5.拳法斎、その称号(な)の戦慄


「――やっぱり、ふたりの戦いには立ち会いたかったね。
やり合ってる本人たちは気が散って仕方ないと思うけど、見学させて欲しかったよ」

 ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男――その名をモルガンから聞かされた後、
ナタクは現実と追想との間を行き来している。
 それがバーヴァナにも伝わったのだろう。苦笑いを浮かべながら、彼に往時の死合≠フことを尋ねた。
ひとりの武術家としても、カナン・ミトセには強く興味を引かれるのだ。

「……『孔雀行(くじゃくぎょう)』を外されたって話はしましたっけ?」
「いや、それは初耳だよ。……と言うか、孔雀行を凌いだのかい、ジェームズ・ミトセの末裔は。
流石としか言いようもないが、蘇牙流としてもちょっと複雑だねぇ」
「使ったのは表≠フ型でしたけどね。殆ど極まったような状態から剥がされたのは、
後にも先にも、あの死合だけですよ」

 ナタクが当代のミトセ――即ち、カナンに仕掛けたのは表≠フ型であり、足の関節破壊をその用途としている。
対して裏≠フ型の場合、両足の蹴りでもって標的の頚椎を叩き折ることが目的なのだ。
表≠ニ裏≠ナは技の入り方や力の使い方が全く異なっているのである。
 尤も、どちらの型を用いたところで、カナン・ミトセはきっと技を外していたに違いない。
そのようにナタクは振り返っていた。

「私が調べた文献によると、ジェームズ・ミトセの系譜には『拳法斎(けんぽうさい)』という称号が、
確か伝わっていた筈だよ。だから、打撃の巧者だと思っていたんだが……」
「俺も似たような資料を読んだと思いますよ。実際、ヤツの打撃は普通じゃなかった。
でも、それと同じくらい柔術系の技に長けていましたね」
「我々の『組討(くみうち)』と比べて、どちらが巧みだったかな?」
「『組討』とは少し違うスタイルだったように思います。だから、優劣を付けるのは難しいかな。
……ただひとつ確かなのは、あの男の稽古≠ヘ他の誰よりも進んでいた」

 その場にモルガンが居ることなど忘れたようにバーヴァナと語らっていたナタクは、
ふと己の右手を見つめると、これを握り締めつつ苦笑を漏らした。

「カタなしでしたよ、俺の自慢≠ェ――」

 ――そして、同じ感想をミトセ当人の前でも口にしたと、ナタクは想い出している。

「大したもんだよ、あんた。聖王流(うち)の自慢≠焉Aこれじゃカタなしだぜ」
「……今日は本当に学ぶべきことが多い――実に良い日だ……」
「人の話、聞けよ」

 死合の最中に僅かに交わした会話も面白いくらい噛み合わなかった。
 それはさて置き――ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男は、
拳法を骨子としているのだと、ナタクも古い文献で呼んだ記憶があった。
 どの時代から定められたのかは知れないものの、
代々の正統後継者は『拳法斎』なる称号をも授かってきた筈である。
 しかし、ナタクの前に現れたミトセの系譜(わざ)はどうであったか。
変則的な投げ技や、打撃と関節技の複合にも完璧に対応していたではないか。
 拳法の仮想敵として柔術を学び、技の外し方を心得た――その程度の身のこなしではなかった。
投げ技や関節技の体系をも会得していることが窺えた。それも高次の技術を、だ。
 聖王流に於いて投げ技や関節技は『組討』と総称され、
数多ある技の中でも特に重要視されている。打撃と比して格段に殺傷力が高く、
用いれば確実に相手の生命を奪ってしまう――手加減を差し挟む余地のない『組討』を、
カナン・ミトセは地力のみで凌いできたのである。
 ジェームズ・ミトセの系譜に柔術の技法が組み込まれていることは、最早、疑いようもなかった。

「それじゃあ、俺のほうもちょいとお勉強させて貰おうかねぇ――」

 嬉しげな声を引き摺りつつ、ナタクは再びカナン・ミトセへと向かっていく。
『拳法斎』もまた機敏な足さばきで間合いを詰めようと図っていた。
 直線的な突きを繰り出すべく右拳を引いた瞬間、ナタクは突如として低い姿勢に転じ、
次いで肩から入る体当たりへ攻め手を切り替えた。
 拳打と見せ掛ける際に後ろへ引いていた右足でもって床を蹴り、猛然と全体重をぶつけていく――
この技を聖王流では『蛇牙(じゃが)』と呼んでいる。
 陽動(フェイント)と急加速を以って更に深く踏み込んできたナタクに対し、
カナン・ミトセは先ず肩を右掌でもって受け流し、続けて後ろ向きに急旋回して見せた。
 轟々と突進してくるナタクに背中を向ける形で舞い、すれ違いざまにそのこめかみを左肘で抉る。
相当に深く抉れたらしく、皮膚が裂けて鮮血が噴き出した。
 肘打ちに用いたのと同じ左腕を後ろから首に巻き付け、投げを打とうと図るカナン・ミトセであったが、
追撃まではナタクも許さない。首を脅かそうとしていた腕を左の五指で掴むと、これを右肩に乗せる形で担いだ。
 変わった形の背負投のように見えなくもないが、これは歴(れっき)とした関節技である。
梃子の原理を駆使して相手の肘を圧し折ってしまうのだ。
 ナタクは右の足裏でもってカナン・ミトセの左足甲を踏み付け、同時に右肘を腋下へと突き入れた。
これらの二点を軸に据えて相手の肘関節を反り返らせる次第であった。
 ナタクの狙いを察知したカナン・ミトセは、すぐさま左腕を引き抜き、
再び彼の正面へと回り込んだ――が、このときには既に追撃が顎の先まで迫ってきていた。
 これもまた変則の背負投である。顎の下に右の人差し指と中指を引っ掛け、中空へと身体を放り投げた。
 その直後、すぐさま右拳を後ろに引き、落下してきた顔面目掛けて猛烈な突きを打ち込む。
二段目の突きは『虎徹(こてつ)』と呼ばれるナタクの得意技である。
上半身のバネを振り絞って繰り出す中段突きは、ただ一撃を以ってして相手の胴鎧を砕くのである。
打撃の威力を一点に集中することが、この技の本質であった。
 しかし、カナン・ミトセはこの一撃をも先読みしていた。
中空で両手を交差させ、更にこの中央にてナタクの拳を挟み込むと、
すかさず身を捻って体勢を立て直し、無防備となっている彼の顔面へ反撃の蹴りを放った。
 動作が大きかったこともあり、これは左の下腕でもって弾かれてしまったが、
カナン・ミトセは中空に在る間に同じ蹴り足を振り上げ、そこから踵落としを一閃させた。
 一撃目を弾いたのと同じ左の下腕でもって踵を受け止めたナタクは、そのまま身を深く沈めていく。
思いの外、二撃目のダメージが大きかったのだろうか。あるいは、骨に亀裂が入ったのかも知れない。
 しかし、踵落としを当てたカナン・ミトセ自身には手応えと言うものがなかったらしく、
ついには両膝を突いてしまったナタクへ訝るような視線を向けている。

 果たして、この挙動もナタクの戦術であった。
 虎徹を放っていた右手でもってカナン・ミトセの蹴足を掴み、次いで急激に後退したのである。
言わずもがな、両膝を床に突いた状態で、だ。
 片足が床に着いた直後であったカナン・ミトセは拍子と体勢を一気に崩され、無様にも尻餅をついてしまう。
これを見て取ったナタクは、またしても膝を突いた状態で素早く前進。
その道程に於いて、カナン・ミトセの右足――丁度、膝の辺りだ――を腋と下腕にて捕獲し、
彼の左股関節を自身の右膝で押さえ込んだ。
 磐雨の別の形である。左の半身を反らせつつ右拳でもって何処かを殴打すれば、
そこを軸にして梃子の原理が働き、カナン・ミトセの右足は惨たらしく破壊されてしまうだろう。
右股関節の脱臼あるいは破断は免れず、併せて膝の靭帯をも引き千切る技なのだ。
 膝の力のみで素早く動く技法も、これを生かした奇怪な攻撃も、
狭い空間にて立ち回る術を模索する中で編み出されたモノである。
古い時代には暗殺に用いられたこともあると言う。
 膝を突くと言うのは極端に不利な状況である。
攻撃にせよ防御にせよ、座り込んだ状態では力を入れ辛いのだから、劣勢との判断は当然であろう。
こうした事態を覆す技を開発したことは、武術家にとっては極めて大きな利点であった。
 ジェームズ・ミトセの系譜にも座したまま攻防する技術は伝わっていなかったようだ――が、
武技として行使出来なくとも、記憶の底から類例を引き出して考察を重ねれば、
攻略法自体は思い付くと言うものだ。
 そして、当代のミトセは考察と言う一点に於いては如何なる武術家にも勝っている。
関節破壊を完成させるべく突き込まれた右拳を自身の右掌で受け止め、五指を以って捕獲≠キると、
対の手で左股関節の上から錘≠外した。
 関節破壊に対する防御はこれで完成である。捕獲≠ウれたナタクの右腕はカナン・ミトセの前で一本の棒切れと化し、
彼はこれを断ち切らんと左拳を振り落とした。狙い定めたのは肘関節である。
 関節と言うものは非常に脆弱である。その一点に強烈な打撃が降り注げば、
待ち受ける結果は瞭然と言うものであろう。
 そのような危機にも関わらず、ナタクはカナン・ミトセの拳を避けようともしなかった。
右腋による捕獲を解けば、彼の拍子を崩せたかも知れない。それにも関わらず、だ。
 彼の満面には獰猛な笑みが宿っている。咬み付いた獲物を決して逃さない百獣の王の威容である。
 カナン・ミトセの拳は確かにナタクの肘関節を軋ませたが、その程度で圧し折られることはない。
痛みに負けて銜え込んだ左足を離すこともなかった。
 彼の気魄に応えるようカナン・ミトセもまた攻め手を休まない。錘≠退かして自由となった左足を強引に跳ね上げ、
鎌の如く振り回すや否や、ナタクの背面に踵をめり込ませた。
 その位置には腎臓が在る。今度のような死合≠ナはなく競技の場で狙い撃ちにすれば、
即座に反則負けを宣告されるほど危険な箇所だ。
 急所を揺さ振った後、その踵を背中に引っ掛けて右足を引き抜くことに成功したカナン・ミトセであるが、
それは単なる余禄(おまけ)に過ぎない。彼は捕獲から逃れる為に背面を蹴ったのではないのだ。
最初からナタクの腎臓を破裂させるつもりで踵を振り落としていたのである。
 さしものナタクも腎臓を攻められることは相当な痛手であった筈だ――が、依然として動きは衰えない。
 床に突けた両膝の動きのみでカナン・ミトセの懐に飛び込みつつ、右拳を突き込んでいった。
先程の『犀徹(さいてつ)』にも似た技の入り方であるが、こちらは拳闘で言うところのジャブに近く、
速度重視の打撃のようだ。
 現在はカナン・ミトセも片膝を突いた体勢である。犀徹のように臍の下の急所を貫くことは難しかろう。
 そして、二度も同じような技を喰らうカナン・ミトセではない。左の五指を伸ばしてナタクの右手首を掴み、
対の拳で逆襲を図った。満足に踏ん張りを利かせられない為、威力そのものは下がってしまうが、
今は相手の動きを押し止めることが重要であった。
 しかし、この技とて既に一度披露したものであり、ナタクも対処法は思い付いている。
そもそも、見え透いたジャブはカナン・ミトセからこの技を引き出す為の誘いに他ならないのだ。
 右の五指を内側から滑らせてカナン・ミトセの左手首を掴み返し、続けて左の五指で肘を捉える。
狙いはこの捕獲≠セ。すかさずカナン・ミトセの右腕を捻り、床の上に投げ倒したナタクは、
彼の眉間に向かって左手甲を降らせた。
 無論、この一撃のみで攻め手が途絶えるわけがない。右の五指は今でもカナン・ミトセの左手首を掴んだままである。
 その状態を維持したまま、何とカナン・ミトセの腹の上を転がり、次いで彼の身を仰向けにひっくり返したナタクは、
左膝を床に突きつつ、右の足甲で脇腹を蹴り付けた。
 カナン・ミトセは既に肋へ大きな痛手を負っている。そこに追い撃ちを喰らうのは相当に堪えた筈だ。
何よりも座った状態での攻防は如何にも分が悪い。これでは妙技たる足さばきも使えなかった。
 右蹴りに続いて肩関節を極めようと図るナタクであったが、カナン・ミトセはその場で身を回転させて捕縛から逃れた。
原始的且つ有効な回避法である。
 一瞬だけ背を向けた状態となってしまったが、ナタクに組み付かれるより早く身を旋回させ、
再び突進を始めた彼の左足に両手を伸ばした。
 膝を用いた移動の唯一の欠点は、足裏を着いた状態と比して踏ん張りを利かせられないことだ。
相手に組み付いた状態であれば重心の操作も可能となるが、動いている最中に掴み返されると、
容易く薙ぎ倒されてしまうのだ。

(『座技』にも速攻で順応しやがったなァ。ヤツのお勉強≠ノは誰も敵わねぇや)

 ナタクも余人には後れを取らなかっただろう――が、相手は伝説の武術家の系譜を継ぐ男なのだ。
膝裏に両手を差し込まれ、仰向けにひっくり返されてしまった。
 倒される寸前、せめてもの抵抗とばかりに右裏拳をカナン・ミトセのこめかみに打ち込んだが、
その程度では勢いは止められない。
 対するカナン・ミトセはナタクの左足を両手で床に押さえ込みつつ、自身の左膝を落とした。
 全体重を乗せてあるだけに、直撃されたなら骨の破断は免れまい。
カナン・ミトセの狙いを悟ったナタクは、彼の左腕を力任せに引っ張ることで拍子を乱し、
続けて左足を安全な位置まで滑らせる。
 一瞬の後、鈍い音が寺院址に響いた。見れば、カナン・ミトセの膝によって床板が深く陥没しているではないか。
僅かでも反応が遅れていれば、右足は使い物にならなくなっていただろう。
 寒気が背筋を走り、戦慄に反して心が昂ぶっていく。見開かれたナタクの双眸は熱く燃え盛っていた。

 後方へ飛び退ろうとするカナン・ミトセをナタクは決して逃さない。
 地に着けた状態から右膝を突き上げ、今まさに跳ね飛ぼうとしていたカナン・ミトセの股下へと滑り込ませた。
 一般に『金的』と呼ばれる禁じ手である。そこには全身の可動に影響を及ぼすような神経が通っており、
強撃を受けようものなら肉体そのものが言うことを聞かなくなる。これもまた競技の場では反則であるが、
ナタクが体得したのは古武術――殺傷の為の術であり、急所への攻撃など卑怯でも何でもない。
 直接金的を狙うこの技には『蛟応勁(こうおうけい)』と言う名がある。
股下から突き上げる膝蹴りによって相手を宙に浮かせ、自身はそれよりも早く高く跳ね飛び、
拳を振り落として脳天を揺さ振るのだ。
 人体の真下より駆け上る衝撃が到達点と言うべき脳天からも打ち込まれたなら、
如何に屈強な人間であっても耐え切れずに無力化することだろう。
連続して急所を穿つ蛟応勁は、ナタクも止(とど)めとして用いることが多い。
 今までの攻防の中で脳天を割られているカナン・ミトセにとって、これは致命傷になり兼ねなかった。
 しかし、蛟応勁を以ってしてもナタクはカナン・ミトセの息の根を止め損ねた。
いずれの攻撃も彼を捉えることが出来なかったのだ。
 突き上げられた膝も、振り落とされた拳も、カナン・ミトセは左右の掌にて受け止めていた。
恐るべき反射神経と言えよう。直感頼みではここまで完璧に防御することは不可能な筈である。
 カナン・ミトセからは反撃の蹴りを突き込まれたが、ナタクはこれを蛟応勁の対――右の掌で受け止め、
その瞬間に獅子の如き吼え声を上げた。直線的な打撃の真芯を捉えて衝撃を跳ね返し、
相手の手首あるいは足首を内側から挫く返し技であった。
 技名を『鏡絲(きょうし)』と言う。如何に鋭利な鉾であっても絶対不破の盾に衝突すれば、
柄から折れて砕け散る――このような術理である。
 聖王流独特の防御法、その応用であった。
 果たして鏡絲は、カナン・ミトセの足首に相当なダメージを跳ね返しただろう――が、
骨の破断あるいは粉砕には至っていない。それほど脆弱ではないと言うことだ。
 すかさずナタクはカナン・ミトセの懐へと突進していった。
鏡絲によって少なからず痛手を与えただろう右足の甲を自身の左足裏でもって踏み抜き、
次いで己の身を振り回すほどの勢いで横薙ぎの右拳を繰り出した。
 カナン・ミトセは閃光の拳にて迎え撃とうとしたが、要の足を押さえ込まれていては速度も半減すると言うものだ。
 彼の拳に拍子を合わせたナタクは、互いの腕を交差させるようにして右拳を叩き込んだ。
直撃の瞬間、腰と手首を内側へと捻り、これによって爆発的な威力を生み出している。
 これはナタクが独自に編み出し、新たに聖王流の体系へ加えられた技であり、
名を『獅尸咬(ししがらみ)』と言う。彼にとっては最も得意とする必殺技だった。
 拳の先にまで宿る回転は単純な仕組みのようで奥が深く、
ただそれだけで標的の顔面を陥没させるほどの破壊力を発揮するのだ。
 聖王流は『具足殺し』なる異名を取っており、その名の如く、甲冑を纏い武具を携えた相手との戦いを想定して
数多の武技を磨いてきた。その理(ことわり)はナタクの獅尸咬にも受け継がれている。
例え相手が全身に防具で固めていようとも、兜もろとも頭部を打ち砕くのである。
 杭を打ち込まれたかのようにその場に押し止められたカナン・ミトセは、
兜を殺す′搗ナをまともに喰らい、これと同時に右足首にも深手を負ってしまった。
 凄絶としか例えようがないほどの強撃であった為に右足の杭≠ェ外れ、そのまま大きく撥ね飛ばされた。

 それでも、カナン・ミトセは斃れない。靭帯が切断された可能性もある右足で踏み止まり、
大技を終えたばかりのナタクの首へ左の手刀を叩き込んだ。手の底で打ち据えるものではなく、
親指の側で内側に薙ぎ払う形のものである。
 その間(かん)に右手をナタクの腋から背面へと滑り込ませ、自身の左手首を掴むや否や、
彼の首に下腕を巻き付けて一気に投げ倒した。
そして、獅尸咬の報復とばかりに顔面へ雨霰の如く拳を降り注がせる。
 その全てに閃光の如き速度と威力が宿っていた。右足を負傷する前と少しも変わらずに、だ。
徹底的に痛めつけられたと言うのに、この男は右足を平然と動かしてしまうらしい。
 打たせるだけ打たせて反撃の機会を窺っていたナタクは、カナン・ミトセが前傾姿勢になった瞬間、
彼の膝裏に両手を滑り込ませていく。上体を撥ね起こすと同時にミトセを引き倒し、
次いで彼の腹に馬乗りとなった。
 すかさず左の五指にて襟を掴んで押さえ、内から外に右手刀を薙いだ。狙いは首筋である。
 耳障りな音を轟かせつつ迫ってきた手刀に冷たい戦慄(もの)を感じたのか、
カナン・ミトセは己の右手甲で手刀の根元――つまり、ナタクの右手首を弾き飛ばし、同時に左掌底を突き上げた。
 手刀の拍子に合わせた反撃はナタクの腹を鋭角に穿ち、その身を後方に撥ね飛ばした。
 体勢を整えるべく直ちに起き上がるカナン・ミトセだったが、流石にここはナタクの動きのほうが速い。
 瞬時にして密着状態まで持ち込み、カナン・ミトセの胸部へ二段式の肘打ちを突き立てる。
全く同じ部位へ刹那に数度の打撃を重ね、その振動を体内深くまで浸透させる技だ。
 一段目でカナン・ミトセは胸骨を抉られ、二段目に至っては振動が心臓へ達した。
 刹那を支配する絶技によってカナン・ミトセは大きく吹き飛ばされ、両者の間合いは再び離れた。
 依然としてミトセは合掌の構えを取り続けている。独特の足さばきも全く衰えていない。
感情の起伏がひとつとして認められないまま顔中を赤黒く染める様は、
獰猛な笑みを浮かべるナタクとは真逆であった。

「敗北とは何だ。何を以って敗北とすべきか、知っているのか?」
「あん?」

 この死合の中で初めてカナン・ミトセの側から話しかけられたような気がして、ナタクは怪訝な表情(かお)を作った。

「幸い、俺の周りは化け物ばっかりなんでね。お陰様で負けまくってらぁ。
今じゃ一番弟子にも敵わねぇ。それ自体は悪ィことじゃねぇけどよ」
「敗北の二字が懐かしく感じられるのは、その意味を何処かに置き去りにしてきたからではないか。
何を以って敗北とすべきか――そもそも、敗北は、世に、人に何を生み出す。
……無か。果てしない無にしかならないのか」
「負けて初めて学ぶモンも多いぜ。あんたンとこがどうかは知らねぇが、
聖王流(うち)は勝ち戦も負け戦も、どっちも吸収して育ってきた。
別に『無敗の流派』なんて漫画みてェな看板掲げてるわけじゃねぇし――」
「――敗北が無。勝利が有。その結果の線上に死と生が横たわっているのだ。
……無に還った拳(けん)は、この先、何処を目指す。転げ落ちた坂から山の頂に登り、
そこに光を求めるか。光は――光は無の世界に届くのか?」
「見果てぬ夢を追うだけさ。それが俺たち、武術家の宿命だぜ」
「山の頂に在りて、人は天に光を仰ぐのか。雲の海から覗く光の輪を同じ視線上に捉えるのか。
……光を求めた先に、その意味を見出せなかったとき、人はどうなる。人は――そう、何かを超える……」
「――あ、分かった。これ、眼中に入ってねぇパターンだわ」

 だが、訝ったのも一瞬のことである。カナン・ミトセの口上へ耳を傾ける内に自分以外――
否、地上に現出されていない何か≠ノ向かって語りかけていると判り、直ぐに別の表情へ変わった。
 これでは会話が噛み合わない筈である。カナン・ミトセは正面のナタクではなく遥か彼方を眺めていた。
余りにも遠い何か≠見詰めていた。

「あんたのお勉強を手伝えた自信はねぇが、少なくとも退屈はさせてねぇと思うぜ?」

 相変わらずジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男は自分の世界≠ノ終始している為、
表情と言うものが読み取れない。若白髪は血の色で染まり、全身の至る箇所に青痣が見られるが、
痛みを感じていることさえ定かではなかった。
 それでも、ナタクはカナン・ミトセがこの死合を愉しんでいると信じて疑わなかった。
『戦いの申し子』の心は今までになく昂揚しているのだ。心に燈った炎を共有出来ないわけがない。

(だから、俺もアレ≠解禁する気になったんだ――)

 互いの昂揚を、戦士としての共鳴を確かめようと、再びナタクが突っ込んだ。

「――もっと愉しいこと、しようじゃねぇかッ!」

 合掌の構えを崩すべく、荒々しい吼え声と共に渾身の右拳を突き入れる。
 それは、驚くほど単調な拳打であった。間合いを一気に潰す飛龍撃でなければ、
犀徹のような技巧を凝らしているわけでもない。ボクサーが用いるような足さばきすら伴わず、
相手のもとまで駆けていって大振りの一撃を放つなど、素人同然と言えよう。
 一応、こめかみを狙ってはいるものの、精度自体が疑わしい。
例え急所を外しても、何処かに当てられたなら大成功。殴れるところだけ殴っておく――
このような技は武術家として有るまじきものであろう。
 聖王流の武技は、急所への突き込みや複数の技の連携などが宙(そら)の星座の如く入り組んでいる。
その術理に則ればこそ、絶え間なく攻撃を繰り出し続けることが可能になるわけだが、
今のナタクは全てに於いて拙劣そのものと言えた。
 次≠フ技への派生など一切考えていないような力任せの拳が唸りを上げている。
聖王流の神髄を遺憾なく発揮してきた今までのナタクとは余りにも掛け離れており、
ともすれば、勝利を諦めて自棄になったのかと錯覚してしまう程だ。

 それなのに、彼が繰り出す拳は今までよりも遥かに深く、光速以上とも感じられるほど疾く、
ただ一撃のみで骨身に悲鳴を上げさせるくらい重い。
 もしかすると、ナタクは本当に次≠ネど考えていないのかも知れない。
あるいは、次≠ネど不要の拳なのであろうか。
 素人のような大振りの拳打が、不可避の脅威として合掌の構えを揺さ振りつつあった。
何の工夫も見られない拳が、今や飛龍撃にも犀徹にも匹敵する威力を誇っているのだ。
 ナタクは左右の拳を立て続けに振り抜いたが、二発とも殆ど同時にカナン・ミトセの防御まで達している。
そして、その威力を以ってして、反撃に転じようとする挙動(うごき)をも封じ込めている。
 合掌の構えによって実現し得た無駄のない身のこなしと、独特の足さばきが生み出す速度、
何よりジェームズ・ミトセから受け継いできた武技を駆使しても、今のナタクは完全には捉え切れなかった。
死合≠フ序盤のように拳打を弾くことさえままならない。
 左右の拳打に続いて降り注いだ右のローキックは、ただ一撃のみでカナン・ミトセの身を宙に舞わせた。
跳ねた瞬間を蹴ったとは雖も、人ひとりを回転させるなど尋常ではない。
 爆発的な威力によって振り回されたカナン・ミトセを、ナタクは上段蹴りで追撃する。
これもまた次≠考慮しない技であった。
膝を曲げつつ右足を高々と上げ、顔面に狙いを定めて足裏を突き込むのだ。
 聖王流本来の蹴り技と違って動作が大きく、それに比例して無駄も多い。
カナン・ミトセのように神速を発揮する相手には、どう考えても相性の悪い技だ――が、
ナタクは苦もなく直撃させてしまった。
 その威力は拳打にも増して凄まじく、完全に防御した筈のカナン・ミトセを軽々と吹き飛ばしたのである。
 中空にて身を捻り、巧みに着地するカナン・ミトセであるが、そのときには既にナタクに追い付かれていた。
 白髪頭を両手で掴んだナタクは、合掌の構えを真っ二つに割るようにして右の飛び膝蹴りを喰らわせる。
余りにも強い力を込めた為、髪の毛を何本も引き千切ってしまったが、それを省みることはない。
同じ足で胸板を踏み付けた挙げ句、そのまま床に蹴り倒してしまった。
 カナン・ミトセが上体を起こそうとすると、今度は左足を思い切り振り上げ、
飛び膝蹴りを喰らわせたばかりの顎を爪先で撥ね飛ばした。
 全体重を乗せた蹴り上げだ。そのまま頭上を飛び越えたナタクは、
着地と同時に後ろ回し蹴りの体勢に移り、振り向こうとするカナン・ミトセの動きに合わせて横っ面を薙ぎ払った。
足裏を叩き込むこの蹴りは、所謂、『ソバット』と呼ばれる技(もの)である。
 聖王流の後ろ回し蹴りとしては、斜め下から弧を描くようにして繰り出す『翔馬箭(しょうません)』が在るが、
ソバットとは性質からしてまるで異なっている。翔馬箭が主として胴を薙ぎ払う蹴り技であるのに対し、
こちらは顔面を吹き飛ばすのだった。

「――密かにこっちの蹴り方のほうが得意でよォッ!」

 血飛沫と共に仰け反るカナン・ミトセを追いかけたナタクは、すぐさまに左の五指を伸ばし、
右の襟を取った――が、そこから連ねた攻撃は聖王流の『組討』ではなかった。
襟を引っ張ることでカナン・ミトセの体勢を崩しつつ、横薙ぎの右拳で力任せに殴り飛ばしたのだ。
 吹き飛ばされる寸前、カナン・ミトセは左足を鋭角に振り落とし、ナタクの脳天を踵で打ち据えた。
 防御も忘れて攻め続けていたナタクは、堪らず片膝を突いてしまったものの、
その面に貼り付けているのは、やはり獰猛な笑顔である。苦痛など微塵も浮かべてはいなかった。
 「何、急にビビッてんだよ。生命の遣り取りってのはこんなモンだぜ」などと
挑発めいたことを発するナタクは、攻め方までもが非常に強引――否、荒っぽくなっている。
これでは路上の取っ組み合いと大して変わるまい。
 計算され尽くした聖王流の挙動から転じた為、攻守の呼吸≠燒wど別物に変わっている。
 『組討』と言った聖王流特有の呼吸≠ノ慣れ始めていたカナン・ミトセは、
この極端な変化によって拍子が乱され、防御や回避さえ仕損じるようになってしまったわけだ。
本人は相変わらず無表情だが、頭の中では混乱が渦を巻いている筈である。

「……光と闇を統べて……合一の成った力……だが……原始の混沌は否めず……」

 口から漏れ出す考察の内容にも当惑が表れているように思えた。
 そのカナン・ミトセを嘲笑うかのように、ナタクの動きは更に変化していく。
呼吸≠ネど全く把握出来ないくらい変貌を繰り返していった。
 カナン・ミトセの拳は依然として速く、繰り出される度にナタクの頭部へ着実に痛手を重ねている。
 これに対し、ナタクは初めて打開策を講じた。
予め身体を上下左右に揺り動かしておき、的≠絞らせないと言う逆転の発想を試みたのだ。
防御も回避も困難であれば、そもそもカナン・ミトセの照準を乱してしまえば良い。
 当然ながら、これは突発的に閃いたものではない。拳闘に於いて採用されている防御法のひとつだった。
 閃光の拳だけに完全に躱し切ることは不可能であり、何発かは頬を、あるいはこめかみを掠めたが、
直撃を被る回数は極端に減少した。
 空振りを見て取るとすかさず反撃に転じる。腹や頭部に拳を叩き込むか、
あるいは足裏を突き出して蹴倒していくのだ。相手の踏み込みにカウンターの拳打を合わせるのが最良だが、
そこまでは難しい。迂闊に飛び込もうとすると、逆に強撃で撥ね飛ばされてしまうのだった。
 蹴りを打たんとする動作が見えると、ナタクは懐深くまで一気に踏み込み、
体当たりや頭突きでもって出端を悉く挫いていった。
 前回し蹴りと見れば、両膝を折り曲げながら飛び上がって避け、次いで左手で襟を掴み、更には右拳を突き入れる。
拳打を躱されてもナタクは止まらず、右の五指にて左襟を取りつつカナン・ミトセの背後に回り込んだ。
 最中合わせの形で着地したナタクは、すぐさまに掴んでいる両襟を引き込んだ。
カナン・ミトセの首元では襟が交差する恰好となっており、これによって頚動脈を絞め付けるのだった。
 これに対して、カナン・ミトセは振り子のように上体を揺り動かし、首の絞め込みを引き剥がしに掛かる――
と言うよりも、この挙動(うごき)を以ってナタクの身を前方に放り投げるつもりなのだ。

「ちぃッ――」

 カナン・ミトセの狙いを悟ったナタクは、すかさず襟を放して飛び退り、
これと同時に左膝裏を己の右足裏で思い切り踏み付けた。『毒牙(ぶすき)』で抉っておいた傷口を、だ。
 膝を挫いてから肩を突き押し、そのまま床に倒そうとするナタクだが、
桁外れの打たれ強さを誇るカナン・ミトセは、この程度では体勢を崩さない。
 彼は痛手を重ねられながらも身を捩り、反撃の横蹴りを出そうとする。
この動きを見て取ったナタクは、掌でもって蹴足の裏を押さえ付けた。
 返す刀で後ろ回し蹴りを打たれても、威力の乗らない膝や太股を叩いて弾き飛ばすのだ。
 そうして体勢が崩れ、且つ好機と見て取れば、ナタクは投げ技に持ち込んだ。
両袖を掴み、足を払い、カナン・ミトセの身を床板に叩き付け、続けざまに己も倒れ込むようにして肘を落とした。
 状況によってはプロレス式の投げ技まで使っている。
相手の背後に回り込み、腋の下から頭を入れるや否や、両腕で胴を締めつつ後方に反り返る――
『バックドロップ』と呼ばれる大技だ。
 尤も、これは動作が大き過ぎる為、投げを打つ段階まで移ることが出来なかった。
身体を持ち上げた瞬間にカナン・ミトセから顔面に肘を落とされ、これによって体勢が崩れた為、
敢えなく抜け出されてしまったのである。

「――プロレス技も使ったって言ってなかったかい。私の記憶違いかも知れないけれど……」
「……憶えてましたか」
「ブレーンバスターだっけ、それとも、バックドロップだっけ? 
キミは喧嘩殺法を使い出すと、いきなり無茶苦茶をやりたがるよね。
レスラーでも何でもないと言うのに、実戦で良くあんな無理な技をやろうと思ったもんだよ」
「は、反射的に出ちまったんですよっ」

 ――丁度、その攻防を振り返ってきたときにバーヴァナから無茶な試みを指摘されてしまい、
記憶の中に没入していたナタクは、バツが悪そうに頬を掻いた。
 そして、追想の中の『戦いの申し子』は、バックドロップを仕損じた直後の反撃と向き合っている。
 『拳法斎』と呼ばれる男は、やや離れた間合いから一気に踏み込み、閃光よりも更に速い拳打を見舞った。
特殊な足さばきによる加速を十二分に生かした技である。

(この頃になってくると、もう防ぐ気もあんまりなかったな。何十発も殴られてりゃ痛ェのにも慣れるもんだ)

 ナタクの頬が弾け、血飛沫が飛ぶ――が、これも次なる攻防に移る為の布石であった。
 自身に突き込まれた右手を取り、次いで左手をも掴み上げたナタクは、
両手でもってカナン・ミトセと組み合う体勢に持ち込んだ。

「技はともかく、純粋な力比べはまだしてなかったよな。こう言うのも悪くねぇんじゃねーか?」

 さしものカナン・ミトセもこれには不思議そうな表情(かお)を見せた。
互いの生命を賭して拳を交えている最中に、何も押し合い圧し合いで力を競う理由などなかろう。
 後先など微塵も考えず、本能の赴くままに拳を振るっているとカナン・ミトセには思えた筈だ。
あるいはナタクが暴走し始めたように見えたかも知れない。
 遊戯(おあそび)になど付き合って入られないとばかりに両足を振り上げ、
胴を挟み込んだカナン・ミトセは、そのまま後方へと身を投げ出した。
ナタクの身体をうつ伏せに引き倒そうと言うのである。この流れの中にて両手も振り解いている。
 自由を取り戻した両手でもってナタクの左腕を取り、互いの腕を絡めるようにして関節を極め、
組み伏せようと図る。『腕緘(うでがらみ)』と呼ばれる技法の一種であった。
相手の腕を背中へ回すようにして捻り上げつつ、胴も絞め続ける二重の捕獲だ。

「手前ェで喧嘩売っといて、付き合い悪ィじゃねぇか――」

 尤も、この技がナタクを捕獲することはなかった。
腕緘が完成する寸前、ナタクは胴の絞め込みをすり抜けるようにして前方へ回転したのだ。
その間際には空いた右手でカナン・ミトセの片足を引き剥がすと言う布石も打っている。
 先程の攻防に於いて、肩関節を極められそうになったカナン・ミトセが試みたものと類似する脱出の仕方である。
 カナン・ミトセとの違いは、これが単なる回避法ではなく返し技と一体になっていた点だ。
 前方に転がりつつもナタクは両足による蹴り技を放った。先ず両の踵でカナン・ミトセの延髄を打ち据え、
次いで左足裏にて顎を突き上げる。床に背を着けた状態での攻撃ではあるものの、
右足裏にて踏ん張りを利かせ、下半身のバネを一気に振り絞る蹴りの威力は、虎徹や犀徹にも匹敵する。
 組み敷かれた状態を一気に覆すこの技を、聖王流では『鶺鴒弓(せきれいきゅう)』と呼んでいた。
 思い掛けない強撃によって顎を撥ね上げられたカナン・ミトセであったが、敢えて反撃は踏み止まった。
見れば、ナタクは膝の屈伸のみで飛び退り、これと同時に再び両膝を突く形で着地している。
右拳は既に引かれており、迂闊に飛び込めば犀徹の餌食になるだろう。
 この動きはまさしく聖王流の技(それ)である。喧嘩殺法へ切り替えたように見せておいて、
状況に応じて古流の武技も巧みに織り込むのだ。

 カナン・ミトセが深追いを止めたと見て取るなり、両膝の屈伸でもって前方に跳ねたナタクは、
身体を丸めながらの突進へと転じた。
 先程、披露した蛇牙ではない。力任せに肉弾をぶつける荒業だ。
右の拳で迎撃されても、左掌で押さえ付けられても構うことなくカナン・ミトセにぶつかり、
壁際まで猛然と駆け続けた。
 押し切るようにしてカナン・ミトセの身を壁に叩き付けたナタクは、そこから左右の拳を乱発し始めた。
 古流武術に言う当身などではない。拳打の技法のように洗練されているわけでもない。
形式(かたち)も何もあったものではない滅多打ちであった。
 頭部と言わず、胴と言わず、四肢と言わず――全身の至る箇所へナタクは拳を降り注がせていく。
その勢いたるや、機関銃の連射を想起させた。獲物≠壁際に押し込んだまま、決して逃さない。
 カナン・ミトセの肉体を貫き、伝導された破壊力によって木板の壁が粉砕されようとも、
ナタクは連射を止めないだろう。一瞬の隙を見極めて左右に逃れようとすると、
すかさず横薙ぎの蹴りを繰り出し、胴や足の付け根を打って挙動(うごき)自体を押し止めるのだ。
 場合によっては、足裏で腹を押さえながら殴りに行くこともあった。
 仮に壁が破れ、そこに退路を求めたところで、ナタクは瞬時にしてカナン・ミトセを追い詰める筈だ。
 その様は血に餓えた獅子である。目の前の獲物≠咬み千切らんとする百獣の王の威容(すがた)であった。
 「食べ散らかしている」と言う表現さえ、現在のナタクには当てはまる。
 直線的な突き込みと見せておいて斜方に変化し、犀徹によって痛手を被っている臍の下を再び打ち据え、
そうかと思えば、半円を描くような軌道で対の拳を胴に叩き込み、肝臓まで衝撃を貫通させていった。
 右の拳で二連続のアッパーを放つ――初撃は腹を、二撃目は顎を狙っている――と、
今度は両の拳を振り回し、カナン・ミトセの耳へと同時に突き入れる。
肋を抉った『雷獣奠(らいじゅうてん)』ほどの威力ではないが、
確実に三半規管を、そして、脳をも振動させた筈である。
 横薙ぎの拳を繰り出した直後、半歩踏み込んで肘まで当てるなど変則技まで混ぜている。
それでいて、深手を負っている脳天に拳骨を叩き落とすなど単調な攻め手も用いるのだ。
 確かに攻め手は変化に富んでいる――が、統一性と言うものは少しも感じられない。
自らの学んだ武術、格技の拳打を連携も考えずに乱発しているようなものであった。
下手な鉄砲を無闇に撃ち続けていると言う風にも見えるだろう。
 それにも関わらず、カナン・ミトセは満足に躱すことも出来ない。
防御しようにも呼吸≠ェ読めず、拍子をも完全に崩されてしまい、殆どと言って良いほど直撃を被っていた。

「これが聖王流だよ、拳法斎」

 真横への退避を押し止めようと首に向かって手甲を振り落とし、
続けざまのショートアッパーで鳩尾を撃ち抜いたナタクは、
不思議そうに首を捻っているカナン・ミトセにそう笑いかけた。
 他流の技法を食い散らかすような戦い方さえも聖王流のひとつとして肯定したのである。
 「武芸百般」を神髄とする聖王流は古今東西のあらゆる武術を研究している。
それはつまり、強くなる為に必要な技術や方法論は選り分けることなく何でも取り入れると言うことである。
 ひとつの流派に拘泥せず、実戦で通用する術(すべ)を徹底的に追求する。常に進化を目指す。
だからこそ、ナタクは「これが聖王流だよ」と言い切ったわけだ。
 そして、彼は、『戦いの申し子』は、誰よりも武技の吸収に貪欲だった。
拳闘や功夫、フルコンタクト空手、柔道、アマレス、プロレスなど様々な格闘技術を体得し、
検証と鍛錬を重ねる過程にて、形式(かたち)に縛られない喧嘩殺法に開眼したのである。
 今、カナン・ミトセと相対しているのは古流の伝統ではない。
これこそがナタクと言う男の本来の聖王流(たたかいかた)であった。
 呼吸≠ェ変わるのも当然と言えよう。古流の伝統から解き放たれたナタクは、己の思う侭に戦っているのだ。
力の使い方自体が切り替わったようなものなのである。
 自由自在に己の技を振るえるから――それだから、血潮が沸騰し、魂の昂ぶりに呼応して肉体は躍動し、
突き出す拳(けん)が、振り抜く脚(きゃく)が、潜在する全ての力を覚醒させるのだ。
 無駄とも思える過剰に大きな動作さえ、ナタクは心底から楽しんでいた。

(死ぬほど行儀悪ィし、宗家としては褒められたモンじゃねぇんだろうがな……)

 一番の大得意である筈の喧嘩殺法を惜しんでしまうのは、
皮肉なことにナタクが宗家として聖王流の看板を背負っているからだ。
 「伝統」の二字には途方もない責任感が伴っており、
その正統後継者には流派を穢すような振る舞いなど決して許されない。
ともすれば、暴虐の烙印を押されても仕方のない喧嘩殺法は、古流の伝統とは相容れないものであった。
 勿論、周囲の仲間たちはナタクの戦い方を理解している。
同門の中にさえ、「宗家には相応しくない」などと咎める者はいなかった。
 しかし、ナタク自身がそれを認めない。聖王流宗家と言う矜持が暴力の顕現を堰き止めてしまう。
「伝統」と言う名の枷を外すのは、己の全てを懸けても惜しくない相手と対峙した瞬間のみである。

(あいつとは自分の全てをぶつけて戦いたかった――身も心も焼き尽くすくらいに燃え上がってよ。
漢と漢の真剣勝負なんだから、お天道様だってお目溢ししてくれたハズだよ……な)

 そして、ジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男とは、まさしくこれに相応しい相手なのだ。

 覚醒した肉体は聖王流の技も研ぎ澄ませていく。
 前のめりになってしまうような拳打を手刀による迎撃で弾かれ、体勢を崩した瞬間、
ナタクは振り子のように身を激しく揺り動かし、そこから獅尸咬を繰り出したのだ。
 カナン・ミトセの足を踏みつけてはいない。それどころか、崩れかかった体勢を無理矢理に動かした為、
技の要たる足腰の捻りも甘い。それにも関わらず、回転する拳はカナン・ミトセの身体を大きく傾がせた。
横一文字の光が駆け抜けた後、こめかみから赤黒い雫が飛び散ったのである。
 傾いだ身を掬い上げるように爪先で顎を撥ね飛ばし、これによって上体を起こさせると、
ナタクは嵐の如き連打を再開した。
 この中には『虎乱(こらん)』が混ぜられている。人体急所を立て続けに攻める六連発の拳打が、だ。
 初めて披露した折には半分しか当てられなかったが、今度は六発全て的確に決まった――が、
だが、二度目と言うことで技の呼吸≠ェ読み易かったのであろう。
 ナタクが拳を引く瞬間を見計らってカナン・ミトセは前方に押し出し、正面(そこ)に活路を切り開こうと図った。
 当然ながらナタクも迎撃を試みる。右の拳を突き入れたが、カナン・ミトセは左掌でこれを受け流し、
逆に自身の拳を放つ。内から外へと右の裏拳を振り抜き、彼の頬を打ち据えた。
 カナン・ミトセにとっては反撃の好機である。裏拳のみで攻め手を終えることはなく、
左の手刀を首へ、横薙ぎの右拳と、これに続く肘まで横っ面へ叩き込む。
その間(かん)に後ろへ引いていた左腕から掌打が飛び、大きく顎を弾いた。
 瞬く間に吹き荒ぶ連打に耐え、半歩踏み込んでの回し膝蹴りで反撃しようとするナタクであったが、
しかし、カナン・ミトセの右拳に脇腹を突かれた直後、肉体(からだ)が変調を来たした。
 軽く小突かれただけであったが、次の瞬間、全身から力が抜けてしまったのだ。
 細い鍼で刺し貫かれたような痛みが身体の芯まで達していた。
 だからと言って、カナン・ミトセが隠し武器を忍ばせていたとは考えない。
拳の握り方を変化させ、衝撃を体内深くまで浸透させたのだろう。
 同じような技法は聖王流にも伝わっている。だが、カナン・ミトセの一突きは遥かに精密で、
しかも、効力が強い。威力ではなく効力(ききめ)≠ェ強い。
 ナタクの筋肉が弛緩してしまったのは、或る特定の部位を狙い撃ちした結果である。
即ち、経絡武術あるいは点穴と呼ばれる秘技であった。

(投げや組みも面白かったが、やっぱりアイツは『拳法斎』。その称号はダテじゃなかったッ!)

 崩れ落ちそうになるのを何とか踏み止まったナタクへカナン・ミトセの左拳が迫る。
 肉体は虚脱した状態から回復していないが、聖王流はこの程度≠ナは止まらない。
ナタクが念を込めた瞬間に右拳が閃き、カナン・ミトセの左拳と正面から激突した。
 双(ふた)つの拳は周囲に烈しい衝撃波を輻射させ、朽ちかけている天井や柱を軋ませた。
ナタクもカナン・ミトセも、自分たちが炸裂させた威力によって弾き飛ばされ、僅かながら間合いが離れた。
 不気味な軋み音が廃墟に響く中、両者は黙して佇んでいる。
ナタクは構えを取ったまま、カナン・ミトセは己の左掌を見つめたまま、だ。
 「それでも、動くのか」と、カナン・ミトセの双眸が問い掛けた。人間らしい感情が初めて見て取れた瞬間と言えよう。
 だから、ナタクも言葉ではなく眼光で答える。「動かしたんだよ」と、猛々しい笑みを浮かべて――。


 鍼で突き刺されたかのような衝撃は、余韻の如くナタクの脇腹に残っている。
打たれた瞬間ほど筋肉は弛緩していないが、それでも身体の節々が痺れているように感じられるのだ。
これは錯覚などではあるまい。
 ここに至るまでの攻防でもジェームズ・ミトセの系譜を継ぐ男は経絡武術を駆使していた。
絞め技から脱するには、肉体に掛かる圧迫そのものを取り除いてしまえば良い。
しかも、経穴へ刺激を加えるには指一本で事足りるのだ。
最小の挙動(うごき)で最大の効力(ききめ)を引き出すのは、まさしく「秘技」の二字に相応しい。
 ナタクの全身を弛緩させた突きも原理は変わらない筈だが、
技術自体は今までのものと比して遥かに高次であった。
 絞め込みからの脱出に当たっては、特定の部位を指先にて強く圧し込み、神経に痛手を与えていた。
それに対し、今度は素早い一突きでもって同様の――否、より強く作用したのだ。
 神業と言っても差し支えはあるまい。
 服の上からでも経穴の部位を見極める眼力と、そこを確実に射抜く技巧を兼ね備えていなければ、
絶対に成立しない突きであった。

「……友よ……友よ……友達よ……」

 経絡武術あるいは点穴とも呼称される秘技を繰り出した直後から、
カナン・ミトセは己の左手を見つめ続けている。ナタクの全身から力を奪った恐るべき拳を、だ。
 彼は左拳(そこ)に友≠フ幻像でも映しているのだろうか。
当代のミトセの来歴と言うものを流派以外には何も知らないナタクは、
共に武技を磨いた仲間でも顧みているのかと、その呟きから推量するしかない。
 あるいは、カナン・ミトセに経絡武術の極意を授けた相手かも知れなかった。
 そのように想像してしまうのは、ジェームズ・ミトセの系譜に伝わる経絡武術と、
当代の放った技が少し異なっていたからだ。ナタク自身、古い文献から抜き出した知識しか持ち得ないのだが、
先程のような突き方は、如何なる資料にも見られなかったのである。
 無論、ナタクの勉強不足と言う可能性も考えられる。
表に出ていないだけで、このような突き方もジェームズ・ミトセの系譜(わざ)として
伝承されてきたのかも知れない。
 ナタクの側の印象ではあるものの、これまでに身に刻まれてきた『拳法斎』の武技とは、
術理や理念が根本的に違っているように思えたのである。
 さりながら、他人からの借り物、付け焼刃の類ではあるまい。
経絡武術そのものはジェームズ・ミトセの系譜に古くから組み込まれていた筈である。
その技法へ更なる磨きを掛けたことに他ならないのだ。
 他流に学んで進化を目指すと言う方法論は、聖王流の理念にも通じるものであった。

 今までよりも高度(たかさ)を落とし、代わりに跳ねる回数を増したカナン・ミトセは、
小刻みの足さばきから流れるように蹴り技を連ねていく戦法へと移行した。
 ここに至って合掌の構えに更なる変化が加わったと言うことだ。
 残像すら映さない速度で間合いを詰めるや否や、右の上段蹴りで顔面を脅かす――と見せかけ、
直滑降の如く足を振り落として右内膝を蹴り、返す刀で中段蹴りへと繋げた上で、
最後にナタクの顎を足刀で撥ね飛ばした。
 足刀とは小指側の側面を突き出す蹴り技であり、顎だけでなく喉にも大きな痛手を与えていた。
 右の足刀を引き戻すと同時にカナン・ミトセは高く跳ね飛び、後ろ回し蹴りまで繰り出した。
跳躍の軸も蹴りを打つのも同じ左足だ。しかも、連続して頭部を狙うと思わせながら、
直撃の寸前に身を翻し、膝目掛けて足裏を落とした。
 言わずもがな、先にローキックで痛手を与えておいた側――右膝に照準を合わせている。
 生半可な者であれば、これだけでも右膝は粉砕されていただろう。
しかし、そこは『戦いの申し子』だ。膝でもってカナン・ミトセの蹴り足を突き上げ、
体勢を崩そうと試みたのである。
 蹴り込みを弾かれたカナン・ミトセは、すかさず左の足首をナタクの膝裏に引っ掛け、
腰の捻りを基点とする回転に巻き込んで彼の身をひっくり返した。
 左手でもってジャージの襟を掴み、回転の勢いを操作しているあたり、
足払いと言うよりは投げ技に近い性質なのであろう。
 床の上に放り出されたナタクの頭部に向かって、カナン・ミトセは躊躇なく右の爪先を振り上げる。
 防御も間に合わず、側頭部に直撃を被るナタクだったが、己を蹴った足を両手で掴むと、
片膝を床へ突いた状態で思い切り横に振り回した。
 これもまたプロレス技のひとつであり、リングの上では『ジャイアントスイング』と呼ばれている。
本来は相手の両足を腋下に挟んで行うものだが、状況が状況だけに正規の型にこだわってはいられまい。

「――砕けェッ!」

 遠心力に乗せ、壁際へとカナン・ミトセを投げ飛ばしたナタクは、これを追いかけるようにして天井寸前まで跳躍する。
先程と同様に急降下を伴う攻撃を喰らわせようと言うのだ。
 これもまた変則的であった。カナン・ミトセを射程範囲≠ノ捉えた瞬間、
天井に両足を突き、ここで踏ん張りを利かせて『飛龍撃』を繰り出したのである。
 天井の軋み音は、さながら嘶きか。天翔ける龍の牙がカナン・ミトセに向かって襲い掛かった。
 仰向けに倒れたまま両掌で龍の牙を受け止め、全身に降り注ぐ衝撃波を凌いだカナン・ミトセは、
左右の五指にて手首と下腕を掴み、ナタクを後方へと放(ほう)った。
 自身も一緒になって転がり、そのまま馬乗りの状態に持ち込む。
 互いの両足を絡み付かせ、捕獲≠完成させようとするカナン・ミトセではあったが、
その寸前にナタクはハーフパンツのベルトを掴み、彼の身を頭上へと放り捨てた。
 両手でベルトを掴むのと同時に左足をミトセの股に割り込ませている。
爪先でもって撥ね飛ばすと言う動作があったればこそ、馬乗りの状態から容易く脱せられたのだ。
 聖王流の本質は戦場武術である。組み合った相手が首≠狙って馬乗りに持ち込むことも
当然のように想定しており、回避法などは基礎として学んでいるわけだ。

(そう言や、このときの経験はMMAの選手とやったときにも役立ったなァ)

 巧くカナン・ミトセを転がしたナタクは、すぐさまに上体を引き起こし、
片膝を突いたまま床の上を滑るような右回し蹴りを放った。
 これは喧嘩殺法ではなく歴(れっき)とした聖王流の技であり、名を『穂刈(ほがり)』と言う。
字面だけを見ると恐怖は薄いのだが、投げ捨てた相手の首を一瞬にして圧し折らんとする蹴りであった。
 死角から迫る殺気を感じ取ったカナン・ミトセは、両腕の屈伸のみで中空に跳ね飛び、
轟然たる横薙ぎを間一髪で躱した。
 そうして着地する頃には、次なる攻撃が迫っている。ナタクが大振りの右ストレートを放とうとしていた。
 直線的な突きを手刀で受け流したカナン・ミトセは、反撃の右中段蹴りを脇腹にめり込ませると、
同じ蹴り足を内から外へと振り回して横っ面に当て、更に着地と同時に軸足を切り替え、
対の左足でもってナタクの膝を踏み付けた。
 報復とばかりに左回し蹴りを放とうとするナタクの出端を挫いたわけだ。
蹴り込んだのは右膝――技の要であり、先程から痛め付けている部位である。
 尤も、回し蹴りの挙動を妨げたところで『戦いの申し子』が止まる筈もなく、
カナン・ミトセの蹴り足を弾き飛ばすような勢いで左裏拳を繰り出し、その横っ面を思い切り張り飛ばした。

「蹴り技も巧ェじゃねーか。こちとら短足なもんでよ、足長おじさん≠ェちょっと恨めしいぜ」

 上体を仰け反らせながらも踏み止まったカナン・ミトセに対し、ナタクは感心したように笑いかけた。
 一方のカナン・ミトセには依然として笑みはない。一瞬だけナタクに関心を持ったようにも見えたが、
今や再び自分の世界≠ヨ没入しており、僅かに開けた口から独り言を零し続けている。
 それでも、武術家としての意識は死合に注がれていた。
蹴りだけではナタクを押し切れないと判断し、閃光の拳を――それも点穴の秘技を織り交ぜるようになった。
 無闇に乱発するのではなく、今までのように通常の打撃を繰り返しつつ、虚を突く形で放つのだ。
 突き込まれてきた拳打と交差するようにして懐深くまで潜り込み、
左右の手刀で顔面を撲(は)り、更に右肘で鳩尾を、同じ側の手甲で下腹部を次々に打ち据え、
防御に転じたナタクが半歩下がるや否や、今度は右足で連続蹴りを放った――その直後、
左の拳が陽炎の如く揺らめいた。
 閃光の如き左拳が狙ったのは、脇腹ではなく左右の肘である。
 関節の内側にある神経まで衝撃を貫通されたナタクは、瞬間的に肘から一切の力が抜け落ち、
完全な無防備となってしまった。
 小指の先にまで痺れが及んでいると症状を確かめたときには左の上段蹴りが喉を捉え、
踏ん張りを利かせる前に対の足による前蹴りで撥ね飛ばされた。
 この攻防が意味するのは、回避し切る以外に点穴をやり過ごす方法がないと言う事実である。
守りを固めようにも経穴への衝撃は身体の芯まで貫通する。触れただけでも効力(ききめ)が現れるわけだ。
そうなると、肘や脇を突かれたときと同様に筋肉が弛緩してしまうのである。
 神経に対する作用は本人の意思では如何ともし難い。肉体の反射とも言うべきものであった。
 痺れも抜け切らない内から強引に右腕を揺り動かし、反撃の拳を放つナタクだったが、
流石に平素ほどの勢いはなく、易々と躱されてしまう。
 これを嘲笑うようにして背後まで回り込んだカナン・ミトセは、右側の肩甲骨と外膝を立て続けに突き、
ナタクの半身から力を奪った。膝の内側を走る神経への攻撃は特に効力が大きく、
己の体重すらナタクは支えることが出来なくなった。
 右の人差し指と中指を鉤爪のように折り曲げたカナン・ミトセは、
片膝を突いて苦悶するナタクの顔面を背後から引っ掻いた。顎先から眉間まで一直線に裂こうと言うわけだ。
 猛禽類を思わせる鉤爪は、双眸から光を奪おうともしている。
 反射的に首を振り、鉤爪の軌道を両目から逸らしたナタクは、ここでカナン・ミトセの意表を突いた。
 力が抜け切っている筈の足を軸として急速回転し、更には上体を跳ね起こしつつ右腕すら動かした。
 左腋下を潜らせるようにして右腕を背中に回し、これと同時に左の五指にてカッターシャツの右袖を掴み、
前方へ跳ね飛ぶことでカナン・ミトセの身を床から引っこ抜いた。右腕を相手の腋に引っ掛けた投げ技である。

「――オぅラァッ!」

 己の身を放り出すことで回転の勢いを増し、これによって受け身を取ろうとしていたカナン・ミトセの拍子をも崩し、
殆ど無防備のまま床へ叩き付けることに成功した。
 落下した瞬間、カナン・ミトセの身体が轟音と共に大きく跳ね上がる。
これはつまり、反動が生じる程の威力を秘めていると言うことだ。
 『束風(たばかぜ)』なる名を持ったこの投げ技も、ナタクはここ一番の決め手として用いている。
全身の骨を粉砕し、内臓を破裂させるとまで謳われる破壊力は、まさしく必殺の技として相応しいだろう。
甲冑を纏っていようとも防ぎ切れない加撃――これを追い求めた殺傷の術である。
 尤も、ナタク自身は束風を以ってしても仕留められないと考えている。
だからこそ瞬時に身を起こし、カナン・ミトセの眉間目掛けて追撃の拳を振り落としたのだ。
 今度も弛緩していた筈の右腕を繰り出している。
それにも関わらず、降り注がれた拳打には平素と変わらない力が漲っており、カナン・ミトセの脳を手酷く振動させた。
肘の神経を打ち抜かれた直後に放った拳とは段違いと言えよう。
 カナン・ミトセもまた相手の虚を突く反撃を試みた。
敢えて顔面を打たせながら、ナタクの右肩の付け根へと左拳をめり込ませたのである。
 束風とは投げによって骨身を軋ませる技だ。腕を絡めた部位には特に強い負荷が掛かり、
絶息させられないまでも落下の衝撃によって必ず鎖骨は圧し折れる。
腕一本を奪うと言うことは、戦いに置いて優勢を決定付けるようなものであった。
 しかし、カナン・ミトセの肉体には束風すら通用しない。まるで効き目がなかったかのような速度で左拳を突き出した。
さしものナタクも、これには自嘲気味に舌打ちしたものである。
 カナン・ミトセが放ったのは、言わずもがな点穴の秘技であった。
 ナタクの右腕から力が抜け落ち、そこに隙が生じる。
 好機を見極めたカナン・ミトセは横に転がって窮地を脱し、次いで上体を引き起こす――が、
これをナタクの右拳≠ェ追い掛けた。渾身の力で拳骨を振り落としたのだ。
 後方に飛び退るカナン・ミトセの動きが一瞬速く、ナタクの右拳は虚しく空を切ったのだが、
その際に轟いた激音は、虚脱した腕にて奏でられるようなものではない。
 拳骨を外して斜方に落ち込んでいた右腕を鞭の如く撓らせ、
反撃に出ようとするカナン・ミトセの横っ面へと手甲を打ち込んだナタクは、
「動かせる≠チつってんだろ、聖王流は」と、眼光ひとつで再び説いた。

 点穴の秘技によって虚脱した四肢を動かせたのは、偶然などではない。
聖王流あるいは蘇牙流の武術家が厳しい修練の末に体得する『闘術』のひとつであった。
 名を『不動(ふどう)』と言う。
 人体の可動には当然ながら限界と言うものが存在する。
直線的な拳打を放って伸び切った腕は急には折り曲げられず、
また、外から内へ捻り込む腰の動きとて逆方向には変えられない。
 人体の可動と言うものは、念じてから実行するまでに僅かな時間差を生じるのが必然であった。
 その時間差と言うものを取り除いたのが不動と言う闘術である。
筋肉や関節の動きを自在に操り、人間が発揮し得る力や柔軟性と言うものを瞬時にして限界まで引き出すのだ。
 それは潜在能力を掌握したものと同義であり、
技の途中で急激に挙動(うごき)を変化させることさえ不可能ではなくなるのだった。
 虚脱した四肢から力を引っ張り出すことなど、不動を極めたナタクには造作もない。
 あるいは死合の序盤に於いて披露した荒業――右の踵を押し当てた状態から対の左足を振り上げて
カナン・ミトセの腕を挟み込み、その状態から一気に上体を撥ね起こすと言う人体の限界を突破した動きさえも、
この闘術によって操作し得るのだ。
 「動かざる」と言う意味を持つ名は大いなる皮肉であろう。
心技体が完全な形で融合されたこの闘術は、聖王流あるいは蘇牙流の武技の核とも言うべきものである。

 有意の操作か否かはともかく、人体の限界を突破しているのはカナン・ミトセとて同じだ。
ただ肉体が頑丈なだけではない。左の膝裏を貫かれても、右足首の靭帯を挫かれても――
否、全身の至るところを破壊されようとも平然と動いている。
 純粋な肉体の強さならば、あるいはカナン・ミトセのほうが優れているとナタクは考えていた。
 不動と言う闘術で揺り動かしてはいるものの、神経に対するダメージは間違いなく蓄積されており、
このまま点穴を受け続ければ、いつかは完全に沈黙してしまうだろう。
 四肢が軋む恐怖で追い詰めようと言うのか、カナン・ミトセは更なる妙技を見せ付ける。
 上半身のバネを振り絞り、生じた力を一点に集中して放つ聖王流の拳技を、
『虎徹(こてつ)』を右の手刀で受け流したカナン・ミトセは、
半歩ばかり踏み込みながら同じ側の足にてローキックを放ち、ナタクの左腿を走る神経を脅かした。
 即ち、爪先でもって太腿の経穴を突いたのである。
 ハイカットのスニーカーを履くナタクと異なり、カナン・ミトセは素足だった。
それは土の温もりを肌に感じることが趣味なのではなく、このような妙技を繰り出す為の支度であったようだ。
 手の指だけではなく、足の指であっても点穴の妙技を操れる。
受ける側にとって、これほどまでに厄介な事態はあるまい。
ありとあらゆる攻撃に神経を蝕まれる恐怖が伴うのだ。
 思わず崩れ落ちそうになった足を不動でもって動かし、
素早く跳ね飛んで回し膝蹴りを喰らわせたナタクは、
己の身が中空に在る内に同じ左足を振り上げ、縦一文字に踵を落とす。
 左右の手刀を交差させたカナン・ミトセが踵落としを受け止めるや否や、
宙返りを経て着地したナタクは、片膝を床に突けた状態から轟然たる前回し蹴りを放った。
 穂刈である。カナン・ミトセの両足首を一気に断ち切ろうと言うわけであった。
 余りにも大振りな横薙ぎだった為に後方への跳躍で躱されてしまったが、
それでもナタクは止まらず、上体を引き起こしながら猛然と攻め掛かっていく。
 床を擦るようにしてアッパーカットを振り上げ、これが避けられると対の拳でフックを放ち、
カナン・ミトセが懐へ潜り込もうとすると、すかさず足裏を突き出してこれを押し止める。
そうして一瞬でも彼の足が止まれば、またしても拳の雨霰を降らせるのだ。
 しかしながら、今度は壁際に追い込まれたわけではない。カナン・ミトセの側にも退路は幾らでもある。
 直撃の瞬間に手首の振りを利かせる独特のフックでナタクの顎を打ち据え、
これによって暴風雨≠ノ間隙をこじ開けたカナン・ミトセは、瞬時にして右側面まで回り込むと、
馳せ違いながら左の肘打ちでもって彼の右肘を抉った。
 肘を折り畳むようにして防御を固めるナタクであったが、
カナン・ミトセが駆け抜けた直後には右腕から力が抜け落ちてしまった。言わずもがな、これも点穴である。
 一気にナタクの背後へと駆けたカナン・ミトセは、背中を行き交う神経を突こうと拳打を構える――が、
その直後、どう言うわけか、後方に飛び退ってしまった。点穴はおろか、閃光の拳も放たずに、だ。
 不敵な笑みを浮かべつつナタクが振り向くと、当のカナン・ミトセは己の左肘を不思議そうに眺めている。
振り子の如く首を傾げ続けるあたり、何か肘に違和感でも覚えたようだ。

「……友は言った……気血栄衛は人が人たる証……その深淵に手を伸ばすは……究極の領域にて――」

 やがて、カナン・ミトセは合掌の構えを取り直し、そこに友≠フ姿を映し始めた。

「――人にして人を超えたる誓いにも等しく……」

 そのような呟きを引き摺りながら、カナン・ミトセはナタクの視界より姿を消した。
 改めて詳らかにするまでもないことだが、死合と言う極限に怯えて廃墟から逃げ出したわけではない。
余人の目には映らないほど足運びによる速度を吊り上げたのである。
 ナタクの周辺を縦横無尽に動き回りながら、カナンは『拳法斎』の称号に相応しい乱舞を披露した。
舞の手≠ヘジェームズ・ミトセの系譜と言うことになるだろう。
 最も威力の高い閃光の拳、中距離から踏み込むことで加速する一撃、手首の振りを利用したフック、
変幻自在の蹴り、左右の手足を矢継ぎ早に繰り出し続ける連打――
死合の中で用いた武技を複雑に組み合わせ、打撃の極限とも言うべき世界を構築していった。
 そして、雨滴の中に氷の粒が混ざるように、虚と実が入り交じるように、
ほんの僅かに点穴を織り込んでいく。それも、絶妙の拍子で、だ。
 筋肉の弛緩を招く点穴は危うい。しかし、それ以上に強撃が恐ろしい。
数種の技が互いの威力と効力を補い合い、攻め手とも布石ともなっているのだ。

「何かに似てると思ったら、何だよ、聖王流(うち)みてぇなもんか!」

 ジェームズ・ミトセの系譜の粋を結集したと言っても過言ではない乱舞に晒されながらも、
『戦いの申し子』は嵐の只中に踏み止まった。全身を上下左右に振り動かしつつ、
無限とも思える拳や脚を迎え撃った。
 しかし、最高速度を発揮するカナン・ミトセを捉えるのは容易いことではない。
虎乱を放とうとした瞬間、初撃のジャブを横殴りの右拳で食い止められてしまった。
手首の振りを利かせたフックである。これは頭部を激しく揺さ振り、攻守に欠かせない視覚をも乱すのだ。
 出端を挫かれ、足が止まったところへ対の左拳が閃いた。
 横っ面を撥ね上げられながらも左の肘打ちで反撃を試みるナタクだったが、
この挙動はカナン・ミトセにとって経穴を差し出しているようにしか見えなかったのだろう。
 中指の第一関節を僅かに突き出させた右拳がナタクの左肘を抉る。
衝突の瞬間に鈍い音が起こり、次いでナタクの腕が力なく垂れ下がり、
無防備となった左側頭部に数発連続して上段蹴りが叩き込まれた。
 細い鍼で刺されたような痛みは、これが点穴の秘技であることを示している。
 点穴の回避にばかり気を取られると、今度は最速にして最強の威力を誇る閃光の拳が降り注ぐ。
体内深くの神経まで衝撃を伝達することに主眼を置いた点穴とは異なり、
こちらは完全な威力攻撃である。被るダメージが段違いなのだ。
 身体機能を妨げる点穴は強撃の補助であり、殺傷の術としては閃光の拳や蹴り技こそが本領。
だからと言って、無闇に打撃を受け止めてしまうと、それが点穴と言う可能性もある――
それ故に虚実≠フ見極めが難しいのだった。
 閃光の拳が実≠スる攻め手なのか、点穴が虚≠スる布石なのか。
それとも、裏を掻いて実≠ニして点穴を使うつもりなのか。
守りを固めるにしても刹那にて判断しなくてはならなかった。
 点穴との併用によってナタクを幻惑するのは、中間距離から一気に踏み込む拳打である。
瞬時にして間合いを潰す為に他の技よりも更に足運びが分かり難く、
気付いたときには鼻先まで拳が迫っていると言う有様だった。
 この技法に通常の拳打と点穴を組み合わせ、やはり虚実≠フ掴めない出鱈目な拍子で突き込むのだ。

 壁際まで追い込んでいたときとは正反対に、今はナタクのほうが滅多打ちに遭っている。
 カナン・ミトセと違って防御や回避が間に合わず、その為に蓄積されるダメージは遥かに大きい――が、
それでも『戦いの申し子』は斃れず、乱舞に間隙が生じるや否や、力ずくで割り込んでいった。
 乱舞の要である足さばきを止めるべく内膝にローキックを繰り出し、
中間距離から飛び込まれた折には互いの腕を交差させるように迎撃の拳を突き入れ、
捉え切れたときにはカナン・ミトセの拳を直接的に殴り付け、蹴りを凌げると腿や脹脛を指で貫き――
成否の確認さえも忘れて、ただひたすらにナタクは己の武技を繰り出し続ける。
 脇腹に位置する経穴を突かれ、全身から一気に力が抜け落ちた瞬間などは、
腰と首を強引に揺り動かし、懐に飛び込もうとしていたカナン・ミトセへ不意打ち気味に頭突きを喰らわせたほどである。
 両足で踏ん張りを利かせては読み抜かれると判断し、崩れ落ちる寸前に上体のみへ不動を施したのだ。
 カナン・ミトセが仰け反るや否や、両足にも力を注いで追い撃ちを図る。
跳ね飛びながら右足を後方に振り回し、足裏でもって顎を撥ね飛ばしたのだ。
プロレスで言うところの『ソバット』である。
 中空に在る内に身を翻したナタクは、カナン・ミトセが射程圏内≠ノ留まっていることを見て取ると、
両の足裏を揃え、膝のバネを生かした蹴りを顔面に喰らわせた。
これもまた『ドロップキック』と呼ばれるプロレスの技だ。
 大味≠ニでも言うべき蹴りを終えて着地したナタクには、回転を交えた裏拳が待っていた。
 即座に身を屈めて反撃の拳を避けたナタクは、カナン・ミトセに背を向ける恰好で急速に回転し、
これと同時に右足を彼の腰に振り落とした。うつ伏せとなるよう床の上に身を投げ出すと言うことは、
即ち、全体重が足先に宿ると言うことである。
 今し方のプロレス技と違い、これは歴(れっき)とした聖王流の蹴りだ。
片膝を突いた相手の首を圧し折るのが本来の用途である。穂刈と同質の技と言えよう。
 俄かに腰が痺れてよろめいたカナン・ミトセから間合いを取ったナタクは、
「もう息切れか? シャル・ウィ・ダンスとでも言うべきかよ」と、
手招きの仕種(ゼスチャー)でもってカナン・ミトセを挑発する。
 その挑発に乗ったわけではなかろうが、再び攻めに転じたカナン・ミトセは、
懐深くまで踏み込みつつ左右の拳を同時に突き出す――と見せかけて、ナタクの眼前で両の掌を打ち鳴らした。
 超音波を輻射させて相手の三半規管をかき乱すと言った特殊な効果はない。
ただ単純に両手を叩いただけである。
 所謂、『猫騙し』であった。機先を制する際に用いられることがあり、
相手に一瞬の驚愕を与え、そこに隙を作り出すものである。
 死合と言う極限の中で児戯にも等しい小細工を仕掛けられるとは想定しておらず、
完全に虚を突かれてしまった。即ち、ナタクは付け入る隙を許してしまったのだ。
 我に返って構えを取り直したときには既に遅く、右肩に向かってカナン・ミトセの拳は伸びていた。
無論、関節内側の経穴を狙っている。
 左拳によって経穴を突き、腕を潰したと見て取ったカナン・ミトセは、すかさず対の右拳を繰り出した。
今度は関節部でも肩甲骨でもなく、人体急所にも数えられる鳩尾へ貫こうとしている。
 中指の第一関節を僅かに突き出すと言う握り方から察するに、これもまた点穴であろう。
 或る経穴を穿つ為に別の点穴を布石とすることは、戦端が開かれてから初めてである。
しかも、狙う箇所は鳩尾――即ち、カナン・ミトセにとってはこの一撃こそが詰め手≠ニ言うことだ。

「見え見えなんだよォッ!」

 死合を決するような一撃であることに変わりはないが、
狙う部位さえ読めてしまえば、ナタクには幾らでも対処の方法がある。
 点穴が直撃する寸前、彼を上回る速度で左方に逃れたナタクは、
力なく垂れ下がっていた筈の右腕を秘伝の闘術で動かし、カナン・ミトセの首に正面から巻き付け、
その直後に内側へと腰を捻る。カナン・ミトセを後頭部から叩き落したのだ。
 やや変形ではあるものの、プロレス技で言うところの『ラリアット』であった。
 追い撃ちの蹴りまで油断なく見舞うものの、流石にこれは当てられなかった。
 床の上を転がって蹴りを避け、ナタクと向かい合ったカナン・ミトセが片膝を突いたまま右拳を繰り出し、
彼の左膝を鋭く打ち据えたのである。
 膝頭を貫いた衝撃は内部の経穴に達し、ナタクの動きを著しく鈍らせる。
その間に両襟を掴み、眉間目掛けて膝蹴りを喰らわせたカナン・ミトセは、
ナタクから離れるなり再び最高速度を発揮した。
 ジェームズ・ミトセの系譜が紡ぐ乱舞が再開された証左とも言い換えられよう。

 ナタクとて一歩も退かない。
 いつまた鳩尾を脅かされるとも知れないのに大振りのロングフックで攻め掛かり、
次いで足裏を蹴り込み――ナタクとカナン・ミトセは、文字通りに血の雨が降る乱打戦へと縺れ込んでいった。
 紅い飛沫の舞う攻防の中でナタクは顎を割られ、代わりにこめかみを砕き、滴る流血でもって片目を封じる。
それは、二匹の獣が互いの骨肉を貪り喰らうような様相であった。

(俺も拳法斎も、人の皮を被った何か≠ノ他ならねぇ。人里離れた場所でやり合って正解だったぜ。
地元の猟師にでも見つかったら、鉄砲で撃たれたかもしれねぇよ。……いや、シャレにならねぇか、それは)

 果たして、幾度目の激突だったであろうか。ナタクの右膝に左の爪先をめり込ませたとき、
何故か、カナン・ミトセの足が止まった。膝を打たれたナタクではなく、蹴りを放ったカナンの足が、だ。
 見れば、カナン・ミトセの右親指が異様な形に捻れている。驚愕の一言しかない打たれ強さを誇ってきた指が、
中ほどで折れているではないか。
 しかも、だ。左右の拳にも夥しい量の出血が見られる。点穴の要である両の中指は青く腫れ上がり、
その部分が裂けて赤い雫を滴らせている。破断しているか、亀裂のみかは判然としないが、
こちらの骨も損傷していることだろう。

「安っぽいプライドかも知れねぇが、俺も殴り合いじゃ負けてやれねぇんだ」

 この言葉からも察せられる通り、壮絶な乱打戦はナタクが競り勝ったようである。
 聖王流には全身を亀の甲羅の如く堅牢に変える防御法がある。
また、肘に膝と言った人体の硬い部分へわざと打撃を当てさせ、逆に相手の骨身を砕く技法もある。
 ナタクはこれらを駆使してカナン・ミトセの点穴を迎え撃った次第であった。
 閃光の拳は何処に突き込まれるか分からない為、防御も回避も共に難しい――が、
点穴の場合は人体を走る経絡に狙いが固定される為、
技の予備動作や身のこなしから多少なりとも予想が付けられるのだ。
 聖王流でも経絡武術に近い技は考案され、現在まで伝承されている。
人体の何処に経穴が在るのかは、ナタクとて熟知しているわけである。
 無論、全ての点穴を跳ね返せたわけではない。呼吸≠合わせられるものに絞って防御法を試み、
カナン・ミトセの手足が壊れるまで威力を反射し続けたのである。
 点穴そのものは直撃されている。神経まで衝撃が達し、虚脱もしてしまったのだが、
その瞬間までは全身が鋼鉄のように硬い。そこを殴打すれば、反動で骨身が軋むのは必然であろう。
 中指の第一関節を僅かに突き出すと言う拳の握り方からも明白なように、
点穴の秘技を使う場合、肉体は点≠ナしか反動を受け止められないのだ。
 カナン・ミトセも己の損傷に無関心であった。自分の世界≠ノ没入する余り、
痛みと言うものを感じていなかったのかも知れないが、
その結果として点穴の要たる部位に重傷を負ってしまったのである。
 本人が悔やむか否かはともかくとして、痛恨の失態に違いはなかった。
 尤も、これはナタクとて同じことであろう。捨て身としか言いようのない戦術を取り続けたのだ。
四肢には相当な負荷が掛かっている筈である。

「……これが無の拳なのか……虚ろに移ろう力への意志は……何を我が手に導いたのか……」
「あんたの哲学は分からねぇが、こうして俺と戦ってるのは、透明人間でものっぺらぼうでもねぇ。
ジェームズ・ミトセの拳だぜ。俺にはそれで十分だッ!」

 どちらも肉体を酷使しており、何時、完全に沈黙してしまうか分からない。
それでも拳を引くと言う選択肢は持たず、死合の場に屹立するのだ。
 手足の指が全て壊れてしまっても、カナン・ミトセは点穴の秘技を放つことだろう。
 ナタクは四肢の困憊など気にも掛けず、不動を以って聖王流の技を使い続けるに違いない。
 人智を食み出しているとしか言いようがなかったが、それもその筈である。
彼らは人の皮を被った獣≠ノ他ならないのだ。




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