6.すれ違う両軍師


「はい――はい、了解しました――ええ、今すぐにそちらに向かいます」

 緊急連絡を報せる警報(アラート)に応じてモバイルを操作し、通話を開始させたボルシュグラーブは、
電話の向こう側に在る相手と二つ三つ言葉を交わしながら、
アルフレッドとマリスに顔を向け、これ以上ないと言うくらい申し訳なさそうな表情を浮かべた。
 果たして、通話を終えた後に表情が曇った理由は判明する。

「……本隊から緊急の連絡があったよ。今からルナゲイトへ――ブクブ・カキシュに戻らなきゃならない。
本当にすまないんだけど、暫く此処には戻ってこられそうもないよ」
「残念ながら同窓会はお開きみたいだな。俺たちも支度しなけりゃならねぇらしい」

 デジタルウィンドゥに映し出されたトルーポも、今まさに通話を終えたところであった。
どうやら主要な幹部たちへ一斉に召集が掛かったようだ。

「立ち入ったことを訊くつもりはないが、何か良からぬことでも起きたのか?」
「それは機密……と言いたいところだけど、大したことでもないしなあ。
大方、統治に関しての最終的な結論を決める会議だと思う」
「だろうな。いい加減、何かしらの決定をして貰わんと、難民たちだって不安がるだろうぜ。
ワーズワースの一件があったばかりだしな」

 トルーポの言葉にボルシュグラーブは神妙に頷き返す。

「分かっているよ。やる事は山積みなわけだし、いつまでもグダグダ出来ないな――」
「そちには期待などしておらぬわ。」
「こいつめ、言ってくれるよ。……シチュエーションルームで顔を合わせることになるだろうけど、
そのときはちゃんと階級(たちば)を弁えてくれよ、ゼラール。
オレはともかく、そーゆーのにやたら煩ェオバさんがいるからさ」
「ギルガメシュの者どもは誰も彼も小さいのぉ。とりわけ、あの女性(にょしょう)は器が小さい。
余に言わせれば存在自体が莫迦げておるわ。
余の指揮下であったなら、真っ先に便所掃除に回しておったところぞ」
「とにかく頼んだからな。トルーポ、お前も目を光らせておいてくれ」
「閣下を見張れって言うのか? そんな不敬を俺に押し付けるくらいなら、
お前さんのほうで例の軍師気取りを引き締めな」
「軍師気取りのオバさんのことだけじゃなくて……頼むぜ、マジで!」
「フェハハハ――次に会ったときには余が貴様に酒でも振る舞ってくれよう。
今後は無粋な邪魔など入れさせぬ。アルフレッド・S・ライアン、それからその取り巻きよ、
貴様らはせいぜい妄想の中で余の酒を受けるが良いぞ」
「煩い、黙れ」

 ゼラールの高笑いを最後に中空を浮揚していたデジタルウィンドゥも消失(クローズ)され、
ダイニングルームには喧騒の後の寂しさが舞い降りた。
 今もまだ混乱から抜け切れていないマリスは、誰に乞われるでもなく茶会の後片付けを始め、
キッチンへと食器を運びながら、「わたくしたちの世界は、わたくしたちの世界ではない?」と、
頻りに呟いている。
 ふたつのエンディニオンは、元はひとつだったのではないか――ゼラールの立てた仮説は余りにも衝撃が強く、
これに中てられたマリスは、熱に浮かされたような状態に陥っているらしい。
 そんな彼女の背中を物も言わずに見送っていたアルフレッドは、
ボルシュグラーブから顔を背けたまま、「……丁度良い潮(しお)だ」と切り出した。

「俺たちもそろそろお暇しようと思う」
「えぇッ!? な、なんでだよっ!」

 ボルシュグラーブにとっては思い掛けない宣言であったようだが、
アルフレッドからして見れば、これは至極常識的な判断だ。
 家主が邸を空ける以上、いつまでも留まってはいられないと考えたのである。

「暫くは滞在してくれて構わないと言ったじゃないか。そんなに気を遣うなよ〜」
「気持ちだけ貰っておく。外部の人間をずっと泊めていることが知られたら、お前も色々と不都合だろう」
「それはそうかも知れないけど――あ! お前はセスたちとも親しいんだろう? 
エトランジェだけバブ・エルズポイントに残していくから、オレが帰ってくるまで彼らに面倒を……」
「そこまで気を遣われると、逆に居辛くなるんだよ。『オレが帰ってくるまで』と言うが、
何時になるか、分からないだろう? 何しろ、今度の方針を決める話し合いらしいからな。
お前はお前のやるべきことに専念してくれ」
「そうか……うん、分かったよ。名残惜しいが、そこまで言われたら引き止められないよな」

 折角、再会することが出来た旧友との再びの別離を残念がりながらも、
ボルシュグラーブはアルフレッドの気持ちを酌み、別荘を辞すと言う意向をも承諾した。
 そのボルシュグラーブは、水音が聞こえてくるキッチンを名残惜しそうに見つめている。
 そして、旧友の様子を目端に捉えたアルフレッドは、思い付いたようにひとつの提案を持ち掛けた。

「ここで再会出来たのも何かの縁だ。折角だからメールアドレスでも交換しておかないか? 
今後、ますます予断を許さない逼迫した状況になると思う。
そうした事態に備えて、お互いにとって有益になる情報交換を――と思うのだが、どうだろうか?」
「そりゃ良い考えだな! もしかしたら、アルに助言を頼むかもしれないし! 
そうしよう、そうしよう! こまめに連絡を取り合おうぜ! 勿論、駄弁りメールも楽しいし!」
「……ついでにマリスのアドレスも教えておくか?」
「えぇッ!? あ、いや……友達と繋がりを保てるのは嬉しいけど、
そ、そーゆーのは本人の了解ナシでやるもんじゃないだろうし、ええっと……」
「分かった、やめておこう」
「――お願いしますッ!」
「……マリスには俺から事後承諾を取り付けておくよ。そのときにお前のアドレスも伝える」
「おっ、おおお、おうッ!」

 メールアドレスを交換しようと言う誘いにすぐさま賛成し、
続くマリスへの取次ぎの提案に全身を強張らせるボルシュグラーブを、
アルフレッドは微笑みながら見守っていた。
 満面に貼り付けられたのは、言わずもがな心の底からこみ上げてきた感情ではなく、
本人でさえ作り笑いと自覚出来るような紛い物である。
 今は亡きクラップとのメールのやり取りですら面倒臭がり、ろくに返信もしていなかったアルフレッドが、
自分からこのようなことを言い出したのは、当然ながら友情の為などではない。
 怪しい影が差し込んだ薄ら笑いには気付かず、ボルシュグラーブは自身のアドレスデータを
アルフレッドのモバイル宛に送った。

「向こう≠ノ飛んだお前の仲間のこと、ツテのある通信社にちょっと探らせてみるからさ。
手掛かりのひとつでも見つかったら、必ず連絡するよ」
「おい、それにはもう構うなと言わなかったか」
「オレたちの間で遠慮はナシとも言ったハズだぜ? メルアド交換なんだから活用しなくちゃ!」
「それはそうかも知れないが……」

 アルフレッドもまた新たに登録されたメールアドレスへと自身のデータを送り返す。

「いやぁ、何だかんだ言って嬉しいな。アカデミーを出た後、もうオレたちの縁は切れちまったんだって、
勝手に思い込んでたからさぁ。掛け値なしに嬉しいよ」

 メールアドレスと共に送られてきた電話番号を登録していくボルシュグラーブは、
とても緊急の呼び出しを受けた軍人とは思えないほどに頬を緩めている。
 幾ら嬉しいからと言っても、その様は気が緩み切っているようにしか見えなかった。

「……友人としてひとつ、お前に先人からの言葉を送ろう。
曰く、『改革、革新、進歩は血と鉄によって成される』。……まあ、つまりはそういうことだな」
「……やっぱりアルもそう思うか?」

 何よりも嬉しい友人≠ゥらの言葉だが、その内容は軍人としての厳しさを問われるものであり、
浮かれていたボルシュグラーブも流石に表情を引き締め、反芻でもするかのように幾度も頷いて見せた。

「今の状況が奇麗事だけで解決出来るわけがない。肯定したいわけではないが、
目的を果たす為に多少の犠牲を伴うのも無理はないことだろう。
斯く言う俺だって、その覚悟でバブ・エルズポイントに攻め込んだのだからな」
「やっぱりそういう結論になる……かもなあ。人心を掌握する為には強権的な手段……か」

 アルフレッドは斯くのように目的達成の為には武力行使も必要だとボルシュグラーブに示唆した。
 助言を受けたボルシュグラーブとて、その点に関しては理解している。
強行的な措置を取らねば、未だに情勢が定まっていないエンディニオンをまとめることは難しいのだ。
 そうした地均しを果たさない限りは難民保護の具体化も苦しいと、痛いくらいに解っている。

「オレたちは反抗勢力を蹴散らした。こちら側≠フ覇権を取ったも同然。
だから、それに相応しい力を揮(ふる)う――それが有効だってことはオレも分かっているし、
会議の趨勢もそっちに傾いているんだけど、……でも、うん……」
「融和策を推したいと言うお前の気持ちも、その根拠(でどころ)も俺は受け止めているよ。
俺だけじゃない。マリスだってちゃんと解っている」
「アル……」
「しかしな、今のお前の、いや、ギルガメシュの目的はエンディニオンの平定なのだろう? 
血を流さないに越したことはないだろうが、それにだけ腐心していてもどうにもならない筈だ。
目的と手段は明確に分けないとお前自身が傷付くぞ」
「ああ、そうだな。オレたちの目的はこの世界に平和をもたらすんだ。過程でなく結果で、な」

 強攻策を掲げる人間が上層部に多い中、別の道を模索してきたボルシュグラーブではあったが、
アルフレッドのこの言葉で背中を押して貰い、踏ん切りがついたような表情である。

「ありがとう、アル。何となくだけど、迷いが吹っ切れたような気がするよ」
「そうか、差し出がましいことを言ったような気もしていたんだが、少しは役に立てたみたいだな」
「勿論さ! お前の励ましほど頼もしいものはないよッ!」

 満足げな表情でボルシュグラーブは手を差し出し、その手をアルフレッドはがっちりと握り返した。
 ふたりの間にはこれ以上の言葉が交わされる事はなかったが、果たしてそれが必要だろうか。
いや、そんなものは必要ない。ただ、これだけで十分なのだ――
茶話会の片付けを終えてキッチンから戻ってきたマリスは、ふたりの姿に友情の復活を確信していた。
 一時はアルフレッドがボルシュグラーブの心に付け込んでいるようにも見えたのだが、
今し方の言葉は確かな激励である。友と認めた相手を鼓舞していたのだ。

(アルちゃんとボルシュグラーブさん――時を越えてもなおも普遍なおふたりの友情。
この日この時のためにおふたりは出会ったのでしょう。天の采配と言わずして何と申しましょう。
この場に立ち会えたことを、わたくしは何に感謝致しましょう……!)

 嘗ての友人同士が心身ともに手を取り合う光景を、マリスは眩しそうに目を細め、嬉しそうに見つめていた。
 即ち、彼女もアルフレッドの面に差し込む影≠見落としてしまったと言うわけだ。

(……ボルシュ、人を疑わないと言うその姿勢は結構だが、それではいずれ痛い目に遭うぞ……)

 アルフレッドとボルシュグラーブの心が通じ合っていたように見えたのは、あくまで表面上のこと。
 ボルシュグラーブはともかく、片一方のアルフレッドの心の中は決して穏やかなものではなかった。
それどころか、彼の心の奥底にて滾るのは、ギルガメシュに対する憎悪だけである。
 親友を殺し、妹を誘拐し、故郷を焼き討ちにした怨敵を根絶やしにせんとする復讐の衝動である。
 互いのメールアドレスを交換したのも、単なる情報伝達を行なう為のものではない。
今回の一件もそうであるが、他人の忠告に耳を傾けやすいボルシュグラーブに対して、
旧友の助言≠ニ言う形で入れ知恵を行い、間接的にギルガメシュの行動へ
自分の意志を介在させようという狙いがある。
 また、その前提としてギルガメシュの内部情報を――機密までは望むべくも無いが――ボルシュグラーブから
入手出来るだろうという目論見も含まれていた。
 良く言えば純粋な、悪く言えば思慮の足りないボルシュグラーブの性格を逆手に取って、
アルフレッドは一芝居打ったわけである。
 そして、友情を決して疑わないボルシュグラーブは、まんまとその罠に嵌ったのだった。

(お前は良い友人だよ。尤も、その前に『都合が』と付くのだがな)

 アルフレッドの内面にて燃え盛る怨恨の炎は、あたかも大地の下を廻るマグマの如きものであった。
凄まじいエネルギーであっても、それを見ることがなければ感知出来ない。
 それと同様に、アルフレッドが密かに秘めていた怒りの凄まじさを、
ボルシュグラーブもマリスも窺い知ることは出来なかった。

(自分の迂闊を呪え、ギルガメシュに与した失敗を恨め、ボルシュグラーブ・ナイガード……)

 身の裡を流れるマグマは、今にも本人を焼き尽くすのではないかと錯覚するほどに燃え滾っている。
それはつまり、グリーニャを滅ぼされた直後とは別の形で、アルフレッドの心が蝕まれつつあると言うことだ。
 復讐心の過熱を止められる筈の最愛の存在でさえ、今は彼の傍には居られない。
 アルフレッドを止める者は、今、どこを捜しても見つからない。


 友情を確かめ合った後、一旦席を外したボルシュグラーブが再びアルフレッドたちの前に姿を現したとき、
先程までの力の抜けた装いから一変し、カーキ色の軍服をかっちりと着込んでいた。
 彼のトレードマークと言っても良い特徴的な髪形――同僚から箒のようだと茶化されるものだ――だけは、
変わることなくそのままである。
 最高幹部ともなれば、如何なる髪型であっても軍服さえ纏っていれば咎められることはないのか、
そもそも、風紀を取り締まる規律などはないのかと、
愚にもつかないことをアルフレッドがぼんやりと考えていると――

「そうだ、最後にひとつ聞いておきたい事があったんだ。……なあ、アル、お前の今の夢は何だ?」

 ――と、ボルシュグラーブが唐突に語りかけてきた。
 如何なる意図があってこのような質問をするのだろうか、
全くそんな事を予想していなかったアルフレッドは、怪訝そうな顔付きで旧友に視線を送った。

「何だよ、そんな顔してさ。アカデミー時代にアルがオレに言った事をそのまま返しただけなんだけどなあ」
「そんな事を言ったか? 言ったような気はしなくもないが……しかし、憶えがないな」

 首を傾げながら、アルフレッドは昔のことを振り返っていく。
 ボルシュグラーブはそんな彼を奇異な物でも見るような目を向けていた。

「あ、あれ? マジで憶えていないのか? ……うーん、やっぱりこういうことって、
言われた方は憶えていても、言った方は記憶に残らないものなんだなあ」

 ボルシュグラーブ本人は大切な想い出として胸に仕舞っていたらしく、
発言した側が全く記憶していなかったことを知って、残念そうに肩を落としている。

「あの当時のオレのことは憶えてるだろう? お、憶えてるよな?」
「ああ、……そこまで薄情じゃない」
「アカデミーの中でもオレは所謂劣等生ってヤツでさ〜、特に頭を使う事は苦手だったっけ」
「そうだったな。兵棋演習の総当たり戦なんか、毎回のように下位にへばり付いていたな」
「それそれ、あの日もアルにコテンパンにのされて、ゼラールにもボコボコにされたんだよなあ。
なんかもう嫌になって屋上でへこんでいたっけ。そうしていたら、アルが突然やって来てさ、
今の一言をぶつけてくれたんだよ」
「――かも、な……」
「確か、『将来に対する明確な目標があるのなら、ブレずに生きられる。
そうすれば自ずと結果は付いてくる』だったかな。この言葉で俺は道が開けたような気がしたんだ。
それで、オレはあの時『強い男になる』って答えたんだ……!」

 昔日の想い出をボルシュグラーブは遠目がちになって話す。
 対するアルフレッドは、ここに至っても記憶が定かではなく、ただ相槌を打つことだけに専念している。

「あの日以来、オレはオレなりに一心不乱に努力を重ねてきたよ。
来る日も来る日も……そうしてオレはこうやって一軍を任されるまでになれたんだ」
「確かにお前は強くなったな」

 バブ・エルズポイントと言う重要な拠点を任されたのは、まさしく将としての器量の表れであろう。
それを否定する理由もなかったので、アルフレッドは彼の言葉を素直に受け止めた。
 早朝の訓練を共にして解ったが、ボルシュグラーブ個人の戦闘力も相当な域にまで高まっている筈だ。
仮に模擬戦をしていたなら、負けていたのは自分のほうかも知れないと感じている。

「まだまださ! 強くなったと言っても、それは身体的な話でだけのコト。
今のオレの目標は、この世界から悲劇を廃絶するコトだ。そのためにならオレは人間の業を背負って生きていく。
それが出来るくらい強い人間になりたいんだ!」
「……そうか。随分と大きく出たな」

 ボルシュグラーブは双眸を輝かせながら自らの目標を語る。熱く熱く、理想を言葉にしていく。
 アルフレッドは目映く光るものでも見るかのように目を細め、
理想に燃えるボルシュグラーブに視線を投げかけていた。
 尤も、それは旧友の成長を喜ぶと言う陽の感情によるものではなかった。

「――っと、何かひとりで熱くなっちまったな。……話を元に戻そう。
今のアルの夢は何だ? 昔と同じように弁護士なのか?」
「弁護士? ……ああ、弁護士か、そうだな――」
「あのとき≠ノアルも夢を語ってくれたなあ。弱き者の盾になり、虐げられている者の剣となる。
血を流すことなくそれを成し得る職業が弁護士なんだってさ。
アカデミーの正規の講義の後で、ひとりで黙々と法学を勉強していたよな」
「わたくしの部屋にお越しになられた時にも、アルちゃんは法律書を脇に挟んでおられましたわ」
「そんな事もあったな……」
「オレがここまで頑張ってきたのは、一途に弁護士への道を目指すアルに触発されたってのもあるんだぜ? 
あれだけの努力をしてきたんだ。今でもその夢は潰えちゃいないだろ?」

 自分の夢を語ったボルシュグラーブは、輝く瞳でアルフレッドを真直ぐ見据えてくる。
 この視線ばかりはアルフレッドにとって堪らなく痛かった。
 あの頃、望んでいた弁護士と言う夢は、果たしてどこに行ったのだろうか。
 知力や弁論術を駆使していることには変わりはない――が、
現在(いま)、やっていることは弱者を守る為の弁護などではない。
憎むべき仇敵を殲滅せんと腐心する『在野の軍師』と言う役割なのだ。

(……莫迦はこう言うときに一番鬱陶しいな……)

 ボルシュグラーブが寄せる熱い眼差しは、彼が期待している理想のアルフレッド≠ヘ、
本人にとっては耐え難く、苦痛以外の何物でもなかった。

「……今でも、剣や盾になろうという気持ち。これに変化は無い。まあそういう事だ……」
「そうか。それでこそ、だよ。やっぱりアルはアルなんだな」

 夢は何か――その問い掛けに答える言葉は持ち合わせていない。
あるいは故郷(グリーニャ)の焼け跡に置いて来たのかも知れない。
 それ故にアルフレッドは実情を曖昧に伝えることしか出来なかった。
狙い通りにボルシュグラーブが勘違いしてくれたのは助かったのだが、
心の奥底には重い何か≠ェ沈み込んでいくのだった。





「……お兄ちゃんのあの顔、アレは絶対何か悪いコトを考えています」

 日輪のステンドグラスが壁面を飾る洋館の一室に、呻き声にも似た呟きが響き渡った。
哀しみと呆れと、一握の安堵を綯い交ぜにしたような、何とも例えようのない呟きだった。
 声色は幼い。年齢が表れた声とでも言うべきであろう。
 その声は玉座に腰掛けるゼラールの向かい側にて上がった。
 今回の同窓会を実現する手立てとして、主催者たるボルシュグラーブはデジタルウィンドゥを活用した。
即ち、離れた場所と場所とを映像や音声で中継する通信手段である。
 相手側へ映像を送る為のカメラが捉え切れない死角に同じデジタルウィンドゥをもう一枚展開させ、
ゼラールとトルーポ以外の者たちは口を噤んでそちらの表示内容を眺めていた。
 その死角≠アそが玉座の差し向かいであり、ゼラールたちが用いるデジタルウィンドゥの裏側であった。
 改めて詳らかにするまでもなく、この洋館はルナゲイトに於けるゼラール軍団の拠点だ。
必然的に死角≠ヨ潜むのは『閣下』の従者に絞られる筈だ――が、
その中にアルフレッドのことを兄と呼ぶ人間が混ざっていたのである。
 ゼラール軍団にアルフレッドの血縁はいない。
それどころか、彼のことを兄などと呼んで慕う人間はひとりとしていない。
 「お兄ちゃん」と言うのは、洋館(ここ)へ招かれた客人の発した呼び声に他ならないのだ。
 果たして、先程の発言者はベル・ライアンその人である。
アルフレッドの実の妹であり、ゼラール軍団の拠点に居合わせていても不思議ではない少女だった。

 奇妙な偶然からラドクリフと親しくなって以来、彼女は洋館まで遊びに来るようになっていた。
ピナフォアやカンピランと言った軍団員にも可愛がられ、ゼラールにまですっかり懐いている。
 ベルとラドクリフ、両者の出会いの場とは、
『ブクブ・カキシュ』内部に設けられた士官用のトレーニングルームだった。
 ベルがフェンシングを、ラドクリフがジャンビーヤなる短剣を練習するべく
件の施設を訪れた際に顔を合わせたのが奇縁の始まりである。
 比較的に自由は保障されているものの、未だベルの境遇は人質から動いてはいない。
 対するラドクリフは、ゼラールの従者と言う立場だ。
そして、奇遇なことに彼女の幼馴染みであるシェインと親友の絆を結んでいる。
 そのシェイン自身からギルガメシュに誘拐された幼馴染み≠フ特徴を聞かされていた為、
目の前に現れた少女こそがベル・ライアンだとラドクリフは気付いたわけである。
 言わば、ふたりの親交はシェインが取り持ったようなものだ。
今日もまたカーキ色の軍服に身を包んでラドクリフと剣術の稽古に励み、
ゼラールに招かれて軍団員たちと昼食を共にする――その筈であったのだ。
 しかし、トレーニングルームを辞して洋館に到着すると、何やら異様に慌しい。
何事かと訊ねれば、『バルムンク』がゼラールとトルーポの両名に緊急会談を申し渡したと言うではないか。
 如何に『アネクメーネの若枝』とは雖も、幹部個人が緊急の会談を要求するなど異例中の異例であり、
尋常ならざる事態を想定したムラマサは、すぐさまゼラールに件の視聴体制を具申した。
何事か良からぬことが発生した際に即応出来るよう軍団員も通信内容を監視すると言うわけである。
 嘗てギルガメシュの軍師を務めていた隻眼の老将へ甚(いた)く執心しているゼラールは、
その具申を聞き届け、次いでトルーポへと目配せする。
 ムラマサの献策の通りに諸事を計らうべしとの命令である。
 これにはトルーポも肩を竦めるしかなかった。彼を始めとする軍団幹部たちは、
ムラマサのことを上層部が送り込んできた監視役あるいは間諜(スパイ)ではないかと疑い続けているのだ。
 無論、命令に逆らうと言う選択肢はない。承知の意を示すように恭しく一礼したトルーポは、
直ちに部下たちと細かい段取りを詰め、全ての手配を終えた後にゼラールの傍らへと座した。

「ご両人は同じ士官学校の出身――そうだったな、バスターアロー殿?」
「ついでに言うと俺もね。……あんたのご要望は承知してるさ。
何かあったら、身体張ってでも食い止めるつもりだよ」
「キミにしか出来んことだ。くれぐれも頼む」
「言われるまでもねェやい――」

 ここから先は老人(おのれ)の役目ではないと、トルーポにバルムンクとの対峙を託したムラマサは、
軍団員の用意した椅子へと腰掛け、通信が開始させる瞬間を待つ。
 ラドクリフとベルも隻眼の老将に倣い、隣同士で座った。
 このように極度に緊迫した空気の中、ゼラール軍団は緊急会談へ臨んだのだが、
いざ通信を始めてみれば、気楽な調子のバルムンク――否、ボルシュグラーブが画面に大写しとなり、
軍団員の誰もが状況を飲み込めないまま、アカデミーの同窓会が始まってしまった次第である。
 ベルにとっては思い掛けない幸運と言うべきであろう。
偶然に居合わせた幹部との通信の中に、二度と会えないと思っていた実兄が現れたのだ。
 声を掛けたかったに違いない。胸元にて組んだ両手には、
指の付け根から甲に至るまで血の色が失せるくらい強い力を込めている。
 それでも、ベルは「お兄ちゃん」とは呼び掛けなかった。カメラの前に駆けつけようともしなかった。
 ただひたすらに唇を噛んで声を殺すのみである。
 幼い容貌とは裏腹にベルは大変に利発なのだ。
ここで取り乱しては今後≠フ展開に差し障りが生じるものと考慮し、
まさしく断腸の思いで自分の気持ちを抑え込んだのである。
 その様子が不憫でならないラドクリフは、椅子を近付けてベルに寄り添い、
小刻みに震える肩を、弱々しい背中を支えようとした。
 左右の掌から伝う温もりを以ってして、彼女を励ますことしかラドクリフには思い付かなかった。
 それでも、必ずベルには通じると信じている。もしも、この場にシェインが居合わせたなら、
おそらくは同じことを試みただろうから――。

 だがしかし、ベルの我慢も、ラドクリフの心遣いも、間もなく終息を迎える。
 実兄がボルシュグラーブと言葉を交わす内に、ベルの瞳から少しずつ感情と言うものが薄れ始め、
ついには死んだ魚のような目になってしまった。十にも満たない少女の双眸が、だ。
 呆れたように小さな口を開け広げ、最後には「……クソ兄貴」と毒々しい呟きを零したのである。
 愛らしいベルには似つかわしくない暴言であろう。
まさかそのような声が飛び出すとは思っていなかったラドクリフは瞬間的に肩を上下させ、
恐る恐ると言った調子で彼女の横顔を見つめる。
 この小さな少女は実兄に対して、間違いなく激しい嫌悪の念を抱いていた。
俗に「ドン引き」とも呼ばれる情況に在るわけだ。
 ベルの頭を飛び越えた先では、ムラマサもアルフレッドの言葉遣いや仕草に目を凝らしている。
何か暗号でも読み解こうとしているような鋭い眼差しであった。

(あぁー……この人は……)

 画面の向こう側で駆使されている弁論術を読み取ることはラドクリフには出来なかった――が、
利発なベルと隻眼の老将の様子からアルフレッドがボルシュグラーブの思考を誘導していることは察せられた。
悪質にも自分の都合の良い方向へと他者の心を操っているわけだ。
 ここに至るまでの経緯を振り返っても明白なように、
アルフレッドにとってボルシュグラーブは掛け替えのない旧友の筈である。
 つまり、そのような得難い存在を罠に嵌めたと言うことだ。
ベルでなくとも「クソ兄貴」と吐き捨ててしまいたくなるだろう。
 元からアルフレッドのことを快く思っていなかったラドクリフは、
部屋中のモバイルが警報(アラーム)を轟かせ、次いでボルシュグラーブとの通信回線が打ち切られた直後、
「ろくな死に方しませんね」と心中にて吐き捨てた。

「――して、どうじゃ? 彼(か)の地≠ノて見(まみ)えた顔で誤りはないか?」

 警報(アラーム)の合奏が鳴り止むのを待って、ゼラールは或る男にひとつの確認を求めた。
軍団員の輪から少し離れた壁際に凭れ掛かっていた男――スコット・コーマンに、だ。
 ゼラールの言う彼(か)の地≠ニは、言わずもがなワーズワース難民キャンプである。
 スコットは虐殺の憂き目に遭ったハブール難民の、たったひとりの生き残りなのだ。
事後調査の為に現地入りしていたゼラール軍団によって救出され、現在は軍団員のひとりとなっていた。
 ゼラール軍団にはギルガメシュ本隊に隠している事実(こと)がある。
暴動の少し前にアルフレッドたちもワーズワース難民キャンプへと立ち入り、
同地の人々と接触を図っていたのだ。この件は事後調査の報告書には記載されていない。
 そのアルフレッドとスコットは暴動の前に顔を合わせていた。
同窓会自体は想定外の成り行きだったが、これを絶好の機会と捉えたゼラールは、
事実関係を改めて確認する為、ワーズワース難民キャンプで接触した人間か否かをスコットに訊ねたのである。

「そォッスね、名前は今日になってようやっと憶えましたが、
銀髪のほうは確かにあんときに出くわした兄ちゃんッスよ」

 わざわざ隠す理由も必要もないので、スコットも首肯を以って質問に答えた。
 アルフレッドたちと奇妙な縁で繋がっていることを確かめたスコットだが、
さりとて外部(そと)の人間の介入がハブール難民を破滅へ追い立てたとは思っていない。
 そもそも、スコットは同胞たるハブール難民の惨死について、大した感傷も持ち合わせてはいなかった。
殺された後に晒し者とされたトゥウェインにも、「死んだら終わり」と考える程度だ。
 旧い時代の悪習に囚われ、内々で揉めてばかりいた故郷など、スコットにとっては煩わしいだけであった。

「黒っぽい髪のボインちゃんは見憶えありませんがね。
カラダ≠フほうは好みなんで、一晩くらいなら遊んでもいいけど、彼女にゃしたくないタイプッスね。
あれは嫉妬に狂ってイカれちまう顔だァ」
「……スコットさん、発言には気を付けて下さいね。目に余るようなら教育的指導、行っちゃいますから」

 余計なことを口走るスコットをラドクリフが睨み付けた。
 ベルの前では猥褻紛いの発言は決して許さない構えである。
師匠のホゥリーから授けられた棒杖(ワンド)を取り出した辺り、
脅かしではなく本気で「教育的指導」を叩き込むつもりのようだ。

「――久方ぶりに実兄(あに)の顔じゃ、泣いて喜ぶがよい。
あれも存外しぶとい男ぞ。どうやら此度も死地を切り抜けたと見えるわ」

 念入りに確認しようと言うのか、はたまた想定外の展開に動揺してはいないかと案じたのか、
ゼラールはベルにも視線を向けた――が、こちらは「兄と認めたくなくなりましたけどね」と、
実の妹とは思えないような手厳しい返事を戻してきた。
 ベルが見せた反応は、ゼラールの笑気を爆発させるには十分である。
頤(おとがい)を反らせて格別に大きな笑い声を上げた。

「ダインスレフ様の御学友は大した胆力ですな。災い転じて福と為す。虎穴に入らずんば虎子を得ず――
逆境を物ともしないどころか、それを喜んでおられる。根っからの勝負好きですな」
「あやつに気を遣うことはないぞ。曖昧に誤魔化さず戦闘狂とでも言うてやれ」

 一方のムラマサは、アルフレッドの立ち居振る舞いを脳裏に思い浮かべながら、
彼が発した一字一句を細かく分析している。
 左の隻眼は彼の実妹たるベルに向かっていた。
 捕らわれの身と言う立場を生かし、敢えて敵の懐まで深く潜り込もうとする大胆不敵な戦法は、
あの兄譲りとでも思っているのかも知れない。口に出して言うことはなかったものの、
老いた隻眼は年少者の敢闘を讃えるかのように細められている。
 復讐の念を抱いてカレドヴールフに擦り寄ったことを、ベルはムラマサには明かしていない。
自ら申し出てギルガメシュの一員となり、ドゥリンダナを師範として剣術を習い始めた――
隻眼の老将に話していることは、この二点のみである。
 その限られた情報からムラマサは推理を進め、ベルの企みを看破したと言うわけだ。
 最近まで一線を退いていたとは雖も、カレドヴールフの傍らにて軍師を務めた男である。
年少者が独りで捏ねた謀(はかりごと)などは、手に取るように分かるのだった。
 やがて左の隻眼をベルからゼラールへと移したムラマサは、
畏まって姿勢を正し、一礼を以って「恐れながら申し上げます」と切り出した。

「ダインスレフ様、やはり我らは『プール』並びに『緬(めん)』の討伐に専念すべきかと存じます」
「ほう?」

 ムラマサはゼラールのことを『閣下』と言う尊称ではなく、
『ダインスレフ』と言うギルガメシュのコードネームで呼び続けている。
 積極的に意見は具申しても、ゼラール軍団そのものに染まるつもりはないと
言外に表明しているようなものでもあり、その一点だけがゼラールには不満なのだが、
現在(いま)はそのことを咎めている場合ではなかった。
 ムラマサが語ろうとしているのは、紛れもない軍略なのである。

「バルムンク殿は所在を明かしてはおられませんが、
あの内装――あれはバブ・エルズポイントに程近い離れ島に建つ別荘でありましょう。
警備任務に当たる者の休息所として接収したものでございます。
……そこから考えて、ダインスレフ様の御学友もバブ・エルズポイント襲撃に加わったのは明白」
「奇襲を退けた後に密かに匿った、か」
「老いぼれめの勘は頼りないかと存じますがな」
「ボルシュグラーブ・ナイガードめ、如何にもあやつらしいわ。
天下にふたつとない浅知恵ぞ。なんと可愛げのある小物よ」
「御学友同士の飾らぬ集まりゆえ、気持ちが大らかとなっておったのでしょう。
……私の勘は、些か無粋なもので、細かい部分にばかり目が付いてしまいましてな」
「されば、ムラマサよ。そちはアルフレッド・S・ライアンが『プール』に与したと申すか? 
先に流れておった情報の通り、バブ・エルズポイントに攻め寄せたがは『プール』と聞いておるぞ」

 ムラマサの具申に頷きつつも、ゼラールは深紅の瞳でもってベルを一瞥する。
 実兄の悪辣さに辟易していたベルも今では気を引き締め直したらしく、ムラマサの話へ神妙に聞き入っている。
老将の横顔を見つめるたんぽぽ色の瞳には、聡明と言う名の輝きが宿っていた。

「――さにあらず。バブ・エルズポイントを襲った『プール』は、
本軍でも別働隊でもなく、そもそも偽者ではないかと私は考えております」
「軍装を『プール』の物と真似て、守勢を惑わす計略か。あるいは己の正体を気取られぬよう欺く偽装か。
つまらぬ小細工であるな、ムラマサ?」
「如何にも」
「その中にアルも加わったってワケか。一緒にいたヘイフリックも同じだろうな」

 老将の話へ耳を傾けていたトルーポが口を挟み、その軍略を補足した。

「あやつはアルフ――否、己独りでは立てぬ。寂しく脆き者ぞ。
大方、金魚の糞が如く連なっておったに違いないわ。先刻の集まりに居(お)ったのも己の意思ではあるまい」
「誰かの支えが要るのなら、バルムンク殿はうってつけでございますな?」
「おいおい、ジィさんの勘はゴシップのネタまで拾っちまうのか? 
そこんところは触れてやらないのが人情だぜ」
「これは失敬」

 ボルシュグラーブがマリスに懸ける想いは、最早、誰の目にも明らかである。
さしものトルーポも旧友の慕情まで話の種に使うのは憚られ、横道に逸れ掛けていた談論を本筋へと戻した。
 ふたりの遣り取りを受けて、ゼラールはこの上なく愉しげに笑気を爆発させたが、
一頻り高笑いした後、口の端を吊り上げつつムラマサに献策の続きを促す。

「果たして、何処の軍勢か――とは愚問じゃな」
「奇襲に前後するコールタン殿の動きからして、佐志の手の者と見て間違いはありますまい。
……あるいは、佐志を動かした≠ニ見るべきかも知れませぬ。無論、最終的な判断は裏を取った上で……」
「佐志……ですか――」

 何かと縁の深い町の名を呟くと、ラドクリフは静かにベルの横顔を見つめた。
本人に気取られることがないよう横目で覗き見る恰好だ。
 アルフレッドが佐志に身を置き――と言うよりもグリーニャの生き残りが移住したのだが――、
ギルガメシュとの戦いに臨んでいることは、先刻の同窓会に於いても触れられてはおらず、
これまでゼラール軍団の誰もベルに喋ってはいない。
 どのような形であれ、実兄が徒党を組んで戦っていると知ってしまったベルが、
その事実に対して如何なる反応を示すのか、ラドクリフには気がかりで仕方なかった。
復讐を果たすと言う目的を秘めてはいるものの、現在(いま)のベルはギルガメシュに属する身である。
 そのベルは、ムラマサの説く軍略のひとつひとつに頷いている。
 幼い彼女にどの程度まで咀嚼出来ているのかは定かではないが、相変わらず眼差しは真剣そのものだ。

「されど、腑に落ちぬぞ。既に話したやも知れぬが、余も佐志には赴いたことがある。
海賊退治にて鍛えた精兵揃いとは見受けたが、大軍勢を組織し得るような頭数ではなかったわ」
「閣下の仰せの通り、バブ・エルズポイントを襲った連中はそこそこ≠フ兵力だったと報告が来てる。
佐志の場合、全島から掻き集めたって、そこそこ≠燗しいと思うぜ、ジィさん?」
「佐志が主導したのか、一部隊として参戦したのみかはさて置き、
先ず注目すべきは、バブ・エルズポイントに迫った寄せ手が忽然と姿を消してしまった点にございます」

 ボルシュグラーブが上層部に提出し、その後(のち)に各隊へ配布された報告書に於いては、
敵軍の退却に関しては酷く曖昧な表現で誤魔化されていた。
 生真面目な人柄が窺える詳述が続く中、その箇所のみ具体的な状況説明がなく、
「プール軍、敗走」と言う一文で片付けられていたのである。
 報告書を記している最中、幾ら知恵を絞っても隠し方が思い付かないと諦めたのか、
それを誰にも気付かれないと思ったのかは定かではないが、
書類一面が文字の羅列と説明補足の図画で埋め尽くされていると言うのに、
或る一部分にだけ大きな余白があれば、どうしても目立ってしまうのだ。
 一種の空洞が生じているのである。

「視界不良で見えなかったんじゃねぇの? 嵐の夜に攻められたんだから無理もねぇよ。
レーダーの機能も不十分だったらしいけどよォ、敵がどう尻尾を巻いたのか調べろっつーのは、
いくらなんでも探知機が気の毒ってもんさ」
「いやいや、私の気懸かりは撤退後の顛末。……バブ・エルズポイントを攻めたのは、
プールと言う国家(くに)に帰属する正規軍の筈。少なくとも報告書にはそのように書かれております」
「――で、あるな。……続けよ」
「報告書にはこうも記されております。『撃退』、と。それなりの痛手は与えたと存じますが、
さりとて壊滅的なものとも思えません。全滅する程の被害でなかったのなら、
徒党を組んで拠点まで引き上げましょう。討手に追われた場合、隊伍が乱れておると最も危うい」
「……成る程、そこはジィさんの言う通りだ。プールのトップが親征かましたんならいざ知らずってワケか。
場末の拠点を攻め落とすのに、そんなご大層な真似はしねぇわな」
「左様――王家の断絶と言ったリスクを避ける為、敢えて要人を分散させる退き陣は確かに有用だ。
討手の目を撹乱出来る上に、王位継承者を散り散りに逃せば、
仮に国王が抹殺されても立て直す見込みだけは確保出来る」
「そのテの親征でなけりゃ、わざわざバラける必要はねぇわな」
「おそらく敵軍は島を離れた後、直ちに変装を解いたのでしょう。
証拠を湮滅してしまえば、討手の目は欺ける。また当夜は嵐でありましたから、航跡とて容易には辿れません。
ましてや、バブ・エルズポイントに詰める程度の人数では大規模な追跡は不可能。
ブクブ・カキシュの応援が駆けつけたときには痕跡そのものが――」
「――最早、風雨によって洗い流されよう。小癪も小癪。引き際まで周到よな」
「御意」

 敢えて口には出さなかったが、ベルには――否、この場に居合わせた誰もが、
ゼラールに「小癪」と言わしめた奇襲作戦の中心人物を見抜いている。
 アカデミーにて軍略を窮めた『在野の軍師』、アルフレッド・S・ライアンを置いて外にはいない――と。
 言葉巧みにボルシュグラーブの心理を操っていく姿を見て取ったムラマサも、
この青年こそが謀略を練り上げたものと直感したことであろう。

「バスターアロー殿、佐志の同盟者に大軍を抱えている勢力(もの)はあるだろうか? 
……何しろ私はこちら≠フ勢力図には疎くてね。キミたち≠ネら何か知っているのではないかな?」
「さぁねェ、佐志にはダチもいるけど、その程度の付き合いしかないんでねぇ。
内情まではサッパリだ。何ならキッドにでも探らせてみるかい?」
「いやいや、そこまでは。思い当たることがあるようなら知恵を拝借したかっただけだよ」
「それにしても、佐志と大勢力ねぇ。そんなコネがあるんなら、自前で武装漁船なんか浮かべなくても、
海賊どもは震え上がって近寄らねぇと思うんだがなァ」

 質したムラマサも、問われたトルーポも、互いに素っ惚(とぼ)けた調子で首を傾げている。
 テムグ・テングリ群狼領と結託したに違いないと、ムラマサは暗に指摘しているわけだ。
 作り笑いを浮かべて言外の追及をはぐらかすトルーポだったが、
内心では額に冷や汗が噴き出してはいないかと気が気ではなかった。
 鉄色のレインコートに身を包んだ隻眼の老将は、
反ギルガメシュ連合軍の切り札たる史上最大の作戦≠読み抜いている。
計画の委細まで精確に分析した上で、一言も触れずにいるのだ。
 連合軍ひいては史上最大の作戦の要となるのは、テムグ・テングリ群狼領である。
そして、その馬軍からギルガメシュへ間諜(スパイ)として送り込まれたのがゼラール軍団であった。
 そのように複雑な境遇である為、テムグ・テングリ群狼領について言及されると、
腹を探られているような気分になってしまうわけだ。
 今回の一件を通して、『在野の軍師』の存在が認識されてしまったとトルーポは感じている。
この上更に史上最大の作戦への関与まで気取られたなら、ムラマサの抹殺を真剣に考えなくてはなるまい。
 表面上のやり取りとは裏腹に、今や差し迫った状況へと転じつつあった。

「――しからば如何にする、ムラマサ?」

 尤も、ゼラールはこの緊迫した状況すら愉しんでいる。
互いに腹の底を見透かしながらも敢えて触れず、ムラマサに向かって悪戯っぽい笑みを浮かべた。
その程度の挑発には乗らないと言外に笑い返したのである。
 応じるムラマサも口元に笑気を帯びていた。

「我らの狙いはプールの討伐――ではございますが、
バブ・エルズポイントより退却した残党は捨て置きましょう」
「へぇ? 急に楽観的になったな。その残党に足元掬われないか、心配じゃねぇのかよ?」

 暗に『在野の軍師』を捨て置くと語ったムラマサに対して、トルーポは当てこすりのように肩を竦めて見せた。
 無論、これは軽口の類である。偽≠フプール軍に対する追跡は、
ゼラール軍団にとっても歓迎し難い事態なのだ。
 トルーポが何を言いたいのか見抜いたらしいムラマサも、
「心配性が行き詰った結果、生え際がなくなったのだよ。思い悩むのは身体に毒」と、
冗談を交えて軽く受け流している。

「我らはあくまでも本軍を叩くのみでございます、ダインスレフ様」
「姉上の――カザンの本家を以ってしてプールを討つ。それが急務と申したいのじゃな?」
「……御意」
「故にピナフォア、カンピランを使者に立てたのじゃ。ゆるりと果報を待つがよかろう」

 軍団員の中でもとりわけ口やかましい両雄――ピナフォアとカンピランの声が先刻から聞こえないのは、
事情があって喋ることを禁止されたわけではなく、洋館を不在にしているからである。
 現在、ふたりはゼラールの実姉、ベアトリーチェ・カザンのもとへ赴いている。
 ムラマサによる熱心な説得を容れたゼラールが、
プールと緬の討伐に当たってカザン本家に加勢を要請すると決断したのである。
 カザン本家が率いる私兵は、『ヴィクド』の傭兵部隊に比肩するほど高い錬度を誇り、
近隣に出陣を号令すれば、その総勢は二〇〇〇〇にも達すると言う。
 しかも、だ。ブクブ・カキシュの外部(そと)に在る勢力であり、
且つ反ギルガメシュ連合軍にも与していない為、何ら制約を受けることなく自由に動ける。
今回の討伐には、まさに打ってつけの戦力であった。
 当主たる弟に代わってカザン本家を預かり、全軍を指揮するのは六つ齢の離れた姉であるが、
こちらも類稀なる女傑だ。二〇〇〇〇もの兵を統率するカリスマ性に加え、
『エンパイア・オブ・ヒートヘイズ』に勝るとも劣らない強力なトラウムを備えている。
 そのベアトリーチェ・カザンへ出馬を願う使者に選ばれたのが、ピナフォアとカンピランなのだ。
現在(いま)はカザンの本領へ向かう船旅の最中であろう。

「寝ながら待つのは大歓迎だけど、そっから先はどうなるんス? 
おれらは毛布に包まって待機っつーコト? 英気を養いまくっちまうパターン?」

 欠伸を噛み殺していたスコットが、如何にも面倒臭そうに、
そして、誰に向けたものとも判然としない質問をその場に放り投げた。
 軍略を語らう輪に加わるつもりなど毛ほどもなかったが、
余りにも退屈なので、つい暇潰しの感覚で口を挟んでしまった次第である。
 気怠げな声色が討伐軍に加わることを拒んでいた。
 スコットは『スコーチャー・スケアクロウ』なる名称のMANAを所有している。
これは拡散プラズマ砲と言う恐るべきウェポンモードを搭載しており、
猛者揃いのゼラール軍団に於いても第一級の戦力となり得る筈なのだが、
暴悪なまでの性能を駆使して武功を上げる意欲など、本人には絶無であった。
 周囲から宝の持ち腐れと謗られようとも、
ビークルモード――こちらも立乗型自動二輪車と言う変わり種だ――を乗り回すのみである。

「――当たらずとも遠からずと言ったところかな。
ダインスレフ様の姉君が御出馬を決められた暁にはその武威を以ってして、
プールと緬、両軍の正面決戦をけしかける。共倒れがベストだが、流石にそれは高望みだな」
「お、おいおい。話をコロッと変えやがったな!? 
それじゃあ、ウチのカミさんは何の為にお使いに行ったんだ!?」

 スコットの質問はムラマサによって拾われた――が、
そこから先の話については、今度はトルーポが大きく反応した。
 プールと緬の激突を画策すると言う話はゼラールにも不可解であったらしく、
意図を測り兼ねた様子で片眉を吊り上げている。
 カザン本家の武力を以ってしてプール並びに緬を駆逐し、ゼラール軍団の威光を高めることが、
ベアトリーチェに対する出馬要請の本旨であった筈だ。
 ムラマサは自身の前言を覆したようなものである。
これではベアトリーチェに頼った意味まで失ってしまうだろう。
 ゼラールとトルーポ、双方から疑念をぶつけられるムラマサだったが、
老将は微塵もたじろがず、返す言葉の代わりに両の拳を胸元の辺りで翳した。
 徒手空拳の闘技――空手にて鍛え上げられた両の拳を、だ。

「ダインスレフ様の姉君には、先ずプールと緬を二〇〇〇〇の軍勢でもって圧して頂きます。
両軍にとっては想定外の第三勢力となるわけですから、プールも緬も大いに仰天致しましょう。
このように他方からプレッシャーを与えることで、両軍の動きを我らに都合良くコントロールするのです。
……ダインスレフ様の御学友が用いられた計略と、本質的には同じものでございます」
「二方(ふたかた)の敵と同時に戦うことを避けて、先に弱らせておこうってワケか。
……別のエンディニオン≠フ軍勢だから、当然、MANAで武装していやがる。
こっち≠フ人間はMANAを相手に戦うのは慣れてねぇし、
確実に仕留めるっつージィさんの策は悪かねぇが……」
「より強大な敵が迫り、また合戦が避けられない状況と見れば、比較して相対し易い側から先に攻めるのが必定。
後顧の憂いを除いた上で、難敵に向き合うと言うことでございます」

 皆の意識が己の両手に集まっていると確かめた後、ムラマサは左右の拳骨を勢いよく衝突させた。

「合戦の本質は消耗にあらず。ましてや、暴力の欲求を満足させるものでもございません。
その理(ことわり)とは国力を富ますこと――我が軍団の威光を高める謀(はかりごと)も、
他国の領土を切り取らんとするプールと緬も、皆、同じ理(ことわり)のもとに在りましょう」
「今ひとつ、問おう――」

 ゼラールの深紅の双眸が、ムラマサの隻眼を捉えた。

「――姉上が出陣なされば、そちの申すように二方(ふたかた)の敵を圧することも叶おう。
されど、武威を以って圧した後、プールと緬、双方が我らの思惑を外れた場合は如何にする? 
聞けば、耳を洗いたくなるほど卑劣な振る舞いを繰り返しておる。
そのような小物であらば、正面決戦を避け、再び他方へ略奪を魔手を伸ばすとも限るまい」
「恐れながら、プールも緬も、国を富ます術を心得ております。
それ故に互いの身を喰らわずにはいられないのでございます。
犠牲を払ってでも敵方を征圧すれば、それに見合うだけの利を得られましょう」
「あやつらの利とは何ぞ? 緬もプールも、今は我がエンディニオンへ間借りしておるに過ぎぬ。
領地を切り取ったことにはなるまい。約束手形≠ナは戦は出来ぬぞ」
「その現実≠アそが我が軍団の利となるのです。
姉君による圧迫は、短期間で力を付けなくてはならないと言う焦りを双方に植え付けます。
小さな略奪をしていては追い付かぬ。一挙に大きな力を得なければ、その前に踏み潰される――と。
生存の崖っぷちに立たされた人間の本能も使いようです。相克の後、どちらが生き残るかは読めませんが、
軍の再編すらままならないほどの窮地に陥ることは間違いございません。
……実力伯仲同士がぶつかり合えば、互いに身を削って消耗するのみ。
焦りに基づく生存本能は正常な判断を狂わせます」
「……重ねて問おう。あやつらの利とは何ぞ?」
「仰せのように現在(いま)のプールと緬は領地と言うものを持ち得ません。
せいぜい小さな町や村を占拠しているに過ぎない。そして、それらは全て異世界≠フ土地でございます。
従って、国土の拡大には直結しにくい――現時点の双方の狙いは、人材です」
「合点が行ったわ。全てに勝る利であり、大いなる財産ぞ」
「大将を討ち取った後(のち)、残存する敵兵を取り込めば純粋な戦闘力の確保に繋がります――が、
それ以上にお互いの側近を欲しがっています。喉から手が出る程に」
「そう言い切る根拠は何ぞ?」
「老いぼれ≠フ勘です」
「フェハハハ――この地上で最も頼もしい根拠じゃ!」

 ムラマサの軍略は人間の本能をも踏まえた精緻な計算の上に成り立っており、
ゼラールからの問いかけにも間を置かず答えていく。
 ベルはムラマサの話を記憶に刻み込もうと首肯を繰り返し、
その様子をラドクリフは心配そうに見つめ続けていた。
 一方のスコットは、自分で話題を振っておきながら途中で完全に飽きてしまい、
仲間たちの輪とは真逆の方角に顔を向けながら、暢気にシガレットを喫(す)っている。

「緬とプール、双方のトップは取るに足らない器ですし、私には生かしておく理由を見出せません。
それでも集団として成立し、異世界≠ニ言う極めて難しい状況でも活動し得るのは、
トップを支えるメンバーに非凡な人材が揃っているからです。
……緬のまとめ役を担う『柳真(りゅう・しん)』と言う男は、外交手腕には目を見張るものがあります。
プール国王を補佐する『ササフラー』は、国王の無理難題を現実的に処理する名人です。
『ヤズール』と言う将軍は、一度は緬を全滅の瀬戸際まで追い込んでおります。
緬はその将軍でさえ飴で釣ろうと考える筈だと、私の勘が言っています」
「ヤズール将軍とやらは飴で釣られて上手く転がされ、丁度良い頃合で飴を舐める舌を斬られる、か」
「そう解っていても、いざとなったらヤズールは緬に降るでしょう。降る以外に選択肢はありません。
異世界≠ノ在って身を保障する術を持たないのは、プールも緬も同じでございますからな」

 嘗てギルガメシュの軍師を務めただけあって、仮想敵への調査にも抜かりはなかった。
 老いぼれの勘≠ネどとムラマサ本人は遜っているが、その才覚は最盛時から全く衰えてはいないだろう。
あるいは経験を重ねた老境(いま)こそ、円熟の極みと呼べるのかも知れない。

(……アルもそうだったが、『軍師』なんて呼ばれる連中は、どうしてこう付き合い辛いのかねェ……)

 『閣下』の隣に座したトルーポは、ムラマサの腹の底を探り続けている。
 信頼関係こそ結べているようだが、今もって「ダインスレフ様」と呼び方を変えないムラマサは、
心底からゼラールに忠誠を誓うつもりはなさそうだ。
 先程から仮想敵の利について高説を垂れているが、
ムラマサ自身は己が直接関与する利をどう考えているのだろうか。
 即ち、ゼラール軍団とギルガメシュ――双方の利≠、だ。
 ギルガメシュにとっても緬とプールは仮想敵である。将来的な障碍となり得る両軍を平らげれば、
隊内の評価は一等高まるだろう。これはゼラール軍団にとって紛れもない利≠ナある。
 全てはダインスレフ殿の為に――そう語るムラマサの言葉を、トルーポはそのまま受け止めることが出来ない。
 カザン家と連動するようゼラールを説得したことは、
ギルガメシュの利≠求めたからではないかと言う疑念が拭い切れないのだ。
 一度(ひとたび)、ベアトリーチェを動かしてしまえば、
今後はギルガメシュの戦力≠ニしてカザン本家の精兵を運用することも望めよう。
如何に『閣下』と雖も、組織の中に組み込まれた以上は指揮系統からは逃れられないのだから。

(いざとなったら、そこらへんはブッ千切っても構わねぇが……)

 ムラマサの狙いは仮想敵の討伐などではなく、最初からカザン本家二〇〇〇〇の兵力を
ギルガメシュへ取り込むことにあったのではなかろうか――疑い始めれば際限はないのだが、
想定し得る万難を全て解決していくのが、ゼラール軍団の副将たるトルーポの立場である。

「さすがはムラマサ、抜かりもなき天晴れな策じゃ――が、姉上の役に立つものかは分からぬぞ? 
あの御方は神々が住まう天を驚かせ、地を鳴動せしめる器じゃ。
カザン本家の当主は姉上こそ相応しいと、多くの者が傅いておったからの。
姉上を担がんとする声は、今も我が故郷(さと)に多かろう」

 猜疑心と言うどす黒い渦の中に飲み込まれかけていたトルーポの意識は、
ベアトリーチェ・カザンの人柄を語り始めたゼラールの声によって
 『閣下』が実姉――カザンの家族について自ら語るのは極めて珍しかった。
古くからの側近であるトルーポでさえ過去に一度しか聞かされておらず、
以降は禁じられた言葉の如く封印されてきたのである。
 ゼラールもトルーポも、ただ一度の昔語りの後には、決して触れようとはしなかった。
 その封印を『閣下』自らが解き放ったと言うわけである。
 トルーポと同じようにムラマサにも心を開き、彼にだけ家族の話を打ち明けるのであれば、
納得は行かなくとも理解は出来る。しかし、この場には老将以外にも多くの人々が集まっているのだ。
客人であって正規軍団員ではないベルの姿も在る。
 それでも『閣下』は家族の話を続けていく。誰かに強く求められたわけでもなく、
己を育んでくれた人々のことを語っていく。

「ムラマサの策には隙はない。それは余が認めようぞ。されど、全てが望むようには参らぬであろうな。
空に道を開けたいと思えば、虚無を斬り裂いてでも次元を渡らんと欲する――
それがベアトリーチェ・カザンと言う御方ぞ」
「……と、申されますと?」
「緬とプールを嗾け、一所(ひとつところ)に主力を集めてみよ。
姉上ならば、その決戦場に自ら躍り込んで一気に決着をつけよう。
家伝の具足を纏われる姿が目に浮かぶわ。勝ち抜けたほうに挑むなどと回りくどいことはせぬよ。
……母上もあの短慮には手を焼いておられるわ。引き取り手≠烽ネいと嘆いておったがの」

 初めてベアトリーチェの――否、『閣下』の肉親のことを耳にしたラドクリフは目を丸くして驚いている。
この場にピナフォアとカンピランが居合わせたなら、おそらくは同様の反応を見せたに違いない。
 彼らが今までに聞かされていたのは、早世した実父の跡を継ぎ、カザンの当主になったことくらいなのだ。

「……ダインスレフ様は如何にお考えか? 空に道を開けんと欲するならば――」
「フェハハハ――つまらん、つまらん! 余は空になど道は求めぬ。
考えてもみよ、ムラマサ? 天地余すところなく我が掌中に握るが宿命ぞ? 
余が道と思えば、そこが道じゃ。敢えて求めずとも見渡す限りが我が往く未来(みち)ぞ!」

 『閣下』より返された答えに、ムラマサは豪快に笑った。機嫌を取る為の愛想笑いなどではない。
自ら称する老いぼれ≠ニは思えないほど、腹の底から愉しげに笑っていた。
 無から有を創り出すと言う途方もない夢を抱くのは、どうやらカザンの血筋のようである。
桁外れのゼラールを弟に持つ姉も、常人と比して桁違いであるらしい。
 ベアトリーチェ・カザンの身辺はムラマサも事前に調べ上げていたが、
他者からの伝聞と、肉親の口から直接に人となりを語られるのでは、やはり衝撃の度合いが違う。
調査によって得ていた情報が初めて信憑性を帯びたような心持ちでもあった。
 しかし、それ以上にムラマサが愉快で、何よりも嬉しかったのはゼラールの器である。
 歓喜を湛えた隻眼でもってトルーポを見つめたムラマサは、改めて笑気を爆発させた。
その笑い声は一段と大きい。

(……喰えねぇクソジジィだぜ、全くよ――)

 ムラマサの言わんとしていることを悟ったトルーポは、大いに調子を狂わされてしまい、
おどけたように肩を竦めて見せた。ひょうきんな動作(うごき)でも取らなければ、
気持ちのやり場がなかったわけである。

 再び警報(アラーム)が鳴り始めたのは、そんな折のことであった。
今度はゼラールのモバイルのみが耳障りな電子音を発している。
 先程の警報(アラーム)は、幹部たちをブクブ・カキシュへ緊急招集する為に発せられたものだった。
即ち、これは「矢の催促」に他ならない。おそらくは痺れを切らしたアサイミーの仕業であろう。

「スコットの申したように果報を寝床にて待つのも一興であるが、……そうも行くまい。
トルーポ、ムラマサ、そちたちも供をせよ。阿呆どもの尻拭いに参ろうぞ。
あやつらに任せておっては、救うべき生命を零し兼ねぬわ」

 一向に鳴り止まない警報(アラーム)が煩わしいと思ったのか、
ゼラールは牙の如き犬歯で右の手首に傷を付けると、
そこに生まれた炎を以って掌中に在った自身のモバイルを焼き尽くしてしまった。
 身の裡を流れる血潮を灼熱の炎に換えるトラウム、『エンパイア・オブ・ヒートヘイズ』である。

「俺たちはともかく、ボルシュ――いや、『バルムンク』はルナゲイトに帰り着くだけでも、
二、三日は掛かるだろうに。召集はそれからでも遅くねぇと思うんだがなぁ」
「遠方で任務に当たっている人間は他にもおったぞ。グラム殿もどこぞに出張っていた筈だ」
「デジタルウィンドゥも活用せぬから、後手後手に回るのじゃ。
顔を突き合わせた軍議も時と場合によりけりよ。そのような判断も下せぬか、我らが首領殿は」
「寂しがり屋なのですよ、あのお嬢ちゃん≠ヘ」

 最初の警報(アラーム)を黙殺したのは、『アネクメーネの若枝』が全員集結するまでは
軍議など始めようもないと考えたからである。それ故に召集が届いた後もゆっくりと話し込んでいたのだ。
 炭屑の一欠けらも残さないほどにモバイルを消滅させたゼラールは、
「己の器を弁えぬから無様な真似を繰り返すのじゃ――」と、如何にも煩わしそうに鼻を鳴らした。

「――ラドクリフ、そちには特別任務を命じる。心して聞くがよいぞ」
「はっ、はい!」

 初めて聞かされた『閣下』の身の上話に心を揺さ振られ、惚(ほう)けていたラドクリフは、
慌ててその場に跪いた。
 軍団員ではないがラドクリフに倣うべきか、どうするべきか迷っていたベルは、
福々とした頬をゼラールの両掌で挟まれ、これを以ってその場に留め置かれた。

「我が旧友どもの話は憶えておろうな。元はひとつであったエンディニオンが分裂したと言う仮説じゃ」
「一字一句、記憶に留めております」
「その考察をそちに命じる。マコシカに生まれ育ち、その中で得た知識に世界の神秘を求めよ。
今、この場にて分かる範囲で構わぬ。容易く答えが出るものではあるまい――」

 ふたつのエンディニオンは、元々はひとつだったのではないのか――
それは仮説と呼ぶには捉え処がなく、着眼も夢想に近い。
 だが、それを口にしたのは他ならぬゼラールなのだ。人智を超越した『閣下』の発想ならば、
そこにエンディニオンの謎を解き明かす道が拓かれるだろう。
 『ゼラール閣下』を心底より崇拝するラドクリフは、
成果の出しようがないと思える命令にも、何ら恐れを持たずに「全ては閣下の為に」と声を張れるのだ。
 世界の分裂などと言う神にも等しい領域へ接触するのであれば、
この地上に於いて、最も創造女神イシュタルに近しいマコシカの民の出番であろう。
 自分だけにしか出来ない重要な任務に与えられ、喜びに打ち震えるラドクリフであったが、
昂揚とは別の感情(おもい)が心の片隅にて疼いていた。
 どうにも例えようがなく、また解き放つことの叶わない不快感とも言い換えられる。
 ふたつのエンディニオンは、元々はひとつだったのではないのか――
聞かされた瞬間は椅子から転げ落ちそうになるくらい驚愕し、心臓が早鐘を打ったものだが、
ムラマサが今後に取るべき戦略を切り出してからは、そちらに全ての意識を引き付けられたのである。
 世界の命運にも関わる重大事を前にして、別の話題へ簡単に思考が切り換わってしまったことが
我ながら信じられなかった。
 不快感が疼いたのは、今になって己の思考の切り替えに気が付き、そこに疑問を抱いたからだ。
 何しろ世界の法則が根底から覆されたような事態である。容易く割り切れる類のものではなかろう。
狼狽や動転と言った感情の起伏が何故に持続しなかったのか、ラドクリフにはどうしても解らない。
 驚愕と言う形で一瞬だけは働いたのだが、炸裂へ至る前に導火線そのものが断ち切られたのである。
 そして、今も炸裂へ至るほどには感情が起伏しない。疼く不快感も導火線とは成り得ない。
自分でも不自然に思えるくらい冷静さを保っていられた。

(……絶対に普通じゃないのに……なのに、どうして、ぼくは……ッ!?)

 過ぎて去った思考や感情の働きを理屈で分析出来てしまうことがラドクリフには恐ろしかった。
 他者の見えざる手≠ノよって脳や心の分岐器(スイッチ)を操作されているような不安感が、
彼の身の裡を駆け抜けていく。
 しかも、だ。自分ひとりに限定されたものではなく、この場に居合わせた皆が同じような情況にあるらしい。
殊更に取り乱した人間はおらず、軍略を論じるムラマサへ「今はそんな場合ではない」と
抗議する声も上がらなかった。これこそが何よりの証左と言うわけだ。

「その前にベル・ライアンの食事係を命じる。ゼラール軍団の名に恥じぬ持て成しを尽くせい」

 密かに身を強張らせていたラドクリフには、もうひとつ、別の任務も与えられた。
実兄の悪辣さを突きつけられて心が疲弊しているだろうベルを励ませと言うことだ。
 最後にベルの頬を指先で弾き、瑞々しい弾力を楽しんだゼラールは、
トルーポとムラマサを伴って今度こそブクブ・カキシュへと出発した。
 世界の法則すら瑣末な出来事とでも言い切るような高笑いは、
『閣下』が洋館を出た後(のち)にも暫く木霊していた。

「――それじゃ、行こっか。ハンバーグでいいかな?」
「ハンバーグ! だいすきっ!」

 ゼラールたちを見送ったラドクリフは、深呼吸をひとつ挟んだ後、ベルに向かって手を足し伸べる。
彼女もまた花が開くような笑顔で応じるのだった。

「おーおー、急に華やかになったじゃねーの。女の子ふたりでイケない空気になってるみて〜だよなァ?」

 スコットの冷やかしが耳に入ったラドクリフは、棒杖(ワンド)でもって自身の臀部を叩き、
この乾いた音を歌舞に代えて『エマトリス』の力を授かった。火を司る神人(カミンチュ)の力を、だ。
 ラドクリフが棒杖(ワンド)を縦一文字に振り落とすと、
ガラスの器の燭台にて燃え盛っていた炎が蛇の如くうねりながらスコットに飛び掛り、
その臀部へと咬み付いた。せめてもの報復攻撃(おかえし)と言うわけである。

「……ラドちゃんだけは怒らせないようにしなくちゃ」
「ベルちゃんには怒らないよ。アレは本当に失礼な人向けだからね」

 文字通り、尻に火が付いた状態で転げ回るスコットを置き去りにして、
ラドクリフは優しくベルの手を引いて食堂に向かうのだった。





 数日前に目を醒ました部屋にて、アルフレッドは出発の支度を整えていた。
 バルムンク――ボルシュグラーブの別荘にて普段着として用いていたタンクトップではなく、
表面へ蜘蛛の巣の如き模様を描く鎖帷子に替えている。守孝より贈られた少弐家代々の宝物に、だ。
 ロングコートの袖に腕を通し、革製のチャップスを穿き、
灰色の銀貨をチェーンで繋いだペンダントを首から下げれば、準備は万端である。
 バブ・エルズポイントへ奇襲を仕掛けたときと全く同じ衣服――否、装備であった。
それはつまり、ギルガメシュ討滅の戦列へ復帰せんとする意志の表れとも言える。
 「英気を養った」と言うと語弊があるが、数日に亘る別荘への滞在を経て、
肉体(からだ)の調子は完璧に整えられた。
 久方ぶりにアカデミー式の訓練を行ったことで、心身ともに以前より引き締まったようにも思える。
窓ガラスに映ったアルフレッドの面は剽悍そのもの。疲弊の色は微塵も残っていなかった。

「アルちゃん――」

 やはり、『もんぺ』に着替えたマリスが扉打(ノック)を挟んで入室し、
指抜きグローグを嵌めようとしていたアルフレッドに「到着されました」と言葉少なく告げた。

 その報告へアルフレッドが頷いた瞬間から、日付は少しばかり遡る。
丁度、ゼラールがムサマサの具申へ耳を傾けていた頃に――。
 自分はブクブ・カキシュへ急行しなくてはならないので、部下に別の船を用意させ、
佐志まで送らせると言うボルシュグラーブの配慮を固辞したアルフレッドは、
名残惜しそうな顔で出発していった旧友を見送ると、そのまますぐにモバイルを操作し始めた。
 その少し前には、「仲間に迎えを頼むから大丈夫だ」とボルシュグラーブに話している。
どのような形であれ、これ以上、ギルガメシュの世話になどなりたくなかったのである。
 このような状況と経緯で連絡を取る相手は、彼が心から『仲間』と呼べる者以外には有り得ない。

「最近のモバイルはすげ〜な。異世界間でも通話出来んのかよ。通信料、バカ高ェんじゃねーの?」

 果たして、耳に宛がったモバイルからは『名探偵』として世に知られる男の声が飛び込んできた。
 半月程度、離れていただけの筈だが、胸の奥から懐かしさが込み上げてくる。
言わずもがな、ヒュー・ピンカートンその人の声である。

「ニルヴァーナ・スクリプトのような機械(しろもの)まで保有しているくらいだ。
それを考えれば、異次元空間にモバイルの中継基地くらい設置されていても不思議ではないがな」

 軽口めいた響きを感じ取ったアルフレッドも、負けじと同じ調子で切り替えした。

「ギルガメシュはふたつの世界でも普通に連絡取り合ってんだろ? 
異世界間の取次ぎサービスでも始めたら儲かるんじゃね〜の?」
「権力に取り憑かれた人間は、その担保が技術であれば、一般化して値打ちを落とすような真似はしない。
自分だけの特権を投げ捨てる理由はないだろう?」
「んで、切られても痛くねぇトコロだけ餌にしてバラ撒くって寸法か。
かーっ、あンのクソチビがやりそうなこった!」
「……コールタンか?」
「俺っちもよぉ、レディは年齢も何も関係なく口説いてナンボだと思ってたんだけど、
あんにゃろうだけは別だよ。似ても焼いても食えやしねぇ!」

 冗談めいた応酬となっていたが、会話の流れからコールタンが佐志へ一報を入れていると
アルフレッドは確信した。ヒューだけではなく、守孝ら主だった面々には事情が説明されたのだろう。
 間もなく、ヒューの側も「あんにゃろうから連絡が来たんだよ」と明かした。

「マシントラブルでおめーらが弾き飛ばされたってコトは教わったんだ。
でも、おめーらはギルガメシュの幹部にとっ捕まってるから、
下手に連絡入れたら相手を刺激してマズいって釘刺されちまってよォ」
「確かにギルガメシュの幹部のもとには居たが……身柄を拘束されていたわけではないんだぞ? 
コールタンもそれは把握していた筈だ。現に奴から電話も掛かってきた」
「なんだそりゃッ!? 俺っちらは生殺しみてぇな目に遭ってたんだぜッ!? 
お前んとこのお袋さんも、大変なコトになったって心配してたし……」
「……まさか、そんなことになっているとはな……」
「ちなみに親父さんもメソメソしてたけど、こっちはうちのカミさんに一喝されてた。
『大黒柱がどっしり構えてないでどーすんだ!』……ってさ」
「それも想定の範囲内だ」

 どうやら、アルフレッドの予想通りの筋運びであったようである。
手回しの良さには呆れを通り越して苛立ちすら感じるが、今はその憤りに囚われている場合ではない。

「ともかく、手間を掛けるが誰か迎えを寄越してくれ。バブ・エルズポイント付近の小島に居る」
「おう、了解。お孝さんたちに掛け合ってみらぁ」
「正確とは言えないと思うが、バブ・エルズポイントとの距離や地形の特徴を後でメールしておく」
「久しぶりにロボットみてーな喋り方を聞いて、何だか安心しちまったよ。
……何はともあれ、元気そうで何よりだぜ。いや、無事で良かったって言った方が正解かな」
「お陰様で五体満足だ。……誰と誰がこちら≠ノ取り残されたかは、もう知っているんだろう?」
「カノジョとふたりで離れ島なんてエロエロなシチュエーションなんて羨ましい限りだぜ! 
オーシャンビューでイイことしちまったのか、えぇ、色男ォ?」
「お前と一緒にするな」

 平素であれば悪ふざけなど無碍に切り捨てるところなのだが、
今のアルフレッドには猥談めいたやり取りさえ心地良かった。
 「喪失」の二字で心を無茶苦茶に抉られ、引き裂かれたばかりと言うこともあって、
その傷痕に仲間の声が深く染み入るのだ。
 例え電話越しであっても、ヒューの声を長く聞いていたかった。

「……コールタンは他に何も言っていなかったか?」
「あん?」
「俺たち以外が――いや、俺たち以外にも誰か弾き飛ばされた人間がいたとか……」
「いんや、お前とマリスだけだよ。……もしかして、心当たりがあんのか? 
あんにゃろう、何もかも知っててトボけるタイプだもんな。絶対ェ隠し事してるぜ」
「いや、……俺のほうにも情報が入っていなくてな」

 アルフレッドが遠回しに探っていたのは両親の近況である。
 ヒューの口調から察するに、自分とマリス以外の決死隊が如何なる状況に陥ったのかは、
コールタンは伝達しなかったようである。敢えて、口を噤んだと見て間違いあるまい。
 決死隊の一員でもあったニコラスの安否も定かではない。
彼の生命が危ういと知っていれば、ヒューの代わりにレイチェルが電話口に出た筈である。
 愛娘との関係もあって、普段から『馬の骨』などと悪態を吐いてばかりいるヒューだが、
それはニコラスに対する信頼の裏返しなのだ。
 その『馬の骨』が転送エラーの犠牲になったかも知れない――
極めて無慈悲な事実は、ヒューの思考から冷静さを奪ったであろう。
正常(まとも)な会話さえ難しいような醜態は想像に難くない。
 だからこそ、アルフレッドは両親の様子(こと)が気懸かりであった。
家族の生死が絶望的と報(しら)されたなら、誰もが平常心を失い、壊れるまで狂っていくのである。
 ヒューも己の両親も、事実を知らない現在(いま)だから心静かでいられるのだ。
 ジャスティンが危ういと知ったとき、ディアナは「息子を信じている」と揺るぎなく言い切ったが、
誰もが彼女のように強靭ではない。そんなことは有り得なかった。

(この事実≠家族に知られたくなければ、言うことを聞け――
そんな風に脅されることも覚悟しなくてはならないんだな……)

 気付いたときには、アルフレッドは決死隊の遭難(こと)を己の弱みとして整理≠オていた。
無意識の内に、コールタンとの駆け引きの材料と捉えていたのだ。
 一個の情報として機械的に割り切ってしまった己に恐怖を感じながらも、
思考の冷徹な部分では、感情に縋り付いていられる状況でないことも理解している。
 あるいは、そのように冷徹であったればこそ、あらゆる事実を武器と換えられるのかも知れない。
 アルフレッド・S・ライアンと言う男が身を投じたのは、ギルガメシュとの争乱である。
劣勢窮まる状況と向き合うことだけが、『在野の軍師』には求められているのだ。
 旧友の心理を操ったときと同様である。連合軍諸将やエルンストとの誓いの前では、
個人の感情など切り捨てて然るべきだとアルフレッドは考えていた。
 それこそが『在野の軍師』にとって在るべき決意(こころがまえ)なのだ――と。

「……ヒュー、現状を報告してくれ」

 そう訊ねるアルフレッドの声色は、最早、笑気など微かにも帯びていない。
電話の向こうのヒューにもそれが伝わったのだろう。彼の受け答えも一瞬にして引き締まった。

「バブ・エルズポイントからは全員無事に逃げ遂せたよ。途中まで一緒だったグンガルたちとも別れてな。
……まあ、アレを無事っつって良いのか、ちょいと微妙だが……」
「何だ? 何かあったのか?」
「電話じゃ説明がめんどくせぇから、帰ってからゆっくりな。ホント、ややこしいんだわ」
「含みのある言い方をするじゃないか……」
「あ〜、お前が危惧するような事態は起きてねぇよ。テムグ・テングリのほうも重軽傷者はともかく、
死人はひとりも出ちゃいねぇ。勿論、佐志(おれっちら)は、全員ピンピンしてらぁ」
「それなら良いんだが……」
「ちょっとした変化と言やぁ――バブ・エルズポイントに突っ込んだとき、
お孝さんが堂々と名乗りを上げたらしくてさ、奴(やっこ)さんに佐志ってバレちまったよ」
「ああ、それはこちらでも把握している。尋問ではプールの襲撃を利用したと、そう答えておいたよ」
「そんじゃ、沖合に停泊してる監視船のことは?」
「いや、……初耳だな」

 警戒されることはアルフレッドも覚悟していたが、しかし、監視については流石に想定外であった。
バブ・エルズポイント内部への侵入については不問にすると話していたボルシュグラーブが
手を回したとも思えず、眉間に皺を寄せながら「厄介だな……」と呻いたのだが、
応じるヒューの声には憂色など微塵も感じられなかった。
 電話の向こうでは水平にした掌をヒラヒラと上下させているだろう。

「わりぃわりぃ、脅かし過ぎちまったな。監視船を浮かべてんのはコールタンの副官だよ。
なんつっても佐志は海運の要衝だ。どんな悪い虫≠ェ付くか分かったもんじゃねぇって、
あのチビが首魁(うえ)に掛け合ったらしくてさ」
「『佐志は責任を持って監視する』とでも言ったか。……成る程、最高幹部のひとりが睨みを利かせるなら、
佐志はギルガメシュが押さえたも同然――と言うわけか」
「監視の建前が自由の保証ってェのも皮肉っちゃ皮肉だけどな。一先ず他の連中の目は佐志から外れたと思うぜ」
「当面はギルガメシュの襲撃を受ける心配もなくなったわけだ。
しかし、良いか、ヒュー? あいつは――」
「――勿論、油断はしてねぇさ。港の警備は監視船が出張ってくる前より増やしてある。
何しろ、あの喰えねぇチビだ。味方面して騙し討ちをかましてくることも、
手切れになった途端に不意打ちを仕掛けてくることも予想しておかなきゃならねぇ。
だがよ、今のところはロンギヌスの船も素通りさ。イヤな臭いが漂ってくるまでは、
とりあえずはよろしく付き合っていこうじゃね〜の」

 佐志は難民支援を目的としてロンギヌス社に港の一部を貸し出すと言う協定を結んでいる。
 現在、その準備が急速に進められており、ロンギヌス社の手配した船舶が港を出入りすることも多い。
必要な資材などを取り寄せるには、どうしても海路を渡る必要があるわけだ。
 そうした船舶の行き来に対して、件の監視船は貨物を検査することもなく素通りさせている。
ギルガメシュを脅かすような品物をやり取りしているかも知れないのに、だ。
 コールタンの手配した監視船は、実質的に佐志の隠れ蓑として機能していた。
まさしく内通者ならではの奇策と言うべきであろう。

「カキョウちゃんは別件で出張中。今はヴィンセントとナガレで切り盛りしてる――っつーか、
キリキリ舞いってカンジかな。見てる分には面白ぇけど、それ抜きでも働き者だよ、あいつら」
「コクランが詰めていてくれるのは心強いな」
「それ以外は平常通りだよ。叢雲カッツェンフェルズは相変わらず元気一杯で鬱陶しいけど。
あッ――そうそう、ミストの童話の読み聞かせな、日に日に人の輪がデカくなっててよ、
今じゃ大盛況なんだわ。大した才能とは思わね〜か?」
「親バカは良いから、……町の警戒レベルを最大まで高めてくれ。港だけじゃなく町全体だぞ」

 モバイルの送話口へ語りかけながら、アルフレッドは声を低く、小さくしていく。

「そいつぁ構わねぇんだが、いつも以上に慎重なんだな?」
「実はな――」

 その質問を受けて、アルフレッドは先刻まで開かれていた同窓会≠フ経緯を掻い摘んで説明する。
 勿論、それだけではヒューには意味が通じない。少なくとも、最大限の警戒を要する理由は
同窓会にちなんだ話には含まれていなかった。
 「だから、それがなんだってんだよ」と、ヒューが頻りに尋ね返したのも無理からぬ話であろう。

「――ゼラールも中継で加わったことは話したな?」
「おめーのマブダチだろ、へいへい」
「そんな風に思ったことは一度もないが、……そのときに会話の内容を盗み聞きされた可能性がある」
「はあァ? 盗み聞きだぁ? おいおい、おめーのお友達≠ヘとんでもねぇ間抜けなのかよ。
普通、幹部クラスっつったら秘密回線でも持ってそうじゃね〜の。傍受でもされたってか?」
「傍受と言うほど高度なものではないかな」
「盗聴器?」
「もっと原始的なやり口だよ。中継用のカメラにはゼラールとトルーポしか映っていなかったが、
室内は奥行きもあって広そうだった。カメラの裏側に誰かが控えていても不思議ではない」
「……仕込みありきの盗み聞きか。お前、マブダチまで疑ってやんなよな〜。
映り込んでねぇ死角に注目したのはイケてるけどよ」
「俺たちのやり取りや、……俺がボルシュグラーブの動きをコントロールしようとしたことを、
誰かが告げ口しないとも限らない。ゼラールを飛び越えて、ギルガメシュの上層部へ直接な」
「……疑うにしても、ちょっと行き過ぎじゃね? 洗脳紛いの罠を仕掛けたって言ってたけどよォ、
ソレに気付く人間のほうが少ねぇと思うぜ」
「コールタンを見てみろ。あんなタチの悪い裏切り者が出るんだぞ、ギルガメシュは。
何処で誰が何を企んでいるか、分かったものじゃない。
……俺が思っていた以上にゼラールは求心力がある。軍団も大きく膨らんできている。
それだけ色々な考え方が入り混じると言うことだ――お前なら何が言いたいのか、分かるだろう?」
「出世狙いか、保身(わがみかわいさ)か……上(アタマ)が強くても、下まで同じとは言い切れねぇわな」
「だからこそ、佐志の守りを固めて欲しい。佐志を抱えておくのが不都合だと分かれば、
コールタンは俺たちを切り捨てる筈だ。監視船からMANAを撃ち掛けてくるかも知れない」
「のんびりムードはおしまいか〜。軍師サマは人使いが荒ェよ、ホント」
「煩い、黙れ」

 勿論、アルフレッドはムラマサの存在など知る由もないが、
想定される事態として、カメラの死角に潜む気配にも注意を払ったわけだ。
 尤も、その警戒心はヒューが指摘した通りの取り越し苦労で終わりそうだが、
手抜かりで損害を出してしまうより遥かに良かろう。
 世に『名探偵』として知られるヒューも、人間の醜さを厭と言うほど目にしてきた身だ。
過剰ではないかと呆れながらも、アルフレッドの懸念は理解出来るのだ。
 一旦、承服してしまうと、流石に『名探偵』は飲み込みが早い。
「お孝さんや源さんに相談すらぁ。夕方までには案もまとまるよ」と自信ありげに答えた。
 受話口から鈍い音が零れてきたのは、任せておけとヒューが自身の胸を叩いたからであろう。

「何処で誰が聞き耳を立てているか分からないから、連絡も最低限に留めるぞ。
今から離れ島の情報をメールするが、その後は合流まで電話も何も禁止だ。
緊急時以外には連絡をしないことにしてくれ」
「構わねーけど、……せめて、お袋さんには声を聞かせてやれよ」
「私情を挟んでいる場合ではない。俺に言えることはそれだけだ」
「――ったく、ガッチガチだね〜。親ってのは子ども声を聴くだけで死ぬほど安心するんだぜ……」

 意識の上でも争乱の渦中へと戻ったアルフレッドは、今や作戦家らしい顔付きとなっている。
連合軍諸将を相手に史上最大の作戦を論じたときと同じ表情(かお)を湛えていた。

「……頼んだからな――」

 通話を終えてモバイルを仕舞ったアルフレッドは、
ボルシュグラーブが去っていった海を言葉なく見つめている。
 最早、航跡は白波に揉み消されており、旧友が在った余韻など何処にも感じられない。
 それきり、アルフレッドはモバイルを取り出すこともなかった。
 どうしても自分のほうから家族に連絡を取ることが出来なかった。
通話内容の傍受を恐れたわけでも、ヒューとの取り決めを遵守する為でもない。
「喪失」の二字から押し寄せてくる感情が、モバイルに触れることを許さないのだ。
 「親ってのは子ども声を聴くだけで死ぬほど安心するんだぜ」とヒューは語ったが、
今の自分には両親の声を聞く資格さえないようアルフレッドには思える。
 フィーナを必ず守り抜く――いつか交わした父との約束さえも守れなかったようだ。
無論、確定されたわけではないが、その可能性は極めて高いらしい。

(――どの面下げて、俺は……)

 ヒューから伝達されたであろう取り決めを守っているのか、ルノアリーナからは電話も電子メールもない。
葛藤を誤魔化しながらモバイルを起動させても、液晶画面には着信通知など表示されなかった。
 そのことが、現在(いま)のアルフレッドには却って救いであった。


 そして、連絡から二日後――別荘のある離れ島の岸辺に一艘の武装漁船が横付けした。
「源さん」こと権田源八郎が駆る『星勢号』である。
 アルフレッドとマリスを無事に迎えることは言うに及ばず、
佐志と強い絆で結ばれたエトランジェとの再会を源八郎楽しみにしていたようだが、
ボルシュグラーブの指揮下にある彼らは、既にバブ・エルズポイントを発っている。
 ボスたちと入れ違いになったことを聞かされた源八郎は、
「なんでェ、全速力で飛ばして損しちまいましたよ」と、無念そうに肩を落としたものである。

「随分な言い草だな。仲間の無事を祝ってはくれないのか?」
「アルの旦那は殺したって死にゃしませんからね。ハナから心配なんかしちゃいませんでしたよ」
「言ってくれるよ。一時は本当に覚悟も決めたんだがな」
「へいへい、話半分で聞いときましょうか」
「おい、冗談じゃないぞ」

 互いに遠慮のない軽口を叩き合いながら星勢号へと乗り込んだアルフレッドは、
舵を握る源八郎に対して、マイクが治める貿易の都――ビッグハウスへ向かうよう頼んだ。
家族や仲間が帰還を待ち侘びる佐志ではなく、冒険王の本拠地へ海路を取れと言うわけだ。
 決死隊を率いてAのエンディニオンに突入すると決めたとき、
本来、『在野の軍師』が担うべき史上最大の作戦≠フ統括を冒険王へと委任していた。
 マイクが自ら進んで引き受けてくれたのだ。異世界での破壊工作と言う難しい試練へ臨むアルフレッドに
余計な負担を掛けまいとする心遣いである。
 しかし、結果としてアルフレッドはBのエンディニオンに残留してしまった。
それはつまり、マイクに不必要な責務(つとめ)を押し付ける理由が消失したことをも意味している。
 モバイルにて電話を掛けようとも考えたのだが、一度は大変な役割を承知してくれた相手である。
直接、顔を合わせて事情を説明するのが道理であろうとアルフレッドは判断したのだった。
 一時は佐志に滞在していたマイクも、現在はビッグハウスに戻っている。

「旦那は世界一の律義者だなァ。ずっと敵地に居て身体だって疲れてるでしょうに」
「いや、もう本調子に戻した。休暇と言うのも妙な話だが、それなりに快適だったんでな」
「ははァ、ヒューの旦那が言ってた通りですかい? 色っぺェウワサが飛び交ってますぜ?」
「ヤツの言うことは無視しておけ」

 冷やかしの声を受け流しつつ甲板に腰を下ろしたアルフレッドは、
今し方、話題に上ったヒューのモバイルへと電話を掛けた。
 家族に対する連絡は躊躇してしまい、この二日間はモバイルへ触れることも忌避してきたアルフレッドだが、
仲間とのやり取りに於いては、感覚そのものが別人の如く切り替わってしまうらしい。
登録されているデータからヒューの電話番号を検索する操作には、少しの迷いもなかった。
 寄り添うように真隣へ座ったマリスは、アルフレッドがモバイルを取り出したことにも驚いている。
両親にだけは無事を報せたほうが良いと促しても、彼は頑なに聞き入れなかったのだ。

「――よォ、色男。源さんとは合流出来たかい?」

 数回、呼び出し音が鳴った後にヒューは通話に応じた。

「風説の流布は重大な犯罪だぞ。本当に訴えられたくなかったら、適当なところで打ち切れ」
「俺っちは別にそんなコトしてねぇって。マリスの手厚い介護でも受けてるんじゃねぇかって、
みんなに説明しただけだよ。勿論、色々な意味で手厚く≠チてね。
俺っちはそれしか言ってねぇけど、甲斐甲斐しいカノジョと一つ屋根の下って聞いたら、
みんなもエロエロな想像しちゃうだろうねェ」
「お前はそれしか言えないのか」
「……ヒューさん、下品な冗談はそろそろやめて下さい。アル君も返答に困っていますよ」

 受話口にはセフィの声も混ざっている。どうやら、向こうはスピーカーフォンの状態に設定しているらしい。

「首尾はどうだったのです? ヒューさんからの伝聞では思い通りだったみたいですけど」

 悪ふざけの多い不真面目なヒューと違って、セフィの紡ぐ言葉は簡潔明瞭である。
彼も諧謔(ユーモア)を好む性格なのだが、時と場合≠ニ言うものを弁えているのだった。

「いずれ詳しく聞かせるが、それに関しては期待通りと言ったところだ。
難航はしないとは思っていたが、ボルシュグラーブ――俺の旧友の単純さに感謝するしかないよ。
思っていた以上に容易く落ちてくれた。これでまた、ギルガメシュと対する為の戦略で有効な一手が増える」

 アルフレッドの脳裏にはボルシュグラーブから送られてきたメールの文面が浮かんでいる。
液晶画面に表示されたのは「アドレス確認のためにメールを送信します」と言ったような、
如何にも彼らしいシンプルな文面であったが、重要なのは何が書かれていたかではない。
 ボルシュグラーブがアルフレッドに――敵≠ナある筈の相手に何の警戒心も抱いていないことが、
メールを通して明らかとなったのである。
 ギルガメシュの戦略についても相談したいと、ボルシュグラーブは話していた。
『アネクメーネの若枝』の一員ともあろう男が、だ。

「上手くいったようですね。『ギルガメシュの内情を入手する手段が得られるかも知れない』なんて、
ヒューさんから伝え聞いたときにはまさかと思いましたけど、意外と呆気なかったですね。
こうなったら、こちら側が先手を打ち易くなるというものです」
「性格的にはなかなかのクソだと思うけどね。ま、それはともかく、おめ〜はイイ仕事をしてくれたよ」
「賞賛の言葉など必要ない。どうせお前たちには悪態を吐きたくなるくらいに
面倒な仕事を頼むだろうからな」
「聞いたか、セフィ? 俺っちの言った通りだろ? 人使いの荒さはギルガメシュ以上だぜ、こいつ」
「バカが何も知らずに踊ってくれているんだ。利用出来る内に打てる手は全て打っておく。それだけだ」

 ヒューとセフィを相手に今後の戦略を論じていくアルフレッドの横顔を、
マリスは頭(かぶり)を振りながら凝視していた。
 このときになって、アルフレッドが送話口に投げる言葉を以って、ようやくマリスは彼の真意を理解したのだ。
 ボルシュグラーブに友好的な態度で接したのも、旧交を温める手段だと思われたメールアドレスの交換も、
どれもこれもがギルガメシュに対抗する為の策に過ぎなかったのだ。
 アルフレッドとボルシュグラーブ、ふたりの交流を微笑ましく見守っていたマリスにとって、
この行いは到底容認出来るようなものではなかった。彼は「信頼」と言う二字を最低の形で裏切ったのである。


「……アルちゃん、ボルシュグラーブさんとお話ししている裏で、
このようなことを考えておいでだったのですか? このような、人として恥ずべきことを……」
「――マリス、今、電話中なんだが……」
「アルちゃんっ!」

 癇癪を起こしたようにマリスが大声を張り上げる。
 送話口に手を当てて通話を中断したアルフレッドは、如何にも面倒臭そうにマリスへと向き直った。
 零れ落ちそうなくらい大きな瞳には、珍しく憤怒を漲らせていた。
マリスとはアカデミー以来の付き合いだが、このような表情(かお)はアルフレッドも初めて見る。

「アルちゃんは、アルちゃんはボルシュグラーブさんを裏切ったのですか!?」
「そうだ。それが何だ?」

 逡巡もなく裏切りを肯定するアルフレッドに眩暈を覚えるマリスだったが、
ここで引き下がるわけには行かない。懸命に自らを鼓舞しながら恋人≠フ仕出かした非道に立ち向かう。

「何だ――ではございません。ボルシュグラーブさんはアルちゃんを友人だと思っていたから、
アルちゃんを信用していたから、手厚く介護をして下さったり、何の疑いもなく色々とお話し下さったのですよ」
「お陰で思わぬ収穫があった。俺たちには有益だ」
「ですから、それが……――それなのにアルちゃんはボルシュグラーブさんのお気持ちを踏みにじったのです。
優しい心尽くしを叩き壊すような真似をなさったのです。
友人を欺くなど……人としてやってはいけないことを行うなんて、何と非情なことをなさるのですか!?」
「煩い、黙れ」
「いいえ、このようなことを目にして黙っていられる筈がございません。
恋人として、そして、ひとりの人間としての立場から言わせていただきます。
アルちゃんの振る舞いは真っ当なものではございません! 表向きは愛想良く振舞っていながら、
実際はボルシュグラーブさんを嘲っているのです! 申し訳ないとは思わないのですか!? 
そんなアルちゃんなんて、わたくしは見たくもありませんわ!」
「だったら、見なければいい」

 アルフレッドの言葉は、どこまでも冷たかった。

「第一、裏切るだなんて言う言葉遣いは不適格だ。 俺は元々あいつを利用しようと思っていた。
心変わりをしてあいつを害することになったわけではない。そこを間違えるな」
「そのような詭弁など聞きたくもありません!」

 友人の気持ちを無碍に扱うアルフレッドにはマリスも深い憤りを覚え、
痛烈な批判を浴びせたのだが、彼は恋人≠フ声に耳を傾けようとはしない。
 冷淡と言うよりも酷薄と呼ぶのが相応しいような態度に、マリスの怒りは天を焦がすほど逆巻いた。
 尋常ならざるふたりの様子を源八郎も心配そうに見守っているが、
如何せん舵を握り締めたままでは間に割って入ることも叶わない。
息子の源少七も同行していないので、操舵を交代することも出来なかった。
 感情をぶつけ合うのみと言う最悪の平行線を辿りつつあった両者を見兼ね、
その間に立ったのは、電話の向こう側に在るヒューとセフィであった。
 癇癪としか言いようのないマリスの絶叫も受話口は拾っていたようだ。
 しかし、ヒューたちの介入はマリスにとって望ましい展開とはならなかった。
 先ずヒューがマリスと通話を代わるよう呼び掛けたのだが、
彼女が耳に宛がった途端に「今はそう言うきれい事を言ってる場合じゃねえんだ」と
厳しい叱声(こえ)が飛ばされたのである。

「言いてえコトは分かるけどよ、俺っちらはギルガメシュと何をやってんだ? 
仲良しクラブを作ろうとしているんじゃねえだろ? 奴さんたちと一戦構えてんだ。
そうである以上、ギルガメシュのアンちゃんを騙くらかしたって非難されるような筋合いはねえ。
むしろ当然の事じゃねえのか? 言い方は悪いかも知れねえが、騙されるほうが悪いってな」
「そうですね。ギルガメシュは私たちの――いえ、世界≠フ敵なのです。
アル君だって好きで御友人を欺いたわけではないでしょう。
已むに已まれぬ事情があるのです。苦しい心中を察してあげて下さい。
ましてや、マリスさんが恋人だと仰るのなら尚更のことでしょう」

 ヒューに加えて、平素は紳士然と構えているセフィまでもがアルフレッドの悪辣ぶりを擁護する。

「……そう言うことだ。お前が口を挟むような問題じゃない。
文句があるのなら、ギルガメシュを殲滅する為の策でも挙げてからにしろ」
「アルちゃん……」

 マリスとしては納得がいかないのだけれども、突きつけられた厳しい現実の前に反論する手立てもなく、
苦々しい表情で押し黙るしかなかった。
 友人を物のように扱っても冷徹なままでいられるアルフレッドが
自分の知っている最愛の恋人≠ニは別人のように思えてならず、
果てしない虚脱感を抱えたまま、彼女は唇を噛むのだった。




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