10.SOLID STATE SURVIVOR


 ホウライの稲光を纏うことが出来ない程に疲弊し、四肢に至っては満足に動かせず、
死――イリュウシナから言わせれば自滅――以外の結末が望めそうにない状況まで
追い詰められたアルフレッドだが、ビクトーを睨み返す深紅の瞳は未だに輝きを失っていない。
 満身創痍であることは言うに及ばず、奥の手≠ニ定めてきた大技を悉く破られた現在(いま)、
攻守を組み立てる為の選択肢すら欠いている筈なのだが、
それにも関わらず、アルフレッドの面には絶望の影など感じられなかった。
 ビクトーの息の根を止める――その結末が私闘の果てに在ると信じて疑わず、
昏(くら)い闘気で満たされた双眸を爛々と輝かせていた。

「……どこまでも神人気取りと言うわけか……おめでたいな、貴様と言う男は……」

 呼吸(いき)こそ荒いものの、ビクトーを詰る口調は淡々としており、
彼の周囲に立つ人間には、その冷静さが却って不気味であった。
 肉体への負担を顧みずにホウライを使い続け、極限まで消耗したアルフレッドを
「自滅」と罵ったイリュウシナでさえも、
彼がまだ逆転の策を残しているのではないかと恐れを抱き始めていた。
 瀕死の状態まで追い込まれながら斃れる気配のない『在野の軍師』が心の底から怖かった。
 己の身を巨人と化すトラウム――『フーリガン・スタナー』を発動させたビクトーは、
エンディニオンに於いて最も神人に近付くのだとイリュウシナは信じている。
 それはつまり、悪しき力を退ける正義の象徴として、
暴力の蔓延る地上に君臨したとも言い換えられるわけだ。
 事実、災いの象徴たる『在野の軍師』は、最後の一手であっただろう輝ける牙≠ウえ
フーリガン・スタナーの威力によって叩き折られていたのである。
これこそ破邪の顕現と呼ぶべきものであろう。
 大地の力を司る神人――シャティは、如何なる攻撃を加えられようとも山の如く動かず、
ありとあらゆる鉱物を断つと謳われる名剣も、竜の鱗を射抜く矢玉さえも弾き飛ばすと云う。
 フーリガン・スタナーは、まさしくシャティと同等の堅牢さを発揮し、
アルフレッドの攻撃を全く寄せ付けなかったのだ。
 風を司るディーファにも匹敵する技を披露し始めてからと言うもの、
アルフレッドは接近することさえままならなかったのである。
 現在(いま)の彼は牙を失った獣も同然であった。
 戦闘を進める為に必要な手立てを全て奪われたのだ。
正常(まとも)な思考の持ち主であったなら、絶望に支配されて抵抗を諦める筈である。
 力弱き人々を虐げるアウトローが典型だった。どれほど傲慢に振る舞っていても、
他者を屈服し得る武器を奪われ、絶対に敗れることはないと言う自尊心を叩き折られた瞬間、
呆気ないほど容易く崩れ落ちるのだった。
 この類例に当て嵌めるのであれば、アルフレッドの場合は最も深刻と言えよう。
最早、構えを取ることさえ困難な様子であるが、それは武術家にとって致命的であった。
 それでも、『在野の軍師』は己の勝利を――否、ビクトーの死と言う決着だけを見据えている。
 相手が取るに足らないアウトローであったなら、
死を前にして正気を失った人間の憐れな妄念と切って捨てるところだが、
アルフレッドには底知れない何か≠ェある。
 何か≠ネどと言う抽象的な想念(もの)ではない。この男を衝き動かしているのは、
目に入る全てを破壊し、世に災いを振り撒く復讐の狂気なのだ。
 正気を保っている筈がない。殺戮に狂った人間が理性など必要とするわけもない。
彼に取り憑いた妄念は決して満たされることがなく、それ故に「狂気」の二字を以て表されるのだった。
 アルフレッドより噴き出した狂気は、圧倒的な恐怖と化してイリュウシナの全身を這い回っている。
死神≠フ如き眼光で睨(ね)め付けられた瞬間と同等か、
それを上回る戦慄が駆け抜け、心底より起こった震えと共に立ち竦むばかりである。

「――或るとき、摂理を司る神人に妖術自慢のならず者が挑みかかった。
自分の術は神人の神威(ちから)よりも遥かに優れている。
神人の頂点に立つ『聖帝』さえも自分の術を見れば平伏すると、そのならず者は常々豪語していた。
そこでレフはならず者に力比べを提案した。自分と競走をして、どちらが本当に優れているか決めようと言うのだ。
妖術は使い放題。勝ったほうは相手に額づくこと。自分に好都合な条件で持ち掛けられては、
ならず者も勝負を受けないわけにはいかなかった。……こんな寓話(はなし)、訊いたことがあるだろう? 
いや、貴様なら詰まりもせずに諳んじるか」

 夫のトラウムは神人にも等しいと断言したイリュウシナや、
「神人気取り」のビクトー当人を挑発する狙いなのか、アルフレッドも神々にまつわる寓話を語り始めた。
 彼自身は信仰そのものを既に棄てている。
 ギルガメシュ来襲によって未曾有の危機に瀕したエンディニオンを憂うマコシカの酋長――レイチェルは、
嘗て伝説の秘儀を執り行い、創造女神イシュタルとの交信を試みていた。
史上類を見ない暴威に脅かされた人類を導けるのは、
最早、全知全能のイシュタルを措いて他にないと考えた末の決断であった。
 そして、事態は思わぬ展開を迎える。マコシカの酋長の秘儀に応じて降臨したイシュタルは、
神託を授けて人類を導くどころか、救済そのものを拒んだのである。
 アルトに於ける女神信仰を司る立場に在るレイチェルは、
これもまたイシュタルが与えた試練と解釈しているが、
故郷の焼亡と言う悲劇に見舞われたアルフレッドには彼女のような捉え方は出来ない。
 救いを希(こいねが)う弱々しい手を払い除け、絶望を植え付けたイシュタルは、
アルフレッドにとっては畏敬ではなく憎悪の対象でしかなかった。
 無論、イシュタルの仔ら――神人とて同罪≠ニ見做して蔑んでいる。
 その一方でマコシカの民と関わることが多いアルフレッドは、
神人に関する知識は人並み以上に持ち合わせている。
 今し方、彼が例に引いたのは摂理と行政を司る神人――『レフ』の寓話であった。
イシュタルの名のもとに他の神々を束ねることから『聖帝』とも呼ばれる偉大な存在である。

「――更にレフは続ける。百の山を越えた先に天まで届く古木がある。
その古木へ先に辿り着いたほうの勝ちとする。件のならず者は敗者が額づくことを再確認した上で頷いた」
「……意外ですね。伝説の類にはアルフレッド君は関心がないと思っていましたよ。
しかも、このマイナーな伝承をご存知とは。余程、熱心に古文書でも読み込んでいなければ、
行き着くことだってありませんよ」
「関心はない――が、必要に迫られてマコシカの伝承を調べたことがある。
そこに記されていた内容を振り返っただけだが、……やはり、くだらないおとぎ話にしか思えないな」

 そのくだらないおとぎ話≠、アルフレッドは無表情で淡々と語っていく。

「――そして、ならず者は自慢の妖術を駆使して百の山を半日足らずで駆け抜けた。
古木へ辿り着いたときにはレフの姿はどこにもない。
道すがら落とし穴など多くの罠を張って来たのだから当然だろうと、ならず者はほくそ笑んだ。
卑怯に違いはないが、妖術は使い放題と言う取り決め。ならず者に言わせれば、罠に掛かるほうが悪い。
遅れてくるレフを待つ間、ならず者は神人に勝った記念として古木に自分の名前を書き記した。
それでも、まだレフは到着しない。いよいよ、することがなくなったその男は、暇潰しとばかりに昼寝を始めた。
どれくらい寝ていたかは分らないが、彼が目覚める頃になって、ようやくレフが姿を現した」
「――すると、駆けっこのゴールに決めていた古木が消えてなくなっている。
驚く男の目の前に聖帝レフは自分の人差し指を突きつけた。
そこに書かれていたのは男の名前。筆跡も彼のもの。古木に書いた筈のもの――でしたね?」

 アルフレッドに合わせてビクトーも件の伝承を語り始め、
大山場まで辿り着いたところで答え合わせを求めるような眼差しを向ける。
 頭上から見下ろしてくるビクトーに対して、アルフレッドは無言のまま鼻を鳴らして見せた。

「聖帝レフ曰く――驕れる者は身も心も小さく、誰かの掌の上で転がされていることにも気付かない。
そして、神々は大いなる力を以て地上の全てを見守っている。
……かくして、ならず者は自分の愚かさを反省し、心を入れ替えた。
『めでたしめでたし』と結んでよろしかったでしょうか?」
「めでたいのは貴様の頭だ。お粗末にも程がある作り話に踊らされる莫迦が。改心したならず者はどうなった?」
「『ワカンタンカのラコタ』に選ばれましたよ。三種の神器を振るう大勇者に……」
「これ以上の茶番があるか。作り話にしても出来過ぎていて現実味がない」
「嘆かわしいことですが、キミの目はどんなことでも歪んで見えてしまうようですね。
どんなに道を誤った者でも必ずやり直せると聖帝レフは諭されておられるのです。
キミはもっと早くに神人の教えに耳を傾けるべきでしたね――いえ、今となっては手遅れですか」
「笑わせるな、これは詐欺だ。自分の指を古木と見せかけて男を化かすなど摂理の神人がすることか? 
最初から恥を掻かせるつもりで罠を張る辺り、悪質としか言いようがない」
「人はそれを戒めと言うのですよ。聖帝レフは敢えて厳しい方法で人間の無力さを示されたのです。
それもまた摂理の教えと私は考えております」
「フン――詐欺師紛いのレフにご執心とは、貴様には似つかわしいじゃないか」

 マコシカの伝承によれば、イシュタルの仔たる神人は数え切れないほど存在しており、
それぞれが世界を構築する為の元素や概念を司っていると言う。
神人の力なくしてエンディニオンは成り立たないのである。
 そして、『聖帝』の異名を冠するレフは、秩序の大原則たる摂理を以てして数多の神々を束ねていた。
 摂理と言う概念がレフを通じて地上にもたらされたからこそ、人間の心に善悪を分ける道徳が宿り、
ひいては社会を組み上げる骨子――法律の誕生に繋がったと、マコシカの伝承では語られている。
 それ故にアルトの――ノイでも同様であろう――弁護士の中にはレフを好んで信奉する者も多い。
アルフレッドとて信仰心を棄てる以前は、聖帝の加護を求めて祈りを捧げたのである。
 その反動と言うべきであろうか、現在(いま)は摂理や正義の顕現を気取る人間が視界に入るだけで
神経が逆撫でされるのだった。

「レフになりきってならず者を弄ぶのは、さぞ楽しいことだろうな。
他人を掌の上で転がすような芸当≠燒ウ力を諭す為の戒めと言うわけだ。
……神人と肩を並べただけあって、上から見下ろすのが好きで堪らないようだな」

 アルフレッドの発した侮蔑の言葉にはビクトー本人ではなく傍観者たるイリュウシナが低く呻き、
痛い所を突かれたような表情(かお)を見せた。
 幾らか狼狽を孕んだ表情からアルフレッドの言わんとしている意味を悟ったらしいザムシードは、
イリュウシナに向かって「蓋を開けてみれば、単に痛々しい神人オタクだったワケかい」と、
追い撃ちの如く皮肉を浴びせた。
 やけに生暖かい眼差しは言葉以上にイリュウシナを揺さ振ったらしく、
「……信心深いって言って欲しいわね」と小さな声で言い返した後は、歯噛みしながら俯いてしまった。

「お言葉を返すようですが、畏れ多くも聖帝レフと肩を並べたと思ったことは一度もありませんよ」
「悪趣味な猿真似をしておいて良く言う。……見下げ果てた愚かさだけ見れば、貴様とレフはそっくりだ」
「真似ではなく、その教えに倣っているのですよ、アルフレッド君。
スカッド・フリーダムの本質は『義』。それは聖帝が示された道にも通じる道ですから」

 レフが地上にもたらした摂理とスカッド・フリーダムの『義』は本質的には同一である――
そのようにビクトーが説いた瞬間、アルフレッドはこれ見よがしに唾を吐き捨てた。
 言わずもがな、それはビクトーの言葉を真っ向から否定する振る舞いであった。

「そりゃあ酷いんじゃないかのぉ? レフ様が正義のお手本ってこたぁ間違いないじゃろう?」

 無礼極まりない態度を見咎めるロクサーヌであったが、
アルフレッドはこれを黙殺し、ただひたすらにビクトーを睨み続けている。

「聖帝の示した道に倣うだと? ……それが神人気取りだと言っているんだ。
頭が沸いた人間は、これだから始末に負えない」
「仰っている意味が分り兼ねるのですがね。同じ問答を繰り返しているとしか――」
「先程の芸当=\―おそらくギャング団やクリッターの群れなど集団相手に使うものだろう? 
連射したホウライの弾も一度に吹き飛ばしてくれたが、一対一で使うには効果の範囲が広過ぎる」
「いきなり話が飛びましたが……その推理は『遠からず』と答えておきましょうか」
「大した芸当≠セ。近寄ることも出来ないまま徹底的に打ち負かされたら、
貴様を神人か何かと錯覚しても不思議ではないな」

 「神人気取り」と扱き下ろす一方で、アルフレッドは巨人の見せた芸当≠セけは素直に認めていた。
 不可視の打撃≠ヘ、まさしく神業の領域であり、トラウムの力こそ借りてはいるものの、
これを自由自在に操るビクトーは、『荒ぶる暴徒の鎮圧者』に相応しい技量と言えよう。
 件の伝承に於いて、摂理を司る聖帝レフは、ならず者を掌の上で転がし、
人間の脆弱さを突き付けて改心を促していた。
 『フーリガン・スタナー』より繰り出される不可視の打撃≠ヘ、
ビクトーの言行から察するにレフの伝承に着想を得て練り上げた秘技と思って間違いなさそうだった。
 アルフレッドも言及しているが、両手の形を変えることによって衝撃波を放ち、
これによって相手の接近さえ許さないのだ。見上げるほどの巨人すら恐れない剛強な性情の持ち主であっても、
手も足も出ないと身を以て思い知れば、降伏せざるを得なくなるだろう。
 ならず者を戒めたレフのように、フーリガン・スタナーも相手に無力を悟らせて取り鎮めるのである。

「そうして心が折れたアウトローどもを見下ろして悦に入っているのだろう、貴様は。
ならず者を弄んだレフと同じようにな。……吐き気がするほどの腐り方だ」
「悪趣味と繰り返されたのは、そう言う意味でしたか――残念ながら、そこまで浅はかではないつもりですよ。
勿論、『アウトローの心を折る』と言う点は否定しません。
フーリガン・スタナーは、読んで字の如く暴徒の鎮圧こそが目的。
悪しき心を挫くことによって、無益な殺生をせずに済みますから」
「……その甘ったれた精神が愚かで下らないと言っているんだ……ッ!」

 不可視の打撃≠神業と認める一方で、これほど下らない芸当≠烽ネいとアルフレッドは蔑んでいた。
 フーリガン・スタナーが発動されて以降、
アルフレッドは一度たりともビクトーへ有効な痛手(ダメージ)を与えられていない。
 それにも関わらず、ケンポーカラテを振るっていたときのほうが恐ろしく感じられたのだ。
ビクトーが切り札≠ニ謳った巨人化のトラウムも、神業の如き不可視の打撃≠焉A
アルフレッドにとっては戦慄すべきものではなかった。
 恐れ慄くどころか、「この程度≠フ小細工に頼るつもりか」と呆れたくらいである。

「この期に及んで血で穢れることを嫌がっている。
神人を気取っていれば、甘ったれた臆病を正当化出来ると思っているのか?」
「アルフレッド君、キミが何を言いたいのか、私には――」
「あんな芸当≠ナ俺を殺せるのかと訊いたんだ。恍(とぼ)けるな、見苦しい……」
「な……ッ」
「お前の切り札≠ニやらで人を殺せるのか?」

 暴徒を鎮圧せしめる不可視の打撃≠ナ人を殺すことが出来るのか――この一点をアルフレッドは質していた。
 その直後、イリュウシナは弾かれたように夫を仰いだ。
 見れば、これまで神人の如く泰然と構えていたビクトーの面が苦しげに歪んでいるではないか。
 大地の力を司るシャティのように如何なる攻撃も受け付けなくなった筈の巨人が、
アルフレッドの言葉に気圧されてしまっているのだ。

「――さあ、今すぐ俺を殺してみろ。何の為に図体を大きくしたんだ? 踏み潰せば済むことだろう?」

 巨人の表情が曇ったと見て取ったアルフレッドは、強迫にも近い語調で「自分を殺せ」と畳み掛けていく。
 しかし、ビクトーは――処刑人≠ニしてスカッド・フリーダムから遣わされた筈の男は、
不可視の打撃≠以てして放言ごとアルフレッドを仕留めるでもなく、ただただ押し黙ったままである。
 「自分を殺せるか」と問い掛けへの答えは、その沈黙に表れているようであった。

 アルフレッドの難詰とビクトーの沈黙は、ジャーメインも確(しか)と目にしている。
そこに彼女が見出したのは、両者の覚悟の違いだった。
 そして、ジャーメイン自身もまた己の為すべきことを全く見極めていた。
 今、この瞬間に於いては、ホウライも使えなくなる程に疲弊し、
更には右の肋骨に爆弾≠ワで抱えたアルフレッドを救うことが最優先だ――が、
嘗ての同胞や姉妹との戦いの先に何を目指すのか、改めて己に質したのである。
 クラリッサの心遣いを容れてスカッド・フリーダムに帰参すれば、
自分の所為で地に落ちてしまったバロッサ家の名誉を取り戻すことも出来るだろう。
それこそが果たさなくてはならない償いであることも承知している。
 しかし、その選択肢は、一度(ひとたび)立てた志を捨てることにも通じるのだった。
 ギルガメシュに殺された仲間たちの仇を討つ――その思いを携えて故郷を去ったのだが、
今や彼女の戦いは報復だけではなくなっていた。
 攘夷(じょうい)と言う名の狂気に呑まれ、犠牲になったノイの難民にも遭遇している。
ワーズワース難民キャンプで発生した暴動は、ジャーメインの心に深過ぎる傷を残していた。
 スカッド・フリーダムを脱退した後(のち)、自らの心に基づいて暴力の荒野を渡り歩いてきた。
そこで目の当たりにした数多の悲劇が、彼女をギルガメシュとの戦いへと駆り立てるのだ。
 同じ悲劇を再び繰り返さない為にも、この争乱だけは必ず終止符を打たなければならなかった。
道半ばで志を捨てようものなら、己自身の『義』を二度とは信じることが出来なくなり、
生涯に亘って後悔の念が付き纏うだろう。
 そのような後悔などしたくはない――否、力弱き難民にこれ以上の犠牲が出ることは許せない。
これこそがジャーメイン・バロッサの『義』であった。
 故郷に留まり続け、スカッド・フリーダムと言う狭い世界の中の『義』に囚われていては、
決して見出せなかったことだと思っている。
 だから、ジャーメインは裏切り者の汚名を着たことを悔いてはいなかった。
 肉親の情を踏み躙ったと後ろ指を指されるだろう。
不孝への負い目が永遠に圧し掛かることは間違いない。
例え、救いのない責め苦が待ち構えているとしても、
ジャーメインはバロッサ家の一族に対する償いではなく
己自身の『義』を果たす為に生命を燃やすつもりである。

(――義の戦士の端くれとして、これだけは曲げられないから……ッ!)

 声ひとつ発することなく瞑目したジャーメインは、己が貫くべき『義』を心中にて念じる。
 ゴーストタウンで埋葬した遺骸が――攘夷思想の餌食となった難民の子どもたちが瞼の裏に現れ、
その瞬間に双眸を見開き、そこに灼熱の如き意志を輝かせた。
 ジャーメインが選ぶ路≠ヘ決まった。あるいは、既に決まっていたと言うべきかも知れない。
 この『義』を貫き通すには、心の片隅で疼いていた郷愁を断ち切り、まさしく独り立つ覚悟≠ェ必要なのだ。

「――故郷(タイガーバズーカ)は捨てないよ。
あたしにとって大切な一部なんだもん……捨てられるわけがないよ……ッ!」

 そして、ジャーメインは先程の問いかけに対する返答(こたえ)を紡ぎ始めた。

「……そう、それでいい。メイ、お前はバロッサ家の大事な――」
「でもね、クラリッさん……あたしはもう同じ場所には居られない。
あたしだけ≠ェ幸せな場所に帰ることは出来ないから……ッ!」

 自分だけが幸せな場所に戻ることは出来ない――
その言葉と、何よりも決然とした表情(かお)からジャーメインの思いを察したのであろう。
 クラリッサと対峙する妹を見つめながら、
グンダレンコは嬉しさと寂しさを綯い交ぜにしたような面持ちとなった。
 言わずもがな、クラリッサ当人も無念の表情を浮かべている。
道を違えた旧友を説得し、在るべき場所まで引き戻すことは、最早、不可能であると悟ったのだ。

「……自分のことを大事に出来ない人間が他人(ひと)の為に働けると言うのか、メイ? 
その選択が不幸せにするのはお前ひとりじゃないんだぞ?」
「別に自分を生贄みたいにするつもりはないよ。生命を張ってでてもやらなきゃいけない戦いがあるだけ。
それにさ、たった一度の選択で幸せかどうか決まっちゃうくらい簡単なモンじゃないでしょ、人生は。
要らないものだって捨てない限り、いつかどこかで道は交わるよ。
……この世界に立ち止まってる人なんか居ないから!」
「どこまで甘いんだっ! 違えた道は二度とは交わらない! それが人間と言うものだ! 
……簡単に考えるんじゃない、たった一度の選択で狂うほど人生は重いんだッ!」
「誰かに――家族に守られて、甘えてばっかりじゃ人生を切り拓く力は手に入らないよ! 
……私は強くなりたい! 何があっても立ち止まらずに走り続けて、
本当の意味で誰かの力になれるくらい強くなりたいんだ!」
「それは子どもの我が侭と変わらない!」
「違うよ、クラリッさん。……今、誰かが戦わなきゃ不幸になってしまう難民(ひとたち)がいる。
その現実から目を逸らせるほど、あたしはもう子どもじゃない――ずっと子どもじゃいられないッ!」

 最後の賭けとばかりに改めて説得を試みるクラリッサであったが、
ジャーメインの答えは全く変わらなかった。変えようがないと表すのが正しかろう。
 人生の岐路で誤るべきではないと諭しながらも、己が無駄なことをしているとクラリッサは理解している。
さりながら、旧友と絶縁など想像したい筈もなく、
最悪の事態を思考(あたま)から押し出そうと努めていたのだが、
幾ら翻意を促しても聞き入れないジャーメインに根負けし、遂には諦めた様子で頭を振った。
 「子どもじゃないと言い張る人間ほど大人になり切れていないのだがな……」と言う呟きには、
クラリッサの無念が端的に表れている。
 それでも、クラリッサは旧友の信念まで否定することはなかった。
 ジャーメインより発せられる言葉は、熱量こそ高いものの冷静さは欠いていない。
頭に血が上った状態で反駁しているのではなく、己が心に決めた思いを述べているに過ぎないのだ。
 これこそ信念と言うものであり、他者の言葉では変えようがないと諦めざるを得なかった。

「誰よりも強くなって! 救える筈の生命に手を差し伸べる為にも!
今度こそ、あたしは故郷から旅立つ――それがあたしの答えだよッ!」

 覚悟と共に信念を吼えた瞬間、ジャーメインの右拳から灼熱の炎が噴き出した。
 火の力が結晶化したCUBE――『MS‐FLM』を掌中に握り締めていればこその爆炎であるが、
天をも焦がさんと燃え盛る紅蓮の揺らめきは、彼女が心中に宿した覚悟の顕れのように思えてならない。
 立ちはだかる壁がどれほど分厚くとも焼き尽くし、信念の道を貫かんとする意志の強さは、
CUBEが熾す爆炎よりも遥かに烈しかろう。火影(ほかげ)を映した曇りなき双眸がこれを物語っていた。
 拳にも心にも決意の炎を燈(とも)して起つ末妹にグンダレンコは目を細めている。
 『在野の軍師』の身辺調査に附帯する情報と言う形ではあるものの、
ジャーメインが難民と関わったこともグンダレンコたちは承知していた。
ワーズワース難民キャンプで発生した痛ましい暴動に関わったことも把握している。
 言うまでもなく、それはスカッド・フリーダムを離脱した後に遭遇した出来事である。
上層部(うえ)から命じられた任務などではなく、己自身の意志で選んだ戦いを通じて多くのことを学び、
「自分だけが幸せな場所に戻ることは出来ない」と言う結論(こたえ)に達したのだろう。
 クラリッサの手前、口に出すことを憚ったものの、
己自身の『義』へ目醒めるまでに成長した末妹がグンダレンコには頼もしくて仕方がなかった。
 共に歩めなくなった悲しみよりも、末妹に独り立つだけの強さが備わったことのほうが何倍も嬉しいのだ。
 それが家族と言うものである。敵味方と言う立場を越えて互いのことを思い、喜び合えるものなのだ。
 だから、グンダレンコには何も言えなかった。故郷への帰還を促すような説得に加わるつもりもない。
末妹が心中にて燃え滾らせる『義』を認め、これと相対することが実姉の務めと心得たのである。

「……啖呵を切ることばかり上手くなったようだな」
「ただのハッタリじゃありませんよぉ〜。……うちのメイちゃんは強いコなんですからぁ〜」
「レンが胸を張ってどうするんだよ……」

 少しばかり時間が掛かったものの、クラリッサも旧友の成長を受け止めた様子である。
グンダレンコと同じように眩しそうに目を細めると、俯き加減となって頬を掻いた。
 その口元には自嘲めいた微笑を浮かべている。
 グンダレンコとクラリッサ――義の戦士たちに眩しく思えたのは、ジャーメインの成長だけではない。
 故郷の仲間から裏切り者の汚名で呼ばれたこの少女は、
自らの意志で選んだ戦いの中で一瞬たりとも迷うことなく語り尽くせるだけの『義』を見出した。
全存在を傾けても惜しくない信念を、だ。
 これに勝る皮肉な話もあるまい。現在(いま)のスカッド・フリーダムに最も欠けているものを、
あろうことか、裏切りの少女が手にしたのである。
グンダレンコたちふたりは、ジャーメインに対して羨望の念さえ抱いていた。
 組織としての義≠ノ囚われるばかりか、
護民官としての精神を保つ為の軸をも見失ったスカッド・フリーダムとは違う――
このような鬱屈を抱えているからこそジャーメインが眩しかった。
 『義』の精神を掲げ、この守り手を標榜してきたスカッド・フリーダムは、
今や内側から崩れ去ろうとしている。そもそも、『義』の在り様さえも破綻し掛けている。
 力弱き人々を護ると言う大義に反すると理由を付けて、
スカッド・フリーダムはギルガメシュとの直接対決を避けてきた。
 本隊が忌避してきた戦いへ身を投じたジャーメインは、
そこで掴んだ『義』の強さを火のCUBEの力を借りることで示し、
現在(いま)、裏切りの汚名を貫く覚悟で屹立しているのだ。
 仮に火のCUBEを手にしていたとしても、ジャーメインと同じ真似が出来るとは思えない――
これはふたり揃って共有する思いである。スカッド・フリーダムの『義』に胸を張れない以上は、
まやかしの炎しか熾せないだろう。

「行くよ、レン姉、クラリッさん……私は私の『義』の同志を――アルを見殺しにはしないッ!」

 まやかしなどではない灼熱の輝きを右拳に纏わせたジャーメインは、
確固たる『義』を携えてクラリッサに向かっていく。
 この攻防で決着をつけるつもりなのだろう。
CUBEより噴き出している炎の勢いが一等増したように見えた。
 最早、これまで――と、迷いを振り切って迎撃の構えを取るクラリッサであったが、
間合いを詰めようとする寸前になって、不意に行く手を遮られてしまった。
 何の前触れもなく彼女の正面にグンダレンコが回り込んできたのである。

「割り込みごめんねぇ――でも、ここは私に任せて欲しいの。……ここだけは誰にも譲れないのよねぇ」

 面食らった様子で足踏みするクラリッサに対して、グンダレンコは何時になく真剣な声を掛けた。
この場は――ジャーメインの迎撃は自分が引き受けると言い切った。
 実妹を傷付けることを躊躇い、ここに至るまで攻撃にも消極的であった人間とは思えない変調なのだが、
どうも義の戦士の使命に衝き動かされたわけではなさそうだ。
己の『義』を貫き通せるだけの技量が本当に備わっているのか否か、
妹の成長を確認するつもりのようである。
 紛うことなき私闘≠ナあり、七導虎の立場からすると本来は見過ごし難い行為であった――が、
当のクラリッサはグンダレンコを引きとめようともしなかった。
迎撃の役割を彼女へ委ねることにも異論はないわけだ。
 故郷を捨てるのではなく、今度こそ故郷から旅立つのだとジャーメインは言い換えていたが、
しかし、バロッサ家と訣別する事実だけはどうあっても変えられまい。
 グンダレンコが末妹との直接対決に踏み切ったのは、
肉親として果たさなければならないひとつの決着≠フ為であった。
 即ち、「けじめを付ける」と言うことである。
 姉妹の決着(けじめ)に余人が割り込むのは無粋以外の何物でもなく、
幾ら七導虎と雖も関知すべきではなかった。そのように分別を弁えているからこそ、
クラリッサもグンダレンコの背を見送るのみであったのだ。

「……良いわね、メイちゃん?」
「上等ッ! 願ってもないくらいだよッ!」

 果たして、バロッサの姉妹は正面切って向かい合うことになり、ここに峻烈なる蹴り技の競演が始まった。
 正確には「始まるかに思われた」と言うべきであろう。しかし、姉妹の激突は思わぬ展開を迎えることとなる。
 攻防そのものは、ここに至るまでと同じく格闘戦であった。
グンダレンコの側も今度ばかりは技を出し惜しみせず、全力を以てして末妹へ攻め懸かっている。
 渦潮でも作るかのような挙動(うごき)をグンダレンコが見せる度に、
その軌道を蒼白く煌く残像が追尾するのだが、これは幻などではなく質量を伴っていた。
 その意味では「残像」と言うよりも「分身」と呼ぶほうが正しかろう。
さりながら、ヒューのトラウム――『ダンス・ウィズ・コヨーテ』のように
分身それぞれが独自に意思を持って行動することはない。
本体≠ェ取った行動を少し遅れて反復しているに過ぎないのだ。
 それでも、多重攻撃であることに変わりはなく、
寧ろ、「少し遅れて本体の行動を反復」と言う時間差がジャーメインを苦しめていた。
 身を沈めながら脛を払うようにして左後ろ回し蹴りを繰り出したグンダレンコは、
これをジャーメインに防がれるや否や、高速の横回転を伴う足さばきでもって反撃の右拳を避け、
そのまま彼女の側面へと移った。
 当然ながら、本体≠追い掛ける分身も左後ろ回し蹴りを反復するのだが、
その頃にはグンダレンコ当人はジャーメインの背後まで辿り着いており、
質量を伴う残像の攻撃と合わせて自らも飛び回し蹴りを放った。
 分身と本体≠ニでジャーメインを挟み撃ちにしようと言うのである。
 時間差をつけて繰り出される二重の攻撃によって翻弄されたジャーメインには技の拍子を読むことが出来ず、
しかも、正面からは下段を脅かす後ろ回し蹴りが、背面からは上段を狙った前回し蹴りが同時に襲い掛かるのだ。
肉親の決着(けじめ)と意気込んで間もなく、回避どころか、防御すら難しい状況に追い込まれつつあった。
 グンダレンコは二種の異なる回転にジャーメインを巻き込み、その身を叩き壊そうとしていた。
 その上、グンダレンコが何らかの行動を取る度に残像の数が増えていくのだ。
 最早、二種の回転を組み合わせた同時攻撃などではなかった。
数体の分身と本体≠ノよって全方向から集中砲火を浴びているようなものである。
 ジャーメインにとって厄介なのは、本体≠フ行動を繰り返す分身の気配を察知出来ない点であった。
ホウライによって質量こそ得ているものの、生物ではないのだから当然と言えば当然であろう。
気配そのものが最初から存在しないのだ。
 それ故に分身には先読みが全く通用せず、視覚に頼って挙動(うごき)を見極めなくてはならなかった。
「グンダレンコ本人の行動の反復」と言う法則から逸脱しないことが唯一の救いである。
 ところが、蒼白く煌く分身には更なる仕掛けが施されており、
これがジャーメインの攻め手を大いに妨げるのだった。
 ようやく自身の射程圏内に捕捉して前蹴りを打ち込むと、分身は蒼白い火花を撒き散らしながら炸裂し、
更には稲妻に変化してジャーメインの身を打ち据えるのだ。
 厄介極まりない分身を粉砕するどころか、反対に浅からぬ痛手(ダメージ)を被る始末であった。

「くっそぅ……気合いひとつで突破出来るほどラクな相手じゃないよね、やっぱり――」

 その身を蒼白い稲妻で打ちのめされたジャーメインは悔しげに歯噛みしている。
 無論、姉が繰り出してきた技については古くから良く知っている。
難敵を相手にする戦闘(とき)や、「此処一番」と言う勝負所で放つ必殺の一手であり、
スカッド・フリーダムに身を置いていた頃はジャーメインも幾度か目にしたことがあった。
 まさしく切り札≠ニ呼ぶに相応しい秘技である――が、
手の内を知っていれば破ることも不可能ではなかろう。
 そのように高を括っていたジャーメインは、現在(いま)、自身の浅慮を心底より悔やんでいた。
件の秘技が実際に己に向けられたとき、全くと言って良いほど対処出来なかったのだ。
「手の内を承知しているのだから破れないワケがない」と、
一瞬でも考えたことが恥ずかしくて仕方がなかった。
 分身を蹴りでもって潰すや否や、後方へ跳ねようと試みていたが、
これは稲妻を警戒しての回避動作に他ならない。
 しかし、跳ね飛ぼうとしたところでグンダレンコの分身に退路を塞がれてしまい、
正面から迫る稲妻を全身に浴びることとなったのだ。
 末妹の行動を見越したグンダレンコは、彼女が退路として選ぶであろう位置に先んじて回り込み、
直線的な突きを放っていた。そのときには単調とも言える打撃に過ぎなかったのだが、
僅かな時間(とき)を置いてジャーメインを押し戻す一手に変わり、
ひいては稲妻を命中させる布石となった次第である。
 行動を先読みされていたのはジャーメインのほうだったのだ。
 先に末妹と対峙したイリュウシナも思考を読み抜き、技の拍子まで完璧に見破っている。
グンダレンコにも同じことが出来て当然と言うわけだ。

「――その通り、当然の展開(ながれ)だ。その技≠解放したレンがどれほど手強いか、
誰よりもお前が解っているハズだな、メイ」

 旧友の言葉を受けるようにしてクラリッサもまた呟きを洩らした。
 トラウムを発動させたビクトーに続き、グンダレンコも切り札≠繰り出している。
末妹の実力(ちから)を試す為にも一切の手加減をしないつもりなのだ。
 グンダレンコにとっては最大の切り札≠ナあり、
自身の磨き上げた武術とホウライを組み合わせた秘技には違いない――が、
ジャーメインは乱世そのものに戦いを挑まんとしているのだ。
この程度≠フ攻撃も凌げないようでは、掲げた『義』と共に時代の激流に押し流されることだろう。
 時代と組み合えるだけの実力(ちから)が備わっているか、己の秘技を以て確かめ、
その域にまで達していないようであれば、此処で再起不能にする筈である。
 これもまた肉親としての決着(けじめ)であった。
 改めて詳らかにするまでもなく、試されている側のジャーメインとて全身全霊で応戦していた。
グンダレンコと同様にバロッサ家の末妹も出し惜しみせずにホウライを発動し、
件の秘技を跳ね返そうと挑み続けているのだ。
 足裏にて蒼白いエネルギーを炸裂させ、これによって強烈な推力を確保し、
何とかしてグンダレンコの速度を上回ろうと試みるものの、その度に追い付かれていた。
 それでも本体≠捉えた瞬間(とき)には鋭く踏み込み、
互いの前回し蹴りをぶつけ合うのだが、相打ちと言うわけにはいかない。
追尾してきた分身が時間差を付けた攻撃で襲い掛かり、
ジャーメインの側だけが一方的に痛手(ダメージ)を受けてしまうのだった。
 しかし、これで打ち負かされる程度の覚悟ではジャーメインも臨んでいない。
次々と打ち込まれる分身からの攻撃を気迫ひとつで耐え抜き、
歯を食い縛りながら本体≠追い掛けていく。

「思いっ切りぶつかるのみ――ッ!」

 そうして己の射程圏内にグンダレンコを捕捉し、気合いの吼え声と共に左拳を叩き込んだ。
 紅蓮の輝きを纏う右拳とは対の側――左手に巻いたバンテージは蒼白い光を発している。
それは紛うことなくホウライの明滅であり、ジャーメインの切り札≠フひとつであった。
 バンテージをホウライの力で満たし、鋼鉄の如く硬くしてしまうのだ。
この状態で渾身の拳打を突き込まれようものなら七導虎と雖も無傷では済むまい。
 骨身が軋む程の威力であることは、ジャーメインに稽古を付けて来たクラリッサとて良く知っている。
 案の定と言うべきか、何か≠ェ破断する音が辺りに響き、間もなくグンダレンコの右拳が鮮血を噴いた。
それは「末妹の突きを迎え撃った側の拳」とも言い換えられる。
 つまり、ホウライを纏った一撃の威力に耐えられなかったと言うことだ。
グンダレンコの右拳は間違いなく壊れており、
これを見て取ったクラリッサは「まともに行くバカがいるか!」と思わず口を挟んでしまった。

「ムエ・カッチューアの――いや、メイの拳が蒼白く輝くとき! その破壊力は七導虎をも凌駕する! 
そんなこと、いちいち説明されなくても分かるだろう!?」
「外野からバカ呼ばわりされてるよ、レン姉」
「クラちゃん、酷いですよぉ。私なりに考えがあるんですからぁ〜」
「その考えとやらの為に拳を砕いたら仕方ないだろう!? 今のはヒビ程度じゃ済まなかったと見えるが!?」
「平気ですよぉ。もう片方の手は無事ですからぁ〜」
「見ているこっちは気が気ではない!」

 クラリッサの言葉に反応して両者の動きが止まり、攻防の空白が生じた。
 ホウライによって生み出されていた分身は、あくまでも質量を伴う残像≠ナあり、
本体≠ェ足を止めれば必然的に消滅する。これもまた法則のひとつである。
 水飛沫を散らしながら舞い踊っていた無数の分身たちは、
それぞれジャーメインへ一撃を見舞った後(のち)にグンダレンコの背中へと吸い込まれていき、
やがて跡形もなく消え失せた。
 尤も、グンダレンコは全身に蒼白い稲光を纏ったままであり、
再び攻撃に転じれば、すぐさまに同じ数の分身を生み出すことだろう。
 さりながら、この戦闘に於いて右拳打を放つことは不可能のようである。
右の五指を中途半端な形で折り曲げているのだが、これは次なる技に向けた予備動作(うごき)などではない。
最早、拳を握ることさえ叶わないのだ。
 これを見据えるクラリッサには、ジャーメインの繰り出した拳打の威力が
想定を遥かに上回っていることが気懸かりであった。
「メイの拳が蒼白く輝くとき、その破壊力は七導虎をも凌駕する」と己の口から語ったばかりだが、
それにしてもグンダレンコの拳を砕くとは予想だにしていなかったのである。
 ジャーメインが会得した武術――ムエ・カッチューアは、
両の拳に巻くバンテージを粘性の高い液体で固め、打撃の威力を引き上げることがあった。
より古い形式になると、布ではなく縄を用いる上に石などを仕込んで殴打すると言われている。
 バロッサの末妹は伝統の技法をホウライによる応用で再現しているわけだ。
即ち、ムエ・カッチューアの恐ろしさを完全に解き放ったと言うことである。
 グンダレンコもクラリッサも、過去にはこの状態のジャーメインと模擬戦を行ったことがあり、
蒼白い稲光で満たされたバンテージが暴悪な程の破壊力を発揮すると身を以て知っていた――が、
流石に骨を砕かれるような事態は記憶にない。
 考えられる可能性としては、稽古と言うことでジャーメインのほうが手加減をしていたか――

(……そうだ、これは稽古などではない。生命の遣り取りならば加減の必要はない……ッ!)

 ――或る仮説へ行き着いた瞬間、クラリッサは双眸を大きく見開いた。
ジャーメインの覚悟≠ェ如何なるものか、本当の意味で理解したとも言えよう。
 彼女の右拳では依然として灼熱の炎が燃え盛っている。天をも焦がさんと逆巻き続けている。
 この炎が術者の肉体を傷付けることはないが、敵と見做した相手を捉えたときには、
骨と言わず内臓と言わず、それこそ肉の一片まで焼き尽くすだろう。
 己の『義』を貫く為ならば、血を分けた姉にも死の業火を向けよう――
ジャーメインは悲壮とも言うべき覚悟を携え、グンダレンコとの戦いに臨んでいるのだった。
 手加減どころか、明確な殺意を込めてムエ・カッチューアの暴威を浴びせたのである。
これを生身で迎え撃ったのだから、拳など砕けて当然であろう。
肘ごと吹き飛ばされなかったのは僥倖としか言いようがなかった。
 クラリッサの心臓は激痛を伴う程に早鐘を打っている。
それも当然だ。仲の良い姉妹が本気で生命を奪い合う様など誰が見たいと言うのか。

「インターバル、終わりッ! 今度こそ――ッ!」

 呆然と立ち尽くすクラリッサの目の前で、ジャーメインは再び足裏にてホウライを炸裂させた。
機先を制するべく一足飛びに間合いを詰めようと言うのだ。
 その一瞬だけはジャーメインの速度がグンダレンコを凌駕した。
分身を作り出すより早く懐まで潜り込み、頭突きでもって彼女の挙動(うごき)を押し止め、
続けざまに左拳を突き上げようとした。その軌跡を蒼白い火花が追いかけていく。
 後方へ飛び退くことでアッパーカットを避けるグンダレンコであったが、
一度(ひとたび)、間合いを詰めたジャーメインは、何があっても振り切られまいと執拗に食い下がり、
質量を伴う残像さえ作らせようとはしなかった。
 拳を振り切る前にアッパーカットが外れたと判断したジャーメインは、
すぐさま半歩ほど踏み込み、そこから右肘の突き上げに転じた。
 流石に肘にはホウライを纏っていない――が、顎でも抉られようものなら体勢を崩され、
そこに死を呼ぶ一撃を重ねられる筈だ。

「お姉ちゃんも負けてないですよぉ〜っ」
「んッ――あうぅッ!」

 旋回を交えて右方に跳ねたグンダレンコは、
肘鉄砲を回避すると同時に左脚を繰り出し、ジャーメインの腰を打ち据えた。
 兎にも角にも、彼女の動作(うごき)を止めないことには反撃さえ難しい。
それ程までにジャーメインの技は鋭く、ムエ・カッチューアにとって有利な間合いから
グンダレンコを逃さないのである。
 果たして、矢の如き蹴りはジャーメインの身動きを押し止めた。
そこまでは狙い通りであったのだが、グンダレンコ自身の上体が回避行動の寸前に傾いでおり、
無理な状態から反撃を見舞った為か、着地の瞬間に大きくよろめいてしまった。
 折角、作り出した分身も真価を発揮する前に途絶えている。
 アッパーカットから肘の突き上げへ変化したジャーメインの所作(うごき)が余りにも速かった為、
最善の姿勢を保持し続けることが出来ず、回り回って着地の失敗と言う事態に陥ったのである。
 これこそ好機と見たジャーメインは、グンダレンコに向かって業火を纏った右拳を振り抜いた。
横薙ぎに閃く一撃は中段狙い――腹部を焼き尽くすつもりであった。
 反射的に身を沈め、危ういところで紅蓮の一撃を避け切ったグンダレンコは、
頭上に熱風を感じながら身を捻り込み、ジャーメインに背を向けた状態から右脚を突き込んでいく。
 これによって臍の真下を蹴り付け、末妹の追撃を食い止めると、
今度は軸足の屈伸でもって垂直に跳ね飛んだ。
 質量を伴う残像が腹部に追い討ちを重ねている間に背後まで回り込み、
延髄目掛けて右の後ろ回し蹴りを叩き込もうと言うのである。
 正面から反撃を試みた場合、右拳に宿した業火か、左拳にて輝くホウライによって
致命傷を被る可能性が高い。そこでジャーメインの身をすり抜け、
背後から急所を狙い撃とうと判断したのだった。

「――やらせないよッ!」

 この所作(うごき)にもジャーメインは即応している。
身を沈めることによって自分の攻撃を避けたグンダレンコに倣い、
上体を前方に傾けつつ腰を捻り込んだ。
 質量を伴う残像の蹴りを腹筋でもって弾き飛ばし、
一連の流れの中で延髄への強撃をも避け切ったジャーメインは、
両掌を石畳に突きながら腕力のみで己の身を持ち上げ、続けて両足を後方に繰り出した。
 ジャーメインは依然として背面を取られたままであり、
この状態から左右の足を突き出せば、必然的に後方の敵を撃墜することになる。
 果たして、グンダレンコは胸部を蹴り飛ばされ、中空で身を翻すことも出来ずに落下してしまった。

「ここでキックですかぁ〜」

 分身だけが勢いよく本体≠追い掛け、飛び後ろ回し蹴りを反復して見せたが、
肝心のグンダレンコが標的(まと)を捉え切れなかったのだから、
技だけを完璧に再現したところで空を切るばかりである。
明らかな失敗まで模倣する残像が何とも滑稽だった。

「危なかったわぁ〜、眼鏡がすっ飛んでいっちゃうかと思ったわよぉ〜」
「レン姉もリュウ姉も、何でそんなに眼鏡ばっかり気にすんの!? こっちはマジなんだけど!?」

 胸部を蹴られた拍子に弾き飛ばされそうになった眼鏡を掛け直したグンダレンコは、
次いで口元より滑り落ちる血を左の親指にて拭った。まるで末妹の実力(ちから)を噛み締めるように、だ。
 両の拳それぞれが一撃必殺の威力――あるいは殺傷力と言うべきであろうか――を秘めてはいるものの、
露骨に狙っては相手の警戒心を煽り、満足に命中させられなくなる。
寧ろ、この状況を利用し得る手立てはないものかとジャーメインは思料し、
今し方のように重大な局面で蹴りに変化したのだった。
 ジャーメイン本来の得意技は蹴りである。
渾身の力を振り絞れば、両の拳に勝るとも劣らない破壊力を生み出せるのだ。
まさしく裏を掻く戦法にグンダレンコを引っ掛けた次第であった。
 仮に今の機転を『在野の軍師』が傍観していたなら、浅知恵などと鼻で笑ったことだろうが、
実姉の目には成長の証のように映っている。
 誰≠手本としたのやら、ムエ・カッチューアの武技に知略が伴うようになっていた。
これもまたタイガーバズーカを去った後に得た成果のひとつと言えよう。

「……でも、この程度じゃまだまだ足りませんよぉ〜」

 敢えなく撃墜されたグンダレンコは、着地と同時に滑るような動作(うごき)で間合いを詰め、
疾風の如き踏み込みから右の下段蹴りを繰り出していった。
 狙いは右内膝であろう。打撃の要を破壊し、身動きを取れなくした後に再び分身を作り出すに違いない。
 その直後のことであった。何の前触れもなくグンダレンコの背後で蒼白い稲光が発生し、
鞭のように撓(しな)ってジャーメインに襲い掛かった。
 彩(いろ)こそ違えど、蠍の尾のように見えなくもない。
 ホウライを直接攻撃に用いた技法である。
又はザムシードを散々に打ち据えた電撃の鞭と言う呼び方もあった。
 馬軍の将を攻めたときと同様に打撃を追い掛ける形で飛来すると思いきや、
稲光そのものが急加速し始め、遂には蹴り足を追い越してジャーメインに降り注いだ。
 しかし、彼女は飛び退ろうともせず、その場に留まり続けた。
 電撃の鞭で打たれたとしても、被る痛手(ダメージ)は極端に深刻なわけではない。
本物の稲妻でもないので感電死の心配も要らない。
心技体を極めた戦士からしてみれば、気合いひとつで耐え凌ぐことも容易いものなのだ。
 それよりも下段蹴りで膝を破壊されるほうが厄介である。
蒼白い稲妻を直撃されながらもジャーメインはグンダレンコの所作(うごき)を見据え、
その蹴り足目掛けて己の右膝を突き上げた。

「蹴りの撃ち合いで遅れを取るわけにはッ!」
「メイちゃ――」

 足裏にてホウライを炸裂させ、これによって爆発的な威力を得た膝蹴りは
見事にグンダレンコの右足を弾き飛ばし、彼女の体勢をも大きく傾がせた。

(遅れを取るわけにも、足踏みをしているわけにもいかないッ!)

 この千載一遇の好機を見逃すジャーメインではない。
グンダレンコの蹴り足を弾いた直後には水面を裂いて前進し、
右腕でもってムエ・カッチューア必勝の型――『首相撲(くびずもう)』に持ち込もうとした。
 それはつまり、灼熱の炎を纏った右腕を実姉の首に巻き付けると言うことだ。
 本来の首相撲とは、両腕でもって相手の首を押さえ付け、身のこなしを封じる為の技法である。
膝蹴りや肘打ち、投げにでも繋げない限り、首相撲自体は直接的な攻撃手段にはならなかった。
 しかし、今はどうだ。首相撲に用いようとする右腕は、
触れた物を跡形もなく滅する紅蓮の輝きを帯びているのだ。
 ジャーメインが仕掛けているのは打撃の補助などではない。
業火を押し付け、グンダレンコの頭部を焼き尽くすつもりであった。

「――メイッ! 頭を冷やすんだッ!」

 次の技へ繋げることを目的とした引っ掛けでなく、気勢を殺ぐ為の脅しでもなく、
一瞬たりとも躊躇わず実の姉を焼き殺そうとするジャーメインを食い止めようと、
クラリッサは慌てて割り込んだ。
 背後よりジャーメインに組み付き、力任せにグンダレンコから引き剥がすと、
己の肌が焼かれるのも恐れずに追い撃ちへ移った。
自身の両手を絡めるようにして旧友の右腕を掴み、捻り上げた状態のまま彼女を放り投げたのである。
 これと同時に己も跳ね、中空にて身を翻すとジャーメインとは逆の方向に回転する。
関節を捻りつつ落下し、この衝撃を以て関節を破壊する荒業だ。
 ふたりの身が水飛沫と共に石畳へ叩き付けられると、ジャーメインの右腕が耳障りな音を立てた。
 先程は「グンダレンコやイリュウシナに恨まれる」と理由を付けて途中で技を外したのだが、
今度は容赦なく右肩をへし折ったのである。
抜き身の殺意をぶつけてきた相手には相応の気構えで応じるしかあるまい。

「ひぐっ……ひうぅぅっ!」

 肩が折れた直後には身を転がしてクラリッサより離れたジャーメインであるが、
当然ながら右腕には力が入らず、火のCUBEが掌から滑り落ちてしまった。
 これによってCUBEの側は術者の意思が離れたと認識したらしく、
轟々と燃え滾っていた灼熱の炎も全く掻き消えた。
 造船所跡を満たした海水は絶えず流れ続けており、
小さな結晶体など沖まで簡単に運ばれてしまうだろう。
 アルフレッドからの大事な預かり物を紛失するわけには行かず、
無事な左手でもって水中からCUBEを掬ったジャーメインは、
半歩ばかり前進しながら結晶体(これ)を握り込み、
続けて斜めに軌道を描く拳を振り上げようとした。
 眼前にはエウロペ・ジュージツの雄が迫っている。
これをアッパーカットで迎え撃つつもりであった――が、
またしてもグンダレンコが割り込み、
ジャーメインもクラリッサも、共に面食らって仰け反ってしまった。

「レン! 邪魔をするな!」
「お邪魔虫はクラちゃんじゃないですかぁ。ここは任せて欲しいって言いましたよねぇ〜?」
「任せておけないから飛び出したんだ! メイはお前を――ええい、ともかくっ! 
もう私と交代しろっ! お前は下がれッ!」

 行く手を遮られたクラリッサは、グンダレンコに向かって「退け!」と繰り返した。
 先程は肉親同士の決着(けじめ)を尊重したのだが、今度ばかりは譲るつもりがない。
このふたりに殺し合いなどさせたくはないのだ。
 どうしても、旧友を斃さなければならないのなら、
七導虎の名に於いて己が引き受ける覚悟である。

「ふたりまとめて相手してやるわよッ! この路を邪魔するヤツは誰だろうとブッ潰すッ! 
……生きて造船所跡(ここ)から出られると思うなぁッ!」

 この戦いからどちらが引き下がるか――鉄道列車へ駆け込む急ぎの乗客のように
互いの肘をぶつけ合いながら言い争うふたりに対して、ジャーメインが怒号を張り上げた。
 野獣の如き吼え声には、またしても抜き身の殺気が漲っていた。
実の姉と旧友に向かって、ジャーメインは「生かしては帰さない」とまで
言い放ったのである。
大きく見開かれた双眸も凄烈な光を宿しており、彼女が本気であることを物語っている。
 その吼え声は、ある意味に於いて死の宣告にも通ずるものであろう。
さしものグンダレンコも、この瞬間(とき)ばかりは完全に気圧され、狼狽してしまった。
 末妹の実力(ちから)を測ろうと言う戦いでもある為、
全身全霊で切り札≠ワで繰り出したグンダレンコだが、
しかし、互いの生命を奪い合うような事態までは想定していなかったのだ。
 譲れない願いを携え、戦士として相対した以上、
生命の遣り取りに発展することは必然である。
それでも、血を分けた姉妹の情がグンダレンコの心を大きく占めており、
末妹も自分と同じ気持ちでいると信じ切っていた。
 人間と言う生き物は誰もが肉親の情を大切にしている。
家族と言う結び付きがある以上は、決して互いを侵害することはない――
その想いが独り善がりの過信に過ぎなかったと、グンダレンコは思い知ったのだ。
 ムエ・カッチューアの暴威――古式の殺傷術の再現のことだ――を容赦なくぶつけられ、
その後には火のCUBEで焼き殺されそうにもなっている。
自分の生命を脅かすような危機に気付かないほどグンダレンコも鈍感ではない。
 一方で、肉親の情を無条件で信じる彼女は、武技と意思は別物として捉えていた。
 戦いの場では何が起こるか分からない。例え親しい人間が相手であっても、
状況次第によっては、死を招くような危険な技を反射的に使ってしまうこともあるのだ。
 ジャーメインも必死である。それ故に紅蓮の業火を肉親に向けたのだろう――
ここまでの攻防を振り返るだけならば、
「咄嗟の判断に違いない」と己に言い聞かせることも出来た。
 しかし、先ほど示された意思≠ホかりは誤魔化しようがない。
 業火で身を焼かれるよりも、
ムエ・カッチューアの暴威によって全身の骨を砕かれるよりも、
抜き身の殺意を突きつけられることのほうがグンダレンコには苦しかった。
 末妹は追い詰められた末に暴言を吐き散らしたのではなく、
己の『義』を貫く決意表明として、邪魔するヤツは誰だろうとブッ潰すッ!」と吼えたのだ。
魂の昂ぶりはともかくとして、思考そのものは冷静だった筈である。

「……メイちゃん……」

 短絡に「覚悟の差」と断じてしまうのは乱暴であるが、
ひとつの現実として、グンダレンコ自身は愛する妹に向かって
抜き身の殺意をぶつけるような真似は出来ない。
誰かに強いられたとしても彼女は口を噤み続けることだろう。
 そこまで肉親の情を大切にしているからこそ、
血を分けた妹より殺気を浴びせられた瞬間に立ち竦んでしまったのだ。
 あるいは、ジャーメインが気魄ひとつで姉に競り勝ったと言えなくもなかった。

「先に死にたいのはクラリッさんだね! いいよ、ブチ破ってやろうじゃんッ!」
「死なすだの何だのと軽々しく口にするんじゃないッ! この大馬鹿者ッ!」

 身を強張らせたグンダレンコは、その場に呆然と立ち尽くしているが、
相手の精神(こころ)を圧迫した程度では、この戦いは決して終わらない。
終わるわけがないのだ。これは歴(れっき)とした殺し合いなのである。
 狼狽する姉など知ったことではないジャーメインは、一足飛びに間合いを詰めていく。
グンダレンコを置き去りにして駆けるクラリッサを迎え撃とうと言うのだ。

「馬鹿で結構ッ! 馬鹿にでもならなきゃ、この『路』は通せないッ!」

 身内の屍を踏み越えるような『路』を突き進むと吼えたジャーメインは、
標的(まと)を射程圏内に捉えるや否や、左足裏にてホウライを炸裂させ、
その勢いを以て右の飛び膝蹴りへ移ろうとした。
 ところが、その跳躍は極端に大きく、肝心のクラリッサを飛び越えてしまった。
人を殺すこと≠セけを目的とした飛び膝蹴りが襲ってくると身構えていた彼女は、
一陣の風と化して頭上を通り過ぎていく彼女を呆然と見送るしかない。
 無論、これはジャーメインの引っ掛けである。
クラリッサの背後へ飛び降りながら身を翻し、彼女の脳天目掛けて左肘を垂直に叩き落した。
 この肘鉄砲には紅蓮の業火も蒼白い稲光も宿してはいないが、
しかし、それ故に強撃を警戒するクラリッサの意表を突くことが叶ったと言えよう。
 ホウライなどに頼らなくとも、肘自体が強烈な攻撃力を生み出す部位である。
如何に七導虎と雖も、不意打ち気味に脳天を抉られては一溜まりもなかった。

「こ、こん……な……子供騙しみたいな手に……引っ掛かる……なん……て……ッ!」
「雑誌の受け売りで合コンにゴスロリ衣装で乗り込んじゃったクラリッさんが
子供騙しって言う!? 似合いもしないのにビラッビラでフリッフリのヤツを着ちゃってさ!」
「か、かか、関……係ないだ……ろう……ッ!」

 クラリッサの珍妙な失敗談はともかく――脳を揺さぶる衝撃に堪え切れず、
彼女が片膝を突くと、ジャーメインは次なる標的目指して大きく跳ね飛び、
中空にて左後ろ回し蹴りを繰り出した。
 正面に見据えた標的とは、言わずもがなグンダレンコである。
そして、ジャーメインの後ろ回し蹴りは実の姉の頸椎に狙いが定められていた。

「まだまだぁ〜、お姉ちゃんだってやれるんですからぁ〜!」

 グンダレンコとて義の戦士の端くれである。完全に動揺が鎮まったわけではないものの、
武術家としての本能が迫り来る左脚に反応し、
殆ど反射的に自らも右の上段後ろ回し蹴りを放っていた。
 互いの後ろ回し蹴りをぶつけ合い、妹の左脚を撃墜する筈であった――が、
技の威力は気魄の違いによっても大きく左右されるものであり、
相手を殺すつもりのないグンダレンコは敢えなく競り負けてしまった。

「あらあらぁ〜」
「ぶっちゃけ! こっちはもう負ける気がしないよッ!」

 他の技と比して殺傷の術が必ずしも優れているとは限らないが、
「攻め抜く」と言う確固たる意志は、ある種の芯となって攻撃を支えるのだ。
 事実、グンダレンコの蹴りは攻め抜く意志に勝るジャーメインには及ばなかった。
総合的な戦闘力では間違いなく妹を凌駕しているにも関わらず、だ。
 蹴りを弾き返された拍子にグンダレンコの姿勢は大きく崩れてしまっている。
油断なく姉の状態を見て取ったジャーメインは着地と同時に更に踏み込んでいった。
まるで肉体(からだ)ごとぶつかっていくような勢いである。

「ま、待て! 待つんだ……メイ……ッ!」

 しかし、背後からクラリッサが追い縋る。
何としても姉妹の殺し合いだけは阻止したいのであろう。
 聊か足元が覚束ないのは、脳に浸透した痛手(ダメージ)から回復しない内に
無理矢理に身体を揺り動かした所為に違いない。

「そう言われて待つバカがいるわけないでしょ――」

 羽交い絞めにしようと迫り来るクラリッサに対して、
ジャーメインは振り向きもせずに肘鉄砲を浴びせた。
 鉢鉄(はちがね)越しではあるものの、左肘は鋭角に眉間を一突きし、
ほんの一瞬ながらクラリッサの動きを堰き止めた。
 ただそれだけでジャーメインには十分であった。
再び脳を揺さ振られたクラリッサが体勢を立て直す前に
正面の敵≠――実の姉を仕留めることが出来ると確信していた。

「――終わりにするよ、レン姉ッ! ……これで終わらせるッ!」

 迎撃の構えを取ることさえ出来ずにいる姉の胴を抉ろうと言うのか、
ジャーメインは右の中段前回し蹴りを打ち込んでいく。
 自ら蹴りを放って相打ちへ持ち込むには時間が足りないと判断したグンダレンコは、
先程と同じ失態を繰り返さないよう身を縮めて防御を固めた。
 果たして、末妹の蹴りを左下腕にて受け止めるグンダレンコであったが、
その威力を凌ぎ切ることは叶わず、地面に螺旋を描くかのように振り回されてしまった。
 旋回と言う運動(うごき)そのものはグンダレンコが絶えず披露しており、
類似と言えなくもないのだが、己の意思に基づいて放たれる武技と、
他者より仕掛けられた力の作用との間には大きな隔たりがあるだろう。
 竜巻にでも飲み込まれたような恰好で、半ば無抵抗のまま回転させられたのである。
 そうして姉の背中を――幼い頃より見慣れた後姿を正面に捉えた瞬間、
ジャーメインは左の五指にてグンダレンコの髪を掴み上げ、
逃げられないように動きを押さえたまま、
止め(とど)とばかりに後頭部へと右膝を突き上げた。
 しかも、ただの膝蹴りなどではない。
一瞬の内に幾度となく膝を撃ち込むと言う最大の必殺技――タイガーファングである。
 刹那に幾度となく地を蹴る為、周囲に輻射される衝撃も相応に凄まじく、
この勢いで大きな水柱が立ち、ジャーメインの足元にも大穴が穿たれていた。

「ァがッ……は……ァ――」

 寸分違わず全く同じ箇所を狙撃し続けるタイガーファングは、
まさしく切り札≠ノ相応しい破壊力を秘めている。
しかも、グンダレンコはこれを人体急所のひとつである後頭部に叩き込まれたのだ。
義の戦士であればこそ即死を免れたようなもので、
常人であったなら一撃一撃が間違いなく致命傷である。
 無論、即死を免れただけであって無傷と言うことではない。
ここまで善戦を続けてきたものの、遂に戦闘の継続が不可能な状態に追い込まれてしまった。
 瓦斯灯の柱へ凭れるような格好で頽れたグンダレンコは満面に脂汗を滲ませており、
不規則な呼吸(いき)が苦痛の度合いを端的に表していた。
目の焦点が合わないのは、意識が混濁しているからに他ならない。
 ところだ、が。生きているのが不思議なくらいの痛手(ダメージ)を被ったにも関わらず、
彼女の口元には薄い笑みが浮かんでいた。
 グンダレンコはタイガーファングと共に末妹の実力(ちから)と、
何よりも覚悟の強さを確かめたのである。
それ故に苦悶とは正反対の感情が心を埋め尽くすのだ。
 口元に宿した笑みとは、巣立ちを見送る人間の喜びだったのである。
 今にも吹き飛びそうな意識を懸命に繋ぎ止めながら、
グンダレンコは心中にて「……でも、ちょっぴり寂しいです……」と呟いていた。

「――はい、次ィッ! クラリッさんッ!」

 当のジャーメインは姉が崩れ落ちるよりも早く背後の敵に向き直り、
今まさに飛び掛かろうと身構えていたクラリッサへ左拳を突きこんでいった。
 蒼白い輝きを帯びた鉄拳――絶対的な死を招くムエ・カッチューアの暴威を、だ。

「愚か者ッ! あの青年と同じ穴の狢(むじな)に成り下がろうと言うのかッ!? 
エンディニオンの災いになっても構わないとッ!?」
「肩を並べて戦うんだよ! 誰だって犠牲≠背負って戦っているんだからッ! 
みんな……みんな、同じように血を浴びているんだッ!」
「そんなこと――『義』を捨てる言い訳にはならないッ!」
「……『義』は他の誰かから受け取るものじゃないッ!」

 クラリッサとジャーメイン――二度と交わらないように思える両者の吼え声が
『義』の精神(こころ)を挟んで衝突し、烈しく爆ぜた。




←BACK     NEXT→
本編トップへ戻る