15.Here Today 「……始まるんですね……始まってしまうんですね、とうとう――」 ラジオ放送を受信出来るように設定されたトルーポのモバイルへ何とも例え難い視線を注ぎながら、 ラドクリフが呻くように呟いた。 ベルとトルーポのふたりもラドクリフと同じく苦悶にも似た表情を浮かべている。 ムラマサとて愉快そうではない。この場に在ってただ独りモバイルから目を逸らしながらも、 皆と同じように圧(へ)し口で押し黙ったまま、胸糞悪いと言わんばかりの気配を漂わせていた。 午後三時三〇分よりBのエンディニオン全土に向けてギルガメシュから重大な通達がある―― このように定められた大本営発表は、テレビではなくラジオを通じて放送されることになっている。 連合軍を降伏させた折の勝利宣言では、映像と言う媒体の特性を生かし、 仰々しいセレモニーまで執り行ったものだが、これと比して今回は音声のみと言う相当に地味な形式である。 これもまたアゾットの手配りであった。今度の通達はテレビが普及していない地域にまで 確実に届けなくてはならないと、ギルガメシュの軍師は考慮したようだ。 即ち、今から放送されるのは、それ程までに重い通達と言うことである。 程なくして、放送開始を報せるチャイム音がモバイルから流れ始めた。 同じ頃、佐志の人々も役場の会議室へ運び込まれたラジオの前に集まり、件のチャイム音を聴いていた。 守孝も、ヴィンセントも、ピンカートン夫妻もライアン夫妻も――とにかく佐志に在る殆どの人間が ラジオ放送へ耳を傾けているのだ。皆一様に緊張の面持ちである。 その中にローガンの姿はない。ラジオ放送が始まる直前にモバイルが鳴り始めてしまい、 慌てて役場の外まで飛び出していったのだ。 余程、動転していたのだろう。階段を駆け下りるのではなく、窓を開けて屋外へと飛び降りたのである。 スカッド・フリーダムが根拠地とするタイガーバズーカの出身であり、 やはり常人離れした肉体の持ち主であるローガンならではの芸当と言えるだろう。 「――これよりギルガメシュ大本営から特別報道を執り行う」 チャイム音に続いてラジオから聞こえてきたのは、初老と思しき男性の声であった。 ギルガメシュによる特別報道と言うこともあって、その語調は極めて厳粛である。 「各地の代表者による承認を受け、本日を以って全エンディニオンの統治権はギルガメシュへと正式に委譲された。 我らは諸君の信任を受諾したのである。……しかし、ギルガメシュは支配者に非ず。 これより先、ギルガメシュが守るのは難民だけではない。全エンディニオンの治安を守る為に戦うものなり」 ラジオ放送では、Bのエンディニオン各地の代表者たちがギルガメシュに統治を委任した旨が発表された。 それはつまり、全世界の統治と運営をギルガメシュが一手に引き受けるとの通達であった。 「ばぁ〜か、肝心の難民だって守れてねぇ連中がなに寝言ほざいてんだよ」 ギルガメシュは難民だけでなく全エンディニオンの治安を守る――ある種の公約が語られた直後、 撫子は侮蔑の言葉を吐き捨てた。無論、彼女の発した一言には誰もが首を頷かせている。 更に付け加えるならば、そもそもBのエンディニオンの秩序を破綻させたのはギルガメシュなのだ。 武力によって異なる世界を侵略しておいて治安維持を語るなど、所詮は征服した側の驕りであろう。 「――今後、権限の全てを委ねられた機関を『幕府(ばくふ)』と定める。 ……我々はエンディニオンの速やかなる統治をここに宣言するッ!」 公式の場に於いて、初めてギルガメシュの人間がその呼称(よびな)≠使った。 エンディニオンの大地へ新たに君臨する機関の名は『幕府』である――と宣言した。 事前に知り得ていた情報ではあるものの、やはり現実として幕府の成立が語られると、 室内にどよめきが起こった。数多の慟哭と悲鳴が混然と渦を巻いたようなものである。 佐志だけではなく、Bのエンディニオンの全土が同じ声で埋め尽くされた筈だ。 母なる大地が、生まれ育った惑星(ほし)が、異世界の侵略者の手に落ちた瞬間なのである。 一方で、ギルガメシュの宣言を静観する人間も存在している。 真っ先にテムグ・テングリ群狼領の権能を譲り渡したタバートなどは、その最たる例と言えよう。 彼は自然高原に設営された自身のテントに独りで籠もり、政務をこなしながらラジオへと耳を傾けていた。 その面には何の感情も宿してはいなかった。自身に先見の明があったと誇るわけでも、 今度の安泰を喜ぶわけでもない。ましてや、エルンストへの裏切りを悔やんでいる様子でもない。 ただただ無表情に御屋形としての仕事を進めていた。 テムグ・テングリ群狼領の全権を幕府に委譲したことも、タバートにとっては同じ感覚(こと)なのであろう。 馬軍を統べる御屋形として、現時点で最善と考えられる選択肢を採ったに過ぎないと言うわけだ。 テムグ・テングリ群狼領に勝るとも劣らない権勢を誇るグドゥーはどうであろうか。 ギルガメシュより差し向けられる討手を悉く退けてきた彼らは、統治権の移譲を呼びかける声も相手にしなかった。 関わり合いとすれば、幕府の是非を問う討論番組にファラ王が面白半分で出演した程度だ。 そのファラ王は特別報道など面白くないからとチャンネルの切り替えを図り、 妻のクレオパトラによって物理的に沈黙させられていた。 騒音を撒き散らす者がいなくなってからは、皆、神妙な面持ちでラジオに聞き入っている。 古木によって組み立てられた美しい逸品であるが、今は誰もラジオの意匠など気にはしていない。 白目を剥いた状態で転がされているファラ王のように、暢気に構えてはいられないのだ。 「素朴な疑問なんですけど、どうしてギルガメシュはラジオ放送なんて使ったんでしょうか。 前はテレビの生中継でしたよね? ネットニュースだって使っていたのに、 どうして急にアナログなほうに戻っちゃったんだろう……」 「自分たちが支配者だと言う印象を植え付けたいのだろうね――」 テッド・パジトノフが漏らした疑問には、彼の上役とも言うべき白衣の男――通称、プロフェッサーが答えた。 アレクサンダー大学と言うAのエンディニオンの学府にて教授を務める初老の男性だ。 テッドと、彼の傍らに在るダイジロウ・シラネやバイオグリーンは、 プロフェッサーのもとで助手として働いているのである。 「一種の印象操作と言うことね。流石はプロフェッサー、良い着眼だと思うわ」 「奥様からお褒めの言葉を頂けるとは……恐悦至極です」 プロフェッサーの説明にはクレオパトラも関心を持ったようで、委細を話すよう続きを求めた。 「――私の記憶が正しければ、幕府とやらは旧い時代の政治機関であった筈です。 それもギルガメシュに似つかわしい軍事政権でしょう」 「うちの亭主がバカな番組に出たときにも、そのように解説して下さったわね」 「全世界を統治するギルガメシュとそれ以外の人間は、最早、別次元の存在だと知らしめる狙いもある。 ……そのように私は受け止めてございます。敢えて声≠オか流さないのは、 一般人には幕府幹部の顔を覗き見ることさえ許されないと示す為、 ひいては身分≠ニ言うものを全世界に強いる為ではないかと」 「身分だって? ……ふざけやがって! どこぞの王族や、古臭いとおんなじじゃねぇかッ!」 誰よりも早く憤りを吐き捨てたのはダイジロウである。テッドもまた両の拳を強く握り締めている。 両者の脳裏に浮かぶのは、期せずして関与することになってしまったワーズワース難民キャンプの悲劇である。 彼(か)の地にて発生し、ハブール難民の全滅と言う最悪の結末を辿ることとなった暴動の背景には、 旧態依然とした身分制度が大きく影響していたのだ。 悲憤の暴動を防げなかった――そればかりか、ハブール難民を虐殺までしている――ギルガメシュが、 その引き金となった身分制度を新たに布こうとしている。 これ以上に許し難いことをダイジロウとテッドは他に知らなかった。 「奥方様……」 ファラ王のトラウムであるヘビ形の機械人形(オートマトン)、アポピスがクレオパトラを仰いだ。 人語を解し、且つ、当意即妙なやり取りを実現させるほど高度な人工頭脳を搭載したアポピスは 心の機微にも敏感で、ダイジロウたちの動揺を気に掛けている様子だ。 能天気な宿主と正反対に、涙ぐましいまでに仲間思いなのである。 「人には何があっても超えてはならない一線があり、堕ちてはならない底と言うものがあるわ。 生まれ育った惑星(ほし)に関わらず、きっと同じことが言えると思うのだけれど、 その一線を越えて地の底に這い蹲ったとき、人間は薄汚い豚に変わるのよ。 ……人としての尊厳を捨てて、豚のように餌を貪ってまで生き延びる理由はグドゥーにはない。 およそ徳と言うものから掛け離れた権力には、誇りを以って抗い、戦うのみよ」 プロフェッサーの説明も、ダイジロウの憤りも、アポピスの優しさをも受け止めたクレオパトラは、 権力を弄ぶ幕府には決して従わないことを改めて誓うのだった。 そんなクレオパトラを嘲笑うかのように、依然としてラジオからは幕府の宣言が垂れ流されている。 「――なお、ギルガメシュと共にこちら≠フ世界へ渡った者たちを『ノイ』、 この惑星(ほし)の先住民を『アルト』と、今後は呼び分けるものとする。 双方の生まれ育ったエンディニオンについても、この呼称を付けるべし――これは幕府の決定事項である」 幕府の成立に続けて、ギルガメシュはふたつのエンディニオンを明確に呼び分けると通達した。 この放送をゼドー・マキャリスターが生活する『貴賓室』にて聴いたゼラールは、 葡萄酒の入ったグラスを一気に呷り、次いで「阿呆の世界記録だけは更新し続けておるわ」と毒づいた。 アルトは「古きもの」、ノイは「新しきもの」をそれぞれ意味している。 どちらもルーインドサピエンスの時代に使われていたと伝承される古い言葉であった。 事情はともかくとして異世界から殺到し、徹底的にBのエンディニオンを蹂躙しておきながら、 そこで生まれ育った人々のことを先住民などと呼び付けるとは、増上慢も甚だしい。 しかも、だ。「古きもの」と言う呼称には、どこかBのエンディニオン――否、アルトのエンディニオンを 一段低く見下すような悪意さえ感じられた。 ギルガメシュはアルトと争い、武力決戦に於いても、政治的な駆け引きに於いても完全勝利を収めた。 これは揺るぎない事実である。そして、軍事政権の一形態である幕府を成り立たせるには、 勝者と敗者を厳格に区別しておかなくてはならないのだろう。 しかし、それは本当に人々の心を見極めた上での判断であったのか。 天に聳える鉄巨人から眼下の町並みを眺めただけで、エンディニオンの大地に生きる群像を捉え切れたのだろうか。 幕府の名のもとに定められた線引きとは、様々な形で交わり始めていたふたつの世界を分断することにも等しいのである。 アルフレッドたちがアルバトロス・カンパニーと結んだ友情も「区別」の二字で否定されてしまった。 佐志のように町ぐるみでアルトとノイの人間が協力し合う土地にも同じことが当て嵌まるだろう。 ゼドーにとっても不愉快極まりない決定である。ビッグハウスが保護した難民――ジョウ・チン・ゲンとも、 闘争に勝利したノイ側と、これに敗れたアルト側と言う立場に分けられてしまったのだ。 世界と言う隔たりを超えて交誼を結んだ友人との間に政治的な理由から隔たりを作られることは、 他の誰よりもマイクが悲しむだろう。これこそ冒険王にとって最も辛い事態なのである。 「人の上に立ってはならぬ者が罷り間違って玉座に就かば、この通り、始末に負えなくなるものよ。 真の王者とは何者をも分け隔てなく支配せし者ぞ。 序列めいた線引きなどしておっては、纏まるものも纏まらなくなるわ」 ゼラールとて上層部(うえ)の決定には腸が煮えくり返る思いであった。 アルトとノイ、ふたつのエンディニオンを差別化する方針など、今の今まで全く知らされていなかったのである。 諜報部門の調査結果に続いて、またしても重大な事案から爪弾きにされた恰好だ。 「文句があるなら最初からバカどもに言ってやれば良かっただろうが。 酒盛りのついでに愚痴ったところで、泥縄でしかなかろうよ」 「手の施しようがなくば泥縄とは言えまい。起草の場に居合わせなかったことまで腹立たしいわ。 あの莫迦げた文章を記した筆まで焼き捨てたものを」 「今時、原稿を書くのに紙と筆を使う人間がどれ程いるものかよ」 「パソコンであろうがワープロであろうが、周辺機器に至るまで何もかも灰にしてやったわ」 「道具はともかく、絵図を描いたのは軍師気取りの小僧っこだろうよ。 どうも戦争を遊び道具にしていたようだが、今度は政治まで捏ね繰り回すのではなかろうな。 自我に目覚めてもおらん糞餓鬼は、新しい玩具を買い与えられると、どんなに間違った遊び方でも止まらなくなる」 「チェスか何かで遊ぶ感覚か。面白ければ、それでも構わぬ。 ……構わぬが、今のギルガメシュは打つ手打つ手が低俗で話にならんのじゃ」 互いの愚痴を肴にでもしなくては、身の裡を這いずる怒りと憤りはとても呑み下せそうにない。 ゼドーのグラスが空になったと見て取るや、ゼラールは持参した葡萄酒を注いでやった。 ふたつのエンディニオンをアルト、ノイと区別化する方針を知らされなかったのはゼラール独りではない。 殆どの幹部――アネクメーネの若枝を含めて、だ――には、連絡どころか、何の相談もなかったのだ。 ブクブ・カキシュ内に設けられた食堂で遅い昼食を摂りながらラジオを聴いていたボルシュグラーブは、 件の発表を知った瞬間、口を付けようとしていたコップを取り落としてしまったのである。 飲みかけのアイスティーを床にぶちまけてしまっても、 今のボルシュグラーブには己の粗相を認識出来るだけの余裕がない。 彼の胸中にはマリスとアルフレッド、ゼラールやトルーポのことが去来していた。 自分がノイ――新しきものであるとすれば、アカデミー以来の旧友は古きものと言うことになる。 如何に幕府の決定だとしても、そのような目で旧友を見つめることなどボルシュグラーブには出来なかった。 それに、だ。アルフレッドの要請を受けてエトランジェを差し向けた町――ゼフィランサスでは、 ふたつのエンディニオンの人々が理想的な形で結び合わさっていると言う。 (ゼラールが言うにはオレたちの世界は元々はひとつ……だとしたら――ッ!) この何よりも喜ばしい兆しをギルガメシュのほうから引き裂こうとしているのだ。 そのような介入は断じて許されない。アルト側に親しい友人を持つボルシュグラーブの身は、 凄まじい勢いで戦慄(わなな)いていた。 彼と差し向かいの席でチーズバーガーを齧っていたグラムも、今は悄然とした面持ちで硬直している。 勝者と敗者を選り分けると言う決定は、攘夷思想に取り憑かれた者たちにも何らかの影響をもたらすことだろう。 これ幸いにと互いの世界≠ナ住み分ける――と言った具合に割り切ることはあるまい。 「自分たちはまだ負けていない」と激昂し、更なる凶行に走るとも限らないのだ。 食堂の片隅でイカの塩辛納豆丼を頬張っていたアサイミーは、 「流石はアゾット様! 妙案でございます! 我らは時代に選ばれた勝者! そのことを敗者に叩き込まなくては幕府は立ち行きません!」などと能天気に拍手しているが、 勝敗を分けるだけで決着がつくほど単純な問題ではなかろう。 改めて詳らかとするまでもなく、ふたつのエンディニオンの交わりを忌み嫌うヴィクドにも件の放送は届いている。 プールの軍勢が自領を脅かさんと画策していることを嗅ぎ付けたアルカークは、 自慢の傭兵部隊を率いてミキストリ地方に布陣し、ここに敵軍を釘付けにしていた。 数日にも及ぶ対陣を経てプール軍が撤退を始めると、アルカークも速やかにヴィクドへと帰還。 それから間を置かずに次なる遠征の支度に取り掛かった――その折にギルガメシュの特別報道に接した次第である。 提督の館から少し離れた区画に所在する花園にてアルカークはラジオ放送を聴いていた。 草原と見紛うくらい広く、また整備の行き届いた立派な花園である。 辺り一面に種々様々な花が咲き乱れ、噎せ返る程に甘ったるい芳香(かおり)が充満している。 厳しい面構えの『提督』には恐ろしく不似合いな場所であるが、園芸は彼の少ない趣味のひとつなのだ。 余人の目には滑稽に映っているとアルカーク本人が一番解っている。それでも寸暇を見付けては通っていた。 この花園への立ち入りが許可されているのは、子息子女や実弟と言ったアルカークの親族を除けば、 遠征時に管理を請け負うマスターソン家の執事のみである。 配下の傭兵は近付くことさえ禁じられている。だからこそ、アルカークも心行くまで草花を愛でていられるのだ。 決して恥じるものではなく、驚く程に健全な趣味なのだが、 しかし、荒くれ者たちを掌握する鬼の『提督』が喜んで晒せる姿でもあるまい。 その花園へアルカークが持ち込んだのは、提げ紐が取り付けられた携帯式の小型ラジオである。 通路の脇に屹立する大木の枝に提げ紐を引っ掛け、吊り下げた状態で音量を最大に引き上げてある。 ラジオの音声が届く範囲にもアルカークを満足させるだけの草花が植えられている。 巨体を圧縮させるようにして屈み込み、見事に織り上げられたタペストリーの如き彩を楽しんでいる最中、 酷く慌てた調子の足音が近付いてきた。 その走り方だけで誰が花園にやって来たのかを察したアルカークは、 「……アルカエスト、花園(ここ)でそんなに走るな。花の一本でも踏み潰したら承知せんぞ」と、 草花から目を転じることもなく叱声を飛ばした。 果たして、そこには『提督』の孫であるアルカエスト・マスターソンの姿が在った。 体質自体がアウトローに近いヴィクドの傭兵たちは、衣服を着崩す傾向があるのだが、 立ち居振る舞いからして生真面目な性情が滲み出しているアルカエストは、 今すぐに外交の場に送り込まれても恥を晒さないよう身なりも整えていた。 そのアルカエストが珍しく髪を振り乱し、息せき切らして直(ひた)走っているのだ。 火急の用件であることは疑いようもない。どうやらアルトの権力構図を塗り変えていく特別報道にも 匹敵するような重大事を抱えているらしい。 呼吸を整えることすら忘れて通路にて跪いたアルカエストは、 「畏れながら、申し上げます」と言う前置きを挟んだ後(のち)、急報を語り始めた。 「お祖父様が懸念なさっていた例の疫病のこと、粗方の調べが済みました。 向こう≠ナは『黒旋風(こくせんぷう)』なる病名が付けられているそうです。 空気感染によって速やかに拡散され、重篤な場合、嘔吐など苦しみ抜いた末に死に至る――と。 ……こちら≠ナはギルガメシュが管理する『ガルシオン』なる難民キャンプを中心に拡がりつつあるようです」 その疫病≠フ委細を調べるようアルカエストは祖父より命じられていた。 敬愛する祖父を喜ばせられるだけの情報が集まったものと判断したアルカエストは、 一刻も早くアルカークの耳に入れようと花園まで駆け付けたわけだ。 健気にして一途な孫に相好を崩すアルカークであったが、直ぐさまに表情を引き締め、 「……莫迦者がぁ」と再び厳しい声を浴びせかけた。 「向こう≠セのこちら≠セのと、持って回った言い方をするな」 「お、お祖父様?」 「幕府サマの決定を聞いておらんのか、アルカエスト。 我らは今日からアルト、異族どもはノイと名乗らねばならんそうだ。 ……例え、些細なことであっても、神経を逆撫でされるようなことであっても、 情報と言うものはひとつとして聞き漏らすなと、常々説き聞かせておるだろうが。 それとも、この祖父の教えなど貴様には不要と言うことか?」 「そ、そんなッ! そんなことはありません! 私は! 私はお祖父様のお力になりたいと、 ただその一心でございます! お祖父様の教えは私の全てでございまして――」 「見苦しく喚くな」 急ぎ取りまとめた報告を褒めて貰えると信じ込んでいたアルカエストは、 思い掛けず叱責を浴びたことで完全に動転してしまっている。 アルカークに――敬愛する祖父に見捨てられるのではないかと怯えているようにも見える。 哀れとしか例えようのない狼狽振りを睥睨したアルカークは、 鉤爪状となっている右の義手の側面でもって孫の頭を軽く小突き、口元を歪めて見せた。 ようやく自分が脅かされたことに気付いたアルカエストは、 血の気の引いた顔でその場にへたり込み、安堵と恐怖を綯い交ぜにしたような薄気味悪い笑い声を漏らした。 折しも、ラジオの向こうでは「幕府はアルトを蔑ろにするものではない。ノイと等しく扱う」と、 政権の公約を繰り返していた。 随分と耳当たりの良いことを口走ってはいるものの、 アルト側――特に攘夷を叫ぶ者たちだ――の反発を招かない為の方便であることは明白だ。 佐死の撫子が嘲ったように難民すら守り切れない組織が、 どうやってふたつのエンディニオン≠フ平和を保つと言うのか。 「取り敢えずはお手並み拝見と行こうではないか、アルカエスト。 ……疫病≠ヘ気付かん内に冒され、徐々に生命を蝕んでいくものだが、 その見落としに奴らが気付くのは、さて、何時になるか――」 幕府と言う組織の脆弱性と、これが行き着く末路を見透かしているのだろうか、 ヴィクドの『提督』は、先程とは別の意味で口元を歪めていた。 時計の針は午後四時半を指している。放送開始を告げるチャイム音から一時間余りが経過し、 幕府成立の宣言も結尾へと近付きつつあった。 現在はエルンストが記したと言う書簡が披露されている。 これはアルトに暮らす全ての人々に宛てた決意の表明であるそうだ。 「投獄された身ではあるものの、己はテムグ・テングリ群狼領の前御屋形である。 その立場から幕府の在り方を検証し、全幅の信頼を寄せるに値する正当な機関なのだと納得した。 諸君の中には新しき時代の訪れに戸惑っている人間もいるだろう。 無理もない話だ。これよりエンディニオンは変わる。これまでとは違う世界に変わるのだから。 それ故に私は、罪深き身でありながら、敢えて諸君に呼びかけようと思ったのだ。 幕府は新時代の要であり、秩序の担い手である。我らが選んだ新しき盟主なのだ……と。 エルンスト・ドルジ・パラッシュの名に於いてギルガメシュの決断を承認したい――」 ラジオの向こうで朗読されているのは、無口なエルンストからは想像も付かない長文だった。 馬軍の覇者を知る人間であれば、本人の知らない間に捏造された書簡ではなかろうかと疑った筈である。 現在、エルンストは側近のデュガリと共に獄中に在る。一切の情報が遮断されているに違いなく、 仮に己の名を騙る不届き者が現れたとしても、これを知る術さえ持ち得ないのだろう。 ギルガメシュの側からすれば、先に既成事実を作ったほうの勝ちである。 端的に表すならば、「言ったもの勝ち」なのだ。 連合軍の主将であったエルンストの承認を取り付けたと言う事実をアルト側の人々に突き付け、 ギルガメシュや幕府に対する反骨心を今度こそ叩き潰すつもりなのだ。 念入りに止(とど)めを刺さなくては、安心して統治に着手出来ない様子である。 これではアルトの反撃を恐れているとブクブ・カキシュの内外に示すようなものだが、 自分たちの愚かしさを悟って放送を打ち切るどころか、朗読の声は秒を刻む毎に大きくなっていく。 そこには浅ましい驕りが表れていた。 驕り高ぶった人間の声と言うものは他者の心の奥底まで無遠慮に浸透し、澱みの如く嫌悪の情を作り出す。 そうした想念は速やかに不信の種へと変わるのだ。つまり、新政権の公平性を訴えておきながら、 全世界に不信の種を撒き散らしたようなものである。 ここに至って特別報道はギルガメシュの狙いを大きく外す形で作用し始めていた。 ただでさえ神経を逆撫でされるのだ。閉塞感に満ちた地の底のシェルター内で放送を聴こうものなら、 音声の反響もあって苛立ちも一層増幅されることだろう。 案の定と言うべきか、窓の一枚もない壁に凭れ掛かった黒服姿の男は、これ以上ないくらい顔を顰めつつ、 「ここまで下手糞な情報工作を聞かされると、逆に腹が立ってきますねェ」と忌々しげに吐き捨てた。 気が滅入るくらい薄暗い部屋にて溜め息ばかりを零している黒服は、ラトク・崇であった。 新聞王ジョゼフに命じられてアルト側に居残ったラトクは、 現在は佐志を離れてルナゲイト家の現当主たるマユの補佐役に就いている。 尤も、課せられる任務は新聞王の懐刀であった頃と殆ど変わらない。 ルナゲイト家のエージェントとして東奔西走し、新聞女王が望むような成果を上げるのみである。 タレント活動も休業中である為、本当に代わり映えのない日々を続けているのだった。 言わずもがな、ラトクの視線の先には新聞女王ことマユ・ルナゲイトの姿が在った。 普段から悪魔のような化粧や衣装を好むマユであるが、今は常闇の如き彩(いろ)のドレスに身を包んでいる。 身頃を腰丈まで伸ばしたロングトルソーだ。本来は肩が剥き出しとなるドレスなのだが、 彼女の場合は蜥蜴革で拵えたボレロを羽織っていた。 襟にあしらった黒い羽根は、輪状の斑紋が全体に及ぶ飴色の上着とは致命的に合わず、 見る者に生理的な不快感を与えている。およそ、「調和」の二字から掛け離れた出で立ちなのだ。 朱の染め糸でもってドレスに施された刺繍も毒々しい趣を強めている。 頭部を切り落とされた鶏が大きく羽根を広げながら、のた打ち回っているのだ。 個人の嗜好が反映された刺繍と雖も、余人の目には異常なものとして映ることだろう。 マリスも同系色のドレスを好むのだが、彼女が着用している物とマユとを比べれば、 後者の禍々しさが余計に際立つ筈である。 奇天烈な装いはともかく――マユは瞑目したまま一言も発さずに特別放送へ集中していた。 彼女の執事であるアナトール・シャフナーは、部屋の一角に設置された机に向かい、 ノートパソコンを操作している。ラジオの音声はそこから聞こえてくるのだ。 どうやら件の放送内容を受信出来る機能を搭載しているらしい。 ノートパソコンに内蔵されたスピーカーは質が悪く、 不愉快極まりない声を更に耳障りな雑音(もの)へと変えていた。 「随分と手の込んだ趣向ですが、……今のあれ≠ヘ本物ですか? エルンストさんの文才は寡聞にして存じませんが――」 ガラスのテーブルを挟んで向かい側のソファへ座している人間に向かって、 マユは特別報道に含まれていた内容の真偽を訊ねる。 エルンストが記したとされる書簡が実は捏造ではないかと質しているのだ。 「ギルガメシュの宣戦布告に合わせて送信されたメールや、 件のセレモニーでカレドヴールフさんがなされた勝利演説にも似通っております。 腕の良いスピーチライターが付いていることは間違いないと思うのですが?」 「総司令が個人的に雇ったスタッフまではわたきュしだって把握してにゃいにょ。 第一、こんにゃ茶番が入ることだって知りゃにゃかったんだにょ」 答えようがないとばかりに肩を竦めて見せたのは、なんとコールタンであった。 グンフィエズルやブルートガングと言った副官は随伴していないが、 その身を包むのはカーキ色の軍服であり、ギルガメシュの最高幹部と言う身分を明瞭に示している。 ルナゲイトを攻め落としたギルガメシュの最高幹部と新聞女王の取り合わせは、 これを傍観する人間にとてつもない緊張を強いるものであろう。珍奇などと言うものではない。 両者は――少なくとも、マユにとってコールタンは怨敵以外の何者でもない筈なのだ。 尤も、コールタンはジョゼフとも密かに繋がっていた。 ギルガメシュの幹部ではなく、件の組織の内通者として接するのが――あるいは利用するのが―― ルナゲイト家の判断であるようだ。 マユも祖父の方針を引き継いでいるらしく、コールタンに敵意を抱いているようには見えなかった。 「あんたに知らんことなどあるのかね。仮にも『アネクメーネの若枝』とやらの一員なのだろう? ……人語を喋るクリッターのことだって、あんた、ベラベラと喋ってくれたじゃないか」 マユとコールタンの会話にラトクが口を挟む。 彼の視線はガラスのテーブルの上に散らばる書類や写真へと注がれていた。 何か≠フ概略をまとめた報告書のようだ。 隠し撮りと思しき写真には、ヒトとも獣とも見える不思議なシルエットが収められている。 「トゲがありゅ言い方だにょ〜。しょんにゃことだから奥さんに逃げられるんだにょ」 「ほっとけ――と言うか、誤魔化さないでくれ」 「ホンットに細かい人だにょ〜。あんたしゃんたちが知りたがってた『進化型のクリッター』っちゅ〜のは、 幹部全体で把握してることだにょ。知ってて当然ってヤツにょ」 「……成る程。カレドヴールフ個人の動きは掴み切れない。 それどころか、何を考えているのか、殆ど読めなくなっている――と仰りたいのですね?」 マユの推察にコールタンが感心したような調子で相槌を打った。 「しゃしゅがは御大の孫娘だにょ、聡くて助かりゅにょ。ラトク君も見習い給えにょ」 「私みたいな凡人を捕まえて、そんな難題(ムチャぶり)、言いなさんな」 「組織の長と周りの足並みが揃わないことは、わたくしたちには幸いですね。 統治権の詐取でも躓いたようにお見受けしましたし、地盤が固まらない内に幕府へ移行して頂ければ、 これほど動き易い状況もありません」 「足並みが揃わにゃいのはカレドヴールフだけじゃにゃいにょ。みんにゃしてバラバラにょ。 内部情報だってアゾット君から先には回らにゃいことも増えてきたにゃあ――」 仮にも最高幹部でありながら、コールタンはまるで他人事のようにギルガメシュの内情を語っていく。 ノイ側に於ける最大規模の武装組織ではあるものの、何処かの軍が母体となったわけではないので、 規律そのものは結成当初から緩やかであり、カレドヴールフが部隊長の頭越しに兵を指揮することも多かった。 しかしながら、ここ最近のカレドヴールフは度を越しているとコールタンは明かした。 グリーニャ焼き討ちが最たる例であるのだが、ギルガメシュの作戦として決定されたものではなく、 また成果すら曖昧なことにまで部隊を繰り出すようになったと言うのだ。 如何に総司令と雖も、私兵の如く部下を扱うことは許されないともコールタンは言い添えた。 先程も『ガルシオン』なる難民キャンプにフラガラッハの率いる機甲部隊が差し向けられたそうだ。 言わずもがな、カレドヴールフの一存で、だ。 ギルガメシュに於ける機甲部隊とは、ロボット兵器を中心に編制された特殊な一隊であり、 人間(ひと)の手に余るような危険地帯や、大型クリッターの棲息地へ出動することが多い。 そのような部隊を難民キャンプに向かわせて、一体、何をしようと言うのか―― カレドヴールフは出動の理由を決して明かそうとしないのだ。 「『ガルシオン』? ……ロイリャ地方北端の――あの、ガルシオンでございますか?」 マユも『ガルシオン』なる地名には聞き覚えがあった。 嘗て悲劇の舞台となったワーズワースと同じ自然公園であった筈だ。 現在はギルガメシュに接収され、中規模の難民キャンプが設置されている。 「利発なあんたしゃんにゃら、しょれがにゃにを意味しゅるか解るハズだにゃ?」 「……ええ、出来ることなら、もっと早く――いえ、最優先で教えて頂きたかったものです」 コールタンの言葉に何か閃くものがあったのだろう。 深く溜め息を吐いたマユは、目配せでもってラトクに指示を飛ばした。 新聞女王の意図を察したラトクは、すぐさまに背広の胸ポケットからモバイルを取り出し、 これを耳元に宛がうや否や、足早に部屋から去っていった。 「――しゃてと、あんたしゃんはどうしゅる気にょ? ガッタガタな内側はともかくとして、 幕府そにょもにょはコレで発足してしまったにょ。マズいんじゃにゃいかにゃ〜? ルナゲイト家のメンツが潰れたままにゃら、ギルガメシュがぶっ倒れた後に何かとやりにくいにょ」 ラトクの背中を見送りつつ、「お見事にゃ」とマユの差配を口先で褒めそやしたコールタンは、 次いで新聞女王本人へと目を転じた。 マルーンの瞳が如何なる展望を捉えているのか、これを見透かしてしまおうと言う不躾な眼差しである。 対するマユも負けてはいない。コールタンの腹の底を探り返そうとピーコックグリーンの瞳を覗き込んでいる。 「さあ、どうなることでしょう。わたくしは貴女のように賢くはございませんので、 明日のことは明日になってみなくては分かりませんわ」 「しょの厭味っぽいところはジイさん譲りだにょ。 『賢い』って言葉が、一番、人にょことを馬鹿にしてりゅんだにょ」 「言葉通りの意味ですのよ。……アルフレッドさんを意のままに操って、 フィーちゃんたちを向こう≠ノ送り込んで、どのような道≠拓かせるおつもりなのでしょう?」 「ダメにょダメにょ。向こう≠ノゃんて曖昧なことを言ってると、 幕府の偉い人に注意しゃれちゃうにょ。ノイだにょ、ノイ」 「あらあら、これは失礼致しました。他にもご指導頂けることがございましたら、 是非ともよろしくお願いいたしますわ」 「モチのロンだにゃ。ルナゲイト家とは永い付き合いだにょ。 これから先も二人三脚で行きたいものだにゃ〜」 「ええ、末永く。ルナゲイトも道≠拓くお手伝いなら喜んで致しますわ」 「にゃ〜にを謙遜してるんだにゃ。あんたしゃんは道≠フ真ん中を進まにゃきゃならにゃい人だにょ。 しょれがアルトに君臨しゅる新聞女王の義務にゃんだにょ」 「まあまあ、光栄ですわ――」 己の思惑は一端すら見せず、それでいて相手の尻尾を掴もうと腕を伸ばしているわけだ。 こうなってしまうと、いよいよ埒が明かないのだが、 マユとコールタンは行き詰った状態すら楽しんでいるように見えた。 化かし合いとしか例えようのないふたりの様子を盗み見たアナトールが、 「仲良きことは美しいかな」と心中にて揶揄した直後、 ラジオの向こうではエルンストが記したとされる書簡の最後の一行が読み上げられた。 「――荒野に強く咲く草となりて、世に誇りを掲げよ」 書簡を締め括った言葉は、前後の文章とは些か趣が異なっていた。 本当の意味で誰か≠ノ語りかけようとする意思が伝わってきた。 テムグ・テングリ群狼領の御曹司たるグンガルは、父の言葉を側近たちと共に聴いていた。 本当にラジオの電波が届くのか、不安を覚えるような未開の地の、 更に奥深い場所に穿たれた大洞窟の中で彼らは身を寄せ合っていた。 車座になったグンガルたちは、身動(じろ)ぎひとつせずに一個のラジオを囲んでいる。 照明(あかり)と呼べる物は岩壁の際に立てられた篝火しかないので、 隣に座した人間の顔すら満足に確かめられないが、誰もが同じ表情を貼り付けているに違いない。 「固唾を呑む」とは、まさしく彼らの様子を指す言葉であろう。 御曹司は言うに及ばず、ブンカンもカジャムも、誰よりも騒々しいビアルタでさえ一言も喋らないのだ。 内へ内へと力を溜め込むような沈黙は、「誇りを掲げよ」と言う鼓舞を以って一気に爆発した。 果たして、真の御屋形が誰≠ノ何≠語りかけていたのか、馬軍の将士にだけは理解出来たのだ。 それ故に腹の底から快哉を叫んだのである。 怒涛の如き大音声が岩壁で反響し、皆の鼓膜を手加減なく打擲(ちょうちゃく)したが、 そんな瑣末なことを気にしている人間は何処にも居ない。 エルンストの降伏以来、消沈する事態にばかり遭っていた馬軍の将士は、今、喜色満面で拳を突き上げていた。 真の御屋形の言葉を反芻し、「我らは草となるッ!」と、強く深く頷き合っている。 カジャムはそこに最愛の人の無事を確かめ、そっと胸を撫で下ろすのだった。 エルンストが記した書簡の朗読を最後に、幕府成立を通達する特別報道は終わった。 終了を告げるチャイム音が鳴った直後は世界中の誰もが放心していた。 熱に浮かされたような面持ちで立ち尽くしていた。人によっては意味もなく辺りを彷徨ったことだろう。 余人と比して遥かに剛毅な人間が揃った冒険王の屋敷であっても、それは変わりがない。 為すべきことは既に決まっており、そこに向けて皆の心も研ぎ澄まされている―― それでも、幕府と言うひとつの現実を前にして思考に空洞が生じてしまっていた。 この期に及んで幕府に恐れを成したわけではない。攘夷思想の如く敵愾心に狂った末に燃え尽きたわけでもない。 あるいは平静と昂揚と言う対極の状態が絶え間なく入れ替わり、これを脳が処理し切れずにいるのかも知れなかった。 「どいつもこいつも尻に火がついたってワケさ。上等だぜ、勝負はデケェほうが面白ぇ!」 腰掛けていたソファから勢いを付けて立ち上がったマイクは、 呆けたように口を開け広げているライナの眼前で右の中指と親指を打ち鳴らし、 次いで難しい顔のまま佇んでいるディオファントスの肩を叩き、そのまま窓際へと向かっていく。 窓から眺望出来る町並みにも、やはり混乱の気配が見て取れた。 ある人は恐怖に引き攣った顔を家族と見合わせ、またある人は売り物と思しき派手な仮面を取り落としている。 あと三〇分もすれば放心状態から立ち直った住民たちが屋敷に推し掛けて来るだろう。 移譲された統治権の上に成り立つ幕府の宣言は、恐慌の引き金としては十分であった。 ビッグハウスの太守たるマイクは、一秒たりとも立ち止まることは許されないのだ。 「今朝の予報の通り、夕方には『高潮(たかしお)』になりそうね」 「……んー? あ〜、……そうだな」 マイクの隣に立ったケートは、町並みと空模様を交互に見比べながら「高潮」と呟いた。 高潮(これ)はビッグハウスだけに見られる独特の現象であった。 街中を流れる海水の循環が強風によって堰き止められ、 これによって水量が増したときに満潮が重なると観測されるのだ。 潮位が異常な水準に達している状態であり、 一度(ひとたび)、この現象が発生すると町全体が水浸しになってしまうのである。 外部から訪れた人間の目には一種の惨事のように映るのだが、 ビッグハウスの住民たちは水の力を司る神人の悪戯として、寧ろ歓迎していた。 高潮の到来に触れたケートの話そのものには、実は大きな意味はない。 自身が愛する民の混乱に心を痛め、責任を感じているだろう夫を気遣っているわけだ。 しかし、当のマイクは『高潮』の二字に暗示めいたものを感じ取っていた。 抗うことの出来ない力によってBのエンディニオンが――否、アルトが呑み込まれていく前途を思い浮かべ、 苦悶にも近い表情を面に貼り付けている。ライナたちを励ましたときの明るい調子から一変して、 重苦しい気配を纏わせているのだ。 エプロン姿のマリスが応接室にやって来たのは、そのような折であった。 如何なる理由があってオーブン用の厚手のミトンを嵌めているのかは知れないが、 頻りに首を振り回す辺り、アルフレッドの姿を捜している様子だ。 非常事態と言う点はさて置き――その出で立ちからも察せられる通り、 特別報道が垂れ流されている間、マリスは屋敷の厨房に籠もり切りであった。 ここ最近、立て続けに苦しい決断を迫られ、心身ともに疲弊したアルフレッドを元気付けようと、 屋敷の厨房を借りて焼き菓子を作っていたのである。 料理は学び始めたばかりのマリスだが、経験がなかっただけで極端な不器用と言うことではなく、 手元にレシピさえ置けば、目も当てられないような大失敗はしなくなっていた。 ところが、マリスの目当てである青年は、ジャーメインとザムシードを伴って稽古に出掛けている。 応接室どころか、冒険王の屋敷にも居なかった。 この時間に不在にしていると言うことは、当然ながらラジオ放送にも立ち会っていない。 「粗方の内容は察せられるので、わざわざ聴いておくほどの値打ちもない」とアルフレッドは吐き捨てたものだ。 無駄な時間を使うより稽古に打ち込んでいるほうが有意義とも言い添えていた。 それに付き合うザムシードは、真の御屋形の言葉を聴き逃してしまったわけだが、 マイクは抜かりなくラジオを録音しているので、屋敷へ戻った後(のち)に該当箇所で昂揚することだろう。 アルフレッドも必要に応じて――作戦立案の材料とも成り得るだろう――報道の詳細を確認する筈である。 他方のマリスは、傍目には余りに能天気であった。 最愛の恋人≠励ましたいと言う気持ちも分からなくはないが、それも時機(とき)に因りけりだ。 さしものマイクも呆れ半分で肩を竦ませており、 口を開け広げたまま、彼女の出で立ちを爪先から面まで凝視していった。 「このコ、カレシに避けられてるって気付いてないのかしらね。重いわぁ、押し付けが重いタイプだわぁ〜」 穏やかならざる内容(こと)を耳打ちしてきたティンクに対して、 マイクは何とも言えない苦笑いを返すばかりであった。 * アルフレッドの姿はビッグハウスの外れに位置する造船所跡に在った。 海に面した場所に煉瓦造りの建物が密集しており、古びた倉庫街のような風情を醸し出している。 巨大な資材を収納しておく為か、何れの建物も奥行きがあり、三角屋根が天を衝く程に背が高い。 その区画の中心部まで入り江の如く広い水路が引かれ、 これを遡っていくと、やがて造船施設に辿り着く次第であった。 完成した船はこの水路を通過してより大きな運河へ、そして、大海原へと漕ぎ出していくのである。 他の水路との合流地点――即ち、造船所の出入口に当たる――には、 入り江≠挟むような形で左右に物見塔が建ち、自慢の船の旅立ちを見守っている。 無論、「跡地」と付くだけあって現在は施設全体が封鎖されている。 ビッグハウスで最も意味のある史跡としてワイアット家に保管され、在りし日の姿を現代に留めていた。 此処ではガレー船が造られていた。技術の変遷につれて必要とされなくなってしまったのだが、 一時代の象徴であることに変わりはなく、その価値は永遠に色褪せはしないだろう。 港湾に程近い場所へ最新の造船所が設置された後(のち)も此処を訪ねる者が途絶えることはない。 観光名所としての賑わいは、それ自体が史跡の存在意義を表していた。 尤も、現在(いま)は高潮が近付いていることもあって人気(ひとけ)がない。 予報された時間帯ともなれば、造船所跡全体が浸水するのだ。 それ故にアルフレッドたちは稽古の場として此処を選んだのである。 事実、造船所跡に響き渡るのは三人分の吼え声のみであった。 そのアルフレッドたちは走り込みの真っ最中である。 三角屋根の建物の間を貫く通路を三人並んで全力疾走していた。 直線で数百メートルの距離である。駆けていると途中から煉瓦造りの壁が途切れ、 入り江≠一望出来るような場所に至るのだ。 今は使われていない瓦斯灯の柱が水際に一定の間隔で立ち並んでいるのだが、 これがアルフレッドにはハロン棒のように思えてならず、 疾走しながら自分が競走馬にでも化けたのではないかと錯覚してしまった。 ハロン棒とは、競馬場の走路(コース)の側面へ一ハロン毎に立てられ、 入線(ゴール)までの距離を知らせる標識のことである。 勿論、走路(コース)のように明確なゴール地点が設置されているわけではない。 入り江≠ノ架かる橋のたもとを目安にして、三人は駿馬の如く駆け抜けたのだった。 しかし、本当に競走馬が此処を駆けたなら、忽ち脚を痛めてしまうだろう。 アルフレッドたちが選んだ通路は、控えめに言っても走り込みに適しているとは言い難い。 古めかしい石畳は極端に凹凸した箇所が非常に多く、気を抜こうものなら一瞬にして足を取られ、 硬い路面へ横転してしまうのだ。 だからこそ、敢えて石畳の路を選んだとも言える。大きな負担を与えつつも足腰を鍛え、 これと同時に集中力や平衡感覚にも磨きを掛けるのが目的(ねらい)であった。 悪路へ順応する術もアカデミーにて学んでいたアルフレッドは、 先日のボルシュグラーブとの訓練もあって、石畳の上でも全速力を発揮することが出来た――が、 それでも先頭には立てなかった。ほんの一瞬であっても、だ。 嘗てはスカッド・フリーダムに身を置いていたジャーメインと、馬軍の将たるザムシードは、 共に超人的な肉体の持ち主である。ゴールと定められた地点へ到達する頃には、 アルフレッドは数メートルも突き放されてしまっていた。 格闘戦であれば、卓越した技術と頭脳を以ってして互角以上に渡り合えるのだが、 純粋な身体能力では両者に敵わないのである。 当然ながら、鎖帷子とロングコートは脱いでいる。 タンクトップにジーンズと言う身動きの取り易い装いであっても意味はなかった。 アルフレッドの身体能力も桁外れに優れている。己の肉体を追い込むような訓練もこなしている。 しかし、目の前の超人たちは根本的な鍛え方が違うのだ。 大きく引き離されて敗れた彼は、このふたりの場合、肉体構造すら異なっているのではないかと勘繰っていた。 超人が相手なのだから、及ばなくても仕方があるまい――そのように自分を納得させてはいるものの、 一度も勝てない悔しさは抑えようがなく、ふたりの背中を追い掛けながら幾度も歯噛みをしていた。 「若い者は羨ましいくらい良く伸びるな。走る度に距離が縮まってくるよ。 あと二〇〇〇本も走り込めば、完全に追い抜かされるだろうよ」 「桁外れな数字を軽く言ってくれる。あんたくらい肉体(からだ)を鍛えるには、 二〇〇〇本くらい走り込んだ程度じゃ足りないと思うのだがな」 「私だって二〇〇〇本も走ったら疲れて動きが鈍る。何しろ年寄りだから持久力が持たんよ」 「一瞬でも期待させたことを謝ってくれ……」 先にゴールで待っていたザムシードからアルフレッドに感心したような声が掛けられた。 大人の目から拙い子どもの奮闘を褒めているような言い回しであるが、 ザムシードはアルフレッドのことを侮っているわけではない。事実を述べているに過ぎないのだ。 無論、アルフレッドも苛立つことはない。ザムシードの声には嘲りなど混ざっていないのだから、 そもそも腹を立てる理由がなかった。 ザムシードに対して何らかの念を持つとすれば、感謝以外には考えられない。 数日前、彼に誘われて模擬戦を行ったときと全く同じ状況なのだ。 その一戦を通じてアルフレッドが学んだのは、 「ひとつの物事に集中していれば、心の動転も鎮まり、思考もまとまる」と言うことである。 これはザムシードより授かった教訓とも言い換えられよう。 件の模擬戦のとき、アルフレッドは途方もない喪失感に打ちのめされた直後であり、 心身ともに本調子には程遠かった。対ギルガメシュの戦列へ復帰する前に 本来の力を取り戻しておくよう促されたと言うことだ。 そして、現在は幕府成立と言う重大な問題に直面していた。社会の仕組みを一変させる程の局面である。 ギルガメシュと戦い続けるにしても、寝返りの多発によって崩壊した史上最大の作戦を諦め、 連合軍自体の仕切り直しをしなくてはならなかった――が、これもまた容易には進むまい。 しかも、だ。『在野の軍師』の思考を妨げる原因が今まさにラジオ放送されているのである。 それ故にアルフレッドとザムシードは不愉快な雑音が耳に入らない場所を選び、 稽古に繰り出したのである。 今回もまたザムシードの教訓通りであった。卑劣極まりないやり方でアルトから権能を騙し取った幕府に対し、 身の裡から憎悪が溢れ出しそうになったのだが、著しい心の乱れは厳しい稽古へ集中する内に 自然と鎮まっていった。 常人にとっては理性を欠いてしまうような事態であっても、アルフレッドなら必ず乗り越えられる―― そのように認めていればこそ、ザムシードも稽古に付き合っているわけだ。 (……本当ならラジオに齧り付いていたいだろうに……) ザムシードへの感謝を心中にて呟く一方で、ジャーメインの考えがアルフレッドには分からない。 それどころか、今や理解し合えるとも思っていなかった。 例え、どんな犠牲を払ってでも、勝つ為にはやれることは全てやる―― そう口走って以来、彼女との間には殆ど会話もなかったのだ。 攘夷の名の下に繰り返される虐殺に対し、並々ならない義憤を抱くジャーメインと、 その犠牲者をも謀略に利用したアルフレッドは、最早、信条の面に於いても相容れないだろう。 二度と同じ方向を見つめることはあるまいと、他ならぬアルフレッド自身が感じていたのである。 稽古に随いてきたこと自体がアルフレッドには不思議で仕方なかった。 ザムシードからは冷やかすような視線を浴びせられたが、その意味すら理解出来ない。 ジャーメイン本人が言うには、ライナから拝借したMANAの性能を試すことが目的であって、 稽古に付き合うのは物の序(つい)でなのだそうだ。 (……いちいち理解に苦しむ……) アルフレッドの右隣で全力疾走していたジャーメインは、額から噴き出した汗を手の甲で拭っている。 その様子を横目で窺うアルフレッドだったが、間もなくジャーメインも視線に気付き、 顔面を朱色に染めるや否や、両手で身を覆いつつ睨み返した。 「どこ見てんのよ! このスケベ小僧!」 「おいおい、二枚目、どうしたんだ? 覗きと言うのは、もっとスマートにやるものだぞ」 「お前たちは何を言っているんだ……」 自分が批難されている理由が分からず、辟易したように顔を顰めるアルフレッドはともかくとして―― ジャーメインは他者の視線が気に障るのも無理からぬ薄着であった。 ライナから借りたと言うMANAは、日常品に近い物≠ナある。 近いだけであって、必ずしも日常品に分類されるとは言い難い。 その珍妙なMANAをジャーメインは身に纏っているのだ。 種別と言うことでは、彼女が装着したMANAはメタルビキニ型に類される。 読んで字の如くビキニ水着を模しており、トップスとボトムの組み合わせによって、 一種のボディーアーマーとして機能するそうだ。 他のMANAと同様に伸縮する金属を素材として用いている為、 着用者の体格に必ず一致する仕組みなのだと、ライナは胸を叩いて説いたものである。 アルフレッドもライナが説明する場に居合わせており、 メタルビキニの性能について聞くともなしに聞いてしまったのだが、 これを着用したジャーメインの姿を見た後(のち)にも、全く有効な装備とは思えなかった。 便宜上、『ボディーアーマー』と呼称しているものの、防護する面積が余りにも狭く、 腹部に至っては全くの無防備。「鎧」の一字が持つ本来の意味さえ成り立っていないのだ。 装甲部分も藍色に塗装されており、遠目には本当のビキニ水着にしか見えない。 しかも、今回は試着≠ナある為、MANAの機能にも相当な制限が掛けられていると言う。 ノイに於いては、MANAを用いる場合には所有者の登録が義務付けられている。 これを済ませた段階で所有者に明確な責任が発生し、全ての機能が解放されるのだった。 試運転などで不特定多数の人間が触れる場合、 安全確保と言う理由からMANAは僅かな機能しか使用出来ないわけである。 正式な登録を経ないからこそ、ジャーメインにも試着≠ェ可能とも言い換えられるだろう。 MANAの所有者情報はノイ側で管理されている。ここにアルト側の人間を登録する体制は、 現時点では整っていない筈だ――そのようにアルフレッドは推察していた。 ジャーメインの身を包むメタルビキニ型のMANAは、彼の目にはガラクタ同然としか映らない。 機能の確認以前の問題であり、稽古に随行したところで得るものは何もないと心中にて呟いた。 「MANA以外に服も着込んでいるのに覗きも何もあるものか。 素裸なら気を遣ってやらないでもないが……」 「はぁッ!? ぬ、脱げって言うのッ!? テムグ・テングリのおじさんだっているのにッ!」 「……自意識過剰か、阿呆か。どちらか片方にしておけ」 MANAの性能を試すとは雖も、トップスとボトムだけで街中を歩き回っているわけではない。 メタルビキニの上から薄い桜色のワイシャツとデニム地のスカートを着用している。 半袖の上着はボタンを留めてはおらず、左右の裾を臍の上で縛っていた。 踝丈のソックスとスニーカーを履いているが、これをビーチサンダルに換え、更に麦藁帽子でも被れば、 リゾート地で遊ぶ旅客の完成である。 尤も、両の拳にバンテージを巻いたジャーメインでは、 僅かばかり出で立ちを工夫したところで普通の旅客とは思われないだろう。 「――ったく、なんであたしがヤキモキしなくちゃならないのよ……!」 路上に置いておいた筒状の鞄(バッグ)からスポーツドリンクのボトルを取り出したジャーメインは、 アルフレッドの様子を睥睨しながら喉を潤した。 度を越した朴念仁として知られるアルフレッドには少しも伝わっていないのだが、 ジャーメインは彼と仲直りする機会を求めて稽古に随いてきたのである。 「メタルビキニ型のMANAを試す」と言うのは単なる口実に過ぎなかった。 難民襲撃の現場を目の当たりにしたことから感情的になって怒鳴りつけてしまったのだが、 『在野の軍師』に課せられた役割を思えば、非情の選択を下すことも止むを得ないのだ。 ようやくアルフレッドの立場と言うものに考えが至ったジャーメインは、 自らの軽率な言行を愧じ、何となく顔を合わせるのも気まずくなっていた。 このままでは他の面々との連携にまで良からぬ影響が及ぶと悩んだ末に、 「一緒に汗を流せば蟠りも消えてなくなるだろう」と彼女なりの打開策を捻り出したのだった。 ただひとつの――否、最大の問題は、アルフレッドが本当に度を越した朴念仁と言う点である。 当人としては周りの状況を見定めているつもりなのだろうが、 しかし、ジャーメインの気持ちなど一欠けらも拾い上げてはいない。 視界に入っているのかも怪しいものだ。 馬鹿馬鹿しいくらいの一方通行と自覚しているジャーメインは、 スポーツドリンクでもって虚しさを飲み下すしかなかった。 (……あれ以来、マリスとも気まずくなっちゃうし……堪ったもんじゃないわよ……っ!) 苦み走った顔を俯かせたとき、ジャーメインは鞄(バッグ)の中で何かが光り輝いているのを見つけた。 モバイルである。液晶画面が一定の間を置いて点滅しているのだが、 これはメールか、電話の着信があったことを知らせる合図である。 手に取って確認してみると、液晶画面にはローガンからの着信通知が表示されていた。 今はもう切れてしまっているが、 「――はぁ? ローガン? なんであたしのとこに電話寄越すのよ。アルがいるじゃない、アルが……」 誰に聞かせるでもなく独り言を呟いていたジャーメインは、 ふとアルフレッドがモバイルを携行していないことを想い出した。 夕方には町全体が水浸しになるとケートから教えられたので、 アルフレッドとザムシードは揃ってモバイルを宿所に置いてきたのだ。 造船所跡にモバイルを持ち込んでいるのは、ジャーメインただひとりと言うことである。 愛弟子のモバイル宛に電話をしても通じなかったので、 連絡を取り持ってくれそうな相手としてジャーメインを選んだのだろう。 「いつも一緒にいると思われるのも癪よね」 頬を紅潮させつつ、照れ隠しのような文句を吐き捨てるジャーメインであったが、 より詳しく着信履歴を振り返るにつれて、その面は次第に強張っていく。 どう言うわけか、シルヴィオからも電話着信があったのだ。 『スカッド・フリーダム』の現隊員――しかも、最高幹部に名を連ねている――であり、 アルフレッドのことを『ジークンドー』と流派の名で呼び付け、 好敵手のように扱うシルヴィオ・ルブリンその人である。 シルヴィオとモバイルの電話番号を交換したことさえジャーメインは今まで忘れていた。 タイガーバズーカで暮らしていた頃に登録したのであろうが、 義の戦士であったときにも彼とは別行動を取ることが多く、 互いの番号を教え合ったきっかけすら想い出せなかった。 シルヴィオ本人よりも彼の腐れ縁≠フ少女のほうがジャーメインとは親しいのである。 その少女と一緒に居るときにでもアドレスを交換したのかも知れない。 (……元気にしてるかな、あのコ。シルヴィオと会ったときに様子を訊いておけば良かったな――) シルヴィオと電話番号を交換した経緯などと言う愚に付かないことをわざわざ記憶の底から穿り返したのは、 どうにも抑えようのない胸騒ぎを紛らわせる為であった。 シルヴィオとローガンから交互に着信があった。それも幾度も、だ。 おそらくアルフレッドのモバイルにも同じような着信履歴が残されていることだろう。 何か尋常ならざる事態が起こってしまったのは間違いないように思える。 仔細は不明ながら原因として想定し得るのは、この状況ではギルガメシュの特別報道以外にはなかろう。 それでも、ローガンの着信履歴だけならば心臓が早鐘を打つこともなかった筈である。 タイガーバズーカに戻っているであろうシルヴィオからの電話が妙に引っ掛かるのだ。 彼が――スカッド・フリーダムの義の戦士が何を報せようとしているのか、 こればかりはジャーメインにも見当が付かない。 震える指先で確(しっか)りとモバイルを持ち、最新の着信履歴を選択する。 ローガンは留守番電話の録音サービスにも伝言を残していたようだが、 これを再生するよりは、直接、電話を掛け直したほうが早いだろう。 ふと視線を巡らせると、アルフレッドとザムシードが模擬戦の支度を始めている。 投げ技に精通するザムシードと石畳の上で立ち合うなど命知らずとしか言いようもないが、 危険が伴わないような生温い模擬戦では得られる経験(もの)も少ない。 何よりも現在(いま)のアルフレッドならば、少しばかりの負傷を度外視してでも 技を磨きたいと申し出るに違いない。 ふたりの様子を眺めながら電話の呼び出し音を聴いていると、 数秒と経たない内にローガンの声が受話口から飛び込んできた。 「――そこにアルは居てるかッ!? まだ何も起きてへんかッ!?」 この時点でジャーメインの心臓は一等大きく揺さ振られた。 挨拶もそこそこにローガンはアルフレッドの安否を確認してきたのである。 予想した通り、愛弟子と連絡が付かなかった為にジャーメインへ電話を掛けた様子だ。 ローガンらしからぬ切羽詰った声であった。 その声が鼓膜を打った瞬間、運動時とは異なる種類の汗が全身から噴き出し、背筋を滑り落ちていく。 冷たい戦慄に眩暈を覚えながらも懸命になって気を張り、アルフレッドらと共に稽古中である旨を伝えると、 ローガンは信じ難いことを口走った。「今すぐに逃げやッ!」と叫んだのである。 「さっきシルヴィオから電話があったんや! スカッド・フリーダムのお偉方、 何をトチ狂うたんか、アルの命(タマ)を奪(と)る気なんやッ!」 「ちょ、ちょっと! ちょっと待ってよ! ど、どうしてそんなことッ!?」 「シルヴィオの連絡や言うたやないけ! アイツの知らん間にアホなことが決まってもうたんやッ! 納得出来(でけ)んて抗議しても突っ撥ねられて、ほんでワイらに連絡をやなァッ!」 「そんなこと言ってんじゃないのよ! 何でスカッド・フリーダムがアルを狙うわけッ!?」 不穏当な言葉が耳に入ったのであろう。アルフレッドとザムシードも怪訝な顔をジャーメインに向けている。 ふたりの視線を感じながらも返答しようのないジャーメインは、 ともかくもローガンから委細を訊き出すべく送話口に「狙われる理由がないわッ!」と繰り返した。 「アルが何をしたって言うのよッ!? ずっとギルガメシュと戦ってるのよッ!? まさか、それが原因なんて言うんじゃないでしょうねッ!?」 幾度も自分の名前が飛び出すのだから、アルフレッドとしても黙ってはいられない。 その場にザムシードを残し、ジャーメインのもとへと歩み寄っていく。 「スカッド・フリーダムが大事に抱えてる義とアルの戦いは何も外れちゃいないわよッ!」 「――ええい、細かく説明しとる暇もあらへんのやッ! 安全なトコに隠れられたら教えたるさかい、 今はとにかく逃げるんやッ! なにせ、『七導虎(しちどうこ)』が差し向けられて――」 スカッド・フリーダムが、嘗ての仲間たちがアルフレッドの生命を狙っている―― そこに至る経緯(いきさつ)も含めて全く意味が分からず、堪り兼ねて悲鳴を上げるジャーメインだったが、 しかし、ローガンの説明を最後まで聞くことは出来なかった。 稲妻の如く天空より降り注いだ何か≠ェ造船所跡一帯に凄まじい地響きを轟かせ、 これによって音声に類される全てが咬み砕かれてしまったのである。 「青天の霹靂」とは、このような状況を指す諺であろう。 突然のことにアルフレッドとザムシードは身構える遑もなく、 ジャーメインも驚いた拍子にモバイルを取り落としてしまった。 鞄(バッグ)の中に収納されたスポーツタオルの隙間へと滑り込んでいったモバイルからは、 「なんや!? おい、どないしてんッ!?」と言うローガンの喚き声が聞こえてくるのだが、 これを拾い上げるだけの余裕がジャーメインにはなかった。 紫電が閃いた先に降り立った何か≠――否、人影を視認した彼女は、 唖然とした面持ちで頭(かぶり)を振り続けている。 「――レン姉……、リュウ姉……ッ!」 耳を劈くような轟音を伴って造船所跡に現れた人影は三つ。 その内、己とザムシードの前に立ちはだかった者たちをジャーメインは擦れた声で「姉」と呼んだ。 ふたりの「姉」も、アルフレッドと相対するひとりの男も、 いずれもスカッド・フリーダムの隊服に身を包んでいる。 ふたりの「姉」だけは黒地のシャツを身に着けているが、 これは主に女性隊士が用いる物で、裾の部分に白い山形模様が染め抜かれていた。 左胸を覆う六角形の胸甲には、彼らが尊ぶ『義』の一字が厳しい筆致で書き込まれている。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |