9.Sympathy for the Devil


 半ば強引にザムシードから誘われてアルフレッドが足を踏み入れたのは、
ホテル内の一室に設けられた滞在者向けのトレーニングジムであった。
 但し、「ホテル内の一室」と言っても大きな会議室より更に広く、各種設備も充実している――が、
トレーニングマシンなどの器具が置かれたエリアをザムシードは素通りし、
ガラスの窓で隔てられた先へと一直線に向かっていく。
 そこは多目的ホールのようなエリアであった。木板の床は照明を反射して眩しく、
最奥に当たる壁の一面には縦長の鏡が張られてあった。所謂、『姿見(すがたみ)』である。
 その箇所だけを切り取ってみると、さながらダンスの稽古場と言ったような趣である。
実際、壁一面の姿見は練習者の姿勢などを確認する為に使われる物だろう。
 鏡張りの壁から少しだけ離れると、床一面にクッション材を埋め込んだ場所がある。
柔軟体操などを行う際、硬い床の上では肉体に負担が掛かるだろうと配慮されたのかも知れない。
体重を受けて軽く沈むほどに材質は柔らかく、簡単なマット運動もこなせそうだ。
 履いていたブーツを脱ぎ捨ててクッション材の上に立ったザムシードは、
いきなり上半身裸になると、両の手首を回しながら奇抜なことを言い始めた。

「ハンガイ・オルスでも少しばかり見させて貰ったが、お前は徒手空拳がメインなのだろう? 
丁度良いからスパーリングに付き合ってくれ」
「……何? 何だと?」

 トレーニングジム、それも多目的ホールへとアルフレッドを誘ったのは、
どうやらこの模擬戦を申し込む為であったようだ。
 硬い木板の床で立ち合うならばいざ知らず、クッション材が敷き詰められた場所だ。
これほど、模擬戦≠ノ適した環境もなかろう。仮に投げ落とされた場合でも
相当なダメージを緩衝してくれる筈である。
 尤も、アルフレッドとしては、困惑を通り越して迷惑以外の何物でもなかった。
理由も何も告げられないまま、関心もない場所に引き摺り込まれた挙げ句、
模擬戦の相手をするよう要求されては、「理不尽」以外の言葉は持ち得ないわけだ。
 しかし、ザムシードのほうは返事も待たずに準備運動を始めている。
 四〇歳を優に超えたとは思えないほど逞しい肉体――碑文の如く無数の傷痕が刻まれている――が、
ストレッチに反応して一層引き締まり、臨戦態勢が整いつつあることをアルフレッドに見せ付けていた。
 胴回りに僅かばかり贅肉が見られるものの、身のこなしには何の支障もなかろう。

「おい、俺の了解はどうした。引き受けるなんて一言も……」
「そう言うな。腹積もりはともかく、表向きはテムグ・テングリはギルガメシュに絶対恭順なのでな。
大っぴらに実戦訓練もやり辛くなっているんだよ。お陰で身体が鈍って仕方がない」
「その責任まで俺が負わなくちゃならないのか? グンガルと一緒に合戦に出れば済む話じゃないか。
領内を脅かす侵略者の迎撃ならギルガメシュだって目くじらは立てない筈だ」
「雑魚を幾ら狩ったところでどうにもならんさ。その点、お前は打ってつけだ。
御屋形様が見込んだ男の底力を試してもみたいしな」
「……迷惑な話だ」

 ザムシードに対して素っ気ない返事ばかりを繰り返すアルフレッドだが、
半月近く実戦から離れていることには、彼自身も不安を抱いている。
 ボルシュグラーブに付き合ってアカデミー式の訓練こそ欠かさなかったが、
それは対人の戦いとは別物である。ほんの十日足らずで勝負勘が衰えるとは思わないが、
戦列≠ヨ復帰するからには、ありとあらゆる感覚を万全の状態に戻しておかなくてはなるまい。
 心身の調整と言う点に於いてザムシードの誘いは、寧ろ願ってもないものであった。

「……阿呆面を晒しているよりも、時間は有効に使ったほうが良いからな……」

 誰に聞かせるわけでもない言い訳じみた呟きを漏らしながら、
アルフレッドもロングコートと鎖帷子を脱ぎ、間もなく上半身剥き出しの状態となった。
 ザムシードに倣って靴紐も解き、素足のままでクッションの上に乗ると、
柔らかな感触が肌に伝わってくる。体重もろとも包み込むような材質が心地良かった。
 改めて詳らかにするまでもないが、ザムシードと模擬戦を行うことに疑問が全くないわけではない。
悠長に構えている場合ではないと、他ならぬアルフレッドが誰よりも自覚しているのだ。
 だが、黙して寸暇を貪る時間と、弛緩の可能性がある勝負勘を取り戻す訓練とを天秤(はかり)に掛ければ、
後者を求める気持ちが勝ってしまうのである。
 Aのエンディニオンへの突入を仕損じると言う醜態を晒したのだ。
これ以上、仲間たちの足を引っ張ることは許されない――その負い目が焦燥感を煽っていた。

「……半裸の男同士が人気のない場所で取っ組み合っていたら、妙な誤解を生みそうで怖いな」
「これは意外だな。お前も世間の目が気になる年頃と言うことか」
「不愉快だと言っているだけだ」
「安心して良いぞ。冒険王殿はこのホテルを丸ごと借り上げてくれたそうなんでな。
この時間にジムを使うのも私たちくらいだろう。他に誰の邪魔も入らんよ」

 「それで誰もいなかったわけか」と、アルフレッドは心中にて納得した。
 超一流のフィットネスクラブと見紛うばかりの器具が揃っていると言うのに、
ふたりが立ち入ったときには室内は全くの無人だったのだ。

「さっきのビデオで選手たちが使っていたような気の利いたグローブはないが、……構わんな?」
「薄手の安物だが、俺にはグローブがある。そっちこそ平気なのか」
「素手の殴り合いくらいで使い物にならなくなるヤワな拳じゃ馬軍の将は務まらんよ。
お前こそ模擬戦程度で壊れてくれるなよ」
「これでもスカッド・フリーダムの隊員とやり合った身だ。稽古の相手として不足はないと思うぞ」
「楽しみだ。……ロートルなりに踏ん張ってみるとしよう」

 これはつまり、極めて実戦に近い状態になることを確かめ合った次第である。
そして、アルフレッドにもザムシードにも、異存などある筈がない。

 腰を深く落とし、前方に突き出した左腕と、胸の手前辺りで曲げた右腕を
交差させるような構えを取ったアルフレッドに対して、ザムシードは両腕を力なく垂らしたままだ。
 何も知らない人間の目には無気力のように映ってしまうかも知れないが、これこそがザムシードの構えなのだ。
拳闘(ボクシング)を主体としながらも、その体系は奇術の如く変則的なのである。
 果たして、ザムシードは舞踊の如き足捌きで接近と離脱を繰り返し、アルフレッドを幻惑し始めた。

(……フツもコレ≠ノは苛立っていたな……)

 決して幻惑に飲み込まれないよう神経を研ぎ澄ませ、ザムシードの動きを追い掛けるアルフレッドは、
彼との間に横たわる遺恨≠脳裏に思い浮かべていた。
 ザムシードがビアルタと共にゼラール軍団の崩壊を図った事件のことである。
その折にアルフレッドはゼラールたちの加勢に入り、必殺の一撃を以ってしてビアルタを退けていた。
 ふたりの立場からして見れば、これは断じて許し難い狼藉であり、
アルフレッドとて自分は恨まれて当然だと考えていた。
事実、ビアルタからは敵愾心以外の感情を受け取った憶えがない。
 完全決裂に至ったであろう悶着の場に於いて、ザムシードはフツノミタマと死闘を演じていた。
 他方の敵を相手にしつつ目の端で捉えた情報(もの)と、
フツノミタマからの伝聞でしかザムシードの拳は知り得ないのだが、
曖昧な記憶の中に在ってさえ、一般的な拳闘の様式から掛け離れていたと言う印象が蘇ってくる。

 程なくしてアルフレッドの右側面に回り込んだザムシードは、
中間距離から一気に飛び込みつつ右拳を横薙ぎに振り抜いた――かに思われたのだが、
狙い定めた標的に突き刺さったのは、何故か対の左拳であった。
 しかも、側頭部などではなくアルフレッドの右脇腹を揺さ振っている。
 直撃の寸前に半身を開く恰好で右拳を引き戻し、これと連動させる形で左足を踏み込むと、
同じ側の拳を一気に突き込んだのだ。直進の勢いを乗せたショートアッパーである。
 先に見せた右のフックは陽動(ひっかけ)に過ぎない。
 しかも、だ。一旦は引き戻した筈の右腕は、いつの間にかアルフレッドの右側頭部まですり抜けていた。
 このとき、右拳は猫の手のような形を取っており、
折り曲げた五指の第二関節――その尖端でもってこめかみを打ち据える。
 拳打と呼べるほど強烈な打ち込みではなく、軽く小突いた程度ではあるものの、
手首のバネを十二分に利かせてあり、且つ意識の外からの衝撃であった為、
思わずアルフレッドは身を傾がせてしまった。
 無理な動作(うごき)にも関わらず、一定の打撃力を発揮出来たのは、
四肢のバネを駆使すると言う工夫にのみ要点が在ったわけではない。
舞踊の如き不可思議な足捌きを繰り返しつつ、突き込みに最適な位置(ポジション)を確保していたからである。
 最後に見せた猫の手≠燗ッ様だ。自身の腕がアルフレッドの頭部をすり抜ける間際、
最も力を生み出し易い間合いへと移っていたのだった。
 巧みな足捌きには音もなく気配もなく、アルフレッドはザムシードが間合いを移したことさえ気付かなかった。
 ザムシードが選んだ位置(ポジション)は、アルフレッドにとっては完全な死角であったので、
視認出来なかったとしても当然なのである。
 何とか堪えて体勢を立て直し、反撃の左拳を振り抜かんとするアルフレッドだったが、
既にザムシードは大きく間合いを離した後。紫電の如き一閃も虚しく空を切るばかりだった。

「今のは良い振りだった。当たっていたら、意識を引っこ抜かれたかも知れん」
「掠らせもしないクセに何を言う」

 おどけた調子で片目を瞑って見せるザムシードに苦笑で応じるアルフレッドだが、
冗談めかしたやり取りを続けていられるほど余裕があるわけではない。
 それどころか、『ロートル』を自称するこの男に対して、肌が粟立つような思いすら抱いている。
 思ったより勝負勘は衰えていなかった。アカデミー式の訓練が上手く作用してくれたのか、
五感の働きもバブ・エルズポイントへ突入する以前より冴えていることが確かめられた。
 これまでになく充実した状態であったにも関わらず、アルフレッドは不覚を取ったのだ。
 舞い踊るかのような足捌きから攻撃へと転じた瞬間、
ザムシードはアルフレッドの視界から完全に姿を消してしまった。
それはつまり、標的の動きを追い切れなかったことに他ならない。
 「不覚」の二字の他に選ぶべき喩えをアルフレッドは知らなかった。

(ザムシード・フランカー、か――敗れたとは言え、反乱軍を統率するだけ器だったと言うことだな。
……底力を思い知らされたのは俺のほうじゃないか)

 Bのエンディニオンにて生まれた者へ創造女神イシュタルより授けられる奇跡――トラウム。
テムグ・テングリ群狼領に於いては、これを人間本来の可能性を衰えさせる要因と禁忌し、
己の肉体こそ極限まで鍛錬するべしと定めている、
 それ故、馬軍の将士は異郷の地を蹂躙し得るほどに精強なのである。
 世界制覇と言う途方もない野望を唱えたのは、何も愚かな夢想などではない。
暴威とも例えるべき戦闘力に裏打ちされた自信であり、戦士としての誇りなのだ。
 トラウムに拠らず、己の力のみを頼りとする馬軍の強さを、
アルフレッドは改めて見せ付けられたような心持ちであった。
 しかも、ザムシードは明らかに手加減をしている。今し方、直撃を受けたばかりだと言うのに、
脇腹もこめかみも、いずれも鈍痛すら残っていない。まさしく「小突かれた」のみである。
 実戦さながらの立ち合いとなる筈だったのに、これでは如何にも情けない――
心中にて溜め息を吐くアルフレッドではあったが、容易く引っ繰り返せるような力量差でもあるまい。
 アルフレッドにとっては変則的な挙動(うごき)が尤も厄介であった。
身のこなしが常に不規則であり、幻惑を誘う足捌きでもって必ず死角を取られてしまうのだ。
 先読みなど不可能に近い。それが為、突き崩そうにも攻め手自体を組み立てられずにいた。
相手の動作に合わせて拳や脚を繰り出し、四肢を封じ込める技法も心得ているが、
機先を制して拍子を乱す戦法はザムシードが相手では通用しそうにない。
 結局、具体的な方策など立てようがなかった。
そうである以上、自ら攻めかかってザムシードの動きを制し、有利な状況を作り出すしかないのだ。
 無策の突貫ではなく攻防の流れに任せて、取るべき戦略を直感するしかない。
自分自身の力で突破口を開くべしと心中にて唱えたアルフレッドは、
下半身のバネを限界まで引き出し、轟然とザムシードに飛び掛かった。

(……感謝したいとは思わないが、とりあえず損はしていないからな――)

 一瞬、アルフレッド自身が持て余す程の速度である。
本人の想定以上にボルシュグラーブとの訓練は効果があったと言うわけだ。
 音速にも達するほどの足捌きが駆使される前にザムシードの眼前まで迫ったアルフレッドは、
中空より左右の脚を連続して繰り出した。
 駒の如く旋回しつつ、右の前回し蹴りと、対の左脚による後ろ回し蹴りを交互に放ったのだ――が、
応じるザムシードには片脚とて直撃させられなかった。左右の蹴りを同一の軌道にはせず、
振り抜く速度や横薙ぎの高度(たかさ)にも変化を加えてみたが、どうしても惑わすことが叶わない。
 左右の下腕を交差させるようにして防御を固め、そのまま大きく踏み込んだザムシードは、
横薙ぎに振り抜かれた右の前回し蹴りを己の肘で受け止めた。しかも、足先でなく膝を当てさせている。
 言うまでもなく前回し蹴りの威力は半分も炸裂しなかった。
打撃の力は足先にこそ集中しているのだから、要点より大きく外れた膝で受け止められてしまえば、
痛手など与えられる筈がない。
 文字通り、両脚の回転を食い止められてしまったアルフレッドは、
その状態からの突進で右足を押し込められ、遂には着地せざるを得なくなった。
 ザムシードが試みた防御法は、フツノミタマとの死闘で連続斬りを押し返したときの応用である。
無論、「応用」であるから、要点を踏まえつつも以前とは動作が異なっている。
 アルフレッドの両脚がクッション材を踏んだと見て取るや、ザムシードは両の拳で追撃を試みた。
これもまた連続斬りを破ったときと同じ動作であったが、
フツノミタマとの立ち合いではドスを握る手を狙撃したのに対し、
今度は両のこめかみを打ち据えようとしている。
 正面切って繰り出された追撃を間一髪で凌ぎ切るアルフレッドだったが、
ザムシードの拳を受け止めた両の下腕は骨の芯まで軋んでいる。
「肉体(からだ)が悲鳴を上げる」とは、まさしくこのような状況を指すのであろう。
 腰の捻りを乗せたフックだけに今までの拳打よりも威力が高いだろうとは予測していた。
それでも、たった一撃で骨の亀裂や破砕を案じることになるとは思わなかったのだ。
 多目的ホールの天井に跳ね返った音は、肉を撲(は)ったものにしては極端に重低である。
 涼しげな面持ちで立つザムシードのことだ。今し方のフックでさえ全力ではなかろう。
合戦場では武器すら持たず、両の拳で敵兵を屠ってきた男である。
渾身の力を漲らせたなら、アルフレッドの腕など軽く圧し折り、そのまま顔面を粉砕した筈だ。

(……こいつの拳――『トレイシーケンポー』より重いかも知れない……)

 徒手空拳の立ち合いに於いて、防御(ガード)もろとも腕を壊されそうになったのは、
トレイシーケンポーの使い手であるシルヴィオ・ルブリン以来であった。
 義の戦士たちも馬軍の将士と同じく己の肉体を人外の域にまで鍛錬している。
シルヴィオの拳を受け止めた折にも、現在(いま)のような戦慄に打ちのめされたものだ。
 決着はつけられなかったものの、シルヴィオは過去最強と言っても差し支えのない強敵だった。
ジークンドーとトレイシーケンポー、両流派の浅からぬ因縁を除いた上での分析と評価である。
 義の戦士に相応しい超人的な肉体と、円軌道に基づく挙動(うごき)から生み出される拳打の威力は、
幼少の頃よりジークンドーの修行を積んできたアルフレッドでさえ完璧には凌ぎ切れなかった。
 一方のザムシードはどうか。繰り出す拳はシルヴィオにも匹敵する威力を誇っているが、
トレイシーケンポーのように特殊な技巧を挿んでいるわけではなく、
純粋な身体能力のみを根源(みなもと)としていた。
 ザムシードが駆使する技巧は、直接的な攻撃力への作用と言うよりも、
舞踊の如き足捌きなど相手を翻弄する類のものが多い。
 変則的な拳闘の様式こそが好例と言えるだろう。
打撃と離脱を繰り返すアウトボクシング≠見せたかと思いきや、
突如として剛腕に物を言わせるインファイト≠ノ切り替えたのだ。
 ひとつの様式に囚われず、ありとあらゆる技巧を自在に操ってしまえるザムシードは、
拳闘史に於いてさえ稀有な存在に違いない。

「だがな――」

 だが、インファイト=\―接近戦はアルフレッドが得意とする間合いでもある。
芯まで衝撃が貫いた両腕は今もって痺れているものの、至近で向かい合った状況を逃すわけにはいかない。
 ザムシードは先ず右拳、次いで左拳を突き込んでいる。
自然、アルフレッドはそれぞれの打撃を反対側の腕で防ぐ恰好となった。
 左のフックは右の下腕で受け止めている。
相手の拳がめり込んでいる間に対の左掌を右下腕に添えたアルフレッドは、
内から外へと両手を一気に振り回した。
 急速な動作(うごき)にザムシードの左腕を巻き込み、彼の姿勢を崩そうと図った次第である。
 即応したザムシードがすぐさま重心を落とした為、上体が傾ぐようなことはなかったのだが、
勢いを止めることが出来ないアルフレッドは、そのまま全身を旋回させ、
右脚にて得意の『パルチザン』――後ろ回し蹴りを放った。
 遠心力を乗せた横薙ぎの一閃を以ってザムシードの左脇腹を抉ろうとしたのだ――が、
標的が真横に跳ね飛んでしまった為、掠り傷を付けることさえ叶わない。
 パルチザンの軌道を読み切ったザムシードは、右回転の流れに逆らわないよう跳ねている。
 右方へ逃れる姿を見極めていたアルフレッドは、無理を重ねて腰を外から内に逆回転させ、
『パルチザン』に用いていたのと同じ右脚で飛び前回し蹴りを試みる。
 軸の左脚も腰の動きと合わせて捻り込み、その流れの中で跳ね飛んだのだ。
 ザムシードが逃れた方向から逆に蹴り付け、不意打ち気味に撥ね飛ばそうと言う計算だった。

「『だが』――の後はどう続くんだ?」
「な……ッ!?」

 しかし、飛び前回し蹴りが振り抜かれた先には、既にザムシードの姿はなかった。
右方へと跳ね飛んだ後、一気にアルフレッドの背後まで回り込んでいたのである。
 ザムシードの身体能力に競り負けたようなものだった。
 アルフレッドが振り返ろうとすると、ザムシードは彼の右肩を片手で掴み、
挙動(うごき)を制した上で対の左拳を繰り出した。
背後から左腕を突き出し、頬へ擦り付けるようにして拳を当てると言う変則的な技だ。
 右方への動きを封じられたアルフレッドは、肩に食い込む捕獲から逃れるべく反対の左方へ跳ねたが、
何とそこにザムシードの右肘が飛んできた。
 右肩の拘束はアルフレッドの機転で振り解けたのではない。
彼の挙動(うごき)を読み抜いたザムシードが敢えて外し、左方への回避に肘鉄砲を合わせたのだった。
 半円を描くような軌道で突き込まれた左肘は強い遠心力に帯びている。
その上、意表を突く攻撃であった為、さしものアルフレッドも避け切ることは出来ない。
 自分で仕掛けようとした不意打ちを、殆ど同じ形でやり返されたようなものである。
反射的に両手で防御を固め、直撃だけは免れたものの、アルフレッドにとっては何にも勝る痛恨事であろう。
 そもそも、肘打ちが飛んでくること自体がアルフレッドの計算外だった。
打撃に用いる部位を拳に限定している拳闘の規則(ルール)に於いては、
肘を放つことは反則以外の何物でもなかった。
 だが、これは全てアルフレッドの先入観が招いた失態である。
ザムシードは自身に適した戦闘手段として拳闘を選んだだけであって、プロの選手でも何でもないのだ。
彼も競技としての規則≠遵守するとは一言も口にしていない。
 別にアルフレッドが騙されたのではない。ザムシードからしてみれば、
「スポーツとは違うことをしよう」などと確認するまでもないことなのだ。
 アルフレッドもザムシードも、生命を遣り取りする場にて生きている。
競技としての規則≠ニ言う概念が何処にも存在しない世界に、だ。

(――本当に鈍っていたようだな、俺はッ!)

 文字通り、裏を掻くことに成功したザムシードは、右肘をアルフレッドの左肩まで滑り込ませると、
ここを支点にして自らの身体を振り回し、彼の正面まで瞬時に移った――が、
再びインファイト≠フ打撃戦を挑むつもりはない。
 両の五指にてベルトを掴んでアルフレッドを持ち上げ、その体勢を維持したまま轟々と回転し始めた。
 竜巻とも例えるべき強烈な遠心力に飲み込まれたアルフレッドの身体は、殆ど水平に近い状態となっている。
床から足が離れている為に堪える術もなく、気付いたときには背中から落とされていた。
 回転の勢いが最大に達した瞬間、身を捻りつつ自らも前傾姿勢で跳ねたザムシードは、
そのまま圧し掛かるような体勢でアルフレッドを投げ落としたのである。
 豪快にして実戦的な投げ技だった。落とされた先がクッションではなく硬い床の上であったなら、
相当な痛手を受けていたに違いない――が、倒した後に寝技へ移行することはなく、
ベルトから手を離すや否や、ザムシードはアルフレッドから間合いを取った。
 追撃を警戒して後方へ転がり、構えを取りつつ起き上がってみると、
当のザムシードは薄く笑みながら手首を回している。
この仕草(ゼスチャー)を以って、一呼吸置こうと伝えているわけだ。
 実戦ではなく模擬戦なのだから、アルフレッドとしても彼の申し出を断る理由はない。
絶えず噴き出しては双眸へ流れ込みそうになる汗を指先で拭いながら、
「今の技は何だ?」とザムシードに尋ねてみた。

「ボクシングに投げ技なんかない――とは言わないだろうな?」
「いや、そうじゃない。……少し前、柔道家にしこたま投げられたんだが、
今のような技はなかったと思う。プロレス技とも違うようだし……」
「テムグ・テングリ群狼領に古く在る伝統武術のひとつだよ。
我が馬軍に産まれついた人間は子どもの頃からこいつをやるんだ。
肉体を逞しく鍛え、戦へ臨む精神を養う為にな。強いて言えば、相撲に似ているかも知れん」

 柔道家――テッド・パジトノフが使っていた数々の投げ技にも該当するものがなく、
首を傾げていたアルフレッドだったが、『相撲』と言う説明で得心がいった。
類例としては最も近いように思えたのだ。

「間合いを完全に潰されると、ボクシングは一気に手詰まりになるんでな。
スポーツの試合ならクリンチで仕切り直しになるが、戦場には優しいレフェリーなど要らない。
それなら、いっそ逆回しをやればいいと思ったんだよ。私をボクサー崩れか何かと勘違いした人間は、
必ずと言って良いほど組み付いてくる。そこを狙って投げてやれ――とな」
「なんだ、相手を騙しているって自覚はあったのか」
「引っ掛かるほうが悪いのだよ。『兵は詭道なり』と言うだろう?」
「ああ、見習わなくちゃならないくらいだ」

 ザムシードの話に耳を傾けながらも、アルフレッドは己の闘争心(こころ)が
熱くなっていくのを感じていた。
 フツノミタマやトレイシーケンポー=Aあるいはテッドと立ち合ったときと同じように、
武術家としての魂に火が入ったようである。

「……今度は俺も引っ掛からないぞ」
「楽しみにさせて貰おう」

 そう言って、アルフレッドは再び構えを取った。
 応じるザムシードは口の端を更に吊り上げて見せた――が、そこに宿したのは嘲りの念ではなく、
喜色の顕れであった。如何なる理由があるのかは口にしないが、
アルフレッドの反応は彼にとって大変に好ましいものであったようだ。

 そして、宣言の通りにアルフレッドは戦い方を一変させた。
出方が読めない故の「流れに身を任せる」と言う突貫ではなく、
今し方の立ち回りから得た情報を基にして、打つべき攻め手を組み立て始めたのだ。
 鈍りかけていた思考が、再び回り始めたとも言えるだろう。
 そのアルフレッドから攻撃を仕掛けさせようと言う意図なのか、
ザムシードは垂らした両腕を左右に揺さ振り始めた。おどけた態度で挑発しているようにも見える。
 肘を支点として下腕は高い位置まで引き上げられることがあり、その様は振り子の動きを彷彿とさせた。
当然ながら、舞踊の如き足捌きをも併用しており、開戦直後と同様に、接近と離脱を交互に繰り返している。
 ザムシードの挙動(うごき)を追いかけつつ、腕の折り曲げ方を注視していたアルフレッドは、
拳闘の教本に記されていた技法を想い出していた。
 脳裏に閃いたものを確かめるべく直撃覚悟で間合いを詰めてみると、
その鼻先に向かって、いきなり鞭≠ェ飛んできた。
 ここに至るまでの攻防を通じ、ザムシードの腕の長さ――即ち、射程距離(リーチ)は見極めている。
有効な拳打を放つのに必要な踏み込みまで計算に入れていたので、
件の鞭≠熾@先を掠める程度で済んだのだ。
 尤も、計算が完全に的中したとは言い難い。肩のバネを利かせた折に柔軟性が最大まで引き出されたのか、
アルフレッドが想定していた以上にザムシードの腕が伸びた≠フである。
大きく飛び退っていなければ、今頃は鼻を潰されていたかも知れなかった。
 ザムシードが繰り出したのは、腕全体を鞭≠フように撓らせることによって
速度と切れ味を得ると言う妙技である。
 鎖分銅と化した拳は変則的な軌道を描く為、相手の死角を狙い易い。
つまり、ザムシードの様式(スタイル)とは抜群に相性が良いと言うことだ。
 脳裏に浮かんだ技巧で間違いないと確信したアルフレッドは、
両腕で防御を固めつつ、更に大きく踏み込んでいく。
 左側面まで回り込まれることも想定済みである。即応したアルフレッドは横に跳ね、
例え僅かでも間合いを詰めようと図った。ザムシードの腕伸び切らない距離まで接近したかったのだ。
 決死の追跡でインファイト≠ノ近い間合いまで持ち込んだアルフレッドだが、
それでもザムシードの妙技を封じることは叶わなかった。
肩ではなく肘を支点としたバネに拠って鞭≠ェ放たれたのである。
 中間距離の相手を狙った型のように伸びる≠アとはないものの、
極端に小さな動作から速射された拳は、一瞬にしてアルフレッドの顔面まで迫っていった。
 しかし、ここまでの筋運びはアルフレッドも想定済みである。
交差させた両の下腕でもってザムシードの拳を受け止めると、すかさず後方へと飛び退った。
 対の拳を突き入れよう身構えるザムシードであったが、
今度ばかりはアルフレッドを捕捉することは叶わず、上体を引き起こして追撃を断念した。

「だいぶ動きが良くなってきたじゃないか。それでこそ誘った甲斐もあると言うものだ」
「期待外れと言われるのだけは避けたいね」

 鞭≠フ射程圏外に逃れたアルフレッドは、妙技を破る方策を練り始めている。
腕全体のバネに拠る型と、肘のバネに拠る型――間合いに応じて打ち分けられた二種の違いを分析し、
ここから突破口を開こうと言うのである。
 中間距離から一気に伸び≠骭搗ナは、間合いを読み違える可能性も高く、極めて厄介だ。
 至近距離に置ける速射の場合はどうか。直撃を被れば、ただそれだけで意識を飛ばされるかも知れないが、
腰の捻りを加えたフックに比べると威力は格段に落ちる。受け止めた腕の痺れ具合も大したものではなかった。
 鞭≠フ披露を中心に置いている今ならば、インファイト≠ノ持ち込んだほうが攻め易いと
アルフレッドは判断を下した。無論、重いフックや伝統武術の投げに変化することは十分に考えられるので、
攻め手を仕損じることは絶対に許されない。
 さりながら、伸るか反るかの博打と言う気持ちではなかった。
 要はザムシードの想定を上回れば良いのだ。その為の戦略をアルフレッドは携えている。

(兵は詭道なり――)

 組み立てたばかりの攻め手を心中にて反芻したアルフレッドは、
垂らした両腕を左右に振り続けるザムシード目掛けて前傾姿勢で突進していった。
 防御など固めてはいない。左拳を引いたまま、殆ど無防備で間合いを詰めようと言うわけだ。
露骨としか例えようのない姿は、鞭≠ナもって迎撃して欲しいと願っているようなものである。
 当然ながら、ザムシードに倒されることを望んでいるのではない。
鞭≠ノよる攻撃をアルフレッドの側から誘っていた。
 ここまでされてはザムシードとしても挑戦へ応じないわけにはいかない。
射程距離に入ったアルフレッドを狙い、右腕のバネを全開にした――鞭≠ェ唸りを上げた。
これを突破されることまで想定し、左腕では至近距離用の鞭≠速射出来るよう備えている。
 果敢に攻め入ったアルフレッドは、二種の鞭≠見事に突破した。即ち、ザムシードを翻弄し切った。
鞭≠ェ頬を捉えるか否かと言う寸前、突進の速度が急激に跳ね上がったのである。
 アルフレッドが企図した通り、ザムシードの想定を凌駕したのだった。
 目測を誤ったザムシードは、必中は間違いないと思われた左の鞭≠外し、
あまつさえアルフレッドが懐深くまで潜り込むことを許してしまった。

「――むっ!?」

 ザムシードの双眸を激烈な光が脅かしたのは、アルフレッドが急加速を見せる間際のことである。
 見れば、アルフレッドは左右の脚に蒼白い稲光を帯びている。
言わずもがな、ホウライを発動させた証左であり、その余韻でもあった。
 『ホウライ』とは、本来はトラウムの具現化に必要とされるヴィトゲンシュタイン粒子を
一種の闘気(エネルギー)に変換し、武技を強化すると言うスカッド・フリーダムの秘伝である。
 この絶技は義の戦士だけが独占しているわけではなく、
彼らの根拠地であるタイガーバズーカで一般的に稽古されているものだった。
アルフレッドは同地の出身者であるローガンから手解きを受け、今や完全に使いこなしていた。
 格上と認めざるを得ない強敵に対し、アルフレッドが考案した攻め手のひとつ――それがホウライである。
突進の最中に足裏でホウライを爆発させ、これを推力として急加速を図ったのだ。
 類稀なる肉体を誇る馬軍の将と雖も、ホウライの発動までは予想外であろう。
模擬戦が始まって以来、アルフレッドは一度たりともローガン譲りの秘伝を使っておらず、
こうした絶技を持ち得ない相手に配慮し、自重しているものとザムシード当人は捉えたくらいである。
 その真理の裏をアルフレッドは突いたわけだ。
 さりながら、化かし合いと言う程のものでもない。「ホウライは使わない」と言う約束など交わしておらず、
偶然、発動する機会がなかっただけ――ザムシードが競技としての規則≠フ外で
拳闘の技を用いているのと同じことであった。
 遂にザムシードの挙動(うごき)を制したアルフレッドだが、決して正面からは攻めなかった。
 先ずザムシードの右側面へと身を滑らせ、続けて左手甲でもって彼の右肘を押さえると、
そこから更に一歩踏み込んで右掌打を放った。
 クッション材を突き破るのではないかと思えるほど強く左足を踏み締め、
これと連動させて一気に腰を捻り込んだ掌打――そこにもホウライの稲光を纏っている。
 アルフレッドはこの掌打を『ペレグリンエンブレム』なる技名(な)で呼んでいた。
 閃いた軌跡(あと)に火花を撒き散らす掌打は、今まさにザムシードの懐を穿たんとしていた――

「ちィ……!」

 ――が、突然にアルフレッドの体勢が崩れ、俄かに直進の勢いが衰えてしまった。
 理由は単純にして明快だ。先んじて鞭≠フ如く繰り出していた左腕をザムシードが引き戻し、
アルフレッドの右側頭部に一撃を見舞ったのである。
 それは変形のフックだった。腕を折り曲げつつ肘を支点にバネを生み出し、
無理矢理に拳を当てたと言うべきかも知れない。
 横薙ぎに振り抜くのではなく、内側へ引っ張るような力の働きだ。
このような動作(うごき)では破壊力を生み出すこと自体が難しく、
こめかみ辺りを打たれたと言うのにアルフレッドには痛手らしい痛手がない。
衝撃とて脳にも達していないことだろう。
 重要なのは攻撃力ではない。掌打の拍子を狂わせることである。
実際に効果は覿面であり、あと一歩と言うところでアルフレッドはザムシードを捉え切れなかった。

「見えたぞッ!」

 その代わりにザムシードの足捌きも勢いが衰えた。僅かに後方へ退いたそのとき、著しく減速した――
これもまたアルフレッドの計算通りであった。
 すかさずザムシードを追い掛け、左足の関節を自身の右足裏で蹴り付けようと図る。
変則的な拳闘の要たる足捌きを潰し、その上で強撃に繋げるつもりなのだ。
 自分の足を壊そうとしているアルフレッドの蹴りを、ザムシードは正面切って迎え撃つ。
それも相手が得意とする蹴り技で、だ。
 相撲には『蹴手繰(けたぐ)り』と言う決まり手がある。
文字通り、相手の足を払って転がせるものだが、馬軍の伝統武術にも同様の技法が含まれているらしい。
 しかし、これを繰り出すのは馬軍の将――即ち、スカッド・フリーダムにも比肩する超人である。
ただの足払いなどではなく、アルフレッドの蹴りをも上回る加撃≠ニ成り得るのだ。
 下から掬い上げるような足払いはアルフレッドの蹴りを弾き飛ばし、逆に彼の体勢を崩すに至った。
 ここでザムシードは投げに転じ、残った側の足を取ろうと両腕を伸ばしていく。

(――そうだ。あんたはそう動く!)

 片足でも離れていると、組み付かれた側は圧倒的に不利になる。
踏ん張りを利かせられないので、まず間違いなく投げ倒されてしまうのだ。
 そのような相手を見て取れば、投げを得手とする人間は迷うことなく組み付いていくだろう。
目の前に在るのは、これ以上ない絶好の好機なのだ。
 この心理こそがアルフレッドの狙いであった。攻防の最中にホウライの力を体内に宿し、
これを蹴り上げられた側の右脚へと集中させていく。
 タイガーバズーカの秘伝たるホウライは、万能とも言えるほどの可能性を秘めている。
術者の創意によっては用途が無限に広がっていくのだ。
 鎧のように纏うのではなく直接的に肉体へ宿したなら、一時的ではあるものの、潜在能力を起爆させられる。
身体能力自体を大幅に強化出来ると言うことである。
 ホウライの恩恵を受けて敏捷性が跳ね上がったアルフレッドは、
目にも止まらぬ速さで右脚を引き戻し、ここを軸に据えて全身の筋力を振り絞る。
 この動作(うごき)によって生じた桁外れの破壊力は、
ザムシードの右脇腹へ密着させた――と言っても、微かな隙間がある――左拳に収束していった。
 『ワンインチクラック』である。全身で生み出した力を一点に集中して叩き込むと言う必殺の拳打であった。
 ホウライによって潜在能力が覚醒している為、アルフレッドの敏捷性は神速の域にまで達しており、
左脚を脅かすべくザムシードが両手を伸ばした――その姿を視認してから技に入っても、
実際に掴まれる前には必要な動作を完成させられるのだ。
 無論、このときにはザムシードも彼の尋常ならざる加速に気が付いている。
投げ技を以って仕留めるのは難しいと判断し、上体を前傾させたまま次なる攻め手へと移った。
 驚くべきことに、ザムシードもまたアルフレッドの右脇腹へと左拳を添えたのだ。
やはり、胴体と拳の間は一インチばかり開いている。
 アルフレッドは水平にした腕が鉤状となるような恰好で、ザムシードは直線的ながら肘を少し曲げる恰好で、
互いの右脇腹に左拳を宛がっていた。
 窮地に即応したザムシードの動作(うごき)は、まさしく超人そのものであり、
拳の先へと破壊力が伝達したのは両者とも同時に見えた。

「――何の真似だ!?」
「――物真似だよ」

 ここでアルフレッドの計算が初めて狂った――と言うよりも、
ワンインチクラックの撃ち合いになる状況など想定している筈がない。
 アルフレッドはそのことを悔恨した。フツノミタマからの伝聞と言う形ではあったものの、
ザムシードによるワンインチクラックの模倣は既に知っていた筈なのだ。
 それにも関わらず、当時の記憶が完全に抜け落ちていた。
攻防を左右し得る情報を想い出したのは、己自身の技で右脇腹を貫かれた直後である。
 しかも、だ。ザムシードの側は直撃を喰らう寸前に上体を引き上げ、
アルフレッドのワンインチクラックを外してしまった。
 それでいて、自身の技の拍子は決して崩さないのである。
そもそも、彼が身を起こしたのはアルフレッドを穿った後(のち)のことなのだ。
 ワンインチクラックの完成は同時ではなかった。互角どころか、ザムシードのほうが僅かに速かった。
 ホウライの効果は、左拳に破壊力が伝達し始めた段階で切れている。
刹那の領域に於いて、アルフレッドは競り負けたと言うことであろう。
 模倣であるとしても、地力の上回っているほうが勝つのは自明であった。

「おの……れ――」

 模擬戦とは思えないほどの深手を負ったのか、アルフレッドは後方に身を傾がせる。
骨身が軋み、衝撃は肺にまで達しただろうが、それでも彼の脚≠ヘ勝利を諦めてはいなかった。
 身を傾がせた状態から左脚の屈伸でもって垂直に跳ね飛び、これと同時に右脚を振り上げたのだ。
 弧を描くようにして風を裂いた右脚は、しかし、ザムシードを捉えることは叶わなかった。
 本来ならば、顎を撥ね上げて粉砕する技なのだが、ザムシードは僅かに退(すさ)るだけでこれを避け切った。
大きく跳ねなかったのは、蹴りを外して落下してきたところを反撃の拳打で墜とすつもりであるからだ。

「――舐めてくれるなよッ!」

 天井近くまで飛び上がった後(のち)、重力に引き付けられるアルフレッドだったが、
今まさに右拳を突き上げようとするザムシードの挙動(うごき)は、その双眸にて見極めている。
 鋭い吼え声と共に中空にて身を翻し、アッパーカットを左の足裏で踏みつけると、
これを軸にして回転力を付け、次いで彼の後頭部まで右足先を滑り込ませた。
 そこから更に腰を捻り込み、延髄目掛けて横薙ぎに蹴りを振り抜く。
不安定な中空にて姿勢を制御する為であろうか、
猛禽(とり)の羽撃(はばた)きの如く両手を大きく振り回していた。
 延髄を断ち切らんと迫る蹴りは、中空に於ける最後の一撃に違いない。
満足に痛手も与えられていないアルフレッドにとっては必中が大前提であった筈だが、
とうとうザムシードには追い付かなかった。
 合戦場にて磨き上げた直感が死角から迫る危険を報せたのだろう。
後方を振り向くこともなく駿足を発揮し、一瞬にしてアルフレッドの背後へと回り込んでしまったのだ。
 この間にはアルフレッドのベルトを両手で捕獲し、未だ中空にあった彼の身を一気に垂直落下させた。
 先に披露したものと比して、更に威力の高い投げ技である。
叩き付けられた場所が柔らかなクッションでなかったなら、これだけでも背骨が破壊された筈である。
 馬軍の伝統武術ならではの技を以ってアルフレッドを投げ落としたザムシードは、
先程と同様に大きく間合いを取ろうとする――

「――が……ッ!?」

 ――が、飛び退ろうとした刹那、彼の後頭部を何か≠ェ揺さ振った。
完全に意識の外からの攻撃であり、驚いた拍子に舌を噛みそうになってしまった。
 殴打にも似た衝撃であったが、それにしては軽い。
決して重い一撃ではなかったのに、どう言うわけか、頭部全体が痺れていく。
 執念深く獲物≠追いかけるアルフレッドのこと、無理な体勢から蹴りでも打ったのかと思いきや、
肝心の四肢は床の上に投げ出されており、とても反撃を繰り出したようには見えない。
 理解し難い事態に接し、肩越しに背後を確かめると、中空に蒼白い火の粉が舞っているではないか。
 やはり、全てアルフレッドの仕業――そのように悟ったときには何もかも手遅れだった。
 この時点でアルフレッドは身を引き起こしており、
真っ直ぐに伸ばした右の人差し指と中指でもってザムシードの頬を軽く突(つつ)いていた。
 模擬戦ではなく実戦だったなら、二本指で双眸を抉ったと示しているのだ。
それはつまり、降参するよう勧告したことにも等しい。
 一軍を率いる将として兵に規範を示すことを矜持としているザムシードは、
決して見苦しい振る舞いはしない。潔く敗北を認めると、観念したように両肩を竦めて見せた。
 どうやら、小細工≠ノ対する憤りはなさそうだ。寧ろ、実りの多い稽古となったことが嬉しいらしく、
痺れの引かない頭を左右に振りながらも笑みを浮かべている。
 ザムシードが身じろぎする度、余韻の如く宙に浮かんでいた蒼白い火花が風と共に踊るのだった。

「詰めが甘かったか。……いや、違うか。知恵比べが始まったら、私なんぞで敵うワケもない。
オノコロ原の合戦(とき)も出し抜かれたようなものだったしな」
「相手があんたで俺は幸福だったよ。これがビアルタとか言う喧しい男だったら、
性悪だの何だのと喚いただろうからな」
「彼に言わせれば、私の技も邪道だそうだよ。何度かスパーリングの相手をして貰ったが、
ほぼ一〇〇パーセントの確率でクソミソにこき下ろされる。
……あれでも悪気はないんだよ。あんまり気にしなくていいぞ」
「どうかな……」

 兎にも角にも乱れた呼吸を整えようと、アルフレッドはその場に座り込んだ。
立ったままでは深呼吸すら難しく思える程に疲れ切っていた。
 それだけ価値のある時間だったと言うことだ。およそ二〇分余りの模擬戦で魂が奮い立ち、
半月余りの実戦離れを一気に取り戻せたような心持ちである。
 胸板と言わず肩と言わず、全身の筋肉が緊張を表すように脈打っていた。
その上を汗の玉が滑り落ちていく。身の裡を燃やすような熱≠ェ、今のアルフレッドには心地良い。
 無論、反省すべき点も多い。舞踊の如き足捌きや変則的な拳闘に惑わされただけならいざ知らず、
得意技を完璧に模倣された挙げ句、これをほぼ同時に放って競り負けてしまったのだ。
 ワンインチクラックだけの問題(はなし)ではない。
最後に仕掛けた奇襲が成功したから勝ちを拾えたものの、まともに命中した技がどれ程あっただろうか。

「あいつは、……フツは、良くあんたに随いていったものだよ」

 それがアルフレッドの偽らざる感想(きもち)だった。運良く勝ちを拾えた安堵よりも、
嘗てザムシードを相手に互角の戦いを演じたフツノミタマへの思いが先行している。
 両者の死闘は壮絶を極めた。「生命の遣り取り」と言うものが如何なる境地であるか、
見る者全ての心に刻み込まれたことだろう。激烈なる攻防の痕跡(あと)は、
今なおザムシードの左頬に残っている。
 いざ決着と言う瞬間に無粋な邪魔が入り、勝敗の行方は有耶無耶となってしまったが、
最後まで戦い続けていたならば、どちらかひとりは物言わぬ骸と化したであろう。
今し方の模擬戦のような結末だけは絶対に迎えなかった筈である。
 だからこそ、アルフレッドは双眸を瞑ってフツノミタマに思いを馳せる。
 自分はザムシードに圧倒され続けていた。手加減されても殆ど随いていけなかった。
ホウライによる急加速などで意表を突き、ようやく攻撃の糸口を掴めたくらいである。
 互いに全力以上を引っ張り出したフツノミタマとは大違いと言うものだ。
 アルフレッドも過去にフツノミタマと立ち合ったことがある。
思えば、彼との間で起こった諍いこそが、長い旅路の出発点だったと言えよう。
 その頃のフツノミタマとは五分であった。
ある意味に於いて反則同然のグラウエンヘルツに頼ることもなく、地力のみで拮抗していたのである。
 今も変わらず肩を並べて歩いているものと思い込んでいたのだが、
何時の間にやら置き去りにされていたらしい。フツノミタマの後姿は遠い先に在った。
 実力伯仲で鎬を削っていた頃が遠い昔のことのように思えてくるから不思議だ。
今、フツノミタマと立ち合うような事態に陥ったなら、おそらくは勝負にすらなるまい。
 シェインへ剣術を教える中でフツノミタマ自身も様々なことを学び、
弟子に負けじと技に磨きを掛けたのであろう。
 仲間の飛躍を喜ばしく思う反面、置いて行かれたことが悔しくもあった。

(……今更、対抗心を燃やしたところで手遅れ≠ネんだろうが――)

 ふと心に湧き起こった別の思い≠ヘ、決して口にしてはならないものであり、
ザムシードに気取られない内に振り払っておいた。

「それでホウライを使ったのか?」
「――えっ?」

 ザムシードから『ホウライ』が――タイガーバズーカの秘伝が語られたことに対して、
アルフレッドは目を丸くして驚いた。

「ホウライを知っていたのか。何だか意外だな」
「ハンガイ・オルスでジウジツ使いと戦ったときも使っていたじゃないか。
それに、ビアルタ殿を吹き飛ばしたのもホウライの技だろう?」
「……ま、そんなところだ。それにしても、ホウライなんて何処で聞いたんだ? 
あんたらがタイガーバズーカと交流があったとは思えないぞ」
「寧ろ、『テムグ・テングリだから』と言うべきかも知れんよ。
……スカッド・フリーダムは仮想敵のひとつなのでね。手の内くらいは探っているさ」
「……間抜けな質問だったか」
「間抜けはお互い様だよ。佐志はスカッド・フリーダムとも同盟を結んだのだろう? 
あそこから脱(ぬ)けてきた連中とも親しかったと記憶しているが?」
「俺にホウライを授けてくれた師匠はタイガーバズーカの出身と言うだけで、
スカッド・フリーダムの隊員でも何でもないよ。
それに同盟と呼べるくらい佐志とあの組織は繋がりが深いわけでもないしな。
少なくとも、テムグ・テングリ群狼領に迷惑を掛けるようなことにはならない」
「おいおい、冗談を真に受けんでくれ。我々だってスカッド・フリーダムとは上手く付き合いたいと
思っているところなんだからな。……お互いに大人≠ノなり切れていないがね」

 テムグ・テングリ群狼領とスカッド・フリーダムの連携が捗々しくないことは別の話として――
最後の攻防に於いて、ザムシードの後頭部を揺さ振ったものは、
やはりタイガーバズーカの秘伝たるホウライであった。
 中空から延髄を攻めようと図った折のことである。
蒼白いエネルギーを凝縮して光球を作り出していたアルフレッドは、
ザムシードに気取られないよう蹴りを放つと同時にこれを天井近くまで放り上げ、
一定の時間差を経て落下するよう仕組んでおいたのである。
 如何にホウライと雖も、遠隔操作までは不可能なのだが、身体の何処かに当たりさえすれば、
ザムシードの足捌きを乱せると考えたのだった。
 子ども騙しの小細工にしか過ぎないものの、結果的に勝利へ繋がったのだから、
効果覿面と評しても差し支えあるまい。

「……どうして俺を気に掛けるんだ、フランカー。付き合いたいなんて思ってもいない相手を……」

 不意に会話が途切れた――その瞬間を見計らって、
アルフレッドは先刻より不思議に思っていたことをぶつけた。
 ザムシードが気を遣ってくれていることは、アルフレッド自身が一番分かっている。
周囲の仲間からは「朴念仁」などと謗られることも多いのだが、
己に向けられる気遣いにまで気付かないほど鈍感ではない。
 ホテルのラウンジに面する喫茶コーナーにて話していた折のことだ。
決死隊を襲った災難(アクシデント)について聞かされたとき、
ザムシードは深紅の瞳を覗き込んできたのである。
 憐れみの念を抱くとすれば、そのときしかあるまい。半ば強引に模擬戦へ引っ張り込んだのも、
悲嘆の直後で気が塞いでいると想像したからに違いなかった。
 要は気持ちを入れ替えろと言うことだ。気慰みと言っても良い。
 それともうひとつ、この模擬戦を通してザムシードが示したかったことも分かった。
心が動転し、思考がまとまらないときこそ、ひとつの物事に集中すべきなのだ――と。
 模擬戦の序盤、舞踊の如きに足捌きによって混乱させられていたアルフレッドも、
戦意の高まりにつれて精神統一が完成し、格上の相手をも出し抜く奇策が編み出せたのである。
 これはアルフレッドが置かれた現在の境遇にも置き換えることが出来る。
『在野の軍師』として連合軍に復帰するつもりであれば、
ギルガメシュの討滅に全ての意識を振り切るしかないのだ。
 例えそれが身内であったとしても、たかが少人数の殉職――あるいはその可能性――になど
感(かま)けてはいられない。連合軍全体の命運を左右する作戦の重大(おおき)さと比べれば、
瑣末な事柄に過ぎないのである。
 アルフレッドとしては、決死隊の消失は戦争の中のひとつの状況≠ニして既に割り切っている。
本人は心の整理を付けたつもりなので、妙に憐れみを掛けられると逆に困ってしまうのだ。
 しかも、だ。アルフレッドに本当の意味での復帰を促すとしても、それはザムシードとは無関係であろう。
何事か働きかけるのならば、その役割は佐志の仲間が担うべきであった。
 スカッド・フリーダムを指して「仮想敵」とザムシードは語っていたが、
その呼称はアルフレッドにも当て嵌まるのである。
エルンストが認めている以上は馬軍の総意とは成り得ないのだが、
彼個人は『在野の軍師』に敵愾心を持っていなくてはおかしかった。
 自分は憎悪を向けられるべき人間――その思いが拭え切れないからこそ、
アルフレッドはザムシードの真意を測り兼ねている。

「そうだな――強いて言えば、自分を見ているような気持ちになったからだな」

 ザムシードの返答は予想していたものとは全く異なっていた。それどころか、まるで意味が分からない。
喪失の痛み≠共有し得る間柄とでも言いたいのだろうか。
 確かにザムシードも大いなる喪失を味わっていた。それこそ、人生そのものが狂うほどの喪失を、だ。
 テムグ・テングリ群狼領の先代――タバートから数えれば先々代となる――が没した後、
ザムシードはエルンストではなく彼の弟こそが後継者の器に相応しいと主張し、
これに端を発して馬軍最大の内紛へと突入したのである。
 アルフレッドも間接的に関わった馬軍の内紛は、最終的にエルンスト側の完全勝利に終わり、
叛乱の罪を許されたザムシードは、その代償として自らが担いだ大将と、彼を見込んだ己の志を失ってしまった。
 『御屋形様』の温情を以って叛将の汚名が雪がれた瞬間、ある意味に於いて彼の人生は終わったのかも知れない。
それは紛れもない喪失≠ネのだ。
 規模や性質の違いこそあれども、人生を賭して守るべき存在の喪失≠ニ言う一点に於いては、
アルフレッドとザムシードは似ていると言えなくもなかった。
 それ故、「自分を見ているような気持ちになった」とザムシードが語ったのであれば、
アルフレッドにとっては堪らなく苦々しい。傷の舐め合いと言う最も情けない真似をするくらいなら、
「視界に入るのも不愉快だから活を入れてやった」と、手酷く詰られたほうがまだ救いがあった。

(……全く冗談じゃない。それとも、皮肉のつもりか?)

 複雑に歪むアルフレッドの心を察したのか、「お前は世の中を難しく考え過ぎている」と、
ザムシードは苦笑いを零した。

「同志の様子がおかしかったら気にするのが普通じゃないか? お前だって同じことをした筈だ」
「同志と言っても、個人的な好き嫌いはあるだろう。いけ好かない相手にまで声を掛ける理由はない」
「そうとも。だから、スパーリングに誘ったんじゃないか。身体が鈍ったときは思い切り汗を?くのが一番だ」
「……お人好しなんだな、あんた」
「そうでなければ、謀反など起こさんよ」

 それきりザムシードは何も言わなかった。予め用意しておいたタオルをアルフレッドに渡し、
黙々と自身の汗を拭うばかりであった。

(……自分を見ているような気持ち……)

 ザムシードに倣って汗を拭きながら、アルフレッドは今し方の言葉を心中にて反芻した。
 彼(か)の男が何を伝えたかったのか、完全に咀嚼出来たわけではない。
それでも、当て擦りの類でないことだけは解った。
 そして、自分がザムシードから憎まれてはいないと言うことも――。

「フラン――」

 ザムシードの背に改めて真意を訊ねようとするアルフレッドだったが、
その声は言葉として紡がれる前に喉の奥へと飲み下すことになった。
 窓の外――それも地上数十メートルの高さに在る窓である――に
マイクから差し向けられた使者を見つけ、待機時間の終わりを悟ったからだ。

「――フランカー、どうやら暇潰しはここまでのようだぞ」
「……ん?」

 如何にも面倒臭そうな表情(かお)で近付いてきたのは、
マイクの長年の相棒であり、エンディニオンでも稀有な存在である妖精――ティンクである。




←BACK     NEXT→
本編トップへ戻る