と同じ側の拳を繰り出している。 そのことも解った。最短距離で最速且つ最強威力の拳を叩き込むわけだ。 だが、その術理までは解明出来なかった。聖王流以外にも様々な格技を吸収してきたナタクでさえ、 カナン・ミトセが使う拳(けん)には見覚えも聞き覚えもなかった。 拳打の前の踏み込みからして瞬間移動にも等しい速度であった。 両足が地にめり込む程の踏ん張りを利用し、全身を亀の甲羅の如く堅牢に変える防御法が聖王流にはある。 生半可な打撃ならば、この受け方だけで容易く反射させられるのだ。 拳頭や掌底、肘に膝と言った人体の硬い部分へわざと打撃を当てさせ、 逆に相手の骨身を砕く防御法とて伝承されている。 他流から学んだものであるが、力の働きを操作することで相手の勢いを他方へ受け流し、 そのまま転倒させるような返し技にもナタクは長けている。 しかし、カナン・ミトセの拳にはそれらが通用しない。 受け止めることも受け流すことも、余りに速くて間に合わないのだ。 合掌の構えに加わった足さばきには何らかの秘密≠ェ隠されている筈だ――が、 死合の場にて暢気に敵の術理を考察などしてはいられない。 求められるのは閃光の拳を破る策なのだ。相手の側面まで回りつつ、 打ち込まれた腕を潜らせるようにして己の拳を突き上げ、 顎を砕く返し技――『醒眼螺鮫(せいげんらこう)』を試みるナタクであったが、 カナン・ミトセは意識の外から迫る不意打ちを首を傾けるだけで避け、 相手側の踏み込みの勢いを利用して逆に背負投(せおいなげ)を打った。 一連の返し技は、ナタクが拳を繰り出した後≠ノ発動されたものであった。 彼の行動を先読みしたわけではなく、動体視力と反射神経で完璧に捕捉したのである。 ナタクの身を地に叩き付けるや否や、カナン・ミトセは肩関節を逆に極めようとした。 対するナタクは力ずくでカナン・ミトセの手を振り解き、骨を折られることだけは避けた。 しかし、捕獲から抜け出した瞬間には足裏でもって延髄を踏み付けられている。 延髄が軋むのも構わず、ナタクは抱え込むような状態でカナン・ミトセの片足を取り、 超速で身を引き起こしつつ彼を中空へと撥ね上げた。 『帯霧(おびぎり)』と言う名の変形の背負投である。相手の身を地面に叩き付けると同時に寝技へ移行し、 膝を破壊せしめるのだ――が、カナン・ミトセは落下の瞬間に両の掌でもって地面を突いて衝撃を和らげ、 捕獲を受ける前に前方へと逃れてしまった。 これを追尾するのはナタクの代名詞とも言うべき『飛龍撃(ひりゅうげき)』である。 足腰のバネを駆使した一足飛びで間合いを詰めつつ、龍の牙の如き拳を突き入れる技だ。 本来は相手の体勢を崩し、投げなど他の技に繋げる為の中継(つなぎ)なのだが、 飛龍撃自体の威力が尋常ではなく、大抵の人間はこの一突きで沈められていた。 件の足さばきで横跳びに避けられようともナタクは追跡するつもりだったが、 当のカナン・ミトセは真正面から飛龍撃を迎え、ついには聖王流最速と名高い拳打を掌で受け止めた。 重ね合わせた両の掌で、だ。 流石に下腕で防ぐのは危険と直感したのであろう。事実、衝撃を和らげたにも関わらず、 カナン・ミトセの身は後方へ大きく仰け反ってしまったのである。 体勢も崩れたと見て取るや、ナタクは飛龍撃を本来の用途――他の技への中継(つなぎ)として生かした。 右拳を腹部に突き込むや否や、左の五指にて相手の右襟を掴み、 その状態から相手を放り投げようと言うのである。腹に拳をめり込ませたまま、だ。 自身も高く跳ね飛び、落下と同時に地面と拳で内臓を挟み込む投打一体の技である。 『碇銛(いかりもり)』と呼ばれるこの技は、残念ながら完成されることはなかった。 体勢を崩された瞬間、カナン・ミトセは駒の如く錐揉みし、その勢いを乗せて両腕を振り回したのだ。 一風変わった技だが、無理な体勢からでも放てると言う点に於いては実に適切な選択であった。 無論、件の足さばきによって速度も増している。 完全に意表を突かれたナタクは、旋回する拳を避けることが出来ず、下腕でもって防ぐのが精一杯だ。 その流れの中でカナン・ミトセの拳も変化していく。旋回する拳でもってナタクをその場に押し止めつつ、 彼の側面まで移ると、今度は内から外へ右肘を振り抜いたのだ。 しかも、水平ではなく斜方へ滑降するような軌道を描いている。 肘でもってナタクの頬を抉ると、すぐさまに同じ右腕を振り上げ、今度は顎を突こうとする。 動作の小さいアッパーは左掌で受け止められてしまったが、 仕損じたことを確認するよりも速くカナン・ミトセは右膝を突き上げ、ナタクの下腹を抉った。 臍の下に在る急所を鋭角に打たれたものの、ナタクは身を折ることもなく反撃に転じる。 今し方の報復とばかりに、外から内へ右肘を一閃させようと図った。 ここでもカナン・ミトセは恐るべき反応速度を見せつける。 すかさず左腕を伸ばし、今まさに突き出されようとしていたナタクの右下腕を掌でもって 押さえ込んでしまったのだ。 その瞬間、彼は己の右腕を振り回していた。さながらナタクに縄でも打つように、だ。 右腋にナタクの首を挟んだカナン・ミトセは、左の五指にて己の右手首を掴むことで絞め込みの力を強める。 そのまま上体を反り返らせ、首を極めながら我が身を投げ出し、 この勢いを以ってして後方に投げを打とうと言うのだ。 相手を地面に叩き付けるのでなく、頚椎をへし折ることがこの技の本質であった。 まさしく死合≠ノ相応しい攻め手と言えよう。 「――悪くはねぇが、ちと甘ェッ!」 カナン・ミトセが上体を反らせようとした瞬間、ナタクの両腕が動いた。 死合≠ノ相応しい攻め手ならば、聖王流は数え切れないほど研ぎ澄ませていると言うわけだ。 さながら鋏の如く左右の拳を同時に繰り出し、カナン・ミトセの肋(あばら)を深く抉る。 両側から拳で挟み込み、体内にて衝撃を炸裂させると言う大技である。 『雷獣奠(らいじゅうてん)』なる技名が与えられていた。 これは甲冑の継ぎ目を攻める為に開発された技であり、骨身どころか内臓をも軋ませ、 一撃で死に至らしめることが出来る。 常人ならばまさしく必殺であっただろうが、この括りにカナン・ミトセは含まれない筈だ。 彼を仕留めるには雷獣奠でも不足と即断し、肋を挟んだままで身を反り返らせ、脳天から逆様に落とした。 頭部を砕き、併せて頚椎をも挫く反り投げである。さしものカナン・ミトセも雷獣奠は堪えたらしく、 ぴくりとも動かないまま脳天から落とされ、そこに追い討ちの蹴りまで喰らった。 それでも、斃れることはない。若白髪を赤黒く染めながらもゆらりと起き上がってきた。 常人にとっては致命的な負傷すら彼は耐え凌いだのである。 あるいは、カナン・ミトセ当人には「耐えた」と言う意識もなかったのかも知れない。 ここまでの重傷であれば、普通は四肢さえ満足に動かなくなるものだが、 彼は痛みと言うものを感じているようには見えなかった。 彼の口からは悲鳴ではなく考察を論じる声だけが零れていた。 (俺もあの男もバカみたいにしぶてェよな。くたばり損ないとは良く言うが、 あのときはマジで自分に呆れちまったよ――) 現在(いま)のナタクの追想は、往時(かつて)のカナン・ミトセによって戦慄を伴い始めている。 その戦慄はナタクにとって何よりも心地良かった。反り投げの後に喰らわされた反撃の痛みは、 思い返す度に口元が歪んでしまうのだ。 雷獣奠の返礼とばかりに、カナン・ミトセは閃光の拳をナタクに降り注がせた。 今度は顔面へと狙いを絞り、左右の拳にて乱打を仕掛けたのだ。 幾度、直撃を被っても閃光の拳を見極めることが出来ない。 ならば、いっそ術理を解き明かすことは諦め、力ずくで捻じ伏せよう――と、 ナタクは脳が揺さ振られるのも構わずに自らも拳を突き込み始めた。 防御と回避をも切り捨てた打撃の応酬と言うことだ。 ナタクの拳は顔面や胸部など様々な部位を鋭角に打ち分けている。 こちらも左右の拳を用いた乱打であるが、動きは拳闘のそれに近い。 『虎乱(こらん)』と言う暦(れっき)とした聖王流の技であり、 六連続もの渾身の拳打を同時に叩き込むものであった。 心臓、肝臓、こめかみなど複数の人体急所を突いていくのだが、 腹を打って体勢を崩した瞬間に顎を突き上げるなど、 一発一発が相互に効果を発揮する仕組みとなっているのが特徴である。 ナタクの虎乱は本来の術理を踏まえつつ、拳闘の理論を応用している。 眉間を突いて脳を揺さ振るジャブ、こめかみを狙って薙ぎ払われるフック、 心臓まで威力を伝達させるストレート、肝臓を破裂させんばかりのボディーブロー、 鳩尾に突き刺さるショートアッパー、そして、顎を撥ね上げる大振りのアッパーカット―― これら六連発の強撃が一瞬にして襲い掛かるのだ。 連打と言うものは、続けば続くほど威力も速度も減殺されてしまうものなのだが、 聖王流の虎乱は全ての打撃が渾身にして最速。急所に命中させることもあって 肉体の芯まで痛手(ダメージ)が響くのである。 さしものカナン・ミトセもジャブとフック、ストレートまでは直撃を被ってしまったが、 四発目以降の拳は下腕によって防御、あるいは紙一重で避けて見せた。 最後のアッパーカットは閃光の拳で弾き飛ばしたのである――が、これこそがナタクの誘い≠セった。 彼は弾かれた先から再び腕を振り抜き、カナン・ミトセの拳を捉えた。顔面でもなく急所でもなく拳を、だ。 防ぐのでも避けるのでもなく、打撃の根本を破壊しようと言うのだ。 速度こそ及ばないものの、拳打の威力そのものはナタクのほうが上回っている。 仮に同じ攻撃を繰り返されたなら、カナン・ミトセの拳が先に壊れることだろう。 これを嫌がったのか、別の狙いがあったのか、カナン・ミトセは半身を開くような体勢で大きく右手を突き込んだ。 拳による打撃ではない。人差し指と中指でもってナタクの双眸を抉ろうと図ったのだ。 数多の戦いを経て鍛えられた直感がナタクの身を揺り動かし、 やはり半身を開くようにしてカナン・ミトセの目突きを避けた。 果たして、ここからがカナン・ミトセの本当の狙いであった。 目突きを避けられるや否や、閃光の速度で右腕を引き戻し、これと同時に拳の底でナタクの後頭部を打った。 一瞬だけナタクの意識に空白が生じた。瞬きの時間よりも短かったが、 カナン・ミトセにとってはそれだけでも十分である。眉間から始まって喉や心臓、鳩尾から下腹に至るまで、 人体急所を順繰りに貫いていく連打を試みた。聖王流の虎乱と同質の技と言うわけだ。 尤も、この連打も喉を突いた直後には途絶させられてしまう。 意識を現実へと引き戻したナタクが正面から頭突きで迎え撃ち、続け様に左の手甲でカナン・ミトセの頬を打ったのだ。 所謂、裏拳と呼ばれる技法である。密着状態に近かった為、腰の捻りも満足には利かせられない筈なのだが、 手首と肘の可動のみで凄まじい威力を生み出していた。 カナン・ミトセが身を傾がせた直後、ナタクの両手が彼の襟を捉えた。 小さな襟と言うこともあり、力を込めた瞬間に幾つかのボタンが弾け飛ぶ。 カッターシャツの襟を掴んだ左手が、その布地を内側へと絞る――ただそれだけの動作にも関わらず、 カナン・ミトセには鎖骨の拉げるような衝撃が襲い掛かる。 ナタクの拳が微かに動いたことまではカナン・ミトセも把握したのだろう。 術理を解明するようにボソボソと考察を述べていたくらいである。 先程の裏拳も同じ技法を用いて威力を跳ね上げたのだが、その構造を特定することは叶わなかった。 カナン・ミトセの足さばきを解析し得なかったナタクと同じことだ。 死合の場にて考えごとに耽ってなどいられないのである。 密着状態での不可思議な攻撃を終える頃には、ナタクはカナン・ミトセの左腕を右腋にて挟んでいた。 片側のみだが、下腕も巻き付けて固く絞め込んでいる。 次いで足を引っ掛けて体勢を崩し、これと連動させるように右掌を下方へと振り落とす―― 掌底で首筋を打つのと同時に足を刈り、カナン・ミトセの身を垂直落下させ、 この際に生じた勢いをも利用して左の肩関節を極めようと言うのだ。 打撃と関節技を複合させた技の形式(かたち)を、聖王流では『磐雨(いわさめ)』と呼んでいる。 掌を落とす動作に合わせて捕獲した左腕も捻っている為、落下の瞬間には肩が壊れてしまうのだ。 ところが、カナン・ミトセは驚愕すべき防御を用いた。地に叩き伏せられた瞬間、自ら肩関節を外したのだ。 磐雨が完全に決まったと見てナタクが絞め込みを弱めた直後、 カナン・ミトセは仰向けのまま両足のバネのみで後方へと飛び退り、これと同時に左腕を引き抜いた。 そして、何事もなかったかのように起き上がり、呆気に取られている彼の目の前で 肩の骨を再び嵌め直したのである。 常人の肉体であれば、それだけでも関節が動かなくなる。 例え折れたわけではなくとも、内部では酷い炎症を起こしているのだ――が、 カナン・ミトセは何の問題もなさそうに左肩を回していた。 (――そんなもん、見せ付けられたら、どうやってブッ壊すか、熱くなっちまうさ!) その場で軽く跳ねていたカナン・ミトセの姿が突如として掻き消えた。 幻影も音も残さずにナタクの視界から消失したのである。 改めて詳らかとするまでもないことだが、聖王流の暴威に竦んで戦いの場より逃げ出したわけではない。 それどころか、カナン・ミトセの戦意は秒を刻む毎に加速している。 刹那の混乱から立ち直ったナタクには、猛然たる肘鉄砲が迫っていた。 神業としか例えようのない速度で跳ね飛んだカナン・ミトセが、 中空から放物線を描くようにして肘を振り落としたのである。 対するナタクは固く拳を握り締め、勢い良く全身を旋回させた。 彼の両腕は鉄球の如く風を薙ぎ、己に向かって肘を打ち込んできたカナン・ミトセを逆に叩き落そうとしている。 対空迎撃を想定した妙技、『谺円烈風(かえんれっぷう)』である。 「お前さんのトコと似たような技だ! 面白ェだろッ!?」 対地=A対空≠ニ言う技の競り合いはカナン・ミトセに軍配が上がる。 一瞬だけ早くナタクの脳天に肘鉄砲が突き刺さった。 この肘を軸に据え、中空にて風車の如く身を回転させたカナン・ミトセは、 谺円烈空を避けつつ腰を捻り、ナタクの延髄へ直角に蹴足を落とし、そのまま彼の背後へと降り立った。 すかさず背面目掛けて拳を突き込もうとするが、聖王流には――否、ナタクには死角など存在しない。 急旋回と同時に斜め下から弧を描くようにして後ろ回し蹴りを繰り出した。 遠心力を乗せた蹴足は鉄をも破砕すると言い、この技は『翔馬箭(しょうません)』と呼称されていた。 先程、カナン・ミトセの繰り出した技ではないが、優駿(うま)の如く後ろ足を蹴り上げた次第である。 既に激甚な痛手を負わせている脇腹が狙いであったが、またしてもカナン・ミトセは姿を掻き消し、 今度はナタクの側面へと回り込んだ。報復の横蹴りも抜かりなく放っている。 これまでの傾向から攻め手に見当を付けたナタクは、カナン・ミトセとの戦いの中で初めて先読みに成功し、 後方へと身を旋回させて横蹴りを躱した。この回避と連動させるようにして自身の足を振り上げ、 その甲でもってカナン・ミトセの横っ面に一撃を見舞った。円軌道の動作を以って直線的な攻撃を避け、 更に最小最短且つ最大級の威力を生み出そうと言うのだ。 この返し技には『荒狛襲(こうはくしゅう)』なる名が当て嵌められていた。 相手にとっては意識の外から襲い掛かってくるカウンター攻撃であり、幻獣の牙さながらの脅威を秘めている。 しかし、直撃させられてなくては如何に優れた返し技と雖も価値はない。 意識の外から襲ってくる筈の足甲さえカナン・ミトセは完璧に見極め、避け切った直後に反撃の足刀を放った。 蹴足を一本の刀身に見立て、水平に刺突を見舞うのだ――が、その速度は閃光にも等しい。 これまでにカナン・ミトセは閃光の拳を以ってしてナタクを猛襲している。 同じ技法(わざ)が蹴りで使えたとしても何ら不思議ではなかろう。 当然ながら、蹴りで撃つ場合は威力が格段に跳ね上がる。 横腹へ突き刺さった足刀によって内臓を揺さ振られたナタクは、赤黒い霧を噴き出した。 それでも歯を食いしばり、根を張るように踏み止める。 すると、貫通させられなかった威力がミトセ自身の蹴足に跳ね返り、彼は僅かに態勢を崩した。 加速の一途を辿るカナン・ミトセの動きを堰き止める為、ナタクは閃光の蹴りを甘んじて受けたわけである。 骨と靭帯をまとめて捻じ切ろうと足首へ手を伸ばすナタクであったが、 カナン・ミトセの切り返しにはどうしても追いつけなかった。 やはり閃光にも匹敵する速度で蹴足を引き戻したカナン・ミトセは、 これと同時に対の足でローキックを打ち込む。閃光の次は稲妻と言うわけだ。 だが、打撃ではナタクも引けを取らない。今まさに振り落とされようとしているローキックに向かい、 半歩ほど踏み込んだナタクは、逆に脛を撥ね上げて蹴足を弾き飛ばした。 ナタクの足を砕くつもりが、却って己の痛手が重なったと言うことだ。 カナン・ミトセは脛が裂け、赤黒い斑模様が地面に飛び散った。 その飛沫を我が身で浴びるかのようにカナン・ミトセは蹴足を変化させた。 下段から上段へ――脛ではなく頭部を狙う横薙ぎの一閃を繰り出したのである。 これもまた閃光の如き速度を秘めていた。 瞬く間に後方へと飛び退ったナタクは、すかさず飛龍撃で反撃を試みる。 至近距離から放つ為、速度こそ乗り切らないものの、相手の虚を突くには最適であろう。 間遠から繰り出す技として先に披露しておいたのが布石≠ニして生きたとも言える。 突如として伸びてきた左拳を逆側の掌で下方に叩き落とすカナン・ミトセであるが、 ナタクの攻め手は一発のみでは終わらない。足が地面に着くや否や、再び全身のバネを爆発させ、 今度は対の右拳で飛龍撃を放った。それはつまり、至近距離で二度も飛龍撃を放つと言うことだ。 自棄になって大技を連発しているわけではない。これもまた歴(れっき)とした聖王流の技であり、 左右の拳で交互に飛龍撃を放つ形式(かたち)は『双闘龍撃(そうとうりゅうげき)』と呼ばれていた。 最初の一撃で間遠から飛び込み、これを防がれたときに対の拳を撃つのが本来の使い方だ。 今度の攻防は奇襲としての応用であった。 恐るべきはカナン・ミトセの動体視力と反射神経――またもナタクの拳は狙いを外すこととなる。 カナン・ミトセの右拳で真横に弾き飛ばされてしまったのだった。 このとき、カナン・ミトセは左右の腕を大きく開いた状態に在った。 双闘龍撃を受け流す為に右掌を下方へ、左拳を内から外へと払っていた。 即ち、懐がガラ空きと言うわけである。 絶好の機会と見たナタクは、右足を更に半歩踏み込み、そこから頭突きを見舞おうとした。 聖王流に於ける頭突きは『鹿角(ろっかく)』なる名を与えられており、有効な戦術にも数えられていた。 首の筋肉と関節から引き出された破壊力は、相手の被った兜を正面から砕くとされている。 しかしながら、鹿角がカナン・ミトセを捉えるよりも先にナタク自身が宙を舞っていた。 「舞っていた」のは正確ではなかろう。顎を撥ね上げられたまま大地から浮かんでいたのである。 ナタクの正面ではカナン・ミトセが十字でも切るかのような恰好で左右の腕を交差させていた。 天を仰ぐと右拳と、外から内へ風を水平に薙いだと思われる左拳は、何よりも固く握り締められている。 その体勢から察するに、左右の拳を全く同時に突き込んだのであろうが、 突き上げと横薙ぎでは速度や威力を生み出す運動の方向が異なる為、 連動もせずに互いの勢いを相殺し兼ねなかった。 常識の範疇で考えれば、力も乗らずに気の抜けた拳打にしかなるまい。 ところが、カナン・ミトセの放った技はどうであったか。交差された拳はどちらも閃光の如き速度を誇っており、 連動の破綻と言う弱点を克服しているようにも見える。 事実、直撃を被ったナタクは意識を手放す寸前であった。 顎とこめかみを一度に撃ち抜かれたのだ。二重の衝撃は頭蓋を貫通し、脳を烈しく揺さ振った。 (あの技は特に効いたな。何度か喰らったが、よくまぁアタマがバカにならなかったもんだぜ) 宙に浮かされ、上体を仰け反らせていたナタクは、すぐさま右足でもって地を踏み締めた。 そうすることで意識を繋ぎ止めたとも言えよう。 その流れの中でナタクはカナン・ミトセの左手首を右の五指で掴み、彼の身を勢い良く振り回した。 技巧も何もない拙劣な力技に見えて、下方へと体勢を崩しに掛かっている。 強引に姿勢を落とさせたナタクは、左の前回し蹴りでカナン・ミトセの右側頭部を脅かす。 カナン・ミトセの側は捕獲されていない右下腕でこれを受け止めようとしたが、 側頭部へ当たる直前、蹴足は中空で三角を描くように軌道を変えた。 ナタクの狙いは最初から頭部ではなく頸部にあったのだ。 踵が直撃するや否や、ナタクは捕獲していた左腕を手前に引き込み、 次いで腰を捻りながら跳ね飛び、更に右足を振り上げた。今度も狙いは頸部である。 先んじて繰り出していた左足にも変化があった。引き込みの流れの中で膝裏を頸部に巻き付けたのだ。 同じように右足も頸部へと引っ掛け、左腕もろとも絞め込んだ。 俗に『横三角絞(よこさんかくじめ)』と呼ばれる状態であった。 しかも、相手をうつ伏せに引き倒す型である。カナン・ミトセの側も右腕だけは自由だが、 しかし、横三角絞で攻めているナタクの身は逆側に在る。反撃の拳を繰り出そうにも届くまい。 対するナタクも左腕は自由だ。聖王流本来の姿は小具足術――武器術との融合であり、 本来は首を絞めながら得物でもって止(とど)めを刺す為の技であった。 鎧で固められた肩を攻める際にも有用だ。 この形式(かたち)の横三角絞を聖王流では『逆飯綱(さかさいづな)』と呼んでいる。 全体重を下方へ落とし、双方の身が地に着けば完成である――が、 姿勢を崩されながらもカナン・ミトセは両足でもって踏ん張った。 さしもの彼にも頚動脈は鍛えようがなく、絞め技に持ち込まれては危険なのだろう。 ナタクの足を引き剥がすべく右手で腿や膝などを掴もうともがいている。 親指でもって太腿の経穴を突かれもしたが、絞め込みを解くようなことはない。 ナタク当人は「経絡武術を使うのも知ってるぜ」と涼しげな表情(かお)で笑っている。 逆飯綱とは、体重の落下を凌ぐような猛者が相手のときに用いる高次の技なのだ。 振り子の如く身を揺り動かしたナタクは、カナン・ミトセの左膝裏を右指にて抉った。 比喩ではなく、本当に指先で肉を突き破ったのである。 一連の流れの中で、ナタクの左親指はカナン・ミトセの手首をも穿っていた。 聖王流あるいは蘇牙流の投げ技は、指の力のみで打つものも多い。 ナタクの指は、名実共に獲物の肉を食い破る獅子の爪牙と言うわけだ。 指を骨身にまで食い込ませれば、片腕のみの捕獲でも相手の抵抗に力負けはしないのである。 (――本当は手の骨まで潰したかったんだが、そうは問屋が卸さねぇってな) 肉を食い破るのと同時に手首の骨も破砕するつもりであったが、 カナン・ミトセは僅かに身を捩じらせ、最悪の事態を避けたのだった。 本来の狙いからは些か外れてしまったものの、効果そのものは上々である。 『毒牙(ぶすき)』なる技で関節を深く貫かれたカナン・ミトセは、 ついに左膝を屈してしまい、これによって横三角絞は完成に至った。 「ギブアップすんなら今の内だぜ。どうせ首絞めたって効かねぇんだ。こっちは骨を折る気で行くからよ」 眉間に血管を浮かび上がらせながらもカナン・ミトセは降伏勧告に応じなかった。 代わりに右掌と両の膝で地を突き、絞め込みに抗っている。 ただ意識を手放すまいと気力を振り絞っているわけではない。 四肢の力を込めて状況をひっくり返そうとしていた。 徐々にカナン・ミトセの身体が引き上げられていく。 やがて首と左腕を絞め込まれたままナタクの身を高々と持ち上げ、そこから大地に叩き付けた。 このような真似は自殺行為にも等しい。首の骨はともかく肩から下が壊れることは免れない筈なのだ。 両者の間に体格差は殆どなく、ナタクの全体重を片腕で支えているようなものである。 それでもカナン・ミトセには躊躇がない。一度、落下させただけでは効果がないと見止めるや否や、 何度も何度もナタクの身を大地へ叩き付けていく。 その度に左腕が耳障りな音を立てて軋むのだが、彼は自身に降りかかる痛みにも気付いていないように思える。 対するナタクも負けず劣らず恐ろしい。十回以上、高い位置から地面に落下させられようとも、 決して逆飯綱を解こうとしなかった。己の背骨や肋骨が上げる悲鳴にさえ獰猛な笑みを浮かべている。 木造の屋根が崩れかけた寺院の中に石像を発見したカナン・ミトセは、 ナタクを持ち上げた状態で其処に向かっていく。 寺院から人が去った折に打ち棄てられた物であろう。 手入れもされておらず、今や胴体のあたりまで砕けてしまっていた。 当然ながら壊れた部位は鋭く尖っている。カナン・ミトセは此処にナタクを串刺しにするつもりなのだ。 それでも逆飯綱は解けない。いや、解かない。ナタクはあくまでもカナン・ミトセを攻める構えである。 横三角絞の型から変化したのは、串刺しにされる間際のことであった。 カナン・ミトセが左腕を振り落とした瞬間、ナタクは引っ掛けていた両足を解いた。 石像が飾られている台座を踏み締めつつ、左の五指でもってカナン・ミトセの右肘を掴む。 次いで左右の腕を交差させるようにして可動を封じ、僅かに手元へ引き込んだ後、 跳ね飛びながら彼の身を投げ捨てた。己の身をも投げ出すような勢いで、だ。 下方から一気に上昇する力の作用など負荷を集中させ、左右の肘関節を同時に破断させようと言うわけである。 投げ自体の殺傷力も高い。鎚(かなづち)でも振るうように脳天から逆さに落とそうとしている。 挙動を象徴するようであるが、技名は『垂氷槌(たるひづち)』。 正面からの攻撃を受け止めつつ背後の敵を蹴り、これによって生じた勢いを利用して前方の敵を投げるのだ。 しかも、槌≠フ名が表す通り、他方の敵に向かって叩き付けると言う荒業であった。 甲冑で全身を固めた人間は、そのまま鎚と化すわけである。 対多数を目的として編み出された技であるが、当然、単体へ用いた場合でも十分な威力を発揮する。 関節を極めたまま投げを打つことは、競技では厳禁とされるほど危険な技である。 カナン・ミトセの両腕は獅子の爪牙が咥え込んでいる。力押しで抗えば肉が抉れ、裂けるのも必定だ――が、 当人は傷口が拡がるのも構わずに身を捩じらせ、投げられた直後には右手首を捕獲≠ゥら引き抜いた。 もう片方の爪牙をも中空にて引き剥がしたカナン・ミトセは、更に身を翻してオーバーヘッドキックを放つ。 左右の手を交差させるようにして防御を固め、蹴り足を受け止めようとしたナタクであるが、 この攻防はカナン・ミトセの側が巧みであり、相手の肩をすり抜けるようにして左脚を振り落とし、 足甲でもって後頭部を打った。 着地と同時に後方に跳ね飛び、間合いを離そうとしたカナン・ミトセを、ナタクは抜かりなく追い掛ける。 頭部を揺さ振られたダメージなど感じさせない速度である。 カナン・ミトセの側面に回り込みながら、己の身をぶつけるような勢いで横薙ぎの左拳を繰り出す。 中距離から瞬時に踏み込むロングフックは、死角を突くには極めて有効であった。 あるいは、カナン・ミトセのように類稀なる反射神経の持ち主でなければ、 顔面に直撃を被り、脳を震わされて卒倒していたに違いない。 猛然と迫り来る左腕を右の五指にて掴み上げたカナン・ミトセは、自身の側へと強く引き付けつつ、 対の左拳を三度、四度と叩き込む。 片手のみで連続して拳を打とうとすると、どうしても腰の捻りや踏み込みが小さくなってしまい、 小手先だけの技になりがちだ。当然ながら威力など皆無に等しい。 だが、ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男は違う。常人離れした身体能力と鍛え抜かれた技量は、 傍目には軽く見えるような拳さえも強撃へと昇華せしめるのだ。 事実、ナタクは一撃ごとに骨身の軋む音を聞いている。カナン・ミトセの拳は、ただ重いだけではない。 眉間を――それも全く同じ箇所を寸分の狂いもなく打ち続けていた。 頭部にダメージが蓄積されることは、ナタクは別段気にしてはいなかった。 いざとなれば、鹿角を合わせて跳ね返せば良いだけのこと。 痛みよりも負傷よりも、彼にとっては反撃の糸口を見出すことが最優先なのだ。 (そうだ……ゾンビみたいな野郎を相手にしてるときに、手前ェのダメージを気にしちゃいられねぇ――) そうして六度目の拳が閃こうとしたとき、ナタクはカナン・ミトセの挙動(うごき)へ強引に割り込んだ。 眉間を打たせつつ、自身の右手をカナン・ミトセの腰に回そうとしたのである。 「肉を切らせて骨を断つ」と言う諺の通り、ダメージと引き換えにハーフパンツのベルトを掴むつもりだ。 ベルトを掴み、足を払えば、前方に投げ倒すことも出来るだろう――が、 形勢逆転を達成するべく伸ばされていた右腕は、敢えなくカナン・ミトセに捕獲されてしまった。 気付いたときには両手でもって掴まれていた。 「ヤロッ――」 迂闊を悟ったときには、最早、手遅れであった。 片手による乱打から腕取りに転じる動きは一等速かった。 即ち、この流れをカナン・ミトセが待ち侘びていたと言う証左である。 ナタクはまんまと敵の誘い≠ノ乗ってしまったわけだ。 真横へ回り込みつつ技に入ったカナン・ミトセは、捻り上げている腕に己の右足を絡めた。 より正確に表すならば、肩の付け根の辺りへ右太股を乗せたのだ。 これは第一段階に過ぎない。ナタクの腹の上を滑らせるようにして右足を伸ばしたカナン・ミトセは、 間もなく彼の股を割り、尾てい骨の辺りへ足甲を引っ掛けた。 この動きに合わせ、右手の位置も移している。ナタクの背に手を回し、 次いで彼が穿くズボンの腰回りを掴んでいった。 左手で腕を捻り、右手で腰回りを掴み、更には臀部へと右足甲を引っ掛け―― その状態からカナン・ミトセは己の身を後方に向かって投げ捨てた。 自然、ナタクの身体も仰向けに放り出される。 刹那、地に背を着けたまま身を旋回させ、ナタクに両足を向けたカナン・ミトセは、 再び両の五指でもって彼の右手首を掴む。入り方が独特であるものの、 俗に腕十字あるいは腕拉ぎ十字固めと呼ばれる形であった。 自身の両足でナタクの右腕を挟み込み、この動きと連動させるようにして手首を引き付けると、 肘関節が反り返って技が完成する。手加減をせずに極めようものなら靭帯の断裂は免れまい。 ところが、ジェームズ・ミトセの系譜に於いては、完成に至るまでの動作が些か変わっていた。 腕を引き付けつつ、両の踵を相手の胸部に振り落としたのだ。 捕獲を行う前に踵落としと言う動作を経由するわけである。 「どこも似たようなコトを考えるもんだッ!」 先程の攻防で試みた『磐雨』のように打撃と関節破壊を連動させた技は聖王流にも多い。 カナン・ミトセの腕十字も類似する術理に基づいて考案されたようだ。 つまり、ナタクには外し方が手に取るように分かると言うことである。 肘の逆関節を極められないよう右下腕をひっくり返し、掌でもってカナン・ミトセの胸部を押さえ付けると、 対の左手でもって降り注ぐ踵を弾き、次いで右足首を掴みながら上体を引き起こして。 その直後のことである。カナン・ミトセの胸部を不可視の衝撃波が貫いた。 これは木板を軋ませるほどの破壊力を持っており、ついには床を崩落させてしまった。 言わずもがな、衝撃波はナタクの掌より発せられたものだ。 カナン・ミトセの内臓も大きく揺さ振られただろうが、彼の背が着く床を破ることこそ最大の目的である。 埃を撒き散らしながら大穴へと落下していくカナン・ミトセから右腕を引き抜いたナタクは、 床に突けた両膝の動きのみで素早く退(すさ)り、その状態から下半身のバネのみで飛び跳ねた。 天井に頭が当たるか当たらないかと言う高さまで達すると、今度は急降下の勢いを乗せた蹴り技に転じる。 『冽鴻箭(れっこうせん)』と呼ばれる飛び蹴りの一種であった。 床板の残骸と共に穴の中へと埋まったカナン・ミトセを踏み殺そうと言うわけである。 これに対して、カナン・ミトセは正面突破≠選んだ。床板が崩落して出来た穴の縁を両足の五指で掴み、 此処を軸にして身を跳ね起こしたのである。ささくれ立った箇所が足裏を食い破ろうとも構わずに、だ。 全身を大きく揺り動かした勢いで大穴より飛び出したカナン・ミトセは、 今まさに急降下してくるナタクへ身体ごとぶつかり、技の拍子を完全に崩して見せた。 右の手刀で喉を打ち据え、対の左掌で蹴り足を押さえることにも抜かりはない。 そのまま床の上に叩き付けられたナタクを、すぐさまカナン・ミトセの足裏が追い掛ける。 逆に顔面を踏み抜こうと言うのであろう。 後方へと転がって踏み付けを回避し、両膝を床に突いた状態で身を起こしたナタクは、 前蹴りでもって追撃を図るカナン・ミトセに対して、そのままの状態≠ナ突進を仕掛けた。 両膝のみで移動しつつ、右拳を後方に引いている。無論、突きを放たんとする構えであった。 カナン・ミトセの前蹴りを直撃寸前で避け、反撃として繰り出された右拳は、 どう考えても威力など乗ってはいない筈だった――が、 しかし、その一撃は臍の下の急所に深々と突き刺さっていた。 「む……う……ッ」 さしものカナン・ミトセも僅かながら面を苦痛に歪ませる。 ナタクが繰り出したのは『犀徹(さいてつ)』と言う技であった。 膝を折り曲げなくてはならないような極端に狭い空間での戦いを想定し、 限られた動作のみで標的を殺傷する為に考案されたものである。 犀徹を決めた直後、右掌で頭部を掴まれ、そのまま床に叩き付けられてしまったが、 カナン・ミトセに与えた痛手は深かったらしく、これまでの技と比べて勢いが僅かに減殺されていた。 重心が定まらなかった――否、定められなかったと言う何よりの証拠であろう。 ほんの一瞬の優位に過ぎないだろうが、初めて明確に手応えを感じたのである。 ナタクにとっては十分な収穫であった。 勿論、この成果を噛み締めていられる余裕などナタクにはあろう筈もない。 まるでナタクへ圧し掛かるように前傾姿勢となったカナン・ミトセは、 双肩を掴むや否や、彼の身を駒の如く回転させながら引き起こし、 無防備となった延髄目掛けて縦一文字の手刀を振り落とした。 それも、己の身を深く沈めながら渾身の力を込めると言う強撃だ。 一度、倒した相手をわざわざ引き起こして打撃を見舞うなど変り種としか言いようもないが、 虚を突く意図があるのは間違いない。実際、ナタクは何が起こったのか分からない内に延髄を脅かされ、 うつ伏せの形で叩き伏せられてしまったのだ。 (兵は詭道≠チてな。聖王流にも通じる理念はミトセの系譜にも組み込まれてるようだ) しかし、この状態であればナタクにも反撃の手は幾らでもある。 落下の寸前、両の掌でもって床を叩き、衝突時のダメージを緩衝させていたナタクは、 右手一本のみで己の身を持ち上げると、上体を引き起こしつつあったカナン・ミトセに両足で連続蹴りを喰らわせた。 名を『鳳凰天弓(ほうおうてんきゅう)』と言い、 親友であり同門の好敵手でもあるニッコウが最も得意とする蹴り技である。 合戦の場に於いては、地面に背を着けた状況は死を意味する。 そのような窮地から瞬時に脱する方策として編み出されたのが鳳凰天弓であった。 右手のみで身体を支えている状態では、必然的に攻防に使える部位が限られてしまう。 下半身のバネを限界まで発揮することがこの技の要なのだ。 変則的な体勢からの前回し蹴り、同じ足を振り戻しての後ろ回し蹴り、 天を穿つような蹴り上げ、いきなり膝を曲げて後頭部に当てる踵落としなど、 種々様々な蹴り技を織り交ぜており、最後には必ず相手を撥ね飛ばすのだ。 追い縋ってくる敵兵を矢の如く弾くのが弓≠ニ付けられた由来と言うわけだ。 カナン・ミトセも他の類例に漏れず、膝の屈伸によって強烈なバネを生み出す蹴り上げで胸部を打たれ、 その身を大きく浮かされている。いや、「打ち上げられた」と言っても過言ではない勢いであった。 ニッコウの場合、鳳凰天弓で撥ね上げた相手へ更に追い討ちの蹴りを見舞うのだ。 ナタクも親友に倣おうとしたのだが、それよりもカナン・ミトセの切り返しのほうが速かった。 中空にて身を捻り、両足にて交互に蹴りを放ったのである。 左の後ろ回し蹴りと右の前回し蹴り――これを一度も地に足を着かず三度ばかり繰り返した。 そして、旋風の次には紫電が煌いた。幾度目かの左後ろ回し蹴りがナタクの防御を揺るがした後、 カナン・ミトセは再び身を翻し、さながら大鎌の如く右脛を振り落としたのだ。 狙いは打撃の要たる右肩だった。防御が間に合わなければ、鎖骨を折られていたことだろう。 両手を交差させる形で蹴り足を受け止めた直後、ナタクは反撃に転じた。 カナン・ミトセの右膝を捕らえるべく両腕を伸ばしたのだ。 関節技に持ち込まれると判断したカナン・ミトセは、対の左足を蹴り込むことでナタクを引き剥がそうとした。 しかし、当のナタクは顔面を打ち据えられようとも踏み止まった。 膝こそ掴み損ねたものの、左右の五指は足先へと伸びつつある。 ここが支点≠ナある。足先を掴む寸前、ナタクは伸び切っているカナン・ミトセの足を飛び越えた。 すぐさま中空で身を捻り、左右の足を同時に振り抜いた。右足は腰を、左足は頭部を、それぞれ狙い定め、 外から内へ轟然と薙いだのだ。 このときにはナタクの両手もカナン・ミトセの足先を完全に捕獲していた。 右の五指にて足甲を、左の五指にて踵を、それぞれ掴んでいる。 右足首を内から外へ捻ろうと言うのだ――が、これは足先の破壊が目的ではない。 「内から外へ」と言う回転は、両足の蹴りとは逆方向である。 即ち、相反する回転の力を同時に作用させて膝を――否、右足の関節を一気に破断せしめる技であった。 それ故に足首の捕獲は支点≠ニ定められたわけだ。 所謂、飛び関節の一種であり、名を『孔雀行(くじゃくぎょう)』と言う。 飛び付きを以って相手を術中に引き込むのではなく、中空に在る間に関節技を完成させる性質のものであった。 両足による蹴りを防ぐか、あるいは避けたところで回転の力は作用しており、 ほぼ確実に膝を叩き折ることが出来る。それが孔雀羽と言う技の特性だ。 己の右足に負荷が掛けられていくのをカナン・ミトセも感じたのであろう。 股関節の柔軟性を最大限に引き出し、外から内へと左足裏を蹴り込んでいく。 狙うはナタクの胴、そして、回転力の抑止であった。 相反する回転の力が作用し切る前に力ずくで跳ね返そうと言う算段である。 これによって両者に働いていた回転力はひっくり返る。支点≠ノ掛かる回転と同方向である。 その流れに乗ることで足首の破断をも避けたのだ。 その上でナタクの右足を両手で掴み、再び蹴りを放たれないよう封じ込める。 両の親指で太股や脹脛の経穴を抉り、痛手を与えることも忘れてはいない。 カナン・ミトセの試みた迎撃の奇策は、あらゆる意味で無茶である。 蹴りを放つ体勢は言うに及ばず、ひとつでも拍子を誤っただけで右膝が破壊される状況なのだ。 力の反転を仕損じることは許されなかった。 果たして、カナン・ミトセはこの神業をもやってのけた。 親指を経穴にめり込ませておいたことも大きい。経絡武術あるいは点穴とも称されるこの技法は、 つまるところ、全身を走る神経への加撃であった。本人の意思とは無関係に肉体が反応し、 突いた箇所によっては筋肉の弛緩などを引き起こすのだ。 事実、ナタクの四肢に通っていた力は、経絡への一突きによって僅かに減衰してしまった。 如何にナタクと雖も、神経を直接的に打たれては防ぎようもない。 技の要たる回転力をひっくり返され、為す術もなく弾き飛ばされるかに見えた―― 「指一本でも触れてりゃッ!」 ――が、その寸前に右足を折り曲げ、五指でもってシャツの上からハーフパンツの腰回りを掴んだ。 ナタクにはそれだけでも十分であった。僅かな時間さえあれば、四肢へ再び力を通わせることも出来る。 回転力は大きく減殺され、技の拍子も崩されてしまっている為、最早、孔雀行の完成は不可能だ。 しかし、追撃まで諦める必要もなかった。右足による引き込みでカナン・ミトセの身を更に回転させ、 顔面から落下させるつもりである。 これもまた攻め手としては無茶だ。カナン・ミトセに右足を掴まれている以上、 落下時の反動を以って膝や股関節を圧し折られるかも知れない。 さりながら、如何に頑丈なカナン・ミトセと雖も、顔面から落とせば確実に痛手を与えられるとは予想出来る。 それこそがナタクにとっての最優先であった。自身が傷付くことなど厭わないわけだ。 捨て身とも言うべきその動きを読み切ったカナン・ミトセは、蹴りに用いた左足を地に着き、 踏ん張りを利かせることで床板への激突を免れた。 直後に右足は引き抜かれてしまったが、それは相子と言うもの。 掴まえられたままであった己の右足を激しく振り回し、今度こそナタクを引き剥がした。 これらは全て中空にある間の攻防だ。少しとして気の抜けない状況の中、 ナタクもカナン・ミトセも、その瞬間に最も有効と思われる手立てを見極めていったのだ。 ナタクのほうが一歩遅れて着地したが、文字通り、一歩≠フ差でカナン・ミトセの拳が閃く。 中距離から一気に踏み込むと言う電光石火の突きでナタクの眉間を―― 否、その身を寺院の外まで弾き飛ばした。 (境内から石段まで吹っ飛ばされたなぁ、そう言や。階段落ちが途中で止まって良かったぜ) 砂埃を背に寺院内まで戻ってきたナタクは、首の関節を鳴らしながら愉しげに笑った。 それは、鬼をも喰らう羅刹の如き猛々しい笑みであった。 (石段転がり落ちて終わるなんて勿体ねぇ――あんなに面白い相手は滅多にいねぇんだからよ!) ナタクと言う男は、その凄絶な武技から『戦いの申し子』と畏怖されている。 そして、この獰悪な笑みこそが、『戦いの申し子』たる者の象徴であり、また宿命であった。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |