4.Dover test


「予想はしていたけれど、ボクのことは無視(スルー)かい……」

 ボスとディアナ――アルバトロス・カンパニーを牽引するふたりに続いて入室した男は、
アルフレッドたちが自分にだけは無反応であると見て取るや否や、
如何にも居た堪れないと言った面持ちで肩を落とした。
 この神経質そうな男性の名はキセノンブック・セスと言い、
歴(れっき)としたギルガメシュ外人部隊(エトランジェ)の隊長代行である。
 本来のリーダー格が熱砂の合戦――『両帝会戦』で戦死してしまった為、
その代理を現在まで務めているのだった。
 強制的に押し付けられたような役職でも手抜きをせず取り組む辺りに生来の真面目さが窺える。
 判然とはしないものの、アルフレッドも顔を見かけた記憶はある――が、
アルバトロス・カンパニーの関係者でもないキセノンブックの為人(ひととなり)など知る由もなく、
どこで邂逅したのかは全く思い出せない。
 両者が顔を合わせるとするならば、両帝会戦以外には有り得ない筈だが、
余計な時間を割いてまで記憶を紐解くほど、アルフレッドはキセノンブックに関心を持ってはいない。
散歩の最中に街角で見つけて印象に残った顔――と言った程度の認識であった。
 マリスに至っては顔すら憶えていない。それでは無反応であっても仕方あるまい。
 勿論、キセノンブック本人は満面に不服の意を貼り付けている。
 運ばれてきた食事について主菜(メインディッシュ)を担当したのは他ならぬキセノンブックであり、
相応の歓迎が欲しかったわけだ。
 千切りにしたポテトとベーコンにチーズをかけて焼いた一品は、
嘗てサルーン(酒場)の厨房で働いていたと言うキセノンブックの力作である。
 尤も、現在(いま)のアルフレッドはキセノンブックなど相手にはしていられない。
彼の力作とて、脳が必要な情報としては拾い上げていない筈だ。
 アルフレッドは、またマリスも、突然の再会となったディアナとボスしか視界に入っていないのだ。
他のことに気が回らないのも無理からぬ話であろう。

「息災のようで何よりだよ」
「バブ・エルズポイントの中で佐志の幔幕を見かけたから、もしやと思ったンだがね。
それが二枚目直々とは、一体どう言う大盤振る舞いなンだい?」

 ボスから肩を叩かれたアルフレッドと、ディアナに頭を撫で付けられたマリスは、
揃って困惑の表情(かお)を浮かべ、返事すら忘れて固まっている。

「知り合いなの……か?」

 自身の旧友へ親しげに話しかけたディアナとボスに対して、ボルシュグラーブは不思議そうに首を傾げている。
両者が旧知の間柄であろうとは、一度として想像しなかったようである。

「知り合いと言うか、……友人だよ。アルバトロス・カンパニーとは何かと縁があってな――」

 混乱が鎮められないと言った声色で、アルフレッドはボルシュグラーブに首肯して見せた。

(――成る程、エトランジェもバブ・エルズポイントの防衛に宛がわれていたわけか……)

 思い掛けない再会によって意識が乱されてしまったものの、
ここに至るまでの経緯と状況を振り返れば、大して驚く程のこともなかった。
「バブ・エルズポイントの中で佐志の幔幕を見かけた」と言うディアナの話に
明答(こたえ)が含まれている。
 それに、だ。アルバトロス・カンパニーとの関係をボルシュグラーブに隠しておく必要はない。
 佐志の一員としてギルガメシュに抵抗し、両帝会戦へ加わったことはアルフレッドも明かしている。
ディアナとボスも、そこまでは直接的に関与していた。
 アルフレッドにとって幸いだったのは、このふたりが精神感応兵器阻止の一件には無関係と言う点だ。
決死隊の要員(メンバー)に選ばれたニコラスのように、何らかの形で佐志側の作戦に関わっていたなら、
この場に於いては面識もない他人と言う立場(フリ)を貫かなくてはならなかった。
 どうやらボルシュグラーブと同じく決死隊の本当の目的には気付いていない様子である。
 だからこそ、アルフレッドは何の気兼ねもなく接することが出来た。
 砂漠で対峙したときに比べて顔色が良好であることを確かめると、
波立っていた心も穏やかさを取り戻していった。

「息災と言うのはこちらの台詞だろう? 随分と血色が良くなったな」
「お陰さンでね。別に上等とは言わないけど、とりあえず人並みの暮らしはさせて貰えてンだよ」
「……安心したよ」

 復讐の念で狂っていたときには、振り返るのも憚るような怨嗟をぶつけてしまった相手だが、
両帝会戦を経た現在(いま)、これまでとは違った気持ちで向かい合うことが出来る。
 アルフレッドが浮かべたのは、ごく自然な微笑――ボルシュグラーブ相手にも向けていない――である。
先ずディアナに、次いでボスに手を差し伸べた。
 勿論、ふたりとも握手を返す。
 アルフレッドに釣られてマリスも握手を求めていくが、彼女の場合は動揺を引き摺っており、
目の前の場景を現実のものと認識出来ていない様子だ。その表情(かお)は、どこか呆けている。

「積もる話もつっ立ったまンまじゃシマらないよ? 
冷めても勿体ないンだ、続き≠ヘ食いながらにしようねェ」

 旧友との再会に心が弾んだディアナは、左右の掌を陽気に打ち鳴らすと、
配膳を進めるよう人差し指を回してキセノンブックに合図し、
次いで腰を浮かせたままでいる面々にも着席を促す。
 「誠実」の二字を絵に描いたようなボルシュグラーブは、
例え相手が部下であっても目上の相手は尊重しており、
ディアナの態度を「上官に対する不敬」などと叱ることもなく素直に従った。


 ディアナとボス、キセノンブックが手分けして作った料理は、どれも絶品であった。
かく言う三人も卓に着き、食事に相伴している。

「――それで、アル。お前は、……いや、佐志も含めて例の大連合に加担したのか?」

 ディアナから言われたように一先ずは食事を摂ろうと、
アルフレッドたちに促すことは促したボルシュグラーブだが、
極めて深刻な話し合いが中断していることもあって気持ちが落ち着かず、料理に箸も付けられなかった。
 皿に取り分けられたポテトとベーコンのチーズ焼きは、香ばしい香りでもって胃袋を刺激するのだが、
気もそぞろと言った情況では満足に味わうことも叶うまい。
 結局、ボルシュグラーブは先程までの話を再開させてしまった。
無粋と解っていても、目の前の問題へ対処しないことには次の段階に進めない性情(タイプ)なのだ。
 アルフレッドとしても話し合いを再開させることに異存はない。
齧りかけだった堅焼きパンを皿の上に置くと、口元をハンカチで拭いながらボルシュグラーブに向き直る。

「若い子はどうしてこうせっかちなのかねェ。せめて、デザートのタイミングにしておきな。
それくらいの我慢も出来ないンかい?」

 すかさずディアナが注意を飛ばすが、両者ともに議論の体勢を整えつつある。

「食事をしながらでも話し合いくらいは出来るさ。
『ブクブ・カキシュ』ではランチミーティングだってザラだったんだぞ?」
「食卓に出して良いのは楽しい話だけだって、昔から決まってンだよ。
理論理屈ってもンは、メシをマズくしても調味料にはなりゃしないンだ。
そう言う類の話はね、メシの感想でもお喋りして、落ち着いた頃に切り出すもンさね」
「聞き分けのないことを言わないでくれ、ディアナさん。
オレもアルも、そんな悠長に構えちゃいられないんだよ」
「第一、大将の箸はソースの一滴も着いてないように見えるンだけど? 
『食事をしながら』ってのは、一体、どの口が言ってンだい」
「……いただきます」

 先程より厳しく窘められたボルシュグラーブであるが、
今度も目上のディアナに従い、不承不承と言った調子で箸を取った。
 出端を挫かれた恰好のアルフレッドは一瞬だけ顔を顰めたが、
再会が叶ったディアナの機嫌を損ねても面白くないと悟り、一口大の堅焼きパンへ再び手を伸ばした。
 これはボスが担当したのだと言う。限られた材料や器具を巧みに使いこなして焼き上げたそうだ。
やたらと自慢げな顔を向けてくるのだが、その意図を測り兼ねたアルフレッドは、
会釈だけ返して首を傾げた。
 ボスが寂しげに項垂れたのは言うまでもない――が、これは余談。
 ともかくも、一連の筋運びはマリスにとっては幸いであった。
ボスたちの闖入には心臓が飛び出るほど驚かされたが、場の雰囲気が一変したのは確かだ。
アルフレッドとボルシュグラーブの議論が何時までも続いていたなら、
重苦しい空気で押し潰されていたかも知れない。
 そのような状況が繰り返されず、マリスは密かに安堵の溜め息を零していたのだ。
 現在(いま)はアルフレッドも食事に戻り、完熟トマトの冷製スープへと向かっていた。
 尤も、彼の場合は緊張を解いて食事を満喫しているわけではない。
腹の底ではボルシュグラーブの様子を観察し、次なる一手を模索し続けている。
 ディアナの手製と言うスープは、バジルを加えて風味を一工夫していた。
 トマトとバジルの二重奏とも言うべき香りをアルフレッドは十分に楽しめたが、
他方のボルシュグラーブはどうか。これを口にしたところで、風味も酸味も分かりそうになかった。
 食に頓着しないと言うことではない。何事にも上の空と言うわけだ。
 一呼吸置く形で議論は中断させられたが、却って正解だったのかも知れないとアルフレッドは分析している。
焦燥するボルシュグラーブに対して、自分は心身ともに落ち着いた状態を整えられるのだ。
 次に話し合いが再開されるときには、先ずは「佐志も含めて例の大連合に加担したのか」と言う問いかけに
答えなくてはならないが、それまでじっくりと弁論を練ることも出来る。
 ひとつだけ懸念があるとすれば、相伴している三人だ。
 熱砂にて交わした再会の約束を台無しにしてしまうことをディアナやボスが口走るとは思えないが、
佐志とエトランジェが交戦したと言う事実から連合軍への加担を疑われては堪らない。
 エルンストたちに連動するどころか、アルフレッドは中枢にまで入り込んでいるのだ。

(……それにしても地味な男だが、印象通りに下手なことを喋らないでいて欲しいがな……)

 問題はキセノンブックと言うもうひとりの男である。
 エトランジェの一員と言うことだけは察せられたが、アルバトロス・カンパニーの社員ではなく、
食事中も特に雑談を楽しんだわけではない為、為人(ひととなり)と言うものを掴み兼ねている。
 即ち、何を言い出すか知れたものではない不確定要素――否、不安材料なのだ。
 やはり、アルフレッドの側から動いてボルシュグラーブの心理を操るしかなさそうである。

「……大連合≠ニ言うのは、エルンスト・ドルジ・パラッシュが呼びかけた徒党のことか?」
「――そ、そうだともっ!」

 デザートであるプラムのシャーベットが運ばれてきた段階になって、
ようやくアルフレッドは議論の再開を告げた。
 ここまで焦らした成果とでも言うべきか、ボルシュグラーブは前のめりになって応じた。
まるで「焦燥」の二字を全身で表したようなものであり、アルフレッドは心中にてほくそ笑んだ。

「オレたちギルガメシュにとっては、グドゥーで決戦を繰り広げた相手ってことになるな。
……アルもその相手≠セった。それってつまり――」
「――言ったはずだぞ、俺たちはテムグ・テングリ群狼領にも迷惑していると。
奴らがしていたことは世界征服だ。そんな連中が呼びかけた連合軍など誰が加わるものか。
砂漠の合戦に駆け付けたのも、バブ・エルズポイントへ侵入したのも、
エンディニオンを守りたいからだ。それ以外の何物でもない」
「市井の人間が起こした防衛行動――と思えば良いのか?」
「そして、俺たちと同じような運動は同時多発的に起こっている。
『ベテルギウス・ドットコム』と言うネットニュースで見た情報(はなし)だが、
腕利きの集団がお前たちの拠点を荒らし回っているそうだな?」
「『パトリオット猟班』……な。ニュースも何も、オレたちには大問題だぜ」
「連合軍には同じような志で参加した人間も多い筈だ。
馬賊どもはともかく、満足な軍勢も持たない市井の人間がどうして合戦に身を投じたのか――
そのことだけはじっくりと考えて欲しい。お前にだけは、な……」
「……ああ、受け止めるとも……!」

 アルフレッドの真剣な語り口を受け止めるボルシュグラーブは、旧友の言に一点の疑いも持っていない。
彼のことを信頼し切って耳を傾けていた。
 頻りに首を頷かせている辺り、佐志の行動は連合軍への加担や連携の類ではなく、
あくまでも市井の民による決起として認識したようだ。
 憐れと言うべきか、愚かと貶すのが正しいのか、まんまとアルフレッドの企みに乗せられたわけである。

(あとはこいつらだが――)

 ボルシュグラーブに気取られないよう静かにボスたちを窺うと、彼らは素知らぬ顔で食事を進めている。
どうやら、アルフレッドの不利になると思われる発言は控えてくれるらしい。
 ボスたちの意図はキセノンブックも察したようで、
今のところ、主菜にまつわる薀蓄以外は何も喋っていなかった。

「しかし、何だかアルらしくない気もするなあ」
「……どう言う意味だ?」
「――アルにはギルガメシュと戦う理由はある。それはわかったさ。
このままじゃいけない、何かしなくちゃならないって、逸る気持ちはオレだって同じだけど……」

 急いでプラムのシャーベットを平らげたボルシュグラーブは、
腑に落ちないと言った面持ちで両腕を組んだ。

「――アカデミーの兵棋演習でやったような、もっと先を見通したものかと思ったが、そうでもないんだな」
「だから、『プール』を利用させて貰った」
「オレが言いたいのはそこじゃなくてだな……いくらなんでも無謀だろ。
大体、転送がどうなっているのか、調べがついているのか? 
それに本拠地を狙うといっても向こうには――あ、いや、この先は軍事機密だな、危ねえ危ねえ」
「俺が言うのも何だが、機密漏洩に巻き込むのは勘弁してくれよ。
ギルガメシュの軍法会議で証言台に立たされるなんて、これ以上の間抜けはない」
「そこは……心配しなくていいよ。多分、会議は開かれないから――」

 ワーズワース難民キャンプにて狼藉――否、虐殺を働いた駐屯軍は、
軍法会議はおろか、尋問に掛けられることもなくその場で処断された。
首魁たるカレドヴールフによって軍刀(かたな)の錆にされたのである。
 血の海としか例えようのない惨状を振り返ったボルシュグラーブは何事かを言いかけ、
しかし、頭を振って口を噤んだ。
 カレドヴールフはアルフレッドの実の母親である。
家庭の事情に踏み込むような下卑た真似はしていないが、その点だけは把握している。
 最も見たくない事態ほど反射的に想像してしまうのが人間と言うものだろうか。
実の母親によって生命を絶たれたアルフレッドの姿が、ボルシュグラーブの脳裏に浮かんでいた。
 だから、強引にでも話題を変えたかった。文字通りの血で血を洗う殺戮など、
例え虚像であっても頭の中から追い出したかった。

「……とにかくな、お前たちがやろうとしたことは無謀なんてもんじゃない。
ひとりの友人として、それを防げたことは幸いに思うよ」
「ボルシュグラーブさん……」

 ボルシュグラーブの熱意ある語りかけに、傍で聞いていたマリスは思わず言葉を詰まらせてしまう。
敵対関係であると認識しながらも、バブ・エルズポイントを攻撃された守将でありながらも、
彼は自分たちを気遣う言葉までかけてくれたのだった。
 対するアルフレッドは「俺もひとりの友人として感謝している」とだけ返していた。
 双方を見比べている間に、マリスはどんどん後ろめたい気持ちが強くなってきた。
 アルフレッドの言葉は、自分たちを心配してくれたボルシュグラーブへの感謝ではなく、
「転がし甲斐のあるお人好し」と言う嘲りが込められているのだ。
 嘘を嘘と気付くことなく自分たちを信頼し、思いやってくれたボルシュグラーブに対して申し訳なく、
居た堪れない気持ちになったマリスはすっかり押し黙った。
 複雑な心中を慮ったのか、ディアナはシャーベットの付け合せとして用意したフルーツの皿を
マリスの前に差し出した。
 苦しい気持ちも何もかも受け止めるように優しく微笑むディアナに、
マリスはどれほど救われたか分からない。

 ボルシュグラーブがポケットからモバイルを取り出したのは、
マリスが無花果の実を口に含んだ直後のことだった。
 手短に操作を終えた辺り、何処かに電話を掛けようとしているらしい。
メール文面の入力であれば、もっと忙しなく指先を動かした筈だ。
 果たして、彼はモバイルを耳元に宛がった。

「ああ、オレだ。その後の経過はどうだ? ……そうか、分かった。
引き続き、何かあったときの為に備えて待機していてくれ――ん? こっちか? 
こっちは特に何も無い。心配する必要な無いぞ――ああ、では」

 通話を終えたボルシュグラーブは、柔らかな表情でもってアルフレッド、次いでマリスを見つめた。

「なんだ、ボルシュ?」
「バブ・エルズポイントに詰めている副官に島の隅々まで探らせていたんだよ。
お前の仲間たちは――佐志の全員は無事に退却出来たそうだ。
……『プール』まで一緒に取り逃がしたのは、ギルガメシュとしては考え物だけどな……」
「それは本当ですの?」
「オレがマリスに嘘を教えても仕方ないだろ? 考えてくれ、オレの目の前に誰が座っているか。
仮にオレが偽りを言ったところで、アルくらいなら直ぐに見破っちゃうよ」
「まあ、そうだな。お前は昔から思ったことが顔に出るタイプだったよ。誰よりも分かり易い」
「言ってくれるなァ。……でも、そういう言い方が本来のアルだ。
ようやく調子が戻ってきたんじゃないのかな?」

 決死隊と共にバブ・エルズポイントへ突入した佐志の人間は、無事に逃げ遂せたとのことだ。
ボルシュグラーブを通じてそのことを報(しら)されたマリスは、精神的にもゆとりを取り戻すことが出来た。
無論、アルフレッドの口元にも安堵の微笑が浮かんでいる。
 ふたりの様子を見てボルシュグラーブも一安心した――が、その和やかな雰囲気も長くは続けられず、
その後に言葉を続けるときには、幾らか表情(かお)に陰を落としているようであった。

「……良い報せの後に持ってくるのも心苦しいんだが、オレが分かるのはここまで≠ネんだ」
「それはどう言った――」

 そこで言葉を区切った――否、言葉を失ったアルフレッドは、満面に緊迫感を漲らせている。
 ボルシュグラーブが語ろうとしたこと、その意味は、彼にとって余りにも深刻であった。

「――こちら≠ノ残っている人間の安否だけ……という事か?」
「さすがに理解(わかり)が早いな。そう言うことだよ。
正常な運動ならいざ知らず、転送の最中に事故が起きたのでは――事故と言うことで良いんだな? 
装置には深刻なエラーが記録されていたけど……」
「ああ、……不測の事態と言うヤツだ」
「不安定な状態でシステムが実行された場合、思い通りの場所に転送されるとは限らないんだ。
……万が一ってコトもある。そうだとしても、こちら側からでは何も分からないし、どうにも出来ない。
転送の最中に肉体がバラバラになっちまった――なんてコトがないよう祈るしかないな。
座標の狂い方によっては、何処かの壁の中に埋まって出られなくなっちまう」
「そう……か……」

 ヌバタマの乱入と言う予測不可能な災難(アクシデント)によって、
装置自体から弾き飛ばされた自分やマリスはともかく、
フィーナたちの転送だけは成功したものと確信していたのだが、
どうやらそれは、余りにも都合の良い自己解釈であったようだ。
 ニルヴァーナ・スクリプト――即ち、ふたつの世界を渡る量子テレポーテーション。
これを敢行した者たちの安否は現時点では全く判らないと言う。
 ボルシュグラーブの発した縁起でもない一言がアルフレッドに追い撃ちを掛けた。
 もう一度、先程の悪夢が彼の脳裏を過ぎる。フィーナが「無」に呑み込まれた瞬間が、だ。
さりながら、手の打ちようもない。今となっては正夢にならないことを祈るより他の方法はなかった。
 身体中を流れる血が一雫まで凍りつくかのような恐怖に襲われ、
今までとは別の意味で無口になったアルフレッドを案じるボルシュグラーブは、
彼の傍らまで即座に歩み寄った。
 無論、マリスも椅子から立ち上がって恋人の背中を優しく摩っている。
 どのような事態になっても取り乱してはならないと自分自身に言い聞かせるアルフレッドだったが、
肉体の生理的な反応までは操作出来るものではない。面からは血の気が完全に失せており、
今や病的な色に変わりつつある。

「……正直、公開捜査は難しいと思う。ギルガメシュの兵を駆り出すにしても、
理由を訊かれたら藪蛇だから……」
「……分かっている。これ以上、お前に迷惑は掛けられない」
「向こう≠フメディアに話を付けて、行方不明者のお尋ねみたいなコトなら出来ると思う。
如何せんオレはマスコミにはツテがないから、少しだけ時間が欲しい」
「ボルシュ……」
「お前の顔色は尋常じゃない。……誰か、大事な人が入ってるんじゃないか?」

 勘働きが鋭いとは言い難いボルシュグラーブでさえ直感出来るほどに
アルフレッドの顔色は芳しくないわけだ。
 指摘された通り、決死隊の要員(メンバー)は死線を共にしてきた仲間ばかりだった。
中でもニコラスとは世界の隔たりを越えた親友同士である。ディアナやボスと同じように、だ。
 グリーニャと言う名の運命を分かち合うシェインやムルグも決死隊には含まれている。
何よりフィーナが先陣を切っている。
 そして、誰もが輝きの中に消えていった。
 夢の中で溢れた光が希望を授けてくれるものとは、最早、アルフレッドには思えない。

「事情はどうあれ、お前の仲間はオレにとっても友達みたいなものだ。
捜査には出来る限りの力を尽くす。オレがきっと何とかするよ!」

 励ますように肩を叩いてくれたボルシュグラーブへ表しようのない表情(かお)を向けた後、
「風に当たってくる」とだけ言い残してアルフレッドは席を立った。
 ボルシュグラーブの心理を操って有益な情報を引き出すと言う謀略も、
思考(あたま)の中から吹き飛んでしまっただろう。
 そして、思考の働きは周囲に対する注意力にも通じるものである。
傍らのマリスが俯き続けていることさえ、今のアルフレッドは気付いていない。
 決死隊には大事な人が入っているのではないかと、ボルシュグラーブがアルフレッドに尋ねた瞬間、
彼女は顔面を隠すような姿勢を取ったのだ。
 平素のマリスであれば、最愛の恋人を追い掛けた筈である。
それにも関わらず、現在(いま)は俯いたままで微動だにしない。
 最優先すべき事項を別の何か≠ェ上回るのは、果たして、どのような場合か――
只今のマリスに限って言えば、誰にも見せてはならない表情が、どうしても抑え切れないときである。
 表情(かお)と言うものは、心根を映し出す鏡であった。

 旧友の後姿を見送る恰好となったボルシュグラーブは、
自分の席に戻ると、マリスに向かって咳払いをひとつ披露した。

「……とにかく、だ。マリスもアルも本調子じゃないだろう? 二、三日はここで養生してくれ。
接収した建物に違いはないが、住み心地はオレが保障するよ。
今は別荘みたいに使わせて貰っているんだけどね」
「接収=c…でございますか」

 俯き続けていたマリスも、「接収」と言う二字には思わず顔を上げた。
そこには複雑な表情――間違いなく、俯いていたときとは別の感情だ――を貼り付けている。
 深紅の双眸には、ボルシュグラーブを責めるような色が混ざっていた。

「そんな目でオレを見ないでくれ。オレだって好きで他人の家を奪ったりする気はないさ」
「ですが、こうして実際に……」
「言い訳がましいが、この家は組織から与えられた物なんだよ。上からの命令は拒否出来ない。
アカデミーで習った以上に、軍人稼業は気楽にはいかないってことさ」

 考えてみれば当然かも知れない。異なるエンディニオンからやって来たギルガメシュの幹部が
こちら側≠ノ宅を構えているなんてことは有り得ない。
 ボルシュグラーブの言う通り、誰かの家屋を奪ったのだろう。おそらくは力ずくで、だ。
とは言え、元々の住人が家財を持ち出す余裕はあったようで、
それならば、内装が味気ないのも理由としては真っ当だ。
 ともかく、ボルシュグラーブが言うには、地域との連携を密にする為に、
敢えてその土地に住むようにと首魁から命令があったそうだ。
 無人島の別荘を取り押さえた辺り、カレドヴールフの意向が効果的なのかは
甚だ怪しいものではあるが、それはともかく。
 アルフレッドのように「親友」と呼べる間柄ではないが、
マリスとてボルシュグラーブの為人(ひととなり)は解っているつもりである。
 「接収」と言っても、ボルシュグラーブが率先して建物を奪ったのではなかろう。
現地の暮らしを脅かすような振る舞いに関しては、寧ろ否定的であることも察せられる。
 テロリストと言う呼称には似つかわしくない優しさを宿しているからこそ、
こうして自分たちを助けてくれたのだ。
 それも分かっている。分かっているつもりだが、
それでも有無を言わさないギルガメシュのやり口にマリスは憤りを禁じ得ない。
 それ故に非難めいた眼差しをボルシュグラーブに向けてしまうのだった。

「しかし、どうなんでしょう。事の成り行き上、仕方がなかったとは言え、
バブ・エルズポイントに侵入して、ギルガメシュの機密≠勝手に使ったのでしょう?
そんな人間を匿って、上層部(うえ)の方には何と弁解するつもりなんですか」

 ふたりの会話に口を挟んだのは、意外にもキセノンブックである。
食後のコーヒーを各人に配る顔は、何時にも増して神経質そうに引き攣っている。
 侵入者の一味を助けたことについて、エトランジェにまで累が及ぶことを恐れている様子だ。
現に自分たちはアルフレッドとマリスを介抱し、食事まで振る舞っている。
万が一の場合は連座させられても不思議ではない。

「……セス、あなたは本当に心配性だな」
「いくらしても足りないのが貯金と心配です」

 「気が小さいンだよ」とディアナは冷やかすが、キセノンブックの論もあながち見当違いではない。
エトランジェを預かる隊長代行として、これは最優先の確認事項なのだ。

「弁解と言われても、何処にもバレていないし、わざわざバラす気もないさ。それで良いだろう?」
「悪くはありませんが、……しかし、転送装置のエラーはどうするんです? 
大事になったからには、どうしても諜報部に嗅ぎ回られるのでは?」
「それについてもオレの裁量で処理しておいた。バブ・エルズポイントのあれ≠ヘ試作機だからな。
予期出来ない突発的なエラーが発生してもおかしくない。今回の一件もそれが起こっただけ。
他の原因はない――と言うことさ」

 バブ・エルズポイントが襲撃を受けている最中にニルヴァーナ・スクリプトが起動した――
そのことをどうやって説明するつもりなのか。と言うよりも、他の幹部や首魁を納得させられるのか。
これは明らかに異常事態である。
 キセノンブックとしても納得出来る答えではない。ボルシュグラーブの語る裁量≠ノは、
関係する各位を説得し得る根拠が欠けているように思えるからだ。
 ボルシュグラーブが自分の思い込みに足元を掬われるとも限らない。
 そして、上官の答えが変わらないと判断したキセノンブックは、
「上手く行けば良いのですが……」とだけ述べて自分の席に着いた。
 次に首を傾げたのはマリスだった。ボルシュグラーブに対して向ける眼差しは、
いつの間にか憤懣から怪訝へと変わっている。

「……何故、ボルシュグラーブさんはそのような虚偽の報告を? 職責を放棄してまで、どうして――」
「どうしてって、そりゃあ……」

 直向きな眼差しが照れ臭かったのか、ボルシュグラーブは頬を掻きつつ彼女から顔を逸らした。

「お前やアルを、友人を危険な目には合わせたくないからさ。理由はこれで十分だろう? 
本当のことを報告して、お前たちまで厄介事に巻き込んだら申し訳ないからね」
「ボルシュグラーブさん……」

 ギルガメシュの管轄する施設であれだけのことを仕出かしたにも関わらず、
ボルシュグラーブは友人たちの身を案じて、組織の律を曲げてまで真相を隠匿してくれた。
己の属する組織にとって明確な敵≠も、だ。
 ボルシュグラーブがここまで自分たちの身を案じてくれていると言うのに、
アルフレッドはと言えば、どうやって彼を欺こうかということに腐心していたのだ。
 勿論、マリスもアルフレッドの狙いは分かっている。
そこまでしなくてはならないのが戦いの駆け引きと言うことも理解しているつもりだった。
 しかし、アルフレッドが己の表情を操作し切れなかったように、マリスにも割り切れないものがある。
腹の中で計略を練ってばかりいる『在野の軍師』と、一本気なボルシュグラーブ――
正反対なまでの心の深淵が、傍らに在る彼女に辛く圧し掛かっていた。
 だがしかし、一旦決めた以上、アルフレッドが心変わりすることはないだろう。
数分もすれば動揺から復帰し、再びボルシュグラーブの友情を弄ぶ筈である。

「……心から感謝致しますわ、貴方の友情に……」
「礼には及ばないぜ。それが友人ってモンだろ?」
「そう――ですわね。……それでも、ありがとうございます」
「どう致しまして。……な、何だか照れ臭ェや。こう言うの、慣れてないから顔が火照っちまうよ」

 ボルシュグラーブに対する複雑な思いを押し殺して、
マリスは自分の身の安全に配慮してくれた友人に感謝の表情を見せながら、
ふと先ほどの会話で気になっていたことを口にした。

「ですが、いくら貴方が現場の責任者だとしても、
先程仰ったような、取り繕った報告で他の方々は納得するのでしょうか……」

 あたかもキセノンブックの質問を繰り返すような形となったマリスに対して、
ボルシュグラーブは先程よりは多少トーンを落として返答する。

「納得するんだよ、これが。と言うよりは納得せざるを得ないのかな」
「どういう事でしょう……」
「本隊はもっと大変な事態(こと)になっているからさ。
こちら≠フエンディニオン、あらかた押さえたのは良いけれど、その先をどうするかで揉めているんだよ」

 ボスが咳払いでもってボルシュグラーブに注意を促す。彼は旧友に対して軍事機密を漏らしかけているのだ。
 勿論、ボルシュグラーブもそこまで愚かではない。右手を胸元の位置まで挙げてボスに応じ、
次いで目配せでもって「大丈夫だ」と示して見せた。

「詳しいことは教えられないけれど、エンディニオンをどのように統治していくかでゴタゴタがあってね。
簡単に言うと強硬派と融和派で侃々諤々、会議室は喧々囂々なんだよ。
難民支援プログラムもまとまり切らないし、……アルが言うような市民≠フ蜂起もあちこちで起こるし――
とてもじゃないけれど、拠点のひとつで何かあっても、そっちまで気を回している余裕はないのさ。
精神的にも時間的にもね」

 自分が所属する組織の苦しい内情を話すのは些か躊躇われた様子であったが、
それでもボルシュグラーブは隠す理由もなかろうと、大体のあらましをマリスに伝えた。
 これはギルガメシュと戦う側にとっては有益な情報だ。
一大決戦に勝利して勢いに乗る状況であっても、組織内部の体勢は磐石ではないと知れたのだ。

(この様子なら上手くいく可能性も高い。勝機は残されている――アルちゃんならそう仰いますわね……)

 溜め息を吐くボルシュグラーブから目を背けつつ、
マリスはアルフレッドに伝えるべき情報を内心にて整理している。
 この情報(はなし)を聞けば、おそらくアルフレッドは「してやったり」と拳を握り締めるだろう。
 コールタンが佐志に通じていることも、『在野の軍師』が立案した史上最大の作戦も、
未だギルガメシュの与り知らぬところにあるのだ。それを確認出来たことは大いなる収穫と言えよう。
 それはボルシュグラーブの友情を裏切ることで得られた収穫(もの)だ。
 落ち込みそうになる気持ちを懸命に堪えて、マリスは努めて普通の会話になるように徹した。

「それは随分と大変な話ですわね……」
「おいおい、急に棒読みになったぜ? 全然気の毒がっていないじゃないか。
酷ェなァ――いや、マリスからすればギルガメシュは敵みたいなものだから、
しょうがないと言えばしょうがない……か」

 「敵」の一字を口にしたボルシュグラーブは、不意に自分とマリスとの関係を否定したような気持ちになり、
慌てて「あ、あくまで立場上ってコトだぜ? オレはマリスのことを敵だなんて、
一度も思ったことはないからな。アルだって一緒だ!」と言い繕った。
 ディアナから「あンたがテンパッてどうすンだい」と笑われるほどの慌てようであった。

(みたいなもの≠ナはなく、明確な敵なのですけれど……)

 水晶の如く透き通ったボルシュグラーブの心に比べて、
自分やアルフレッドは照明を落としたように昏(くら)い。
敵≠ノ真意を読み取らせてはならないのだから、闇の色に染まっていくのは当然と言うものだ。
 友情と言う一点に於いて両者の心は近く、それでいて、果てなく高い隔たりがあった。





 仲間たちへ「風に当たってくる」とだけ言い残して別荘の外に出たアルフレッドは、
警備中のギルガメシュ兵――ボルシュグラーブの部下に違いない――や防風林を虚ろな目で眺めながら、
想い出したようにシガレットを喫(す)い始めた。
 白い紙の筒に火を点け、唇から鈍色の吐息を滑らせるまで無意識に行っているのだろう。
肺の容量を上回る紫煙を一気に吸い込んだ挙げ句、身体をくの字に曲げて噎せ返ってしまった。
 喫煙を始めてそれなりの年月を経ており、肺に負担を掛けない量と言うものも弁えている。
アルフレッド自身、紫煙で噎せることは生まれて初めてであった。
 日常的な動作にまで影響が及んでしまうほど動揺が酷いと言うわけだ。
そして、乱れた心を完全に鎮めることは不可能のように思えた。
 フィーナの顔が浮かんでは消えていく。
 笑顔も、泣き顔も、怒った顔も、照れた顔も――想い出に刻まれた恋人の虚像(すがた)が
アルフレッドの視界に現れ、次の瞬間には霞の如く掻き消えるのだ。
 二度と同じ虚像(すがた)が現れることはない。
己にとって生き甲斐でもあった笑顔を想い返そうにも、脳がその願いを撥ね付ける。
記憶を辿ろうとするや否や、それが不可視の蓋にて覆われるのだった。
 間もなく、アルフレッドの視界からは虚像さえもいなくなった。
 後に残されたのは、果てしない絶望だけであった。
 心の支えとも言うべき存在が生命を落としたかも知れないのだ。
そのような情況にあって、平常心など保っていられるわけがない。
 今すぐにでもバブ・エルズポイントへ再突入し、彼女の後≠追いたい。
それが偽らざる本心であり、身の裡を駆け巡る衝動であった。

(――何を考えているんだ、アルフレッド。お前がしなければならないのは、こんなことじゃないだろう!?)

 しかし、史上最大の作戦を考案及び提唱した『在野の軍師』としての立場が、
その闇雲な衝動に歯止めを掛ける。
 ここで私情に流されては、件の作戦内容を支持してくれた連合軍諸将に対して余りにも無責任であり、
争乱の趨勢を委ねてくれたエルンストにも申し開きが出来ないのだ。
 つまりは「責任」である。自他に果たすべき責任がアルフレッドを踏み止まらせていた。
 今なお例えようのない喪失感に苛まれている為、平常心とは程遠い。
しかし、己が置かれた状況を分析出来るだけの思考と判断力は蘇ってきた。
 動揺と冷静が混在すると言う摩訶不思議な精神状態だが、
為すべきことが明瞭に見えたのなら、そこに力を尽くすのみである。
 本人の感情(きもち)に関わらず、進まなくてはならない道を突きつけるもの――
それを人間界では「責任」と呼ぶのだった。
 勿論、心の何処かでは己の異常性に気付いている。
責任だろうが立場だろうが、別の何か≠ノ「アルフレッド・S・ライアン」と言う人格が
食い潰されたようなものなのだ。

「……フィー、俺は……」

 そのような情況に慣れてしまい、痛みを伴う喪失感も、最愛の笑顔をも忘れてしまうことが
アルフレッドには堪らなく恐ろしかった。
 それ以上に恐ろしく思えたのは、フィーナを失ったかも知れないと言う絶望感すら
作戦完遂には不必要な私情≠ナあり、瑣末なことだと割り切ってしまえる自分自身であった。
 滅ぼされた故郷も、クラップの死も――自分がギルガメシュを敵視する理由でさえ、
いつか立場≠ニ責任≠ノ取って代わられるかも知れない。
 あれほど身近に在ったフィーナの笑顔は、最早、想い出せなくなっている。
 それなのに、アルフレッドは涙を流すことが出来ない。
慟哭と言う心の反応とて、責任≠ニ立場≠ヘ許さなかった。

(――嘆くのは後からでも出来る。……今しか出来ないことをやるしかないかよ……)

 ジーンズのポケットにてモバイルが振動し始めたのは、
噎せたときに落としてしまったシガレットを踏み潰し、新しい紙筒に火を点けた直後のことである。
 表情のない顔で引っ張り出してみれば、見たこともないアドレスから電子メールが届いていた。
本文はなく、件名に「今から電話するにょ」とだけ記されている。
 怪しげとしか言いようがない。

「……電話線で首でも吊っていろ」

 心の奥底から一気に噴き出した苛立ちが、アルフレッドに醜い罵り言葉を吐かせる。
 消去するのも面倒とばかりにポケットへモバイルを突っ込んだのだが、
程なくして再び振動が始まった。
 今度は長い。アルフレッドが何らかの操作を行うか、相手が諦めるまで震え続けるだろう。
電子メールではなく電話の着信に間違いない。
 またしても液晶画面には見覚えのない番号が表示されているが、
先程の電子メールから直感するものがあったアルフレッドは、
通話を開始させるボタンを押すと、舌打ちを引き摺りながら右耳にモバイルを宛がった。

「――電話すりゅって書いたのにモバイル仕舞い込みゅにゃんて、一体、どーゆー読解力だにょっ!」

 果たして、受話口の向こうからは予想通りの声が飛び込んできた。
電子メールに於いては、わざわざ文字として再現された舌足らずな喋り方である。

「……見たことのないアドレスや番号から着信があったら無視をするのが普通だ。
さしずめ貴様の思考はチェーンメール以下だな」

 送話口に叩き付けられた声は、「不機嫌」の三字が剥き出しとなっている。
電話の相手に対する不快感など隠すつもりもないと言うわけだ。
 電子メールを送り付け、間髪を容れずに電話を掛けて来たのは、言わずもがなコールタンである。
 通話開始に至るまでのアルフレッドの挙動を全て言い当てた辺り、
どこぞに密偵でも潜ませ、ボルシュグラーブの別荘を見張っていたに違いない。
注視の対象は、あるいはアルフレッドとマリスかも知れなかった。
 こうした周到な手配りが余計にアルフレッドを苛立たせるのだ。

「迷惑メールと一緒にしゃれりゅにょは心外だにょ。あんたしゃんはこっちのメアドとか知らにゃいにょ。
だから、親切に通知してあげたんじゃにゃいの。感謝しゃれてもいいくらいだにょ」
「そもそも、何故、貴様が俺のアドレスを知っている。
こうして着信を受けていること自体、俺は腸が煮えくり返る思いなんだがな」
「ルナゲイトのご老公から買ったに決まってるにょ。あんたしゃんとお仲間の分は全部登録済みだにょ」
「煩い、黙れ!」

 これもまた想定していた通りの回答であり、それ故にアルフレッドは憤激を吐き捨てた。

「……用件は何だ。俺と貴様は仲良く駄弁るような関係でもない筈だが?」
「ほっほう? わたきゅしたち、前置きもにゃく用件だけで通じ合うくらい親しくにゃったのかにゃ?」
「親しかろうが、そうでなかろうが、用件だけで済ませて良いと思うがな。
ビジネスライクとは、そう言うものだ」
「やれやれ、二四時間、にゃにかにキレてないと済まにゃい人だにょ〜。
血管千切れてポックリ逝く前に小魚食うにょ、小魚ァ」
「切るぞ」

 コールタンの発する一字一句がアルフレッドには癪に障るのだ。

「あんたしゃんもとんだヘマをしてくれたもにょだにょ。
ありぇだけ勇ましく出陣しといて、ましゃか置き去りにしゃれるにゃんてにょ〜」
「何とでも言え。あんなアクシデント、誰が予測出来るものかよ」
「お陰でうちのバルムンクは良い迷惑だにゃあ。他人の骨を拾うにょに労力使うにゃんて、
これこしょまさしく無駄骨にょ」
「……無駄骨?」
「ニルヴァーナ・スクリプトでバラバラに吹っ飛んだ連中のことに決まってりゅにょ。
友達思いは感心しゅりゅけれにょ、限度ってもにょがあるじゃないにょ。
死体拾い≠ノゃんてしてにゃいで、カノジョのひとりでも口説いたほうが有意義だにょ」

 本気で通話を終えようとした瞬間、その言葉がアルフレッドの鼓膜を叩いた。
 鼓膜を伝って身の裡まで浸透した衝撃は、またしても彼の心を叩きのめした。

「貴様ッ!」

 受話口に向かうアルフレッドの声が冷たい殺気を帯びる。
 不自然としか言いようがない時機(タイミング)ではないか。
 ニルヴァーナ・スクリプトを使用した人々が生死不明であると判明したのは、ほんの数分前である。
別荘内に盗聴器でも仕掛けていなければ、先程までの会話を引き継ぐような真似は出来ない筈だ。

「とみょきゃく、『トリスアギオン』の阻止には別のプランで行くことにしたにょ。
あんたしゃんはとっととこちら側≠フ戦列に戻るにょ。
……他の面々はともかく、あんたしゃんが生き残ったのは不幸中の幸いかも知れにゃいにゃあ」
「生き残り≠ニは、どう言う意味だ!? 貴様は一体ッ!?」
「言葉通りの意味だにょ。……ああ〜、あんたしゃんみたく利発なコは、
こ〜ゆ〜場合、現実逃避に走ることが多いにょにゃ〜」
「黙れ……」
「信じたくにゃいのは分かるけど、すにゃおに認めるのがあんたしゃんの為にょ。
あんたしゃんのお仲間は絶望的と考えたほうがいいにょ」

 コールタンが発した宣告は、その舌足らずな喋り方とは裏腹にあくまでも冷厳であった。
 それでいて、語り口は厭らしいほど軽妙だ。何の躊躇いもなく希望の芽を摘み取ってしまったのだが、
遺された側に対する憐れみなど微塵も含んではいない。
 未だに希望を持っていたことを嘲笑っているようにさえ聞こえた。

「バルムンクも気の毒で話しぇにゃかったんだろうけれにょ、
転送装置の部屋には千切れた腕も転がっていたしょうだにょ。
動かぬ証拠≠チてヤツだにゃ。あんたしゃん、そのテの話が好物じゃにゃいかにゃ?」

 そこから先の言葉はアルフレッドの耳には入っていない。
 より正確に情況を表すならば――鼓膜では受け止めていても、思考の段階までは行き着かないのだ。
「仲間たちは絶望的と考えたほうがいい」とするコールタンの宣告を、脳が拒んでいるとしか思えなかった。
 最早、最愛の人はこの世にはいないと言うのだ。そのような事態は絶対に有り得ない。有ってはならない。
コールタンの話は虚言(まやかし)以外の何物でもなく、断じて認めてはいけないのだ――と。

 「あんたしゃんは誰よりも強く、賢いにょ。ここを乗り越えればもっと伸びるコだにょ。
エルンスト・ドルジ・パラッシュだって、しょれを望んでりゅんだにょ――」

 何の慰めにもならない言葉を掛けられたが、
アルフレッドは返事をすることもなくモバイルの主電源を切った。

「……フィー……」

 苦悶の声で呻いた後は、右の掌中に在るモバイルを呆然と見つめるのみである。
 左の人差し指と中指で挟んでいたシガレットは、いつの間にか打放しコンクリートの路面に落ちていた。
 紙筒の先端に点っていた火は、今や明滅することもなくなり、
糸のように細い煙を余韻として吐き出すばかりであった。それも直(じき)に途絶えるだろう。
 一縷の希望すら断ち切られた現在(いま)の情況を暗喩しているように思えてならず、
アルフレッドは反射的にシガレットを踏み潰した。
 絶望を反復させるものなど視界に入れたくはない。

「――ちょいと会わない間に悪い顔になったもンだねぇ。うちの大将、あンたの掌の上で転がされてるよ」

 モバイルをポケットに仕舞い、その後は壁に凭れ掛かっていたアルフレッドの横顔へ
冷やかすような声が掛けられた。
 機械的に首を向けると、ディアナとボスが近付いてくるではないか。
ふたりして旧交を温めたいらしい――が、アルフレッドの面を見て取るなり、
血相を変えて駆け寄ってきた。

「食中りかい? 痛んだもンは使わなかったハズだけど……」
「そうじゃないだろう、先程の話で心労が――ともかく、何か薬を貰ってこよう。
食中りでなくても胃には堪えるだろうし……」
「……いきなり病人扱いか? 腹を下してはいないのだが……」
「いきなりも何も、あンた、顔面真っ青だよっ!?」
「……それは確かに悪い顔だな」

 「キミに冗談は似合わんぞ」と呆れ顔を見せるボスだが、右の掌はアルフレッドの背に添えている。
彼の体重を支えて、少しでも負担を和らげようと言うわけだ。
 誰かに指摘されるまでもなく、己の顔から――否、全身から生気が抜け落ちていることを
アルフレッドも自覚していた。それどころか、己が現世に留まっていることさえも今は信じられない。

「心配して貰って申し訳ないが、大丈夫だよ。どうも疲れが抜けていないようだ」

 その場しのぎの言い訳であることはディアナにもボスにも見抜かれているだろう。
全身の震えも抑え切れずにいるのだから、ふたりの目には無様な強がりのように映った筈だ。
 それにも関わらず、アルフレッドが無理に取り繕わなかったのは、
あるいは張り詰めていた気魄が懐かしい友情によって緩んだ所為かも知れない。
 ディアナとボスはエトランジェの一員であり、現在はボルシュグラーブの指揮下にある。
本音を探る為に放たれた間諜(スパイ)ではないかと警戒することもなく、
アルフレッドはふたりを受け入れていた。
 どのような苦悶であっても、誰かに話して共有出来れば気晴らしにはなる。
解決の糸口は掴めずとも、塞ぎ込んで思考を停止させるよりは遥かによかろう。
 もしくは、大切な存在を失ってしまったことを再確認し、今度こそ嗚咽を漏らし兼ねない。
 幾ら相手が親しい友人であっても、そこまでさらけ出すことは出来ない。
アルフレッドは懸命に心身を奮い立たせ、
ふたりを誤魔化し切る話題を――見抜かれていると悟りながらも――捻り出した。

「そう言えば、ディアナ――俺もジャスティンと会ったよ。なかなか利発な子じゃないか」
「おンや? どっかで聞き覚えのある名前だねェ?」
「お前の息子のジャスティンだよ。偶然と言うか何と言うか、妙な縁があってな。
つい最近まで一緒に行動していたんだ」
「へぇー、あンたと? あの子も面白い思考回路(アタマ)してるからねぇ、
あンたとは話が弾むか、同属嫌悪かの二択じゃあないかい?」
「さあ、どちらだろうな。嫌われてはいないと思うが、正直、俺にも分からない。
……と言うか、親睦を深める前にニルヴァーナ・スクリプトを使って異世界へ――」

 ディアナの愛息について切り出せば、場の空気まで含めて一変させられる。
そう踏んで「ジャスティン」と口にしたのだが、アルフレッドは即座に己の迂闊を呪った。
 起動段階のニルヴァーナ・スクリプトが不測の災難(アクシデント)に見舞われ、
その際に発生したエラーは転送を行おうとしていた者たちを著しく危険に晒したのだ。
 そして、生命を脅かされた者たちの安否は現在までも確認されていない。
コールタンの話を信じるならば、生存の確率は限りなく低かろう。
 ニルヴァーナ・スクリプトの災難(アクシデント)が生命の危険に関わるものであることは、
食事(ブランチ)の席でディアナも聞いている。
 決死隊の一員として転送装置に乗り込み、異なるエンディニオンへ渡ろうとしたジャスティンの母親が、だ。
 ボルシュグラーブの部下でもある彼女は、
食事(ブランチ)より以前から転送エラーの危険性を把握していた筈である。
 その危険の渦中へとディアナの愛息は飛び込んでいったのだ。
不用意に「ジャスティン」の名前を出すと言うことは、
いたずらに彼女の不安を煽り、追い詰めてしまったようなものなのだ。

「……ラ、ライアン君……それは本当なのかね……」
「あ、ああ……」

 案の定、ボスは満面を引き攣らせている。当然ながらアルフレッドも同様だ。
 油が切れたブリキ人形の如く首を無理矢理に動かし、ディアナを振り返るふたりであったが、
当人はあっけらかんとしたものだ。息子の成長を噛み締めるように首を頷かせている。
 それが母の顔と言うものなのだろう。

「フィーたちのことが気掛かりだったンだけど、うちの子が一緒なら大丈夫だね。
なンにも心配する必要がないよ」

 悲しみに耐えて気丈に振る舞っているわけではなく、本当に愛息のことを心配していない様子だ。
 ともすれば、現実逃避して親の責任を投げ出したようにも見えてしまうのだが、
ディアナの場合はジャスティンに寄せる全幅の信頼が根源(ねっこ)であった。
 アルフレッドもボスも、ジャスティンが年齢不相応なほど冷静沈着であり、
頭抜けて賢いと言うことを解っている。何しろ十を過ぎたばかりの若輩にも関わらず、
アルバトロス・カンパニーの事務所を手伝うくらいだ。
 仕事柄、ディアナが社員寮(すまい)を離れることも多い為、同世代の少年と比べて精神的にも自立していた。
 ジャスティンのことを利発だと認める材料を並べるほど、彼の頼もしさが再確認出来るわけだ。
そんな我が子をディアナは世界中の誰よりも誇らしく思い、
「あの子なら、きっと上手くやってくれるよ。ハラを痛めた産みの親が保証する」と胸を張って見せた。

「大体ねェ、あンたらがアホみたいにビビリでヘタレなンだよ。
セスと一緒で気が小さいったらありゃしない。たかが転送装置で何を騒いでンだい! 
あたしらがこっち≠ノ飛ばされたときのことを振り返ってごらンよ? 
どれもこれも異常事態だったンじゃないか?」
「しかしなぁ、ディアナ。我々が遭遇した神隠し≠ニは状況が違い過ぎるだろう? 
おそらくメカニズムだって一致しないハズだ。今度の転送装置と一緒とは考えないほうがいい」
「あンたのそーゆートコが悪い運気を呼び寄せンだよ! 眩しいのはツルッと剥けたアタマだけかい!」
「ひ、人の頭をゆで卵のように言わんでくれ!」
「あたしらは無事に別のエンディニオンに辿り着けた。
座標だか何だかがズレて海に落ちたって話、あたしゃ聞いた憶えがないンだよ!」

 一切の希望的観測を持たず、努めて冷静に現実と向き合うほど、
際限なく悲観的な思料へ進んでしまうボスの禿頭をディアナは平手で弾いた。

「世界をブッ飛ぶって意味じゃ、まるっきり一緒さ。エラーが起ころうがアクシデントが起ころうが、
そこで悶えてるハゲが言うようにメカニズムが違っていようがね! 
それでもトラブッたときは、うちの子が必ず解決策を見つけてくれンのさ!」
「そのハゲは地に足着けて現状を確かめようと……いや、野暮は言わないでおこう。
ディアナの言うようなことにも一理あると思うしな。確かにそんな被害は聞いたことがないよ」
「だろ? 果報はなンとやらってね。どっしり構えて連絡待ってりゃいいンだよ。
……ギルガメシュの一員が言うのもヘンな話なンだけどさ」
「違いない」
「どうでもいいが、ライアン君までハゲを推すのは止めてくれっ。
ただでさえ貴重な髪の毛が一層抜けてしまう!」
「……抜け落ちるような毛の一本もないように見受けられるんだが……」
「産毛まで否定しないでッ!」

 科学的な根拠など皆無に等しいディアナの論であるが、妙に納得出来てしまうから不思議だ。
事実、彼女と言葉を交わす間にアルフレッドは少しだけ落ち着きを取り戻していた。
 ディアナが「大丈夫」と言い切っているのだ。敢えて不安にさせるようなことを吹き込む理由はあるまい。
寧ろ、彼女の前向きな姿勢を見習わなくてはならないとアルフレッドは己に言い聞かせた。
 だからこそ、アルフレッドはディアナに明るい話題を提供したかった。
彼女やボスとの友情に少しでも応えたかったのである。

「シェインを憶えているか? 俺と同郷で、空色の髪をした……」
「忘れるもンか! あの子は将来が楽しみだよ! きっとビッグになる器さァ!」
「そのシェインがジャスティンと随分仲良くなってな。
もうひとりのチビッ子と揃って、すっかりトリオのようになっていたよ」
「おや、本当かい!? いずれ紹介してやりたいと思ってたンだけど、どーやら手間が省けたみたいだ! 
……いやー、そうかい、そうかい――ジャスティンも人を見る目があったンだねぇ〜」
「そんなにシェインを気に入っていたとは意外だな。兄貴分としては少しこそばゆいくらいだよ」
「うちの子はちょいと引っ込み思案なトコがあるからね。おまけに、なンでも理屈で片付けたがる。
シェインみたいに元気いっぱいでブッ千切れる友達も大事なンだよ」
「それなら、トリオのもうひとりにも期待してやってくれ。
ジェイソン・ビスケットランチと言うチビッ子だが、シェインに負けず劣らずやかましい。
上手いことジャスティンを引っ張ってくれると思うよ」
「結構結構! 次に会うときゃ、程よく日焼けしてそうだねぇ!」

 シェインとジャスティンが友達になったと聞いた途端、ディアナは両手を打ち鳴らして喜んだ。
 熱砂を舞台として勃発した両帝会戦の折に佐志軍とエトランジェは正面から激突し、
ディアナはレイチェルと――世界と言う隔たりを超えて親しくなった相手と
血まみれの殺し合いを繰り広げていた。
 互いの思いを胸に秘めて、それでも殺し合わなくてはならない状況に陥ったのである。
 しかし、それこそが大いなる誤りと断じて両者の間に割って入り、
何も生み出さないような悲しい戦いを食い止めたのが、他ならぬシェイン・テッド・ダウィットジアクなのだ。
 シェインが誤りを指摘してくれたからこそ、ディアナは親友を手に掛けずに済んだ。
 その乱入をひとつのきっかけとしてエトランジェは佐志軍と和解し、
いつか友≠ニして再会しようと約束を交わせたのである。
 ディアナからして見れば、シェインは歳の離れた大恩人と言うことになる。
そのような相手と自分の息子が親しく交わることは、母親として何よりの喜びと言うわけだ。

「ジャスティンが息災なのは大変喜ばしいことだ。
……ライアン君、ラスも同じように元気にしているのかな?」
「現在(いま)は大冒険の最中だろうが、少なくともバブ・エルズポイントへ乗り込むまでは問題なかった。
ガールフレンドとも絶好調だったし、……親友として俺のことを支えてくれたよ」
「そうか――うむ、……それは良かったよ!」

 程なくしてアルフレッドは、アルバトロス・カンパニー社員の動向について詳らかにしていった。
ディアナとボスが知り得ない面々のことを、だ。幾人かが争乱の最中にて離脱した為、
社長ですら現状を把握していない人間も多かった。
 勿論、史上最大の作戦などギルガメシュ側に気取られては不都合な部分は伏せている。
 ギルガメシュに与すると言う決断に反発し、
アルバトロス・カンパニーを離脱したダイナソーとアイルの近況は特にボスの関心を引いた。
 飛び出していったときには何が出来るものかと心配でならなかったのだが、
ふたつのエンディニオンを戦争以外の手段で繋げると言う大望に向けて、
二人三脚で具体的に行動しているとアルフレッドから聞かされたときには、
これ以上ないほどの笑顔を見せたものだ。
 それも、自分に都合の悪い事柄を口八丁で逃げてきたダイナソーが、だ。
自ら困難な道へ臨む姿など想像も出来なかった青年である。
 無論、彼を一途に支えるアイルも忘れてはいない。アルバトロス・カンパニーを率いる社長として、
ダイナソーとアイルの活動は一番の誇りなのだろう。
 尤も、アルバトロス・カンパニーが商売敵である『サンダーアーム運輸』と
業務提携した旨を知らされたときには、「社長の知らないところで、そんな勝手な話をッ!」と
全力で歯軋りしていたが、これは余談。
 更にそこへ蛇足を付け加えるならば、「奥さンの裁量だろ? 社長不在で会社切り盛りしてンだから、
手を組ンだって仕方ないさ。どこかの甲斐性ナシの所為で、ウチは慢性的な人手不足なンだからね!」と
ディアナから理詰めで打ちのめされ、ボスは社長たる威厳まで吹き飛んでいた。

「今度は俺のほうから質問してもいいか?」
「トキハは何処にいるのかって訊きたいンだろう? お生憎様、ここにはいないンだよ。
て言うか、アイツはエトランジェからも一足先に卒業してンのさ」
「足を洗ったのか? ……それともまさか、テロ組織に異動があるなんて言わないだろうな?」
「そのまさかだよ。本隊付きの軍師サマとやらにえらく気に入られたみたいでね。
私設の副官に就任して、もっぱらデスクワークに励ンでいるのさ。『鉄巨人』の内部(なか)でね。
聞くところによると、アゾットとは殆ど師弟関係みたいだそうだよ」
「……これでまたギルガメシュは手強くなる……」
「あんたこそ意外だね。トキハのこと、そんなに買ってたンかい?」
「だったら、俺も同じようなことをお返ししよう。あいつは他の誰よりも見どころがある。
作戦家としての伸び代は末恐ろしいと思うぞ」

 ディアナから指摘されるまでもなく、トキハの頭脳にはアルフレッドも一目置いていた。
 彼が智謀を披露する機会には幾度か遭遇しており、
両帝会戦ではエトランジェに軍略を授けて佐志軍本隊を苦しめたとも伝え聞いている。
 それはアルフレッドがニコラスと一騎打ちを展開する最中のことである。
両者は激戦区を離れて対決した為、佐志とエトランジェ、本隊同士の合戦にはそれほど詳しくない。
 故に合戦へ加わった者からの伝聞が判断材料となるわけだが、
誰を狙うことが効果的であり、戦局に如何なる影響を及ぼすのか、トキハは冷徹に見極めていったと言う。
 こうした機転と応用力は、まさしく非凡な才能と言うべきものであろう。
 同時にアルフレッドはギルガメシュの軍師――アゾットの存在を何よりも警戒している。
 今までに戦場で相見えたことはない筈だが、テムグ・テングリ本拠地の無血開城に至る経緯など、
アゾットの采配と思しき戦略には、アルフレッドは嫉妬にも近い感情を抱いているわけだ。
 ただでさえ脅威と感じているふたつの頭脳が、余人には切り離せないほど深く結び付いたわけである。

(酔っ払った拍子の不祥事で解任でもされたら助かるんだが、
……あいつの頭は酔えば酔うほど冴え渡るんだったな。これは本当に厄介そうだ――)

 何処かの合戦場にて対陣するよりも前にアゾットとトキハの師弟関係を把握出来たことは、
今後の戦略を練る上での大きな財産となるだろう。知恵比べ≠ノ於いて劣勢であることは否めないが、
迫る脅威とその正体を逸早く確かめられたなら、対策も迅速に立てられるわけだ。

「……ところで、マリスの具合は――」
「……マリス? マリスがどうかしたのか?」
「――あぁ、うン……なンでもないンだ……」

 ふとマリスの名前を出したディアナは、アルフレッドが真意を測ろうとした途端に曖昧に笑い、
「何だか元気なさそうだったもンでね、心配になっちまっただけさ」と誤魔化した。
 しかし、ディアナにはマリスの体調を訊ねるつもりなどはなかった。
体調とは別のことを質そうとして、結局、口に出すのを憚った次第である。

「……アレは見間違いじゃないと思うンだけどねぇ……」
「は? 何なんだ、一体?」
「なーンでもないよ! 独り言にまでツッコミ入れンでくれないかい」

 アルフレッドとボルシュグラーブの板挟みとなり、
神経を擦り減らしていたマリスを案じるディアナは――否、彼女だけは気が付いてしまったのだ。
 ニルヴァーナ・スクリプトの誤作動によって仲間たちの安否が分からなくなったと告げられたとき、
確かにマリスは口元を歪めていた。悲壮ではなく笑気を浮かべていた。
 醜悪とも言うべきその様をアルフレッドに見せまいとして、俯き加減となったのだろう。
 仲間たちの生命の危機に際して何を喜ぶ理由があったのか、ディアナには分からない。
寧ろ分かりたくもない――が、あの瞬間にマリスが纏わせていた危うい気配だけは、
どうしても忘れ去ることが出来なかった。

「……さて、ぼちぼち中に戻ろうかね。うちの大将は世界で一番のウブだから、
可愛い女の子と同じ空間にふたりきりでいたら、鼻血噴いて死ンじまうよ」
「ごく自然にセス君を忘れるのはやめてあげなさい。彼、ただでさえ傷付き易いんだから……」
「お小言は中で聞いてやンよ。ささっ、帰ろう帰ろう――」

 アルフレッドとボスにダイニング・ルームへ戻るよう促し、
自ら率先して歩き始めたディアナの表情(かお)には、穏やかならざる色が混ざっていた。




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