14.両軍師の痛み分け


「――ギルガメシュがやってることは何だ? あれが中央政府を作ろうって連中のすることか? 
政治に裏取引は付き物だが、幾ら何でも度を越してやがる! 
……武力を背景にして統治権を掻っ攫うやり方は万国公法で認められたもんじゃねぇし、
何より国際社会が許しちゃならねぇ! 人質を使って領有権をブン捕るなんざ持っての外だ! 
人質行為防止条約にも完全に抵触していやがる……成り立ちから何から全部違法だぜ! 
どうしても頂点(てっぺん)取りたいなら、公平な選挙でキメやがれって訴えてやらぁ!」

 ギルガメシュを提訴する――そう気炎を吐くヴィンセントは、平素の口調から大きく変わっていた。
 ロンギヌス社の兵器コーディネーターとして海千山千の交渉相手と互角に渡り合い、
且つ、重要な折衝を会長から任される程の知恵者であるヴィンセントは、他人には決して隙を見せない。
 若年ながら国際的な弁護士としても実績を積んできただけに、
立ち居振る舞いは礼儀正しい好青年そのものであるが、
感情が昂ぶってくると、途端に素の部分が露になる。ビジネスライクとは対極にある顔が、だ。
 現在(いま)のヴィンセントは激情を剥き出しにしている。
 それでも、「法廷で幕府の正統性を問う」と言う立案に関しては法的な根拠を冷静に並べており、
怒りの炎で思考回路が焼き切れたわけではないようだ。
 激烈な感情と沈着な理論を同時に宿した弁護士は、
少なくともアルフレッドにとっては意外なものではなかった。
裁判の傍聴へ赴いた折には、今のヴィンセントと同じような弁護士を幾人も見ていたのである。
 相反する二種の力を掛け合わせたものこそが正義の迸りであり、
嘗てアルフレッドが夢見た弁護士の戦いであった。
 ヴィンセントは兵器コーディネーターではなく弁護士としてギルガメシュに戦いを挑もうとしている。
万国公法――即ち、国際法に基づいて幕府成立の是非を問う構えだ。

「ちょっと待て、コクラン。少し落ち着け、お前こそ短慮が過ぎるぞ。
無茶苦茶な軍事政権は作らせてやれば良いんだ。そこが俺たちの狙い目でもあるんだからな」

 今まさに手放そうとしていた『在野の軍師』と言う役目に引き戻されたアルフレッドは、
訴状を握り締めて駆け出しそうな勢いのヴィンセントを電話越しに宥めた。
 マイクによって示されたのは今後の指針だけであり、具体的な計画は話し合われてもいない。
そのような状況で誰かひとりが先走ってしまうと、帳尻を合わせる為に余計な行動(うごき)が増え、
回り回って悪い結果を招くかも知れないのだ。
 法律を以って幕府を糾弾すると言う戦術は、確かに悪くはないのだが、
今のアルフレッドには――弁護士を夢見た青年ではなく『在野の軍師』としては、
自重を促すことしか出来なかった。

「――はぁッ!? 振り出しに戻すと言っておいて、そこは継承するのかよ! 
何処から何処までを残して、何を切り捨てんのか、ハッキリして貰わねぇとこっちだって動きようがねぇぞ!」
「それを話し合う前にお前が突っ走ったんじゃないか。……気持ちが分からないでもないが」

 いきり立つヴィンセントを電話越しに抑えるのは一苦労である。
同じ空間に在ったなら、意思疎通も迅速であったに違いない。
 これ程までに距離と言う概念(もの)がもどかしく思えたのは、
アルフレッドの人生に於いて初めてであった。

(……万国公法が有効な範囲や法的拘束力――それを詳しく聞きたいだけだろう、お前≠ヘ……)

 古傷めいた想い出が疼いたことに自嘲の笑みを浮かべながら、
今一度、アルフレッドは「軽はずみな行動はくれぐれも自重してくれ」と繰り返した。

「ユニークな会話を楽しませて貰いましたよ。似た者同士と言うのは、お喋りの内容まで似通うのですね」
「そっくりだよなぁ、アルとヴィンセントってよ。クソ真面目っつーかなんつーか……」
「ねぇ、アル、憶えてる? あんた、マコシカで揉めたときにうちの文化を片っ端から調べたでしょう? 
それと同じようにね、バンコクコーホーとやらの辞典を物凄い勢いで読み耽ってたよ。
アルのときがどんな風だったのか、あたしは見てないけれど、
多分、こんな感じだったのかなーってね。妙に感心しちゃったわ」

 ヴィンセントの熱弁に続いてモバイルから聞こえてきたのは、セフィとピンカートン夫妻の笑い声だった。
 どうやら、電話の向こうではギルガメシュを提訴する準備が具体的に進められていたようだ。
ヴィンセントが議論に殆ど加わらなかったのは、手持ちの法律書から必要な箇所を抜き出していたからである。
彼の頭の中では訴状の文面まで練り上げられていることだろう。
 アルフレッドの隣で話を聞いていたマイクも、「ケンカ好きってトコも似てるぜ」と苦笑いを浮かべている。

「――コクラン、いいか? お前たちの側のエンディニオンはどうか知らないが、
こちら≠ノは国際的な法廷と言うものが存在しないんだ。
訴えを起こそうにも届け出る機関がなければ、どうしようもない。
まさか、地方の裁判所から提訴しようと言うわけじゃないだろうな? 
まず間違いなく受理されないぞ。話を聞く限り、こちら≠フ裁判所の機能を完全に超えている」

 ヴィンセントの戦意は頼もしいが、しかし、アルフレッドは制止の声を掛け続けるしかない。
それが『在野の軍師』としての役目なのである。

「俺たちが生まれ育ったエンディニオン≠フ都市だってこっち≠ノ飛んで来てるんだ。
つまり、万国公法を取り扱える裁判所も入ってるってことだぜ。きっとスタッフとワンセットでな。
そこから提訴すれば、やってやれないことはねぇ」
「おそらくギルガメシュは幕府の名のもとに都合よく国際法を作り変える筈だ。
お前のような指摘を封殺出来るようにな。……そこまで奴らが暴走してから叩けば良い。
好き勝手やれるのが政治じゃないってことを思い知らせてやれ」
「アホ面晒して眺めてろってか!? 打てる手は打っておかなきゃならねーだろ。
法律の改正なんて死ぬほど厄介なもん、一朝一夕でやれるもんじゃねぇ。時間は俺たちの味方なんだぜ?」
「第一、国際法や国際条約をテロ組織が守ると思うか?」
「ヤツらは幕府を正当化したいんだぜ? その根拠を蹴っ飛ばすようじゃおしまいだ」
「俺が言いたいのは、そこじゃない。……テロ組織を甘く考えるな。法律は銃弾を防ぐ盾にはならない。
向こうにとっても今は微妙な時期だ。下手に刺激すれば確実に生命を狙われるぞ。
時機を見ろと言ったのは、そう言う意味だ」
「それこそ、お前、今が立ち上がる時機だぜ。司法の危機でもあるんだよ、これは!」
「……何?」
「暴力で押し切っちまえば選挙も何も要らないって世界中が認識してみろよ。
法律もクソもねぇ時代の始まりだ。……これでも弁護士の端くれなんでね。
司法の信頼は生命より大事なんだ。それを守る為なら生命を投げ出すのも惜しかねぇんだよ」
「……コクラン……」

 司法を守る為には生命を投げ打っても惜しくはない――ヴィンセントの一言にアルフレッドは息を呑んだ。
 嘗て弁護士を志したアルフレッドにとって、その言葉は余りにも重かった。
確かにギルガメシュが据えようとしている幕府は、それ自体が法律を愚弄する行為に他ならない。
法律に基づく公正な手段――最たる例が選挙であろう――を取らずに権力を握った者を容認しては、
司法の信頼は根底から覆される。
 このような事態にヴィンセントが憤慨するのは至極当然であった。
 さしものアルフレッドも、この瞬間ばかりは心が揺らいでしまっている。
古い夢が『在野の軍師』としての気構えを僅かでも上回っていたなら、説得の言葉まで完全に止まっただろう。
 しかし、双肩に圧し掛かる「責任」の二字が彼の意識を現実へと立ち戻らせ、
「司法の信頼はいずれ取り戻せ=B攻撃材料は最も効果のある時期に使うべきだ」と、制止の言葉を紡がせた。

「幕府に物申すっつって一石投じておけば、それが時限爆弾になるかも知れねぇじゃねーか。
……それによォ――お前らの同志だって、何とかして繋ぎ止めなきゃならないんだろ?」
「――然り。ライアンさんが仰った『人の和』は切り捨てるとしても、
連合軍全体の兵力は無視するべきではありません。ひとり離脱する毎に何百何千の兵が敵方に付くと言うことです。
人材の流出と言う点に於いても、得策とは思えませんね」

 最後の言葉はマイクの傍らに控えていたジョウ・チン・ゲンのものである。
 ジョウは同志の離脱が連合軍に与える損害を現実的な面から捉えていた。
あるいは即物的な問題と言い換えられるのかも知れない。
 将たちの背後には領内の総ての兵が控えていると考えなくてはならない――そのようにジョウは説いたわけだ。
このまま同志が減り続けたなら、アルフレッドたちは死の包囲網の只中に取り残されてしまうだろう。
比喩でなく世界中が敵に回ったなら、逆転の機会を窺うどころではあるまい。
 そのときにはグドゥーも――と言うよりはクレオパトラが――ギルガメシュへ降るように思われる。

「……ん? 聞いたことねぇ声が混ざってんな――ライアンの助手か? 軍略にも詳しいみてーだな?」
「そんな大それた者ではございませんよ。ただ、私の祖国にも群雄割拠の時代がありましてね。
離合集散の恐ろしさは知識としては存じております。私の喋り方が軍人のように聞こえたのでしたら、
……そうですね、家族や友人が国軍に務めておりますので、その影響ではないでしょうか」
「俺らの同胞≠ゥ、あんた?」
「ええ、今はマイクさんのもとでお世話になっておりますよ」

 ヴィンセントとジョウの会話へ耳を傾ける中、
アルフレッドは以前に知り合った教皇庁の神官のことを想い出していた。
 ゲレル・クインシー・ヴァリニャーノのことである。
 ギルガメシュ打倒を志してテムグ・テングリ群狼領に身を寄せていた彼女は、
マイクの従者としてハンガイ・オルスに現れたジョウを一瞥するなり、軽蔑の念を露にしたのだ。
 悪名か、美名かはともかくとして、『ジョウ・チン・ゲン』の名前は、
Aのエンディニオンでは広く知られている様子であった。
 そのことを弁えているからか、ジョウ自身もヴィンセントに名前を明かそうとはしなかった。
 クインシーはジョウを指して「人類史上最悪の盗掘人」などと罵っていた。
同志の一員たるヴィンセントには、その汚名を聞かせたくなかったのかも知れない。
 電話の向こうに在るレイチェルは、クインシーがジョウを痛罵する様を間近で見ていた。
 ヴィンセントと語らう声の主がジョウであることにも気付いている筈だが、
やはり、彼の正体は明かさずに伏せている。この場にて悪名を持ち出せば、
無用な諍いを招く恐れがあると判断したのであろう。
 一方のライナは純粋にジョウの顔を知らなかったようで、
彼には目もくれずジャーメインと熱心に話し込んでいた。

「世話した憶えはねぇんだけどな。どっちかって言うと、オレのほうが世話になっちまってるよ。
せいぜい寝るところと食うもんを都合したくらいだし、お釣りが来るくらい助けてもらってらァ」
「……そう言って頂けると光栄ですよ」
「持ちつ持たれつで上手い具合に回ってんだな、あんたたち。
他所もあんたたちみたいに手を携えていければ理想的なのにな――」
「悲しいことですよ、同じ難民としては……」

 すぐさまマイクもジョウの意図を読み取り、彼の名前を出さずにヴィンセントとの会話へと加わった。
 これを見て取ったティンクは、ジョウの名前を伏せておくよう目配せでもって皆に求めていく。
言わずもがな、ライナ以外の人間に、だ。
 映像を伴わない電話である為、現地の様子に確かめることは出来ないものの、
おそらくレイチェルも同様の配慮を尽くしていることだろう。
 聡いヒューやセフィのこと、レイチェルに釘を刺されるまでもなく禁句を弁えているのかも知れない。
無論、守孝とてジョウと接した人間である。皆の様子から事情を察し、口を噤む筈である。
 互いの姿を視認出来ないと言う状況が効果的に作用し、ジョウを交えた話し合いは滞りなく進んでいった。

「――けど、理想は理想、現実は現実だ。攘夷の流れも早々に断ち切っておかねぇと。
……なぁ、ライアン。ここはひとつ、俺に任せちゃくれねぇか!? 
提訴がダメだって言うなら、俺ひとりでギルガメシュの本拠地に乗り込んでやるさ。
直接、ヤツらの違法性を追及してやる」
「大した自信だな」
「ワーズワースでもギルガメシュに交渉の場をセッティングさせたんでな。
テーブルまで誘き寄せちまえば、こっちのもんだ」
「……さっきのは皮肉だ、莫迦。人質がひとり増えるだけだ。もしくは、また胸糞の悪い映像が生中継される」
「言った筈だぜ、司法の信頼を守らなきゃならないときに、自分の無事なんか心配しちゃいられねぇ。
……俺が幕府を牽制している間に攘夷を取り締まれば良いんだよ。一種の時間差攻撃だぜ」
「ロンギヌスの会長はどうする? お前に何かがあったら、困るのは俺たちだけじゃない」
「……最悪のシナリオになっても、サーディェル会長はきっと認めてくれるさ。
その前にイヤってくらい叱られると思うけどな」
「ヴィンセントの言う通りだぜ。おやっさん――サーディェル会長はよ、
社員がどんなにムチャしても、それが正しい理由なら絶対に褒めてくれるんだ」

 ロンギヌス社会長の為人(ひととなり)にまつわる話に応じて、ライナも力強く頷いて見せた。
 ふたりの言行にはサーディェル会長に対する全幅の信頼が窺える。
対面は言うに及ばず、声すら聞いたこともないアルフレッドであるが、
ロンギヌス社の会長が類稀なる度量の持ち主と言うことは理解出来た。
流石はAのエンディニオン最大の軍需企業を統べる傑物と言うべきであろう。
 『サーディェル・R・ペイルライダー』と言う名前には不思議と懐かしさを覚えるのだが、
異世界に古くからの知人など居る筈もなく、単なる記憶違いであろうと心中にて結論付けている。

「ふんふん、なるなる、なァるほど――おおよその事情は分かったよ。
ちょっとだけ時間を貰えたら、ステキにジェノサイドな新兵器をプレゼントするよ? 
寝返った連中には死ぬより怖い目に遭ってもらえばいいじゃん」

 モバイルの置かれたテーブルから少し離れた場所に腰掛けていたビンが、この上なく不穏なことを口走る。
機械の分野(せかい)に於いて神人の如く崇められる男が、
腕によりをかけて殺戮兵器を開発すると言い出したのである。
 冒険王の仲間とは思えない程に短絡的と言おうか、刹那的と言おうか。
一同は揃って顔を引き攣らせ、ティンクは何処からともなく取り出したハリセンでもって
ビンの頭を思い切り引っ叩いた。
 紙で作られたハリセンながら内部には薄い鉄板が仕込んであるらしく、辺りに鈍い音が轟いた。

「ギルガメシュが力ずくで政局を歪めようとしているんだ。同じ手段でやり返したら泥沼に嵌り込むぞ。
新兵器は心強いが、武力で反撃するチャンスが巡ってくるまで披露は控えておくように。
電話口の彼の話ではないが――暴力の応酬が行き着く先は無法の世界だけだ」

 脳にまで達したであろう衝撃に悶絶するビンに向かって溜め息を吐きつつ、
ディオファントスは今までの経緯を振り返るような言葉を選んで彼を窘めた。

「ティンクもアンタも、アタマがカタいんだから〜。
ボクらに逆らったらヤバいことになるんだって、イイ見せしめになると思うだけどなァ〜」
「おおよその事情が分かったと言ったのは、一体、何処の誰だ? 
……恐怖で人を縛ることは出来ない。それが出来ていれば、慌てふためくこともなかったのだよ」
「――はいはい、後は身内(こっち)で始末するから、ナイスダンディはちょっと下がってて頂戴な」
「ちょっとタンマ! マジでタンマ! いいの!? すっごい損害だよ、もう一回、ハリセン食らわすのは! 
ボクのデリケートな脳細胞が無駄にコワれるよ!? 天才的な閃きだって鈍るかもだよ!?」
「ティンク、フルスウィングで行ったれ」
「マイク、キミはマブダチを――わ、わあああぁぁぁァァァッ!」

 風切る轟音の直後に響いたビンの悲鳴はともかく――
暴力の応酬は無法の世界に通じると言うディオファントスの論は、
またしても事態の本質を捉えるものであった。
 古代の神秘とも言うべきレリクス(聖遺物)を使いこなす冒険王や、
彼が誇るビッグハウスの仲間だけでも圧倒的な戦闘力となり得る。これは間違いない。
ハリセンによる連打で沈められたビンも、合戦の場に立てば、数々の兵器を駆使して敵陣を粉砕することだろう。
 だが、個々人の力が幾ら優れていても、大局には殆ど影響を及ぼさない。それが戦争と言うものだ。
ましてや、アルフレッドたちが臨まんとしているのは、世界の統治の在り方を問う争いである。
単純な力比べで決着がつくようなものであれば、ここまで拗れることもなかった筈なのだ。
 暴力の応酬とは異なる解決策を模索しなくてはならなかった。
武力を以って逆襲するのは、争乱の最終局面――幕府が統治機構として破綻した時機(とき)だ。

「――エンディニオンに知らしめる……か」

 これはアルフレッドの発した一言であった。
 ディオファントスに論破されて以来、他者の話に耳を傾けるばかりで
自らの策を述べてこなかった『在野の軍師』が、ビンの発言を受けて双眸を見開いていた。
 人間が何らかの着想を得た際に見せる自然な反応である。
 脳裏に閃いたことを口にするべきか否か、先ずアルフレッドはディオファントスを一瞥した。
先程、舌戦を繰り広げた相手ではあるものの、今は『在野の軍師』の発言を待っているように思える。
 明らかな誤りがあったときには反論するだろうが、最初から意見を切り捨てるつもりはなさそうである。
それが証拠に、アルフレッドの視線に勘付いたディオファントスは、徐(おもむろ)に頷いて見せた。

(……浅はかな判断が招く結果を、奴らに思い知らせることが出来れば……)

 アルフレッドの脳裏に浮揚するのは、ここに至るまでに見聞きした幾つかの情報である。
 難民を死の竜巻で飲み込んでいく攘夷思想。正当とは言い難い手段を以って成立し掛けている幕府と、
これに迎合しようとするBのエンディニオンの寝返り者たち。
また、ジョウが指摘した連合軍諸将の離脱が引き起こす問題や、
ヴィンセントが唱えた幕府への牽制も入り乱れている。
 そして、恐怖では人の心を縛れないと言うディオファントスの叱声――

(……恐怖は鎖と成り得る――)

 ――数多の情報が頭の中でひとつに融合した瞬間、アルフレッドはジャーメインへと目を転じた。
 強い眼差しで見つめられていると気が付いたジャーメインは、一瞬だけ気恥ずかしそうに視線を逸らしたが、
間もなく深紅の瞳に異様な気配を感じ取り、その面に緊張を漲らせた。
 アルフレッドは瞳の奥に禍々しい何か≠宿している。
視線を交わしていると、魂を吸い尽くされてしまうのではないかと錯覚する何か≠ナあった。
 それでも、ジャーメインは深紅の瞳と向き合い続ける。ただ黙して、アルフレッドを見つめ続ける。
 全身を弄(まさぐ)る戦慄に屈して顔を背けたなら、
その何か≠ノアルフレッド自身が囚われてしまうように思えたのだ。
 ジャーメインにとっては、そのことが何よりも恐ろしかった。
 恋敵のひとりとして警戒していたジャーメインがアルフレッドと向かい合っている――
この状況をマリスが心穏やかに眺めていられる筈はないのだが、
しかし、己の身を両者の間に割り込ませることもなかった。
 マリスもまたアルフレッドの瞳に宿った何か≠ノ気付いていた。
ジャーメインとの違いは、身の裡を這い回る怖気に縛られ、居竦んでしまった点だ。
 俯き加減で身を強張らせた彼女には、恋敵――仮想敵と呼ぶのが正確に近いだろう――を
牽制することも叶うまい。

「――トリーシャ、そこに居るか?」

 ジャーメインと見詰め合ったまま、アルフレッドはモバイルの向こう側に話し掛けた。
 声を掛けた相手は、ヒューたちでもヴィンセントでもなく、
議論にも加わらずに押し黙っていたトリーシャである。

「出番がないから昼寝でもしようと思ってたところよ。なになに? 特ダネ?」
「今から重要な写真を持って源八郎が佐志に戻る。それを記事にして全世界にバラ撒け」
「俺ですかい!?」
「ちょっと、割り込まないでよ、源さん――で、何の写真よ?」
「……攘夷の実態だ」

 アルフレッドが何を言いたいのか、その真意をジャーメインは測り兼ねていた。
 最初は言葉通りに「攘夷の実態」を世界中に知らしめるのが目的なのかと思った――が、
『在野の軍師』が打算もなくトリーシャに報道を命じる筈もなかった。
 これは報道であって報道ではない。歴(れっき)とした情報戦なのだ。

「それだけじゃ抽象的過ぎるわよ! ……ねぇ、アル――あんた、一体、何を企んでるワケ? 
攘夷の実態って、とどのつまり、其処彼処の難民が襲われてる件でしょ? 
ニュースバリューはベテルギウス・ドットコムに負けないくらいデカいけど、
このタイミングで出すからには、それなりの理由があるんじゃない?」

 ジャーメインばかりでなくトリーシャもアルフレッドの意図を掴み兼ねており、
攘夷の実態を公表することで如何なる効果を狙っているのか、その詳説を求めた。
 こうして特ダネ≠提供するのは、自分が書く記事に何らかの期待を寄せているからに違いない。
彼女とてアルフレッドとは付き合いが長いのだ。それくらいのことは容易く察せられた。

「今はまだ新しい体制の全体像も見えていない。急いてはことを仕損じると言うことだ……が、
ここはコクランの助言に従って幕府の動きを牽制することにしよう」
「訴状を作り始めるか!? それとも、旅支度のほうか!?」
「焦るなと言ったばかりだ、コクラン。……牽制すると言っても、表立って行うわけにはいかない。
相手が自ら過失に気付くよう仕組まなくてはならないんだ。
……それと併せて、同志の寝返りも食い止める。ギルガメシュに靡きかけていた連中も考えを改めるだろう。
いや、改めざるを得なくなる」
「だーかーらー、今の話がどうして攘夷に繋がるのよ。
襲われた難民の親族を記事で煽って、ヴィンセントの代わりに訴えでも起こさせようっての?」
「本当の狙いは難民じゃない。一緒に襲われた人間だ。……つまり、俺たちの同胞≠セ」
「……ますます、話が読めなくなったんだけど……」

 電話の向こうのトリーシャは、その弱々しい声色からして未だに要点まで辿り着いていない様子だ。
 一方のマイクとザムシードは、トリーシャよりも先にアルフレッドの真意を見抜き、
黙したままで意味ありげな視線を交わしている。
あるいは、セフィとピンカートン夫妻も同様の反応を見せているのかも知れない。

「詳しい話は源八郎から聞け。足りないようなら俺からも説明する」
「今、しなさいよ! 原稿書くのだって大変なんだから、証拠物件が届く前に概要は把握しときたいのよ! 
公表するのは一日でも早いほうが良いんでしょう!? ……だったらッ!」
「分かった――犠牲者の中には難民を支援した人間も含まれているんだ。
難民に土地を提供した者はおろか、僅かに食料を提供した村まで皆殺しにされている。
……難民の別の言い方は何だと思う、トリーシャ?」
「きゅ、急に聞かれても! 異世界の人たちって言えば良いのかしら?」
「そうだ。そして、その異世界の人間で構成されたテロ組織がギルガメシュだ。
……ほんの少し、難民の手助けをしただけで標的にされるんだぞ? 
難民保護を掲げるギルガメシュに迎合しようものなら、攘夷を唱える連中はどんな行動に出るのだろうな?」
「死ぬより惨い目に遭わされる――ってワケね」
「俺たちの耳に入っていないだけで、そんな事件が既に起きている可能性もある。
そこ≠ェ要点だ。難民襲撃の実態を明かしながら、誰でも犠牲者になり得ると匂わせろ。
統治権をギルガメシュに渡したら最後、必ず攘夷の標的にされる。今や攘夷はどこでも発生するのだ、と。
安易に寝返りなど考えられなくなるくらい強調してやれ」

 トリーシャに概要を説き聞かせるアルフレッドは、依然としてジャーメインの面を見据えていた。
 彼女の顔色が見る間に変わっていくのが分かった。
「或る形相へと変貌した」と表すほうが、より正確に近いのかも知れない。
 それでも、アルフレッドが口を噤むことはない。
ジャーメインの面が憤怒で満たされていく様を見極めながらも、だ。
 連合軍の作戦を司る『在野の軍師』――それが現在のアルフレッド・S・ライアンである。
例え、如何なる理由があろうとも、一度、語り始めた謀略を途中で引っ込めることは許されないのだ。

「結局のところ、それがキミの限界かね、ライアン君。恐怖で人間を押さえ付けようと言う……」
「抜本的な解決になっていないことは百も承知だ。その場しのぎの浅知恵と言うことも間違いない。
だが、コクランたちが言ったように、今、打っておかなくてはならない手であることもまた事実だ。
同志を裏切ろうと言うような連中を釘付けにするなら、やはり恐怖が一番効く。
……ギルガメシュにも同じことが言える筈だ。自分たちの裏工作の所為で難民が襲われたと知れば、
必ず動きは鈍くなる。上手く行けば、強請り紛いの交渉自体を打ち切るかも知れないぞ」
「……否定はしないがね」
「肯定しなくても良い。……負け犬の遠吠えみたいなものだからな」

 苦々しげな表情を浮かべるディオファントスではあるものの、アルフレッドの立案に理解は示したようである。
搾り出すかのような溜め息の後(のち)に、手厳しい批難は続かなかった。
 少しでも幕府寄りの言行を取れば、ただそれだけで攘夷の名の下に虐殺される――
これほどまでに恐ろしく、また効果的な抑止力は他にはあるまい。
寝返り者は言うに及ばず、ローカル局でさえ自重せざるを得なくなるだろう。
 つまり、アルフレッドは八方塞にも近い危機的状況を逆に利用する策を編み出した次第である。
 立案者のアルフレッドと雖も、一〇〇パーセントの効果は期待していない。
例え、恐怖に晒されようとも、将来的な安寧を求めてギルガメシュに走る勢力は必ず現れるだろう。
 その反対に位置する者たちが、アルフレッドの策で炙り出されるわけである。
少しばかり揺さ振りを掛けられた程度で二の足を踏むとすれば、所詮は命懸けの志ではないと言うことだ。
即ち、取るに足らない羽虫の如き輩である。
 本当に頼りになる同志は誰か。誰が弾除けの役にも立たないのか。
これらを振り分ける機能をも内包しているわけだ。

「――とりあえず、そこから始めてみるとしようぜ。オレはアルの作戦に賭けてみてェな。
問題は記者サンが攘夷の標的にされるんじゃねぇかっつートコだけどよ」
「心配御無用に存ずる。我ら佐志の精兵でトリーシャ殿は必ずやお守り申す。
佐志そのものを狙わんとするならば、死の風であろうと受けて立つ所存にてござ候」
「テムグ・テングリも力を尽くそう――御曹司がこの場に居られたなら、同じことを言っただろう。
……タバート様とて、ギルガメシュに楯突くものでなければ文句は付けられまい」

 マイクとザムシード、電話の向こう側に在る守孝もアルフレッドの策を容れた。
 守孝は佐志を、マイクはビッグハウスを、それぞれ取り仕切る立場に在る。
ザムシードはエルンストの御曹司の名代として水の都に派遣されている。
この三人の承認に加えて、ヴィクドのディオファントスも「やってみたまえ」と同調する意向を示していた。
 連合軍に於いて絶大な影響力を持つ者たちが揃って賛成したことにより、
アルフレッドの策は纏まるかに思われた――が、それも一瞬の後(のち)には再び緊張状態を迎えてしまう。
 水の都に相応しい太陽と蒼空の下に漂うのは、これまでになく張り詰めた空気である。

「ふざけんじゃないわよ――やっていいことと悪いことがあるでしょうがッ!?」

 アルフレッドが奇策の概略を説明し終えた瞬間、ジャーメインは弾かれたように椅子から立ち上がり、
次いで怒号を引き摺りつつ『在野の軍師』に飛び掛かっていった。
 突然の爆発――鬼のような形相に変わると言う予兆があったにせよ――と言うこともあり、
近くに在った源八郎やジョウでさえ止める遑もなかった。
 尤も、アルフレッド当人はこうなることを見越していたようで、
全くの無抵抗のまま、ロングコートの襟を好きに掴ませている。
 慌てて助けに入ろうとするザムシードであったが、その動きをアルフレッドは目配せひとつで押し止めた。
 件の謀略は義に篤いジャーメインの心を踏み躙るようなものであり、
その責任は立案者たるアルフレッドにしか負えない。
 アルフレッドはジャーメインの怒りを真正面から受け止めるつもりである――
『在野の軍師』の心根を悟ったザムシードは、「損な道ばかり選びやがって」と嘆息を漏らした。

「あんた……あんたッ! 殺された難民を利用して罠を仕掛けようってのッ!? 
よくもそんな非道(ひど)い真似なんか――恥を知りなさいよ、この人でなしッ!」

 理性を吹き飛ばすほどの勢いで激昂するジャーメインを、深紅の瞳が静かに見下ろしていた。
 「逆境を好機に転じる」と言い換えれば聞こえが良いが、
攘夷思想の犠牲になった難民たちを謀略に利用すると言う本質は何も変わらない。
 それは死者を愚弄する行為にも等しく、難民襲撃の惨状を目の当たりにしたジャーメインから
「人でなし」と罵られても仕方のないことであった。
 怒りを込めた膝蹴りで撃たれなかったことは、果たして、アルフレッドにとって幸いだったのだろうか。
死者の無念を背負ったと言っても過言ではないジャーメインから裁きの名の下に一撃を刻まれたほうが、
あるいは救いとなったのかも知れない。
 奇策を説き終えたアルフレッドの双眸は、またしても焦点が合っていなかった。
余程、今の立案で消耗したのであろう。傍目には生気の一滴まで燃やし尽くしてしまったようにも見える。
 傍観する源八郎たちにはアルフレッドが極度に疲弊していると解ったのだが、
逆上したジャーメインに繊細な変調など認識出来る筈もなく、
何も答えようとしない彼の身を力任せに揺さ振るばかりであった。

「どれだけ難民が犠牲になろうが、手前ェにゃ関係ねーってワケかよ! 
どんなに辛くて怖い思いをしたのか、知ろうとも解ろうとも思わないんだなッ! 
さては犠牲者を数字でしか見ねータイプゥッ!? 絶対に許せねーッ!」

 ジャーメインの怒声を一種の解説として受け止め、ようやく謀略の本質を飲み込んだライナも、
拳を振り上げてアルフレッドに立ち向かおうとした。ふたり掛かりで徹底的に糾弾しようと言うわけだ。
 しかし、その出端は簡単に挫かれてしまった。両手を広げた源八郎に行く手を遮られ、
足踏みしている間に背後まで回り込んで来たザムシードによって羽交い絞めにされたのである。
 そのままの体勢で高々と持ち上げられたライナは、両の足裏が地面から完全に離れてしまっている。
こうなっては自由に動き回ることさえ叶うまい。
彼女の力ではザムシードの剛腕を振り解くことは極めて難しかろう。

「ヒステリー起こすんじゃねーよ、ライナ。ライアンにはライアンにしか出来ない仕事があるんだ。
そう言う業務上の住み分けも出来ないエージェントは直ぐに干されちまうぞ」
「はぁ!? 何の説教だよ!」
「ここはひとつ、ライアンの顔を立ててやろうぜ。理に適った作戦だし、わざわざ反対する必要もねぇ」
「ヴィンセント! てめー、このスカしたクズ野郎の肩ァ持つつもりかよ!?」
「肩を持つも何もないぜ。ザックリとアレンジは入ったけど、元々は俺が言い出したことだからな。
……俺だってライアンと同罪だ。何かを殴らなきゃ気が済まねぇなら、
今すぐ佐志(こっち)に来い。サンドバッグにでも何にでもなってやるよ」
「新手のギャグかよ! 遠過ぎるわ! てゆーか、アタイは今すぐこのガキをブチのめしたいんだよッ!」

 アルフレッドの策を認めたような口振りのヴィンセントが自重を訴えても、
ライナは両脚を振り回すようにして藻?(もが)き続けた。
 醜態としか例えようもないのだが、心の底から許せないものが在るならば、
誰もがライナと同じように足掻いた筈である。

「あんた、ワーズワースのときもこうだったわねッ! 自分に関わりのない人間は平気で見捨ててッ! 
……前から思ってたのよッ! あんたには人の心ってものが宿ってないんだッ!」

 いきり立つライナに続いたジャーメインの痛罵は、アルフレッドの心に深く突き刺さったことだろう。
ワーズワース難民キャンプの悲劇を例として持ち出され、挙げ句の果てには全人格まで否定されたのだ。

(人の心が宿っていない――か。他人に言われるまでもないな。
それとも、跡形もなく壊れたと言ったほうが良いか……)

 それでも、アルフレッドはジャーメインを避けようとはしなかった。
どれほど痛烈に面罵されようとも、『在野の軍師』として屹立し続けている。
生気の薄い虚ろな瞳であっても、難民襲撃の惨たらしさを訴える少女から視線を外すことはない。

「何を言われても構わない。……勝つ為には、やれることは全てやる――」

 表情ひとつ変えないままジャーメインと相対したアルフレッドは、
さながら刑を宣告する裁判長の如く厳然と言葉を発した。

「――例え、どんな犠牲を払ってでも……」

 攘夷の犠牲者と言う悲しむべき事実を恐怖の鎖に換えて利用せんとする謀略は、
その一言を以って締め括られた。
 如何なる代償も厭わないと呟いた瞬間、アルフレッドの瞳が悲しげに揺れたのだが、
変化と呼ぶには余りに小さな振幅であった為に、誰にも気付かれることがなかった。
 尤も、沸騰した血潮で理性が焼け焦げた今のジャーメインでは、
アルフレッドの表情が極端に歪んだとしても、きっと見極められなかっただろう。

「これはあたしたち自身の戦いなんだよッ! 同じエンディニオンの名を持つ世界の……ッ!
ひとつでも打つ手を間違えたら、もう取り返しが付かなくなる! たくさんの人が命の危険に晒される! 
あたしたちは、そのことをワーズワースで学んだんじゃないのッ!? あんた、一体、何を見てきたのよッ!」

 ジャーメインが腹の底から発した吼え声は、ビッグハウスを縦横無尽に走る水路に波紋を起こし、
輻射された衝撃でもって海を裂くのではないかと錯覚する程に大きかった。
 暫時、俯いたままであったマリスもジャーメインの吼え声に反応して顔を上げたが、
しかし、大音声に驚愕したことが理由なのではなかった。
 アルフレッドと真っ向から対峙する姿に、心の底から他者を思いやる言葉に――
ほんの一瞬ながらフィーナが重なったのだ。ジャーメインにフィーナが、だ。

(何故、貴女がまだここにッ!? 貴女はとっくに――ッ!)

 顔を上げた瞬間に飛び込んできたのは、人の心についてフィーナから責められるアルフレッドであった。
余人はともかくとして、マリスの目にはそのように映ったのだ。

「――おやめくださいッ!」

 その刹那、マリスは悲鳴にも近い金切り声を上げながらジャーメインの右腕にしがみ付き、
アルフレッドから引き剥がした。
 先程、一喝された折にはジャーメインの剣幕に怯んでしまったマリスであるが、
今度は反対に相手の側を仰け反らせている。

「アルちゃんひとりに苦しみを押し付けるなんて、わたくしは何と愚かな思い違いをしていたのでしょう……! 
ですが、もう二度と迷ったり致しません! わたくしだけが! わたくしだけがアルちゃんを支えて参ります! 
世界中が敵になろうとも、わたくしだけはアルちゃんの味方でおります! 
……アルちゃんと永遠に添い遂げるのは、フィーナさんではなく、このわたくしなのですからッ! 
例え、フィーナさんであっても、アルちゃんを傷つけることは許しませんッ!」
 
 依然としてジャーメインに別の顔が重なって見えるのだろう。
この場にいない人間の名前をマリスは幾度となく口走っていた。

(亡霊の分際でアルちゃんに縋り付くなんて――ッ!)

 旧友をも掌で転がし、そのことを悪びれる様子もないアルフレッドに対して、
マリスは例えようのない失望を覚えていた。非道な振る舞いをどうしても許せず、
一時は会話まで途絶えた程である。
 激しい葛藤を乗り越えて、『在野の軍師』たるアルフレッドを再び支える覚悟――
そのように考えるのが、最も素直な受け止め方に違いない。
 しかし、マリスの場合はどうか。光の中に消えていったフィーナの姿をジャーメインに重ね、
その瞬間に生じた感情に衝き動かされ、眼(まなこ)を血走らせながら
耳障りな叫び声を上げた彼女はどうなのか。
 この場にいない人間への歪んだ感情に呑み込まれただけではなかろうか。
 口を衝いて出る言葉には、深い意味も思慮もない。
尤もらしく聞こえる科白を無作為に吐き出しているに過ぎなかった。
 さりながら、周りの人間には最愛の恋人を庇わんとする健気な姿にしか見えず、
それ故にジャーメインも言葉を呑んだのだ。
 しかし、肝心のアルフレッドにはマリスの声は少しも響かない。
ジャーメインの動きが止まったと認めるや否や、彼はオープンテラスから離れようと歩き出した。
船着場へと足を向ける最中、遂に最愛の恋人を振り返ることもなかったのである。
 流石に呼び止めようとするジャーメインであったが、その声もマリスによって遮られた。

「――わたくしから逃げるのですか!? その程度の覚悟でアルちゃんを追いかけられるとでも!? 
貴女こそアルちゃんの何を知っていると言うのですかッ! あの背を追う資格をご自分の胸に問いなさいッ!」

 幾らアルフレッドを庇うにしても、マリスが発する一字一句は支離滅裂であり、
ジャーメイン当人は言うに及ばず、他の者たちも一様に困惑している。
 受話口からも「おい、急に何だ? 痴話喧嘩かぁ!?」と言うヴィンセントの声が漏れてきた。
マリスの様子を見ることが出来ない佐志の面々は、
今頃、モバイルの前で口を大きく開け広げていることだろう。
 意味不明な金切り声を背中で受け止めるアルフレッドであったが、
ジャーメインを足止めしてくれているマリスに対しては、感謝の念など欠片も湧かなかった。
 連合軍の完全崩壊を防ぐ手筈だけは整ったが、憂慮すべき問題は他にも山積しているのだ。
瑣末なこと≠ノ感(かま)けてなどいられない。

(連合軍から寝返った人間が、こちらの作戦を密告すると面倒だな――コールタンに言って対処させるか。
あの性悪のことだから、先に始末を付けているかも知れないが……)

 最早、自分には講じる策などないと諦めていた筈なのに、今は為すべきことが次から次へと浮かんでくる。
どうやら、舞台から降りることを己自身の心が許してくれないらしい。

(……ここまで来たんだ。何を犠牲にしてでも、必ずギルガメシュを滅ぼす――)

 『在野の軍師』に課せられた絶対の使命を心中にて唱えながら、アルフレッドは渡し舟の一艘へと乗り込んだ。
ビッグハウスを訪れた初日から世話になっている船頭を捜し当てて、だ。
 尤も、船頭の側は常客が出来たと喜ぶどころか、露骨な愛想笑いを貼り付けていたのだが、
これはあくまでも余談である。





 アルフレッドが予見した事件は、それから二日後に起きた。
あるいは、想定していた以上に惨い事態であったと言うべきかも知れない。
 攘夷思想に取り付かれた兇賊が次の標的として選んだのは、やはり幕府賛同者であった。
しかも、連合軍に参画していた同志が血祭りに上げられたのだ。
 とても小村などと呼べる規模の勢力ではなかった。目立った武功こそ挙げられなかったものの、
熱砂の合戦には五〇〇の兵を率いて参陣しており、実戦向けのトラウムも十分に使いこなしていたのである。
町の名も『カウンター・フォートレス』と勇ましく、
ルーインドサピエンスの時代の城砦遺跡に寄り添う形で発展した土地である。
 それほどの勢力が一夜にして根絶やしにされると言う異常事態であった。
 今回の襲撃事件は幾つかの段階を踏んでいた。
 カウンター・フォートレスの代表者は、連合軍の同志に自分たちの動きを気取られることがないよう
人里離れた山荘へギルガメシュの使者を招き、そこで統治権移譲の交渉を進めようとしたのだ。
 ところが、その情報自体が兇賊側に漏れていたのである。
 ギルガメシュとの取り引きに応じると言うことは、Bのエンディニオンを外敵に差し出すのも同然――と、
攘夷思想に染まった者たちが激怒する姿は想像に難くはない。
 山荘は兇賊によって取り囲まれ、ギルガメシュから派遣されてきた使者もろとも徹底的に破壊された。
 瓦礫の中から引き摺り出された亡骸は、獣骨を組み合わせた十字架に括り付けられ、
挙げ句の果てには晒し者同然でカウンター・フォートレスまで運ばれた。
 そこから先が一等悲惨だった。襲撃者たちは夜陰に紛れて集落まで近付いた後、
投石器(カタパルト)でもって亡骸を城砦址に投げ込んだのである。
つまり、十体以上の亡骸を纏めて降り注がせたと言うことだ。
 これに気付いた住民たちが恐慌状態に陥った直後、世直しを叫ぶ襲撃者たちが集落へと雪崩れ込み、
抵抗する者も命乞いをする者も、選り分けることなく蜂の巣にしたと言う。
 死の竜巻ではなく、銃火器を用いた殺戮だった。
 ジャーメインたちパトリオット猟班が遭遇した事件現場では銃火器が使用された痕跡は確認されていない。
全く新しい手口と言うことだ。それはつまり、攘夷思想の更なる拡大をも意味している。
 しかも、だ。獣骨の十字架へ磔にすると言う行為は、明らかにギルガメシュに対する当て擦りである。
無差別に銃弾を浴びせることによって、敢えてワーズワース難民キャンプの悲劇を模倣したのかも知れない。
現場検証に当たったシェリフの中には、愉快犯の可能性を疑う者も少なくないそうだ。
 トリーシャが攘夷思想の波及と難民襲撃の実態を公表したのは、
カウンター・フォートレスの惨劇がエンディニオン全土に知れ渡るのと殆ど同時期であった。
 ギルガメシュの規制を受けていない通信社に件の記事を送付し、号外新聞の形で発行させた次第である。
 紙面を埋め尽くす難民襲撃の恐ろしさは、『ベテルギウス・ドットコム』をも動かした。
トリーシャと連携しているわけではないので、スタッフ独自の取材と言うことになるのだが、
程なくしてパトリオット猟班が掴んでいない事件へと行き着いた。
 悪夢の如き死の風は幾つもの町村を薙ぎ払っていた。
 当然と言うべきであろうか、ここ数日は難民そのものではなくギルガメシュへ統治権を譲った者が
標的にされる事件が増えている。連合軍から離反した寝返り者など格好の餌食であった。
 トリーシャの書いた記事は勿論のこと、ネットニュースの影響も極めて大きく、
二種の報道の相乗効果によって、「攘夷」の二字は瞬く間に広まったのだ。
 その効果は連合軍諸将にとっても絶大であった。恐怖と言う名の鎖でもって再び縛り付けられ、
離反の動きが完全に止まったのである。
 劣勢極まる連合軍へしがみ付いているのも危険だが、落伍した瞬間から攘夷を名乗る兇賊に狙われるのであれば、
このまま『人の和』の中に踏み止まったほうが長く身の安全を保てるだろうとの胸算用に違いない。

 最早、ギルガメシュの側もBのエンディニオンへ統治権を要求することが出来なくなっていた。
 攘夷を叫ぶ兇賊たちは、交渉の場を設ける度に地図上から町村を消していくのである。
これから統治者になろうと言うギルガメシュには由々しき事態であり、
更なる犠牲は是が非でも避けなくてはならなかった。
 何処で起こった風説かは定かではないものの、統治権の交渉に於いてギルガメシュの提示した取引条件が、
実は空約束ではないかと疑う声も出始めている。
 可能な限りはギルガメシュも身銭を切っているのだが、
状況次第では空手形で交渉相手を惑わし、権能を騙し取ることもある。
その点を追及されると甚だ都合が悪いのだ。

「権限を取り上げたいほうも、交渉に乗ろうとしていたほうも、互いに萎縮してしまったわけか。
絵に描いたような膠着状態だが、……さて――」

 数枚の紙束から権能奪取の現状を読み取り、微かな笑気と共に独り言を呟いたのは、
鉄色のレインコートを羽織った隻眼の老人――ムラマサであった。
 彼の手に在る紙束とは、バスカヴィル・キッドがまとめた報告書である。
ゼラール軍団に於いて諜報活動を一手に引き受ける彼は、『閣下』に命じられて極秘裏に或る調査を遂行していた。
その委細は改めて繰り返すまでもなかろう。
 言わずもがな、ギルガメシュ本隊にも諜報部門は存在している。
軍師たるアゾットの管轄であり、この部隊を繰り出して作戦立案に必要な情報を吸い上げるのだ。
 それにも関わらず、ゼラールはバスカヴィル・キッドと、彼が率いる『ゾリャー魁盗団』に対し、
幕府成立に必要な権能奪取の推移を調べるよう命じていたのである。
 組織の第一義である難民救済どころか、統治体制の安定化にも手間取るような本隊では、
全体像を把握する頃には更に進捗状況が更新されているものと判断したわけだ。
時々刻々と変わっていく最新情報を組織全体で共有することなど不可能に違いない――と。
 今やゼラールは己が所属する組織の諜報部門すら信用していなかった。
 事実、本隊の報告書は「最新」と謳いながらも数日前の情報を記載しており、
ゾリャー魁盗団の調査結果と比して遥かに遅れている。
 流石にアゾットのもとには諜報部員から最新の情報が届いていることだろう。
そして、それはカレドヴールフも確認している筈である。
 それはつまり、幹部級の人間が閲覧することを目的として編集された報告書と
現状との著しい乖離を意味している。今後の組織運営にも関わる程の重大な局面にも関わらず、
最新の情報を一部のみで独占するようでは、組織を挙げての連携など組める筈もあるまい。
 ゼラールの旧友であるバルムンク――ボルシュグラーブや、
『アネクメーネの若枝』のリーダー格たるグラムでさえ報告書以上のことは知り得ないだろう。
 人質以外からも統治権を取り上げるよう献策したムラマサですら、
正しい進捗状況の把握はバスカヴィル・キッドに頼るしかなったのだ。
 新参者のゼラールのみならず、古くからギルガメシュを支えてきた最高幹部にまで
重大な情報が伏せられているのは、驕りを招く原因として完勝を忌避するアゾットの計らいに違いない。

「――ナントカと天才は紙一重と言うが、それにしてもアゾットの坊やがここまで薄っぺらいとはな……」

 右側頭部から左頬にかけて大きな戦傷が走る顔には、見る者を戦慄させるような冷笑が貼り付けられている。
漏らした笑い声には嘲りが混じっており、己の後任たるアゾットのことを如何に評価しているのか、
その様子からも察せられると言うものだ。
 バスカヴィル・キッドより渡された書類を読み終え、軽く背を伸ばしたムラマサは、
次いで屋根付きの土俵場へと目を転じた――と言っても、相撲興行を観戦しているわけではない。
ゼラール軍団の拠点である洋館には、現役横綱監修による立派な土俵場が作られており、
これを隻眼でもって捉えた次第である。
 現在、ムラマサの姿は洋館の中庭に在った。土俵場を眺めるのに最適な場所へと設置されたベンチに腰掛け、
件の書類を読み耽っていたのだ。
 隻眼が捉えた土俵の上では、今日も今日とて遊びに来ているベルに乞われたラドクリフが、
困り顔で相撲の真似事をしている。傍目には仲良くじゃれ合っているようにしか見えなかった。

 洋館の主――否、ゼラール軍団の主は、カレドヴールフから喚(よ)び出され、
独りでブクブ・カキシュに赴いていた。出立の際も「特別任務を仰せつかった」と高笑いをしたものだ。
 尤も、「特別任務」などと大仰に飾り立てたところで、その内容には失笑を禁じ得ない。
 ビッグハウスが統治権の委譲を承認したことに怒り狂ったゼドー・マキャリスターが
自室に閉じ篭もってしまい、彼と親しく交わっていたゼラールに説得の役目が回ってきたのだ。
ただそれだけのことである
 ゼドーの立場はギルガメシュに捕らえられた人質に他ならない。
彼の身の安全が統治権を譲り渡す交換条件だったのだが、外交官ひとりの生命を切り捨ててでも
ビッグハウスには自主独立を堅持して欲しかったのだろう。
 取引の道具として利用され、ビッグハウスの仲間たちに迷惑を掛けたことが何よりも堪えたらしく、
閉じ篭もった後(のち)は、「委譲を撤回するまでは何もしないと思え!」と強弁を張り続けていると言う。
 「何もしない」と言う状態が続いて最も困るのは、ビッグハウスの仲間ではなくギルガメシュの側であった。
難民支援の要である『ディアスポラ・プログラム』は、立案者が中心に居なくては殆ど機能せず、
計画遂行の具体的な手順さえもカレドヴールフたちでは定められない始末だ。
 飲食物も全く受け付けない為、閉じ篭もりが長期化すると餓死の危険性もある。
それこそが最悪の展開であり、困り果てたカレドヴールフは、
事態を収拾し得る希望(のぞみ)をゼラールに託したのだった。
 これを恥の上塗りと言わずして、どうするのか。自分たちから権能の移譲を迫っておいて、
ディアスポラ・プログラムの要が抗議の構えを見せた途端に腰砕けとなってしまったのである。
 仮にもBのエンディニオン全土を統治しようと言うギルガメシュが一個人に振り回された挙げ句、
要注意人物と見做されている新参者に縋り付いたのだ。
この筋運びを端的に表すとすれば、「情けない」の一言に尽きるだろう。
 つまるところ、ゼラールはカレドヴールフの醜態を笑い飛ばしただけであった。
 ゼラール当人は誰に命じられるまでもなく、最初からゼドーを訪ねるつもりでいたようだ。
 冒険王マイクとはハンガイ・オルスにて顔を合わせており、その為人はゼラールも理解している。
ゼドーの――掛け替えのない仲間の身の保障を取引の条件として持ち出されたなら、
彼には断ることなど出来ないだろう。
 対するギルガメシュは、Bのエンディニオンの人々を挫く企みに於いても、
ビッグハウスの統治権は是が非でも奪わなくてはならなかった。
 アゾットが手配りを整えた企みは必ずや達成され、これに伴ってゼドーの鬱憤が爆発すると
読み切っていたからこそ、未然に最高級の葡萄酒を取り寄せておいたのである。
カレドヴールフたちでは彼の怒りを鎮められないと、最初から織り込み済みであったわけだ。
 その『閣下』は午前中にブクブ・カキシュへと赴き、今は陽が西に傾き始める頃合だ。
延々と続くゼドーの愚痴でも肴にして、旨い酒を酌み交わしているのだろう。

 藁で包まれた葡萄酒の瓶を肩に担ぎ、高笑いを引き摺りながら出掛けていくゼラールを見送った直後から、
ムラマサは乾いた笑いを抑えられなかった。
 嘗てゼドーが吐き捨てた悪言(ことば)ではないが、
現在(いま)のギルガメシュは何から何まで借り物だらけなのである。
 難民支援計画も、統治に不可欠な権威付けも、何もかも異世界の人間に依存する有様なのだ。
大義の旗が初めて掲げられた頃より戦い続けてきた最古参の老将は、
ギルガメシュと言う組織の現状を笑わずにはいられなかった。

「イイ齢こいてヘラヘラしてると、とんでもねぇ勘違いをされるから気を付けな、ジィさん――」

 頭上から声を掛けてきたのは、中庭に一際大きな影を落とす巨漢――トルーポである。
 ムラマサの諒解も得ないままベンチの左端に腰掛けた彼は、
座面へ放り出されていた紙束の上に不味いことで知られるビールを置いた。
瓶は既に開栓されており、トルーポも掌中に在る己の分に口を付けている。
 これ見よがしに瓶を呷ることで、「一杯、付き合え」と無言の圧力を掛けているわけだ。
ベンチに持ってきたビール瓶は二本。自分とムラマサが呑む分である。
 半ば強制的に押し付けられたビールではあるものの、分厚い報告書を熟読する間に喉も渇いており、
これを潤す飲み物を身体のほうが欲していた。安酒である為に味は本当に酷いのだが、
今は水分であれば何でも良かった。

「最近の若いモンは、庭先で日向ぼっこしているだけで失礼なことを言ってくる。
陽気を楽しむ感性と言うか習慣は、一体、どこで消えてしまったのだろうな」
「そろそろ日向ぼっこなんて時間じゃなくなるだろ。おやつの時間だぜ、もう。
おやつにビールってのも、オトナの嗜みっつーもんだと思うがね」
「日向ぼっこと言うのは比喩だよ。正しくは諧謔だな。
これくらいのことまで、いちいち説明しなくちゃならんとは実に嘆かわしい」
「へいへい、わるーござんしたね。だがよ、そうやって最近の若いモン≠ニやらに説教する度、
自分が老けてくって自覚は持ったほうがいいぜ。心なしか、さっきより腰が曲がったように見えらぁ」
「皮肉に皮肉でやり返すくらいにはユーモアを持っているのに惜しいことだ」
「話し相手を期待されても困るぜ。まだまだ最近の若いモン≠ナいたいんでね」

 互いの瓶を打ち合わせることもなく、ふたりは思い思いにビールを呷る。
 香りも喉越しも最低最悪な安酒は、仲間と一緒になって楽しむものでもない。
旨いとも不味いとも言わずに呑み干すくらいで丁度良いのかも知れない。
 そもそも、トルーポとムラマサは互いを「仲間」と呼び合えるほど分かり合えてもいないのだ。
分厚い紙束を挟む恰好で同じベンチに座しているものの、両者の間には無限とも言うべき距離≠ェ横たわっている。
目には見えないながらも天と地ほどの隔たりがあったのだ。

「話し相手を期待しているのはキミのほうではないかな? それ以外で酒に誘う理由もなかろう?」
「一杯引っ掛けようと思ったら、冷蔵庫にクソ不味いビールが二本あったんでね。
道連れが欲しくなっただけさ。どうせ苦しめてやるなら、スコットよりあんたのほうが面白ェ」
「生憎だな。嫌いなだけで全く呑めんこともないぞ、コレは。喉も渇いていたから助かったくらいだ」
「ケッ――作戦失敗かよ」

 軍団内に並ぶ者が居ない魁偉が身動(じろ)ぎすると、ただそれだけでベンチが軋み音を立て、
斜めに傾いてしまったような錯覚に見舞われる。
 尤も、ベンチの脚は四本全てが地中に埋め込まれた土台と一体化しているので、
一〇〇キロを超える体重が圧し掛かったところで本当に傾くことはない。
座面が抜け落ちてしまわないか、そちらのほうがムラマサには案じられた。

「……何か面白くないことでもあったか? 愚痴くらいなら爺が付き合ってやるが?」

 ベンチの左端に腰掛けたトルーポはムラマサに対して背を向けている――が、
面を確かめずとも何事か懊悩していることは察せられた。
 これもまた老いぼれの勘≠ニ言うものだ。
ときに剥き出しの警戒心――それも敵愾心に限りなく近い――を浴びせてくるトルーポにしては珍しい行動、
少しも落ち着かない身動(じろ)ぎ、微かに自棄(じき)の気配が混ざった声色などから
心の揺らぎを気取(けど)ったわけである。
 事実、トルーポの背は何時もより頼りなく見えた。
 永きに亘る戦いの代償とでも言おうか、ムラマサは右目の光を全く失っている。
対の左目は健常そのものであり、トルーポの背中も左の隻眼でもって捉えたのだ。
 あるいは、ムラマサの隻眼によって捉えられる側にわざと座ったのかも知れない。
差し向かいの形こそ躊躇ったものの、何か話しておきたいのではないだろうか。
 トルーポが話を切り出すきっかけを求めているように思えたムラマサは、
彼の心中を酌んで自ら歩み寄ったのである。対話へと至る道を示したも同然であろう。

「うちのカミさんから電話があってな……閣下の姉上――ベアトリーチェ様が出兵を渋っておいでのようだ。
カミさんとピナフォアで説得は続けるそうだが、物別れになることも考えといて欲しいってよ」
「なんと……」

 悪感情を抱く相手から気遣われることが堪らなく滑稽に思えたのか、
微かに肩を揺らしたトルーポは、そのまま後ろを振り向くことなく静かに言葉を紡ぎ始めた。
 トルーポの話を聞いた瞬間、相槌を打つよりも先にムラマサの脳裏には「意想外」と言う三字が浮かんだ。
 のべつ幕なしに続いていた身動(みじろ)ぎは、この報せを憚った所為であったようだ。
事実、ムラマサの側も低く呻いて眉根を寄せた。
 ゼラール軍団へ転属される直前に完了させた素性調査では、カザン姉弟の仲は極めて良好だと確認していたのだ。
自他に厳しいゼラールも実姉のベアトリーチェには甘えてしまうと言う風聞さえ耳にしたのである。
 ベアトリーチェの側も深い愛情を以って弟に接していると言う。
だからこそ、異世界の不埒者――緬とプールを討ち取るべしと言う要請にも二つ返事で応じるだろうと、
ムラマサは見込みを立てていたのである。
 それだけに交渉の難航は思い掛けない展開であり、さしものムラマサも困ったように圧(へ)し口を作っている。

「ムラマサの策には隙はない。それは余が認めようぞ。されど、全てが望むようには参らぬであろうな。
空に道を開けたいと思えば、虚無を斬り裂いてでも次元を渡らんと欲する――
それがベアトリーチェ・カザンと言う御方ぞ」

 このようにゼラールは実姉を評していたが、奇しくも言葉通りの事態に陥ったわけだ。

「ベアトリーチェ様が仰るにはな、どうやら緬の動きが怪しいそうだ。
幹部のひとりがヴィクドにコンタクトを図ったとか……」
「ヴィクドと言えば、アルカーク・マスターソンとか言う暴れ馬≠フ根拠地(ところ)だったな。
攘夷の火付け役とも噂される男が、どうして緬と関わりを持つ? よもや、方針転換でもしたのか? 
緬はヤツが忌み嫌うインベーダーそのものだが?」
「ンなこと、俺に訊かんでくれよ。ただ、緬の幹部が『提督』の陣中を訪問したのは確かなようだぜ」
「そのことにダインスレフ様の姉君は気付かれた――と言うのだな」
「閣下の姉君は聡明な御方だからな。……緬がヴィクドと同盟を結んだとしたら中々に厄介だぜ。
いけ好かねェ連中ではあるけど、提督ご自慢の傭兵部隊は錬度も兵力も桁上だ。
まともにカチ合ったら、カザンの兵と雖も共倒れになり兼ねないぜ」

 トルーポは瓶の中に残っていた安酒を一気に呷り、それから言葉を継いだ。

「他ならぬ当主の要請であるから合戦そのものに躊躇いはないが、
緬を攻めてもヴィクドが動かないと確かめられるまで出撃だけは控えたい――それが御本家の意向らしい。
……ベアトリーチェ様は単騎(おひとり)で出撃したがるかもしれねぇが、流石に周りが止めるだろーぜ」
「御本家の意向はともかく姉君は噂に違わぬ女丈夫のようだな。頼もしい限りだ」
「見た目は深窓の佳人っつーカンジなんだけどな。中身がな、ちょっとな……」
「……そんなに精強であらせられるのか?」
「わざわざ綺麗な言葉を選んで、気ィ遣ってられんのも今の内だけだからな。
ベアトリーチェ様にお会いするのを楽しみに待ってろよ」

 事情を知ってカザン本家が出兵を渋る理由は納得したが、これもまたムラマサには意想外であった。
緬とヴィクドが結び付いたと言う情報は、耳聡く勘働きも鋭い老将でさえ掴んでいなかったのだ。
 計算が狂ったと憤るつもりはない。カザン本家の慎重な態度は、謀将の隻眼にも正しい判断のように見える。
 ヴィクドと緬が連合して迎撃の軍を整えたなら、ベアトリーチェ勢は絶望的な状況へと追い詰められるだろう。
緬のみと合戦へ持ち込んだとしても、他方からヴィクドが来襲して挟撃されたなら結果は同じである。
 アルカークにとって緬は囮も同然であり、ベアトリーチェが出立して手薄になったカザンの本領へ
攻め入ることが本当の狙いと言う可能性もあった。
 カザンの本領が脅かされるような事態を避ける為にもヴィクドと緬の背後関係を探り、
出兵する時機を見極めなくてはならないのである。当主直々の要請であろうが何であろうが、
易々と応じて本家を滅ぼすわけにはいかなかった。

「……栄光のカザン家、ここにありってところを気持ちよく見せて欲しかったんだがねェ――」

 一方のトルーポは、カザン本家の及び腰が残念でならない様子であった。
 武勇の誉れ高きカザン本家が兵を挙げれば、その凄まじい威力(ちから)をギルガメシュに見せ付け、
『閣下』を軽んじる輩を沈黙させられるのではないかと、密かに期待していたのだ。
 それだけに拍子抜けと言っても差し支えのない展開には失望にも近いものを感じている。
ムラマサとは別の理由ではあるものの、彼もまたカザン本家は二つ返事で起ち上がると考えていたのである。

「そう気落ちすることもなかろうに。緬の動きが読めんのであれば姉君の判断は至極当然のこと。
出兵そのものも日延べするだけで断るとは言っておらんのだ。
無論、意外な成り行きと言うことに変わりはないが……」
「……へぇ? あんたにも意外と思うモンがあるんだな。
隻眼ならぬ千里眼で何でもかんでもお見通しだと思ってたぜ」
「老いぼれの勘≠ネんぞ、たかが知れていると言うことだよ」
「どうだか――」

 隻眼の読みを謙遜したムラマサに対して、トルーポは如何にも皮肉っぽく鼻を鳴らして見せた。
 ヴィクドの『提督』について触れた際、ムラマサは「攘夷」の二字を口にしたが、
世界中で頻発する難民襲撃の発端さえも彼が仕組んだのではないかとトルーポには感じられたのだ。
 Aのエンディニオンの同胞――即ち、ギルガメシュが保護すべき難民が惨たらしく殺されているのだから、
自ら筋書きを準備することはなかったのかも知れないが、
夥しい血が流れるような事態に発展していくと、予(あらかじ)め見越していたフシがある。
 Bのエンディニオンの人々は、その多くがギルガメシュに良からぬ感情を抱いている。
異世界から現れて無慈悲な侵略を始めた武装組織を好意的に迎えられる人間のほうが少なかろう。
 そして、怨讐の念すら入り混じるであろう良からぬ感情が難民に向けられたとしても何ら不思議ではない。
彼らを保護すると言う大義のもとでBのエンディニオンは謂れのない暴力に晒されてきたのである。
 ただでさえ憎悪が膨らんでいる中で領有権あるいは統治権を譲り渡すよう強迫されたなら、
報復を叫んで暴発する人間が現れるのは自明であろう。
 或る強烈な刺激を受け、群集の不満が暴力と言う形で発露する――
これもまた人類の歴史上で幾度も繰り返されてきたことなのだ。
 人質以外からも統治権を奪うべしと、敢えて人目に付くような計略を推したのは、誰あろうムラマサである。
Bのエンディニオンの群集を刺激した張本人とも言い換えられよう。
 果たして、攘夷の嵐が世界各地で同時多発的に吹き荒び、
ギルガメシュでも把握し切れないほどの難民が犠牲となってしまった。
 程なくして難民襲撃の実態を新聞各社やネットニュースが報じるようになり、
更なる攘夷思想の拡大を恐れたカレドヴールフは、遂に統治権移譲の工作を打ち切るよう号令を発したのだ。
 結果から見れば、AとBのエンディニオン、その両陣営にとって痛み分けとしか言いようのない状況である。
 Bのエンディニオンは自らの土地や権能を異世界の人間に差し出してしまった。
その中には連合軍に属している筈の勢力まで名を連ねており、
アルフレッドの立案による史上最大の作戦が崩壊したことは明白であった。
 Aのエンディニオン――つまりギルガメシュは、統治の基盤を固める為の工作が原因となって、
守るべき難民から信じられないくらい多くの犠牲を出してしまった。
本末転倒の極みとは、正しくこのことであろう。
 どちらも取り返しが付かないような深手を負ったのだ。それ故にトルーポは腑に落ちない。
仮に全てがムラマサの思惑通りだとすれば、一体、この老将は何を求めて両陣営を弄んだのであろうか。
 双方を叩いて戦力の均衡を図ったとでも言うつもりなのか――その意図と言うものが判然としないのである。
そもそも、ギルガメシュの将でありながら「痛み分け」に終わる状況を画策すること自体が奇妙だった。

「――あんた、マジで何を考えてやがるんだ?」

 肩越しに質す声は、槍の穂先の如く鋭い。肌を伝って腸にまで食い込むような警戒心――
否、敵愾心が蘇っていた。
 地響きを彷彿とさせる威圧的な声で難詰されたムラマサであるが、
そのことに狼狽するどころか、トルーポの復調が嬉しかった。
胸中に抱えていた懊悩を他者(ひと)と分かち合ったことで気持ちの入れ替えにもなったようだ、と。
 萎み掛けた気力が戻った途端に咬み付いて来る若年ならではの勢いが老将には眩しく、
心地良いくらいだった。少なくとも、「恩を仇で返された」などと喚くつもりはない。
 トルーポが何を確かめたいのかは察している。彼が求める答えも分かっている。
だからこそ、ムラマサは一言だけを述べるに留めた。

「無論、勝つことだとも」

 ムラマサの返答を聞いた瞬間にトルーポの背筋が伸び、次いで双肩も微かに上下し、
これらの運動が増幅の機能を果たしたのか、身の裡より湧き起こる殺気が一等膨らんだ。
 完全に逆上してしまったなら、この場でムラマサに襲い掛かったであろうが、
ゼラール軍団を取り仕切る立場としての理性は留めており、一瞬の後(のち)には憤怒の火柱も鎮まった。
 さりながら、再び肩を落としたわけでもない。刹那の昂ぶりによって心に火が入ったらしく、
気力が萎み切ることはなかった。
 そうでなくては張り合いがないと、ムラマサは口元に微笑を浮かべている。
 挑発めいたことを口にすれば、トルーポは必ず応じてくれるだろうと確信していたのである。
 『閣下』の軍勢を纏める立場だけに人より思い悩むことも多かろう。日々、選択と決断の連続であるに違いない。
そのような重責を担うトルーポは、先ず彼自身の気力が充実していなくてはならないのだ。
そして、怒りや憤りさえも純粋な気力に換えられる器量だと認めているからこそ、
一切の遠慮もなく煽り立てたのだった。
 トルーポ・バスターアローとは、テムグ・テングリ群狼領に属していた頃に
ギルガメシュの将兵から死神と恐れられた男である。
 「勝つこと」を第一に考えるのであれば、『アネクメーネの若枝』をも凌駕し得る死神の武力は
絶対に欠かせない。何時までも気落ちされていてはムラマサも困ると言うことだ。
 誰≠勝たせるのか、敢えて言明しなかったのもトルーポを奮い立たせる為の仕掛けである。
しかも、だ。多くを語らないので、倒すべき敵≠燉]人には分からない。

「……ああ、こりゃいけねぇ――そろそろだぜ」

 不意に何事かを想い出した様子のトルーポは、ジャケットの胸ポケットから自身のモバイルを取り出すと、
背を向けたまま腕だけを後ろに回し、これをムラマサが放り出した紙束の上に置いた。
 トルーポの言行が意味するところを即座に悟ったムラマサは、
右手首に嵌められた腕時計――齢の離れた伴侶からの贈り物である――でもって現在の時刻を確かめる。
次いで、「……うむ、そろそろだ」と頷き返した。
 これから何が始まろうとしているのか、ラドクリフとベルも承知しているらしく、
土俵から降りてトルーポたちが腰掛けるベンチへと近付いてきた。
 あどけなさを残した顔立ちのふたりは、揃って紙束の上に鎮座するモバイルを見据えている。
その眼差しの険しさは、世情と言うものに通じる大人たちと何ら変わりがなかった。

 午後三時三〇分――その時間にギルガメシュの大本営は全世界に向けて重大な通達を放送することになっている。




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