10.オケピ


「なんで私がガキの使いみたいなことをしなくちゃなんないのよッ!? 
メールなり電話なり、先に一報入れときゃ、クソ間抜けなすれ違いなんか起きなかったのにぃ! 
大のオトナが雁首揃えて文明の利器ガン無視って! ホウレンソウ≠ブン投げって! 
今日からモバイルの充電コード、ケツの穴にブッ挿してなさいよッ!」

 大方の予想通り、迎えの使者としてリゾートホテルまで飛んできたティンクは、
アルフレッドたちと合流するや否や、蝶の如き羽根でもって荒々しく宙を旋回し、
「ヒマじゃないのよ、私もッ!」と、課せられた仕事への不服を打(ぶ)ちまけた。
 挨拶を交わすより先に不満を爆発させた辺り、心の底から厭で厭で仕方がないようだ。
おそらくは冒険王から無理矢理に押し付けられた仕事なのだろう。

「二度手間ってのが一番ムカつくのよね! ムダの二乗っての!? 二〇〇倍増しでイラつくわー!」

 いちいち歯軋りせずにはいられないティンクの説明によると、
冒険王の屋敷を訪ねた際に応対に当たった人間は、アルフレッドの顔と名前を知らなかったらしく、
貿易関係の顧客や町の陳情者と勘違いしてしまったと言うことである。
 後からアルフレッドの来訪を報告されたマイクは、比喩でなく本当に飛び上がって驚いたそうだ。
 彼よりも先にザムシードが訪問し、宿所で面会の順番を待っていると知った瞬間などは、
顔面を蒼白に染め抜いたと言う。
 当然と言えば当然かも知れない。テムグ・テングリ群狼領でも指折りの勇将であり、
且つ、エルンストの側近としても名の知れた傑物を門前払い同然に扱っていたのだ。
 部下に要人の名前すら教えていなかったことを奥方からこっ酷く叱られ、
彼女の得物であると言う化合弓(コンパウンドボウ)で追い掛け回されたマイクは、
ティンクの出発時には子どものように拗ねていたそうだ。

「必要不可欠の伝言(おつかい)だからパシれっつわれても断れないし! 
……あ〜、想い出したら、まァたムカムカしてきた! 後で絶対首絞めてやるァッ!」

 現在(いま)、冒険王が頭を悩ませている問題についてもティンクは少し触れていた。
人目もあるので、ここでは詳しい内容を話せないと前置きした上で、
ビッグハウスだけでなく連合軍の作戦にまで影響を及ぼし兼ねない事態と仄めかしたのだ。
 事態(こと)は緊急を要する。直ぐにでもアルフレッドたちに合流して欲しいと、
マイクはティンクを差し向けたのである。
 勿論、断る理由はない。アルフレッドにもザムシードにも、願ってもない筋運びとなった。

 客室で待機していたマリスと源八郎も呼び付け、四人揃ってティンクの案内を受けることになったのだが、
当のマイクはどうしても外せない用事があるらしく、足労ながら現場まで訪ねて欲しいと言うのである。
 ティンクには「調子こいてるわよね、あいつ。シバいていいわよ。てか、シバき倒して」と促されたが、
四人とも移動距離を厭うような性格ではなかったので、
渡し舟を調達すると、文句も言わずに指定された場所へと向かった。
 今まで通過したことのない水路を進む一行は、実は先程と全く同じ渡し舟に乗っている。
偶然と言うべきか、奇縁と言うべきか、ビッグハウスへ入って以来、
ずっと世話になっていた船頭と再び巡り合ったわけだ。
 船頭にとっては一種の不幸――と思いきや、マイクの相棒が同行していることもあって、
今度は上機嫌だった。どうやらこの小さな妖精は、水路を行き交う人々にも愛されているらしい。
 急に饒舌になった船頭の話によると、ティンクは潮風を浴びながら飛翔することを
何よりの楽しみにしているそうである。
 尤も、一〇センチメートルに届かないような背丈である為、
波間を漂うゴミに集った蝿と間違われることも多いと言う。
 当然ながら、この話を披露した船頭は幾度も制裁の頭突きを喰らわされていた。

「道理でマイクが銀蝿銀蝿と連呼するわけだな。合点が行った」
「何か言ったか、銀髪ゥッ!?」
「……いえ、何でも」

 先程までとは打って変わって賑々しくなった渡し舟は、
やがて区画を跨いで架けられたアーチ橋の下を潜り抜けた。
 その先には三角の形を取る中州があり、水路もそこから二又に分かれている。
 中州に接近しても、どちらの水路を選ぶのか船頭は訊ねようとしなかった。
そもそも、訊ねる必要もなかったのだ。アルフレッドたちがマイクから指定された場所は、
正面に見据えた中州――その先の区画に建てられた町一番の大歌劇場である。
 その名も『フェニックス劇場』と言った。


 建物の名前に由来しているのだろうが、正面玄関の屋根には、
幻想上の霊獣とされる不死鳥(フェニックス)を模ったレリーフが施されていた。
 芸術に疎いアルフレッドや源八郎でさえ足を止めて見蕩れてしまうほど見事な意匠である。
炎と見紛うばかりの翼を大きく広げた姿は、今にも壁面から飛び出してくるのではないかと
錯覚してしまうような迫力を見せ付けている。
 歌劇そのものに興味を引かれたマリスは、玄関脇の掲示板に貼り付けてある公演プログラムを
目敏く確かめていた。
 他日の演目は悉く埋まっていると言うのに、本日の分だけが空欄だ。
歌劇の鑑賞を密かに期待していたマリスには残念だったが、設備点検の為の休館日のようである。
 そのような日に歌劇場まで呼び出された以上、疑念を抱くのは当然と言うものであろう。
マリスの横に並んで演目を見つめていたザムシードも、「キナ臭いったら、ありゃしない」と首を傾げている。

 果たして、冒険王マイクは一行の到着をエントランスホールにて待ち構えていた。
その傍らにはジョウ・チン・ゲンの姿も在った。
 そして、彼らの両脇にはアルフレッドも初めて見る顔がふたつ――
左に立つのは勝気そうな表情を湛えたセミロングの女性、
右に立つのは丸いメガネを掛けた小太りな男性だ。

「くれぐれも態度に気を付けなさいよ? あの女性(ひと)がね、マイクの鬼嫁なのよ。
ケート・クレメンタイン・ワイアットって名前、聞いたことあるでしょ? 
もう片っぽのチビ助はビン・サトゥー。チンクシャを絵に描いたようなおっさんだけど、
見かけによらずアタマのネジがブッ飛んでるんだから」

 マイクたちのもとへ飛んでいく直前、ティンクが両名を簡単に紹介した。
 尤も、当人たちにとっては不本意と言うか、不愉快な内容であったらしく、
戻ってきたティンクへ一斉に文句を浴びせ始めた。

「こんなに可愛い女の子捕まえて、何よ、鬼嫁って! 
初対面の人にヘンな第一印象持たれたら、どうすんのよ!?」
「アタマのネジが飛んでるってトコロは悪くないけど、もっと言い方を考えてよ。
エンディニオンを代表する大天才とか何とかさぁ。ケートじゃないけど、第一印象は大事だもん」
「そんだけベラベラ自己主張しといて、第一印象もクソもねーだろ。
……特にケート。お前、自分のトシを考えろ、マジで。女の子って……」
「マイクは黙ってて! それとも、また『アルテミュラー』で狙撃(ねら)われたいの!?」
「へいへい……」

 もしも、この場にシェインが居合わせていたなら、床の上を転がり回るくらい昂奮したに違いない。
ティンクが紹介したケートもビンも、マイクと共に様々な魔境を切り開いた伝説的な冒険者たちである。

 マイクの奥方たるケートは、裾がくるぶしにまで達するマキシ丈のワンピースに、
フード付きのポンチョコートを羽織っていた。
 天体の巡りを模様として編み込んだ絹織物のプリーツスカーフを首に巻いており、
右の手首にも三日月を模ったブレスレットを嵌めている。
 マイクと同じ鮮やかなブロンドである。
 頭頂部から耳の裏へ引っ掛けるような形で被せられたヘッドバンドは、
プリーツスカーフと同じ模様の布で覆われている。
 マイクと同い年くらいだと伝え聞いているが、隣に立つ夫のように実年齢よりかなり若く見える。
それどころか、アルフレッドの目にはマリスよりも年下のように映っていた。
 やや吊り目気味で、太めの眉には意志の強さや持ち前の逞しさが顕れているようにも思えた。
 紛争調停などで留守にしがちな夫に代わってビッグハウスを切り盛りするなど、
冒険王の伴侶(パートナー)に相応しい豪傑肌でもあるのだ。
 夫に対する仕置きの手段としても常用されるようだが、
彼女が手にする化合弓(コンパウンドボウ)――その名も『砕弓アルテミュラー』は
『レリクス(聖遺物)』の一種であり、弓自体に秘められた魔力を解放しようものなら、
天に瞬く星々をも精密に射抜くと言う。
 歌声に不思議な効力(ちから)が宿ると言う変わったトラウムを備えていることでも知られていた。
それ故に「歌姫」などと呼ばれることもあるのだが、誰かがこの評を口にした瞬間、
「姫って年齢じゃねーだろ」とマイクが冷やかすのが一種のお決まり≠ニなっている。

 片やビン・サトゥーは、世辞にも小奇麗とは言い難い。容姿ではなく、その出で立ちが、だ。
 生まれてから一度も手入れをしたことがないのではないかと想像してしまうほど、
青みがかった黒髪は無造作に伸びっぱなしであり、尚且つ痛み放題と言う有様だった。
 左手の薬指には結婚指輪を嵌めているので所帯は持っているようだが、
彼の家族はだらしない風貌を咎めたりしないのだろうか。それとも、注意すら諦めているのだろうか。
 作業服と思しきサロペットジーンズの上から羽織ったジャケットは、
油染みによる斑模様が衣服全体に及んでいた。勿論、サロペットジーンズにも同じ染みが見られる。
 ジャケットのポケットには、これまた無造作にスパナが差し込まれていた。
 顔面の半分近くを覆うほど大きな丸メガネには、牛乳瓶の底のように分厚いレンズが嵌め込まれているが、
こちらも擦り傷だらけである。しかも、左側のフレームは中程で折れてしまっており、
これを緑色のガムテープで強引に繋ぎ合わせていた。
 家業の電器店を手伝い、一時期はメカニックとして働いてアルフレッドは、
ビン・サトゥーの名に聞き覚えがあった。父のカッツェに至っては神人のように崇めていた筈である。
「見かけによらず」とはティンクの言葉だが、この小汚い中年太りの男は、
メカの天才≠ニまで謳われる技師(エンジニア)なのだ。
 どことなくネイサンにも雰囲気が似ており、ついアルフレッドは俯き加減となってしまった。

(……ネイトも――いや、みんな、……向こう≠ノ行ってしまったからな……俺は……)

 ケートやビン、ギルガメシュに拘束されているドク≠煌ワめて、冒険王は多くの仲間に支えられている。
基本的にビッグハウスに詰めて仕事をこなすのだが、現在は世界各地を駆けずり回っているそうだ。
 アルフレッドが決死隊を率いて異なるエンディニオンへ突入すると決心した際、
彼に代わって史上最大の作戦の指揮を引き継いだのがマイクである。
それに関わる使命が冒険王の仲間たちに課せられたわけであった。

「慣れない内は驚いてしまうかも知れませんが、この町の人たちは、みんな、明るく前向きなのですよ。
あの海と同じように心根も透き通っておられます」

 初対面の人間の前で大騒ぎを始めたケートたちにアルフレッドが辟易していると誤解したジョウは、
少しばかり困ったような表情(かお)を作りながら、「良い人ばかりですから」と弁護を始めた。
 そんなジョウを押しのけてアルフレッドの正面へと歩み寄ったマイクは、
唐突に始まった弁護が理解出来ず、呆然と立ち尽くすばかりであった彼を思い切り抱きしめた。
 こちらもジョウの弁護と同じように何の脈絡もない。いきなりの抱擁である。

「色々あったみてェだな……」
「……その色々をこれから話そうと思ったんだが」
「あらましはコールタンから聞いてるよ。ちょっと前に連絡貰ってさ。
言ってくれたら、オレが迎えに飛んでったのによォ。水臭ェじゃねーか!」
「あいつ……」

 コールタンの手回しに大して驚かなくなっている自分自身にアルフレッドは腹が立った。
彼女個人に対しては、怒りや憤りと言うよりも得体の知れない不気味さを感じるばかりである。

「……コールタンは何と言っていた?」

 コールタンがどこまで≠マイクに話したのか――アルフレッドには、こちらのほうが気懸かりだった。
 マイクは齢の離れたシェインに親友として接している。全ての冒険者の先達でもあるこの男は、
駆け出しの少年が秘めた素質を見抜き、飛躍を促していたのである。
 そのシェインに降りかかった災いは、マイクにとって己の身を切られるよりも辛い事態である筈だ。

「転送装置がエラーを起こして、お前とマリスが吹っ飛ばされたって聞いたぜ。
ギルガメシュ側に昔の友達がいたんだろ? 運が良かったよ、ホント」
「そう、か。……いや、それならいいんだ。あいつのことだ、余計なことを言ったんじゃないかと思ってな」
「余計なことって何さ? とっ捕まってる間に何かあったんか?」
「俺たちの不手際を面白おかしく喋ったんじゃないかってな。あることないこと、吹き込むタイプだろ、あいつ」
「まァ、言いてェことはわかるけどよ。……今回ばかりは感謝しなくちゃならねぇんだ、オレ」

 口振りから察するに、コールタンは最も重大な部分を伏せたようである。
裏表のないマイクのこと、最悪≠フ可能性を仄めかされようものなら、
報復を叫んでブクブ・カキシュに討ち入ったかも知れない。
 神話の時代より伝わる秘宝、『レリクス(聖遺物)』を数え切れないほど手にした冒険王のこと、
本気で怒ればBのエンディニオンの誰よりも恐ろしく、破壊の悪魔と化すであろう。
 最悪≠フ可能性をコールタンから吹き込まれ、その上で私情を押し殺しているわけではなさそうだ。
周りの人々もマイクを気遣っている様子ではない。

(コールタンに? マイクが? ……感謝?)

 それにしても――と、アルフレッドは今し方のやり取りを反芻する。
マイクは随分と含みのある言い方をしていたのだ。
 佐志側には教えられない情報があり、これをマイクにだけ齎(もたら)したと言うことであろうか。
ティンクが言うには、ビッグハウスどころか、連合軍の作戦にまで影響を及ぼす事態であると言うのに、だ。
 薄気味の悪さは、やがて例えようのない憎しみに変わる。
これではまるで、コールタンの思うが侭に掌の上で転がされているようなものだ。
あるいは、ギルガメシュ内部に於いても計略を仕掛け、切り崩しを図っているのかも知れない。
 コールタン以外の人間は、皆全て駒≠ニ言うことではないのか――
ただでさえ油断のならない相手ではあったが、今や不信感の目盛が限界を振り切りつつあった。
 多少の危険性(リスク)は付きまとうが、
内通者としてボルシュグラーブに通報すると言う報復措置は残されている。
そのように自分を納得させなくては、憎悪の念が破裂しそうだった。


 部下の不手際を改めて謝罪したマイクは、四人を一番大きな演劇ホールへと案内した。
本来ならば、歌劇などの演目が披露される場所である。
 ビッグハウス最大規模の歌劇場と言うこともあって、舞台機構も本格的なものだ。
舞台と客席の間には一段低くなった部分があり、俯瞰すると穴のようにも見える。
 所謂、オーケストラピットと呼称される舞台機構であった。
 役者による演技や歌唱と、オーケストラによる生演奏が一体となる歌劇に於いては、
必然的に演奏者たちを収容する場所が必要となる。
 楽器を奏でる人が舞台に上がることはない。この穴(ピット)にて演奏を行うのが普通であった。
劇の成立には欠かせない主役の一員ながらも、裏方に徹すると言うことである。
 役者を目当てにして足を運んだ観客が穴(ピット)の様子を覗くことはないのだ。

 絨毯が敷き詰められた廊下を進み、普段は演奏者たちが行き交うだろう舞台裏の通路を抜け、
アルフレッドたちは件のオーケストラピットに到着した。
 穴≠ニ言っても、フェニックス劇場のオーケストラピットは相当に大きかった。
数十人が一斉に楽器を奏でるような編制にも問題なく対応出来るだろう。
 奥行きも十分ではあるものの、やはり慣れない人間には息苦しいのか、
箱の中に閉じ込められたような錯覚に見舞われた源八郎は、
「箱詰めの饅頭になっちまった気分だァ」と言って身震いしている。
 オーケストラピット――演劇ホール全体に共通するのだが――は音の反響を考慮した構造になっている。
それが為に違和感を覚えたのであろう。両の人差し指を唾(つばき)で濡らしては、耳の穴に突っ込んでいた。

「あら? 源八郎さんはお気に召しませんか?」
「マリスのお嬢は平気なんですかい? 俺ぁ、平衡感覚までイカれちまったみたいでさァ」
「わたくし、歌劇は何度も観ておりましたので。こうしてオケピ≠フ中を見学させて頂けるのは、
望外の喜びですの。普段は関係者以外は立ち入り禁止ですし……」
「おけぴ? 何ですかい、そりゃ?」
「オーケストラピットの略ですの。わたくしたちが立っている、この場所のことですわ」
「俺ぁ、てっきり棺桶とか、そう言う名前が付いてるもんとばかり思ってましたよっ」
「まあ、源八郎さんったら……」

 落ち着かない様子の源八郎とは対照的に、
マリスはフェニックス劇場の舞台設備に感嘆の溜め息を漏らし続けている。
 令嬢ならではの嗜みと言うべきか、歌劇に造詣が深い彼女には、
この演劇ホールが如何に優れた水準で完成されているのかが解るのだろう。
 翌日にも公演が控えている為、流石に舞台はオペラカーテンで隠されている。
左右から緞帳を重ね合わせると言う様式のものである。
 ワインレッドの色彩によって作り出される陰影が麗しいコットンベルベットの幕地に、
金糸で刺繍を施した豪華なものだ。左右の緞帳が重なり合うと、そこに不死鳥が現れるのだった。
 歌劇にも演劇ホールにも無関心なアルフレッドだったが、
「見事」の一言に尽きるオペラカーテンを通じて、フェニックス劇場の格式と言うものが理解出来た。

「写真で見るのと実物とでは大違いだな。時間があったら見学したいと思ってはいたんだが、
こう言う形で実現するとは思わなかったよ。これも役得と言うべきかな」
「……あんた、オペラに興味なんかあったのか?」
「おいおい、それは流石に傷付くぞ。お前さんが私をどんな目で見ていたのか、よっく解ったよ」
「い、いや、そう言うわけではないんだが……」

 意外にもザムシードはフェニックス劇場の存在(こと)を知っていた。
それどころか、かなり関心が強い様子である。
 本人の前では「文武両道と言うものか……」と言い繕うアルフレッドだったが、
その心中に於いては、馬軍の将が芸術の分野に興味を持つこと自体が信じられなかった。
 どちらかと言えば、皮肉を込めて「崇高な趣味」と吐き捨てそうな像(イメージ)を抱いている。

「フェニックス劇場で上演されるオペラと言えば、『約束の剣よ、わが手にあり』が有名だぞ。
我がテムグ・テングリ群狼領の侵攻を押し返した辺境の民の物語だ。
『君よ、誰が為に戦うのか、祖先より預かりし大地の為、今こそ義務を果たすべきだ』――とな」
「……今のは?」
「辺境の民、スターゲイザーが抗戦を決意する第三幕のクライマックスだよ。
民族自決の尊さを朗々と歌い上げる名場面だな」
「俺の記憶が正しければ、そのスターゲイザー≠ニ言うのは、
未だにテムグ・テングリが攻め落とせていない土地ではなかったか? 
……余り迂闊なことを言うものじゃないと思うぞ」
「芸術に戦の勝ち負けを持ち込むような無粋な真似はせんよ。それにスターゲイザーの民は真の勇者だ。
何しろ先代――いや、先々代の頃から幾度攻めても屈しないのだからな。彼らの強さは認めざるを得まい」

 少しずつ饒舌になっていく辺り、どうやらザムシードは歌劇へ相当に入れ込んでいるようだ。
 有名な演目の一節を口ずさみ、傍らにて耳を傾けていたマリスを驚かせた程である。
双眸を見開くと言う彼女の反応は、ザムシードが知ったかぶりで物を語っていない一番の証左であろう。

「――バーローッ! さんざん人を待たせておいて、今度はお喋りィ!? おふざけも大概にしときなよ!」

 先に穴(ピット)≠フ中で待機していた女性は、
ザムシードが披露した知識に感心するどころか、真逆の反応を見せている。
眉間に青筋まで立てていると言うことは、どうやら逆鱗に触れたようである。

「ま、まぁまぁ……事情はさっきも説明したでしょう? ひとつ、堪忍して貰えないかなぁ」
「ヘンッ! アタイ、もう知らないよッ!」

 すかさずケートは両の掌を合わせ、拝み倒すような恰好で謝った――それはつまり、
ホール内に木霊する程の大音声を張り上げたこの女性こそが、冒険王の外せない用事≠ニ言うことである。
 全身から怒気を発しているこの女性は、カキョウ・クレサキと全く同じジャケットを羽織っていた。
ロンギヌス社のエージェントに共通する上着を、だ。
 「不機嫌」の三字を顔面に貼り付けた女性は、一際大きなモニターを背にしている。
これは数本のケーブルでもってノートパソコンと連結されており、
操作の内容がモニター側に映し出される設定のようだ。
 ノートパソコン自体は、モニターと隣接するキャスター付きの円型テーブルの上に置かれている。
 この他にも数脚の折り畳み式テーブルがモニターの手前に設置され、
その足元には大きめの収納ボックスが幾つも転がされていた。
 「転がされていた」と例えるしかないほど、数多のボックスは無造作に積み上げられているわけだ。
 表面が鋼鉄の板でもって覆われており、何かの拍子で擦れ合う度に耳障りな音を立てるのだが、
これらを支度したであろう張本人は自分の怒気に呑まれている為、
正面に並んだ迷惑そうな顔など一切視認してはいなかった。
 例え、視界に入っていたとしても、脳が他者の表情まで認識出来ないような状態であろう。
極めて単純に表すならば、頭に血が上っているのだった。

「こちらはライナ・グラナートさん。ロンギヌス社からビッグハウスまでわざわざ出向いて下さったのよ。
エージェントの任務で忙しい中、わざわざ時間を割いてね。迎える私たちとしては、頭が下がる思いだわ」
「ロンギヌス社のことは、オレたちよりもお前らのほうが詳しいよな? 
ほら、佐志にもヴィンセントって兄ちゃんが滞在してるしよ。ライナはヴィンセントとも古い仲間だって言うぜ? 
共通のダチがいりゃあ、話が弾むんじゃねーか!?」

 ケートとマイクは、まるで煽て上げるかのような言い回しで
ロンギヌス社の女性エージェント――ライナ・グラナートのことをアルフレッドたちに紹介したが、
本人は依然としてそっぽを見たままであり、不貞腐れた調子で「どうも」と囁くのみである。
 幼児の如く口を尖らせているあたり、完全に臍を曲げてしまった様子だ。

「ボクらが下手に出なくたって良いんじゃないの? 押し売りに来たのはコイツなんだからさ〜。
気を遣いすぎると、絶対に足元見られるって!」
「ビンにも見抜けるよーなあからさまな手口じゃない。ゴネたように見せかけて主導権握ろうってハラなのよ。
何年前の押し売りかって話よね。マイクならともかく、ケートまで乗せられんじゃないわよ」
「き、聞こえる! 聞こえるわよ! 宥めるだけでも一苦労なのに、余計な揉め事を増やすんじゃないわ!」

 ケートの制止も聞き入れず、ビンとティンクは露骨にライナを牽制している。
猜疑の念を投げかけると言うよりも、寧ろ毛嫌いと表すほうが正しいかも知れない。
 来客の応対など後回しにすべき緊急事態だと言うのに、マイクの特別な計らいで時間を割いているのだ。
それにも関わらず、横柄な態度を取り続けるライナのことを、ビンたちは疎ましく感じているのだった。

「……マイク、まさかと思うが、俺たちを劇場くんだりまで呼びつけたのは――」
「そーゆーこと。あいつの熱意に押し切られちまってさ〜」
「レディーファーストの精神はこんなときに使うもんじゃないだろ。
熱意も商品も、全部押し売りだったって言っちゃいなよ。
そんな風にゴリ押ししたんじゃ、メカの値打ちも下がるってもんさ。
ボクに言わせりゃメカに対する冒涜だよ、冒涜!」
「ぬなッ!? ……こ、このチビデブっ! 人聞きの悪いったらありゃしないよッ! 
アタイはロンギヌス社のMANAがどれだけ優秀なのか、懇切丁寧に説明しただけで――」
「……まァ、見ての通りってワケだよ」
「笑って済ませられることではないと思うんだが……」

 委細を聞いた途端にアルフレッドは眉を顰めた。
 ロンギヌス社のエージェントがビッグハウスを訪れたからには、
ヴィンセントやサンダーアーム運輸が関連する『難民ビジネス』についての意見交換が目的なのかと思いきや、
完全な商談≠ナあったようだ。
 しかも、だ。ビッグハウスでも難民を受け入れるよう取引を持ち掛けたのではない。
ロンギヌス社が開発したMANAを冒険王に売り込もうと言うのである。
 Bのエンディニオンに無くて、Aのエンディニオンに有るもの――その最たる例がMANAであった。
これを売り付けようと考えれば、確かにマイクこそが最も相応しい商談相手である。
貿易商として栄えたワイアット家は、比類なき流通網の持ち主でもあるのだ。
 古代遺跡にて発掘した秘宝を敢えて市場(マーケット)に流し、
これを以って神話の時代と現代を結び付けようと言う活動にも熱心に取り組んでいる。
 どうやら、ロンギヌス社は冒険王ならではの事業を嗅ぎ付けたようである。
古代の秘宝をMANAに置き換えれば、忽ちBのエンディニオンにMANAの存在が知れ渡るだろう。
 自社開発の兵器に絶対的な自信を持つロンギンス社にとって、これに勝る好機(ビジネスチャンス)はあるまい。

 穏やかならざる話とは、まさしくこのことであろう。難民支援に向けて結託していこうと呼びかける一方で、
MANAと言う強力な兵器を売り歩いているのだ。人間の心理として、あるいは道徳の部分に於いて
矛盾を感じるのは無理からぬ話であろう。

「偶然っつーか、運命的っつーか、折角、ビッグハウスがカチ合ったんだから、
アルにも一緒に見て貰ったほうが良いと思ってさ。……っつーか、オレたちもMANAには詳しくなくてよ」
「別に詳しくなる必要もないと思うんだよねぇ。出来合いのメカを買って済ませるって言うんなら、
ボクは何の為に一緒にいるのかって話になっちゃうじゃん。……マイクのバーカ! 浮気者!」
「ビンのキレ方はマジで意味がわかんねーぜ。何でそーなるんだよ」
「浮気者? へぇ……、そう……浮気ねぇ。あんた、一回りも齢の離れた娘に垂らし込まれたワケ? 
だったら、無理してでも時間作っちゃうわけよね。それにしても、あんたってば大胆よね。
奥さん同伴で愛人とご対面なんてねぇ……」
「弓矢を引く為だけにキレてるような家内をよォ、誰か縛り付けといてくれねーか!」

 喜劇じみたやり取りを演じる冒険王の仲間たちはともかく――マイクは己の知識不足を率直に認め、
MANAについて詳しいであろうアルフレッドに助言を求めた次第である。

「お前さんの仲間にも何人か使い手がいたんじゃなかったか? 
あのニコラスだってイカしたMANAを持ってたじゃん?」
「ガンドラグーン、だな。一度だけなら、ラスと一緒にMANAの取扱専門店へ行ったこともある。
そう言う意味では人より詳しいと言えなくもないが、しかし……」

 アルフレッドは咄嗟にザムシードの顔色を窺う。
 己の知識程度でマイクの手助けとして足りるのかと言う不安もあるにはあったが、
それ以上に馬軍の将の心中が気懸かりなのだ。
 アルフレッドから向けられた視線の意味を悟ったザムシードは、
同志に余計な心配を掛けまいと、おどけた調子で肩を竦めて見せたが、心穏やかである筈がなかろう。
 Aのエンディニオン最大の軍事企業たるロンギヌス社は、
テムグ・テングリの支配下にある町村へと入り込み、無尽蔵の資金に物を言わせて土地を買い漁っているのだ。
言わずもがな、これは宗主たる群狼領に何の断りもなく行われた商談である。
 テムグ・テングリ群狼領からみれば、属領の叛乱以外の何物でもない。
難民保護と言う題目はともかくとして、自軍の領土を蚕食し続けるロンギヌス社の存在(こと)を
ザムシードが忌み嫌うのは当然であろう。他所からやって来て草木を食い荒らす害虫の如きモノなのだ。
 つまるところ、マイクは天敵同士を穴≠ニ言う極めて限定的な空間に放り込んでしまったわけである。
ライナがザムシードの立場に気付いたなら、もしかすると、心ない言葉で挑発する可能性がある。
それこそが最悪の事態であり、オペラカーテンには幕地に良く似た色合いの飛沫が降り注ぐことであろう。
 敢えて危険を冒そうとする冒険王には、果たして、如何なる考えがあるのだろうか――
心の中身まで覗き込むように双眸を見つめると、アルフレッドの懸念を察したマイクは、
どこか悪戯っぽく片目を瞑って見せた。自分に任せておけば何の問題はないと
胸を張っているようにも見えるから不思議だ。
 音もなくアルフレッドとザムシードの背後に歩み寄ったジョウも、
「フランカーさんは大事な御来賓(おきゃくさま)です。
その顔に泥を塗るような真似は絶対に有り得ません」と、マイクを信じるように促した。

「付かぬことを訊ねたいのだが、このことをコクランは知っているのか?」
「コクラン? ……ああ、ヴィンセントか。ファーストネームで言ってくれなきゃわかんねーのよ!」
「ご期待に添えなくて申し訳ないが、別に彼とはそこまで親しい間柄でもないのでな」
「ええい、間怠(まだる)っこしい――ヤツとアタイは別口ってヤツさ。
ヤツは難民支援の担当、アタイは営業ってコト。……つーか、アタイだって営業専門じゃねーんだけど。
あべこべなんだよなぁ……兵器コーディネーターってェ肩書きはヤツのモンじゃないか」
「何を独りでぶつぶつ唱えている?」
「るっさいね! こっちの事情ってヤツだよ。いちいち口を突っ込むんじゃないよ! 
男のクセして女々しいったらありゃしないわ!」

 夕焼けの色をした髪を掻き毟りながら、ライナは「お喋りな男は好かないよ!」とアルフレッドに吐き捨てた。
 ライナの口振りから察するに、この一件に関して巨大な意思が働いていることは明らかだった。
 名前のみはヴィンセントから聞かされていたロンギヌス社の会長が、
Bのエンディニオンに於ける事業展開を見越して冒険王との接触を企図したのであろうか。
 未だに姿を見せない会長は、『サーディェル』なる名前であったことをアルフレッドは記憶していた。

「……マイク、ティンクの話とはかなり違っているような気がするんだが? 
差し迫った事態と言うのは俺の聞き違いだったか?」
「そーよ、そーよ! これじゃあ、私がウソを吐いたみたいになっちゃうじゃないの! 
何がどう言う経緯で、あのガキが一緒に居るのか、あんた、ちゃんと説明しなさいよ!」
「ふたつの事件がどちらもビッグハウスの一大事と考えれば、
まとめて集められたことも納得出来るのではないかな。
私個人としてはフェニックス劇場の裏側を見させて貰えて嬉しいのだがね」
「……フランカーにまで気を遣わせてどうする」
「そ、そんな寄って集っていじめんなよッ!?」

 アルフレッドやティンクから批難の声を浴びせられ、思わず仰け反るマイクであったが、
その間にもケートに向けて目配せしている。
 流石は以心伝心の夫婦と言うべきであろう。目配せひとつで夫の意図を見抜いたケートは、
今もって不服そうにしているビンを促し、次いでライナに手伝いを申し出た。
 ライナの側へと目を転じると、叩き売りでも始めようと言うのか、次々とボックスを開け広げ、
折り畳みテーブルの机上(うえ)にウェポンモードのMANAを並べている。
 これまでアルフレッドたちが接してきたMANAと言えば、
変形機構を備えているが故に、中型乃至は大型級の機械ばかりであったのだが、
ライナが取り出しているのは、スーツケースや折り畳み傘など日常品に紛れる物ばかりだ。
 中には黒豹の頭部を模したキーホルダーまで並べてある。
およそMANAとは思えない品を手に取ったマリスは、不思議そうに首を傾げていた。

「へぇ? 目の付けどころが良いじゃないか。そいつは開発部第一開発課の課長代理が手掛けた傑作さ。
スペシャル仕様な分だけ値段のほうもスーパースペシャルだけど」

 この場に於いては第三者とも言うべきマリスが商品に興味を持ったことで、
ずっと不貞腐れていたライナも少しだけ気分が上向いたらしい。
 この期を逃すわけには行かないと、ケートも積極的にMANAの話題をライナに振っていく。
彼女が手に取ったのは、とてもオーケストラピットには入り切らない大型の種類(タイプ)が
記載された分厚いカタログである。
 駝鳥の胴体を模したビークルモードや、殆ど金属の骨組みだけで構築されたヘリコプターなど、
こちらも斬新な品ばかりを取り揃えている。水上戦闘に最適と紹介されたスワンボート型のMANAは、
発想の勝利とも言うべき逸品であろう。

「――向こうはケートたちに任せておけばオッケーだぜ」

 不承不承と言った調子で机上の品を解説していくライナを尻目に、
アルフレッドやザムシード、更には佐志の要の一員たる源八郎を手招きしたマイクは、
自分を中心に小さな輪を作ると、「コールタンからは他の話も聞かされてんだ」と小声にて切り出した。

「他の話っつーか、こっちのほうが本題なんだけどよ。
……言い方悪くて臍曲げるなよ? アルたちの安否は、その話のついでだったんだよ」
「そんなことで機嫌を損ねるものか。……コールタンめ、今度は何を企んだ?」
「……例の内通者と言う奴か」

 コールタンの名を耳にしたザムシードは、俄かに表情(かお)を歪めた。
 ギルガメシュの幹部である筈の彼女が組織の転覆を企てて佐志と結託したことは、
グンガルを経由して承知していた――が、エルンストに降伏を促した特使こそがコールタンであり、
その名を聞いたザムシードには、複雑な思いが込み上げてくるようだ。

「私なりの考えではございますが、コールタン氏にとってはエルンスト氏は最後の切り札のようなもの。
万が一のときには、あの御方を牢より解き放ち、旗頭に据えてギルガメシュと相対するに違いありません。
連合軍の主将を務め上げた御方です。私がコールタン氏の立場になって起死回生の策を考えれば、
あの御方は絶対に欠かせませんよ。……それまではコールタン氏こそが楯となって下さるはず」

 マイクの傍らに立ったジョウが、対面のザムシードを気遣う。

「……内通者ではなく、我らの立派な同志と言いたいのだな?」
「ご心中は察して余りあります……が、今は足並みを揃えることが肝要かと存じます」
「ふむ――ならば、仕方あるまい」

 ジョウ自身はAのエンディニオンの人間である――が、マイクに随行してハンガイ・オルスに入り、
エルンストの降伏から無血開城に至る経緯を見届けている。
 何よりも、だ。ジョウの出身地はテムグ・テングリ群狼領に勝るとも劣らない大国であると言う。
 現在はひとりの皇帝のもとでひとつにまとまっているそうだが、
星の軌道(めぐり)の如き長い歴史を紐解くと、自らを皇帝と僭称する者たちが後を絶たず、
群雄割拠と興亡を繰り返してきたそうなのだ。
 その歴史の中に於いては、常に下克上と言う事態が付きまとう。
自らが担いだ筈の皇帝を弑逆した反乱者、一部の奸臣が皇帝の選出をも司る傀儡政権など、
いずれも人間の欲望が行き着いた成れの果てである。
 星の数にも匹敵する屍から血を吸い上げた大地に生まれ、自国の歴史から悲劇を学んできたジョウには、
最終的な勝利を得る為の作戦とは雖も、御屋形の交代を承服せざるを得なかったザムシードの心が
全く理解出来ないわけではなかった。
 先人の教えとは、類例と言う形であらゆる事態に知恵や理解を授けてくれるものなのである。
王と言う名の椅子を巡る緊張と、これに由来する逸話は、ジョウの出身国では枚挙に暇がなかった。

「……そして、ギルガメシュは、いよいよ手前ェらがてっぺんに立とうとしていやがるらしい」

 マイクの声が俄かに緊張を帯びた。それはつまり、本題に入ったと言う合図である。

「コールタンが言うにはな、奴ら、中央でエンディニオン全体を取り仕切る軍事政権を作ろうってハラだ。
その名も聞いて驚け、『幕府(ばくふ)』と来たもんだぜ」
「バクフ? ……って、何ですかい? いや、不勉強で申し訳ねぇんですがね、俺にはどうも……」
「……よりにもよって幕府か。いよいよ狂ったか、カレドヴールフめ」

 マイクの言うことの意味が分からず首を傾げる源八郎に対し、
彼の隣に立つアルフレッドは、呆れと嘲りを綯い交ぜにした笑気を鼻腔から噴き出した。
 件の奇策をアサイミーが唱えた折にもゼラールが反論の出典として挙げたのだが、
ルーインドサピエンスより旧い時代に実在したとされる政体の一例として、
アカデミーでは幕府の概要を教えていた。
 統治の形態や組織編制のみならず、如何なる根拠を以って成立する政体であるか、
アルフレッドもゼラール同様にアカデミーで学んでいたのだ。
 それ故、ギルガメシュが採った奇策を、「狂っている」と一笑に付したのである。
 旧き世界の事物に通じるマイクもアルフレッドと同じように幕府の体質を理解しており、
源八郎に対して概要を説明してみせた。
 ザムシードはマイクの解説を咀嚼するように幾度も首を頷かせている。

「おい、銀蝿。てめー、無駄に長く生きてんだからよ、知恵袋ン中に幕府の情報は入ってねーのかよ。
昔の幕府のほうだぜ。年の功を見せてみやがれ」
「うら若き乙女に向かって失礼にも程があるわい! 幕府なんて見たことも聞いたこともないわァッ!」

 マイクからの問い掛けに急降下の肘鉄砲で返したティンクが――妖精が生を受けた頃よりも
幕府が存在していた時代は旧いようである。

「問題はギルガメシュの連中がどうやって箔を付けようとしてんのかってトコだぜ。
あいつら、サミットで捕まえた人質を担保にするつもりなんだ

 風を切って振り落とされる肘鉄砲を軽く掌で受け止めながら、マイクは低く呻いた。
 そもそも幕府とは、『朝廷』と呼ばれる国の最高機関より信任を受けて政治を執り行う仕組みである。
権威付けの条件をギルガメシュの人質――即ち、各町村の代表者の委任に置き換えるなど、
強引なこじ付けとしか言いようがない。

「私が生まれた『乗星』では現在でも朝廷が国の頂点として政治を司っております。
乗星の朝廷は皇帝自ら積極的に政務を指揮しているのですが……。
ギルガメシュが作ろうとしている幕府とは、やはり、皇帝の代行と言う形なるのかと思われます」

 ジョウも自身の出身国を例に引いてマイクの説明を補足していく。

「一番のお偉いさんの威を借りて好き放題やるってことですかい?」
「ギルガメシュのことだ、おそらく源八郎の言う通りになるだろう」
「そこが微妙なんだよなぁ。ヤツらがヒントを貰ったと思う旧(ふる)〜い幕府のほうは、
そこまで朝廷べったりじゃなかったんだよ。むしろ、朝廷と対立するほうが多かった筈だけどな」
「ありゃ? 根っこの部分で矛盾してるじゃねぇですかい。
……わざわざそんなのを真似るなんて、敵さんのことじゃありますが、本末転倒を心配しちまいまさァ」

 ようやく幕府の構造を理解したらしい源八郎は、
「素直にギルガメシュ政府にしなかったのは、何かこだわりがあるんですかね」と、
苦笑混じりで己の顎の髭を撫でた。

「――その人質にはビッグハウスの外交官も含まれているのではないか? 
『ディアスポラ・プログラム』とやらを建白したと言う……」
「……そう言うこった」

 源八郎よりも先に幕府とその権威の拠り所を把握し、以来、一言も喋らず思索に耽っていたザムシードは、
マイクの――否、ビッグハウスが直面する最大の問題にまで辿り着いた。
 彼の言葉を受けて、アルフレッドと源八郎は揃って表情を引き締める。
 その意味は余りにも重い。仲間を人質に取られた挙げ句、政治の道具として弄ばれることは、
友情に厚い冒険王にとっては何にも勝る苦悶である。己の身を引き裂かれるよりも遥かに辛かろう。
 それ故にマイクへ直に問うことを躊躇ったアルフレッドは、代わりにジョウの面を窺った。
果たして、彼は無言の首肯を以って返答に代えた。
 それでも、マイクは――ビッグハウスを統べる冒険王は、委細の説明までをジョウに委ねることはなかった。
 アルフレッドたちに助言を求める以上、最も大切なことは自らの口で語らなくてはならないのだ。
それこそが果たすべき責任と言うものであった。

「コールタンが言うにはな、ドク≠使ってビッグハウスからの委任を取っちまおうって、
向こうの軍師は考えたそうなんだよ。オレに口出しさせねぇつもりだったんだろうよ」
「もひとつ付け加えるなら、コイツのメンツを潰したかったのよ、きっと。
これからてっぺん奪(と)ろうってクセして小さいったらありゃしないわね」
「ところがな、ここからが肝心なんだがな、……肝心のドク≠ェ首を縦に振りやがらねぇ。
そりゃそうだ、あいつは仲間を売るような人間じゃねぇからよ。
逆らう人間への見せしめに公開処刑でも何でもしろってゴネまくったみてーだよ」
「そこまで覚悟決めた人間にギルガメシュは何したと思う? 説得に失敗して処刑も出来ずに八方塞。
困りに困って、マイクに何とかしてくれって泣き付いたワケなのよ」
「ドク≠ェいなくなったら、難民支援プログラムもまともに動かせねーんだろうぜ。
……あんまりバカバカしくて、一回、電話切っちまったよ」

 身体を固くしてマイクとティンクの話に耳を傾けていたアルフレッドたちは、
思いも寄らない成り行きに呆然と口を開け広げてしまった。

「阿呆ですかい」

 源八郎が口にした率直な――身も蓋もないとも言えよう――感想は、
マイクを中心に輪を作っていた全ての人間の代弁であった。
 ドク=\―即ち、ゼドー・マキャリスタは、難民保護が遅々として進まないギルガメシュに業を煮やし、
彼らに囚われた身でありながらディアスポラ・プログラムと銘打たれた建白書を提出していた。
 改めて詳らかにするまでもなく、これはギルガメシュの難民支援計画に骨子として採用されている。
 組織の大義として掲げながら具体化の局面で手詰まりとなった難民保護に
進むべき道を開いてくれた恩人を処刑するわけにはいかなかったのだ。
押すことも引くことも出来なくなった挙げ句、ゼドーの心を唯一動かし得るだろうマイクを頼った次第である。
 冒険王と名高いマイク・ワイアットの名誉を貶めるどころか、反対にギルガメシュが恥を?いたと言うことだ。
統治権の委任を受けると言う幕府成立の方策は、初っ端から躓いたも同然であろう。
 そして、マイクとの交渉を一任されたのがコールタンなのである。
ハンガイ・オルスの無血開城を巡る議論の場でも両者は対面しており、
面識と言う点に於いて他の誰よりも適任だと判断されたわけであった。
 あるいは、コールタンのほうから自分が指名されるよう仕向けたのかも知れないが、
いずれにしてもマイクにとっては幸いとしか言いようがあるまい。
 醜態を晒し続けているカレドヴールフらは知る由もなかろうが、
ビッグハウスとコールタンもギルガメシュ滅亡を目指して結託する同志なのだ。
 アルフレッドとマリスの安否情報を逸早く手に入れることが出来たこともマイクには幸運だった。

「それでコールタンは――いや、ギルガメシュは何を要求してきたんだ? 
強情を張る外交官を説得しろとでも頼み込んできたか」
「一度決めた梃子でも動かねぇ頑固者だし、オレが諭したって聞かねぇよ。
ギルガメシュの首魁(うえ)もドクの首を縦に振らすのは不可能だって思い知ったみたいでよォ、
……オレのほうから直々にビッグハウスの統治を委任しろって言ってきやがったのさ。
それなら、ドクも納得するしかねぇわな」

 薄汚い保身など断じて受け容れず、ビッグハウスの仲間と言う信念を貫いたドクが誇らしいマイクは、
「危ねぇ橋を渡りやがるぜ」と困ったように眉根を寄せながらも、その口元には微笑を浮かべている。
 その一方ではティンクは「盗人猛々しいとはこのことよ! 追い銭寄越せって自己申告ゥ!?」と、
空中で地団駄を踏む仕草(ゼスチャー)を披露している。
 言うまでもないが、アルフレッドたちの心情はティンクに近い。
これほど馬鹿げた話など他にあろう筈もなかった。

「ギルガメシュの要請に応じて委任を認めるかどうか――それを話し合わなきゃならないようだな」
「復帰一発目の仕事がバカらしいモンで、何だか申し訳ねぇんだけどよ……」

 アルフレッドの問い掛けに対して、マイクは深く頷いて見せた。
 マイク自身は「バカらしい仕事」と頭を掻いているが、そこまで軽々しく扱ってよい問題ではない。
先にティンクも語っていたが、これは史上最大の作戦にも影響を及ぼすような事態なのだ。
 選択次第では連合軍諸将の動向が変化する局面とも言えよう。
人質を取られているとは雖も、冒険王までもがギルガメシュの要求に屈した――
この事実がBのエンディニオンに落とす波紋は、決して小さくはない。
 ゼドーひとりの命では済まされない状況である以上、
マイクとしてもビッグハウスのみの考えで判断を下すことが出来ず、
それ故にアルフレッドやザムシードに意見を求めた次第であった。
 世界一の仲間思いと評判ではあるものの、あくまでもマイク個人の私情に過ぎないのだ。

「ビッグハウス側に問題がなければ、俺はコールタンに了解と答えるべきだと思う。
幕府を認めろと言うのなら、ヤツらの好きにさせてやろう」

 不倶戴天の敵からの要求など断じて受けるべきではないと、
強硬に反対するかに思われたアルフレッドは、意外にも是認をマイクに勧めた。
 これはザムシードにも予想外であったらしく、
間髪を容れずに「今、打つ手を誤るのは致命的だが、本当に大丈夫なのか」と質した。
アルフレッド自らの語った不倶戴天の敵に勢いを付けさせるだけではないかと懸念したのである。

「フランカーの言いたいことは分かる――が、寧ろ、そこが俺たちの狙い目だ」

 両腕を組んだアルフレッドは、更に意外な言葉を重ねていく。

「ギルガメシュに恭順したのは、徹底して油断を誘う罠――これは分かっているだろう? 
敵が完全勝利に浮かれている間に逆転への力を蓄えると……。
幕府が承認されたときこそ、カレドヴールフはこちらの術中に嵌ると言うことだ」
「今更、お前の立てた作戦に異論を唱えるつもりはないが、……そう上手く行くのか?」
「幕府だの権力の委任だのと大仰なことを言っているが、
この世界に何の基盤も何も持たないギルガメシュには、せいぜい作れて軍事政権くらいのものだ。
それも恐怖統制のな。統一された政府を作れるくらい政治に長けているのであれば、
借り物になど頼らず、砂漠の合戦の直後にでも統治体制を整えられた。……違うか?」
「確かに何でもかんでも借り物ばっかりだわな。難民支援計画までうちのドクから借りパクなんだぜ。
どのツラ下げて難民保護とか抜かしやがるんだよ」

 アルフレッドの論にはマイクも首肯を以って同調した。
 一方のフランカーは、気鬱も露に渋い表情(かお)を作り続けていた。

「少しは安心しろ、フランカー。ヤツらの幕府などエレメンタリーの児童会より程度が低かろうよ。
例えば、お前たちのように民や土地を育み、領土全体を富ますと言う発想を持たないのだからな。
奴らに出来るのは人から奪うことだけだ。……テムグ・テングリ群狼領とギルガメシュは、
似ているようで本質の部分が全く違うんだ」
「しかしだな、ライアン……」
「もうひとつ、安心させてやろう。統治権の委任はサミットで捕らえられた人質に限定されるだろう? 
つまり、要人とは言っても数そのものはごく僅か。その程度で中央政権など名乗れるものか」
「佐志はサミットに出てないんで、頭数からは省いて下さいや。
その頃は前の村長が亡くなって間もなくでしたから、ええ……」
「佐志と同じように、連合軍に参加したのはサミットには関わらなかった人間ばかりだ。
何万もの軍勢に膨れ上がった連合軍の将兵と、たかが数名程度の人質では、
どちらの声が強い意味を持つと思う? いや、聞くまでもないだろう。
……アルカーク・マスターソンのようにサミットと連合軍の両方に顔を突っ込んだ者もいるが、
あれは例外中の例外だ。むしろ、人質にでもなっていれば良かったくらいだよ」
「例外と言うことでしたら、マイクさんもその中に含まれる――のですよね?」

 源八郎の相槌と合わせるような形で、ジョウがアルフレッドに質問を投げ掛けた。
 ジョウが何を思ってそのような問い掛けをしてきたのは、その意図を察したアルフレッドは、
先ず彼に向かって強く頷き、次いでマイクへと目を転じた。

「ビッグハウスの外交官が――いや、仲間の命がどうなるか分からないと脅されたんだ。
止むを得ない決断だったと同情こそ買っても、裏切り者と謗られることはない筈だ」

 冒険王は連合軍の仲間を売った――そのような風聞が立つことをジョウは何より恐れたのだ。
 彼もまたAのエンディニオンから流れ着いた難民のひとりである。
ジョウ・チン・ゲン個人はマイクにも劣らないほどの大器の持ち主であり、
身につけた武具や防具の一式――禍々しい外見から外道装備などと呼ばれることもある――は、
クリッター程度の障碍など鎧袖一触で振り払えるだろう。
 しかし、戦闘能力ばかりを備えていても生命(いのち)を永らえることは出来ない。
異世界では身の保障など何ひとつ持ち得ず、それ故にギルガメシュから難民と分類されたのだ。
寄る辺を求めて流浪し、餓えと渇きに倒れ、荒野に朽ちても不思議ではなかった。
 家族を残したまま野垂れ死にをする前にマイクの保護を受けられたことは、
ジョウにとって僥倖以外の何物でもないのだ。
 如何なる理由であれ、大恩人が傷付けられるような事態だけは食い止めるつもりでいたジョウだが、
どうやら、ギルガメシュとの取引に応じても、直ちに冒険王の名誉が毀損されるわけではないらしい。
 心に巣食う不安の影こそ拭い切れないものの、一先ずジョウは安堵の溜め息を零した。

「不名誉どころか、統治権を渡すよう無理強いされたと言う格好の例になる。
力ずくで取り上げたものに正当性など存在しない。……幼稚な連中では正当性の三文字も理解出来ないわけだ。
幕府が立ち上がる寸前でトリーシャに揺さ振りを掛けさせるさ、不当な政権と言ってな。
委任の強要は紛れもない事実。ギルガメシュも言い逃れは出来ない」
「うっわ〜、復帰一発目から頼んでもないのに飛び出しちゃってるわね、この銀髪クン」
「ま、まあ、元気がないよりは宜しいかと……」
「つーか、別にドクだって無理強いされたわけじゃねーだろ。危ない橋に変わりはねぇけどさ。
……とりあえず、言い掛かり全開なトコは目ェ瞑ろう。いずれにしても、やるこたァ一緒だもんな」

 「狩猟の罠だって、どう隠すかがポイントだしな」と乾いた笑いを洩らしつつ頬を?いてから、
マイクは咳払いをひとつ挟んでアルフレッドに向き直った。
 他者を惹き付けて止まない黄金の瞳には、強い力が込められている。
心の奥まで貫くような光を湛えながらアルフレッドと相対している。

「ド忘れしてんのか、敢えて触れねぇのかは分からねぇが、……エルンストだって人質だぜ、アル。
ギルガメシュがテムグ・テングリ全領土の委任を要求したらどうする? いや、どうなると思う? 
今度こそ連合軍はブッ飛ぶぜ?」

 エルンスト――即ち、馬軍の覇者の名を口にした瞬間、黄金の瞳に宿した光が一等強く瞬(またた)いた。
 『在野の軍師』から連合軍の作戦を引き継ぎ、その役割を本来の担い手に戻す迄の間、
マイクはこのことを懸念し続けていたのだろう。
 Bのエンディニオンに於ける冒険王の人気はともかく、ビッグハウス自体は領土≠ニしてはかなり小さい。
例え貿易で栄えているとしても、所在する海域が他の地方から離れている為、
佐志のような海運の要衝とは成り得なかった。
 島そのものが『レリクス(聖遺物)』であることや、海洋貿易による莫大な収益を差し引けば、
統治権を得ることに旨味≠ェ少ないとマイク自身は分析しているのだ。
 ギルガメシュの将兵に占拠されようものなら、商人たちは一斉に水の都から手を引き、
たちまち貿易都市としての価値が損なわれることだろう。
 しかし、テムグ・テングリ群狼領は違う。最強の騎馬軍団に物を言わせて版図を拡げてきた彼らは、
ロンギヌス社による蚕食の被害こそ受けているものの、未だにBのエンディニオンで最大の領土を誇っている。
 「広大」の二字では表しようがない程の領土である。
これが全てギルガメシュの――否、幕府の直轄地となろうものなら、
連合軍にとっては再起の道を閉ざされることにも等しかろう。
 そして、連合軍の敗北を認めて降伏したエルンストの身柄は、現在、ギルガメシュの手の中に在る。
彼のもとに領有権の委任を催促する特使――おそらくはコールタンであろう――が訪れないとも限らないのだ。
 考えられる限りの最悪の事態を想定していたのか――
冒険王の黄金の瞳は、そのようにアルフレッドへ詰問している。
 自軍にも関わる事柄であるだけに、ザムシードの双眸も『在野の軍師』へと向けられていた。
 当のアルフレッドは「気を悪くさせるかも知れないので、先に謝っておく」とザムシードに断った後、
マイクの質問に答え始めた。彼もまた深紅の瞳に強い光を漲らせている。

「領有権を譲り渡す書類に署名するようエルンストが強いられることも、
……いや、拷問に掛けられる可能性まで考えていなくちゃならない。
目的を達成する為には手段は選ばない連中だからな」

 ある意味に於いては血筋≠ネのかも知れない――己の身体を流れる血≠思い、
アルフレッドは込み上げてくる嫌悪感と共に自嘲の笑みを浮かべた。
 彼の傍らに立つザムシードは苦悶の色を深めている。
無理からぬ話であろう。尊崇する『御屋形様』が拷問を受けているかも知れないと突き付けられたのだ。
 心の内に押し込めながらも、馬軍の誰もが恐れていたことである。
それを他者の口から語られたことによって、想像しないよう努めてきた場景が脳裏に浮かんでしまい、
とうとう煩悶が破裂したわけだ。
 重苦しい沈黙からザムシードの苦しみを感じ取ったアルフレッドは、
「拷問はあくまでも可能性だ。それに確率としては高くない」と慌てて言い添えた。

「説明が足りなくて、申し訳なかった。ひとつの手段として想定されると言いたかっただけなんだ。
それも本当に最悪の手段だよ。……しかし、そんな事態には発展しないと思う」
「そうとは限らんだろう? いや、励ましてくれるのは有り難いが、私も覚悟は出来ている。
御屋形様が降伏したときに覚悟は……」
「そうだ、降伏したからこそ大丈夫なんだ。そもそも、拷問と言うのは相手を屈服させる為の手段だろう? 
エルンストは既にギルガメシュへ恭順している。敢えて危害を加える理由もない筈だ。
……それに、ここからが肝心だ。先程はここを言いそびれた所為で余計な誤解を招いてしまった」
「……と言うと?」
「現在(いま)のエルンストの立場は、人質ではなく囚人に近い。
タバートに御屋形が交代した以上、エルンストへ統治権の譲渡を迫るような必要もない。
エルンストのほうに何か話が行くときは、タバートがギルガメシュと決裂したときだよ」
「……ギルガメシュに歩調を合わせようとしているタバート様なら、その心配はない……か」

 「それもまた複雑なことだ」と締め括ったザムシードを、アルフレッドは深紅の瞳の中心に捉えている。

「エルンストは未だに馬軍の拠り所であり続けている。
ギルガメシュの思惑はともかく、タバートはエルンストが復帰するまでの中継ぎでしかないんだよ。
……フランカー、ここまではどうだ? 俺の見立てに誤りがあるなら言ってくれ」
「いや、……タバート様には申し訳ないが、全てお前の言う通りだよ」
「タバートがギルガメシュに近付くのは、御屋形の器でないと公言するようなものだ。
同時にギルガメシュの増長まで促してくれる。一石二鳥と言うべきかも知れないぞ」

 ザムシードからマイクへと再び目を転じたアルフレッドは、「確信」の二字を念として込めた声を張り、
「一時の優勢を譲ることは織り込み済みだ。今更、ジタバタしても始まらない」と論じていった。
 アルフレッドの中では、テムグ・テングリ群狼領の全ての領土をギルガメシュへ譲り渡すことさえ
最初から計算に入っている。あくまでも一時の優勢として、だ。
 そして、そのような事態にエルンストが如何に振る舞うのかを重要視しているわけである。

「幕府が成立すれば、エンディニオン全土はギルガメシュの手に落ちたも同然だ。
テムグ・テングリの領有権も何も関係なくなると言うことだよ。
……だが、エルンストはその件に同意してはいない。
ごく僅かな人質から奪った委任を絶対的な権限のように振り翳すギルガメシュによって、
自分の領地を不当に占拠されたに過ぎないんだ」

 アルフレッドの声に込められた念は、「確信」から「希望」へと移り変わっていった。
エルンスト・ドルジ・パラッシュなる奇傑に寄せる「期待」や「羨望」とも言い換えられよう。

「エルンストは決して最後の一線は越えていない。だから、いずれ反攻に転じるとき、
連合軍の主将として再び立ち上がることが出来る。今もまだ王者の資格を秘めているんだ。
……馬軍だけではないぞ。ギルガメシュ打倒を誓った同志たちは、
タバートではなくエルンストのもとに集うに違いない」

 史上最大の作戦――その本質を踏まえた上で、テムグ・テングリの全領土がギルガメシュの手に渡っても
大局に影響は出ないと説くアルフレッドの論を、マイクは完全には信じ切れなかったらしく、
少しばかり圧(へ)し口となっている。黄金の瞳も複雑に揺れていた。
 さりながら、真っ向から反対意見を唱えることもない。
連合軍に加わった人間として一度は承認した作戦であり、
反攻に向けた罠と言う論にも半分は納得している様子である。
 それ故、アルフレッドは次に紡ぐべき説得の言葉に迷ってしまった。
どのような材料を提示すれば冒険王が頷いてくれるのか、彼としても手詰まりに近かった。

「……自分自身が主将として起ちたかったか、マイク・ワイアット?」

 俄かに会話が止まった両者には、ザムシードの問いかけが割って入る。
その声は鏃のように鋭く、傍らで聞く者には難詰に近いとさえ思えた。
 ティンクもジョウも、ザムシードに向けた双眸を大きく見開いている。
 一方のマイクは、自分が馬軍の将から何を問われたのか、直ぐに悟っていた。
 冒険王と讃えられるほどの輝かしい功績は、連合軍の新たな主将として最も相応しいと言えるだろう。
世界中の人々から頼みとされており、ときには部族間の紛争調停などにも力を尽くしている。
 連合軍諸将――即ち、数え切れないほどの要人を纏め上げるだけの手腕と、
何よりも王者たる資格を備えた英傑なのだ。
 その大器に敬服していればこそ、アルフレッドも一度は己の役割を託したのである。
 Bのエンディニオンに於いて、馬軍の覇者に取って変わることが出来る人間は、
マイク・ワイアットを置いて他にはいなかった。

「冗談にも程があるぜ。こっちはアルが帰ってきてくれて、内心、ホッとしてるのによ。
ビッグハウスだけで手一杯なんだぜ、オレ。
エルンストみてェにてっぺんから声を飛ばせるほどの度胸なんかねーの」

 ザムシードの心を察したからこそ、マイクは躊躇うことなく首を横に振った。
 これは偽らざる本心でもある。Bのエンディニオンで発生する数多の紛争を仲裁してきたマイクだが、
自らが主将となって大軍勢を率いることなど考えたくもなかった。
例え、周りから望まれようとも断固として断るつもりでいる。
 実績から組み上げられる資格≠ニは別に、人にはそれぞれの領分と言うものが宿っている。
人と人とを結ぶ喜びには全力で取り組めるマイクだが、人の上に君臨して覇を唱える器ではないのだ。
 世界中の要人と対等に渡り合ってきたからこそ、己の器と言うものを誰よりも自覚している。
マイクに言わせれば、ザムシードの懸念は大いなる取り越し苦労なのである。

「あれだけの一大連合をシキれんのは、エルンスト・ドルジ・パラッシュだけさ。
お前さんがどう言う経緯でエルンストの下に入ったのかもあらまし&キいてるけどよ、
……自分が男惚れした相手を最後まで信じてやりな。あいつの器は誰にも負けねぇし、絶対に揺るがねぇ」
「……失礼した。他意はなかったのだが……」
「気にしちゃいねぇさ。大人って生き物は、とかく心配事が多いモンだしな」

 冒険王に飛び抜けた野心がないことを確かめた上で、ザムシードは一通の書状を差し出した。
それは、エルンストの御曹司たるグンガルが直々に認(したた)めたものであった。
 あるいは、今の今まで差し出す機会を逃し続けてきた書状とも言い換えられるのかも知れない。
グンガルの特使たるザムシードがビッグハウスを訪問したのは、この書状を届ける為である。

「タイミングが掴めずに遅くなったことを心よりお詫び申し上げる。
……テムグ・テングリが御曹司より書状を預かって参った。どうぞお受け取り頂きたい」
「使者の任務、心から感謝するよ。マイク・ワイアットの名に於いて確かに拝受した」

 厳重に封が為された書状をザムシードから手渡されたマイクは、
グンガルへ敬意を払うように一礼し、次いでこれを開いていく。
 群狼領で手に入る最上等の紙――機密文書に使用されることが多い――に記された言葉の羅列を
一字一句読み飛ばすまいと真剣な目付きで追い掛けるマイクは、口も真一文字に引き締めていた。
 平素から陽気な笑みを浮かべているだけに、その厳めしい面持ちは、
清められた水の如き静かな緊張を見る者の心に与えるのだった。

「御曹司はマイク・ワイアット、ひいてはビッグハウスとの強い結束を願っておられるのだ。
反攻の力を蓄えるにしても、連合軍が足並みを乱しては元も子もない。
こんなときだからこそ、心をひとつに合わせなければな……」

 その姿を暫し見つめていたザムシードは、やがてアルフレッドたちにも書状の内容を詳らかにしていく。
無論、他者に明かしても許される範囲で、だ。
 そもそも、ザムシードとて書状の内容を完全に把握しているわけではない。
事前にグンガルから教えられていた部分しか語れなかった。
 しかしながら、アルフレッドにはそれだけでも十分である。
何を考えているのか見通せず、油断のならないタバートはともかくとして、
エルンストの直系たるグンガルがマイクと歩調を揃えようと努めてくれることは、
史上最大の作戦を進めていく上でも非常に心強いのだ。
 ザムシードに託された書状は、つまりは友好の証しと言うことである。

 そのときである。ザムシードが履くズボンのポケットでモバイルが電子音を奏で始めた。
 「劇場内であるまじきマナー違反をしてしまった」と皆に詫びてからモバイルを取り出し、
液晶画面に表示される番号を確かめたザムシードは、
急ぎ足でオーケストラピットの外――舞台裏の通路へと出て行ってしまった。
 「噂をすれば影」と言う諺の通り、グンガルから着信があったのかも知れない。
 ザムシードがオーケストラピットに戻ってきたのは、着信(それ)から間もなくであった――が、
再びアルフレッドの正面に立った彼は、殆ど別人のような面持ちとなっている。
 その表情は狼狽の極致としか表しようがなく、見ていて痛ましいくらい血の気が失せてしまっていた。
模擬戦の折にアルフレッドを圧倒し続けた逞しい肉体とて、今は小刻みに触れているように見えた。
 右手にはモバイルを持っている。対の掌で通話口を押さえていると言うことは、
今もまだ電話は繋がり続けているのであろう。

「……おい、本当に大丈夫か? 病人みたいな顔になっているが……」
「アルフレッドさんの言われる通りです。直ぐに医師を手配しますので、
とりあえず楽な姿勢になって下さい。通話はもう打ち切って――」

 急激な変貌に面食らっているアルフレッドたちを順繰りに見回したザムシードは、
掠れ切った声で驚くべき――否、慄くべきことを話し始めた。

「……タバート様が、ギルガメシュにテムグ・テングリの全権を譲った……」




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