3.Stirred 目が眩むような光がそこには在った。 そして、その光は辺りに在る全てのモノを呑み込まんと際限なく拡散していく。 視界は白く塗り潰され、輝きの他には何も窺うことは出来なかった。 何が起きたのか、全く分からなかった。 尋常ならざる経験を幾つも積み重ねてきたと言う自負がある。その中で学んだ知識も膨大だ。 在野の軍師――ときには馬軍の覇者の軍師とも――などと持て囃されてもいた。 そのことを自慢するつもりはない。虚栄を張るような行為には興味もないが、 客観的な評価であることに違いはなかろう。 しかし、その評価は今日を以って自ら否定せざるを得まい。 現在(いま)、己が置かれている状況を的確に説明することさえ出来ないのだ。 全く何も解らない。知識と記憶、双方の底を浚っても当該する明答(こたえ)が見つからないのだ。 ここまで物を知らない人間を捕まえて、誰が知恵者と呼び始めたのであろうか―― そのような疑問さえも白い牙≠ノよって咬み砕かれてしまう。 ただ無限の光に抱(いだ)かれ、知識も記憶も、思考も感覚さえも溶けてしまったようだ。 敢えて類例を求めるならば、「無」と仮定するのが最も近いだろうか。 「無」と喩えられる空間(もの)は果てしない闇とばかり思っていたが、 それとて何処かの誰かが空想した物語に刷り込まれた形象(イメージ)に過ぎない。 この光こそが真なる「無」と喩えるべきであろう。 やがて、「無」は彼の意識を異なる形象(イメージ)へと導いた。 気付いたときには、在りし日の故郷――グリーニャに立っていた。 立っていた≠ニ言う表現は正確とは言えないのかも知れない。 肉体を大地に縛る重力も、足裏でもって踏み締める感覚さえも失せてしまっているのだ。 深紅の瞳だけが宙に浮揚し、セピア色に染まった場景を俯瞰しているような感覚である。 勿論、感覚≠ニ言うのも強引に類例を当て嵌めた結果の表現だ。 感覚として認識出来る機能は今や滅している。 極めて不明瞭ながら、そのように感じられる状態≠ニしか言いようがなかった。 グリーニャにはクラップの姿も在った。クラップ・ガーフィールドその人である。 フィーナも、シェインも、ベルも、憎たらしいムルグも居る。 内容は判然としないが、クラップを囲んで愚にも付かない雑談(はなし)に興じているのだろう。 父母は仲良く手を繋いで買い物に出掛けている。 そして、それを微笑ましく見守る村の仲間たち――いずれも懐かしい顔ぶれであった。 (……あっけないものだな――) 顔を物理的に歪めることは出来ないが、自嘲と言う情報≠セけは浮かび上がってきた。 名ばかりの知恵者であっても、これが走馬灯と呼ばれる現象と言うことは理解出来たのである。 帰るべき故郷などはギルガメシュによって焼亡させられている。 幼い頃から共に育ってきた親友も、カレドヴールフに――実の母によって生命を奪われている。 死の間際に押し寄せると言う走馬灯以外では、二度と触れることが出来ないモノなのだ。 果たして、クラップが「無」に帰した。再び膨張し始めた光の中に去っていった。 (……待て、どこに行く……) シェインも、ムルグも、父も母も、妹も――何もかもが「無」に呑み込まれていく。 故郷の風景も、懐かしい顔も、何もかもが白い牙≠ナ粉々に砕かれていくのだ。 離れてしまうことなど想像もしたくない存在さえ――最愛のフィーナの姿さえ、 白く透き通って薄れ始めている。今まさに掻き消えようとしている。 しかも、だ。彼女は背を向けたまま、光の只中へと歩みを進めていくではないか。 (フィー……フィー……フィー……フィーナ――) 呼び止めようにも声≠ニ言う機能は既に持ち得ない。 両の腕も消え失せてしまっており、引き止めることさえ不可能だった。 絶望と言う情報≠ェ――否、強く激しい想念が、「無」に溶けてしまった筈の意識を揺さ振る。 それでも為す術はない。最愛の人がいなくなろうとしているのに、どうすることも出来ないのだ。 フィーナが振り向いたのは、意識の全てが絶望に押し潰される寸前のことであった。 「無」の只中へ連れ去られようとしている自分を引き止めて欲しい―― 彼女の表情(かお)は、そのように物語っていた。 「アル――アル――」 「待て、待っていろ――フィー、もう少しだ――」 視界に入るモノ全てを飲み込んでいく「無」は、底なし沼のように感じられる。 そこに落ち込んでいくかのように、フィーナは遠ざかっていった。 何としてもフィーナを守ってみせる――いつか父と交わした約束と、 折れることのない決意によって心が奮い立った瞬間、薄れ掛けていた意識が覚醒し、 完全なる消滅が間近に迫ったグリーニャへアルフレッドと言う存在を立たせた。 もう迷うことはない。躊躇う理由など何もない。 全速力で駆け寄るや否や、アルフレッドは精一杯に腕を伸ばし、最愛の存在を掴もうとした。 もう少し、ほんの少しで手が届く――それなのに、アルフレッドの手は届かない。 互いに差し出された手は、指先を僅かに掠めただけで引き離されていった。 加速度を増して、フィーナは遠ざかっていく。 悲しげな表情を湛えた彼女はしきりに何かを叫んでいる様子であった。 それはアルフレッドの名であったのか。だが、彼の耳には何も届かない。 最愛の存在は光の中へと消えていった。 アルフレッドの視界に残されていたものは、ただ真っ白な光と、何も掴めなかった己の手――。 「フィーッ! 返事をしてくれ、フィーッ! 俺を……置いていくな……フィー……ッ!」 喉を絞るようにフィーナの名前を叫んでも、その声は彼女と同様に光の中へと吸い込まれていくだけで、 他には何の反応も起こることはなかった。 自分の中で何かが壊れるような感覚があったが、しかし、それを認めるわけにはいかない。 断じて、認めてなるものか。 呪わしいほど眩い「無」に、何よりも昏(くら)い絶望へ抗うようにして、 もう一度、アルフレッドはありったけの声で最愛の名を叫んだ。 「――フィーッ!」 * その声は世界に覚醒(めざめ)を告げる鐘の音であったのか。 アルフレッドは一瞬にして先程までとは異なる場所へと存在し、そしてそれを瞬時に感じた。 目の前にあるのは先刻までと同じく一面の白――ではあるが、 「無」を感じさせられる光ではなく、その白色は物体によって作られているものだと判断できた。 「ここは……?」 似て非なる光景を前にして頭を素早く切り替えるのは難しかったが、 少し間を置いて考えている内に、ようやくアルフレッドは平衡感覚と視覚の一致を成す。 自分は今、伏している状態なのだ――とすると前方の白い壁は天井になる。 それならば、ここはどこかの室内ということだ。 そして、自分はベッドの上に横たえられている。簡素ながら寝心地の良いベッドである。 頭の中に掛かっていた霧か靄が晴れるように、徐々に物事が解ってゆく。 室内ということは分かったのだが、しかし、一体、何時の間にこのような場所に来たのだろうかと、 アルフレッドはまた新たな疑問に襲われる。 自分の中にある最後の記憶は、決死隊を率いてバブ・エルズポイントに突入し、 予期せぬ災難(アクシデント)の果てに転送装置が作動した瞬間であった。 そこまでは憶えているが、それと今自分がいる状況を繋ぐ中間点がぽっかりと抜け落ちている。 記憶を辿り、考えを巡らせてみても確固たる結論なぞは得られることは無かった。 記憶のない内に自分の足でここまで来たのか。だとしたら、あの状況からどうやって。 誰かが連れてきてくれたのだろうか。だとしたら一体誰が何の理由で――。 考え続けても、アルフレッドの頭を廻る思考は自分の尾を追う犬のように、 決してそこに辿り着けるものではなかった。 「しかし、それにしても、ここは……」 結局、何も分からないまま、アルフレッドはもう一度口を開く。 自問を言葉にしたところで何かが分かるわけではないのだが、そうせずにはいられなかった。 すると―― 「よかった。ようやくお目覚めになられましたのね。具合はいかがですか?」 ――長いランプブラックの髪を揺らしながら、マリスがドアを開けて部屋へと入ってきた。 声はいつもと変わらない穏やかなものであるが、しかし、体には所々に包帯が巻かれており、 彼女の黒い装いと鮮やかなコントラストを成していた。 「……マリス? お前も……」 「わたくしも……なんですの?」 「――いや、……無事だったようだな」 「たった今、心も安らかになりました。目を開けて下さって本当に良かった……アルちゃん……」 あの事故の時、マリスがどうなっていたのかも記憶から抜け落ちていた。 だから、その彼女が一応は無事な姿で自分の前に姿を現したのだから、懸念材料がひとつ消えた。 瞑目したアルフレッドの唇から安堵の溜め息が滑り落ちる。 そして、ここに至る経緯に関して、飛び飛びの記憶の補完の為にマリスからも事情を聞き取るべく、 上体を起こそうとした。 しかし、身体のあちらこちらに痛みが走る。その悲鳴を以ってして、骨身が疲弊を訴えていた。 (――そうか、あの時の転送エラーで弾き飛ばされたのだったな……) 痛覚が記憶を呼び覚まし、砂を固め合わせて像でも作るかのように、 またおぼろげだった物が形を成していくように感じられた。 さりながら、肝心なことは分からない。 自分のケガのこととも合わせて、おそらくは事故にあって気を失ったのだろうと判断したアルフレッドは、 先に目を覚ましていたマリスに事の次第を尋ねようとしたが―― 「わたくしの負傷は大したことはございません。それよりもアルちゃんの方が重傷でしたの。 それでも、無事に目を覚まされて、わたくしは……わたくし……」 ――と、マリスが先に口を開いた為、先を制せられたアルフレッドとしては、 彼女の話に耳を傾けなくてはならなかった。 焦れていないと言えば嘘になるが、近頃はマリスに冷たく当たっていたので、 これ以上、彼女を追い詰めるのは忍びない。 余計な波風を立てない為のご機嫌取り≠フようで気が引けるのだが、 マリスにとって必要ならば仕方あるまい。 (他人の感情を足し引きで考えるとは大した身分だな。それもこんなときに……) やけに冷静な部分で思考出来ることがフィーナとの差≠ニ言うものであろう。 マリスは胸元で左右の手を握り締めているが、そこに己の掌を重ねたいとは思えなかった。 「アルちゃんにもしものことがあったら、わたくし……」 「お前と同じように大した怪我ではない。まだ痛みはあるが、動けないほどのものでもない」 表情が重くなっていきそうなマリスを宥めると、アルフレッドは自らの言葉を証拠付けるように、 ベッドから降りて手を回し、首を振り、あるいは全身を伸ばして身体の壮健具合を示した。 「幸いに……と言うか何と言うか、すぐに治る程度のものだ。 ……それよりもだ、マリス。俺の手当てはお前がやってくれたのか?」 「いえ、わたくしが『リインカネーション』――トラウムを使うよりも先に、 ……いいえ、わたくしが目を醒ましたときには既にアルちゃんにも手当ては施されておりました」 「俺にも≠ニ言うことはお前も……」 「仰る通りです。……そもそも、わたくしはこことは別の部屋におりましたので、 リインカネーションを試みる余地もございませんでした」 「そうか、別々か――それにしては、随分とタイミングよく俺の部屋に入ってきたな」 「それは――」 何事か言いかけたマリスは、そこで口を噤んだ。 深紅の瞳が揺れていることから苦悶にも似た想念によって心を蝕まれているからだろう。 それでも、アルフレッドは己の手を差し伸べることはなかった。 如何にご機嫌取り≠ニは雖も、超えてはならない一線が――ここには居ないフィーナに対して、 守り抜かなくてはならない誓いがあるのだ。 「――アルちゃんが大声で叫んでおられましたので、何事かと急いで駆けつけたのです」 僅かに躊躇った後、再び言葉を紡ぎ始めたマリスであったが、その声色は平素よりも幾分重低である。 「大声?」 「……何度もフィーナさんのお名前を叫んでいらっしゃいました。憶えがございませんか?」 何時の間にフィーナの名前など呼んだのだろうか――思い出すべきことがまたひとつ増えた。 寂しげに俯いたマリスを目端に捉えつつ、アルフレッドは両腕を組んで少々考え込む。 マリスから指摘されなければ、そのまま忘却の彼方に消えていたであろう記憶の片隅の中で、 「無」に呑み込まれたフィーナの姿を拾い上げることが出来た。 「――ああ、あれか…… 夢の話だな、悪い夢の」 「夢、でございますか?」 マリスから尋ねられたので、特に拒む理由もなくアルフレッドは先程まで見ていた夢の内容を語った。 「それは中々……苦しい夢ですわね……」 「今となってはあれが正夢にならないことを願うだけだな」 バブ・エルズポイントにて視認した光と、走馬灯の如き夢の中でフィーナを飲み込んだ「無」は酷似しており、 心の動揺は否めないのだが、しかし、転送自体が成功したことには確信に近いものを持っている。 予測不可能の転送事故を受けて、アルフレッドとマリスは弾き出されるような恰好で Bのエンディニオンに取り残された。 先に意識を取り戻していた様子のマリスから別の人間の名前が出て来ないと言うことは、 ニルヴァーナ・スクリプトから弾きかれたのは、この二名だけと言うことになる。 実際に送り出す瞬間を確認出来たわけではないが、この二名の他にはエラーが作用していなかったとすれば、 フィーナたちは無事にAのエンディニオンまで転送された筈である。 「……ですが、夢のこととはいえ、少し妬けますわね」 量子テレポーテーションの成否を心中にて分析していたアルフレッドに対して、 マリスは物憂げな眼差しを向けた。 それから苦しげな溜め息を吐き、最愛の恋人へと枝垂れかかって行く。 アルフレッドとしても避けて横転させるわけには行かず、マリスの身を左腕で受け止めた。 マリスからも両腕を絡められ、自然と豊満な胸が左腕に密着したのだが、 機械的としか表しようのないアルフレッドは劣情を煽られることもない。 「実際の世界のことでなくとも、アルちゃんが心配なさっていたのは私ではなく、 フィーナさんだったのですから。もしかしたら、アルちゃんは――」 マリスの言いたいことは、アルフレッドにも察しが付いている。 悪夢だとはいえ、誰よりも先に出てきたのはフィーナであって自分ではないのだ。 彼女にとっては、これほど悔しいことはないだろう。 もしや、アルフレッドの心の奥底では恋人よりも大事な人が存在しているのではないのか。 そして、それはフィーナなのではなかろうか――アルフレッドを見つめるマリスの瞳は、 先程までのそれとは異なり、どことなく冷気を帯びているように思える。 「よさないか、たかが夢の話で。そこまで俺の意識が及ぶ領域ではないだろう」 「あら――でも、わたくしはアルちゃんのことを想って床に就けば、 必ずアルちゃんが夢に出てきますわよ。現(うつつ)で交わした約束が強いのならば、 どんなときでも逢えると言うのが恋人の特権ではございませんか?」 「……自分がそうだからといって、他人にも無条件に当てはめるというのは良くないことだぞ」 「想いは何もかも超越すると言いますわ」 「俺もな、俺なりにお前の想いには応えるつもりだ。しかし、俺で夢を視るのはやめてくれ。 俺もお前も、夢の世界の住人じゃない。現実を生きている人間だ」 「アルちゃん……」 「……とにかく、この件に関しては考え過ぎだ。あまり怪我人を困らせないでくれ」 「……申し訳ありませんでした、考え過ぎなのかもしれませんわ。 これ以上、アルちゃんを困らせるような真似はいたしません」 マリスには決して明かせない事情≠、当の本人に勘ぐられるのは気分がいいものではない。 万が一の事態(こと)を考えるとアルフレッドは心臓が凍り付く想いであったが、 それでも努めて冷静にマリスに接していく。 納得は出来なくとも理解はしてくれたらしく、 マリスの目付きも表情も、先程までとは変わって再び穏やかなものになり、 これを見て取ったアルフレッドは、心中にて安堵の溜め息を吐いた。 それと同時に、かつてこの件に関してタスクから突きつけられた「ずるい人」という言葉が脳裏を過ぎり、 自分の言行に気分が重くなった。 ともかく、何とか場を取り繕うことが出来たので一安心――と言いたいところではあるのだが、 現在(いま)、己が置かれている状況が把握し切れないのでは、そう悠長に構えてもいられない。 (医療施設ではない。幸いなことに牢屋でもない。それは判った。……ならば、一体――?) 一体、此処はどこなのか――仮にギルガメシュに捕らえられたのだとしたら、 敵対勢力の拠点まで運ばれたことになる。 ベッドと簡素な造りの机以外には何もなく、さっぱりしたと言うよりはむしろ殺風景な部屋だ。 肺一杯に息を吸い込んでみて分かったのだが、潮の香りが微かに混じっている。 「アルちゃん? どうなさいました?」 「此処は敵地かも知れないんだ。そうである以上、気を緩めるなんてことは出来ない」 「は、はあ……」 アルフレッドは目線を上下左右に走らせながら、同時に聞こえてくる音にも意識を走らせ、 最大限に警戒を強める。 窓を覆っているカーテンを開け放ち、周辺の地形を探りたかったが、最早、それは叶わないようだ。 部屋の外から誰かの足音が聞こえてくる。音の大きさや響き方から廊下を歩いているものと分析出来た。 そして、それは段々と近付き、部屋の前で止まった。 (はてさて、鬼が出るか蛇が出るか……) 緊張の面持ちへと変化したアルフレッドは、もしもの場合を想定して身を強張らせる。 まだ痛みの残る身体を動かし、マリスを胸元まで引き寄せた。 「やあ、アル。具合はどうだ――」 しかしながら、ドアを開けて入室してきた人物は、アルフレッドの警戒心が間抜けに思えるほどに明るく、 その面も朗らかであった。親しい友人を招くときに見せる、ある種の無防備な笑顔とも言えよう。 だが、それも一瞬のことであった。入室してきた人物は、何故だか顔面を真っ赤に染め、そのまま硬直した。 「瞬間沸騰」とは彼の為に用意されたような言葉だ。今にも脳天から蒸気を噴き出しそうである。 ベビーブルーの双眸はアルフレッドとマリスを見据えたままで微動だにしない。 「わ、わわわ、悪いッ! ま、まさか、こんなとこでそんなことをおっ始(ぱじ)めるなんて――」 しどろもどろになって意味不明な言葉を並べ立てた挙げ句、 転がるようにして部屋から飛び出していってしまった。 とりあえずは壁に張り付き、そこから室内の様子を窺うつもりのようである。 当然ながら、アルフレッドも何が起きたのかを呑み込めていない。 マリスに至っては、それどころではなかった。 呆気に取られながらも、アルフレッドは前後の状況を細かく分析していく。 今の自分はマリスを左腕一本で抱き寄せている。尋常ならざる事態が発生したとき、 彼女を抱えて逃走するつもりであったからだ。 そのマリスは恋人≠フ体温を感じて恍惚の表情を浮かべているではないか。 (……煩わしいこと、この上ない……) 己の行動には他意など少しもなかったのだが、どうやらあらぬ誤解を招いてしまったらしい。 「……特にやましいことがあったわけではない」 「そ、そうか? それなら良いんだが……」 「現在地も分からないようなときにふしだらな行為に及ぶほど俺も非常識ではないつもりだがね。 あんたがどんな目で俺たちのことを見ているのかは知らないし、興味もないが」 「ま、待ってくれ! オレは何もそんなつもりは……ッ!」 何もかも誤解であるとアルフレッドに説かれたその人物は、 開け放たれたままのドアから僅かに顔を出して様子を窺い、 何の問題≠烽ネいと確認した後、改めて入室してきた。 咳払いをひとつ差し挟んだのは、早合点が気まずかったからに違いない。 「思わぬ手違いと言うか、混乱があったけど、それはともかく――もう立てるまでに回復して良かったよ。 さすがはアルと言うべきかな」 「――って、お前……ボル……シュ?」 今度はアルフレッドが驚く番であった。 冷静になってよくよく観察してみれば、そこに在ったのはアカデミーで共に勉学に励んだ旧友の顔である。 * 「――思い出すだけで笑いが止まらないよ。クールで通ってるお前があんなトボけた顔をするんだもんなァ」 「……予想外のことに直面したら、誰だって戸惑うだろう。間抜け面は自覚している」 「戸惑うって、アルが? へぇ〜、珍しいこともあるんだな――あ、別に悪気はないよ、気にしないでくれ」 「悪気はないかも知れないが、他意はあるだろう」 「昔の笑い話を思い出しただけだよ。音楽室に飾ってある肖像画みたいだって、 クラスのみんなから言われてたもんな。夜中に廊下で出くわしたら幽霊より怖いって評判だったよ」 「……それは初耳なんだが」 旧友――ボルシュグラーブ・ナイガードの案内を受け、 マリスと共にダイニング・ルームへと通されたアルフレッドは、 学生時代に戻ったような軽口を叩きつつも、改めて現状の分析を進めていく。 何故、旧友が此処に在るのか。何故、自分たちをにこやかに迎えているのか―― 何が何なのか、今のところは把握出来ていることのほうが少ない。 「なに緊張してるんだよ。また難しい顔になっているぜ。 ……て言うか、皺の数が前より三倍くらいになってないか? 老けるスピードも三倍かな」 「……煩い、黙れ」 「ボルシュグラーブさん、訂正してくださいませ。アルちゃんのお顔に刻まれた皺は、 その一本一本が書物の百頁分にも匹敵するのです。智慧と言うものが刻まれるからこそ見識が深くなり、 考えること、悩まれることも果てしなく広がっていくのですから。それは賢者の証しとも言えるでしょう」 「……相変わらずのべた惚れ、か。こうして一緒にいるんだから、当たり前っちゃ当たり前だけど……」 「その前にマリスの言葉は何ひとつフォローになってはいないからな。結局、俺は老け面と言うことだろう」 「ダンディズムを湛えたアルちゃんにも心が蕩けてしまいます」 「そう言うことを聞いているんじゃない」 眉間に寄った皺の様相までもがアカデミーの時代(ころ)と変わらず、それが滑稽に思えたのだろう。 ボルシュグラーブは満面の笑み――そこには友情と言う名の温もりが宿っている――で アルフレッドを見つめていた。 快男児を絵に書いたような立ち居振る舞いは勿論のこと、 縦に細長く、その頂点が横に流れていくような独特の髪型も昔のままである。 アカデミー時代の記憶と比して格段に精悍さが増しているのは、 つまり、多くの場数≠踏んできたと言う証左であった。 カッターシャツにジーンズと言う、街中でよく見掛けるようなカジュアルな装いのボルシュグラーブは、 アルフレッドの記憶の中にあった彼とは少し違った印象があった。 共にアカデミーで学んでいた頃のボルシュグラーブは、例え休講の日であっても、 制服として支給されていたレモンイエローの軍服――ゼラール軍団のトルーポが使っている物だ――を 着用し続けていたのだ。それこそ真面目一徹な性格を体現するかのように、だ。 それでも屈託のない爽やかな笑顔は、かつての彼と同じものであり、 アルフレッドの心へ郷愁にも近い懐かしさが染み渡っていく。 マリスはどうであろうか。アルフレッドに寄り添ったままの彼女は、 同じアカデミー時代の旧友にも関わらず、大してボルシュグラーブには関心がなさそうだ。 自ら話し掛けるのは、先程のようにアルフレッドへの冷やかしを迎え撃つときだけである。 余りにも素っ気ないマリスの態度にボルシュグラーブは寂びそうであった。 「――ボルシュ、お前が俺たちを助けてくれたのか?」 円卓を挟んでマリスの隣に、且つボルシュグラーブと差し向かいで着席したアルフレッドは、 目を醒ましてから今まで疑問に思い続けていたことを問い掛けた。 尤も、これは先に意識を取り戻したマリスにでも訊ねれば済んだ話だ。 何故、そうしなかったのかと言うと、答えは簡単である。 当人には自覚が乏しかったのだが、覚醒して直ぐに思考(あたま)が働くわけではない。 ベッドから起き上がった直後は警戒心ばかりが先行し、 自分たちの置かれた状況を身近な人間へ確かめることさえ失念してしまったのだ。 端的に表すならば、「寝惚けていた」と言う次第である。 だが、今は違う。脳は完全に覚醒している。敢えてボルシュグラーブから回答を引き出そうと試みている。 脳が覚醒していくにつれて、目の前に在る旧友が就いている役職(ポスト)を想い出していったのだ。 昔と同じ笑顔を見せるボルシュグラーブは、現在はギルガメシュ最高幹部の一角となっている。 それは、『四剣八旗』とも、『アネクメーネの若枝』とも呼称される者たちであった。 懐かしさに浸ったのは、ほんの一瞬限りである。最早、ここは旧交を温める場ではない。 少なくともアルフレッドにとっては情報戦の舞台であった。 「助けたのかと聞かれれば、そうだと答えるかなァ」 アルフレッドの真意など知る由もないボルシュグラーブは、 相変わらず人の好さそうな笑みを浮かべながら首を肯かせる。 旧友と言葉を交わすことが嬉しくて仕方がないと言った様子だ。 「バブ・エルズポイント――と言うか、ニルヴァーナ・スクリプトへの侵入者が確認されて急行したら、 倒れていたのはアルとマリスだろう? 慌てたなんてもんじゃなかったよ」 「世話を掛けてしまったようだな」 「……あの夜はバブ・エルズポイントの内外で大変な事件があってね。 オレは運よくカスリ傷で済んだけど、お前たちはボロボロだったんだぜ?」 「そのような大怪我をわたくしたちが? ……特別な治療を施して頂いたのかは存じ兼ねますけれど、 痛む箇所はそれほど多くありませんが……」 「確かに外傷は酷くもなかったんだけど、ふたりとも発見した直後は息も絶え絶えだったんだ。 内臓でも傷付いたんじゃないかって、あのときは真っ青になったんだぜ? ……大事に至らなくて本当に良かった――ああ、マリスの手当ては女性隊員にして貰ったから、 変な心配はしなくていいよ。オレだってその辺りは弁えているつもりさ。 ただ、安全な場所まで搬送するときに男性隊員が担いでしまったのだけど、 それが不愉快なら、全責任を取ってオレが正式に謝罪を――」 「……そこまで気を回されると、逆にセクシャルハラスメントになりますわ。 紳士を気取られたいのでしたら、もっと言葉≠学ばれることを推奨(おすすめ)しますわよ」 「ええ!? な、なんでだよ!?」 質問と言う形ではあるものの、マリスから話しかけて貰えたのが感激だったらしいボルシュグラーブは、 先程から妙に饒舌である。しかも、焦りながら喋っているので呂律が怪しくなる瞬間もあった。 明らかに舞い上がった様子の旧友を眺めながら、 彼がトルーポと同じくらい女性に免疫がなかったことをアルフレッドは想い出していた。 年若い女性教官を前にして石のように固まってしまったことは、 ボルシュグラーブを語る上で欠かせない微笑ましい逸話(エピソード)である。 (……いっそマリスを宛がえば、コールタンを相手にするより簡単に機密を引き出せるか?) 無意識の内に浮かんだ奇策のおぞましさに、アルフレッドは自嘲の笑みを押さえるのが大変だった。 何事もなかった風に装い、ボルシュグラーブの言葉へと耳を傾けながらも、己の思考回路に戦慄を禁じえない。 マリスは最愛の恋人≠フ筈だ。それを駆け引きの道具のように考えるなど正気の沙汰ではなかろう。 さしもの『在野の軍師』も、このときばかりは己の浅慮を愧じた。 「それで部下にも手伝って貰って、此処まで運んできた――ということだよ」 「此処」とは何処か、ボルシュグラーブは委細を説明し始めた。 絶海の孤島に所在する軍事拠点、バブ・エルズポイントは、その立地から周囲を数多の無人島で囲まれている。 アルフレッドたちも突入の事前に島々を調査し、その内のひとつに陣所を置いていたのだ。 当然ながら全ての無人島を調べ切れるものではなく、斥候の目が届かない場所もある。 「此処」とは、そうした無人島のひとつに建てられたロッジであるそうだ。 ダイニング・ルームの窓はカーテンも開け放たれているのだが、 辺りには塀のように防風林が植えられている為、水平線を見て取ることは出来ない。 (潮風は微かで、波の音は聞こえない。……海辺からはそれなりに離れているわけか) 搬送の経路や船着場との距離など確かめたいことは山ほどあったが、 根掘り葉掘り質してしまうと、脱走を企てているとボルシュグラーブを警戒させるかも知れない。 アルフレッドは最低限の情報を引き出すのみに留め、不足は推論で補うことにした。 勿論、好機が巡ってきたときには、旧友の情に訴えてでも機密を吐かせるつもりだ。 「部下? ……ああ、お前はギルガメシュの幹部連だったな」 「あれ? そのコトって、もう話したかな?」 「話したも何も……あんな大仰なセレモニーを世界中に中継しておいて、今更、何を言うんだ。 仮面を取っ外すパフォーマンスも見させてもらったが、一目でお前だと分かったよ」 「ア、アルも見てたのか!? ……マリスは?」 「わたくしの記憶が正しければ、確かボルシュグラーブさんはバスケ部だったと思いましたが、 演劇の心得もおありでしたのね。世紀の熱演と言うものを拝見いたしました」 「……忘れてくれ。オレだって好きであんなコトしたわけじゃないんだから……」 最初からギルガメシュの幹部と分かっていながらも、今の今まで気付かなかった素振りを通す―― 我ながら下手な芝居を打っていると心中にて呆れるアルフレッドであったが、 今のやり取りによってバブ・エルズポイントの守将がボルシュグラーブと言うことを確認出来た。 恥を忍んだ甲斐があったと言うものである。 (……恥知らずは一〇分もあれば慣れるものだな……) こうして必要な情報をひとつずつ引き出していけばいい。 逸る気持ちを落ち着けようと、アルフレッドは先に出されていたグラスへ口を付けた。 中身は紫蘇の葉で作った清涼飲料である。食前酒の代わりと言うことであろう。 時刻は午前十一時を少し過ぎたところである。所謂、ブランチと言うことになりそうだ。 食事についてはボルシュグラーブと共にバブ・エルズポイントを守っていた部下≠ェ 振る舞ってくれるそうだ。 「望むと望まざるとに拘らず、檜舞台に上げられるのはお前が認められている証拠だ。 同期で一番の出世頭には違いない」 「まあ、身の丈に合ってない役職のような気はするけどね」 照れたように笑うボルシュグラーブに比べて、アルフレッドは悩ましい表情(かお)だ。 とても旧友との会話も楽しんでいるようには見えない。 演劇の心得もなく、人より不器用なアルフレッドには、 心を苛む呵責はやり過ごせても表情までは操作し切れなかったのだ。 (……この期に及んで何をしているんだ、アルフレッド・S・ライアン……貴様は――ッ!) 己の顔が強張っていると悟った瞬間、良心の呵責が一気に押し寄せてきた。 「目の前の男は敵なのだ」と懸命に言い聞かせ、自分の心を強引に誤魔化していただけで、 旧友への情など少しも割り切れてはいなかった。 必死になって割り切ろうにも、言葉を交わせば交わすほど、 ボルシュグラーブに対する罪悪感が込み上げてくる。 それは、理性と言うものを超越した人間の根源的な感情である。 (……ボルシュ……) 自分はニルヴァーナ・スクリプトを起動させてAのエンディニオンへ突入しようとした。 そして、それに気付かないボルシュグラーブではあるまい。 事故を起こした転送装置の手前で身柄を確保された以上、そのまま尋問に入ってもおかしくはないだろうに、 手荒な真似はせず、あまつさえ手当てまで施してくれたのだ。 敵同士と言うことは、誰の目にも――恐らくはボルシュブラーブの部下の目にも――明らかであろう。 反対の声をも押さえ付けて介抱してくれたのは何故か――その理由も明快である。 ボルシュグラーブはアカデミー時代からの旧友を助けた。ただそれだけのことなのだ。 ギルガメシュきっての快男児は、それ以外の選択肢など持ち得ない。 目の前の旧友に手を差し伸べることが最も大切なのである。 質実剛健が服を着て歩いているような人柄へ思いを馳せながら、 無言で考え込んでいたアルフレッドに当のボルシュグラーブが―― 「……昔からそうだったよなァ。アルは何時でも何か考えながら過ごしていた。 あの頃と少しも変わりがなくて、何だかホッとしたよ」 「……ん?」 「悩み事なら相談に乗るってコト。今日はずっと難しい顔してるぜ、アル?」 ――と、アカデミー時代を懐かしみながら語りかけた。 「いや、……大した事じゃない。俺の顔は昔からこんなものだ」 「自分で言うなよ。アルだって、ほら、偶には表情が崩れることだってあったじゃないか」 「そんなことはないつもりだが……」 「ボルシュグラーブさんの言い方ですと、四六時中、アルちゃんは険しい顔をしていることになりませんか? わたくしの前では、幾万の舞台を踏んだ歌劇王のように表情豊かですことよ。 マリスと呼びかけてくださる声は天上から差し込む光にも等しいほど麗しく――」 「俺は自分の声が嫌いだぞ」 「……やれやれ、またノロケを聞かされるのかい? 耳に毒だよ、本当……」 いよいよ返答に窮するアルフレッドだったが、それを察したマリスが上手く逃げ道を作り出し、 沈黙と言う最悪の瞬間だけは避けられた。 「耳に毒だけど、本当にふたりとも変わりがないね。アカデミーの頃に戻ったみたいだ」 「なんだ、それは……」 「ほらまた、眉間に皺。こんな時くらいリラックスしたって良いだろうに、それじゃあ、身体に毒だぞ? 毒、毒とさっきから何度も連呼しているなァ。オレまで具合が悪くなってきた気がするぞ?」 「皮肉がお上手になられましたね。この卓で一番溌剌となさっているのは貴方でしょう?」 「……オレにだけは容赦なく厳しいなァ、マリスは……」 記憶の中にいるアルフレッドと、現在のアルフレッドを重ね合わせて見ても、 特に不一致な点がないように思ったボルシュグラーブは、 そのことを楽しんでいるかのようにも見受けられた。 無論、その対象であるアルフレッドの心中は、 ボルシュグラーブとは異なって単純に言い表すことができる物でもない。 かつての友人が属し、幹部を務めているのは、あのギルガメシュだ。 忘れもしない、炎に包まれていくグリーニャの惨劇を。 忘れることは出来ない、血溜まりの中に倒れていた、自分の腕の中で息絶えたクラップを。 Bのエンディニオンの人々だけでなく、同じ側の世界からやって来ていたワーズワースの難民たちを、 無辜の民を容赦なく虐殺していった者どもを――。 アルフレッドが憤怒の只中へ身を投じるきっかけとなった様々な要素は 全てギルガメシュから与えられたものである。そのドス黒い怨念は今も続いている。 世界各地へ魔手を広げ、『唯一世界宣誓』の大義に逆らう者を根絶するつもりでいるだろう ギルガメシュの悪行に、友人である筈のボルシュグラーブは手を貸しているのだ。 彼のように諸手を挙げて旧友との再会を歓迎出来るのだろうか。答えは否。断じて否。 組織は組織、人は人と割り切れるほどにアルフレッドは達観してはいなかった。 達観する必要はないと、彼の心に宿った闇も訴え続けている。 憎きギルガメシュと旧友のボルシュグラーブ――その両方が同じ位置にあると言うことが、 アルフレッドの心中に穏やかならざる想念(もの)を込み上がらせていた。 (……俺もまだまだ未熟者だな。たかが、古い友人ひとりを相手にグラついてしまうなど……) その事実を以ってエルンストから託された使命を呼び起こしたとき、 アルフレッドは再び冷静さを――否、冷徹さを取り戻した。 目の前の男が討滅すべき敵≠ナあることを再認識したと言い換えるべきかも知れない。 組織の為にも殺しておかなくてはならない敵≠生かし、また手厚く介抱するなど、 いずれボルシュグラーブはギルガメシュにとって最悪な厄介者(おにもつ)となるだろう。 マリスを宛がって色気で惑わすと言う謀略は、それ自体は人として恥ずべきものだが、 ボルシュグラーブが大事に抱えている『友情』とやらは、アルフレッドにとって十分に利用価値がある。 「……ところでだ、アル。何でお前はあんな場所に――バブ・エルズポイントなんかに忍び込んだんだ? ただの興味本位なんかじゃないだろう? 佐志の一党(なかま)……と言うことで構わないんだな?」 暫く躊躇した後、ボルシュグラーブは核心へ迫る問いかけをアルフレッドに投げた。 質問の直前に挿まれた躊躇いは、意識を取り戻したばかりの友人に負担を掛けることへの葛藤に他ならない。 これもまた「軍人として致命的に甘い」と、アルフレッドは心中にて嘲っている。 アルフレッドとマリスが佐志と繋がっていることは、 どうやらバブ・エルズポイント内部の戦いを通じて把握したらしい――が、 ボルシュグラーブの事情聴取はその一点で完結してしまっている。 つまり、佐志と結託してギルガメシュを攻撃したのか否かと言うことだ。 ほんの一瞬だけ心身を緊張させたものの、ギルガメシュが完成を急ぐ最終兵器、 『トリスアギオン』の阻止と言う目的までは気取られてはいない。そのことをアルフレッドは確信していた。 ボルシュグラーブは愚直な男である。相手側に探りを入れると言った駆け引きには向いておらず、 アルフレッドたちが精神感応兵器の阻止に動いていると見極めたのなら、 真っ先にそのことを質した筈である。 ギルガメシュの一部下士官の間ではアルフレッドの顔写真が「敵方の参謀」として回覧されていたらしく、 これが原因となってワーズワース難民キャンプでは思わぬ事件に巻き込まれたのだが、 どうやら件の写真はコールタンが上手く握り潰したらしい。 そうでなければ、「佐志の一党(なかま)なのか」と言う間の抜けた質問などしないだろう。 「ますます転がし易い」とアルフレッドは心中にて呟いた。 「佐志の長にはハッキリと宣戦布告されたよ。 オレは立場上、ギルガメシュの敵を黙って見過ごすわけには行かない。 ……教えてくれないか? お前があそこを襲わなくてはならなかった理由を――」 「腹黒い」とでも表現するのが最も適切であろうアルフレッドの企みを知ってか知らずか、 ボルシュグラーブはここに至るまでの経緯を尋ねた。 「……あの夜は本当に色々なことが起きた。バブ・エルズポイントが侵入者に脅かされる直前には、 施設の周りに『プール』の軍勢が姿を現した。……知っているよな、『プール』のことは?」 「異なるエンディニオンからやって来て狼藉を働く者たち――それは俺の耳にも入っている。 ……いや、この際、曖昧な言い方は止めよう。『プール』とは戦ったことがある。 佐志の友人≠ェヤツらに襲われたとき、加勢に入ったんだよ。 同じような事件はあちこちで起きているだろう? 聞けば、テムグ・テングリの領内にも出没しているらしいな」 「そうなんだ。……例の馬軍な、新しく変わった首領は自分の領地を守ると言うことに無頓着でね。 ギルガメシュとしてはテムグ・テングリの弱体化は願ったり叶ったりなんだが、 オレ個人としては不思議でしかないよ。他人事と言ってしまえば、それまでなんだが……」 「正直、俺たちはこのまま大人しくして貰ったほうが助かるがな。 お前たちもテムグ・テングリがどんな組織かは調べているだろう?」 「……大義がなければ、覇者になれても虚しいだけだな」 「だから、敗れた――と言っておこうか。手当ての礼にお前の顔は立ててやる」 「キツいにも程があるぜ、その冗談――」 冗談だけは言っていない=\―そのようにアルフレッドは心中で吐き捨てた。 口先では「曖昧な言い方は止める」と宣言しておきながら、 これ以上ないくらい曖昧な表現でボルシュグラーブを惑わして続けているのだ。 確かに味方の加勢として『プール』と戦ったことはある――が、 この場合に於ける「佐志の友人」とは、テムグ・テングリ群狼領のことを指しているのだ。 馬軍の領地が侵害されかけた折の戦いをアルフレッドは披露した次第である。 言い回しを変えているだけなので、一〇〇パーセントの捏造ではない。 事実に基づいた話しかしていないのだから、鋭い質問で切り込まれても、 矛盾を生じることなく受け答えが出来るわけだ。 さりげない言葉から「自分はテムグ・テングリ群狼領とは無関係だ」と刷り込むことにも余念がない。 (……さすがはアルちゃんですわ……) 何もかも把握しながらアルフレッドの言葉へ耳を傾けるマリスは、 普段通りの表情を作りながらも、その背筋には冷たい戦慄が走っている。 厚く遇してくれる旧友すらアルフレッドは掌の上で転がそうとしていた。 最愛の恋人であるマリスでも心の奥底までは覗き込めないが、 彼がボルシュグラーブのことを敵≠ニしか捉えていないことだけは察せられた。 軍師に相応しい豪腕を遺憾なく発揮するアルフレッドへ見蕩れつつも、 欺瞞を弄する知恵が己に向けられる事態(こと)を想像し、その身を微かに震わせている。 「――ここからが大事だ。……アル、あいつらが、『プール』の軍団が バブ・エルズポイントまで攻め寄せてきたのもお前の仕業なのか?」 ボルシュグラーブが抱いた疑念は至極当然であり、必ず問い質されるとアルフレッドは見越していた。 アルフレッドたちが侵入した当夜、バブ・エルズポイントには『プール』が襲来している。 より正確に状況を分析するならば、『プール』が攻めかかった頃合を見計らい、 その混乱に乗じて内部へ突入した――と言うことになる。 しかも、だ。視界が著しく不良となる嵐の夜を狙った二重の奇襲攻撃である。 アルフレッドが『プール』と連動し、尚且つ作戦指揮を担ったのではないかと、 ボルシュグラーブは疑っているわけだ。 『在野の軍師』などと呼ばれる若き作戦家の軍才(さいのう)が如何にして研ぎ澄まされたのか、 アカデミー以来の友人は良く知っている。天候をも計算に入れると言う高い難易度の奇襲とて、 アルフレッドであれば取り捌くだろう――と。 「偶然ではない、と言っておこうか」 焦ったような素振りも見せずに平然と答えるアルフレッドに対して、 隣席のマリスは驚愕に満ちた双眸を向ける。 マリスの身を駆け抜けた戦慄は、大きく開かれた口が物語っているだろう。 淑女にあるまじき表情(かお)である。もしも、タスクがこの場に居合わせたなら、 厳しく咎めた筈である。 しかし、マリスがこのような反応を見せるのも無理からぬ話であろう。 アルフレッドが自白でも始めるように思えたのだ。 「先程も話した通り、『プール』は俺たちにとっても迷惑極まりない。 言ってしまえば、第二のテムグ・テングリのようなものだな。 いずれ佐志にも直接攻め込んでくるだろうよ。……ギルガメシュが目を付けたのと同じように」 「それは、でも、……いや、言い逃れはしないさ」 「勿論、俺だって追及する気はない……が、『プール』だけは違う。あいつらは現在進行形の脅威だ。 それで動向(うごき)を探ってみたら、バブ・エルズポイントを攻める計画に行き着いたのでな。 体よく利用させて貰ったんだよ」 「『プール』がどう動くのかを読み切って隠れ蓑≠ノしたわけか」 「前方に敵の意識を引き付けておいて、後方から不意打ちを仕掛ける――奇襲戦の基本だよ。 尤も、『プール』の連中は掌の上で転がされていることも、捨て駒にされていることも知らないのだがな。 嵐の夜こそ奇襲の好機だと、人を遣(や)って陣中に触れ回ってみたら簡単に動いてくれたよ」 「戦略シミュレーションの天才は、アカデミーを卒業した後も健在……か」 「天才かどうかは知ったことではないが、アカデミーで学んだ知恵も生かさなくては持ち腐れだ。 ……共倒れとまでは行かなくても、ギルガメシュと『プール』で潰し合って貰えれば、 俺たちとしてはこんなに助かることはない」 「……人の悪さも相変わらずだな」 「好きに言ってくれ」 マリスが懸念したような自白ではなく弁論術を以ってして、 アルフレッドはボルシュグラーブを惑わしていた。 ボルシュグラーブの真っ直ぐな心根は、またしてもアルフレッドの奇策に弄ばれたわけだ。 嵐の夜の奇襲戦に於ける真実は、アルフレッドが語ったものとは真逆と言っても差し支えがない。 バブ・エルズポイントを襲って迎撃側を撹乱したのは、 御曹司≠アとグンガルが率いるテムグ・テングリ群狼領の軍勢であった。 以前の交戦時に剥ぎ取っておいた装備を着用し、『プール』の兵に成り済ましたのである。 旧友を信じ切っているボルシュグラーブは、彼の語ったことが真実だと信じて疑わず、 それ故に顔が強張っている。 「……む、う――」 低く短く唸り声を上げた後、ボルシュグラーブはグラスを呷った。 卓上に置かれていたピッチャーから水を注ぎ足すと、それもまた一気に飲み干す。 あからさまとも言えるほど、ボルシュグラーブは緊張していた。 次は更に突っ込んだ質問を投げ掛けてくるだろう――その全てをアルフレッドは利用する構えである。 「……アル、マリス……やっぱり、お前たちは――」 「――そうだ。今は佐志に与している。……宣戦布告したからにはお前とは敵同士になったわけだな」 「……分かった」と呟いたボルシュグラーブは、次いで深い溜め息を吐く。 会話の展開(ながれ)から察してはいたが、それでも現実として認めたくはなかった―― そのような面持ちである。 バブ・エルズポイント内部にて干戈を交えた佐志の面々もアルフレッドの名前は口にしている。 こうして相対する前から判ってはいたのだ。しかし、ボルシュグラーブにはどうにも受け入れ難かった。 アカデミー以来の旧友と完全な敵対関係となった事実は、 友情に厚いボルシュグラーブにとって何にも勝る苦痛なのだ。 「……グドゥー地方の合戦で後方支援用の軍艦が沈められたが、……あれもお前なんだろう?」 半ば搾り出すようにしてボルシュグラーブは質問を続けた。その声は憐れに思えるほど擦れている。 「目撃した兵士の報告によると、何隻もの武装漁船とガレオン船に攻め立てられたそうだ。 武装漁船団なんて、ギルガメシュの集めた資料では佐志以外にはどこも該当しない。 それに『T字戦法』を使った形跡もある。あの伝説の海戦術だよ」 「伝説と言うのは大仰だな。『東郷ターン』はアカデミーの教材にも載っていた。 そう言う意味では一般的な戦術論ではないか?」 「……案の定かよ。やってくれるぜ……」 「俺を捕らえて罰を受けさせるか? 軍艦轟沈の主犯格として」 「バカ言うなよ。合戦は戦場でやるものさ。損害の責任は自分たちで取る。 繰り返すが、あれは合戦≠セ。一方的に砲撃されたわけじゃない。 義を貫く為の戦いで損害賠償を求めるほどギルガメシュは落ちぶれちゃいないよ」 苦悶にも近い表情(かお)で天井を仰いだボルシュグラーブは、これまでになく重い溜め息を吐いた。 そして、またグラスの水を飲み干す。 この若き精鋭は、グドゥーの砂漠にて繰り広げられた合戦に於いてギルガメシュ軍の総大将を務めていた。 軍艦の損亡は最も手痛い失敗であり、戦果を振り返る度にアサイミーから厭味な悪言を飛ばされるのだ。 果たして、その痛手は旧友によって刻まれたものであった。 図らずも旧友と交戦していたと言う事実が、ボルシュグラーブの優しい心を揺さ振っていた。 現在(いま)の彼は『アネクメーネの若枝』と言う立場を忘れ、 親しい友人としてアルフレッドやマリスに接している。 だからこそ、友情に亀裂が入るような事態は堪えるのだった。 (成程、そういう事か――だとするならば合点がいくな) 一方のアルフレッドは友情の亀裂など気にも留めず、内心にてほくそ笑んでいる。 事情聴取を受けた側なのだが、彼にとっては得るモノのほうが遥かに大きい。 熱砂の合戦での持ち場など、軍事行動へ直接的に関わる事柄はボルシュグラーブも伏せている。 それでもアルフレッドには十分な収穫であった。 今や、ことの真意を得たりと言う感覚さえ持っている。 ボルシュグラーブの発現から察するに、彼はまだアルフレッドが反ギルガメシュ連合軍に参画した事実を 把握していない様子であった。 どうやら、ギルガメシュに鞍替えしたゼラールも連合軍の内幕を暴露してはいないようだ。 それならば、アルフレッドとマリスに対する厚遇にも「私情」以外の説明がつく。 何もかも知らないからこその結果なのだ。 アルフレッドが連合軍諸将へ史上最大の作戦≠献策したと知っていれば、 さしもの快男児(おひとよし)≠熨゚捕に踏み切るしかあるまい。 何としても本当のことを知られるわけにはいかなかった。 開きかける口を噤み、アルフレッドは無事にこの場を乗り切る策を考える。 ここまでの質問がボルシュグラーブによる探り入れの類ではないのかと警戒することも忘れてはいないが、 良くも悪くも単純一途な性格の彼には、やはり高度な腹芸など使えまい。 昔と何も変わらない快男児(おひとよし)≠セと判断する材料は幾つもあったのだ。 ギルガメシュが誇る軍師――アゾットによる入れ知恵や命令と言う線も考えられないことではなかったが、 先の通り、彼はそうした腹芸は嫌う性格であるから、何らかの働きかけがあったとしても、 受け入れ難いものとして拒否するだろう。 つまり、ボルシュグラーブの一本気な人柄を信じると言う結論にアルフレッドは落ち着いた。 「……最初からバブ・エルズポイントを狙っていたと言うことはわかったよ。 アル、それじゃ、お前たちは一体――」 「――もうひとつのエンディニオンまで乗り込んで、ギルガメシュのテロ行為を食い止めたかったんだ」 次にボルシュグラーブが何を訊ねたいのかを察したアルフレッドは、 彼の言葉を遮って自ら目的を明かしていった。 「テ、テロ……? オレたちが……ギルガメシュの行動がテロだって言いたいのか……!?」 思わず椅子から立ち上がってしまうほどにボルシュグラーブは狼狽した。 旧友からテロリストと面罵されたことが余程衝撃であったのだろう。 呻いて絶句したまま、暫く凍り付いてしまった。 「正直、お前たちにどのような大義があるのかはわからない。 だが、考えてみて欲しい。この世界で生まれ育った俺たちにとっては、 お前たち、ギルガメシュのやっていることは恐怖でしかない。それを止めたいと思うのは当然じゃないのか?」 「恐怖、か……」 動揺した心を落ち着けるように、ボルシュグラーブはアルフレッドから突き付けられた言葉を繰り返した。 掛け替えのない旧友は、ギルガメシュの全てを「恐怖」と断じている。 「――『テロ』の語源だな、恐怖は。……しかしな、この世界の人間にどう思われようとも、 オレたちはそれはやらねばならないんだ。分かってくれとまでは言わないが……」 「分からないな。お前には申し訳ないが、分かろうとも思わない」 「拒否されるのも当然だよ。……それでも、敢えて言わせて欲しい。 オレたちの事情を考えて貰いたい、と。……オレ≠スちと言うのは難民のコトなんだが……」 「答えは変えようがないぞ、ボルシュ。それに難民のことは別問題だ。 今、俺が話しているのはテロを迎え撃つと言うことだ」 アルフレッドとボルシュグラーブの会話は、そこで途絶えた。 出方を窺っているボルシュグラーブと、侵略を受けた側として、あくまでも硬質な態度を貫くアルフレッド―― 沈黙する両者の間で板ばさみとなったマリスもグラスに口を付けた。 ふたりの男が作り出した緊張感は彼女にも伝播し、 額と言わず頬と言わず、全身から冷たい汗が噴き出しているのだ。 喉も渇き切っており、水でも飲んで潤さなくては次の言葉を紡ぐことさえ叶わない。 「……ニルヴァーナ・スクリプト――転送装置まで使ったのがオレたちと戦う為と言うことは分かったよ。 でも、どうしてそんな危険を冒したんだ? オレたちを倒すことがお前の目的なら、 バブ・エルズポイントごと破壊すれば良かったじゃないか」 「ギルガメシュには大変な損害だろうな」 「別のエンディニオンへ渡る為の装置だと分かっていたんだろう? それとも、何か理由があって、向こう≠ヨ行こうとしていたんじゃ……」 『トリスアギオン』の阻止と言う極秘の使命を帯びていたアルフレッドにとって、 ボルシュグラーブから投げられた問い掛けは、絶対に返答を誤ることの出来ないものである。 自分たちの目的を嗅ぎ付けられるわけにはいかない。微かに気取られることさえ許されないのだ。 さりながら、これは想定の範囲内である。最も困難な問答であればこそ、入念に対策を講じられる。 必ず問われると分かり切っているのだから、反攻の手立てを練らないほうが愚かであろう。 言わずもがな、アルフレッドの心は微動だにしなかった。 「ギルガメシュは異なるエンディニオンからやって来た。ならば、本拠地もそちら≠ノ在る筈。 大部隊をこちら≠ヨ派遣したのだから、必然的に向こう≠ヘ手薄になっている。 本拠地を攻めるには絶好の機会だろう? そこを陥落(おと)すことが出来たのならば、 ギルガメシュとしても戻らざるを得ない。となれば、侵略行為も止まる――と言う寸法だったのだがな」 「そう、か……」 このようにアルフレッドは名目的な部分だけを伝えていく。本当の目的など口が裂けても言えない。 真相を隠しつつ、ボルシュグラーブを納得させるには、この論法こそが最も有効だと考えた次第だ。 「俺はな、ボルシュ。カレドヴールフに――実の母親に故郷を滅ぼされたんだ。 ……お前の耳に入っているかは知らないがな」 「……それは――」 危険を承知で特攻するだけの理由を突き付ければ、最早、ボルシュグラーブは口を噤むしかない。 果たして、アルフレッドが目論んだ通りに旧友は沈黙してしまった。 「――さぁさ、小難しい議論(はなし)は後回しにしな。とびっきりのご馳走がそっちに行くからねっ」 食事の到着が告げられたのは、まさにその直後である。 ベーコンを焦がしたような匂いに鼻腔をくすぐられ、反射的に振り向いたマリスは、 そこに信じ難いものを認めると、瞼が裂けるのではないかと錯覚するほど双眸を見開いた。 それはアルフレッドとて同じことだ。一分前までの論鋒が嘘のように言葉を失った上に、 思わず腰を浮かせてしまった。 「……ディアナ、それに、社長……」 料理(ブランチ)を運んできたのは、いつかの再会を誓って合戦場にて別れた旧友≠スち―― ディアナとボスであったのだ。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |