11.正義の行方


 あの青年と同じ穴の狢(むじな)に成り下がり、 
エンディニオンの災いになっても構わないと言うのか――そうクラリッサは難詰していた。
『在野の軍師』の犠牲≠ノされた者たちを踏みにじっても平気なのかと質しているのだ。
 己もまた『在野の軍師』と同じように数えきれない犠牲≠築くつもりなのか。
己の『義』を満足させる為には他者に犠牲≠強いても何も感じないのか。
この問いかけにジャーメインが頷けば、クラリッサは間違いなく逆上することだろう。
 ジャーメイン本人にとっては二重の意味で心外であった。
己の見出した『義』を最後まで貫くと決めたからには、
立ちはだかる者は血を分けた姉妹であっても斃す覚悟である。
その気魄があったればこそ、グンダレンコを退けられたと言っても差し支えはあるまい。
 だからと言って、愉悦を感じているわけではないのだ。
同じ個所に連続して膝蹴りを加える切り札=\―タイガーファングで実姉を沈めた瞬間、
ジャーメインの心は確かに悲鳴を上げていた。
 身の裡の軋み音を聴いても立ち止まらなかったのは、彼女に戦士の魂が宿っているからである。
己が突き進む道は他になしと覚悟を決めた以上、これを曲げることなど絶対に許されないのだ。
戦いの場に身を置く者であれば、強靭な意志を備えていて当然であった。
 その魂を育んだのは、巣立つことを宣言した故郷――タイガーバズーカとバロッサ家の一族なのだ。
 他者の言葉で揺らいでしまうほど生半可な覚悟で決着(けじめ)の一戦に臨むと言うことは、
本当の意味でバロッサの家名(な)を穢す行為なのである。
 道は違えたかも知れないが、家族より授かった戦士の魂こそが
ジャーメインを屹立させる全てであり、何があっても否定したくはなかった。
 だからこそ、ジャーメインは立ち止まらなかったのだ。
逡巡を挟むこともなくグンダレンコを打ち負かし、次なる敵へと立ち向かっていくのである。
 その敵――クラリッサは、依然として『在野の軍師』を
復讐に歪んだ狂戦士(もの)としか見ていない。
ジャーメインに向かって「同じ穴の狢」と吐き捨てたのが何よりの証左と言えよう。
 しかしながら、アルフレッドとて犠牲≠喜んでいるわけではないのだ。
彼が犠牲≠ノしてしまったのは、それこそ人生の支えとも言うべき大切な人たちなのである。
 それでも、彼は戦いの場に立ち続けている。
『在野の軍師』としての使命に比べれば、身内の殉死など取るに足らない出来事であり、
ギルガメシュを滅ぼすまでは誰にも慟哭は晒すまいと心に誓ったのであろう。
 悲壮とも言うべきアルフレッドの覚悟にジャーメインは奮い立つ思いであった。
 それ故に「同じ穴の狢に成り下がる」と言うクラリッサの言葉を否定し、
「肩を並べて戦う」と吼え返したのである。
 アルフレッドは大切な人たちの犠牲≠壊れそうな心に抱えながら、慟哭を押し殺して戦っている。
 ジャーメインは攘夷思想の犠牲≠ノなった難民の無念を思い、そこに貫くべき『義』を見出した。
 向き合い方は違えども、ふたりとも犠牲≠ノ報いたいと考えているのだ。
この思いが分かち合えるのだから、きっと同じ道を歩んでいけるだろうとジャーメインは信じている。
 同志に対して恥ずかしくない戦いをせねばならない――その思いを乗せて、
彼女は蒼白く輝く左拳を突き込んでいった。

「侮ってくれるな――」

 ムエ・カッチューアの暴威が顕現したような拳打を躱すや否や、
逆に組み付き、左腕の関節をへし折ろうとするクラリッサであったが、
既に右肩を壊されているジャーメインが警戒を緩める筈もなく、
旧友の反撃を見て取った瞬間に足裏でホウライを炸裂させ、後方へ大きく飛び退った。
 辛くも関節技から逃れたジャーメインであったが、一瞬の後にはクラリッサに追い付かれてしまい、
四肢をくまなく用いた乱れ撃ちで攻め立てられることとなった。
 片手が動かせないジャーメインにとっては甚だ不利な状況であるが、
残された左腕や両の足を駆使して何とか致命傷だけは防いでいる。
 クラリッサの極めた武術――『エウロペ・ジュージツ』は、
宙を舞うようにして相手に組み付き、そこから仕掛ける投げや関節技こそが最も恐ろしい。
冴え渡る打撃技も十分に脅威なのだが、しかし、標的の体勢を突き崩すことに重点を置いている為、
技の威力自体はムエ・カッチューアに一歩及ばないのだ。
 防御(ガード)が間に合わず、何発か被弾≠許すジャーメインであったが、
ムエ・カッチューアの神髄を叩き込まれた彼女を軟(ヤワ)な打撃で沈めることは不可能なのである。
 さりとて、一瞬たりとも油断は出来ない。
先述の通り、クラリッサの打撃は相手の体勢を崩すことを目的としており、
付け入る隙を見極めようものなら即座に組技へ派生する筈である。

「お前はジェロムを仇を討つ為にスカッド・フリーダムを脱退(ぬ)けたのではなかったか!? 
仲間の犠牲≠ノ報いるつもりで故郷を発ったのだろう!? 
……それなのにレンを殺そうなどと――本当に狂ったのか、メイッ!」

 残像すら刻まない程の速度で拳脚を繰り出し続けるクラリッサは、 
連打と共に痛烈な罵声を浴びせていった。
 他者から問い詰められるまでもなく、
ジェロム・モンテファスコーネのことは一日たりとも忘れたことはない。
グンダレンコの恋人であり、ジャーメインにとっては義兄になる筈だった青年である。
 ギルガメシュとの戦いで無残な最期を遂げたジェロムの存在が
スカッド・フリーダム脱退のきっかけであったことを否定するつもりはない。
彼や他の仲間たちの仇を討ちたいと決意し、
前戦闘隊長のシュガーレイと共に復讐の戦いへと身を投じたのだ。
 そのジャーメインがグンダレンコへ殺意を向けることは矛盾の極みと言えよう――が、
異世界で生きざるを得なくなったノイの難民の悲劇に遭遇した現在(いま)、
身内の事情(こと)だけに囚われてはいられなかった。
 クラリッサには「詭弁」の二字で切り捨てられるだろうが、
人間は何時までも同じ場所に留まっていられないと言うことである。

「……どうやら――ここまでのようだな……ッ!」

 どれほど説得を重ねても無意味と悟ったクラリッサは、
一瞬だけ苦悶の苦悶の表情を浮かべた後(のち)、義の戦士の先駆たる『七導虎』の顔に変わり、
ジャーメインへ更なる猛攻を仕掛けていく。
 最早、彼女の目には旧友≠ネど映ってはいないのだろう。
そこに在るのは抹殺対象の片割れなのだ。
 打撃の嵐へ割り込むような形で左肘を振り抜いてきたジャーメインに対し、
クラリッサは互いの身を交差させるようにして踏み込み、次いで彼女の首へと己の左腕を引っ掛けた。
 肘窩にて首を挟み込んだまま互いの左足を絡ませ、これを払うことによって体勢を崩させると、
一瞬にして石畳の上に投げ落とした――が、ジャーメインを抹殺対象と見做した以上、
生半可な攻撃で済ませるわけにはいかない。
 首根っこを掴んで彼女の身を力ずくで引き起こすと、
右足を長槍の如く水平に突き出し、その喉を踵でもって抉った。
 ムエ・カッチューアと比べた場合、一撃当たりの威力は僅かに劣るのかも知れないが、
その分をクラリッサは技の精確さで補っている。人体急所の喉を一突きされようものなら、
如何にジャーメインと雖も大きな痛手(ダメージ)は免れまい。
 吐血混じりで仰け反ったところに追い打ちを仕掛け、
次こそ右腕をへし折ろうとクラリッサは考えていたのだが、
今まさに飛び上がろうとしていた矢先に彼女は思わぬ反撃を被ることとなった。
 寧ろ、驚愕の事態と表すべきかも知れない。
 肩の骨を折られたことによって全く動かせなくなっていたジャーメインの右腕が
何の前触れもなく復活したのだ。

「――バカなッ!?」

 人体の構造上、それは有り得ない筈であった。脱臼した肩の骨を無理矢理に嵌め込み、
動けるようにしたと言うことではないのだ。先程の関節技でもって確実に骨折させたのである。
何かが破断する耳障りな音は、今も生々しく鼓膜にこびり付いていた。
 だからこそ、己の左頬を叩くモノの正体が最初は理解出来なかった。
クラリッサがタイガーバズーカの出身(うまれ)でなかったなら、
あるいは分析など叶わなかったかも知れない。
 ホウライの力を体内に通し、蒼白い稲光でもって一時的に折れた骨を接ぎ、
強引に腕を動かしたのである。
 確かにホウライは工夫次第で無限に応用していくことが出来るのだが、
それでも、折れた骨を繋ぎ合わせて揺り動かすなど相当な荒業であった。
肉体への負荷は言うに及ばず、負傷箇所とて一等悪化したに違いない。
 絶対に有り得ない筈であった奇襲は、見事にクラリッサの虚を突いている。
 しかし、その一撃は余りにも弱々しかった。
 ホウライを駆使したからと言って右肩が完治したわけではなく、
か細い糸で折れた骨を結び付けたようなものであり、
拳打を放ったところで威力など高(たか)が知れているのだ。
 自明と言うべきか、無理を重ねた末の技にも関わらず、
少しも痛手(ダメージ)を与えていなかった。奇術か何かのように僅かに驚かせた程度である。
 尤も、最初からジャーメインも強撃など狙ってはいない。
意表を突くことだけを目的として右肩を動かしたのだった。
 果たして、その目論見は達せられた。
だからこそ、右腕全体に波及していく痺れや激痛にも耐えられたと言えよう。

「ふ……ぐぅ……っ――いィやあああぁぁぁァァァッ!」

 クラリッサが慄いている間に腰を落として左腕を引き付けたジャーメインは、
歯を食い縛りながら渾身の拳打を突き入れていった。
 左拳には再び紅蓮の輝きを発している。握り込んだCUBEから紅蓮の業火が噴き出している。
 流石は心技体を極めた七導虎と言うべきか、正面から灼熱の風を吹き付けられたクラリッサは、
逆に冷静さを取り戻していた。
 紅蓮の業火には蒼白い稲光も混じっている。
言わずもがな、バンテージに満たされたホウライの火花である。
 触れた物全てを滅する爆炎ではあるものの、その戦慄を一種の偽装として利用し、
ここに注意を引き付けておいてムエ・カッチューアの暴威へ変化するつもりなのであろう。
 ジャーメインの狙いは、あくまでもホウライを帯びた拳打と言うわけだ。
 彼女の目論見を読み切ったクラリッサは、左拳の動きにのみ意識を集中させていく。
 クラリッサとてムエ・カッチューアの暴威は良く知っている。
正面から互いの拳をぶつけ合ったなら、まず間違いなく競り負けることだろう。
つい先程もグンダレンコの拳が破壊される様を目の当たりにしたばかりであった。

「甘過ぎる――」

 クラリッサの判断は正確であった。少しばかり焼かれた程度では致命傷にならないと割り切ると、
両掌でもってジャーメインの左下腕を挟み込み、すかさず反撃の関節技へ繋げようとした。
 左肘までへし折ってしまえば、いよいよジャーメインは八方塞がりとなる筈だ。
 ムエ・カッチューア最大の武器は何と言っても蹴り技であるが、
両腕が潰されてしまうと防御は困難を極めるだろう。
組み付かれた折には振り解くことさえ叶わないのだ。

「――甘いのはどっちさッ!」

 左腕を掴まれた瞬間、ジャーメインはクラリッサの捕獲≠ゥら逃れるどころか、
更に深く踏み込み、続けざまに彼女の右側頭部へ強烈な頭突きを見舞った。
 スカッド・フリーダムの正規装備に含まれる鉢鉄(はちがね)は、
縫い付けられた装甲板でもって眉間を防護している。
即ち、側頭部は全くの無防備と言うことになり、そこを突かれた格好だった。

「フェイント……!」

 クラリッサから零れた「フェイント」と言う呟きは、
頭突きへの経由に用いられた左拳打を指しているわけではない。
その寸前に動かした右腕のことである。
 無理を重ねることでようやく放った非力な右拳打は、確かにクラリッサの意表を突いた。
そこから爆炎と稲光を綯い交ぜにした左拳打へ派生すれば、
これこそが真の狙いであると誰もが直感する筈だ。
 火のCUBEをも併用した攻め手の数々は、
クラリッサの意識を左拳へ引き付ける為の計略だったのだ。
 この罠≠信じ込んだクラリッサは、完全なる死角から強撃を被ってしまったのである。
 尤も、ジャーメインからしてみれば頭突きとて真の狙いではない。
次なる技へ繋げる為の布石に過ぎなかった。
 更に半歩ばかり踏み込んだジャーメインは、首の付け根辺りに眉間を擦り付け、
その一点に全体重を掛けた。これによってクラリッサの身動きを押さえ込もうと言うのだ。
 変形の『首相撲』である。腕こそ巻き付けてはいないものの、
相手の頸部に対する力の掛け方や押さえ方は殆ど同じだ。
必要な条件を全て満たしたとき、通常の型と遜色ない状況が作り出されたのであった。
 そうしてクラリッサの身動きを封じた瞬間、ジャーメインは彼女の鳩尾へ左拳を添えた。
さりながら完全に拳を押し当てたわけではなく、僅かばかり隙間が空いている。
 その拳に紅蓮の業火を纏わせてはいない。バンテージが蒼白い明滅を繰り返すのみである――が、
クラリッサの背筋には今までにない戦慄が駆け抜けた。

「なんだ、これは……ッ!?」
「アル直伝だよッ!」

 ワンインチパンチ――これを直伝した人間に倣って呼称を変えるならば、
『ワンインチクラック』である。
 余暇の出来事であるが、アルフレッドを稽古に付き合わせたとき、その片手間に習っていたのだ。
 彼自身は他者に教えるつもりもなく、大雑把に術理を説いただけであったのだが、
ジャーメインは僅かな手掛かりから要点(コツ)に辿り着き、幾度も幾度も練習を重ね、
遂にはアルフレッドから「八割がた上手く行っている」と認められるまでになったのである。
 密着した状態から狙える上に一瞬で破壊力が炸裂するワンインチクラックは
首相撲との相性も良好であり、いずれ勝負所で披露しようと考えていたのだが、
その最初の標的が七導虎になろうとは、さしものジャーメインも想定していなかった。
 しかしながら、勝敗を賭けた一手になることは疑っていない。
現在(いま)はホウライの力まで帯びているのだ。
相手は七導虎であるが、純粋な打撃の威力だけならば己が勝つと確信している。
 対するクラリッサは、敢えてその場に留まり続けた。
何処かに跳ねれば、多少は威力を減殺させられるのだろうが、
寧ろ踏ん張りを利かせてワンインチクラックに備えている。
 直撃されようものなら胸骨全体に亀裂が走ることは免れまい。
もしかすると、一撃で陥没させられるかも知れなかった。
 その窮地にこそクラリッサは活路を見出したのである。
ムエ・カッチューアに限らず、徒手空拳の武技は打撃を放った直後に僅かな隙が生じる。
それが渾身の一撃だった場合、静止にも近い状態と化してしまうわけだ。
 初見のクラリッサは、当然ながらワンインチクラックの術理を見極めてはいない。
窮地を凌いだ先に好機が待っていることは、戦士としての勘が知らせていた。
 両者の思惑が交錯する中、ジャーメインは全身の力を左拳の一点に集中し、
炸裂の瞬間に生じた衝撃によって蒼白い火花が爆ぜ、更に彼女の足元から巨大な水柱が立った。
石畳を抉るほど強く地を踏み締めたと言うことである。

「――ぬ……ぐゥあ……ッ!」

 鳩尾にワンインチクラックを直撃されたクラリッサは、
全身の骨が粉砕されるのではないかと言う錯覚に見舞われていた。
事実、胸骨の軋み音は両の鼓膜を劈いている。
 のたうち回りたくなる程の激痛が心臓に襲い掛かったが、
これは内部へ浸透した衝撃波によって破裂しかけたと言う証左なのだ。
 己の肉体を極限まで鍛え上げるスカッド・フリーダムの隊員であればこそ、
即死と言う最悪の事態を回避出来たようなものであった。
 更に付け加えるならば、心技体を極めに極めた七導虎だからこそ
心臓を揺さ振られるような痛手(ダメージ)を凌ぎ、
口から血を噴きつつも反撃に移れたのである。

「しぶといッ! これでもまだ斃れないなんてッ!」
「忘れたのか? 腐っても私は七導虎なのだよ……!」

 逆にジャーメインにとっては甚だ不利な状況だ。
この一撃で仕留め切れなかったのは誤算と言っても差し支えあるまい。
 アルフレッド譲りのワンインチクラックは、一瞬にして全身の筋力を起爆させる為、
拳を突き出した直後だけは、どうしても肉体(からだ)が固まってしまうのだ。
 ほんの僅かな静止状態ではあるものの、反撃を仕掛ける側にとっては又とない好機である。
 首の付け根に押し付けられていたジャーメインの頭部(あたま)を引き剥がしたクラリッサは、
彼女の左腕を右の五指にて掴んだ。

「……そして、七導虎は『義』を穢す者を決して許しはしないのだッ!」

 言うや否や軽く跳ね飛び、ジャーメインの上体を己の側に引き込みつつ左掌を石畳に突け、
更には片手一本で逆立ちしながら右足甲を彼女の後頭部へと叩き落した。
 この軌道を対の左足が追い掛け、一撃目と全く同じ個所を踵でもって打ち据えた。
クラリッサは風車の如き回転を見せており、左右の蹴りには相当な遠心力が掛かっている筈だ。
 一風変わった二段蹴りであるが、これも「投げや関節技へ派生させる為の布石」と言う
エウロペ・ジュージツの基本原則から外れてはいない。
 クラリッサは身を逆さにした状態から次なる関節技(わざ)へと移っていた。
蹴りに用いた両足でもってジャーメインの左太腿を挟み、
続けて同じ側の足首を捕獲≠オようと試みたのである。
 互いの身を仰向けに転がす頃には右の五指でもって踵を掴み、
左足の関節を完全に極めるつもりだった――が、
ジャーメインとて何時までも静止しているわけではない。
 引き倒される直前、彼女は両掌を石畳に突け、
半ば捕獲≠ウれかけていた左足を強引に振り上げたのである。
 これによって太腿の拘束を解かれてしまったクラリッサは、咄嗟に狙いを切り替えた。
上体を跳ね起こしながら右の五指で踵を、左の五指で足甲をそれぞれ掴み、
力任せに足首をへし折ったのだ。

「――はァゥ……ッ!」

 小さく悲鳴を上げるジャーメインであったが、左足首を折られようとも動きだけは止まらない。
掴まれている側の足を大きく振り回し、クラリッサを引き剥がすや否や、
反撃の膝蹴りを繰り出した。足首を折られた側――左の膝を突き上げたのである。
 掬い上げるような軌道の膝蹴りは、両の下腕を交差させた防御をすり抜け、
クラリッサの顎を大きく撥ね飛ばした。
 しかしながら、痛手(ダメージ)を被ったのは蹴られた側だけではない。
互いの身をぶつけ合った瞬間、生じた衝撃が左足首まで軋ませ、
ジャーメインはクラリッサと同時に低い呻き声を洩らした。
 それも無理からぬ話であろう。折れた側の足で蹴りを放つなど滅茶苦茶としか言いようがないのだ。

「しぶといのは……どちらだ……!」
「そっちでしょ。あたしのほうはデカいダメージなんか受けちゃいないよ……!」
「足首まで折られて良く言う……」
「七導虎相手にガチンコやろうってんだから、足の一本や二本、安いモンだよ」
「両足折れたら立っていることも出来ないだろうに、そんな簡単な計算も出来なくなったのか。
……『アル直伝』などと胸を張っていたが、無分別と言うか何と言うか、
あの青年に思考能力まで潰されたと見える。洗脳とは恐ろしいものだな」
「結婚詐欺師のカモになってる人にだけは洗脳云々って言われたくないよ」
「け、経験! 何事も経験だ! 痛い目を見た分だけヒトはしくじらなくなる……ッ!」
「毎回毎回、ダメな物件≠ホっかり確実に引き当てる才能はともかく、
絶対折れない心はスゴいって言えるのかなぁ――」
「『才能』と言う二文字は、人を褒めるときだけ使うようにしなさい!」

 クラリッサと減らず口のようなやり取りを交わすジャーメインは、
右足一本だけで立ち、左足を高々と上げている。
 極めて不安定な体勢であるが、現在(いま)のジャーメインには他の選択肢がない。
足首が骨折している為、左足を接地させることさえ難しい状況に陥っているのだ。
 しかし、双眸に宿った闘志は少しも衰えていない。
再び左拳に纏わせた業火を映し、一等昂っているように見えるくらいであった。

「――だけど! あたしの心だって、これくらいじゃ折れないよ。折れてなんかやるもんかッ!」

 『ジウジツ』――寝技を磨き上げた武術との戦いの中で
片手片足を折られると言う絶望的な状況に追い込まれたアルフレッドは、
最後の瞬間まで勝負を捨てずに攻め抜き、遂には大逆転を果たしたのである。
 そのときにアルフレッドと立ち合ったのは、嘗て七導虎の称号を背負っていたミルドレッドである。
つまり、現在(いま)のジャーメインと状況が良く似ているのだ。
 この難局を己の力のみで打開出来なくては、
本当の意味でアルフレッドと肩を並べることにはなるまい――
その思いが満身創痍のジャーメインを奮い立たせるのだった。

 今、この瞬間もアルフレッドは絶望的としか表しようのない窮地に在り、
それでも諦めることなく戦い続けている。トラウムを以て巨人と化したビクトーに撥ね返され、
叩き伏せられても、その都度、何事もなかったかのように立ち上がるのである。
 とっくに体力の限界を超えている男が、だ。
 グンダレンコやクラリッサを相手に激闘を演じるジャーメインだが、
その視界にもアルフレッドの雄姿(すがた)は幾度も飛び込んできた。
 ただ視認するばかりではない。間接的ながらもジャーメインは両者の死闘を肌で感じている。
胡坐を掻いて座した義兄が左右の手の構えを変える度に暴風(かぜ)が吹き荒れ、
棗紅色の長い髪を舞い上げていた。
 その暴風(かぜ)は不可視の打撃=\―
即ち、巨人の双手(もろて)から発せられる衝撃波によって起こされているのだ。
 幾重にも繰り出される不可視の打撃≠ヘ、惨たらしいまでにアルフレッドを弄んでいた。
間合いを詰めようとする度に為す術もなく吹き飛ばされてしまうのだ。
足裏にてホウライを炸裂させ、極限まで推力を引き上げても全くの無意味と言う有り様である。
 『フーリガン・スタナー』なるトラウムを発動させて巨大化したビクトーは、
ある意味に於いては格好の的と言えなくもないのだが、
不可視の打撃≠ニ言う名の壁に阻まれている限りは、満足に接近することさえ叶うまい。
 遠距離からホウライの弾丸を投擲したとしても暴風(かぜ)によって軌道を捻じ曲げられてしまうのだ。
傍目には手も足も出ないような状況と映るだろう。今や一方的に嬲り殺しに遭っているようなものであった。
 それにも関わらず、アルフレッドは口元に不気味な笑みすら浮かべていた。
そして、繰り返しビクトーに問い質すのだ。
 お前に俺が殺せるのか――と。

「スカッド・フリーダムは秩序ある世界を守りたくて俺を狙っていたのだろう? 
だったら、こんな死に損ないに遠慮などするな。俺を殺さない限り、貴様らの理想は果たされないんだ。
……さっさと俺を殺してみろ」

 全身の至る所が青く腫れ上がり、今では出血していない部位を探すほうが難しい。
本人が口にした「死に損ない」とは、この状態を言い表すのに最も似つかわしい例えなのだ。
 瀕死(そこ)まで追い詰められた人間が虚勢を張ることほど滑稽なものはない――と、
嘲笑を以て切り捨てれば良かろうが、一思いに殺すよう促されるビクトーのほうが気圧されつつあった。
満身創痍の男を見下ろしている巨人が、だ。
 トラウムを発動させた直後――アルフレッドに無力を思い知らせていた頃とも言えよう――は、
世の理を悟り切ったように泰然自若と構えていた筈なのだが、最早、その表情は昏(くら)く歪み切っていた。
 依然としてザムシードを突破出来ず、橋の上で足止めされているイリュウシナは、
ビクトーの変調を見て取った瞬間に呻いて絶句した。夫が懊悩する理由を一目で見抜いたわけである。
 差し向かいで拳を繰り出してくるザムシードからは、
「本人がああ言っているんだ、望み通りにしてやったらどうだ」と皮肉まで飛ばされてしまった。
 ビクトーとイリュウシナ――この夫婦の表情と、何よりもアルフレッドの言葉を手掛かりとして、
馬軍の将は一切の事情を悟っていた。
 夫のトラウムを必勝の奥義の如く誇って見せたのは、目の前に立つイリュウシナだ。
「ビクトーは神人と同じ領域へ到達した」と彼女は謳っていたが、
そのような人間が瀕死のアルフレッドを仕留めきれず、
ましてや精神的に圧される事態などあってはならない筈であろう。
 彼女の洩らした苦悶は、これまでフーリガン・スタナーが築いてきたであろう不敗の神話が
崩れ去ったことを表していた。

「『殺せ』じゃことの軽々しゅうゆうもんじゃなゆわ! 
正義に反することをビクトーが――七導虎がでけるわけがないんじゃけぇ! 
ウチらスカッド・フリーダムは人の生命に真剣に向き合(お)ぉとるんじゃ!」

 肩を並べて共闘するロクサーヌは、ビクトーのことを懸命に庇ってくれているが、
その気遣いがイリュウシナには却って苦しかった。
彼女が口にする擁護の内容こそがビクトーの陥った矛盾を端的に表しているのである。
 処刑人≠気取っておきながらビクトーにはアルフレッドを殺せない――それを見透かしたからこそ、
ザムシードはあのような皮肉を飛ばしたのだ。
 元来、スカッド・フリーダムは人を裁く権利など持ち合わせていない。
せいぜい凶悪犯を組み敷いて保安官(シェリフ)に引き渡す程度であり、
そこから先の展開に義の戦士たちが介入することはない。全てを法の裁きへ委ねるのみであった。
 そもそも、だ。人ひとりの生命を奪うと言うことは償いようのない重罪である。
例え、相手が法律無用の悪党であっても殺意を以て臨むことは義の戦士として決して絶対に許されないのだ。
 イリュウシナ自身――否、ロクサーヌもグンダレンコも、
クラリッサさえも相手を殺すつもりで戦ったことは一度もなかった。
 理由や事情に関係なく殺戮を是認してしまえば、その瞬間から正義に胸を張れなくなってしまうのである。
護民官≠ニ言う矜持を自ら投げ棄てたも同然であり、それは存在意義の消失にも等しいのだ。
 だからこそ、復讐の名のもとにギルガメシュ兵を殺戮していくパトリオット猟班は
『義』を裏切ったと謗られ、放逐されたように扱われているのだった。
 クラリッサの言葉を借りるならば、他者の生命を平然と侵害し始めた時点で
スカッド・フリーダムもパトリオット猟班と「同じ穴の狢に成り下がる」と言うことである。
 しかし、血も穢れも知らないまま貫き通せるほど志は易しくはない。
それ故に――と言うべきか、大多数の隊員たちの『義』を守る為に少数の生贄(みがわり)も
スカッド・フリーダムには存在しているのだ。
 言わずもがな隊内に於いては異端の領域であり、所謂、影≠フ役目である。
正義に悖る血の穢れを引き受けるのは、どの世代のスカッド・フリーダムに於いても一握りの戦士であった。
 現戦闘隊長のエヴァンゲリスタは、その影≠長年に亘って担ってきた男なのだ。
 一度(ひとたび)、拳を血と罪に染めた者は義の戦士を名乗ることさえ憚るようになり、
心ない隊員からは爪弾きにされる始末である。
 総帥の一存ではあるものの、血腥い影≠フ領域から戦闘隊長と言う輝かしい座に就いたことは、
まさしく異例の抜擢なのである。あるいは驚天動地の事態とも言い換えられるだろう。
 そして、裏舞台より這い出したエヴァンゲリスタ・デイナ・シュマンツは、
陽の光のもとで『義』を掲げてきた者たちに向かって
スカッド・フリーダムの存在意義を揺るがすような任務を課したのである。
個人を標的とした暗殺と言う穢れた役目を、だ。

「手品のようなつまらない真似などしていないで踏み潰せば早いだろうが。
その図体は何の為にあるんだ? 全身を掴んで握っても一発だぞ」
「……アルフレッド君……」
「殺せ。殺してみろ――」

 現戦闘隊長から抹殺対象と断定された『在野の軍師』は、尚もビクトーを脅し続けている。
自分のことを殺すよう迫るのは、果たして脅しと言えるのだろうか。

「――どうした? 足を血で汚すのがそんなに厭か? だったら、今の芸当で肋骨を狙え。
神人に近付いたと言うからには狙撃など朝飯前の筈だな?」
「……と言うかですね、肋骨、本当に折れてるんですかぁ? 
あちこちに何十回と叩き付けられているのに未だに平気だなんて不自然ですよぉ?」

 ビクトーに成り代わってアルフレッドの言葉を受けたのは、
やや離れた場所で片膝を突いているグンダレンコだった。
 末妹の切り札≠ノよって脳を激しく揺さぶられ、一時的に昏倒していたのだが、
最悪の事態だけは何とか免れ、数分を置いて会話が可能なまでに回復した次第である。
 流石は人間離れしたスカッド・フリーダムの隊員と言うべきか。
これが常人であったなら、絶息せずとも暫くは意識が戻らなかっただろう。
 そのグンダレンコは水底に膝を突き、タイガーファングを直撃された際に吹き飛んだ眼鏡を探し求めていた。
 波に浚われそうになっていた眼鏡を慌てて拾い上げ、
上体を起こしたところで酷い目眩に見舞われたグンダレンコは、
弱々しく屈み込みながらアルフレッドの抱えた爆弾≠ノ触れた。
 即ち、巨人と化す前のビクトーに叩き折られた右の肋骨のことである。
 戦闘の最中だけに応急手当も出来ないまま放置されている最大の弱点なのだ。
グンダレンコが指摘した通り、何かの拍子に折れた骨が肺に突き刺さっても不思議ではなく、
ここまで格闘戦を継続出来たことは奇跡としか例えようがなかった。
 「それ故に」と言うべきであろうか。折れた骨が飛び出して内臓を食い破る――
そのような事態に陥ることもないアルフレッドに対して、グンダレンコは猜疑の目を向けていた。
 実は脇腹の骨折そのものが油断を誘う為の策略ではないかと勘繰っているのだ。
本当は肋骨など折れてはおらず、ビクトーを動揺させようと見せ掛けているだけではなかろうか――と。
 尤も、グンダレンコの当て推量を聴かされたアルフレッドは、
これ以上ないと言うくらい厭味な調子で彼女を嘲っている。

「そうだな……貴様ら、スカッド・フリーダムからすれば、
肺か心臓へ偶然≠ノ突き刺さって死んでくれたほうが言い訳もし易いだろうな」
「突き刺さらないのが不思議だって言ってるんですぅ〜」
「結果的に死んだだけ――その言い訳なら誰もが納得するだろうよ。
意図的に殺したのでなければ、『義』とやら付く疵は最小限で済むものな」

 一口に「厭味な調子で彼女を嘲っている」と言っても、
肋骨が折れていないとする見立て違いを謗ったわけではない。
折れた肋骨を原因とする不慮の事故≠ノ期待しているのだろうと鼻を鳴らしたのである。
 スカッド・フリーダムの隊員たる者が「人を殺すこと」は断じて許されない――が、
負傷個所の悪化によって「結果的に死んだ」のであれば、
正義の道を踏み外したことにはならないと言う理屈であった。
 「人を殺した」のではなく、「結果的に死んだ」と言うことなら
護民官≠ニしての矜持は辛うじて守られるだろう。
それこそがビクトーの狙いなのだとアルフレッドは決め付け、皮肉を飛ばし続けているのだ。

「貴様は殺すつもりで武技(わざ)を撃ったことがあるか?」

 アルフレッドより発せられた一言はグンダレンコを、そして、ビクトーをも沈黙させた。

「さっきの手品≠喰らって、よくよく分かったよ。
理想や気構えだけは偉そうに語っているが、貴様は人を殺したことなんかない。
……血で汚れる覚悟が貴様には――いや、スカッド・フリーダムにはない」

 人を殺めた経験の有無についてアルフレッドが触れたとき、
糸のように細いビクトーの目――無論、潰されていない側のみであるが――が微かに開かれた。
 心の乱れは眉間にも表れており、ここに刻まれた皺が一等深いものとなっていく。

「……誇って語ることでもありませんし、寧ろ悔やまなくてはなりませんが――
アウトローの生命を奪ったことは一度や二度ではありません。
そのようなことをせずとも司法の判断に委ねるべきなのですが……」
「本当に殺したのか?」
「この場で偽りを述べても何の意味もないと思いますよ。私はこの手で、ケンポーカラテの拳で――」
「――戦っている最中に相手を死なせたことと、殺すつもりで技を叩き込むことは大きく違うぞ。
だから、訊いたんだ。本当に殺したのか≠ニな」
「……死と言う結果とは別の次元に本質がある――そう仰りたいわけですか……」
「少なくとも、今の手品じゃ人は殺せない。現に目の前の死に損ないを殺し切れていない。
……お前は俺に私刑≠加える為にやって来たんじゃなかったのか、ケンポーカラテ」

 私刑≠フ二字を受けて、再びビクトーは沈黙した。
 その沈黙を以て肯定と認めたアルフレッドは、「だから、斃れない。斃れてやる理由がない」と吐き捨てた。

「『フーリガン・スタナー』とか言ったか、そのトラウム。
暴徒鎮圧に最適と言うことは良く分かった。
同時に貴様の脳内(アタマ)が思った以上におめでたいと言うこともな。
相手を懲らしめさえすれば万事解決と本気で考えていると見える」
「――言葉には気を付けなさい、アルフレッド・S・ライアン。
今のあなたはエンディニオンの秩序を破壊する災厄(わざわい)と疑われているのよ。
発言のひとつひとつが危険度の証明に繋がることを忘れないように」
「……ほう? カミさんのほうが私刑≠ヨ真剣に取り組んでいるようだぞ、ケンポーカラテ。
尤も、人も殺せない惰弱の一味だから、何を喋っても薄っぺらく聞こえるがな」
「黙りなさいッ! ……生命を絶つことだけが勝ち戦と思い上がっているあなたに
スカッド・フリーダムの何が分かると言うのッ!?」
「大体のことは見えている。それ≠ェ見えていないのは、
『義』と言う自己満足に目が眩んだ貴様らのほうだ」
「この……ッ! ああ言えば、こう言う……ッ!」

 ビクトーに成り代わって批判を受け止めようとするイリュウシナであったが、
当のアルフレッドは彼女に一瞥さえしなかった。
 ビクトーの面を仰いだまま一瞬たりとも目を逸らさず、その状態でイリュウシナに反駁し続けているのだ。
 果たして、ビクトーは妻が反論を紡ぐ度に懊悩の色を濃くしていく。
 イリュウシナとて夫の表情(かお)には気付いており、一刻も早くこの論争を打ち切りたかったのだが、
しかし、七導虎として戦ってきたビクトーの名誉を守る為には、貶されてばかりではいられないのである。

「七導虎は『義』の守り手なのよ! 殺すことで終わりにするのではなく、
生かすことで人間の持つ未来と可能性を開く! その『義』を隊員たちにも示すことで――」
「――うるさい、黙れ。口頭弁論をしたいのなら、もっと勉強を積んでからにしろ、聞き苦しい。
薄汚い私刑≠ノ走っておきながら、今更、そんな言い分が通じると思ったのか」
「そ、それは……」
「『義』は免罪符の代わりにはならない。いい加減に悟ったらどうだ」
「……どうやら一本取られましたね、リュウ。
口舌(くち)でアルフレッド君に勝てる見込みは我々には絶無ですよ」
「……ビクトー……」

 これ以上、言い争う必要はないと妻に諭したビクトーは、自らも両掌の構えを解いていた。
改めて詳らかにするまでもなく、それは不可視の打撃≠繰り出す為の構えである。
 アルフレッドの論にこそ理があると認めてしまったと言うことなのか――
頭(かぶり)を振るイリュウシナの瞳には、昏(くら)い表情を晒す夫の姿が映り込んでいた。

(……例え、誤っているとしても逃げ出すことは出来ないと思って、ここまで戦ってきたのだけれど……)

 夫を庇う為に紡がれた言葉が、却って夫を傷付けてしまうと言う矛盾に飲み込まれたイリュウシナは、
己の行いについて心中にて嘆息した。
 それに、だ。ビクトーを擁護する目的でスカッド・フリーダムの『義』を正当なもののように語ったが、
イリュウシナ自身がこれを信じられなくなっているのだ。
 だから、「何を喋っても薄っぺらく聞こえる」と罵られても巧い反論を見つけられないのである。
他でもない彼女自身が『義』の一字を空虚と感じている証左と言えよう。
 奇しくも――と言うべきか、イリュウシナがスカッド・フリーダムの『義』を見失ったきっかけは、
アルフレッドに対する抹殺指令である。言い方を工夫しようとも、仰々しい題目を付けようとも、
一個人に対する暗殺計画に変わりはなく、そこに正義が存在する余地はない。
 その思いからアルフレッド抹殺へ反発していた筈なのに、
現在(いま)は『在野の軍師』を世界秩序の災いと呼び付け、執拗に追い詰めている。
これもまた受け入れ難い矛盾であり、義の戦士の拳を止めさせるには十分であった。
 自分たちにはアルフレッドを殺せない。彼の言葉の通り、殺すつもりで技を撃つことは出来ない。
タイガーバズーカと言う土地で育まれた『義』の精神(こころ)は、
如何なる理由があろうとも個人(ひと)を殺傷することだけは許していないのだ。
スカッド・フリーダムと言う組織の――否、戦闘隊長らの方針などは今や関係なかった。
 「お前に俺が殺せるのか」と言う難詰を経て、
同じ思いが七導虎たるビクトーの心中にも生じてしまったのであろう。
そうでなければ、戦いの最中に構えを解くことなど有り得ない事態(こと)だった。

「俺だって法律を信じていた……が、生憎と戦場はそんなに甘くはない。
懲らしめるだけで済むなんて生易しいことは全く通用しない。
……ジャーメインの爪の垢でも煎じて飲むことだな。お前たちの妹のほうが遥かに現実を知っている」

 アルフレッドから末妹の覚悟を引き合いに出されたイリュウシナは、いよいよ言葉を失った。
 その覚悟こそが末妹――ジャーメインと自分たちとの決定的な差であった。
 彼女は肉親を討ち果たしてでも己の信じる『義』を貫こうとしている。
己の生きるべき道を確(しか)かと見極めたからこそ、血と罪で穢れることも厭わないのだ。
 揺るぎなき覚悟を心の軸として据えたジャーメインは、これを支えに実姉を捕獲≠オ、
人体急所たる後頭部へと必殺のタイガーファングを叩き込んだのである。
 一方のビクトーは処刑人≠フ任務を――アルフレッドの殺害を果たせず、
彼を支えなくてはならない立場のイリュウシナも私刑≠サのものに対する疑念に囚われていた。
 この期に及んで、義の戦士として生きてきた矜持が彼らを踏み止まらせるのだ。
死を齎(もたら)す武技(わざ)など護民官≠ノは相応しくない――と。
 これはスカッド・フリーダム全体が共有する一番の弱点とも言えよう。
事実、グンダレンコは末妹に対して最後まで殺意を向けることが出来ず、逆に覚悟の差で競り負けてしまった。
おそらくロクサーヌも人を殺す為だけに拳を振るうことは躊躇うに違いない。
 ビクトー同様に七導虎の一角を担うクラリッサは、『義』に背く所業を断じて認めない筈だ。
 七導虎とは義の戦士の魁でなくてはならず、それが人としての道から外れてしまったなら、
後ろに続く同志たちをも迷わせ、狂わせることになるだろう。
 『義』に有るまじき任務ではあるものの、これを乗り越えなければエンディニオンの平和は守れない――
そのように己に言い聞かせて処刑≠フ場に赴いたのだが、最早、心を偽り続けることも限界のようである。

「……現実の戦場(ほんとうのたたかい)≠ゥら目を背け続ける貴様らが知ったような顔で出しゃばるな」

 『在野の軍師』が発した鋭い言葉に、ビクトーとクラリッサは揃って肩を震わせた。
七導虎――スカッド・フリーダムの魁たる称号(な)が両者に重く圧し掛かっている。
 相手の生命を絶つことでしか決着をつけられない戦いは、
数多の同志へ正義を示す立場としては忌避すべきものである。
七導虎の称号(な)を背負うからには悪≠圧倒的に上回るの力で
生かしたまま¢gみ伏せなくてはならなかった。
 七導虎の理想を最善の形で達成し得るトラウムとも言えるフーリガン・スタナーが
ビクトーの身に宿ったことは、運命としか例えようがあるまい。
 さりながら、忌避する≠ニ言う行為を一度でも取ってしまうと、
関わるまいとした事柄について重みも何も知り得なくなり、
「現実の戦場を知っているか」との詰問に対しても空しい詭弁を返すのみとなるのだ。
 無知とは空虚と同義である。
 そして、現実の戦場(ほんとうのたたかい)≠ニは、
ギルガメシュとの合戦へ加わったか否かと言うことではない。
銃火を潜り抜けた経験など表層的な問題でしかなく、本質は精神(こころ)の在り方であった。

「ケンポーカラテの技で打ちのめされていたときのほうがまだ怖かったぞ。
今の貴様は腑抜けにも等しい。いや、それ以下だな」
「言ってくれますね、アルフレッド君は……」

 ヴィトゲンシュタイン粒子の恩恵を受けて巨人と化し、
止(とど)めを刺すばかりと言う状態までアルフレッドを追い詰めたにも関わらず、
七導虎の矜持によって私刑≠ヨ臨まんとする決意が堰き止められ、
どうしても最後の一線を踏み越えられない――
身の裡を這いずる矛盾が自縛の鎖と化していることに気付かされたビクトーは、
天を仰いで「……大婆様、『義』とは何でしょうか――」と呟いた。
 心中のことではあるが、バロッサ家の重鎮に『義』の在り方を問い掛けているのだろう。
彼が口にした「大婆様」とは、スカッド・フリーダムの発祥に携わり、
又、多くの隊員たちに『義』の神髄を叩き込んだタイガーバズーカの長老格――ノラ・バロッサのことである。

「この期に及んで、まだあんな寝言をほざいているのか。誰かに呼び掛けた辺り、現実逃避かね? 
いずれにせよ、お前さんの旦那が名ばかりの七導虎と言うことは変わらんようだな」
「クッ……!」

 己の身を獅子に見立てて飛び掛かってきたロクサーヌを拳ひとつで撃墜し、
次いでイリュウシナに皮肉を飛ばすザムシードであったが、
彼に言い返そうとする者は終(つい)ぞ現れず、そこに静寂が生じた。

(我々と彼らのどちらに『義』は微笑むのでしょうか。
……いえ、勝つかどうかではありませんね。どちらが本当に正しいのか――)

 口を真一文字に結んだビクトーの瞳は、アルフレッドとジャーメインを交互に行き来している。
 軽々に判断を下すことの難しい是認や正邪は別にして――
ひとつの現実として「人を殺す」と言う覚悟にスカッド・フリーダムの『義』は克てなかった。
七導虎でさえ知り得ない領域まで踏み込んだジャーメインは、
立ちはだかった実姉を気魄ひとつで突破したのである。
 それは技でも力でもなく気魄の勝負であった。
 そして、『義』と言う崇高な志は、裏切り者の烙印を押された少女の覚悟によって退けられたのだった。
 彼女と同じ覚悟を携えて現実の戦場≠ノ臨んでいるアルフレッドは、
これを持たざるビクトーに敗れることはないと断言しており、
幾度(いくたび)、不可視の打撃≠ナ全身を打ち据えられても斃れる気配すら感じられなかった。
 暴徒鎮圧の切り札≠ウえも気魄の勝負に於いては無意味と言うことであろう。
 如何にスカッド・フリーダムが現実≠ゥら目を背けてきたのか。
何も知らないまま義の戦士を気取っていたのか――そのことを気魄の勝負に敗れて悟ったビクトーたちには、
最早、沈黙以外の選択肢などなかったのである。
 今更、釈明のような言葉を吐いたところで、その度に恥が重なるだけであろう。

 しかしながら、この沈黙も長くは続かなかった。
 ジャーメインと対峙するクラリッサが「何しに来たのだろうな、私たちは……」と溜め息を零した直後、
義の戦士たちが表情を一変させたのである。
 ドラゴン型クリッターの唸り声を聞いてしまった冒険者か何かのように、
「緊迫」の二字を満面に貼り付けているではないか。
 ジャーメインはクラリッサやグンダレンコの豹変を訝っていたが、
数秒の後(のち)には彼女も顔を強張らせ、前後左右を忙しなく注視し始めた。

「ライアン……分かっているな!?」
「……人を間抜け扱いするな……」

 アルフレッドとザムシードも――否、この場に在る全ての人々が
急速に接近してくる何か≠フ気配を感じ取っていた。
 人間の気配であることは間違いなさそうだが、しかし、片手で数えられるような数ではない。
即座には把握し切れないくらい夥しい気配が一斉に押し寄せてくるではないか。
 アルフレッドたちにとって何より最も不気味だったのは、
気配が察知出来る距離まで近付きながらも相手の足音ひとつ、息遣いひとつ捉えられないことである。
この点だけを考えても、素人≠ナないことは明白であった。
 不気味な気配を感じ取ってから一〇秒と経たない内にアルフレッドたちは次なる怪異に見舞われた。
鈍色の雲によって覆い尽くされたわけでもないと言うのに、俄かに空が暗くなったのだ。
 何事かと宙を仰げば、青一色の只中に陽の光を背にする恰好で黒い渦のようなモノが出現していた。
甚だ信じ難い光景ではあるものの、それは夥しい数の人間が密集して一個の塊と化した様相(すがた)だった。
地上に在ったなら「人波」などと喩えられたことだろう。
 改めて詳らかとするまでもなく、アルフレッドたちの感じていた数多の気配は、
現在(いま)、高空の或る一点に向かって集結し、轟々と渦巻いていた。
 数秒と経たない内に黒い渦は四方八方へと飛び散り、
やがてアルフレッドたちを取り囲むような形で地上に降り立った。
 その拍子に高い水柱が立ち、辺り一面に豪雨の如き滴が降り注ぐ――
自らの噴き上げた海水でもって全身を濡らしつつ着地し、
僅かな乱れもなく流れるように臨戦態勢を取っていったのは、
義の胸甲を装着するスカッド・フリーダムの隊員たちであった。
 その人数(かず)が尋常ではない。二〇〇人を超える義の戦士たちが一斉に姿を現し、
『在野の軍師』を睨み据えたのだ。
  鏃のように鋭い眼光は、彼らがアルフレッドを「世界秩序を乱す災厄の元凶」と
信じ切っていることを端的に表していた。誰ひとりとして疑念を差し挟んではいない。
 状況から考えてビクトーたちの援軍であることに間違いなさそうなのだが、
しかし、当の処刑人≠ヘ――否、彼と共に造船所跡に来襲した者たちは、
二〇〇人もの同志を目の当たりにして呆然と立ち尽くしている。
 それは知らない芝居(ふり)などではなかった。どうやら本当に援軍の到着を把握していなかった様子だ。
そもそも、自分たち以外の隊員がビッグハウスまで遠征する計画(こと)を
知らされていなかったようにも見える。
 ビクトーらバロッサ家の人々が私情を殺して任務を完遂出来るのか――
これを監視するべく同行していたクラリッサとロクサーヌでさえ突然の援軍を前に混乱し、
離れた場所より互いの顔を見合わせ、頻(しき)りに首を傾げている。

「――遅くなりましたッ! 我ら二五〇名もライアン討伐に助太刀致しますッ!」

 如何にも生真面目そうな少年隊員が大音声を張って加勢に駆け付けた旨を告げる。
 所謂、マッシュルームカットと呼ばれる髪型であり、
神経質に切り揃えられた前髪の下に見え隠れする太い眉が印象的な少年であった。
 年の頃はパトリオット猟班のジェイソン・ビスケットランチと大して変わるまい。
世の中のことを余りに知らない年少者独特の危うい一途さが面に滲み出していた。
 その少年に向かって、クラリッサは「どう言うつもりだ、セルカン!?」と説明を求めた。
セルカン・グラッパ――それが少年隊員の名前である。

「私たちは何も聞いていないぞッ! 勝手な真似をするなッ!」
「そうは申されましても! これは戦闘隊長の御命令なのです! 
御一同に危機が迫ったときには何があってもお救いし、
必ずやアルフレッド・S・ライアンを討ち果たすよう仰せつかっておりまして!」
「なッ……」
「戦闘隊長はこうも申されました。敵はひとりとして逃すなと! 
しかし、ご安心下さい! 二五〇の同志が集ったからには鼠一匹、この場より逃しませんッ!」

 この援軍は戦闘隊長の手配りであるとセルカンは答えた。
 私刑≠ニ言う穢れた任務を引き受けたクラリッサたちへ何も告げないまま、
エヴァンゲリスタは独断で援軍を送り込んだと言うことである。
 戦闘隊長の権限に基づく裁量――この一言で片付けられるような事態ではない。
事前に何の相談もなかったのだ。これでは仲間を信用していないと言っているようなものであった。

「アルフレッド・S・ライアン、今日が貴様の命日と思えッ! 世界を腐らす巨悪は滅びねばならないんだッ! 
正義の力を思い知り、悪として生まれてきたことを詫びながら死ぬが良いッ!」

 いちいち仰々しく喚かずにはいられない性情らしいセルカンを筆頭に、
援軍として駆け付けた二五〇名の戦士たちは個人に対する暗殺と言う忌むべき任務も
『義』の道から外れていないと信じ込んでいる様子であった。
 あるいは、穢れた手段さえも正義の実現と戦闘隊長から信じ込まされたのかも知れない。
いずれにせよ、己で是非を考えようともせず無批判で暗殺への加担を受け入れてしまうなど
義の戦士には有るまじきことであろう。

「ふッざけんじゃないわよ! この状況の何処に正義があるってのッ!? 
数の暴力で踏み潰そうってだけじゃないッ! あんたら、とうとう本格的におかしくなったんじゃないのッ!?」

 片足一本で立ち続けるジャーメインは、セルカンの言行に憤怒を迸らせた。
 志の違いからスカッド・フリーダムを去り、「裏切り者」と呼び付けられる立場になってしまったものの、
嘗て己が所属していた隊の狂乱を歓迎するほど性根が腐っているわけではない。
 例え、他者に認められなくとも義の戦士で在り続けようとジャーメインは決意している。
その精神(こころ)を育んだ原点の破綻には悲しみと憤りを禁じ得なかった。
 相容れることはなかろうが、しかし、血みどろの激闘を演じたビクトーたちには信念が感じられた。
それ故に――と言うべきか、拳を交える内に任務と『義』の狭間で葛藤していることも伝わってきたのである。
 これに対して、新たに駆け付けた二五〇名の隊員には何も感じないのだ。
葛藤などは絶無であり、盲信する正義に衝き動かされて抹殺対象を始末しようとしている。
しかも、数に物を言わせて、だ。こんなことは暴力以外の何物でもなかろう。
少なくとも、スカッド・フリーダムの隊服を纏う人間には絶対に許されない愚挙であった。
 セルカンの言葉から察するに、若い隊員たちを愚かとしか言いようのない暴走に駆り立てたのは、
本来、こうした事態を戒めるべき戦闘隊長のようだ。
 前戦闘隊長のシュガーレイと共にパトリオット猟班を結成したジャーメインは、
エヴァンゲリスタの所業にも我慢がならなかった。僅かとて理解出来るものではない。

「窮地と見て物量作戦に切り替えるなんてコトは、戦場では大して珍しくもないぞ。
尤も、手慣れた将士なら、そう言う攻め方を『愚の骨頂』とバカにするんだがな」

 橋の上にて敵の増援を順繰りに見回したザムシードは、これを一笑に付した。

「強がりのつもりかしら? 考えられる最悪の事態だと思うのだけれど?」
「考えナシに数ばかりを注ぎ込むのは、尻に火が付いてマトモな判断力も失くしている証拠だ。
だったら、力で押し返してやればいいのさ。数さえ揃えりゃ勝てると思い込んでいる連中は、
それが通じないと解った瞬間に容易く崩れ落ちるものだよ」
「……遠回しにスカッド・フリーダム全体をコケにしているわね?」
「我ながら直球でコケにしたつもりだよ」

 正面切って睨み合っていたイリュウシナに対し、ザムシードはおどけた調子で肩を竦めて見せた。
 合戦場を渡り歩いてきた馬軍の将にとっては、この程度の人数など驚く程でもないのだろう。
連戦に次ぐ連戦で疲弊している筈なのだが、自分たちを取り囲む新手に仰け反ることもなく、
血の混じった唾を吐き捨てるや否や、誰よりも威勢の良いセルカンを目指していく。
 拳を鳴らしながら歩を進める姿は、一対一の勝負にこだわる格闘者≠ナはなく
数限りない雑兵を蹴散らさんとする武将≠フ気魄を発しており、
イリュウシナもロクサーヌも、その背に気圧されてしまった。
 合戦場に於いて何百何千と言う敵兵と相見(まみ)え、
その都度、勝ち得たと言う経験が揺るぎない自信となって彼を進ませるのだろう。
多数の敵を一掃することこそ己の領分とばかりに薄い笑みすら浮かべている。

「ザムシード・フランカー、……これは私たちの問題だ。先ずはこちらで話をつける」
「馴れ馴れしくフルネームで呼んでくれるなよ、遅刻魔のお嬢さん。
どちらの問題と言うコトでもないだろう? スカッド・フリーダムは我々の敵――それで説明が付く。
敵は後腐れないように殴り倒していく性分(タチ)なのでね」
「趣味の話など知ったことではないが、まさか、本気で戦うつもりではないだろう? 
メイもライアンもボロ人形同然――お前ひとりで二〇〇人以上を引き受けるとでも? 
死にに行くようなものだぞ?」
「如何にも合戦場を知らん人間らしい発想だな。
その数字に一〇倍した兵士を並べて貰ったほうが調子も上がるんだがね、私は」

 正気かと質してくるクラリッサに対して、ザムシードは不敵に笑って見せた。
今なおアルト最強の呼び声高いテムグ・テングリ群狼領の将に相応しい胆力と言えよう。
 その猛々しさに触れた途端、クラリッサは左右の五指を擦り合わせながら身をうねらせ始めた。
律動に合わせて熱い吐息まで零しているのだが、どう言うわけか、その頬は異常なまでに紅潮していた。

「い、致し方ないな、私も一緒に行こう。……だ、だからと言って、か、勘違いしないで欲しい。
セルカンたちを止めるのは私たちの義務であって、それで止むなく一緒にだなっ!」

 要領を得ないことを並べながら小走りでザムシードの後に続いたクラリッサは、
スカッド・フリーダムとテムグ・テングリ群狼領の関係も忘れて恋に落ちた様子である。
 彼女が漫画の世界の住人であったなら、瞳にハートの模様でも浮かんでいただろう。

「……あ〜、クラリッさんには残念だけど、この人、奥さんいるみたいだよ」
「ふひゅんッ――」

 クラリッサの性格――弱点と言うべきであろうか――を熟知しているジャーメインは、
明らかに浮ついた様子から彼女の情況を察し、これ以上ないと言うくらい痛ましそうな面持ちで、
且つ躊躇いがちに残酷な事実を伝えた。
 当然と言えば当然であろうが、その瞬間にクラリッサは膝から崩れ落ちた。
仄かなときめきは数秒で砕け散ったわけだが、
両手両足の指を以てしても数え切れないような失恋歴の中でも最速記録であったことは間違いない。
 クラリッサが呆けた表情(かお)でへたり込む一方、
馬軍の将の接近を見て取ったセルカンは周囲の仲間たちと共に迎撃態勢に入った。
 これを視認したビクトーは「まだ私たちの戦いは終わっていません」と若い隊員たちに制止を促した。

「七導虎の名に於いて命じます。下がりなさい、セルカン」
「ですが、ビクトー様ッ! 許されざる悪に温情をかけるなどスカッド・フリーダムの『義』に背きますッ! 
アルフレッド・S・ライアンに連なる者は全て悪ッ! 社会悪ッ! これを討ち果たさない限り――」
「――下がるのですッ!」

 何故、大敵を前にして止められなくてはならないのか――理解に苦しむセルカンは、
頭を振りつつ言い返したが、これに対して巨人は地響きを起こすほど烈しい怒号を浴びせた。
 普段の温厚さをかなぐり捨てた怒号は、不可視の打撃≠ニ化してセルカンたちに降りかかり、
包囲の一角を吹き飛ばした。
 その威力は大規模な爆発と言っても差し支えがなく、煉瓦造りの建物を幾つもまとめて粉砕したのである。

「ど、どうしてですか、ビクトー様……ッ!? 何故なのですかッ!」

 瓦礫を踏み締めながら起き上がったセルカンは、尚も頭を振り続けている。
 遠路遥々加勢に駆け付けたと言うのに、これを拒絶されたばかりか、
社会悪≠ヨの攻撃まで認められなかったのである。
 義の戦士の頂点に立つ七導虎であれば、これらの行動に涙を流して歓喜してくれても良い筈ではないか――
そのようにセルカンの瞳は訴えていた。

「正義は間違いなく我らにあるッ! それはビクトー様ご自身が誰よりも承知しておられるハズッ!
相手の目を抉るなど、まさしく外道の所業ッ! このような魔技を使う人間は正義など持ち得ないッ! 
その上ッ! 裏切り者のジャーメイン・バロッサまで従えているではありませんかッ! 
あらゆる証拠が正義の対極と示していますッ! 即ちッ! 邪悪ッ!」
「……自分たちの正義(ルール)に反するものは、何でもかんでも邪悪――か。
丸っきり子どもの思考(かんがえ)だな」
「なッ! なんだとぅッ!?」

 スカッド・フリーダムだけに正義があるとするセルカンの熱弁を、
アルフレッドは冷たい侮蔑でもって切り捨てた。
 言うまでもなくセルカンは激昂し、両の拳に蒼白い稲光まで纏わせ始めた。
このまま侮辱を続けたなら、おそらくザムシードを飛び越えてアルフレッドに攻撃を仕掛けるだろう。
 一瞬で理性を失うようなセルカンの怒り方や言行から
アルフレッドはビアルタ・ムンフバト・オイラトを想い出していた。
ザムシードと同じ馬軍の将であり、現在は御曹司たるグンガルに後見役として従っている青年のことを、だ。
 ビアルタも相当に思い込みの激しい男だったが、その行動原理はテムグ・テングリ群狼領に対する愛情と、
御屋形様=\―エルンストへの忠誠心と言う地に足の着いたものであった。
 和解したい相手とは言い難いが、しかし、馬軍の将としての思考は全く理解出来ないわけではない。
少なくとも、アルフレッドにはビアルタが胸に秘めた誇りを貶めるつもりはなかった。
 しかし、両目を血走らせながら正義を叫ぶセルカンは違う。全く違う。
己こそが絶対正義と盲信した挙句に思考が麻痺し、そこに付け込まれて洗脳されたようにしか見えなかった。
 誰か≠ノとって都合の良い思想を吹き込まれた彼は――否、彼らは、
アルフレッドに言わせれば機会仕掛けの人形に過ぎないのだ。
『義』や任務と言った単語は、さながら起動に必要な鍵(キーワード)なのである。

「アルフレッド・S・ライアン! 正義を愚弄した貴様だけは絶対に始末してくれる――」
「――させねぇよ! ひとりだって殺させるもんかッ!」

 今や全身にホウライのエネルギーを纏ったセルカンをビクトーが再び一喝しようとした寸前(とき)、
全く別の誰かの声が響き渡り、これに続いて稲妻が降り注いだ。
 ただ一筋の落雷であったのだが、その規模は尋常ではなく、
又、極大な閃光(ひかり)は白銀(しろがね)に輝いている。
それはつまり、ホウライによる攻撃ではないと言うことを示していた。
 形状自体も奇怪であった。先ず糸の如く歪曲する光線が宙(そら)から地上に向かって閃き、
これを追い掛けるようにして白銀の稲妻が走ったのである。
 もしかすると、「落雷」と言う現象は人間(ひと)の目が視た錯覚に過ぎず、
実際には糸の如き光線そのものが膨れ上がり、やがて電撃に変化していったのかも知れない。
 天地を裂いた閃光(ひかり)の正体は判然としなかったが、
しかし、ビクトーによって吹き飛ばされた者たちへの追い撃ちには十分であった。
 追い撃ちとは雖も、直接的に命中することはなかった為、威嚇と言うことになるだろう――が、
僅かな間に激烈な衝撃で幾度も打ちのめされ、更には白銀の輝きまで浴びせられたセルカンたちは、
暫くは起き上がることさえままならなかった。
 二五〇名にも及ぶスカッド・フリーダムの援軍は、
不可視の打撃≠受けなかった者も含めて混乱を来(きた)している。
それ程までに正体不明の落雷がもたらした影響は大きいのだ。
 無論、動揺させられたのはアルフレッドたちも同じである。間近に降り注いだ稲妻の為に目も眩んでおり、
双眸の機能(はたらき)が復調するまで暫しの時間を要した。

「よもや、まさか――冒険王……マイク・ワイアット!?」

 世界が彩(いろ)を取り戻した瞬間、誰もが声の聞こえた方角を仰いだのだが、
煉瓦造りの建物の一棟――その屋根の上には、セルカン・グラッパの呻き声が示す通り、
ビッグハウスを取り仕切る冒険王マイクの姿が在った。
 例によって例の如く籠状の機械を背負い、そこに鈍色の石柱を収納している。
 件の機械から垂れ下がったケーブルは、
マイクの左手を覆うグローブ――正確には手甲の部分に設けられた円形の装置だ――と連結しており、
現在(いま)は其処に余韻の如き電流を纏わせている。
 先程の稲妻が何処から迸ったのか、その威容(すがた)を見れば瞭然と言えよう。
 冒険王の傍らには、何やら箱状にも見える機械を背負ったビンや、
古めかしい化合弓(コンパウンドボウ)を携えたケートの姿も見える。
 マイクの右隣にて屹立するジョウ・チン・ゲンも左手に赤い槍を握り締めている。
本来は三叉であったようだが、左右の穂先が折れて中央の一本のみとなった歪(いびつ)な槍を、だ。
 その銘を『パクシン・アルシャー・アクトゥ』と言い、
色とりどりの水晶が金属製の柄に等間隔で埋め込まれていた。

「マイクさん、ここはくれぐれも穏便に。お怒りはご尤もですけれど、短慮はなりませんよ」
「知ったこっちゃねぇな! ダチをボコされて冷静でいられるほどオレはオトナじゃねぇッ!」

 義の戦士たちを睨み据えるマイクの表情(かお)は何時になく険しく、黄金の瞳には憤怒の炎を宿していた。
 友人を痛め付けられたばかりか、町一番の自慢とも言うべき造船所跡まで破壊されてしまったのだから
憤激するのは当然であろう。「てめぇら、損害賠償の額で腰抜かしやがれッ!」と憎々しげに言い捨てている。

「慌てて駆け付けてみりゃ、このザマだよ。好き放題やってくれやがって……ッ! 
覚悟は出来てんだろうな、オイ!? どいつもこいつも後悔させてやらァよッ!」

 いつもはマイクと反りの合わないティンクも今度ばかりは全面的に賛成であるらしく、
「生きて此処から出られると思うんじゃないわよ、ゴミ溜めども!」と、
不調法な闖入者たちを手酷く罵っていた。

「……タイミングが良過ぎるじゃないか。どこかで頃合いを見計らっていたのか? 
絶体絶命の危機に現れてこそヒーローは輝くものだからな」
「減らず口ってモンはズタボロのときに叩くもんじゃねーぜ、アル。
……遅れちまって、すまねぇな。もっと早く気付いたら良かったんだけどよ……」
「お前の顔を立てて、ここは『そう言うコト』にしておこうか」
「安心させてくれるっつーか、なんつーか! そんな強がりが言えるんなら、
とりあえずバタンキューはなさそうだな、オイ!」

 スカッド・フリーダムの増援が現れたかと思えば、間を置かずに自分たちにも加勢が駆け付けるとは――
波瀾万丈の活劇めいた筋運びだと、アルフレッドは冒険王たちの到着に鼻を鳴らして見せた。
 彼の目に見慣れない人影が飛び込んだのは、その直後のことであった。
 冒険王の左隣に立った精悍な佇まいの女性である。両手にバンテージを巻いた威容(すがた)は
体術に心得があることを示している。
 「心得がある」と言った程度ではなく、おそらくは達人と呼ばれる領域にまで達しているのだろう。
アルフレッドの目から見ても立ち居振る舞いに隙と言うものが全くなかった。
 タンクトップに短い丈のスパッツと言う軽装は鍛え上げられた肉体に密着し、逞しさを一等際立たせていた。
膝裏が刳り抜かれたニーソックスも併せて穿いているのだが、
これは関節の可動を妨げない為の工夫なのだろう。
 彼女なりにこだわりがあるのだろうか、頭部には鉢巻の代わりにゴム製の紐を巻いている。
輪の形に加工した小さな水晶を眉間へ宛がい、この穴で紐を折り返し、後頭部で先端同士を結ばせていた。
 白地に黒い縞模様(ストライプ)が入ったジャケットと褐色の肌は絶妙な色彩を醸し出しており、
それが為にアルフレッドも目を引かれるのだった。
 件のジャケットより垂れ下がった黒いベルトが風に揺れている。
これはブラケット(前立て)に当たる部位の丈を長くした物で、
先端部分を折り返して黄金色の輪を括り付けている。
 左右のベルト――その先端の金具が中空で擦れ合い、小気味良い音を奏でる程に強い風が吹き付けていた。
 褐色の肌を持つ逞しい女性は、そのような風を纏っている。
藍色の長い髪を舞い散らせる姿は、この戦いに新たな波紋を起こす存在であることを暗示しているようだった。

(――やはり、見憶えのない顔だな。……マイクたちと一緒と言うことは、
少なくともスカッド・フリーダムの回し者ではないのだろうが……)

 冒険王と親しくなり、何日もビッグハウスへ滞在しているアルフレッドではあるものの、
だからと言って彼の仲間を全員把握出来たわけではない。
 ただアルフレッドが知らないだけで、この女性とマイクが長年の盟友同士と言う可能性も有り得るのだ。
 一方のジャーメインも件の女性に釘付けとなっている。
それどころか、呆けた調子で口を大きく開け広げているではないか。

「――お、お師さんッ!?」

 褐色の肌が眩しい女性のことを、ジャーメインは師≠ニ呼んだ。
 果たして、その女性はジャーメインが拵えたミサンガを右手首に巻いていた。
色違いではあるものの、アルフレッドも同じ物を同じ部位に着けているのだ。




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