2.Kenpo Karate


 処刑人≠スるビクトーと改めて対峙したアルフレッドは、
スカッド・フリーダムの語る『義』を詭弁と決め付けて罵りながらも、
居丈高な物言いほど余裕があるわけではなかった。
 己が身に宿したジークンドーと悠久の因縁で結ばれたケンポーカラテ――
その武技を極めたのであろうビクトーとの間には歴然とした力の差を感じている。
 正攻法で挑もうものなら、一方的に追い込まれる程の苦戦を強いられるか、
あるいはスカッド・フリーダムが望む通りの結果に終わるかも知れない。
 義の戦士の頂きに立つ『七導虎(しちどうこ)』と戦うのは、これで二度目だった。
 一度目はケンポーカラテの系譜上に在る流派――
『トレイシーケンポー』の使い手であったシルヴィオとの私闘≠ナある。
互いを「仮想敵」と見做す両流派の宿命に基づき、熾烈な大勝負へと縺れ込んだのだった。
 アルフレッド当人は知る由もなかろうが、もと七導虎≠ワで計算に含めるならば、
ハンガイ・オルスに於けるミルドレッドとの攻防戦も合わせて三度目と言うことになる。
 やはり、アルフレッドの脳裏に蘇ってしまうのは、
ワーズワース難民キャンプにて拳を交えたシルヴィオのことである。
 シルヴィオが揮うトレイシーケンポーの源流こそがケンポーカラテであり、
同じ系譜の流派とは連戦と言うことになるわけだ。
平素から夢見がちなことを考えないアルフレッドであるが、
それでも今度ばかりは「宿命」の二字を意識せざるを得なかった。
 尤も、悠久の時を超えた邂逅と言う浪漫に浸ってはいられない。
三流派の間に垂れ込める感慨はともかく、ケンポーカラテの武技は生命を脅かす戦慄として、
既にアルフレッドの身にも刻まれているのだ。

「……そう言えば、トレイシーケンポーはこの件には関与していないのか? 
人任せとはあいつらしくもないんだが……」
「そんな流派の名称で言われましても――ああ、シルヴィオのことですか。
……ニックネームを付けるにしても、もう少し捻ってあげて下さい。
私もボキャブラリーが貧困なほうですけど、もう少しくらいマシな名前を思い付きますよ?」
「煩い、黙れ。貴様などと仲良く世間話をするつもりはない。訊かれたことにだけ答えろ」

 俄かにシルヴィオとの私闘≠振り返ったアルフレッドは、
彼の姿が造船所跡にないことが不自然に思えてならず、何か尋常ならざる理由でもあるのかと訝った。
 アルフレッド――シルヴィオの側ではジークンドーと呼んでいるのだが――に
抹殺指令が下されたと知れば、処刑人≠フ役目を他者になど委ねず、
己の拳で決着をつけると起ち上がる筈なのだ。
 シルヴィオ・ルブリンとは、そう言う男なのである。
 よりにもよってカレドヴールフに間違われ、あまつさえ奇襲を仕掛けられると言う最悪な出逢いであり、
両流派の因縁から張り合ってばかりいるものの、彼の一本気な人柄や道義を重んじる高潔な精神は
アルフレッドも認めている。
 それどころか、「好漢」と言う呼び名はシルヴィオこそ相応しいとさえ思っているくらいだ。
 だからこそ、シルヴィオ自ら出撃してこないことがアルフレッドには解せなかった。

「彼は――シルヴィオ・ルブリンは、キミの所為で内通の疑いを掛けられているのですよ。
……これは世界の秩序を占う戦いです。『義』を穢し、内憂と成り果てた裏切り者に出る幕などありません。
それとも、彼を使って逃げ延びる算段でしたか? 残念ながら、この場では卑劣な小細工は通じませんよ」
「卑怯な真似ばかりしている貴様らがどの口で――いや、それ以前に、どうしてトレイシーケンポーが……」
「白々しい反応ですね。ワーズワースで接触した折に、キミが洗脳を施したのでしょう? 
キミを討つと言う隊の決断にまで反発したくらいですからね。よく仕込んだもので――」
「――自分たち以外には『義』がないような言い方しないでッ! 
そんなことを平気な顔で言い切る義兄さんこそ、誰よりも『義』から離れてるわよッ!」

 シルヴィオの現状(こと)を明かし、見下げ果てた裏切り者のように扱うビクトーを
ジャーメインの叱声が遮った。
 両者の会話は橋向こうの区画にまで届いており、
傲慢とした例えようのないビクトーの態度に我慢が出来なくなって口を挟んだと言うわけだ。
 そのジャーメインは依然として実の姉と――イリュウシナと睨み合ったままである。
半歩ずつ間合いを詰め、あるいは左右へ身を移し、互いに出方を窺っている。
 それ故、イリュウシナは自分の夫に向けられた妹の罵詈雑言を、
「自分の立場を弁えなさい! バロッサ家を裏切った罪を!」と正面切って咎めた。
 無論、ジャーメインはビクトーを擁護する人間の言葉になど耳を貸さない。
姉の声を黙殺し、アルフレッドに向けて大音声でシルヴィオの潔白を証明していった。

「さっきの電話はね、アル、ローガンからの着信にリダイヤルしたんだけど! 
その前にシルヴィオからも電話があったのよ! て言うか、アイツがローガンとこに電話しててねッ! 
それで、このバカにも程がある企みを教えてくれたのよッ!」

「ジャーメイン、興奮して説明が行ったり来たりしているわ。
頭の中で要点をまとめてから話しなさい。その前に深呼吸でもすることね」
「ごちゃごちゃうっさいなぁ! リュウ姉は黙ってて!」
「言いたいことは分かったつもりだ。……誰がそこまでしてくれと頼んだんだ。どうして損な役回りを……」
「頼まれなくてもやっちゃうのがアイツなんだよ! 
タイガーバズーカから追い出されるのを覚悟でアルを助けようと……ッ!」
「ああ、……あいつこそ本当の義の戦士だ。名ばかりの偽者とは違う……ッ!」

 ジャーメインとて詳細を把握しているわけではないのだが――
シルヴィオはローガンを経由してアルフレッドに危急を報せてきたのである。
 満足な事情聴取もなく「世界の秩序を乱す『在野の軍師』に看過された」と一方的に断定され、
白虎穴の会合からも爪弾きにされたシルヴィオだ。当然ながら抹殺指令には納得していない。
そこでローガンとジャーメイン――電話番号を知っている相手と言うことだ――へ
連絡を図った次第であった。
 ジャーメインの言葉を受けて、三人の義の戦士は揃って顔を顰めた。
彼女は潔白などと説いているが、スカッド・フリーダムにとってシルヴィオの行動は
『義』を穢したことに他ならず、裏切りを決定付ける証拠ともなるわけだ。
 そして、知ってしまったからには黙っていることは出来ない。
シルヴィオの取った行動を戦闘隊長から上層(うえ)の者に包み隠さず報告し、
然るべき処罰を与えなくてはならないだろう。
 七導虎に列するビクトーは、処罰の内容を論じる立場でもある。
当然と言えば当然なのだが、ここまでの背信を仕出かした以上、
その称号がシルヴィオから剥奪されるのは明白であった。
 ホウライの稲光を纏った中段蹴りでもってザムシードの胴を抉ったグンダレンコは、
反撃を喰らうまいと飛び退った後(のち)、
「どんどん足並みがおかしくなっていくね……」と苦しげに呻いたものである。

「――今のは内通の自供でよろしかったのですね。キミもシルヴィオも同罪と言うことになりますが、
それは理解しているのでしょうね? メイ、キミたちは人として守るべき一線を超えてしまったのですよ」

 グンダレンコの漏らした嘆息は、『義』の心に乱れが生じていると無意識に肯定してしまったようなものだ。
これを打ち消す狙いであるのか、ビクトーは殊更に冷厳な声をジャーメインへと投げ掛けた。
 橋向こうの区画に立つ彼は、義妹に対して背を向けた状態であった。
そのまま後方を振り返ることもなく難詰を発した次第である。
 ジャーメインに鋭く睨みを利かせる役割は妻に任せると言うわけだ。
言わずもがな、イリュウシナの表情(かお)は一等険しさを増している。

「スカッド・フリーダムに司法権はない筈だが、俺の記憶違いか? 
自警団に毛が生えた程度の集まりが罪だの何だのと、……良い加減に耳障りだな」
「……貴方には言っていません」
「てゆーか! これはスカッド・フリーダムがガッタガタって証拠でしょーがッ! 
義兄さんたちがタイガーバズーカに帰ったときには、クーデターでも起きてるんじゃないの!?」
「根拠もないのに余り迂闊なことを言うものではありませんよ、メイ。
キミはただでさえ追い込まれているのですから」
「根拠!? そんなの、自分の胸に訊いてみなよッ! 
自分たちに都合の良い『義』を振り翳す連中の居場所なんか、
否定した人間の居場所なんか、タイガーバズーカにはないッ!
あたしたちの故郷(ふるさと)は、スカッド・フリーダムだけの物じゃないんだからッ!」
「メイ、キミは……」
「今の義兄さんには――ううん、『義』の心がどんなものか、
自分たちで考えなくなっちゃった現在(いま)のスカッド・フリーダムには、
もう何かを語る資格なんかないんだよッ!」

 嘗ての同志たちから『義』を裏切ったと罵られてきたジャーメインが、
逆にスカッド・フリーダムこそが『義』を穢したと糾弾している。
皮肉としか表しようのない場景であった。
 弁論術も何もない真っ向勝負と言うものは、これを受ける側の心に深く突き刺さる。
それが証拠に「自分の胸に訊いてみろ」とスカッド・フリーダムの混乱を指摘されて以来、
ビクトーは口を真一文字に噤んでしまっていた。
 七導虎の彼だけではない。ジャーメインと直接的に視線を交わすイリュウシナまでもが反論を紡げずにいた。
 やましいことなど何もなく、スカッド・フリーダムの『義』を信じて疑わないのであれば、
ジャーメインの言葉こそ道理に外れていると切って捨てることも出来た筈であろう。
 聞くに堪えない虚言など取り合わず、反論しないとしても相応の立ち居振る舞いと言うものがある。
堂々と構えていれば良いものを、この三人は心の奥底の葛藤を発露させてしまっているではないか。
 重苦しい沈黙がビクトーたちの苦悶を表していると言っても差し支えはなさそうだった。
 三人の内、誰かひとりでも浅知恵を頼みとするような人間であったなら、
アルフレッドの言う詭弁を弄して取り繕ったかも知れない。
 しかし、真っ向勝負と言うものには如何なる誤魔化しも通用しないのだ。
スカッド・フリーダムの一番の誇りを弁論術で言い繕うようになっては、
『義』の一字に胸を張ることさえ出来なくなってしまうだろう。
 それ故に、ビクトーもイシュウリナもグンダレンコも、揃って沈黙せざるを得なかった。
 自分たちの置かれた状況に対して忸怩たる思いがあったればこそ、
感情の爆発と言う最も幼稚な叱声に打ち負かされてしまったのである。

 義理の兄妹の言い争いからスカッド・フリーダム隊内の事情を察したアルフレッドは、
心底から呆れ返った調子で「話せば話すほどボロが出るな、貴様らは……」と侮蔑を吐き捨てた。
 言うまでもないことだが、現在のスカッド・フリーダムには
『義』と呼べる精神など一欠片も残っていないとアルフレッドは見做している。
 とりわけシルヴィオをも裏切り者呼ばわりしたビクトーには、その念を一等深めていた。
誰よりも義に篤い好漢を蔑ろにするなど、自己否定も甚だしいではないか――と。
 シルヴィオは隊の都合になど判断を委ねず、自らの信念に基づき、『義』を掲げて見せたのである。
これこそ紛い物ではない真の『義』と言えよう。
 彼の魂が如何に気高いものであるか、処刑人≠フ有様と照らし合わせれば鮮明に判る――
アルフレッドはビクトーに対する嘲りを隠そうともしなかった。

「負けたな、スカッド・フリーダム――自分自身に……!」

 最早、義の戦士を称する資格などないとビクトーたちを謗りつつ両の拳を握り締めたアルフレッドは、
正面に立つ処刑人≠ニの間合いを少しずつ詰めていく。
 この期に及んで問答は無用であろうが、『義』に正当性がないことを叩き付けただけでは
処刑人≠ヘ退くまい。事実、ビクトーは今もって臨戦体勢を解いてはいないのだ。
 即ち、言葉ではなく実力を行使して撃ち払わなくてはならないと言うことである。
 最初の攻防に於いて正拳突きを叩き込まれた胸部では、今も気が遠くなるような鋭い痛みが続いている。
指先でもって触れ、負傷の具合を確かめる余裕はないものの、
自覚症状だけでも胸骨(ほね)の異常は明らかだった。
 再び同じ箇所に強撃を被ったときには、それが致命傷になる可能性も低くはない。
亀裂程度では済まずに陥没まで達することだろう。

(……虚勢を張っている場合ではないわけだ――)

 胸部の激痛で呼吸が乱れる度、アルフレッドの脳裏にシルヴィオとの私闘≠ェ蘇る。
 ワーズワースにて因縁深い仮想敵=\―トレイシーケンポーと立ち合った折にも、
ただ一撃のみで生命を絶たれるような危機的状況が続いたのだ。
 円軌道の動作(うごき)によって強烈な遠心力を生み出し、
桁外れの威力を炸裂させると言うシルヴィオの拳打は破城鎚にも喩えられるほど重く、
アルフレッドとて幾度となく骨身を軋まされたものである。
 スカッド・フリーダムの隊員――それも七導虎と呼ばれる高次の者を相手に戦うことが
如何に恐ろしいのか、アルフレッドは片時も忘れたことがなかった。
 しかしながら、真なる『義』を拳に漲らせたシルヴィオが討手であったほうが、
アルフレッドには相対し易かったのかも知れない。
 シルヴィオ・ルブリンとは、とにかく真っ直ぐな青年であるから、
勝敗はともかくとして、怨念を浴びせ合うような醜い様相にはならなかった筈なのだ。
 返り討ちにして生き延びるにせよ、歪んだ『義』の餌食となって絶命するにせよ、
トレイシーケンポーとの戦いであったなら、何ひとつ後悔せずに全力を注げたことであろう。
 「相対し易い」と言う印象は、二種(ふたつ)の武術の技巧面に於ける特徴にも通じている。
 シルヴィオが繰り出したトレイシーケンポーと同じく、
ビクトーの極めたケンポーカラテも円軌道の動作(うごき)に重点を置いている様子だが、
しかし、その性質は両極端と言っても過言ではなかった。
 トレイシーケンポーが――と言うよりも、シルヴィオが見せた円軌道の技巧(わざ)は、
全身のバネや遠心力によって「城を破る」と喩えられる程の強撃を生み出すものであった。
その凄まじい猛襲から『火炎旋風』なる異称で呼ばれることもある。
 これに対し、ビクトーの場合は周囲の物体ごと大渦の中に呑み込み、
原形を留めない程に引き千切る竜巻と喩えられよう。
 円軌道によって生じる力の働きを外≠ノ向けて発するのがシルヴィオであり、
内≠フ側へ作用させるのがビクトーであった。
 この内≠フ側へ作用させる技巧でもってアルフレッドの拳を捌き、
次いで常人より逞しい身体を軽々と振り回し、
更にはシルヴィオと同じ円軌道を描く打撃で弾き飛ばしたのである。
 長身なビクトーと小柄なシルヴィオでは体格の面でも対照的だ。
前者は馬の背に跨るような姿勢で地を踏み締め、
前者は電光石火の足さばきから円の運動へと派生していた。

(ケンポーカラテ……と言うか、あの系譜のルーツは――『ミトセ』とか言う名の武術家だったな)

 仮想敵に因んだ知識を記憶の底から引っ張り出したアルフレッドは、
如何にして眼前の敵を突き崩すべきか、その対策を練り上げようとしている。

(ケンポーカラテから分かれた後にトレイシーケンポーは
『ミトセ』の一族直々に教えを授かったと聞くが――そこで技も変わったと言うのか……?)

円の運動の中に相手を飲み込み、続け様に拳を見舞うと言う返し技は身を以て知った。
ビクトーが後の先≠フ見極めに長けていることを確かめたわけだ――が、
この一側面のみでケンポーカラテの底≠測れたと言い切るほどアルフレッドは愚かではない。
 今もってビクトーの技巧(わざ)、その特徴を掴み兼ねている。
 内回し蹴りを繰り出された瞬間(とき)などは、両腕を駆使して完全に防いだにも関わらず、
肉体の芯まで捻じ込まれるような衝撃によって重心を崩され、全身が浮き上がってしまったのだ。
 完全であった筈の防御≠突破されたと言うことである。
それも大して当たり≠ェ強いわけでもない内回し蹴り一発で、だ。
 ビクトーが操るケンポーカラテの術理を見極め、これを破らない限り、
スカッド・フリーダムが叫ぶ歪んだ『義』を本当の意味で倒したことにはならないだろう。

「信念と言うものを勝ち負けで分けようとは、何ともさもしい発想ですね。
人が人として有るべき心の軸――それは何人(なんぴと)にも侵害の出来ない聖域でしょう。
……その程度のことさえ理解出来ないキミに世界の舵取りを任せるなど、とてもとても……」
「世界の舵取りを気取っているのは貴様らだろうが。俺にはそんな大それた考えなどない」
「……キミが望まなくとも、時代がその役目を託すのですよ……」
「その芝居がかった言い方は何時まで続けるんだ? 現実を見て物を喋れ、気色悪い」
「やはり、キミは自分自身を解っていないようです。それだから、危うい。
キミが無自覚に災いの種を撒き散らす前に、この場で始末を付けましょう。
……穢れた泥でも罵りでも、私たちは喜んで被りましょう――」

 アルフレッドから浴びせられた侮辱に対し、ようやく反論を搾り出したビクトーは、
重苦しい溜め息を吐いた後(のち)に再び動き始めた。

(例え、誇りを見失っても……それでも、私はスカッド・フリーダムの戦士ですから――)

 誰に言われるまでもなく、ビクトーの心は『義』に対する迷いで満たされている。
アルフレッドの抹殺が正しい判断なのか、処刑人≠ニして相対した今も全く判らない。
 しかし、如何に鬱屈していようとも、白虎の如き隊服を纏っている以上、
任務だけは絶対に果たさなくてはならなかった。
 魁たる七導虎が自らの使命を投げ棄てようものなら、
世界中に散らばる数多の同志まで進むべき路に惑わせてしまうだろう。
彼らは今も己の『義』を信じ、護民官として力弱き人々の為に生命を張り続けているのだ。
 同志の戦いを否定させるわけにはいかない。七導虎が背負うのは己ひとりの『義』ではない。
だからこそ、ビクトーは拳を揮い続けなくてはならなかった。

 アルフレッドがケンポーカラテを見極めようと図っていることはビクトーの側とて察している。
 過去にはシルヴィオとも立ち合ったのだから、トレイシーケンポーとは異なる円運動の作用を
頭の中で考察しているのかも知れない。
 全くその通りであり、先んじて手の内を読まれたアルフレッドは、
またしてもビクトーの掌の上で転がされ始めた。
 返し技ひとつを取っても、円運動に相手を呑み込むようなものは使わない。
解明を急ぐアルフレッドに向かって「尻尾は掴ませない」と挑発を飛ばしているわけだ。
 ビクトーの出方を窺うべくアルフレッドは左拳を速射し、
避けられるや否や、即座に腕を引いて左下段蹴りへと繋げ、更には直撃の寸前で上段蹴りに変化した。
 膝を脅かすと見せておいて、真なる狙いは顔面――いずれも凄まじい速度であったが、
最初の拳も変化した蹴りも小手調べに過ぎないのだ。この所作(うごき)を以てして、
円運動を伴う防御法を引き出そうと言うわけであった。
 無論、返し技を受けることも覚悟の上である。
下手を打てば、その反撃でもって息の根を止められるかも知れない。
 大きな危険を冒してまでビクトーの抽斗≠探ったのは、
攻守の組み立てを考える材料が余りにも少ないからである。
互角の勝負へと持ち込む為の前段階と言うべきかも知れない。
 当然のようにビクトーは全ての攻撃を見極め、その上で直線的な所作(うごき)≠フ返し技を試みる。
 左の上段蹴りを繰り出されるや否や、右肘を蹴り足の脛に叩き付けた。
蹴りを受け止めたのではなく、肘鉄砲でもって迎え撃ったわけだ。
 右肘と共に対の左掌も蹴り足の膝へと打ち込んでいる。
肘鉄砲も掌打も遠心力を利かせたものではなかったが、
それでもアルフレッドは左足に違和感を覚えていた。
 視認しているような余裕はないが、おそらく左脛には裂傷が生じたことだろう。
生地が肌に張り付く感覚は、つまり、鮮血によってジーンズが濡れそぼった証左である。
 ある程度の痛手(ダメージ)はアルフレッドも覚悟していたが、
小手調べの段階で片足に大きな傷を刻まれたのは流石に誤算であった。
 彼が最も得意とするのは、鉄をも断つほどに鋭い蹴りの数々だ。
アカデミーでも足技を主軸とする格闘術――『サバット』を学んでいたのである。
長期戦になればなるほど、この負傷が大きく響いてくるに違いない。
 アルフレッドに深手を与えたと見て取ったビクトーは、
そこから更に一歩踏み込み、互いの身体を激しくぶつけ合った。
 軸足一本で体重を支えていたアルフレッドは危うく体勢を崩しかけたものの、
瞬時にして蹴り足を引き戻し、地鳴りが起こるほどに石畳を踏み締めて何とか堪えた――が、
ビクトーは互いの身体を密着させたまま全体重を乗せて圧し掛かり、下肢の可動を封じ込めた。
 改めて詳らかとするまでもなく、アルフレッドの重心は著しく崩れている。
 この流れの中でアルフレッドは左掌をビクトーの右肩に添えている。
それも上から包み込むような形で、だ。

「今更、小細工など不要……ッ!」
「むッ――」

 次の瞬間、掌底の一点に凄まじい重量が発生し、逆にビクトーのほうが身を傾がせてしまった。
肩に括り付けられた錘≠ェ突如として垂直落下したような錯覚が彼には襲い掛かったことだろう。
 下方へと一気に落ちる不可視の錘≠ニ、やや前傾姿勢で圧し掛かるビクトーの全体重――
異なる方向より同時的に働いたふたつの力は拮抗状態を作り出し、
一瞬ながら互いの動きが完全に静止した。

「――勁≠ナすか……」
「手品の類と勘違いしないところは褒めてやる」

 不可視の錘≠ニも言うべき力の働きは、言わずもがなアルフレッドの左掌より発せられたものである。
 本当に鉄の塊を背負わされたわけでもないのに、凄まじい重量が急速落下すると言う技法は、
嘗てテッド・パジトノフと立ち合ったときに用いたものと同じである。
その折には彼の背負投を押し潰していた。
 ここまでの攻防だけを切り取れば、既に互角の勝負まで持ち込んだように見えるかも知れない。
だが、スカッド・フリーダムの七導虎はそこまで甘くはなかった。
 手品めいた技法を打ち込まれたばかりの右腕を突き上げ、
掌底でもってアルフレッドの顎を狙ったビクトーは、
両の下腕を折り重ねた鉄壁の防御でもってこの一撃を受け止められると、
すかさず半歩踏み込み、今度は左手甲を振り抜いていく。
 肘を支点にしてバネを利かせる左裏拳打ちである。
顎の下辺りで右掌打を受け止めた為、アルフレッドの胴はガラ空きとなっている。
 寧ろ、アルフレッドにガードを上げさせた≠ニ言うべきであろう。
完全に無防備となった鳩尾目掛けて、ビクトーは横薙ぎの裏拳を叩き込んだ。
 ここで遂に円軌道の技巧(わざ)が放たれた次第である。
 件の裏拳は、肘を支点に四半円の軌道を描いていた。
『火炎旋風』を巻き起こすシルヴィオと同じくビクトーもまた僅かな円運動で充分≠ネのだ。
その僅かな動作(うごき)でもって肘のバネや筋肉の粘りを爆発させ、
破城鎚の如き破壊力を生み出せると言うことだ。
 アルフレッドの両腕は依然として右掌ひとつで押さえ付けられており、
肘を振り落として弾くことも出来ない。

「――ちィ……ッ!」

 よりにもよって人体急所に円運動を伴う打撃を喰らうわけにはいかず、
アルフレッドは咄嗟に右膝を突き上げた。
右足裏にてホウライを爆発させ、これによって生じた推力で膝をミサイルの如く撥ね上げたのだ。
 紙一重のところで裏拳打ちを弾き飛ばすことに成功したアルフレッドであったが、
負傷した左足を軸に据えた為、裂傷の箇所から更に血が噴き出したようだ。
 しかし、痛みに気を取られてはいられない。左腕を弾き飛ばされたばかりであるが、
既にビクトーは反撃の体勢に入っている。
 鋭く腰を捻り込み、撥ね上げられた頂点から左手甲を振り落としたのである。
肩のバネを駆使した縦一文字の拳打は、まさしく半円の軌道を描いている。
 膝蹴りに使った右足の裏でもってビクトーの左足付け根の辺りを踏み付けにし、
この反動を利用して飛び退ったアルフレッドは、辛くも縦回転の打撃を避け切った――が、
ホウライも伴わない軽い跳躍であった為、瞬きをする間もなく追いつかれてしまった。
 懐深く潜り込まれ、この直後には水平に構えた左手刀にて喉元を打ち据えられた。
対の右掌打を顎下に、続けて左拳を鳩尾に叩き込まれてしまう。
目にも止まらぬ連続攻撃であり、アルフレッドは最後の拳打を右下腕で受け止めるのが精一杯であった。
 このように直線的な打撃を見せたかと思えば、残像すら映さない速度でアルフレッドの右側面へと回り込み、
殆ど全円に近い軌道の拳打で急襲するのである。
 躱し切れないと判断したアルフレッドは、振り向きざまに両腕を交差させ、
遠心力を利かせたビクトーの拳を受け止める。骨身が悲鳴を上げ、またしても重心を崩されてしまった。
 それはつまり、ケンポーカラテの妙技に呑み込まれたことを意味している。
今度もアルフレッドの身は浮き上がっており、
ビクトーは彼に背を向けたままで槍の如く後ろ足を蹴り込んだ。

「ぐぅ……ッ!」

 腹部に直撃を被ったアルフレッドは、蹲りそうになるのを懸命に堪えながら大きく飛び退り、
着地と同時に構えを取り直す。咳き込む度に赤黒い飛沫が石畳に散った。

「キミは観察眼に自信をお持ちのようですね。尤も、作戦家なのですから当然と言えば当然かも知れません。
……さて、何か得るものはありましたか?」
「……それなりに収穫はあった――とだけ言っておこう」

 アルフレッドの口元が自嘲に歪む。
 ビクトーが使いこなすケンポーカラテの術理を解き明かそうと、
多少の犠牲も覚悟の上で洞察してきたのだが、掴めたことなど殆どなかった。
それどころか、ビクトーの技量の前に弄ばれている。
 円運動を伴う拳や重心を崩す妙技を、何の変哲もない直線的な打撃の中に織り交ぜ、
アルフレッドの注視を振り切るよう巧みに使いこなすのだ。
 しかも、その「何の変哲もない直線的な打撃」ですら恐るべき威力を秘めている。
左足に走る痛みは秒を刻む毎に悪化しており、喉元に直撃された手刀の影響で呼吸も荒くなっていく。
 端的に言えば、状況は最悪に近い。小手調べを通じて攻守を組み立てていく材料を得るどころか、
ケンポーカラテの――否、ビクトーと言う男の恐ろしさを刻み込まれただけである。
 ビクトーは円軌道の技巧と直線的な打撃を高い水準(レベル)で融合させている。
片方の技術を使い分けるのではなく、攻守の只中にて流れるように変化させていくのだ。
 最早、術理を見極めるどころではない。結局は全ての攻撃が脅威でしかなく、
どの技を警戒すれば致命傷を避けられるのか、絞り込むことさえ難しくなってしまったのである。
これこそ手詰まりと言うものであろう。
 『火炎旋風』のシルヴィオとて円運動を伴う打撃に拘泥しているわけではなく、
両脚でもって挟み込むと言う変則的な投げ技や、互いに立った状態で相手の肘を極める関節技も併用していた。
一芸≠ノ秀でただけでは七導虎を名乗る資格など与えられないわけだ。
 シルヴィオとビクトーを比較し、敢えて己に有利な点を探るとすれば、
前者のほうが速度が勝っていたことであろうか。後者の場合は両の足で地を強く踏み締める構えである為、
足さばきの鋭さと言う点に於いては、シルヴィオには僅かに及ばないようであった。
 勿論、身のこなしそのものはシルヴィオと比しても遜色がない。

(トレイシーケンポーとケンポーカラテ――打撃の威力はほぼ互角と見える。ならば……ッ!)

 シルヴィオがビクトーに勝る一点――電光石火の足さばきにもアルフレッドは追いついた。
 そして、人間とはありとあらゆる状況に順応していく生き物である。
今でこそ一方的に攻め立てられているが、いずれはビクトーの動きにも慣れる筈だ。
 そのとき、必殺の蹴りでもってビクトーを捉える自信がアルフレッドにはあった。
トレイシーケンポーとの戦いを通じて得られた確信とも言えよう。
彼が激闘を演じたのはケンポーカラテに連なる武術なのである。
 ホウライを攻守へ組み込めたなら、順応などと言わず直ぐにでもビクトーを凌駕出来るかも知れないが、
そう何度も蒼白い稲光には頼れない。
 相手はタイガーバズーカの誇りとも言うべき七導虎なのだ。
彼(か)の地で生まれ育った人間は呼吸でもするようにホウライを操り、この外し方にも長けている。
 ローガンに師事したアルフレッドは、レイチェルが嫉妬する程にホウライを使いこなしているが、
しかし、熟達者から見れば荒削り以外の何物でもなかった。
 当然ながらアルフレッドも未熟を自覚している。
膝蹴りを繰り出した際にホウライ外し≠使われなかったことも単なる偶然と割り切っており、
己の技量がビクトーを上回ったとは考えない。
 あくまでもアルフレッドは冷静であり、賢明であった。
ビクトーなど恐れるに足らずと得意になって蒼白い稲光を纏い続けたなら、
最悪の拍子(タイミング)でホウライの効力を打ち消され、
そこに遠心力を利かせた拳を叩き込まれることだろう。
 シルヴィオと立ち合ったときと同じようにホウライの使用を最小限に留め、
地力で戦っていくしかないわけである――が、一筋でも光明が見えている以上、
最悪に近いだけで絶望に押し潰されるような状況とも言い難いわけだ。
 その光明に気付けたことは、まさしく収穫≠ニ言うものであった。

 「やはり、貴様は本当の義の戦士には敵わない」と心中にて呟くや否や、
アルフレッドはビクトーの接近を待たずに自ら間合いを詰めていく。
 ビクトーは右腕を突き出すようにして構えを取っている。
ここを側面からすり抜けるようにして、アルフレッドは自身の左拳を突き込んでいった。
踏み込みに用いた左足と同じ側の拳を、だ。
 垂直に立てた拳を最短距離で速射しつつ肘でもってビクトーの右手を押さえ、
その可動を封じてしまおうと言うわけであった。
 実に合理的な技ではあるものの、アルフレッドはこれと全く同じ拳打を放って返り討ちに遭ったのだ。
円軌道の中に攻撃者を呑み込むと言う摩訶不思議な返し技で打ち負かされたのは、つい数分前のことである。
 無謀な行動に出たと見て取ったジャーメインからは、
「いきなり学習能力を落っことすんじゃないわよッ!」と言う叱責を浴びせられたが、
左拳を繰り出している最中のアルフレッドには、声の主が立つ方角を睨み返すことなど出来まい。
 案の定、ビクトーは迫り来る拳を見極め、反撃に打って出る。
尤も、先程と同じ技で応じるつもりはなく、
左肘でもって腕を押さえ込まれる寸前に後方へ退った。
 言うまでもなくアルフレッドは限界まで腕を伸ばして追い縋り、
対するビクトーは両腕を交差させて左拳を防いだ。
 正しくは「敢えて受け止めた」と言うべきであろう。
防御を固めつつアルフレッドの股を割るようにして自身の右足を滑り込ませている。
 どうやら、ビクトーは金的に対する蹴り上げを試みるつもりのようだ。
 嘗て、アルフレッドもシルヴィオ相手に金的蹴りを繰り出そうとしたことがあった。
 このときのシルヴィオの怒り方は尋常ではなく、
現にアルフレッドは「やり方がド汚い」とまで罵られている。
 そこにシルヴィオとビクトーの精神性≠フ違いを感じ取ったアルフレッドは、
瞬きほどの時間の中で、「汚いヤツめ」と痛罵を浴びせかけた。
 本当の義の戦士≠ニ認めたシルヴィオの言葉を、そっくりそのままなぞったのだった。
 その侮蔑がビクトーの耳に届くか届かないかと言うとき、
アルフレッドの所作(うごき)が急激な変化を見せる。
 身体ごとビクトーへぶつかるものと思われたアルフレッドが突き込んでいた左腕を瞬時に引き戻し、
この反動を利用して左足を速射したのである。無論、金的蹴りに対する迎撃が狙いであった。
 裂傷を負った左脛からはジーンズの生地を浸透して血飛沫が舞い散るものの、
それでも蹴りの威力自体は殆ど衰えてはいない。急所を脅かそうとしていたビクトーの右足を弾き飛ばし、
即座に軌道を変えて対の側の脛と膝を連続して踏み付けた。
 追撃に移ろうとする動作(うごき)を先んじて制した形である。
 これはアルフレッドにとって初めての有効打となったようだ。
今までの攻防で見せた技とは威力も速度も段違いであったのか、
優勢を維持してきたビクトーも想定外と言った表情を面に貼り付け、僅かながら眉間に皺を寄せている。
 確かに最初の攻防では見事なまでに返り討ちに遭った。
「性懲りもなく」と言うべきか、その際に用いた拳打を再び放って見せた――が、
しかし、二度も同じ失敗を繰り返すとは限るまい。
 確かに円運動を伴う打撃は絶対的な脅威ではある。しかし、それにも射程距離(リーチ)の限界があった。
手足が届かなくては円軌道に呑み込む≠ニ言う現象も発生させられないのだ。
 極めて原始的な手段ではあるものの、アルフレッドはビクトーの下肢の可動を妨げ、
反撃の拍子を崩したのである。

(……あっさりと追い上げてきましたね――)

 ホウライの恩恵を得ないまま地力のみで徐々に追いついてきたアルフレッドに対し、
ビクトーは密かに感嘆の念を抱いていた。
 七導虎の一角にして、現世代の中でも頭抜けた武技を誇るシルヴィオと
互角の勝負を演じただけのことはある――と。

(――それとも、私自身がガラクタ同然になっているのでしょうか……)

 もしも、追いつかれた原因がビクトー自身に在るとすれば、該当する点はただひとつしかない。
 武芸と言うものは精神の在り方とも密接に結び付いており、だからこそ心の鍛錬を基礎と唱えているのだが、
今のビクトーは過去に経験した如何なる修行も役に立っていなかった。
 己にとって最も大切な『義』を信じ切れなくなっているのだから技が乱れるのは自明であり、
まさしく最悪の情況と言えよう。
 追いつかれただけならまだしも、このまま競り負けようものなら、それこそ七導虎の名折れである。
 そのようなビクトーの鬱屈など知る筈もなく、また関心すら持ち得ないアルフレッドは、
蹴り足を変えるや否や、右の足裏でもってビクトーの左膝を踏み付け、次いで己の右足を高く撥ね上げた。
 後方へと跳躍しつつ、全体重を乗せて蹴り足を振り上げる得意技のひとつ――
『サマーソルトエッジ』であった。しかも、相手の足を階段の如く踏み付けにすると言う
予備動作まで組み込まれた発展型である。
 アルフレッドの右足甲は両腕を組み合わせた防御をもすり抜け、ついにビクトーの顎を捉えた。
 跳ね飛ぶ寸前に軸足でもって彼の左膝を圧迫している為、円の運動を伴う反撃を受ける心配もない。
中空にて身を捻ったアルフレッドは、右足を斜方へと振り落とす形で延髄にも追撃を見舞う。
 この蹴りも命中させ、更に対の足で肩を蹴飛ばし、反動でもって後方に大きく跳ねたアルフレッドは、
着地と同時にビクトーから反撃を受けることとなった。
 どうしようもない迷いを抱えたままでも、その所為で技が乱れつつあるとしても、
処刑人≠ニして戦いの場に立った以上、一瞬たりとも抹殺対象を見失うわけにはいかない。
使命に懸けるビクトーの執念は、瞬間移動に匹敵するような加速にも表れていた。
 その執念の根源とは、間違いなく七導虎としての矜持であろう。
死守すべき最後の一線であるが故に、心乱れたままであっても武技は鋭さを増していく。
より強く、より恐ろしく――猛き虎と化してアルフレッドに飛び掛かるのだった。
 さしものアルフレッドも執念の猛攻ばかりは完全には躱し切れない。
「ガラクタ同然」などと己を卑下すること自体が高度な厭味とも思える程だ。
 側頭部を狙った右裏拳だけは飛び退って回避したものの、
すぐさま追い掛けて来た左掌底、そこから踏み込みつつ噴火の如き勢いで突き上げられた肘、
更には対の右掌底による横薙ぎでもって立て続けに顎を強打されたアルフレッドは、
堪り兼ねて身を傾がせた――が、血の味を噛み締めながらも地に伏せることはない。
 肝臓の真上を左拳打で抉られても、逆に右肘をビクトーのこめかみに叩き込んでいく。
直角にも近い軌道を描くと言う最小の動きながら、乱れ飛ぶ拳を喰い止めるだけの効果はあったようだ。
 尤も、乱打が終わっただけで攻撃そのものが途絶えたわけではない。
追撃を警戒して後方へと跳ねたビクトーは離脱の間際に報復としてアルフレッドの側頭部へ一撃を見舞っている。
 水平に鋭く閃いた右手刀は、直撃を受けようものなら意識を完全に刈り取られたかも知れない。
ビクトーの速度に慣れつつあったアルフレッドは素早く後方へと逃れ、
秘刀の如き一閃は虚しく空(くう)を切るばかりであった。

 殆ど同時に飛び下がったことで、双方の間合いも大きく開いた。
 臨戦態勢を解かず、肌を刺す程に激烈な殺意をぶつけ合う状況ではあるものの、
この僅かな遑には双方とも攻め急ぐことはなかった。
 アルフレッドはジャーメインとザムシード、ビクトーはイリュウシナとグンダレンコ――
仲間たちが格闘する声を鼓膜に受け止めながらも、互いに血と汗を拭い、乱れ始めた呼吸を整えようとしている。

「――出し惜しみをしていられる状況でもないのに、キミはどうして全力を尽くさないのですか。
応戦する烈しさはともかく、何としても生き延びようと抗う気概は薄い。
……キミと言う人間が私には解りません」
「ホウライのことを言っているのか? だとしたら、安い挑発だな。
スカッド・フリーダム相手にホウライを無駄打ちするようなバカな真似はしない。
不意打ちを期待しているのなら諦めろ。さっきだってつまらない使い方になって後悔したんだ」
「……成る程、優等生的な回答です」
「優等生? それを気取っているのは貴様らだろうが。正確には呆れるような思い込みだがな」

 挑発の仕返しとばかりに赤黒いものが混じった唾を吐き捨てるアルフレッドであるが、
それでも己の身に蒼白い稲光を帯びることはなかった。
 ビクトーのホウライ外しによって技の拍子を崩されないよう警戒しているのか、
「つまらない使い方」と減らず口を叩きながらも効果覿面であった先程と同じように、
ホウライを発動すべき狙い目を待っているのか。
はたまた、長期戦になることを考慮して体力の消耗を控えようと言うのだろうか。
 いずれにせよ、本人が語ったような乱発だけはなさそうである。

「出し惜しみと言うのなら、貴様だって似たようなものだろう。
適当に手を抜いて、ジワジワとなぶり殺しにするのが正義の鉄槌と言うものか。
それとも、今ので本当に限界なのか? だとしたら、とんだ拍子抜けだな」
「血だらけの顔で強がりを言うものではありませんよ」
「事実を述べているまでだ。俺はトレイシーケンポーとも戦ったのでね。
ヤツの拳も厭と言うほど食らわされたが、少なくとも攻め切ることに迷いはなかったぞ。
それに引き換え、貴様はいちいち鈍い。それが癇に障らないでもない」
「……迷い……」
「円を描く技だって基礎の基礎しか使っちゃいないんだろう? 
それも含めて煮え切らないと言っているんだ。
恰好だけ付けておいて、いざとなったら自分の手を汚すのが怖くなったか、臆病者め」

 さしものビクトーも「臆病者」と言う痛罵には顔を顰めた。
 しかしながら、アルフレッドの物言いに対して立腹したわけではない。
これまでの攻防を通して、心の乱れが伝わってしまったことを愧じているのだ。
 精神の在り方は武技にも著しく影響を及ぼすものである。
そのようなことは他者から指摘されるまでもなくビクトー自身が誰よりも痛感している。
 だからこそ、心の裡を容易く気取られるような己の未熟さに苛立ったのだ。
義の戦士を引率しなくてはならない七導虎としては、どう考えても失格であろう。

「……仮に私が全力を出し切っていないとしても、そのほうがキミにとっては有利ではありませんか。
ジークンドーの神髄は『相手に何もさせずに瞬殺すること』だと記憶していますがね」
「当たらずとも遠からずだが、……貴様だけは別だ。やることなすこと、舐められているようで腹立たしい。
自分のやっていることがどれほど惨めで無意味なのか、骨の髄まで思い知ってからくたばるんだな」
「次から次へと人の心を抉る言葉が飛び出すものですね。ある意味、感心してしまいますよ」
「貴様が言うな」

 アルフレッドから指摘された通り、ビクトーは多くの余力を残したままだ。
円軌道の技巧(わざ)にも勝る切り札≠ニて発動させてはいない。
 だが、それは秘技の安売り≠慎んでいると言うことではなく、
心の乱れを原因とする不完全燃焼以外の何物でもないのだ。
 七導虎として任務を完遂すると決めた以上、全身全霊を傾けてアルフレッドを抹殺せねばならない。
エンディニオンの秩序の為にも悪≠撃滅し、『義』の一字を貫くべきであった。
 それなのに、心の迷いが殺傷の技に歯止めを掛け、標的を仕留め損ねている。
しかも、その醜態をアルフレッド当人にまで見透かされてしまった。
これ程までにビクトーを追い詰める状況など他にはあるまい。
 安直な考えとは承知しているものの、どこまでも虚しい迷いを断つ方法はただひとつ。
アルフレッドを納得させ、更には完全に沈黙させるような力を示すしかない――その決意を以てして、
ビクトーは再び攻勢に転じた。
 ここまでの攻防の中で最も疾(はや)い。相当に離れていた筈の間合いも一瞬にして詰めている。
 やや前方に向かって左拳を突き出すのがアルフレッドの構えであるが、
その肘目掛けて外側から右手刀を打ち込み、これで機先を制するや否や、
ビクトーは正面切って左裏拳を繰り出した。
 肘のバネと手首の可動で強烈な殺傷力を生み出し、
左手甲でもってアルフレッドの側頭部――狙いは左のこめかみであろう――を打ち据えようと言うわけだ。
 果たして、裏拳はアルフレッドの左側頭部を捉えた。
 これを起点として、更なる連打に派生しようとするビクトーであったが、
アルフレッドは先んじて右足の付け根を蹴り付け、彼の身を弾き飛ばす。
 致死とはならない程度の痛手(ダメージ)を許す代わりに、
濁流と化そうとしていた攻勢(いきおい)を断ち切ったのである。

「……少し本気になったつもりでしたが、まだ随いてこれるのですか……」
「いちいち癇に障る言い方をッ!」

 一度、相手の疾(はや)さに順応してしまうと、
速度の段階がひとつふたつ上がっても全く置き去りにされると言うことはない。
少なくとも、アルフレッドの身体能力を以てすれば追い掛けていける。
 ましてや、何時、円を描く運動に呑まれるか、全く分からない状況である。
この尋常ならざる危機感の中で全神経を研ぎ澄ませているのだ。
 どれほどビクトーが加速しようとも、アルフレッドは第六感まで覚醒させて捉えることだろう。
 直前に被った裏拳にて脳を揺さぶられたものの、
その踏み込みは力強く、鮮血を散らしながらもビクトーの胴へと組み付いていった。
 脇を潜るようにして両腕を回すと、ビクトーの背面にて左手首を右の五指で掴む。
この状態で互いの身を横に振り、回転するようにして投げ落とそうと言うわけだ。
 打撃を中心に攻守を組み立てるアルフレッドは、投げや関節技の類は不得手である。
技術としては習得しているものの、殆どと言って良いほど披露することがなかった。
 しかし、それはビクトーとて同じ筈であろう。ケンポーカラテの武技を以て猛襲する彼は、
これまでに投げを試みたこともなく、組み付いてきたこともないのだ。
 尤も、これはアルフレッドの読み違え――身勝手な思い込みとも言えよう――である。
 次の瞬間、その希望的観測は脆くも崩れ去った。ビクトーは石畳を咬む≠謔、にして踏ん張りを利かせ、
アルフレッドの投げを凌いだのである。
 ただ踏み止まっただけではない。彼の脳天に右肘を叩き落とし、
痛手(ダメージ)が抜け切っていないだろう脳を再び揺さ振った。

(コレも耐えますか。……やりますね――)

 このとき、右方に身体を振ろうとしていたアルフレッドは腰を捻った状態であった。
弓術で喩えるならば、矢を番えて弦を引き絞った体勢と言うことになる。
 そして、弓弦(そこ)には強い力≠ェ蓄積されている。
 腰の捻りを維持したまま、アルフレッドはビクトーの胴から両腕を離す。
 自然、ビクトーは自身の打撃が最も有効な間合いへと離脱を図り、
これをアルフレッドの右拳が追いかけた。
 引き絞った弦を弾くようにして足腰を逆回転させ、蓄積していた力≠一気に解き放つ。
この力≠ヘ全身を駆け巡り、ビクトーの顎を狙って突き上げられた拳の先にまで伝達されていく。
 ワーズワース難民キャンプにて私闘≠演じたシルヴィオの顎を捉え、
粉砕寸前まで追い込んだ必殺の拳打――『スピンドルバイト』である。

「キミの勁≠ヘ注意しませんと――今もゾクッとしたものが走りましたよ」
「ちィッ――」

 シルヴィオの顎を打ち据えたスピンドルバイトであるが、
「少し本気になった」と言うビクトーは捉え切れず、拳も空を裂くばかりであった。
 直撃を被る寸前にアルフレッドの右側面へと逃れたビクトーは、瞬く間に反撃の乱打を浴びせた。
 突き上げられた拳をすり抜けるようにして自身の右拳を胴に叩き込み、
この腕を引き戻しつつ全く同じ箇所へと右前蹴りを喰らわせる。
更に半歩ばかり踏み込み、報復とばかりにアルフレッドの顎を右掌底で打ち据えた。
 彼は右手一本右足一本のみで嵐を起こしていた。
 しかも、だ。顎を擦るようにして掌打を放った為、右腕はアルフレッドの肩の上を通り抜けている。
即ち、ビクトーにとっては絶好の機会と言うことである。急速に腰を捻り込み、延髄目掛けて肘を振り落とした。
 この肘鉄砲は四半円の動きを描いている。
 断頭台(ギロチン)の刃の如き一撃が降り注ぐと本能の部分にて察知し、
その場に身を沈めて避け切ったアルフレッドは、屈んだまま左足を軸に据えて駒のように回転すると、
ビクトーの足首を払うべく右踵を繰り出した。
 立ち技と同等の速度ではあるものの、旋回と言う大きな動作(うごき)を挟む為、
相手に技の発生を読まれ易く、現にビクトーも余裕を持って飛び退っている。
 今度は間合いを大きく空けることはない。横薙ぎの蹴りを避けるべく、僅かに後方へ下がったのみだ。
 すぐさまに反撃へ移る為の布石である。アルフレッドは身を沈めたままであり、
蹴りを打ち込むには格好の標的(まと)なのだ。この状態ならば顔面とて粉砕出来るだろう。
 間もなくビクトーは全体重を乗せて右足を振り上げた――が、
アルフレッドは両掌でもって蹴りを受け止め、次いで勢いよく押し返し、
この流れの中で上体を引き起こすや否や、処刑人≠ノ向かって肩からぶつかっていく。
 懐でもってアルフレッドの肩を受け止める形となったビクトーだが、
しかし、体当たりと分類するには余りにも弱々しく、軽く触れた程度であった。
 ビクトーの側も拍子抜けのような表情を浮かべている。

「――おおぉぉォォッ!」
「な……ッ!?」

 そのビクトーの身が後方に吹き飛ばされたのは、
アルフレッドが優男風の容貌に似つかわしくない吼え声を上げ、
同時に何か≠ェヒビ割れる音が響いた直後であった。
 胸に軽く触れただけのアルフレッドの肩――その一点から襲い掛かった凄まじい衝撃は、
咬む≠謔、にして石畳を踏み締めるビクトーの両脚を以てしても堪え切れなかったのである。
 不意の大打撃に惑い、宙を舞うこととなったビクトーであるが、
その最中にもアルフレッドが如何なる技を放ったのか、頭の中で分析していた。
 糸のように細い双眸でもって、アルフレッドの身に起きた変化も見て取っている。
 彼は肩を当てた瞬間に石畳が抉れるほど強く地を踏み締めた。
全身の筋力を一瞬にして振り絞り、殆ど密着した状態から強撃を放ったと言うことであろう。
 自身で投げを打つのは苦手なようだが、相手から仕掛けられた場合の対策は万全と言うことである。
 投げや関節技を仕掛けるには、先ずは相手に組み付かなくてはならない。
そのような状態に持ち込まれても両脚が地を踏んでさえいれば、今の技で迎え撃てるわけだ。
一瞬でアルフレッドの足を地面から引き剥がさない限り、
迂闊に組み付いただけで逆に痛手(ダメージ)を受けるのだった。
 ケンポーカラテの真骨頂は打撃である。組み付いての投げ≠ノ関しては、
アルフレッドの動きを完全に凌駕出来るとはビクトーも断言し切れなかった。

「実際に喰らってみて、どうだ? 勁≠フ味は?」
「予想通り――いえ、予想以上に重い≠ナすね……」

 口の端を伝う赤黒い雫を右の親指で拭ったビクトーは、しかし、心中に湧き上がる奇妙な昂揚に戸惑っていた。
 それも一瞬のことである。すぐに不思議な感慨の正体を悟り、
「任務に私情を持ち込むなど言語道断」と恥じて心の奥底へ閉じ込めようとしたが、
一度(ひとたび)、炎が熾ったものを鎮めるのは難しい。
 アルフレッド・S・ライアンと言う青年が秘めた武術家としての力量は認めざるを得なかった。
彼ほど優れた戦士は、スカッド・フリーダム隊内どころか、タイガーバズーカにも少ないことだろう。
 それ故にビクトーは心に熾った炎を鎮めたかった。
血肉を奮い立たせる不思議な感慨は、七導虎の任務とは無関係な私情なのである。
 ひとりの武術家として心ゆくまでアルフレッドと立ち合いたい――そのように魂が渇望していた。
今ならば、私闘≠ノ走ったシルヴィオの気持ちも理解出来るのだ。
 果てしない時を超えて結ばれた他流≠ニ言う得難い相手と拳を交え、
そこに生まれた感慨は余人には決して解るまい。
 仮に傍観者が居るとすれば、「陳腐な浪漫」などと嘲られるだけであろうが、
ビクトー自身は意に介さない。おそらくはシルヴィオも同様であろう。
 アルフレッドを正面に見据えるビクトーの心は、この地に降り立ってから最も晴れやかであった。
『義』の在り方に対する鬱屈から解放されたわけではないのだが、現在(いま)は昂揚が全てを上回っている。

「――どうやら、眠りから醒まして頂いたようだ……」

 ただそれだけを呟き、再び構えを取るビクトーは、口元に奇妙な笑みを浮かべていた。
そして、これこそが武術家としての昂揚の顕れであった。

「何をヘラヘラしている。……人のことを嬲り者にするのがそんなに愉しいか?」
「そんな低俗な趣味(こと)ではないと、キミにも直ぐに解る筈ですよ」
「……打ち所が悪かったのか? 気色の悪い奴め……」

 「お誂え向き」と言う喩えは、この瞬間にこそ用いるべきであろうか。
 今まさにビクトーは――否、ケンポーカラテは悠久の宿命に呑まれようとしていた。




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