15.相剋の牙


「……アルちゃ……」

 膝を突いて崩れ落ちたマリスの視線の先では、比喩ではなく本物の水上竜巻が起こり、
アルフレッドとビクトーを包み込んでいた。
 時計盤≠フ法則に基づいた大きな円運動――絶え間なく続く螺旋の運動が海水を巻き上げているのだ。
 蒼白い稲光まで巻き込んだ大渦の只中では、凄惨な殺戮が繰り広げられていることだろう。
抗争の決着をアルフレッドに委ねると決めた源八郎やマイクたちは手出しをせずに
水上竜巻を見つめるのみであったが、マリスはそうもいかない。
最愛の恋人≠ノ迫る死を前にして彼女は平常心を失ってしまった。

「権田さんっ、権田さん……ッ! 今すぐアルちゃんを助けてくださいましッ! 貴方様の鉄砲で……ッ!」
「そいつぁ――断じて、やっちゃあいけねぇことですぜ。……アルの旦那の顔に泥を塗るのとおんなじだ。
俺たちには、もう信じて待つことしか出来ねぇんでさァ……!」
「それでも……それでも、アルちゃんを死なせるわけには――」
「――聞き分けねぇかッ! ……あんたが旦那を信じねぇでどうするんでェッ!? 
今までアルの旦那はどんな戦いだって切り抜けてきたじゃねぇかッ! 
一体、あんたは何を見ていたんですか、ええッ!?」

 大いに取り乱し、最愛の恋人≠救って欲しいと縋り付いてきたマリスを一喝する源八郎だが、
彼とて今すぐにでも助けに入りたいのである。
 しかし、ここで狙撃銃を構えることは、アルフレッドに対する何よりの侮辱であり、裏切りあった。
それを弁えていればこそ血が滲むほどに唇を噛み、身の裡より沸き起こる衝動に耐えているのだ。

「アルちゃん――ッ!」

 どうあっても源八郎の言葉を受け容れることの出来ないマリスは
気色ばんだ調子で最愛の恋人≠フ名を呼んだが、
しかし、大渦の向こうから反応が返ってくることはなかった。

「アルフレッド・S・ライアンもこれで終わりだな。……『竜巻』が消える頃には屍になっている筈だ」

 ジャーメインとクラリッサの対峙する地点からも水上竜巻を視認することが出来る。
その頂点に於いては、蒼白い稲光が天を焦がすかのように炸裂し続けていた。
 処刑の執行が間もなく終わると言い放つクラリッサに対して、
ジャーメインは「そんなヤワなタマじゃないよ、あいつは」と不敵に笑った。
理性が崩れ落ちる程に狼狽したマリスとは対照的に、
彼女はアルフレッドが落命するとは露ほども考えていない様子であった。

「大した信頼――と言ってやりたいのは山々だが、私の目にはライアンは死に体同然にしか見えなかったぞ。
あそこからの逆転より私の結婚が成就する確率のほうが高そうだ」
「自分で言ってて、悲しくならないの、それ……」
「言った瞬間に大失敗だと反省したんだ。それ以上、穿り返さないように」
「クラリッさんの妄想が実現する可能性は、そもそもゼロパーだから確率を計算する以前の問題だけど――」
「穿り返すなと言ったばかりだろう!? あれから一〇秒も経っていないぞッ!?」
「――アルが生き残る確率なんて、計算するまでもないよ。どうせ仏頂面引っ提げて帰ってくるもん。
心配するだけ無駄ってヤツ。……戦闘(これ)が終わったとき、あたしも胸を張ってハイタッチしたいからね」
「……成る程、な……」

 ジャーメインが言わんとした意味を悟ったクラリッサは、
これに応じるよう己の身に蒼白い稲光を纏い始め、次いで腰を低く落とした。
その様は密林に伏して獲物を狙う猛虎のようにも見える。
 拳と脚の応酬と言うアルフレッドたちの激闘とは異なり、
ジャーメインとクラリッサは相手の出方を見極め、ただ一撃のみで勝敗を決しようとしている。
ガンファイターによる早撃ちの決闘にも似た様相であり、
両者の間には極度に張り詰めた空気が垂れ込めていた。
 事実、ジャーメインが左掌中に握り込んだCUBEからは凄まじい爆炎が噴き出しており、
これに触れようものなら如何な七導虎と雖も、致命傷は免れまい。
 一方のクラリッサも『エウロペ・ジュージツ』の妙技を以てすれば、
ジャーメインの首を中空で捉え、圧し折ることなど容易かろう。

「『これで終わり』って言うのは、あたしたちの勝負のコトだよ、クラリッさん――」

 水上竜巻が起こった後(のち)の睨み合いは短かった。
 右足裏にてホウライを爆発させ、これによって推力を得たジャーメインは、
一気にクラリッサとの間合いを詰め、爆炎を纏った左拳を突き入れようとした。
 皮膚を焼くような熱風が吹き付け、眩いばかりの紅蓮の輝きに視界が塗り潰されそうにもなったが、
クラリッサはジャーメイン本人の挙動(うごき)にのみ意識を集中しており、
僅かな変化とて見逃さないつもりであった。
 ジャーメインとてクラリッサの眼光には気付いている。
そもそも、紅蓮の輝きで彼女の眼を眩ませることは出来ないと解っている。
 七導虎に挑戦する上で為すべきことはただひとつ――正面切って勝負を仕掛けるのみであった。
 クラリッサの懐へ潜り込むか否かと言う瞬間に石畳を踏み付け、
もう一度、ホウライを爆発させて急激な再加速を行い、爆炎の拳を突き入れていく。
 二段階の加速を以てして繰り出され拳打は、確かにクラリッサの虚を突いていた――が、
義の戦士の頂点に立つ七導虎からすれば、それは小細工の域を出ないものだった。
彼女はジャーメインの挙動(うごき)を見極めた上で、敢えて燃え盛る左手を捕まえたのである。

「ク、クラリッさ――」
「例え地獄の業火であっても我が身を――いや、我々の『義』を焼き尽くすことは出来ないのだッ!」

 右掌でもってジャーメインの左拳を包み込んだクラリッサは、
己の腕に爆炎が移ろうとも動じる素振りさえ見せず、このような子供騙しなど無意味だと叱声を飛ばし、
続けざまに己の左拳を閃かせた。旧友の鳩尾を一突きしたのである。
 人体急所のひとつを抉られたジャーメインは、ほんの一瞬ながら身動きが止まってしまった。
暢気に蹲っている場合ではないと思考(あたま)では解っているのだが、
どうしても肉体(からだ)が言うことを聞いてくれない。
 それだけ鳩尾への一突きが巧みであったと言うことだ。
衝撃は身体の芯まで響き、一時的ながら運動に要する機能を強制停止させたのである。
 この間にクラリッサ当人はジャーメインの背後まで回り込んでいる。
先んじて捉えた左手を外すことはなく、遂には両の五指にて腕を完全に捕獲≠オてしまった。
 その動きは中空に残像を移さない程に疾(はや)く、燃え移っていた炎をも掻き消している。
焼け焦げた隊服や左腕に負った火傷は痛ましいが、当のクラリッサは少しも気にしておらず、
この直後にジャーメインを前方へと放り捨てた。
 変則的な背負投のようにも見える技を打つや否や、彼女の首を右手で掴み、
更には対の手でもって左腕を引っ張り、うつ伏せの恰好に組み敷いたクラリッサは、
そのままジャーメインの左肩を跨ぐように膝を突き、容赦なく肘関節を捻り上げた。

「くぅ――んんん……ッ!」

 この場に於いて精神的に圧されるわけにはいかないジャーメインは、
必死になって悲鳴を噛み殺したものの、気迫だけでは捩じ切られた左肘の靭帯を補うことは出来まい。
最終局面(ここ)に至って、遂に彼女は両腕を潰されてしまったのである。
 自然、火のCUEBも左掌から滑り落ち、紅蓮の輝きも虚しく掻き消えた。
 徒手空拳の立ち合いの最中に両腕が使えなくなることは、殆ど死を意味しているようなものである。
防御が不可能に近くなり、しかも、ムエ・カッチューアの要たる首相撲にも持ち込めない。
 末妹の戦いを見守って来たグンダレンコは、義の戦士と言う立場も忘れて彼女の名を叫んでしまった。
 水上竜巻に呑み込まれたアルフレッドと同様に、
ジャーメインまでもが絶望的な状況に追いやられてしまったと誰の目にも映っていた。
 彼女の身のこなしを見極め、返り討ちにしたクラリッサの技巧(わざ)には隙が全く存在しなかった。
七導虎の座に在る者の力量が如何に高く、一般隊員との間にどれ程の差が開いているのか――
これを証明した結果とも言えよう。
 ジャーメイン自身の疲弊も多分に影響しているだろうが、
仮に万全の状態であったとしても、クラリッサの技巧(わざ)を凌駕出来るとは思えなかった。
 ただひとつ、クラリッサに失策があったとすれば、ジャーメインを組み伏せたまま溺死させるのではなく、
首を捉えようと寝技から変化してしまったことであろう。
 肘の靭帯を断ち切られて力を失った左手もろともジャーメインの首を両腕で抱え込んだクラリッサは、
一度、彼女の身を持ち上げてから再び石畳へ投げようと考えたのだが、
その瞬間に付け入られるだけの隙が生じてしまった。
 両腕で首を極めたまま投げ落とし、その衝撃を以て頸椎を圧し折ると言う恐るべき荒業なのだが、
己の身が抱え上げられた直後、ジャーメインは腰を捻って姿勢を変えたのである。
 右足一本と心許ないが、石畳目掛けて投げ付けられたときには、
膝の屈伸を以て衝撃を吸収し、痛手(ダメージ)を抑えながら着地しようと図ったわけだ。
 依然として首を極められたままである為、身を捩った拍子に耳障りな軋み音を聴いたが、
そのような些末なことには構っていられない。
頸椎さえ折られなければ、そこから逆転の機会まで辿り着けるかも知れないのだ。

「――あくまでも抗おうと言うだな。……その意気には応じねばなるまいッ!」

 両腕でもって組み付いていたクラリッサがジャーメインの変化に気付かないわけがない。
技の仕掛けをしくじったと確かめるや否や、石畳に叩き付けるのではなく遠方へ投げ捨てる型に切り替えた。
 ただ一撃のみで勝負を決すると言う当初の企図からは外れてしまうものの、こればかりは仕方があるまい。
 対するジャーメインは中空にて身を捻り、瓦斯燈の柱の上に右足一本で着地すると、
全身に蒼白い稲光を纏いながら左の飛び膝蹴りを放った。
 左足首は既に圧し折られており、地を踏むことは出来ない――が、
膝を突き込む分には何の支障もないと言うわけである。
 足裏にてホウライを炸裂させたジャーメインは、
踏み台代わりとした鉄の柱を粉砕しながら地上に在るクラリッサ目掛けて急降下していく。
 当のクラリッサも今度ばかりは迎撃に終始するのではなく自ら飛び跳ね、
正面切ってジャーメインに掴み掛かっていった。

「スカッド・フリーダム、七導虎の御名に於いて――我らが『義』は誰にも破らせんッ!」
「あたしはその先を往くッ! スカッド・フリーダムも何もかも超えてみせるッ!」

 両者の吼え声が中空にて交わり、烈(はげ)しく爆ぜた。
 このとき、クラリッサはホウライ外しをも試みていた。
今まさにジャーメインは蒼白い稲妻と化して地上に降り注ごうとしている。
その閃光(ひかり)を無効化し、飛び膝蹴りの威力を削ぎ落とそうと言うのだ。
 クラリッサとビクトーは共に七導虎である。この称号を名乗るにはホウライをも極めねばならず、
彼がアルフレッドを翻弄したときと同じように、
接触することなく念じるのみで蒼白い稲光を打ち消してしまえるのである。
 ホウライ外しを以てして、飛び膝蹴りの拍子をも崩せるとクラリッサは確信していた。
直撃の寸前で狙いが外されてしまったなら、必ずや心理的な動揺が引き起こされる。
心技体を極めた七導虎にとっては、その僅かな隙だけでも十分なのである。
ジャーメインに訪れるだろう一瞬の驚愕へ付け入り、仕留めるのだ。

(――いや、……何なのだ、一体……ッ!?)

 ところが、だ。幾らクラリッサが念じてもジャーメインの纏うホウライを消滅させることは叶わなかった。
 これはスカッド・フリーダム――否、タイガーバズーカ始まって以来の事態である。
ホウライが打ち消されるのではなく、ホウライ外しのほうが無効化されるなど前代未聞であった。
ジャーメインを動転させるどころか、反対にクラリッサが狼狽してしまったのである。

「行っけぇぇぇェェェ――ッ!」

 ジャーメインが迸らせた更なる吼え声に共鳴し、
蒼白い筈の稲光が黄金色(こがねいろ)に変わっていくではないか。
 このような変化など七導虎に座するクラリッサでさえ嘗て見たことがなかった。
 黄金色の閃光(ひかり)を仰いでいた二百余名の少年少女の間でもどよめきが起こり、
グンダレンコもイリュウシナも、末妹が見せた威容(すがた)には、ただただ呆然としている。

(……この輝きッ!? ま、まさか、これは伝説の……ッ!?)

 困惑の最中、クラリッサはタイガーバズーカにて語り継がれている或る伝説≠想い出した。
 彼(か)の地を開いたテイケン・コールレインが夢に描きながらも、
遂に到達し得なかったとされる伝説=\―スカッド・フリーダムの義の戦士ならば誰もが夢見る境地である。
 その伝説≠ノよれば、『義』の魂を極限まで高めた者のホウライは蒼白い稲光を超越し、
およそ人間の業とは信じ難い程の領域にまで進化するとされている。
 だからこそ、クラリッサは――否、この場に在るスカッド・フリーダムの全隊員が
ジャーメインの放つ眩いばかりの閃光(ひかり)に目を奪われているのだ。

「お前は何時からその力に覚醒して――」

 やがて、黄金色の稲妻は瞠目し続けるクラリッサへと降り注いだ。
 中空で交錯するかと思われた瞬間に彼女の身を捉え、
烈(はげ)しく輝くエネルギーを纏った膝で鳩尾を抉り、
そのまま地上目掛けて真っ逆様に急降下していく。
 黄金色のエネルギーを纏ったジャーメインの前には
七導虎の身体能力と反応速度を以てしても防御が間に合わず、
クラリッサは人体急所への直撃を許してしまった。
 苦悶の声すら打ち砕くほど凄まじい稲妻は、クラリッサを飲み込みながら地上にまで達すると、
轟音と共に隕石孔(クレーター)の如き大穴を石畳に穿ち、
ビクトーによる不可視の打撃≠も上回る衝撃波を四方八方へと輻射させた。
 黄金色の閃光(ひかり)は、それから間もなく爆ぜて散った。
 その果てに片足でもって立っていたのは、ジャーメイン・バロッサである。
 全ての力を燃やし尽くしたかのように全身から白い蒸気を立ち上らせ、
破壊された両腕を力なく垂らしながらも、その瞳には黄金色の稲光に負けないくらいの輝きを湛えている。
 一方のクラリッサは、石畳の上に身を横たえたまま起き上がることも出来なかった。
仰向けの恰好で沈黙し続けており、慌てて駆け寄ったロクサーヌが引き上げていなければ、
あるいは石畳を満たす海水によって溺れ死んでいたかも知れない。

「……こがぁなとんでもないもん見せられたら、道を譲らんわけにゃあいけんわいねぇ。
パトリオット猟班の魂、見さしてもろぉたけぇ……ッ!」

 クラリッサに息があることを確かめて胸を撫で下ろしたロクサーヌは、
眼差しでもって無事か否かを尋ねてきたジャーメインを仰ぐと、
何とも例えようのない笑みを浮かべながらひとつの戦いの決着を宣言した。

「ウソだ……ウソだ……そんなこと……ッ!?」

 ロクサーヌの宣言に接したセルカンは、双眸を見開いたまま頭(かぶり)を振り続けている。
 例え、他の誰もが受け入れたとしても、彼だけは決して認めないつもりであろうか。
『義』を裏切ったパトリオット猟班の片割れに七導虎が敗れる事態など、
セルカンからすれば世界の摂理が引っ繰り返るようなものなのである。
 少なくとも、セルカンの中ではスカッド・フリーダムの正義こそが唯一絶対であり、
これを覆す存在などは全く信じていなかった。断じてあってはならない事態なのだ。

「こうなったら、自分がクラリッサ様の代わりに外道を成敗しますッ! 
誰かがやらなければ、エンディニオンから正義の燈火が消えて――」
「――恥知らずな真似をしたらいけんよ! 勝負はもうついた! うちらは負けたんじゃけぇッ!」
「ロクサーヌさん……ッ!」
「ふたりの勝負に泥を塗るヤツはうちが相手になるけんッ! 自己満足の為に正義を捨てたらいけんよッ!」
「クッ……」

 己の中でのみ通用する正義を決して曲げず、他者にも正義があることなど全く信じず、
敗れたクラリッサに成り代わって己がジャーメインを倒してしまえば、
それで正義の道は繋がるのだ――そう言い張って聞かないセルカンであったが、
ロクサーヌより浴びせられた一喝には流石に黙り込んだ。
 ここに至って、ようやく我が身の愚かしさを悟ったのであろうか、
光の矢によって磔にされたまま俯き、悔し涙を零し続けている。
 セルカンが嗚咽する一方、ジャーメインをムエ・カッチューアの戦士に鍛え上げた師匠――ルシアは、
誇らしげに胸を張り、天高く拳を突き上げていた。

「一体全体、どんな勝負になるのかと思いきや――やってくれるじゃねぇか、バカ弟子めぇ〜!」

 余韻の如く舞い散る黄金色の火花を見つめて深く強く首を頷かせたルシアは、
互いの身を支えながら呆然と立ち尽くしているイリュウシナとグンダレンコに向けて、
「自慢の妹だろう!? そうさ、みんなに自慢してやれッ!」と興奮した調子で笑いかけた。

「あたしゃ、鼻高々だよッ! 今日ほどメイの師匠になれたことを誇らしく思えたことはないねぇッ! 
生まれ故郷に裏切り者扱いされた娘の魂がタイガーバズーカの伝説≠ノ到達したんだからさァッ! 
……こんチクショーめ! 最高の弟子だよッ!」
「そこまで褒められると逆にヒくけど――何? 何がどうしたっての? 
クラリッさんに初白星って、別にそんな感涙する程のもんでもないっしょ?」
「天然ボケも今日だけは許してやらぁッ! 後でたっぷりアタマ撫でてやるからねェッ!」
「な、何なの、今日のお師さんは!? いっつもヘンだけど、ちょっと度を越してるよっ?」

 無我夢中で最後の一撃を繰り出したが為に、己が伝説≠ニ呼ばれる領域まで魂を高めたことなど
自覚(わか)っていないのだろう。師匠の称賛にも意味不明とばかりに首を傾げている。
 タイガーバズーカの伝説=\―ルシアの言葉が意味するところを解き明かすのは、
今、この場に於いては極めて難しかろう。ジャーメインは七導虎を相手に大金星を上げたが、
しかし、最後の攻防は現在も続いているのだ。
 それ故、タイガーバズーカの伝統などに詳しいとは言い難いザムシードも深くは尋ねなかったのである。
仮に委細を確認するとしても抗争が決着を見た後でなくてはなるまい。
 間もなく水上に立つ竜巻へと目を転じたジャーメインは、
「チンタラやってんじゃないわよ、アルッ!」と、今まで以上の大音声を張り上げた。

「七導虎がナンボのもんよッ! 義兄さんは神人でも何でもない、あたしたちと同じ武術家よッ!? 
絶対に手が届かない相手なんかじゃないんだからッ! 思いっ切りぶつかって、ブチのめせッ!」

 それは現在(いま)のジャーメインに出来る精一杯の激励であったのだが、
しかし、その声は大渦の向こうまで届いているのだろうか。
仮に鼓膜へ滑り込んでいたとしても、これを情報として脳が認識出来るとは思えなかった。
 水上竜巻の只中では、依然としてケンポーカラテの拳と脚が幾度も幾度もアルフレッドを打ち据えている。
何れもが全円を描く武技(わざ)なのだ。常人であれば、最低でも五〇回は落命した筈であり、
このような状態にまで追い詰められたなら、意識が暗闇の中へ溶け込んだとしても不思議ではなかった。
 その暗闇の真っ只中に黄金色の閃光(ひかり)が走った。
 天を衝く程の逆巻いた水流をすり抜け、アルフレッドの頭上に舞い降りた黄金色の火花である――が、
今まさに昏(くら)く閉ざされようとしていた彼の瞳には閃光(ひかり)のように見えたのだろう。
 闇を斬り裂くような閃光(ひかり)は時間を経るにつれて糸のように見え始め、
間もなく無数の糸が絡み合って束となり、その輝きがひとつの幻像(まぼろし)を彼のもとに導いた。
 先程もアルフレッドの視界に現れた最愛の少女の幻像(まぼろし)である。
 束となった閃光(ひかり)は、長いブロンドを一本に結んだ後ろ髪のようにも見える――
つまりアルフレッドは、虚しい錯覚の中に最愛の少女の後姿を視ていたのである。

(……フィー……?)

 いつか視た夢と同じように、その後ろ姿は何処かへと去っていく。途方もない闇の中へと潰えていく。

(待つんだ、フィーッ! 俺も……俺も連れて行ってくれ……! 
お前までいなくなってしまったら、俺にはもう生きている理由など――)

 血を吐く程に呼び掛けても、どれほど希(こいねが)っても、幻像(まぼろし)の歩みは止まらない。
縋り付こうと伸ばした手は虚しく空を切り、どうしても届いてくれない。
 その存在が消えてしまったなら、生きる理由を失うことにも等しい――
だからこそ、彼女を己のもとへ引き戻そうと足掻くのだが、
「行かないでくれ」と念じれば念じるほど、幻像(まぼろし)は急速に離れていく。
 アルフレッドにとって「最愛」の二字ですら語り尽くせない相手は、
彼の想いを裏切るようにして、ただひたすらに絶望の彼方へと向かっていくのだ。
 俺も連れて行ってくれ――その声に振り返ることもない。

(フィーッ!)

 とうとう無限の闇に呑み込まれた幻像(まぼろし)の名を絶叫した瞬間、
アルフレッドの視る世界が一変した。あるいは本来の世界≠ヨ帰還したと言うべきかも知れない。
 更に付け加えるならば、双眸よりも肉体(からだ)のほうが先に反応していた。
爆弾≠ェ仕込まれた側とは反対の脇腹を右拳打で抉られ、
全身を貫く激痛によって崩れ落ちそうになっていたアルフレッドの左足が反射的に跳ね上がったのである。

「何と言う――」

 ビクトーの驚愕は掬い上げるような強撃によって吹き飛ばされた。
 後方に身を傾けるような体勢で跳ね、中空まで一気に翔けつつ全体重を乗せた蹴り足を振り上げる
『サマーソルトエッジ』である。
 無の境地≠ネどと言った達人が見せる芸当ではなく、完全に無意識の動きである――が、
だからこそ、ビクトーも殺気を感じ取ることが出来ず、反応し切れないまま顎への直撃を許してしまったのだ。
 蹴りを喰らわせるのと同時に中空まで翔けたアルフレッドではあるものの、
この時点では意識を完全には取り戻しておらず、顎を撥ね上げられたビクトーが自らも跳ね飛び、
左側面へ回り込んできたことにも気付いてはいなかった。
 ビクトーが視ているのは縦に立てかける形の時計盤である。
上昇の最中に右の五指にてアルフレッドの喉を掴み、
三時の地点に在った彼の身を十二時の方角へ持ち上げるや否や、
そこから六時の方向へ真っ逆さまに投げ落とし――この直後には追撃に移っていた。
 アルフレッドを模倣して足裏にてホウライを爆発させ、
これによって得た推力で急降下して彼を追い掛けていったのだ。
 己の射程圏内にアルフレッドを捉えると、共に落下しながら左右の足で交互に前回し蹴りを繰り出していく。
再び横薙ぎの攻撃に切り替えた次第であった。
 左足で胴を、右足で頭部を――アルフレッドの身を連続回し蹴りが何度も何度も軋ませた。
 しかし、幾度となく脳を脅かされたことによって混濁していた意識が完全に覚醒し、
アルフレッドは真正面に怨敵(ビクトー)の姿を捉えたのである。
 彼が生きるのは幻像(まぼろし)の立つ甘やかな闇の只中ではない。
数限りない犠牲を敷き詰めた上に成り立つ血溜まり世界なのだ。
 己の身を軋ませるモノは何か、己が為すべきことは何か――全てを想い出したアルフレッドは、
これと同時に頬を伝う血の涙の冷たさを確かめた。
 皮膚を抉るような冷たい雫は、生命を削り取っていく死の胎動にも良く似ている。
そして、その絶対的な終焉は今にも訪れようとしていた。

(――まだ死ぬわけにはいかないッ! フィーの……皆の犠牲を愚弄したこの男を殺すまではッ!)

 死神の手によって捕まってしまう前に、ビクトーだけは必ず斃さなくてはならない。
ただその一念のみによってアルフレッドは死にかけた肉体(からだ)を揺り動かそうとしている。
 『在野の軍師』としての責任も、己を信じて連合軍の勝敗を託してくれたエルンストへの想いも、
ギルガメシュ討滅と言う悲願も、何もかも――犠牲に報いると言う激しい衝動によって壊されていた。

「――貴様だけは生かしておかないッ!」
「いいえ――キミこそ生きていてはいけない存在なのですッ!」

 地上に立った――否、『軸』の移動によって立たされた<Aルフレッドに対して、
ビクトーは六時の地点より死神の鎌にも等しい横薙ぎの左拳打を繰り出そうとしている。
 そのビクトーから見て、現在のアルフレッドは一二時の場に立たされていた。
 時計盤≠ノ喩えて双方の位置関係を詳らかとするならば、
この瞬間、中央は蛻(もぬけ)の殻と言うことになるだろう。
 件の位置まで恐れることなく踏み込めた者こそが、最後の攻防を制するだろう――
そう確信したアルフレッドは、正面からぶつかるようにして間合いを詰め、
ビクトーの動きを封じるべく懐深くまで潜り込んでいった。
 円軌道の技を得意とするビクトーにとっては、回転の軸≠押さえられてしまうと甚だ不利である。
これはつまり、武技(わざ)に最も適した間合いが確保出来なくなると言うことであった。

「最期だッ! ケンポーカラテッ!」

 死の宣告にも等しい咆哮の直後、アルフレッドの踏み込みはビクトーの想像を遥かに上回った。
 その疾(はや)さは神の次元と呼ばれる領域にまで達しており、
七導虎の眼力を以てしても完全に補足することなど不可能だったのだ。
 刹那のことではあるものの、残像を虚空に映さないどころか、姿形が世界から全く消失したのである。

「――バカなッ!?」

 ビクトーが抉られていない側の眼を見開いたのも無理からぬ話であろう。
それは疲労困憊のアルフレッドに発揮出来るような速度ではなかった。
 数秒前までケンポーカラテの拳と脚によって滅多打ちにされ、
全身を赤黒く染める青年には疾駆する力さえ残存していないと思っていたのだ。
 人間の限界を超越した疾(はや)さは、やはりホウライによって引っ張り出されたものである。
瞬間的に体内を蒼白い稲光で満たし、身体能力や反応速度を撥ね上げたのである。
 体力を使い果たした状態でホウライを発動し、極大な負荷を掛けてまで身体の強化を図るなど
危険極まりなく、殆ど自滅を招くような行為である。
 クラリッサと立ち合うの最中にジャーメインも体内を蒼白い稲光で満たし、
これを芯棒の代わりとして折られた腕を動かしたが、
現在(いま)のアルフレッドは彼女以上に無理を重ねているのだ。
 全身の筋肉と骨が軋み、内臓さえも悲鳴を上げ、食い縛った歯の隙間からは鮮血が溢れ出す――
己の肉体が崩れていく音を聞きながらも、それだけの代償に見合う効果が得られたと
アルフレッドは確信していた。
 一瞬で効果が発揮された為か、七導虎たるビクトーでさえ蒼白い稲光を察知出来なかったのである。
そのような状況ではホウライ外しも間に合うまい。
 そして、ケンポーカラテの武技(わざ)に最も適した間合いへ強引に割り込むと言うことは、
奥義の要たる時計盤≠フ法則を絶ったも同然なのだ。
 死を賭したホウライによって遂に『竜巻』から逃れたアルフレッドは、
懐深くまで潜り込むや否や、ビクトーの左胸に己の右拳を添えた。
 円軌道の打撃に長けたビクトーに対して、彼は密着した状態から必殺の拳打を突き込むことが出来る。
 『ワンインチクラック』――ここ一番と言う局面でアルフレッドが絶対の自信を持って放つ拳打であり、
ビクトーとの激闘に於いても幾度となく繰り出していた。

「――待て、ライアンッ! そう何度も同じ技が通用するものかよッ!」

 円軌道の技巧(わざ)が途切れたことで水上竜巻も砕け散り、
アルフレッドとビクトーの攻防は再び衆目に晒されることとなった。
 今まさにワンインチクラックが繰り出されようとしていると見て取ったザムシードは、
この局面に於いてもアルフレッドが件の技を頼みにしたことへ警戒を呼び掛けた。
 馬軍の将が危惧した通り、ビクトーの側は拳打が突き込まれるまでの呼吸まで完全に把握している。
幾度となく突き込まれる中で培った学習の成果とも言い換えられよう。
 果たして、ワンインチクラックが炸裂しようとした瞬間、ビクトーは両足裏でもって石畳を踏み締め、
全身に力を入れることでアルフレッドの右拳を耐えようと試みた。
鍛え上げられた胸板でもって拳打を受け止め、弾き飛ばそうと言うのである。
 一瞬ながら見失ってしまったアルフレッドの姿も今は真正面に捉えている。
相手の姿が視認出来る以上、二度と不覚は取らないだろう。
 『義』の一字が記された胸甲は既に破壊されているが、
拳打のひとつやふたつ、生身であろうとも耐え凌いでみせるとビクトーは気を張っていた――が、
これこそが致命的な誤算であった。

「おおおぉぉぉォォォ――ッ!」

 今まさに右拳を突き入れるかと思われた瞬間、突如としてアルフレッドが五指を開いたのである。
 ワンインチ≠ニは極めて短い距離のことを指しているのだが、
これは狙い定めた標的(まと)との隙間から計測されるものであり、
握り拳を開くことによって目盛が一変するのは自明である。
 改めて詳らかとするまでもなく、五指を伸ばしたなら、その分だけ距離は零に近付くと言うことだ。
 ビクトーからしてみれば、ワンインチ≠ニ言う間合い自体を潰されたようなものであろう。
五指を開くと言う動作が加わる為、拳による突きとは技の拍子が完全に異なるのだ。
 ザムシードが懸念する程にワンインチクラックを乱発してきたのは、
拳打から貫手(ぬきて)と呼ばれる技法へ変化させる為の布石であったのかも知れない。
呼んで字の如く、鏃に見立てた五指にて相手の肉体を貫くと言う荒業である。
 これまでの攻防の中で計って来た呼吸を狂わされ、技が完成する拍子を全く読み違えたビクトーの左胸には、
間もなく親指を除いた四指が到達し、鍛え抜かれた筋骨を一直線に貫いていく。
 深く深く――四指の根元まで刺し込まれていき、抉られた部位からは赤黒い飛沫が勢いよく噴き出した。
 そもそも、ワンインチクラックは全身の力を瞬間的に爆発させ、
これによって得た破壊力を最短距離で相手に叩き込むと言う武技(わざ)である。
同様の術理を以て生み出された殺傷力は、拳を伝って悪魔の爪が如き四指へ宿り、
ビクトーの左胸を脅かしたのだった。
 左胸から夥しい量の鮮血を迸らせるビクトーは誰がどう見ても致命傷を負ったとしか考えられず、
その様を見て取ったティンクなどはアルフレッドの勝利を確信し、
「トドメはきっちりね! そいつ、クソみたいにしぶとそうだからさ!」とまで言い切った――が、
その歓喜は一瞬で暗転することとなる。

「どこ見て言ってやがるんだ、クソ便所蠅ッ! それとも、今のは寝言かァ!?」
「はあ!? 銀髪たちを見てるに決まってんでしょ!? 他に何があるってのよ!」
「だったら、てめーの眼は節穴だぜッ! ……あのヤロウ、一瞬でとんでもねぇ真似しやがったッ!」

 それは冒険王マイクが怒鳴り声を張り上げた直後のことであった。
 拳打から変化した貫手によって心臓を潰されたかに思われたビクトーが
目にも止まらぬ疾(はや)さで左足で蹴り上げを見舞い、アルフレッドの右肘を叩き折ったのだ。
 このとき、アルフレッドの右の四指はビクトーの左胸に突き刺さったままであり、
或る意味に於いてはその場に固定された状態≠ニも言えよう。
反撃を試みる側にとっては格好の的なのである。

「本物のゾンビかね、あの青年(おとこ)は……ッ!」

 今度こそ決定的な痛手(ダメージ)を与えられたものと考えていたディオファントスは、
人間にとって最大の急所を抉られながらも戦い続けるビクトーに瞠目した。
おそらくには七導虎としての矜持に起因するであろう恐るべき執念と、
最終局面に至っても衰えることを知らない超人的な反射神経には戦慄するばかりだ。
 結局のところ、アルフレッドの貫手はビクトーの心臓まで達していなかった。
 僅かでも反応が遅れていたら結果も違っていた筈だが、
直撃の寸前、ケンポーカラテを極めた男は己の身を横方向へと振り、これによって最悪の事態を免れたのだ。
アルフレッドの右四指が食い破った先に心臓などなかったと言うことである。
 これもまた軸≠外す技巧(わざ)の範疇に入るのであろうか。
いずれにせよ、七導虎の身体能力は拳打から貫手に転じると言う不意打ちをも凌駕したのだ。

「あの状態から躱しましたか……躱せるのですか……!」
「おぉ、見えたかよ、ジョウ。お前にも……」
「普通の人間なら何が起きたのかも分からないでしょう。
武術家としての研鑽があったればこそ為せる技なのでしょうが――
しかし、マイクさん、こんなことが……」

 流石は七導虎と言うべきか――ジョウ・チン・ゲンの言葉ではないが、恐るべき勝負勘であった。

「――お別れですッ!」

 蹴り足を引き戻すや否や、ビクトーは左拳を横一文字に閃かせた。
 狙うは右脇腹――奥義を以てしても斃れなかったアルフレッドを今度こそ仕留めるべく、
遂に爆弾≠炸裂させようとしたのだ。
 右肘を折られたアルフレッドには、これを防ぐ術は残されていない。
無事である左掌を繰り出し、ビクトーの拳を受け止めようにも、最早、間に合わないと判断したのだろうか。
身動(じろ)ぎひとつせず、死≠甘受するつもりとも見えた。
 蹴りを受けた拍子に体勢も崩されており、何処かへ跳ね飛ぶと言う回避行動も難しい。
誰の目にもビクトーが勝利を――否、アルフレッドが最期を迎えるものと映っている。
 この情景へ真っ先に悲鳴を上げたのはセルカン・グラッパであった。
最愛の恋人≠フ生命が絶たれると言う事態に発狂したマリスなどではなく、
『在野の軍師』を悪≠ニ見做して討滅にやって来た少年隊員が制止を叫んだのだ。

「お待ちください、ビクトー様ッ! 悪≠ノ対して悪≠ナ臨むなど、それは――」

 それは正義の道に反している――セルカンの絶叫が造船所跡に響き渡った。
『義』の魁たる七導虎が身動きも取れないような相手を一方的に嬲り、
あまつさえ最も危険な弱点を狙ったのだ。その戦い方がセルカンには卑劣としか思えなかったのである。

(――そうです、これは正義の拳などではありません)

 正義の在り方を問うセルカンの声はビクトーの耳にも届いていた。
 一途に正義を信じる少年隊員が己の振る舞いを卑劣と感じてくれた――
そのことがビクトーには何よりも大切だったのだ。現在のスカッド・フリーダム≠ノ於いて、
七導虎が果たさなければならない使命は完遂出来たとさえ考えている。
 スカッド・フリーダムの『義』は、壊れてしまったのだ。
セルカンたち若き精鋭が正義の道を全うしたいと望んだとき、血に塗れることは避けられまい。
穢れを知らないままではいられない乱世がエンディニオンに到来したのである。
 ビクトーが示したものとは、血に穢れてでも正義と言う名の信念を貫く道筋である。
例え、血と罪に塗れたとしても、正義に反するものを断じて是とするな――
この戒めを真っ直ぐに伝えられたなら、セルカンたちに糾弾され、
スカッド・フリーダムから放逐されても本望であった。

「――ビクトー様ッ!」

 セルカンの悲鳴を受けて一等勢いを増したビクトーの左拳がアルフレッドの右脇腹に深々と突き刺さり、
そこで蒼白い閃光(ひかり)を爆発させた。比喩ではなく本当に爆弾≠ェ炸裂したようにも見えた。
 「突き刺さった」と言うよりも「めり込んだ」と表すのが正確に近いのかも知れない。
彼の脇腹は深く陥没しており、この目を覆いたくなるような有り様から爆弾≠フ炸裂が察せられたのだ。
折れた骨は深く食い込み、体内を惨たらしく引き裂いたことだろう。

「アルちゃんッ!」
「アルッ!」

 マリスとジャーメイン、ふたりの少女がアルフレッドの名を呼んだ――が、
そこに込められた想いは同一ではなく、寧ろ相反している。
 最愛の恋人≠ェ殺されようとしている現実を前にしてマリスは絶望に狂い、
ジャーメインは絶体絶命の窮地でも勝負を捨てないよう鼓舞したのだ。
 ふたりの少女の声は、アルフレッドの耳には届いていない。
現在(いま)の彼に聞こえるのは、身の裡にて何か≠ェ裂けていく音と、
やけに大きな心臓の鼓動のみである。
 止(とど)めを刺す為にビクトーが放ったのは、単なる円軌道の打撃ではなかった。
直撃した瞬間にホウライも爆発させたのだが、これによって強烈な衝撃波を作り出し、
折れた肋骨を体内深くへと押し込んだのだ。
 円軌道の打撃と不可視の打撃≠フ掛け合わせとも呼ぶべき技巧(わざ)であった。
処刑人≠ノ相応しい最後の一手と呼ぶべきであろう。
 不思議なことにアルフレッド自身は痛みを感じなかった。
あるいは痛覚そのものが死に絶えたのかも知れない。
だからこそ、処刑人≠フ動きが止まったことを正確に捉えられたとも言えよう。
 今度こそ死≠穿ったと確信し、又、七導虎としての使命を果たせたと言う感慨が彼の足を止めていた。
 死≠フ拳が突き込まれた直後、アルフレッドは勢いよく右足を振り上げ、
これをビクトーの左側頭部に引っ掛けたのだが、死を迎える間際の無意識の行動と考えた処刑人≠ヘ、
敢えて弾き飛ばそうともしなかった。この蹴りには威力など少しも乗っておらず、
足甲が軽く接触した程度であったのだから、気にも留めないのは自然の流れであろう。

(――殺す気になれば、そこを狙うのは当然だな)

 ここまで≠ェアルフレッドの撒いた餌であった。
 敢えて右肘を折らせ、脇腹を庇う手立てがなくなったところを狙わせる――
破裂させるよう爆弾≠差し出したのも『在野の軍師』の計略の内だったのだ。
 果たして、ビクトーは完全に足を止めてしまい、アルフレッドから見て格好の標的(まと)となっていた。
 致命傷を負ったのは間違いない。おそらくは数分も待たずに冥府へと連れて行かれるだろう――が、
人間がしぶとい生き物と言うことも誤りではなく、
この状態から肉体が死を認識するまで数秒は要するだろうとアルフレッドは考えている。
 数秒は生命を長らえていられる。たった数秒でも十分だった。
その間は肉体も動かせる。戦うことだって出来る。
瞬き程の時間にビクトーを仕留める好機が得られるのであれば、何も惜しくはなかった。

「リャアアアァァァぁぁぁ――ッ!」

 断末魔の叫びにしては猛々しい咆哮がアルフレッドの口から迸った瞬間、ビクトーは己の過ちを悟った。
ここに至って『在野の軍師』の術中に嵌っていたことも自覚(わか)ったのだが、何もかも手遅れであった。

「アルフレッドく――」

 死≠ニ言う極限さえも策略に利用してしまえる『在野の軍師』にビクトーは心底から戦慄していた。
ここまでの覚悟を備えた鬼を相手にして、『義』と言う名の微温湯に浸かって来たスカッド・フリーダムが
敵う筈などなかったのだ――と。
 アルフレッドの右踵が頸椎(くび)へ強く押さえ付けられている。
先に振り上げられた蹴りは反撃を目的としていたのではなく、ここ≠ノ繋げる為の予備動作であったのだ。
真の意図を見抜けなかった瞬間(とき)、勝敗は決していたのかも知れない。
 やがて対の左足が浮き上がり、この直後にはアルフレッドの身も掻き消えた。
 奥義を破ったときと同じ瞬間的な身体強化である。
そして、勝利を確信して戦意を萎ませていたビクトーには、彼の動きを捉えることは不可能だった。

(あと僅かで良い……後は何も要らない――死神よ、この刹那だけは見逃してくれッ!)

 迫り来る死≠感じながら最後の力を振り絞って跳ね飛んだアルフレッドは、
ビクトーの右側頭部目掛けて渾身の左前回し蹴りを放った。
 彼の頸椎(くび)は右踵でもって押え込んでいる為、左前回し蹴りの威力は或る一点へ集中することとなる。
これによって如何なる結果が齎(もたら)されるのかは、
夫の名を呼ぶイリュウシナの悲鳴(こえ)が表しているだろう。
 身体の要たる首を押さえられた以上、『軸』を外すことさえ叶わない。
七導虎の反応さえも凌駕する神速(はやさ)によって研ぎ澄まされた最後の一撃は、
ビクトーの右側頭部へ寸分違わず叩き込まれた。
 両の足を交差させるようにして閃いた蹴りは、しかし、本当にビクトーを斃すことが出来たのか――
これをアルフレッドが視認することはなかった。
処刑人≠フ首を捉えた直後には深紅の瞳は何も映さなくなっていたのである。
 最後に耳にしたのは、何かが破断≠キる音――ただそれだけでアルフレッドは満足だった。
例え、それが訃音であったとしても、だ。やけに大きく聞こえていた心臓の鼓動も今では全く感じられない。

「……フィー……」

 己の耳では二度と聞こえない呟きを零したアルフレッドは、
血の涙が止まったことを自覚すると、満ち足りた気持ちで意識を手放し、
無限とも言うべき闇の中へと墜ちていった。


 ――そこに広がるのは真っ暗闇の世界である。
 人の想いとは、ときとして世界の隔たりすら超えて伝わると言う。
そして、その声は真っ暗闇を切り裂き、ひとりの少女のもとへと届いていた。
 その少女は愛しい声に名を呼ばれたような気が咄嗟に手綱を引き、馬を止めて天を仰いだ。
 星も月もない真っ暗な夜天である。その中を彼女は進んでいた。
人里離れた山道である為に視界が良好とは言い難く、慎重に馬を駆っている最中のことであった。
 木立のざわめきと馬蹄の音以外には何も聞こえない闇の只中で己の名を呼ぶ声を聴いたのだ。

「……アル……?」

 鞍上の少女も声の主の名を呼び返したが、その調子にも混乱が滲んでいる。
それも無理からぬ話であろう。この場には居ない筈の人間の声が何処からともなく響いてきたのだ。
 返事などある筈もない。仮に応じる声があったなら、鞍から転げ落ちる程に驚くことだろう。
 しかし、先ほど聴いたのは空耳ではなかった。その少年の声を聴き間違えることなど絶対に有り得ない。
誰よりも何よりも愛しい人なのだ。己の名を呼ぶ声が夜天を裂いて響いた瞬間、胸が大きく高鳴ったのである。

「――どうかなすって?」
「いえ、……何でもありません。ちょっとした思い違い……かな? ううん――それもちょっと違うかも?」
「はぁ……?」
「とにかく、何でもないですから」

 ブロンド――やや人工的な色艶に見えるのは錯覚だろうか――の髪の女性が
鞍上の少女に向かって声を掛けた。
 何の前触れもなく馬を止めたことが不思議でならないらしい。
互いの顔色が見定まらないような闇の中であっても、「怪訝」の二字を面に張り付けていることは解った。
 その女性は鞍の上ではなく中空に在る。
おとぎ話の魔女が使う魔法の箒のような乗り物に跨り、夜天を翔けているのだ。
無論、先端部分は竹の枝の束などではなく、推進力を生み出す機械が取り付けられている。
 併走していた少女が馬を止めたと見るなり引き返し、一旦、地上へ降り立った次第である。
 魔法の箒の如き乗り物から飛び降りる際の立ち居振る舞いは、
喋り方と同じく気品を前面に出した――ともすれば、芝居がかったものであったが、
その出で立ちには優雅さの欠片もない。
 両サイドを螺旋状に仕上げると言う髪型だけを見れば名家の令嬢のようだが、
物々しい暗視ゴーグルでもって顔の上半分を覆い、更に全身を黒いタイツで包んだ姿は、
慣れない者が目にしたら仰け反るような奇怪さに満ちていた。
 腰に巻いたシルクのスカーフが彼女なりのこだわりと察せられるものの、
そこに注目する者は先ず居ないだろう。
 尤も、鞍上の少女とて物々しい装いには違いない。
腰を防護する強化ゴム製のプロテクターを身に着け、右手に突撃銃を携えているのだ。
 プロテクターと同じ素材で拵えられたニーハイソックス――ガーターベルトで吊っているようだ――や、
活動的なショートパンツも武装の一種であった。
 蒼を基調としたコートの下――左右の腋下には拳銃嚢(ホルスター)も装着しており、
ここには小型拳銃が収納されている。
 長い髪をバルーンハットの内側に納め、アームカバーと使い古しの軍手を嵌めた姿は如何にも勇ましい。
 愛らしい顔立ちとは似つかわしくない装いと言えなくもないのだが、
しかし、エメラルドグリーンの瞳に宿した光は強く、数多の戦いを潜り抜けてきた経験(こと)を感じさせた。

「アンジー様の仰る通りです。フィーナ様、もしや、お加減でも悪いのでは?」
「つーか、アルの名前、呼んでなかったか? 急に寂しくなったんじゃねぇだろうな?」

 夜天の下を進むのは四人――古めかしいエプロンドレスを着用した女性と、
山吹色のツナギに身を包んだ赤髪の青年も馬を駆っている。
 赤髪の青年は鉄製の厳ついグローブを嵌めた左手でもって手綱を捌き、
右脇に『ガンドラグーン』なる銘のレーザーバズーカを抱えている。
 今し方、鞍上の少女が呟いたのは彼の親友の名前でもあり、
久しく聴いていなかった『アル』と言う愛称へ懐かしそうに目を細めていた。

「だから、何でもありませんって――それより先を急ぎましょう! 
レナスさんも待ちくたびれちゃいますよ!」

 馬首を返して仲間たちを見回した少女は、先ず急停止のことを詫び、
「これから先は待ったナシッ!」と突撃銃を携えたまま右腕を突き上げた。
 その声を合図として、四人は再び真っ暗闇の世界を駆け始めた。
漆黒に塗り潰された彼方へ『レナス』なる人物を待たせているらしく、
先程よりも馬を進める速度を上げている。
山道を抜けて大きな野原に出た後は、ただひたすら全力疾走あるのみであった。

「フィーナさんはギルガメシュとは幾度も銃火を交えたのですって? 
蟻も避けて通るような御顔をなすって、殺(や)ることは殺(や)ってらっしゃるのね」
「ちょーっと引っ掛かる言い方だったけど――そう言えば、ロンギヌス社の人が
ギルガメシュを相手に戦ったって話は聞いたことがないですね? アンジーさんは?」
「『表立っては』とだけ答えておきますわ。斯く言うアタクシも交戦したことはないのですけれど、
……でも、フィーナさんに遅れを取ることはなくってよ! ギルガメシュなんかチョチョイのチョイですわ!」
「はい! 頼もしく思ってますから!」
「ええ、よろしくってよ! アタクシの手並み、これからたっぷりとご覧に入れて差し上げますわ!」

 魔女の箒の如き乗り物へ再び跨った女性――アンジーと呼ばれている――は、
鞍上の少女へ自信の程を示すように胸を張っている。
共同戦線を張ることが初めてであり、又、知り合って間もないと言う様子が両者のやり取りからも窺えた。
 他方では赤髪の青年が「バイクで走るのが、一番、手っ取り早いんだけどなァ!」と
慣れない乗馬に難儀しており、併走するエプロンドレスの女性を苦笑させている。
 レーザーバズーカと言う大型の武器を携行している為、
どうしても手綱を片手で持たなくてはならないのだが、
乗馬そのものに不慣れな人間にとって、これは苦行以外の何物でもなかろう。
鞍の上で身が浮く度に「腰痛持ちになったら、どうしてくれるんだ!?」と情けない悲鳴を上げていた。

「両手が使えたらモバイルで写真撮るんだけど、惜しいなぁ〜。
ラスさんが馬に振り回されるトコ、アルやミストちゃんにも見せてあげたいし」
「こらこらー! 悪趣味なコトを考えるんじゃねぇよ、フィー! 
オレは我慢してお前らに合わせてんだぜ!? 『ガンドラグーン』使ったほうがラクだってのに……!」
「はいはい、感謝してますよー」
「右から左へ軽く流すなッ!」

 赤髪の青年へ明るく笑い掛ける少女は、装いこそ『アル』が知る頃とは異なっているものの、
その為人は少しも変わっていない。在りし日のまま、双眸に希望の光を湛えている。

(何だか急に元気が出てきちゃった――早く会いたいね、アル)

 右手に突撃銃を持ち、左手ひとつで手綱を捌き、
蒼いコートの裾を夜風に靡かせながら異郷≠フ地平を突き進む鞍上の少女は、
フィーナ・ライアンその人であった。


(第24回へ続く)





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