13.追い込まれる軍師


 マイクとケートの案内を受けて一行がやって来たのは、ビッグハウスで最も大きな広場である。
そこは冒険王が治める町の象徴(シンボル)とも言うべき場所であった。
 大鐘楼を備えた円蓋(ドーム)式の建物や、これに寄り添う形で聳え立つ尖塔状の鐘楼など、
旧き時代の面影を残すモノで溢れ返っているのだ。
 この広場の南方には、Bのエンディニオン最古とされるカフェも所在している。
元々は別の土地に店舗を構えていたのだが、アウトローが幅を利かせる時代では、
どのようなきっかけで暴力に踏み潰されるとも知れず、
これを危ぶんだマイクが「文化の保護」と言う名目で建物ごとビッグハウスに移設させたのである。
 その伝統的なカフェをマイクは昼食の場として選んだ次第である。
手抜かりなく事前に連絡を入れておいたので、一行が到着したときには既に食事の支度は済んでいた。
 如何にも格調高い構えの店舗の手前――即ち、広場に面したオープンテラスが
一行の為だけに貸し切り状態となっている。マイクは一部の席だけを予約したのだが、
どうやら店主の側で気を利かせたようである。
 ビッグハウスを訪れた観光客にこそオープンテラスを堪能して貰いたいと、
ベースボールキャップの上から頭を?くマイクではあるものの、
長年、親しくしている店主の気遣いが嬉しかったらしく、食事を始めてからも暫くは頬が緩んだままであった。
 『カフェ』だけあって、この店の本業(メイン)は喫茶であり、一番の自慢もカフェラテである――が、
海の幸をふんだんに使ったスパゲッティーやピッツァ、スープなど、
提供している料理はどれもこれも三ツ星レストランに引けを取らないほど絶品であった。
 由緒正しい名店と言うこともあり、ディッシュからコーヒーカップ、ティーポットに至るまで、
使用される食器は全て最高級の品で揃えてある。銀食器(シルバー)が発する輝きなど、
さながら月の明かりの如く美麗である。
 窓越しに店の中を覗いてみると、内装までもが芸術性に富んでいる。
壁には何枚もの絵画が掛けられ、黄金色の糸で不死鳥の紋様が編み込まれたテーブルクロスでさえ
高尚な美術品のように思えた。
 この店を評するには「優雅」の二字こそ相応しいだろう。

 ジャーメインはマイクの邸宅を出立する前に清潔なセーラー服とプリーツスカートに替えていたが、
その判断は正解だった。とても薄汚れた衣服のままで近付けるような店ではない。
 非常事態に備えて『もんぺ』を着用し続けていたマリスも、現在(いま)はドレスに替えてあり、
こちらは古めかしい趣にも溶け込んでいる。
 尤も、マリスは店の雰囲気に合わせたわけではなかった。
体調が芳しくないこともあって肉体に負担の掛からない衣服を選んだだけなのだ。
 それでも、デザートのティラミスを食べ終える頃には顔色も大分回復してきた。
食事を摂ると言う行為は、彼女が身の裡に秘めたトラウム、
『リインカネーション』の効力が及ばない領域まで癒してくれるのである。
 栄養補給に基づく精神的な復調は、ジャーメインとライナも同様であった。
このふたりは次から次へと空(から)の皿を積み上げ、黒服姿の給仕を呆れさせていた。
 ジャーメインに至っては、アルフレッドから食べかけの冷製パスタまで奪った程である。
 大食いを競うような店ではない為、ジャーメインとライナの振る舞いはマナー違反にも等しく、
礼儀正しく直立不動で待機する給仕も、流石に眉根を寄せている。
冒険王が招いた賓客でなかったなら、有無を言わさず退席を促していただろう。
 この給仕はジャーメインの服装にも複雑そうな表情を見せている。
清潔な衣服が長袖の物しか残っていなかった為、やむなく腕まくりをしているのだが、
これもまた伝統ある名店には似つかわしくないと判断されたようだ。

「ウェイター泣かせよねぇ、あんたら……。一〇〇パー出入り禁止確定だから、
今の内にせいぜい味わっておきなさいな」
「良いニオイにたかる蝿と何が違ェんだよ。オレに言わせりゃ、おめーは存在自体がマナー違反だぜ」
「食事中に! しかも、レディー相手に! 蝿なんてほざくあんたがマナーを語んじゃないわよッ!」

 先程までの会議には参加せず、ケートから呼び出されたばかりのティンクも、
ジャーメインたちの荒々しい食べ方には辟易している。
 尤も、ティンクと同じ席でピッツァを貪るビンも行儀と言う点では大差がなかった。
彼の場合、ライナから購入したMANAを研究する為に工房に籠もっていたのだが、
そのままの姿――即ち、油塗れの衣服で推し掛けてきたのだから、行儀も何もあったものではない。
ケートに注意されなかったら、作業用のグローブを嵌めたままでピッツァへ手を伸ばしたに違いない。

「ア、アルの旦那ぁ! フォークの持ち方ってコレで良いんですかい!? 
て言うか、フォークって右手で持つんでしたっけ!? それとも、左手ェっ!?」
「この程度のことで、そこまで追い詰められた声を出す意味が分からない」
「テ、テーブルマナーってんですかい? テレビじゃ見たことありやしたが、
まさか、自分がこんな上等な店に来るなんて思わなくてェっ!」
「普段通りで構わないのですよ、源八郎さん。今のところ、何も誤ってはおりませんから」
「マリスのお墨付きが出たぞ。自信を持て」
「――はいィ!? イカスミを頼まなきゃ駄目でしたかっ!?」
「……兎にも角にも、気楽にやれ」

 一方の源八郎は、佐志と掛け離れた食文化に四苦八苦していた。
格式張った食事とは無縁の暮らしをしてきた為、行儀を重んじる店での立ち居振る舞いが分からないのだ。
 フォークの上げ下げまでぎこちないのは、アルフレッドやマリスの所作(うごき)を
見様見真似で手本にしているからである。
 このように不慣れな人間を緊張させてしまうほどの格調は、
店舗の造りや料理だけでなくサービス全般に表れていた。
 店先では専属の楽団が生演奏を披露しているのだ。
このようなカフェなどエンディニオン全土を探しても他にはあるまい。

 芸術鑑賞を趣味とするザムシードは大層惜しんだが、
陽気な演奏へ耳を傾ける時間など一行には許されていなかった。
食後のカフェラテが運ばれてくると、すぐさまに議論が再開された。

「――ライアン君が取り仕切れるのは、せいぜい小細工だな。それが似合いで、能力の限界と言うことだよ」

 口火を切ったのは、例によってディオファントスである。
 マイクの邸宅から手漕ぎの渡し舟に乗り込み――人数が多い為、数隻に分乗したのであるが――、
広場へと移動する最中、アルフレッドは或る人物≠ノ宛てて長文の電子メールを入力し続けていた。
 電子メール自体を面倒臭がる彼にしては極めて珍しい行動だ。
ごく親しい人間への返信すら、ほんの数行で済ませるような男なのである。
 一方のディオファントスは、アルフレッドとは別の舟に乗り込んでいたのだが、
その不可解な動きは目敏く見つけており、広場へ到着するや否や、委細を質した。
また善からぬ企みでもしているものと決め付けたのだろう。難詰にも近い語調であった。
 行動のひとつひとつを監視され、頭ごなしに叱られては堪ったものではなく、
流石のアルフレッドも忌々しげに舌打ちを披露した。
 悪巧みどころか、難民襲撃を防ぐ為の手立てを整えていたところである。
 さりながら、エンディニオン全土に伝播する恐れのある危険思想を抑止する術は、
現在までには思い付いてはいない。今し方、手配りを済ませたのは、友人の身を守る為の措置であった。
 その友人とは、ふたつのエンディニオンを平穏に繋げようと奮闘するダイナソーとアイルである。
両名はゼフィランサスと言う村を活動の拠点に据えていた。
 過去にはフィーナも立ち寄っているゼフィランサスは、
Aのエンディニオンの難民たちと共存することによって大きく栄えた土地なのだ。
ダイナソーとアイルにとっては、叶えるべき理想(ゆめ)の縮図とも言えよう。
 それは同時に、攘夷を唱える者たちにとって最も目障りな土地と言うことになる。
いずれ襲撃の対象になるのは明らかであり、万が一にも死の竜巻に晒されたなら、
おそらくダイナソーたちだけでは持ち堪えられないだろう。
 考えられる最悪の事態を防ぐ為、アルフレッドは旧友のボルシュグラーブを頼ることにした。
 攘夷思想には言及せず、難民に悪意を持ったアウトローが各地で暴れ回っていると仄めかした上で、
次に狙われるのはアルバトロス・カンパニーから離脱した社員かも知れないと脅かしたのだ。
 件の社員が身を寄せたゼフィランサスへエトランジェを差し向けてはどうか――
電子メールの文中には具体的な対応策まで書き添えてあった。
 アルフレッドとしてもギルガメシュの幹部へ頼るのは愉快なことではない。
だからと言って、佐志にも余力はないのだ。ゼフィランサスの警護に兵を派遣しようものなら、
佐志自体の防備が手薄になってしまうのである。
 パトリオット猟班やロンギヌス社のエージェントをゼフィランサスへ向かわせるわけにも行かない。
この期に及んで旗幟を鮮明にしないスカッド・フリーダムなど選択肢にも入れていなかった。
 そこで、アルフレッドの脳裏を過ぎったのが、ギルガメシュが抱えたエトランジェの存在である。
 外人部隊≠ニ言う性質上、正規軍のような行動は期待されておらず、
ボルシュグラーブにとっては本隊の意向に関わらず自由に動かせる兵力と言うことである。
これをゼフィランサスの警備に宛てるべきだとアルフレッドは吹き込んだのだ。
 エトランジェの要はアルバトロス・カンパニーのボスとディアナが担っており、
元社員――言わずもがな、サムとディアナだ――とも連携し易いだろうと、
アルフレッドはメールの本文を締め括っていた。
 この善後策を指して、ディオファントスは「小細工」と謗ったわけである。
 アルフレッドとしては心外だ。現時点で考え得る最良の選択肢のつもりであり、
実際、ボルシュグラーブもこちらの思惑通りに動いてくれた。
ゼフィランサス警護を確約する旨がメールにて伝えられたのだ。
 これが癪に障るのであれば、一体、どのような作戦で満足出来ると言うのか。

「敵の力を利用して味方の利を得ることは兵法の基本だと思うが?」
「利を以って敵を制することも出来ないキミに兵法を語る資格があると思うかね」
「何度、この台詞を繰り返したか、分からないが――それはどう言う意味だ?」
「ここに至る経緯を振り返ってみたまえ。省みた結果に今の言葉を吐いたのなら、本当に救いようがない」

 差し向かいに座したテーブルから身を乗り出して反論しようとした矢先、
アルフレッドのモバイルが電子音を鳴らし始めた。
 長々と同じ音色を奏で続ける辺り、メールではなく電話の着信のようだ。
 出端を挫かれた恰好のアルフレッドは、
ディオファントスと睨み合ったままでズボンのポケットを弄(まさぐ)り、
舌打ち混じりでモバイルを取り出した。
 視線を落とした液晶画面には、グリーニャ以来の問題児であるハリエット・ジョーダンの名前が表示されている。
 またろくでもない話を聞かされるのではないかと一抹の不安を覚えたものの、
佐志からの連絡に変わりはなく、アルフレッドは顔を顰めながらモバイルを耳に宛がった。

「……何だ、一体――」
「――聞ーてくださいよ! アルフレッドさん! おれ、とんでもねぇことに気付いちまったんスよ! 
これは誰よりも早くアルフレッドさんに知らせなきゃならねーって思って! 
マジで佐志の存亡に関わることですから! 村長さんにもカッツェンフェルズのツレにもまだ言ってねぇんで、
そこんとこ、よろしくっス! とにかく! おれが佐志を背負って男ってコトを
バッチシ証明しちまいますんで! 絶対アルフレッドさんもぶったまげますよ! 目ん玉飛び出したりして!?」
「煩い、黙れ」

 アルフレッドが通話開始のボタンを押した直後、ハリエットは自分の喋りたいことを一方的に羅列し始めた。
挨拶などは一度も挟まず、主張のひとつひとつが押し付けがましい。
 しかも、だ。やたらと自慢げな語調であり、この点もアルフレッドは理解に苦しんだ。
おそらく電話の向こうでは威張り腐って胸を張っているのだろう。

「アルフレッドさんはジョーダン家とグリーニャの関係って知ってるッス!?」
「グリーニャを興した開拓者のひとりだろう、ジョーダン家は。
それくらいは俺でも聞いたことがあるが、……まさか、お前、自分の家の来歴を今まで知らなかったのか?」
「ギルガメシュがグリーニャの統治権を譲れって迫ってきたら、おれ、ビシッと言ってやるつも――」

 ハリエットの話が終わらない内にアルフレッドは通話を打ち切った。
「聞くに堪えない」とは、このようなときにこそ用いるべき表現であろう。
 与太話に付き合わされた数分は時間の無駄としか言いようがなく、アルフレッドは腹が立って仕方がなかった。
 「……失敬」と短く謝ってディファントスに向き直るアルフレッドだったが、
その直後、またしても掌中のモバイルが電子音を鳴らし始めた。
 何の断りもなく自己主張を打ち切られたことを不服としたハリエットが
性懲りもなく着信音を鳴らしていると考えたアルフレッドは、液晶画面を確かめもせずに通話を開始すると、
自分でも驚くほど冷たい声で「貴様の話など耳を貸す価値もない」と言い放った。

「いきなりご挨拶だな、ライアン。用件くらい聞いてくれていいんじゃないか?」
「――その声は……もしかして、コクランなのかッ!?」
「他に誰が居るんだよ。僕の物真似が世間で大流行なら話は別だけど」

 受話口から聞こえてきた声はハリエットのものではなかった。
佐志に詰めているロンギヌス社の兵器コーディネーター、ヴィンセントその人の声である。
 アルフレッドは腋下に冷たい汗が噴き出すのを感じた。同様の発汗は背中でも起こっている筈だ。
 いくら苛立っていたとは雖も、着信の相手を確信しなかったのは迂闊であった。
果てしなく間の抜けた、それでいて厄介な事態を招くとは痛恨の極みである。
 ハリエットからの着信と決め付けてしまったのが、そもそもの失敗であろう。

「……本当にすまない、別の人間かと思ったんだ」
「テレビドラマなんかを観ていると、モバイル宛に電話が掛かってきたって言うのに、
『もしもし。もしかして、ナントカさんですか』って、通話の相手を知って驚く場面があるじゃないか。
あれと同じだよ。こんなにトボけた電話は人生初だな」
「言い逃れはしない。自分の間抜けは自分が一番分かっている」

 笑い話に換えて受け流そうとするヴィンセントに対し、アルフレッドは重ねて謝罪を述べた。
 どうやら、ヴィンセントは失礼極まりない一声を気にも留めていない様子だ。
アルフレッドが安堵の溜め息を零したのは言うまでもない。
 これがルナゲイトの新聞女王――マユ辺りであったなら、暴言の応酬となったことは想像に難くなかった。

「……五体満足なのは間違いないみたいだな。クソ真面目な顔が懐かしくなってきたよ」

 暫時、忍び笑いを漏らすヴィンセントだったが、どうもモバイルの向こうでは脇から小突かれているらしく、
アルフレッドの耳にも「今がどのような状況か、ご聡明なコクランさんならお分かりでしょう」と、
急かす声が聞こえてきた。
 その穏やかな声色にも、慇懃無礼な言い回しにも、アルフレッドは聞き覚えがある。

「傍にセフィがいるのか?」
「エスピノーサだけだと思うか? 少弐村長とピンカートン夫妻も一緒だ。
それから、ハウルノートもな。ネタを寄越せと煩くて堪らないぞ」
「それじゃ、『六連銭(むつれんせん)』で昼食中か。俺たちは今さっき済ませたところだが」
「いや、今日は役場の会議室にいる。……聞き耳を立てられるわけにはいかないんでな。
そっちは大丈夫か? 他所に話が漏れる心配は?」
「ああ、店の厚意で人払いをして貰っている。周りには俺たち以外には誰もいない」
「それなら、好都合だ。……皆で話せるように取り計らってくれ」
「……分かった」

 ヴィンセントに促されるまま、アルフレッドはモバイルをスピーカーフォンの状態に設定した。
 マリスに指示して食器をテーブルの端に片付けさせると、そのモバイルを卓の中央に置く。
他の場所へ腰掛けていたマイクたちにも経緯を説明し、皆で一枚のテーブルを囲む形となった。
 佐志にて尋常ならざる事態が発生したことは、この一連の流れに於いて誰もが悟っている。
アルフレッドが耳にしたヴィンセントの声も、「会話を外部に漏らすな」と言及する頃には、
喉でも痛めたのかと錯覚するほどに硬くなっていたのだ。

(ハリエットはいつも通りに暢気だったし、こうして集まって話をしていられるのだから、
よもやギルガメシュが攻め寄せてきたと言うことではないだろうが――ついに委任を迫ってきたか……?)

 現時点で想定し得る緊急事態は、幕府を成立させる為の権能の委任しかあるまい。
 ヒューだけでなくレイチェルまで同席しているのだ。彼女は佐志に疎開したマコシカの民の酋長であり、
ギルガメシュからすると委任を求める対象に当て嵌まるのだった。
 Bのエンディニオンに於いて女神信仰を象徴するマコシカの民である。
レイチェル酋長による承認は、新たな政体の権威を女神イシュタルの名で保証することにも等しく、
これまで去就に迷ってきた者たちも、挙(こぞ)って幕下(ばくか)へ入るかも知れない。
 無論、アルフレッドとしても想定の範囲内である。寧ろ、裏工作の魔手も時機が遅過ぎるとさえ感じていた。

(断固反対の立場を取らなくてはならないが、……さて、どこまで引っ張るか。
幕府自体は成立させてやらなければならないしな)

 予想された事態ではあるものの、だからと言って容易く取り捌けるわけではない。
ひとつ打つ手を誤れば、逆転不可能な程に形勢がギルガメシュ有利に傾いてしまうのだ。
 人質の安全を交換条件――内情を知る者にとっては失笑を禁じえないが――として、
ビッグハウスの権限を委任する旨をマイクは表明したが、
彼らの抱えた問題とマコシカの件は余りにも事情が違う。
 女神イシュタルの信仰を司り、神人の力を借りてプロキシなる秘術まで使いこなす古代民族は、
誰ひとりとしてギルガメシュに人質を取られてはいない。それにも関わらず幕府支持へ回ると言うことは、
武威に屈しての無条件降伏と同義(おなじ)なのだ。
 女神に祝福されたマコシカが異世界のテロリストに屈すると言う事実は、
タバートの一件とは比較にならないくらいBのエンディニオンの人々を打ちのめすだろう。
その影響は計り知れず、引き起こされる混乱の様相などは想像もしたくなかった。

「――アル? あんた、いい加減にしなさいよ。うちの宿六から注意されて何日経ったと思ってんのよ? 
さっきもルノアリーナさんトコ行って来たけど、連絡ひとつも寄越さないって、溜め息ばっかりだったわよ。
ルノアリーナさんの友達としても、それはちょっと見過ごせないのよね!」
「ほれ、見ろ、レイチェルだって俺っちと同意見だぜ。『そんな子に育てた憶えはない』って怒られても、
俺っちはフォローなんかしてやんね〜ぞ。薄情ってモンは手前ェに跳ね返ってくるんだよ」
「お、お前らなぁ……」

 身を強張らせながらレイチェルの発言を待っていただけに、
その第一声には思わず机に突っ伏しそうになってしまった。
 ピンカートン夫妻は声を揃えてアルフレッドの親不孝を批難している。
マコシカに対する裏工作の話など、一言も触れてはいなかった。
 それはつまり、最悪にも等しい展開には未だに至っていないとの証左であり、
安堵すべきことでもあるのだが、ヴィンセントの声色から心身を緊張させていただけに、
前後の脈絡を無視しておどけられると、飛ばすべき叱声(こえ)さえ見失ってしまうのだ。

「戯言は後回しと申されたのは、他ならぬレイチェル殿ではござらんか。御自分の言を守って貰わねば困り申す」

 案の定と言うべきか、守孝が呆れ声でピンカートン夫妻を窘めた。
 如何にも武張った野太い声に続いて、モバイルの受話口からは乾いた音が二度ばかり漏れてきた。
トリーシャ辺りが紙束か何かを丸めて夫妻(ふたり)の頭を引っ叩いたのであろう。
 無論、ヒューも悪ふざけをする為に役場まで足を運んだわけではない。
「俺っちにも心の準備ってモンが要るんだよ。いきなり切り出すのは難しくてよォ」と、
すぐさまに声を引き締めた。

「――アル、くれぐれも落ち着いて聞いてくれや。……ちょいとマズいことになっちまったぜ」
「やはり、ギルガメシュの使者がやって来たか? それとも、コールタンが電話でも寄越したか? 
マコシカの酋長から権限の一切を取り上げる、と」
「いや、そのテの誘いはこっちには来てねーよ。マコシカは勿論、佐志にもな。
……ぶっちゃけ、それと同じくらいヤベェことだよ。とりあえず、電話の前のみんなで深呼吸しな」
「気を持たせるな! 一体、何だと言うんだ!?」

 強い語調で質されたヒューは、そこで言葉を呑んでしまった。
余計なことまで喋らずにはいられない饒舌な男とは思えない反応であった。
 それから暫くの間、沈黙が続く。
 モバイルの受話口からは苦渋に満ちた呼気が微かに聞こえてくるばかりである。
一秒でも早く答えを返さなくてはならないのに、紡ぐべき言葉を見つけられない――
そのような呻き声にも思えた。
 この中でただひとり、難民襲撃の傷痕を目の当たりにしているジャーメインは、
またしても攘夷と言う名の死の竜巻が吹き荒れたのではないかと考え、両の拳を強く握り締めた。
血塗られた惨状を語るのは、誰でも躊躇うものである。

「あちこちの情報屋から殆ど同時に入ってきたタレコミなんだけどよ。
……とうとう連合軍の内側でも寝返りが出始めちまったよ。まんまと敵の誘いに乗っちまったってワケだ」
「な……ッ!」

 ヒューの口から明かされたのは、ジャーメインが危惧していたような攘夷の被害などではなく、
誰もが夢想だにしていない事態であった。
 アルフレッドは――否、テーブルを囲んだ殆どの人間が彼の報告に耳を疑った筈だ。
一個の情報としては鼓膜を伝って脳まで達しているのだが、思考の領域に於いて理解を拒んでしまい、
聞き間違いであって欲しいと願いながら、一斉に「冗談だろう」と尋ね返した。
 「冗談だ」と言う返答以外は決して認められないと、電話の向こうに念を飛ばしたのだ。

「こんなときに冗談かますほど、俺っちだってバカじゃねーよ。
……ぶっちゃけた話、連合軍はこれでおしまいってこった……!」

 しかし、現実から逃避したところで事実が覆ることはない。
 マコシカが屈服するよりも更に悪い報せは、それが如何に認め難いものであったとしても、
ひとつの局面として受け入れるしかなかった。
 凶報に接した直後から誰もが静まり返っているが、これは別に平常心を保っているからではない。
声ひとつ絞り出すことの叶わない混乱に呑み込まれただけなのだ。

「寝返ったのはグドゥーのファラ王か……あいつは――」

 アルフレッドの吐息(いき)は荒い。何としてでも冷静さを欠いてはならないと努めていたようだが、
その声は痛ましいくらいに震えており、動揺など僅かも抑え込めてはいなかった。
 ヒューが委細を説明する前に享楽家のファラ王を寝返り者と決め付けてしまったことが、
狼狽によって平常心を蝕まれている証左であろう。

「アル君が疑いたくなるのも分かりますが、ファラ王さんではありませんよ」
「――グドゥーが幕府に参画するメリットが何もないのだ。
仮にファラ氏が釣られようとも、クレオパトラ女史がそれを引き戻してくれるだろう」

 セフィに続いてファラ王の離反を否定したのは電話のこちら側=\―
アルフレッドの差し向かいに座したディオファントスである。
 ヒューたちが情報屋を駆使したのと同様にヴィクドも密偵を放ち、
寝返り者の存在を把握しているのかも知れないが、
ディオファントスがモバイルを操作している姿をアルフレッドは見たことがない。
 つまり、ヒュー以外から件の情報を受け取る機会などなかった筈なのである。
 それにも関わらず、ディオファントスの声は確信と言う名の強さを帯びていた。
事実を確認するまでもなく、ファラ王の離脱は有り得ないと断言しているのだ。
 それどころか、連合軍から落伍者が出ることまで見越していた様子の彼は、
狼狽の気配すら見せず、「グドゥーはシロ――違うかな?」と電話の向こう側に訊ねた。

「その声はヴィクドのララミーさん……ですね。ハンガイ・オルス以来、ご無沙汰しております」
「挨拶は省こう。私の見立てになるが、統治権を委任する理由がグドゥーにはないだろう? 
甘い汁≠ナは釣れず、銃を突き付けられても『黄金衛士』なる選りすぐりで返り討ち。
クレオパトラ女史がいるのだから、判断を見誤るわけもない」
「理路整然と申されますね」
「もうひとつ、付け加えよう。グドゥーは群雄割拠の混乱期を経て統一政府のような体制を整えた実績がある。
ファラ氏やクレオパトラ女史は、幕府と言う政体(モノ)を具体的にイメージ出来る。
他の土地との一番の違いを挙げるなら、まさにそこだよ」
「……権限を奪おうと謀る側ではなくビジョンも浮かべられない無知蒙昧が罪と仰るわけですね」
「冷たい言い方になるがね。自分の土地の統治権を他所へ委ねることがどれだけ危険なことか、
理解出来ている人間はエンディニオン中を捜しても殆ど居ないだろう。
ギルガメシュもそこに付け込んだのだろうがね」

 ファラ王が連合軍を離脱しない理由――と言うよりも、
グドゥーがギルガメシュに迎合しない根拠をディオファントスは淡々と並べていく。

「詐欺商法の真っ青なやり口と言うわけ、か。それ自体には驚くことほどでもないが、
統一された政府とやらのビジョンをタバート様が持っていなかったのは、……少しばかりショックだな」

 ディオファントスとセフィの会話に耳を傾けながら、
テムグ・テングリ群狼領の先行きへと思いを馳せたザムシードは、
これ以上ないと言うくらい重苦しい溜め息を吐いた。
 余りにも大きな溜め息だったので、受話口も拾ってしまったのだろう。
電話の向こうのヒューが「似たようなもんさ」とザムシードに応じた。

「詐欺だろうが何だろうが、引っ掛かっちまったらおしまいだぜ。
差し出した権利(もん)は、もう二度と取り返せねぇ」
「その対策を話し合おうと言うんじゃないのか? 一体、何時になったら本題に入るんだ!?」
「ですから、気持ちを落ち着けて下さい、アル君――いえ、先ずはマイクさんに向けて
お話しすべきかも知れませんね。……真っ先にギルガメシュへ靡いたのは『ビルギット』なのですよ」
「はぁッ!? ビルギットだってェッ!?」

 『ビルギット』と言う地名をセフィから聞かされたマイクは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
そこはビッグハウスが支援を引き受けた寒村である。
 バイケル・シルバーマンと言う村長代理が無血開城前のハンガイ・オルスへ赴いており、
その際にマイクと知り合ったのだ。
 連合軍に加わることは加わったが、ビルギット自体は軍備さえ満足に調えられないほど寂れており、
ギルガメシュから報復の兵を差し向けられようものなら、
抵抗する間もなく踏み潰されてしまうだろうとバイケルは怯えていた。
 ビルギットが不安に思う軍備や兵数をビッグハウスの力で補おうと、マイクは買って出たのだ。
幾度かの交渉を経て、協力体勢も進捗していた――その最中の凶報であった。
 ビルギットも、バイケルも、本当の意味でマイクを裏切ったと言うことである。
 誰とでも親しくなれる陽気な冒険王にしては珍しく忌々しげに顔を歪め、
左の拳を右の掌へと思い切り打ち付けていた。
 腹に据え兼ねるのも当然であろう。それ程の不義理(こと)をビルギットは仕出かしたのだ。

「ビッグハウスには何も連絡が入っていないのか!? マイク、どうなんだッ!?」

 ビルギットの寝返りにはアルフレッドも双眸を見開いて驚愕した。
 村落の規模や兵の多寡は問題ではない。連合軍に参加した勢力の中で初めて明確な寝返りが発覚したのである。
それだけではなく、要の一角たる冒険王の顔に後ろ足で泥まで引っ掛けている。
 取るに足らないと思われた寒村に翻弄され、軽んじられたビッグハウスを、
果たして連合軍諸将は――否、Bのエンディニオンの人々は、どのような目で見るのだろうか。
 偉大と謳われた冒険王も連合軍も、ギルガメシュの前では赤子同然。最早、何の役にも立たない。
そのように吐き捨て、背を向ける人間が際限なく増える可能性もあった。

「オレだって寝耳に水なんだぜッ!? ギルガメシュと戦う力がねぇって半ベソだったから、オレたちは――」
「てゆーか、ボクってば超絶無駄骨じゃん! いや、でも、メカに罪はないけど!? 
使い道がなくなったってボクが美味しく使っちゃうからね! でも、コケにされてムカつくしィッ!?」

 メカの天才≠ェ新開発した兵器をビルギットへ配備する計画まで立てられていたのである。
労作の出番が失われたことが腹立たしくて仕方がないビンは、子どものように地団駄を踏んだ。
 マイクもビンと一緒になって石畳を蹴り付けたかったが、
ビッグハウスを治める立場としては、腹癒せよりも事態の収拾を図ることが先決であった。

「ケート! 頼まれてくれるか!?」
「はいはい、あんたがトチッたときの尻拭いなんか、もう慣れっこよ」
「尻拭いって……ひでぇなァ、今回ばかりはオレの所為じゃねーだろ」
「相手の性根を見抜けなかった時点であんたの失敗よ。
……こっち≠ヘいいから、あんたは自分のやるべきことに集中して」
「ああ、……すまねぇな」

 流石は冒険王の妻と言うべきか。二言三言のやり取りだけでマイクの意図を悟り、
これから取らなくてはならない行動の全てが頭の中で組み立てられたようである。
 ビルギットの寝返りはビッグハウスとしても由々しき事態だ。
 協力体制を確立させるべく派遣された交渉役は、現在(いま)もビルギットに滞在しており、
バイケルたちから危害を加えられる前に脱出させなくてはならなかった。
最早、相手はビッグハウスを味方とは思っていないのだ。幕府への手土産≠ニして捕縛されるかも知れない。
 船着場へと駆け去っていくケートの後姿を、ディオファントスは憐憫の目で見据えていた。

「……それで? 他にはどこが連合軍を離れたのだね?」

 次いで卓上のモバイルに向き直ったディオファントスは、
この場の誰もが懸念しながら口にするのを憚っていたことを、努めて冷静に問い掛けた。
 それもまた避けては通れない道であろう。ひとつの現実として受け止めなくてはならないことなのだ。

「何を……何を言っている……」
「振り返ってみたまえ、ライアン君。『あちこちの情報屋から殆ど同時に入ってきたタレコミ』と、
彼らは話していただろう。それはビルギット離反の裏付け捜査とは意味合いが違う」
「――おっさん、あんたは何も間違っちゃいねぇよ。……間違っちゃいねぇけど、
もうちょい言い方っつーのを考えたほうがいいぜ? こっちも喋る気が失せちまうよ」
「自分で話している内容に、自身が怯えてしまう――とでも言いたいのかね?」
「……ああ、ご明察だよ」

 追及にも近いディオファントスの声に対して、ヒューは自嘲の笑みを零すばかりだ。

「ビルギット以外も続々とギルガメシュに寝返っているわ」
「如何にもレイチェル殿の申される通りにてござ候。
仁義を弁えぬ不埒者めは、ひとり残らず成敗すべきでござろうが……」

 何処から話していくべきか、迷いに迷って沈黙してしまった夫に成り代わり、レイチェルが説明を継いだ。
 彼女の後には守孝も続き、連合軍を離れた勢力をひとつずつ順番に挙げていく。
 やはり戦力的な不安に脅かされる小さな町村が多かったのだが、
中には佐志に匹敵する規模の勢力も含まれており、これを聞いた途端に血の気の多いティンクは
「上等じゃない! こっちのレリクスを全部ブッ込んで根絶やしにしてやるわ!」と怒声を張り上げた。

「こいつぁ、たまげた……いや、参っちまいましたよ……」

 離反者の名が二十を超えたところで、源八郎は椅子から転げ落ちてしまった。
 エルンストを主将として決起した対ギルガメシュの同志は、この時点で三分の一が落伍している。
抗ったところで何の意味もないと諦め、大敵の軍門に降った者たちだ。
そして、守孝は今も離反者の名を読み上げ続けている。
 戦局の悪化は、完全に予想を上回っている――否、誰も想像しなかった事態がエンディニオンで起きていた。
 ハンガイ・オルスに在ってアルフレッドたちの奮闘を見守っていたマリスは、
「あの多数派工作は何だったのですか……」と呻くばかりであった。

「敵の軍師も抜け目がありませんよ。その土地が抱えた事情を割り出して、
最も相応しい飴≠チラ付かせたようです。露骨な買収工作と言ってしまえば、それまでなんですが……」
「そんな安い手に乗ってしまったと言うのか!?」
「アル君……」
「他に言い方などあるものか! テムグ・テングリから切り取った領土か、それとも金か。
一体、痴れ者どもは何を餌に釣られたんだ!?」
「金や物資を交渉のカードにするケースもあったようですが、一番効果的だったのは運営の代行≠ナすね。
領有権自体は幕府で預かるけれど、統治はこれまで通り、何も変わらず――
この条件で転んだ人間が大半のようです。……浅はかなことですよ」
「ギルガメシュが出した交換条件は矛盾以外の何物でもないわね。
『領土の運営を代行する』ってことで喜ぶなんて、人類史上始まって以来の恥晒しよ」
「無知は蒙昧とララミーさんが仰いましたが、まさしくその通りですね。
誰かの掌で踊らされている人間は、自分の上がった舞台が一流劇場の物だと信じて疑わないのでしょうけれど」
「あの痴れ者どもがッ!」

 離反者の多くは調略によって落とされた――その旨をセフィとレイチェルから説明されたアルフレッドは、
肩や頬を震わせながらも短慮に走ってはならないと己を戒め、堪えていたのだが、
遂には限界に達し、火山の爆発の如く声を荒げた。
 やや離れた場所にて控えていた給仕や広場を行き交う旅客たちは、
天を衝くほどの大音声に驚き、何事かと振り返ったが、
当のアルフレッドは他者の姿など視界にすら入っていない。
 大きく開かれた深紅の双眸で石畳を睨(ね)め付けるのみである。
 ふたつの瞳に宿すのは、劫火と喩えるのが似つかわしい昏(くら)い怒りであり、
エンディニオンの大地に立つ資格すらない裏切り者への憎悪であった。

(あるまじきことだ――断じて、あるまじきことだッ!)

 アルフレッドが呑み込まれたのは、足元から世界が崩れていくような失望感に他ならない。
何が起ころうとも守らなくてはならないと信じてきた絆(もの)が、たった今、跡形もなく壊れたのである。
 あるいは、最初から絆などと言うものは存在せず、甘い夢幻に惑わされただけなのかも知れない。
路傍に転がった屍骸か何かを、尊い指針と信じ込んでいたのだ。

(俺たちは何の為に戦ってきたんだッ!?)

 自分たちのエンディニオン≠ノ於いて異世界の軍勢と相対する『地の利』、
卑劣極まりないテロリズムには絶対に屈しないと鼓舞し合える『人の和』――
これらを守り抜くことが連合軍諸将に課せられた使命であった筈だ。
 その高潔な使命は何処に消え失せたと言うのだろうか。
 エルンスト・ドルジ・パラッシュと言う真の覇者が天運を手繰り寄せると信じ、最後まで戦い抜く――
あの日、ハンガイ・オルスにて誓い合った結束とは、一体、何だったのか。
 仮にエルンストが天運を掴んだところで、最早、『三陣』は完成しないのだ。
『地の利』も『人の和』も、裏切り者がギルガメシュに差し出してしまったのである。
 『三陣』とは、『天の機(とき)』、『地の利』、『人の和』と言う三種の要素が整うことで
初めて完成される古代(いにしえ)の軍略の奥義であり、ひとつでも欠ければ勝機を逸すると伝えられていた。

(今まで戦ってきたことは――何の意味もなかったのかッ!?)

 それ故にアルフレッドは憤激の衝動を以って歯を食い縛る。
 グンガルらと連携してバブ・エルズポイントを攻め、異なるエンディニオンへ突入しようと図ったのは、
偏に連合軍の勝利へ貢献する為である。恐るべき精神感応兵器の阻止しないことには起死回生も望めまい。
 囚われのエルンストを思い、逆転を誓った同志たちを思い、
激戦地にて生命を張ったことは愚かな過ちであり、何ひとつ報われるものはない――
そのように認めてしまうのは、死ぬより虚しいではないか。

「当然の帰結ではないかね」
「……煩い、貴様の相手をしている暇はない」

 血が滲む程に拳を握り締めたアルフレッドに対して、ディオファントスの声はどこまでも冷たい。
尤も、痛罵を以って挑発されたところで、今のアルフレッドには受けて立つつもりなどなかった。
 靄の如く心を包む虚しさに苛まれ、闇の中へと意識を溶かしている場合でもない。
 今、この瞬間にも進み続ける最悪のシナリオを如何にして終わらせるか。
在野の軍師が考えなくてはならないのは、ただこの一点のみである。

(ヒュー、お前の言う通りだよ。……確かにもう連合軍はお終いだ。
本当は何も始まっていなかったのかも知れないがな……!)

 降伏したように見せかけて力を蓄えつつ、情報工作を以ってしてギルガメシュを追い詰める――
それが史上最大の作戦の骨子であった。耐え難いほどの屈辱を忍び、最後に勝利する為の道筋とも言えよう。
 生半可な覚悟では、この道を進み切ることは出来ない。
連合軍の思惑が僅かでもギルガメシュに漏れようものなら、その時点で全てが水泡に帰すのである。
何としてでも志を果たすと言う強靭な精神(こころ)が求められると言うわけだ。
 これを達成する手段としてアルフレッドは苛烈な掟を突きつけ、諸将に認めさせていた。

「外部に計画を漏らす疑いのある人間は、それが肉親であったとしても容赦なく粛清して貰おう。
不審な動きを見せた人間は尋問の暇さえ与えずに全員消せ」

 互いの志に乱れがないか、常に確かめ合うような気概で臨むべしと、
ハンガイ・オルスにて大音声を張ったのだ。
 連合軍と大仰に名乗ったところで、所詮は烏合の衆である。
「恐怖」と言う人間にとって最も強い感情で縛り付けない限り、統制を取ることは不可能であろう。
 己にも他者にも、極めて厳しい覚悟である――が、この「互いを監視し合う」と言うような仕組みは
連合軍に於いて全く機能しなかった。粛清の対象として定められた「不審な動き」の中には、
機密漏洩だけでなく敵方への寝返りも含まれる筈だ。
 諸将が誓い合った覚悟など絵空事も同然であり、
目の前に餌≠ナも差し出されようものなら容易く覆ってしまうと言う現実を、
アルフレッドは最も過酷な形で思い知らされたわけだ。

「当然の帰結だ」

 ディオファントスは先程と同じ痛罵を改めて繰り返した。

「――利を以ってこれを動かし、卒を以ってこれを待つ」

 今すぐ口を噤めとでも言わんばかりに鋭い眼光を飛ばすアルフレッドだったが、
対するディオファントスは敵意にも近い情念をぶつけられようとも構うことなく言葉を紡いでいく。
 彼が例に引いたのは、アルフレッドが用いるのと同じ伝説(いにしえ)の軍略である。
利益で相手を釣り、攻める好機を待ち構えると言う意味合いだ。

「……善く敵を動かすには、これに形すれば敵必ずこれに従い、これに予(あた)うれば敵必ずこれを取る――」

 ディオファントスへ応じるように、アルフレッドも古い軍略のひとつを口にする。
 敵勢を動かすことを望むのであれば、餌≠笞凾巧みに使って刺激を送り、
どうしても動かざるを得なくなる状況を作るべしと、後代の人間に教示していた。
 アルフレッドとディオファントスが語った軍略は、互いを補完し合う関係のようにも思える。
二種の教えを組み合わせて考えると、押さえるべき要点や応用の方法がより鮮明に理解出来るわけだ。
 事実、アルフレッドも二種の軍略を通じてディオファントスの意図を悟ったらしく、
悔しげな表情(かお)で押し黙った。

「ギルガメシュの軍師がどんな人物かは知らないが、
ライアン君よりも遥かに伝説(いにしえ)の軍略に理解が深いようだな。
戦争の実態と言うものも心得ている。机上の空論ではなくね」
「……『当然の帰結』などと偉そうに言うのなら、どうしてハンガイ・オルスで異論を唱えなかった? 
今更、そんなことを言っても遅過ぎるだろう」
「キミを見込んだ後悔と、自分の馬鹿さ加減への諦めが半々だよ。
……しかし、あの場で誰かが反対意見を言ったところで、キミに聞き入れる準備があったかな?」
「……必要な意見なら俺は何時だって聞き入れる」
「そう言うことにしておこうか、キミの名誉の為に」
「おい」

 電話の向こうから「見栄張んな。何時からそんな器用になったんだよ」と言うヒューの揶揄が飛んで来たが、
これはアルフレッドも黙殺した。

「……寄せ集めの連合軍を繋ぎ止めるには厳しく規律で縛るしかなかった。
自分が正解だったとは言わない。だが、誤りとも言わない。勝つ為に必要なことをしたまでだ。
それを机上の空論と罵るなら好きにしてくれ」
「規律を強いられたほうはストレスが溜まる一方だな。
村長でも町長でもない余所者から押さえ付けられる気持ちは、一体、どんなものだろうな」
「プレッシャーではなく使命感を持ってくれているとばかり思っていたんだがな」
「そんなときにマイナスではなくプラスの話を振ってくれたら――さて、人間の気持ちはどう変わるかな。
……まあ、誰かが言っていた詐欺商法云々と言う話に行き着くのだけれど」

 先刻、ギルガメシュの調略を詐欺商法紛いと扱き下ろしていたザムシードは、
ディオファントスの言葉を咀嚼するよう双眸を瞑っている。

「――我々が裏切られたわけではなく、最初からライアンは信用されていなかったと言うことか」

 会話へ乱入する形となったザムシードの呟きに対して、ディオファントスは首を深く頷かせた。

「それは幾らなんでもライアンさんに失礼ではありませんか? 
立つ瀬と言うものがありませんし、あの状況では他に手はなかったと存じます。
後から当時の選択に苦情を言い立てるのは、さすがに公平とは言えませんよ」

 辛辣にも程があるザムシードの発言をジョウは諌めるが、
アルフレッド自身は揺るがし難い事実と認めており、黙したままで頭を振った。
 執拗な批難に晒されたようなものであったが、ディオファントスと語らう間に思考が整理されたのか、
烈しく喚くほど昂ぶっていた怒気も、現在(いま)は熾火まで吹き消されたように萎んでいる。
 ギルガメシュ打倒の切り札と信じてきた史上最大の作戦が機能不全に陥り、
構造自体の欠陥を理詰めで指摘されたことで、却って冷静になってしまったわけだ。
 連合軍分裂の動揺こそ鎮まってはいないものの、
ここ数日で一番と言って良いほど思考の回路は滞りなく働いていた。
 ただし、深紅の瞳は虚ろである。どこを見つめているのか――否、何を見据えて進めば良いのか、
アルフレッド自身の心が定まっていなかった。

「アル……」
「……アルちゃん」

 ジャーメインとマリスは揃って気遣わしげな表情である。
志そのものが壊されたにも等しいアルフレッドの姿が、ふたりの目には抜け殻のように映ったのだ。
 自身に向けられる眼差しにも勘付かなかったアルフレッドは、
虚ろな瞳が捉えたカフェオレを一息で飲み干した。
 デザートのティラミスと併せて運ばれてきてから長らく放置された為、完全に冷え切っており、
一等深い苦味が口の中に広がっていった。

「どーでもいいんだけど、攘夷の件はどーすんのさ。アタイとしちゃ後回しにして欲しくねーのよ」

 Aのエンディニオンの同胞を襲った無慈悲な暴力――その痕跡を捉えた写真に目を通し、
俄かに体調を崩してしまったライナであるが、休息と食事によって気力も十分に回復し、
無念の中座から勇んで議論に復帰していた。
 ところが、ディオファントスを中心に話し合われるのは、
攘夷とは無関係と思えるBのエンディニオンの事情ばかりである。
 こちら≠フ世界の情勢には明るくない為、すっかり置いてきぼりになってしまい、
白熱する議論の外で飲み物の注文を繰り返すことしか出来ずにいた。
 カフェオレとオレンジジュースを何杯呷ったか、途中からは数えることも諦めていた。
大声を出す度に胃の中身が逆流しそうになるのだが、そこは気合と根性で堪えている。
 電話の向こうのヴィンセントに声を掛ける機会(タイミング)すら逸しており、
話し相手も居ないような状況が長時間に亘って続いたのだ。
 沈黙を好機(チャンス)と見て強引に切り込んだとしても、誰が責められるだろうか。
ビンから露骨に迷惑そうな目を向けられようとも、ライナにとっては、ようやく巡ってきた出番なのだ。

「攘夷も本質的には同じだと思っているよ。ドス黒い負の感情が根っこにあるのだからね」

 ライナの言葉を受けたのは、またしてもディオファントスである。
 口を真一文字に結んで押し黙ったアルフレッドを睥睨しつつ、
Bのエンディニオンで巻き起こる攘夷の本質について己の推論を述べていく。

「ドス黒いっつーか、薄暗いんだよ、アタイに言わせりゃ。
要は生理的にイヤなもんをブチのめして、そんで腹癒せしようって魂胆だ。
そうでなくちゃ、度を越したヘタレだね。クリッターでもない同じ人間相手にビビッてんじゃねーってのよ」
「いやいや、待ちなさい。一口に負の感情と言っても、そこまで底が浅いわけではないのだぞ」
「……おっさんさァ、さっきから偉そうにくっちゃべってるけど、
アンタ、確かヴィクドの人間だったな? こっち≠フことには疎いけど、その名前だけは真っ先に憶えたよ。
勿論、悪ィ意味でな……アンタんとこが攘夷をそそのかしてるんじゃないのかい?」
「事実である以上、世の悪評を否定するつもりはないが、我が兄が手配りをするまでもないことなのだよ。
ライアン君には先程も言ったのだがね、何らかの思想を原因として引き起こされた暴走と言うものは、
その責任を個人に求めることが限りなく難しいのだ」
「ごちゃごちゃと理屈並べやがって! 男ならもっとスパッと言いなっ!」
「――追い詰められた心は、手近な救い≠求めると言うことだよ」

 ライナを相手に論じ続けるディオファントスの声は、今までになく重い。
 悶え苦しむ呻き声のようにも聞こえたアルフレッドは、
石畳に落としていた視線を撥ね上げてディオファントスの面を窺った。
 「手近な救い」と語った彼は、連合軍の破綻を詰っていたときには
決して見せなかった表情を浮かべているではないか。

(……ヴィクドの提督の弟か、これが……)

 何らかの大病によって全身を蝕まれているのではないかと錯覚してしまう程に、
ディオファントスの面は苦しげに歪んでいた。後悔とも悲憤とも取れる深い想念が面(そこ)にはあった。

「エンディニオンの未来を賭けた武力決戦に負け、
かと思えば、ギルガメシュと同じ世界からやって来たっつー企業が土地の買収をおっ始めた。
それからどうなるかと思ってたら、次は領地の権利を差し出せと言ってきやがった。
……生まれ育った惑星(ほし)が、何処からやって来たのかも分からねぇ連中に踏み荒らされてんだ。
『エンディニオンが喰われる』っつって焦って怒って――さて、その矛先は誰に向けられる?」
「それが攘夷だって言いたいのかよ! ギルガメシュやロンギヌスと同じ世界の人間なら誰でも良いって!?」
「人をいたぶるような腐れた趣味なんか分かろうとも思わねぇが、
報復してこないと分かりきってる弱いヤツをいじめるのが腹癒せには手っ取り早ェし、
……こう言うときに真っ先に餌食にされんのが力の弱い人たちだってこたァ、
悔しいけど、歴史が証明してやがるぜ」

 思想あるいは想念の暴発と言う側面を語ったディオファントスに対して、
その根拠と思われる事柄をマイクが付け足した。
 そして、これこそがディオファントスの言わんとした攘夷の本質であった。

「それがアタイには理解できねぇ! 弱い者いじめしたところで何も変わんねぇじゃないのさ!」
「……そうだ、キミの言う通りだよ。誰かに責任を被せても苦境は――……いや、
勝手に苦境と思い込んでいる現状など何ら解決したことにはならない。
ただ、それでも……恨みを慰める救い≠ノはなるのだよ。逆恨みでしかないがね……!」

 ライナの憤りを受け止めた言葉を以ってして、ディオファントスは己とマイクの論に相違がないことを示した。
 唱えた思想を不当な暴力に換えてしまう人間は、心の底から噴き出した恐怖に屈し、
遂には呑み込まれたようなもの――ディオファントスとマイクは、そのように説いた次第である。
 一方のアルフレッドも恐怖と言う強い想念を弄したひとりであった。
即ち、恐怖を策に換えて操ろうとしたと言うことだ。
 その結果は、改めて詳らかにするまでもあるまい。
 極限の焦燥によって突き動かされた攘夷と、本能に訴えかける想念を以ってして人を縛る鎖は、
どちらも脆く壊れやすい。その点に於いては表裏一体の関係にあると、
ディオファントスは語って聞かせたかったのかも知れない。
 ディオファントスの真意を確かめたくなったアルフレッドだが、
声を絞り出すよりも早くライナが発言――と言うよりも反論か――の機会を求めて挙手したので、
対峙の権利は彼女に譲るしかなかった。

「アンタたち、土地の買い上げにまでケチを付ける気かよ。結果的にくそったれたコトになっちまったけど、
難民が安心して暮らせるスペースってのは、どうしたって必要だと思うけどな! 
何がいけねぇってのさ!?」
「それはお前さんがたの見方だ。こちら≠ノはこちら≠ネりの事情がある。
難民支援そのものを突き放すつもりはないが、
異世界の人間の居住区として自分らの故郷(エンディニオン)が買い叩かれていくんだから、
反感持ったって何も不思議じゃないぜ」

 ライナが発した言葉には、ディオファントスではなくザムシードが応じた。
 馬軍の領地を宗主(じぶんたち)の許可も得ずに買い漁ったロンギヌス社に対して
黙っていられなくなったのだ。彼もまた誇り高きテムグ・テングリ群狼領の将である。

「他人の家に泥靴で上がり込んだ人間が、掃除代くらい払ってやるから文句を言うなと居直るようなものだな」
「まぁたヘンな理屈を捏ねやがって! しかも、意味わからねーし!」
「『しかも』と言うのは私の言葉だ。土地の買い占めを偉業のように語っているが、
『ピーチ・コングロマリット』が一枚噛んでいるのだろう? 
あんなヤツらと通じておいて正義を気取るなど片腹痛い」

 「言いたいことは分かりましたよ」と、ザムシードの謗りを受け止めたのは、
電話の向こうに在るヴィンセントであった。
 スピーカーフォンへとモバイルの通話設定を切り替えた際に自己紹介を挿まなかったので、
ザムシードはヴィンセントのことをロンギヌス社の人間とは思っていなかった筈だ。
それらしい言動も聞かれなかった――が、今の応答によって正体を認識したことは間違いない。
 ロンギヌス社が佐志と同盟を組んだことも、
港の一部を借り受け、自社のスタッフを常駐させていることも、ザムシードは把握している。
 おそらく彼の頭の中で、先程の声の主と事前に聞かされていた佐志の情報とが
一本の線で繋がったのであろう。「……耳打ちでもいいから教えておいて貰わんと心臓に悪い」と、
アルフレッドや源八郎に顰め面を向けた。
 そのロンギヌス社が異世界の土地を取り引きするに当たり、
ピーチ・コングロマリットと言うBのエンディニオンの企業が仲介役を務めていた。
 可愛らしい社名とは裏腹にすこぶる評判が悪く、内部では非人道的な所業が内部で横行していると言う。
その風評を誰も疑わないのは、彼らの業務≠ェ悪質極まりないからだ。
 エンディニオン全土――AとB、双方の世界だ――には、
ルーインドサピエンスの遺産と伝えられる正体不明の有害廃棄物が散乱していた。
機械部品が殆どであるが、その技術水準は現代の物を遥かに凌駕している為、
完全に解体することが不可能であり、野晒しのまま放置しておくしかないのが現状である。
 それはつまり、有害物質も分解されないまま地表に吸い込まれていると言うことだ。
これこそが惑星環境を破壊へ、ひいては死滅へと導く原因とも分析されていた。
 塊となった廃棄物を根城にするクリッターも多く、全人類にとっての脅威とも言えた。
 その廃棄物を処理する業者をピーチ・コングロマリットは幾つも傘下に置いている。
 依頼に応じて廃棄物を回収するまでは何の問題もないのだが、処分の仕方が人間界の常識を食み出していた。
有用な土地を買い叩き、そこに大量の有害廃棄物を不法投棄すると言うのだ。
 当然ながら周辺の土壌は瞬く間に汚染されていく。明らかな故意犯であり、許し難い公害なのだが、
退去を訴える住民運動にはピーチ・コングロマリットはアウトローを雇って対処していた。
即ち、暴力を以って解決すると言うことだ。
 新たに立ち上げた廃棄物処理施設にその土地の住民を大量に雇い入れ、
共犯者に仕立て上げることも少なくないと言う。
 社歴がそのまま悪事の積み重ねと言っても差し支えがなく、
それ故に有史以来最低最悪の企業とまで罵られていた。
 真っ二つに割れた桃を社章(エンブレム)として掲げているが、
ピーチ・コングロマリットの実態を知る者にとって、それは凶兆以外の何物でもない。
 何しろ、山岡桃太郎(やまおか・ももたろう)なる社長は、
関わり合いを持ってしまった全ての人間から鬼畜外道と面罵されているのだ。

「こちら≠フエンディニオンでは悪魔の巣窟と吐き捨てられるような会社だぞ。
そんな会社と懇ろな人間が真っ当だと、一体、誰が信じるって言うんだ。
世情を不安に思っている連中を刺激して凶行には知らせたのは、他ならぬロンギヌス社だと思うがね」

 ザムシードの謗りは、ライナとヴィンセントの両名に向けられたものである。
 佐志に在るヴィンセントの表情は判らないのだが、ザムシードの間近に立つライナは、
顔面を真っ赤に染め上げていた。言わずもがな、羞恥でも恋慕でもない。
殺意にまで届き兼ねない憤怒の色であった。

「攘夷とやらに加担したのは貴様らだ。自分たちで同胞を追い詰めておきながら、
他の誰かを標的(まと)にしようって言うのは、少しばかりムシが良過ぎるんじゃないか?」
「おい、この――今のは聞き捨てならねぇッ!」

 果たして、ザムシードが越えてはならない一線を越えた瞬間、ライナは怒号を張り上げた。
 再び旅客や給仕から視線を注がれることになったのだが、それも長くは続かなかった。
 誰の目にも諍いであることは明らかだ。しかも、片方は欠陥が浮き出るほどに激怒しており、
深刻の度合いも並大抵ではなさそうである。巻き込まれない内に目を逸らし、
知らぬ顔を通すのが最良の判断と言うことであった。
 カフェの給仕だけは大弱りの様子であったが、これはマイクが目配せでもって押し止めている。

「――やめられよッ! 今がどのような状況か、御二方とも忘れたのでござるかッ!? 
一切の蟠りを捨て、共に起たねばならぬときにてござ候ッ! 
我らまで物別れしては後代までのお笑い種となり申すッ! そのこと、確(しか)と胸に刻まれませいッ!」

 それに、だ。電話の向こうから飛んで来た守孝の叱声が心に突き刺さったのか、
ザムシードもライナも共に押し黙ってしまった。拗れることが目に見えている口論へ発展する前に、だ。
 咳払いをひとつ挿んだ後、守孝は急に声を小さくして議論の続行を促した。
彼とは長年の親友である源八郎の解説によると、思いがけず目立ってしまって照れているそうである。

「……頭がおかしくなった人間と言うものは、自分が狂乱していると解らないものだよ。
自分が壊れたことに気付けるだけの理性を留めているのなら、そもそも狂気には冒されないがな」

 憤然と吐き捨てたディオファントスの横顔をライナが鋭く睨み付ける。
 これに気付いたディオファントスは、苦々しげに笑った後、
「誤解させてしまったようだな。今のはお嬢さん方のことではないよ」とライナに向かって頭を垂れた。

「或る思想に取り憑かれ、それと同化してしまったような人間は、自分にこそ正義があると信じて疑わない。
自分と、その同志以外に正義はなく、異なる思想も邪悪だと信じ込む――と言うべきかも知れないな。
……私の推論になるが、おそらく攘夷を振り翳す者たちは、
難民を根絶やしにすることが天から与えられた使命だと疑っていない筈だ」
「そ、そんなバカな話があるかよ!?」
「勿論、果てしなく馬鹿げた話だよ、お嬢さん。だが、考えてみて欲しい。
偏った思想に判断力も何もかも委ねてしまった人間に道徳を説いたところで意味があると思うかね。
人間界の常識や倫理であっても、『邪悪な思想だ』と反論されてお終いだ――」

 そこで話を区切ったディオファントスは、次いで広場を観光して回る旅客へと目を転じた。
 自分の視線をライナが追いかけてきたことを確かめた上で、
「同調によって膨らんだ思想は法律さえ踏み潰す。例えば、キミがあの中の誰かに道を尋ねたとしよう。
ただそれだけで話しかけられたほうは標的になる」と言い添えた。
 攘夷と言う過激思想に支配された人間は、母なるエンディニオンから排除すべき対象――
難民と一秒でも接触した者を全て邪悪と断じてしまうと言うことだ。

「――兄を傍で見ていて厭と言うほど分かったよ。偏狂な正義に狂った人間は誰にも止められん。
その正義は外部(そと)からの声まで自動的に遮断してしまうからね。
断言しても構わないが、攘夷を振り翳す人間もアルカークと同じような精神構造になっているだろう」
「ちぃッ……聞けば聞くほど胸糞が悪くなってきやがるわ!」
「……ある意味、アルカークより性質(たち)が悪いのかも知れん。
攘夷を唱える者たちは、何処か特定の軍勢に所属しているわけではなかっただろう? 
独力で決起した一個人と言えるだろうよ」

 ライナに向かって説き続けるディオファントスは、「一個人」の部分で特に語調を強めていた。

「連合軍と言う大勢力が敗れた今、為政者たちに大局を任せてはおけない――
そう考えて決起したのは、一個人≠スちだ。……これほど厄介なものはないぞ。
権力などクソの役にも立たないという反骨心まで入り混じっている筈だ」
「――今ンとこだけを切り取ったら、何とも頼もしいハナシなんだがねェ」

 ヒューの溜め息がモバイルの受話口から漏れた。
 確かに己独りでも起とうとする気概は勇ましく、立派なものだと褒め称えるべきかも知れない。
 問題なのは思想の方向性であり、それが招く結果であった。
何かがひとつ違っただけで、勇敢な魂も暴力の濁流へと歪んでしまうと言うことだ。

「同じ考えや目的のもとで団結することは、ときとして諸刃の剣ともなる。
偏狂な思想が中心にある場合は特にな。そのような状況で徒党を組み、凝り固まってしまうと、
余計に狭い世界≠ノ閉じこもってしまう」
「手前ェだけがエンディニオンを憂う英雄って自己陶酔し始めたら末期的――か?」
「攘夷思想が暴力を伴う段階に入ったことは確認出来た。
しかし、各地の襲撃が連携しているのかは定かではない。
仮に連絡を取り合っているとすれば、おそらく暴力性は更に加速していくぞ。
キミのほうで何とか分からんのか? ヒュー・ピンカートンと言えば、世に知らん者はいない名探偵だ」
「皮肉にしか聞こえねーぜ」
「厭味を飛ばして許されるのは、暢気に言い争いをしていられる平時くらいなものだよ。
今はどうかね? 誰の心にゆとりがある? ……正義を気取って殺戮を愉しむ兇賊は
何としても食い止めねばならん。何が『世直し』だ、浅はかな……ッ!」

 ディオファントスの憤りは、口から滑り落ちた直後に二本の矢と換わり、
攘夷思想と共に実兄のアルカークをも射抜いたように思えた。
 Bのエンディニオンに於いて逸早く難民排除を訴えたアルカークの実弟が
攘夷の本質と危険性を誰よりも理解し、その凶行を警戒するとは何とも皮肉な話である。
 難民排除一色に染まっているであろうヴィクドの只中にて、彼なりに含むところがあったようだ。

「何が『世直し』よ! その正反対をやってるじゃない! 
こんなことで世の中を引っくり返せると思ってるなら」
「そ、それってアタイの台詞じゃねーのかな……」
「誰か≠フ問題じゃない! エンディニオンに生きる全ての人の問題よッ!」

 ディオファントスの発した「世直し」の一言に対し、ライナよりも先にジャーメインが反応を示した。
 犠牲になっているのは異世界の難民なのだが、死屍累々の惨状を――難民襲撃の現状を
目の当たりにしてしまったジャーメインにとっては、最早、自分自身の問題となっている。
これを己には関わりが薄いと言って看過することは、彼女の『義』が許さないのであろう。
 ジャーメインが吼えた『義』に感銘を受けたらしいライナは、
瞳を輝かせながら「このヤロウ! 最高だよ!」などと雄叫びを上げていた。
互いの握り拳を打ち合わせる辺り、一瞬にして馴染んだ様子だ。

「……話が行ったり来たりしている気がするんだが……」

 皆の話に黙して耳を傾けていたアルフレッドが、議論の迷走を静かに指摘した。
今の自分には発言権などないと考えているのか、その声はジャーメインと比して極端に小さかった。
 虚ろな瞳でモバイルを眺める姿は、まるで精根尽き果てた老境のようだ。
マリスが心配そうに寄り添っているが、満足に励ますことも叶わず、俯き加減で唇を噛み続けていた。

「――丸ごと全部忘れて、一遍、仕切り直しするしかねぇよな」

 椅子から立ち上がってアルフレッドの傍らへと歩み寄り、彼の肩や背を幾度も叩いたマイクは、
仲間たちの顔を順繰りに見回した後、これから先の指針を示した。
 端的に表すならば、全ての計画を振り出しに戻すと言うことだ。
 この場合の全て≠ニは、攘夷思想へ打ち込むべき楔≠ホかりではなく、連合軍の編制をも含んでいる。
 史上最大の作戦は建て直しが不可能なほどに破綻しているので、練り直しを要する案件とは見做されない。
不要なものを悉く切り捨て、一種の最適化を図る為の振り出し≠ネのだ。
 勿論、自分たちだけ振り出し≠ノ戻したとしても、これを取り巻く周囲の状況が変わるわけではなく、
本当に全て≠忘れることは出来ない。
 連合軍の中には裏取引を遮断して踏み止まっている同志も少なくない。
また、エルンストが収監されている事実は、どのような詭弁を弄したところで覆せるものではない。
 抜本的な改革へ取り組むくらいの気構えで臨むと言うことである。
 こうしている間にも攘夷の犠牲者は増え続けているのだ。連合軍からの寝返りも同様である。
便々と議論を重ねるのではなく、今は舵を切る機(とき)であった。

 しかし、マイクの示した指針に対して、あろうことか、ディオファントスは顰め面を見せた。
躓いている場合ではないと言うのに、早くも足並みを乱した恰好である。

「キミが次の旗頭になると言うことかな? 冒険王の名声は馬軍の覇者に勝るとも落とさないだろうが、
今となっては些か難しいのではないか。事情と言うか、裏の戦略があるとは言え、
キミはギルガメシュとの交渉に応じてしまったんだ」
「ん? 何? ドク≠フことを言ってんのか?」
「勿論。他に挙げるべき人物を私は知らないよ。……酷な言い方かも知れんが、
大敵相手に屈してしまった段階で、リーダーとしての資格は消滅したも同然だ。
一体、どれだけの同志が随いてきてくれるか――ハッキリ言って、今の私にも読めん」
「おいおい、先走って勝手に想像膨らますなよ。あのな、ザムシードにも話したんだけどよ、
オレにはアタマ張る気なんかさらさらねーんだよ。ましてや、そんなデケェ器でもねぇ」
「そうそう、便座くらいの大きさでしかないんだからさ、コイツの器なんて」
「てめーに言われるとやたら腹立つな、銀蝿! ティッシュで包んでトイレに流してやろうかッ!?」
「――いいんじゃないか? 私は御屋形様の後任の主将として推しても構わんよ」
「お、おい、ザムシード!? お前、言ってることがあべこべじゃねーか!」
「何もかも振り出しに戻すって話し合いだろう? だったら、掌を返しても問題なかろうさ」

 マイクが連合軍の主将を引き継ぐと言う話――半日前のザムシードであったなら、
ディオファントスと同じように眉間に皺を寄せただろうが、
現在(いま)の彼はタバートの限界を見てしまったような心持ちなのである。
 テムグ・テングリ群狼領の御屋形として再びエルンストを迎える為には、
誰が連合軍の主導権を握るのかと言うこだわりも捨てなくてはならなかった。
 冒険王の威光を以ってすれば、裏工作によって分断された連合軍も勢力を盛り返すかも知れない。
 テムグ・テングリ群狼領にとって、これは死活問題なのだ。
勝機が全く摘み取られてしまったなら、エルンストが愛した馬軍は内側から崩れ去ることだろう。
ギルガメシュへ擦り寄る絶好の機会を見逃すタバートではあるまい。

 一方のアルフレッドは、自分を励ましてくれたマイクの面を見上げながらも、
在野の軍師としての引き際ばかりを模索していた。
 復讐を果たし、ベルを奪い返すまではギルガメシュと戦い続ける覚悟だ――が、
史上最大の作戦を取り仕切れなかった以上、これまでの役目だけは降りなくてはならないと
アルフレッドは思い詰めていた。
 それどころか、作戦家としての己の才にも見切りを付けている。
 無血開城前のハンガイ・オルスでは連合軍諸将の前で論陣を張り、乾坤一擲の秘策を練り上げたつもりだ。
これを徹底させる為に多数派工作にも奔走し、満足の行く成果を出せたものと考えていた。
 しかし、蓋を開けてみれば、綻びだらけの作戦であり、上手く機能すると思い込んでいたのは、
立案者たるアルフレッドや、その周辺のみと言う救いようのない結末であった。
 持ち得る限りの知恵と力を注いだにも関わらず、何の意味もなかったのだ。
 文字通り、身体を張る一幕もあった。まさしく全身全霊を尽くせば、
同志の魂を奮い立たせ、その心まで動かすことが出来る。
『人の和』を結び合わせることが叶うと信じ抜いてハンガイ・オルスを駆けずり回ったのだが、
それも身の程知らずの思い上がりだったと言うことである。

(――何もかも終わった……)

 全て≠振り出しに戻すと言うことは、即ち、光の中に去っていった決死隊についても
不要と断じて切り捨てなくてはならないわけだ。新たな作戦に有益な効果も生み出さないばかりか、
感傷と言う名の足枷になり兼ねない。
 過去に囚われて前進を妨げることは、仕切り直しに於いて最も避けるべきであった。

(一番、過去に囚われている俺は……そんな俺には、もう講じる策など残っていない……)

 それ故に――と、アルフレッドは心中にて慟哭した。
 自分たちが今から行おうとしている仕切り直しとは、決死隊の戦いを無に帰すことと同義であり、
最早、フィーナたちに顔向けがならない。何ひとつ報いることが出来なかったと
詫びる資格すら失ったようなものだ。
 斯くなる上は、偉大なる冒険王に再起を託すことが最善の選択であろう。
身を引く決意を固めたアルフレッドが口を開こうとした瞬間(とき)――

「――ライアン! おい、聞こえてるか、ライアン? 居眠りしてるんじゃないだろうな?」

 ――電話の向こうからヴィンセントが声を掛けてきた。
 出端を挫かれる恰好で名前を呼び付けられたアルフレッドは、幾度か口を開閉させた後、
「確かに天気は良いかも知れないが、そんなに暇じゃない」と、しどろもどろに答えた。

「決めたぜ、俺は。万国公法に基づいてギルガメシュを提訴する。
方々(ほうぼう)を脅して立ち上げた幕府に正当性があるのかどうか、
こうなりゃ法廷で白黒付けようじゃねぇか!」

 ヴィンセントから発せられた驚愕の宣言にアルフレッドが呆然となったのは、
改めて詳らかにするまでもなかろう。




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