8.City of Canals ブリーフィングが終わり、カレドヴールフの退室を以って解散となった後、 『アネクメーネの若枝』乃至は『四剣八旗』と呼ばれる幹部たちは、 ブクブ・カキシュ内に設けられた自室へと戻っていった。 室内に留まり、何事かグラムと話し合っているボルシュグラーブにも目を向けず、 早々にシチュエーションルームを辞したゼラールは、その足でドク≠フ部屋に赴いた。 ドク≠ニは愛称であり、本名はゼドー・マキャリスター。 ギルガメシュが実行の機会を計っている難民支援計画、『ディアスポラ・プログラム』の立案者である。 その男もブクブ・カキシュ内に部屋を与えられているのだが、 所在するフロアはゼラールらギルガメシュの将校の居住区から遠く離れていた。 同じフロアではサミット襲撃時に拘束された人質たちも暮している――と言うか、 彼もまた捕虜のひとりなのだ。 ゼドー・マキャリスター。その男は冒険王ことマイク・ワイアットのもとで外交官と言う要職を務めていた。 他の類例に漏れず、彼もサミットを襲撃された際に捕らえられ、以来、自由のない日々を送っている。 つまり、彼の部屋は捕虜収容施設と言うことになる。個室こそ宛がわれているものの、 自由な出入りは固く禁じられており、脱走を防ぐ為の堅牢な扉によって外界から隔絶されていた。 扉外にも回廊にも、レーザーライフルで武装した兵士が張り付いており、 ブクブ・カキシュ内部でも特に厳重な警戒態勢と言われている。 シチュエーションルームと言った軍事行動の要所にも匹敵する水準であった。 ともすれば、独房同然の閉所に押し込められているのだろうと思いきや、 人質たちに割り当てられた部屋は、それぞれが個室とは思えない程に広く、 一流ホテルのスイートルーム並みに設備も整っていた。 電子メールなど外部と連絡を取り合う手段こそ規制されているものの、 閲覧のみであればネットサーフィンも自由である。 食事の質も悪くはなく、置かれた境遇にさえ目を瞑れば快適な暮らしと言えなくもない。 こうした環境を自嘲し、誰とはなしに「貴賓室」などと呼ぶようになっていた。 「自嘲」であるのだから、当然ながら人質たちがこう呼んでいるわけだ。 尤も、『〇・〇・四・二』と番号が振られた部屋の主は、快適な環境にも良質な食事にも無関心だ。 羽毛布団が掛けられたベッドには書物を放り投げ、テーブルにも書類の束を乱雑に積み重ねる始末。 机上には三台のパソコンとプリンターが置かれているが、いずれも電源を入れたままにされている。 清潔な色合いであった白い壁にも書類が貼り付けてある。 固定する手段も統一されてはおらず、ガムテープやピンなどが適宜――寧ろ、適当に――使われていた。 壁に貼り付けられた紙には、棒グラフやレーダー図など何らかのデータを解析した成果が 多く記載されているようだ。 目を引く見出しは「今後三年内に予想される難民の推移」とされており、 そこから書類の委細が察せられると言うものである。 「どうせ会議は副指令抜きだったのだろう? 今度は自分のところの副指令を始末する腹積もりか? ……ほとほと同族殺しが好きなようだな、ギルガメシュは。現状を理解していない証拠だ!」 部屋の主――ゼドー・マキャリスターは、入室してきたゼラールたち三人を順繰りに睨めつけると、 挨拶も何もなく、いきなり悪態を吐き捨てた。 気難しい空気を纏わせるこの男は、客人を恭しく迎える言葉など最初から持ち合わせていないのだろう。 初めて対面したとき、これでよくぞ外交官など務まるものだと、トルーポは呆れ返ったのである。 ゼラールに追従して幾度となくこの部屋を訪問しているのだが、 その都度、ゼドーの立ち居振る舞いは人間界の常識を食み出したものと思い知らされる。 普通は交流を深めるにつれて態度は軟化していくものだが、ゼドーの場合はその真逆だ。 顔を合わせる度、浴びせられる言葉の棘が大きく、鋭くなっていく気がするのだった。 これは錯覚などではなかろう。滅多なことでは腹を立てないトルーポでさえ、 痛罵に堪え兼ねて怒鳴り返そうと思った瞬間は数え切れなかった。 『閣下』に恥を掻かせるわけには行かないと言う矜持がなかったなら、 今頃は取っ組み合いになっていた筈である。 ゼラール当人はゼドーが吐き出す毒気をも心地良いと感じており、面罵される度に愉しげに笑っている。 ゼドー発案による『ディアスポラ・プログラム』へ強い関心を持っているゼラールは、 幾度も幾度もこの部屋を訪れ、難民救済について必要な資料や情報を逐次提供するよう「命じていた」。 「求める」のではなく、「命じた」のである。 人に物を頼む態度とは思えない傲慢な振る舞いであったが、これが却ってゼドーの興味を引いたようで、 無礼と言って追い返すこともなく、『ディアスポラ・プログラム』の要点について語らうようになっていった。 ムラマサもゼドーとは面識がある――と言うよりも、この部屋にゼラールが足繁く通っていると聞き付け、 素行調査の一環として訪問したことがあったのだ。 「足並みも満足に揃えられないような組織に難民を――人を救うことなど出来るものかよ! 全軍一致で取り組むのが絶対条件だと言うのに、どうしてそれが分からん!」 「のっけからガンギレされても……何か気に障ることでもあったんですかい?」 「うろちょろするな、デカブツ! 今はお前が宇宙一の目障りだッ!」 「俺に当たらんで下さいよ」 普段から憎まれ口を叩いてばかりいるゼドーだが、今日はいつも以上に機嫌が悪く、 波打つアッシュブロンドの髪を怒りに任せて掻き毟っていた。 指先に付着した赤黒い斑模様から推察するに、どうやら頭皮まで傷付けているようだ。 ゼラールに命じられたトルーポが先刻まで開かれていたブリーフィングの委細を説明すると、 ゼドーの憤激は頂点に達し、「降りるッ! もう本当に降りてやるッ!」と吼え声を上げた。 「難民支援もッ! 安定的な統治もッ! 何もかも借り物ばかりだッ! それを愧じてもいないのか、ギルガメシュめがッ!」 ゼラールの眼前に右の人差し指を突き出したゼドーは、 「貴様に言っても始まらないかッ! おのれッ!」と独りで勝手に結論を出し、 一頻り地団駄を踏んだ後(のち)、大股で冷蔵庫に向かっていった。 気侭な振る舞いが過ぎると言うか、何と言うべきか。 呆気に取られるトルーポの肩を叩き、ゼラールは愉しげに笑った。 勿論、冷蔵庫から戻ってきたゼドーはにこりともしていない。 不貞腐れたような圧(へ)し口を晒しながら、何本ものビール瓶を抱えている。 「一杯空けんとやっていられん。今日は不愉快に不愉快を百乗したような日だ。お前たちも付き合え」 苛立ちでもぶつけるように荒っぽく栓を開けたゼドーは、各人にビール瓶を配っていく。 瓶にはAのエンディニオンに所在するメーカーのラベルが貼られていた。 男四人と言うこともあり、タンブラーに移すと言う上品な呑み方ではない。 直接、瓶に口を付けて呷ろうと言うわけだ。 ゼドーと差し向かいでソファに腰掛けたゼラールは、一口呑んだだけで「不味い酒よ」とこき下ろした。 立ったままで相対しているトルーポとムラマサは、無意識の内に互いの瓶を軽く合わせたが、 口を付ける前に不味い酒との評を聞いてしまい、苦笑を浮かべるしかなかった。 「三流の組織が所有している酒はやはり三流であるな。余の愛する葡萄酒に比ぶれば汚水のような物よ。 このようなものでも、エンディニオンの頂点に立った連中は価値ある美酒として味わうのであろうな」 「値打ちなど分かるものか。いや、分かっていながら自分を誤魔化して、慰めているのだろうよ。 何しろ、粗悪なメッキを純銀≠ニ偽って売り出そうとしている連中だからな。 バカさ加減を飲み下すには、この程度の安酒が打ってつけだ」 罵詈雑言に関しては、ゼドーもゼラールには負けてはいない。 ギルガメシュの現状を詐欺商法に喩えながら、「超一流≠ノ栄えあれ!」と、 皮肉たっぷりにビール瓶を呷った。 四人の掌中に在るビールは、ギルガメシュに協力的なメーカーから大量に買い付けたものであるそうだ。 罵りの間へ差し込むようにして、ムラマサがさりげなく解説した。 「その割にはジィさん、渋い顔して呑んでるじゃねーか」 「酔えれば何でも構わんと言う年齢でもないのでな。寿命がある内は好きなものを呑みたいってわけだ。 トシを喰うと偏屈になると言われる所以かも知れんが」 「気持ちは分からないでもねーけどよ」 先程のこともあって、トルーポはムラマサ相手に少しばかり気後れしている。 この老将の才覚を『閣下』は高く評価しており、半ば自らの軍師のように扱い始めているのだが、 一方のトルーポはムラマサの存在こそが軍団崩壊の引き金になるのではないかと危ぶんでいる。 新参者にも関わらず『閣下』から重用されることにピナフォアたちは反発を強めているが、 一時の感情の昂ぶりなどは問題に数えるまでもない。 ゼラール軍団が最も警戒すべきなのは、皮肉なことに『閣下』が認めたムラマサの才覚である。 イエローオーカーの隻眼は、反ギルガメシュ連合軍の要たる大謀略まで読み切っているのだ。 そればかりか、作戦そのものを封殺しようと謀っているのかも知れなかった。 一秒たりとも油断がならず、底の知れない相手と判った以上、 接し方ひとつを取っても一層慎重に練らざるを得なかった。 当のムラマサは、トルーポなど歯牙にも掛けないつもりなのか、正面のゼドーを凝視し続けている。 早々に一本目の瓶を飲み干し、次の栓を開けたばかりのドク≠ノ、だ。 「悪酔いには気を付けねばならないぞ。安く買い叩いたものだけに質も知れている。 水っぽいからと言ってミネラルウォーターのような感覚で呷っていると直ぐに回って≠ュるぞ」 「これが酔わずにおられるか。阿呆になっておる間に笑い飛ばすしかないわ」 ムラマサが発した諌めの言葉に答えたのは、どう言う了見か、ゼドーではなくゼラールであった。 改めて詳らかとするまでもなく、浴びるような呑み方を戒めたかったのはドク≠フほうである。 見れば、ゼラールが握るビール瓶も直ぐに空になりそうだった。 これが葡萄酒であったなら、先ずは芳醇な香りを楽しみ、舌で転がすようにじっくりと味わっていたであろう。 「……閣下もご用心を。安酒と真水は口にしないに越したことはないんですからね。 大体、閣下の口には合わんでしょう、コレ」 「フェハハハハハハ――出過ぎた真似ぞ、トルーポ。これしきで乱れはせぬ。 ……ギルガメシュの程度≠ノ見合った酒ぞ? この機会に味わっておかねば次などあるまい。 そう遠からぬ将来(さき)、余りし瓶は炎に包まれ蒸発するからのォ」 今度はトルーポが渋い表情を浮かべる番であった。ゼラールにしては珍しい呑み方なのだ。 過保護は承知しているが、安酒と言う物に不慣れな『閣下』が大量に摂取しては、 身体に障るのではないかと案じてしまうのである。 「唯一世界宣誓ギルガメシュ――余が想像していた以上に程度が低く、最早、失笑すら出て来ぬわ。 ご大層な大義が聞いて呆れる。全くバカ共の寄せ集め、両生生物の死骸をかき集めた価値もない。 あのような者らでは難民救済など叶う筈もあるまい。ゼドー・マキャリスターの申す通りぞ。 今し方の軍議、唯一世界宣誓から同族殺しへ称を変えることを論じるべきであったわ」 所属組織への冒涜とも取れる言葉を平然と吐き散らすゼラールに、ゼドーは腹を抱えて笑い出した。 危惧の通りに悪酔いしたものと見て取ったムラマサは、 流石に眉を顰めて「その辺りにしておくのがよろしかろう」とゼラールたちを窘める。 だが、そのような言葉を聞き入れるふたりである筈もない。 「下らないモノを下らないと言って何か問題があると言うんだ? ある筈があるまい!」 ゼドーに至っては、抑えられそうになったことで余計に熱が入ったらしく、 茶色の瓶を垂直に立て、胃の腑まで直接流し込むようにしてビールを飲み干した。 最早、潤すべき喉は液体の通過点でしかない。 「そうじゃ、下らぬ! 言うに事欠いて『幕府』と来たものじゃ! この無理矢理な権威付け、自分たちに統治能力がないと方々に知らしめておるようなものよ! 己が力を頼みとしておるならば、斯様な愚策など採ろうと思うこともあるまい! 特別副官とか言う小僧のほうが、まだ真理が見えておるわ!」 背筋が凍り付くようなムラマサの鬼謀――それが史上最大の作戦を脅かすものとしても――に接し、 その場では喜色を見せたゼラールだが、やはり組織に対する苛立ちが晴らされたわけではなかったらしい。 酔った勢いもあるのだろうが、溜まりに溜まった鬱憤をゼドーから引き出されたようにも見えた。 先刻のブリーフィングとてゼラールには腹に据え兼ねる内容であり、 酒気混じりの吐息を炎に換えて噴き出すや否や、ギルガメシュの在り方を無為無策などと罵った。 「……ダインスレフ様……」 このままでは胸の内に留め置くべき事柄まで漏らしてしまうと案じたムラマサは、 それとなく深酒を咎めるのであった――が、一度、開けた口を他者に戒められて閉じるような真似など ゼラールに出来る筈もなく、寧ろ、より一層饒舌になっていく。 「そちが言いたいことは分かっておる。されど、ギルガメシュが二流三流の組織であることは確かであろう? いや、そちには分かっておる筈じゃ。そちだけはな」 「買い被りが過ぎますな。この老いぼれ、勘の働きは鈍る一方ですぞ」 「抜け抜けと申すものよ。軍議の折に見せた面白き顔は芝居ではあるまい」 「あれは……旧知の仲でしか通じない言葉遊びのようなもので」 「その旧知とやらは、揃いも揃って間抜けばかりぞ。敵軍から異分子を加えたのは良いが、 新参者ひとりに対してまで丁寧に見張りを付けるという小心ぶり。 同志たる人間をも信用せず、たったひとりの異分子を恐れるがは、 組織として、またこれを治める者が如何に脆く弱いか、自ら言い触らすにも等しい」 ゼラールが語った見張り≠ニは明らかにムラマサのことを指しているのだが、 当の老将は敢えて強くは反応しなかった。 今となっては、反応を返す必要も感じられないのだ。 ムラマサが監視の役目を帯びてゼラールのもとに送り込まれたことは公然の秘密と言っても過言ではない。 その上で隻眼の老将は軍団の名声を高め得る計略を練り上げているわけだ。 ゼラールもムラマサも、この歪としか例えようのない関係性を互いに飲み込み、楽しんでさえいる。 ムラマサの手によって軍団が掻き乱され、ギルガメシュの駒として利用されないかと警戒するトルーポは、 当然ながら心穏やかではいられないのだが、『閣下』がこれを認めている以上は従うしかなかった。 「見張り、ねぇ。敵を作ることにしか興味の働かんギルガメシュのことだ、 どこで誰が聞き耳を立てているか分からんな。報告したいのならするが良い――と、 それくらいの心意気がなければ、こんな処でやっていけんよ」 「フェハハハ――流石は世界一ふてぶてしい捕虜、よう分かっておるわ。 そちの申す通りよ。如何なることになろうとも、余が屈する筈はない」 ゼラールと笑い合いながらも、ゼドーは皮肉を込めた眼差しでムラマサの面を舐(ねぶ)っている。 無論、ムラマサは薄く笑うばかりで、反論ひとつ返そうとはしなかった。 「……マイクのバカにそっくりだな」 「ぬ? 何ぞ言うたか?」 「いや、……古い仲間を想い出しただけだ、気にするな」 隻眼の老将軍から正面に座したゼラールへと目を転じたゼドーは、 自分の半分も生きていないだろう青年に対して、畏敬の念を抱きつつあった。 何よりも面白いと感じたのは、ゼラールの態度である。 今し方の口振りや、ムラマサの反応から察するに、ゼラールは己に付けられた監視役を見極めている。 身近に監視役が在ることを把握しながらも、決して臆することなく正々堂々と自らの大望を語り続けている。 あるいは、ムラマサを通じてギルガメシュ上層部を糾弾したかったのかも知れない。 仮にムラマサが監視役としての――否、間諜(スパイ)としての職務を全うしたならば、 組織を冒涜し続けてきたゼラールはどうなるのか。 待ち受ける処断を知っていてさえも悪びれることなく己≠ニ言うものを曲げないゼラールの行動、 胆力の強さや度量の大きさとでも表現出来る資質に、ゼドーは年齢の差を忘れて感じ入っていた。 このような思いを抱いたのは、過去には『冒険王』ただひとりであったと、 ゼドーは心中にて振り返っている。 ゼラールは自らの大望を語る際に遠慮と言うものがない。その代わりに心の底から笑うのだ。 これを妄想だとして笑い飛ばすのは簡単であるのだが、同じような男を誰よりも良く知っているゼドーには、 そうすることなど出来はしなかった。 「――で? 破滅寸前のギルガメシュにのこのこやって来たお前はこれからどうする?」 「言わねば分からぬか?」 「野心の話じゃない。当面のことだ。わざわざ此処を訪ねて来たからには、 何か計画(かんがえ)があるのだろう? 今日は気分が良いから手を貸してやらんでもないぞ」 「『緬』、『プール』なる無法者の集まりを聞いたことがあるか? 余はこれを討伐せん」 「何だ、そんなことか! くだらん!」 「性質(たち)の悪い害虫は早々に始末を付けねば、直に難民が餌食とされよう。 卑劣なる奴輩は力弱き者を真っ先に喰らうのが習性(ならい)ぞ。 ……生かすに値せぬ愚者の群れが狙いそうな難民の居住地に目星を付けよ。 斯様なことは上層部(うえ)の連中では考えも及ぶまい」 「それは当然だな。ヤツらには考えるアタマもない。だから、借り物に頼らざるを得ん」 「フェハハハハハハ――酒が不味くなるのも道理よな!」 ゼドーと互いのビール瓶を合わせたゼラールは、今日一番と言っても良いほど大きく笑った。 * ボルシュグラーブの別荘を出発したアルフレッドたちは、三日の船旅を経て目的地に到着した。 冒険王の拠点たるビッグハウスに、だ。 武装漁船『星勢号』を駆る源八郎の人生に於いて、嘗てないほど憂鬱な船旅であった。 息子の源少七を伴っていれば良かったと心底から悔やんだものである。 出発直後に言い争いとなったアルフレッドとマリスは、船旅の間に会話らしい会話もせず、 源八郎は板挟みの情況に在ったわけだ。それとなく和解を促してみても、歩み寄る気配すら見られない。 普段から場の空気も読まずにアルフレッドへ擦り寄っていたマリスが、これを拒絶したのだ。 ふたりの間に垂れ込めた沈黙が如何に深刻なものか、その度合いが察せられると言うものである。 苦痛以外の何物でもない船旅が三日間も続き、すっかり気が滅入っていただけに、 源八郎には辿り着いたビッグハウスが楽園のように感じられた。 無論、比喩などではなくビッグハウスを心から楽園と絶賛する者も多い。 町中を縦横無尽に大きな水路が走っており、汲み上げた海水でもってこれを満たしていた。 住民も旅客も、手漕ぎの渡し舟に乗り込んで水路を移動するのだが、 潮の香りを引き連れながら魚と共に町並みを進むと言う体験は、 他所では決して味わうことが出来ないものであろう。 水路を満たす海水も清く透き通っており、舟の後方に立った船頭が如何にして櫂を操るのか、 達人級の技術を満喫できるわけだ。 渡し舟の前方に施された鋼鉄の装飾によって、 後方に立つ船頭と重量の釣り合いを図っているのだが、これは余談である。 またひとつ余談ながら、ビッグハウスの建物は玄関も水路に面しており、 乗り降りに際しては渡し舟を直接横付けしていた。 当然ながら物売りたちも手漕ぎの舟を用いているのだが、住民から声を掛けられると、 彼らは壁際まで漕ぎ寄せていき、窓から商品と支払いをやり取りするわけだ。 旅客を乗せた渡し舟に近付いて名産品を宣伝する商売上手も多い。 波に揺られる間に財布の紐も緩むと言う算段である。 この地に工房が置かれたソーダガラスの工芸品は、神業とも謳われる精巧な装飾で知られており、 水面の照り返しによって輝く細工を目にすれば、どれほど吝嗇な人間でも心奪われてしまうのだった。 水路の存在が住民の暮らしと密接に関わる町並みから、『水の都』なる愛称で呼ばれることもある。 先に述べた生活形態が由来であることは疑う理由もあるまい。 水量によっては歩道や建物が水浸しになってしまうのだが、 それすらも住民たちはカトゥロワ――水の力を司る神人だ――の悪戯として楽しんでいた。 港湾施設のスタッフに武装漁船を預け、屋根付きの小型船渠へ収容されるのを見届けた三人は、 手漕ぎの渡し舟に乗り込んで冒険王のもとへと向かう。 少し離れた場所で振り返ると、港湾施設の規模に改めて驚かされた。 ビッグハウスを訪れる船舶は、船体の大小に関わらず全て船渠へ入ることが義務付けられている。 海洋貿易で栄えた場所と言うこともあって一日に往来する船舶は数え切れず、 入出港に際して衝突事故などが発生し易い。港湾内の航行を管理及び整理する為の措置として、 速やかに船渠へと収容させている次第であった。 言わば、近海(うみ)の交通整理を実現したわけだ。 それ故、港湾施設も類を見ない程の規模である。海運の要衝たる佐志の港もかなり大きい筈だが、 ビッグハウスと比較すれば米粒のようなものだった。 最も驚くべき事実は、「極大」と言う表現が相応しい規模にも関わらず、 ビッグハウスが「海に面した陸地」と言う地形ではない点だ。 町全体が『超大型浮体式構造物(メガフロート)』なのだ。超大型の浮島とも言うべきものである。 地上の景観は、例えばルナゲイトなどの都市と変わらないのだが、 超大型の浮島と言う性質の為、絶えず海上を移動し続けているのだった。 波間を移ろい続けると言う点に於いては、 海洋上に固定される一般的な『超大型浮体式構造物(メガフロート)』とは異なっている。 基本的には一定の海域(はんい)を浮いているが、差し迫った事態には艦艇の如く航走することが可能であり、 更には町全体を覆う程のバリアまで展開させられる。 冒険王の拠点たるビッグハウスとは、町そのものが『レリクス(聖遺物)』に類される伝説の秘宝なのだ。 「如何にもシェインが好きそうな町だな」 大鐘楼を備えた円蓋(ドーム)式の建物や、これに隣接する広場にて聳え立つ尖塔状の鐘楼、 港湾に程近い貿易センターなど、水路を渡る間に町の象徴とも言うべき場所を幾つも通り過ぎた。 おそらくはシェインが一番見たかったであろう風景を、だ。 シェインに代わってビッグハウスの町並みを経巡ることは、奇妙な廻り合わせと言えなくもないが、 今となっては弟分の存在すらアルフレッドには遠く感じられた。 世界で一番憧れる男が治める町なのに、最早、シェインは目にすることが出来ないかも知れない。 その風景の中に兄貴分の自分が在る――ともすれば、感傷の情に飲み込まれてもおかしくはない筈だ。 それなのに、アルフレッドは涙の一粒も零さない。 笑顔の咲き乱れる歩道から水面へと落とされた瞳はどこまでも虚ろで、 情と言う概念(もの)が枯れ果ててしまったかのようにも見える。 隣に座したマリスは間違いなく彼の変調を察している筈なのだが、それを気遣うこともない。 アルフレッドとは反対の方角へと顔を向けている。 最愛の恋人≠ゥら目を逸らし続けている。その瞳もまた虚ろだ。 源八郎は船頭の技術を興味深そうに観察していたが、これも苦痛な沈黙を凌ぐ為の逃避に過ぎなかった。 星勢号へ乗船していたときと全く同じ空気を醸し出し、船頭にまで居た堪れない気持ちを強いること一時間―― ようやく三人は冒険王の屋敷に辿り着いた。 会話のひとつもない不穏な旅客を請け負ってしまった船頭は、 ビッグハウスへ到着した瞬間の源八郎にも匹敵する解放感を味わったかも知れないが、 その心地も程なくして打ち砕かれることになる。一〇五分もしない内に三人揃って屋敷から引き返してきたのだ。 同じ渡し舟が留まっていれば、ごく自然の流れでそちらに乗り込むと言うものである。 船頭が心中にて悲鳴を上げたのは想像に難くなかった。 「キナ臭ェことになってきやしたね、アルの旦那」 「ああ、……お前も気付いたか?」 「港も町も特に慌てた様子じゃなかったのに、お屋敷の人らはキリキリ舞いってな感じでしたからね。 大っぴらに出来ねぇような事件でも起きたんじゃないかと」 「そうだ、シェリフ任せにもしておけない何か≠ェな。……」 アルフレッドと源八郎の間では、ようやく会話らしい会話が発生したが、その内容も穏やかとは言い難い。 『冒険王』の名声や功績とは裏腹に驚くほど質素な普請の屋敷を訪ねた三人は、 応対に顕れたマイクの部下から宿所で待機して欲しいと言われてしまったのだ。 決して邪険に扱われたわけではないが、状況としては門前払いに近い――と言うよりも、 屋敷の中へ招き入れて持て成すだけの余裕がなかったようなのだ。 マイクの部下の説明によると、つい半日ほど前にビッグハウスを揺るがし兼ねない事態が発生し、 現在、この対処に全力を傾けていると言うのだ。 来客は誰であっても手厚く持て成すマイクであるが、午前中から全ての面会を差し止めており、 事態が落ち着くまで猶予が欲しいとのことである。 あのマイク≠ェ顔も見せないのだ。ビッグハウスにとって極めて逼迫した状況と言うことが窺えよう。 マイクの部下が言う宿所では、アルフレッドたちの少し前に到着した先客も待機しているそうだ。 何しろ不測の事態である。暫時の待機を頼んだ相手の滞在費用は、全てマイクの側で支払うと言う。 差し迫った状況はアルフレッドとて同じだが、さりとてビッグハウスの事情へ割り込むわけにも行かず、 自分たちの訪問を必ず伝言して欲しいと頼み、指定された宿所に足を向けた次第である。 (……待つのは面白くないな) 事前連絡を入れていなかったとは雖も、あのマイク≠ゥら面会を断られるとは誰も想像だにしていなかった。 源八郎が言うように、外部(そと)には漏らせないような事件が起こったと見て間違いなかろう。 指定された宿所は、所謂、リゾートホテルである。 それも「三ツ星」と言う格付けが冠のように付けられる場所であった。 マイクの部下の手配によって客室も三人分が用意されていたが、 まだ陽の高い時間と言うこともあって部屋へ入る気にもなれず、 チェックインだけを済ませると、アルフレッドは独りでラウンジに向かった。 フロントに尋ねたところ、ラウンジには世界各地から取り寄せた新聞が置いてあると言う。 ここ数日、新聞が読める環境に居なかったので、直近の情勢に関しては無知にも等しい。 マイクと面会する前に少しでも世界の現状を頭に入れておきたいのだ。 ラウンジは喫茶コーナーと面した空間に設けられており、 十数種もの新聞が掛けられた什器や大画面のテレビの他、 エナメル絵付けの施されたガラステーブルやソファも置かれている。 新聞を手に取ろうとしたところでテレビの内容に惹き付けられたアルフレッドは、 その場に留まって両腕を組み、横長の画面を見据えた。 ルナゲイトのテレビ局は依然としてギルガメシュの支配下にあり、 プロパガンダ目的以外の放送は中断されたままである。 独自に番組を提供するローカル局も少なくはないのだが、 いずれもギルガメシュを刺激しないような毒にも薬にもならない内容であり、 チャンネルを合わせる度に辟易してしまうのだ。 同様の感想はアルフレッド以外の大多数が共有しており、 Bのエンディニオンに於ける一般家庭のテレビがビデオ再生専用の機械と化して久しかった。 ラウンジのテレビで流されている映像も、当然の如くビデオである。 どうやら格闘技の興行(イベント)のようだが、参加選手もさることながら、 試合の形式すらアルフレッドには見覚えがない。金網で囲まれた八角形のリングが使われていることから、 プロレスとは違うことが辛うじて見分けられたくらいだ。 画面内にて繰り広げられているのは、女性選手同士の対決である。 片方はタンクトップにショートパンツと言う出で立ちのブロンド、 これと対するのはアイドル歌手のような装いに身を包んだシルバーグレー。 何から何まで対照的な組み合わせであった。 豊満の二字が地上の誰よりも似つかわしいような肉体を誇るブロンドに対し、 シルバーグレイの選手は衣装こそ華美であるが、各所の出っ張り具合は非常に慎ましい。 肢体の輪郭はともかくとして、双方ともに絶世の美女であることに変わりはなかった。 グラビア雑誌の表紙を飾ってもおかしくないようなふたりが、 一〇オンス程度の厚みであろうオープンフィンガーグローブを装着し、 猛獣の檻の如きリングにて対峙しているのだ。 その有様がアルフレッドには酷く奇妙に思えた。それ故、関心を持たざるを得なかったのである。 この場にヒューが居合わせたなら、おそらく邪な気持ちで美女同士の取っ組み合いに見入ったのだろうが、 アルフレッドにはそのような趣味はない。 生死が鼻先ですれ違うような戦いを経験している彼の目からすれば、ビデオの内容は遊戯も同然だ――が、 ひとりの格闘技者としては学ぶべき部分がないわけではない。 両者ともに技巧(わざ)の切れ味が鋭いのだ。 ブロンドのほうはプロレス的な動きを見せつつ、拳の突き込みにも工夫を凝らしている様子だった。 シルバーグレイのほうも侮れない。以前に立ち合った『ジウジツ』と技の傾向が似通っているように思える。 完全に極め切れてはいなかったが、寝技の仕掛け方も巧みである。 いつしかアルフレッドは、手近なソファに腰掛けて試合内容を分析し始めていた。 新聞から情報を収集しようと言う当初の目的など、今や頭から抜け落ちてしまっている。 「――要領を得んが、『ミクスド・マーシャル・アーツ』とか言うイベントだそうだ。 ついでに言うと、金髪美人のほうはジュリアナ・ヴィヴィアン、銀髪のほうはマハラジャ・スチュアート。 少なくともセレモニーではそう紹介されていたよ」 ソファの背後(うしろ)よりアルフレッドに声が掛けられたのは、 シルバーグレイ――マハラジャが、高々と担ぎ上げた相手選手をリングへ叩き落した直後のことである。 ブロンド――ジュリアナを投げ落とすや否や、腕を取って寝技に持ち込もうとするマハラジャから 自身の背後へ目を転じると、そこには見知った顔が在った。 そもそも、掛けられた声にさえ聞き覚えがある。顔を確かめるよりも早く声の主に気付いた程だ。 友好的な関係とは言い難い。それどころか、浅からぬ――そして、穏やかならざる――因縁で結ばれていた。 だからこそ、彼にまつわる記憶が一瞬にして蘇ったと言えるのかも知れない。 「……ザムシード……フランカー……?」 「思わぬ再会とはこう言うことか、ライアン。御曹司の話と食い違っているようだが?」 アルフレッドの背後に立っていたのは、テムグ・テングリ群狼領が誇る勇将にして、 嘗て一度は『御屋形様』に反旗を翻した男――ザムシード・フランカーその人であった。 『ミクスド・マーシャル・アーツ』なる格闘技興行のビデオ視聴を中断し、 隣接する喫茶コーナーのカウンター席へと移ったふたりは、 注文した飲み物が届くのも待たずに互いの近況報告を始めた。 気早に説明を切り出したのはアルフレッドのほうである。 エルンストの御曹司たるグンガルの加勢まで得ておきながら、 肝心の転送装置から弾き出されると言う失態を犯したことについて、彼なりに負い目を感じていたのだ。 転送事故が発生した直接の原因――即ち、『贄喰(にえじき)のヌバタマ』の乱入まで説明が進んだとき、 「それで合点がいった」と、ザムシードは溜め息を引き摺りながら天井を仰いだ。 「御曹司たちの話には不可解な部分があったのだよ。合戦に割り込んできたクリッターどもを 相手にしていた筈が、気付いたときには船に戻っていたと言うのだ。 揃いも揃って、自分たちがどのように撤退してきたのかも憶えておらんとな」 「そんなことがあったのか。前後の状況から考えて、十中八九、ヌバタマと言う男の仕業だろうな。 何をどうやったのかは分からないが……」 「そう言った種類のトラウムでも使ったんじゃないか? ……これだから、トラウムは好かんのだ」 星勢号の船中から電話を掛けたヒューは、バブ・エルズポイントからの撤退について、 「電話では説明が面倒臭い」と言い淀んでいた。おそらくは彼は真相を掴んでいるのだろう。 『贄喰(にえじき)のヌバタマ』が如何なる手段を用いたのかは気懸かりだが、 今はザムシードへの報告が最優先である。 いずれグンガルには自分から直接報告するので、現時点では伏せておいて欲しいと前置きをしてから、 アルフレッドは決死隊が全滅した可能性にも言及した。 本来、決死隊が異世界に渡って阻止すべきだったギルガメシュの最終兵器には、 コールタンが別に用意していた駒≠ェ向かっていることも忘れずに言い添えている。 説明を締め括ったのは、「連合軍の戦いに水を差すような真似をしてすまなかった」と言う謝罪である。 今回の失敗は重大であり、責任は全て自分が取るつもりであると、アルフレッドは頭を下げた。 「……随分、冷静でいられるのだな」 「身内の殉職など取るに足らない問題だ。第一、まだ死んだかどうかも分からないんだぞ? それで悲しめと言うほうがおかしいだろう?」 「それはそうだが……」 ザムシードの言いたいことは解っている。何人もの仲間が犠牲になったかも知れないと言うのに、 謝罪へ至る説明の仕方が恐ろしく機械的だったのだ。そこに私的な感情を差し挟むこともない。 意外だったのはザムシードの反応だ。これまでの経緯から忌み嫌われているとばかり思っていたのだが、 冷血などと軽蔑されるどころか、彼は真剣な眼差しでアルフレッドを見つめていた。 仲間の犠牲を省みようとしないアルフレッドに対して、 侮蔑の表情を浮かべることもなければ、奇異な目を向けることもない。 ただ静かに深紅の瞳を――その奥底に宿る感情(こころ)を覗き込んでいた。 憐れみを掛けられているような気持ちになったアルフレッドは、 ザムシードから顔を背けつつ、「感傷的になっている暇はない」と鼻を鳴らして見せた。 虚勢ではなく、自嘲である。一番大切な人が光の中に消え去ったと言うのに、 涙の一滴も落とさないまま気持ちを切り替えてしまえる自分自身の薄情を、 アルフレッドは他の誰よりも蔑んでいた。 やがて、注文した飲み物がふたりの前に置かれた。 アルフレッドはアイスコーヒーを、ザムシードはオレンジジュースを、それぞれ頼んでいる。 エナメル絵付けが美麗なグラスに淹れられたジュースを一口飲み、喉を潤したザムシードは、 自分がグンガルの使者としてビッグハウスへやって来たことを明かした。 案の定、ザムシードこそが先客≠セったのだ。或る書状をマイクへ渡すよう命じられていると言う。 バブ・エルズポイント脱出後のグンガルたちの足取りを把握出来たことは、 アルフレッドにとって何にも勝る僥倖だ。ボルシュグラーブの話だけでは安否さえ掴めなかったのである。 嵐の中の合戦から海路に退いたグンガルたちは、『プール』の将兵へ成り済ます為に使った装束を 途中で投げ捨てて証拠を湮滅し、そのままテムグ・テングリ群狼領の拠点まで無事に逃げ遂せたそうだ。 今のところは討手から追跡を受けるようなこともないと言う。 ヒューにも事前に聞かされてはいたが、やはり馬軍の将の口から「戦死者はいない」と語られて、 初めて安堵出来ると言うものだった。Aのエンディニオンへの突入に失敗した上、 テムグ・テングリ群狼領に損害を出したとあっては、グンガルにもエルンストにも申し訳が立たない。 「御曹司はお前のことを誰よりも頼りにしている。無事に敵中を突破出来たかどうか、 ずっと気に掛けておられるよ。……ビアルタ殿はそのことが気に食わんらしいがね」 「……グンガルには幾ら謝っても足りないな」 「そう思うなら、私と一緒に仮の陣屋まで出向いてくれ。 御屋形様……エルンスト様がご不在の今、お前にも御曹司の支えになって欲しいものだ――」 グンガルの近況を話していくザムシードの横顔を、今度はアルフレッドがまじまじと凝視する。 「――どうした? 私の顔が何か不思議か?」 「見た目の印象ならかなり変わってしまったじゃないか。最初、誰だか分からなかったぞ」 「隠密作戦でもないのだから、整形手術で顔を変える程でもないがね。 それでも、身なりを変えておくに越したことはないだろう? 何か減るわけでもないのでね」 斯く言う自分自身が誰よりも慣れていないらしく、ザムシードは照れ臭そうに頬を掻いた。 現在(いま)は顎全体を覆うように髭を蓄えている――が、 地肌と輪郭は透けて見えており、無精髭と判別の付き難い濃さに敢えて整えているようだった。 佐志のオノコロ原、あるいはハンガイ・オルスで顔を合わせた折には、 このように目立つ特徴など何ひとつ持っていなかった筈である。 髪型も明らかに変わっていた。以前は二の腕に掛かる長さの黒髪を無数の三つ編みに分け、 これを左右二房に束ねていたのだが、今では短く切り揃えている。長髪など見る影もなくなっていた。 衣服までテムグ・テングリ群狼領の幹部とは思えない物に変えてある。 記憶の中のザムシードは、常に馬軍の象徴たる黒革(ブラックレザー)の甲冑を纏っていた筈だが、 カウンター席に腰掛ける姿は驚くほど軽装だ。 ギルガメシュの目を欺くべく変装したグンガルやビアルタと同じ企図なのだろう。 深緑のスラックスに鞣革のジャケットと言う装いである。 胸元辺りまでファスナーが引き上げられているので、中に着ている黒色のシャツは僅かに覗ける程度だ。 何の変哲もない着衣であり、身なりである。これならば旅客にも容易く溶け込んでしまえるだろう。 ハンガイ・オルスに在った頃と比して、ここまで異なっているのだから、 「別人のような印象」と言い切ってしまっても差し支えあるまい。 左頬に鋭い刃物で貫かれたと思しき刀創(きず)が見受けられる。 これが目に入らなければ、本当に誰だか判らなかったかも知れない。 そのザムシードは、またしてもアルフレッドの双眸を覗き込んでいる。 彼がこれを嫌がって顔を背けると、「不器用者は誰も一緒だな」と溜め息混じりで独り呟き、 次いでオレンジジュースを飲み干した。 「……ワイアット氏の迎えも暫くは来ないだろう。どうせ暇なら私と時間を潰そうじゃないか」 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |